キャサリン
先日、海外のドキュメンタリー番組を観るとはなしに観ていたら、原稿用紙に目を落としていた私の耳に、キャサリンという名前が聴こえて来た。どんなにか若くて金髪のアメリカンガールかと思って視線をテレビに移すと、そこには人生の黄昏時を迎えた酸いも甘いも知り尽くした、かつてモテていただろうキャサリンがいた。
全世界で人名というものは存在するが、これだけキャッチーでポピュラーな名前は、やはり世界にも山程存在しているのだと感じた瞬間だった。キャサリンは日本で言うところの、女だったら花子や和子や良子、男だったら一郎や二郎や三郎といったところだろう。
年を取っても、外国人ならまだローマ字でキャサリンはキャサリン以外に呼び方がないから、大体の人がどこのキャサリンかということまでは分からないにしても、キャサリンという名前は誰が見ても読めるのだが、これが日本人だとそうはいかない。
和子でさえ、かずこ、わこ、良子であってもりょうこ、よしこ、ながこといった具合に、読もうと思えば幾通りにも読めるのである。
実際に和子と書いてかずこと読む人もいるだろうし、良子と書いてりょうこと読む人もいるだろう。これでは本人に確かめなければ正解が分からない。
それだけ日本語というものは単純ではなく、自分の身近にいる人の名前が「かずこ」なら、その人にとって「和子」は「かずこ」という認識であり、本当は「わこ」であっても、決して「わこ」と読むことはないのである。
不幸にも、殺人事件に巻き込まれたり、飛行機事故に遭遇した時に自分の名前が難解なものであったら、身元の確認にもニュースの報道でも手こずるのではないかと、そんな心配が頭を過ったりするのである。名前負けという言葉もあるが、どんな負け方かは別として、あんな妙な名前を付けたから早く死んでしまったんだという人もいたりするが、それはあながち嘘ではないのかもしれないと思う時がある。
ニュースを観ていると、毎日毎日ひっきりなしに耳を塞ぎたくなるような、そんな事件や事故が報道される。テレビに写し出された被害者の名前をパッと見ると、どう読んだらそんな風に読めるのかと、一晩寝ずに考えても読めない名前の人がいる。近年、特にそういった名前は子供の犠牲者に多いような気がする。もし、この人やその子が和子や良子、一郎や次郎だったらこんなことにはならなかったのではないかと、私は人の不幸を目にしているのに、その人の名前にばかり目が行ってしまうのである。 昔から和子や良子、一郎や次郎なんて名前は存在するから、そうとも限らないと言われればそれまでだが、もしもの時を考えたら、やはり名前は単純明快な方が良い。
「名は体を表す」という言葉も日本には存在するが、名前と人格。これはやはり、どこか表裏一体なのかと思わざるを得ない時がある。
名前という物程、大切で、そして厄介なものはない。
そんな私も、インスタグラムの名前がdaisukentagramだったからdaisukeさんと皆さんには呼ばれていたが、物を書くのにdaisukeでは収まりが悪いからと、daisukentagramのgramを取って、daisukenta(大須健太)で書く作業を始めてしまった。他にもっと気の利いた名前があったのではないかと、ちょっぴり愛着が湧き一部の人々に浸透しつつあるこの名前に頭を傾げながらも、ちょっとした賞も受賞したことだし、今さらもう引き返せないと観念している。
キャサリン
2025年10月8日 「note」掲載