チワ太郎の結婚

「ああ、オレ本物の犬にでもならないかな……」
 編集社員ヒロ(男二十六歳)は、首に赤い首輪を巻いたまま、真っ裸でうめいた。社長はグラジオラスの咲く庭でわめきながら、ガンガンと扉を叩いている。
 「カナコ、わかっているんだぞ! 男だな、男だろ、そこにいるんだな! 」
 社長夫人、Eカップ熟女の魔力に屈した結果がこれだ。
 密会場所である夫人所有のコテージの中に、汚れたペットシートや犬用玩具、超大型犬用のリードが散乱している。飼い犬と奥様プレイ、二人の変態的嗜好が結びついた甘美な時間。ああ、でもまだ一回しかしていないのに……。
 社長夫人は開き直り、全裸でシガレットケースを取り出した。彼女が鼻から吐き出す紫煙が、ゆったりと渦を巻いて天井の方に漂って行く。
 夫人はいい。きっとこれが初犯ではないのだろう。謝れば済むことだという自信があるから、この態度がとれるのだ。だが俺は……。あんなに倍率の高い面接を潜り抜け、やっと滑り込んだ職場だったのに……。
 「ああ、マジで犬になりたい」
 「宜しい。犬にしてあげましょう」
 突如澄んだ女性の声が響いた。ひきつったヒロの頬に、黄金の光が落ちる。それは、「これから奇跡が起こります」と予告するかのように、金箔張りの仏像が負う後光のありがたさで、部屋に満ちていった。
 ヒロがぽかんと口を開けていると、天井がすっぽりと抜け、四方を囲む壁もぱたんと倒れた。物理法則を無視して、この寝室の中身だけが、青空と白い雲のただなかに浮いている。
 その空の方から、黄金の光に包まれた白ラブラドールが降りてきた。ギリシャの女神がまとっているような、純白の衣装をはためかせている。彼女(?)は全身白い獣毛におおわれながらも、やけに人間じみた姿勢で空中に直立していた。
 「私は犬の女神、ヌヌです。どうしても犬になりたい、人間の願いをかなえてまわる者です。あなたの心の底からの想いは受け取りました。犬にして差し上げます」
 ぽかんとするヒロ。社長夫人に目をやったが、しらばっくれた表情でタバコを吸い続けている。どうやらヒロにしか見えていないようだ。
 「今すぐ犬になりたいですか? それとも人間のままでなすべきことを終えたときに犬になりたいですか? 」
 「今すぐ犬にしてください」
 ヒロは即答した。「よろしい」、と白ラブラドールは言った。
 「それならば今すぐ犬にして差し上げましょう。ただし、憶えておいてくださいね。純粋な心の乙女に愛され、その初めての口づけを受けたなら、あなたは人間に戻り、彼女と結婚しなくてはなりません。それでもいいのですね」
 「何だっていい、今すぐ俺を犬にしてくれー! 」
 そう叫んだ瞬間、ヒロは白っぽい長毛のチワワになっていた。

 畳三十畳はありそうな広々としたリビングで、最高級のペルシア絨毯の上に寝そべって、ヒロは昼寝をむさぼっていた。
 食事は人間も食べられる、高級食材を使った手作りのフード。頻繁にスイーツやお芋がつく。
 冷暖房の効いた部屋で眠りたい放題。更には社長親族の女性たちは無防備に、ヒロをその巨大な胸元に抱きあげてくれる。 
 「チワ太郎、ただいまあ」
 高校の制服を着た社長の長女ミキが、黒いローファーを脱ぎ捨てて玄関から駆け寄ると、Gカップの胸を揺らしてヒロをぎゅっと抱いた。エロい気持ちをこめて、ペロペロと顔を舐め、尻尾を振る。このひたすらに安楽で甘美な生活よ。
 だが、今となって、ヒロには人間に戻りたい気持ちがむくむくと育っていた。飼い犬生活は情事やロマンスとは縁遠い。このままあと十何年しかない寿命を終えるのは、正直惜しくなったのだ。
 「あの白ラブは、初めての口づけをくれた乙女と結婚できるって言ってたな」
 満面の笑みを浮かべながら、ヒロにほおずりするミキのおっぱいに前足を当て、彼は心でヒヒヒと笑う。相手が巨乳美人の社長令嬢だなんて言うこと無いではないか。運が良ければ社長の後を継いで、社長にだってなれるかもしれない。
 「シズ、チワ太郎のトイレ汚れてる」
 ミキが満開の薔薇のような笑顔から一転、毒を含ませた棘のある口調で咎めたてた。
 「はい、はい……、申し訳ありません」
 シズは社長の叔母である。社長の祖父の妾の子だ。若いころから給料ももらえず、一家の使用人代わりをしていたらしい。そのせいなのか一回も結婚をしなかった。
 今だって、自分の都合がよいときにだけ甘ったるい声を出す家族に代わって、チワ太郎の食事も散歩も、煩わしい世話の全てがシズの仕事となっている。
 シズは、ハンドクリームも塗らせてもらえないガサガサに荒れた手で、ペットシーツを取り換えヒロのお尻を拭いた。若いころはそこそこ美人だったと思われるが、手入れの悪さのせいで、実年齢よりも目じりの皺が深い。そこに慈母のような慈しみの笑顔を浮かべて、ヒロの頭をなでる。
 「チワ太郎、お父さんたちの夕ご飯の、お肉をちょっとだけ分けてあるの。後で焼いてあげるわ」
 大歓迎! 和牛が喰いたいヒロは、シズをキラキラと潤んだ必殺チワワスマイルで見つめる。ついでにワインも舐めさせてくれないかなあ。
 「シズ、解ってるんでしょうね?チワ太郎の分よ。お前のは無いからね」
 ミキが鋭い声で制した。
 「ミキさん、わかっておりますから。わたしは納豆ご飯で結構ですとも」
 慎み深くそう答えた後、シズはマッチ売りの少女が、炎の中に浮かぶ幻を見るような目で、ヒロを見つめた。ヒロはなおのこと目をウルウルさせてシズの濁った両眼を見た。シズは甘くため息をついた。
 「チワ太郎、あたしを愛してくれるのはお前だけよ。ああ、お前が人間だったら……」
 薄幸なシズの瞳が、光の乱舞する春の湖のように潤んで輝いた。皺しわの唇が近づいて来た。えっ? もしや……、これって、あれ? 

 次の瞬間ヒロは、シズにお似合いの八十の爺さんになった。三か月後、二人は近所の神社で挙式を揚げる運びとなった。

               了

チワ太郎の結婚

チワ太郎の結婚

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 青年向け
更新日
登録日
2025-06-30

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