
愛しの我が味噌
否が応でもそっぽを向いて生活しなければならない。そんな自信は私にはなかった。それでも何とか一年近く顔を合わさずに過ごして来たが、ようやく再会の時が訪れた。
一体何の話かと思われそうだが、去年6月12日に私が生まれて初めて作った味噌の話である。てっきり6月19日かと思い込んでいたが、それはエッセイを書いた日のことであり、味噌を作ったのは6月12日だった。人の記憶とは何と曖昧なことか。それでも一週間くらいの違いなら大目に見ることにしようではないか。
味噌はとにかく作ったら最後、薄情なようだが一年はその存在をひたすら忘れて放っておくことが、何よりも第一条件である。どんな具合になっているかなんて覗き見しようものなら、あっという間にカビが生えてダメになってしまう。ズボラな人間には打ってつけだが、何かと気を回しがちな人間にとっては、放っておくということがこんなにも困難であるのかということを思い知らされる、そんな一年でもある。
ダメになると言いながらも、タッパーに入れた米麹とおからがどんな具合になっているか、色の変化を光にかざして伺って見たりしていたが、段々と白かった麹が茶色く変色し始め、蓋の辺りに鼻をやると一丁前に味噌の匂いがして来るのだから、発酵とは大したものである。
来月でちょうど一年。やっと、この開けてはならないパンドラの箱ならぬ、タッパーの蓋を開けられる日がやって来ようとしていたが、のっぴきならない差し迫った事情があり、半月ばかり早い開封となった。
蓋を開け、酒粕で覆っていたもう一枚の蓋を剥がすと、そこには味噌以外何物でもない、綺麗に茶色く発酵した「おから味噌」が姿を現した。
見た目は上手くいっているが、問題は味である。ちょっと鼻につく匂いはあるが、それは発酵食品特有のものであろう。少し混ぜてからスプーンで一匙口にしたが、なかなかの美味である。米麹やおからの割合がレシピ通りとはいかない状態で作った味噌だったから仕方ない。男が作った初めての味噌にしてはよくできたと言っていいのではないだろうか。
早速、冷蔵庫にあったキュウリを切って、もろきゅうにして食べてみた。味噌自体が非常にコクがあるので、思っていた以上にパリパリと食が進んだ。

それから数日しておみおつけにしてみたが、味噌そのままで食べた時の味とはひと味違い、色味に反して白味噌のように甘いのには驚かされた。それでも鰹節で出汁を取った中に溶いた味噌はまろやかで、何とも言えない幸福な世界へと私を導いた。おまけに出汁を取った後の残りカスである鰹節とおからが絶妙な絡みを見せ、これまたご飯のおかずになるのである。これは思わぬ発見であった。
そもそも私が味噌を作ろうと思ったのは、突然の母の病がきっかけだった。その母に少しでも体に良い物を食べさせようと思い作ったのだが、一匙掬って口に含んだ母は複雑な顔をした。不味いというのではない。私が予想した通り、この味噌は母の好みの味ではなかったらしい。遠慮気味に白状した母を見て、子の心親知らずとはこのことかと、私は笑うしかなかった。
もう少し知らん顔して黙っていたらもっと発酵が進み、八丁味噌のような辛い味噌になるかもしれない。幸いにして、当初の予定よりもはるかに多く作ってしまった味噌甕が一つ、そっくりそのまま残っている。これは手をつけず、そのまま今年いっぱいねかせ続けることとしよう。先日までNHKで「しあわせは食べて寝て待て」というドラマが放送していたが、「美味しさは食べず放って待て」である。
味噌作りを体験した者が必ずと言っていい程口にするのが、手作り味噌を食べたら市販の味噌は食べられないという言葉である。これは私も自分で味噌を作った経験から、非常に頷ける言葉だった。自分の作った味噌が旨いか不味いか、それは別として、やはり何より自分が作った味噌に対しての愛着がある。女の人ではないが、子を宿した妊婦が十月十日、子を抱え続けているような、そんな感覚に近いもののような気がすると言っては、世の女性たちに叱られるだろうか。それくらい、手作り味噌が何だか愛おしいのである。
今年は分量を間違えず、意図的に辛味噌を作ろうか。子供の成長ではないが一年後、仕込んだ味噌が どのように成長しているのか。子供を持たない私はそんなドキドキを、我が子ならぬ我が味噌で経験するのである。
うまく育つかどうか、それは後になってみなければ分からない。ちょっとした博打のようなものである。賭け事をやらない私には、どちらもちょうどいいのである。
愛しの我が味噌
2025年5月31日 書き下ろし
2025年6月4日 「note」掲載