心の底は薄っぺら
とある雨の日のことだった。
外からしとしとという音が流れてくる中、することも無くだらだらと家で過ごしていた私は、とある一本の電話を受け取った。掛けてきた相手は中学の頃の知り合いで、どうしたのかと問うと彼女は答えた。M子が死んだの。
正直、始めは目が点になって、彼女の言うことが分からなかったが、数秒経ってようやく私の知る誰かが死んだのだと理解する。
そう、「私の知る誰か」。M子というのが誰なのか、名前を聞いただけでは思い出せなかった。
M子って誰だっけ。私は聞いた。小、中学校、同じだったでしょ。彼女は答えた。ほら、将来モデルになるって言ってた子。忘れちゃった?
若干私を非難するように言ったので、私は必死でM子についての記憶を探した。そして見つける。常にクラス一身長が高くて、つやつやの長い髪の毛をまっすぐに伸ばして、切れ長で釣り気味の目をしていた人。ああ、あと足が速かったような…。
ようやく思い出したので、次はM子の死因について尋ねた。
自殺みたい。電話越しに彼女が泣きだすのが聞こえて、私は顔をしかめる。本当に? と、聞いてみた。自分の声が思ったよりざらざらしたので、咳払いをしてもう一度聞いた。本当にM子って、自殺したの?
本当だよ! 彼女はむきになって答えた。本当にM子、自宅で首吊って死んでたらしいの。
何で首吊ったの? SNSで誹謗中傷に遭ったらしいよ。え、なんか悪いコトでもしたの? してない、一部の心無い人達が、「ただの目立ちたがり」とか何とか言って、馬鹿にしたの。
それだけで、人って自殺するものなのかと不思議に思いながら、私は、へぇ、と適当に相槌を打つ。彼女はまた泣き出した。アンタ、薄情な奴だね。そう言われたから、私は困って、うん、とだけ答えた。電話の向こうの泣き声は、さらに激しくなった。
ごめん。ごめんじゃ許されないんだよ。うん。M子は死んだんだよ。そうだね、悲しいね。他の人に話したら、みんな泣いてたよ。そうなんだ。アンタはなんで泣かないの? さあ?
彼女はプツリと電話を切った。ツー、ツー、と通話の切れた音がして、遅れて雨の音が耳に入ってきた。いつの間にか本降りになっている。空気はひんやりとして暑くはなかったけど、少しだけ湿気が鬱陶しかった。
ぴかっと光った気がして、窓の外に目をやる。色褪せた町の景色に、色とりどりの傘が咲いて通り過ぎていく。直後、遠くの方からゴロゴロと地響きのような音がした。
私は受話器を置いた。誰かを怒らせたのは久しぶりだった、と今さらになって気付いた。
午後になって、少し散歩をしようと家を出る。未だ雨は降り続けていたので、近くのコンビニで買った透明なビニール傘を差した。思いの外雨粒が大きくて、雨が傘を叩くたび重たいと感じた。
しばらく歩いて、さっきの電話について思い出した。
M子が死んだの。と、彼女は泣いた。私は泣かなかった。その違いは何だろう。彼女がM子の友達だったから? 私は今日までM子の存在自体を忘れていたから? それとも、どっちかがおかしかっただけなのだろうか。
分からないけど、結局私は泣かなかった。その過去は変えられない。それに、今なおM子の死に悲しさを覚えない自分がいる。彼女の言う通り、私は薄情な奴なのかもしれない。実際、小、中学校という割と長い間同じ学び舎で過ごしてきたのに、私はM子のことを忘れていた。そんな事実がある。M子は私の中で、元から死に続けていたのだ。
高校生らしき女子学生の集団とすれ違う。えーマジ~? キャハハ、ウケる~。中身があるのか無いのか分からない会話と、短く折り曲げたお揃いのスカート。彼女達は周りより一段と明るく輝いている。一部の若者達による、黄金時代。
M子が死んだの。反芻するように、私は口の中でもごもごと呟いた。そう言えばM子の黄金時代、いつだったんだろう。
正直、小学校の彼女はそばかす顔で、自信満々で、何の変哲も無い普通の女の子だったように思う。その時から既に身長は高かったけど、遠くから眺めている限り、それ以外に特別な何かは感じず、輝いているようにも見えなかった。
大きくなったら、モデルになるの。屈託無く笑う彼女は、恥ずかしがる素振りも見せず言っていた。周りのみんなはそれを応援していたし、否定する人は誰もいなかった。
無理だ。そう思っていたのは、おそらく私だけだ。幼い私はそんなM子がひたすら羨ましくて、それと同時にいなくなれと思っていた。今なら分かる、あれこそが私の初めて体験した嫉妬だったのだ。
しかし、当時の私にそんな言葉が分かることも無く、自覚しないまま私はある日、何気ないふうを装って呟いた。
モデルってさ、…――。
…そこで私は、あれ? と呟く。「モデルってさ、」のその後、私は続けて何を言ったのか思い出せなかった。モデルって、結局はただの自己主張だよね、かもしれないし、ネットの人と同様、ただの目立ちたがり、かもしれない。何にせよ、モデルの全てを敵に回すような発言をしたのは間違いない。
言った後にハッとした。自分で自分は言ってはいけないことを言ったのだと、直後に気付いた。そもそもどうしてこんなことを言ったのかも分からない。それこそ私の言ったことはただの自己主張だった。モデルなんて夢みたいな世界に行けるのは、ほんの一握り。だから、諦めなよ。暗に言ったのはそういうことだった。
チラリとM子を見ると、私の声が聞こえたのか驚いたようにこちらを見ていた。謝らなければと思ったけれど、気まずくなって目をそらした。別に、だからって応援してない訳じゃないし…。言い訳だけが、M子には伝わった。
だってしょうがないじゃん。雨音に紛れて、小さく呟いた。何がしょうがないというのだろう? 今なお、私は自己防衛の為にうそぶいている。次第に鮮明になってきた記憶の中で、M子は私にとっての醜い部分へと収束されようとしていた。
自己嫌悪。けれど私は自分のことが最も大事だ。…ああ、なるほど。だから「しょうがない」。やはり私は、薄情な奴だ。
傘を閉じて、それで周囲の人を刺したくなった。穴を掘って、埋まりたい。その衝動は確かに私を取り巻いている。M子の“せい”で、私の“せい”で、誰かの“せい”で。そんな感情によって、私は毎日失敗を犯してきた。多分、これからも同じ。
うん。私は呟く。うん、そんなのもう何年も前の話じゃん。今さら掘り返して、引きずる必要無いじゃん。
忘れるべきだと思った。M子のことを。私の小学生時代を。もう取り消せないのなら、私の頭の中だけでも「無かったこと」にしてしまえばいい。それと同時に、私はM子の死を伝えたあの同級生を、心の底から憎んだ。どうして思い出させようとしたのだろう。忘れていれば、今こんな思いに囚われなくて済んだのに。
そして、これこそが私の得意技、責任転嫁というものだということも、心の底できっちり理解していた。理屈を無理にでも練って、相手が悪いのだと言い張る。
いつからだろう、と考える。いつから、私はこんなに最低になったのだろう。
実は、幼い私は周りから見れば優等生で、常に「あなたは優しいね」と言われるような人間だった。しかし、今にして思えば「優しいね」と言われたいが為に、善行していたような気がする。つまり、前の質問の答えは「最初から」がしっくりくるものなのだろう。
M子は私よりも優れたところが沢山あった。優越感に浸っていたい私は、それが許せなかった。私以外が褒められるのは、心から嫌だ。表面では善人を装って、私の心は常に薄っぺらい紙のようだった。
だからこそ、M子の死について、こうして軽率な後悔を投げかけている。私は根っからの偽善者であり、小物であった。それは自覚している。自覚しているからこそ、私は自分を愛している。この心さえもいつか嘘になる日が来るかもしれないと、思いながら…いや、嘘になり始めていると信じながら、矛盾した人生を楽しんでいる。何とも薄っぺらいことだ。
雨の勢いが、心なしか強くなった。傘を叩く音が依然私の鼓膜を揺らし、心地の良いリズムになって体中を巡っていく。水溜まりを気にせずそのまま片足を突っ込んで、靴の中がびしょびしょになった。気持ち悪いけど、帰るまでは我慢だ。その我慢も、まだしばらく続くことになると思うけど。
M子は死んだ。もう一度繰り返して、私は呟いた。M子は死んだ。自殺だったらしい。ネットの誹謗中傷で、簡単に逝ってしまった。おそらく私と同じ言葉に惑わされて、あっさりと、死を決断した。だけど私は悪くない。そもそもSNSなんてやっていなかったし、一回もコメント機能を使ったことは無い。私は関係無い。
それは本当だろうか。私は思った。結局のところ、私は一度SNSの連中と同じことを、それも直接、M子本人に言ったことがあるのだ。今日の今日までほぼ関わりが無かったとして、過去の一回…証拠を残せない言葉を吐いた私は、全くの無関係だと言えるだろうか。
アンタ、薄情な奴だね。さっき言われたことを思い出す。もしもM子が、死ぬ直前まで私の言葉を覚えていたとしたら。そうすれば、私は世の中にありふれている殺人鬼の一部になったということだ。M子が死んだ。私達が殺したのだ。
ふるふると首を振る。いや、考えすぎるのはよそう。私は人の命を簡単に左右できるような、肝の据わった人種ではない。M子の死を嘆かなかったのも、きっと突然のことに心が追いつかなかったのだ。そう、全てが私のせいだと考えてしまうのは、この低気圧のせいだ。低気圧が私に悪い妄想を抱かせるのだ。
土砂降りの中、ずぶ濡れの子ども達が傘も差さずに走り抜けていった。あれじゃ体が重くなる一方だろうに、楽しそうに笑うのは若さゆえなのだろうか。
そこで私は立ち止まり、短く細い息を吐いた。冬はもう過ぎ去ったから息が白くなることは無かったけれど、目の前はぼんやりと滲んで見えた。心なしか強くなったと思った雨は、今度は弱々しく落ちてくるだけになった。情緒不安定なのは、私だけではなかったようだ。
M子が死んだ。私達が殺した。それはあながち間違ってないだろうし、罪悪感が湧いてなお自己防衛に走る私が一番の大罪人なのかもしれない。心の中で可哀想に思っていながら、結局自分自身を優先させてしまうのは…そしてそんな自分を叱ろうとして甘やかしてしまうのは、きっとすごく悪い。悪くて反吐が出ることだ。誰も彼もが使う「偽善者」というのは、本当の意味では私みたいな人達のことで、すんなりと言葉で表して良いものでは無かったのだ。…多分。
一旦家に帰ろうかと思ったが、やめた。まだまだ歩く。どうせなら行ける所まで行ってしまおう。戻り方は、戻ろうと決めた時に考えれば良い。そう思ったから、特に行き先も決めずに歩いた。色とりどりの傘が咲き、通り過ぎていく道の一部になった。私はいつも、そういう役割だったのかもしれない、と今になって思った。
人並みにあるつもりの承認欲求と、優越感に浸っていたい自尊心。時として苛立ったけれど、今では受け入れてしまったそれら。私を構築する上で大事になり得るもの。私にとって、M子はその象徴だった。全てにおいて「凄い」と言われたい、「敵わない」と言わせたい。私が無意識に追い求めていた声であり、その声を得る為にはM子は最大の壁だった。少なくとも、小学生の頃は。
M子は私には無いものを沢山持っていた。私はそれが羨ましくて、憎たらしくて、…最終的には、奪いたいと思った。M子の全てが欲しかったのだ。だから一時期、才能のある奴が嫌いだった。私も似たようなことをしていたはずなのに、誰かが自慢げに自分の才能をアピールするのが、見ていられないほど恨めしかった。
…ただ、それだけだったはずだ。
M子が死んだ。M子って誰だっけ。ほら、将来モデルになるって言ってた子。忘れちゃった?
あんなに羨んだM子を、私は覚えていなかった。自分が彼女に何を言ったかも忘れて、今、のうのうと生きている。あの時私が欲しかったもの、言葉、視線なんかじゃなく、ただのモノクロな記憶だけが再生されて。私の心は、底の方からペラペラな感情で出来ている。薄すぎて、簡単に瓦解してしまう。瓦解してしまった。だからこそ、M子を簡単に忘れることが出来た。
雨はほとんど止みかけていた。ぱらぱらと軽い音が傘でくぐもり、足元だけを濡らしていく。
もしもM子が私の言葉を覚えていた場合、彼女は私を恨んでいたのだろう。何気ない一言で傷付いたとしても、保身の言葉ではなく、謝罪が欲しかったはずだ。私はそんな彼女を宙ぶらりんにして、その言葉で縛り付けていた。M子に関して言えば、私は誹謗中傷する側の第一人者だったのだ。
携帯電話が鳴った。中学からの友人からメールが来ていた。M子が死んだってマジ?
マジ、と私は返信した。さっき私の方にも連絡が来て、自殺だったって教えてもらったよ。友人は、自殺って? と尋ねたので、大まかに内容を説明した。その誹謗中傷した奴ら、許せないな、と帰ってきた。私はとりあえず、そうだね、と返した。
〇月×日に葬式があるんだってさ。え、行くべき? 行くべきでしょ、一応同級生だったんだし。ごめん、その日どうしても外せない用事があるんだけど。薄情な奴だな~。ホント、ごめん。いいよいいよ、わざとじゃないでしょ。うん。じゃ、お前の分もちゃんと参加してくるから、そっちも頑張ってな。分かった、ありがとう。
私は電話をポケットにしまった。「用事がある」というのは噓だった。とにかく、私がそこに行くべきではないと思ったのだ。
許せないな、か。これが世の中なのだろう。友人は一般的な道徳に従って、モラルの無いネットの連中に憤った。私も最初、実はそう思った。けれど考えれば考えるほど、私にはその資格が無いことが明らかになっていく。M子は最後の最後まで、私にとっての憎悪だった。それが確かで、最低な結論だった。
ハッと気付けば、随分遠い所まで来ている。靴の中も完全にぐしょぐしょで、きっと私の足はしわしわになっているのだろうと予想がついた。
雨は既に上がっている。傘を差しているのは、もはや私だけだった。
M子は死んだ。私はまた呟いた。M子は、死んだ。私はまだ生きている。クズというのは、結局最後まで生き残るということなのだろうか。分からないけど、雨が上がったからもう帰ろうと思った。
傘を閉じて、クルリと踵を返す。するとそこに小さな石が一つ転がっていたので、軽く蹴飛ばしてみた。小石は近くの電柱に当たって跳ね返り、少し転がって静止する。私はその小石をしばらく眺めてから、自宅方向へ歩き始めた。
もしこの小石に意識があるのなら、痛い、と思ってくれてると良いな。そう思った。
心の底は薄っぺら
M子の死。それが、私の最も大切な感情の全てだった。