CRUMBLING SKY 改稿作業中
・CRUMBLING〈クルムブリング〉 ぼろぼろな
・SKY〈スカイ〉 空
久しぶりに書き直しています。
そのため、物語の途中で旧作とぶつかって繋がらなくなると思うのでご注意ください。
エピローグ――昧旦《まいたん》の欠落者――
饗庭小夜は毒虫のように生きていた。
しぶとく、強張りながら、じっとして動かなかった。
彼女の母親はステンレスハンガーを握りしめ、蹲っている娘の背中に振り下ろす。
鋭い風切り音の後に、容赦のない痛みが爆ぜた。
饗庭小夜は歯を食いしばり、目に涙をためて呼吸を浅く繰り返す。
鞭打ち刑は断続的に、悪意を込めて不規則に、幾度も降り抜かれた。
痛みの雨に打たれる最中、饗庭小夜は己の罪について内省していた。
……しかし、どれだけ考えても、自分が叩かれている理由を理解できたことはない。
なので彼女は、いつからかこの行為を当然のものだと認識し始めた。
自然災害に悪意が介在しないのと同様に、親と子供の関係を「そういうもの」だと認識していた。
悲しいことに、饗庭小夜は親の振る舞いを、理不尽を納得していた。
それ程まで幼い頃から、常習的に虐待行為は繰り返されていたのだ。
ステンレスハンガーがすっかりひしゃげて使い物にならなくなると、母親は鞭打ちの執行を終了する。
次に母親は、憔悴して床に額を押し付けている饗庭小夜の頭に手を伸ばした。
乱れた髪を鷲掴みにして持ち上げ、ごみ袋を捨てに行くような歩調で玄関まで引っ張り歩く。
饗庭小夜は苦しい体勢のまま、母親の歩調についていく。
ずかずかと進む母の脚と、散らかった廊下が視界に映る。
母親は上がり框を裸足のまま出て、玄関の扉が開かれた。
つかまれた髪が放られる。
その勢いで頭から転げ落ちる。
荒れた玄関先は冷え切っていた。
とても寒いはずなのに、痛みのおかげで全身が暖かい。
饗庭小夜は、ほんの少しだけ清涼さを感じていた。
視界の端、母親が扉を閉める姿が見えた。
錠をかける音が一つ響いた後には、静寂が耳に詰まる。
毒虫のように耐え凌いだ饗庭小夜は、しばらくしてからゆっくりと起き上がった。
枯れ枝ばかりの庭に隠していたサンダルを履いて、年が開けたばかりの夜の街を歩き出す。
第一話 都市の幽霊 上
深夜にも関わらず、住宅街の町並みはぽつりぽつりと灯りが点いていた。
大晦日から夜通しで起きている人達が居るのだろう。
俺は武蔵関公園のベンチに腰掛け、池の水面に反射している空を眺めて過ごしている。
この時間のこの場所が好きだった。
鴨の泳いでいる池をじっと眺めていると、いつも決まって、こんな空想をしてしまう。
――それは、『睡眠中の意識が夜に溶け出す』というものだ。
肉体が睡眠状態に入ると、魂を格納している容器にわずかな隙間が生じる。そこから漏出した意識が目に見えない極小の粒子、あるいは霊素となって大気に拡散される。
人々の意識は大気を漂いながら複雑に交じり合い、結合と遊離を繰り返しながら微弱な電気を発生させる。この電気信号が睡眠時の夢となって現れる。
そして夜通し飛び回った意識は夜明けとともに自身の容器へ帰り、狂いなく魂が再構築されることで覚醒へ向かう。
人間はそうして夜毎に意識を手放し、崩壊と再構築を経て、自我の連属性を保っている。
今の時間帯は、まさに人々の意識が再構築の真っ最中なのだと考えると、こうして眠らずに池を眺めている自己という存在が特別なものに思えた。
この世界を見守る特別な役割を俺は果たしている。
孤独で、静かで、妙に救われた気分になる。
空は白み始め、夜間勤務ももうすぐ終わりだ。
後には清廉な朝靄が煙り、武蔵関公園はどこか神聖な空気に包まれる。
始発電車の走行音だけが、このひと時を現実のものとして繋ぎとめる。
そして、誰かの足音が一つ。
その足音は木々が枝を広げている小道を進み、こちらに向かって来ていた。
おそらくベンチに座っている俺に気付いていないだろう。
俺はわざと座りなおしてベンチを軋ませ、さりげなく存在を主張した。
「っ……」
息をのむ声。足音が止まった。
俺は白む公園に立つ人影を観察する。
――不用心だな……。
こんな時間に娘が一人なんて、新年に浮かれているのだろうか。
いや、どうにもそうではないらしい。
彼女の纏う雰囲気は陰鬱としていて、新年を迎えた人の面持ちではない。
浮かれた人というより、沈んでいる人といった方が正しいように思えた。
街灯の光を映す瞳は臆病な野良猫のようで、警戒の色を浮かべてこちらを見つめ返している。着ているものは冬用の制服。おそらくは学校指定のものだろう。この町で同じ制服を着た学生を見たことがある……もちろん日中にだ。夜に見るものではない。
黒いセーラー服の彼女を見て、「通夜だ」と思った。
喪服の代わりにそれを着て、不吉を纏っているようにさえ思えたのだ。
「……おはようございます」
俺は沈黙を断ち切るために挨拶をしてみた。
どれだけ見つめあっていたのかわからないが、相手は女学生だ。これ以上不審な態度を固持していては通報されてしまう。新年早々に警察のお世話になるのは避けたかった。
「明けましたね、新年」
場の空気を和まそうと、処世術じみた世間話を投げかけてみた。
彼女は視線を反らし、短く応える。
「……どうも」
それきり黙ってしまい、しかし立ち去ることはなく、俺の腰掛けるベンチとは別のベンチに彼女は座る。スカートをまさぐり何かを取り出す。握りしめて数秒、彼女の手の中が赤く灯った。電子タバコに火をつけたらしい。
――セーラー服なのに、喫煙……?
深夜から夜明けにかけて、この一画は俺の場所といっても過言ではない。それほどまでに連日ここで夜を過ごしている。
誰かと出くわしたことはなかった。だから、ここは俺の縄張りだという思いがあった。ここの治安を管理しているのは俺だ、と。
何故、新年の今日に限って彼女がここに現れたのか。俺はこの不良少女に対して興味がわいた。……ので、もう少し話しかけてみることにした。
「ここにはよく来るのかい?」
彼女は肺にためた煙を吐き出した後、少し鼻をすすり、「いや」と言った。
その所作は慣れたもので、喫煙は昨日今日のものではないだろう。
「……ちょっと気が向いて、散歩にきた?」
「……いいえ」
「じゃあ、そうだな……」俺は少し考える。「普段から家出をしていて、大晦日の夜は暇をつぶせる店がないからここに来た、とか――」
「あのさぁ」険のある声になる。「次話しかけてきたら通報するから」
彼女は携帯端末を印籠のように見せつける。割れた画面は目にまぶしく、俺は銃を向けられ降伏するように両手を上げた。
……会話をする気分ではないみたいだ。とはいえなんとなく事情が見えてきた。不良少女か。その電子タバコは親からくすねたか、万引きでもしたのだろう。
遠くで知能の低そうなバイクが走り去る。
都道を法外な速度で飛ばしているらしく、曖昧な方角から駆け抜けて曖昧な方角へと消えて行った。
武蔵関公園では鴨が池から飛び立った。
薄明の空を鏡映しにしていた池は大きく波打ち、それを眺める少女は煙を吐いて風にたなびかせた。
それぞれの夜が展開される。朝が迫るまでの、残り少ない自由な時間が流れていく。
「家」
不意に彼女は呟いた。
『イエ』――その語感は否定を意味する『いや』でも『いいえ』でもない。建物、あるいは帰る場所としての『家』なのだと理解するのに時間を要した。
「家、がどうしたの?」
俺は恐る恐る返答した。こちらに話しかけたわけでないなら通報される危険があったので少々戸惑う。
彼女は脅しの効力が正しく発揮されているのを確認して、満足そうに煙草をくわえ、大きく吸い込んだ。
「家に帰りたくないんだけど、あんたは近くに住んでんの?」言葉が白く煙る。
「本当に家出少女ってことか。何があったの?」
「いちいち探るのやめなよ」
――……苦手なタイプだ……。
俺は厄介ごとに踏み込んだことを後悔する。
公園のベンチに下手な縄張り意識があったせいで、不良で未成年の家出少女と関わってしまった。
「あんたが言った通り、今日はお店どこもやってなくてさ。もうここで野宿するしかないかーって思ってたんだよね」
「未成年だろう? 危険すぎる……帰りなさい」
「帰れないんだよ」
「なんで――」
「だから、いちいち探んなって」
彼女は苛ついた表情で俺を睨む。
推察するに、家庭に不和を抱えているようだ。短い会話の中で、彼女の言い分が『帰りたくない』から『帰れない』に転じていることから間違いないだろう。
――心配してくれる親はいないのか。
不審者、誘拐、殺人――幸いなことにこの地域はこれらの事件とは無縁だ。それでも彼女を放置して立ち去るのが正解とも思えない。
彼女の立ち振る舞いから、おそらくこういった夜を過ごすことに慣れている。
「ねぇ。お腹すいたし、ご飯食べようよ?」
彼女の態度が変化した。
いや、攻め方を変えてきたのだ。
明らかにこれは『売り』の誘いだろう。
男に近づいて「家出している」と伝え、それとなく一宿一飯の援助を匂わせる……。
「なら、俺が買ってもいいのか」俺はベンチから立ち上がり、コートのポケットから財布を取り出した。
「は――」
「お前はいくらなんだ?」紙幣をあるだけ取り出すと扇のように広げ、少女のセーラー服の肩を掴んで突き付ける。紙幣が鼻先を叩いた。
「いくらって……」
彼女は俺の豹変した態度の大いに驚き、目を丸くして怯えた。
きっと即断即決する人間には見えなかったに違いない。
もちろん、俺は彼女を買う気はない。
未成年に大人の怖さを教えるための、脅しに対するちょっとした意趣返しだ。
つかんでいた肩から手を離し、財布をしまう。
「……なんてね。子供が大人をどうこうするなんてやめたほうがいい。いやでも家に帰りなさい。俺が送ってやる」
「……家は嫌」
「未成年の深夜外出は補導対象だ。売春行為はもっと許されない。もちろん『コレ』も」俺は電子タバコを指さす。
「帰りたくない」
「なら交番に連れて行こうか。それとも俺が通報してもいいぞ」
彼女は狼狽え、事態が思った方向に転がってくれない苛立ちに舌打ちして頭を掻いた。
「なんで……助けてくれないの……」
彼女の強がる仮面が剥がれ、本心を垣間見た気がした。
潤んだ瞳、心が挫ける気配。
見知らぬ少女を泣かせてしまうのではと、良心が痛む。
未成年と大人には与えられた権利の性質に明確な違いがある。
安全を親から与えられるのが未成年の特権であり、自らの裁量で整えるのが大人の特権である。未成年でいる間は無償の愛が手に入り、親に支えられている期間に自立する能力を獲得する。そして大人の一員となるのだ。それまでは未成年が大人の振る舞いをすることは条令等で縛られる。
だが、特権を満足に使えない未成年は自衛しなければならない。大人らしく振舞うことをでしか、身を守る方途がないのだ。
親の支えを持たない、無償の愛を得られない子供は自立へ向けてもがき苦しむしかない。そして歪な社会に巻き込まれ、日陰で暮らすことを強いられる。
彼女はきっと、そんな子供の一人だった。
「……本当に困っているなら、やっぱり警察を頼った方がいい」
俺は真摯に提案するが、彼女は頑なに首を振る。
「警察はダメ……」
「なんで駄目なんだ?」
「探らないで」
「事情が話せないなら俺が助ける義理もない。もし話してくれるなら、そして俺が納得できる理由なら、リスクを負ってでも今夜君を保護しよう」
彼女は閉口し、俯いてしまった。
だがコートの裾をつかんで離さない。俺を留め置いて、言葉を選んでいるようだ。
やはり、面倒事の匂いがしてきた。
しかも報酬が支払われる可能性が相当低い。
「……誰にも言わないって約束できる?」
覚悟を決めたように、彼女は切り出した。
「言わない」俺は彼女の目を見て即答する。
「本当に約束してね」彼女は俺の耳元に唇を寄せて、手で覆うと囁いた。「私の親は、多分、多分なんだけど……クスリをやってると思う」
「クスリ? それは違法ドラッグという意味か?」
俺は想像の上を行くカミングアウトに耳を離し、彼女の顔を見つめた。
「種類は何だ?」
「わかんない。なんか粉みたいなやつを鼻から吸うの」
「粘膜吸収か……」
「だから警察はダメ。通報も補導も嫌。でも帰りたくない……ねぇ、いいでしょ? 私は話したんだから泊めてよ」
確かに筋は通る。家に帰りたくないのは本音だろうし、警察を頼れない事情も破綻はない。出任せの嘘を付いているわけではないようだ。
俺は腕を組み、暫く思案する。
正義感からここで通報したとして、その選択が彼女の人生を大きく変えてしまうかもしれない。安易にそんな行動をとるのはためらわれる。
それであれば、多少リスクを負ってでも保護をしたほうが良さそうだ。
家庭の事情を踏まえると一夜程度の朝帰りで問題にはしないだろう。本当にクスリをやっているのであれば、親の方から警察に通報することもない。
「……わかった」
「本当!? やった」
「とりあえず一晩だけだ。一晩保護する」
少女の表情が造花のように華やいだ。援助の成立したときもこんな顔をして男の肩に抱き着くのだろう。
「えへへ、助かっちゃった。ご飯は食べる?」
溜息が喉元に引っかかり、言葉が遅れて出てくる。
世話をするとなると、飯も俺が用意せねばならないのか……それもそうか。
「……俺にとっちゃ朝飯だな。帰って一度寝るが、ファミマに寄って好きなものを買えばいい。それでいいか?」
「おっけー」
すっかり涙は引っ込み、彼女の態度は気安い。
現金な娘だ。これまでもそうやって、強かに生きてきたのだろう。
武蔵関公園の遊歩道を歩き、俺は家へと案内する。
空はすっかり明るい。携帯端末を見れば時刻は六時に迫っていた。
仕事を切り上げるにも丁度良い時間だ。まだ街には人の姿はなく、少女を連れて歩く姿を見られる事もない。三が日の初日なのだから、外出する人はそういないだろう。
歩き始めて数分。
東伏見駅の踏切を通り過ぎ、約束通りコンビニエンスストアで買い物を済ませた後、駅前のマンションに帰宅する。
エスカレーターを呼び出す。
一階で待機していたらしく、扉は直ぐに開く。
「散らかっているけど文句言うなよ」
「大丈夫。私の家より散らかってる人見たこと無いから」
……それは家庭環境が荒れているということだろうか。
酷いとは思うが、生活が破綻している情景は容易に想像できてしまう。
重たい冗談の応酬に苦笑いして、エスカレーターが三階に到着すると自室の扉を解錠する。
「さ、上がって」
「お邪魔しまーす。……なんだ、普通にきれいじゃん」
「綺麗ではないだろ」俺は言いながら机のペットボトルを拾ってゴミ袋に詰める。
「『散らかってる』って言うからもっと酷いのを覚悟してた」
「覚悟してもらうために言ったからな」
自室にはベッドとPCデスク。アーム接続されたデュアルモニターは電源が付きっぱなしでデスクトップが光っている。
散らかっているのは脱ぎ捨てた服と空のペットボトル、そして昨日食べ終わってから片付けていないレトルト食品の器。それらを掃除してしまえば、客人を招き入れる最低限の空間は整った。
「え、待って。……逆に何もなくない?」
玄関前で俺が片付け終わるのを待っていた彼女は言う。
「趣味もないからな。こんなもんだろ」
俺は一仕事終えてベッドに腰を下ろし、照明に照らされた彼女をまじまじと眺める。
制服のスカートから覗く、靴を脱いだばかりの生脚に幾つかの痣があることに気付いた。
「なんの傷だ?」
「え?」
「それはなんの傷だ?」
俺が太腿を指差すと、彼女はわざとらしく恥じらい、スカートを押さえた。
「えっち」
「自傷行為か?」
「そんなんじゃないよ。見せてあげよっか? ほんとはお風呂先に入っときたいけど」
「――は?」
「え?」
「……いや、シャワーはそうだな。入っていい」俺は部屋の奥を指さして場所を示す。替えの下着と宿泊セットもコンビニで購入していた。
「じゃあ、浴びてくるね」そう言って鼻歌交じりに廊下へ消える。浴室に入る音が響き、シャワーの水音が漏れ聞こえる。
どうやら彼女は、未だ誤解しているようだ。
俺が一晩保護する対価として肉体を求めていると考えているらしい。
「ベッドに座ったからか……?」
俺は呟いて、デスクチェアに座りなおす。
そして付けっぱなしのモニターに最小表示していたアプリケーションソフトを操作して、今日の業務を締めると電源を落とした。
しばらくして、湯上りの彼女が濡れ髪を束ねて部屋に戻る。バスタオルを体に巻いているが、男の視線に恥じらう素振りはなかった。
「普通に髪も洗っちゃった」そう言ってドライヤ―を握り、髪を乾かしはじめる。
温風を吹き出すドライヤーの騒音が部屋を満たす。彼女はまだ何か話しているようだが俺の耳には聞こえない。
間をつなぐためのとりとめのない世間話だろう。
聞こえていなくても問題なかった。
「そっちはシャワー浴びないの?」
髪を乾かし終えた彼女は言う。
「今日はもう入った。明日でいい」
「えー。それって即尺ってこと?」
「やめてくれ」俺は眉を顰める。「ここに泊めるのに見返りは要らない」
当たり前のことを言ったつもりだったが、彼女は理解できないという顔でこちらを見つめる。
部屋に上げて二人きり……彼女の振る舞いはごく自然に雰囲気を運んでいた。これまで出会った男達は、なし崩しに肉体関係へ及んだのだろう。
もちろん俺だって人間だ。性欲が全くないわけではないが、見境なく手を出すほど腐ってはいない。それこそ、ここまでの話の流れで未成年に手を出せる男を軽蔑すらできる。
なにより、俺にとってこの人助けは夜間勤務の延長のようなものだ。
「……じゃあ、私はどうしたらいい?」
「何もしなくていい。買ってきた飯を食うなり、眠るなりして過ごしな」
彼女は部屋をぐるりと見まわして寝床を探す。ソファーがあればそこで寝ると言い出しただろうか。
「私は床でいいよ」
「客人を床で寝かせるもんか。俺はこの椅子で寝る。リクライニング機能もあるからな。君はベッドで寝るといい。
改めて言うが、君は保護されている身だ。俺の指示には従ってもらうぞ。じゃあ、おやすみ」
俺はコートの襟を立てて鼻先まで埋めると目を閉じた。正直まだ信用できない部分もあるので警戒心から眠気が来ない。それは向こうも同じだろう。
三分程経っただろうか、さして間を置かずに彼女がベッドから降りる音がする。足先がシーツを滑り、フローリングに立つ気配。
足音を忍ばせて、彼女は俺の脚の間に正座した。
「ねぇ、ほんとに何もしないつもり……?」
「……しないさ」俺は薄く片目を開く。「そんなにしたいのか?」
「そうじゃないけど……だって、なんにも返すものがないなら、ここにいていい理由は何なの? 私がここに居られる言い訳がない」
「うぅむ――」存外難しいことを考える娘だ。俺は少し考えるが、彼女の問いはそもそも成立しない。「――『ここにいていい理由』も『言い訳』も必要ない。子供は本来、安全な夜が無償で提供されるべきだ」
親からの無償の愛というものが、彼女の夜を、朝を、日々を保全するはずなのだ。
それが叶わないとき、社会は彼女を保護する役割を持つ。
複雑な事情により、警察を頼れないから俺が保護している……誘拐や監禁と疑われるリスクはあるが、このリスクは俺が背負えばいい。見返りも求めない。
「安全な夜……」彼女は初めて聞いた言葉を繰り返す。
「明日、警察は無理でも何かしらの機関に連絡する。児童相談所とか、何かしら頼れる役場があるはずだ。だから今は眠りなさい」
❖
目を覚ましたのは昼過ぎだった。
生活リズムが夜勤合わせになっている俺からしてみれば、これでも早起きをしたほうだ。仕事終わりにすぐ就寝したので前倒しにずれ込んだのだろう。十分に休めたようで眠気はないが、椅子のせいで体は妙に凝っている。
身じろぎをして起き上がり、ぐっと背伸びをした。
大きな欠伸を一つ。ベッドの方へ視線を向ける。
もぬけの殻……毛布に潜った形跡はあるが、彼女はもういなかった。
「帰ったか」俺は独り言ちる。あまり現実味がない。もしかしたら昨夜の出来事は夢だったのかと思うが、外出着のまま椅子で眠っているのだからその線はないだろう。大方、家に帰る気になったか、俺相手じゃ稼げないと見限られたか……もしそうだと思うと少し落胆する。
――まあ、仕方ない。救えない夜もあるさ。
俺は重くとらえず、コートのポケットに仕舞っていた財布の金が盗まれていないか確認する。……うん、盗られてはいない。
財布を仕舞うと同時、部屋の外の通路を歩く聞きなれない足音が壁越しに聞こえる。
「ただいまー」
ドアが開かれ、彼女は部屋に戻って来た。
「……眠れたか?」俺は問う。
「いんや」彼女はそっけなく答えるが、作られた笑顔よりも穏やかな表情に見えた。「あんたの臭いがしみ込んでるベッドじゃ眠れないよ」
「おっと――」
普通に恥ずかしい。
「――それは申し訳ない」
こればかりは気が回っていなかった。消臭スプレーを吹きかけておくべきだったと悔やむ。と、彼女の手荷物に気付く。よく見ると履物もサンダルからローファーに履き替えられている。
「家に帰れたのか?」
「玄関は鍵がかかってるから、窓から入って自分の荷物を詰め込んで、改めて家出して来た」
彼女は学生鞄を俺の方に突き出した。ぱんぱんに詰め込まれている荷物は着替えや泊り道具だろうか。
――いや、改めて家出したということは……。
俺が違和感を覚えると、彼女は真面目な顔で真正面に立つ。
「あの、さ」
「なんだ?」
「しばらく、ここに身を置かせてもらってもいいかな?」
「……児童相談所に連絡するつもりだが」
「それもやめてほしい、です。……親は私を探す気なんかないから、あなたは捕まりません。それは、保証、できるので……」
「子供の保証なんて信じると思うか? 一晩匿っただけでもかなりリスキーなんだ。第三者への連絡は早い方がいい」
「お願いです」彼女はフローリングに膝をつき、頭を下げる。
「……土下座なんて大人の真似事をしても駄目だ。責任能力が君にはない」
「二、三日に一度は家に帰るよ。それなら親は確実に何も言ってこない……だっていつものことだから」
「そんな生活をしてる未成年なんて、結局『児相』案件なんだよ」
机に置いてある携帯端末に俺は手を伸ばすが、彼女は土下座から顔を上げて、俺の腕を掴む。
「児相のお世話には何度もなってる……! それでもこの有様なんだよ」彼女の濡れた瞳が真っすぐに俺を見上げた「一生のお願い……安全な夜が欲しいんだ……」
「安全な夜……」
それは昨晩、俺が言った言葉だ。
そして俺が提供したものだった。
切ない願いだ。
未成年の少女がねだるものとは思えない。
あって当たり前のものを、彼女は切望し、俺を頼っている。
俺は携帯端末に手を伸ばすのをやめ、頭を抱えた。
数日間、この家出娘を匿うことの危険性を考えてみる。
無断で自宅に泊める行為は誘拐や監禁と疑われるリスクが付き纏うだろう。
親や警察に連絡せず放置しては保護責任者遺棄の罪を問われるかもしれない。
たとえ善意でも、指一本触れなくても、社会的に俺は終わるかもしれないのだ。
――どうする。どうしたらいい。
警察に連絡して彼女の身柄を保護してもらえば俺は逃げられる。
だが、親の薬物使用が判明して家庭が壊れれば彼女は悲しむだろう。
……それも致し方ないのでは? 元々壊れた家族なら、将来的には悪いことではない。
「家族は好きか……?」
俺は問う。
彼女はうなずいた。
「捕まってほしくない。離ればなれは怖いの」
あまり褒められた親ではないだろうが、家族愛はあるようだ。
どんな親なのか俺にはわからないが、薬物さえ断ち切ることができれば関係は修復できるのかもしれない。
俺はどこまで踏み込んでいい?
短期間匿うことで、リスクを負うことで彼女は救われるのか?
「学校は」
「通信制。この格好は外着なだけで、通学してない」
「やめたのか」
「二週間で」
二週間でやめた。か……。
クラスとは馴染めなかったようだ。
「家族は薬物使用の他に問題はあるか」
「ううん」
彼女は首を振る。
となると、問題は二つだけ。
家庭内の不和と薬物問題。
長期的に関わるのであれば解決したほうがいい問題だが、昨日今日関わっただけの俺がかき乱すにはまだ早い。様子を見ながら情報を引き出して、判断する猶予はある。
今しばらくは、俺が安全な夜を提供することが可能だろう。
「……じゃあ、もう少しの間だけ、ここにいていい」
俺がそう言うと、彼女はぱっと笑った。
造花ではない、小さな、薄桃色の花にも似た笑顔が美しかった
それだけで、この選択が間違いじゃないと思わせてくれる。
特に、家族を持たない俺にとってはかけがえのないものに思えてしまうのだ。
「……それよりご飯は食べたのか?」
「まだ、何も」
「そうか、食べに行くか」
「うん。あ、でもお金……」
「気にするな。未成年は金に困ってるくらいがかわいいもんだ」
出所のわからない稼ぎを持っている方がおかしいのだから。
「とりあえず俺はシャワー浴びてくる。君は着替えててくれ」
「え? 制服じゃダメ?」
「三が日に制服なんて目立ちすぎる。ほかの外着はないのか?」
「ないよ」
彼女の返答にため息が漏れる。セーラー服の娘を連れ歩く男……職務質問待ったなしだ。
「たしかサルエルパンツなら男女共用だったはず……」
クローゼットの衣服の中で男女関係なく着れるものといえばそれくらいしか持ち合わせていない。俺はお目当ての黒いサルエルパンツを引っ張り出してサイズを確認する。多少緩いかも知れないが、腰紐が通っているから縛ればなんとかなるだろう。上はコンビニで買っていた肌着はそのままでいいとして、羽織るものを見繕う。
「男物のシャツだが、そういう着こなしだといえば通るか」
俺はクローゼットの中からハンガーにかけられたグレー味がかったオフホワイトのシャツを彼女に押し付ける。上着には生地の薄い防水防寒特化の黒いアウトドアパーカーを選んだ。地味な配色だが生地の質感で差が産まれているし、なかなか悪くないだろう。
「オーバーサイズだがこれで行こう。着替えてくれ」
言いつけて、俺はシャワーを浴びに行く……と、思い出して振り返り、クローゼットの隅を指さした。
「消臭スプレーはそこにあるから」
❖
「――それで、改めて色々教えてもらおうかな」
ファミリーレストランは俺たち以外に客はおらず、店員も最低限の人数で回しているようだ。ほとんどの店が元旦休業をしている中で、開いているだけでもありがたい。
注文を済ませて、料理がやってくるまでの間に、いろいろと聞いておきたいことがある。
一夜を共にしておきながら、未だ互いの名前を知らない。
先ずは自己紹介から始めるべきだろう。
「俺の名前は尾鳥春樹だ」
「オトリ? 囮捜査の?」
「いや、鳥の尾と書いて『尾鳥』。春の樹で『春樹』、木は難しい方の漢字で書く。で、君の名前は?」
「饗庭、小夜。……饗庭で『饗庭』。小さい夜で『小夜』」
「じゃあ、小夜ちゃんと呼ぶことにする」
俺の提案に小夜は苦い顔をした。
「なんで下の名前で呼ぶのさ」
「外では親子設定で行かないとだろう。名字で呼び合うと怪しまれる」
「……『ちゃん』は抜きにして。寒気がする」
「じゃ、小夜……俺のことは何て呼ぶ?」
「尾鳥さん」
「お父さんかお兄さんだ。好きな方を選ぶといい」
「いやいやいやいや……待って」
耐えられないと小夜は机に突っ伏した。
「待って、ほんとに無理!」
――俺だってこんな偽装は恥ずかしい。
「逆サバ読んで私が二十三歳ってことにしてさ、もう付き合ってます設定にしよ? 家族のふりは無理すぎ」
耳まで真っ赤にして小夜は提案する。
「本当の年齢は?」
「十七……」
「逆サバも甚だしいな」
「メイクとかでいくらでもごまかせるから、お願い、付き合ってる設定にして」
小夜は懇願するように俺の手に指を絡める。
ちょうど店員はやってきて小海老とアボカドのサラダを運んできた。
つないだ手を振りほどくのも不審に思われそうなので、そのまま料理を受け取る。
「……付き合っている設定でもなんとかなりそうだな」
「でしょ?」小夜は安心したように言った。
サラダをつつきながら、互いの紹介は続く。
「気になってたんだけど、尾鳥さんって仕事をしてる?」
「おいおい、あの夜だって仕事してたじゃないか」
「え、待って、あの夜って昨日のこと? 公園でベンチに座って……なんかしてたっけ?」
「池を眺めてただろう」
「それが仕事?」
俺ははっきり首肯を返す。
「あれでお金が稼げるの?」
「いや、なにも変化が起こらなかったから報酬はないな。歩合制だし」
「ほんとに待って、え、……ヤバめな人?」
「失礼な、俺の職業は『周波数調整員』だ」
第二話 機械仕掛けの幻想 上
周波数調整員――二十二世紀の発達したAGIネットワークと浮遊バクテリアそれによって発生する霊素可視化現象問題を解決する組織。
裸眼での拡張現実投影を可能にした極微細コンピュータ――『浮遊バクテリア』は都市部を中心に大気にばら撒かれ、まるで質量をもたないホログラム広告として徴用された。その他にも緑化活動のデータ収集や、高精度天気予測、放射線測定等、あらゆる分野で極微細コンピュータは活躍した。
しかし、脚光を浴びた新技術が生活に馴染んでからしばらく経ち、重大な問題が発生したのである。
浮遊バクテリアの物質世界への侵食。
それは歴史上最大規模の人的災害であり、集団幻覚等の事件報告が相次いだ。
拡張現実が見せる幻覚によって、健常者がある日突然、精神異常者と何ら変わらない状態となるのだ。その上、浮遊バクテリアは複数人に同じ幻覚を見せるため、組織単位での集団ヒステリーを引き起こし、社会を混乱に陥れた。
風化しつつあったカルト宗教やテロのような、理解不能の恐怖と混乱を全世界、同時多発的にもたらした。
具体的な解決策が見つからぬまま、世界は三ヶ月もの間拡張現実とともに過ごさざるを得ず、当時の街はゾンビ映画さながらのパニック状態だった。
天地が反転した幻覚に襲われて身動きがとれなくなった者。
肉体が腐り落ちる幻覚に発狂した者。
都市を跳梁跋扈する魑魅魍魎の目撃談。
誰もが「幽霊を見た」といい、この集団ヒステリーを日本では『霊素可視化現象』と呼んだ。
『地獄が門が開いてしまった』と後世に語られる、浮遊バクテリアによる世界的集団幻覚事件は義務教育の教科書にもいち早く取り上げられた。
以降、ネットワークは国際法で厳しく整備され、管理は国のものとなった。
特に日本では、閲覧権限に比率した納税か課せられることになったのは言うまでもない。
当時は避難の声も強かったが、アメリカやEU、さらには中国などの閲覧権限が課せられている強国の外交圧力もあって、だれにもこの流れを止めることはできなかった。
お偉方はこの動きに肯定的で、「行き過ぎたポピュリズムを抑制できる」とインターネット税制度を受け入れた。ここまでくれば力ない市民は無力だった。
何より、インターネットの接続を制限してから、浮遊バクテリアによる侵食は抑えられたのだ。――現在、インターネットの閲覧は契約している携帯端末の納税クラスによって六段階に分けられている。
そして、周波数調整員は、未だ侵食を続けている浮遊バクテリアに対して調査、霊素可視化現象の問題に対応する業務である。
母体は主に葬祭業の会社で、特に経営不振に陥っていた葬儀屋が新事業展開で立ち上げている。そういった背景もあって、この業界は日陰者扱いされやすい。
……大掴みに言うならば、『私たち周波数調整員は幽霊退治なのだ』と、同期は言っていた。
言い得て妙だと、俺も思う。
❖
「周波数調整員……たしかに聞いたことあるかも」
小夜は俺の名刺を眺めて呟いた。
テーブルには注文していた料理がそろい、小夜は生パスタ使用のカルボナーラ、俺は特製ビーフシチューソースのオムライスを食べている。
「浮遊バクテリアは現代社会の義務教育だろ。中学で習ったはずだ」
「私が授業を真面目に受けてると思う?」
俺は肩をすくめてオムライスを口に運ぶ。
「どうして、周波数調整員なんかに」
小夜は疑問を口にしながらフォークでパスタを巻き出した。
「理由は二つある。一つは、前職がろくに稼げないウェブデザイナーだった事。もう一つは適性があった事」
「適性?」カルボナーラを頬張ったまま小夜は言葉を繰り返した。
「周波数の適性。体内に流れる電気が特殊で、浮遊バクテリアとの親和性が高いんだ」
「……それだと、幻覚を見やすいってことにならない?」
「そう。幻覚を見やすい。この体質じゃないとこの仕事には向いてないんだ。例えば浮遊バクテリアが多く集まっている場所、これから霊素可視化現象が起こりうる場所があるとして、浮遊バクテリアに鈍い奴が調査にやってきても意味がないだろう? 違和感に気付けないんだから。
だから、影響が微弱なうちに感知できる体質の人間がいち早く駆けつけて、対処にあたる必要がある。昨日俺が公園にいたのも、そこに浮遊バクテリアの気配を感じたからだ。……気配って言っても、ほんのわずかな見間違いみたいな、幽霊みたいな空目を見つける必要があるから、なかなか難しいんだけどな」
俺は饒舌になっていることを自覚して、彼女を置いてけぼりにしている事に気付いた。
そもそも、こんな日陰者の職種に興味はないかもしれない。
「要は、変人は周波数調整員に向いているってことだな」と、話題を切り上げた。
「何でこんな話になったんだっけ?」
「名前を聞かれて、職業を聞かれたんだよ」
「次は何が知りたい?」
「そうだな……小夜の家が、いつから問題を抱えるようになったのか」
薬物依存はどれくらい常習的なものなのか、それによって彼女が抱える問題の根深さがわかるかもしれない。
「多分、おばあちゃんが亡くなってからかな」
「何年前だ?」
「十四年前……だと思う。私が二歳の時」
「そうか」
なるほど。俺は顔には出さないように努めたが、かなり絶望した。
おそらく祖母の収入や年金を充てにして生活していたのだろう饗庭家の両親は、かなり根深いところから腐っている。
小夜は生まれてきた環境が日常になっているから、親の異常性を正しく認識できていない可能性が高い。
――どうしたものか……。
児童相談所に連絡するのはやはり避けられないと思うが、今の関係性、俺に対しての信頼を簡単に壊してはいけないような気もしている。俺が通報することで家庭を失い、さらに誰も信じられなくなってしまっては、彼女の将来は闇だろう。
可能な限り親から隔離しつつ、小夜との信頼関係を築き更生させてあげたい。……であれば、安全な夜を、もっと楽しい日々を、小夜に経験させてあげられないだろうか。
「さて、昼飯は食べ終えたが、デザートはいるか?」
「大丈夫。次はどこ行く?」
さして考えなくても用事は思い浮かぶ。
出かけるための服を調達したい。
「……少し電車に乗って移動するか。ユニクロにでも行こう」
ファミリーレストランの会計を終え、俺たちは東伏見駅で西武新宿線に乗り、とりあえず高田馬場まで移動した。
「小夜の親とばったり鉢合わせないかな」
「いるわけないよ」
「何でわかる?」
「仕事に出てるはずだし、お母さんも外には出たがらないから……」
含みのある言葉と表情の翳りを見て、何となく追求するのは避けた。俺としては大きな駅のある繁華街は違法薬物の売買を行っていそうだと考えたりもするが、詳しいわけではない。入手経路はきっと別なのだろう。
駅前の商業ビルは三が日の時短営業もなく、むしろ福袋や初売りセールで賑わっていた。今年は元旦から陰鬱な気分が続いていたので、こうも陽の気が集まる所にいると人酔いしそうだ。
「私こういうところ苦手、早く買い物済ませちゃお」
「意外だな。若い女はこういうところ好きなもんだと思ってたが」
「全然。……いろんな人がいると、なんか、ぐるぐるする」
小夜も人酔いする側の人間らしい。
俺はユニクロで女性用の上着とシャツ、そしてボトムスを二着ずつ買い揃え、付き合っていると見せかけるための化粧道具も同じ商業ビル内のコスメショップで探した。
化粧品の知識がないため、商品選びはすべて小夜に任せ、俺は後ろについて歩き、会計をするだけだ。
――やってることは援助交際そのものだな……。
そう我に返って、すこしぞっとする。
小夜には悪いが、デート紛いの外出は二度とごめんだと心底思った。
「周波数調整員の仕事って、必ず夜じゃないとダメなの?」
「そんなことはないが、人前で幻覚を見るのはお勧めできない。変動給制だから、報告書さえきっちり出せば好きな時間に働いていい」
とはいえ依頼があれば相手の都合にも合わせなければならないが。と心の中で付け加える。
「報告書に嘘を書いたら?」
「バレる。上から支給されるものはいろいろあって、例えば携帯端末も会社から支給されたものだ。仕事の量や質は筒抜けだ」
「昨日の公園は? 手柄がないからお金もらえないの?」
「そういうわけでもない。『幽霊』を相手にする仕事だから、警戒して監視していたのならそれも報告書を書く。なにか普段と違う出来事が起きたら調査するし、その結果浮遊バクテリアの処理ができたら実績報告して歩合が支払われる」
「じゃあ、私にしつこく話しかけてきたのも、調査のつもりだった?」
「じっと見つめていたのは確かに調査の一環だ。あんな夜中、しかも元旦に黒いセーラー服の小夜が現れたなんて幻覚だと思うだろう。でも、実在する人間だと分かったから、挨拶したんだ。じっと見つめ続けた後に無言のままじゃ不審者扱いされかねないから」
「なるほどね」
小夜は納得して小刻みに頷く。
商品棚に陳列されたイエローカラーのサングラスを試着して、鏡を確認する。
目を隠すだけでも年齢はごまかせそうだ。
少女はお洒落な鎧を身に纏い、大人の世界に溶け込むのだろうなと思った。
「尾鳥さんについていけば、夜に幽霊が見れるの?」
「見れる……かもしれない。小夜の体質が浮遊バクテリアに敏感なら、俺が経過観察している場所に案内できる」
「経過観察?」
小夜はそう言ってサングラスをつけたまま振り返る。
年齢も誤魔化せるだろうし、よく似合っていた。
「微弱な拡張現実発生地が東伏見公園にある。今やっている仕事は女の子の幽霊だから、仲良くなれるかもな」
「本当!?」
小夜は幽霊が見られると聞いて目を輝かせた。
もしかしたらいい刺激になるかもしれない。
「ついてくるか?」
「うん行きたい」
「深夜に調査するから、出勤に備えて昼寝しよう」
「じゃあ、今日は帰ろ?」
「そうしよう。……そのサングラスも買っておこう」
俺は小夜の更生の糸口が見えたことに浮かれ、サングラスを持って会計に行った。お値段は二万三千円。
値段を確認しなかった俺が悪いが、予想以上に高かった。最後の最後で痛い出費だが、不思議と後悔はなかった。
❖
夜。
仕事の時間である。
「昨日の公園じゃないんだね」と、後ろをついて歩く小夜が言う。
「あそこは武蔵関公園。今日は東伏見公園の方に行く」
マンションを出て東伏見駅を西武柳沢方面に進むと、左側に鳥居が現れる。
道路に跨る赤い鳥居を潜り、東伏見稲荷参道を真っすぐ歩いていけば目的の公園にたどり着く。
時刻は深夜二時。小夜のような未成年は本来出歩いてはいけない時間だ。
まだ肌寒い風が吹く今夜、彼女は買ったばかりの服を着こんで、上着は俺のアウトドアパーカーを羽織っていた。
「なんか公園ばっかり行くね」
小馬鹿にしたような視線で問う。寝床を探すホームレスと行動圏が被っているが、俺はちゃんと帰る家があるし、働いている。それを証明しなければ。
「この地域には武蔵関公園と東伏見公園、あと武蔵野中央公園の三つがある。その地点を線で結ぶと三角形を描く」
「都市伝説にありそうだね」
「そして公園の一つが神社なのも大きい。……これらによって幽霊、拡張現実と呼ばれる浮遊バクテリアが集まりやすい土地になっているんだ」
「たしか、周波数に感応して浮遊バクテリアが空間投影する……それが幽霊の正体なんでしょ?」
「そうだ。浮遊バクテリアが大気中にネットワークを構築し、それが土地や人間から発生する微弱な電界の影響を受けて霊素可視化現象が引き起こされる。世界集団幻覚事件の当時は、張り巡らされた古いネット回線と極微細コンピュータのネットワークがぶつかり合って混線した」
俺は続ける。
「だから今では国営の極微細コンピュータの回線だけを残して、古い規格のネット回線は全てサービス停止してる。混線が解消したことで集団幻覚は起きなくなった。
だけど、ネットを規制された今も幽霊は現れる」
「なんで?」
「国営だとしても、極微細コンピュータは浮遊バクテリアと同じものだからだ。何かしらの原因で混線が発生すれば、霊素可視化現象が起こる」
「ん……? まって、それなら国営のネットワークを管理してる仕事ってこと? 公務員なの?」
「公務員ではないな。周波数調整員は民営企業だ」
「稼ぎは良さそうだけど」
「……どうだろうな、今はインフラが整いきっていないから歩合がいいだけで、この浮遊バクテリアバブルが弾ければ、稼げない仕事になると思う」
小夜は少し残念そうな顔をした。簡単に稼げる仕事だと思ったのだろう。
実際うまくやれば相当な報酬が得られる。俺の同期にもかなり羽振りがいい奴を一人知っているが、あいつは幽霊退治としてかなり危険な仕事を任されている。そうなると楽して稼げるわけではない。
「それで、幽霊を見るにはどうしたらいいの?」
「昨日と同じ。じっと待つ」
「ふぅん……ここが待ち合わせ場所ってことね」
❖
時刻は三時になった。
西東京市は都心部から外れているとはいえ、遠くには眠らない光がぽつりぽつりと四方を囲んでいる。
公園を縦断する千駄山ふれあい歩道橋の下にある西武新宿線を電車が走る。
俺たちは歩道橋の隣に面した木造デッキへ上がり、欄干に凭れる。背中に触れる金属のひやりとした温度が少しずつ馴染んでいく。
「……何も起きないよ」小夜が手のひらを擦り合わせながら寒さに耐えている。
「俺ほど敏感ではないみたいだな」
「尾鳥さんにはもう見えてるの?」
「ああ。小夜にも少しずつ見えてくるはずだ」
俺は木造デッキの中央を指差す。
そこにはぼんやりと明るい煙のような、夜闇に馴染まない白い粒子の集合体がある。空間にホログラムを展開し、立体投影の絶えず変化するフラクタル図形を描きながら、人の形に近付いていく。
「……あ、うそ……見えてきた……」興奮を押し殺しながら、小夜は「見えてきた見えてきた」と繰り返す。
「やっほー囮。お待たせー」
浮遊バクテリアの立体投影が女の子の姿に固定され、デッキに立つ。
見た目は十四歳ほどだろうか。小夜より背も低く幼く見える。
髪は短く、肩にかかるあたりで切りそろえられている。
病衣を纏い青白く光って見える様はまさに幽霊。
名前は杵原真綸香という。
「おう。だいぶ待ったぞ」
「え? 話せるの?」
小夜は年齢相応の無邪気さで幽霊に興味を示すが、俺から離れず、近付こうとはしない。
「そりゃ話せなきゃ仕事にならない」
「見ない顔だね、誰さん?」
杵原は俺に近付いて服を引っ張り、説明を求めた。小夜は身を隠すように背中に回る。
「訳ありで保護してる家出娘だ。名前は本人から」
「あ、えっと」小夜は戸惑いながら杵原と俺を交互に見て「饗庭小夜です」と短く名乗った。
「初めまして。僕は杵原 真綸香。訳あって死ねない女の子だよ」
破顔一笑。
小夜は俺に視線を送る。
いざ幽霊を目の前にすると、動揺もするだろう。
「そうだな、仕事内容から改めて説明しよう」俺は杵原と小夜から離れ、二人の前に立つ。「今日の仕事は『不死の帯域:杵原真綸香』の観察。及び話し相手になること」
「うむうむ」杵原は頷く。
「そんな仕事だっけ?」小夜は首をかしげる。
二人は正反対の反応をした。
「確かに昼の話しとは違うな。『この仕事は基本的に幽霊退治』だと言ったな。だが、浮遊バクテリアを乱暴に追い払う仕事じゃない。
彼女……杵原真綸香は、肉体が火葬された今も意識を周波数帯域に残している稀有な例で、何故そうなったのかは……言わない方がいいか」
「いや、別に隠すことじゃない」
杵原は言葉を継いだ。
「簡単な話だけどね、修学旅行のバス移動で交通事故にあって、死にきれませんでしたー」
「……って感じだ。調査資料によると――」
「ま、待ってよ」小夜は俺の説明を遮る。「急にいろいろ言われてもわかんないって! えっと、不死の帯域って何なの?」
「それを説明するには、通常の帯域から話さないといけない。
普通の死者のケースで行くと、霊素が浮遊バクテリアと感応しても一夜限りしか持たない。真綸香は浮遊バクテリアが形成するネットワークの中でも『不死の帯域』と呼ばれる周波数にとどまり続ける。幽霊でいうと地縛霊のことだ」
小夜は眉間にしわを寄せながら「なるほど」と呟く。
「何で杵原さんだけ死にきれなかったの?」
「そこで、調査資料だ」俺は携帯端末を操作する。「事故現場は福島県の山道で、対向車と修学旅行のバスが衝突。……そのままバスはガードレールを突き破り崖から落下。死者は杵原を含め十五名の生徒、その他は重軽傷の大事故だ」
「私は崖下の川に落ちて、水深が深いおかげでまだ死んでなかった」杵原が補足する。
「川に転落し意識不明の杵原は病院で治療を受けたが、大脳は外傷と低酸素によるダメージを負った。植物状態で半年もの間、生命維持装置に繋がれていた」
「ここから憶測だけど、その生命維持装置のネットワークと感応した僕の意識が、浮遊バクテリア側に移動して、意識だけが特定の周波数帯域に留まり続けたみたい」
「……はー……」小夜は理解が追い付いているのか怪しい返事をした。
「どう、どう?」杵原は無邪気に詰め寄る。
「いや、どうって言われても……! てか、死んでる割に明るいな……!?」
「今じゃ生きてた年数より、幽霊としての年数が長くなっちゃった」
杵原は笑う。
「今何歳だっけ」
「人間で十四歳と地縛歴十五年。合わせて二十九だけど、四月まではぎりぎり二十八歳」
「あ、新年だもんな」
「……はあ、なんかすごい疲れた」小夜は目の前の幽霊に生気でも吸い取られたかのようにデッキにしゃがんだ。「……ちなみに尾鳥さんは何歳?」
「俺は二十五」
「年下かよ」
「いやいや、僕は永遠の十四歳だから」
❖
その後も小夜と杵原が雑談に花を咲かせる。
やはり女同士だと話題は尽きないのか、杵原はいつもより饒舌で楽しそうにしていた。小夜も初めこそ人見知りのような態度だったが、早くも打ち解けている。
俺は二人の時間を邪魔しないように、少し離れたところに腰を落ち着かせて会話ログを携帯端末に記録していた。
音声入力のため、データは膨大に膨れ上がっていく。
饗庭「杵原さんは姿を消してる間どこにいるの?」
杵原「うーん……ネットワークの中にいる、気がする」
饗庭「気がする?」
杵原「夢というより、ブラウジングしてる感じなんだよね。いろんなサイトの情報を泳いでるみたいな」
饗庭「昼間はネットサーフィンしてるってこと?」
杵原「うん。サーフィンしてる。今日は外国のニュースと料理動画だったかな。すごく美味しそうで……体が在ったら食べたいもんだよ」
饗庭「それってどんな料理?」
杵原「チェルノブイリゾット」
饗庭「聞いたことないな」
杵原「お皿が光ってて奇麗だったー」
――ガイガーカウンター案件だろ。
俺は心の中で突っ込んだ。
饗庭「地縛霊になってから、尾鳥さん以外には会った?」
杵原「ううん。親に会いに行こうかなって思ったけど無理そうだし、見えない人に近付いても浮遊バクテリアが崩れちゃうんだよね」
饗庭「私は平気? 触っていい?」
杵原「……平気みたい。見える人ってやっぱり何か違うんだね」
饗庭「めっちゃべたべた触るじゃん! なんかピリピリする」
杵原「触ってる側も痺れるねこれ……バブみたい」
――入浴剤かよ。
❖
「尾鳥さんとはどんな話をするの?」
小夜は雑談もそこそこに、少し真面目な話題に踏み込んだ。
「んー、僕もいい年だからね、饗庭ちゃんには言えないかな」
「え、そんな話してるの……?」
俺は携帯端末の文字を目で追いながら「永遠の十四歳じゃなかったか」と割り込む。
杵原は聞いていないふりして小夜の耳にそっと呟く。こちらには聞こえない声でなにか伝えたようで、小夜は信じられないと言いたげな顔で俺を見た。
「意外と初心だね。かわいい」
「あんまり小夜で遊ぶなよ三十歳」
「二十八!!」
今日一番の大声が杵原から発せられた。
これだけ盛り上がっている会話も、見えない人には聞こえないのだ。
せっかく小夜が仕事の話に戻してくれたので、俺も会話に参加する。
「普段はもっとつまらない話ばかりだ。不死の帯域にいる別の幽霊の情報とか」
「杵原さん以外にもいるんだ?」
「報告があるのは三名、そのうち一人は杵原だな。資料によれば、他の二名も好き勝手に暮らしてるらしい」
「どんな風に?」と言う小夜の横、杵原は少し心配そうに目を細めた。
「あんまり気分のいい話じゃないぞ」
「いいよ」小夜は俺の警告を意に介さない。
「怖い話になるよ」杵原が念を押して確認する。
「頑張る」
小夜が言うと、杵原はそっと手をつないだ。
俺は資料を読み上げる。
「不死の帯域:佐藤太郎(本名不明)」
――経緯、借金苦により飛び降り自殺を試みたが失敗。
病院で一命を取り留めたが頭骨の陥没骨折と半身麻痺に苦しみ、一時帰宅の際に服毒自殺を試みたと推定される。
調整員発見時、佐藤太郎の醜形と呪詛に影響され、調整員本人も自殺衝動に駆られるが、幸い同行していた他の調整員によって止められる。
「彼は現在も服毒自殺を行ったアパート内にて死ぬ方法を模索している。新たに入居者を入れることができないため、経過観察を任された調整員は常に複数人で対応している……だそうだ」
俺は資料の一枚目、概要を読み上げたところで止めた。
後に続く報告書の数ページは不死の地縛霊となった佐藤太郎氏の傍迷惑な自殺奮闘記が書き連ねられていたので読む気にはならなかった。
「死にたがりな不死なんて大変だね」杵原はあえて軽口を言う。
「もう一人は?」と小夜。
「もう一人は事例が特殊すぎて、厳密には不死の帯域とは別件な感じだ」
――まあ、この報告書を提出したのが業界内でも一癖も二癖もある奴だから、こんな荒唐無稽な報告書でも今更驚かないが。
「また嫌な話になる?」
「いや……昔話みたいな感じだな」
俺はその報告書を読み上げる。
「ええと、『不死の帯域:封月灯』……」
それは特異体質家系の娘が生み出した存在で、もとより死者ですらない。妄想が浮遊バクテリアを介して具現化した事象を不死の帯域に分類したという、やはり荒唐無稽な昔話じみた案件だった。
小夜のおかげで杵原との経過観察はだいぶ楽に済ませることができた。
空はうっすらと白み始め、携帯端末を確認すると退勤時間が迫っている。
「もう朝だな」
「今何時ー?」杵原は背伸びをして空に浮遊する。
「五時。経過観察は順調そうだな」
「ねぇ尾鳥さん」小夜が問いかけた。「この経過観察って最終的にどこに向かうの?」
「……さぁ?」
「『さぁ?』って、不死の地縛霊なんでしょ? 杵原さんはいい人だから問題ないかもだけど、佐藤太郎案件は何かしらの解決をするんでしょ?」
「不死の帯域は前例が少ないからな。日本でも三件しかない。だから対処法はまだない」
「じゃあ杵原さんはどうなるの?」
小夜の問いに俺は答えられない。
「僕は神にでもなろうかな」
重苦しい空気になる前に、杵原はそんなことを言う。
「ほら、ちょうど神社も近くにあるし、神になってあそこに住むよ」
「……不死には可能性と時間があるからな、頭ごなしに否定は出来ない」
もしかしたら浮遊バクテリアを介して遠い未来に顕現するかもしれない。
「饗庭は?」
「え?」
「これからどうしたいのか、目標だよ」
杵原は問い返す。未来のこと。将来のことを。
「うーん。……目標か……」
饗庭は欄干に肘を置いて街を眺める。
「尾鳥さんと会って、まだ二日しかたってないのにいろいろなものが見れた。視界が開けた気がするんだけど、まだ先のことはわかんないや」
「……つまり?」
「つまり、もっといろいろなものを見たい。それが目標かな」
小夜は振り返り、俺を見つめる。
最初にあったときとは別人のような、微笑みの柔らかさ……。
「いいじゃんいいじゃん」杵原はにっこりと笑う。「囮の目標は?」
「俺か? ……そうだな――」
「私の第一シンパかな?」
「それはない」
俺と杵原が笑う。
「そういえば、杵原さんが尾鳥さんを呼ぶときの発音って変じゃない?」
「あぁ、仕事では『囮』って名乗るからイントネーションが違うんだ」
「何で囮なんて名乗ってるの?」
「調整員は面倒事に首を突っ込む仕事だけど、俺は面倒事に巻き込まれる体質なんだよ。だから職場内で囮って呼ばれ始めて、職場ではそう名乗ることにした」
「囮は夜に公園にいるだけで仕事が舞い込むもんね」
「へぇ……いいな……」
小夜は羨ましそうに俺を見た。
会話を遮るように始発電車が走り抜ける。仕事上がりの時間だ。
「よし、俺たちは帰る。じゃあな」
「じゃあまた。……饗庭ちゃんはまた来るの?」
「本人次第だな」
「私はまた来たい」
「じゃあ決まりね」
こうして、不死の帯域:杵原真綸香は朝日に溶けていった。
第三話 告白/酷薄 上
瀬川忍。
義務教育から高校までの学生時代を共にした同輩。女性。
彼女は一度として同窓会に出席したことがなかったが、風の噂では大学進学後に就職せず入籍したと聞いている。
俺の、ついぞ叶わぬまま潰えた初恋の相手である。
そして、彼女は今目の前いる。
武蔵関公園備え付けの公衆トイレのすぐそば、蔦植物の這う休憩所に腰を降ろした俺は、目の前に立つ不気味な少女の人影と対峙していた。
街路灯に照らされたその顔を見て、学生時代の記憶をはっきりと思い出す。
おそらく瀬川も、俺が誰なのか知っているからここに会いに来たのだろう。
「尾鳥君でしょ……」
「瀬川忍だよな……驚いた」
思い出の中の彼女と、数年ぶりに会う彼女は、何も変わっていなかった。
今夜、饗庭小夜はいない。
三日に一度家に帰るという約束通り、一時的に帰宅しているのだ。
状況を思えば、案外運がいいのかもしれない。
俺は生唾を飲み込み、努めて落ち着いた態度で指示する。
「とりあえず、包丁を置いてくれないか」
休憩所のベンチに座る俺から、およそ3メートル先。瀬川は包丁を握ったまま微動だにしない。
記憶の中から飛び出したような若々しい少女は、精神だけが月日を経験したかのように、禍々しい女になっていた。
俺はこの再開が喜ばしいものではないと確信している。
同輩である瀬川は、つまり二十五歳になっているはずだった。
なっていなければおかしい。
思い出の中の――十八歳の姿のまま再開するなんて……何らかの異変が発生しているとしか思えない。
「久しぶりね」瀬川は言う。
右手に持った包丁はぬらぬらと赤黒く濡れていた。血……で、間違いないだろう。悪趣味ないたずらでないのなら、身に危険が迫っていると考えた方がいい。
「そう、だな……久しぶりだ。高校卒業以来だろ」
「いえ、五年ぶりよ。成人式で見かけたわ」
瀬川と意見が食い違ったことに俺は動揺する。
「すまない、どうにも成人式で会った記憶が思い出せない」
「ふふふ。落ち着きなさいな。私が会場にいたことを尾鳥君は知らなくて当然よ。私が一方的に見かけただけ」
「なんだ……声をかけてくれたらいいのに」
俺は笑みを作って見せたが、乾いた息が漏れて唇が割れる。
きっと、うまく笑えていない。笑える状況じゃない。
瀬川は気丈に振舞う俺を眺めて可笑しそうににやにやと眺めるばかりだ。
ときおり手元で弄ぶ包丁が街路灯を反射して、俺は怯えを隠せない。
この場を切り抜ける術はないかと考えたが、立場の優位性を覆せそうにない。
あまりにも瀬川が圧倒している。若いままの姿も、誰かに刺した包丁も、落ち着き払った態度も、常識じゃなかった。
「……困ったな。俺はどうしたらいい?」
俺は取り繕うのをやめて、素直に降参した。瀬川の目的がわからない。
「別に、何もしなくていいわよ」
俺は腰が抜けているのだろうか、座ったまま立ち上がれずにいた。
目の前の瀬川は超然として、どこか恍惚の笑みすら浮かべている。
「とりあえず、包丁は捨てましょうか」
「え――!?」
俺は驚いて、瀬川が振り上げた手に思わず防御姿勢をとる。しかし痛みは襲ってこなかった。彼女は振り上げたのではなく、背後に広がる池に向かって包丁を放り投げたのだ。
どぽん。と、狂気が落水する音が夜に反響した。
「本当に久しぶりよね、尾鳥くん」
彼女は俺の隣に座り、凭れ掛かるように顔を近付ける。唇が触れそうな距離にどきりとして、感情をどうしたらいいのか混乱する。
恐ろしいはずなのに、目の前にいる瀬川は初恋の当時のままなのだ。
高校を卒業して、叶わぬ恋が苦みを失うほどには月日が流れている。
「……え、と、瀬川なんだよな? 今いくつだっけ……?」
「十七よ」
「それは何故……?」
吐息がかかるほどに近い彼女の怪しい魅力に狼狽え、俺はただ説明を求めることしかできない。
なぜ年を取っていないのか。
「……聞きたい?」瀬川は俺の瞳をのぞき込み、有無を言わさず唇を奪った。
❖
自動販売機に硬貨を投入する音が聞こえる。商品を選択して、間の抜けた効果音と共に飲料缶が取り出し口に落ちる。
夜間照明に照らされて、缶を二つ拾い上げる瀬川を、俺は茫然と眺めていた。
少なくとも今の瀬川は包丁を持っていない。その上両手がふさがった状態で、俺の座るベンチとは距離もある。……だが、逃げ出す気持ちにはならない。
ここで逃げても、瀬川は俺を追い詰めるだろう。住所も把握されているかもしれない。
なにより、彼女の若返りの秘密をこれから話してくれるというのだ。
『聞きたい?』と問うていた瀬川の暗い瞳が脳裏に焼き付いている。本当に恐ろしい目をしていた。人殺しの境地に達した者の、悟りにも似た深い闇を見た。
これから彼女が語るであろう出来事は、きっとあの血塗られた包丁とも関わっているだろう。――俺はそう直感している。
「尾鳥君ってコーヒー飲めたかしら?」瀬川は缶コーヒー一つ差し出した。
「ブラックじゃなければ」
「よかったわ。はい、モーニングショット」
――なぜ朝専用……?
瀬川は俺の隣に腰掛けて開栓すると、コーヒーを一口飲む。ちなみに彼女が飲んでいるのはカフェオレだった。
「女友達だけの集まりがあってね、『そこだけでも顔を出して』って、外で待っていたの」
「……ああ、成人式のときか」
何の話をしているのかすぐにはわからなかった。
どうやら会場の外で待っているとき、俺を見かけたのだと言いたいようだ。
「懐かしかったわね。私は大学卒業してからすぐに結婚してしまったけれど、五年ぶりに会うとみんなすごく奇麗になってたわ。仕事もバリバリこなす人生を歩んだり、想像もつかない進路に進んだ人もいて、……人生って不思議よね」
「そうだな」俺は聞き役に徹しながら、缶のプルタブを開ける。
「尾鳥君って私のこと好きだったでしょ」
「ごは――っ」俺はコーヒーをのどに詰まらせて咽る。
「人生は些細な分岐点が大きく左右するものよ。ちゃんと告白してくれたのなら、私と付き合えた未来だってあったかもしれないのに」
「……高校時代に、脈があったとは思えないが」
目の前の瀬川を見ると鮮明に思い出す。そして彼女の美貌は大人になった俺の目から見ても間違いない。
「俺には届かない、高根の花だったよ」
「それでも勇気を出すべきだったわ」
「勇気を出せば付き合えたか?」
少しだけ可能性を信じてみたくなって、俺は問うてみる。
瀬川は即答せず、缶カフェオレを両手で包んで考え込んだ。
「だめね。お断りしていたわ」
――駄目じゃねぇか。
「それでも、連絡先の交換くらいはできたと思うわよ。卒業してからも、友人でいられたかも」
「いや、残酷すぎだろ!」俺はつい声に出してしまう。「大学に行って彼氏ができるんだろ!? 卒業後に結婚するんだろ!? 友人の立場で手も足も出ないなんて、そんな世界線はごめんだね」
「確かに、そうかも」瀬川は納得する。
「この話って今の瀬川の問題と繋がってるのか?」
できることなら本筋に戻ってほしい。俺にはこの話題がただの懐古にしか思えなかった。
しかし瀬川は首を振る。
「ちゃんと繋がっているわ」
俺はもう少し話を聞くことにした。
自他共に認める巻き込まれ体質なのだ。
この異変だって、仕事に繋がるはずである。
「その女子だけの集まりでね、尾鳥くんの話題が出てきたのよ」
「俺の?」
「『絶対瀬川のこと好きだったよね』とか、『態度に出てたからバレバレだった』とか。結構盛り上がったわよ」
「やめてくれ」
――陰で笑うのはいい。本人に垂れ込むのはどういう了見なんだ……。
「今は周波数調整員なんですってね」
「……!」
急に本題に繋がった。
――おいおい、こいつの会話のハンドルさばき荒すぎるだろ……。
「俺が調整員だから、会いに来たのか?」
「逆よ。調整員が尾鳥君だから、会いに来たの」
「……違いあるか?」
「あるわ。ちゃんと繋がってる」
月明りに照らされる十七歳の瀬川の顔が俺を見つめる。
まるで吸血鬼のような、永遠の若さ。
……いや、違う。
歳はちゃんと取っている。成人式で女子だけの二次会に行ったのなら、一度は大人の瀬川になったはずだ。
「十七歳に戻ったのは、何が原因だ?」
「聞きたい?」
瀬川は再び同意を求める。
ふざけているのではない。俺の覚悟を試しているんだろう。
「聞かせてくれ。こう見えて俺は周波数調整員だからな」
❖
「夫を殺したのよ」
瀬川は薄笑いを浮かべてそう言い、カフェオレを啜った。
聞いたからには後戻りができない話題だ。しかし出会い頭に見せつけた包丁から、覚悟はできていた。
危険な夜だ。
小夜がこの場にいないのは本当に幸いだった。
「大学時代に付き合った男か?」
「ええ。結婚生活は順風満帆そのものだったわ。なんの不満もない日々だった」
「それは結構なことで」俺はコーヒーを呷る。初恋相手の口から聞かされると妙に耳障りが悪かった。「――ならなんで……」
「人生は不思議なものよ。順調な時でも油断ならないわ」
瀬川は忘れていた怒りを思い出したように目つきを鋭くして、ベンチから立ち上がるとブランコに移動した。
揺れる座面の砂を払い、きぃきぃと体を揺らす。
「『その内子供も作ろうか』なんて笑う夫は、精力的に働いてくれていたわ。私も夫を支える為に献身した。慎ましやかな暮らしの中で……暗雲を呼び込んだのは。私だったわ」
俺は無言で続きを促す。
瀬川はしっかりした女性だ。家庭に不和を持ち込むような人間ではないと知っている。いったい何が起こったのだろう。
「子宮頸癌……夫の思い描いていた未来は私が壊してしまったのよ。『二人で乗り越えよう』なんて、表面上ではいつもの笑顔でも、心が遠のいていくのを感じたわ」
そして暗雲は雨を呼び、二人の歩む道は泥濘に変わった。
「あの日のことは忘れもしないわ。私が癌を発見して数ヶ月、通院から疲れて帰る日のことよ――」
夫の姿を見つけたの。
私は声をかけようとして、すぐにおかしいと気付いたの。
『今日は仕事で夜遅くなる』と言っていたのよ。なのに、昼過ぎに街を歩いているなんておかしいでしょ?
隣にいる親しげな女性を見て、私は眩暈がしたわ。
どうか会社の後輩でありますように。
取引先の女性でありますように。
お昼休みでありますように。
ラブホテルに消える二人を、私はただ見送ったわ。
私はその光景に気をやられたような、どこか心をなくしたような気分になって、眩暈に導かれるように歩き始めたの。
どこに向かっているのか自分でもわからなかったけれど、大学時代の通学路だと気づいたわ。
一歩、また一歩と足を動かして、青春の日々が鮮明に蘇るのを感じた……いえ、走馬灯だったのかも。色鮮やかに思い出す夫との交際期間は、次々と色褪せて消えてゆく。
そして悟ったの。もう思い出すこともないんだって。
大学正門前にたどり着くと、そこにもう一人の私がいたわ。
というより、二十五歳の私が待ち合わせしていたようにそこに立っていた。
気付いた時には、私は十七歳の体に戻っていたのよ。
❖
「私達は全てを共有していたわ」
二十五年の人生のすべての経験を、共有していた。
複写されたドッペルゲンガーとの邂逅が、瀬川を動かした。
「つまり……」俺は真相に辿り着く。「十七歳の瀬川が殺人を実行して、すべての罪を二十五歳の瀬川が背負ったんだな?」
「惜しいわね」瀬川はブランコに揺られるのを止めて、俺を見つめた。「今までの人生を生きてきた瀬川は、殺人の容疑者として警察に追われているわ。そういう意味ではすべての罪を背負っているわね」
「捕まらずに逃げているのか?」
瀬川は否定する。
「きれいさっぱり消えてしまったわ」
目的を達成したドッペルゲンガーは砂のように崩壊して、大気に溶け消えた。
浮遊バクテリアのように。
「十七歳の瀬川だけが残った……?」
俺は経緯を把握したが、目の前の若い瀬川の謎を解決できない。
浮遊バクテリアがドッペルゲンガーを形成するのは理解できる。
だが、生きた人間が若返る超常現象は初めて見る現象だ。
「なんでこうなったのかはわからないけど、私の話せることはすべて話したわ。……最後に、私が会いに来た理由もわかるかしら?」
瀬川はブランコから立ち上がり、カフェオレの最後の一口を飲み干した。
「俺が周波数調整員だってことを思い出して、ドッペルゲンガーの原因を調べてもらおうとした?」
「ちがうでしょ」
瀬川は俺の前に立つ。
唇を舌で湿らせて、再びキスをする。
絡めた舌は暖かく、ほのかに甘い。
生きている体だ。
瀬川は幻想ではない。
「十七歳に戻った意味は何だと思う?」
「操作から逃れるため」
「忠告するわよ尾鳥君。鈍い男はチャンスを逃すわ」
初恋当時の姿で厳しいことを言われると、俺は立つ瀬がないほど傷ついてしまう。
――いや、初恋か。
『人生は些細な分岐点が大きく左右するものよ。ちゃんと告白してくれたのなら、私と付き合えた未来だってあったかもしれないのに』
『調整員が尾鳥君だから、会いに来たの』
「ちゃんと、繋がってる……」
俺は天啓を受けたかのように呟いた。
瀬川は満足そうに頷いた。
「ま、まて……! 俺の意志は――」
「初恋が叶うのよ? 喜びなさいな」
初恋なんて、風化させておくものだ。
今更墓暴きのように掘り起こしても、輝きは取り戻せない。
「分岐点からやり直せると思ってるのか!?」
「なんの問題もないじゃない。体は穢れを知らないあの頃のものよ」
瀬川は俺に跨り、蠱惑的に視線を細める。
美しい思い出から掘り起こされた若い体が誘惑する。
心だけは、何枚も上手だ。
「再燃してくれないかしら?」
白状しよう。俺は彼女との再会に心を奪われてしまっている。
危険な女だと理性ではわかっている。
わかっているのに……甘い夢を見ているようで、抗えなかったのだ。
「……わかった……考える時間をくれ……」
なんとか絞り出した言葉だった。
問題の先送り。
殺人犯を街に泳がせるなんて、正気の判断ではない。
しかしどうすればよかったのだろうか?
十七歳の瀬川忍は殺人の容疑者ではない。
今の日本で、世界で、彼女の完全犯罪を暴き、捕らえることができる人間はいないのだ。
手ごたえのある答えを引き出せた十七歳の瀬川は、武蔵関公園から立ち去る。
別れ際に言い残す。
「叶わなかった恋を成就させる。私たちはいい返事を期待しているわ」
分岐点からやり直すこと――それが二人の瀬川の悲願なのだ。
第四話 龍を追う者
時刻は八時。
遮光カーテンの隙間から差し込む朝日を他人事のように眺め、俺は今日の報告を書き上げる。薄暗かった室内はすっかり明かり要らずで、俺は手元のリモコンで間接照明の電源を切った。
脳内は血に汚れた包丁のイメージが焼き付いていた。しかし同じくらい瀬川と交わした唇の感触がまだ残っている。
恐怖と快楽。強烈な二つの体験が結びつき、こんな時間になっても目が冴えている。
「考えるったってなぁ……」
ため息が漏れる。
瀬川は扱いきれない女だ。
例え殺人を抜きにしても生きている世界が違う。
持ち合わせた美貌と才覚。人間力とでも呼べるものが俺とは吊り合わない。
「どうしたもんか……」
と、腕を組んで書き上げた報告書を眺めていると、不意に携帯端末が振動した。
俺は心臓が飛び出るほど驚いて、慌ててロックを解除する。
メッセージの受信通知。
貝木からだ。
『お疲れ様です。
多分まだ寝てるかな?
急だけど情報共有。
龍の出現予測が発表されたから飲みに行こう。
今日の十八時に新宿駅東口に集合ね。
強制です。時間厳守!』
「げ……」
メッセージを開封したのは悪手だった。
開封通知が貝木の携帯端末に表示されてるだろう。
まだ返信をしていないのに貝木から連続でメッセージが届いた。
『見たな』
……恐ろしい。読まずに眠るべきだった。
急な予定が入るのは面倒だが、相手が貝木となると無下にできない。
それに、『龍』についての情報は是非とも手に入れたい。俺はせめてもの反抗としてメッセージには返信せず、目覚ましのアラームを十六時に設定して目を閉じた。
――小夜も連れて行こう。
身を休ませているとそんな考えが思い浮かんだ。
『龍』の事を伝えれば、きっと目を輝かせてくれるだろう。……まだまだ知らない世界を見せてやりたい。
そんな、庇護とも慈愛とも言えない気持ちが湧いてくる。
俺は親代わりにでもなりたいのだろうか?
❖
今朝は夢も見ずに眠った。
俺は身体を揺すられていることを感覚する。
「尾鳥さん? ……なんか目覚まし鳴ってるけど、起きなくていいの?」
小夜の前ではそれなりに大人の振る舞いをしてきたつもりだったが、昨晩の疲れが抜けていないのか、だらしない姿を晒してしまっている。
「いや、……起きなきゃならん……」
涙腺がうまく働かず、乾いた眼がなかなか開かない。
「すまないな、昨日は忙しかったんだ」
「べつに謝ることないでしょ。起きなよ尾鳥、アラーム止めて」
言われるがままもぞもぞと手を伸ばし、枕元に置いた携帯端末のアラームを停止する。力尽きたように俺はまた目を閉じる。
瞼が重い。……こうして小夜の手で揺すられていると、かえって心地よく二度寝してしまいそうだ。
「……あれ、小夜はどうやって部屋に入ったんだ?」
玄関の鍵は掛けたんだったか。俺は昨晩の記憶を遡る。
「普通に開いてたよ。私が家出しに来るってわかってるから、わざと開けてくれたんじゃないの?」
……そんなはずはない。
俺は急速に目が覚めて、ベッドから起き上がる。
昨晩は瀬川の一件に気を取られていたから、小夜がくることを失念していた。
ならば普段通り戸締りをしたはずだ。
室内を歩き回り、侵入者がいないか見て回る。
玄関は確かに開いている。下駄箱の上に置かれた鍵も持ち出された形跡はない。
財布もある。部屋の中で失くしたものもなさそうだ。
「……急に飛び上がってどうしたんだよ?」
「いや、何でもない」
――瀬川の仕業か、それとも俺の記憶違いか……。
「出かける準備をしてくれ」
「買い物?」
俺は携帯端末を確認する。時刻は十六時を少し過ぎた程度、新着メッセージは無い。
「新宿に用事がある」
「仕事?」
「いや、……飲み会だ。同期と会うぞ」
「そんなところに私が行っていいのかよ」
「貝木は気にする奴じゃない。あ、貝木ってのは同期の名前だ。女の人だから怖がらなくていい」
「え、待って。女同士じゃ歳バレるでしょ」
面倒くさそうに化粧を始めた小夜を背にして、俺はシャワーを浴びに風呂場に移動する。簡単に髪と顔を洗って全身の汗を流すと、タオルで乾かしながら片手間に携帯端末のメッセージを確認した。今度は一通のメッセージが届いていた。
予想通り貝木からだ。
『鶏肉か牛肉どっち?』
――キャビンアテンダントか。
ビーフorチキンとは、相変わらず能天気な奴だ。
『鶏肉』とだけ文字を打ち込み返信し、その後に『連れが一人いる』とメッセージを連ねた。
開封記録が付いて既読になる。
貝木から了承の返事が来る。
『おっけ』
洗面台で歯ブラシを取り、歯磨き粉をつけてデスクチェアに腰掛ける。
歯を磨きながら、今度は杵原に向けて『今日の経過観察は中止』とメッセージを送った。
なんだかんだと準備をするだけで集合時間が迫る。現在は十六時半。
西武新宿には電車で三十分かかることも踏まえると、準備ができ次第さっさと出た方がいいだろう。
小夜の方は部屋の姿見とにらめっこしてダークブラウンのアイラインを瞼に引いている。瞳には青味がかったカラーコンタクトが入っていた。
「二十三歳になれそうか?」
俺は問いかける。
「どうだろ。髪を染めればかなり違うんだろうけど」
「髪?」
「黒髪って校則で縛られてる女の子のイメージがあるから、茶髪でも金でも染めちゃえば一気に歳がわからなくなるよ……通信制だし、私も染めようかな」
「染めたら親は怒るか?」
小夜は鏡に映る自分の顔から眼を離し、天井を見上げる。
「あー、怒るかも。インナーカラーとかならバレないかもだけど、自分でできないし……」
――そういう悩みなら、まさにうってつけの奴がいる。
俺は携帯端末を開いて貝木にメッセージを打ち込む。
貝木の本業は周波数調整員だが、世間の風当たりを気にしてアパレルで副業をしていたはずだ。伝手を頼れば美容室の紹介をしてくれるかもしれないと、早速メッセージを送る。
『美容室?』
『男向けのおすすめはあんまり知らないよ』
――いや、女向けで問題ない。
『女装でもするの?』
『似合わねー(笑うスタンプ)』
『(吐血のスタンプ)』
――(地団太のスタンプ)
出かける準備が完了した俺は、デスクチェアに寛いで小夜の化粧が終わるのを待っていた。
正確には化粧自体は完了しているのだが、着てきた服が顔と一致しないので急遽コーディネートを変更しているのだ。
小夜が今着ているのは、いかにもドン・キホーテで売っていそうな何のこだわりもないジャージと、デニム風生地の丈の短いパンツ。靴は厚底で、確かに顔と体の年齢がちぐはぐな印象を受ける。
「俺のコートを羽織れば誤魔化せそうだが?」
「飲み会なら結局コートは脱いじゃうし、シャツとサルエル貸してよ」
小夜は返事を待たず、クローゼットから引っ張り出して着替え始めた。ブラトップの後姿を流し見て、彼女の背中に蚯蚓腫れを見る。
何の傷なのか……俺は無意識に視線を反らし、見ていない振りをする。
持ち合わせの服ではどうにも足りそうにない……このあたりも貝木に相談してみよう。
❖
十九時過ぎの西武新宿線に俺たちは乗り込んだ。到着時刻は集合時間の少し前には間に合うだろう。
……車両内はそれなりに込み合っていて、座れる席はなさそうだ。俺は最後尾に立ち、吊革を掴んで車内広告をぼんやりと眺める。
そういえば、霊素可視化現象を経験した社会では、車両内での過ごし方にも大きな変化があったのだそうな。
拡張現実災害が起こるまでは一人に一つ、だれもがAGIネットワークサービスの恩恵を受けていた。老若男女問わず、携帯端末を肌身離さず持っていた時代があったのだ。その保有率は驚異の一一〇パーセント。一人の人間が複数台持っていることさえも珍しくなかったのだそうだ。
今ではインターネットは国営となり、税制によって大きく制限された。
一般のユーザーが使えるネットサービスは通話とメッセージ、天気予報やニュース、簡単なアプリゲームと検閲の入ったソーシャルネットワークサービスだけだ。
匿名での情報発信は全面規制され、あらゆるやり取りは履歴として残り国に情報提供される。それにより、携帯端末は暇つぶしツールとしての輝きを失い、ゲームを楽しむなら専用の携帯ゲーム器を購入するようになり、書籍や雑誌は再び紙媒体が光を浴びることとなった。
そんな時代の流れによって、車両内の様相は個性が目立つものとなっている。
ゲーム機の握るもの、本を読むもの、友人同士会話を楽しむもの、業務用端末を忙しそうに操作するもの……。
災害以前を生きた人間に言わせれば、『依存から抜け出すような感覚だった』らしい。万能のツールがあらゆるアプリケーションを提供していた時代は、皆が常に端末とばかり向き合い、個々の関係が希薄になっていたと聞く。
「尾鳥さんの携帯は高額納税ネットに繋がってるの?」
小夜は素朴な疑問を俺に向ける。
電車移動の手隙を利用して報告書を作成している俺を見て、税率の高い専用回線ネットワークに接続されていると思ったのだろう。
「……これはただの業務回線だよ」
――嘘である。
周波数調整員に支給されている携帯端末は、その業務内容から高度な専用回線と契約している。
少し気が緩んでいた。未成年に専用回線の存在を明かすのはよろしくないと聞くし、これからは小夜の前でも携帯端末やパソコンをあまり弄らない方がいいかもしれない。
「ローカルデータで書き留めてるだけさ」
俺は露骨すぎない声で高額納税ネットと接続されていないと否定した。車両に乗り合わせた他人にも聞こえるように言っているのだ。金を持っているなんて誤解をされたらいいことはない。
「ふぅん」と、小夜は窓外に視線を移す。「今日は杵原さんに合わないのか」
「今日は休みとする」
東伏見公園と武蔵関公園を交互に見張るのが、俺の基本的なルーティンワークだ。隔日で杵原の話し相手をして、浮遊バクテリアの情報を得る。
だが今日は『龍』の出現予測が伝えられたので、杵原と小夜には我慢してもらうほかない。
「杵原は明日会いに行こう」
小夜は残念そうに眉を下げる。
「……これからイベントがあるんだよ」
「イベント?」
「そう――」
半音上がった疑問符の言葉に頷く。
「――僕たちはこれから『龍』を追う」
❖
西武新宿上り線の終着駅に到着した俺たちは、そこから徒歩移動で新宿駅へ向かう。
いつの時間でもそうだが、新宿駅は常にキャパシティオーバーな人口密度でごみごみとしている。用事がなければ赴きたくない街だ。
人混みを縫うように進むと、小夜が俺の袖をつかむ。
「もっとゆっくり」
俺以上に人混みに慣れていないらしい。
「思ったより時間がない。手を繋いでいこう」
「待ち合わせてる人はもうついてるの?」
「連絡は来ていないが着いてるだろうな」
「どこで待ち合わせ?」
「東口だ。このまままっすぐ歩けばいい」
「私が参加するのは伝えてある?」
「伝えてあるから心配ない」
そんな話をしながら路地を進み、新宿駅東口改札前に到着する。しかし貝木の姿はない。
時刻は十九時四十五分。彼女が先に待っていてもおかしくない時間だ。
――キオスク前にいないのか……。
新宿駅は南口、新南口、東南口、東口、中央東口、西口、中央西口と、その他にも改札口が存在している。正気とは思えない駅である。貝木は東京に住んでいるわけではないので、久しぶりの迷路にさ迷っているかもしれない。
三が日も終わる今日は往来もいっそう激しく、夥しい人波に待ち合わせの相手を探すのは苦労しそうだ。
「お、いたいた。囮」
後ろから声をかけられて振り向く。
「よかった、探そうかと思ってたところだ」
「明けましておめでとう」
貝木は腰まで届く長い髪を鮮やかな赤色に染めていた。
「明けましておめでとう。派手になったな」
「副業の影響でね。それで、お連れの方は?」
貝木は俺の隣に立つ小夜に気付くとにこやかに会釈をする。
「饗庭小夜だ。仕事を少し手伝ってもらってる」
「饗庭ちゃんね。はじめまして」
「はじめまして、よろしくお願いします」
貝木は小走りに距離を詰めて握手を求め、小夜が応える。
本物の大人の女性、それもアパレル系の仕事もしているとなると俺も緊張する。
小夜が未成年だと明かすべきかどうか、俺は貝木の出方をひそかに伺っていた。
小夜は握られた手を揺すられて、動揺しながら貝木と見つめ合う。貝木の視線は素早くシャツの襟と唇、アイラインと移動し、もう一度「よろしくね」と言った。
「派手な見た目で絡んでやるなよ。怖がられるぞ」
「私は貝木 椛。『貝木さん』でも『椛さん』でも『お姉さん』でも好きに読んでね」
「はい……あの、貝木さん――」
恐る恐るというような態度で小夜は続ける。
「尾鳥さんと同期なんですよね? そのぅ……」
視線は貝木の向こう。都市の冬空を見上げている。
「なるほど」貝木は未だ小夜の手を放さず、「饗庭ちゃんには見えるのね」と言った。
俺は何のことかわからず、小夜の視線の先を追った。新宿のビル街に切り取られた空は煌々と輝き、別段おかしなものはない。
「何か見えてるのか?」俺は貝木に訊ねる「悪霊でも連れてきたんじゃないだろうな」
「私はちゃんと除霊してきたから」貝木はおどけて言う。
「じゃなくて、……そうじゃなくて、その、後ろに……」
小夜は指先で指し示す。
暴力的なまでに夜を追い出す都市の灯……いつもの新宿にしかみえない。
「後ろってどこだよ?」
「見えてないの? え、ほんとに言ってる?」と小夜は共有できない恐怖を溜め込んで、不安そうな顔をする。
「大丈夫、怖がらなくていいよ。今夜はまさにそいつが目当てなの」
貝木は全て理解しているような態度。
――待てよ……?
貝木の言葉から察するに、もう『龍』が姿を現れているのか?
「変だな。俺には見えない」どれだけ目を凝らしても、『龍』を視認できない。
「嘘!? あんなに大っきいのに」と小夜。
「まぁまぁ、時間はたっぷりあるから。とりあえず飲みまひょー」
貝木は呑気にそう言って、そこにいるはずの『龍』を無視して歩き始めた。
俺は何度も振り返り、依然として見ることができないことに歯がゆさを感じながら貝木について歩く。
「なんで俺には見えないんだ? 貝木、お前は見えてるか?」
「私もまだ見えてなーい。饗庭ちゃんは『龍』と相性がいいみたいね。呼んできて大正解よ」
❖
新宿上空に可視化を始める超広域浮遊バクテリア群……『龍』。
現在時刻は二十時。行き交う人影は、誰も空を見上げない。
腹が減ってはなんとやら。俺たちは三丁目方面に進み、雑居ビルの中にある居酒屋へ入った。掘り炬燵式の個室で男女に分かれ、三人が座る。
店は新年から稼ぎ時らしく、薄い壁越しに酔いどれのにぎやかな声が漏れ聞こえる。
最初の注文を決めるため、俺はメニューを開く。
「とりあえず貝木は生だろ」
「え」貝木は信じられないという顔をした。「初めは生でしょ。生三つ」
「俺まだビールわかんねぇんだよな」
「はっ、青二才が。じゃあ私と饗庭ちゃんは生で、囮はカルピスね」
「そこまでガキじゃねぇ」
貝木は軽快な会話のやり取りに笑い、俺もつられて口角が吊り上がる。
さりげない視線のやり取りで小夜ともアイコンタクトを送る。――お前は未成年だからソフトドリンクだ。
「小夜は飲めないからジンジャーエールとかにするか」
「もう、最初は生ビールがお約束でしょ! 『とりあえずビール』。『とりビ』よ『とりビ』!」
「うるさいなぁ」
「じゃんけんで言えば最初がグーと一緒! 残しておくべきミームよミーム!!」
――こいつはもう酔ってるのか?
貝木は乾杯する前からやかましい。
「ジンジャーエールって初めて聞いた。お酒?」
と、小夜が言うので俺は少々驚きながらも説明する。
「いや、ジュースだよ。生姜シロップの炭酸割。俺はシャンディガフにしようかな」
「ジャンディガフも初めて聞いたー。ジュース? ねぇジュース?」
「おまえは知ってるだろ!」
貝木の茶々に突っ込みながら、呼び出しボタンを押す。
店員がくるまでの間に選びたいから、と貝木がメニューを引き取った。
さして待たずに店員が個室の暖簾をくぐり、注文をうかがう。
「あ、生一つとー、ソフトドリンクのジンジャーエール、あとダブルカルチャードで。お願いしまーす」
店員は慣れた手つきでオーダーを入力すると、さっさと戻ってしまう。
「なんだ? ダブルカルチャードって」俺は貝木に冷たい視線を送る。
「シャンディガフと同じよ、半分はビールでできてる」
一分も待たずに三人の飲み物がそろった。
貝木の言う通り、俺の前に置かれた酒はビール由来の細かい泡がグラスに注がれている。液体の色はやや白い濁りがある。
「駆けつけ一杯! それじゃあ乾杯!」
貝木は楽しそうに音頭をとって杯を掲げた。
あとに小夜と俺が続く。
「お疲れ様ですー」「お疲れーぃ……」
乾いた喉に一息酒を呷り、喉を鳴らす。
なるほどダブルカルチャード……確かにビアカクテルだ。
苦みと甘みが両立しているのが『ダブルカルチャー』という名前の由来か。
この甘みは――
「カルピスじゃねぇか!!」
ガキ扱いしやがって! と俺が声を荒げると貝木は大笑いして、小夜も楽しそうにけたけたと笑みをこぼす。
楽しい夜が始まった。
❖
「東京都区部を円で結ぶ山手線がいわゆる陣だっていうのは饗庭ちゃんも知ってるわよね?」
「はい、有名な都市伝説ですよね」
「旧態依然なシステムから乗り換えられない都市インフラは内部に大量の浮遊バクテリアをため込んでいるの、それこそ飽和しているほどよ。
……ほら、囮の仕事場も公園で三角形を結ぶでしょ? あれと同じね」
貝木は注文した料理をつまみながら、小夜に対して周波数調整員の仕事を熱く語っている。
「土地や人間から発生する電界……」
「そう! 囮から聞いてるみたいね。山手線は巨大な上に人が多いでしょ? 内側に囲われた都市全体が電界になって、アングラネットワークとスパークすることで巨大な異変が生じるの。東京で毎年『龍』が出るのは当然のことなのよ」
「龍って……さっき見た大きな化け物ですよね。あれってなんなんですか?」
「浮遊バクテリアよ?」貝木は当然のことのように言う。
「そうじゃなくて、こうして楽しそうに飲んでるってことは、危ないものじゃないんですよね」視線は俺に向いていた。貝木相手では笑い飛ばされてしまうと思ったのだろう。
「規模はでかいが、この霊素可視化現象は調整員レベルの適性がないとまず拝めることができない」
「……あれ? 饗庭ちゃんには説明してなかったの?」貝木が首をかしげる。
「急な話だから内緒にしてた。その方が楽しいと思ってな」
「にゃるほど。先に見えちゃったから怖くなっちゃったか。……えっと、『龍』ってのはね、要は浮遊バクテリアの初日の出よ」
ぴっと人差し指を立てて、貝木は得意げに話を始めた。
――龍が浮遊バクテリアの初日の出か……言い得て妙だな。
「饗庭ちゃんはもう姿を見たと思うけど、どんな感じだった?」
「え、っと……ビルのおっきいモニターから、映像が飛び出るみたいな、感じでした」
「混濁したネットワークが具現化しようとするから、しばらくは蚊柱みたいなぐちゃぐちゃしたものだと思う。……いわゆるラジオの砂嵐だね。そこから時間をかけて『龍』は姿を現す。浮遊バクテリアが溜め込んできたイメージが結びついて、人間の想像を超える姿を生成するんだよ」
貝木はうっとりして頬杖をついた。
「その姿は毎年ランダム。今年もどんな姿になるかわからないけど、私たちはそれを見て楽しむ。見える人たちだけの、お祭りみたいなものよ」
「お祭り……」饗庭は言葉を転がす。その表情は少しだけ、期待と興奮を帯びていた。「じゃあ、私みたいに調整員以外も新宿に集まってるんですか?」
「あの人込みはそうかもね。同業者の顔も見かけたし、見える人はここに集まってると思う」貝木は不敵に笑う。「でも、インターネットを規制されてからは情報共有が難しくなったし、見える人は結局調整員の道に進むよ」
「そうなんですね」小夜は感慨深そうに頷く。将来の進路として一つ展望が見えたようだ。
見える人とは、ある意味で浮遊バクテリアと似ている。
光に集まる羽虫のように、幻想の世界へと誘われる。
深夜に街を徘徊するような落伍者でなければ幽霊とは出会わないし、周波数が合わなければ『龍』の姿を見る機会は訪れない。
その点でいえば、間違いなく小夜は素質がある。
この霊素可視化現象というオカルティックなバブルがいつまで続くのかはわからないが、不良少女が更正する道はあるのだ。
さて、三人の認識共有がひと段落したところで、改めて飲み物の追加注文をする。
生ビールとシャンディガフとジンジャーエールが届くと、貝木は龍の出現を祝して二度目の乾杯をした。
「ぷはーっ! …美味い!!」貝木は旨そうに生ビールを呷り、立派な白髭を付ける。
「上機嫌だな」
「まぁね。『龍』の出現は予測が来てから飛んできたんだから。これを見ないと年が明けた気がしないわ」
貝木はほろ酔いで笑う。蕩けた眼差しが俺を見る。
「お二人はどんな関係なんですか?」
小夜は炭酸が昇るグラスを眺めながら聞いてきた。
「同期だ……もう八年か」
「囮とはそんなに一緒なの!? 歳はとりたくないわー」
貝木はぼやきながら水餃子を頬張る。
「最初は仕事の担当地域が近いから関わるようになったんだっけな」
「そうよ。というか私の狩場を横取りしたの」
「横取り?」と小夜。
「武蔵関と東伏見公園はもともと私の縄張りだったもの。それをこいつが奪って――」
「奪ってない。引き継いだんだ。三年目に引っ越したんだろうが。『弟が事故った』とかなんとか言って」
「弟が事故にあって心配だから、新潟に戻ったの。あ、私新潟生まれなのよ」
「今実家か? 一人暮らしだと思ったが」
「新潟には帰ったけど親とは暮らしてないわ。少し離れた賃貸で弟と二人暮し」
「えー、仲いいんですね」と小夜は少々のけ反る。家庭仲がいいことに驚いているようだ。
「普通よ普通。弟の彼女ちゃんとも仲良いけど……二人きりにはさせてあげないんだ」
ひひひ。と貝木は意地悪に笑う。
「弟は幾つだっけ?」
「二つ下だから二十三」
「おお、小夜と同じだ」
俺は小夜が成人しているとさりげなくアピールしたが、悪手だった。
「饗庭ちゃん二十三?」眉が怪訝そうに吊り上がる。「もっと若いと思ったけど」
「おお、二十三だよな」
「うん」
「……本当かなぁ……?」
ひやりとする。
俺はすぐに話題を変えた。
「そうだ。服!」
「服?」
「小夜の服をいろいろ買い揃えようと考えていたんだ。俺が選ぶより貝木に聞いた方がいいと思って」
「ちょい待ち。囮……あんたこんな若い娘と付き合ってるの?」
「い、や、付き合ってないが」
「じゃあなんで服のプレゼントなんか」
「プレゼントなんて言ってないだろ」
「『買い揃える』って、プレゼントとしか思えないでしょ」
「小夜は、……少々訳ありでな」
この話題も悪手だと今更気付く。
――貝木に事情を説明することになる……芋づる式に隠し事が暴かれてしまう……。
視線から動揺を悟られたか、貝木は小夜に向けて距離を詰める。
「ねぇ、饗庭ちゃんは今学生? それとももう働いてる?」
「あ……っと、働いてる? 感じです」
「どんな仕事」
「……コンビニバイトで」
「ふーん……大変ねぇ。ローソンかしら? ファミリーマート?」
「あー、ファミリーマートですよ?」
――まずい。
「ファミマね。この時期はおでんの販売もあって忙しいでしょう」
「そうですね……」
「おでんは何が好き?」
小夜の目が泳ぐ。当然だ。やったことのない仕事についている設定で、さもよく知っている風に装う必要がある。
単純に大根でも玉子でもいいはずの質問に思考する間が生じてしまう。それを見逃す貝木ではない。
「牛すじ串とかロールキャベツもあるのよ」
「あー、ロールキャベツ好きですね」
小夜は完全に追い詰められている。もはやどちらが店員なのかわからないほど知識の差があった。
貝木の提供した情報以上の会話が展開できていない視点で、もう黒だと見破られただろう。
焦りからか、小夜は席を立とうとした。その手には電子タバコが握られている。
「あら、饗庭ちゃんタバコ吸うのね」
「はい、ちょっと失礼……」
十七歳の限界だ。
大人ぶる精一杯の背伸びが、喫煙者アピールなのだろう。
「はーい。気をつけてねー」
貝木の声に感情が乗っていない。俺は酔いが吹っ飛んだ。
小夜が煙草を吸いに席を外した後、仮面のような笑顔が俺を睨む。
「……囮」
「はい」
「未成年よね。すこし幻滅、いえ、かなり幻滅したわ」
「誓って手は出していない……! 聞いてくれ」
貝木は槌を叩くようにビールグラスを卓に置いた。
「ええ。聞かせてもらいますとも」
こうして俺は、新年の出来事を洗いざらい話した。
❖
時刻は二十二時半。しこたま酒を飲み、肴に腹くちくなった三人は店を出る。
「いくらだった?」と貝木。
「ざっくり二万」
「とりあえずこれは奢りね」
「致し方ない」俺は貝木の言葉を受け入れた。
未成年を保護していることは貝木に明かした。警察にも児童相談所にも頼れないことを伝え、今は仕事を手伝ってもらっているのだと。
俺が会計を奢るのは、秘密にしていた罰ではあるがそれだけじゃない。小夜に似合いそうな服の提供とヘアーサロンの紹介料が含まれている。
「おー。だいぶ可視化が進んでるじゃん」
貝木は駅前につながる大通りを見渡して『龍』を視認した。
そこには液体金属のような、流線型のシルエットがビルの上空に屹立している。
都市のきらびやかな明かりを反射する巨躯。
足下を走る車はノーブレーキで龍に突っ込んで飲み込まれる。誰も姿が見えていない。対向車が龍の体をすり抜けて走り抜ける。
「ダイダラボッチみたいだね」貝木は言う。もう小夜の件で怒ってはいないようだ。
「不思議……」饗庭は恍惚と、しかし興奮に開いた瞳孔でその景色を眺める。「こんなに大きいのに、みんな『龍』が見えないんだ」
「量子の話、知ってる?」貝木がふいに言った。「ちょっとだけでも聞いたことあるでしょ? 『シュレディンガーの猫』とか」
「名前だけなら……」
「観測されるまで、猫は生きても死んでもいる。あの例え、まさにこれじゃん。この龍もさ、観測者に見られるまでは『いる』とも『いない』とも言えない。
けど一度誰かが“見た”瞬間、世界のどこかで、それが“在る”ことになる」
貝木は龍を仰ぎ見ながら、どこか楽しげに肩をすくめた。
「この街にいるのは“可能性”の塊みたいな幻想。見てる奴がいるからこそ、こうして形になる。
“見る”ってさ、世界に影響を与える行為なんだよ」
「じゃあ、俺たちが見てるから……龍は、いる?」
「そ。『波動関数の収縮』……量子が“現実”になる瞬間」貝木は指をぱちんと鳴らす。「ロマンだよ。空を覆う巨大な龍も、見つけてもらえなければ存在しないことになるんだから」
俺は新宿駅前交差点の鉄柵を背にして龍を見上げる。
すれ違う人々は空に目もくれず、足早に通り過ぎていく。
彼らは俺のことを、街頭広告を眺める暇な人間と認識しているのだろう。
けれど俺には、確かに龍が見えていた。
「世界はそれを集団ヒステリと呼ぶ」貝木は自嘲して笑う。
「でも、奇麗……」
小夜は目を奪われて離せない。
「私達が同じ幻覚を見てるなんてすごい……同じ夢を見てるってことでしょ?」
「そうだな」
例えこの龍が、多数決では存在しないものだとしても。
集団ヒステリの産物だとしても。
観測者は夜を共にし、同じ夢を見上げる。
この経験が小夜の心に光を灯せるのなら、充分だ。
可視化した龍が新宿のビル街に顕現する。
質量のある巨大な幻想は、建築物を破壊せずにゆっくりと移動している。まるで合成写真のようだった。
龍は長い首を降ろして駅前の方へと傾いだ。幸運にも正面からご尊顔を拝める機会が訪れる。
夜空を滑る龍の首は、いくつもの建造物をすり抜けながら俺たちの目の前に覆い被さる。
「今回の『龍』は鏡みたいだね」
貝木は言いながら、その鏡面反射する冴え冴えとした外殻に手を伸ばそうとする。
反射して映る俺たちの姿は、複雑な流線形に沿って引き伸ばされたり圧縮されたりして歪んで見えた。鏡像の奥に目をこらすと、龍の表面を滑る魚影を発見する。
それは手を伸ばしていた貝木の指先に向かっていた。
「おい、貝木」俺が伝えようとするより早く、魚影は龍の外殻からぷくりと顔を出す。
鮭の稚魚と似た形をしているその魚影は、まん丸に膨らんだ腹に眼球を備え、きょろきょろと世界を見回している。
「おわ、びっくりした」
貝木は手を引っ込めて、そしてまた手を伸ばす。背伸びをしても届くかどうかの距離がある。小夜にはちょっと怖いらしく、手を伸ばす勇気が出ない。
魚は腹の眼球で貝木を見つめると一つ瞬きをして、ぐるりと白目を向いた。
そのまま尾ひれを差し出して、貝木の腕に向かって突き出す。
尾ひれが人間の手に変形する。
指先同士が触れ合う。
俺と小夜はその光景に息を飲んで見守り、貝木は声にもならない驚きの表情で「今の見た!?」と訴える。
邂逅。
そうだ。
まさしくこれは、龍との邂逅。
観測者と量子が出会った。
「わ、わ! ……すごい……!!」
子供のような無邪気な反応をする貝木。瞳には龍の反射が写り込んで潤んでいるように見える。
ふと視界の横に気配を感じ、俺はすぐそばまで迫る龍の外殻を見る。
ここにも魚影が二つ。こちらの様子を伺っている。
「お、尾鳥……」小夜が俺を呼ぶ。
俺は頷いて、手を伸ばしてみせる。
それに続くように小夜も手を伸ばす。
龍はおそらく、外殻の表面を滑る眼球によって俺たちを見ている。
そしてコミュニケーションを図るように、握手を交わした。
浮遊バクテリアで構成された手の感触は滑らかで、大理石に触れているような硬さがあった。これが幻想とは思えない、確かな質量を感じたのである。
龍はいつの間にか消滅していた。
俺たちは空に手を伸ばす三人として、往来の奇異の視線を集めていた。
「あ、あれ?」小夜は状況を理解して、慌てて腕を引っ込めた。「消えちゃった……?」
「いつも呆気なく消えちゃうのよ」
貝木は名残惜しそうに掌を見つめて饗庭の疑問に答える。
「私たちって周りの人からはどう見えてたんですか? ずっと変人だと思われてた……」小夜は己の奇行を俯瞰して、耳まで紅潮していた。
「貴重な体験が出来たんだから気にしない気にしない」
まさに『集団ヒステリ』ってね。――貝木は愉快そうに笑った。
第五話 都市の幽霊 中
『龍』の興奮冷めやらぬ三人は、その後もご機嫌な足取りで二件目の居酒屋へ向かった。
ひたすらに飲み歩いた。
全額俺の奢りで。
街灯から街灯へふらふらと、夜の街を歩いた記憶。
いつの間にか夢から覚めて、俺はベッドの上にいた。
――知らない天井だ……。
鏡張りの豪華な空間。だが、どこか陳腐さも滲んだ狭い室内。
ここがどこか、俺は見当がついた。
「なんでラブホテルなんか……」
脱水症状か、ひどい頭痛がした。のども乾いている。
俺は衣服をまさぐり、裸ではないことに安堵した。上着こそ脱いでいるが、ベルトもきっちり締めている。少なくとも過ちは犯していない。
胸を撫で下ろしたところで、隣に眠っている女性がどちらなのかを確かめる。
貝木か、小夜か……小夜だ。
一応の確認として、小夜の毛布をすこしだけ捲る。
彼女は就寝前に風呂に入ったようだ。バスローブを身に纏っていた。
次にホテルの枕側、包装された避妊具の数を確かめる。使っていないなら二個置かれているはずだ。
暗闇の中で照明の操作盤を手繰り、小さく室内を照らすとアメニティの避妊具を数えた。
「使ってない……よかった……」
心の底から声が漏れる。俺は小夜を抱いてない。
「ゴムを使わずに抱いた――」
「うわ」
と、貝木の声が聞こえて心臓が凍る。
「――という可能性が残っているけど」
「……びっくりした……いたのか」
思考が追い付かない。
「でもまぁ、その様子じゃ本当に手は出してないみたいだね」
薄暗い部屋の隅、ソファーの肘置きを枕にして、こちらを監視している貝木の姿。
「寝てないのか……!?」
「まさか。私もさっきまで寝てたよ。囮より少し先に目が覚めた」
「昨日はどうなったんだ?」
このホテルに入るまでの記憶がない。
「飲み過ぎて囮が歩けなくなったから、私と饗庭ちゃんでこのラブホに泊まることにしたの」
「そんなに飲んだか……ごめん。ここも俺が払うよ」
「いいよ。私も終電逃してたし、どのみち東京に一泊するつもりだったから宿代は割り勘にしよう」
申し訳ないと思うが、さすがに持ち合わせに限界が来ているのでありがたい。
貝木の態度も特段怒っている様子ではなかった。
「俺がソファーで寝るよ。貝木はベッドでちゃんと休んでくれ」
「ありがと。お言葉に甘えるよ」
そう言って貝木は起き上がり、こちらに向かってくる。
俺もベッド脇に移動して上体を起こした。が、貝木が横から押し倒してくる。
「貝木……?」
隣で小夜が眠っている。大きな声を出すのは憚られた。
しな垂れかかる貝木の体温に戸惑う俺をよそに、彼女は操作盤に手を伸ばして明かりを落とした。
湿った空気に、息を呑んだ。
「……一個、使う?」
その意味はすぐに理解できる。
「あんなに酔っぱらう囮は初めて見たよ。ストレス溜まってるみたいだし」
貝木は耳元で囁く。
「すっきりしたいんじゃない?」
俺の脳が最高回転で稼働する――いや、空転して思考停止に陥った。
沈黙は一秒に満たなかっただろう。しかし、そのわずかな時間にいろんな葛藤が過ぎる。
例えば、友人である貝木と肉体関係を結ぶ性的な好奇心と自制心。発散できていない性欲を言い訳に関係性が壊れることのリスク。隣で眠る小夜の存在。答えを保留している瀬川の存在。
「だめだ」と、思った。思考が声に出ていた。
俺の返答に対して、貝木はまだ何も言わない。
その代わりに先ほどまでよりも伸し掛かる体重が重くなる。
貝木の匂いがする。芳香剤の奥にある彼女自身の匂いがわかる。
なんで女性は、いつも甘い匂いがするのだろう。
理性が揺らぎ、このまま後ろに倒れたくなった。
胸の中で貝木を受け入れれば、きっと、とてもいい気分になれる。
わかってる。わかっている……。
――だが、駄目だ。
ベッドに包丁が仕込まれているような、そんな気配があった。
貝木の罠ではない。あの殺人犯……瀬川忍の存在が気がかりだ。
ここで体を許せば、瀬川は貝木を殺すだろうか。
「は、ははは」
俺は笑った。
この誘いを冗談だと捉えることにした。
「……俺を試すなよ。騙されないぞ貝木」
凭れ掛かる貝木の重みが軽くなる。
魅力的な誘いだが、俺は断らなければならないのだ。
「これで分かっただろ。俺の理性は硬いんだ」
「……そうね、合格よ。これだけ堅いなら饗庭ちゃんを任せてもいいかもね」
貝木は薄闇のなかで微笑み、柔らかな胸を健気に押し返している脈打つものを指さす。
「理性じゃない部分も硬いみたいだけど」
「……こいつには苦労を掛けるよ」
「へへへ、がんばりたまえ囮君」
貝木は俺の本能を司る器官を慰めるように撫でた。
膨らむ欲望に負けそうな一歩手前で、貝木は手を放す。
「じゃあ、私は寝るね」
「あ、ああ……俺はシャワーでも浴びて酔いを醒ますよ」
ソファーへ逃げて、俺は気を鎮める。
昂ぶったその器官は熱心に抗議するように、いつまでも未練がましく脈動していた。
❖
一夜が明けて、チェックアウトには余裕をもって出ることができた。宿泊料金は貝木が言っていた通り折半で支払う。
「じゃあね」と新宿駅へ消える貝木に手を振り、たった一夜の出来事が面映ゆく胸に迫る。
真夜中の誘いを俺は断った。貝木を傷つけないように言葉を選んだつもりだったし、うまくはぐらかせていたはずだ。貝木の女性としてのプライドも傷付けてはいない。と、思いたい。
友人として、また来年も龍を見たいと俺は思う。
「さて、今は何時だ?」俺は独りごちて携帯端末を見る。
午前の九時。イベントを楽しみ、思うさま深酒をした俺は生活リズムを狂わされ、真人間と同期した。
「……俺が活動する時間じゃないな。帰って寝るか」
「まだ寝るつもりなの!?」
眠気が晴れた小夜は俺の提案に乗り気ではない。が、実際問題俺は夜勤のリズムに戻さなければならない。今夜も仕事が待っているのだ。
「今から起きてたら、夜に杵原に会えない」
「むむむ」
小夜は一理あると口を噤み、西武新宿線に向かう俺の後ろをついて歩いた。
ホテルの密集している路地から大通りへ出る途中、一人の男が顔を上げて小夜を見るのを捉える。俺はすれ違ったまま振り返らず、数歩先を歩きながら耳を澄ませた。予想通り、男は小夜に向かって声をかけた。
「アイちゃん……?」
「えっと?」
戸惑いはするが否定はしない。そんな小夜の反応に、俺は二人の接点を悟った。
「いや、やっぱりアイちゃんじゃん! 俺だよ、フミヤだよ」
男が小夜の前に立ちふさがったか、歩く靴音が止まる。
俺は振り返り、事態を静観した。
「覚えてない? こないだ一緒に遊んだじゃん? このあたりのカラオケでさ。その後だって――」
「あー……うん。そうだね。たのしかった」
小夜の顔が曇る。
男の顔を思い出せないというわけではない。
思い出せているから、曇るのだ。
『アイちゃん』という名前に心当たりがないならこんな返答はしない。
「今日もこのあたりで遊んでたの? てかさーマジ偶然じゃん? 連絡先交換してなかったから、正直探してたんだよ。超ラッキー」
ちらりと小夜は俺を見る。
「なんなら今日の夜空いてる? 暇してるから遊ばない?」
「アイさん――」
と、俺は小夜を呼ぶ。
「――知り合いかい? 先に駅に行ってようか」
「いやっ……」小夜は首を振り、慌てて俺の腕を掴む。
そして男の方へ振り返り、「ごめんね」と謝った。
「私用事あるから遊べない」
男はやや不満そうに引き下がる。追ってはこないが、吐き捨てた愚痴ははっきりと聞こえてきた。
「先客か」
残念がる男の言葉に鋭い響きはなかった。傷付けようとする意図はなく、きちんと納得して引き下がる分別を持っている。
しかし、だからこそ。
小夜は俺の腕を掴んで震えていた。
『アイちゃん』と、彼の関係は明らかだ。
過去に体を売り、そして買ったのだろう。
俺はこの場面に出くわしてしまったことをどう受け止めるべきかわからず、無言で西武新宿駅へ歩いた。
三が日も終わって初の平日。ビジネスマンの姿を多く見かける駅前で、本音を打ち明けるなら、腕を放して、離れて歩いてほしいと思ってしまった。
❖
電車内では会話もなく、小夜が口を開いたのは俺の部屋に上がり込んでからだった。
「ごめんなさい」
「何の話だ?」
俺はとぼける。しかし半分本気でそう思った。何に謝っているんだろう。
小夜の過去に対して怒る筋合いはない。
「さっきの、フミヤって男の話だよ」
「謝ることじゃない。なんとなく事情は分かったしな」
「私……助けてもらえるような人間じゃない」
落ち込んだ態度で彼女は踵を返し、入ってきたばかりの玄関へ向かおうとした。
俺は背中を追いかけ、扉を押さえる。
「小夜。勝手に結論に辿り着くな」
「ごめんなさい……」
小夜は泣き出しそうな顔を俯かせて隠し、再び謝罪する。
彼女が過去に援助交際を行っていたのは知っている。俺はそれを知っているのだ。
だからあの光景に鉢合わせたからと言って怒りはしないし、問い詰めもしない。
「謝らなくていい。俺は怒ってない」
小夜は首を振り、俺の胸に抱きついた。
「尾鳥さんに出会ってから、『どうでもいいや』って思えなくなったの」
小夜は言う。
「毎日、辛いことばかりだし、全部どうでもよかったはずなのに、どうでもよくなくなったの……。
男の人からお金をもらう方法なんてあれくらいしかないし、どうでもよかったから、楽だなって思って……でも……でも……っ」
小夜はこれ以上言葉を紡ぐことができず、声を押し殺して泣いた。
誰にも迷惑をかけないように、泣き声を上げることはせずに涙を流していた。
きっと俺に出会う前から、小夜はいくつもの夜を泣いて過ごしていただろう。
誰にも聞こえない声で泣いていたのだろう。
『助けて』という叫びすら、押し殺して生きていたに違いない。
「……小夜。お前は過去を振り返って泣くことができた。それは成長しているってことだ。変われたんだよ」
「本当……?」
「いい方向に進んでいるから、自分の過ちを後悔できる。だからたくさん泣いていい。声を我慢しなくていい。これからも俺が力になる」
「変われるのかな……? 私、本当に取り返しのつかないことしたのに……許されるのかな……?」
「許されるさ」俺は断言する。まだ小夜は若い。更生の機会はいくらでもある。「小夜が人生の中で失ったものを、俺が取り返して見せる」
俺は優しく彼女を抱き上げて、部屋に運ぶ。
「杵原がきっと会いたがってるはずだ。泣き止んだら仮眠を取ろう……あんまり思い悩むなよ」
「うん……」
小夜をベッドに座らせて眠るように促すと俺も隣で目を閉じる。
「ごめんなさい……」
小夜は三度繰り返す。
――そうか、過去の自分に謝罪しているのか。
第六話 機械仕掛けの幻想 下
時刻は二時。
俺たちは東伏見公園の木造デッキにいる。
杵原はご機嫌がよろしくないようだった。
「……それで? 『龍』のほうを優先して僕は一人ぼっちだったんだね」
「連絡は入れたろう」
膨れ面で不貞腐れている杵原に、俺は弁明する。
日程変更はメッセージを送ったはずだ。携帯端末の送信履歴にもはっきりと証拠が残っている。
しかし、杵原はメッセージの行き違いに癇癪を立てているのではない。
「当日に言われても寂しい!」
「そう言われたら謝るしかない。すまん」
「ヤダ! 心がこもってない!」
杵原は地団駄を踏むが、浮遊バクテリアのホログラム体では地面を踏み鳴らすことはできない。怒りを表明することが叶わずにいる少女は、なんだか滑稽だった。
「今日はその分たくさん話そ」
「そりゃ話すけどさぁ?」
小夜は宥めるように微笑みかける。ふとした表情が穏やかに見えて、昼に泣いていた姿はもういない。
「どうせ土産話でしょ? 私を置いて楽しんだ新宿の話するんでしょ」
「話しずらいなやつだな」俺は雑談係を小夜に任せ、ベンチに腰掛けた。
「聞きたくないなら別の話にしよっか?」小夜は提案する。
「あー、龍を見に行って楽しんだ癖に、勿体ぶるー!」
杵原はもう手当たり次第だった。
構って欲しいという気持ちが先行し過ぎて面倒な人になっている。子供の外見も相まって、厄介な糞餓鬼そのものだ。
話好きな人間ならば杵原の態度もものともしないだろうが、小夜にそこまでの図太さは期待できない。たじたじになっている小夜に助け舟を出すため、仕方なく俺が導入を語ることにした。
「貝木に誘われたんだよ。今年の龍は新宿に出るから飲みに行こうってな」
「椛に? わざわざ新潟から見に来たってこと?」
「そう、貝木椛だ。当日の朝に連絡が来たから杵原に伝えるのも急になってな。夕方から飲みに出かけて、一軒目を出た後に龍を見たんだぞ」
俺はそこから小夜に目配せして、続きを譲る。
「杵原さんと貝木さんて知り合いなの?」
「そうだよ。元々この公園を担当してたのが椛だもん」
小夜は話が繋がったという顔をする。
「んで、椛は私のこと何か言ってた?」懐かしい名前に杵原は興味を示すが、残念ながら貝木は何も言っていない。
「あー……」小夜は言葉が続かない。
「なんでよぉ!?」
杵原は再び癇癪を起こして公園で地団駄を踏む。
どれだけ暴れても無音なのでかなりシュールだ。
「僕と椛って結構仲良かったはずなのに、酷くない?」
「それはそうだな」
貝木は妙に冷たい距離感を保つところがあるから、杵原のことを話題にすらしなかったのは確かに酷いと思う。
「というか、囮も私の話題を振ったりしないわけ?」
「あー……」俺は言葉が続かない振りをした。
「くぬぅ……!」
杵原は期待通り身を捩って癇癪を披露する。
というより怒りに任せてツイストを踊り出した。
「あははっ、なにそれ」
小夜は吹き出して笑う。東伏見公園の夜に楽しげな談笑が谺する。
❖
不死の帯域に棲む地縛霊『杵原真綸香』との面談を小夜に任せ、俺はいつも通り端末で報告書を作成する。
二人の話題は龍について語られた。
「すごかったよ。龍の皮膚に魚みたいな目が泳いでてさ」
杵原はいまいち姿形を想像できずにいた。下を出して嫌がっている。
「でかくて気持ち悪いだけじゃん。何がいいの?」
「違うの! 気持ち悪いけど、もっとこう……神秘? 的な?」
「鏡みたいにぴかぴかで、皮膚に魚が泳いでて、魚のお腹に目玉……どこが龍なのかわかんない」
「大晦日から元旦にかけて回線が混雑するだろう。浮遊バクテリアが山手線内で活性化し、巨大な霊素可視化現象が起こる。初めて観測されたのが辰年の三が日だったから、『龍』と呼ぶようになって、以降は毎年恒例のものになった」
俺は由来の説明のために口を挟む。
「杵原さんは龍見たことないの?」
「西東京市は東京じゃないから」
――なんて事言うんだ。
都会だけが東京じゃないというのに。ともかく東京都区部から外れている場所で地縛霊となった杵原は、残念ながら龍を見ることができない。
「あーもーわかった」
杵原はやけくそに空を飛んで俺たちを見下ろして宣言する。
「こうなったら僕も龍になるんだから」
「できるの?」小夜は杵原を見上げて目を輝かせた。
「できるね。なんてったって成長期だから」
「いや、もう三十だろ」
「二十八!!」
杵原は俺の言葉に喰ってかかるように声を荒げる。
今日はピーキーな性格してるな……。
「十四歳の設定で行かないと成長期を過ぎたことになるぞ」
「あ、確かに。……いやでも私は『永遠の十四歳』だから、いつまでも成長できないことになるかも……?」
杵原は宙に浮かびながら腕を組んで考えている。
こんなやつが龍になろうというのだから、おかしな話である。
「じゃあ、こうしたら良いんじゃない?」小夜は指を立てて提案した。「永遠に十四歳だから、永遠に成長期なんだってことで」
「おほぉー! 天才ジーニアスじゃない!?」
杵原は興奮して奇声を上げる。
「ずっと成長期だから巨大化も可能! これで『杵原真綸香、龍になる計画』は見えたね」
「そうだね。で、実際のところなれるものなのかな?」
ひとしきり杵原の冗談に乗っかり終えた小夜は、俺の方に訊ねる。
不死の帯域に存在する彼女は、それこそ無限の時間と夢幻の可能性を秘めている。
『龍』とは都市に蟠る浮遊バクテリアからなる霊素可視化現象だから、論理的には杵原も同種のものなのだ、問題は規模の差だ。
イメージの集合体が龍だと定義するなら、杵原が一人で大きくなっても、それは龍ではない。巨大化した杵原だ。
「一人じゃ出来ないな」俺は真面目な結論を提示する。
「なら仲間を集めるよ」
「どうやって?」
「僕みたいな地縛霊とか、植物状態の患者に呼びかけてみたら集まりそうじゃない?」
杵原が不死になった原因は、生命維持装置を経由して特定の周波数帯域に意識をつなぎ留めたからだ。死に切れない者たちの意識を集めたら、確かに『龍』になれるかもしれない。
「……出来るかもしれない。が、問題が多いな」
「ほう、例えば?」杵原はふてぶてしく問いかける。
「仲間を集めるということは、生命維持装置を使って生にしがみつく患者を連れ去る事になる。これは大問題だ。
延命治療を受けたはずなのに死んでしまうなんて、この処置は延命治療とは呼べなくなる。生命維持装置はリコールされるだろう」
「それは、まずいね」小夜は苦笑した。
「あとは、集まった仲間の意識と混ざり合っていくうちに、『龍』にはなれるが『杵原真綸香』ではなくなってしまう」
「え、怖いこと言う……」
「あと……」
「まだあるの?」
杵原はげんなりしていた。
「地縛霊同士がどうやって集まるかだ」
俺の言葉に杵原も小夜も沈黙してしまう。そもそも東伏見公園から動けない杵原は、仲間を集める手段がない。
「なるほど。僕の夢がとても大きいってことはよくわかったよ」
「あきらめるつもりはないのか?」
「無いね! 死ねない人生なんだもん。僕はでかいことを成し遂げちゃうのさ」
杵原は宣言する。
以外にもこの夜の面談は進展があった。俺は報告書に書き込める事柄としてメモを残す。
「ところで、囮はどうなのよ。最近でかいことあったでしょう」
「は――」
杵原にしては鋭い。
俺は不意を突かれて取り繕うことができなかった。
「ほら、あったんだ」
「まぐれ当たりかよ……」
「いやいや、僕も馬鹿じゃないからねいつもと違うことはわかるよ」
――可能な限り普段通りに振舞っていたつもりだが、どうやら杵原にはわかるらしい。
「年の功か、三十路は違うな」
「二十八。二十八だから」
軽口で流そうとした俺を小夜が見つめている。『いつもと違う』という言葉を聞いて、自分のせいではないかと考えたのだろう。
「悩んでたりする……?」
「いや、小夜のことじゃない。別件の仕事でな、まあ厄介な案件があるのさ」
時刻は四時。
まだ夜闇は暗く、風は冷たい。
木像デッキで立ち話をしているのも辛くなってきた。
「散歩しないか?」
俺はコートのポケットに手を差し込んで、肩を震わせながら二人に言う。
「いいよ」と杵原。「公園内ならどこでも」
「……どこに行くの?」と小夜。
「この公園と並んで東伏見神社があるだろ。往復して歩くだけ」
公園の舗道をなぞって神社へ進む。女二人の雑談は尽きない。
『龍』の話題は尾を引いて、触った時の感触や都市に出現した時の驚きを、小夜は楽しそうに語る。
少し後ろをついて歩く俺は、明日の仕事について考えていた。
武蔵関公園で、おそらく瀬川が待っている……。
旧第七話 都市の幽霊・下
饗庭小夜と知り合って、まだ六日ほどしか経っていない。言葉を変えれば、もう六日も経っている。月並みだが、長いようで短い。
大人になるにつれ人生は引き伸ばされて、希釈されて、一日一日の価値は下がって行く。
小夜の若い肉体は月の満ち欠けよりも早いスパンで、痣や傷が泡のように生まれては消えている。たまに、傷痕として残り続けるものもある。
心の傷だってそうだ。
❖
昨晩、杵原との仕事を終えて眠りについた時、小夜は楽しい思い出に笑顔を浮かべていたのに、朝俺が目を醒ますと隣には居ない。
二、三日に一度、家に帰るのだ。
ずっと帰らないでいると、饗庭家は警察に捜索願いを出すかもしれない。だから定期的に家に帰って、事件性がないことをアピールするのが目的だと言う。
だが、事件性とはなんだ?
虐待され、新しい痣を拵えてまで、明るみに出したくない。その家庭の闇。
小夜が隠そうとしながらも、その体に纏わり付かせる翳り。
いよいよ本格的に解き明かさなければならない。その闇を生み出すに至る過程に迫る。
暗い暗い穴を覗く。
家庭の闇。
過程の闇。
今、再び暗い影を落とす小夜に問う。
「帰らなくていいんじゃないか?」俺はそのまま思ったことを言う。傷つくために家に帰る…。その行動になんの意味があるのか。
「それでも、帰らなきゃなんだ」
小夜の目には弱々しい蝋燭の火のような意志が見えた。
「まだ、幸せだった時。時々微笑む母さんの顔が、憎み切れないんだよ
もしかしたら、私が頑張れば、また幸せな家に戻れるかもしれない」
その希望を、小夜は捨てることが出来ないでいた。
あの日、『もうダメなんだ』と、絶望していた小夜を思い出す。
俺と会う前から、一縷の希望だけを携えて長い夜を過ごしてきた小夜。朝と夜を流転するように、もはや自分の意志でもない血の呪いに支配されていた。
――ただ、家族だから。
頬を打たれた時に、口内を切ったのか、恐る恐る表情を作り、苦労して笑う。
また笑顔が下手になった。心配いらないよと微笑む顔は、むしろ心配せずにはいられない危うさの中にいた。
「もうダメなんだって、自分で言っただろう。」俺は小夜の肩を抱く。「もう、…ダメなんだよ」
「そ、そうかもしれないけど、いつか昔みたいにさ、……できるって、」小夜の声は狼狽えて、少し上ずった。「ほ、ほら、これでも親父も機嫌がいい時は私の事、殴らないんだ」まだなんとかなるかも。小夜は気丈に振る舞おうと努める。
「ダメだ。」俺は強く抱き締めて、続ける。
言いたくはない。でも、言わなければならない。
「普通の家庭ってのは、機嫌が悪くったってお前を殴らない」
「………っ!」
小夜は俺の言葉に反論するための言葉を探した後、どうしようもなくなって、押し黙ってしまった。
俺の部屋に、急行電車の走行音が響く。そしてそれが遠くに消えると、一層深まった無音が部屋を包んだ。
「親父だって、頑張ってきたんだ。『仕事が上手くいけば、きっと生活が良くなる』って…朝から晩まで働いて、母さんのため、私のために擦り切れて、壊れちゃったんだ。」
嗚咽。
小夜は悲しみの濁流の中で、溺れながらも言葉を発する。
「それからは、母さん、が。わ、『私がなんとかするからね』って、それで。そ、れで…」
それで、次は小夜の母が壊れそうになっている。叔母がまだ亡くなる前は、少ない貯蓄、家事の手伝い、精神的な拠り所があったが、亡くなってしまった今では、家は洗濯物も、使い終わった皿も散乱し、循環することも出来ずに家庭は機能不全に陥った。
「私、幸せに死ねなかったばあちゃんが、悲しくて、報われない親父が悲しくて、優しかった母さんが悲しくて」小夜を抱く肩が、暖かく湿る。涙が流れているのだ。「助かりたい。…助かりたかった。殴られてもなんでもよかった。その先にきっと、報われる日が来るって思ってたんだ」
小夜は声を押し殺して泣いた。それ以上の言葉を出そうにも、震える喉では言葉にならない。
遣る瀬ない。
報われない。
途方もない。
もうダメだ。諦めてくれ。俺は言おうとしていた言葉を言えずにいた。あまりにも、可哀想だった。
――泣き疲れた小夜をベッドの上に寝かせて、俺は一人、武蔵関公園に向かった。
旧第八話 酷薄/告白 下
俺は一つの考えがあった。
明るみに出たがらない闇が二つ。
幸せになりたい者二人。
闇夜に蠢く逢魔時の欠落者。ここは俺が一仕事してみせよう。
――周波数調整員として。
❖
俺は武蔵関公園で待ち合わせをした。
約束はしてないが、彼女はきっと現れる。
確信を持って待ち続けている。
あの時と同じように、ブランコに座って公園を眺めていると、やがて薄暗い公園の入り口から人影が現れた。
砂を踏む足音がこちらに向かって近付くにつれ、輪郭に張り付いた闇は街灯に剥がされて、姿を現した。
瀬川忍だ。
俺は前もって自販機で買っておいた缶コーヒーを一つ差し出して、瀬川に渡す。
「よう」俺は短く挨拶をする。
「………」瀬川は俺の態度に警戒しているのか、その表情は固い。
「返事。持ってきた」俺は自分の分の缶コーヒーを一口飲み込んで、公園を眺める。
「そう。聞きたいわ。」瀬川は隣のブランコに座って、落ち着き払って返事を待つ。
「だが、その前に確認したい。」
「あら、何よ」
「瀬川、お前はまた分身を作れるか?」
「…どういう意味かしら?」
瀬川は俺の言葉の意味を問う。確かに突飛な発言ではある。
「お前と幸せになるためには、二つの条件がある。
一つは、俺の妹を受け入れること。
一つは、殺してほしい人がいること。」
「…余計にわからないわね。あなたに妹なんていたかしら」そう質問する瀬川も、心の内では予感していたのだろう。顔には動揺は見えない。
「俺の妹、名前は小夜っていうんだ。」
「…へぇ。」瀬川は愉快そうに笑う。「それで、誰を殺してほしいのかしら」腕を組んで口元を手で隠す瀬川。声音は微かに愉悦に震えている。俺のことを、楽しそうな顔で眺めた。
俺は一つ深呼吸して、勤めて静かに伝える。
「小夜の両親。二人ともだ」
「あなたの妹の両親…。それはあなたの両親ではなくて?」クスクスと、凄惨に笑う。指の檻の向こうから、死生観と愉悦が同居した細い月のような唇が、艶やかに光を反射する。
「改めて確認するぞ。瀬川。お前はまた分身を作れるか?」
末期の饗庭家を殺して、小夜の人生から病巣を摘出する。
それには俺と瀬川、そして何より小夜のアリバイが必要なのだ。明るみに出ないように、再び分身に活躍して欲しい。
瀬川が自分の夫を殺した時のように、第三者の暗殺者が必要なのだ。
「………。」
真っ直ぐに目を合わせてから数刻。瀬川の顔からは笑みはなくなり、真剣な表情に変わった。
「あなたが私を拒絶した場合にとっておいたの。……最後の分身よ。」瀬川が唐突にそう言った。
それが何の話題なのか、一泊の間をおいて理解した。
「出来るんだな」
「ええ、私のとっておきの分岐点。『私の子宮が病に侵されなかった場合の人生』」
「…おい、……それって………!」
それは、瀬川の人生における分岐点。
一つ目が初恋。
二つ目が子宮頸癌。
瀬川が夫を殺すために使用した分身が、初恋。だから、もう一つの分岐点が残っているのだ。
「まさにとっておき。…最終手段。
これを使うと私は完全に子を産む能力を失う。
だからね、もしあなたとの初恋が、上手く行かなかったら、子宮と引き換えに、あなたを殺す事も考えていたわ。」
俺は戦慄する。覚悟して臨んできたはずだが、背中はぞわりと粟立っている。
瀬川の持つカードの強力さには、末恐ろしいと感じる。
「ねぇ、尾鳥君。…あなたは子供欲しい? 子供が出来ないことで私を捨てたりする?」
この問いかけが、おそらくは俺の周りすべての人を左右する重大な選択だ。
覚悟を。埋み火を今一度再燃させてみせる。
「捨てない」はっきりと、宣言する。「お前が構わないなら、小夜を娘のように接して欲しい。」
俺は目の前の狂気に怯えを感じながらも、真っ直ぐに見つめてそう言った。
頭の中、どこか冷静な自分いる。この状況を俯瞰して、まるで悪魔との契約だ。なんて思う。
瀬川と小夜、二人のためのスケープゴートだ。と、力なく笑う。まさにその通りだ。スケープゴート。身代わり。囮。
でも、まぁ、悪くはないよな。
これでも瀬川忍は俺の初恋の相手なだけあって、顔立ちも性格も美しい。
それに、小夜の呪いを断ち切ることが出来るだろう。
『そういうのを引き寄せる体質だから、お前のことは囮って呼ぶよ』
昔の貝木の言葉を思い出す。
やり遂げてみせる。
長い時間をかけて、杵原が《龍》になるまでを見届けながら。
闇は明るみに出ないまま、幸せを見つけてやるさ。
CRUMBLING SKY 改稿作業中
『CRUMBLING SKY』は、2017年に一度完結し、2025年に書き直しました。
虐待・更生・犯罪・SF要素を重層的に織り込んだダークでエモーショナルな物語です。
「共犯的真実」というテーマが貫かれており、オトリ、小夜、瀬川の個人単位では歪な人間が家族となって結びつき、奇跡的に丸く収まる奇妙な読後感を楽しんで頂けたらとプロットを組みなおしました。
倫理観の揺らぎを読者に突きつける力作になったんじゃないでしょうか。