『感想まとめ。』
ヒーローを待っていても世界は変わらない 湯浅 誠
社会活動家の湯浅誠さんの本を読んだ。
図書館で借りて何度も読んでいる本。
わたしは悩んでいるときに自分自身に立ち還るヒントにするために再読することが多い。(本当は手元に一冊置いておきたいと思っている。)
本書は国と民間、大阪と東京、ヒーロー待望論と現実社会に山積した課題などを繋ぐ架け橋になるような内容だとわたしは読むたび感じている。
本書が書かれた年代は2010年代くらいだけれどわたしは現代社会、現代のわたしたちの生活にも通用するところがたくさんあると思う。
限られた資源のなか、さまざまな立場の人びとの必死のニーズの調整を着実にして目的に進まなければならない現実は、現代社会でも変わらないからだ。
湯浅誠さんの視点はご自身の実感を伴うご経験から社会を、そこに住む人びとの生活を俯瞰されていてその俯瞰的な視野は広く、かといって地に足がついていないわけではなくて、自分はこの社会へ目の前のひとへ今何ができるのかを地道に考え続けている力強さがある。
わたしは文章からそのようなエネルギーが感じられるから、悩んだときについ手にとってしまうのかもしれない。
日本社会にはびこる得体のしれない閉塞感のようなものは、わたしたちが誰かの責任にして、または誰かがわたしたちの代わりに簡単に打破できるようなものではそもそもなく、わたしたちが引き受けるべきものを引き受けようとすらしていないその態度から生じているものの可能性があるのかなとも、わたしは本書を読んで感じた。
本書を読み個人的に特に良いなと感じられたことは、既得権益や自己責任論など社会でよく使われているパッケージというかラベリングというか、そういった論法をそのまま鵜呑みにせず、きちんと自分の頭でその反証を考えてみる視野を持てることも本書を読んでわたしが良いなと思うこと。
なぜ、どういった場合に人びとは既得権益や自己責任論という言葉を使うのか本書を読むと流れがわかりやすい。
以前読んだ、平等について、いま話したいことというマイケル・サンデル、トマ・ピケティの書籍も本書に通じるところがあると感じる。
つまり世界にはわたしが知らないだけで課題をより良い方向へ変えようと地道に地を這うように活動している人びとはそこかしこにいて、その人びとを繋ぐような、架け橋になるような本がこの湯浅誠さんのヒーローを待っていても世界は変わらないだとわたしは思う。
こころの時代 選 医師と禅僧 生と死をめぐる対話
ガンで大切なひとを亡くされた医師と禅僧の対話が収録された番組を視聴した。
おふたりともやさしい言葉で深い手触りの内容を話されていた。
禅僧のお話のなかであらゆる人びとに、あらゆるものに観音さまが姿かたちを変えて現世にあらわれている、また亡くなったひとが見守ってくれるという日本らしい想いに観音さまが遣わし見守ってくださるといった考え方もあると紹介されていた。
わたしはその考え方に何度も頷きつつ、亡くなったひとが自分を見守ってくれるという考え方はそれが正しいか間違っているのかといった類の判断よりも、自分自身が楽に長く生きることができる自然な想いをそのときどきで選択していくことが好ましいと個人的には感じた。
自分自身よりも先に亡くなったという事実に、喪失の現実に、人間は亡くなったそのひとへの想いの数だけ、自分自身なりの感情に暮れるのだと思う。
自責他責、罪悪感、疑念や恨み、ほっとした感じ、悲嘆、どんな感情に暮れても、それは自分自身とそのひとへの想いの数がたくさんあるのだとわたしは感じる。
それは、その亡くなった人と自分自身の生きた関係性がナマモノとして世界に確かに存在したからこそ表出する感情なのだと思う。
自分自身と亡くなったそのひとへの関係性の視点には、善悪よりも正誤よりも、ひとりの人間が世界に存在したということは(また世界から喪失したということは)どういったことなのかという光と闇が垣間見えるような気がする。
光と闇のその先に自分自身の生きようとする想いがもたげてきたなら、それは亡くなったひとが答えてくれたのではないかとわたしは感じるのだ。
その無言の答えを聴き取ることは遺された生者の役目のような気もする。
個人的には禅僧の、首から下も大切というお話も好きだった。
脳で言葉で見えるもので考えてゆく生き方もあると思うけれど、たまには呼吸や摂取と排泄、今ここに在るものたちに思いを馳せることも、自分は人間だということを思い出させる行為だとわたしは思う。
坐禅は死ぬ練習をしているとも禅僧は言っていた。
手放すと満ちる。
今在るものたちに気がつき、認める。
誰でもできることではないとわたしは感じるけれど、ゆだねると考えてみる。
たんに諦めるというわけではなくただ投げ捨てるといわけでもない。
ゆだねるとはたぶん、流れにさした棹に力が入った指をほどき棹を流れに任せ、流れを見届け浮き沈みする棹の行く末を案じながらも信頼するこころに近い。
ゆだねて満ちるなにかはきっと豊かだと思う。
病と喪失と知見が出会わせた医師と禅僧の、対面の言葉のやりとりはしんみりとした優しさと受け継がれるエネルギーがあった。
安楽死という選択がある国で
安楽死が合法化されているカナダについての番組があったので視聴した。
考えてしまうような内容の番組だった。
番組では、合法的に安楽死を選択する人びとが登場する。
安楽死という選択肢があることで重い病に苦しむそのひとに平穏な状態がもたらされ、安楽死を選択できるという自由があるため人権が守られ尊重があるという流れも紹介された。
わたしは安楽死が賛成か反対かという段階にはまだ至っていない。
ただ、安楽死に限らず、死とはなにかとは考えてしまう。
死ぬってなんなのだろう。
死を決定できる権利が自他ともに含め人間にはそもそもあるのだろうかという不思議がわたしのなか、ある。
フラストレーションとは違う、死を決定できる権利が人間にあるのかどうかだ。(実はそういった権利は無いけれど諸々の事情であることにしている、のならわたしは納得はしないけれどとりあえずは頷く。)
番組を見て1番感じたことは安楽死はきっと死ぬためのもので、生きる人びと、生きたい人びとの選択肢には合わないものだということだ。
死は遺されたものどもに良くも悪くも大きなものを与えるとわたしは個人的に信じているからこその考えかたかもしれない。
死は人間が自由に与えたり奪ったりできる行為であり、守られる人権のひとつなのだろうか?
理想論になってしまうかもしれないが、生きるをまず選択肢から外さないような社会制度や福祉、治療の革新をわたしは望みたい。
つまり、安楽死は消極的な選択肢のひとつであってほしい。
積極的な選択肢は生きるという選択肢。
多分、安楽死が積極的な選択肢になる社会状況は国や福祉、医療の敗北に近い状態だとわたしは個人的に感じてしまう。
死ぬ覚悟はなんとなく想像できるけれど、死ぬ勇気はわたしは人間に相容れないのではないかと思うこともある。(死ぬ勇気を言いかえて誰かを護る勇気だったり新しい自分になる勇気ならなんとなく理解できる)
死はとても個人的な出来事で死にゆくのは本人だけなのに周りの人びとに与える印象は大きい。
安楽死の課題は人間はどのように死にゆくかを問いかける。
理想の生き方を多くの人々ができないように現代においては理想の死に方も難しいのかもしれないとも感じた。
『感想まとめ。』