『ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢』

 東京都美術館のホームページにも掲載されているとおり、今回の『ゴッホ展』はフィンセント・ファン・ゴッホの作品を後世に伝えるのに多大な貢献を果たした弟、テオドロス・ファン・ゴッホ一家の活動にスポットを当てるものである。
 画商であったテオが、売れない画家であったゴッホの生活を支えていたという事実は絵画史に疎い筆者でも一度は聞いたことがある話であるが、兄が拳銃自殺を果たしてからその半年後に病死したテオの元にあった義兄に関連する膨大な作品や資料などを整理し、展示会の開催や、時期を見誤らない作品の処分といった適切な管理を行なって「フィンセント・ファン・ゴッホ」の名を世界に知らしめたテオの妻、ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル(通称名はヨー)と二人の息子、フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホの財団事業こそ、その後に展開する近代美術の未来にゴッホの姿を映し出すことに成功した大きな要因だったことを筆者は本展を通じて初めて知った。いわゆる後期印象派以降の近代美術の歴史がゴッホ財団の活動基盤となり、生前のゴッホが語った「音楽のように、長きにわたって人々の心を癒し慰めたい」という夢を叶えたという事実はゴッホという画家が人生の終盤に差し掛かるにつれ、孤独の色合いを深めていったという史実と並べると慈愛と救済の意味合いが強まって、思わず感傷的になってしまう。このようなゴッホ財団の活動を踏まえ、本展の構成も画家として歩み出すゴッホがどういう作品から学び、どのような影響を受けて彼ならではの画風を打ち立てるに至ったかに焦点を当てたりとゴッホの画業を追うことに展示会としての力点が置かれている。
 そんな本展の鑑賞を終えて筆者が強く思ったのは、フィンセント・ファン・ゴッホがどこまでも発展途上の画家であったということ。あくまで素人の感想として綴れば、素描や画面構成あるいは色彩表現といった絵画の技法に関してゴッホがお手本にしたものと見比べる限り、彼自身の作品表現の多くはどうしても習作という印象が拭えなくて、「以前よりはこういう事が出来るようになった」という喜び以上のものを画面から感じ取ることができなかった。
 そんな中で出会う彼の自画像は実にゴッホらしい色彩豊かな表現っぷりで、広報にメインで使われるのにも納得の素晴らしさ。しばらくその目の前で足を止めて、鑑賞すれば「うん、うん!これこれ!」と頷ける満足感に嬉しくなる。さて、と気持ち新たに展示会場を巡ろうとしたら、けれど途端に出くわす彼の言葉。自画像について積み重ねられる否定的な評価は、その全てに納得できていない画家の不満の表れとなっていて面食らう。
 ゴッホは自らが欲するものと、実際に描けるものとの隔たりを埋めようとしても埋められないことにずっと苦しむ未熟な画家だった。一度でも頭に思い浮かべば拭い去ることが難しくなるこの疑問は、ゴッホのあれやこれやに余計なフィルターをかけだす。例えば弟に宛てた手紙。その文面で彼は「未熟さを上回る絵画の革新性が自分の絵にはある」と告げていたが、あれも不安混じりの強がりだったのではないかと思えてくる。ゴッホといえばアルル時代、といっても過言じゃないのにかかる時代に描かれた作品もどこか中途半端に見えてしまう。会場を進むにつれてどんどん揺らぎ出す偉大なるゴッホという評価基盤。やばい。どうしよう、どう見ればいいんだろうと不安を抱えて辿り着いたのが精神療養に取り組んでいた頃の作品群。本展のハイライトに相応しい展示コーナーだった。
 そこに描かれているのは病院の外を歩く時にゴッホが履いていたであろう靴、農作業に勤しむ人々、オリーブ園や生い茂る麦の様子、一軒家を中心に置いた農村の風景といったこれまでも描いたりしたであろうモチーフばかり。
 なのに、それまでとは一変して「こう描きたい!何故こうならない!?」というような未熟な画家の苦しみや嘆きの兆しを幻視することすらできない、なんともいえない絶妙な力加減で全てが表現されていて、フィンセント・ファン・ゴッホにしかなし得ない絵画表現として目に飛び込んでくる。《オリーブ園》、《一日の終わり(ミレーによる)》、《農家》、《麦を束ねる農婦(ミレーによる)》、《塀で囲まれた麦畑の向こうの山並み》と何度見返しても融通無碍な筆致で、いい意味で狙いがなくて、ずっと観ていたいと思えるものがその時代にばかり集中していた。とても意地悪な言い方になることを承知で記せば、精神が不安定になった分、いい塩梅に薄まった画家の自意識に、絵筆が素直に応えるという良き関係性が「初めて」そこで成立していたように筆者は感じた。人生の終盤に差し掛かって図らずも探り当てられた創作の金脈。それが存分に流れ込んだ作品に宿る唯一無二の価値にも、もしかしたら画家は満足できなかったのかもしれない。けれどその輝きをしっかりと見定めた義妹がいて、甥がいて、設立された財団があった。夢の方舟の底を確かなものにした画家の内省、その素晴らしさに感動を覚えた一人としては賞賛を惜しまない。
 作品だけが栄光の全てを味わうという意味で、芸術家の人生は本当にままならない。描く側と観る側、伝える者と受け取る者の巡り合いが描く複雑な軌跡に思いを馳せてしまうのもまたゴッホという画家の魅力なのだろう。
 表現することの意味と価値という絵画における核心的な部分についてはゴッホ以外にもエルネスト・クォストの《タチアオイの咲く庭》やポール・シニャックの《フェリシテ号の浮桟橋、アニエール》、モーリス・ド・ヴラマンクの《ナンテールのセーヌ川》といった珠玉の絵画たちが会場内で声音を変えて物語っている。副題にある『家族がつないだ画家の夢』は今もなお生き続ける約束なのだ。
 本展の展示会場は東京都美術館、開催期間は12月21日まで。興味がある方は是非。あなたの中で息づく「ゴッホ」観を刷新させて欲しい。

『ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢』

『ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢』

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-09-25

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