比翼の朔夜

比翼の朔夜

EPISODE:1 月明かりの下で

ヘッドライトの向こうに蠢く影があった。
にじり寄る影に、スティードのアクセルを吹かして威嚇したが無意味だった。
(間違いない、妖魔ってヤツだ)
俺は数日前、朔夜(さくや)に聞いた名を思い出していた。
妙に冷静だった。

『いい?この護符に息を吹きかけたら、そのまま放って』
俺は制服の懐に手を忍ばせた。
指先に数枚の紙の感触があった。
朔夜に貰った護符だ。

『戦ってはダメ。護符に任せて逃げて』
2本の指に挟んで護符を引き抜いた。
息を吹いて放つと護符は人型に変わった。
人型は誘うように、デコイとなってゆらゆらと離れいく。
妖魔達が一斉に護符を追い、襲いかかった。

『護符の効果が発動すれば、私が必ず駆けつけるから』

俺はアクセルを全開にした。
スティードが咆哮を上げる。

目の前の妖魔を蹴散らす。
ゴツン、という鈍い衝撃。
妖魔の一体が横に吹き飛んだ。

ミラーを見る──追ってくる。
しかも速い。人間の全力疾走なんて比じゃない。

メーターの針が80km/hを超えた。
距離が縮まるのが、目で見ても分かる。

俺は前だけを見て、アクセルを握りしめた。

朔夜に教わった通りのことはした。
あと俺に出来ることは、信じるだけだ。

先の歩道橋、満月を背にした人影が見えた。
欄干の上、制服姿の女の子。
朔夜だ。
俺が歩道橋に迫ると、朔夜は大きく跳んで妖魔の群れに落ちて行った。

肉の断たれる音。
断末魔の悲鳴が重なる。
腐臭が風に乗って漂ってくる。

振り返ると──そこに朔夜が居た。

青白く光る刀を両手に、月明かりの下で舞っている。
一閃、また一閃。
刃が描く軌跡が、青白い光の帯となって夜を裂く。

妖魔が群がる。
朔夜は身を翻し、回転しながら三体を同時に斬り裂いた。
黒い体液が月光に照らされて宙を舞う。

制服のスカートが翻る。
黒い長い髪が宙を舞う。

朔夜は戦っているのではない──祈っている。
巫女が、神楽を舞うように。

その姿は、恐ろしいほどに美しかった。

朔夜の刃を逃れた一体が、俺に向かって駆けて来た。
距離はあるが疾い。
狂犬のように(よだれ)を撒き散らしながら、四足よつあしで地面を蹴り飛びかかって来た。
その大きな一つ目は俺だけを捉えていた。

「ひふみよいむなやここのたり布留部(ふるべ)由良由良(ゆらゆら)布留部(ふるべ)

澄んだ声が聞こえた。
それは耳に届くというより天から降るような声だった。
次の瞬間、妖魔は牙を向いたまま俺の眼前で首を落とした。
分かれた頭はそのままの勢いで俺の頬をかすめ、胴は足元に転げ落ちた。
それに遅れて、はらりと紙片が数枚舞い散った。

「間に合ったわね」
朔夜が乱れた髪をかき揚げながら歩いて来た。
「ギリじゃねぇかよ」
俺はそう言って笑った。
そして朔夜の方へメットを放った。
緩やかな放物線を描いて胸元に届いた刹那、1本の槍が虚空から現れ、朔夜とメットを貫いた。
槍はそのまま地面に刺さり、アスファルトを捲めくって止まった。

「夜刀様ノ命デ来テミレバ他愛ノ無イ」

低く、不快な声が響いた。
どこから聞こえるのか分からない。

夜の闇の奥。
いや、闇そのものが蠢いている。

亀裂が走った。
違う、あれは口だ。
闇が、笑っている。

ギチギチと骨が軋むような音を立てて、闇が形を成していく。
人の輪郭。
でも、違う。
人の姿を朧気な記憶から作りあげたような化け物。
人間を、どうとも思ってはいない者の造作だ。

「朔夜ハ死ンダ」
再び亀裂を走らせて嗤った。
おぞましい笑い声が夜にこだました。

月明かりの下、朔夜だった影がアスファルトに落ちた。

EPISODE:0 プロローグ

「朔夜、今日はこんなに魚が穫れたよ」
「まぁ、磯城(しき)様。病床のお義母さまの滋養にも良いでしょうね」
朔夜は磯城の腰にある魚篭を見て嬉しそうに言った。
大漁よりも、磯城が嬉しそうなのが朔夜は何よりも嬉しかった。

神代の昔、神と人はまだ遠くなかった。
神が人を娶り、神が人に嫁ぐことも珍しくはない時代。
朔夜と磯城も、そんな二人だった。

神々すら魅了した美貌の女神、朔夜。
八百万の神々がその手を求めて争う中、朔夜が心を寄せたのは、無力な人間であった。

その睦まじい姿に神々は和み、祝福を与えた。
ただひとりの神を除いては……

「朔夜様、これ磯城のおふくろさんに食わしてやってな」
村の猟師が(しし)の干し肉を差し出して言った。
「まぁ、エド様。ありがとうございます。でも私のことは朔夜で良いですわ」
「いやいや、とんでもねぇ!」
エドは顔の前で大きく手を振った。
「それは磯城の妻として、この村に馴染めてないようで寂しいですわ」
「そうかい?——朔夜……ちゃん、おふくろさんによろしくな」
そう言ったエドに朔夜は嬉しそうに笑って「はい」と言った。

「朔夜ねぇちゃんだ!!」
その声に次々と童が集まり付いて歩いた。
女衆が「ごめんね朔夜ちゃん。しつこかったら引っぱたいてやって」と笑ったり、採れた塩を差し入れたりした。

「今度、甘露煮をお持ちしますね」
朔夜は女衆にそう言って別れた。
元々はお義母さまの為の生命力を込めた甘露だった。
磯城の助言もあって配り始めると、評判の味となった。

干し肉と塩、拾い集めた木の実。
両腕に抱えて家に戻ると、床でお義母さまが身体を起こしていた。
「お義母さま、具合はよろしいのですか」
「今日は身体が軽い気がするよ」
少しだけ咳き込みながらそう言った。
「背中を拭きましょうね」
朔夜は陽の光で温めておいたぬるま湯を、外から運び入れた。
手ぬぐいを軽く搾ると、優しく背中に当てた。
「あぁ、気持ちいいね」
お義母さまの言葉に嬉しくなる。
「こんな貧しい家にこんなに素敵なお嫁さんが来てくれた。神様に感謝だね」
そう言ったあと「朔夜ちゃんも神様だったね」と言うものだから二人で笑ってしまった。

数多の神が朔夜の歓心を買おうと躍起になった。
美しくも愛らしい朔夜に、誰しもが魅了されていた。
きっと驕っていたのだと、過去を振り返ると朔夜自身が恥ずかしくなる。

そんな煩わしい日々に、朔夜は人里へ降りて水面を眺めていた。
凪の湖水は、朔夜の美しい顔を模して見詰め返していた。
不意に足元の石が崩れた。
波紋が水面の朔夜を醜く変えた。
瞼が下がり、鼻が崩れ輪郭が歪む。
思わず見入り、そして震えた。
そして気づいた。
容姿の美しさを誰よりも気にしていたのが、自分自身だったことを。
その時だった。
「どんな別嬪さんも、いつかはシワだらけだよ」
そう言って現れた男は隣に腰を下ろすと竿を出した。
「では醜くなれば見向きもされないのですか?」
「変わらないものもあると思うな」
男は竿を引くと、取られた餌を付け替えて再び振り入れた。
「それは何でしょうか?」
「魂の色は永久(とわ)の真珠です」
その言葉に朔夜は震えた。
見える世界が鮮やかに色を付けた。
「朔夜と申します。そのお言葉、私の魂の色に刻みましょう」
「磯城だ。柄にもなく気取ってしまったよ」
その照れた笑顔が朔夜の心にいつまでも焼き付いて離れなかった。

あの日、磯城様以外に娶られる未来は想像すら出来ないと思った。

美しい月が星々を従え、夜の玉座に登った。
銀色の光が、寄り添うふたつの影を作る。
「月が綺麗だよ、朔夜」
「そうですね、磯城様」
見上げていた朔夜の肩が僅かに震えた。
磯城は自分の上掛けを、朔夜の肩にそっと掛けた。
そして温もりを分け与えるように、後ろから優しく抱いた。
銀色の光が比翼の影を落とした。

EPISODE:2 葛城朔夜

不自然な時期の転校生だった。
期末テストが終わった翌朝。
教室に入ると、空気がざわついていた。
情報通の藤沢が「転校生が来る。しかも美人!」と吹聴していた。
男子だけでなく、女子も落ち着かない。
新しい誰かが来るだけで、序列の天秤はすぐに傾く。
みんな、自分の居場所が変わらないかを探り合っていた。

「あー、転校生を紹介する」
担任の山田が登壇するなりそう言った。
開け放したままの扉に、みんなの視線が集まる。
白い上履きがドアレールを跨いだ瞬間、彼女以外の時間(とき)が止まった。
瞬きも呼吸も、鼓動すら止めてしまったように音が消えた。
歩く度に揺れなびく黒く長い髪。
しなやかに伸びた白い手足。
担任の隣に立つと、その整った顔立ちをゆっくりと左右に振ってクラスを一瞥した。
そしておもむろに唇の形を変えると「葛城朔夜です」と涼やかな声を響かせた。
刹那、カーテンが揺れ風が舞い込んだ。
「可愛い」
「俺、鈴木康太!」
「キャー」
時間が動き出すと、収拾のつかない騒ぎに包まれた。

自信過剰だろうか?
彼女が教室の後ろの席を指示されて俺の横を過ぎる時、俺に微笑みかけたように思えた。
それはまるで懐かしいものを見た時の、安堵にも似た微笑みだった。

騒がしい1日だった。
男子も女子も葛城朔夜を取り囲んで、どうにか親しくなろうと必死だった。
そんな中、葛城朔夜の視線を何度か感じた気がした。
そんなことを誰かに言えば、自惚れ屋だの勘違い野郎だのを言われかねないので黙って過ごしたが、妙にソワソワしてしまった。

そんなラブコメ漫画の主人公にはなれなかった放課後、俺はひとり通学路を外れて歩いていた。
ひとりには理由がある。
ぼっちとかハブられとかではない。
先週、16歳の誕生日を迎えた俺はバイクの免許を取った。
もちろん学校には内緒だ。
そして更に秘密のガレージにバイクを隠してあった。
ここは昨年亡くなった祖父の家で、今は空き家になっていた。
月イチで清掃や草取りをする約束で、ガレージを借してもらっていた。
入居者募集中の家屋の周りは、特に念入りにと言われている。
俺は周囲を見回して誰も居ない事を確認すると、そっとシャッターを上げた。
勢いよく上げると音が響いてしまう。
細心の注意でゆっくりと静かに上げた。
そこにはスティード400が俺を待っていた。
生前の祖父の愛馬だ。
これは中学からのバイト代で相続した叔父から購入した。
その後の入学祝いで、払った金額と同じ額が入った封筒を叔父に渡された。
サムアップして帰る叔父の背中がカッコよく見えた。
不意に俺の影が伸びるガレージに、もうひとつ影が加わった。
驚いて振り向くと葛城朔夜が俺を睨みつけていた。
こちらに歩いてくる。
にじり寄るようにゆっくりと。
俺はなにかしたのだろうか?
心当たりを探ろうと思案した刹那だった。
手にしていた鞄をその場に落とした。
彼女は身を低くして猫のようにしなやかに、そして一瞬で距離を詰めた。
そして俺の肩を左手で乱暴に掴むとガレージの床に引き倒して、右の手のひらに息を吹きかけた。
彼女の手のひらから白い紙吹雪のようなものが宙を舞った。
そして鋭い刃に変わり音もなく、空気だけが裂けた。
「痛っ、何すん」
何すんだよと言う前に、ガレージの奥で獣の咆哮に似た断末魔が上がった。
そして何かが倒れる鈍い音。
光の届く境界に黒い影が見えた。
異形。
飛び出した幾つもの眼球。
ぬめりを帯びた爬虫類のような皮膚に血管が浮き出たような斑。
歪な腕とも脚ともつかない四肢。
見たこともない禍々しい形のものが赤黒い液体を垂れ流して横たわっていた。
「な、なんだこれ。葛城朔夜、お前と関係があるのか!?」
上擦った声で、情けないことに礼を言う前に彼女に詰問していた。
「私に?いいえ、私たちに……よ」
彼女は冷たい光を宿した瞳でそう言った。

EPISODE:3 永久の朝

「神が人に嫁ぐなど愚かな話じゃないか」
黒い霧が蛇のように鎌首をもたげ朔夜に言った。
夜刀(やと)様、恋とは愚かなことも是とするものなのかもしれませんわ」
朔夜はそうあしらうように言うと背を向けた。
「そう邪険にするな、朔夜」
夜刀の霧がするりと朔夜の身体を抜け、まとわりつくように引き止めた。
「これはどのようなおつもりでしょうか?」
朔夜の嫌悪と怒気を忍ばせた声に夜刀は「ククク」と喉を鳴らすように嗤った。
「なぁに、平たく言えば俺の女になれということだ」
「品の無い物言いをなさるのですね、神ともあろうものが」
朔夜の言葉に霧が身体をじわじわと締め付けた。
「あの、なんと言ったか……そうだ磯城だ」
夜刀の言葉に朔夜の髪が逆立った。
「何をするつもり」
朔夜の瞳に強い光が宿った。
明確な敵意だ。
「つもりも何も、もうコロシタ」
唐突な言葉に理解が一瞬遅れた。
「殺した」
脳の中枢に意味が染み渡ると、そのまま頭の後ろが痺れるような感覚に襲われた。
刹那——朔夜の身体から光が放たれ、黒い霧は文字通り霧散した。
身を翻し夜刀に向かって地面を蹴ろうとした時、夜刀は無造作に何かを放り投げた。
——磯城だった。
鼻と口から流れた血は乾き、開いた瞳孔に光は無かった。
触れた朔夜の指先に伝わる温もりは、既に失われていた。
「磯城様!磯城様!磯城、磯城!!」
抱きかかえ名を呼んだ。
それは絶叫だった。

息が詰まり、目が覚めた。
もう何回……いや何万回、永久(とわ)に見た夢。
あの日護れなかった磯城を護る。
その為に戦ってきた。
深くついたため息の向こう。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込む。
学校まで、あと三時間。
朔夜は静かに髪をまとめた。
もう一度、あの夢を、終わらせるために。
「死なせはしないわ」
誓うように呟いてベッドを出た。

EPISODE:4タンデム

令和の時代に見掛けないもののひとつはこれだと思う。
俺は愛馬に跨りながらチョークを引いた。
キーを捻るとエンジンが唸りを上げる。
祖父(じい)さんのメンテもそうだけどホンダのエンジンは凄いな。
右手をタンクに愛撫するように置いた。
そしてキャブレターのご機嫌を伺いながらゆっくりとチョークを戻していく。
インジェクションには無い味わいだ。
排気音とエンジンの振動が安定したら出発だ。
俺はアクセルを捻り爺さんの家のガレージに向かってスティードを走らせ……ようとした。
朔夜が立っていた。
スティードの行く先を塞ぐように。
何故かメットを持って。
「えっ!?えっ!?えっ!?」
昨日のことを鮮烈に思い出した。
そんな俺の戸惑いなどお構い無しに、朔夜はスティードの後ろに腰を下ろした。
「遅刻するわよ、出して」
メット越し、くぐもった声が聞こえた。
それでもまごまごしているとタンデムシートから背中を強く押された。
「痛い痛い!」
俺は背骨を押された痛みに耐えかねてスロットルを開いた。
小鳥が飛び立つ中切り裂いた風は、頬に心地よい冷たさだった。

マズいと思った時にはすでに赤色灯が回っていた。
制服姿でタンデムだ。
まあ、止められるよな。
バイクを路肩に停めた俺に朔夜が「どうしたの?」と聞いてきた。
「多分2ケツで切符を切られる」
多分、朔夜を責めるような口調だったと思う。
きっかけはどうあれ運転したのは俺なのに。
「だって免許持ってるんでしょ?」
「持ってるけど、バイクは1年目は二人乗り禁止なんだよ」
俺が力なく言うと「ごめんなさい、私のせい」と消え入るように言った。
そして「私に任せて」とヘルメットを脱いだ。
「おっ、おい」
朔夜はひらりとバイクから降りると、俺の静止も聞かずにパトカーへ歩いて行った。
再び昨日の光景が浮かんだ。
まさか警官に何かするんじゃ——
俺も慌てて後を追った。

運転席と助手席のドアが開いて制服姿の警官が降りてきた。
朔夜は運転席側の警官に近づくと、にこやかに言った。
「こんにちは。ううん……おはようございます、かしら?」
「キミは後で事情を聞くから、運転していた彼と話させてくれるかな?」
警官はそう言って俺に向かって歩いて——来なかった。
「お巡りさん、今日は帰りましょう」
朔夜が穏やかに微笑んでそう言うと、警官は踵を返して運転席に戻って行った。
もう一人の警官が呆気に取られていると、朔夜は再び口を開いた。
「あなたも帰りましょうか」
その声に、警官は無言で助手席へと乗り込んだ。

パトカーの赤色灯がゆっくりと遠ざかっていく。

「良かったわ。見逃してくれたのね」
朔夜は安堵したように微笑んだ。

ウソだ。
表情も、言葉も、みんなウソだ。

なんなんだ、この女は。
怖い。ヤバい。絶対にダメだ。

逃げなきゃ、と思うのに。
身体は錆びついた鉄のように動かない。首さえ回らなかった。

そんな俺の横で、朔夜が「さて、と」と小さく呟いた。
そして俺にメットを放ると「お爺様のガレージで」
そう言い残して走り出し、ガードレールを軽々と飛び越えて歩道に消えていった。

EPISODE:5 畢生の一幕

(くわ)の一撃が脳天を割った。
「キシャァァァァァーッ」と断末魔の咆哮と紫の体液を撒き散らして化け物が倒れた。
ピクピクと足元で痙攣するそれに、カイは一瞥もくれずに再び鍬を振り回した。

影が随分と長くなった。
気が付くと周囲はオレンジ色に染まり、1日が終わろうとしていた。
耕した土を握るとカイは満足そうに頷いて鍬を肩に担いだ。
天朝様からの発布で、耕した土地を百姓でも持てるようになった。
必死に開墾した土地。
ここで収穫した物は、もう誰にも奪われない。
見回すカイの胸には希望しか無かった。
……今、この瞬間までは。

何匹いるんだ?
1匹は運良く倒せた。
この見た事もない獣たち。
いや、どう見ても異形。
化け物たちだ。
幾つもの大きな(まなこ)がイボのように付いていた。
そのどれもが焦点が合っていないように不自然に蠢いている。
赤黒い皮膚に浮き上がって血管が脈打ち、何本もの細い腕が背中から突き出るようにあった。
そして異様に太い脚。
これが厄介だった。
強烈な蹴りと跳躍、そして人の脚では逃げられない脚力。
生き抜くためには戦うしかなかった。

「2匹目!」
払った鍬が化け物の頭部を()いだ。
刹那、鍬が柄から折れた。
万事休す。
それでも迫る1匹に折れた柄を投げつけ、目のひとつを貫いた。
だがそれでも化け物の突進は終わらなかった。
終わりを覚悟した次の瞬間——
カイは強く、しかし柔らかく突き飛ばされた。
「えっ!?」
転がりながら見た光景は、太刀の一閃に両断される化け物の群れ。
そしてその中心に立っていたのは少女だった。
白い巫女のような装束が太刀を振るう度に揺れる。
蒼白い炎を纏った刀身が揺らいだ。

カイは初めて化け物が下がる様子を見た。
断末魔を上げる様子にも怯まず襲いかかってきた化け物たちが、じりじりと下がって距離を取っていた。

「ひふみよ」
右手の太刀をだらりと下げ、左腕を真横に上げた少女が数を数える。
澄んだよく通る涼やかな声だ。
「いむなや」
天に向けた手のひらに焔火が見えた。
「ここのたり」
少女はすぅっと息を吸った。
布留部由良由良(ふるべゆらゆら)布留部(ふるべ)
焔火(ほむらび)が幾条もの火線となって化け物たちを襲い貫き、灰に変えた。
赤く照らされた少女の顔は美しく儚げに見えた。
どこか疲れたような、どこか寂しげな。

「怪我は?」
そう言って少女が差し出す手を、カイは掴んで立ち上がった。
瞬間、少女は何故か嬉しそうな顔を見せた。
「ありがとう、命の恩人だ」
カイはそう言って、でも自分と変わらないくらいの年齢の少女に守られたという気恥しい表情で頭をかいた。
「俺はカイだ。この林の向こうに住んでる百姓だ」
「朔夜よ。あなたを守れて良かった」
朔夜——
少女はそう名乗って夕闇に去って行った。

EPISODE:6 万劫の呪い

「磯城様、磯城様!」
命の温もりの失われた磯城の身体が朽ちるように溶け始めた。
泣すがる朔夜の腕の中、肉が溶け、臓物が朽ち、骨が粉のように崩れた。
呆然とする朔夜の頭上で夜刀の声が響いた。
「その男に輪廻の呪詛をかけた」
クククと喉を鳴らす音がした。
「怖い顔をするな。なぁに、ちょっとした余興だ」
夜刀は睨みつける朔夜に、悪びれる風もなく言った。
「俺の使い魔達からその男を護り切れば朔夜、オマエの勝ちだ」
「魂を、円環する魂で余興などと……」
怒りに震える朔夜の声などまるで無視するように夜刀は続けた。
「16の歳から寿命が尽きるまで護り通せ。それが出来れば、次の輪廻まで天上で睦めばいい。出来なければその魂は俺が食らう」
夜刀の纏う黒い霧が嬉しそうに揺れた。
万劫(ばんごう)の間だ。これを繰り返し護り通せば、オマエを諦めてやる。好きな場所で暮らすがいい」
霧の触手が朔夜の頬を撫で、腰に触れた。
肌が粟立つ不快。
「名乗るまでは許そう。ただしこの因縁を話せば、その時も魂を食らう。さあ行け、探せ。もう転生したぞ」
そう告げて夜刀は霧散した。
朔夜と悪意に満ちた笑い声だけをその場に残して。

黄金を敷き詰めたような稲穂が揺れる。
夕陽がそれを更に輝かせ、豊かな実りを祝福した。
集落では子供たちが走り回っていた
その身体に不釣り合いな大声で笑いながら。
棒切れを片手に持った童が尻餅をついた。
前を見ずに駆けて女性の脚にぶつかってしまった。
この辺りでは見ない身なりの女性だった。
痛みよりも驚きと戸惑いが大きくて、つい感情が込み上げてきた。
童が込み上げた感情を暴発させる寸前だった。
(見つけた)
女性は童を優しく抱き上げると「大丈夫?」とあやし始めた。
「ごめんなさい!」
母親らしい女が駆け寄って頭を下げると、童は一瞬名残惜しげに女性を見て「おかぁ」と女の方へ手を伸ばした。
母親に抱かれて遠ざかる童の姿を、しばらく見送り佇む女性の姿があった。
「磯城様……」
女性の呟きを聞く者はいなかった。

うわ言が呻くように老人の唇からこぼれた。
娘が口元に耳を近付けたが、聞き取ることは出来なかった。
老女が手を取り、祈るように頬に当てた。
温もりを失ってゆく指先に、瞳から熱い雫が伝ってゆく。
すすり泣くような嗚咽が病室に()みていった。

老人の身体から、いくつもの蒼白い光球が立ち上っていた。
誰の目にも触れることの無い光芒は、やがて若い男の姿となった。
男はベッドで眠る抜け殻を一瞥すると、老女と娘の肩を慈しむように抱いた。
そして、窓の外で待つ女に視線を向けた。
男は小さく頷くと、窓を抜けて女の差し出した手を取った。
「朔夜」
朔夜は男の言葉に微笑むと「おかえりなさい、磯城様」と言って、とめどなく溢れる涙を拭うこともしなかった。
磯城は朔夜の肩を強く抱くと、振り返ることなく天へ昇った。
それは朔夜への思い遣りだった。
此岸への想いは此岸に置いてきた。
磯城はいつものようにそうすると、寄り添う朔夜の手を繋いだ。

EPISODE:7 残滓

俺はガレージの前で思案していた。
また居たら……?
シャッターに手を掛けては離すを幾度か繰り返していると「何してるの?」と背中から声を掛けられて「ひっ」と声が漏れた。
もう声で分かる。
朔夜だ。
「いないわよ」
朔夜はそう言ってシャッターを一気にあげた。
ガラガラと、金属が巻き上がる大きな音が響いた。
俺はガレージの中よりも、近所が気になってキョロキョロと見回した。
「何?だからいないわよ」
「そうじゃなくて、ご近所迷惑!」
この時間は朝ドラを楽しみにしているお年寄りも多いのだ。
騒音が原因で学校に通報でもされたら、色々と終わってしまう。
「ああ」
涼やかな朔夜の目が大きく開かれた。
「ごめんなさい」
そう言って、朔夜はふっと笑った。

バイクをしまった俺はシャッターを、ゆっくりと下ろした。
『こうやるんだ』と言わんばかりに振り向くと「まだ時間があるから、今後について話しましょう」と全く無関心に言われた。
少しモヤっとしたが確かに昨日のアレは——
「おい、アレが今後もあるのか!?」
俺は思わず大声を出してしまった。
咲夜はワザとらしく周囲をキョロキョロして見せると、人差し指を立てて「シー」と唇に当てた……俺の。
朔夜の少し冷たくて柔らかい指が唇に触れた。
俺の唇よりも柔らかいんじゃないかと的外れな事を考えて、少しポーっとした。
「ねぇ、近所迷惑だから中に入って話しましょう」
朔夜はそう耳元で囁くと、玄関ドアに鍵を差し込んだ。
俺は昨日のアレくらい目の前の光景が理解出来なかった。
この家は亡くなった祖父の家だ。
今は空き家で、俺の叔父さんが管理してて、俺が草むしりしてて、だからええと……
「なんでお前が鍵を持ってるんだよ!」
結局また大きな声を出してしまった。

久しぶりに入る祖父の家は懐かしい匂いが……全くしなかった。
とても甘い香り。
ああ、女の子の部屋ってこんななんだな。
無意識に深く息を吸っていたことに気付いて、誤魔化すように辺りを見回した。
褪せていた壁紙も貼り替えられ、残っていたはずの家具も無くなっていた。
「朔夜、家族は?」
玄関には他に靴も無く、生活感も感じられない室内湧いた疑問だった。
リビングにはテレビすら無い。
「……居ないわ」
それ以上の追及を許さない口調だった。
俺は質問を変えた。
最初の質問だ。
「なんで鍵を持ってるんだ?」
「借りたの」
『当たり前でしょ』と言わんばかりの表情。
「駅前の不動産屋さんで紹介されたのよ」
そう言えば『貸家』の看板が数日前から消えていた気がする。
「そうか。そうだな」
俺は自分を納得させるように頷いた。
「そこ、座ってて。お茶を淹れるわ」
朔夜はそう言うと、唯一の家具のようなテーブルを示した。
(え、お茶?)
そう思いながら、敷かれた淡い水色のクッションに胡座をかいた。
(ここだけ女の子っぽい)
俺は何気なくポンポンとクッションを叩いていた。
湯呑みが置かれ、急須からお茶が注がれた。
湯気と共に緑茶の馥郁(ふくいく)たる香りが立ち上がり、鼻腔を満たした。
「俺、急須って初めて見たよ」
そう言う俺に「どうぞ」と朔夜は差し出した。

朔夜が俺の前に座った。
テーブル越しに見る朔夜の姿は美しく、美しく……
頭が痛い。
酷い頭痛に襲われた。
内から外に向けて何かが割ろうとするように。
まるでそう、羽化する雛が卵を割るような感覚だった。
うずくまる俺の意識の遠くで朔夜の声が聞こえた。
俺の名前を呼んでいる。
……俺の名だろうか。
絶叫するような声だ。
耳の奥に、いや——
記憶の残滓というのだろうか。

緑の香りを運ぶ風が髪をなびかせた。
川面に波が立つ。
(今日はもう十分か)
俺は竿を引き上げると、ずっしりと重たい魚篭の感触に頷いた。
(さぁ帰ろう。朔夜が待っている)
そう思い空を見上げると、陽は天頂から幾分傾いていた。
(母さんの昼飯には間に合わなかったな)
俺は頭を搔くと、それでも大漁の高揚感に大股で歩き出した。

集落の入口に朔夜を見つけた。
「朔夜、今日はこんなに魚が穫れたよ」
俺は手を振り、大きな声で朔夜を呼んだ。
「まぁ、磯城様。病床のお義母さまの滋養にも良いでしょうね」
駆け寄った朔夜は、腰の魚篭を見て嬉しそうに言った。
そんな朔夜は編み籠に沢山のきのこや木の実を入れて抱えていた。
「朔夜も随分頑張ったね」
俺がそう言うと「きのこは木の実と交換で頂いたんですよ」と笑った。
俺は朔夜の笑顔が大好きだった。
涼やかな声も美しい所作も全て愛していたが、この無防備な笑顔が何よりも愛おしかった。

「うぅぅ」
自分の呻き声に目が覚めたが、瞼が重たい。
頭の痛みはもう無かったが、少し気だるい。
そしてなにか夢を見た気がした。
懐かしくて優しい夢だった気がした。
このまま目を開けずにもう一度眠れば、続きが見られるのだろうか。
そなことを考えているうちに、身体が徐々に覚醒してきた。
ようやくぼんやりと視界が開けてきた。
そこには不安で泣き出しそうな顔をした朔夜が、俺の顔を覗きこんでいた。

EPISODE:8 デジャ・ヴュ

「本当に大丈夫?」
「ああ、どのくらい寝てたんだ」
「1時間くらいね」
完全に遅刻だった。
「学校には電話しておいたわよ」
「は?えっ?誰が」
「私に決まってるじゃない」
『当然でしょ』と、いや『そんなことも分からないの?』という表情をされた。
「まぁいいや」
俺はもう朔夜の斜め上の対応は、諦めることにした。
「それで朔夜、昨日のアレは何だったんだ」
ようやく聞けた。
あの気味の悪いバケモノ。
闇の中から湧き出て来たような異形。
あれが『俺たち』に関係があるだなんて、俺はまだ信じられなかった。
「ああ、妖魔ね」
『ああ、犬ね』の言い方だ。
「あのね、朔夜さん」
俺は丁寧にお話した。
「私の知る世界ではそんなにメジャーな生物じゃないのですよ、妖魔って」
「これからメジャーになるわよ」
俺の嫌味な物言いに眉ひとつ動かさずに、朔夜はそう答えた。
「妖魔は様々な姿で現れるわ。昨日のようなモノもあれば、更に醜悪なモノも……」
朔夜は更に続けた。
声が低くなる。
「でも闇から染み出た最も危険な奴は、最も無害な姿をしているわ」
そう言って朔夜はテーブルの上に白い紙束を置いた。
黒と朱の筆書きで紋様と読めない文字が書かれていた。
「梵字?」
俺がそう聞くと「神代文字。太古に失われた文字よ」と言った。
「え?」
見間違いかと思って目をこすった。
文字が光っている。
「言霊って聞いたことはある?」
「ああ、あるよ」
「言霊はこの神代文字——神々の文字にこそ宿るのよ」
そう言って一枚を俺に差し出した。
「護符よ。息を吹きかけて手から放ってみて。投げても、吹き飛ばしても良いわ」
言われるままに息を吹きかけて放ってみる。
俺の手から離れた護符は人の姿に変わった。
人と言っても人型の紙だ。
「上手よ」
朔夜は満足そうに頷いた。
「その時は決して焦らないで」
真剣な眼差しを俺にむけた。
「護符が発動すれば必ず見つける」
「だから——信じて」
「分かった」
気圧されるように俺は答えた。
「でも、朔夜。キミは何者なんだ」
俺の問いに瞳を伏せると、朔夜は悲しげに首を振った。
胸の奥がキュッと締まった気がした。
こんな表情(かお)をさせたいんじゃない。
何故だろう——
昨日会ったばかりの朔夜に、既視感のような感情の芽生えを感じた。

比翼の朔夜

比翼の朔夜

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-11-13

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  1. EPISODE:1 月明かりの下で
  2. EPISODE:0 プロローグ
  3. EPISODE:2 葛城朔夜
  4. EPISODE:3 永久の朝
  5. EPISODE:4タンデム
  6. EPISODE:5 畢生の一幕
  7. EPISODE:6 万劫の呪い
  8. EPISODE:7 残滓
  9. EPISODE:8 デジャ・ヴュ