海の底から見えるものは
日没前の砂浜、枯れ枝の前に、一人の女が座り込んでいる。枯れ枝に見えたのは人の骨だった。女は、もはや骨ともいえないそれを抱きしめて涙を流し続けた。体中の水がなくなるまで泣き続けた。
海の底の国、魚類たちの国。海底からこの国の人たちは陸の世界を観察してきた。
よちよち歩きの人間がやがてさまざまなことを覚え、技術を手にし、集まり、国や町村をつくる様子をおもしろがって見ていた。陸の人間は、小さな土地を巡って争いを起こす。時に加減を知らず全滅するまで攻撃する。人間たちの争いは最高の娯楽だった。海の国の住人のように優雅でなく、無様に殺し合いを繰り広げている。海の国の住人にとって、戦いさえも舞うようだが、陸の人間にとっての戦い方は実に不格好だった。何度も何度もこりずに戦いをして、数百年、ようやく戦いの少ない穏やかな世界になってきた。いつまた殺し合いが始まるか分からない。しばらく忘れ、また思い出したように何かを巡って戦いがはじまることだろう。
そんな束の間、亀乃江はいつものように海面から陸の世界を眺めていた。亀乃江の目に飛び込んできたのは小舟をこぐ一人の人間。こぐたびに小舟はギイギイと鳴る。その人間を「鳴舟」と呼ぶことにした。鳴舟はまだ若い人間のようだった。亀乃江も海の国では子どもから娘になりつつある年頃である。鳴舟は、日焼けした肌には張りがあった。粗末なひもで結ばれた髪は海風で茶色になっていたが、長い毛先が海風に揺れていた。海の国の民は、陸の人間の見た目に似せることができる。長年の研究の成果だが、人間の姿になり時折、陸の人間たちと交わることがあった。同じような争いを繰り返す単純で幼稚で愚かな、それでいて愛らしい人間という生き物を自分のものにしたいという物好きも多かった。
亀乃江は鳴舟から目が離せなかった。日よけのためか頭から布をかぶっていたが、時折見える口元は整っていた。
亀乃江は人間と交流するうちに、好みの人間を識別できるようになっていた。かわいいな、好みだなと思う人間とは男でも女でも仲良くなりたいと近づきたくなる。そうして仲良くなった人間には亀乃江が与えうる海の幸をたくさん与えてやる。海の国の法に触れない程度にしないといけないが、亀乃江は新しい出会いに心が躍る。亀乃江は、今までになく鳴舟に引き寄せられた。いつもは簡単に近づいていけるのに、鳴舟にはそれができない。最初は少しくらい不審な顔をされても平気なはずなのに鳴舟にそんな顔をされたら二度と近づけなくなるかもしれない。それは、恥じらいという感情は亀乃江はじめて知った。
風が吹き、布がずれて鳴舟の顔全体があらわになる。つるりとした美男美女を見慣れているが、鳴舟のように肉と骨を感じさせる顔立ちは初めてだった。海面からずっと顔をだしているからかそれとも鳴舟のせいか胸が苦しくなる。ふいに鳴舟と目があった。暑さとまぶしさで不快そうな表情がやわらぐ。その表情は、海の国の住人にはない“笑顔”というもので、整った口元の端が上がり、目が細くなる。亀乃江は一瞬で学習した。人間の姿になって鳴舟と会ったとき、この“笑顔”をすれば「会えてうれしい」気持ちをつたえられるはずだ。じっと見られて、亀乃江はもっと見てほしい気持ちと、そのまなざしにいたたまれなくなり隠れてしまいたい気持ちの間で揺れ動いたが、自身が人間の姿ではないと気づきあわてて水の中へ逃げ込んだ。鳴舟はすぐに興味を失い、小舟を漕いで陸へと去って行った。
亀乃江は陸に上がった鳴舟の姿を目で追いかけた。彼より小柄な女性が二人で出迎えている。一人は母親くらいの年恰好、もう一人は鳴舟と同じくらいの年頃にみえる。鳴舟の表情はこの上なく優しい。声が聞こえるほど近くに行きたい。亀乃江は今まで関わった人間たちへの思い以上のものが心を満たしていくのを感じた。日光を浴びてちょうどよい温かさの海に包まれて仲良くなりたい。触れ合いたい。人間たちとの別れに未練を持たなかった亀乃江が初めて抱く強い思いだった。自分のものにして、鳴舟のものになって、どちらでもいい、海でも陸でも、いつまでもそばにいたい。この姿をずっと人間の姿に変えていてもいい。
亀乃江は、海の国の王の娘、つまり姫様の侍女である。姫様の名は汐那岐(しおなぎ)。自由に海の国と陸を行き来ができるのも姫様に陸や人間の話をして差し上げるためだ。その合間にちゃっかり気に入りの人間を見つけて親しくなり遊んだり息抜きをしている。幼いころからお仕えする役得だった。汐那岐姫は高貴な方なので、そうそう外へは出られない。姫と言っても海の世界は広い。安定していないところもありいくつかの小さな国とは緊張状態にある。人間のように徹底的に戦い、どちらかを滅ぼすまではしないが、お互いに従わない関係が続いている。敬意をはらう者もあれば、ただの世間知らずの小娘として扱われる危険もある。それが亀乃江のお仕えする姫様の立ち位置だった。そして、汐那岐姫はたいそう美しく目立つ。飾りなどいらない白銀に輝く鱗、海の色さえ凌駕する深く青い瞳、目立つことは危険にさらされる。
汐那岐姫は亀乃江の持ち帰る話のほかに、陸の世界を見ることのできる特別な道具を持っている。外へ出られない姫を不憫に思った守り役がひそかに作らせた。その身を飾る装飾品をいれた箱、蓋の裏側には鏡があり、それを通して限られた範囲だが陸の世界の様子を垣間見ることができた。汐那岐姫もその箱を通して、鳴舟を見つけてしまっていた。姫には実際に人間とのかかわりは経験がない。人間の美醜の区別はつかない。だが鳴舟を一目見て、姫はこの人間がほしい、と思った。鳴舟はよほど人にも人ならざるものにも好かれるように生まれついたらしい。海の国にはいない陸の生命力の力強さに、初めて感じる熱を感じ、熱病にかかるように恋をしてしまっていた。守られて何でもある暮らし、不満はないが、本当にほしいものには出会ったことがない。皆が美しいと言ってくれるが。本当にこの人間も自分を美しいと言ってくれるだろうか。姫は何でも選べる側だが、時には誰かに選んでほしい。自分が欲しいと思うようにこの人間からも求められたい。
姫のときめきを感じ取った海草たちが庭を彩り、光が差し込むと水の流れの加減でゆらゆらきらきらと光る。
汐那岐姫は、人間の姿に似せる練習を始めた。まわりの者たちから聞いた美しい人間の女。その能力は、姫の想像力と人間の男を手に入れたい強い思いで、めざましく上達した。
箱の裏側の鏡にうつる人間の男、一太郎と呼ばれていた。母親ときょうだいらしき女と暮らしていた。小さな舟とわずかな道具で漁をして、生計を立てているようだった。一緒に暮らしている女たちも働いている。幼いころから働いているのか彼らの動きにはゆっくりしたところがなく、無駄な動きがない。暮らしは楽ではないようで、働きづめのためか疲れた顔をしている。それでもかわいらしいと思うのはそれだけ夢中になっているということだろう。あの疲れた顔と体をほぐしてやりたい。清らかな場所で癒してやりたい。姫はしてもらうことに慣れている。当たり前のように世話をされ成長した。誰かの世話をしたいなんて思うなんて・・ますます一太郎に会いたくなった。この願いはかなうだろうか。海の国の民が陸へあがり、人間と交わることはあるが、その逆はできるのだろうか。
気づくと、箱の裏側の鏡にうつるものがあわただしく動いている。
「亀乃江!」
姫は箱を取り落しそうになった。亀乃江が窮地に陥っていた。
背中まで痛いなど尋常ではない。背中は固い甲羅があり少しくらいの衝撃なら大したことはない。しかい内臓に響くほど強く甲羅を打ち据えられ、手足も踏みつけられ感覚が鈍ってきた。いきなりひっくり返され体の内側をさらすことになる。亀の姿であれ、人間の姿であれ屈辱的な体勢である。背中に砂のざらざらした感覚がある。傷にしみて痛い。動くとさらに痛みそうなのと、恐怖で動けない。体の内側を晒す亀乃江を見下ろすのは4人の人間の子どもと大人の間くらいの年頃の男たちだった。
鳴舟に会いたくて陸に上がったところをつかまってしまった。退屈しのぎの遊びだった。彼らには遊びでも、亀乃江には死を覚悟させる残酷な仕打ちだった。物言わぬ生き物をなぶりごろしにする子ども特有のむごい憂さ晴らし。一人が棒で亀乃江の腹をつついた。気持ち悪さがせりあがる。つつくだけでなく体の内側を殴られたら亀乃江の命はそこで終わる。だが起き上がることができない。ここで死んでも海の国へ戻してはくれないだろう。甲羅をはがされ売られてしまう。
残忍な笑い声とは別の声が聞こえた。大声ではないが強い声、亀乃江が愛する男の声。
亀乃江はすでに人間の娘の姿で、彼と出会っていた。祭りのかがり火をはさんで見つめあった。このあたりでは見かけない娘にすれ違う男たちが声をかけるが一切素通りし、目の前に歩み寄ると艶然と微笑んだ。火の粉がはぜたのと同時に男の心にも火が灯った。亀乃江は、鳴舟と勝手に名づけていたが、彼は一太郎と名乗った。思い描いた通り優しい人間であること、亀の姿では到底経験できない喜びを与えてくれることをほどなくして知った。そして、亀乃江と知らなくても生き物がいじめられていたら助けてくれる心優しい人。
一太郎はひっくり返ったままの亀乃江をもとに戻してくれた。このまま人間の姿になって一太郎に抱き着いたらどうなるだろう。あんな目にあったばかりだというのに亀乃江は一太郎の驚いた顔を想像しておかしくなった。
一太郎も亀乃江を愛してくれているはずだが、それは亀乃江が人間の姿をしているときの名前“多亀”(たき)のことであり、今ここにいるのは傷ついた海の生き物でしかない。一太郎は亀乃江の体と傷を念入りに調べ清潔な水で傷を洗い、一太郎の家では貴重なものに違いない薬をぬってくれた。
「水に入ったら流れてしまうだろうけど、薬がなじんだら帰るといい。気をつけるんだよ。もう不用意にこのへんにあがってきてはいけないよ」
人通りの少ない木陰まで、一太郎は、亀乃江を運んでくれた。去っていく一太郎を、亀乃江は自分の目で、汐那岐姫は箱の裏側から見つめていた。
傷だらけで帰ってきた亀乃江は、そのまま姫の部屋へ呼び出された。
「亀乃江、どうしたの?心配させないでおくれ」
「申し訳ございません。油断しておりました。」
「陸の者たちの仕業ね」
「面目ありません。抵抗したのですが・・」
「でも無事でよかった。誰かが助けてくれたのね」
姫の尋ね方に違和感を持てばよかったが、姫は主人であり、亀乃江は代々仕える家系である。主人に隠し事はできない。陸の親切な人間に助けてもらったと話してしまうと、姫はぜひお礼を直接したいと言い出した。一介の侍女の恩人のために姫自らがお礼をしたいとは前代未聞。亀乃江もまわりのお付きの者たちも言葉を尽くして止めたが、姫は頑なだった。お人形のような姫には珍しいことだった。人間をこの国に入れたら禍がおきます!とまわりは進言して騒ぎ立てた。自分たちが陸に上がり、人間とかかわることはよくても自分たちの国に人間を入れることには抵抗がある。どんな病気を持ち込むか分からない。姫の決心は固く父母や亀乃江の親たちも引き入れて別荘に招くということで話をまとめてしまった。執心にも思える熱意だが、普段から姫と亀乃江の主従関係は固く、それでいて姉妹のように信頼し合っているから大事な侍女の恩人を招きたい、という姫の思し召しと最終的には皆納得してしまった。しかし亀乃江ははじめて姫の命令に違和感を抱いた。
姫のためなら陸に上がり、多少の危険をおかしても姫の見たいもの、食べたいもの、ほしいものを手に入れようとした。愛らしい姫、美しい我が主、育ちのせいか少しわがままで幼稚だがそれも姫であるからすべて許せる。姫の言うことは絶対、姫の望みは我が望み。
だが、一太郎は別だ。亀乃江の恩人と言うだけでなく、一人の人間に興味を持っていることに不安と焦燥感を止められない。
「多亀、明日は会えないのか?次はいつ会える?」
諸国を渡り歩く商人の娘と自己紹介しているので、会えない日もある。そう言うのに、毎日でも会いたいとせがんでくる一太郎だが、姫と海の国のもてなしの前には多亀への思いなど吹き飛ばされてしまうに違いない。人間とは誘惑に弱い。今まで出会った人間たちも最後にはそうだった。時が来て、自分がずっと人間の姿でいられるだけの力を蓄えたら陸で暮らすことを決めていた。掟に背いてでも、二度と戻らない覚悟だった。
しかし、一方で、幼いころから身に沁みついた忠誠心は、その覚悟を上回るほど強く亀乃江をしばりつけていた。一太郎への思い、嫉妬、姫への忠誠心で、亀乃江はあのまま人間たちに殺され、海の屑になってしまえばよかったとさえ思った。結局どれも選べないまま時が過ぎていった。
亀乃江は一太郎を迎える準備に追われ、多亀となって、一太郎に会いにいくことができない。姫に気づかれるかもしれない。時々波の音に乗って一太郎の声が、亀乃江に届く。
「多亀、どこにいる?どうしている?会いたい。突然現れてまた突然どこかへ行ってしまった。俺は本気なのに、多亀は違うのか?」
「あなたに会いたい。多亀のすべてはあなたのもの。」
亀乃江は思いを泡にして、一太郎に届けと祈る。一太郎には海からの声をきく能力はない。一太郎を迎える役目を、姫は無邪気に亀乃江に命じる。
一太郎は仕事を終えて、砂浜を散歩していた。ふと、声がした。見えるのはどこまでも続く夕凪の海と傾きだした太陽。一太郎はふらふらと海の中へ入っていった。腰までつかったところで、多亀が海の中から一太郎を見上げていた。多亀の手がのびてきて一太郎は海の中へひきこまれた。その時、いつもは誰かしらいるはずの浜辺には誰もいなかった。一太郎が海の中へひきこまれたことは誰も知らない。
一太郎は、夢をみていた。多亀に手をひかれてどこか深い所へ進んでいく。ある日突然現れた多亀、いつもふらりと現れ、一太郎と逢瀬を過ごし、またどこかへ行ってしまう。素性は商人の娘というほかは知らない。まつ毛が長く黒目勝ちの目、抱きしめると潮の香りがする、女性はもっと甘い花のような香りがすると思っていたが、一太郎にはなじみのある香りで嫌いではなかった。髪はつやつやとし、真っ黒で、肌はいつもひんやりとして潤いがある。今、握っている手もいつもの感触だった。これは夢だろうか。海の中にひきこまれたが息は苦しくない。
次に我に帰るとそこは別世界だった。家の板張りの床ではない。つるつるした石の床、白い壁。村で最も富裕な人の屋敷より立派な屋敷の広間に一太郎はいた。席は上座に用意されている。すでに宴の支度が整えられていた。多亀の姿はなく、傍らにはまばゆいほどに美しい女性がいた。瞬きするたびに人影が増え、宴の始まりを待つばかりとなった。
「一太郎様、このたびは私の侍女を助けてくださり感謝します。私はあなたが助けたそこにいる亀乃江の主の汐那岐でございます」
都の女人も及ぶまいと思われる優雅な女性は汐那岐と名乗った。身なりからして姫君の身分だろう。一太郎が一生かかっても会うことのない身分の方。
多亀はどこですか?ここはどこですか?聞きたいことは山ほどある。海の底にはこことは違う国があると昔話で聞いた。おとぎ話と思っていたが実在するのか?
姫は一匹の亀を指した。亀の見た目の区別はよくわからないはずだが、確かにこの前助けた亀だと思った。まだ傷跡が残っている。亀乃江と呼ばれた亀は話せないようだった。おじぎをしているつもりなのか短い首を上げ下げしている。
「お礼の宴を用意しました。どうぞごゆっくりお過ごし下さい」
汐那岐姫のもてなしは、これまでつつましく生きてきた一太郎の想像できない極上のもてなしだった。初めて食べる目にも舌においしいごちそう、澄んだ色の美酒の数々。心をときめかせる美女たちの舞、音楽。いっしょに遊びましょうと取り囲まれとろけるような甘い遊びを堪能する。
汐那岐姫は、白い肌、白い指先、小さな貝殻のような爪、陶磁器のようなすべらかな肌、神秘的な引き眉の下の瞳は海の青、唇には珊瑚色の紅、こがね色の髪は、不思議なことに風もないのにふわふわと揺れている。明らかに自分に好意をもっている美しい姫に、一太郎はここにいることの疑問も亀乃江のことも家で自分を待つ家族のことも、仕事のことも忘れてしまった。
汐那岐姫に手をひかれて屋敷の奥へと入っていく一太郎を亀乃江の黒い瞳が見つめていた。涙をたたえた黒い目にも気づかず一太郎は酔ったように姫と寄り添いまどろんでいた。亀乃江が恋をした活力にあふれた笑顔は消え去り、最初こそ珍しい趣向に興味津々で目を見開いて喜んでいたが、だんだん何をみても、うっすらと笑みを浮かべているだけになっていた。
姫様の愛し方はこれなのか。いつくしんではいるが何もさせず考えることもさせないほどに与え続けている。口を開けていれば腹が満たされ、横たわれば添い寝してくれる。座っていれば髪を整え、立てばその身を着飾ってくれる。人間は与えられてばかりいると、考えることをやめてしまうのか。一太郎はまるで波に漂う浮草だった。
ある日、海の底のさらに下がぐらぐらと揺れた。何か大きな塊が海の中に飛び込んできた。大きな水の流れが屋敷を揺らす。それくらいでは屋敷はびくともしないが、そのはずみで一太郎の脳裏に、耳に、陸の世界の音が届いた。轟音を立てて走り去る乗り物の音、人々の悲鳴、鳴き声、怒号、何人もの足音、非常時を知らせる鐘の音。一太郎はせりあげるように思い出した。見回すと姫やとりまきたちは午睡にはいってるようで誰もいない。ここにきてから、ずいぶんとその存在を見ないようにしていた気がする。あの亀が午睡もせずにそばにいた。
「亀乃江、聞こえるか?あの音が。これは夢か?どっちが夢だ?夢ならいつ覚める?」
亀はしゃべらないが、一太郎の言っていることを理解しているようだった。一太郎は母と妹を思い出す。もうずいぶんと二人に会っていない。ここにきてどれくらいたつ?あのざわめきの中に二人がいなければいいのだが。一太郎は完全に目が覚めた。日焼けした肌は赤みがひき、やせた体は肉付きがよくなっている。働きづめでごつごつした手は手入れされ、きれいだが小さくなったように見えた。これは自分ではない。貧しくても家族や友人と懸命に生きていた自分ではない。
「汐那岐姫、これまで過分なおもてなしいただきありがとうございました。俺には母と妹がおります。二人は俺がいないと困っているはず。そろそろお暇させていただきます」
これほど大切にしているというのに、突然、一太郎は帰りたいなどと言う。姫の青い瞳はゆらゆらと燃え出す。私の言うことを聞いて私の与えるものを喜んで受け取り、私を美しいと愛でてくれていたのに。亀乃江のお礼のもてなしが終わっても手放す気などもうないというのに。この何でもある心地よい場所から出て行こうというの?姫は美しい腕で一太郎を抱きしめようとした。そうすれば一太郎が、うっとりと姫に身を預けてくることを知っていた。しかし一太郎は姫の腕から逃れるために体を引いた。
「ここにいればよいのです。ここにはあなたを苦しめるものはない。母や妹のように私にもあなたが必要です。母や妹には気の毒ですが、あなたと私が出会ったことは海の神のお導きです。私の思いをむげにしないでおくれ」
「姫には感謝しかありません。しかし母や妹を切り捨てることはできません。俺を愛するなら俺の家族も同じように大切に思ってほしい」
一太郎の決意は固く、一度ゆるんで再び締まった思いはもうゆるがないようだった。同時に姫の一太郎への思いは急速に冷えていった。このまま陸へ返し、騒乱に巻き込まれるなり、疫病にかかるなりして苦しんで死ねばいい。せっかく陸の人間とは違う最高の暮らしを与えようとしていたのに。しかしそのまま返すのではやはり気がすまない。姫の思いを無下にしたこの卑小な陸の生き物にはそれにふさわしい絶望と命の終わりをあたえてやろう。姫の心に拒絶された怒りの炎が燃えていた。
姫と一太郎の間で話されたことをしらない亀乃江は、一太郎が屋敷を去ることをしって、自分も一太郎のことを忘れようと決心した。姫も一太郎をつなぎとめることはできなかった。このまま会い続けることはできない。一太郎はやはり陸の人間だ。大切なことを思い出し、家族のもとへ帰ろうとしている。海の国の者たちにはない深い情をもっている。ここにいれば何の苦労もなく、永遠に等しい長さの命をもらい悠久の時を生きられた。しかし海の中をも揺るがす風が彼を引き戻した。
一太郎、あなたのことが大好きだった。人間にもいろいろいたけどあなたは苦労や痛みを知っていた。ただそばにおいて可愛がるだけが愛することではない。会いたいのに会えない、それが思いを強くするということも知っている。愛にはいろいろな種類があって、愛する者たちのために危険かもしれないところへ戻ろうとしている。私は人間と言うものを知りすぎた。人間を愛することがこんなにも大変で思い通りにならず、こんなにも幸せとは思わなかった。これ以上知ると、私もあなたを手放せなくなる。それに姫が私達のことを知ればあなたは帰してもらえなくなる。だからさようなら。
一太郎を送っていくのはイルカの青早(あおはや)と決まった。青早はすぐれたものが多いとされるイルカの中でもひときわ優秀なイルカで、亀乃江は安堵した。獰猛で頭の悪い者なら一太郎を食べてしまうかもしれない。姫もやはり最後には快く送り出すことにされたのだ。亀乃江は単純に喜んだ。
別れの日、姫も一太郎もお互いにつきものがおちたようにすっきりとして、別れの挨拶を交わしている。去り際、一太郎は亀乃江に歩み寄った。
「お世話になりました。亀乃江、どうぞ元気で」
もう会うことはない。来世も期待しない。人間の姿で将来を語り合い、朝が来るまで、抱き合ったことも忘れよう。亀乃江はただうなずいた。
青早は紺色の衣を着た人間の姿で現れた。長い袖で一太郎を包んでしまうと脚がイルカの尾ひれになりものすごい速さで見えなくなってしまった。
「いってしまいましたね」
姫が呟いた。一太郎のこのあとの運命を想像して、ふっくらとした珊瑚色の唇の端がわずかに上がった。
侍女のタイとヒラメがひそひそ話している。
「あの人間の男、どうしているかしら」
「青早様が、百五十年先の砂浜に送っていったらしいわ」
「まあ、人間はそんなに生きられないでしょう。その人間の家族も知り合いもいなくっているでしょうに」
「姫様はやはりあの者を許していなかったのね。あの者は分もわきまえず姫様より陸の世界を選んだのだから当然の報いよ」
「姫様のお力と青早様の能力があれば、あの人間もひとたまりもないわね。どんなに強い意志があっても時の流れには勝てないわ」
亀乃江は己の単純さと姫のおそろしさでぶるぶると震えた。自分から離れようとした人間への報いは青早の能力を使い、はるか先の世へと一太郎を置き去りにすることだった。青早は海の中と時を自由に行き来することができる。世の中は様変わりして一太郎を知っているものは確実にいない。
亀乃江は青早を捕まえ、どの道を通って行ったのか問い詰めた。最初は、鼻歌を歌いながら話をそらしていた青早も、亀乃江のあまりの迫力に慄いてすべて白状した。
「でも、亀さんや、あんたには俺のような能力はないだろう。行けたとしても時の波で体がもたない。あんなちっぽけな人間のことなんてどうなってもいいさ。ここにいれば、姫様に可愛がられて楽に暮らせたものを愚かなやつだ」
亀乃江はありったけの力で、青早をねじふせた。おとなしく愚鈍な亀に抑え込まれ青早はわめきたて抵抗した。亀乃江は青早を引き裂き殺してしまった。青早の体の一部を口にし、その能力を取り込む。亀乃江は仲間殺しの罪を犯した。もうここにはいられない。亀乃江はもてる力のすべてを使って時の海流に飛び込んでいった。青早にとっては簡単なことだが、青早の能力を少し取り込んだだけの亀乃江にはすさまじい圧力と痛みが伴う。
(一太郎、早まらないで)
一太郎は魂が抜けたように砂浜にへたりこんでいた。ふるさとなのに知っているふるさとではない。海も砂浜も遠くに浮かぶ島々も照りつける太陽も、日陰をつくってくれる松の木も、見える景色は同じなのに、ここにきて出会う人々で、知っている人はいない。誰も一太郎のことを知らない。生まれ育った家のあるところに行ってみれば跡形もない。村まるごとなくなっていた。
「昔、ここに海の向こうから異国の軍が攻めてきてここらあたり根こそぎ奪われ、皆殺しにされたと先祖から伝え聞いている。戻らない息子を待ち続け、逃げることを拒んだ母娘は、異国に連れて行かれたとか。全員ではないが、岬に亡くなった人たちを慰める碑がたっている。それにいなくなった者たちの名前も刻まれている」
一太郎が聞いたあのざわめきは夢ではなく本当のことだったのだ。碑には、母と妹の名が確かに刻まれていた。しかし、この村からあの不思議な屋敷に行き、過ごしたのはひと月にもみたないはず、それなのにここでは、はるか昔のことになっている。
一太郎は何が起こっているのか分からなかった。理解が追い付かず、現実は人智を超えている。しかし、海の国ですごした時間は陸とは違うことは分かった。もう戻ることもどこへ行くこともできない。気づけば無一文だった。しかしひとつだけ汐那岐姫から授けられた美しい壺があった。
「困ったら開けなさい」
光の加減や角度でいろんな色が見える。これを金銭に買えたらしばらくは生きられるだろうか。振ってみると水音がする。一太郎は壺の口をきった。かぐわしい香りがする。お酒のにおいがする。一太郎はせめて今の心細さをまぎらわそうとその酒をあおった。百五十年分の時間が一太郎の体に流れ込んできて、一太郎の体はそれに耐えきれなかった。一太郎の肉体はどんどん老化し、体から白い煙がたちのぼり静かに焼かれていった。
(多亀・・・)
亀乃江がぼろぼろになりながら時の海流を泳ぎ切り、砂浜にはいあがったとき、目に飛び込んだのは枯れ枝だった。枯れ枝と思ったのは、一太郎の骨だった。
遅かった、何もかも遅かった。骨はもう何も語らない。最後の力を振り絞り、一太郎が愛した多亀の姿になって一太郎の骨を抱いて、泣き続けた。泣いて泣いて、人間の姿でいることができなくなりもとの姿に戻り、やがて時の海流で傷ついた亀乃江は骨を抱いたままその命を終えた。そこへ通りかかった粗野な男が、売れそうな亀の甲羅だけをひきはがし、それ以外の残骸、枯れ枝に見える何かもまとめて海へ放り込んだ。海は亀乃江の体の一部と一太郎の骨を飲み込んで、何もなかったように不規則な波を刻み続けた
海の底から見えるものは