映画『見はらし世代』レビュー
長女と長男の姉弟がいる四人家族の崩壊と再生の兆しを描く作品。
ストーリーは①仕事に逃げて家庭を顧みない父親と、いわゆる専業主婦として家庭に入った(のであろう)母親との間に存在していた確執が決定的になる出来事が冒頭に描かれ、②そこから十年後、世界的に有名になった父親とその父親に実質的に捨てられた姉と弟の人生が再び交わり、瓦礫の山と化したも同然の「家族」の行方を追う二部構成。
機能性に特化して作られる都市ないしは部屋に認められる合理性やデザイン性を美に優れた風景ショットとして映す一方、生活が営まれる「場所」としての息づかいを人と人との関わりの中で捉え、都市計画といった社会の大きな動き又は人生における選択などで生まれる影響や波紋を等価に映像化。その上で①二項対立して見えるそれらをもって「渋谷の宮下パークを手掛けた建築家」として成功を収めた父親の公私に内在する矛盾とし、②都合よく生きる姉の強かさと③そうしない弟の間で伸び縮みする過去と未来、その狭間にある無明の時間を掬い取ろうとする。
鑑賞中、映画として作る画面と偶然に映り込んでも構わない記録映像の部分が妙にピッタリとマッチしていると感じることが多く、実験的な試みをしているようでしていない、いやしているのか。どっちだ?みたいな意識の混線が起きるも、なんとなくのテンポ感が掴めると一気に前のめりに。
終盤、家族史の始まりというべき当事者にまで遡行するきっかけとなる論理の飛躍、スイッチの切り替え方にはシンプルに驚くも、決して物語が破綻しないのは、地母神のように何でもかんでも「映画」になってしまう映画という表現ジャンルの構造を本作が熟知し、かつ信じているからだと理解する次第。
高野蓮を演じられた黒崎煌代さんの声の響きがむちゃくちゃ良くて、『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』の山根くんとの時とはまるで違う硬派な雰囲気がまた姉の恵美を演じる木竜麻生さんの、柔らかく膨らんでいるのに中身が何なのかがさっぱり分からない紙袋みたいなあり方と相まって、姉弟揃って負った傷を間接的に語るあたり、人物造形も見事。
菊池亜希子さん演じる佐倉マキが迎える結末も物語の成立に重要な寄与を果てしていて、家族という総体=都市にまで象徴化させる視点には唸るばかり。どこまでも情けない父親の愛おしさを、観客の胸にど直球で投げ込んでくる遠藤憲一さんも絶賛に値する。前へ進もう、と口にする度に靴の裏で踏ん付けてしまう砂利の感触こそ『見はらし世代』の面白さだなぁと思い、収まらない興奮で観終わってからずっと鼻息が荒いままです。
カンヌ国際映画祭〈監督週間〉に参加されたという事を踏まえて『見はらし世代』の何が新しいか?と誰かに問われれば、本作は映画になってる全部「で」新しいと私は答えます。分析的視点で作品を解体するのも大事だけれど、その指で摘んだ部品の価値は動いている先でしか知れない。スクリーンの先で生きる世界に覚える質感でこそ本作は語るに値する。私はそう考えます。興味がある方は是非。お勧めです。
映画『見はらし世代』レビュー