【天の都】―ウェザーユートピア―  第一章:慈雨の救世主

リザリカの各ファンタジー小説三作品、通称リザ世界の物語の一つ【ウェザーユートピア】の第一話です。
めくるめく幻想の世界へ……などと大きなことの言える作品ではありませんが、お暇潰しにでもしばしファンタジーの世界に浸っていただけたら幸い。
よろしくお願いします。

Prologue

 天に在りし虹の郷。地に在りし生命の楽園。
 双つの〈世界〉に災禍降りかかり、その天地を穢す時、天は地へ堕ち、旧き虹は消える。
 連綿と受け継がれし生命は、〈死神〉のもたらす眠りに陥るだろう。
 そして、天地が再び相見えしその時、双つは一つとなり、はじまりへと還るだろう。
                                         【堕ちる天の伝説より】



 天が堕ちたらどうなるのだろう。私は常々そんな想いを巡らせていた。
 本来交わるはずのない双つの存在が、融け合って一つになるかもしれない未来。
 この場にいる誰もが望まざる未来。
 そして、これっぽちも想像の付かない未来。
 もしも、この未来が現実となって現世に押し寄せた時、私たちはどうなってしまうのだろう。

「また例の伝説について考察中か」
 ふと隣から声がした。私のよく知る男が、いつの間にか隣に座って私を見ていた。
 立った状態ではもちろん、座っていても私と彼の身長差は明らかで、私は彼をつ、と見上げた。
「……心でも読んだか?」
 片眉を上げて苦笑する。まるで胸の内を覗かれたような発言に少々驚いたのだ。
「まさか。読心の”魔法”は禁止対象の一つだろうが。ま、そんなもん無くたって、てめえの考えてることなんざ、俺にはお見通しよぉ」
 敵わんな。そう言って溜息を吐くと、彼はにやりと笑った。
 私とは乳飲み子の頃からの付き合いである彼。普段は何やかやと煩く、少々とぼけたところがあるそのくせ、私の考えていることは何故か正確に察知してしまう。それほどまでに私は分かりやすいのだろうか。それとも、長い付き合いの中で彼が会得した能力なのだろうか。
「そう深刻になるなよ。そんな不吉な伝説なんざ、すぐに覆せるさ。何たって、”二つの(とき)”が満ちたんだからな」
 昔からこいつは変わらない。あっけらかんとしていて、常にその瞳は前を見据えている。
 軽率に言っているのではない。強い意志と自信の下に私を励まそうとしていることは、親友たる私にはすぐ分かった。
 普段ならば、その太陽のような明るさにつられて頷き返したことだろう。
 だが、今回は違う。現在我々が抱える懸念は、そう単純ではないからだ。
「”二つの(とき)”が満ちたのは確かに喜ばしいが……心からは喜べない。お前とてそれは同じだろう」
 そう言うと、彼はうっ、と声を漏らして少し俯いた。
 他の者であったら違ったかもしれない。けれども、私と彼は、否、私と彼だからこそ、この状況を喜ぶのと同じか、あるいはそれ以上に憂いを覚えていた。
 何故なら、”二つの(とき)”という言葉が意味しているのは――――。

「……そろそろ会議のお時間ですよ」
 背後から声をかけられた。
 振り向くと、使用人が私たち二人を遠慮がちな眼差しで見ていた。深刻な話をしていると雰囲気で察したのだろう。
「もうそんな時間か」
「分かった、すぐに行く。わざわざすまん」
 彼と私が答えると、使用人は軽く一礼して立ち去っていった。
 私たちは、座っていた石段から腰を上げ、軽くほこりを払う。そして、その石段を上り、玄関口である扉をくぐった。
 これから行われる会議でも、”二つの(とき)”について触れることだろう。それからもう一つ、事を複雑にさせている何よりの原因について。
(……情けない話だ)
 廊下を歩きながら唇を噛みしめる。我々ですら頭を悩ませ、力の限界を感じ始めているこの問題に、これから輝かしい未来を歩むはずの”二つの(とき)”を巻き込まざるを得ない現状。私も彼も、「父親」として何もしてやれないもどかしさ。それらが情けなくて仕方がなかった。
(あの子たちが生まれた日以来、覚悟はしていた。だが、こうも早く”(とき)”が満ちると、誰が思っただろうか)
 それはいわば、宿命。
 受け容れる他はなく、人の子の力ではどうすることもできない、〈神〉の絶対なる決定。
 それを前に、人の子とは何と無力なことだろう。
 変えられるのならば、少しでも”(とき)”が満ちるのを遅くできるのならば、どんなにいいだろう。しかし、これはあの子たちにしかできない使命。あの子たちでなくてはならない。私も、彼も、そしてこの会議の参加者も、あの子たちの力を必要としている。
 だから私は、心でそっとあの子に、我が子に語りかけた。

 待っているぞ、愛しい息子よ。
 双つの〈世界〉を優しい雨で包み込む、水の子よ。

第一部 夏の日の出会い

『――――……渚』

 僕は、僕の名を呼ぶ声で我に返った。

 手元さえ見えない暗闇の中、僕は立っていた。
 周りを見回しても、黒以外の何色も目に映らない。そんな世界に響いたのは、低くよく通る男性の声だった……いや、正確には僕自身の脳内に直接響いた、という方が正しい。
 声の主を探しても、辺りは掴みどころの無い暗闇。たとえ人の影があったとしても、目で確認するのは不可能だ。
 けれども、姿なんて探さなくても、分かっている。
 低く、優しく、聞く人を安心させる温かさを持ったこの声。”ここ”で何度聞いたか分からないそれが誰の声なのか、僕はとっくに知っている。

『――――……渚』
「……誰?」
 何回か呼ばれてから、ようやく答える。口から零れた声は頼りなく、ずっと黙っていたせいか掠れていた。発した声が闇へ溶けていった頃、僕はあるものを見つけた。
 黒い視界の一点にぽつり、小さくぼんやりした光。それはゆらゆら揺れながら、少しずつこちらに近づいてくる。
 接近するに連れて、光源の正体と、僅かな光の中に人影があることが分かった。
 光を発していたのは古めかしいランプ。しかしその光はあまりに弱く、濃い暗闇の中ではあまり役に立っていない。おまけに、あろうことかランプはまるで人魂みたいに、人影の斜め虚空にふよふよと浮んでいる。そのせいで照らしどころも悪いのだろう、人影の特徴はよく分からない。

 でも、僕には分かっている。この人影が男性であることも。見上げるくらい背が高いことも。人影の正体すら、既に知っている。
 何故ならこれは、何度も見ている夢。
 毎夜同じ内容が繰り返されるこの夢を見る”僕自身”は、その詳細も、結末も、全て知り尽くしている。

 尤も、今の僕は夢の中の登場人物でしかない。
 だから夢のたびに同じ疑問を持ち、同じ行動を取り、同じ言葉を繰り返す。今回も例によって、夢の中の僕はやっと立ち止まったその人に尋ねる。
「……どなたですか?」
 答えは無い。代わりに、彼は手に持っていた長物(ながもの)をそっと差し出してきた。
 戸惑いながらも受け取ると、それが長い杖であると分かった。先端に宝石みたいな青い石がはめ込まれた、木製の杖。
 いきなりそんなものを渡されても、どうすればいいのやら。困ってしまい、杖と相手を交互に見やっていると、彼はゆっくり片膝を立ててしゃがんだ。首を傾げていると、こちらへそっと手を伸ばしてくる。何をされるのかと、驚いた拍子に思わず目を閉じた。
 男性は僕の首の後ろに手をやり、何やらごそごそとやっている。紐か何かをうなじで結んでいるような、そんな仕草だ。数秒後、気配が離れたのを感じ、目を開ける。すぐ目の前には彼の顔。暗くて表情が分かりづらいが、口許には柔らかい笑みが浮かんでいるように見えた。
 視線を下げると、胸元に何かが光っていた。ランプの弱い光を頼りに目を凝らすと、それは雫型の青い石飾りが付いた、素朴なペンダントだった。

 杖に引き続き、ペンダント……ますます訳が分からない。男性の意図に全く見当が付かない僕を他所に、彼は無言で立ち上がると踵を返した。
「あっ……ま、待って……!」
 ここで、僕はいつも彼を慌てて呼び止める。何故だか彼がいなくなってしまうと思うと、とてつもなく寂しくて、心細い思いに駆られるからだ。
 男性は去りかけた足を止め、少し間を置いてから(おもむ)ろに振り返る。
 その時だ。弱々しかったランプの光が突然強さを増して、彼の不確かだった顔を照らし出す。それでもなお、その顔ははっきりと見えない。
 けれども、僕には分かる。この顔が誰なのか。
 「――――と、う……さっ……!!」
 呼びかけようとした途端、喉が詰まって声が出なくなる。
 その間にも、彼の姿を隠すように、或いはこの闇を喰らい尽くすように、ランプの光が一層強まる。
 目が眩むほどの光の中、しかし確かに目にするんだ。光の中、彼が……僕の父が、優しくもどこか物憂げに微笑み、青い泡のような光の球となって弾け、消えていくのを。
 そして、同時に耳にするんだ、その声を。

 『待っているぞ、渚』


◇◇◇

「――――っ!!」
 目を開いた瞬間、飛び込んできた光の眩しさに反射的に顔を逸らした。
 同時につぶった目を恐る恐る開くと、ベッドの脇にある窓が明るいことに気が付いた。
 (……朝か)
 ちょっぴり眩んだ目をこすりながら、枕元の目覚まし時計を手に取る。
 現在は七時半を少し過ぎたくらい。アラームは八時設定だったから少しだけ早起きだ。二度寝する気にもなれないので、時計のアラームを切る。見れば、遮光カーテンがほとんど全開になっている。道理で眩しいわけだ。どうやら昨夜カーテンを閉め忘れていたらしい。
 それはさておき。数分前まで見ていた夢を思い返して、溜息を()く。

 また、あの夢だ。ここ最近、三日に上げず見るようになった父の夢。
 何故夢に父さんが出てくるのか、何故何も語ってくれないのか、そして最後の「待っているぞ」という言葉の意味は何なのか、分からないことは多い。
 ただ、はっきりしているのは、夢から覚めた後は必ずやり場の無い寂しさが残る、ということだけ。

 (――――考えるのはやめよう。気が重くなる)
 もう一度息を吐いて、ベッドからもぞもぞと出る。
 今日は土曜日で学校は休み。それでも普段通り早く起きたのは、図書館に行く予定を立てたからだ。確か今日は、取り置きを予約した本が届いているはず。急ぎの用事というほどでもないけど、あまりもたもたすると出かけるのが億劫になる。早いところ準備しよう。
 夢の後遺症は頭の片隅に追いやって、気を取り直すために着替えに手を付ける。昨日の天気予報では、朝から暑くなるというので、薄手のジーンズにTシャツ、薄手の上着を羽織る。出かける準備は昨日終わらせていたので、荷物の入ったリュックを持ち、自転車の鍵をジーンズのポケットに入れる。
 準備は完了。でも、まだ終わりではない。
 ベッドの向かい側にある箪笥、その上には水を張った小さな水槽が置いてある。顔を近づけると、まるで僕の気配に気が付いたかのように、ひょこっと小さな頭を覗かせて、一匹のイモリが水面から現れた。
「おはよう、チョロ。今日も暑いってさ」
 友達に話すように声をかけると、イモリは大粒の瞳でじっと僕を見つめる。それが(恐らくきっと)こいつなりの返事だ。
 僕は水槽横に置いてある容器から固形イトミミズを一つ(つま)み、水槽に落とす。これがこいつの、チョロの朝ご飯であり、僕が部屋を出る前に必ず行うルーティーンなのだ。チョロは餌に気が付くや否や、待ってましたとばかりにかぷかぷ食いつき始めた。
 それを確認してから、ようやく部屋を後にする。階段を小走りに下り、荷物を玄関に置くと、リビングを通って台所へ向かう。
「母さん、おはよう」
「あら、おはよう、渚。早起きねえ、今日は土曜日でしょう」
 母さんはエプロン姿で朝飯の用意をしていた。いつものように、僕と似ても似つかない黒髪を後頭部ですっきり束ねている。
「まあね。これから図書館に行くんだ。予約してた本が届いてるって連絡あったから。ついでに少し勉強してくるよ」
「ああ、もうすぐ期末テストだもんね。読書も大切だけど、ちゃんと勉強もするのよ」
「わかってるよぉ~」
 唇を尖らせ、お道化た調子で返事をすると、ちょっとウケたのかくすっと笑われた。僕も連られて小さく笑う。
「朝はハムエッグとトーストでいい?」
「うん、いいよ」
 冷蔵庫から出したジャムとマーガリンを僕に託し、母さんはフライパンを火にかけ始めた。僕はその間に食パンをトースターに入れて、テーブルクロスや食器を準備する。

 焼き上がったトーストにマーガリンとジャムを塗っていると、ハムエッグが運ばれてきた。母さんも朝食がまだだというので、一緒に食べることにした。
 トーストをもう一人分追加で焼き、それにもマーガリンとジャムを塗る。少しして、母さんも自分の分として焼いたハムエッグを持って僕の向かいの席に座った。準備が整ったところで、二人でいただきます、と声を揃える。
 食べる傍ら、母さんがテレビを点けるとちょうど朝の情報番組がやっていた。
 MCとパーソナリティーのタレントや芸人たちのやり取りが終わってしばらくすると、ニュースを伝える時間になった。
 アナウンサーの男性がニュースを読み上げるのを聞き流していると、気になるニュースが一つあった。

『世界各国で異常気象多発』

 ――――この数年、日本では異常気象や自然災害が増えていることは僕も知っている。
 夏の異常な酷暑。警報級のゲリラ豪雨。突発的な竜巻。各地で頻発する地震や、いくつも発生する台風。交通機関が麻痺する規模の冬の大雪。そして、それに伴うありとあらゆる自然災害。
 連日のように報じられるそれらは、日本全国で枚挙に(いとま)が無い。
 しかも、それは今や日本だけでなく、海外でも大きな問題になっているという。今流れているニュースでも、アメリカやヨーロッパの国で嵐や山火事が頻発して被害が出ている、と語られていた。
「……怖いわね」
 母さんがどこか物憂げに呟く。
 確かに、最近の異常気象は他人事ではない。まだ六月だというのに、学校でも熱中症で倒れた生徒が何人かいるし、僕自身も予報外れの激しい雷雨に何度も遭った。思えば、地震や急な竜巻もこの頃多くなった気がする。
「何か最近異常だよね」
 トーストをかじりながらテレビ画面を見つめる。ニュースでは先日大雨が降った都市や、竜巻が発生したところを撮影した視聴者投稿の映像が流れている。
「そうね、どうしちゃったのかしらね……」
 コーヒーをすすって母さんが答えた。同じくテレビを見つめているけれど、その瞳はどこか別の場所を見ているように思える。
 (異常気象か……)
 厄介だなあ、と心中で呟く。今日は雨の予報は無かったはずだけど、最近のことを考えると突然降られることもあり得る。自転車で出かけるし、レインコートを持っていこうかな。
 食事を終えると八時半になろうとしていた。その後は洗顔と歯磨きをして、寝癖の付いた青髪を梳かす。生まれつき手強すぎる癖っ毛なので、梳かしてもあまり変わらないんだけど。
 畳んだレインコートを追加で詰めたリュックを背負い、一度振り返る。見ると母さんが見送りに玄関まで来てくれていた。
「行ってきまーす」
「ええ、行ってらっしゃい。気を付けてね」
 母さんの柔らかな微笑みを受け止めて、僕はドアを開けた。



 小学生の頃から愛用の自転車にまたがって、強くペダルを漕ぎ出す。
 六月も終盤。まだ梅雨から抜けていないとはいえ、夏が近づいた朝の光は眩しい。
 けれども早い朝の空気は比較的涼しく、風を切れば何とも心地良かった。
 あまり大きくはない住宅街を抜け、道路沿いを走る。
 図書館は、住宅街を抜けて南に少し行った所にある。土曜日のこの時間帯は人も車もあまり多くないので、思い切り自転車を走らせることができた。涼しい風の気持ちよさと、早く図書館に行きたい気持ちとが合わさって、思わずふっと腰を浮かせた。目一杯ペダルを踏み込んで立ち漕ぎすると、さっきよりも強く風が頬をなぶった。このスピードなら、ちょうど開館するくらいに到着するかな、などと少しだけ胸を弾ませて住宅街を走り抜けた。

 ――――のはいいのだけれど。
 立ち漕ぎを始めてから数分後、僕は若干息が上がっていた。理由は簡単、坂道を立ち漕ぎで登り切ったからだ。
 図書館に行くルートはいくつかあるけれど、一番の近道は僕が「裏山ルート」と呼んでいる行き方だ。
 かつて通っていた小学校の裏手にある小さな山。その前を通るルートなら、住宅街をそのまま抜けるより十分くらい速い。
 けれども、このルートを使う時に問題になるのが坂道だ。裏山の出入り口前にあるこの坂は若干傾斜が厳しい。いつもの僕ならば無難に自転車を降りて押していくのだけど、今日は調子に乗って立ち漕ぎで挑んでしまったのだ。その結果、坂はいつもより早く登り切れた代わりに、息が切れるのもいつもより早かった。
(慣れないことはするもんじゃないな……)
 自分の体力の無さをもう少し考慮するべきだった。僕はただでさえ同年代よりも体力が無いのに。落ち着け渚、急がなくたって予約した本は逃げていかないんだから……

 裏山に面した道に出る頃には、すっかりスピードが落ちていた。
 ひとまず、裏山の入口付近にある樹の木陰に自転車を止めた。その逞しい幹にもたれかかり、息を整えながら涼む。弱く吹く風にも木の葉は揺らぎ、お互いに擦れてサラサラと軽やかな音を立てる。それが涼しさを引き立てている気がして、思わず息を漏らした。
 呼吸が落ち着いた頃、何気なく山道の方に目をやる。
 整備され、奥まで続いている道や、その左右に佇む樹々を見つめていると、段々と懐かしくなってきた。そういえば、この裏山の前で足を止めたのはいつ以来だろう。
 名前さえ付いていないこの小さな山は、標高も勾配もそれほど厳しくないので、地元の人たちには散歩がてら自然を楽しむ場所として、子供たちからは天然の公園のような場所として親しまれていた。
 それは僕も例外ではなく、小さい頃はこの裏山が友達との遊び場だった。幼稚園の年中から小学校の低学年くらいまでは、友達とよく探検ごっこやかくれんぼをしたし、秋にはどんぐりや松ぼっくり拾いなんかもしたっけ。
 今でもたまに通りかかると、小さな子供たちが山に出入りして駆け回っている姿を見かける。ここは昔と変わらず地元の子供たちの遊び場、或いは秘密基地のような役目を果たしているようだ。
 小学校中学年辺りからは徐々に足も遠のき、中学に入学してからは勉強や家の手伝いなどに時間を取られてしまい、気が付けばすっかり遊びに行かなくなっていた。
 図書館へ向かう時に、相変わらず山の前はよく通る。でも、ここで遊んだ思い出は記憶の片隅に追いやられていたせいか、目には映れど足を止めることはなかった。

 今、ここに訪れたのは全くの偶然だけど、見慣れた景色が目に映った途端、ぽっと火が灯るように懐かしさが生まれた。それは僕の内側に少しずつ、ゆっくりと広がっていき、ふとある思いに駆られた。
 ――――久々に登ってみようかな。
 図書館には早く行きたかったけれど、時間はたっぷりあるんだ。久々に山に登って、自然を味わうのも悪くない。それに、何といってもここは、子供でも容易に登れるほど易しい山。体力の無い僕でも割とあっさり登れてしまう。軽い散策にはもってこいだ。
 自転車では進めないので、とりあえず木陰にそのまま駐輪しておこう。鍵をかけて、キーをポケットにしまうと、リュックを背負い直す。よし、と誰にともなく呟いて意気込み、踏み慣らされた粘土質の山道へ足を踏み入れた。



 最後にここを訪れた時から少なくとも三、四年は経っているはずだ。けれど、山の景観はあの頃とちっとも変わっていなかった。強いて言えば、伐採された跡と思われる切り株が以前より増えている気がするくらいか。
 マテバシイやクヌギの樹々が織り成す雑木林。うずくまるように茂るツツジの葉。苔むした岩。どこかから聞こえてくる鳥の声。なめらかな地面に揺れる木漏れ日。そのどれもが、僕の中に生まれた懐かしさを強めた。
 いわゆる森林浴というのだろうか、山の中には清々しい空気が満ちていた。そんな空気を乗せたそよ風が時々ふっと吹き抜けては、木の葉をサラサラ奏でてどこかへ消えていく。思わず深呼吸すると、爽やかでひんやりした空気が体を巡っていく気がした。
 そういえば森林浴って、植物の出す化学物質のおかげで癒し効果があるって何かの本で読んだな。その手のことにはあんまり詳しくないけど、森の中を歩くと気分転換になるのはそういうことなんだろうな。

 なんてことを考えながらも、引き続き景色を楽しむ。辺りを見渡せば、見覚えのあるものをいくつか発見した。
 ――――あ、あれはよくかくれんぼで使った樹のうろ。小学生くらいなら三人は入れるくらい大きいんだよね。
 ――――あれは小さい洞窟。あそこを秘密基地にしてごっこ遊びをしたっけ。
 ――――それからあの岩。僕らは「とんがり岩」と呼んでいたごつごつの大岩は、誰が一番速く登ってその上で立てるかの競争をするのにもってこいだったなあ。
 何も知らない人からすると、どれもこれも何の変哲も無い自然物。見分けすら付かないだろう。でも、この山で毎日遊んでいる子供たちは、わずかな目印だけであらゆる自然物の見分けが付く。僕も、その一人。

 あれこれ思い返しながら、のんびり山を登っていく。やがて十五分ほど経っただろうか、ようやく山の中腹辺りの或る場所にやってきた。
 朱塗りの少し剥がれ落ちた、それでも大きく立派な鳥居。奥に見えるのは、すっかり寂れて古ぼけた拝殿。
 山道の目印である石畳の途中、脇には手水舎があり、石造りの水溜めと獣か何かの形を模した水道がある。今となっては、水はすっかり干上がっているけれど。
 そう、ここは言わずと知れた神社。確か名前は「大奈神社」だったっけ。
 僕が生まれるよりずっと前から、既に然るべき人々はいなかったというこの神社。本来の役目を失ったここは、今では散歩に訪れる人や山遊びで疲れた子供たちの休憩に使われたり、かくれんぼや鬼ごっこで遊ぶ時に使ったり、すっかり地元の人々の馴染みと憩いの場になっている。ここもまた、かつての僕たちにとっては遊び場だった場所の一つだ。
「久々に来たけど、全然変わってないや」
 呟いて、鳥居の外側から境内を見回す。この景色が当たり前だった頃のことが思い返されて、俄然懐かしさが込み上げてきた。
 今の時間、流石に神社に遊びに来ている子供はいないようで、しんと静まり返っていた。
 まるで、ここだけ別の時間が流れているかのような、不思議な雰囲気。
 そこまで思いを馳せて、ふと思い出したことがあった。

 僕がまだ小学一年生くらいだった頃だったか。友達からこんな噂を教えてもらった。
 『大奈神社の鳥居を、目をつぶったままくぐると異世界に行ってしまう』
 それは、この神社を遊び場にしている子供の間で(まこと)しやかに語り継がれてきた話らしい。
 噂によると、この方法で異世界へ行ってしまった人間は、二度と元の世界に戻ってこれなくなるらしい。異世界へ入った途端に出口が閉じてしまうだとか、異世界に棲む化け物の餌食になるだとか、この世のものとは思えない綺麗な景色に心を奪われて帰る気持ちを失ってしまうだとか、詳細は話し手によって違っているものの、話の大筋は「異世界に行ったら帰ってこれない」ということで一致していた。
 元々そうしたオカルト話を信じやすかった上に、当時幼かった僕は当然その噂を素直に信じ、「鳥居をくぐる時にまばたきしないようにしないと」と幼いなりに細心の注意を払ったものだ。
 もちろん、大人は誰もこの話を信じてなかった。所詮は噂、根拠も無い眉唾話。差し詰め、地元の老人が子供たちの退屈を紛らわす為に作ったお伽噺に尾ひれが付いた程度のものだろう、とこの話を一笑に付していた。

 今思えば、そんな大人たちの意見はご尤もだと思う。
 学校の七不思議とか、都市伝説とか、その手の噂というのは、やはりどこまでいっても信憑性に欠ける。多少分別が付くようになった今ならそう理解できる。
 でも実は、個人的にはあながち全て嘘ではない、とも思っている。
 「火の無い所に煙は立たぬ」とはよくいうもので、その手の噂は何かしら不思議な出来事があったから生まれる、という考え方も出来る。異世界へ繋がる鳥居の噂も、もしかするとそんな経緯で生まれたのかもしれない。
 それに、もしそんな不思議なことが本当に起こったら、それはそれで素敵だとも思う。
 むしろ僕はその異世界が存在するなら行ってみたいとすら思う……なんて、とても他人に言えたものではないけど。

 鳥居を見上げ、しばらく見つめる。それから視線を下ろして、(おもむろ)に頷く。
 異世界、というワードは魅力的だけど、残念ながら結局は噂話。噂を知った当時と違い、噂は噂でしかないと分かっている今は怖くも何ともない。だからこそ、ちょっぴり試してみてもいいかもしれない。
(まあ、本当に異世界に行っちゃったらその時はその時……ってね)
 そんなお気楽なことを考えながら、僕は目を閉じ、一度ゆっくりと深呼吸をした。そして、そっと大股で歩き出し、そのまま鳥居をくぐった。

 ――――五歩ほど歩いてから、止まって目を開けた。
 時間をかけて辺りをゆっくりと見渡す。大股で歩いたので鳥居はとっくにくぐり抜けており、石畳の真ん中くらいに立っていた。視界に入るのは目の前の拝殿、その前に佇む一対の狛犬、横に見える手水舎、絵馬堂に社務所、その他諸々……うん、見る限りは何一つとして変わったところは無い。僕の知っている神社のままだ。
「……あはは、そりゃそうだよね」
 思わず苦笑混じりに零した。心のどこかで「本当に異世界に行けたらいいな」なんて、冗談でも思っていた自分が何となく恥ずかしかった。誰が見ていたわけでもないけど、誤魔化すように境内を歩いてみた。とはいっても、廃神社となったここには見て楽しめるものなんて皆無に等しいのだけど。
 それでも、懐かしさに後押しされて、(やしろ)の周りをぐるりと巡ってみる。
 木造の柱や回廊の床は、風雨に晒され手入れされずにいたからだろう、所々朽ちて腐りかけていた。最近地震も多いのに壊れずにいるのが不思議なくらいだ、そう思いながらゆるゆると歩いていると、社の真後ろまでやってきた。
 本来神社は、社が本殿(御神体を祀る社)と拝殿(参拝するための社)の二つに分かれているのが一般的だという。けれどもこの大奈神社は、この小さな山そのものを御神体としているので、本殿は存在しない形式の神社なのだ、と学校の歴史の先生から聞いたことがある。
 だから、拝殿の後ろにあるのは本殿ではなく防風林だけだった。
 そこは日が当たらないせいで少々薄暗く、土はどこか湿っている。ナメクジやクモが快適に過ごしていそうな場所だ。防風林以外の変わったものは無い、と思っていたのだけど、目を凝らしてみると気が付くことがあった。林の少し奥の方に、何やら小道らしいものが見えたのだ。
 あれ、こんなところに道なんてあったっけ、と首をひねった。神社でよく遊んでいた頃も社の裏手に来たことはもちろんあった。もしも当時から道があったなら、その時に気が付いてもおかしくないはずだ。けれど、当時は小さかったし、遊びに夢中で気が付かなかったのかも。仮に当時から道に気が付いていたとしても、昔のことだしすっかり忘れているのかもしれない。
 とにかく、林の奥に見つけたそこに、好奇心をくすぐられてしまった。腕時計を見ると既に九時を回っている。図書館が開いてすぐくらいだ。
「……急ぎじゃないし、いっか」
 結局勝ったのは、持ち前の好奇心。言い訳をそっと呟き、僕は樹々の間をくぐり抜けた。

 枝が絡み合うようになっていて歩きにくい、と思ったのは最初だけで、しばらくすると視界が開けた。
 そこには何と、並木道がずっと伸びていたのだ。そこからの道は歩きやすく、どうやら人の手で整備されたものだと分かった。だとしたら、この先には何があるのだろう。全く想像が付かないまま、それでも心のどこかに淡い期待を抱いて歩いていくと、見えてきたものに息を呑んだ。
 1mほど先、目に飛び込んできたのは、このご時世には珍しいくらい古風な日本家屋だった。
 それもなかなかに大きくて、家というより軽いお屋敷に近い。それなりに裕福な人でも住んでいそうな雰囲気だ。それが防風林の奥にあっただけでも十分びっくりだけど、よく見ると家の前には人影があり、二度目を(みは)った。
 背が高いその人は、若い男の人だった。
 見てくれは二十代後半くらいだろうか。木漏れ日に照らされた金髪はまろやかに光をはね返して煌めくようで、男性としては長めのそれは頭の後ろですっきり束ねられている。服装は一言で言うとお洒落で、ついでに言えば男の僕ですら見とれてしまうほど整った顔立ちだった。雑誌のモデルか、海外の俳優だと言っても納得してしまう。
 そんなイケメンの金髪さんが、大きな日本家屋を前に何やら思案顔で佇んでいるのだ。不思議と言えば不思議な光景だけど、何だかとても絵になる光景でもあった。僕はまるで引き寄せられるようにその人に近づいていった。すると足音に気が付いたのだろう、金髪さんもこちらを振り返った。
「こんにちは」
「あ、えっと、こ、こんにちは」
 相手から先に挨拶されたので、つい慌ててどもってしまった。知らない人と話すのはあんまり得意ではないのだ。
「もしかして、ここの神社の参拝か?残念だが、神社はかなり前に廃神社になっているようだぞ」
「あ、はい、知ってます。僕、地元なので」
「おっと、そうだったのか。これは失礼」
 金髪さんが軽く頭を下げた。その仕草すらどこか優雅に見える。
「それにしても、よくここが分かったな。ここまでの道、林に隠れて分かりづらかっただろうに」
「えっと、僕も今日初めて気が付いたんです。興味本位で道を辿ってきたらここに来ちゃって……あ、その、勝手に入ってきちゃってすみません」
 今度は僕が頭を下げた。金髪さんがこの家の人だと思ったからなんだけど、当の本人はきょとんとしていた。数秒後、合点がいったように「ああ」と声を漏らし、笑い声を上げた。
「はははっ、謝ることはない。俺はこの家の者じゃないからな。俺も君と同じで、見つけた道を辿ったらここに着いた同類だよ」
 気さくな口調でそう言われ、何だそうだったのかと妙に安堵した。顔を上げ、改めて金髪さんの顔を見る。
 近づいてみてはっきり分かったけれど、金髪さんは見れば見るほど綺麗な見た目だった。髪はもちろん、睫毛まで金色で長くて、とても色気のある目だ。中性的な顔立ち、ってこういう人を言うのだろう。ただ一つ、驚いたのは瞳の色だった。臙脂(えんじ)色、或いは蘇芳(すおう)色というのだろうか、黒か焦げ茶が混ざったような赤、に見える不思議な色をしているのだ。海外の方なのだろうか。それともカラーコンタクトでも入れているのか。失礼かと思いながらも尋ねてみると、
「ああ。ちょいとこちらで仕事があってな。ここらに来てまだ日は浅いんだが、日本語もなかなか達者なものだろ?」
 お道化たようにウインクするお茶目な金髪さんに、思わず微笑んで「はい、とっても」と頷いた。
 ふと、金髪さんがあっ、と声を上げた。困ったように笑って僕を見る。
「すまない、名乗り忘れていた。俺はルキア・アビガイルという者だ。良ければ君の名前も教えてくれるかい?ここであったのも何かの縁だ」
「はい。僕は雨宮 渚といいます。近くの中学校に通ってて、中学二年生です」
「……雨宮、か」
 金髪さん改め、アビガイルさんが何故か一瞬目を丸くした。
「え、知ってるんですか?」
「いや、少し珍しい名前だな、と思ってな」
「アビガイルさんも珍しいお名前ですよね、かっこいいです!」
「ふふ、珍しいとはよく言われるが、かっこいいなんてのは初めて言われたよ。ありがとう」
 アビガイルさんは少し照れ臭そうに笑った。
 それにしても、本当に珍しい名前だ。一体どこの国の人だろう。響きのお洒落な感じが、何だか物語の登場人物みたいだ……なんて思ったのは、僕がそういった類―いわゆるファンタジー系や冒険譚―の小説や漫画が好きだからだろう。
 そこまで考えてようやく思い出し、今度は僕があっ、と声を上げる。危うく本来の目的を忘れるところだった。
「どうした?」
「すみません。僕、この近くの図書館に用事があったんですけど、寄り道しすぎちゃって……そろそろ行かなきゃ」
「図書館か……調べものかい?」
「予約していた本を借りに行くんです。あと、期末試験が近いので少し勉強もします」
「おお、真面目だな。頑張れよ」
「ありがとうございます」
 励ましをくれたアビガイルさんに会釈する。
「……せっかく知り合えたのにもうお別れとは名残惜しいが、また会えるといいな」
 顔を上げると、アビガイルさんは微笑んでいた。初対面の人に向けるには、どこか親し気で、優しい印象の笑み。ただでさえ端正な顔立ちの人が柔らかく微笑むものだから、思わずどきっとした。

 ――――次の瞬間。信じられないことが起きた。

 ザアアッッ……アビガイルさんの背後から、激しい風が吹きつけてきた。木の葉が舞い、視界が悪くなる。
 あまりの突風に反射的に目を(つぶ)り、顔の前で腕を交差させた。何が起きているのか理解もままならないうちに、体がふっと浮いているような、不安定な感覚に襲われる。くらっと眩暈を感じるのと同時に、彼の声が風の向こうからはっきりと聞こえた。
「――――また会おう、少年。その時まで、達者でな」



 ――――風はすぐに止み、静かになった。
 恐る恐る目を開けて、我が目を疑う。そこは、さっき日本家屋があった林の奥ではなく、大奈神社の鳥居の前だったのだ。
(あれ……?いつの間にここまで戻ってきたんだろう?)
 さっきまで確かに、お屋敷風の家の前でイケメンの金髪さんことアビガイルさんと喋っていたのに。話に区切りがついてから一分と経たずにここにいるのも、自分で歩いてここまで戻ってきたような感覚が無いのも、何とも奇妙だ。現実感の無さに若干混乱する。
 もしかして、もしかすると、僕はあの瞬間、本当に別世界に行っていたのだろうか。あのおふざけみたいな噂の通りに。
 いやいや、まさか。あり得ない、と即座に考えを打ち消す。いくら何でも突拍子が無さすぎる。あれは単なる都市伝説や怪談みたいなものなのに。確かにさっき会ったアビガイルさんは、どこか浮世離れした雰囲気を感じなくもないけれど。きっと気のせいだろう。ただの美人な外国人、で十分説明できる。
(こういう、何て言うんだっけ……)
 白昼夢。そう、きっとそれだ。或いは知らないうちに、異世界ではなく自分の妄想の世界に浸っていただけかも。それもそれで変な話だけど、そっちの方がいくらか現実的だ。
 どれだけ理屈をこね回しても腑に落ちないのは否めなかったけど、これ以上考えても仕方ないと一旦諦める。気を取り直して時計を見ると、九時ニ十分くらい。そろそろ本来の目的地に行かなきゃ。
 神社に背を向け、山道を下る。下りながら、遠ざかる鳥居をちらっと振り返る。
 本当に一体、あの一幕は何だったのだろう。どうせなら、あの金髪さんともうちょっとお喋りしておけば良かったかなあ……なんてね。
 理解はできなかったけれど、僕の心には例えようのないわくわくした気持ちがじんわり広がっていた。不思議の尻尾をほんの少しでも掴んでいたのかもしれない。そう考えると無性に心が弾み、頬が緩んだ。
 登った時より心なしか足早なのは、きっと下りの道だからだけではないだろう。僕は軽い足取りで、山を後にした。



◇◇◇

【天の都】―ウェザーユートピア―  第一章:慈雨の救世主

【天の都】―ウェザーユートピア―  第一章:慈雨の救世主

「天の都」…それは「天気」の魔法が秩序を守る不思議な世界。 自分の父がその世界で賢者と呼ばれていること、そして自分は、その世界と己の世界を救う救世主であることを知った少年は、相棒の魔物や仲間と共に旅に出る。 その中で少年は悩むであろう。 人間が生きている理由に。人間が世界を穢しているその矛盾に。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-01-26

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  1. Prologue
  2. 第一部 夏の日の出会い