恋愛映画
1
その頃の私は大きな何か、とても大きな何かたとえば、何だろうな。大きいもの。地球とか壁とか木。いちいち好きだとか言わないし思いもしないもの。空気みたいな風みたいな言葉じゃ言えないけれどとても大きい。そんなものに恋をしていたんだと思う。
ずっと一人だと思っていた。一人で歩いていることは黙っていることは一人だということだと思っていた。肌はなく声はなく言葉なくそれでも時々やってくる見えないものがあった。それにどうしても会いたくて歩いた。追いかけるように歩いていた。歩けば走り、止まれば止まる。いつまでも追いつけない足の速いやつみたいだった。届いてはいけないものだったのかもしれない。追いついてはいけない、並んでも追い越してもいけない誰かだった。警告音を鳴らされているみたいな夢を、よく見ていた。
まだ小さい私が懐かしい男の子と部屋にいる。貰ったばかりの私の小さな部屋だ。
小さな私の部屋にはロフトベッドが置かれていて、ベッドの下の、梯子のそばの狭いところで私たちは座っている。それは大人たちが深い眠りについた真夜中で、私と男の子はくすくすと笑い合っている。何の話をしているのか分からないけれど、とても楽しいんだ。男の子と話すことは苦手だったけれど、どうしてかその子とはいつまでも話をしていられた。
夢の場面はいつの間にか変わり、私と男の子は大人になっている。今時の若者になって都会の街を歩いていた。二人して上着のポケットに両手をつっこんでいるから、お互いの肘が時々ぶつかった。いくらぶつかっても距離が遠ざかることはなかった。私はとてもボーイッシュな格好をしていて、私は彼のことを仲の良い男友達だと簡単に思い込むことができる。彼は新しい家族を持っていた。私たちのしていることは良いことではない。許されるぎりぎりの場所にいる。夢の中の私はちゃんと分かっている。
高級そうな洋服店に入ると、彼はとても派手な色のコートを手に取り纏った。これがいいと笑い、着て来た上着を店の紙袋に入れて肩に掛けた。その日は彼の誕生日で、私がコートのお金を払った。とても派手なコートになった彼の隣で、私は許される場所の境目の線を踏んでしまったような気持ちになる。それでもこの夜は特別なんだ二度とないんだと被害者のような言い訳を胸に唱え、彼と笑いながら都会の夜を歩きつづけた。
夢の中の朝、私は彼の家にいる。彼が新しい家族と住んでいる家だ。私は子ども部屋で眠る小さな子の世話をしている。彼の子だ。子供が急にぐったりとする。息をしなくなる。私は慌てて彼とその妻が眠る寝室へ行き二人を起こす。事情を聞いた二人は飛び起きて子ども部屋に向かう。彼は父の顔で子供の口に息を吹き込んだり頬を叩いて大きな声で名前を呼んだりする。無駄のない、手慣れた動きでそうする。私はその姿を後ろに立って呆然と眺めている。大変なことをしてしまったと思っている。
目が覚めて、多く残っていたのは彼の肘の感触だった。
子供を死なせた恐怖感もあった。夢で良かったとも思った。それでも私は夢を思い出すために長く目を閉じつづけた。私の住む、彼の町からとても遠い私の住む街に来た田舎者の彼は口を開けて笑っていて、私たちは楽しくてしょうがないな。あの真夜中に、また行きたいな。小さな部屋のベッドの下でくすくすと笑い合ったことは夢ではなかった。証みたいに忘れないでいる。
私は彼だけに恋をしていたのではない。彼だけが欲しかったのではない。もっと大きな、彼を含めた大きなものを好いていた。それは太陽や月のように誰のでもない、誰のでもあるような大きさであったから、私はずっと手中にあるように幸福だったし、どうやっても触れられないように不幸だった。夜に見る夢や、夕方に思い出す記憶はそれでも私の掴んでいるもののようだった。ひどく鮮明だったんだ。
⁂
水色の家の二階には子ども部屋がある。
子ども部屋には一目でその日の天気が分かる大きな窓と、木の二段ベッドと、勉強机が二つ。この家で暮らす3人の子どものうちの、一番目の男の子と二番目の男の子に与えられた部屋だ。
玄関で小さな女の子が一人、ドアをこんこんと叩いている。内側から外側へ、まるで家の中と外が入れ替わってしまったみたいに向こうの誰かを訪ねている。「クーン」と家主が返事をする。ドア下のタイルをガリガリとやり、歓迎の合図を送る。赤い屋根のある、プラスチックでできた家の主はこの家で飼われている種類のない犬。そしてこの小さな女の子は、三番目の子ども。彼女にはまだ、部屋が与えられていない。女の子はまるで旅人のようにリュックを背負い、家の中を転々としていた。今日の宿は玄関に決めたらしい。部屋を片付けるように散らばった靴を端によけ、座り込む。ドアの向こうで散歩をあきらめた犬が丸くなる。体温だけでも感じ取ろうとしているのか、ドアにぴったりとはりついて目を閉じる。女の子はリュックから水筒を出し、蓋をコップにして注ぐ。家族の靴に囲まれながら、お茶の時間をはじめた。
二階。子ども部屋の扉が開く。勉強机に一人の少年が座る。この家の一番目の子どもである彼は、とても兄らしい子だった。いつも先頭を行き、後ろの二人が危なくないか注意しながら歩いた。そして彼はそんなふうに歩くのが好きだった。兄であることが誇らしく、兄であることが好きだった。少年は引き出しを開け、一冊のノートを取り出し広げる。びっしりと文字で埋まったノートだけがもつふくらみと汚れが見受けられる。細く長い指に握られたBの鉛筆が、罫線の上をせわしなく動く。
シナリオ
『風と女』 ファーストシーン
昼下がり。
田舎の、少し時代遅れな見た目をした一軒家の庭先。
芝生が広がる庭の中央、物干し竿に一枚の白いシーツが干されてある。
一人の女が庭に面する窓枠に座り、干されたシーツを眺めている。
風が吹き、シーツが靡く。
芝生に落ちるシーツの影も揺れる。
声「ねえ、君はいったい何が欲しいの?」
男の姿はなく、声だけが聞こえる。
女「変わらないもの。変わらない、愛?」
女はそこに男を見ているように、声に答える。
声「ふは。とてもいやしいね。ぜいたくだね」
女「そうなんだ」
声「そうさ」
女「そう?」
声「ああ」
女「本当に?」
声「当たり前」
女「当たり前」
「君はだれ?」
声「君のようなものさ」
女「好きになってもいいかな」
声「どうかな。見えないものみたいなものだから」
女「それってどういうの?」
声「光がつくる影絵みたいなものさ。黒く、とどまらず、ずっと揺れて、とまらない」
〈風のメモ〉
これはとてもありふれた恋愛映画になってしまうだろう。僕はきっと物語を摂取し過ぎてしまった。誰も見たことのないものを作りたいと思う僕の大きなミスだ。ちいさな子の作文を読むのがとても好きだ。僕の妹の書く作文なんてどの小説よりもおもしろい。それでも妹は大きくなったらもう今のような作文は書かないだろうし、書くことができなくなるだろう。大人になるって、できなくなることが多くなるってことなんじゃないかって思ったりする。大人になる前に、このシナリオだけは完成させておこうと思う。今の僕が書いたシナリオを、大人になった僕が撮る。それなら少しはましな、オリジナリティー? みたいなものが出せるんじゃないかって思うから。
2
何にもならないでいようかな。
私はたばこに手を伸ばす未成年者のような態度でそう思った。長く続いた不眠からやっと解放され、深く眠った翌朝のことだった。片付いた頭を備え机に向かっていた。流れてきたようなこのひらめきに間違いはなく、しかし決して自分を幸福には映さないだろうと思った。
何かになろうとしている日々があった。周囲は思っていたように聞き慣れた言葉で優しくし、ありふれた言葉で厳しくした。何かになろうとする人を見た。私にはないものを見た。そこに見た熱や輝きが自分にないことを知った。叶ったあとの光景まで見せてくれる人たちがいた。見えることが嫌だった。知りたくなかったことばかりが溢れていた。自分だけで探し当てることのできる問いが減り過ぎていた。何かとても飽きていて、うんざりしていた。
欲望は、どうだろうか。
言葉に押し潰されずに残ったものだろうか。
きれいでありたい。影絵だけは、きれいでありたい。心がそうではなくても、影絵はだけはきれいでありたい。本当があり、正直で純粋でそれでも汚くはないきれいでありたい。
やっと見つけたような気でいたこの欲望はでも、形にするべきではないものかもしれない。私がやろうとしていることは美しい影にカラフルな色を塗るような、子どもが書いた手紙の中の間違った文字を正すようなことではないか? だから私は、何にもならないでいようとひらめいたんだ。それが、損なわれてはいけないものを守るための一つの手段になるような気がしたんだ。
生まれた土地を離れ、街に紛れている私は嘘の名札を提げている。ここにいれば、影を汚さない色をした欲望は、私の元にやってくるだろうか。奇抜な欲望が分かりやすく浮いてきて、時より私を眠れなくしていた。
歩道橋の真ん中に立っている子を見つけて、何にもなりたくなくなった女の子だと思った。
彼女は毎日きれいなものをいつまでも見ているんだ。疲れたら眠り、まだ眠い朝はまだ眠って、眠れない夜は眠らない。いつかは飛べる動物になって幽霊に出会うだろう。言葉をやめ、文字をやめ、体を尽くしている。今日に皮膚を尽くしている。その子の体にはもったいない部位など一つもない。きれいさを保ち、汚れるみたいに季節に染まる子を、私は道に立って見上げている。
⁂
少年がノートに向かっている。
シナリオ
『風と女』 影のスケッチ
とても大きな公園の中にある緑道。
真っ白い大きな恐竜のかたちをした遊具で遊ぶ子どもたち。
公園の中の安全な森に飛ぶ鳥。
女は一人、緑道を歩いている。
季節は秋の終わりで、木々に緑はない。
地面は落ち葉で溢れている。
風が吹き、落ち葉が舞う。
女「君はだれ?」
女は枯れ葉を飛ばしている存在(風のようなものたち)にたずねる。
声「あの扉にできる影をつくっている光さ」
(風のようなものたちのひとり)が答える。
女「雨の日は何をしているの?」
声「スケッチさ。影の、スケッチ。君に見せるとびきりの影の下絵を考えているさ」
女「雨の音を聞きながら?」
声「そうさ」
女「雨は同じ音がするかな」
声「雨は同じ音がするものさ。
どんな影が見たい?」
女「色のある影が見たいな」
風が背中を向けて遠ざかるように、女の背後にある木だけが揺れる。
女、はっとしてそちらに振り返る。
声「風に乗れるくらいとても軽くなったんだ」
女を包み込むように、全体を通り抜ける風。
ゆっくりと回りながら話しつづける女。
女「そうだったね。ごめんなさい。忘れていたの」
声「忘れないで。ぼくに使えるのは一色だけなんだ」
女「風の凪ぎ場には行った?」
声「ああ。そこではね、落ち葉の中でみんなして眠るんだ。風の凪ぎ場の恋人たちはこっそりかさかさ枯れ葉の中で手をつなぐんだ」
〈風のメモ〉
これはなかなか良いシーンになる気がする。いつか家族で行った大きな公園で撮れたら最高。風の凪ぎ場の恋人たちっていうフレーズ、そこで浮かんだんだよな。「緑道」って、すごい良いネーミングだと思う。道のはじまるところに木の看板が刺さってあって、「緑道」って書いてあったんだ。とても親切だし、なんか幸せな気分になった。白い恐竜の遊具は、近所にある飛行場の中の公園にあったんだけど、今はもうない。真ん中がまあるいすべり台になってて、滑った子どもたちが円の中心でぶつかるんだ。とても楽しい。妹と弟はいつまでも滑ってたな。滑るのは簡単だけど、上るのが少し難しいから時々僕が二人のお尻を押さないといけなかった。疲れるけどそれでも楽しい方が勝つ。なくなってしまった遊具って、どこに行くのかな。世界のどこかに、なくなった遊具だけが集められている場所があるのかな。それならそこに、とても行きたいな。
「ねえ、それちょうだい」
幼げな声が割り込み、ひょっこりと現れた小さな手がノートに伸びる。
リュックを背負った、家の中の小さな旅人のお出ましだ。兄は「だめだよ」と言って、妹の手の届かないところまでノートをずらす。それでも妹は欲しいと聞かない。
一番目の子と三番目の子は歳がずいぶん離れていた。兄は妹をとても可愛がり、彼女のお願いを断る術を知らなかった。それでも兄にとってそのノートは特別だった。不満げな顔をして目前にある机の角をいじっている妹を悩ましげに見つめ、兄は言った。
「分かった。僕がいなくなったらあげる。死んだり、ノートのこと忘れたりしたら、持って行っていいよ」
妹は「え」と声を漏らしきょとんとする。聞き慣れない言葉に少し怖気づいているらしい妹に、兄は続けて言った。
「でもこのノートすごい重いんだよ。小さい君には持てないかもしれないな。なんたってここには兄ちゃんのすべてが詰まってるんだ。そのリュックに入れて、背負える?」
女の子はそれきたと言うように目を輝かせ、「うん」と言ってお気に入りのリュックを前に掲げた。チャックを開けて、「ここの背中とくっつくところにある大きなポケットに入れてあげるね。今は絵本を入れるところにしてるけど、絵本はここじゃなくてもいいからね。それ、入れるときはここ開けるね。重いのはだいじょうぶ。背負えるよ」と言った。
「オーケー。じゃあ僕がいなくなったら、あげるね。15才の僕を、君にあげる」
兄はそう言って、妹の頭をノートでぽんとたたいた。
3
成田空港へ向かうバスが高速へのゲートを通過する。車窓から無数に見えていたせわしない人の姿は消え、分厚い壁と向こうの建物群が枠を満たす。束の間つづく、この景色が好きだ。排気ガスは嫌いだ。車も高速道路も高すぎるビルも好きじゃない。だけどどうしようもなく好きだった。いつまでも見ていたいと思った。
迷いのない陽光が射している。分断された二つの領域を見せつけられる。平凡な瞳は光を選び、ピントを合わせる。アパートのベランダで洗濯物が揺れている。誰も住んでいない部屋にカーテンはなく、照らされた空室が明るい。オフィスビルの窓辺に積み上げられた大量の書類、屋上の喫煙所、ラブホテルの小さい窓。林立するビルに私たちを乗せたバスの影が映りはじめる。連続写真のようにころころと背景が変わり、時よりくっきりと乗客たちの形を描いた。
階段を下るように、建物群の高さが失われていく。木々が存在感を増し、景色の色合いががらりと変わる。畑が見えはじめると、もう影の姿はなかった。光は土にまで届いている。私の興奮は冷めている。
私は街を、愛しはじめているような気がした。
特別良いことがあったわけではない。仲の良い友人がいるわけではない。訛りはぬけない。それでも離れたくはなかった。帰省する度に、ここを離れるのは少しの間だけだということに安心していた。戻る部屋を街に残していることに安心していた。もうすぐだ。もうすぐ私は、この街を愛すだろう。
帰省していたある夏の日、両親と阿波踊りを見に行った。
両親は数年前から毎年必ず見に行くようにしていたらしく、その年の夏は私も一緒に行った。
いつもの通りバスに乗り、東京へ戻っていた。もう夜の十時を過ぎていた。窓の外にはビルの街が見えていて、それを囲む湾曲したハイウェイは池の淵みたいだった。池に浸かった街を見つめていると、私の頭の中で祭りの音が鳴りはじめた。
一番高いビルのてっぺんで、踊り子が言った。
「やっと阿波踊りに戻れるわ」
⁂
シナリオ
『風と女』 文通
ワンルームの部屋。
女が机に座り、手紙を読んでいる。
送り主である男の声(モノローグ)が入る。
男M「ぼくは近頃、夜に出かけて木の絵を描いています」
映像は男の日々を映し始める。
男が夜の公園の地べたにあぐらをかいて座り、目前にある木をスケッチしている。
男の姿は夜に溶け込むようにぼやけ、細部は見えない。
ノートに走らせる鉛筆の音が響いている。
男M「当然だけど全然上手く描けません。夜の木は見えづらいし、描いた絵も見えづらい。でもそれでいいんだ。ぼくは絵が下手だから、もしだれかが絵描きがいるぞって言ってぼくの絵を見に来たりしたら大変です。ぼくは逃げるしかなくなってしまう。だけど夜に絵を描いていると誰も見に来ない。時々犬に吠えられたりするけど犬に絵の良し悪しは分からないから平気。それにね、夜に描いた絵を明るい部屋で見直すととてもおもしろいんだ。想像していたのと全然違うからね。でもたぶんこの夜の絵描きはそのうちやめることになると思うんだ。今は冬で、木には葉っぱがあまりない。幹と枝だけが描くもののすべてで、それは絵が下手なぼくにとってとても親切です。それでもやっぱりぼくの絵は下手だから、葉の付いた木なんてとても描けそうにありません。飽きるまで、しばらく夜の木を描きつづけようと思います」
ノートに描かれた木。
男の手が木の幹を塗っていく。
男M「夜の木には一つだけはっきりしているところがあります。黒いところと、黒くないところがくっきりと見えます。ぼくはていねいに、木を塗ります。
そうだ、ぼくたちの出会い方についての話ですが、こんなのはどうだろう。ぼくはある天気の良い昼下がりに散歩をしている。古いアパートが並んでいるような路地を歩いているんだ。そしたら一匹の蝶が現れる。どうでもいいんだけど、蝶の飛び方って少しへんてこだと思わない? 鳥のように安定していないし、急に足にまとわりついてきたり、地面に落っこちて死んだみたいに動かなくなったり、かと思ったら元気にまた飛んでみたり。いつもぼくは、はらはらしながら蝶を見ることになるんだ。いけない、ぼくたちの出会い方の話をしないと。散歩しているぼくは目の前に現れた蝶をいつものようにはらはらしながら目で追って、そしたら蝶は一軒のアパートの壁を這うように飛びはじめるんだ。そして二階の部屋の窓まで辿りつく。その窓からは一人の女の子が顔を出して笑っているんだ。彼女は蝶を追いかけるまぬけな顔をした男をずっと観察してて、そんな男に笑っている。窓から顔を出している女の子が君で、まぬけな顔をした男がぼくだ。蝶を追って見上げた窓に君が笑っていて、君はぼくを見下ろして、ぼくは蝶を見失う。そんなふうに出会うのは、どうかな」
手紙を読んでいる女が微笑む。
女が見つめているのは、手紙に添えられた一枚の紙。
下手な木の絵が描かれている。
男M「もう一つだけ、出会い方を。ぼくは雲なんだ。灰色の雲。それで君も雲なんだ。君はそうだな、黄金の雲にしよう」
夕方。
生徒が帰ったあとの静かな校庭と、その先に佇む校舎。
閉じられた正門の前で、男が屋上を見上げている。
屋上に浮かんでいる白い雲が夕陽と重なり、黄金色にふちどりされる。
雲は動いていないみたいに留まっている。
仲間はずれのような灰色の雲が流れてくる。
男M「雲のぼくたち、学校の屋上で出会うんだ。道で出会うみたいにばったりと、出会うんだ」
灰の雲は軽いのか、頼りなく風任せに流れ、白い雲とすれ違う。
屋上を見上げていた男が俯く。
ポケットから手紙を取り出し、開く。
送り主である女の声(モノローグ)が入る。
女M「今日、電柱に貼られていたオカメインコにとてもよく似た鳥を見ました。川べりの木の上で、カラスに怒られていました」
映像は女の日々を映し始める。
天気の良い昼。
川沿いの道に植わった木を見上げている女。
一匹のカラスが威嚇するような声を上げ、一か所の枝に口ばしを向けている。
翼をせわしなく動かしながら宙に留まり、そこにいる何かに怒っている。
カラスの半分くらいのサイズをした鳥が枝葉から飛び立つ。
きいろと黄緑の派手なグラデーション。
ピーという甲高い声を上げながら木の周囲を旋回する。
カラスがそれを追いかける。
女M「カラスの鳴き声は家に帰れと言っているようにも、派手な翼が気に入らないと言っているようにも聞こえました。確かにその奇抜な色はとてもその場に似合ってはいなくて、浮いていました。それでもわたしには何だかオカメインコが楽しんでいるように見えたのです。まあでも体があんなに楽しそうでは、どうしたって可哀想には見えないです。オカメインコはきっとはじめての春だったのだと思います。鳥かごの外で過ごすはじめての春。どう思ったのかな。鳥かごを出た飼い鳥は、元いたところに戻りたいと思うのかな。それともそんなこと分からずに、果てしなくなった空をどこまでも飛びつづけるのかな。鳥かごが巨大化したと思っていて、飼い主のまなざしと優しいゆびさきのある窓口を探しているのかもしれない。家出したオカメインコだけが世界の隅っこを目指せるのです。何だか少し、うらやましくなってきませんか。
そうだ、わたしたちの出会い方についての話をしなければいけません」
屋根のある長い商店街を歩く女。
ふと頭上を見上げる。
ガラス屋根は色褪せ、曇っている。
女M「わたしたちが出会う頃、世界にはもう屋根がないところがなくっているのです。すべての道に、すべての広場に公園に、屋根があるのです。みんな日に焼けないし、雨に濡れない。それでもまだほんの少し、屋根のないところは残されている。春や秋、思い出したように人々はそこに集まるの。春は桜を見て、秋は紅葉を見る。ぎゅうぎゅうになって見るの。正直言って最悪です。わたしたちが出会う日はね、そんな季節じゃない。何でもない、雨の日です」
商店街の中央に設けられた円形広場。
屋根はなく、丸くくり抜かれた空が広がっている。
女は行き交う人々の中、そこに立って空を見ている。
女M「わたしはその日、残された屋根のないところに立って、雨に濡れているの。そこにあなたが来る。あなたはもう誰も持っていない、みんなが忘れてしまった道具を手にやってくる。わたしはあなたを見て、あなたの手にしているものを見てたずねるの」
雨に濡れている女のもとへ、傘を差し、もう一つ畳んだ傘を持った男が来る。(男の顔は傘に隠れていて見えない)
女は男に気づき、そちらを向く。
男の頭上を覆うものを見て言う。
女「それは何?」
男「傘。傘って言うんだよ。はいどうぞ」
男は手に持っていた傘を女に差し出す。
女はおそるおそる受け取り、傘を開く。
女M「そんなふうに出会うのです」
〈風のメモ〉
僕はモノローグが好き。ドラマや映画のはじまりが主人公のモノローグではじまったりするともうわくわくして仕方ない。ベッドから起き上がるところから映画がはじまって、俺の名前は、なんて言ってモノローグが流れはじめるんだ。僕は物語のはじまりのところがとても好き。どんなに好きな映画でも最後どうなったか忘れてしまうことってよくある。でもどうはじまったかは絶対に忘れない。小説でも、はじめの一行がよかったら買っちゃう。図書館で一度、はじめの一行だけを読んで、戻してって、本棚の前で一日中やったことがあるくらいだ。今、こっそり見てるドラマがあるんだ。どうしてこっそり見てるかって言うと、夜の12時半からやってて、ちょっとエッチなシーンなんかもあるからだ。エッチなシーンって言っても少し短すぎるスカートを履いた女の人が出てくるくらいだし、キスシーンだってない。何せそのドラマは、探偵のお話なんだ。そのドラマは毎回主人公のモノローグからはじまる。かっこよくて、ちょっとだらしない探偵は、欠かさず毎回僕たちに自己紹介してくれるんだ。もう丸暗記してあるから、すらすら書けるよ。
「俺の名前はー。この腐った街で探偵をしている。頼ってくる奴は金のない奴ばかりだ。たまにやってくる金のある奴は大抵やばいことをやっている。つまりどっちにしろ最悪ってこと。それでも俺は探偵をやめない。腐った街の道ばたに咲いてる花、きいろいあの花、何だっけな。名前は忘れたけど忘れたってきれいなままのあの花。ああいうのを見るのが好きなんだ。きれいな街の花壇の花じゃ、なんか足りないんだよな。そんなわけで俺は、この腐った街で探偵をしている。そういう男」
4
遠くの、古いビルにはりついた外階段。渋谷の、狭い路地に並んだ自動販売機のそばに立ってそれを見ていた。
紙袋を提げた外国人が路地に入ってくる。向かいの地べたに躊躇なく座り込むと、袋からスニーカーの箱を取り出し開封した。バスケット選手が履くようなハイカットの大きな靴には型崩れ防止の紙が詰め込まれ、紐は通されていない。大きく黒い手が真っ白な紐を手に取り、その長さを確認する。膝の間に靴を挟み、整列した穴を右左に辿りはじめる。まるで自国の道上に居るように穏やかな顔をしている。無事に紐を通し終えると、履いていた靴を放り出し、できたての一足に着替える。前を通りかかった女性が彼の放り出した靴を避ける。不服そうな表情を向け、去って行く。異国の薄暗い路地で、男は自分の両足に見惚れて微笑んでいた。
私はもう一度、ビルにはりついた外階段を見た。さっきよりも明るい気がした。わずかに見つけた空が青い。雲に隠れていた太陽が顔を出したらしい。横断歩道の白線が光りはじめている。人々が踏み行き、影が伸びる。混ざりこむようにして路地を去った。
褪せたフェンス越しに、剥き出しの電車が途切れなく行き交っていた。
線路と車道に挟まれた道は領土争いに敗北したように狭く、人一人がやっと通れるほどの幅しかない。前を行く男女を抜かすこともできず、後ろにつづいて歩いていた。並んで歩くことをあきらめた恋人たちは前後に配列を改め、前から来る人に体の向きを変えた。一連の動きの間中、何かについての意見を述べ合っていた。道に散りばめられた障害物は彼らの言葉に何の影響も与えていないみたいだった。この街の恋人たちはとても器用にできていた。電柱に貼られたたくさんのシール、トンネルの壁の落書き。犯人はこの街の子どもだろうか。それとも別の街から来た子どもだろうか。あのビルにはりついた外階段を使っている子かもしれないな。秘密に手に入れた鍵を握りしめて、ひとり座っている子かもしれない。
駅とビルをつなぐ巨大な歩道橋。頭上を横切る首都高の音が響く。手摺に胸を付け、くり抜かれた中心を見下ろせば連なる車と工事現場。シャッター音が響き、後ろを振り返る。大きなカメラを提げた男性が橋の中央に立ち、レンズを覗いている。その先には、夕陽をその身に隠したビル群があった。橙に縁取られた無口な建物の前をせわしなく行き交う人々。途切れるのを待つこともなく、シャッターが切られた。
確かにその景色は美しいもののような気がした。私はでも、そうじゃないんだと声なく訴える。掴みたいのは切り取った一瞬ではなく、もっと違った何かなんだ。それは同じように夕陽が沈むまでのほんの少しの間にしかないのかもしれない。明日にもその先にもない今日だけのものなのかもしれない。もうすぐ終わるのかもしれない。私は歩いた。舗装中の階段を下る。道端に供えられた花を見つける。犬の銅像との写真撮影の行列を見つける。献血の呼び込み、喫煙所に押し込まれた人々、公衆トイレ、ごみ袋を突くカラス、坂の途中の花壇、スターバックス、交差点。
ガラス張りの遊歩道を、夕陽が照らしていた。掴めそうで掴めない。あることだけが分かりもどかしい。夕方はとてもきれいで、私は掴んでみたいと強く思う。夕方よりも大きいものを、手ぶらで掴んでみたかった。一番遅い速度でも難しかった。ゆっくり進んでも、夜は来てしまうらしかった。真夜中に思いついて書きつけた一篇の影絵は、掴みきれなかったものの欠片だろうか。
極端なことを言えば、作れなくてもいいんだ
土で汚れた陽のにおいのする衣をまとい、
石を蹴りながら歩く少年
残らなくても
あの古い歩道橋のように体を空に近づけたい
海を出てよかったと空に近づき何度思おう
地下と壁と塔の国で汚れながらやはり
中の光る石を美しく古びかせているうたびと
小さな基地で写真のないあの子の顔忘れない夢を見る
5
朝から降り続いていた雨が止んでいた。
体はあと数時間後に迫る夜を乗り越えるには元気過ぎていた。棚から見つめてくるすべての遊びの想像がつまらなく、部屋を出た。新宿の映画館へ向かった。夜の7時を過ぎていたが街は人であふれていた。コンクリートから吐き出された雨の息が通りのガラスを曇らせている。飲み屋の排気口から出る煙がやけに濃い。雨粒を乗せた車、傘を畳み持った人々。バケツの下の方に溜まった汚れた水みたいな街だ。部屋を出た後悔が迫り、振り払うように目的地へと急いだ。
映画はひどく物足りないように感じた。期待し過ぎていたのかもしれない。再開した雨上がりの街に変化はなかったが、密室からの解放感からか、あてもなく歩きたくなった。
新宿には苦い思い出があった。
東京に住みはじめて間もない頃のことだ。私はその日新しくできたという商業ビルに向かっていた。夏の、蒸し暑い午後のことだった。
「何してるの? 一人?」
横断歩道を渡っている途中で男に声を掛けられた。
「はい。ちょっと、買い物です」
戸惑いながら返事をした。歩く速度をはやめ、できるだけ感じの悪くないように男を振り払おうとした。しかし男はかなりしつこかった。私の全力の早足は男にとって何の障害でもないらしく、横にぴったりとついてきた。私は早い段階で目的地を見失っており、人通りの多い道を選ぶことだけに集中していた。歳はいくつ?彼氏はいる?仕事は?ちょっとあっちで休まない?疲れたでしょ?お茶おごるから。ね? 男を完全に無視できずに曖昧な返事をしていた私は、いつの間にか一度きりのセックスに誘われていた。男はアダルト関係の仕事をしていたんだと誇らしげに話し、その手のことには自信があるからと諭すような笑みを向けてくる。正直なことを言うと、男性の肌が恋しくないわけではなかった。長く恋人もいなかったし、長い事していなかった。こんな機会はそうないだろうな。一度くらいやってみてもいいのかもしれない。淫らな想像が頭をよぎった。けれど私は思い出してしまった。その行為によって浮かび上がるものを思い出した。忘れかけていたその細部や匂いを思い出し、ああいうものだったよなと、売場に並んだ果物が自宅の冷蔵庫で腐っている場面を想像するように、後の景色を見てしまった。
セックスという行為はいつも何かを分からせてきた。始まると同時に何かが分かり、終わるまでにすうっと消えるものがある。分かってしまうのは愛のなさで、消えるのは恋なのだと何度目かにひらめいた。欲望は、なんて愛に遠いのだろうなんてことを思う。そんなことは思いたくなかった。蘇った記憶に背中を押され、無理だと告げた。男は自分が費やした無駄な時間を悔いたのか、酷い暴言を吐き捨て去って行った。血が込み上げてくるみたいだった。せき止めるように口呼吸を封じ、行き先を見失った新宿の街を長いこと歩き続けた。
街には愛よりも欲望が分かりやすくあり、至るところを徘徊している。時より角でぶつかって、交わり合ったりするのかもしれない。私の欲望は小さかったのだろうか。それとも何かその形が、違っていたのだろうか。もしも男が笑っていなかったら、影を選んで座り込んでいるような人だったら、私はしていたような気がした。そんなことを思う自分がひどく欲深い人間に思えた。もう来ないでおこうと思った新宿に、私はその後も何度か来た。用もないのに歩いた。一つの街に人間が密集している。心地よいはずなどないのに景色は変わらない。それは何か、どうしようもない欲望を見ているようだ。人にしかない、他人でしか満たすことのできない欲望を手に相手を探しているように見える。私もその中の一人だ。この心地悪い街を、どうしても徘徊してしまう生き物なんだ。
予報に反し、また雨が降りはじめていた。
霧雨に晒した洋服が重くなりはじめた頃、ようやく帰ろうかという気になった。部屋を出た後悔は消えていた。駅前の交番には数人の警官が真夜中に備えていた。虚ろな表情で立ち並び、霧中の人々を眺めている。まだ終わらないらしい街に背を向け、私は改札につづく階段を降りていく。
6
自分の面積がひどく小さくできているような気がしていた。人は私に、とても大きな面積を必要とした。他人であっても家族でも恋人でもみな同じように大きかった。目が合う、言葉を交わす、隣に座る、触れ合う。はじめから大きく、近づくにつれて膨張した。胸や頭が占拠されていくみたいに窮屈になり、離れたくて仕方なくなった。自分を知った人たちの前から消えたいという願望が定期的に訪れた。親切にしてくれる人も、好いてくれる人でさえ狭い部屋に無理に入ってきた厄介者みたいな視線を向けることになった。自分はいつだって一人にしておくべき人間のようだった。長く眠ることにも懸命にならないことにも罪悪感を持たず、むしろその方が世界に優しくあれているような気がした。
どうしてこんなことになってしまったのかと考えない日はない。何かの病気かもしれない。昔からあった、現代になって名前を与えられるような病気ではないだろうか。いや、成長過程に問題があったのかもしれない。皆がちゃんと拾った重要な道具を拾い忘れてしまった可能性はないだろうか? 一体どこで拾い忘れた? 何がいけなかった? 学生時代を振り返り書き起こしたことがある。選んだ学校、入った部活、二人組を作るときの女の子、ミシンで作ったナップサックの柄、髪型、爪の長さ。思い当たることは果てしなくあり、ノートの一ページはすぐに埋まった。
すでに間違えた後のような顔をした制服姿の少女は、いつも夜を待っている。週末までの日数を数えている。
両親の聞いていた音楽を聴き、兄の見つけてきた面白いものをとなりで見つめた。お笑い、ドラマ、映画。兄の瞳が辿り終えた小説や漫画を追いかけるように辿った。いつも母の影に隠れていた。人形に話しかけた。犬と歩いた。学校がきらいだった。朝がきらいだった。家が好きだった。金曜日と土曜日、お正月のリビング、父の大きい車。
もしもすべてのものごとに原因と結果などないとしたら、私の面積は小さくないと言えるのかもしれない。小さくはなく、すでに多くのもので埋まっているのかもしれない。残りのところが少ししか余らないくらいに大きいものを得ている。
春がやってきて去ってゆくほんの一瞬くらいは、そう思うことにしている。
⁂
シナリオ
『風と女』 電車
女が駅のホームに立ち、電車を待っている。
都会の、いくつもの線が行き交う駅のホームの端。
そのホームだけは人がまばらにしかいない。
女は真っすぐ前を向いている。
視線の先には、壁に張られた化粧品メーカーの広告版。
メイクした若い女の子がリップを片手に笑っている。
ゆっくりと電車がホームに入ってくる。
銀と白の二色で、三両しかない。
色褪せ、古くなるにつれてかっこよくなるお菓子の缶みたいな見た目をしている。
女の前に扉が辿り着き、開く。
同時に、女の後ろに一人の男がやって来て、乗り込む女の後ろをついていく。(スニーカーを履いた足元だけが映る)
女を乗せた電車は内緒で走り出すみたいにゆっくりと発車する。
車内。
二人掛けの椅子が向かい合った座席が並ぶ。
女は窓際に座り、外の景色を見ている。
山の上に、形のいい雲が浮かんでいる。
男の声「白いうみのいきものみたいな雲だね」
女の足の向かいに、男の足。(さっきの足と同じ)
女は返事をしない。
ただ空を見ている。
男「山のてっぺんの白いところを食べて生きているから、白いんだ」
女はまだ、沈黙をつづける。
少し疲れたわと言うように窓枠に肘を置き、手の平の上に顎をのせる。
ふいに、窓の下のところの壁、向かいに座っている男の膝の上辺りにちいさな陽だまりができる。
女はそれに気づき、あ。と見る。
男がそっと、陽だまりに手を添える。
女がやっと喋り出す。
女「乗り物に乗ると、何かとてもなまけているような気になるの」
男の顔が初めて映される。
女と同じものを見ているように、窓の外に目を向けた幸福な横顔。
男「そうかな」
女「車輪を持ついきものっていないんだって。いきものをなまけているのよ、わたし」
男「それでも何かに乗らなくちゃ、行きたいところへ行けない。とても時間がかかるよ」
女「そうね。それでもそうした方がよかったんだと思う。切符の買い方も自転車の乗り方も忘れてしまう頃、本当に行きたいところを探しはじめるの。この世界から消えてしまったあとに、わたしきっと行きたいところに行けると思うな」
男「雲がまた、大きくなった」
窓の外には、山と雲。
女「白いところを、食べたのね」
〈風のメモ〉
雲のある青い空が一番好きだ。青いだけの空よりも楽しい感じがする。雲って同じ形にならないからいつまでも見ていられるし、今日しか見られないんだなって思うと見ていない方がちょっと怖くなる。最近、目覚まし時計の時間が遅れはじめた。テレビの下に出ている数字と目覚まし時計の数字にずれがあることにある日気づいて、遅れていることが分かった。最初はテレビと目覚まし時計のどっちが壊れているか分からなかったから母さんの携帯を見て確認した。僕はふと思った。もしもこの家のすべての時計が壊れているとしたら、僕たちはどうやって時間を知ればいいんだろう?
でも時間って数字だから、数字は人が生み出したものだから、時間って本当はないよなって思った。いや、時間はあるけど、時間を表す数字?はない。何かよく分からなくなってきた。つまり僕は時間って何なんだよって思った。それで少し本を読んで調べてみた。難しいことばかりでよく分からなかったけど、時間の感じ方が違うっていう話がおもしろかった。大人と子どもでは時間の感じ方が違っていて、大人の方が一日が過ぎるのがはやく感じるらしい。新しいことを目にする機会が減ったり、仕事をしていて日常の小さなことに目がいかなくなるかららしい。子どもは毎日新しく知ることがあって、外で遊んでいて天気や陽の落ち方を見ているから長く感じやすいってこと。僕はいつまでも一日を長く感じていたいって思う。だから大人になっても雲がある日は雲を見るようにしたいし、太陽にも月にもあいさつして、今日はそこなんだね。とか、今日はその形なんだね。とか心の中で言いたい。だから外にいられる仕事がいいな。
7
とても久しぶりに洋服を買った。地元にもあった古着のチェーン店には懐かしい匂いが充満していた。様々な場所から持ち込まれた洋服が集っているのに、その場所はどこも同じ匂いがしている。その事実が小さな頃から不思議だった。
古着を初めて買ったのは中学生くらいだったと思う。かっこいいものを見つけてくるのは必ず兄の役目だった。一番上の兄が見つけてきたものを下の兄が声高らかにかっこいいと賞賛する。私は一人置いていかれないよう輪の中に分け入り、大きな洋服を広げて観察した。知らない人の家みたいな匂いがしていたり、色が褪せていたりしみがあったりズボンは破れているところがあったりした。週末に行くショッピングモールの洋服店では見た事のないものがそこにはあり、私はとても驚いた。古着を纏った兄はとてもかっこよく、私も行きたいとすぐに母にお願いした。父や母はあまり理解できなかったようで、他の用事を済ませてくるからと子どもたちだけを車から降ろすことが多かった。兄たちと一緒になってメンズコーナーの古着を物色する時間はとても楽しかった。私の服装はどんどん男っぽくなっていった。いつの間にか洋服棚からスカートが消えていた。当時ほど古着熱はないが、洋服を買う場所はずっと変わらず古着屋だった。
久しぶり買った古着はメンズのトレーナーで、有名なアウトドアブランドのロゴが胸元に刺繍されていた。襟元はくたびれ一部にしみもあったが、北欧を思わすきれいな橙色が目を引いた。あまり見ない背中の縫い目と、隅にひっそりと縫い込まれたワッペンが気に入り、買おうと決めた。見た目を気に入り買ったトレーナーだったが、その洋服にはもうひとつ大きな要素があった。匂いだった。その洋服からは、とても覚えのある匂いがしていた。それはどこの古着屋にも同じように漂っているあの匂いではない。その服に染みついた、物の持つ匂いだった。集えば同じ匂いが空間を満たすのに、やはり一つに離れれば匂いが違っている。小さな頃に感じていた不思議さは解明されることなく続いていたらしく、私はまたそれに頭をこつんとぶつけていた。
私はその匂いを、高校生の時によくかいでいた。その匂いは、自分ではない他人の体、性別の違う大きな体を包む清潔な布から放たれていた。おそらくその人の家庭で使われていた洗剤か、柔軟剤の香りだったのだと思う。当時付き合っていたその人はとてもインドアな男の子で、会うのはほとんどがその人の家だった。クラスの皆が認めるくらいゲームが得意で、レベルの高い顔文字が作れた。少し引いてしまうくらい母親への反抗心が強く、私が家に行くと絶対に部屋に入ってくるなと冷たげに忠告した。母親はあきれた様子ではいはいと返事をし、私にゆっくりして行ってねと微笑むのがお決まりだった。部屋に入ると、決まって彼は上だけ私服に着替えた。制服のズボンはグレー地に細かいチェック柄のズボンだった。Tシャツやトレーナーとは少し不釣り合いだったが、学校と切り離されている実感が持てて私は嫌いじゃなかった。何よりその着替えた洋服からする匂いが好きだった。抱き合ったときには思いきり息を吸い込んだ。布団の中もそれに似た匂いがしていて、事を終えた彼が満足げにゲームの世界に帰ってしまった後、一人その中で目を閉じた。部屋に行くとまず彼の好きな海外ドラマか借りてきたDVDを流し、十分も経たずにベッドに潜り込むことになった。気持ち良さなど分からなかったし、初めての性体験に素晴らしさを感じた記憶もない。ドラマや漫画で見て想像していたものとはかけ離れていた。それでも高校生の私にとってその行為や光景が他の何よりも新鮮なものであり、唯一興奮できるものだった。青春を捨てさせられたような規則だらけの高校だった。教室の中だけの友人関係、退屈な部活、母と二人きりの夕飯。楽しいことが足らな過ぎていた。私はその不足感に腹が立っていたのだと思う。決して歓迎されないであろう彼との行為は、抵抗できない周囲の人たちへの密かな裏切り行為とみなしていた。自分は縛り付けることのできる従順な人間などではないんだと行き場のない苛立ちを晴らしていた。体の快感はなかったけれど、別のところにそれを確かに感じていた。ゲームは好きではなかった。海外ドラマは面白くなかった。レベルの高い顔文字での会話が苦手だった。鈍感ではない彼は私に苛立ち、何度も傷つけられていた。心が通った瞬間は、たぶんなかったと思う。
あの人と同じ匂いがしていた。あの頃と同じ匂いがしていた。とても良い匂いだ。私はこの匂いがとても好きだなと思う。首元の布を握り鼻先にくっつける。匂いは、記憶と結んで仕舞われているだろうか。キーボードを素早く叩く彼の指のかたちを、思い出した。
8
もう死んでいるか、世界が生と死で混ざり合っているかのどちらかだと思った。
四時間は歩いただろうか。首都高に蓋をされたような薄暗い道を長いこと来た。休めそうな場所と言えばバス停の腰掛くらいで、何かを食べるのは気が引けた。足は疲れ、とてつもなく腹が減っていた。電車の駅にぶつかり人通りが一気に増える。駅に直結した商業ビルに洒落たテラス席を見つけ、スーパーで買った菓子パンを手に座った。頂上に木が植えられた四角いピラミッド型のベンチ。反対側ではおじさんが仰向けになって眠っていた。ベンチを囲むように店が並んでいた。改札とコンビニの中間辺りに腰を下ろした私の前を、思っていたよりも多くの人が横切っていく。私の目前には一本の柱があった。柱と私の間には一メートルと少しくらいだろうか、微妙な距離がある。私はうつむきがちにパンを頬張りながら人々の足元を見ていた。私の視界を行く足は二つのパターンに分かれた。私を避けるように柱の向こう側を行くか、コンビニへのわずかな距離を縮めるため柱のこちら側に来るか。こちら側を通過する人々の足は少し驚いてしまうくらい近かった。それでもこちら側を選択する足が多かった。大半の人が私との接近に躊躇わなかった。
「そんなだから舐められるんだよ」
いつか誰かに言われた言葉を思い出していた。的を得た言葉だなと思ったのを覚えている。同じ作業を同じようにこなしているはずなのに私だけに向けられる態度や言葉がある。染みついて消えない私の何かが、一定数の人間のスイッチを押してしまうのだろう。気づかされた時、私は人よりも多くと心がけていた優しさや真面目さをごっそり手放した。それでも手放すことの許されない無意識の思考や座り方、性別や身長、表情が時に誰かの企みに火を付けるらしかった。池で水の流れを眺めていればお爺さんに長々と生涯を語られ、公園の椅子に座れば協会に行こうと説経される。今起きている現象も、そういうものの一つなのかもしれない。暫くして女子高生数人がやって来た。私との間に一人分くらいの空間を残し、肩から下ろした鞄をどんと置いた。慣れた手つきでスマホを設置し、同じ一点を皆で見つめ踊り出す。私は残りのパンを一気に口へ放り込み、立ち上がる。反対側ですやすやと眠り続けるおじさんを一瞥し、洒落たテラス席を後にした。
バス停に並ぶ三人の男子学生を避け、狭い道を進む。横断歩道にさしかかり、赤信号に立ち止まる。横断歩道を渡った先を歩いている学生の後ろ姿が目に入る。何かが引っかかった。頭の形、背負ったリュックサック、ぶら下がったぬいぐるみ。ついさっき見たバス停に並んでいた子の一人にとてもよく似ていた。瞬間移動だ、と思った。疑いもなくそう確信したことには理由がある。
数日前から死んだ人にとてもよく似た人を見かけるようになっていた。歩いていてふと、死んだ人の気配を感じることがあった。久しぶりだねと声を出してしまったくらい自然にそこに感じた。それは必ず歩いているときに起きた。道の真ん中でじっと動かないとても大きなカエルを見た。オカメインコとカラスの喧嘩も見た。瞬間移動くらい起きたって驚かない。四時間も歩きつづけていれば一度や二度、立ち会える現象だろう。自分の目にした異常現象を、私は速さと引き換えに見失っていた光景のように思っていた。走る電車からたんぽぽの花が見えないみたいに。
まだ、可能性があるよなとひらめいた。私がもう死んでいるという可能性だった。体の近くを通り過ぎていく人々、となりで踊り出す少女たち、疑問を浮かべた瞳。外側からもたされるものだけではなかった。ある時期を境に、未来や将来についての話題や、そんな言葉で浮かび上がる光景から距離を取るようになっていた。それは現実からの逃避といった感覚ではなく、もう失われてしまったものへの諦めに近かった。雨に笑っている子供、トラックから荷物を降ろす配達員、両手いっぱいに買い物袋を提げた母親。瞳に映る光景がひどく現実離れしているように見える。違う世界を見ているようなんだ。こんな私はもう死んでいるのかもしれない。それかそれに近い、とてつもなく薄く幽かになっているのかもしれない。
死んだ人は、いつもどこにいるのだろうか。呼ばれなくなった名前を覚えているだろうか。すぐに忘れてしまうだろうか。死んだ人は、道にいるのかもしれない。風みたいに大きな一つの名で呼ばれ、留まることなくどこかを流れつづけている。風よりも小さくまとまり、風よりも色のある体を持って、地面から少し浮いた場所を歩き続けているのかもしれない。
私は死んでいるだろうか。それとも死んではいなく、世界が生と死で混ざり合っているということだろうか。
〇
また、夢を見ていた。
私はかっこいいと思っていた俳優の人と布団の中にいる。とても近くにいて、そういう行為に自然にうつっていく。その人の舌が喉の奥の奥に入ってきて苦しい。座る体勢に変わると、動きが激しくなっていく。私はとてもきもちよくていきそうになる。しかしいくことはできない。動きがだんだんにぶくなりはじめたからだ。その人はでも動きを止めないまま、ぼそぼそと長い話をはじめる。学生の頃に何かの運動部に入っていて、そこでは集団独自の笑いがあった。一発芸みたいなものを一人一人みんなの前でやらされるのが日常で、それがとても嫌だったという内容の話だった。
「とても嫌だったんだ」
私の好きな声と、甘えた喋り方でつぶやいた。
いつの間にか下半身の動きは止まっていて、私はいけなかったことを少し残念に思っている。誰かとのセックスでそうなったことのなかった私はいきかけたことだけでもうれしく、まあいいかと思い直す。腕の中の寂しそうな男性を愛しく感じ、頭を撫でる。いつもの帰り道でとても大切な話をするように、行為にふけりながら嫌だった記憶を話すその人がいいなと思っている。それくらいなめらかに行われることだってあるんだと感心している。
私はこんなどうしようもない夢をよく見るようになっていた。目覚まし時計をやめたことが原因かもしれない。私は以前よりもたくさん眠るようになっていた。以前よりも歩き、野菜を食べ、お菓子よりも果物を好んだ。もしかしたら、動物に戻りはじめているのかもしれない。脳みそが縮小しているのかもしれない。目覚める前に見る夢は願望の現れで、私の本性はとても卑猥でどうしようもないものだということだ。
心の音が、澄んできた耳にうるさいくらい響いていた。
大切だったもうないもの、持っていなければいけなかったものがぼろぼろと露わになってきていた。脳みそや言葉や数字で隠していたものが声を上げようとしている。今更会ってもどうしようもないものが堰を切って流れてくる。それでもその温度は脳みその冷たさではなく動物の熱さだった。言葉など当たり前になく、ただ熱を持ち、探しているものにとても近いと思った。何かが、分かりかけているような気がした。
もうどうしたって拾えないものを朝に思い出して
あきらめたように目を閉じる
被害者のような態度で目覚まし時計をやめた
生活の朝に愛されることはもうないだろう
月の舟に漂い
流れ着いたみなとを
もう愛せるかどうかだけなんだろう
できあがった影絵は、無線機に呼びかけた最後の言葉のようだった。
「こちら月の舟、月の舟。応答願います」
⁂
シナリオ
『風と女』 舟
夜が迫っている池。
小さなボートに乗っている男と女。
営業時間を過ぎたボート乗り場。
チケット売場のシャッターは閉まり、池の脇に整列したボートが微かに揺れている。
桟橋に、麦わら帽子を被った係の男が一人。
汚れた一艘のボートを洗っている。
誰もいない池。
ボートの上で向かい合う二人。
男がボートを漕いでいる。
女「あなたがもっと早く起きていれば、こんな夕暮れにならなかったのに」
男「早く起きてたら、ボートになんて乗らなかったと思うな。今頃ゲームセンターでメダルゲームでもしてるんじゃないかな。早く起きてたら」
女「そんなの最悪。わたし、メダルゲームすごく嫌い」
男「ぼくだってそんなに好きじゃないさ。でもさ、早く起きるってことはそういうことなんだよ。好きじゃないメダルゲームに導かれるようなことになるんだ。とても小さいレタス一枚しか入ってないハンバーガーを食べずにはいられなくなったりね」
女「そんなことにはならないわ。素晴らしい青空が見られたはずよ」
男「そうかな」
女「そうよ。夕陽だって見えない」
男「じゃあ月を待とうか」
女「無理よ。あの人に怒られるわ」
女は桟橋でボートを洗う男を見る。
男は麦わら帽子を脱いで、溜息をつくように二人を見る。
男「でも、優しそうな人だよ。ごゆっくりって、言ってた」
女「ああいう人が怒ったら怖いのよ。撃たれるかもね」
男「ふは。それ、おもしろいね」
女「もう、戻った方がいい。あっちに漕いで」
男「ぼくさ、夜には舟があると思うんだ。月の舟」
女「今更ロマンチックな話されても困るな」
男「月の舟に乗って、みんな明日に向かうんだ。ロマンチックに言うとね、次の日っていう港だ。同じところにいてもさ、どこかに流れているんだよきっと。違うところばかりにぼくたちは行っていて、だから同じ形の雲は見られないんだ」
女「あなたはでも、今日の雲を見逃したわ」
男「それはたしかに、惜しいことをした。謝るよ」
女「ねえ」
男「ん?」
女「もしもさ、月の舟に乗れなかったらどうなるのかな。眠れなくて、そのまま朝になってしまったら」
男「それでも次の日には行けるさ。でも、とてもとても疲れている。ずっと歩いていたみたいに、君はとても疲れているんだ。窓も開けないで、昼に瞼を閉じる」
女「それは、いやだな」
男「そんな夜がもしあったら、ここに一緒に来ようか。二人で風のない夜を漕いで、自力で明日に向かうんだ。歩くよりはましかもしれない。一人よりはましかもしれない」
女「そうしたいな。でもわたしたち見つかって、あの人に撃たれて死ぬかもね」
ボートを洗い終えた係の男は、桟橋に座ってピストルを磨いている。
男「じゃあ、新しい麦わら帽子を買いに行こうか。とても素敵なプレゼントをして、見逃してもらおう」
〈風のメモ〉
僕はその日二段ベッドの下で眠っていた。いつもは上で眠るけど、その日は弟がどうしても上で寝たいって聞かなくてそうした。いつもと何か違ってて、なかなか眠れなかった。はしごを登って弟の様子を見に行ったら、弟はすやすや眠っていた。リビングに水を飲みに下りた。母さんはまだ起きているかなと思ったけどリビングは真っ暗だった。母さんも寝ていた。みんなが眠ってしまった家はとても静かで、とても一人ぼっちに思えた。ベッドに入ってまた眠ろうとした。そしたら「ねえ」って声がして、目を開けたら妹がいた。ベッドの柵のところに手をかけて僕を見ているらしい。「どうした?」って言うと、「うーん」しか言わない。「入る?」って聞いたら、「うん」って言う。僕は夜の仲間を見つけたようなきもちがして、顔には出さなかったけどとても安心した。妹はうふふって感じで僕のとなりで笑って、すぐに眠った。それからのことは覚えてないから僕はすぐに眠ったんだと思う。一人で寝ているときは思わなかったけど、妹と寝ていて思った。ベッドは舟みたいだなと思った。じゃあ夜は海なのかもしれないって思った。
9
見慣れた駅の風景が違っていた。
改札を抜けて見えるはずの時計台がない。バスを待つ人の列も自転車置き場も見当たらない。降りる駅を間違えたのだろうか。改札の上に掲げられた看板を見て気づいた。いつもとは反対の降り口から出てきてしまったらしい。それにしても雰囲気が違い過ぎていた。風俗店らしき店がぱらぱらと並び、その先は薄暗い道が続いていた。不気味に思いながらも、少し歩いてみることにした。
道に沿って線路が続いていた。しかし線路には一台の電車も走ってはいない。誰も乗せていない車両が何台か停まっており、その脇に倉庫のような建物がある。しばらく行くと大きな門があり、その向こうには新品の電車が屋内に停まっているのが見えた。どうやらその場所は車両基地だったらしい。電車の点検整備、車掌の研修などが行われているとある。確かにその周囲には社宅のような建物が並んでいた。
電車の走っていない線路は思っていたよりも長くつづき、私は何かとても不安な気持ちに襲われた。線路の向こうには見慣れたビルが明るかった。終わりそうにない線路が道を阻んでいた。やっと見つけた歩道橋は今にも崩れ落ちそうなくらい錆びていて、しかも線路内を移動するためだけのものだった。途中の道で救急車が止まっていた。古びた社宅の庭には片づけを途中で放り出したのか、封の開いたゴミ袋が置きざりにされていた。小さな公園には遊具が極端に少なかった。帰りたいと思った。明るいあっち側へ戻りたい。閉じ込められた子どものようにナーバスになっていた。
私は思い出していた。いつかテレビで見た、どこかの国の高く長い壁のことを思い出していた。ナレーターが言った。―世界の壁は今この瞬間にも増え続けているのです。その長さは地球一周分に届く程の長さになりつつあります。
壁を見上げる小麦色の男がつぶやく。
「壁の向こう側よりも、月に行く方が簡単な気がするよ」
男と月の距離はとてつもなく遠く、しかしそこに隔たりはない。
カラスが線路を横切る。一秒も使わず向こうに渡る。神様は、翼の代わりに何を備えつけたのだろうか。十本の指か、複雑な脳みそか、言葉か文字か。私たちは何で、空を飛べばいいのだろう。土を積み上げ針金を結ぶ両手が今もどこかで動きつづけている。空を飛べない者と、空を飛べない者を、出会わせないための壁。
僕たち本当に、空を飛べない?
いつもの降り口に辿り着いたのは日付が変わる直前だった。見慣れた商店街を前にして、とても遠いところから帰ってきたような気持ちになった。商店街を抜け、自宅までの短くはない静寂を一人歩く。このような夜はめずらしくはなく今はもう日常に近かったけれど、私はしつこく確認する。私は今、一人夜の道を歩いている。私がこの道を一人歩いていることを私以外の誰も知らない。そしてあの小さな町の小さな駅で電車を待っている私が誰よりもそれを知らない。私の今はここなんだ。街灯が作る一人の影と、風の匂い。現実であることの証拠を確認し、私は自由という言葉をありきたりに浮かべ、すぐにかき消すように笑った。ちゃんと返してねと念を押された借り物のようなそれを、誰にも奪われるまいと怯えている。日夜点検員のように指さし確認を繰り返す私に、その言葉は似合っていなかった。
公園に立ち寄って池を眺めていると、水面にできた光の直線を一羽の鴨が横切った。ある人のことを思った。同じところで働いていた人で、数日前に退職した人のことだった。お礼の手紙を書いていたときに、私は自分の連絡先を伝えておこうか迷った。伝えない限り、もう二度と会えないことは明白だった。また会いたいと思っていた。もっと話がしたいと思っていた。けれど私は、結局その手紙に連絡先を書かなかった。
何かを逃がしてやったときの悲しみに似ているなと思った。川で捕らえた魚を逃がしてやったときみたいだ。それでも引き換えにやってきた感動に補われている自分がいた。これでよかったんだ。探している欲望の色は、あっちじゃなかったさ。誰かが隣で囁いていた。
10
年に一度、訪れる街があった。田舎にいた頃は海を渡ってすぐだったその街は、今はとても遠い場所になった。新幹線で約四時間。よほどの用がない限り費やせない時間とお金をかけ、私は毎年その街に行く。始発電車に乗り昼前に駅に着くと、あとはひたすら街を歩いた。お腹が減ればスーパーでパンを買い、人の少ない公園を探して食べる。観光地には行かない。写真は撮らない。食べ物と飲み物以外のものは買わない。陽が暮れて、夜になって、もう歩けないと思う瞬間がくる。その瞬間がやってくるまで歩きつづける。やってきたら、最寄りの駅をマップで探しできるだけ楽な手段で帰る。はじめはちゃんと目的があった。あるアパートを探すために歩いていた。小さい頃に私はそのアパートに泊まった。ワンルームの部屋はとても狭く、真ん中に置かれた小さなこたつだけで床のほとんどが埋まった。こたつを壁際に寄せ、一つしかない布団を敷いて眠った。家主はこたつに足を入れ、座布団を枕にして眠った。遠くで電車の音がした。住んでいた家とは違った、何か香水のような匂いがしていた。その人からも同じ匂いがしていた。私はそのアパートを探すために歩いていた。どうしてそんなことをしているのか、自分でも的確な答えは分からなかった。もうその人はそこに住んではいなかったし、見つけたところで何がしたいというわけでもなかった。それでも私はそのアパートに行きたかった。無性にそれをもう一度見たいと思った。三度目くらいだろうか。アパートを見つけるのは無理かもしれないと思った。歩くという動作はとても遅く、そして道は無数にあった。建物は訪れるたび更新されていた。
次の年、雨水が溜まったバケツのように街へ行きたいという思いは満ちていた。もう、アパートは探さなかった。少し見慣れてきた街を疲れるまで歩いた。その日はじめて街に流れる大きな川の存在を知った。川沿いに設けられた土手道が車と歩行者をくっきりと分けていた。土手を下りた川べりの道は見捨てられたようにひっそりとし、誰も歩いてはいなかった。貸し切りの道を長いこと歩いた。対岸に見えた大きな一本の木が、すすきの群れの中できれいだった。巨大な橋は褪せた色で古さを知らせていたが見覚えはなかった。橋を支える大きな柱が川を突き刺し、時より水面の光を映していた。歩道は途中で途切れ、私はその先につづく川を見送った。土手に設けられた階段に座り、しばらく川を見た。川の向こう側に制服を着た少年が立っていた。自転車の横に立ち、ハンドルを握っている。少年と私の距離はとても遠く、その瞳が映しているものを知ることはできない。しかし直線上にいる彼から視線を感じないことはなく、居心地の悪さが募っていった。私は足の疲れを残したまま立ち上がり再び歩き出した。少しして後ろを振り返ってみると、自転車にまたがる少年の姿が見えた。私はまた、歩き出した。
あの街に住み、あのアパートに住んでいた人はもういない。死という言葉を、いつも私は遠まわりせずにはいられない。大人になって随分経つけれど、まだその言葉を上手くつかめていない気がする。この国には美しい言葉が多く存在し、「死」という言葉を使わなくても大した支障はない。それでもそのどれ一つとしてぴんとくるものがない。そして一番問題なのは、それに付随する感情が見つからないことだった。言葉は許されても、気持ちは許されない。この大きな欠落が、私を異常なほどの歩行に導いているのかもしれない。
誰かを愛しはじめたときのような心もちで、
よく見かける花を招いた陽の輪を眺めていた。
ふたりの記憶がひとり見た川の記憶になったとき
君の幽かさを愛し、
僕はひとり僕らのように、
影を横目にあの道を歩くだろう。
もう少し。もう少しで僕はまた、君のスイッチを入れる
⁂
シナリオ
『風と女』 ラストシーン
女と男が、別の道を歩いている。
どこかに向かっているような速さ。
女の歩く道は、都会の道。
車が行き交う街にある遊歩道、飲み屋が並ぶ路地、活気のある商店街。
髪を一つに結い、人を掻き分けながら歩いていく。
男の歩く道は、田舎道。
鉄塔が見え、空が広い。
一軒家、田んぼ、柴犬、軽トラ。
無言で歩く二人を背景に、声が入る。
男「変わらない愛、見つかった?」
女「生きてないものへの愛はどうかな。たとえばそうね、ぬいぐるみとか」
男「なるほど。ぬいぐるみとか、靴下とかだ」
女「そう。ぬいぐるみとか靴下とかリップクリームとか、あと、幽霊とか」
男「幽霊か」
男は道の途中、あまり立派ではない、こじんまりとした
鉄塔にぶつかる。
鉄塔の足元で何かがひらひらと揺れている。
男はそれに手を伸ばす。
一枚の白い布。
男「たしかにもう、裏切られることはないね。でも、片方が幽霊じゃなかったら、生きていたらどうなるの。死
んだ人を、生きている人は変わらず愛せるのかな」
男は鉄塔に結ばれた布をほどき、肩に掛ける。
首のところでむすび、マントみたいに風に靡かせながら歩き出す。
女「そうね。無理かもしない」
男「ぬいぐるみか靴下かリップクリームにしときなよ」
女「ねえ」
男「どうしたの」
女「あなたは今、どこにいるのかな。とても先ですか、それともとても、前ですか」
男「ここは、どこだろうね」
女「岩が風に削られて砂となりまた岩となるという生命の輪っかを見た。図鑑に載っていたの。あなたはあの輪っかの、どこにいますか。わたしはどこですか。あなたとわたしの地点は交わりますか。それとも一度離れた点と点はもう交わることはないですか。歳の離れたきょうだいみたいに、わたしが走ると」
女が狭い路地を走り出す。
男「ぼくも走る」
男が田んぼ道を走り出す。
女「わたしが止まれば」
女、赤信号に立ち止まる。
男「ぼくも止まる」
男、十字路の真ん中で立ち止まる。
女「いつも背中にタッチできないあなたのうしろのわたし。だからわたし、後ろ歩きしようと思うの」
横断歩道が青に変わる。
女は動かず、周囲の人々が女を避けて渡っていく。
女は何か決意したように後ずさりをはじめ、そのまま後ろ歩きをはじめる。
しかしすぐに人とぶつかり、怪訝な顔を向けられる。
男「君には無理さ。それならぼくが、後ろ歩きするよ。だから君は、前歩きをして」
男、後ろ歩きをはじめる。
障害物はなく、スムーズに進んでいく。
女、前を向いてまた歩きはじめる。
疲れたのか、ペースが落ちている。
ビルの隙間から現れた夕陽が女に射す。
女は眩しさに目を細めながらも、つづく道の先を見る。
ぼんやりと、男の背中が見える。
ひらひらと揺れているマントが光っている。
近づいてくる。
男「君は女の子にしては少しだけ背が大きくて、ぼくはその辺の男よりは少しだけ背が小さい。ほんの少しだけね。君は気づいていたのかな。ぼくらの大きさってほとんど同じなんだよ」
男の後ろ歩きと、女の前歩きがぶつかる。
二人が重なる。
女が結んでいた髪の毛を解く。
伸びる影は一つしかなく、男のマントのような、女の髪の毛のような影が揺れている。
男「影になれば、ぼくたちとても似ているだろうね」
〈風のメモ〉
ここには何かがあった。家族に感じるものに似ているもの。恋とは違うな。変わらなくて、最初からあるようなものだ。でも、最初からあるけど、どうしてかとてもむずかしい。背中の、自分じゃかゆくてもかけない手の届かないところみたいに掴めないもどかしさがある。僕の求めているもの、欲しいものがいつもそんなところにあってしまうから分からない。周りと違う人間だと思い知らされる。治らない病気みたいだ。生まれたときからあって消せないもの。えくぼや、二つあってしまったつむじみたい。不幸で、幸福なものみたい。ここには僕の、澄んだ欲望みたいなものがあったような気がする。かわいいあの子への欲望や、おいしい食べものへのそれとは違うもの。そういうのがあるような気がする。書き始めたときは思わなかったけれど、途中からなんだかとても大切に思えてきたんだよな。鞄の中に入れたこのノートがなくなってないかいつも心配で、何度も鞄に手を入れてその感触を確かめたりした。財布よりも大切に思っていたかもしれない。このシナリオは、シナリオではなかったのかもしれないと今思う。僕は今、このシナリオみたいな何かを映画にしたいと思ってない。映画にはできない。映画にしてしまったら失われてしまう何かを、映画にしたら美しくなる何かよりも大切に思ってしまった。僕の瞳だけに投影される、僕のゆびさきだけに再生ボタンのある映画にしておきたい。眠れない僕に睡魔をくれて、凍える冬にあたたかさをくれる僕だけのもの。僕だけになついている犬みたいだ。このノートに僕が書いたのは映画のシナリオなんかじゃなくて、文字の羅列だ。小説?違うな。日記?ちょっと違うかな。詩?そうかもしれない。いや、違うか。これはただのノートだ。そう、ノート。夏に行く家族とのキャンプみたいだったな。時間なんてなかったみたいに過ぎて、景色のすべてが見たいものだったんだ。風は夜だって僕たちの肌を撫でつづける。はじまっておわるまで空気は澄んで淀まない。鳥の声が聞こえる。川の流れる音が聞こえる。風が吹いている。できるだけ長く、ここにいたいな。耳をすませた僕は幸福にそう思うんだ。
そういえば今日、僕は妹とある約束を交わしてしまった。僕が死んだらこのノートを妹にあげることになった。
15才の僕をあげるねなんて言ったから、妹はじゃあわたしの夢をあげるね。と言って、僕に一枚の紙をくれた。
わたしのしょうらいのゆめ
わたしは、大人になったらピヤノの先生になりたいよ。
ピヤノの先生になってみんなにピヤノを教えてあげ
てうまくなりたい人をみんなうまくしてあげたいよ。
大人になって知らないきょくもうまくひけるように
したいよ。せかい一のピヤノがうまくなりたいよ。
どうやら僕は今日、9才の夢を手に入れたみたいだ。
11
その白い壁に映る木々の影が、どこにできる影よりも好きだと思った。とても大きな、動物園と植物園と彫刻館のある大きな公園の中にある公衆トイレの壁。気づけば影ばかりを見ていた。影ばかりを見、「僕」という一人称を使い影絵を描いていた。いつしかまざり合ってしまったのだろう。いなくなるとき、あの子は最後に息を吐いた。あの息を私は吸い、だから私はまざり合ってしまったのだろう。15才のあの子は私とまざり、私は少し死んだのだろう。心は幼さを取り戻し、まるで不登校児のような態度でいつまでも眠るようになる。見た夢を僕で語る。目覚め見た景色を私で語る。スカートのない洋服棚から服を選び、鏡を一瞥してドアを開ける。私には映画を作りたかったときがある。ドラマを作りたかったときがある。小説家になりたかったときがある。15才の少年とまざり合った私の瞳は地面にできた影を見ている。長くつきまとっていた俯瞰ではない。主観だけを残し他のすべての感覚を失った私なんだ。何にもなるべきではないと気づきはじめた頃、街に来た。街は夜でも明るかった。目の下に隈のできた都会の灯が私の影を作っている。私は私の影を見る。鏡ばかり見ているナルシストのように光がそれを作る度に見る。それはまるでセリフのない映画のようだ。私は瞳をカメラにし、影の映画を撮っている。どこまでも私は私ばかりを映し、悲しみの場面もない。私はここに来たかったのかもしれない。何かになりたいと鳴く動物はもうずいぶん前に逃がしたか逃げたかしていた。つないでいないでも逃げないでいる動物だけがまだいて、どうしてか優しかった。つまらない私の映画を見たいと鳴いた。それだけがその動物の欲するすべてだった。
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