黒猫
猫を殺した。
それは柔らかくて、弱くて、何も出来ないのに、そのくせうるさく鳴く生き物だった。だから殺した。近付いて捕まえて、スクールバッグにいつも忍ばせているカッターナイフで、やたらと震わせる喉元を切り裂いた。その際、出来るだけ動脈を切るようにしている。その方がすぐに死んでくれるから。それに、喉を潰してしまえば、あのうるさい声を聞かないで済むから。
これで何回目だろう。そう思う。
猫が暴れて飛び散った血は近くの塀や排水溝を赤く照らし、どこか妖艶な色彩を放っている。今やピクリとも動かなくなったソレの手足は力無く地面に横たわり、じわりじわりと血溜まりを形成していく。いつも通りだ。もしくは、少なくともそう考えてしまうほどには慣れてきた光景だ…と思う。
私はしばらくその様子を眺めると、どのくらいの返り血を浴びているかを確認するために立ち上がった。…思ったよりこちら側には跳ねていなかったみたいだ。そうでなくとも、殺す時はそれ専用の黒いジャージを着ているから、大して問題になることは無いだろう。こういうことを考えられる私は、冷静で偉いなと思う。
ここで初めて、視線を猫から前方へと移動させてみた。まず最初に目に入ってくるのは、真っ赤に染まった夕空と、それらが逆光になって黒く染まった住宅街。一瞬、血が空に飛んでしまったのかと錯覚するほど、それはそれは赤黒い景色。私が住む、死んで鉄臭い家々。なんだか妙に興奮させられるもの。
赤い赤い、とても赤い…大きな黒猫の死骸が横たわっているような…巨大な血溜まりの世界。ただしそれは、すぐに腐ってドロドロと溶けてしまう。
もう、夜が来るらしい。
それでも生温かい風が吹いてくるから、今日は熱帯夜なのだと予想できる。気が付けば噴き出ていた汗が、肌を滑って泣き痕のようなものを残し落ちていった。
「…今日も暑いね」
特別誰かに話しかけるでもなく、でも誰かに話しかけるように呟く。強いて言えば、今そこに転がっている猫の抜け殻に喋りかけたのかもしれないが。けど、もちろん返答は期待していなかったし、実際何の返答も来ることは無かった。だから、これはただの確認作業のようなものに近かったと思う。
カラスが鳴いた。姿は見えないけど、どこかにいるようだ。もしかしたら猫を狙っているのかもしれない。
それは可哀想だと思い、猫を抱き上げた。太っているからか死んでいるからか、それはやけに重たかった。でも持ち上げた。
ああ、この猫はどうして殺されてしまったんだろう。元から殺されるべきだったのか? いや、それは間違いのはずだ。全ての生物は生きるために生まれるのであって、決して殺されるために生まれるのではない。自然の摂理において、何かがそうなってしまうというだけの話だ。
ではなぜ、この猫は殺されてしまったのか? 私が殺したかったからだ。弱肉強食の世において、私が猫を殺そうとして殺せたから、その猫は殺されたのだ。ただ、それだけのことだ。ただ、この世界の犠牲者になってしまったというだけのことだ。だから可哀想に見える。だけ。
それでも、私は人だから、「可哀想」と思ったものを弔う義務がある。少なくとも、私はそう思っている。それに則って、この憐れな猫を弔うべきだと思う。あーあ、猫が可哀想だ。
そういう訳だから、私は猫を抱き上げながら泣いた。声は出さずに、ひたすら涙を流した。悲しいから泣いた。泣きながら町中を練り歩いた。まるで、一人で執り行う葬式の参列のようだった。それでも命は帰って来ない。こんな悲しい事って、あるだろうか? 自然の摂理とは、なんて残酷なんだ。感情を持って生まれた私達人類は、ある意味では失敗作と言えるのかもしれない。
ひとしきり町を彷徨した後、私は自宅のマンションの裏にある山へと赴いた。そこには錆びたドラム缶があり、キャンプファイヤーが出来るようになっている。放課後から黄昏時辺りまでは近所の小学生のおもちゃだが、完全に日が落ちきった今では、人の気配は全くせずがらんとしていた。丁度良い静けさだ。
私はそこに転がっているドラム缶を立て直し、乾いた葉っぱ、猫、乾いた葉っぱの順に入れていく。近くにあった百合の花も一本、摘んでそこに放り入れた。
そうしてライターで火を点ける。昨日も一昨日も雨が降らず、全てがカラカラに乾いていたから、ドラム缶の中は瞬く間に火の海と化した。
パチパチ、と小枝の弾ける音。死んだ猫を焼く、炎の音。終わってしまった命の残りカスが、燃えていく音。全部全部…猫の毛も、皮膚も、内臓も、声も、苦痛も、存在も…焦げていく周囲と共に、燃えていく。黒い煙が、紺色の空に立ち昇って霧散していく。焼けた死体が漂わせる、独特な香ばしい臭いも、空気に溶け込んで、最後には消えていく。
私は手を合わせた。そして、もう一度涙を流した。ああ、猫が可哀想だ。これ以上生きられなかったのが可哀想だ。苦しんで死んでしまったのが可哀想だ。だからこの子はとっても不幸で、悲しくて、可愛いのだ。
風が吹いて、黒い煙が私の目に触れる。ジーンと染みて、この涙が何のためか分からなくなってしまった。ぼやけた視界は、全てが虚構で出来ている。そう思うぐらい信憑性が無いように感じる。私は羊水の中で夢を見ているだけなのかもしれない。そんなことは無いと、怪我をすれば痛むこの身体が教えてくれるけど。
やがて火は燃え尽きる。スマホで確認すれば約一時間かかっていたけど、とにかく中の物は全て燃え尽きてくれた。死んだ猫の毛や、皮膚や、内臓や、声や、苦痛や、存在は、一緒に入れたその他諸々の全てと共に灰となっていた。唯一、焦げた骨だけは黒く変色して残っていた。
ドラム缶をひっくり返して中身を全て出す。ほとんどは灰や塵となって舞い上がったけど、燃え残った真っ黒な骨は重力に負けた灰と一緒に山を作った。その山を崩して平らにし、踏みつける。パリパリと音がした。何度も踏みつける。何度もパリパリと音がするが、そのうち完全に粉々に砕け切ったのか、じゃりじゃりとした感覚だけになった。
そうなったら最後は、その辺に常備されているスコップを使って土を掘り返し、猫の残骸を混ぜ込んでいく。きっと良い養分になることだろう。
こうして弔いを終えた私は、一度目を閉じ深呼吸をする。雨が降る前のような、冷たく湿った風が吹く。…それからかすかに、猫の鳴き声と熱風を幻覚する。その声は怒っているのかもしれないし、悲しんでいるのかもしれなかった。…どっちでもいいや。
目を開ける。その視界の先には黒猫がいた。ソレには目が無いから、瞳の色がどうとかこっちを見ているとか何も分からないけど、私が猫を殺して弔えば必ず現れた。そうなったのはいつからだったかはどうにも釈然としない。もしかしたらこの生物も、ただの幻なのかもしれない。
だけどいた。黒猫は必ず私を見て座っていた。ソレの目が無いのは知っているが、私にはそう思えたからきっとそうなのだ。黒猫は私を見ている。黒くて節穴になった暗闇で、私を見ている。ずっと。
まばたきを一つ。次の瞬間に、黒猫は消えた。夜の闇に紛れて、霧のように。後には電線に留まるカラスの赤い視線と、血と灰と土で汚れた私だけが残された。
ふと気付けば、夜の虫の声。カラスがひと声鳴いて、どこかへ飛び去って行く音。月は中途半端に太っている。それとこれとは関係無いと思うけど、自分の身体がやけに重たく感じた。知らない間に疲労が溜まっていたのだろう。
もう帰ろう。私は家路を急ぎ始めた。
家に帰れば、父と母が激しく言い争っていた。何を言い合っているのかは知らない。上手く聞き取れないし、私にはどうでも良いことだった。
ただいまも言わないで自分の部屋へ向かう。と言っても、安物のアパートの一室なので家族の寝室でもあるわけだが、特に気にする必要も無いと思っている。
そこら辺に荷物を放り投げると、そのままお風呂へと向かう。湯船に浸からずにシャワーだけ浴び、新しい服に着替え、ジャージだけ洗って干す。その他下着やジャージの下に着ていた服は洗濯カゴに放り投げる。そして自室に戻る。居間では両親がずっと喧嘩をしているから、行く気は無い。…それにしても、すごくうるさい。もう少し静かに喧嘩が出来ないものだろうか。学校の宿題や本を読む際に本当に邪魔なのだ。
ドライヤーで髪を乾かす…なんて面倒なことはせず、すぐに勉強机に向かう。部屋の中は湿気のせいでひどく蒸し暑い。…そのうちに、外で大雨が降り始める音がした。さらに煩わしくなってしまった。今日はもう勉強が進まないだろう。…まあ、提出期限は明後日だし、今日はもういいか。
両親の罵詈雑言が止んだ。居間を覗くと、父は出て行ったのか見当たらず、母はソファに座って泣き崩れていた。両頬が赤く腫れ、服から覗く手足は至る所に青黒い痣が出来ている。今日の喧嘩は余程激しかったに違いない。父は…まあ、いつもの浮気相手の元へ行ったのだろう。
早く離婚すればいいのに。そう思いながら、私は母の近くへと歩み寄る。
「お母さん」
私は母の前に立ち、言った。
「ご飯、まだ?」
若干苛立ったような表情が、母の顔に浮かんだ。その表情を見るのが好きだったから、私は笑った。平手打ちが飛んで来た。痛かったけど、それすら面白く感じたからまた笑った。
母は私の髪をわしづかみにし、私の左腕を引っ掻くと、なんだかよく分からない金切り声を上げた。あなたはどうしてこんな子に育ったの? どうしてあなたは生まれてきたの? どうして私の子なの? あなたは本当に私の子なの? 私が何をしたの? どうして私だけこんな目に遭うの? …おそらく、そんな類のことを叫んでいるのだろうけど、やっぱりはっきりとは聞き取れない。ただ、感情の爆発を思うがままに、無意味に、叫んでいるのは分かる。本当に、それだけは。
私のことについて、母は叫び続ける。この女性の目からは大量の涙が流れているし、表情は苦悶に歪んでいるけど、金切り声を上げながら笑っていた。だから私にはこの人が何を考えているのかはよく分からなかったけど、多分、狂っているんだろうなということだけは分かった。ただ、笑えるだけ幸せ者だ、とは思う。今の母は、幸せそうだ。
そのうち、私は母の目が猫になっていることに気付いた。わずかに赤い光を反射させ、真ん中には線のように縦に細長い瞳が胡乱に揺れている。焦点は定まっていないようで、決して目が合うことは無かった。
気付けば、母の口から二本の牙が見え隠れしている。髪の毛はあり得ないほど逆立ち、爪は長く鋭く、私の腕に食い込んでいた。声はいつも以上にざらざらしていて、まるで喧嘩しているときの猫みたいだ。私の破れた皮膚から、赤い鮮血が腕を伝っていく。
…ああ、うるさいな。
顔はこっちを見ているのに、全く目が合わないこの猫を見ながら、私は思った。コイツを殺したい。ムカつくからじゃない。ただうるさいから殺したい。可哀想だから殺したい。殺したくて堪らない。
ふと見回せば、窓の外で黒猫が見ている。目の位置にぽっかりと深淵がある黒猫が、真っ直ぐと私を見据えている。
しかし、よく見ればこの黒猫は一匹だけじゃないことに気が付いた。それは棚の上にも、シンクの中にも、テーブルの上にも、花瓶の中にも、居間の隅にも、足元にも、目の前にも、…とにかく至る所にいる。見ている。私を、ただひたすら見ている。そこにいる。
そうして私は、今日初めて苛立った。だから殴った。私の左腕を引っ掻く目の前の猫を、真っ暗な穴を目がけて殴った。すると、それはギャッと悲鳴を上げて手を離した。すかさず腹にもう一撃入れてやった。黒猫は簡単に死んだ。死んでぐずぐずに溶けていき、いつの間にかうずくまって呻く母だけがそこに残された。少し興味が湧いてこの女の顔を蹴り上げると、ひっくり返って白目を剥くだけだったので、つまらないと思ってやめた。
母は仰向けになって白目を剥いたまま、笑い始めた。幸せになったようだ。だからつられて私も大声で笑った。笑いながら窓の外とか棚の上とかを見たら、黒猫はいなくなっていた。弔うべきものは、もうここには何も無くなっていた。
ひとしきり笑って腹が痛くなったので、笑うのをやめて自分の部屋に戻る。隣の号室から赤ん坊の泣き声が聞こえた。ぎゃあぎゃあと喚いて、不快を叫んで、とてもうるさかった。
声が聞こえる方の壁をドンドンと拳で叩く。既にその壁は凸凹になっていたり穴が空いていたりするけど、うるさければその度に叩くことにしていた。赤ん坊はうるさい。うるさいものは嫌いだ。死ねばいいのに。アレが人間じゃなければいいのに。自分の手で殺せればいいのに。
私はドンドンと壁を叩き続ける。赤坊はなお泣き止まず、むしろさらに激しく喚き立てるようになった。うるさい。うるさい。
最後に一つ、渾身の力を込めて壁をグーで殴ると、皮膚が破けて血が溢れ出した。壁はわずかに凹んでいる。そのまま、トンカチで割ってしまおうかと考えた。トンカチが無いので出来なかった。赤ん坊は、ついに泣き止むことは無かった。
壁に複数箇所空いている穴の一つを、覗いてみる。隣とこちらでは壁一枚でしか隔てられていないから、覗けばお隣さんの様子が分かるはずだ。
…しかし、穴の向こうは真っ暗だった。ぽっかり空いた深淵のように、黒い闇がそこに広がって、私の目には何も映らない。黒猫の穴が、そこにあるだけだった。
「そこにいたの」
隣から私を覗く黒猫と見つめ合いながら、私は尋ねた。しかし、黒猫は何も答えない。誰もいない深い闇に、私の影に、潜んだ気になって答えてくれない。うるさい赤ん坊の声ばかりが、ただ、そこら中に響く。声だけが、私の鼓膜を揺らしている。うるさい。殺したい。うるさくて、柔らかくて、弱い生き物だから、その声を殺したい。黒猫を殺したい。ちゃんと可哀想にしてあげたい。
「良いんじゃない? どうせ、いつかは死ぬんだし」
黒猫が見ている。そう、猫は弱いから、簡単に殺せる。何度でも殺して、血まみれになって、弔うことが出来る。そのためにカッターがあって、ナイフがあって、炎がある。燃やせば目は溶けていく。皮膚は溶けていく。内臓も、声も、存在も、溶けて無くなる。それは私と何も変わらない。私は変わらない。いつか殺される黒猫と、何も。
ふいに赤ん坊が泣き止む。それは私が穴を覗くのをやめたからなのか、それとも赤ん坊が泣き止みたくて泣き止んだだけなのか、分からないけど。多分前者かもしれない。黒猫がいなくなった…つまり、弔うべきものは何も無くなった。そうでしょ? だから、そこには何もいない。最初から。
静かになると、途端に眠気が襲ってきた。あくびを一つすれば、視界が歪む。やっぱり私はまだ羊水の中にいる。ずっと母の腹の中に漂って、この夢を見ている。毎日毎日、猫を殺す夢。生まれて来なかった私のために、「生まれて来なくて良かった」と思わせるような夢。私は始めからいなかった。黒猫や赤ん坊のように、ただ誰かの夢に存在しているような幻。…かもしれない。
ふと目を開けてみて、私は自分が眠っていたことに気付く。窓の外は明るくなっていた。やかましい鳥の喋り声と、けたたましく鳴る救急車のサイレン。居間で父が誰かと話している。何が起きているのかを予想するとしたら、おそらく母が死んでいる。昨日、幸せそうに笑っていたから、そのまま逝ったに違いない。私が蹴り上げて、白目を剥いてひっくり返って、痙攣しながら泡を吹いていた、あの時のまんまの姿で。きっとそうだ。
それはそうと、今日も学校だから準備をしないといけない。暇潰し用の本と、小腹が空いた時用のお菓子類と、読んでたらいつも眠くなる教科書達と、ほとんど使わない筆記用具と、帰りに買い食いする時用のお金と、…まあ、その他諸々。学校ってつまらないから、あまり気は進まないものばかりだ。
スクールバッグに詰めるだけ詰め込んで、いつも通り朝食は抜いて、私はアパートを出た。案の定母が死んでいたけれど、警察はまだ来ていないし、父はスマホを片手にオロオロしているから、私は関係無いものとして良いだろう。母については、帰ってから悲しむことにする。今悲しんでいたら、学校に遅れてしまう。
アパートから少し進むと、曲がり角を歩いて行く猫の尻尾が見えた。丁度行く先が同じだったのもあって、角を曲がってみると、ぐちゃぐちゃに混ざり合って腐った何かの死骸があった。さっきの猫はいない。ただ、私と謎の死骸がいる。足元で、目の無い黒猫が生まれるのを感じた。
真横を車が通り過ぎる。驚いて横を見れば、昨日私が殺した猫の血がシミを作っていた。そこにも黒猫が生えている。その真っ暗な目で、私を見ている。ハッとして視線を戻せば、ぐちゃぐちゃの死骸は消えていた。足元や血のシミの黒猫も。
…なんだ、ただの幻か。
私はまた歩き出した。前を見ると、さっきチラリと見えた猫の尻尾が、私の前方を歩いていた。ゆらゆらと揺れて、まるで「ついて来い」と言っているように遠くへ消えていく。けれど、今行くべき方向ではなかったので、私は無視して学校へと直行した。猫の消えた方角から、何かがぎゃあぎゃあ喚く声がした。
うるさい。
私の学校生活にも、猫はいる。教卓の影だったり、クラスメイト達や私の足元だったり、ロッカーの中だったり、机の中だったり。とにかく、至る所で黒猫が見ている。真っ黒な穴で覗いている。いつもいつも、気が付けばそれは私の前で座り込んで、ただじっとこちらを見ていた。
だからたまに、人や机や椅子を蹴り飛ばしたい衝動に駆られるけど、私はすんでのところでそれを抑え込む。確かに、これらはうるさい。机や椅子は動かせば床と擦れてキィキィと音を出すし、人は言わずもがな。なのに猫みたいに弱くて脆くないから、手を出すことは叶わない。彼らにとっては私が弱者であり、狩られる側だった。
この世は弱肉強食が理なんだから、私もそのルールに従うべきだ。殺せるものだけを殺して、食べられるものだけを食べて、憐れんで、喜んで、救って、弄んで、作って、壊す。その逆もまた然り。そこに倫理なんて人間の価値観は必要無いだろうし、全てがそんなものを持っていたらきっとこの世は回らない。だから人はこの世界の失敗作なんだと思う。静かに回っていた円環を、感情論で歪ませたバグ。私はそんなバグだから自然の理に苛ついて、理由も無く殺意を募らせる。猫を殺す。その後その抜け殻を可哀想に思って泣く。
弔うのは義務だ。バグとして生まれたもの全てに課された義務。多分、本当はそこに倫理観なんていらない。というより、きっとどうでもいい。いつかはみんな死ぬ…みんな同じなんだから。
あっという間に放課後になり、猫の影は増えていく。伸びた物陰に、家の隙間に、私達の足元に。町中にぽっかりとした穴が二つ空き、黒猫はそこに横たわっている。私が殺したいモノは、延々と湧いてくる。燃やしたところで、キリが無い。私は猫を殺したい。殺して弔いたい。そうしてしまえば苛立ちも喜びも全てが消えていくから。
ふと、廊下の端の影が差す部分に、黒猫がいることに気付く。その途端、私は悲しくなって泣き出した。
母が死んだことを思い出した。居間のソファ近くで仰向けになり、白目を剥いていた母。死ぬ間際も、多幸感に包まれたように笑い続けた母。猫みたいに弱くて、脆くて、うるさくて、鬱陶しかった母。可哀想な母。あの人はもういなくなった。死んだのだと、今さら実感して涙が止まらなくなった。
大声で、小さい子供のように泣き喚いたから、周りの人は驚き、憐れみ、やがてうるさがって離れていく。それでも私は泣いた。喧嘩している猫のように泣いた。我ながらうるさいと思った。だから私は猫で、そのうち弔われるのかもしれない。
黒猫は見ている。目の無い穴でしっかりと私を見据え、ただじっとそこに座っている。どういう訳か、それは苛立っているように見えた。多分、苛立っている。苛立っている…と思う。私が弱くて、脆くて、うるさいから、苛立っている。苛立っている? そうだ、それは私を見て苛立っている。殺されるべきモノとして、可哀想なモノとして。きっとこの黒猫にとっての私は猫なのだ。
そうあるべきなら、仕方が無い。私はその黒猫の近くへ、近くへと、一種の喜びで満たされながら歩み寄った…――。
ハッと気付けば、いつの間にやら無数の黒猫が周りを囲んでいた。全てに目が無く、どこを見ているのか分からない。なのに、全てが私を見ている気がした。
どろどろとした血溜まりの世界の中、どす黒い巨大な猫が横たわる、常に鉄臭い街。夜が来ると、臭いも黒猫も増えていって、何も分からないぐらいに溶け合ってぐちゃぐちゃになる。私はここにいる。私は黒猫だった。「だった」と鳴き喚く何か。何かになった黒猫。弱くて、脆くて、うるさいもの。猫だ。黒猫だ。私は、「何」だ?
混乱したから鳴いた。真っ赤な空には、もう嫌気が差している。なのに目の前には真っ赤な光が刺して来て、私を赤黒く染めるのがムカついた。
黒猫はずっとこっちを見ている。可哀想だと私を見ている。ああ、殺さなきゃ。殺して弔わなきゃ。黒猫が見ている。いくら殺しても、殺して弔っても、いなくならない。黒猫が見ている。もっとちゃんと殺して、弔って、灰にして、それで…。黒猫が見ている。ずっと。まだ。いなくならない。殺さなきゃ。弔わなきゃ。可哀想にしてあげなきゃ。
目の前にいる穴を見つめる。すると見つめ返される。それを何度も繰り返す。私は見ている。私が見ている。
そうだ。それは猫だ。と、やがて気付いた。猫は殺さなきゃいけない。殺して、弔って、灰にしなきゃいけない。哀悼の言葉に、倫理なんて必要無い。私にはただ、悲しむ義務があるだけ。
…何のだろう。
答える暇も無く、私はカッターナイフを取り出す。鋭い刃の切っ先を見つめる。その向こう側に黒猫がいる。私は自分の爪を振りかざした。
猫を、殺した。
黒猫
多分、私は正常者。