ついのすみか Ⅱ

ついのすみか Ⅱ

11 そういうものに私はなりたい

 5歳の孫がところどころ暗唱していた。

 雨にも負けず風にも負けず……
 1日に玄米4合と……
 そういうものに私はなりたい

 幼稚園で教えるのだろうか? おもちゃで遊びながらブツブツと。
「そういうものに私はなりたい」

 ポプラさん。男性、86歳。8ヶ月ほど前に入居して来た。杖をついて歩いていた。亡くなったヤドリギさんは女性蔑視の方だった。耳が悪く大声を出さなければ聞こえなかった。補聴器は持っていても意味をなさない。水に漬けた。
 男性の割合は隣のユニットもうちのユニットも2割だ。バカヤローが口癖のネコヤナギさん、元お医者さまの、ほとんど話さないマサキさん。それでもたまに話す時は偉そうだ。見下した話し方をする。それに、ちょっと素敵なマンサクさん。この方でさえ大声で怒ることがある。男性の大声は苦手だ。

 ポプラさんはストイックな方だ。パーキンソン病で、歩けなくなるのを恐れていた。よく体操している。朝7時前に私が行くと、もう廊下を歩いていた。食事も久しぶりの常食の方だ。茶もコーヒーも熱くて大丈夫だ。ごはんに、おかずも刻まずに出せる。麺も食べられる。麺を食べるのは今では10人中ふたりだけだ。ひとりは麺を刻む。
 ポプラさんは楽な方だ。言われなくても食事の時間、お茶の時間にはやってくる。配るのは自分は最後でいいとおっしゃる。隣の席は、
「はやくしてくれよ。バカヤロー」
のネコヤナギさんだ。15も年上のポプラさんは紳士だ。ネコヤナギさんに話しかけては、バカヤローと言われるが懲りない。ユニット10人の名前を覚えている。職員の名も覚えている。

 オムツをするのは寝る時だけだ。入浴も見守りだけだ。手を貸す必要がない。服の用意も自分でされる。身体をゴシゴシ洗っている。すっくと立ち上がり浴槽をまたいで入り「いいお湯だー」といつもおっしゃる。
 以前に話したことを覚えている。
「旦那さん、秋田だったね」
車掌をしていたポプラさんはいろいろ話してくれる。
 部屋に洗濯物を届けたときに、CDを聞かせてくださった。
「次は、あきたー、あきたー」
車掌をやっていたときに聞いていたそうだ。各路線のアナウンスのCD、そんなものがあるんですね。

 家は駅に近い二世帯住宅。今なら相当な価値だろうが、当時は抽選で当たったそうだ。柿の木がある。その柿をお嫁さんがむいてカットして届けてくださる。ポプラさんは自分だけだから気にして部屋で食べたがるが、喉に詰まらせたりしたら怖いので、リビングで食べていただく。隣のネコヤナギさんにも分けてあげたいだろうが、彼は食事制限がある。

 この方の血圧は極端だ。低い。低過ぎてそのままでは入浴はできない。ベッドで寝て足を上げると血圧は上がる。はい、それでOKですか? 入浴タイムの血圧はどうなのだろう?
 高い方は深呼吸させて何度も測る。何度測っても高くて次の日に回す方もいらっしゃる。以前は低いくらいだったのに。
 モクレンさんがそうだった。高くなりだし、ある明け方、脳梗塞で病院に運ばれた。だから、血圧が高いと怖い。入浴中になにかあったら……それでなくとも、90過ぎた方が浴槽で目を閉じられると怖くなる。

 介助しているほうも歳をとる。そろそろ、限界かな? などと考える。5時間立ちっぱなしの休みなし。帰ってから、ごはんを食べるとウトウトしてしまう。以前は仕事の後、歩いて孫の子守りに行けたのに。今は疲れが残る、残ったまま週を越す。
 恐怖も感じる。90半ばのお年寄りを入浴させること。冬場の入浴中の死亡は多いと聞く……

12 音の風景

 週に1度夕飯時2時間働いている。他のパートさんの都合の悪い夜に。2ユニットの配膳、片付け、見守り、掃除をする。
 午前中とは違う。パートがひとりしかいない。職員は遅番がひとりで10人の世話をする。
 夕方になると帰宅願望が出るオリーブさん。朝はおとなしかったのに、車椅子なのに立ち上がる。止めるのは難しい。オリーブさんのために雑誌が置いてある。誤魔化しながら、それも耳が遠いので大声を張り上げる。テレビも大音量。

 ショートステイの風さんが頻繁にやって来た。廊下を何分で自走して来るのやら。神出鬼没。出て行ったと思ったら、もうそこに。ショートステイは比較的しっかりした方が入っている。風さんには居心地が悪いのか? この方は見かけは品がよく言葉も丁寧だが……
「私、泥棒なんかしません」

 風さんはゲッケイジュさんのカーディガンのボタンをはめたり、タオルをたたみ直したり世話を焼く。焼かれている方の反応はない。車椅子自走仲間のサカキさんとは頓珍漢な会話を。そこにトネリコさんが「うるさいね」とひとこと。
 遅番の女性職員は黙っていない。
「ここは喋っていいところなんです。みんなの場所なんです。そういうことは言わないでください」 
孤高のトネリコさんより怖い。さすがのトネリコさんも言い返さない。この職員には言い返さない。敵う相手ではないとわかっているのだ。  

 隣のユニットから、アズサさんのわめき声が。
「あああぁあああぁー」
テーブルを叩く音が。
 100歳のカリンさんの声がする。
「だれかー、たすけてー」
ここは介護施設なのか? と思う。

 ようやく食べ終わると、遅番がひとりずつ排泄をさせ寝かせていく。順番があるのだが待てない。95歳を過ぎているのに元気だ。待てないで騒ぐ。ご馳走様、ご馳走様、と何度も言う。何度言われても、95歳でも元気なあなたの順番はまだなんですが。部屋に戻ればナースコール何十回も鳴らすでしょ?
 サカキさんも、早く車椅子に移って自走したいのだ。
「おねえさん、なんとかしてー」
なんとかして欲しいのはこっちの方だ。オリーブさんがついに立ち上がり1歩出た。そういう時は手を取って歩かせてあげましょう、とユニット会議で決まっていた。歩かせて疲れさせる……はい、職員さんといってらっしゃい。残された方達はそのままね。
 
 イチイさんが時間をずらしてリビングに現れる。他人との交わりを嫌う。職員からも敬遠されてしまう。いつもなら人の少ない時間なのに、オリーブさんを歩かせたために大幅に遅れた。おまけにショートステイの風さんと自走仲間のサカキさんがうるさい。向かい合って手を取り合っている。

 イチイさんの食事はレンジで温める。文句を言いたそうだ。ごはんの柔らかさ、野菜の柔らかさ、茶のおいしくないこと……時間に来てくれたなら、一応ごはんは炊きたてなのだけれどもね。
 不味そうに食べる。ひとりだけのテーブル。大音量のテレビ。隣のユニットからわめき声が聞こえる。
「あああああああああぁ」
またまたカリンさんの声が、
「だれかぁー」

 コデマリさんが、眠れないからカロナールが欲しいと言う。カロナールは眠れない時の薬ではありません、と職員に言われて頭痛を訴える。コデマリさんはかつて、薬を出してもらえないと騒いだ。職員は体を心配し出さなかったのだが、上を巻き込んでの大騒ぎ。職員は辞める辞めないの大騒ぎ。結局謝った。
 コデマリさんは自慢した。謝ってくれたのよ、と自慢した。それ以来、偽薬が出される。中身はラムネだ。

 謝った職員はしばらくして辞めた。引っ越していったのだが。職員が辞めても入居者には言わない。入居者が亡くなっても不穏になるので伝えない。そして大勢いなくなった。

13 素人ですが

 足浴(そくよく)の時にコデマリさんが服をまくっておなかを見せた。この方は露出狂かと思うくらい見せたがる。痛いの、痒いの、赤くなってない? 何かできてない? 
 お供え餅のようなふくよかなおなか。同じものを同じ量食べていても痩せている人、痩せていく人、太っている人、なお増える人、様々だ。この方は差し入れが多いので、食事は減らしているが部屋でも食べている。車椅子だが、元気だ。特に口が。だからスタッフに嫌われる。

 おなかの片側に発疹が3個。キリキリ痛いという。キリキリ……
 ピンときた。もしかしたら? 素人にでもわかる。 
 職員に言って写真を撮った。あとでナースに見せる。(写真は局部でも撮る。それは処置が決まれば早く削除せねば。陰嚢を掻きむしっています、なんて、ばあさんでも言えないことを、若い女性が話している)

 日曜日なので、私は10時には帰る。この間のイチイさんの膀胱炎のようにひどくならなければいいが。
 職員は言った。
「帯状疱疹なら、あんなに元気じゃないわよ!」

 コデマリさんは皆に触れ回り、孫にも娘にも電話した。膀胱炎で放っておかれたイチイさんとは違う。
 早々に往診に来て帯状疱疹はひどくならずに済んだ。入浴は最後だが。ばあさんは、いいのか悪いのか、内緒で湯を入れ替えてあげた。

 今は足浴する方が多い。冬場は減るはずなのに。6年近く高齢者の足を見ている。観察している。たいていは水虫。薬を塗れば症状は改善する。ところが半年経っても改善しない人がいる。入居者に聞いてもはっきりしない。痛いのか痒いか? 
 素人ですが、薬が違うのでは? 
 時々職員に言う。往診の時に先生に診ていただく。しかし薬は同じ。継続する。塗りながら、違うのではないかと思う。周りが治ると思わなければ治りませんよ。(チャングムの言葉)
 しかし継続継続……

 マンサクさんは掻きむしる。足の甲にふくらはぎ、腿まで。上半身はきれいだ。
「掻いたらだめですよ」
「掻いてないよ」
毎回同じ会話。いつまで続く? よほどでないと皮膚科には連れて行かない。特に今は。掻きむしり血が出ても。膿んでも。

 爪が伸びていた。入浴介助も爪を切る余裕がない日もある。切ってあげた。入浴後じゃないと硬い。施設がオープンしてから使っている爪切り。ハッキリ言って切れない。小さくて高齢者の厚くなった爪を挟めない。切らないと爪は厚くなる。びっくりするくらい厚くなる。ひとり暮らしの長かった方の爪は肥厚爪(ひこうそう)というのか、歯が立たないほど分厚い。それを角度を変えて長い月日をかけて少しずつ切ったのだ。大体、資格のないパートが爪を切っていいのか? ばあさんが切らねばもっと伸びていく。よほど巻き爪がひどいとナースに頼む。ニッパーで切ってもらうが、いい顔をしない。後で来ます、と言って来ないで忘れる。何度も言うほどナースとの関係を築けていない。大体、短時間パートのばあさんが言うことなのか? それが、コデマリさんだと、あとが怖いからさすがのナースも機嫌を取る。
「ナースさんが切ってくれたの」
さすがです。巻き爪は放っておけば、ぐるっと一周する。

 これは時効ですかね? 入浴介助を始めたばかりの頃、皆、爪が伸びていた。それを、切ってあげたいと思った。切る姿勢は辛い。膝をついて目が悪いからほとんど這いつくばる。
 ムキになってしまった。小指の爪を切る時にやってしまった。肉を切った。血が、血が……どうしよう? ペーパーで押さえた。深く切ってはいない。お願い止まって。止まって……何枚かペーパーを変え、何度も謝った。ほとんど反応のないご婦人だ。
 この方はわかっているのかいないのか? 息子さんが面会に来た時は帰るまでひとことも発しないが、じゃあ、帰るよ、と言われると、気をつけて帰んなよ、と言う方だ。私があまりに謝るので、
「大丈夫だよ」
と言ってくれた。ありがたい。しかたない。いつまでも引きこもってはいられない。始末書か、ヒヤヒハットか? 
 初代リーダーは優しかった。指を確認し、
「内緒にしておきましょう」
 いいのか、悪いのか? それからは1度に短くしようは思わなくなった。
 しかし、入居者のなかにはマンサクさんのように掻きむしる方もいる。便をいじる人もいる。爪の間に入ってしまう。

 爪切りも買い替えてくれない。掃除機は2台目だがなぜあんなに小さい? 1度使えばすぐにゴミがいっぱい。いや、ゴミは吸わない。ほこりは吸うのだろうが。ゴミは床に残る。拾わなければならない。なぜこんな掃除機? 家庭用ですか? フィルターは何度も掃除していてもほこりセンサーが付きっぱなし。何度も言ってますよね。新しいのがほしい、と。パートのばあさんが言うことではない? 掃除機かけるのはばあさんなんですが。吸塵力の強いの買って!

 風呂場のドアがキイキイ音がする。凄まじい音だ。
「びっくりしたぁ! 赤ちゃんが泣いているみたいね」
と、入浴のたびにコデマリさんが言う。それをリーダーには言ってある。リーダーも見にきている。上には言ってあるのだろうが、いつまで待っても直してくれない。大体、ここの施設の総務は……すごいです。退職したあとの健康保険の手続きを催促してもやってくれないとか。コネで入ったのかと疑ってしまう。1度で済んだことがない。皆、ご存知だ。

 蛇口が壊れて水が吹き出した時、リーダーは養生テープで応急処置をした。そのあとはビニールテープがしばらく巻いてあった。直るまでに何度風呂に入れたことか? そのたびコデマリさんは言った。
「まだ直らないのね」

14 リーダー

 マンサクさんが額に怪我をしていた。朝起きて車椅子に移る時、転んで打ったらしい。四谷怪談のお岩さんみたい。相当痛いだろうに、それもよくわからないらしい。

 夜勤は朝の7時までの勤務。2ユニット20人を順番に起こす。全室見守るのは不可能だ。
 リーダーはマンサクさんの家族に電話を入れた。説明していた。穏やかに済んだが。
 これがツルマサキさんだったら大変だ。モンスターの息子がいる。実際、嘔吐で何度か入院している。病院では点滴だろうが、戻れば口から食べる。嘔吐する。
「病院では吐かないのに、なんで戻ると吐くんだあ?」
 食事はソフト食を半量。あとは高カロリーの飲料。なのに、持ってきます。ヤクルト、プリン……愛情は食べ物でしか表せないのはわかるが。
 
 他にもいる。体重減らさなきゃ、ご飯控えめなのに差し入れがすごい。食べきれずに消費期限が過ぎてしまう。過ぎたものを高齢者には出せないから処分する。すると怒り出す。捨てられた、捨てられた、と大騒ぎをする。

 私が勤め始めた時のリーダーは若い女性だった。きれいな方だった。その頃は男女とも若い職員が多かった。私は最初は週3日3時間の周辺業務。1年経てば定年の年齢。無理して働かなくてもまあいい御身分。小遣い稼ぎになればいいが、いやならすぐにやめようなんて思っていた。
 施設もオープンしたばかり。入居者よりスタッフの方が多かった。配膳もシーツ交換も大勢で楽だった。リーダーは優しく丁寧。月に1度は親睦会を……なんて楽しかった。
 ところがこのリーダーさん、通勤にものすごく時間がかかった。施設長に引き抜かれたらしく、確かに素敵な方だったが、時間通り帰れるわけではない。勤務時間の後は事務仕事。入居者が増え、忙しくなると職員が辞めていく。欠けた分は超勤になる。補充されればまた別の職員が辞めていく。いつまでたっても超勤はなくならない。そしてこのリーダーも疲れきって辞めていった。
 毎日面会に来ていたツルマサキさんの息子さんは、辞めると挨拶したときに、
「きついことを言ったけど、あなたは自分の娘と同じ名前で……」
と、ねぎらってくれたらしい。怖がるばかりでなく、もっと話していれば……なんて悔いていた。

 次の若い女性のリーダーは……マイペースだった。皆が言った。マイペースだから……前のリーダーが辞めたので移動してきた。歓迎会の時に遅刻してきた。
 マイペースは褒め言葉か? 来るのが遅い。仕事が遅い。遅すぎる。丁寧だが。丁寧すぎる。終わった時間が終わった時間。時間内に終わらせようとは思わないらしい。夜勤が夜9時に入ると夕食の洗い物が終わっていない。その頃は夜のパートはいなかった。夕食は6時からだ。夜勤は洗い物から始めなければならない。さすがに呆れて愚痴った。

 最初は仕事ができる人だと思っていた。年長者を差し置いてリーダーになった方だ。しかし気付いてしまった。桁違いに遅い。レベルが違う。だいたい私が朝出勤した時点で、誰が夜勤なのかわかる。起こしている人数で。ほぼ全員起こしていたり、2、3人だったり。このリーダーの時はひとりもいない。
 呆れることばかり。呆れたのを顔に出さないようにするのも大変なくらいすごかった。よく他所でやってこられたな、と思う。辞めた後はボロクソに言われていたが。 
 
 入居者をトイレに座らせたまま朝礼に行ってしまう。忘れたのか故意なのか? トイレの電気は何分か経つと自動的に消える。文句も言えない、ナースコールを押すこともできない入居者は眠っていた。
「速けりゃいいってもんじゃありません」
そう、丁寧です。配膳も盛り付けもきれい……差し入れのりんごを、時間をかけて飾り切り。
「ほら、かわいいでしょう?」
でも、入居者が、かじれますか? それを? 

 書類提出等も遅かったそうだ。締め切りを過ぎ催促されると、
「みんな私が悪いんですよね」
その通りだ。少し言われると、
「好きでリーダーになったわけじゃないですから」
ユニットの雰囲気は悪くなる。ただ、彼女はO君を育てた。丁寧に丁寧に。最初何度も遅刻した高卒の新人の男性を独り立ちさせた。相当イラついていたが。それだけは素晴らしい功績だ。O君は教えられたとおり丁寧だ。丁寧だが速い。最初要領が悪かった人ほど、伸びる時には伸びるようだ。最初から覚えの良かったバイトの子は変わらない。

 ついに派遣さんが来た。外国人だが年配のベテランの女性。早番と遅番で夜勤はない。ベテランでも施設のやり方でやってもらわねばならない。彼女のシーツ交換は速かった。速かったがうちの施設では角はきっちり三角折に。彼女のは縛っている。雑だが速い。言われても、それを直そうとはしない。
 ことごとく揉めていた。派遣さんはすぐに施設長に文句を言う。果ては、リーダーに向かって、
「あなた、外人だと思ってバカにしているんですか?」
 ふたりとも、やる気をなくしていた。やがて、派遣さんは突然休む。朝、電話も来ない。夜勤が残り、遅番に電話して出てきてもらう。そんなことが当たり前になり、派遣は更新しなかった。
 リーダーも程なくして辞めて行った。有休を使い切り、送別会も挨拶もなかった。
 

15 昨今の状況

 3か月前に入ってきたパートの女性、Jさん。娘より若い30歳のフィリピンの方、結婚している。
 以前、フィリピン人の派遣の方がいたときは大変だった。年配のベテランの派遣さんは若い女性のリーダーの言うことを聞かなかった。
 だから、いい人ならいいなあ、と思っていたのだ。Jさんはマスクをしていても目を引く。色が白い。半袖のシャツから出た腕の白さ……

 パートのおばちゃんたちは話す。スペイン系? スタイルいいよね。

 フィリピンは昔、スペインの植民地だったから、その血筋を持つ人には、美しい人が多いのだとか。

 私が働き始めた5年前は若い女性が多かった。20代のかわいい人、きれいな人が多くて驚いた。男性は喜んで言った。
「レベルが高いですよね」

 その方たちはどんどん辞めていった。リーダーの女性も辞めていった。今では平均年齢はいくつ? 若い人の割合は少なくなってしまった。

 Jさんは以前はスーパーで肉を切っていた。バイトは切ってはいけないのに切っていた。日本人ではないので時給も安かった。Jさんは週4日の1日7時間勤務。あとの2日はおじいさんの介護をしに行く。
 日本語に不自由はないが漢字は読めない。しかし、iPadの漢字は位置で覚えた。記録することは多くはない。打つのは早い。
 シーツ交換もきれいにできる。入居者の男性にバカヤローと言われても全然平気だそうだ。

 Jさんに入浴介助を教えた。
 介助しやすい服に着替える。見てびっくり。濃いピンクのシャツに、体の線がそのまま出るレギンス。それも派手なボーダー柄。
「それでやるの?」
思わず言ってしまった。
「まずいですか?」
「……私もピンクだし、ね」

 かつて、お尻と腿は別なのよ、と言った人がいた。こういうことなのね。羨ましい体型。しかし、我がユニットの入居者たちに関心はない。若い男性のスタッフもいない時間。見たらどんな反応をするだろう?

 彼女は、米は玄米、パンはときどき、野菜に魚を少し、菓子は食べない。ジュース、コーラは飲まないで水を飲む。毎日体操とジョギングは欠かさない……
 なるほどね。その体型を保つためならね。先にその体型にしてくれるなら、私も努力します。

 仕事も続いてくれたらね。根性はありそう。ストイックな人は好き。

 しかし、そんな努力を吹っ飛ばすようなことを彼女は言った。
「毎日飲みます。赤ワインを1本」


 Jさんがユニットに来て3ヶ月。若くてやる気があるので覚えるのが早い。すでに、リフト浴も寝浴もひとりで任されている。私は立位の取れる方の個浴だけだ。資格はなかったし、歳だったので大変なのはやりたくなかった。
 Jさんも資格はないが、正社員になりたがっている。新婚で、夜勤があるのに旦那様は構わないのか?
 覚えは速いが、正社員になるには記録ができないとダメだ。それは難しいらしい。
 Jさんがいると私は隣のユニットの手伝いに行くのだが、昨日は休みだったので久々に本来のユニットにいた。隣よりも認知が進んでいる方が多く、にぎやかだ。バカヤローが口癖のネコヤナギさん、わめいているアズサさん。

 ネコヤナギさんのシーツ交換をしているとき、彼はトイレで頑張っていた。食後の排泄と口腔ケア。職員がひとりひとり順番に。だから、ナースコールを押してもなかなか来てはくれない。私は以前は彼の排泄をやっていたが、しっかり立位が取れなくなってからはやめた。体重があるので怖い。

 なかなか現れない職員にネコヤナギさんはトイレの中で、バカヤローを連発した。こういう時に話しかけると、ろくなことにはならないから放っておく。ようやく現れた男性職員にバカヤロー。下の世話をしてくれる職員にバカヤロー……か。説教してやりたくなるが、職員は慣れたものだ。未熟な私がいらいらしたときには、深呼吸しなさい、と助言してくれる。

 シーツ交換をして、吸いこみの悪い掃除機をかける。他の方は感じないのだろうか? あまり言うと、うるさがれるのではと思い我慢する。

 そのあとは足浴の準備。冬場、水が温かくなるまでには相当の時間を要する。コデマリさんは、足浴の時のおしゃべりが気晴らしになると言う。入浴の時の係が私だと、よかったあ、と言ってくださる。愚痴を聞き、自慢を聞く。
「あの職員が、ああ言った、こう言った。娘が、孫が、ひ孫が……電話をくれたの、いろいろ送ってくれたの」
 職員のプライベートなことは喋ってはいけない。しかし、よくご存知だ。誰は離婚している。誰は彼氏がいる。彼女がいない。時々は聞き出そうとする。

 隣のユニットのイチイさんがおかしい。誰とも接しないからかたくなで、食事について無理難題を吹っかけてくる。食べるのは皆が終わってからだ。たまにリビングに出てくるが、ほとんど自分の部屋だ。皆の食事の時間から1時間半は過ぎている。だから、冷蔵庫に入れていたものを温める。
 それをおいしくないという。入浴介助の時も延々と言っていた。
「おいしくない。厨房の人たちは工夫しないでバカなんじゃない?」
辛辣だ。魚は工夫してチーズや明太子やソースがかかっている。それがお気に召さない。この間の夜は、私が出したら言われたので、スプーンで、ソースをこすり取ってあげた。
 リーダーも文句を言われた。サイボーズに載っていた。お茶がおいしくない。入れる人によって温度も味も違う……延々と。
『なるべくご希望に沿うように頑張りましょう』

 施設の茶は、私も何度も試したがおいしくはない。茶葉が全然ふやけない。パックの麦茶のがおいしい。
 リーダーは頑張っていた。どこからか、蓋付きの湯飲み茶碗を手に入れてきて、それに注いで出していた。魚はレンジだと硬くなるので、魚焼きグリルで温めていた。気を遣っていた。
 それでも、残菜がたっぷり。ごはんもお茶も残っていた。部屋にはお菓子があるし。
 強気の女性の職員はイチイさんに言ったそうだ。
「食費1日1500円なんですよ。わかります? 1食1500円じゃないんですよ」
よそへ行けばいいのに。お金があるなら……職員の不満も溜まる。

 コロナ禍で行事もなくなる。面会も外出もできない。しっかりした方もネガティブになる。ポプラさんに脳トレをやらせようか? などと話していた。え? あのストイックなポプラさんがネガティブに? ネコヤナギさんにバカヤローと言われながら何度も話しかけていた。善良な方は弱いのか? ネコヤナギさんは元気だ。他人のことなどどうでもいいから。自分の言葉がどれほどイライラさせているのかわからないのか? 楽しみは食べることだけ。糖尿だから糖分も水分も制限されているが痩せはしない。そのうちひとり介助ではできなくなるのでは? ひとりが支え、ひとりが排泄処理を。その間言うのだろう。
「はやくしてれくれよ。バカヤロー」
介護される身なのだから痩せてほしい。負担が大変なのだ。それで腰を悪くして辞めていくのよ……

 だが、面白いことも。最初は、わめくアズサさんに
「うるせーな、バカヤロー」
と言っていたのだが、時々そばに来ている。ティッシュを持って。渡したいのか? ティッシュをアズサさんに。そういえば亡くなった女性に優しかった。懐いていたというか……そばに来ていたな。
 アズサさんもようやく言っていることが少し理解できるようになってきた。落ち着いている時は、
「足洗いに行きましょうか」
と聞くと、ありがとうございます、と言っているような気がする。お願いします、とも。素直だと、肩を抱きたくなる。
 足もおとなしく洗わせる。片足には装具が付いていて、その上にひと回り大きな靴を履いている。足の指は小さい。部屋にはお孫さんとの幸せそうな写真が。

 一寸先は……なにがあるかわからない。他人事ではないかも……

16 かわいがられたほうが得でしょ

 隣のユニットの30歳代の女性職員Aさん。勤続10年以上で超勤が多いから、年収は500万を超えるらしい。だから、辞めたくなっても考えちゃうの、だとか。ひとり暮らし。
「私、結婚しませんから、貯金してますから。年金当てにしてませんから。親より生きればいいんです」
 仕事は熱心。手際がいい。勉強している。出勤してくるのも早い。仕事の前には念入りにストレッチを。
「腰、悪くしたくないですから」
ごもっとも。わかっていても皆、仕事の前にやる余裕はない。社会情勢にも詳しい。ま、1日中大音量でテレビがかかっているのだ。しかし二十歳の女性はこの間の津波警報も北京オリンピックのことも知らなかった。
「何かあったんですか? オリンピックやるんですか?」

 Aさんは声が、きんきんしている。これはどうしようもない。私は以前ブティックで接客をしていた。電話に出る時、店長に
「1オクターブ高く話しなさい」
と言われた。気持ち的にね。そうすれば明るく聞こえるらしいが、高い声はどうしたものか? 入居者さんには耳障りな声らしい。その声で、厳しいことを言う。適当に、という言葉はAさんの辞書にはない。杓子定規。融通が利かない。

 口うるさいネコヤナギさんには、私は1番に食事を出して、黙らせてしまうのだけど、それはダメらしい。あの人ばかりいつも1番はダメ。食べるの速いから今では最後。だから配られるまで文句を言っている。
「はやくしてくれよ。バカヤロー。どうしようもない」

 お風呂はいつも1番のコデマリさん。お風呂だけではない。理美容も。90歳過ぎて、まだカラーをする。髪は黒いが薄い。染めなければ髪のボリュームは増えるのに。
「もう染めるのやめようかしら?」
と毎回、同じことを相談される。毎回、話を合わせるが。
 とにかくなんでも1番でなければ気がすまない。もう、それはダメらしい。でもね、午前中に3人入浴。比較的しっかりした方だ。入浴は週に2度。1番じゃないと嫌だと思う。Aさん、2番風呂に、最後のお風呂に入れますか? もしかしたら、中でちょっと漏らしたかも……
 それさえわからない人を最後にするのは間違いですか?

 コデマリさんは記憶力がいい。私が入浴介助の時、ユズ湯なのに知らないで、ユズを入れ忘れたことが過去に1度ある。その時は大変だった。周り中に聞いた。
「あなた、ユズ湯入れてもらった?」
何度謝ったことか。そして次の時に、残ったユズを全部入れてやった。
 コデマリさんは忘れない。ユズ湯のたびに言う。あのときは入れてもらえなかった、と。もう4年も経つのに。それだけではない。菖蒲湯のときにも言う。菖蒲湯に入れてもらえなかった、と。私はまた謝らねばならない。構わない。謝るのはタダ……
 しかし、いつまで言うのだろう? 私が辞めても言うのだろうな。私の名は永遠に。お迎えが来るまで……か?

 Aさんは真剣だから、話してわかってもらおうとする。そして時々、入居者さんと衝突する。衝突してどうするの? 認知の入ったお年寄り、適当に褒めておだてて……その方が楽だろうに。普段は穏やかなマンサクさんが、怒って娘に携帯で電話をして文句を言った。
「早くしてくれないんだ……他を探してくれ」
電話された方も困るだろう。家族だって知っているだろう。介護施設の過酷な状況。10人をひとりで世話しているのだ。
 ナースには文句を言ってはいけないと言う。辞められたら困るから。しかし介護士は、特に男の高齢者は女の介護士を下女だとでも思っているようだ。女性職員は嘆いていた。

 ブティックで働いていた時に店長に言われた。
『かわいがられた方が得でしょう』
 店長にもお客様にもかわいがられたほうが得。褒めるのも謝るのもタダだし。
 長い接客勤務が嫌な女にした。媚びて甘える。プライドなどない。自分がない……高価なものを買っていただけるのなら下女のごとし。ブティックの客に比べたら、入居者さん達はかわいい。扱いやすい。
 入居者さんにも、かわいがられたほうが得でしょ?
 若いうちは嫌だろう。反発するだろう。お世辞を言って媚びて甘えるなんて。

 男性のリーダーが出勤してくるのはギリギリだ。それからサイボーズと日誌を確認。朝の配膳は遅くなる。急がない。慌てない。すごい人だ。インカムで挨拶する。明るい声で。
「今日も1日楽しく働きましょう!」
能天気な人に思えてきた。仕事は速い方ではない。ミスも多い。

 入居者が嘔吐した時は、マニュアルを引っ張り出して読み始めた。Aさんは換気もせずにキッチンに集まって喋っていたパートに呆れ、換気扇を回した。リーダーの、のんびり加減に呆れていた。しかしAさんはリーダーにはなれない。異動も多い。歴代のリーダーよりも、知識も行動力も1番だと思うが。

 リーダーは明るい。パートには評判がいい。
「Yさん、髪切りました?」
とか、気にしてくれている……と思わせる。前のユニットでは、しょっちゅう飲み会をやっていたそうだ。
 入居者さんもわかっている。何より必要な……なんだろう? 言葉、おべっか、お世辞……はたまた、優しさ。
 そういうものは必要なのだ。配膳は遅くてもコデマリさんは文句は言わない。優しい言葉をかけてもらった、気にしてくれている、尊重してくれている、と喜んでいる。他の職員だと嫌味を言うのに。これを人徳とは言わないだろうか……? 仕事のできるAさんには不満だらけのリーダーだが。

 Aさんがもう少し柔らかくなれたらいいのにな、と思う。時々折れてしまうのでは? と心配になる。
 別の階でコロナ感染者が出た時には、率先して手伝いに行った人だ。

17 昨今の状況 2

 週に1度だけ夜も働きに行く。パートのいない曜日の夕食どき。これが毎週いくたびに凄まじくなっていく。
 2ユニットの配膳片付け、見守り……大変かどうかは両ユニットとも、たったひとりの方の行動で決まる。
 どんなにわめこうが、文句を言おうが罵声を浴びせようが、動かないでくれれば構わない。問題は椅子から立ち上がり転んでしまうことだ。

 オリーブさんの椅子の背にセンサーが付けられた。椅子から立ち上がると鳴る。この間の夜はよく鳴っていた。
 食事のあと、職員は順次部屋に連れて帰る。ひとりの職員が10人を。
 その合間にオリーブさんは歩き出す。どのくらい歩けば転ぶのか、確かめた事はない。
 職員はすっ飛んでくる。少し歩かせて疲れさせる。オリーブさんが入居してから、夜は殺気だっている。
 オリーブさんのせいで、コデマリさんとマンサクさんの薬が遅くなり、部屋に帰れない。
 パートの私は服薬させることはできない。文句を言うのは、このふたり。ふたりの席は隣りどおしだ。仲間がいるから強気だ。大声で文句を言う。ネチネチと言う。
「しょうがないね。ああはなりたくないね」
パートの私は、
「うるさいっ!」
と怒鳴りたくなる。
 かっとしやすい人なら……気がついた時には遅かったりして……

 職員は仕事を終えたらぐったりしてしまうのではないのか? 気力を使い果たしてしまいそう。 
 以前いた50を過ぎた女性職員は体力の限界を感じて辞めた。家に帰るとソファーからベットまでも行けなくなる…… 夜勤明けに自転車で居眠りして転んだ人もいた。

 コデマリさんの入浴が最後になった。きちんと説明した。順番に皆が1番風呂に入れるようにしますね……
 大人の対応。
「入れてくださるなら、3番でも4番でも結構です」
 3番風呂は特に気をつけて湯垢をすくった。コデマリさんは途中何度か浴槽を見た。熱めの上がり湯を丹念にかけ、ことなきを得た。
 次も3番目だった。バイタルを測りにいった時は、
「入れてくださるのなら3番でも……」
などと言っていたのに、いざ、迎えに行くとリビングで待ち構えていた。プンプン怒っていたらしい。予定の時間より早いはずだ。なのに、
「もう入れていただかなくて結構っ!」
怒りまくっていた。
 こちらは平謝り。入っていただかなくて結構っ! 言い返してやりたいが。
 風呂場へ行く間、廊下でわめいていた。
「もう、ずっと3番目なんですねっ!」
そうしてやりたいけどね。ああ、血圧上がってるわ。
 この方は血圧が高いので何度も測り直す。今朝は寝ながら測ったので1度で済んだけど。大丈夫なのか? 湯船に入れて? 
 風呂場で私が係の時に、最悪の場面には出くわしたくない。

 コデマリさんは以前、髪をカットするので入浴が2番目になったときに、
「まだなの?」
と風呂場まで車椅子で自走してきて、大声で叫んだ。そんなに待てないものなのか? 

 90歳過ぎるまでこうして生きてきたのだろうか? 認知はない。記憶力はよすぎるくらい。我儘で自分勝手な人ほど長生きするようだ。
 控えめで奥ゆかしい、職員にも好かれていた者ほど早く逝ってしまう。

 かたくななイチイさんはハンバーガーが好物だ。家族から差し入れがあったそうで夕飯は食べられなくなった。
 以前差し入れがあった時もポテトをグリルで温め気を使っていた。オーブントースターがないのだ。
 しかし、80歳すぎてハンバーガーにポテトなんて。私はすぐ胃もたれが……明け方胃薬のお世話になるが。
 今夜もイチイさんは部屋に閉じこもったきりだ。スポーツが好きな方だからオリンピックを楽しんでいればいいが。

 先日は月1度の体重測定の日だった。先月腰を痛め、入浴介助を外してもらったら、体重測定の係になっていた。重い、車椅子ごと計れる体重計を下の階から運んでくる。
 腰が最高に痛い時だった。車が付いているとはいえ慣れない体重計を運びセットし、20人の体重を計る。
 車椅子ごと乗せるのが、慣れない腰の悪いばあさんには辛かった。なぜ、イメージしてくれないの? これならまだ入浴介助のほうがマシ……
 大体、腰を悪くしたのは足浴の時の中腰の姿勢。8人も続けて足を洗う。なのに足浴介助はしっかり私の担当のままだ。中腰の姿勢が悪いとわからないのだろうか?

 そしてひと月たち、腰痛はだいぶ良くなった。その日は、またまた体重測定の係の日。気が重く出勤し朝エレベーターに乗った。
 すると、途中でO君が乗ってきた。なんと、体重計を運んできた。早番の彼が就業25分も前に働いていた。予定表には体重測定担当は、私になっている。先月とは大違いだ。

 さわやかなO君。時たま、早番の時に遅刻をやらかすが……
 私の担当なのに、時間前からさっさと入居者を連れてきて体重を計った。私はほとんど記録するだけ……なんて、いい子なのだろう!
 隣のユニットの二十歳の女性もどんどん計ってくれた。この女性はもうすぐ丸1年になる。体育系の短大を出て地方からのひとり暮らし。4年間は家賃8万円の補助が出る。なにかあれば駆けつけられる2キロ以内の場所だが。
 それほどの補助があり、なおかつコロナ禍。それでも人は来ない。彼女はたくましく育ってくれた。ネコヤナギさんに言い返している。入ってきたときは失礼だが、絶対男性だと思った。O君より背が高く、ショートカット。体脂肪ひと桁? と思うくらい細かった。しかし、体力は並ではない。トライアスロンの選手だったという彼女は12時間連続勤務にも、疲れを見せない。配膳は両手にトレイを持ち軽々と運ぶ。

 慣れるとかわいい人だ。銀座の美容院でカットしてきた、と喜んでいた。そういえばマスクを外した顔を見たことがない。計算が苦手なようだった。あとから車椅子の重さを引くのだが、手こずっていた。

18 パートはうまく使え

 施設がオープンした時、パートは大勢いた。大勢募集し採用したのだろう。3日間の研修で一緒だった人のうち、何人残っているだろう? 
 同じユニットの若いパートには幼稚園に通う子供がいた。子供は母親が働き始めると具合が悪くなる。そういうものなのだ。幼稚園から連絡があり早退をする。それが何度か続くと若い男性リーダーは顔に出した。言葉に出した。
「もう、帰っていいよ。いたってしょうがないだろ!」
冷たいお言葉。結婚はしない主義だとか。若いパートはロッカーで泣いていた。そして別の階に移っていった。

 この間、新しく入ったパートも2日目に休んだ。コロナで保育園が休園。しかたない。当てにはしていない。
 古株のナースは日曜日、幼稚園児の息子を連れて来ていたことがある。見てくれる方がいなかったのだろう。iPadを持たせ、おとなしくしていたが……浣腸させるとき、どうしても入居者さんの部屋に一緒に入るときかなかった。

 Cユニットのパートは、オープンしてすぐに、私ひとりになった。研修で親しくなったEさんが、同じ階のフレックスになった。フレックスとは、パートが休みのユニットの手伝いをする。だから4ユニットの入居者の食事形態を覚えなければならない。4ユニットの職員さんとうまくやらねば……私には無理だ。私が仕事の日はCユニットには来ないから一緒に働いたことはなかった。

 Eさんはよく愚痴をこぼしていた。フレックスだからどのユニットの所属でもない。宙ぶらりん。Bユニットの飲み会に誘われなかった。皆ニックネームで呼んでいるのに自分だけは違う……辞めたい。辞めたい……
 誘われない方が気楽でいいじゃない。若い人たちじゃあるまいに。それに、ニックネームで呼ぶのはいけないんじゃ?
 うちのユニットの男性が、無視したって? 時間だから、帰ります、と言っても、お疲れ様も言ってくれない……
 Eさんとはメールをしていたので愚痴愚痴愚痴。その男性職員さんは熱心で、入浴介助の難しい人がいると、家で奥さんで練習してきたからと、他の職員に教えていた。私も夫を相手に家で移乗介助をやってみた。
 この男性職員はサイボーズの見方を教えてくれる時、私の顔を1度も見なかった男だ。ずっと見ていた若い女性はすぐに辞めた。やがて資格もなしに頑張るばあさんに一生懸命教えてくれるようになった。汗ダラダラでシーツ交換もしていた。入居者さんの靴まで洗っていた。今いる職員は洗わない。前向きな職員だった。しかし、辞めて行った。ケアマネの資格があるので他所へ行った。

 パートのEさんはそのうちBユニットの誰々が気まずい、口をきいてくれない、辞めたい……と愚痴愚痴。
「辞められたら、困ると思うよ。パートは少ないんだから。こっちのリーダーに相談したら? Fさんだってネコヤナギさんが嫌で、移動させてもらったし」

 そうしてEさんはリーダーに話し、私と同じCユニットの所属になった。
 しかし、友人とは共に仕事をするものではない。Eさんは4ユニットの配膳と洗い物をしていたが、いざこっちの所属になると……いい加減。遅い。おしゃべり。Eさんの方が私より若いのに、勧められても介護職にならなかった。怖いから、と。周辺業務のみ。それは賢い選択だが。
 ジトーっと流しにへばりついて洗い物をしている。食洗機があるのに、洗剤を付けて丁寧に洗っている。こっちは全部貯めてざっとゆすいで食洗機におまかせだ。数分で終わらせる。
 しかし、誰も何も言わない。ずっとそうしてきたのだろう。空いた器を下げにも行かない。下げるのは職員だ。猫の手も借りたい職員だ。ずっとそうしてきたのだろう。そして、米を研がない……? 
「お米研いでくれるとありがたいんだけど」
「爪が……ささくれが……」
それで今まで済んできたわけ? 誰もやれとは言わなかったのか? ビニールのグローブをはめてやればいいじゃないか? 4ユニットのフレックスとはこういうものなのか? 当てにしない。当てにされない。いないよりマシ? 
 キッチンのゴミ箱を廊下に出すのだが、リビングの屑籠はあふれたまま。
 気が回らない。茶葉や洗剤が少なくなっても補充してない。職員が猛烈に忙しい時、そのペースでご丁寧に洗い物をして、米も研がないんじゃ、ご苦労さまも言ってくれなくて当たり前じゃ? 

 時給はたいして変わらない。Eさんは夕方も働いているので賞与も出る。いっとき不満が溜まったが、短時間の仕事、忙しい方がいい。

 資格あり、経験なしで入ってくるパートが多い。1度に教えようとして失敗したらしい。数日で来なくなった。電話はご主人からかかってきたという。そのうちご主人が荷物を取りに来て辞めていった。それは教訓になったようだ。リーダーも若かった。
 そのあとは丁寧に教えている。上から言われたのだろう。しかし、丁寧すぎないか? 私は1度見学しただけで入浴介助させられたが。

 後に入ってきたフィリピンの女性のGさんは週3日の短時間勤務だった。パートが潤っていた時だ。Gさんはモップで床を拭いていた。2ユニットの広い面積。腰が痛くなりそう……運動だと思ってやればいいが、根を上げるのでは?
 Gさんは施設長に文句を言いにいったらしい。別の階に移動になった。ロッカーで時々会う。元気そうだ。今のユニットはこっちと違って優しいという。それにしても、皆、不満を溜めておかない。羨ましい。私はひたすら我慢した。我慢すればイヤな人は辞めていく。いい人まで辞めていったが。

19 昨今の状況 3

 働いて5年が過ぎた。
 わめく人はいるが、皆おとなしくなってきた。 
 さすがに90歳を過ぎると衰えてくる。居眠りが多くなる。
 95歳の憎まれっ子のホオズキさん。人一倍元気だった。人の粗を探し口に出し、嫌われていた。夜中に40回もナースコールを押し、職員を心身共に疲れさせていた。ホオズキさんのために、移動していった職員もいる。
「金払ってるんだから」が口癖だった。「上に言いつける……」も。

 最近まで朝食は8枚切りのパン1枚半を耳までペロリと平らげていたが、めっきり弱った。食が進まなくなった。尿が出ていない。むくんで、腹水もたまっている。トイレにも座らせられない。 
 足浴していても反応がない。怖くなる。

 もう、無理して食べさせず、好きなものだけを食べていただく。家族にも連絡したようだ。
 今日も、ほとんど手をつけなかった。おなかは空かないのだろうか? 

 もうひとりの憎まれっ子は元気だ。
 91歳のコデマリさんは今週は入浴は1番目。満足そうだ。ふくよかな3段腹。まだまだ太っていきそうだ。
 立たせたら、お尻にトイレットペーパーが。気づかれないように流してやる。コデマリさんは、ひとりでトイレに行ける、それが自慢だ。
 まだまだしっかりしている。ホオズキさんのことを心配している。以前は隣の席でいろいろあったのに。コデマリさんの血圧を上げる原因だった人なのに。揉めるから席を離したのに。
 しかし、余計なことを話すとお咎めが。入居者の状態を話してはいけない。

 そういえば、大昔に聞いた話。女数人で温泉に行った。裸に自信のある女は注目を浴びたくて、わざとあとから入った。注目を浴びた。お尻にトイレットペーパーが……
 大昔に読んだ、姉が持っていた本。結婚準備の本だった。美容や儀式のことが載っていた。終わりのほうに、初めての夜のことが!
……50年前の本の内容。うろ覚えだが。

 直前にトイレには行かないように。
 旦那様に任せましょう。(なんて、全然関係ない話)

 今日は隣のユニットの配膳に行った。職員が、忙しいとひとりごとを言う。他所の施設から来たベテランさん。
 知識が豊富だ。おかずを分けながら、ブツブツ文句を言う。この間、認知症のおかあさんを亡くしたばかり。
 私のマンションの、隣の認知症の旦那のことを話した。娘さんがひとりで苦労している。夜中に大声でわめいている。まだ自転車に乗れるから、介護度は低いかと思ったら、頭の方が優先だとか。
 ついつい話をしていたら、トネリコさんに怒鳴られた。
「うるさいっ!」
席が変わり(よく変わる)配膳台のすぐそばの席になっていた。
「ごめんなさい。うるさかったですね。勘弁してくださーい」
相変わらず……迫力ある人だ。トネリコさんは入居者が咳をしていても怒る。人と交わらない。どんな生き方をしてきたのか? マンサクさんには気があるようだが。

 リンドウさんも90歳を過ぎた。入ってきた時は杖を付いて歩いていた。しっかりしていた方だったので、配膳のお手伝いをさせた。立っておかずを分けていた。手際がよく助かっていた。しかし転倒して車椅子になりすっかり弱ってしまった。
 以前はカリンさんにもヒイラギさんにもモクレンさんにも、テーブルの上でおかずを分けさせた。時間はかかるが、本来ユニットはそうやって、できる方にはやらせるところだ。忙し過ぎて、職員がやった方が速いからやらなくなってしまったが。

 リンドウさんには心臓の持病がある。毎月70歳を過ぎた娘さんが電車を乗り継ぎ、介護タクシーを使ってかかりつけ医に連れて行く。予約してある大病院なので天気の悪い日でも。
 かかりつけ医のある方、持病のある方はインフルエンザの注射もそっちでやらねばならない。頭痛薬さえ出してもらえない。リンドウさんは嘆く。
 この頃は、血圧計で脈が測れない。120とか出てしまう。入浴させられる数字ではない。不整脈だから指で数えろと言われた。私はスイミングスクールに通っていた頃は、自分で10秒間脈を数えた。それさえあやふやだったのに。
 30秒数える。速い。速い。そのうち、拾えない……集中する。私は医女チャングム……無理。倍にしたら90くらいかな? たぶん。
 では短浴で……怖いです。

 ストイックなポプラさんはパーキンソン病で、歩行を禁止された。ひとりで手すりに捕まり歩いていたが危険だから、と。歩けなくなることを恐れていた。日に何度も体操していた。
 食事にもスプーンが出される。物が二重に見えて箸では掴めなくなった。よだれも出る……と嘆いていた。
 病気に気づいたのは数年前。信号待ちをしていたらいきなり倒れた。自転車でよく行った公園を真っ直ぐに漕げなくなり、池に突っ込んだ。
 調べたら、真面目で几帳面な方がなりやすい、とか。その通りだ。ポプラさんほど真面目で几帳面で、思いやりのある方は今までいなかった。

20 お迎え 2

 先日は朝から大変だった。
 出勤した時、救急車が止まっていた。どこの階の入居者だろう? ユニットの人たちの顔が浮かんだ。ホオズキさんはすでに入院していた。

 着替えてエレベータに乗った。2階で職員が乗ってきた。救急対応でうちの夜勤が手伝いに行っていたのだ。
 この職員はベテランだ。余裕のない職員もいる。
「手の空いている職員は来てください」
他の階からは誰も来なかった。

 夜勤は2ユニット20人をひとりで見守る。だからもうひとりの夜勤は、その間40人をひとりで見ていたということになる。眠らない方もいるのだ。
 ホオズキさんが入院していてよかった……口に出しては言えないが。状態が良くない。かわいそうだが、手のかかる方なので、いないと助かる。特に夜間は。ナースコールを40回鳴らす方だ。

 その日はパートは、私だけだった。3月は有休を消化しないともったいないから皆休む。私は嫁の出産ですでに消化していた。

 2階のシフトもきつかった。救急車に夜勤も付き添って乗って行った。そして付き添って行った職員の勤務は明け超勤で、9時まで。それまでどうするか? パートが来るがひとりでは無理だ。
 結局うちのユニットの早番が手伝いに行き、夜勤が残った。私は2ユニットを行ったり来たり。

 この職員は他所から来て2年目だ。以前は主任だったという。もう、楽をしたいからと言っているが、それは無理のようだ。持病もある。喘息にアレルギー。腰痛。肘痛。自分の体重もうちに来てますます重くなったようだ。この間は咳をした拍子にギックリ背中。
 
 以前にも夜勤が残らざるを得ないことがあった。若い女性職員は叫んだ。
「病院予約してあるんです」
 救急車が乗せるのは入居者ばかりではない。
 以前このリーダーの女性は、トイレに籠っていた。私は入浴介助を始めていた。脱衣場の電話が鳴った。リーダーから、
「おなかが痛い……」
 ナースを呼んだが結局救急車に乗せられて行った。婦人科系の病気だった。3交代のシフト、ほとんど立ち仕事。力も使う。要領が悪いから事務仕事で残る。長い時間残る。ストレスも溜まる。冷えも……
 若い彼女は30歳までには子供が欲しいと言っていたので、真面目に治療に通っていた。
 すでに辞めたが、望みは叶っただろうか?  

 別の若い職員には子供を産む気はない。育てていく自信がないと言う。結婚もする気もない。仕事はできる。悪い意味ではなく要領もいいのでサービス残業はしない。
 私は期待しているのだが。考えが変わるような相手に巡り会えることを。

 以前いた年配の女性も病気で手術したとき、驚くほど早く復帰して来た。休めば迷惑がかかる。戻れば仕事はハードだ。3人の子供が大学を卒業するまでは……と頑張っていたが、辞めて派遣社員になった。

 独身の年配の男性は、両親が認知症で苦労していた。腰痛と腕の痛みもひどかった。当時、休みの多いその職員には皆冷たかった。休まれれば、負担がかかる。結局、休んだまま、挨拶もなく辞めて行った男性は、その後倒れて、ペースメーカーを入れたと聞いた。母親は亡くなり、父親は介護施設に入った。本人はまだ仕事はできないという。

 フレックスのパートも去年、胆嚢を取る手術をした。胆石で何度も痛い思いをしたという。私は丈夫だ。鼻のアレルギー手術くらいしかしたことがない。
 
 ホオズキさんが亡くなった。頭のほうはしっかりしていたが、肉体が目に見えて弱っていくのがわかった。97歳だった。食べられなくなり、尿が出なくなった。入院して、3日目に永眠された。

 何も変わりはしない。部屋を片付けておくだけだ。たいして語られない。すぐに次の入居者が決まるだろう。楽な方ならいいが。
 入居者さんの中でも聞いてくるのは、コデマリさんだけだ。
「ホオズキさん、まだ帰ってこないね」
コデマリさんは、救急搬送される時、自分の部屋に押し込められたと憤慨していた。ドアのガラスの部分から覗いてたそうだ。
 記憶力のいいコデマリさんは言う。ハマナスさんは、ヤドリギさんは、ナツメさんは、とうとう帰ってこないね……

ついのすみか Ⅱ

ついのすみか Ⅱ

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-08-27

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 11 そういうものに私はなりたい
  2. 12 音の風景
  3. 13 素人ですが
  4. 14 リーダー
  5. 15 昨今の状況
  6. 16 かわいがられたほうが得でしょ
  7. 17 昨今の状況 2
  8. 18 パートはうまく使え
  9. 19 昨今の状況 3
  10. 20 お迎え 2