無口な父のことば

   無口な父のことば

 町の中をさして歩くよりも、玄関の傘立にさしてあるより、ゴミ集積所の隅に放置されている方が似つかわしい風貌の傘は、元の色が濃い青なのか紺色なのかも分からないほど色褪せていて、そんな色の生地の骨組みに沿って入る白い線が、「生地が割けちゃいそうだよ」と訴えているように感じて、気持に余裕というか、ゆとりというか……安らぎみたいなものを感じる度に、私は自分で戸惑うほど。ふだんの自分が嫌になるほど。やさしい私と向きあ得るのです。
 お掃除の時に何の気無しに傘を手にしてみると、私に向かい「こんなになるまで、ここに居られるなんて思ってもみなかったよ」と照れくさそうに囁やき、嬉しそうにしている“彼”を元の場所に納める時にはちょっぴり、ほんの一瞬だけ寂しそうな表情を見せますかが、「ありがとう。また抱っこしてね」と、互いに希望をつむぐように、言っているように私は感じます。
 雨傘としては、もう誰も手にしない傘ですが、捨ててしまう気にはなリません。なぜかというと、小さな穴一つ空いているわけでもなく、錆があるでもないところをみると、丁寧に作られた上に、父が手入れを怠らなかったことが、見る人が見ればよくわかる傘……だからです。         
 傘を見ていると、妥協せずに額に汗して太い指を動かす労働者と、油を注しては力強く雑巾で拭く父の姿が、わたしの右と左の頭の隅ではっきり現れ、その光景は忘れていた懐かしさと、人のあたたかさを感じさせて、やさしい気持をよみがえらせてくれるのです。

 この傘がどの様にしてわが家にきたのか。そのいきさつは分かりませんが、わが家に来てゆうに三十年は経つ傘は、父と過ごした年月よりも、なぜかずっと身近に感じられるのです。
 がんを告知されてからの父は、医師の入院治療のすすめに耳も貸さずに、会社の元同僚の方々とゴルフに行ったり、日帰り温泉を楽しんだり、事もあろうにお酒を呑みに行ったりして……担当医に叱られると、家にこもって仰向けになリ古い本を開いてみたり、そうかと思えば正座をしてテレビを凝視したり、濡縁に座って何とは無しに庭を眺めたりして、自分の時間を大切にするようになりました。自分の身勝手さについて反省すると言うよりも、ただただ素直に自分を取りまく現状を心に焼きつけ、生きている事実を感じたい……わたしにはそう見えました。 「人は、支え合って生きる為に生れてきて、生かされているのだよ」 事ある毎に父はそう話していましたから。

 がんの宣告を受けて一月半ほどが経過した頃の父は、頬はやせこけ、肌はくすんだ黄色になり、腹水のために妊婦みたいなお腹になって、食欲はウセ、がん患者特有の症状が顕著に現れる様になりました。それでも父は何度説得しても、涙ながらに訴えても、頑なに入院治療を拒み続けました。娘の涙を見て反省したのか、父親としての威厳を取り戻したのかは分かりませんが、それから父には変りました。●
★三ヶ月後、父はようやく入院をして治療に専念する覚悟を決めました。その決断は、楽しみであり生き甲斐だったデイサービスに行くことができなくなり、患者として最期の時と向き合う事を意味していました。
 わたしは父がさぞかし残念な思いをしているのではないかと思い、
「最後のデイサービスの日なのに、雨なんて嫌ね」
 と、声をかけました。すると父は、
「雨が降るから農作物や植物が育つんだ。それだけじゃない、人間や動物はもちろん、生きいるすべてのものを生かすために雨は降るんだぞ」
 と、にべもないことを口に出し、その日に限って、この傘を手に取りました。
(別の傘にすればいいのに)
 という思いを、わたしはその時、口に出しませんでした。どんな言葉がかえって来るか、わかっていたからです。
 ---このぼろぼろの傘は俺自身なんだ。
「お父さんはまだまだ若くて元気よ」
 ---そっくりだと言えばいいじゃないか。俺はもうしばらくすれば死ぬ。だけど愛子が大切にしてやれば、コイツはまだまだ生きつづけるんだ。
 
 わたしたち家族は結局、がんの話を父にしませんでした。父が知ろうとしないのにわざわざ教えることはないと思っていましたし、その病名を口にしてしまったら、それぞれが握っている希望の綱が断ち切られてしまう気がしたからです。
 でも父は、自分ががんだと云うことはわかっていたようです。つまりお互いにわかっていながら、言葉には出さなかったわけです。父の机の引き出しには、がんに関する本や、医学、看護、介護、薬理学の本が収められていて、一冊一冊ページを繰ると、波線なのか直線なのか判別できない、鉛筆の太いアンダーラインがびっしりと引いてありました。貴重なところには青と赤のアンダーラインが。なかでも看護学の本は赤線だらけでした。
 案の定父は、社会人としての心得はもちろん、まめ知識等々を看護師の皆さんに話して聞かせ、辟易とさせていたようです。父は何と言うか……娘であり主婦であり母親であるわたしに対し、その道のプロとして歩む事を望む人だったので、看護師の皆さんに対しても同じように向き合っていたのです。敢えて、自分が嫌われ役に身を置いて、大袈裟に言うと、草の根から世の中を良い方向に変えようと本気で考えていたのでした。

 わたしが在りし日の父を思うとき、ひとり柴犬を散歩に連れ出していた二十年前の父の姿を思い出します。
 この傘をさして庭の階段を降る父のうしろ姿は、とても自然な幸せを物語っていました。わたしはふと、
(この傘をさしていれば、父といっしょに同じ時間を過ごせるかも知れない)
 そんな気になりました。
「今度、雨降りのとき、きっと使うね」
 声に出して言い、一度もさしたことのない傘を、父が決めた傘立ての手前の隅にそっと戻すと、更に父の思いに近づけた気がしました。
「ありがとう」 
 わたしが言うのと同時に、父の低いぼそぼそした声が聞こえました。
「雨の日の楽しみが増えただろう」
 きれいな色違いの傘の中で、色褪せた父の傘がいちばん目立ちます。まるで子供たちを見守っているかのようです。
 子どもたちが帰ってきたら、おじいちゃんのことを話して聞かせようと思います。父が教えてくれた、不自由な中に在るあたたかさと、自然に在る幸せを。わたしなりに。伝えようと思います。
 父やこの傘のように、黙ったまま教えることなんて、わたしには出来そうにありませんから。

                                      了

無口な父のことば

無口な父のことば

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-11-10

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