本の虫と夏雲
図書館で働く公務員司書、路仁君の日常
今日は土曜日。路仁は出勤している。図書館は土日も開館しているので、休日出勤と言う概念はない。平日に代休を取得するようにしている。家庭のある同僚の司書たちに土日に休んでもらうためでもある。数少ない友人たちとの予定はあわないが、それより司書として本来の仕事ができるので土日に出勤するのは苦ではない。
同期の一人に過ぎなかった真冬とは、友人といえるようになった。破損したスマートフォンを一緒に買いに出かけ、新しいスマートフォンに真っ先に真冬の連絡先を登録した。自然な成り行きだが、こんなにさらりと交換できるとは少し前までは想像していなかった。
真冬のまっすぐな細い指がするすると動いて、「よろしく!」のメッセージを送ってくれる様子をついじっと見つめてしまった。着信音を聞くまでが長く感じた。
それから後輩の詠夏のおすすめの流行のカフェでランチをした。「ぜったい予約していくように」と詠夏にくぎを刺されていたので、はじめて飲食店をネット予約した。「今まで飛び込みしていたのか」と詠夏はあきれていた。それも今までの短い交際がうまくいかなかった原因かもと路仁はあとからほろ苦い思いで振り返った。
交際が終わる原因はいろいろだがスマートさに欠けるのも一つの理由かもしれない。待ちながら話がはずめばそれもよい思い出だが、天気のよくない蒸し暑い日に黙って立って待たされるのは確かに今後の交際を考えさせるできごとかもしれない。遅まきながら学習した。
真冬は何でもかわいい、おいしい、と喜んでくれ残さずきれいに食べた。食べ方もきれいで、お行儀がいいなと感心して路仁はまた真冬の新しい一面を見つける。
市役所に入庁してからいままでの異動した部署、どんな仕事をしていたのか、当時の上司のエピソード、学生時代の部活動のことや流行っていたもの、話は尽きなかった。
真冬は話すのも聞くのも上手で、こんな話つまらないかも、と気を使わせる感じがない。「それで?」とにこにことうなずきながら聞いてくれる。人の話を聞く姿勢が正しくて感じがよい。
対して自分はちゃんとできていたか。路仁は自信がないが、二人でいるのにスマホと話しているようなまわりの客達と違い、路仁も真冬も写真を見せたりするとき以外はスマホを見なかった。スマホを眺める時間が惜しかった。
待ち合わせに現れた彼女の姿は一幅の絵画のようで決して忘れられない。定時の5時ころ、解散した。翌日は仕事だったし・・と詠夏に報告させられた。
詠夏は部下に報告を受ける課長よろしく指をくんで一通り聞いた後、鼻からふーっと息を吐いた。よくできました!という顔ではないな、と路仁は、報告終わりと立ち上がり詠夏の視線の圧から逃げようとした。
真冬とのお出かけの後押しをしてくれたのは詠夏だが、二人の時間について査定を受けようとは思わない。
「まあ、最初ですからね。そんなものですかね。真冬さんも門限があるかもしれないし。うん。健全でよろしい」
「ありがとう。えいさんの教えてくれたカフェもとても喜んでくれたよ。行ってみたかったって。じゃ、僕はこれで」
すると、詠夏が身を乗り出してかみついてくる。
「ちょっと待ってください。私がすすめたってわざわざ言ったんですか?なんでそこで言っちゃうかなあ。信じられない。真冬さん無理してそう言ってくれたのかも。ろじん先生、自分だったらどうですか?男友達にすすめられたって真冬さんに言われたら・・。」
路仁は、何人かと交際経験はあるとはきいているが、ただ見栄をはっているだけかもしれない。
それか空想彼女・・。真冬さん、こんなきれいな人はじめて見たと思ったが、こんなに寛大な人も初めてかもしれない。
路仁はそそくさと返却本をつめたカートを押し出し詠夏の視線を避ける。詠夏はカートに入りきれなかった本たちを抱えてついていく。路仁に任せてもいいが、まだ話したりない。
いちいち確認しなくてもすべて記憶している本棚につぎつぎと本を返納していく路仁には迷いがない。次々やるべきことがあって、早く片付けてしまいたいのだが、あえて詠夏が抱えている分は、詠夏に返納させる。
「えいさん、その本となりの列だよ、ばらばらにもっていては非効率だよ」
路仁は自分の本と詠夏の本にも気を配りながら次の列に移動する。詠夏はあわてて追いかける。呑気な感じなのに仕事中は存外きびきびしている。それが先輩路仁に対する第一印象だった。
詠夏の理想の男性は今の彼氏に凝縮されているので、路仁には正直男性としての魅力を感じたことはない。本当に兄のような、もっというと親戚の叔母さんのような存在。叔父さんではなく叔母さん。親とは違うけど、なんでも言い合える仲良しの親戚の叔母さん。
路仁の家族の話を聞いたことはないけど、たぶん母親似だと思っている。路仁そっくりな中年の女の人・・・。詠夏は小鼻を膨らませて笑いをこらえた。路仁が、けげんな顔をしている。
(真冬さん、この人でいいのですか?)
詠夏は、路仁に対してことごとく辛口である。特に弱みを握っていないが遠慮なしである。本好きを通して知り合った人たちと短い期間だが交際したとしぶしぶ白状させたが、それは交際と呼べるほどのものだったのだろうか。そうだったとしても物足りないとか気が利かないとかいう理由ですぐに自然消滅していたに違いない。
路仁に厳しい詠夏だが、そうはいっても新人の詠夏に親切丁寧に仕事を教えてくれて感謝している。失敗しても頭ごなしに怒ったりしなかった。
若い子に独自の謎の文学論をふりかざす粘着質の利用者からさりげなく遠ざけてくれて、代わりに自分が小一時間話しつけられる羽目になっても何事もなかったように戻ってくるし、市役所との面倒な事務のやりとりはすべて引き受けてくれる。
詠夏だけでなく同僚すべてに同じように公平で、利用者にも誠心誠意対応する、まさに公の奉仕者たる尊敬する部分も持ち合わせている先輩。ほかの同僚たちも「ろじんせんせい」などとこき使っているが、意外にも頼りにしてされている。
最初は、「本の虫」というあだ名がぴったりだと思っていて、でもその人が想い人のために敢然と、彼女を困らせる輩に立ち向かっている様子に、見守ってきた弟が、一人前になったかのように感動した。
自分の彼氏には遠く及ばないがきっとわかる人にはわかる路仁ならではの魅力がある。
そのことを機に、今までのお付き合いもどきではなく、本当の意味での大人のお付き合いを始めているはずだった。
だが、路仁は「人の弱みにつけこんでお付き合いをせまるなんてそんなことは・・」と彼なりの男気理論のようなものにとらわれうろうろしている。
誰だって自分を守ってくれる、自分を理解してくれて、応援してくれる人には、特別な感情を抱く。それがお付き合いに発展しても、ひとつのきっかけを利用したのであってぜんぜん問題はない。
それにいくらいい人でも自分にとって好ましい外見でないと「いい人どまり」なのだが、おそらく路仁は真冬にとって好ましい外見も兼ね備えているのだろう。人と接する図書館での仕事をしているので、清潔感はあると思う。
詠夏の分析は続く。何もないところから恋は生まれない。路仁は、夢見がちというか潔癖すぎる。
「助けてくれた恩義を感じて付き合ってくれなくてもいい。自分の意志でしたことだから」といつもの調子で言われた時は、まさに開いた口がふさがらなかった。彼氏が路仁のような人だったら、一週間ももたないし、それどころか、交際にも発展しない。
「真冬さんがそんなことを言ったんですか?助けてくれてありがとう、お礼に付き合いましょうって。そんな対価必要ですか?ぜったい真冬さんに言ったらだめですよ。ほんとトウヘンボクですね。恋心が自然にアメーバみたいに分裂して増殖していくんですか?ろじん先生の恋愛テクニックは原始生物並みです。真冬さんを助けたかっただけっていう純粋な気持ちはわかりますけど、ずっと好きだったんでしょ?」
「えいさん、落ちついて。声が大きい。えいさんが僕をディスる時ってずいぶん古い言葉を使うんだね。トーヘンボクって初めて言われた。こういうのは、自然の成り行きって部分もあるし、とにかく僕だって次のことはちゃんと考えているから」
「うそつき!おたんこなす!うらなりなすび!絶対考えていないです。なにが自然の成り行き、ですか。そんなのろじん先生に任せてたらいつになるか分かりません。真冬さん、あんなに美人で優しくて、魅力的なんだから他の人に持ってかれますよ!枯れちゃったらどうするんですか」
「あの人は僕なんかのことで枯れたりしないよ。どうして、えいさんがそんなに必死になるのさ」
「いらいらします。あんまりへっぴり腰でいくじなしで」
「えいさんはいつもきついけど、今日は格別だね。どうして?」
「本の虫は本の世界に帰ってしまえ」
「僕、一応先輩なんですが・・」
舌鋒鋭い詠夏に、路仁は肩をすくめて降参です、と詠夏の言葉の銃にこれ以上打たれないように両手を挙げた。
確かに、詠夏はなぜ一先輩のことに必死に怒っているのかと、少し冷めた頭で考える。
本当によけいなおせっかいだ。だが、あの二人にはうまくいってほしいのだ。
路仁は朴念仁だが、最近確実にうきうきして幸せそうだ。恋愛で幸せになるのは男性も女性も同じだ。
あの二人がお似合いかどうかは未知数だが、少なくとも路仁にとっては千載一遇の機会だと思う。
真冬はとびきりの美人で、芯が強くしなやかで、少し話しただけで、詠夏は大好きになってしまった。
辛い目に遭った時だったが、誇りを失わず気高ささえ感じさせる。自分だったらすぐ辞めてしまうかもしれないが、真冬は真摯に業務に励んでいる。
そんな真冬に、あの路仁がずっと憧れていることも知っているし、真冬の路仁を見る目が同期の恩人から変化していたらいいなと期待している。
恋愛話が大好物の詠夏は、現実味のない恋愛小説を読むより、この二人のかたつむりの歩みのように進展する関係の方が面白いと見守っている。
自分の方はというと、安定している。初めての様々な事々は一通り体験してしまい。まだ23歳なのにこんなに安定していいのかと思うこともあるけれど、彼氏の隼大(はやた)はずっと変わらずかっこいいし大好きだし、たまにサプライズをしかけてどきどきさせてくれる。何も問題ない。
そう思っているのにこのまま落ちついていいのか、とかすごく不安定なところに立っているような感覚になるときがある。波風をたててぐらついて隼大と別れることになったらこわくてたまらない。思ったことを言えないときがある。
でも本当は自分だって・・と真冬のように自立した女性になりたいと漠然と思っている。
隼大はそういうことを望まない。同年代に比べても驚くほどに古風で、自分の両親を理想としている。
隼大とのこれからを考えていると、頭の中が、収拾がつかなくなって、路仁の穏やかさに乗じてついきつい言い方をしてしまう。
隼大に対しても振り回すような言動をすることもあるが、すべて隼大の手の中で完結する程度の「かわいい」わがままを演じている。彼氏にはけっして言わない悪態も路仁には言ってしまう。自分ってこんなにきつかったかなと一人で恥ずかしくなって、さらにそれを打ち消そうと余計に厳しい口調になってしまう。
路仁の方が安心して話せるし、落ち着いて話せるのだが、路仁には毛の先ほども男性の魅力を感じない。
詠夏の中では安心して甘えられる相手と恋心を燃やす相手は一緒でありたいが、路仁は隼大とは違う形で、詠夏の甘えを受け止めてくれる。結局何が言いたいの?と結論を急かすこともないし、万事において無理強いをしない。年下だからと軽んじることもない。乱暴な口調や命令口調は使わない。
路仁はいつもフラットで凪いだ海の上に揺れる小舟のようだ。大きな波にはのまれてしまうかもしれない。隼大なら小舟でも構わず雄々しく荒海に乗り出していく。
(なんで私ったら二人を比べているの?隼大の方がいい男に決まっているのに。でも大好きな真冬さんに、ろじん先生がふさわしいか見極めが必要・・)
路仁は頼りなく見えるが、本の知識が豊富で、泰然としている。仕事もバリバリできる感じではないが、平均的にできるほうだと思われる。
市役所は異動があるから他の業務も同じようにできるかはわからないがおそらくどうにかついていけるだろう。
ただ、路仁は自分のことをあまり語らない。家族構成も知らない。過去の恋愛話や真冬のことは、詠夏がむりやり引きずり出した。本が好きで、山歩きが趣味ということは知っているが、家族のことやどんな子どもだったかとかは話してくれない。路仁の人への親しさを示す基準はそこにあるのかもしれない。
路仁が真冬には自分のことを語っていてくれるとうれしい。真冬が微笑みながら路仁のつむぐ話に耳を傾けていてくれる姿が目に浮かぶようだった。
詠夏は意を決して、事務室のドアを開けた。一足先に休憩に入っていた路仁が顔を上げる。お疲れ様、といつもの様子で軽く頭を下げる。
司書の休憩室は事務所の奥にあり年代物の大きなテーブルと人数分の椅子、横になれるほどのソファ、小さいが一人一人に割り当てられたロッカーが並んでいる。
市役所の職員でもある路仁は、自分のデスクをもち、机上には、パソコンが二台置かれている。男性なので司書の休憩室に立ち入らない。
図書館のデータベースが入ったものと、市役所職員一人一人に貸与された事務用のパソコン。路仁が図書館業務よりも長い時間、事務用パソコンにかじりついて数字と格闘している姿を何度も見ている。
「さっきはすみませんでした!」
詠夏は遅い昼食をとるまえに、路仁に頭を下げた。今月は、路仁は詠夏より先に昼食をとり、交代することになっている。机の上にはすでに昼食の形跡はなく、きれいに片づけられている。図書館には昼休みがない。司書たちは交代で昼食と休憩をとれるように順番を決めている。それを考えるのも路仁の役目のひとつだ。
「うん。急にどうしたの?」
路仁の顔に不機嫌な様子はみえない。
「自分のことでイライラしているのを認めたくなくてろじん先生にいじわる言ってしまいました。先輩、失礼しました!」
一気に言ってまた頭を下げた。声がしないので頭を上げると、路仁が肩をふるわせて笑いを堪えていた。
また、むくむくと辛口の詠夏が起き上がる。笑うなら思い切り笑え!笑い方が気持ち悪い!と持っていたペットボトルで路仁の脇腹をぐりぐり押してやる。
「ごめんね。えいさんの威勢のいい、応援団もびっくりの大声がツボに入ってしまって・・。だいじょうぶだよ、気にしていないから。」
そう言いならが路仁はまだくすくす笑っている。
「私、市役所の採用試験を受けることにしたんです。彼氏に言ったら反対されて、ケンカみたいになってしまって・・。何も言い返せなかった自分がくやしくて」
「そうなの。決心したんだ。すごいね」
「独学だし、今からじゃ遅いだろうから二年越しの計画なんですけど」
「いいよ。まだ時間はある。えいさんがこの市役所の職員になってくれたらすごくうれしい。僕の参考書いらない?ちょっと古いけどいろんな問題をこなすのが大切だから」
「一か所では不安なので、いくつか近くの試験も受けるつもりです」
「さすがだよ。対策を練らなければね。またゆっくり話そう。もう休憩終わりだから」
路仁がいなくなって、休憩室に入り、お弁当を取り出す。就職してから毎日のように自分でお弁当を作るようになった。節約したいのと隼大に喜んでもらうため。昨日の残り物をつめるだけではなく、なるべく朝作ったおかずを1~2品入れるようにしている。
いつか隼大に毎朝作ってあげるためにがんばって続けているこだわりだ。路仁のように公務員で、図書館勤務というのは少数の存在だ。市役所の職員なのでいつかまったく違う部署に異動になることもあるだろう。
「自分はたまたま恵まれて今のところに配属された」、と路仁は積まれた本を一冊一冊愛おしそうに乾いた布でふきながら言った。
詠夏が、晴れて採用されたとしても、路仁と、図書館で一緒に働ける確率は少ない。
公務員は女性が長く働ける職種の一つではある。公務員に限らずどんな職種でもいいから、真冬さんのように責任感をもってずっと勤めたい。
お弁当を食べ終わると、詠夏は「公務員試験対策」と書かれた参考書を開く。公務員専門学校に行くことも考えたが、入校料、月謝の高額さに、躊躇し、すぐには契約できなかった。
親に言えば、すぐにでも出してくれそうだがそれは最終手段で、あと何年間かは試験を受けられるので、居心地の良い図書館で働きながら、一人で頑張ってみようと思っている。
そういう思いを隼大に話したら、隼大は釈然としない態度だった。いつかは結婚も視野に入れている真剣な付き合いをしていて、自分の両親のように夫唱婦随で同じ仕事をして、同じ夢を見ようと思っているのに、といういつもの話になる。
隼大の両親は自営業で、いつも一緒にいる。二人で始めたお店を盛り立てようと同じ方向をみて休みなく働いている。隼大は子どもの頃、忙しい両親と数えるほどしか出かけたことがないとぼやきながらも、そんな両親をとても尊敬している。苦しいときも夫婦で支えあい乗り越える姿は隼大の理想である。
詠夏も高校生の頃から、隼大の両親を知っているが、とても素敵な二人だ。経営の厳しさを知っていて大変な時もあるだろうが、いつも情熱的できらきらしている。
路仁たちのような公務員は、正直ぬるいな、と思うことさえある。安定にあぐらをかいている。
不安定な時もあるがいつも一生懸命で楽しそうな隼大の両親とは大違いだ。
真冬が受けた嫌がらせの話を聞けば、なんとヒマ人の集まりかとも思う。
しかし、大きな冒険をするためにはそれを支える者も必要だ。詠夏が公務員となり安定した給料を得ることができれば、隼大は両親が守ったお店をもっと大きくすることができる。
詠夏は、真冬のようになりたいと思いながら、公務員の本分をあまり理解せず、試験に合格して長く勤められる安定した職業ととらえている。いきいきとしている職員もいるが、それ以上に目立つ机でぼんやりしている職員からはなんの意欲も感じられない。
たまたま試験の成績が良くてそこに座っているなら誰がなってもおおかたできる仕事なら自分もできる。
路仁や真冬には決して言えない詠夏の公務員観だった。
そういう思いを正直に打ち明けたのに、隼大は分かってくれない。それどころか否定から入る。
「そんな気持ちで試験を受けたって合格するわけない」
「その程度の思いなら、今のままで十分じゃないか」
「そんな職員に対応されるお客様がかわいそうだ」
「仕事をなめるな」
「詠夏にそんなことしてもらわなくてもうちはだいじょうぶだ」
「いつかは俺と一緒に店をやってくれるって言ったじゃないか」
甘さと傲慢さを追求されて、付き合って以来はじめての大きな喧嘩になった。最後には言い返す言葉が見つからず、悔し泣きをするとまたそれを指摘された。
「そうやってすぐに泣いて、仕事になるのか?泣き落としするようなやつに責任ある仕事なんかできるかよ」
それが決定打になった。いつもは詠夏が悲しそうな顔をすると、少ししたら「俺が悪かった」と謝ってくるのに、隼大はいつになく厳しい顔をしていた。働いている時の顔だった。
「なんでわかってくれないの?」
詠夏が涙ながらにやっとそう言うと、隼大はまっすぐ詠夏を見据えた。
「真剣な話だからな。これくらいは言わせてもらう。本気を見せてみろ」
高校卒業してから、ずっと両親とおなじ仕事をしてきた。詠夏より社会人経験は長い。年上の仕事相手に何度も悔しい思いをさせられながら、たくましくなった。
隼大の言い分は至極正論だが、そんないい方しなくてもいいではないか。
「わかった。もういい。隼大なんて勉強の邪魔!しばらく会わないから。」
そう言って隼大の車から飛び降りて、逃げるように家に帰った。一緒に住んでいるわけではないので当然実家に帰るのだが、いつも名残惜しく、時間をかけて帰宅するのに、どうやって帰り着いたか分からないくらい、気が付いたら自分の部屋にいた。
あんな厳しい隼大の顔初めて見た。自分の浅はかさや未熟さが悔しかった。同じ年なのにずいぶん差をつけられたものだ。
母親の「夕飯は~?」「おふろにはいりなさい~」、父親の「いっしょにアイス食べないか~?」といういつもののんびりした呼びかけに返事もせず、詠夏は無意識にスマホを手にする。なにもメッセージも着信も入っていないスマホの画面が暗くなっていくのを虚しく眺めていた。
隼大とは高校時代からの付き合いになる。高1の秋ごろ、ちょっといい感じだった同じ部活の2年生の先輩から奪われる形で付き合うようになった。
正々堂々の告白で、返事はいつでもいい。断ってくれてもいい。でも自分の気持ちを言わずにはいられなかった。と真剣な目だった。それまで、自分とは違う世界の人だと思っていた。
中学生の時点で告白された数は数える指が足りないと噂された。そんな彼のあまりの直球の告白に詠夏は、次の日には承諾していた。
その先輩とは、一緒に下校することを楽しむような生暖かい関係だったので、もめることもなくさらっと終わったはずだった。
だが、話に想像と言う装飾が付き、隼大がすでに付き合っていた先輩を脅して略奪したことになり、おかげで
詠夏は「すぐに乗り換える軽い女の子」と件の先輩を置き去りにして、主に女性の先輩たちから、にらまれるようになる。
かたき討ちと生じて女性の先輩達に焚き付けられた上級生に取り囲まれた時、隼大は、先手必勝とばかりにうしろにふんぞりかえっていたリーダー格を真っ先に仕留めて、他の上級生たちの威勢を削いで大したダメージも受けずに蹴散らした。
その剛毅さが、彼女をいじわるな先輩たちから守ったと同級生たちからは英雄視され、卒業まで人気は上昇し続けた。
他校の生徒も上級生も一目置く男ぶりだが、それでいて詠夏にはとてつもなく優しい。特別な存在だと言ってくれて、詠夏はうれしくて、周囲の白い目も気にならないくらい幸せな高校生活だった。
高校を卒業し、隼大は就職として家業を手伝うようになり、社会人となった。詠夏は短大に進学し司書の資格をとった。
(応援してくれてもいいのに)
自分は時間も可能性もまだまだいくらでもある。試験に合格して正規の職員となれば。隼大も認めてくれるだろう。
詠夏は、宣言した通り、隼大に会うことなく猛勉強を始めた。だが、想像以上に難問だらけだった。こんなの学生時代にやったっけ?詠夏は学生に戻ったように自由時間は勉強に没頭した。
路仁や真冬、飯田蒼澄までもが自分が受けた時より難しいなと言いながら教えてくれたり、いろいろ調べて試験までの学習スケジュールを作成してくれるなどサポートしてくれる。
睡眠不足で仕事中にうとうとすることもあるが、路仁やほかの司書たちが陰に日向にカバーした。
いろいろ言う者もいるが、ほとんどの人が、一番若く末っ子のような詠夏をみんなで応援している。
一次試験は6月下旬、それまであまり時間がない。初挑戦だし経験と思って受けてみようと路仁たちは言ってくれているが、詠夏は意地になっていた。一発合格したい。
あれから隼大からも連絡がない。いつもと違う。いつもなら結局は隼大が折れてくれる。
大きな手で詠夏の髪を撫でて仲直りしよう?と耳元で優しく言ってくれる。ちょっとした反抗心で思い切ったショートカットにしたときは、長い方が好きだったなと言いながら、数日後には、「詠夏にはそれが一番似合う。前よりずっといい」と誉めてくれた。最後には詠夏を受け止めて認めてくれていた。
(他に好きな人ができたのかも。素直で従順で髪が長くて一緒に夢をみて支えてくれるような)
隼大といつか結婚するつもりだった。そのために安定した仕事につきたい。隼大も同じように思っているはずだった。自分は何を意地になってこんなに勉強しているのだろう。隼大なんかに頼らない。一人でがんばってみせる。
のんびりした両親たちで、いつもは「詠夏のすることを応援するよ」と悠然と構えているが、詠夏が、家ではほとんどの時間、勉強に没頭している様子を心配し始めた
伸びた前髪をゴムでくくって、お風呂に入らない日さえもある。休日も、隼大とも友人とも出かける様子もない。かろうじて仕事には行っているようだが、ちゃんと仕事できているのか。
菓子折りを携えた父親がこっそり図書館にあらわれ路仁を手招きする。詠夏は休憩中なのか姿が見えない。
「いつもお世話になっています。詠夏の父です。あの子ご迷惑かけていませんか?仕事はできていますか?これみなさんで・・」
「こちらこそお世話になっています。わざわざ来ていただいてすみません。僕は、伊藤と申します。詠夏さん呼んできましょうか」
「あなたが・・詠夏が言っていました。“ろじん先生”って。ああ、詠夏は呼ばないでください。私たちが何か言うと怒るので・・あんな性格じゃなかったのですが。」
「すごくがんばっていますよ。勉強も忙しいみたいですが仕事に影響はないです」
半分以上嘘をついている。詠夏は無口になりいつものように路仁をいじることも冗談を言うこともなくなり、ここ数週間、参考書を眺めているか与えられた仕事を黙々とこなしている姿しか見ていない。
何かアドバイスをと話しかけても「だいじょうぶです」とそっけない。
「あと少しで一次試験ですから、それが終わったら少しはゆっくりできると思います。僕たちもできるだけサポートします」
「よろしくお願いします。それまでに倒れないといいのですが。隼大君とも連絡取っていないみたいで」
隼大というのが詠夏の彼氏の名前らしい。試験を受けることを反対していると言っていた。だれのためになんのために詠夏はがんばっているのか。
古風な価値観で詠夏をしばりつけていると路仁が言うと「彼のこと悪く言わないで」と怒っていた。詠夏は彼女の意志で隼大と付き合っている。試験を受けることも彼女の意志。
どこかすべてがうまくおさまるところはないものか。路仁は詠夏の父親を見送って、詠夏の姿を探した。もともと細い詠夏のさらに薄くなった背中が螺旋階段を上っていくのが見えた。
一次試験の数日前、ついに詠夏は熱を出した。夏風邪だろうと診断された。熱が下がらないままふらふらと試験会場に向かった。両親の制止さえも振り切っていく詠夏を路仁にはとめる術がなかった。
がんばったのだから結果がどうであれ受けてほしいという気持ちと来年があるのだから無理しなくていいのにという気持ちが半々で、どちらの考えが正しいのかどうなのか分からなかった。
結局、詠夏は試験会場にたどりついたものの、待合室で動けなくなり試験は受けられずにそのまま帰ってきた。
それから一週間、詠夏は仕事を休んだ。「過労により当分の間休養が必要」と書かれた診断書をもって父親が再び現れた。病気休暇の申請のため路仁が提出を依頼した。
「ご迷惑をおかけしてすみません・・」
父親は気の毒なくらい頭を下げ続ける。待望の一人娘、詠夏が可愛くて仕方ないのだろう。路仁ははるか昔に失われた父親の面影を見たような気がした。まったく似ていないが、父親のもつ雰囲気は共通している。
「詠夏さんはどうですか?また元気に出て来てくれるのを待っています。僕は詠夏さんには助けてもらってばかりで・・」
「あの子が?そう言ってもらえると・・。よくろじん先生の話をしていました。ろじん先生が最近素敵な彼女ができたとか」
「そんな話まで?」
路仁は頬から耳が熱くなるのを感じる。
「ろじん先生がとても男前にみえたって、笑っていました。よかったですね」
てっきり自分が橋渡し役だと自慢しているかと思ったが、それは話していないようだ。
詠夏はそういう子だ。路仁も詠夏がいきいきとしてくれることを願わずにはいられない。
「しっかり休んでください。これからのことはまた落ちついたら考えましょう。これ詠夏さんに気が向いたら読むように伝えてください。」
路仁は本を差し出した。軽い気持ちで読めるものを、と料理と旅行をテーマにしたエッセイと著名な女性の俳優の伝記だった。どれも難しいことは書かれていない。
「ありがとうございます」父親は紙のカバーがついた本を大事に受け取った。
「まだいい本があるので、用意しときます。本当はお菓子とかお花とか?がいいのかもしれないけど。」
「いえいえ、ろじん先生がうちの娘のために選んでくれたならきっといい本ですよ。詠夏を導いてくれるはずです」
自伝の方は、詠夏がその人の昔の写真をみて、「素敵・・」とため息をついていたから選んだ。今を時めく現代の女優よりよほど美しいと。
往年の名優で、女性の演じる役が、限定されていたころから活躍してきた。期待される女性像を打ち壊すように自ら作り上げてきた。
可憐な娘から始まり、男性の気持ちをもてあそびその死屍累々をふみつけて生きているカフェのマダム役、マダムは自分のために男が命をかけても一片の温情もかけない。
マダム役は彼女の代名詞になったが、その後は、夫の名誉のためにともに死を選ぶ戦時下の人妻、家族のためにならどんな強敵にも立ち向かう強いおっかさん、男社会で奮闘する会社員、没落した貴族、犯罪者、色気漂う老女、妖怪・・・どんな役でも演じられる。
役のためならどんな汚れた格好もしてみせる。変幻自在の演技力は唯一無二と言われた。
女性には多くの顔とそれぞれに人生があることを演じることで表現した。私生活は謎めいていて、伝記のようで伝記ではなく多分に創作も入っていて彼女の真実の姿を描いているとは言えない。
こうだったらいいのに、という作者の思いを嘲笑うような表紙の写真、艶やかで美しい。そしてなにかをあきらめた微笑み。病気の人にすすめるような本でないかもしれないが、万事に辛口の詠夏がはじめて「素敵」と言ったその伝説的な女性の伝記なら読んでくれるかもしれない。
彼女は大きな病気に打ち勝ち、完全に病気になる前の姿に戻ってスクリーンに復帰した。
その不屈の魂が詠夏のような迷える女性たちを導いてくれるように。
それから何回目かの日曜日の朝、路仁はいつもより早く出勤した。全国の司書が集まる大会で発表の順番がまわってきたのだ。各図書館の取り組みを発表する。
県外への出張と先進的な図書館の視察、路仁は珍しくわくわくしていた。資料を準備し、原稿を少しでも書こうと開館2時間前に、職場についた。職員専用入り口に人が座り込んでいるのを見て路仁は飛び上がった。
朝なので、自分一人だと思っていたからふいをつかれた。
「えいさん!どうしたのこんなところで・・」
「おはようございます。だって今日は出勤する日でしょう。シフト表で・・」
そんなこと言っているが、いつもは詠夏は始業ぎりぎりに駆け込んでくる。
「いやいや、えいさん。シフト表変更したよ。連絡したでしょ?それにいま病休中なんだから、帰ろう。送っていくから」
「いやです!もうだいじょうぶです!みんな腫れ物に触るみたいに・・。あんまり休んでいたらやめろって言われちゃう。代わりはいくらでもいるって・・」
「そんなことならない。僕がちゃんと病休を申請して手続したんだから。」
「私、できます。ちゃんと働けます!ろじん先生、研究発表するって他の人に聞きました。今から準備するんでしょう?私手伝えます」
「えいさん、それは元気になってからだ。」
「元気です!私なんか元気しか取り柄ないんです」
「元気じゃない。それに取り柄が元気だけなんてそんなことないよ。こんなにやせて・・お父さんもお母さんも心配しているよ。帰るよ」
痩せているがやけになって暴れる詠夏は驚くほど力が強い。
騒ぐ詠夏をなだめすかして自家用車に乗せようと格闘していると、怒りでせっぱつまった声が降ってきた。
「あんた、なにしてる。どこへ連れて行くつもりだ」
聞いたことない声だ。振り返ろうとすると顎に固いものがあたった。殴られたと気づいた時には、間髪入れずに、胸倉をつかまれた。精悍な仁王像の如き大柄な青年が、今にも絞め殺さんばかりに路仁を見下ろしていた。
喧嘩に慣れているのか路仁を殴るときに迷いがなかった。人気のない朝に、詠夏を車に押し込めて誘拐しようと思われている。
「この人を家まで送るところです。落ちついてください」
「だったらなんでそいつはそんなに騒いでいるんだ。むりやり乗せようとしてるからだろ。」
「帰らないっていうからですよ。無理にでも家に帰さないとますます体調が悪くなる」
「親切づらしやがって。あんたか、図書館の先輩ってのは。なんでこんなになるまで働かせるんだ。詠夏になんかあったらどうしてくれる。ただじゃすまさねえぞ」
青年が手を振り上げた。もう一発くるか。違うだろう、勉強のしすぎだよ。えいさん、泣いてないで何とか言ってくれよ。
路仁が情けないことを思いながら歯をくいしばり目をつぶると、体がふわりと軽くなり後ろにしりもちをついた。手がはなれたようだ。
「はいはい、お兄さん、それくらいで」
友人の蒼澄が、青年を抑え込んでいた。青年の方が強そうだが、蒼澄は飄々としている。
真冬が泣きじゃくる詠夏を抱きしめて落ちつかせていた。
(なんだ、この状況。二人ともかっこよすぎだな。痛いのは僕だけか・・)
路仁はしばらくすわったまま立ち上がれなかった。
詠夏が朝食にも降りてこないことを心配した両親が、詠夏の携帯電話から路仁と真冬に、それから隼大にも連絡し、真冬から蒼澄に、と連絡が行き、さまざまな連絡がうまくいき路仁はこれ以上なぐられなくてすんだ。
路仁はかばんに入れたままの自分の携帯電話に大量の着信が入っていたのに気付かないで、詠夏ともめていた。
「隼大君、落ちついたかな。話していい?」
隼大は小さくうなずいた。まだ殺気立っている。
詠夏は真冬が送っていき、蒼澄はしばらく一緒にいてくれることになり3人で図書館前に置かれたベンチに腰かけて、まずは一服する。といっても路仁と蒼澄はコーヒーだが。
ふてぶてしく煙草を吸う姿も絵になる青年は、自分を落ちつかせるように煙を吸い込む。
長い指に煙草を挟んだままじろりとねめつける。着ているものはシンプルだが、全体的にクラシックな伊達男風の佇まいだ。
「謝らないからな。通報するならしろよ」
開き直った口調。路仁に通報する度胸などないと見積もっている。
「うん。まあ、あの状況ではそう思われても仕方ないかな。でもいきなりはないと思うけど。えいさんもそうやって押さえつけているのか?誰も無理に働かせたりしていない。えいさんはがんばりすぎだ。君がえいさんに力づくで言うことを聞かせるつもりなら通報する」
盛大な舌打ちが聞こえた。鋭い視線が矢となって突き刺さりそうだ。
「俺があいつに暴力なんかふるうはずないだろ。言葉に気をつけろ」
愛想は必要ない仕事をしているのか、まだ若いのに恐ろしい迫力だ。
「それは失礼。でもえいさんは本当に自分を追い込んでがんばっていた。それなのに直前で熱を出して試験を受けられなくて・・悔しかっただろう。君、彼氏なのに連絡取っていなかったんだって?どうしてえいさんがこんなになっているか分かっているのか?分かっていてえいさんのがんばりを否定するのか?」
「そんなの分かってる。」
「分かってないね。百歩譲って試験勉強中はともかく、体調崩した後も連絡しないってどういうことだ?えいさんのこと大切じゃないのか?彼女が壊れてもいいのか?一番大好きな恋人に放っておかれる気持ちを考えたことがあるのか。」
「黙れ!」
隼大が立ち上がった。熊が立ち上がったみたいだ。路仁は座ったまま挑発するように見上げる。同じ土俵にたってやるものか。蒼澄も腕組みして立つ様子はない。
「さっきみたいに殴るなら殴れ。僕が君のことを批判した時、えいさんは“彼を悪く言わないで”って言っていたよ。君にべたぼれだ。そして彼女は自立したい。それは好きとは両立しないのかな。えいさんはすごく努力していたよ」
隼大の目力が少し弱まった。糸が切れたようにまた座り、新しい煙草を取り出す。煙より水分を取った方がいいかもしれない。うるおいのないささくれた指先だった。働き者の手をしている。
「詠夏に一目ぼれだった。めちゃくちゃ可愛かった。まわりの奴らが一気にぼやけた」
急になれそめの話に切り替わる。路仁はついていこうと必死だ。蒼澄と目を合わせる。少ししゃべれば落ちつくさ、と蒼澄が口だけ動かす。
何を言いたいのか分からないがうなずくしかできない。自分はそのぼやけたその他大勢だ。恋に夢中な者がぼやけている側の気持ちなど分かる由もないだろう。
それがたぶん恋におちるということだ。いかに詠夏が大切かを語りたいのだと路仁は思う。
「あいつのためなら自分が悪者になって、元カレから奪ったとか言われても構わなかった。そんなにまでして付き合った子をほったらかしになんかするか」
「君がえいさんのこと好きなのはわかった。でも今現にえいさんは悲しみの底だ。全部言い訳だ。そんなにまでして付き合うくらい好きだったけど、今はどうなのか。それを伝えないと、恋って生鮮食品なんだから」
利いた風な口をたたくなともう一発拳が飛んでくるかもと路仁は身構えた。
恋は生鮮食品、なんだそれ、誰の言葉なんだか。自分の口から出たのが信じられない。
蒼澄の咳ばらいにごまかして、ふきだす音が聞こえる。
「そうだ。全部言い訳だ。体調崩したって聞いて、今までのこと謝りたかった。そしたら詠夏の親から連絡があって、探していたら・・」
そこで路仁と詠夏を見たと話がつながる。出会いから交際までの経緯を聞かされなぜあれほど激高したのかということに無事着地した。
「俺があいつの人生を閉ざしかけたのは今回が初めてじゃない。高校の時、妊娠したって言われた」
路仁は一口飲んだコーヒーが思いのほか熱くて吐き出しそうになるような、あるいは許容量以上のコーヒーを注ぎこまれておぼれそうになったような、情報の多さに相槌を打つことさえ忘れて固まった。
「結局、生理が遅れていただけで、妊娠はしていなかった。あいつはいつもどおりだった。別れようなんて言わなかった。妊娠していなくてほっとしている自分がいやだった。生理が来るまでの間、どんなに不安だったかと思ったらたまらなくて、一生こいつを守っていこうと思った。もし本当にできていたらあいつの人生終わったなって。俺の母親も10代で俺を妊娠して進学をあきらめた。今は幸せそうだけど俺がいたばかりにいろいろあきらめて・・」
路仁の頭が動き出した。この男は自分に酔っているんだ。
殴られた人の気も知らないで陶酔している。いまいましい。
「おい。ちょっと自分語りをやめろ。それから煙草をしまえ。」
路仁の声音が変わったことに気づいたのか、隼大は素直に従った。
「さっきから何に酔っているんだ。君の言い訳なんてもう聞きたくない。僕は今日仕事をしに来ただけだぞ。ぐだぐだ御託を並べている暇があったらさっさと彼女のところへ行け。そして誠心誠意謝れ。それからお母さんの気持ちも聞いてもいないのに、お母さんの決断を否定するな。自分をも否定することになる。お母さんが産んでくれなかったら恋人に会えなかったんだ。男には分からない、どんな母親だって妊娠したら、怖くて不安な時があるはずだ。それを乗り越えて産んでくれる。人の人生を自分がどうこうなんて傲慢だ。冗談でもそんなことを言うな」
隼大は知らないが、普段の路仁を知っている人が聞いたら、驚愕するであろう厳しい話し方だった。
隼大はすっかり肩を落としている。一言も言えず路仁の次の言葉を待つしかない。
母親の気持ちなんて想像だ。母親の数だけ思いや物語がある。今まで読んだ本の中で様々な母親に出会ったが、一生かかっても母親の本当の気持ちなど分かるはずもない。だから隼大に言うのも説得力があるかは自信がない。隼大の親子関係など知らないのだから。
「分かった。仕事の邪魔をした。それから殴ったこと悪かった。」
謝らないと豪語したが、あっさりと謝罪した。23歳の若者だ。まだ大人になる途中、働いでいるからといって大人かと問われたら、今の若者は実年齢に7かけが精神年齢と言われる。だとしたら今の隼大は16歳、詠夏に会った時の年齢だ。一目ぼれした彼女のために懸命だったころの隼大も今のような感じだったのだろうか。
自分の勘違いや詠夏との思い出を話してしまったことが急に恥ずかしくなったようだ。
居心地悪そうにたばこを携帯灰皿に押し込もうとしている。やはり男前だ。若者らしくきれいに手入れされた眉毛がさわやかだ。
気がつけば、始業開始20分前。他の人はもう出勤している。こんな場所で強面の男前と、市役所随一の二枚目と話し込む冴えない自分が、脅されているように見えるかもしれない。路仁はあわてて立ち上がる。
「とにかくよく話し合って。初めて会った時のこと思い出して。蒼澄、あと頼んだ、今日は朝からありがとう。あとで何かお礼するから」
「そうする」、と隼大はまっすぐに路仁をみて答えた。
まかせとけ、早く行け、と蒼澄は、また口だけ動かして答えた。
路仁は痛む顎をさすりながら入り口にかけこんだ。いつも以上にくしゃくしゃの髪、乱れた服装に、同僚たちはまさかここに泊ったのかといぶかしんだ。
詠夏は無事復帰した。医者に太鼓判を押された。快気内祝いを配って回っている。折れそうに細い体だが、顔色はよく精神的にも落ちついている。
真冬がくれたという猫柄のエプロンを着て館内の清掃、古い雑誌や新聞の整理、本の修繕、ほこり拭き、と忙しそうにしている。
「本、読んだ?」
読んでいることは期待していなかったが、やはり読んでいなかった。
「まだエネルギーがなくて。でもありがとうございます。私が気になっている人の本だって覚えてくれていたんですね」
復帰してから、詠夏が、以前より素直なのが少し物足りなかったりする。
「あと、今ごろになって、ごめんなさい。隼大が誤解して。痛かったですよね」
隼大の思い、どんなことを話したか、どこまで聞いているか分からなかったので路仁は、痛くないよ、と黙って首を横に振った。
「隼大が、ろじん先生、いい男だって言っていました。ああいうやつが怒ると一番怖いんだって。一緒に働いているのが妬けるって言ってました」
「あんな男前に言われるとはね。心配しなくたってだいじょうぶだよ、ね、えいさん」
「どうでしょう・・私も見たかったなあ。そのときのろじん先生」
詠夏の上目遣い、これに隼大はめろめろなのだろう。路仁の焦った顔に、詠夏は満足そうに、にやりとする。
「調子にのらないでくださいね。真冬さんに言いつけますよ」
路仁はいつもの詠夏が戻ってきたとうれしくなる。
「そういえば、快気内祝いありがとう。でもちょっと多すぎるよ」
20,000円分の図書カードと商品券、どうみてももらいすぎだと気になっている。
「いいんですよ。私と両親と隼大からの気持ちです。受け取ってください。デート代に充ててください。ろじん先生が今度の研究発表で資料買いすぎてスカンピンなの知ってます」
素寒貧・・・なぜこの今時女子は悪口だけ古典的なのか。いつもの詠夏がパワーアップしている。
「私、またチャレンジします。このままじゃ終われないです。隼大も今度は応援するって」
「そうか。えいさん、がんばろうね。」
「はあーい」
今度の返事は素直だった。詠夏が元気に螺旋階段を上っていく。
来る夏、暑さは殊更に生きていることを実感させる。もくもくした雲が、目にしみる青空に映えて、風にまかせて今日はどんな形になろうかと話し合っているようだった。
(そう、きっとどんなふうにでも君は変われるんだよ。)
階段下まで詠夏の元気な声が響いてくる。詠夏は、時々おしゃべりが過ぎて、叱られる。しかし、今はその天真爛漫さがうれしい。詠夏は、青空とはりあうくらい存在感のある白い夏雲のようでなくては。
路仁は、詠夏を追って、螺旋階段を上り始めた。
本の虫と夏雲