「小さな背」、自分を背負いあやし、育て、泣きやませ。しかし、私は礼も言えず涙する

「小さな背」、自分を背負いあやし、育て、泣きやませ。しかし、私は礼も言えず涙する

父の死後、最後の恩人であった母の面影と、その生涯を大きく左右する事となった不治の病が進行していった経緯を、今、記述する。

 偉大なる母。そして母を奪う事となった認知症。



 よもや・・認知症とは思えなかった時期・・殆どの人類は気が付かない・・しかし、病は間違いなく母の脳を蝕(むしば)んでいった・・。
 脳には記憶を司(つかさど)る「海馬」という部位があり、その神経細胞が次第に壊死(えし=死滅していく)していく症状であり、人類医学上、そのメカニズムや治療法につき、ほぼ解明には程遠い魔の病のことを俗に「認知症」と呼ぶ。
 

 母は六十(還暦・かんれき)を超えても山登りやダンス・ビリヤードなど好きな事を何でもやっていた。とても元気で、デパートで物を買うのが大好きだったり・・生涯の伴侶の筈であった夫は・・既に約十五年前に・・不慮の事故で死亡。
 その心中(しんちゅう)に想いとして残っているであろう「数々の記憶・寂しさその他」は兎も角も、残された余生を、子である私と私の子である孫・男子の為に惜しげもなく費やした末・・息を引き取った。
 決して、大往生でも何でもない・・ただ一つの生命が、静かに消えていくまでの出来事である
 

 私は、妻との話し合いの末、妻の希望を優先し離婚をした。
 まだ小学校6年生だった息子は私の元へ・・その姉であった娘は母に連れ添い家を去って行った。
 これについての記述は「親子雲Series」として、別に記す事とする。


 息子と二人暮らし・・とは言っても私は仕事で忙しいのだから・・口に出すまでもなく・・母は、私の実家がある静岡市から・・幾度となく、連絡をした上で、或いは予期もせずにいきなりやって来てくれる事が・・頻繁にあった。
 母は、私が、「息子が風をひいた」と電話をすれば、翌日朝一番の特急でやって来てくれた。何でも「・・新幹線がまだ始発が無い時間だったから、丁度その時間に到着をした東海道線特急の車掌に交渉をした末、幸い、乗せて貰えたと言っていた。
 運動会であろうと何の行事だろうと、息子・孫が出るとなると必ず来ていた。
 離れていった娘もそう遠くはないところにあるアパートで母親と同居をしていたから、母と娘が顔を合わすことがあったし・・十五年前の父の最後の際には、母の手助けをしてくれた・・ということもあったようで、母はよくその時の娘に感謝をしたと話すことも少なくなかったのだが・・それから十五年の月日は・・二人の状況を変えていった。


 その頃の母は、年齢相応のさして病などの話も聞かれぬ、ごく普通の健康な老人と言って良かろう。
 そして・・。
 或る日、私が仕事から帰ってきた際、表の階段のドアの近くにかがみ込んでいる年寄りに気が付いた。
 近付いて顔を窺えば・・母・・だった。
「・・どうしてこんな寒い所で・・?合鍵を持っているでしょ?中に入っていれば良かったのに・・」
 合鍵は持っているし、ドアポストの内側には予備の鍵が磁石式に貼り付けられているのに、気が付かなかった・・?
 母は、「・・鍵が見つからなくて・・」と言って私と共に部屋に。
 この当時は、言動は全く正常だったのだが、ずっと後の事・・病が悪化した後の息子に言わせれば・・「・・此の時には気が付かなかったけれど・・ひょっとしたら・・既に症状が出始めていたのでは・・」と。
 そう言われても、その時期にはまさか認知症と言う名すら浮かばなく、その類の話も一般的にはあまり聞かれない・・当時の事・・。
 母の体の様子も会話にも、何も・・今までと特段の変わりがあるなどとは・・とても思えなかった。
 それから、約四~五年後、此の話は進んでいく。




 (1)息子も先の事を予測し・・静岡市に来やすいようにと、小田原寄りにある小田急線駅にある大学に通学させ、ちょくちょく、二人して静岡の家を訪問していた。
 母の様子がおかしくなったのは5年位前だったか。(今からは八~九年前?)
 
 介護のお世話になった、そもそも、家の住所を管轄していた「包括支援センターの40代くらいの女性のケアマネージャー」に何かと言えば相談をしては、家までヘルパーさんに来てもらっていた。(週に2回くらいだったか。)
 この当時は私は都内で働き・・住んでいたので、仕事を中途でやめ、こちらに引越しをせざるを得なくなり・・その、4年位前の・・途中から母を面倒を見るようになった。
 当時・・家の中の造作・・階段から風呂場・トイレ・廊下に至るまで・・あらゆるところに「手すり」を付けてもらっていたようで、こちらに来てから気が付いたのだが・・。
  その当時の・・母の詳細に亘るまでの記憶は・・定かでは無い・・。というのも、朝から晩まで付き添っている必要も無ければそのような状況では無かったからである。
 ただ・・時々・・「記憶が薄れたり・・偶に、おかしなことを言う」ようになっていた。
 時には、排便が間に合わなかったりすることもあったが、(家のトイレは1階で寝る所は2階なので、寝ていて用を足すとなると・・急な階段を降りるのに手間が掛かってしまうし・・買い物中も同じようなもの・・。
 外食をと・・家族一緒に車で出かける事もあったが、特に支障は無かったような気がする。
 近所には、母の高等女学校当時の友人がいたりし、互いに時々遊びがてら行ききし、近所の隣人達とも普通に話しをしたり・・「これが正に病だ」というような様子を・・増してや他人であれば・・それほど関心も無かろうと・・容態の変化に気が付く隣人は・・ほぼ・・ところが・・後になってから聞いた話では・・ごく親しく、頻繁に付き合っていた・・向かえのお宅の母より十歳ほど下の女性と・・斜め前の少し離れていて、私も子供の頃にはそこのお嬢さんと一緒に遊んでいたお宅の・・三つほど年上の女性には・・。
 時に・・日常生活上程度での変わった言動に気が付いていたようだった。
 具体的には・・このようなことになる・・。
 小山さんと母が、近所のパン屋さんに買い物に行く。
「・・私は二つくらいしか買わないけれど・・お母さんはビニール袋に幾つものパンが入っている・・その袋ごと、ぽんと買ったのよね・・食べきれるわけないのに・・と思ったんだけれどねえ・・やめな・・とも言えないわね・・」
 迎えの朝比奈さんの奥さんは・・当然ながら小山さんとも近所同士で皆ご近所付き合い・・。
 母がいなかった時の事だった・・此れは、既に最初の施設である「徳洲会系列の老健」に入所をしたばかりの当時だったのか・・その前の頃の事だったのか・・?記憶は定かではないが・私が風呂に入った後、気軽な服装で迎えの家の玄関で奥さんと会話中の内容である・・。
「・・お母さんと一緒に、すみや(昔から静岡では有名な楽器屋だった。)に行こうというから付き合ったんだけれど・・。電子鍵盤の小さなものを大して時間もかけずに、すぐ購入したのね・・ところが・・その理由は、【・・息子に、既に一台あるからいらないよ・・と怒られるから・・でも、別に欲しいと思い・・だから、家に置くと息子に見つかるから・・小山さんの家に置かして貰う約束なの・・】・・少しおかしい・・と思ったし・・小山さんお家に置くというのも変よね・・?・・で、結局・・私の判断で・・楽器はお返ししますから・・この人ちょっとこういうところがある人なんです・・と言えば、店はすぐに了承をしてくれたんだけれど・・(これは、法的にも契約は成立をしない事になる。判断能力の欠如など。)」。
 それはお手数をおかけし申し訳ありませんでした、と奥さんには話すが・・頭の回転は悪くはない・・詐術迄使用し、保管場所の手配の了解迄の交渉能力もある。
 (此処でわき道に逸れるが、Series中今回だけ・・諸君は「USAのバイデン氏の言動と結びつけることは出来ないだろうが・・私には、すぐに全てが理解できた」。しかし、これは、別のタイトルで記すことにする。人類史より私にとっては「母の記憶の方が大事であるから」。
 
 


 それから時間の経過と共に症状が進み始めた。
 自宅から、グループホームに通いだしたが母は教員だったので子供と同様の事を行うようなホームにはなじめなかった。
 最も私が大変だったのは「下の世話だった」ので・・此れを慣れているスタッフにやって貰えるというつもりで「老健」という徳洲会系列の施設に入所をして貰った。(開所して一年だったのでとても綺麗だったが、徳洲会の医師からアリセプトの使用を禁止させられた事で、極端に認知症の進行が進んだのは事実である。)
 この時には、今までのケアマネージャーの手は離れ「施設には必ずケアマネージャーがいるし、介護士だけでなく看護師=看護婦~もいる」。



(2)
 初めて行った日赤・総合病院では、私も認知症と言う言葉すら知らなかったのだが、
医者の話を聞くうちに薄ら寒くなってきた。
 認知症は現在の医学では実態がつかめておらず、治療方法も無いに等しい
とのこと。
 従い・・病院には入院不可能である。
 これが・・実質的には「病院の医師が直接大量の認知症患者を診る事がない事で・・医学上認知症の臨床実験・医学上の分析・研究・治療方法・薬の開発・等が著しく遅れてしまった事に多いに繋がっている」。
 アリセプトという薬をもらったが、初期に使用する薬で、進行を遅らせるだけ、
 治すことなどは無理であるとのこと。
 ただ・・此れは医学の研究が全く進んでいない事に起因することであり、廉価なアリセプトが「全く効果がなく、認知症の進行を遅らせる事には効果がないと言い切るには早過ぎた・・ということに気が付いた・・此れは・・認知症患者を多数見て来、薬の効能をつぶさに観察した結果である」。
 アルツハイマー型認知症という病名も始めて聞いた名前だった。
 これは、CT 等で見ると脳が萎縮しており、海馬という脳の一部が真っ黒に
なっている~細胞が死滅していると言うこと。(これが・・更に拡がっていく事である。)
 私には、母がそんなことになっており、現代医学では対処の仕様が無いという
ことが、どうしても納得がいかず、別の専門の個人病院に連れて行くことにし
た。
(3)
 総合病院も大きいところだから医者の言うことは正しいのだろうが・・・。
 病院も1箇所だけであきらめるのでは辛い・・・。
 総合病院は、アリセプトを処方のためにのみ・・そのまま通院を続けることにして、専門と言われる個人病院に連
れて行った。
 専門の医者なら何か違うことが聞けるかも・・と。
 絵を見せて、その後話をし、10分後位前に見た絵を幾つ覚えているかの
ようなテストは何処でもやると思う。
 テストの結果はともかく、話の内容は総合病院のものと変わらず、この病院で
もどうしようもないとの事であった。
 医者は、「私よりもっとある病気に詳しい人がいる」と言う。
 そして、認知症については県下で3本の指に入るという名医がいる病院を紹介
してもらった。
 そんな時、テレビを見ていたら、NHKで認知症を取り上げた番組があり、その
中で、認知症にとって画期的かもしれない治療法のようなものを取り上げ、
「認知症の未来は明るい」がタイトルで、これを強調した、今考えれば、出鱈目の版気味だった。
 これを、「受信料迄徴求する公共放送」でやられれば・・。
 認知症の将来は明るいか?のような印象を誰もが受けるだろう・・ところが・・現実は・・。
 

 何でもいいから、この病気をなんとかできないかという気持ちで訪れた病院で、名医という方の話を聞く。
 他の病院と同じようなテストをやり、医師が開口一番・・内容は「この病気を治すという事はできない、図を書きながらの説明・・では、あるところまではゆっくり進行するが、いつか急降下のように悪化する」と言う。
 「アルツハイマー型に間違い無い」
 「NHKの番組で将来は明るいと言ってましたが・・と番組の内容を簡単に説明し、何かを期待しながら言うと。
「NHKの?誰が?そんなこと言ってたの?何ていう人?・・ 明るくない、明るくないよ」・・終いには・・極めて険(けわ=怒る)しい表情に代え終わる・・。
 前の2つの病院で聞いた話と大差・・どころか・・失望のどん底に突き落とされたような気が・・。
 「やはり、現代医学ではどうしようもないんだ」
 「・・そんなことに・・まさか、母がなるとは・・・」
 7年位前、最初の総合病院で胃癌の手術をし、胃を三分の二切り取っても元気
に過ごしていた母が。
 「此れからどうなるのか?」
 もう病院~医者は何箇所回っても一緒だ・・。
 悪い方向に・・決定的な結論が出た。



 (4)
 母は、総合病院に定期的に通ってアリセプトという薬を貰って呑んでいた。
 台所に、飲み忘れないように、ホームセンターで買った朝・昼・夕のポケットが付いた薬入れを吊り下げていたが、それでもたまに呑み忘れる事があった。
 薬の効果はどの程度なのか、本当に効いているのか。
 後に考えてみれば、この当時はまだ良かった。
 一人で買い物も外食もできたし、女学校の友達のところに遊びに行ったり、
家族で車で遊びに出かけることもできた、食事も不自由無く何でも好きな物を
食べ、家族に手料理も作ってくれた。
 家に一緒に住むことができて、とても楽しかった。
 ヘルパーさんも定期的に来ていて、家の中の日常の用事をやってくれていた。
 施設を利用しなくても良い時期であった。
 しかし、症状は進んでいた。
「車で出かけた時など・・3人しか乗っていないのに、あれ?もう一人は?何処に行っちゃったの?」
 などと人数がわからない。
 私のことも、たまにだが
「この人本当に・・ちゃん?」
 自分の子供がわからない。
 私が、母が買った来てくれた達磨(開運のだるま)を踏みつけてしまった事があった。
 それも・・だるまごときで母の病が直せるのか・・?という・・腹が立ったので・・母には、今さらだが・・大変悪い事をした・・という気持ちが・・未だに、思い出せば・・自らにがっかりをする・・。
 
 あろうことか・・母は、いいなり表に出て行き・・近所の人を呼んで来・・
「・・この人誰かしら?こんなことするなんて・・酷い人・・うちの子じゃない・・」
 と、近所の人に私を確認させる。
 近所のおじさんは
「・・ちゃんじゃない、小さい頃から見ているんだから間違うわけない。しかし・・母には・・
「・・わからないの?」とは言えなかったようだった。
 また、私が風邪をひき、三十九度以上熱を出した事が有った。
 二階の部屋で、熱で顔を真っ赤にして寝ていた私のところに、母が近所の人を連れて
階段を上がってくる音が・・。
 近所の・・今度はおばさん・・を連れて来
「・・この人誰?知らない人が上がり込んで・・こんなところに寝ちゃっているけれど」
 近隣の者は・・認知症そのものが分かっていないので・・
「・・ああ、真っ赤な顔して熱が有るんだって?薄暗い部屋の中に寝ている私の顔・・一目瞭然・・自分の顔を近づけたって
「・・ちゃんじゃん、病院行かなくて大丈夫か?間違いないよ・・熱・・?」
 普通の人類であれば・・認知症ではなく・・風邪の具合を気にするのは当然・・マスクが幅を利かせる・・医学絶望の日本に於いては・・。
 このように、私の顔さえも・・たまにわからなくなってしまう。


 嬉しいような悲しいような事が有った。

 前は、私がお酒を飲むと、「飲み過ぎないように」とか、「毎日飲まないように」とか
兎に角・・うるさく言っていた母。
 ある日、突然瓶ビールを6本も酒屋に届けさせた・・。
 今時ビールは缶しか売っていないのに、酒屋に瓶ビールを私の為に配達
させたのだろう。
 酒屋には、事情を話し・・帰って貰ったが・・。


 ビールは大好きだった・・
 嬉しかった・・
 しかし・・これほど悲しいことも無い・・

 私の事をそんなになっても・・まだ・・気にしていてくれた・・。
 
 そのうちわかってくるのだが、認知症の患者の症状の中には、過去のことを中間を飛
ばして覚えているというのが有る。(これは、また後述するが。子供の頃のことなど・・亡くなった筈の自らの母や父が登場する事もある・・。)
 それにしても・・ビールを想い出し・・買って・・。


 涙が・・次から次へと・・絶望よりは・・母を・・何とかできないのか・・?
 自らが散々お世話になった両親・・残ったのは母・・どれほど世話をかけたのか・・。
「・・俺はどうでも良いが・・せめて・・残った母・・どうにか・・」


 Series第一話から第三話迄を載せたが・・此れからは・・その続きをと考えている・・結末は・・。

「小さな背」、自分を背負いあやし、育て、泣きやませ。しかし、私は礼も言えず涙する

両親は・・偉大な・・恩人である。それを忘れさる術(すべ)も無きまま。
自らが朽ち果てる(くちはてる)間際(まぎわ)・・生きる・・という・・本当の意味・・を・・知る事が出来る・・のかも知れない・・。

「小さな背」、自分を背負いあやし、育て、泣きやませ。しかし、私は礼も言えず涙する

人類にはどんな医師であろうと手におえない病、それは、数知れない程多く存在する。 その中でも「最愛の父」に続き失った「最愛の母」に付き、認知症の進行の状況を交えながら、Seriesものとして記すことにする。 両親は・・偉大な・・恩人である。それを忘れさる術(すべ)も無きまま。 自らが朽ち果てる(くちはてる)間際(まぎわ)・・生きる・・という・・本当の意味・・を・・知る事が出来る・・のかも知れない・・。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-10-19

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