三時のサラダ

 骨の髄まで、染まる、きみに。星のおわりが、いつか来ることを、わたしたちはわかっているので、そんなに、がなり立てないでください。だれかの、怒りに満ちた声が、非難する言葉が、突き刺さる、わたしたちのやわらかな肉体に、つらぬいて、無防備な心に、無遠慮に。
 三時。
 ホットケーキを焼くのに、適した日、というのもある。きょうはすこしだけ、なんだかちがうような気がして、デパ地下で、ドーナッツを買ってきた。わたしの、こいびと、という存在である、きみは、サラダの専門店で、生ハムとカッテージチーズ、ナッツが、ルッコラやベビーリーフなどとまぜられたサラダを、百グラム分購入していた。ヘルシーなおやつ、と思いながら、わたしはチョコレートのかかったドーナッツを、むさぼるように食べていた。きみは、サラダの生ハムを、いちまいずつ、舌のうえにのせて味わっていた。これ、ふつうに、わたしの部屋での光景だけれど、正直、他人には見られたくないな、と思う。土曜日。平日の憂鬱さを晴らすみたいに、わたしたちは、思い思いに過ごす。好きなことを、じゆうに行う。然して興味もない再放送のバラエティー番組を観たり、ずっと読みかけだった本を開いたり、ベランダのすこし枯れかけた花に水をやったり、ときどき、ふれあったり、する。安堵する。そういう、かんたんで、ちいさな幸せが、でも、すべてだったりするのではないか。太るかもしれないけれど、ドーナッツはやめられないし、観る気がなくてもなんとなくテレビを点けてしまう。きまぐれにしか水をやらないのは、でも、残酷だよねぇと、自分で自分に言い聞かせてみる。十一月のおわり。くもり空。わずかに開けた窓から流れ込んでくる、つめたい空気。ホットカーペット。石油ストーブ。わたしは、もこもこのひざかけにくるまって、サラダを食べながらタブレットで動画を観ているきみの横顔を、観察する。
 どうせ、肉体や精神をこわされるのならば、きみの声で、言葉で、こわされたい。
 こわいのも、かなしいのも、きみから与えられるものならば、それすらも。

三時のサラダ

三時のサラダ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-11-28

CC BY-NC-ND
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