【ハロウィンパーティーの招待状(後)】
博士、登場
鬱蒼とした森の中にひっそりと佇む古びた屋敷は、外観の年期に反して蔦も蔓も貼りついておらず、ただ時だけが経ち風化していったように見えた。入り口にある門は開きっぱなしで、少し押せば錆びた蝶番が悲鳴をあげた。窓から見える室内は点々と燭台の蝋燭に火が灯っており、無人ではないことを示している。加えて、ほとんど手入れのされていない庭にも、白い薔薇の咲くところだけは不自然に整然としていて、人の住んでいる形跡があった。
にやりと口角を上げ、汚れた服の男は、嬉々として扉を開け屋敷の中に忍び込む。始めこそやつれた表情をしていたが、男は徐々にその目の奥に欲望や期待を含んでいく。
幽霊屋敷。男はそう聞いていた。数百年の歳月を経たというのに、屋敷の中は埃まみれではなかった。やはり、幽霊が住んでいるのだ。
中に入ると、まず広い吹き抜けのロビーに出た。上へと続く階段は年季が入っているが手入れがされていて、やはり人の住んでいる気配がある。
手始めに近くにあった部屋を覗いてみる。灯りのない部屋だが、ロビーから差し込む光でかろうじて目視できた。部屋の中は、蜘蛛の巣が張り、埃もそのままで生活感がなかった。壊れた家具や置きっぱなしの蝋燭が目についた。
男は足音静かにその部屋へ忍び込む。荒らされた形跡がある。何か怪しいものはないかと、男は部屋を見回した。
「誰?」
急に背後から声がした。一瞬背筋が凍った。男は身震いをした。恐怖とともに好奇心を駆り立てられたのだ。
「なんと、驚いた。こんなところに人間の少女とは」
いや、ここは幽霊屋敷だ、と男は思い直す。
「(一見ただの少女だが、これも消えたり襲ったりしてくるのだろうか)」
侵入者の男を見つけたのは魔女だった。男はじっと魔女から目を離さない。じろじろと見られるのは居心地悪いが、それが奇異や卑猥な視線でなく畏怖や興味のようで、魔女は面白そうだと直感した。
男は汚れている。少し大きめの白衣はあちこち破れ、泥や煤とは違う何かで汚れ、ポケットには見慣れない道具が入っている。頭には何かベルト状のものが巻かれており、ぼさぼさの緑の髪はそれのせいで余計にぼさぼさになっている。髪と同じ緑色の瞳をし、目には深い隈を作っている。香水とも違う変わった香りをまとっていて、年の頃は二十代半ばだろう。男は片手に持っていた小さいノートを開き、使い込んだ万年筆で何かを書き始めた。
「もしかして幽霊屋敷だって噂で来たの? 荒らしたら怒るよ」
「噂で駆けつけたことには違いないが、荒らすつもりはない。私は物盗りではないよ。私は幽霊に会ってみたくてね!」
魔女が先に問うてみるが、意外なほど元気で少年のようにはきはきした声が返ってくる。好奇心を前面に隠さず向けてくる男の態度に、魔女はくすりと笑った。これなら幽霊を怖がらないなと安心したのだ。
「いいよ。案内してあげる! こっち!」
踵を返し、魔女はおいでおいでと手招く。男は好奇心を抑え込みながら、悟られないようにゆっくり歩きだした。
「(面白い。これは、面白い)」
男は次第に早足になり、魔女に近づく。
「(この少女は幽霊だろうか。見たところ、ただの人間のようだが)」
「ねぇ、お客さんだって」
『あら、いらっしゃい』
広いロビーに優しく不気味な声が響く。ゆるりと冷たい風が吹き、何もない空中に、ふわりと霞のように白い塊が現れ降りてくる。白く霞んだ人のようなシルエットは、半透明からしっかりと一人の女性として型を取り、一人の白いワンピースの女性として姿を現す。男は大きく見開いた瞳をさらに大きく見開いて、肩を震わせた。
「はは……くくっ、本当にいた……本当にいたのか!! 素晴らしい!!!」
男の高笑いと大声に、出てきた幽霊も魔女も唖然とした。
「可視化してくれるとはありがたい! 肉体は滅び魂だけの存在。死して尚この世に留まり顕現したモンスター、それが幽霊! 姿かたちは自由か。それは生前の姿かね? この幽霊屋敷、周辺の霊魂を巻き込んでいるあたり、相当数の死霊が巣食ったモンスターハウスだと思ったが、そうではないのだな。ともすると君一人の力か。ふふふ……いいねいいね、どれほどの怨恨の持ち主か……。化けて出ているのは君だけかね? この少女は君の使いか? どういう関係にある?」
じろじろと遠慮なく幽霊を観察する男に、魔女と幽霊は顔を見合わせた。
「楽しそうな、お客さん、ね?」
「でしょ?」
楽しげに答える魔女に、目を細めて、幽霊は微笑む。彼女は少し考えたようで、ゆるりとした微笑みをそのままに、上品にお辞儀をしてみせた。男も、見た目に反してきちんと会釈を返す。未だに目を爛々とさせ、男は鼻息荒く、自分が科学者だと、研究をしている身だと熱く語った。
「生命の研究の一環で、魂と肉体の定着に関しても研究が必要だった。ここが幽霊屋敷だというのなら、相当数の研究例があると思ってな!」
「さすが博士さんね。よかったら、もっとお話を聞かせて」
幽霊は生命の研究者であると、博士であると名乗り語る男をダイニングへと案内して、三人分の紅茶を入れて、それぞれ着席した。男は最初こそ一口紅茶を含んだが、あとは弾丸のように喋り続けた。幽霊も幽霊で、嬉しそうに男の話を聞いた。
「なるほど、君は実体を持つことも可能なのか! 実際目の当たりにすると大変興味深い! 幽霊や霊魂といったものは元から実体があるものと実体を持たないものがあると思っていたが、そうではないのだな! 答えてくれて感謝する!」
「わたくしも嬉しいわ! こんなに興味を持っていただけるなんて。心が踊って生き返ったようだわ」
幽霊も、この状態——肉体のない魂だけの——になってからというもの、ここまで自分に純粋な興味を向けられたことはなかったと答えた。楽しそうに話す幽霊を見ながら、傍らの魔女はふと口を開く。
「ねぇ、そんなに気に入ったんなら、しばらくここにいる? あいてる部屋もあるし、泊まってけば?」
「それはありがたい!」
「そのままここに住んじゃったりしてね」
「まぁ、それは良い提案ね。わたくしも話し相手は多いほど嬉しいわ」
「あはは、即決。幽霊らしい」
魔女の案に、幽霊は顔を明るくする。少し遅れて、男も声を荒らげた。
「住み込みか! 願ってもない!」
「博士さん。そのかわり、ここに住むのなら、わたくしの話し相手になってもらうわ。少しのお泊りなら良いけれど、住むとなっては話は別よ」
幽霊が少しいたずらっぽく笑うので、博士もあわせて、また殊更大声で力強く答えた。
「あぁ、勿論、問題ない! むしろ私こそ大歓迎だ!」
楽しそうにする二人のやりとりを眺めながら、満足げに、魔女はくすりと小さく笑って呟いた。
「人魂にならないようにね」
博士と名乗った男はにやりと笑って返事をすると、頭の中に次々と湧いてくる言葉をそのまま口にするように、興奮して喋り続けた。
「あぁ、なんて最高な環境なんだ。幽霊でも君は基本的には実体のない類だね。肉体はいつなくなった? いや、まず今の能力が知りたい。そもそもモンスターなんて、噂も書物も当てにならん。この目で見ないことには信用ならない。ぜひとも君のことがもっと知りたい! あぁ、なんて最高なんだ。色々と聞きたいことがあるのだが、その前に、住むにしても私は科学者だ。研究のための部屋がなくてはならない。どこでもいい。部屋を貸していただきたい」
「えぇ、部屋ね。ロビー前の部屋はいかがかしら。魔女ちゃん、お願いしてもよろしい?」
「はーい、任せて」
「魔女? 君は魔女なのか?」
「そうだよ」
「……す、素晴らしい! アメイジング!! 生まれながらにして強大な魔力を持つ人間離れした者、それが魔女! あらゆる魔法を使いこなす天賦の才は生まれながらなのか? ぜひとも君からも色々と話を聞きたい!」
「その前に、ここに住むなら、もう一人、紹介しとくね」
興奮覚めやらない男を尻目に、どこか含みのある笑みで魔女はくすりと笑った。
「幽霊と魔女だけではないのか」
「んふふ、ついてきて」
魔女は楽しそうに博士の腕を引いて、その場から立ち去った。
「歓迎会でもしようかしら。紅茶はまだあったかしら」
二人を見送ってから、幽霊は滑るように廊下を歩いて独り言を呟きながら、宙へと霞んで消えた。
かたや二人は屋敷内に騒々しい足音と声を響かせて、とある部屋の前までやってきた。博士は形ばかりのノックをして返答を待たずドアを開ける。中はほとんど灯りがなく、差し込むわずかな光で図書室のような場所だと分かる。ひょこりと博士の白衣から姿を現して、魔女は大きい帽子に手をついて、くるりと回って部屋に入っていく。手慣れた手つきで魔法を繰り出し燭台に火をつけていけば、部屋は優しく明るくなった。
「彼は、吸血鬼。彼もここの住人」
面白そうに笑って、魔女は吸血鬼の座る長ソファにともに腰かけた。
「ほらほら、ご挨拶」
嬉しそうに催促をする魔女とは対照的に、吸血鬼は二人を見上げて固まったように動かない。事態を飲み込めずにいる様子だった。博士が勢いよく手をつくのでソファの背もたれが驚いて低い呻き声をあげる。博士は緑の瞳を輝かせて張り切って話しかけた。
「もう一人は吸血鬼か! なるほど、赤い目に長い耳という俗説は本当だった! 生と死を超越し、そのどちらにも属さない不死を生きるモンスター、吸血鬼! 人間の生き血を啜り、死なず老いない肉体を持つ。その無尽蔵の生命力はどこからくる?!」
「……」
呆気に取られてぽかんとする吸血鬼は、助けを求めるように魔女を見たが、彼女は楽しそうに笑っていて味方になりそうにない。博士はいくらかモンスターについて語ると、魔女の方を振り返り、ソファから歩きだし、図書室の本棚を眺めながら語った。
「言っただろう? 私は生命の研究者だ。人間が生命を作り出すなんて、できると思うかい? それも、究極の生命を。それが、できてしまうのだよ。私にはできてしまう。しかし、まだ足りないのだ。知識も、材料も、足りない! 君は吸血鬼で、君は魔女だ。これ以上研究に相応しい場所と人材はないと思わないかね?! たかが幽霊屋敷ではない! ここは最高の研究室だ」
博士が楽しそうに大声を上げる傍で、吸血鬼は手元に開きっぱなしだった本を静かに閉じた。一度だけ二人を見やるも、興味なさそうに吸血鬼は部屋を出ていこうとした。が、二人が逃がすわけもなく、魔女は吸血鬼の服を掴んで引き留める。
「なんだ」
「どこへ行くのかね? 話はまだ終わっていない!」
「そうよ、自己紹介して! 一緒にここに住むかもしれないじゃない」
「なんだと」
魔女の一言に吸血鬼が反応する。表情はあまり変わらないが、嫌そうなことは伝わった。
「あはは、嫌そう!」
「よろしく!」
二人の嬉々とした様子に長い吐息を漏らして、吸血鬼が二人を部屋の外へと促すので皆で図書室を後にした。
「どこに行くの?」
「幽霊はこいつを許したのか」
「うん、さっき話してきた」
「先程の幽霊君だな! あれで生きているのだから驚いた」
「はじめはビックリするよねぇ。生きてないけど」
「面白くなってきたぞ! まずは幽霊だ。次は魔女、君だ! 君の魔法も恐らく知らないことだらけだ。存分につきあってもらうぞ」
「あはは、退屈しないならいいよ」
「やかましい……」
吸血鬼は先が思いやられたようで、頭を抱える。博士は魔女と吸血鬼に楽しそうに話をし、観察眼を研ぎ澄ますように目をぎらつかせた。それはまるで、宝物を見つけた子供のように無邪気で、残酷なほどに純粋な好奇心を孕んでいた。
博士の物語
≪それ≫を思い出したのは十五の時だった。
私の家はとある国の貴族の名家だ。そこそこ地位のある家に第一子男児として生を受け、健康優良児としてスクスクと育った。あらゆる物に興味を持ち、あらゆる物に手を出した。そして、あらゆる物に疑問を持っては大人達に質問した。大人でさえ答えるのに困る質問をする私に困った両親は、私が三歳の時に家庭教師をつけた。貴族子息としても早い方だ。王族とて三歳で家庭教師はつきはしない。親がどれだけ困っていたのか、よく分かる。
しかし、私の好奇心と探求心は止まらなかった。何人も家庭教師が変わり、五歳の頃には国で一番の学者と呼ばれる者が家庭教師になったことで察することができるだろう。
私が特に気になっていたのは、錬金術と科学だった。自分でもなぜその二つなのかはわからなかった。極めなければならないと、無意識に思っていた。家庭教師が来ない日も書庫室に籠り、本を読み漁った。
十歳になる頃には、家の書庫室の本は読み切っていた。家庭教師のツテで国一番の蔵書数でありながら許可証がないと入れない王室図書館に入る許可証を得てからは、毎日のように通っては読み漁った。国で一番の学者の教え子として注目を集め、王族と面会もした。そこで、子供とは思えない受け答えに覚え良く第二王子殿下の側近にという話も出たらしい。父は喜んでいたが、母は不安そうだった。
私には、二つ年の離れた弟と五つ年の離れた義妹がいた。兄弟仲は良好だった。弟は私を目標に勉学を励み、義妹は貴族令嬢として磨きを上げていった。
私の社交界デビューが済むと、あちこちから婚約申し込みがきた。貴族の家格は申し分なし、学もある、見目も良い、何より王族と繋がりがある。申し込まない理由がないと言ったところだろう。しかし、父は私と義妹を婚約させようとしていた。
それは困る。誰も知らない、私の好意をよせている相手。その者を見た時から、将来は決まっていた。今や親友として共にいるが、私は狙っている。彼に自分への友愛を愛情に変え、共に歩む。今まさにそれの最中なのだ。誰とも婚約する気はない。彼も少なからず私に想いがあるのは知っている。あとはそれを強い想いに変えるだけ——あと少しなのだ。
彼と出会ったのは母に連れられ出かけた商店だった。父親の手伝いをする彼を見た瞬間に感じた。彼とは前世の頃からの運命であり、今世こそは、と強く思った。
私はすぐに声をかけた。知り合いになり、何度も手紙のやり取りをし店に顔を見せ、店以外でも会うようにし、彼に私という存在を刻みつけていった。怖がらせないように、でも確実に私の存在を特別なものへと変えるように、彼の心に刻みつけていく。
十五になり≪それ≫を思い出し、この想いの強さがなぜなのか、なぜこんなに彼を求めるのかが解った……。私と彼は前世では友愛で終わっていたからだ。
だが、今世ではそのつもりはない。彼との絆を深めるために努力した。その甲斐あってもう、あと少し……。
時間も残りわずかだ。いつ婚約させられるか、分からない。だから、我慢するのは止めることにしよう。
誰にも邪魔させない。
彼と共に生きる為なら…
彼を手に入れる為なら…
なんでもしよう…。
恐らく母が感じていた不安の種は、これだろう。
【欲の強さ】
それは人でも物でも変わらない。欲しい、知りたいと思った事柄への探究心や知識欲、物欲の強さは幼い頃からだった。それを目の当たりにしている母は感じたのだろう。母の私に対する接し方は弟や義妹とは違い、少しよそよそしいことからも察せられる。
母は一度も私に「次期当主として」など言わない。つまりはそれが全てだ。私を当主にする気はないのだ。
「…誠に賢いな…我が母は。私を当主にした瞬間、家は潰れる未来しかないからな」
私は家を盛り立てる気も、執着もない。貴族として生まれて幸運と思ったのは、学ぶことへの制限がかからなくなることくらいだ。後のことは煩わしい。やれ、教養だ。やれ、マナーだ。やれ、貴族同士の繋がりだ。やれ、高貴な血を残すだ。様々なしがらみが私にとっては煩わしいことこの上ない。
私はただ、知識欲を満たせればそれでいい。
人はなぜ生まれ、なぜ死ぬのか? どこからが生で、どこからが死なのか? どこから生まれ、どこへ還るのか?
魂とは? 生命とは?
人間とモンスターの違いは何か?
魔法とは? 魔術とは?
人体の仕組みは? 私達が立っているこの地はなんなのか? 空に広がる景色は? あの星々は? 月は? 太陽は? 空の彼方にはなにがある? 海の底にはなにがある? 大地の先にはなにがある? 私達が立っているこの大地はどこまで続いている? この大地の形はほんとに平らなのか?
知りたい、もっと知りたい。
この世のことを、もっと知りたい。
私は貴族という狭い檻の中に閉じ込められるわけにはいかないのだ。それに、私は既に人生の伴侶を決めている。私は義妹との婚約を結ばれる前に父に宣言した。
「父よ、私は家を継ぐ気はないので義妹の旦那になる気は、ない」
父は呆気に取られていた。見事な間抜け面だ。父の隣で仕事の報告をしていたであろう執事長は頭を抱えている。彼は私が幼い時から一番私の被害を受けているから、さしずめ今の感情は「またか」だろう。
父の言葉を待たず、間抜け面を晒している父に言葉を続ける。
「私には既に心に決めている伴侶がいます。いやまだ落としてはいないのですが、彼は私を好いているのは分かる。今までの努力の賜物というやつですね。彼を観察し好感を持つ行動や言動を繰り返した結果です。これは動植物の観察に似ていて、まさに研究…そう、つまり研究の成果なのです!! おっと、話が逸れた……まぁ、そのうち父には私の旦那を紹介するのでご安心を。とにかく義妹とは結婚しませんよ。あと、義妹と弟は恋仲なので結婚させるならそっちのが良いと思います」
「……」
「父よ、返事は?」
困った。父が固まっている。間抜け面のままで。私は執事長に目線を向けた。
困った。執事長は頭を抱え過ぎて表情が見えない。黙ったままの二人に私は話しかける。
「返事がないということは、肯定ということでよろしいか? 肯定してもらえて良かった。では、これで失礼します」
時間を無駄にするわけには行かない。今は一分一秒でも長く彼に私を刻みつけ結婚しなければならない。私以外の存在に余所見させてはいけない。
「ふむ、これが独占欲か……素晴らしい。やはり私に彼は必要だ」
初めて感じる独占欲に私は笑みを零しながら部屋を後にし彼の元へ向かった。この後、家が混乱に陥るとは予想すらしていなかった。そんなことはどうでもいいが。
それから数日後、私は彼と無事に恋仲になった。告白は彼からだった。情熱的な告白に胸がときめいたのは、死ぬまで忘れないだろう。
家は今、大変らしい。私が言った弟と義妹が恋仲になっているというので、父がことの次第を問い正し、白日の下に晒された。使用人も母も知っていることを今更晒したところでどうしようもないとは思うが……。父の考えていることは昔から理解し難い。どうしても、義妹と私を結婚させ私に家を継がせたいのだろうが御免蒙る。
だから、さっさと知らせることにした。
私は父と母、弟と義妹を集めた。彼氏を連れて現れた私に父は既に顔色が悪い、まだ何も言っていないのにおかしな人だ。母は無表情、弟と義妹は私が父に自分達の関係を暴露したのをまだ怒っているようだ。あんなに堂々と逢瀬を重ねていたのにバレていないと思っていたらしい、知能の足りない二人だ。
席につき、私は建前の言葉を伝える。
「本日はお集まりいただき感謝する。さて、前置きはこれで終わらせてお伝えする。私は隣の彼と結婚する、以上」
知らせたので帰ろうと思ったのだが、父がそれを許さなかった。
「待ちなさい。お前の結婚相手は既に決まっている。それはお前も分かっていただろう」
「察してはいましたが、了承はしていません。だから、弟との関係も止めませんでした。家を継ぐ気もありません。私はやりたいことがある」
「やりたいことだと?」
「はい、私は知識欲を満たしたいのです。この世の全てを知りたいのです」
「何を馬鹿なことを……」
「(あぁ、やはりか)」
父の言葉に私は黙る。呆れと失望。父への想いが消えていく。
この凡人とは一生分かりあうことはないだろう。彼との円満な結婚のためにも知らせたが、無駄だったようだ。
私の胸中など知らず、父は続ける。
「研究などと馬鹿馬鹿しい。そんなことは学者に任せればいいだろう。お前は公爵家の人間……貴族なのだ。この家を継ぎ盛り立てお前のような優秀な子孫を残すことが、お前のやるべきことだ。我儘はやめなさい」
「はぁ……やはり理解し得ぬか、思考を停止した凡人は…」
「……今、何と言った?」
私の言った言葉が聞き取れなかったのか、信じたくなかったのか、父は聞き返してきた。
「なんだ? 思考だけではなく耳も悪いのか。ならば、もう一度言おう。私がする行動により私が継ぐよりもより良い利益が出るのも理解できない、過去の慣習に囚われた凡人と言ったのだ」
「……っ…なっ…」
「はて。私はなにか間違ったことを言ったかな? 私を先程から優秀だ、優秀だと述べるくせに、この狭い檻の中に閉じ込めようとする。私が優秀たり得るのは、制限なく自由に知識欲を満たすための行動をしているからだ。しかし、この家を継いだらどうなる? 制限がかかり、自由に知識欲を満たすことはできなくなる。確かに私は頭がいい、適度に家を存続させることはできるだろう。だが、存続させるだけだ。盛り立てはしない。やりたいことができないのだから当然だ。知識欲を満たすということは、自由に動き回れるからできること。枷がついては、できはしない。ここまで理解はできたか、凡人?」
私の優しく分かりやすい説明に父の他、母や弟と義妹は黙る。愛しい恋人は笑顔で私を見ている。ほんとに素晴らしい恋人だ。私は続けて説明する。
「私を優秀だと言うのならば、家を盛り立てろと言うのならば、私を家に縛りつけず自由にすることだ。そもそも、今まで散々私の恩恵を受けてきた状況を思い出せば分かるはずだ。自由にさせたからと、なぜ分からない。これだから、理解力のない凡人は困る。私を自由にさせ、好きな研究をさせることで恩恵が今後も得られると、なぜ分からない。至極基本的なことだ。そして、幸いこの家には男児がもう一人いる。弟も私に劣らず優秀だ。私が保証しよう。そして、義妹と恋仲だ。まだ孕ませてはいないみたいだが、時間の問題だろう。私と結婚させても浮気するのはすぐ分かる。私もする。私が愛を捧げるのは、隣にいる彼以外有り得ぬからだ。とすれば、何が一番か……解るね? 凡人よ」
「……」
父は静かに弟を見て、義妹を見た。二人は顔を青くしている。
そうだろう。今の私の発言は「二人は既にヤっている」と言うことだ。さすがに母もそこまで思わなかったのだろう。二人を見た。本当に似た者夫婦だ。おめでたい頭をしている。二人が憎々しげに私を見るので、忠告のために言っておく。
「言っておくが、二人がそういう仲だとこの家にいる者ならば知っている。母もだ……が、一線を越えているとは思わなかったようだな。しかし、考えれば判ること。年頃の恋仲の二人が一つ屋根の下にいるのだ。ヤるに決まっている。孕んでいないとは奇跡だな。いや、既に孕んでいるか? 最近もヤったろう? バレたことにより更に燃え上がったか? 安心しろ、私でもそうなる。ちなみに昨夜もヤった」
「そこまで報告しなくても……」
ここに来て挨拶以来、ずっと黙っていた彼が零すように言った。
「これくらい直接的に言わないと、凡人には理解できまいよ」
「相変わらずだね、君は……」
そう言って隣の彼は私を見つめて微笑ましそうに、けれど照れたように笑うのだ。
「(ふむ、性行為を誰かに言うと照れるのか……なるほど、覚えておこう)」
彼の新しい一面を発見できて喜びを感じながら彼を見つめる私は、弟達の顔が更に青くなっているのに気づかなかったし、父が怒りを耐え、母が顔を白くし頭を抱えているのも気づかなかった。私に見つめられている彼は照れながら目を逸らす。
「…照れているのか? 面白い…」
「…頼む…見ないで…」
「もう少し観察させてくれ」
「……もう…」
彼の照れている姿を堪能していたら、父から邪魔が入る。私は冷めた気持ちで顔を向ける。
「それで、弟と義妹の結婚と弟が家を継ぐことと私と彼の結婚を認めていただけますね?」
私の再確認に渋い顔をしながら頷き言った。
「……分かった…認めよう…」
「理解いただけて、なにより。ありがとうございます、父よ」
救いようのない凡人ではなかったようだ。
無事に当主の座を免れることができた私は、荷物をまとめ家を出た。もともとあまり家に帰っていなかったが、無事に問題を解決したことで家に帰る理由はなくなった。
家を出る時、弟が久方ぶりに話しかけてきたのは今でも驚きだ。どうやら私に劣等感を抱いていたらしい。弟もそこら辺の輩と比べたら優秀なのだが、天才が側にいると霞むというやつだろう。馬鹿な弟だ。
「その天才である私が、お前を優秀だと言っている。それ以外の輩の言葉は必要か?」
そう言葉をかけた時の驚きの顔は、愉快だった。まさに鳩が豆鉄砲を食らったような顔だった。最後は晴れやかな顔で見送ってくれた。
これでもしもの時は家の力を惜しみなく使える。悔恨は残すものではないからな。
家を出て三年……——
私は実験するために作った別荘に住んでいる。そして、今そこで歓喜に打ち震えている。
「……さぁ…まずは挨拶だ…。はじめまして」
「………ぁ…めま………っ、て?」
「音は出ているから声帯は問題ない。滑舌の問題か? 私の言葉は理解しているようだ。よし、もう一度だ。はじめまして」
「…っぁじめ…まぁちて」
「素晴らしい!!! もうここまで言えるようになったのか! 素晴らしいぞ!!! さすが私が作った生命、いや子供と言うべきか! 素晴らしいぞ、我が子よ!!」
「……こ…?」
私は前世の記憶を思い出してからの第一の目標、生命の誕生を成し遂げた。この別荘で旦那からの支援を受けながら遂に成し遂げたのだ。
この三年で旦那は私が発明した器具を元に商会を巨大な組織にし、商会トップに立って私の支援をしやすくした。私の実家も爵位を上げ領地経営も順調らしい。後ろ盾は問題ないということだ。
その安全な環境で実験に没頭し、今、生命が誕生した。
夢への一歩が進み始めた音がした。これから更に、心躍り興奮だらけの日々になるだろう。今、目の前にいる我が子に知識を与えるためのプログラムを考え、ニヤけた。
そうだ。これは小さな一歩にすぎない。
幼い頃から内に潜む尽きない知識欲が、今もなお形を変えて静かに渦巻いている。
もっとだ。私が求めているものは、これだけではない。私が知りたいものは、これだけではないのだ。
生命とは? 生まれるとは?
生とはなんだ。死とは、なんなんだ。
知りたい。
もっと知りたい。
もっともっと知りたい。
知りたい…
知りたい、知りたい…
知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りた
い知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい!!!!!!!
私のこの欲望を満たしてくれ!!!!
彼らの日常
博士は昼夜問わずとにかく研究に明け暮れていた。与えられた部屋に引きこもり、絶え間なく何かの金属音を響かせたり、静かにしていると思えばいきなり爆発音がしたり、突然の奇声や物音がする上に、本人の話し声もとても大きいのだ。彼が住み着いてから、屋敷はとにかく賑やかになった。
バタンと大きな音をあげてバタバタと大きな足音をたて、博士はダイニングに集まる三人の元へと走り寄った。液体の入った複数の瓶をこれみよがしと掲げながら、博士は嬉しそうに目を輝かせる。
「幽霊君、吸血鬼君! 待望の新薬ができたのだよ! 野ネズミでは実験済だ。二人ともある意味哺乳類でいいのかね。ぜひ君達で試してほしい!」
博士が嬉々と話しかける。かたや幽霊と吸血鬼は毎回唐突な声がけをしてくる博士に対して、幽霊はなんとか対応しようと慌てふためき、吸血鬼は面食らった様子で手元にグラスを掲げた状態で固まった。行き場のないグラスの中身を興味深そうに凝視して博士は続ける。
「おぉ、君は生き血でなくても飲むのか。いや、なんだそれは? 君は血液以外も口にするのか。ともすると生命力の源はなんだ。それとも食事とは違う嗜好品でもあるのかね? それは一体なんだ?」
じっと博士を見返して動かない吸血鬼と構いなしに質問を繰り返す博士のやりとりを見て、吸血鬼の隣に座る魔女と幽霊が声を抑えながら楽しそうにくすくすと笑った。
「博士。それ、ただのぶどう酒だよ」
「いらっしゃい。博士さんも召し上がる?」
おかしそうに笑う二人の手元には、赤い装飾の瓶があった。魔女は既にテーブルに置いてあった空のグラスを一つ、博士に差し出した。
「吸血鬼からの差し入れ。どんな味か、気になるでしょ」
「ほう。それは気になる! いただこうか」
とくとくとグラスに赤い液体が注がれる。瓶のラベルを一瞥して、グラスを傾けながら博士は話す。
「ふふふ、ぶどう酒の赤か。赤はな、神の血とも呼ばれるのさ。吸血鬼君は、十字架と曰くつきの種族かい? 十字架や教会と因縁のあるモンスターは多いものさ。魔女君達は厳密には関係なかろうが、他の魔女や幽霊には、深く関係している者も多いだろう」
博士は楽しそうに弁を振るい、満たされたグラスを掲げる。魔女は空になっていた自分のグラスに酒を継ぎ足して、同じくグラスを掲げた。
「まずは乾杯しよ」
他二人も、同じくグラスを掲げる。
「あぁ、そうだね。まずは乾杯だ! 魔女君、吸血鬼君。幽霊君も」
各々改めてグラスを合わせる。口元に運んで、満足そうに幽霊が香りを深く吸い込み、ほうと息を吐くと同時に、同じタイミングで魔女と博士が一口飲み込んで口を開いた。
「おいしいでしょ!」
「深いな!」
二人して笑顔になる。もう一飲みと、博士はグラスを掲げて眺め、もう一度同じ感想を述べた。
「いやはや、お見事。芳醇な香りに、この深い味わい! 後を引く! 見たことのないラベルだが、どこぞの界隈で入手した酒だ。まさか作り手がモンスターなのか?」
「やめてよ、普通のお酒でしょ」
魔女が苦笑いをして吸血鬼を見返すと、当人は呆れていた。ほとんど減っていないグラスをテーブルに置いて、吸血鬼は二人を見上げる。
「珍しい銘柄だが、人間の作った代物だ」
「なんでもかんでも吸血鬼をモンスター絡みにしすぎ」
「む、いかんな! 偏見はよくない」
素直に納得する博士に吸血鬼は一瞥くれてやり席を立ち、酒瓶を取り上げて、グラスの中身がやや変色している幽霊のところへと歩む。あいた席に魔女が近寄り、博士の隣に移動して話を続けた。
「偏見は視野を狭くするからな。研究の妨げになる。反省だ」
「博士のそういうところ、面白いよね」
「どういうところだ」
残りの酒を飲み込んで、グラスを空にして博士は美味しそうに笑った。
「美味いな。そうそう、酒で本来の目的が後回しになってしまった。新薬の件だった!」
「うわ、何その液体」
博士はポケットから小瓶を取り出して魔女に見せて指さしつつ説明を始める。空のグラスをテーブルに置いて、空いた手に注射器を持ち出して博士は魔女に身を乗り出した。
「少し実験をしてみたくてな。君は魔力が強いといえど人間だ。幽霊君は元々人間といえど肉体はないわけで、吸血鬼君はそもそも人間ではないが肉体はある! つまり、三者三様の状態なわけだ!! これは私が開発した薬でね。神経に働くので多少の筋肉痛にはなるだろうが、幻覚もなければ骨も溶けない!!」
「だいぶ怪しいんだけど?!」
「人間の肉体があって、それに作用する効能が元だ。人体の実験なら私自身でも試せるが、まずは吸血鬼君や幽霊君の反応を見たくてな!」
「あはは、悪いことを言う!」
注射器を片手に歪な笑みの博士と、苦笑いを悪巧みする悪い笑みに変えた魔女の二人が、あまりに楽しそうにするので、幽霊は遠巻きに微笑ましそうに見つめていたが、吸血鬼が呆れたようにそんな二人の間に先程の酒瓶で割り込んでため息をついた。
「魔女には一滴たりとも飲ませるなよ」
「おぉ、聞いていたなら話が早い! 君が実験台になってくれるかね?!」
言うが早いか、博士はテーブルに置いてある吸血鬼のグラスに謎の液体を注ごうとするが、注射器を持つ手を掴み上げられ、博士は咄嗟のことに息を飲んだ。
「お、おぉ……くっ、ふふふ、なんという握力、だ……!」
「ちょっと!」
「あ」
きしりと音がしたような気がした。博士の呻きに、ぱっと反射的に吸血鬼が手を離す。博士はゆっくりと手を下げて、無事なもう片手で注射器を机の傍らに置き、それでも楽しそうに手首を押さえながら笑った。
「すまない」
「ははは、良いね……! 計り、知れない、力よ」
「大丈夫? 手加減してよね!」
「すまない、したつもりだった。……これ、劇薬だろう。かすかだが臭う」
「なんという嗅覚! 正解だ! 臭いは極力甘くしたのだが、分かるというのか?!」
「だから、飲ませるなと言っている。ここにいる者を危険に晒すな」
「ふふふ……くくく……身をもって君を知ることができるとは。なんたる怪力! それこそ吸血鬼の責め苦かね! 教えてくれて感謝する!」
博士は思いついたまま手元の手帳に書き込んでは、楽しそうに大きく手を振って自室へと一目散に戻っていった。嵐が去る様を呆然と見送って、魔女と吸血鬼はお互い呆れて目を合わせる。
「結局、博士を喜ばせてんじゃん」
「俺にどうしろと」
「あら、なかなか良い香りね」
後ろからふと声が聞こえた。吸血鬼と魔女が声の方を振り返ると、先程の注射器をマドラーのように持つ幽霊がいた。
「おまえ、それ」
「え、ちょっと! それ飲んだの?!」
「幽霊、それは元々劇薬だ。かすかに臭いも残っている。たとえおまえでも香りを喰うなら同じことでは」
「それ、臭いがあるからやばいんじゃ」
慌てる二人をよそにほのぼのとした笑顔で幽霊はグラスを見せた。
「このお酒の渋い香りが、まろやかになるの。皮に苦味のある柑橘類に蜂蜜を垂らしたような、紅茶に生姜を浸けたような、穏やかな香りがするわ。なかなか良いシロップね」
「……シロップ……」
何事もなく笑う幽霊に、魔女の開いた口が塞がらない。赤く濁った酒は、よほどその方がモンスターの酒らしく見た目がおどろおどろしい。
「なんともない?」
「えぇ、大丈夫よ。わたくし、肉体もなにも、ないもの」
けろっとして机に置かれた空の注射器を見て、魔女が感嘆のため息をつく。吸血鬼も杞憂に終わったと軽いため息をつき、両手で頭を抱えて魔女と同じく頬杖をついた。
「もー、びっくりしたぁ。幽霊ってば、最強じゃん」
「あぁ……平穏が恋しい」
「あはは」
「ふふ、吸血鬼さんは博士さんが苦手そうね」
「それ言ったら、私だって煩かったんじゃないの?」
「あれとおまえは全く違う」
「魔女ちゃんも博士さんも、きちんと中庭は荒らさないでくれるわよ」
「図書室はやりたい放題だよね」
「共同生活なら、共用の場で暴れるものじゃない」
「博士って諦め悪いからねぇ」
魔女は大きな目で見透かすようにじっと吸血鬼を見つめる。頬杖をついて、楽しそうにくすくすと笑った。
「いい加減諦めたらいいのに」
眉をひそめて吸血鬼が応える。どちらに向けた言葉か、と彼は心の中で反論した。
「わたくしは博士さんに感謝しているわ。彼のおかげで、わたくし、自分について分かったことがあるの」
「えぇ、なにそれ、聞きたい」
急に元気に顔を上げて魔女は目を見開いた。その反応を見て、幽霊はにこりと笑った。
「ふふ、わたくし、香りをいただくって言ったでしょう? 実は香りも味もいただいていたみたいなの」
少し興奮気味に、幽霊は顔を明るくして両手をあわせて嬉しそうにする。
「博士さんが調べてくれたのよ。乾燥させた果物や紅茶に生命こそ宿ってはいないけれど、博士さんが言うには、そこにある生命のようなものをいただいているらしいわ」
「……へぇ、それ面白い! 食べたものの魔力みたいなものを吸収してるってことかな」
「今ね、それを調べてくださっているのよ。わたくしが実体を持ったり持たなかったりするのも、珍しいらしいわ。ふふ、楽しみ」
「へぇー! 確かにそうかも。実体があるやつはあるだけで、ないやつないってイメージあるかも。ねぇ、幽霊が」
魔女が面白そうに話をしている最中、突然、地割れのような振動がした。
ドカーン! と、一際大きい音が屋敷内に響く。何かが爆発した音だった。それを聞いて、彼らは一度は博士の部屋の方角を見やるも、三者三様の反応をした。
「……またか」と言って、吸血鬼はため息をつき、
「あはは、噂をすれば! 今度はなんだろ? 見に行こーっと」と言って、魔女は立ち上がり、
「壁の焼き焦げが酷くなければいいのだけれど……」と言って、幽霊は両手で頬を覆い顔を曇らせる。魔女は楽しそうに音のした博士の部屋へと文字通り飛んでいき、幽霊は屋敷の心配をしつつ姿を消した。吸血鬼は呆れながら重い腰を上げた。
魔女と幽霊の二人はロビーに着くなり感嘆と心配の声を上げる。ロビーに隣接する博士の部屋からは、煙がもくもくと閉じたドアの隙間から漏れ出ていた。魔女はわくわくとした表情を見せ、幽霊はドアの無事を確認して一先ず安堵した。二人は一度顔を見合わせて頷きあうと、魔女はゆっくりとドアを開ける。中は煙が充満して、満足に見渡すことができない。
「博士ーー! 生きてるー?」
魔女は大声を出し爆発を起こしたであろう張本人を呼びかけるが、返事は聞こえない。幽霊は窓の方へと移動し、手早く全ての窓を開けた。
次第に部屋から煙が出ていき、数分の後に改めて二人は部屋を見回した。実験していたであろうテーブルは焼け焦げ、備品は壊れていた。テーブル近くの壁は、幽霊が心配した通り派手に焼け焦げている。それを見た幽霊はため息をこぼした。
「まぁ、壁が……。これは直すのが大変そうね」
「焦げてるだけじゃなくて抉れてる……。だんだんエスカレートしてない?」
「困ったわね」
「博士、そろそろ壁の修復の専用道具とか作りそう」
「もしくは焼け焦げないように壁を改良しそうね」
「それいいね。例えば爆発したらいつでも水魔法が発動するやつ」
「それは魔女ちゃんが作った方が早そうね」
「えぇ、やだよ、面白くない。そういう細かいことは博士にやらせてよね! ……あ、いた」
呑気に会話をしつつも、魔女は博士を見つけて指をさした。
博士は焼け焦げたテーブルの下でのびていた。髪はただでさえボサボサなのに、焼けてしまったために更にボサボサになり、顔は煤がかかって黒くなっていた。悲惨な状況にも関わらずその顔は満足気に笑顔だった。
「気絶しながら笑ってる! ほんと変なの!」
「まぁ、起きたらすぐお風呂に入ってもらわないと。屋敷が汚れてしまうわ」
感想を述べるだけ述べて楽しそうにしている二人だが、博士が来た当初は、吸血鬼も含め三人ともに怪我人の救護をするように、それはもう慌てたものだった。
「何が起きた!」
「ちょっと何なの?!」
「博士さんの部屋からよ」
飛ぶように三人が駆けつけた博士の部屋は、黒い煙を上げ、微かに炎の気配もあった。魔女が素早く鎮火し、幽霊と吸血鬼が博士を発見しては安静に廊下へと避難させて、状態を確認する。呼吸もあるし、脈もしっかりしている。三人がほっと胸を撫で下ろすとともに、博士は床から勢いよく立ち上がり肩を震わせて笑った。
「くくく……ふはは、ははは! いやいや、惜しい! 今のエネルギーが凝縮できれば可能かと思ったのだが、仮説から立て直しか。おや、三人とも、揃いも揃ってどうしたのかね?」
煤汚れた顔で笑って博士は平然と言うのだ。
「幽霊、やはりこいつを追い出すなり人魂にするなりしてくれ。これでは屋敷がもたない」
「そうねぇ、屋敷を壊されては困るけれど、楽しい方で、わたくしは気に入っているのだけれど」
「屋敷の補強なら私やるよ! 私も博士は面白いし、いると楽しい」
「……俺が出ていくかな。一週間くらい荷物の整理に時間をくれ」
「何言ってんの! ダメに決まってるじゃん!」
「そうよ、みんなで仲良く暮らしましょう。わたくし、とても嬉しいの。これだけ賑やかになって、話し相手もたくさんで。今、とても幸せよ」
それから数か月。三人が博士をぞんざいに扱うようになったのは、言うまでもない。彼は週に四回は今回のような爆発を起こし、週に五回は奇怪な行動をし、週に七回は自分を実験材料にしぶっ倒れるのだ。ぞんざいになるのも無理はない。
他の二人はともかく、唯一魔女だけはそれを初めから楽しんでいた。毎回博士がやらかすことに面白さを感じて期待していた。「次は何して楽しませてくれる?」と博士に直接尋ねることすらある。それに博士は「む? なにをだ?」と返すので、本人は魔女の期待を理解していないようだった。
初めこそ心配していた幽霊も「死ぬようなことをしなければ大丈夫」と、ある意味諦めの境地に似た感情に至っていた。吸血鬼は初めと比べると丸くなった——というより彼も諦めていた。吸血鬼も幽霊も、自分に直接面倒が降りかからなければそれでいいといった節がある。その点、幽霊は素直に何でも博士の問いに答えたが、吸血鬼は博士から逃げてもどう対応しても喜ばれるので毎回頭を抱えている。
そんな博士の行動に慣れてきた三人が、此度の爆発で、気絶した博士を放置したのも当然という結果に他ならない。呼吸を確認し、心臓の鼓動や内蔵に異常がないかを確認し、問題なしと判断が下ると、
「死んでいないな」と言って、吸血鬼はさっさと去り、
「今回はどれくらいで起きるかなぁ」と言って、魔女は一度顔を覗いてから部屋を去り、
「起きたらお風呂に入って、壁を直してくださいね」と言って、幽霊も姿を消した。
それから数時間後、すっかり陽も傾きかけた頃に博士は目を覚ました。ガバッと勢いよく起き上がると何が起きたのか頭を整理するようにブツブツと呟きながら一点を見つめている。傍から見たら完全に精神異常をきたした人と思われてもおかしくない光景だった。
「……ははっ……ははははは! よし、解ったぞ! なるほど、そういうことか、ははははは!! そうと決まれば早速……おっと、いけない。家主との約束事は聞かなければ」
思い出したように呟くと、汚れた壁を雑に拭きながら、効率良い掃除の仕方や防火壁の構想を思いつき、煤で汚れた紙に殴り書きをしていく。はたとまた気がついた様子で壁を掃除し終わると、風呂場へと服を脱ぎ捨てながら向かっていく。脱衣所に到達する頃には素っ裸になっていた。彼はお湯で体に着いた汚れを落としながら呟く。
「防火壁が、良さそうだ。……扉もだ。防火にしよう!」
それから数日後、博士の研究室の壁と窓と扉は防火仕様となった。幽霊は満足気に微笑んでいたそうだ。
博士と探求
博士に与えられた研究室と化した部屋には、いくつもの実験材料が飾られている。皮の剥ぎ取られたウサギだったり、巨大な生物の骨だったり、動物の脚だったり、人間と思われる肢体だったり。それらが巧妙に魔法漬けにされて、乾燥してあったり鮮度を保っていたりしている。
博士曰く、生物学も数学も、歴史も文化も、果ては錬金術や呪術も、学問のどれもが生命という謎を紐解くには無駄ではない。それを証明するように、彼の部屋はあらゆる器具や書物が散乱している。
「吸血鬼君、良いところに帰ってきた!」
帰宅して早々、吸血鬼は博士に捕まった。博士はロビー脇の自室へと吸血鬼を招く。黒いマントを羽織ったまま両手の塞がった吸血鬼は、博士に背を押され困惑したまま部屋へと入る。その腕の中には、真っ赤なドレスを着た女性がいた。胸元に両手を置いて、そこに花束を乗せ、花束も腕もうっすらと何かで汚れている。
博士は何度も吸血鬼に腕の中の女性を自分に譲るよう懇願した。吸血鬼も吸血鬼で、最初こそ渋ったが、あまりにしつこく頼み込まれ、遂には観念して女性を譲り渡した。
「ただ、もう息を引き取った後だが……」
「死んでいても全く問題ない! 私はこの女の死体に用があるのでな。さぁ、それだ、そのまま……ここに置いてくれたまえ……!」
博士に促されるまま、部屋の中央に鎮座する大きな台へと寄る。眠っているように安らかな表情をしている女の死体を、吸血鬼は腕からそっと下ろし、スカートの裾を伸ばしてやりながら丁寧に台へと乗せた。長い髪の絡まる花束を取り上げると、博士は楽しそうにそれを眺めながらにやりと笑った。
「推定二十代後半か」
「さぁ。知らない」
「こんな熱烈な花束を贈っておきながらかい?!」
「いや、それはもらいものだ」
「この女からか?」
「……」
吸血鬼は答えない。だが否定もしない。博士はそれを認めて口角を上げた。経験上、彼の沈黙は時折肯定を意味する。完全に間違っていれば否定してくるのだ。花束は暗く深い紅の薔薇が三本、まるで喪に服すように黒いオーガンジーに慎ましやかに包まれている。
「黒の薔薇が三本。花言葉を知っているかい? 独占的な愛憎の告白だ。君は全て私のものだという、愛の告白!」
「……」
「この女から君が受け取ったというのなら、それはそれで大変興味深い! それなのに君はこの女を殺してしまったというわけだ!」
吸血鬼はマントを外し腕にかけ直しながら話を聞いていたが、博士が熱弁とともに顔の前に花束を突きつけるので思わず後退った。
「君はこうやって人間を糧に生きている。残りの寿命を奪い生を吸う死神のように! 実に調べ甲斐があるよ。君は良い実験材料を持ってきてくれた!」
「実験材料?」
「あぁ、この女だ!!」
博士の言葉に吸血鬼が信じられないとばかりに顔を歪ませた。
「おまえ、本当に……見境がないな」
「だてに墓場を荒らしていないさ」
ばさりと乱暴に花束を死体の傍らに投げつけて、死体についた装飾品を次々と剥ぎながら博士は嬉々として喋る。
「それに、これが一番効率的だと思ってな! この女は吸血鬼になるのだろう? 人間からモンスターになる瞬間を拝めるのだ。モンスターと人間には生態の差が大いにあるからな。絶好のサンプルだと思わないかね?!」
「ならない」
「む」
「吸血鬼には、ならない」
「そうなのか?!」
当然のようにしっかり否定してくる吸血鬼に驚いて、博士はその肩を掴んで大声で問いただす。反射的に驚くも、吸血鬼は嫌そうに顔を背けその手を退ける。
「なぜだ! 君は獲物を同族にする能力があるのだろう?!」
「あってたまるか、そんな能力」
「まただ! また君は私の知らない知識を与えてくる! てっきり吸血鬼になるものだと思っていた。残念だが、吸血鬼のサンプルには、ならないのなら……」
ぶつぶつと独り言を呟き考えに没頭し始める博士の様子を見て、そろりと吸血鬼は部屋から出ようとするも強引にマントを掴み戻される。
「待ちたまえ! そもそも、この女は君の獲物で間違いないな? よく聞く、首に噛み跡がない。吸血鬼とは首から獲物の血を啜るものではないのか?」
「……」
「答えてくれ。君の獲物で間違いないのだな?」
「……」
「いや、問いを変えよう。吸血鬼とは、噛みつき仲間を増やすものではないのか? そもそも群れないとされるモンスターが、どうやって仲間を増やしている?! 仲間意識というものはあるのかね?!」
必死に訴える博士に気圧され閉口していた吸血鬼だが、最後の問いまで聞いて、長く、深いため息をついた。
「……吸血鬼についての書物なんて、いくらでもあるだろう」
博士は返答があったことに顔を明るくして、その手をほどいて大きな身振りで説明する。
「読んだとも! しかし君は太陽の下だろうが物ともしない。十字架を嫌うどころか身につけているじゃないか!」
「……」
「知識と実際が異なるのだよ! 今もそうだ。噛まれても吸血鬼にはならなかった。もちろん、吸血鬼についても幽霊についても、ありとあらゆるモンスターについて読み尽くしたさ。例えば、幽霊とは実体のない霊魂だとする話があった。しかし彼女は実体化して物を持つ。書物は時に当てにならん。幽霊も吸血鬼も同じ分類にされていることもある。なんと曖昧な分類か! 書物は先人の偉大な知恵ではあるが、あくまでも過去の知識でしかない! 現に、君達はここに存在していて、我々が培ってきた知識が全てでないことを証明している!」
博士は白衣の襟を正してにやにやと楽しそうにする。吸血鬼は思うところがあり、その話を黙って聞いていた。
「例えば、幽霊君にしてもそうだ。霊魂らしく人間の魂を喰らうのかと思ったが、主に香りを食する程度だろう。しかし、それも面白くてな。彼女の好む香りの傾向がある! それも、いわゆる防腐剤の類! ミルラや白檀といった薬品にもなるものが好みらしくて、大変興味深い。実体がなくても死体の防腐に使われるような香りが気になるとはなんたる因果!」
博士は興奮気味に語る。
「地縛霊ならではの屋敷についてもそうだ。庭に白薔薇があるだろう。あれだけ時を止めていてな。彼女が化けて出た時に屋敷は時を止め、その理由に少なからず白薔薇は関係している」
いくらか屋敷について語る博士の見解は、少なからず魔女と吸血鬼が見てきた幽霊の話を含んでいて、吸血鬼は終始照らし合わせるように聞いていた。
「幽霊君には感謝している。彼女は死というものを通過しながら思念として生き永らえている。しかし、彼女には記憶と行動の制限がある。それは私の求める理想の生命にはほど遠い。しかし、生命に魂を宿すための手順にはもってこいだ!」
博士の幽霊に対する見解を聞きながら、あまりにも危うい博士の好奇心に、吸血鬼は、こいつに灰色の霊魂の件は絶対気づかれてはいけないと心に留めた。
加えて、博士は幽霊から聞いたという吸血鬼の話もした。そこで、吸血鬼がたまに瀕死の人間を連れ帰ることを知ったというのだ。
「それこそ君が吸血してきた獲物だと直感した! 君がそれを抱えて帰ってきて、チャンスだと思った! 吸血鬼になると思っていたからな」
カラカラと必要な器具を台に揃えながら彼は話を一区切りさせて、淡々とこちらを見つめてくる吸血鬼に話を振るように言葉を締めた。
「実際はごらんの通りだ。私の知識と違い、吸血鬼にはならなかった」
「……」
少しの間を置いて、吸血鬼は喋り出す。
「……おまえの言う、噛みついて仲間にする者は、恐らくキョンシーの類だろう」
博士が何かの支度をする様をじっと眺めながら、吸血鬼は淡々と語る。
「彼らは毒や呪いをばらまき、時には人間の血肉を喰らい、噛みついて仲間を増やす。彼らにも種類があって、ミイラのように干からびた者もいれば、生前の通りの見た目の者もいる。だが、仲間の増やし方は同じだ」
「噛みつくだけで仲間になるなら、相当な数になりそうだ。弱点はあるのか?」
「弱点だらけだ。太陽に焼かれ、日中は動けず棺で眠る。目が見えない者が多く、嗅覚に頼りきりだ」
「君も噛みつくモンスターだろうに、違うものだな」
「比べるな。俺はあんなに脆くない」
「脆くない。ふふ、なるほど……ふふふ、やはり君は理想的なモンスターなわけだな。やはり君のサンプルがほしい。それこそ、髪の毛の一本でも!」
またもや意気揚々と話す博士に、吸血鬼は今度こそ部屋から逃げようと彼を手で遮る。
「もうお終いだ。色々と答えてやっただろ。その亡骸はやるから」
「ならば最後に一つだけ答えてくれ。この女は、幸せな生涯だったかね?」
博士は細いナイフを手に取る。いつの間にかその手は手袋をつけていて、かすかに何かツンとする臭いが鼻をついた。
「……知らない」
「長い付き合いではないのか?」
「たかが数年だ。知るわけがない」
「……ほう?」
博士は吸血鬼の言葉に思わず嬉しそうに顔を歪ませた。遅れて気づいて吸血鬼も困惑したように博士と死体から顔を背けマントに隠れる。博士は楽しくなって、思い切り良く女の死体にナイフを入れた。想定外だったらしく、博士は返り血に白衣を汚しながら驚いたように目を丸くした。
「……はは、ふふふ、まいった! 思ったより血抜きがされていなかった。君は贅沢な食事をするのだな?! 致死量ですらない。……くくく……これほど新鮮だとはな。切り傷と……あぁ、なるほど、手首か。ここから吸血したのかね。この歯形なら君だと想定しやすい。目測でも大方分かる」
「気持ち悪い想定するなよ……」
「いや、分かるものだよ! 生き物にはそれぞれ特徴があるからね! さぁ、これで言い逃れはできんぞ。言ったな? 数年の付き合いがあっただと? 鎌をかけてみるものだな。つまり、やはり君達の間で花束がやりとりされた。互いに互いを認識していた証拠だ。君とこの女との間に愛憎物語でもあったのかね? だから持ち帰った? 異種族とはいえ会話はできる。意思疎通があったのかね? 君の力ならば容易く殺せただろうになぜ生かしておいた? それほど殺したくない個体だったのかね? 君にそういう獲物の選り好みがあるというのか?」
根掘り葉掘り聞いてみるも、吸血鬼はだんまりを決め込む。
こうなると何を聞いても答えてくれないことを博士は学んでいた。つい、どうしてもあれこれと知りたくなるが、彼は他人について、一般的な話については答えてくれるのだ。モンスターについての見解は、それで解像度を増す。それはそれで、貴重な知識だ。
「まぁ、いい。キョンシーの話だけでも十分助かった!」
次第に血生臭い空気が部屋を埋める。博士は慣れた手つきで必要部位に切り分け、それらを次々と手際よく魔法漬けにしていく。その様を眺めながら、吸血鬼はなんとはなしに彼が整然と並べていくシャーレや試験管といったガラス容器を数えながら、不思議そうに眺めている。それを見て博士は面白そうににやついた。魔法の膜に覆われた細長い容器をコツンと爪で小突くと、膜がゆるやかに揺れた。
「珍しいかね? 君なら人間でも動物でも死体は見慣れていると思ったが、意外にも内臓は見たことがないか」
「あぁ」
素直に頷いて、吸血鬼は辺りを見回す。天井から吊るされた何かの毛や、ガラスケースにピンで刺された何かの標本、暗幕の中にいくつかの骨が保存されているのが見えた。再び目の前の容器達に視線を戻すと、そのうち一つの瓶に取り出された眼球が液体に浸かっていた。
「……」
「生命とは、面白いだろう。これらが組み合わさって、一つの生命になる。けれど、単純に組み合わせただけでは、生命にはならない」
聞いているともいないともとれる態度で吸血鬼が瓶を眺めている。博士は構わず続けた。
「人間は脆い。知っての通り、心臓が止まればやがて死ぬ。息ができなければ死ぬ。高いところから落下すれば死ぬ。毒に当たれば死ぬ。病でも死ぬ。首と胴体が離れても死ぬ。血を流しすぎても死ぬ。簡単に死ぬ」
死ぬと繰り返す博士は引き裂かれた赤いドレスを死体から剥ぎ取るように掲げて、目を輝かせた。
「それだけで死ぬのだ。君達モンスターはどうだろうね。可逆的に生き返るモンスターもいるのかね。君の話にあったキョンシーなんかは人間と生態が似ていそうだ。それほど、生と死は切り離せないというわけだ」
壁にかかった何かの布切れや、遺品らしき装飾を眺めながら博士は薄く笑う。
「やはり、生命の研究は、ゆえに死の研究でもあるのだな」
博士が己を奮い立たせるように、肩を震わせ、野望を秘めた鋭い眼光で語るので、それを見て吸血鬼は呆れてため息をつくように薄く笑った。
吸血鬼の物語
博士による、件の吸血鬼について——直接ではなく、幽霊の証言から——得られた情報はこうだ。
「生まれはどこか知っているのか?」
「さぁ、さすがに知らないわ。ずっと昔に、南の方からやってきたことは確かよ」
他にはこうだ。
「君も吸血鬼君も、モンスターというものは皆、貴族の出なのかね?」
「たしか、彼も使用人はいたって聞いたわ」
またある時はこうだ。
「魔女君から聞いたぞ! 吸血鬼君には姉がいるのだな?!」
「あら、ご存じなかったの?」
「知るも何も、吸血鬼にも家族という概念があったのだね! 姉ということは年齢差や性別が分かれている証拠だ。それはどんな人だね? 魔女君も人物像までは分からないと言っていた!」
「うーん、そうね……。わたくしは知っているけれど、詳しい話は本人から聞いたらどうかしら」
つまり、まとめるとこうなる。
彼にも家族がある。話を聞く限り、父と母がいて姉と彼という家族構成だというのだから、我々人間と同じ哺乳類の分類と思われる。親と子という概念から、最初から大人というわけでなく、きちんと子供時代があると考えられる。また、使用人がいるとは、恐らく貴族階級といった高い身分のようだ。彼らにそういった階級社会があることも推測できる。
「子供の時?」
「あぁ、君には姉がいると聞いた! つまり、君も我々人間と同じように個体の年齢差があり、男女があるわけだ! となれば、子供時代だ! 吸血鬼の子供時代だなんて誰が知っている! それこそ全人類が知らないこと!! 新発見だ!!! ぜひ教えてくれ!!!」
博士は身を乗り出し興奮した様子で懇願した。その姿を冷めた目で見つめる吸血鬼はため息を一つ零して言った。
「はぁ……まぁ、おまえが死んだら墓前で語ってやるから、今は我慢しろ」
「墓前? それではメモすら取れないじゃないか! なんという生殺し……。あぁ、墓の中でメモを取れるようなものを開発しないと」
「……」
皮肉で言った返しを斜め上を行く解釈で返された吸血鬼は、言葉を失った。博士はそれに気づかず続ける。
「いや、それよりも死んだ後に蘇られるような開発をするべきか? そうしたら、一度死んだことになるから条件は達成されている。しかし、腐った体をどうにかしなければ……脳が死ぬのは一番よくない。研究が続けられないからな。長年蓄積した知識を台無しにするわけにはいかない。体を捨て知識だけを抜き取るか…? はっ!! 幽霊になればいいのか! しかしなり方が分からない。試すのもリスキーだ。失敗したらジッエンド……困った……だが良い案な気がする。幽霊君に聞いてみるか! よし、吸血鬼君。子供時代の話は私が幽霊か屍人になった時にでも聞かせてくれ!!! ではまた今度、色々聞きに来るぞ!!」
そう言うと慌ただしく部屋を去る博士を、吸血鬼は呆れた顔で見送った。
「(全く騒々しい。あいつは子供の時からああだろうな)」
子供時代。確かにそういう時代はあった。ふと遠すぎる記憶に思いを馳せる。幽霊がよく言う幸せな記憶。そう呼ぶには苦々しい記憶が、蘇る。
父は厳しいひとだった。今から思えば種族の誇りと地位を大事にしたひとだった。そのため、ありとあらゆる己の種族についての知識や教養を叩き込まされた。
母は冷たいひとだった。好きなことは好き、嫌いなことは嫌いとハッキリしていた。自由奔放といえば聞こえはいいが、自分の子供にも好き嫌いがはっきりしているのは些か疑問があった。
姉がいた。優しいひとだった。優しすぎるくらい、優しいひとだった。
父はよく姉を叱っていた。母は何も言わなかった。自分は姉を好きでも嫌いでもなかった。ただ、姉のようにはなってはダメだと、なってしまったら生きづらくなると何となく察していた。
姉はよくこう説いてきた。
「悲しい時は泣いて。笑いたい時は笑って。私達と人間に、変わりはないの」
陽だまりのように微笑みながら姉は言う。その姿は自分には眩しすぎて、受け入れるには暖かすぎて、分からないふりをしていた。二人とも幼い姿には変わりないが、姉とは少し年が離れていた。そのせいか、姉は自分をよく可愛がってくれた。
父の躾は厳しかった。元来、男児が重んじられる種族というのもあり、父との関係は自ずと親子のそれではなくなった。あまりの厳しさにこっそり独りで泣くこともあった。すると必ず姉は隠れている場所を見つけ出し、そっと傍に来て、泣きやむまで頭を撫でてくれた。そして微笑むのだ。
「大丈夫よ、何も心配いらない。辛いのは今だけ。ここを出たら、好きに生きていける。私も貴方もね。それまでの辛抱よ」
姉は両親を嫌っていたのか、好いていたのか、どちらなのかは分からない。この家で窮屈な思いをしていたのは確かだろう。けれど、自分は姉のために何かをしてやろうとも、してやれるような余裕もなかった。
「情を制御しろ、表に出すな」
「隙を見せるな、相手を利用しろ」
父は時を惜しむように自分を厳しく躾けた。なぜそんなに急ぐのかと疑問しかなかったが、ある時から社交界に顔を出すようになり、そうして、父の言葉の意味を理解した。
我が家は血筋も階級も上位にあたる。その優秀なひとり息子である自分を周りは放っておかなかった。自分の娘を婚約者にと推してくる親を始め、今のうちに縁を作っておこうという者が社交界に出るたびに現れた。
貴族社会は化かし合いだ。如何に相手の弱みを見つけ、情報を引き出すか、利用するか。自分より地位の上の人との繋がりをどう作るか。それを、表に出さないように探りあっている。
「実力をつけろ。弱き者ほど自由を選べない」
父の口癖だった。背も年齢も知識も幼い自分には、それはそれは自由がなかった。
「辛いのは今だけ。ここを出たら、好きに生きていける」
ふと、姉の言葉を思い出した。あぁ、自分も姉と同じく、この生活を窮屈だと思っていたのかと、自覚した。
辟易する社交界から離れ、誰にも邪魔されない庭の片隅に何度も逃げ込んだ。するといつも姉はやって来る。
「……なぜ分かるんだ」
思わずそう尋ねた。
「ふふ、それはね、貴方が私の大切な弟だからよ」
姉は心から優しく微笑んで言う。こういう笑顔を、次第に作れなくなっている自分がいた。姉は頭を撫でてくる。体こそ変化はないものの、もう幼子を甘やかすような年齢でもない。止めてほしいと思うのだが、その笑顔相手に振りほどくことはできなかった。
「大丈夫よ……何も心配いらないわ。無理にここにいる必要はない。成人したら好きなところに行けばいいのよ。貴方も私も、自由よ」
「姉さんはいつもそう言うね」
「だって本当のことだもの。身分や種族に縛られる必要はないの。私達は、もっと自由であっていいはずなのよ。人間と友達にだってなれるわ」
「……人間と友達に? 僕達は人間の血を飲むのに?」
「そうね。それは私達にはとても大事なこと。けれど、相手も生きているの。殺さないこともできるはずよ。お願いして、少しだけいただくの。優しい人間だっているはずよ」
「……そうなるといいね」
「ええ、きっとなるわ!」
信じきったその笑顔を見ながら、同意の言葉と愛想笑いを向ける。
何をばかなことを、と思う。そんな夢物語、実現はしない。そもそも、なぜ人間相手にそこまで気を遣わなくてはならない。
反射的にそう感じ抱いてしまった気持ちは、母譲りか父譲りか。あぁ、自分はこの家の子なんだなと、痛感した。
姉が、成人した。正しくは、【成人の儀】を受けた。大人になるための通過儀礼のようなもので、それを経て自分達は大人になる。人間と違って、徐々に年を取り成長するものではない。年齢だけ無駄に重ねた幼い見てくれは、一気にしっかりとした大人のそれに変化する。
見違えた姉は、それでも優しそうな微笑みで自分の頭を撫でた。複雑な気持ちだった。
姉はすぐに家を出た。父も母も止めはしなかった。「少しでも長く生きろ」と父が、「後悔のないように」と母が、それぞれ一言姉に言葉を贈った。
正直、驚いた。親らしい言葉をこの二人が姉に言ったことに。昔から姉を邪険にしているように見えていたが、違ったのだ。二人なりに姉を心配していたのだ。
なんて不器用な親だ。きっと二人の心配など姉に伝わっていない。姉は姉で両親を好いていない。姉にとっては、この社会も文化も、理解できない存在だっただろう。だから、姉はすぐに家を出たのだ。
姉がいなくなってからは淡々と穏やかな時間を過ごした。次第に父は何も言ってこなくなった。一人前と認めてくれたようで、少し誇らしかった。親子の会話——父とは仕事の話や雑談、母とは社交界で得た話や噂話——は、次第に情報共有の場になっていった。
まもなくして、自分も成人の儀を迎えることとなった。体には不釣りあいの大きな棺が用意される。姉の時にも見た、我が家に代々伝わるゴブレットが久々に飾られている。父や母の言葉に見送られて、そうして眠りについた……——
——目覚めると、世界は変わっていた。感覚も鋭く、押し寄せてくる情報が多い。体が今までと違うのを実感する。得た知識も体力も魔力も、様々なものが内に凝縮され、無尽蔵に漲ってくる感覚。「今まで得たことを忘れるな」と父が、「好きに生きなさい」と母が、それぞれ一言、姉に送ったように、自分にも言葉を贈った。窮屈で退屈なしきたりから解放されると、いきなり大海原に投げ出されたように、右も左もない自由を与えられた。改めて、そういう社会なのだなと、実感する。改めて、不器用な両親だなと、痛感した。
自分に流れる血筋も種族も、生まれ育った環境も地位も、それらは決して変わらない。だからこそ、この永い生を自由に謳歌しよう。時間はいくらでもあるのだから。
冬の迷い人
古びた屋敷に迷いこんだ老婆は、深くフードを被り、寒さを凌ぐように凍えながらここへやってきた。その日は珍しく雪が吹雪き、魔法が建物を守ってはいるものの、さすがに床から底冷えするほどだった。
幽霊はいつものように老婆に挨拶をした。老婆はいささか焦った様子で、しかし幽霊に恐れるわけでもなく、藁にもすがる様子で事情を話して助けを乞うた。なんでも彼女は魔女だそうで、知人の出産祝いではるばるやって来たらしいが、途中で道を見失い今に至るという。この吹雪の中では雪女でもない限り東西南北が分からなくなって当然だった。
「よろしければ、どうぞ。温まりますよ」
「あぁ、ご丁寧にありがとう」
吸血鬼が大きめのコップにスプーンを添えて老婆に手渡す。ふんわりと白い湯気を立てて、コップの中にはトマトベースのスープに細かく刻まれた野菜が入っていた。リビングの暖炉の前で大きめ毛布に老婆はくるまっていて、その傍らに同じく座り込んで、幽霊は話の相手になっていた。
「それは嬉しいわ。待望のお子さんなのね」
「えぇ、それでお祝いにと思って東へ向かって……ここまで来たのだけれど、この吹雪では今日はもう動けないわ。もう年ね」
笑いながら、老婆は酷く咳き込んだ。聞き慣れない嫌な音を喉から鳴らし、彼女は苦笑いで茶化して、幽霊と話を続けた。にこにこと話す幽霊とは対照的に、吸血鬼は無言で瞬きもせずしばらくじっと二人を見つめていた。
「今夜限りと言わず、また遊びにいらっしゃって。歓迎するわ。あなたとのお話は楽しいもの。また会いたいわ」
「ありがとう、とても温まったわ」
老婆がコップを返すと、我に返ったように瞬きをして吸血鬼は微笑んで食器を受け取る。
「どうぞ、今夜はごゆるりと」
受け取ればさっさとキッチンへ戻ってしまう姿を見送って、老婆はおかしそうに笑った。
「あぁ……いつぶりだろう。あんな若い男の人に会うのも久しぶりだし、こんなにお喋りしたのも久しぶりよ。ありがとう。記念にこれ、もらって」
そうして老婆は持ってきた荷物の袋から、菓子の詰め合わせを取り出して幽霊に渡す。
「ホットココアを作ってきたよー!」
魔女もひょっこりと顔を出す。老婆は孫を慈しむかのように魔女にも菓子をやり、三人でしばし歓談した。
「わたしも魔女だけれど、古い魔法しか使えないよ。ほら」
炎の玉がふよふよと宙に浮かんで、それから床に消えていった。すると、じんわりと足元から暖かさが湧いてきた。
「へぇ! 炎って、こういうこともできるんだ」
「もう体力もないし、お嬢ちゃんほどすごくないし、年の功かねぇ、こういうアレンジは得意なのよ。生活の知恵ね」
楽しそうに笑う三人だが、まだ老婆の前に姿を現していない博士は、じーっと廊下からそれらを凝視していた。
「……何をしている」
「おぉ、吸血鬼君か」
部屋から出てきた吸血鬼は、廊下でやや不可解な態勢でしゃがみ覗き見をしている博士を見つけ、その首根っこを掴むとむりやり立たせては顔をしかめた。かたや博士はいつもの煩い態度は鳴りを潜め、静かに向こうを眺め直し、そっと語った。
「見たまえ。肺をやられている。あの様子だと、そう長くはない」
「長旅をするそうだが?」
「なんと」
「知人の出産祝いで、東と言っていたが……恐らくかなり南まで行く予定だろう」
「南か。海を渡った先なら、目的地まで辿り着けんだろう。吹雪でなくとも無駄死にをする」
「あれは魔女だ。魔力も強い」
「……ふふ、なるほど? 旅路の心配はいらないって? 違うな、それはまずい。出産祝い? 魔女? 面倒な悪霊になりかねん。赤子への思いか、辿り着けなかった無念か。このまま彷徨われてこの近くで祟られても困る」
面白がっている様子も含めた表情で、博士が小声で早口にまくし立てる。
「いや、幽霊君は話し相手を欲しがっている霊魂だ。幽霊君とともにここの地縛霊になるのはありか? 持病に気づいていない。先は長くない。魔女とはいえ自力で辿り着くことは難しいだろう。いっそ死んで化けて出た方が……? いや、しかし、魔女だ。せっかくの、魔女なのだ……。それを、どうして、見過ごせよう。ふふ、くくく……ここに迷い込んだのが、運の尽きだ。私の実験台になってもらおうか……!」
小声だが楽しそうに博士は老婆を見つめる。静かに獲物を狙うではなく、今にも暴れ出しそうな狂気に満ちた視線を静かに熱く送る博士の様子に、吸血鬼はくすりと笑った。
「くくっ、おまえも、大概だな」
「どういう意味だ」
おかしそうに喉で笑って、吸血鬼も彼女達を楽しそうに目を細めて眺めた。
「そのままだ。モンスターの巣窟に迷い込んだ、哀れな迷い人を、元いた場所へ送り返すのもいい。幽霊の餌食にしてもいい。魔女の玩具にしてしまってもいい。おまえの実験台にしてしまってもいい」
吸血鬼は一度博士に視線を戻すと挑発的に笑った。博士もにやりと歪んだ笑みを浮かべて、改めて彼女達を眺めた。
「止めないのだな」
「おまえこそ。人間同士、止めに入るかと思った」
「何を言う。魔女の実験体など、そうそう手に入るものではない!」
「静かに」
博士ははっとしてもう一度息を潜める。二人に気づいた魔女が、分からない程度の目配せをくれた。
「……君、わざと私に迷い人の話をしたね?」
答える代わりに両手を軽く上げて、吸血鬼は知らぬふりをする。
「俺は別に、あれがどうなろうと、どうでもいい。おまえの言うよう、ここで祟られては面倒なんだ。だから、餌食でも玩具でも実験台でも、したいなら好きにするといい」
もう一度、博士は老婆を見やる。
「あんなに甲斐甲斐しく世話をしているのに、幽霊君も魔女君も、そうだとはな。モンスターとは、いやはや、末恐ろしい」
言葉とは裏腹に、博士はにやにやと笑って話す。吸血鬼の何か言いたげな視線を感じたが、それは数秒の後に彼女達に戻っては消えた。
「誰も何もしないのなら、俺が送り届けよう」
「ふふふ、早い者勝ちというわけだね」
「好きにしろ」
ひらりと手を振って彼が廊下の闇に姿を消すのを見送ると、博士は一度頭を抱えて踞ると、大きく深呼吸をしてから、立ち上がった。
「はあぁぁ……あぁ、いいねぇ。冬の夜は長そうだ……!」
その後、その老婆がどうなったのか。屋敷に住む四人以外は、誰も知らない。
冬のモンスター達
モンスターにとって一年が終わり始まる十月末。その日を起点としてあの世とこの世が曖昧に混ざりあい、魂は生前の者を訪ね還り、人間は暖かい家の中に籠り、モンスターは夜の闇に紛れて動き始める。
その日はやけに大きく感じる満月の夜だった。数日前までワイルドハントの嵐のように吹き荒れていた風は忽然と止み、雷の音や獣の遠吠えも聞こえなくなり、しんとした、寒さが身に染みる夜だった。幽霊屋敷と知らずに迷い込んだ男女は、抱きあいながら屋敷のロビーを一歩また一歩とゆっくり歩いていく。
女は腹からぽたぽたと血を流し、男は片脚を引きずっていた。二人は屋敷に入るなり扉を閉めてロビーの中央辺りで力尽き、崩れるように蹲った。
「あら、こんばんは」
突然の声に慌てて男が声の方を見上げた。気づかないうちにそばに来ていた女にびくりと驚いて、男は一瞬言葉を失った。
「驚かせたかしら」
「……あぁ、よかった。人がいた。匿って、ください。変な男に……あれはモンスターだ……大男に追われて……僕は、ここまで逃げて来られたけど、途中で、友人が、掴まって……」
男は息も絶え絶えの女を両腕に抱きしめて震えた声で話してくれる。女の腹から流れる血は止まることを知らない。
「何か、止血するものを……死ぬな……死なないでくれ……」
男は腕の中の女に何度も話しかけるが、それは次第に息を潜め、男の腕の中で密やかに息を引き取った。女の首には野犬のようなものに深く噛まれた跡があった。
「あぁ……そんな、起きてくれ」
男は絶望に頭を垂れて、女をしっかりと抱きしめて声にならない嗚咽をあげた。
「残念ね……」
幽霊はそっと男のそばに歩み寄って声をかける。男は濡れた顔のまま幽霊を見上げて、頭を大きく横に振った。
「……その方、もしかして、身籠ってらっしゃる?」
不意に幽霊がそう問うので、男は深く頷いた。
「あぁ、そうなんだ。友人夫婦なんだ。二人とも、あんな、モンスターに……襲われ……殺されるなんて……」
言いながら縮こまる声に、幽霊はただただ側にいて話を聞いていた。
「あら、お話してくださるの? どんなお二人? どんなモンスター?」
「あぁ、思い出したくもない……」
男は幽霊を見直す。間近で見て、あまりに色白で覇気のない顔色をした女性だなと思った。屋敷の中とはいえ肌寒いのに、彼女は薄手のワンピース一枚で違和感を覚えた。さすがに寒いはずだ。なのに、彼女は平気な顔をしている。よく見るとスカートの裾が少し透けていて、色素の薄い髪色のせいか、髪も先端が透き通って消えているように見えた。
「お、おまえも……人間じゃないな?!」
咄嗟に男は幽霊から距離を置こうと後退るが、負傷しているらしい脚をもつれさせ、立ち上がろうとして尻餅をついた。幽霊を拒否するように両手を前に出して男は叫ぶ。案の定、その手は幽霊の肩をすり抜けた。幽霊は立ち上がってみせるが、やはりスカートの裾は途中から消えている。
「く、来るな!」
懸念が確信に変わり、男は恐怖と混乱に声を荒らげる。幽霊は手を差し伸べようとするが、男は間もなくして人魂となり幽霊の目の前でぷかぷかと浮いた。ふわりと簡単な風を残して、その形さえ消えていく。幽霊は残された女の死体を眺めて頬に手を置いた。
「まぁ……失礼ね。せっかくお話を聞いてさしあげようと思ったのに」
言いながら、彼女は死んだ女の顔に目が行った。苦しんでいるように見えたのだ。うっすら開いたままの目蓋を閉じてやると、幽霊は何度かその頭を撫でた。
「ねぇ! 何かあった?! 外にいるの誰?」
パタパタと魔女の駆けてくる足音が聞こえる。魔女は少し慌てて問いかけつつ、屋敷の外を警戒する。すると、ガサガサと外から音がして、それが次第にこちらに近づいてきた。一つ二つの音ではなかった。
「誰かしら」
「怪我人? 手当ては?」
「今ね、男の人とこの方がいらして。男の方は人魂になってしまったのだけれど」
「待って。外から変な音がする」
「この方達が呼んだのかしら」
「え?」
「この方の死が、外のお客さんと呼応しているの」
「あ、死んじゃってるんだ」
魔女は事態を理解したようで、呆れたように目を細めた。
「死んでまで私達にちょっかい出してくるなんて、こいつ何様?」
魔女はくるくると指先を回していくつかの光を集める。話しかけようと幽霊の方を振り返ると、屋敷の奥から吸血鬼と博士がやってくるのが見え、一度魔法を止めた。
「あ、いいところに」
「君達もお揃いとは! ゾンビの呼び主は誰かね?」
「この人のこと?」
魔女が、幽霊の抱える死んだ女を指さす。吸血鬼はそれを軽蔑するように一瞥して羽織っているマントで顔を半分隠す。博士はいくつかの瓶を服のあちこちに詰めながらやってきて、女の死体を見つけるなり珍しそうにそれを凝視する。
「なんと。妊婦なのか」
「外にいるの、ゾンビなの?」
「ゾンビと、もう一つ」
「そうなのさ! 彼以外に、もう一人、吸血鬼がやってくるそうでな。ぜひとも私も話をしたい! その前に、この遺体は私が預かってもいいかね? 一つ実験をしたい。実体のある幽霊の類に妊婦の幽霊がいるのだよ。まぁ、人間のはらわたを喰らうが、そこは仕方ない。そのサンプルに、ぜひいただきたい!」
「化けて出させちゃダメじゃん」
「幽霊、それは人魂にできないのか」
「わたくし、やろうと思ってやっていないから、できるかしら」
「ダメなら私がなんとかするよ」
「待ちたまえ。私が預かるというのに!」
「行ってくる」
「待ってくれ! 分かった、共に行く! 幽霊君、魔女君、それは任せた!」
「ふふ、うん、任された」
慌てる博士をくすくすと笑って魔女が答える。魔女は扉を開けようとする二人に両手を掲げる。星屑を散りばめたような光がチカチカと二人の周りに輝いた。
「簡単な防御魔法をかけとくね」
「ありがとう」
「助かる!」
そうして二人は屋敷から外に出ていった。魔女はそれを見送ってから、幽霊と女の死体を振り返る。
「それ、私がどうにかしちゃっていい?」
幽霊は頷く。悪夢でうなされているような死体を、魔女は魔法で包んでいく。白い強い光とオレンジや黄の淡い光が幽霊も含めて大きく包んでいく。幽霊は邪魔しないように死体から離れて魔女の側に移る。魔女は幽霊ににこりと微笑みかけて、ぱちんと指を鳴らした。
「これで終わり」
風が渦巻いて、光とともに死体は分解されていくように光の粒となって天に昇って消えていく。それをぼんやりと眺めて、幽霊はふと感想を口にした。
「魔女ちゃんの魔法は、わたくしが人魂にしてしまうのと、同じ?」
「違うと思うよ? 今のは、炎魔法。単純に火葬するのと同じ」
「はぁ……こんなに美しい火葬もあるのね」
見とれて幽霊がため息を漏らす。
「火葬なら、モンスターにならないのかしら……」
「埋葬するよりは、ならないだろうね」
話が一段落するかしないかで、ドンと扉を叩く音がした。続いて何度もドンドンと扉を叩く音がする。
「な、ちょっと、ゾンビは放置してるの? 博士達、全然仕事してない」
「その、もう一人の吸血鬼さんを探しに行ったのかしら」
「なーんか、嫌な予感はするんだよねぇ」
魔女は大きく息を吸い込んで両手を広げた。自分に何かの魔法をかけたようで、屋敷を赤い光が包んでいく。
「幽霊はここにいて。屋敷の中なら安全だから」
「ふふ、ありがとう」
そう言って魔女は思い切りよく屋敷の玄関の扉を開けた。
一方、博士は無作為に近づいてくるゾンビを避けながら吸血鬼の後を追っていた。死臭の酷い緑や黒の肌に溶けたように骨の見える腕や脚をしたゾンビ達は、集団で固まってのろのろと博士を追った。
「ふふふ、ゾンビにも種類はあるようだが、このゾンビは簡単だ。脳が機能していないのだろうな。言葉を発しないし、行動が単純だ。仲間を求めて群れたがる。分かりやすい!」
博士は一体のゾンビを後ろ手に拘束して掴まえていた。それを餌に他のゾンビを釣って行列を作っていた。
「腐敗の度合いも含め、個体差は死んだ時の差だろうか。先の女の死で呼ばれたのなら、女が消されたならこのまま徘徊するだけの存在かね。生憎ネズミの死体しか持ち合わせなかったが、噛まれてネズミの死体が動き出したあたり、感染型なのだろう」
瓶に入った串刺しのネズミを眺めて博士は顎を撫でる。目の前で頭を垂れるゾンビが、頭をあげて大きく唸った。少し驚いて口角を上げた博士は、視界の端に魔女の姿を捉えて視線をそちらに向けた。
「魔女君か、早かったな!」
言葉を言い終わらないうちに、視界が真っ白に輝いて染まる。あまりの光の強さに目が眩んで、博士は持っていた何もかもを落として両手で目元を押さえた。続けて耳鳴りがするように耳に圧力を感じて膜がかかったように、数瞬、音が遠退いた。
「あ、ごめん」
くぐもった魔女の声がする。やんわりと温かい何かが身体中を包む気がして、眩んだ視界と耳鳴りが徐々に戻っていく。
「ごめん! もしかしてサンプルってやつも消えちゃった?」
戻った視界にはゾンビの姿は跡形もなく、空気も一新して場違いなほど清々しい森の香りになり、自分の周りのいくつかの木々は消え、お陰さまで月明かりがしっかりと辺りを照らしていた。足元を見やると、割れた瓶の破片がキラキラと月明かりを返していた。針だけが転がって、ネズミの姿はなかった。
「……なんということだ!!」
「あ、やっぱり消えちゃった?」
「あぁ。いや、だが……うむ、そうだな、まぁいい!! 記録は頭に残っている! 本命はまだいるのだから」
無理に己を納得させるようにして博士は頭を抱える。彼の言葉を聞いて、魔女は頷いた。
「私も。最初に気になったのは、そっち」
二人はともに頷く。
「魔力の流れ自体もね、気になるの。幽霊だと屋敷全体に満遍なく漂ってて、博士はちょっとだけど内側で渦巻いてる。吸血鬼は相当ある魔力を消して、わざと潜んでる。この気配は強いのか見かけ倒しなのか、吸血鬼みたいに潜んでるんだけど、潜みきれてない」
森の暗がりから戻ってきた吸血鬼が二人に軽く手を振る。少し苛立った態度でマントに身を隠して、己の来た方角を睨んだ。
「あぁ、最悪だ。よりによってあの姿か」
「何があったの?」
「吸血鬼ではなかったのか?」
「いや、吸血鬼だろう?」
少し軽蔑するように吸血鬼が嘲笑う。
「フクロウに化けて吸血する者も、人間の女を孕ませ吸血する者も、あれも、俺も」
満月の月明かりがしっかりと三人を照らす。オレンジの瞳とエメラルドの瞳が月光に輝く。そこに潜む興味を認めて、吸血鬼は改めて前方に視線を飛ばす。
それは、吸血鬼が見つめる森の闇から姿を現した。黒衣の大男だった。男は人間にはいないサイズの大柄で、その体躯をすっぽり包み込むほど大きい黒い光沢のあるマントとシルクハットを被り、重そうな何かを引きずりながら枯れ葉の轍を作り、月明かりの下にやってくる。男は三人を見つけると、荷物を引きずる手とは反対の手でシルクハットを手に取った。
「ごきげんよう」
「ふふふ、二人とも私に任せたまえ。やぁ、ごきげんよう! こんな夜更けにどなたかね?」
博士が率先して挨拶をする。吸血鬼は苦虫を噛みつぶしたように顔を歪ませて、魔女を庇うようにマントで隠そうとした。大男は魔女が作った月明かりの差し込む空間まで出てくる。彼は棺を引きずっていて、思わず魔女は隣の吸血鬼を見た。本人はその視線に首を振って答えた。
「こちらに、女が逃げてこなかったかね。手負いの女だ」
「あぁ、見かけた。知り合いかね?」
「知っているのなら、教えてくれ。もらい損ねたものがあってな。どこにいる?」
「生憎、死んでしまったものでな」
博士が答えると、魔女も吸血鬼の腕とマントの影から、あっけらかんと続けて話す。
「死んじゃったから、燃やして弔ったよ」
「燃やして? 何をしてくれたんだ!」
男は棺に括りつけられた縄を手離し、両手を大袈裟に広げて怒った様子で声を荒らげた。
「格好の獲物だというのに、燃やしてしまうなんて!」
「獲物……ふふふ……やはり君も彼と同じ吸血鬼なのかね?」
博士の問いに、大男はハットの奥の目玉を大きく見開いて、目の前の吸血鬼を見下して嘲るように大口を開けて笑った。尖った牙がこれ見よがしに唇から覗いた。
「これはなんと幼き同胞か! あぁ、そうだ。私もこの小僧と同じ、吸血鬼さ」
「ほう?」
博士が楽しそうににやついて相槌を打つ。魔女はまじまじと大男を見つめていた。シルクハットを深々と被っているせいで目の色は見えないが、黒い髪と、はっきりと尖った耳は見えた。肩を震わせて男はひとしきり笑うと、もう一度威嚇のように大きなマントを広げてみせた。元より大柄な男が、よりいっそう大きく闇を広げてみせる。
「あぁ、哀れな小僧だ。あれは身籠っていたぞ。あんな甘美な獲物に気づかないなんて、愚かな同胞もいたものだ」
魔女と博士が吸血鬼を見やる。当人は白々しい冷めた顔で淡々と告げた。
「何が同胞だ。身の程しらずが」
「君とは違う種族だというのか」
「俺は脆くないと言っただろう」
「では、この男は何と呼べばいい?」
「血を糧にするなら吸血鬼なんだろう? 正確な呼称なんて、なんでもいい。生ける屍、死に損ない、成れの果て、蘇り、生と死の狭間の者、不死者……”会話できないモンスター”でもなんでもいい。人間には、この姿は有名なんだろう? 瘦せ細った大男。残忍な殺しをする、竜の者。だいたい、言葉は操るが、こいつらは脆い。聖水に焼かれ、太陽を嫌い、やたらと仲間を増やす」
「なんだ、見かけ倒しなのね」
「良いサンプルになりそうだ!」
「煮るなり焼くなり好きにしろ」
踵を返しすたすたと帰ってしまう吸血鬼の後を大男が追う。魔女と博士には目もくれずに、舞台役者のように大きな手振りで話す。
「つれないじゃあないか、幼き同胞よ」
「しつこい」
苛立ちを露に吸血鬼は大男を振り払う。力は、吸血鬼の方が上だった。
「大人しく土に還れ」
「この先に屋敷があるだろう。数百年前までは人間の営みはあったようだが、建物自体はより古い。最近は戦が絶えず、年代物の建物は少なくなってしまってな。知っていたら教えてほしい」
「……」
「もしや、小僧の根城だとは言うまい?」
大男は懲りずに話しかけるが、吸血鬼は代弁を頼むように魔女に振り向き、魔女が代わりに口を挟んだ。
「は? あなた、屋敷に手出すつもり? そんなことして、どうなっても知らないからね?」
「なるほど? 獲物といい、根城といい、どこまでも邪魔してくれる」
大男は魔女に向き直り両手を広げてみせるが、魔女は白けて見返すだけだった。
「威嚇のつもり? 無意味なんだけど」
「いいねいいね! 動物的行動だ。より図体が大きく見える方が力も強いといった、よく見られる威嚇行動だね! 納得したよ。こういう輩がいるから、我々がモンスターについてまとめるとなると語弊が出てくるわけだ。他には何をしてくれる? 特徴の切り分けがしたい。君は太陽の光では死ぬのか? 吸血鬼と名乗るくらいなら不老不死の特徴はあるかね?!」
博士が目を輝かせて話に割って入るので、大男は驚いたような反応を見せてから大声を上げて笑った。
「甘く見られたものだな。人間風情が、あまり調子に乗らないことだ。小僧、君もだ。不死の君を亡き者にするくらい、私にはお手のものだ」
吸血鬼が訝しげに大男を見返すと、大男は躊躇いもなく吸血鬼の肩を掴み、胸元に拳を叩きつけた。その手には銀色に光る釘のようなものが握られていた。振動で少し後退りはしたものの、吸血鬼は淡々と大男を見返し、面倒そうに手を振り払った。血を流すでもなく、苦しがるでもない相手に、大男の方がようやく笑いを失くして驚いた。その反応を見て、博士は我慢しきれずに思わず吹き出した。
「くく、ははは! なるほど、いいね! 銀の杭か。確かに吸血鬼に効くとされるが、実際どうだ? その小僧とやらには効いたかね?」
男が退いて杭から手を離す。はらりとスカーフが落ちて、男がその杭を直接持っていなかったことも判明した。信じられないとばかりに両手で顔を押さえて大男が吸血鬼を見ているが、当人は胸に杭を打たれたまま平然としている。
「ほんとに何ともないんだね」
「まぁな」
「ねぇ、博士、もういい? 私、もう飽きちゃった」
「いやいやいや、今から本番だろう。待ちたまえ」
カランと音がして吸血鬼が杭を投げ捨てる。わずかな血痕のついたそれを、博士は落ちているスカーフごと拾い上げて大男に問うた。
「ふふふ、吸血鬼君のサンプルまで手に入るとはついている! でかしたぞ、君! さぁ、次は君の番だ! 何を差し出してくれる? 確かに君達は特徴が似ている。だがしかし、君は死なないか? 炎で焼かれれば死ぬか? 十字架は? さぁ、変身でもしたまえ!!」
「な、」
頭にきたのか、大男は博士の胸倉を掴もうとするが、博士は何かを撒き散らす。大男は怯んで膝をつこうとしたが、何か大きなものが博士の視界を覆った。
「ねぇ、何してくれるの」
ガツンと力強い音がして、重い風圧が森中に吹き荒れ、木の葉が森の奥へと散った。博士の液体を浴びて、大男の顔が少し爛れていた。男は運んできた棺を振り落とそうとして、博士達の周りに剣山のように並ぶ岩にそれを思い切り叩きつけていた。魔女が作ったのだ。ガラガラと岩が崩れ、大きな音を立てて棺は地面を揺らした。
「残念だ。君は聖水でしっかり焼かれるのか」
「この、人間風情が!」
「あほらし。ほんと口先だけじゃん」
魔女は苛立った口調でいくつもの岩で博士を囲む。大男はシルクハットを脱ぎ捨て、おもむろに牙を剥き出しにして、赤い目をひん剥いて、元の背丈よりも大柄な蛇へと姿を変えた。先程博士に焼かれた肌の跡は、鉛色の鱗になって歪に光った。
「うわぁ、色合いが、ちょっと、グロテスク」
「なるほど、やはり変身する種族か」
口元に青い炎をちりちりとさせる大蛇が首をもたげる。淡々と眺めていた吸血鬼が、己の周りに冷気をまとう。空中の塵が凍りキラキラと光る。低温の空気を纏って息を白くしながら、吸血鬼は苛立っていた。
「もう、いいか」
「私も、飽きた」
愛想笑いをしているが、同じく魔女も苛立っていた。地面を抉り取ってできた大きな岩の塊がいくつも宙に浮いていく。 大きな地響きとともにいくつもの岩が落ちてくる。砂埃が舞い、大蛇を地面に縫いつけるように埋めていく。それを固めるように氷が地面を覆う。魔女の岩と吸血鬼の氷を眺めながら、博士が楽しげに笑った。
「くくく、炎を操る蛇のせいか、埋められて凍らせられてはさすがに効いていると見える。残念だよ! こんなことで弱るのか。吸血鬼君のような不老不死には程遠い!」
博士が幾つかの液体の入った小瓶を両手に握りしめる。大蛇がカタカタと細かい音と振動を携えて、大きく口を開けた。大きな固まりを吐き出すように青白い炎が上空に吐き出される。博士は思い切り小瓶を宙に投げつけると、魔法の込められていた液体が膜のように広がり、炎とぶつかり激しい光を放った。博士は喋りながら不用意に大蛇に近づく。
「おまえ、死ぬぞ」
咄嗟に吸血鬼が博士を引きずって連れ戻す。彼のいたところは大蛇の尻尾で何度も叩かれ地面が割れた。博士は懲りずに手の中のものを見せびらかして笑う。
「ははは、見たまえ!! 鱗だ。これをあと数枚いただこう!」
「ふざけるなよ」
「ちょっと博士!」
吸血鬼の言葉によそ見をした博士を、今度は魔女が大蛇の尻尾の衝撃から庇う。二人は吹き飛ばされ木々に当たりながら、透明な球体に入っているようで、地面にいくらかバウンドして落ちてきた。魔女の魔法だった。
「もういいね? 手加減してるとキリがない」
「あぁ、十分だとも!」
大蛇は博士達の後をつけてやってくる。その向こうに吸血鬼が大きな赤い炎を背負って待っていた。
「……追い払うだけにしようと思ったが」
「珍しい。吸血鬼君、まさか、怒っているのか? 何が原因だ?」
「ねぇ、吸血鬼。これって炎の方がいいの? 氷?」
「おまえならなんでもいいだろう」
「おっけー! そしたら炎にしよっかな」
二人が大きな炎の塊を出現させる。大きな塊は、辺りの木々に燃え移りながら更に大きさを増していく。
「バイバイ」
炎はゆっくりとぶつかりあい、大蛇を飲み込んで、木々をも飲み込んで炎の柱を立てる。大蛇は青白い炎を吐きながら、天に昇るように体を炎に焦がして、塵となって消えていった。
夏のモンスター達
雨の多い日々が続いた後の、晴れの日だった。普段はそこまで湿った空気にはならないが、雨の影響で森はじめじめしていて、普段なら動くと少し汗ばむ程度の暖かな空気も、あまり心地よい温度とは言えなかった。加えてその夜は新月で、おまけに雲も多く、ほとんど明かりのない夜だった。
頼りのランタンを片手に、博士は生い茂る草木の間を縫っていく。足元の草は伸びきっていて、博士のズボンの裾を露で濡らし、たまに革靴に絡みついた。彼は大きな鞄を持っており、ランタンと鞄で、両手は塞がっていた。
黙々と森を進んでいく。木々が風にさらさらと音を立て、鳥や動物が逃げていく声がする。前方奥に、光る目が見えた。木の上のようだった。猫か何かと思うが、近づくにつれ、それはフクロウだと分かった。しかし、ただのフクロウには見えなかった。何かが違う。違和感が拭えない。博士は鞄とランタンをむりやり片手で持ち直し、鞄の中からいくらか取り出して、それを上着やズボンのポケットに詰め直す。フクロウはじっとこちらを光る目で見つめている。やけに大きく感じるが、違和感の正体は大きさではなかった。開いた嘴に、あるはずのない歯があった。
「なるほど食人鬼の類かね?!」
博士は走った。フクロウが博士めがけて降下してきたからだ。ランタンの火が揺れる。鞄の中身はガラガラとガラスか金属のぶつかりあう音を立てる。フクロウはもう一度上空へ滑空して、枝に止まらず狙ってくる。博士は逃げる。フクロウは追う。何度かそれを繰り返して、二人は森の奥へ奥へと迷い込んでいく。
湿気は博士の体力を奪った。普段なら気にしない程度の気温も、まとわりつく湿気のせいで、博士は走りながら上着を脱いだ。鞄にそれを括りつけて博士は走る。もう一度フクロウが大きく嘴を開けて突撃してくるが、博士は転がるようにしてそれを避けると、上昇していったフクロウはそのまま木々の闇に消えた。諦めたようには見えなかった。
食人鬼の類のサンプルはまだ入手していなかったので、チャンスではあった。だが、そう闇に紛れられては、人間の目には見つけることは難しい。
「さて、どうする、かね」
息を切らして博士は膝に手をつき立ち止まる。辺りを照らすようにランタンで灯してみるが、木々の闇は簡単には晴れてくれない。諦めきれずにうろついているうちに、水の音が聞こえてきた。
「ほう。こんなところに川があったのか」
走ることに専念しすぎて、ほんの目と鼻の先に川があることに気づかなかった。ただ、川というには細すぎて、博士の胴体ほどしか太さはない。
「覚えておこう。今はまずあのフクロウか」
細くてもしっかり流れを作る水は、まるで春の雪解け水のように澄んでいた。博士が川の場所や状態をメモに取ろうと鞄を開く。区切りがあるにも関わらず中身は散乱してしまい、取り出す際にペンが落ちた。
「む」
拾おうとしゃがんだ瞬間、視界の端に再びフクロウを見つけ、思わず水飛沫をあげた。
「来たまえ! 捕まえてやる!」
川に片足を突っ込んだまま博士は叫ぶ。水が冷たい。湿気と熱気に上がった体温には調度良い冷たさだ。
フクロウは落下物のように放物線を描いて博士めがけて落ちてくる。大きく開いた嘴の中を正面から見て、博士は口端を歪める。内側は二重にびっしりと牙が生えていた。獲物の頭に真上から食らいつくようにフクロウが落ちてくる。博士はランタンと何かを構え、次の瞬間、その場は爆発した。
「なんだと?!」
爆発音に混じって博士の叫び声が聞こえた。舞い上がった粉塵がゆっくりと地面に落ちていく。博士は己の頭を抱えて、すっかり焦げてしまった上着と鞄を放り捨てていた。
「いや、今、確かに成功した。この手のものは頭を爆発すれば胴体はサンプル採取できるはずだ。それに、私は今確実に羽根を掴んだはずだ。なぜだ。あれだけはっきり見えていたが、霊魂の類だったのか?!」
爆発した後に、その破片すら、羽根一つすら残っていない。博士は己の服と鞄を爆発させただけのように見えた。上着と鞄は川の水に浸かってしまったが流されてはいなかった。それらを取り上げて、すっかり濡れてしまったズボンの裾を気持ちばかり絞った。おかげでしわができたが、博士はそれどころではなかった。
少しでもフクロウの破片を探す。だが、やはり見つからない。代わりのように、濡れた足や鞄の周りを、小さな青い炎がふわりと姿を現しては消えているのを発見した。
「人魂……ウィルオウィスプのようだね?」
博士は目を凝らす。指先ほどのほんの小さな青い炎は、現れ消えてを繰り返して、それからいくつも集まってきては濡れた足元を包んでいく。蛍の光のようなそれは、手を伸ばそうとすると一斉に散っていく。
「ふむ、幽霊君が傍に住んでいるだけあって、誘われる霊魂もあるのだろうな。その一種か。この時期に現れる種もあるのだな」
じっとしていると、それはゆっくり集まってきては、こちらを観察するように近づいては遠のくのを繰り返す。博士は少し濡れてしまったノートの無事なページに思ったことを書き込んでいく。
すると、ふわりとそれらが一斉にまた散っていく。森の闇に消えていくそれを眺めながら、精霊の類だったかもしれないと、博士は思い直した。
「あはははは、アタリ? ハズレ? アタリ?」
唐突に声がした。あまりに唐突で、博士は反射的に振り向いた。そうして、見た瞬間、彼は顔を明るくした。思い当たるものがあったのだ。
「あはははは、はじめまして、噛んでいい?」
赤いチャイナ服を着た少女だった。少女、とは語弊がある。子供というには大人びているが、大人というにも成熟しきっていない幼さがあった。同じく赤が基調の帽子を被り、黒く長い髪を二つにまとめ上げている。土気色の覇気のない顔をして、声は楽しそうに笑っているが、黒すぎて瞳孔の分からない瞳で見開いて、形ばかり上がった口角からは鋭い歯が覗き、直立したまま笑っている。
「君、もしかしてキョンシーかね……?!」
「あはははは、アタリ? ハズレ? アタリ?」
要領を得ずチャイナ娘は笑う。誤魔化しているのか、何も考えていないのか、分からない。博士は不躾に相手を眺めて話す。
「書物でしか見たことがなかった! 実在しているとは! やはり、土の中から出てくるのかね? 寝床はどこだ? 実のところゾンビとキョンシーの違いが分からなくてね。どちらも生きているが一度死んだ成れの果ての類らしいが、そうなのかね。君は相手を噛むものなのか。吸血鬼のように血や、肉でも喰らうのかね」
「あはははは、噛んでいい?」
壊れたように彼女は笑う。博士も次第に楽しくなって笑った。
「ふふ、ははは、それは君の習性かね? キョンシーはどういった種族だ? 噛まれたらどうなる? ゾンビになるのではないか? なるのは人間だけか? 人間の体……私の体で試すのが最も効率的だな! 効能の次第も分かる。死者についてならゾンビで研究済だが、過程は分からんからな」
「キョンシー? あたし、キョンシー。教えてくれたら、噛んでいい?」
意味の分かるような分からないような問いかけに、博士は釣られて頷いた。途端、彼女は直立のまま博士に倒れこんでくるので、博士は思わず受け止めた。
「危な、い?!」
言い終える前に、彼女は博士に思い切り噛みついた。肩を喰いちぎられるかと思う力だった。思わず相手を掴むが、それは死体のように体温がなく、見た目に反してものすごく硬かった。二人は支えあうようにその場でしばし立ち尽くした。
「噛まれた……。なんという顎の力か……」
チャイナ娘は満足したのか、元々表情のあってないような顔で博士をまじまじと見つめてきた。黒い目は相変わらず笑わない。口元は幼い子供が食べ散らかしたように血で汚れ、半開きの口元から覗く鋭い歯は、未だ血に滴らせ拭うことをしない。直立のまま動こうとせず、ただただ博士を見つめてくる不自然さが目立ち、気づくのが遅くなったが、彼女は深い赤紫のような長く鋭い爪をしていた。
「それは? 獲物を逃がさない意味でもあったりするかね?」
「それ?」
「爪だ。よく見ると少し濡れている?」
「爪、可愛い? 可愛くない? 可愛い?」
「分からんが可愛いのだろう!」
「あはははは、みんな死んじゃうのに可愛い」
前に倣えをするように彼女は両手を前に出して手を広げて見せる。博士はここぞとばかりにガーゼなどを鞄から取り出してサンプル採取の作業をしながら彼女以上に笑った。
「ふふふ、いいね、いいね、こうでなくては! 君、協力感謝するぞ!! やはり何か塗ってある。いや、そういうものなのか。死ぬといったね? これは毒か。いいサンプルになる。他にも教えてくれ! 私はゾンビになるのかね? 君に噛まれたが案外痛くないものだな!」
「あはははは、爪、可愛い」
「君は可愛いがキーワードかね。まぁ、いい。ゾンビとは違いそうだが、どういった生態だね? 君の体はなぜそんなに硬い? まるで鋼だ!」
「鋼?」
「あぁ、鋼鉄の体だ! ゾンビはそんなことはない。君はそれこそ死ぬことはないのかね?」
「あたし、死んじゃってる! あはははは」
「自覚があるのか! なるほど! ここにはなぜ来た。元々この辺に住んでいるのか?」
「住んでいるのか?」
「家はどこかね? どこから来た」
「家? 吸血鬼くんの家? アタリ? ハズレ? アタリ?」
「おぉ、彼の知り合いかね! いや、彼は屋敷に住んでいるのではないのか? まあ、いい。聞けることを聞いておきたい! 吸血鬼君が家とはどういうことだ?」
「吸血鬼くん、噛んでいい?」
「ふふふ、はははは、最高だな。それはそれで大変興味がある! 屋敷なら向こうだ。案内しよう!」
「あはははは、アタリ!」
相変わらず笑わない顔でチャイナ娘は笑う。不自然に彼女は歩き出して、博士に体ごと向き直る。
「吸血鬼くん、どこ?」
彼女はぴょんぴょんとその場で楽しそうに跳ねる。持ち物を拾い、博士が案内しようと行き先を促せば、意外に速い速度でついてくる。
「彼に何の用だい?」
「あはははは、あんた、キョンシー?」
「そう問うということは、やはり君に噛まれたらゾンビでなくキョンシーになるのだな」
「あはははは、アタリ? ハズレ? アタリ?」
博士は服から時計を取り出して、針を眺めつつチャイナ娘に話しかける。
「屋敷はもうすぐだ。それよりチャイナ娘よ! さっきから歩きづらそうにしているが、もしや関節があまり動かないのかね」
膝、足首から下、手首や手はかろうじて曲がるようだが、肘、首、胴体や腰は全く動かなそうだった。目の周りの筋肉は動かないが眼球は動くようで、顔の向きを変えず彼女はぎろりと博士を見て、笑わない顔で笑った。
「おぉ、噛み跡はこうなっているのか! 素晴らしい!! さぁ、私もキョンシーになるのか、キョンシーとはなんだ。ゾンビではないのか。結果はいつ出る。まだ時間がかかるものか?! その前に一つ切り分けだ。君は幽霊君のような制限はあるのかね? 何が君の特徴で、何が弱点かね?」
「あたし、それ嫌い」
「何が? これか? 鏡?」
「あはははは、それ嫌い」
屋敷へと歩きつつ、博士はポケットから手鏡を取り出して自分の傷跡を眺めていた。思いの外、痛みがないのだ。しっかりと服が破けて噛み跡は深くついている。本来なら血を流し、激痛に噛まれた左側の腕は動かしたくないはずだ。しかし、それが全くない。
「どういう仕組みだ?」
「吸血鬼くん、どこ? アタリ? ハズレ? アタリ?」
「ふふふ、もうすぐさ!」
そうして話しているうちに屋敷が見えた。チャイナ娘は不器用な歩みをやめて楽しそうにぴょんぴょんと跳ねて屋敷へと近づく。それが、やはり意外に速い。
「吸血鬼くん、どこ?」
両手をぶんぶんと振ってみせる。あぁ、肩関節はしっかり動くのかと博士は思った。その後姿を観察してノートに書き記そうとして、手先が震えていることに気づいた。気づけば、両足も体を支えきれずに崩れようとしている。
「おぉ!」
博士は楽しそうに笑おうとするも、喉がいうことをきかない。ばさりと、ノートとペンが地面に落ちる。草の露にじんわりとノートが濡れた。
「博士!」
遠くから声がする。ぐらりと視界が回転して、地面に倒れこんだと認識できた。屋敷の扉が開いたところまでしか見えなかったが、声からして魔女だろう。
「あはははは、吸血鬼くん、こんばんは、噛んでいい?」
「噛まれたのか!」
「私がなんとかする!」
声の主が、吸血鬼と魔女だろうと思う。博士は面白くて笑おうとしたが、やはり声が出ない。魔女の魔法が視界を覆う。せめて今の時刻が見たいと、博士は手を動かそうとする。
「……はは、なるほど。まずは手足の自由がきかなくなるのか。痺れに、麻痺。それから、痛みを感じなくする作用は負傷箇所ではなく脳か……。直接作用しているのか?」
「博士!」
ついに声が出て、博士本人も驚く。魔女は心配そうに顔を覗き込む。どうやら横向きに倒れたようで、負傷している左側を強打しているはずだった。体は痛みもなければぴくりとも動きもしないが、視界だけははっきりしていて、吸血鬼とキョンシーが話している様子が見えた。
「おぉ、魔女君。すまないが、私の部屋から胸ポケットの……同じ記号の、薬……た、なに」
言い終わるが早いか、魔女は大きく魔力を込めて博士を包む。魔女が吸血鬼達を呼んで、何か話をしている。キョンシーから受け取ったらしき手紙を片手に、吸血鬼が腕を組んで博士を見下した。
「おまえ、いつか本当に死ぬぞ」
「はは…………研究が、完成していれば……本望、だね」
「爪、可愛い? 可愛くない? 可愛い?」
キョンシーが相変わらず笑って問いかける。博士は笑ってしまって、可愛いと答えてやる。彼女は表情こそ変わらないが嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねた。
「死ぬぞ、ハズレ? 死ぬぞ、ハズレ、死ぬぞ、ハズレ、可愛い、好き」
たどたどしい言葉遣いだが、言いたいことがなくとなく伝わった。隣の魔女が呆れたように軽く笑ったのが見えた。博士がもう一度言葉を発しようとするが、何を話そうとしたか、途端にわからなくなった。
「あった、これだよな」
いなくなっていたことさえ分からぬうちに吸血鬼が戻ってきた。彼は近づいてきて、博士の上体を起こして魔女と何かを話している。魔女は見えるように持っている瓶を博士の目の前に出して話している。声が、聞こえなかった。
あぁ、その薬だ。すまないね。と言ったつもりだったが、自分でも聞こえない。視界の中で、魔女が何かを叫んでいるように見えた。意識はそこまでで途切れていた。
屋敷にキョンシーが訪ねてきてから二週間近くが経った。すっかり雨の名残はなくなり、森にも屋敷にも暖かく爽やかな風が吹く。それでも季節感なく物に埋もれた博士は、二週間ぶりに部屋から出てきて幽霊達に大声を上げる。
「ついに、できたぞ! やはりサンプルがあると早い! これでキョンシーに噛まれずともいつでもキョンシーになれる! ついでだが、キョンシーになった人間を治す薬もできた。この二つは作用がちょうど真逆でね。面白いことに不可逆でもなかったのだよ。つまり、あれは生命としては実は生きている状態であるとも考えられる。ゾンビが一度完全に死者となって蘇るのとは訳が違う。いや、実はゾンビ自体が本来完全な死者ではないのかもしれんな!!」
「あら、おめでとう」
「ねぇ、それって正規の大発明なんじゃ……」
「ゾンビ自体が死者ではない場合に、仮説はまず二通り考えられる!」
生憎と吸血鬼は姿がなかったが、博士は二人に次々と説明をする。単純におめでとうと喜んで返す幽霊と違い、魔女は最初こそ驚きはしたものの、あまりに長い話が続き、次第に乾いた笑いになっていった。
「よし、まずは検証を……誰か……」
ひとしきり説明を終えて、博士は目の前の二人を見てから、はたと目を見開いた。
「む、困った。れっきとした人間が私しかいない」
「魔女ちゃんも、人間よね?」
「ねぇ、そこで私にふらないでよ! やだよ。ていうか、博士もやめてよね? まだ麻痺が治りきってないって言ってたよね?!」
「なるほど、魔女君、いい案だ! だからこそ私が適任だ。いい実験になる! これは後遺症か、はたまた治療になるのか。試すにはもってこいではないか!」
「あらあら」
「ちょっと博士! それ飲むよりさ、結局ゾンビとキョンシーの違いは分かったわけ? ゾンビ化する薬とかできたの?」
「ははぁ、なるほど。いいね。それを比べるのも面白い! どちらも薬を完成させてから実証実験をする方が効率的だな!!」
博士の興味が自己実験から逸れたことに魔女は胸を撫で下ろすが、とどのつまり、この男は自分で実験することに何の躊躇いもないわけで。いつ、どこで、彼が事故で死んでもおかしくない。そうして博士が次の薬を開発し、今度は吸血鬼も加わって阻止する時の話は、また違うお話で。
幽霊屋敷の霊魂達
満月の夜。それは久しぶりに姿を現した。無駄に響く耳障りの悪い声で、ゆっくりと、それはいくらかの言葉を繰り返す。
『……守れなくて、すまなかった……ごめんな、すまなかった……』
吸血鬼は自身の長い耳と手元の本をどちらも畳むと、ゆっくりとソファから立ち上がる。そこには、何度となく見た霊魂がいた。
魔女と吸血鬼は、幽霊が決して語らない生前の悲劇を知ってしまった。あの一件から数年が経ち、書斎の灰色の霊魂も、中庭の白い霊魂も、まだ片手で数えられるほどだが何度か姿を現していた。二人は、屋敷に現れる霊魂を無下には扱わなかった。
今夜は、書斎のそれが現れた。昔はただの煙状の何かだったそれは、今やかろうじて人の形を保っている。人型にくり抜かれた煙のようなそれは、昔に比べて随分とどす黒い色になっていて、言葉も以前よりはっきりと聞き取れるようになっていた。
『すまなかった……ごめんな…………守れなくて……悪かった』
「……」
『守れなくて、すまなかった…………ごめんな……悪かった』
ひたすら同じ言葉を繰り返すそれは、徐々に半透明になり、やがて空気中に混ざって溶けていくように姿を霞ませる。名残惜しそうに、宙で空気がかすかに揺れる。残留思念のような揺らぎは、やがて緩やかに消えていった。
「……もう、消えたか」
この、夫であろう霊魂は、何度も何度も、懺悔を繰り返す。庭にいる子供の霊魂と違い、これはただただ苦しみ、懺悔を繰り返す。怨霊だが誰かを呪うほどの力もなく、姿も保てていない。何ができるわけでもなく、成仏できず、この狭い部屋に囚われたまま。その上、生前の最愛の者に会わせるわけにもいかない。ただ、ひたすらに、ここで、孤独に、懺悔を繰り返す。
さすがに、このままは見て見ぬふりをするのは躊躇われた。吸血鬼は知り合いに、この手の存在をどうにでもしてしまえる者はいた。でも、吸血鬼はそれを望んでいない。幽霊の暴走を収めた魔女なら、この霊魂を傷つけず、悲しませず、どうにかできるかもしれなかった。彼女も強制的な成仏や浄化はしてしまえるだろう。それがこの霊魂にとって救いになるのなら、それもありだった。しかし、魔女ならもう少しこの霊魂に寄り添える答えを出せると、吸血鬼は考えていた。魔女は、まだこれとは会えていない。直接会えたらあるいはと思うも、この霊魂は毎回あっさりと姿を消す。なかなか、思うようにはいかない。
「……」
消えていった霊魂の跡はもう何も残っていない。その残像を思い出すように虚空を眺めてから、吸血鬼は元いたソファに座り直した。
家族の絵然り、吸血鬼の見つけた手紙然り、書斎と中庭に現れる霊魂然り、屋敷の中には幽霊の過去に関するものは多く残っていた。二階に与えられた魔女の部屋は予想通りに双子の子供部屋であったし、博士に与えられた部屋も、教会や家族の痕跡があった。
博士の部屋は、寝室と居間といった二間続きの客間だ。家族の絵があった元客間の向かいにあたり、どちらも屋敷入り口すぐの日当たりの良い部屋だ。彼にその部屋を貸与する際、またしても魔女が片づけに一役買ったので、魔女は隠すべきものをよく分かっていた。
幽霊の記憶に潜りこんだ時、魔女は彼女の生前の家族や、その悲劇の一端を垣間見ていた。東の大国からやってきて、この地に移り住み、男女の子供をもうけ、大国の聖騎士に追われ、全員、殺された。だから、特に、東の大国とその教会に関わるものを、幽霊から遠ざけた。
その日は珍しく博士が二階にやってきた。というのも、屋敷の室内、それも一階に関する物は調べ尽くしたからだった。図書室も、博士にとっては新しい発見はあまりなかった。半数以上の本は、既に読んだことがあったからだ。二階は主に三つの部屋で構成されている。一つは魔女の部屋として貸与されている。他二つは、当時のままで手入れはされていない。
博士は自分に貸与された部屋の真上にあたる部屋に忍び寄る。錠も何もないドアは、簡単に開いた。その部屋はどうにも夫婦か何か、親しい間柄の寝室のようだった。
「幽霊が家主というくらいだから、ここは彼女の生前の寝室か? さすがにそれはあまり調べては失礼か」
言いながらも、博士は好奇心に押し進められるように手前の三面鏡ドレッサーに近づいた。使いかけの化粧品が、そのまま置いてある。埃で白くなってしまっている鏡越しに、寝不足の己の姿が写し出される。博士はまじまじと隈のできた顔を覗き込む。
「さすがに健康を害しては研究に支障が出る。少し休む方が効率的か」
言いながら、鏡越しに見えた視界に、博士はぎょっとして振り返った。そこには立派な、それはそれは立派な絵があった。
「な、なんということだ…………!!」
慌ててそれに駆け寄った。溜まっている床の埃のことなど忘れていて、危うく滑るところだった。それを、恐る恐る手に取った。大きくはないけれど、写真と見紛うほどに精巧な作りの絵が、華奢な額縁に飾られている。絵の中には、二人の子供がいた。男の子と女の子だった。二人とも淡い茶色を孕んだ水色の瞳をしていて、二人とも幽霊によく似た柔らかい金髪をしている。はにかむ男の子の表情は、幽霊がたまに見せる微笑みとそっくりで、女の子の髪から覗く金色の装飾は、幽霊が持っている髪飾りとそっくりだ。
「……なんということだ……双子だと? なるほど、当時の双子か。当時は忌み嫌う国は多かった。貧しさ故の地域もあっただろう。しかし、これは幽霊君本人か? これだけでは分からんな。この幽霊屋敷の情報は噂程度の情報しかなかったからな。正確な時代背景が分からん。しかし、子供時代の絵が残るということが最大のヒントだ! 幽霊君が怨霊として化けて出て、しかも自我を保っていられる秘訣がここにあるかもしれない! これはものすごい手がかりだ!」
博士はいてもたってもいられず、部屋から転がるように慌てて駆け出すと、滑るように廊下を駆け抜け階段に向かう。すると、魔女が階段を上がってくるのだ。話しかけずにはいられなかった。
「魔女君、いいところに!」
「なにー?」
楽しそうに少し取り乱して、博士は絵を魔女に見せつけて大声を出した。
「大発見だ、魔女君! 怨霊になる秘密が分かりそうだ。これは、どう見ても幽霊君の血縁者だと思わないかね?!」
双子の絵を見せられて、魔女は思わず顔をひきつらせた。博士が、それを見逃すわけがなかった。
「何か知っているね?!」
「あー……知っているっていうか、それ、部屋に置いといてよ。持ち出し禁止」
そう言いながら、魔女は強引に博士から絵を取り上げると、じと目で博士を見返した。
「研究はいいけど、幽霊のプライベートなものは、勝手に持ち出したら失礼だと思うよ」
「む。そういうことになるのか。覚えておこう」
「博士だって自分の昔のアルバムとか、勝手に持ち出されちゃ嫌でしょ」
「なるほど? つまりこれは幽霊君に過去に関わるもので、幽霊君の過去に関するものは動かしてはならない。その理由を君は知っている。そういうわけだね?」
「はぁ? なんでそうなるの?」
博士の言葉に魔女は小首を傾げてみせるも、博士は楽しそうに笑ったまま話を続ける。
「君は賢い。とても賢いからこそ、私には踏み入れることができない、プライベートという言葉を使った。それは絶対揺るがない。その上で自分の昔のアルバム同然ならば、これは幽霊君の過去というわけだろう! 私はね、怨霊の仕組みが分かればいいのだ。そのために幽霊君のプライベートに土足で入るつもりはないが、必要とあらば情報は手に入れたい。君は何か知っているね? 私も話が通じる相手なら穏便に済ませたいのだよ」
「……あーあ、面白くなくなっちゃった!」
魔女は絵を離さないまま、大きくわざとらしいため息をついた。
「私もね、面倒はごめん」
魔女は面白くなさそうに、それでいて少し楽しそうに、言い捨てるように、笑った。
それからしばらくした、いつかの庭先で、それは唐突に遭遇した。
『キャキャキャ……アハハ!』
博士がいる部屋にも、その声は届いていた。何の声か気になり、博士は面白がるように声の方角へと急いだ。それは、廊下を挟んだ先、つまり中庭から聞こえていた。
「はて、空耳かな?」
『くすくす……シー……きこえちゃうよ……ふふふ……』
「むっ、また聞こえた。そこに誰かいるのかい?」
聞こえた笑い声に振り返るも、そこにはぼんやりとした白いもやしかない。けれど、博士は魔女から聞いている話で思い当たることはあった。この幽霊屋敷、いくつかの霊魂が共生しているというのだ。
「……これは、まだ子供の霊魂かね?」
『わかるの?』『ぼくたちが、わかるの?』
声はどこからともなく響き、二つの白い何かは楽しそうに草むらの中で動き回った。
「あぁ、分かるぞ。はっきりとは分からんがな。魔女君や吸血鬼君なら、君達の姿を視認できるのかね。となると、どうやら、私はまだ力が足りないらしい。しかし、悲観はしていない! なぜなら、ここに来る前は、霊魂なんてものは、在るとは解っていても視えるものではなかったからな! それがどうだ。幽霊や吸血鬼、はては魔女と過ごすうちに力が備わったらしいではないか! これはすごい発見だと思わないかね? 思うだろう? そのうち、君達の姿もしっかりと視認できるだろう。そういえば、君達はなんだ? 幽霊君とはどんな関係だ?」
思い出したように問いかける博士に、白いもや状の霊魂はゆらゆらと揺れて答える。その様子は笑っているようにもみえた。
楽しそうだ、と博士は思う。霊魂は、幽霊屋敷の家主である幽霊含め、制限が多い。ともすれば感情表現や記憶、移動範囲、その他の活動に制限があって当然と思っていい。
返答を待っていると、揺れが次第に緩くなり、穏やかになったと思った頃、声が発せられた。
『わからないの』『でも、楽しかった』
『幸せだったの』『みんないるからね』
『待ってるの』『ここにいたら、お迎えがくるの』
交互に話すように揺れる白い霊魂は、まるではしゃいで話しかける幼子のようで、博士はふと二階で見つけた絵を思い出した。魔女は、この屋敷に住む霊魂と幽霊を会わせてはならないと念を押していた。見つけた双子の絵は、この具合からしてこの白い霊魂の可能性が高い。
「(子供が二人か。どうしても思い出してしまうな。これも双子だったとしたら、幽霊君はそういう子供達を匿っていたのかもしれないな)……君達も自分が何なのか分からないのか。事実、幽霊君も昔の頃の記憶がない。化けて出るとは、そういうものなのか。しかし、この、脳に直接響く声とは、一体どういう仕組みだ?」
直接脳内に音が響くので、頭がガンガンし出す。しかし、博士はそれにすら興奮を感じていた。
「これが、ポルターガイストの類か。なんとも面白い……本当に面白い……素晴らしい!」
『へんな人』『笑ってるよ』
くすくすと笑う声に混じって二人と思われる霊魂が各々好きに感想を言いあう。気持ちの揺れを表すように、それは大きく揺れ動いたり、様子を伺うように小さく揺れたりを繰り返す。
『へんな人だけど、いい人だね』『話しかけてくれたもんね』
『おもしろい人かも』『楽しい人かも』
『お願いしてみる?』『してみよう!』
楽しそうに話しあいをしては、くるくるとお互いを追いかけるように回る。博士はその様子を眺めながら、考えを整理していた。
『『お願いして、いい?』』
声を揃えて話しかける二つの霊魂に、博士は快く頷いて返答し、続きを待った。白い霊魂は揺れを大きくしてくるくると回る。それは興奮しているようにも見えた。
『『一緒に遊んで!』』
「ははは、なんだ、そんなことか。勿論いいぞ。幽霊の話し相手は何度もしているが、遊ぶというのは初めてだ。いい経験になる。さぁ、何して遊ぶ?」
『『やったー!!』』
余程嬉しかったのか、脳に届く声が殊更大きくなる。博士はくつくつと笑いながら、何度もこの声を受けたら脳死するなと内心苦笑いをした。
脳もイジれる研究を早めるべきかもしれんな。そう思いながら、白い霊魂へ話を促した。
「さぁ、したいことを言いたまえ。なんでもつきあうぞ!」
そうして昼間に出会った霊魂と、日が暮れるまで延々と中庭から敷地内の、雑草の生えた手入れのされていない庭とはいえない庭を、博士は走り、跳び、駆け回った。
夕陽に空が赤く染まり、陽が落ちて消えていく中、中庭に戻った白い霊魂は、草むらの中、やんわりと姿を夕闇の中に溶かしていく。その様は、まるで命の灯が消えていくようだなと、博士は思った。
『楽しかった』『おもしろい人だね』
『でもすぐ疲れちゃうね』『つまんないね』
『きっと体力がないんだよ』『それじゃあ、しかたないね』
『また遊んでね』『遊びたいな』
「好き勝手に……だが、体力に関しては、その、通りだ……あぁ、また遊ぼう」
『『やったー! またね!』』
「あぁ、またな」
ただの白い塊でしかないが、それらが手を振っているような気がして、博士は手を振り返す。白い霊魂は楽しそうにくるくると回りながら、そうして夜の帳が落ちるとともに闇へと消えていった。
博士はしっかりと何度か深呼吸をした。着ていた服は見事に泥や汗で汚れている。一つのため息を零して、博士は屋敷へと戻っていった。扉を開ければ、そこに魔女と楽しそうに話す幽霊がいた。
「まぁ、大変。一体どうしたの?」
「汗でビショビショじゃん。運動でもしてきたの?」
「まぁ、そんなところだ。これでも、体は動かしている方だがな。今日は一風変わった動かし方をしたのでな。ご覧の通りだ」
「一風変わった動かし方?」
博士の言葉に幽霊が首を傾げる。博士はなんてことないように続けた。
「一日中走り回ってみただけさ。人体の体力について調べていたわけだ。こればかりは人間の私でないと研究にならないからね」
「大変なのね、研究って」
「あぁ、その通りさ」
博士の言葉にすっかり心配してしまっている幽霊とは裏腹に、魔女は信じていない様子で博士をじとりと見つめていた。疲れているであろう博士を気遣って、幽霊はばんごはんは何がいいかとあれこれと提案してくる。博士と魔女が適当にそれに答えてやると、幽霊は考え事をしながらロビーから去っていく。
「出会ってしまったよ、魔女君」
「なにが?」
「君の言っていた中庭の霊魂さ」
博士の言葉に魔女は試すように笑いを返す。博士は続けた。
「まだ幼い子供の霊魂だった。追いかけっこをしたのだがね、あれは中庭の薔薇には近づけない。室内にも入れない。もしかしたら日中にしか出現しないかもしれないな。あれが絵の双子だと君は言ったね。しかも、それを幽霊本人に話してはならないと。あれだけ無害な霊魂達で、あれだけ話し相手のほしい幽霊君だというのに、君はあれらと幽霊君を遠ざける。それだけの理由があるということだ。質問をいいだろうか」
「なに?」
「それは、幽霊君のためなのかね?」
しっかりと魔女の目を覗きこんで、博士は問う。魔女は安堵した顔を見せて笑うので、博士はそれを肯定だと頷いた。
「なるほど。では、私も協力しよう」
己の顎を何度か撫でて、博士は考え込むように視線を泳がせた。すると、目の前の魔女が、まるで耳元で囁いたかのように声がした。
『幽霊には内緒だよ。実はね……——』
「なんだと?」
聞き間違いかと思い視線を戻しても、魔女は目の前で何事もなく笑っている。彼女はくるりと踵を返すと、ひらひらと楽しそうに手を振った。その後ろ姿を眺めながらも、先程の白い霊魂のように魔女の声は脳内に響き、いくらかの話をしてくれた。今日は良く脳に直接話しかけられる日だな、と思いながら博士は笑みを作った。
部屋に戻ると机の上には、松ぼっくりが二つ置いてあった。それを見て笑いながら、博士は研究内容をつめるため、椅子に座りノートを開く。
「まずは、脳を殺さずに弄る効率的な方法は……——」
幽霊の乾杯の日
その年は、まだ博士が招かれていない年だった。
思い返せば、それは夏の終わり頃だった。幽霊は魔女と博士があれこれと忙しくしている様子を気にしていた。頻繁に話しあい、何かの打ち合わせをする。魔女はキッチンの出入りが多くなり、博士は荷物を抱えて帰ってくることが多くなった。幽霊は興味を惹かれるも、二人のやりとりを邪魔をしないようにしばらく観察していた。
ハロウィン当日。楽しそうに肩のしるしを撫でながら、幽霊はキッチンを訪れた。食欲をそそる肉料理の香りがしたからだ。そこには珍しく魔女に加えて吸血鬼もいた。二人はエプロンをしていて、幽霊を見つけると食器を洗っていた手を止めて軽く挨拶をした。
「美味しそうな匂い」
「あぁ、それがな。博士が今夜、祝い事があるらしくて」
「それで吸血鬼に料理してもらってるんだ!」
「あら、おめでとう。あなたが作ってくださるなんて、博士さん、とても喜びそうね」
「博士というか、おまえら用だけどな」
「いいの! 私も吸血鬼の手料理が食べたいからいいの!」
「そうか」
渋々相槌を打つ吸血鬼を見て、幽霊はもしかして魔女に根負けしたかなと笑った。その通りだった。
「なぜ俺が博士に料理をって言いそう」
「まさに言ってた!」
「……」
弱火で煮込んでいる鍋の火を調節しつつ、吸血鬼が魔女の補足をする。
「おまえが料理をせず、幽霊に任せないというなら、俺しかいないだろ。博士は全く料理ができないようだし。それに、寒くなってきただろう」
「それで煮込み料理?」
「あぁ。博士もおまえも、最近食べていないだろう。文字通り骨の髄まで食えば少しは温まるだろ」
そっと見せてくれた鍋の中には、煮込んで穴の開いた輪切りの骨が見えた。
「そのまま煮込んだの?」
「そういう料理だ」
「そうなんだ」
納得していなそうな二人に微笑んで、吸血鬼は鍋の蓋を閉じる。二人をダイニングテーブルに招き座らせて、彼は湯を沸かす。
「今夜はそれなりの時間で帰って来よう。博士を待たせてしまうからな」
「分かったわ」
「楽しみ」
「せっかくだ。甘いものでも食べていくか」
いくつかの材料を取り出して問う彼に、身を乗り出して魔女が即答する。幽霊も手元に並んでいく材料を眺めながら頷いた。
「それはなぁに」
「簡単な焼き菓子だ。キュルテーシュカラーチという、小麦粉の生地に砂糖をまぶして焼いたもの、かな」
「ドーナッツみたいね」
「焼いたドーナッツか」
「それ、パンじゃん」
二人ともそれぞれ言いたい放題に喋りながら、吸血鬼が手際よく準備をする様を眺めていた。ガラスと木でできた棒に薄く伸ばされ巻かれた生地を見て、魔女がやってみたいと言い出した。彼女に同じく棒を渡すと、二人はキッチン備えつけの窯から炎をもらう。遊ぶように目の前に中身の見える窯のような空間を作って、魔女は吸血鬼の教えるように、巻いたそれを焼いてみる。焼かれて茶色く焦げ目のつくそれに、吸血鬼は砂糖をまぶしていく。ばらばらといくらかの砂糖が焦げきらずに釜の上に落ちた。次第に、パンが焼ける香りとバターの溶ける香り、カラメルの溶ける甘い香りが部屋に充満していく。
「大きなコロネみたいね」
「あ、分かる」
「さぁ、どれが良い?」
「これから香りがつくのね。ええと……」
いくつかの小瓶が並ぶ。バニラ、ココナッツロング、スライスアーモンドに、クラッシュされたクルミ、シナモンパウダー、そしてチョコレートチップがナッツ入りと二種類。目移りするように楽しそうに眺めてから、幽霊はシナモンパウダーの入った小瓶を手に取った。魔女はココナッツを取って蓋を開ける。もう勝手が分かったようで、魔女は隣の手本を見つつ自分用を仕上げていく。
「できた! この棒は取るの?」
「後でな。これで、仕上げる」
もう一度まぶされたパウダーと砂糖が、炎に焼かれていく。ほどなくしてそれを棒から抜き、できあがった大きく薄いコロネのようなそれを紙に包む。同じように魔女も自分のそれを用意された紙で包む。吸血鬼はできあがった菓子を幽霊に渡してやる。目の前に菓子が運ばれると、シナモンの香りが一気に鼻に届く。砂糖がしっかりまぶされた薄いパンのようなそれを、幽霊はゆっくり深呼吸しながら、噛みしめるように両手で抱きしめた。
さくりと美味しそうな音を立てて魔女が嬉しそうに頬張る。唇についたココナッツを舐めて、魔女はもぐもぐと噛みながら幽霊を見やる。彼女は変わらず香りを楽しんで、手の中の温かさに微笑んでいた。
「ねぇ、食べられるんだよ」
「そうだったわ」
ハロウィンパーティーで骸骨から聞いた話は本当で、ハロウィン当日であればパーティーの前でも幽霊は飲食が可能だった。それは、招かれたから可能なのか、その日だから可能なのかは分からないが、可能だった。もう一口さくりと噛みついて、魔女は目線で吸血鬼を見やる。言いたいことは分かっているようだったが、彼は魔女の言葉を待った。
「吸血鬼も、食べられる日があったらいいのに」
「美味しそうに食べている姿で、俺は十分だ」
「ふふ、いつものわたくしね」
そうして幽霊も菓子をひとちぎりして、恐る恐る口に運ぶ。噛むことが覚えたてのように、幽霊はゆっくりとそれを咀嚼し、飲み込んだ。口の中に広がる甘い香りと味、そして喉を何かが通る感触に、幽霊は自分の喉元をさすった。
「まだ、慣れないわ」
ちぎった際に指についた砂糖を眺めながら、幽霊は困ったように笑った。
それから夜を跨ぎ、深夜を回った頃。真っ暗だった幽霊屋敷にぽつぽつと火がともると、屋敷は一気に夜の世界になる。屋敷の入口の扉から、ほんのりと奥の部屋に明かりが見える。光に招かれるように、幽霊、吸血鬼、魔女の三人は談笑しながら近づいていく。
幽霊は昼過ぎに作ってもらった焼き菓子を気に入ったのか、パーティーにもそれを持ち込み配るほどだった。呪文のように何回も菓子名を繰り返し、楽しそうに配っていた。
足音と声に気づいたのか、木と金属の擦れる音に続いて、かつかつとテンポの速い足音が近づく。
「お集まりかね? 諸君」
博士は両手で段ボール箱を抱えていた。全員揃ったところで、さて遅い夕食にしようと、皆でダイニングテーブルへと向かった。
最後に博士が席についたことを確かめ、吸血鬼はキッチンに消える。博士は持ち込んだ箱を足元に置いて、そこからあれこれとも荷物を食卓に並べながら話を始める。そのうちの一つのガラスボトルに、手書きで二か月前の日付が書かれていた。
「魔女君とともに開発した果実酒だ! 上出来だと思うぞ」
「うふふ、実はね、一緒に作ったの」
「幽霊君も今日だけは人間のように飲食が可能だと聞いた! ぜひそれを観察させてほしい!」
ついに博士に続き魔女も席を立って身を乗り出して嬉しそうにする。
「魔女ちゃんと博士さんが……?」
「博士と作った!」
「私と魔女君で作ったのだ!」
意気揚々と二人して答えるので、幽霊はびっくりして目を丸くした。パーティーで骸骨が話してくれた食事の話。普段、香りを喰うだけの幽霊でも、一年に一日だけそれが許される。それなら二人で幽霊に何か贈り物をしようと思い立ったという。博士としては、実際に幽霊が物質的なものを口にできるなんて、そんな貴重な一日を逃す手はなかった。そうして、二か月前に果実酒を仕込み、それから吸血鬼も巻き込んで、今日の夕飯を作ってくれと頼んだという。それで、昼間も吸血鬼が軽食を用意してくれたというのだ。
「君は、食物に宿る魂だとかエネルギーだとかを糧にしているようだからな。香りを媒介に、そのエネルギーを吸収して、それを使って実体化していると考えられる。ならば、栄養源とでも言うべきものは、こうだろう! ある意味、“神饌”と同等だ」
「“しんせん”?」
「あぁ、献供される品のことだ」
幽霊本人すら分かっていない話を、博士は続ける。
「羊といった哺乳類に魚などの魚類、果実酒に穀物酒、花に米と、色々ある。それらに生命が宿るといった表現は語弊がある。ただ、やはり何かしらのエネルギーがあり、その移動だとしたら、あり得るだろう? 君にとってのエネルギー源が知りたい! それが、今日はどう作用するか。比較のためにも、今日、ここに、必要だったのだ!」
博士が熱弁しているうちに、キッチンから盛りつけた皿を持ってきた吸血鬼が、それぞれの前にそれらを並べていく。酒瓶の蓋を開けながら、博士は運ばれる料理を眺めた。同じく、他の二人も料理に感嘆の声をあげる。
「きれい」
「ほう、見事だな。何という料理かね」
「オッソブーコという、西の料理だ」
黄色いリゾットが添えられて、柔らかそうな骨つき肉がローズマリーに飾られて中央に鎮座している。皿は、仕上げに粉チーズやブラックペッパーがまぶしてあるようだ。その向こうに、皆で分けるように、いくつかのフォッカッチャとピクルスが置かれた。
「いやはや、口裏を合わせてもらったとはいえ、君の作る料理が食べられるとはね。君は食べないのだろう。それなのにこの御点前か」
四人分のグラスを並べる吸血鬼に、三人分しか並ばない料理の皿を見て博士が問う。吸血鬼は今更何をという顔で博士の前にグラスを差し出す。きゅぽん、と音が鳴り、ボトルが開く。注ぐ前から柑橘類の爽やかな香がふわり香った。
「さぁ、これは私が注ごう。君も座りたまえ」
熟成されたオークの木の香りや柑橘の皮の苦みのような香りの癖に反して、グラスに注がれる液体はほんのり色づいてはいるが、透き通った透明な色をしていた。
グラスが小気味よい音を立て、皆で乾杯をする。ひとときの無言の後、幽霊がほうとため息を漏らした。
「とっても良い香りね」
しっかりと一口を飲み込んだ幽霊を見て、博士と魔女の二人はガッツポーズをした。それから二人も味見をするように一口飲んでみて、笑顔になった。
「よかった!」
「なかなかではないか! いくら魔法とはいえ、時を早めては味に影響するかと思ったが、そこはさすが魔女君だな。きちんと熟成されている。本来はね、樽で熟成させたいところなのだが、なにせ君の話を知ったのが二か月前だ。時間内で用意したには上出来だ! さぁ、遠慮なくいただこう。こちらも楽しみだ!」
グラスの中を満足げに覗いてから、博士はそれを置いてカラトリーを取る。フォークでそっと触るだけで、ゆっくり煮込まれた牛肉はほろりと筋を崩した。
「んんんー!」
声にならない高い声を漏らして、魔女が頬を手で押さえる。口を閉じたままの声の抑揚で、おいしいと言いたかったのが伝わる。幽霊も料理を口にしたようで、似たような反応を返した。
「なんの味だか分かんないけど、なんか美味しい」
「お肉もお野菜も、柔らかくて美味しい」
フォークで一掬いした肉を見つめて、博士が楽しそうに笑う。
「骨の近くの肉は柔らかいからな。骨髄ごと煮込むと髄液の旨味も出て肉がうまくなるのかね。髄液なんて、それこそ血液を作るところだろう」
「なんか博士がそういうこと言うと美味しくなくなるー」
肉を口にしようとした魔女が抗議する。博士は全く気にせず自分も料理を口にする。
「しはし、んやはや、んん、ものだ」
「なんて?」
博士が大きく頬張りながら話すので、全く聞き取れなくて魔女は笑ってしまった。つられて幽霊も笑ってしまい、飲もうと思って手に取ったグラスが宙で揺れた。
「温かい食べ物は久々だ!」
「博士はもう少しちゃんと食事した方がいいよ」
「ふふ、二人ともじゃない?」
「だってクッキーおいしいじゃん!」
「サプリメントという効率的なものがあってだな!」
いつの間にかグラスの中身を飲み終えて、幽霊が笑って水をさすも、二人は機関銃の如く弁明する。それを楽しそうににこにこと笑って見つめていると、傍らに吸血鬼がやってきて酒を注いでくれた。
「ありがとう。あなたも飲んで?」
「あぁ、いただいているよ」
ほとんど減っていないグラスを見て、幽霊はもう一度吸血鬼をじっと見つめた。ばれたかとばかりに肩を竦めてみせるも吸血鬼は悪びれず、魔女達の空のグラスに続きを注ぐ。給仕人のように吸血鬼は皆が食べ終わるまでほとんど立っていた。空になった三人の皿を眺めて、吸血鬼はようやく席に戻って座った。グラスを掲げた吸血鬼に、幽霊は満足そうに微笑んでもう一度乾杯をするようにグラスを掲げた。吸血鬼もそれに倣ってグラスを上げた。
「実はね、もう一つ、贈り物があるんだ!」
二人の乾杯を見届けて、魔女はにんまりと楽しそうに微笑んだ。含み笑いを残して、彼女はぱたぱたとキッチンへ消えてしまう。博士も知らなかったようで驚きを見せた。
「なにかしら」
「まだ何かあったのか」
吸血鬼が小さく笑った。今度は彼と魔女の企みらしい。期待にあれこれと話す幽霊達は、戻ってきた魔女にいち早く振り返ると、二人とも立ち上がって魔女の持ってきたグラスや氷を受け取った。
「できてるかな」
持ってきた茶色い太いガラス瓶のジャーを大事そうに抱えて呟く。金具で止めていた蓋を開き、グラスに氷を入れて、とくとく、と深い音を鳴らして、琥珀色の液体がグラスを満たしていく。
「紅茶を漬けたウォッカだから、幽霊、好きだといいな」
どうぞ、と幽霊に目配せをすれば、幽霊は香りを確かめるように深く呼吸をしてから、恐る恐る口にする。
「……どう?」
幽霊の反応を、少しも見逃すまいと三人は真剣に見つめて待つ。
「……甘い……。紅茶の良い香り……お酒臭くなくて……飲みやすい」
「そうなの!」
幽霊の感想に、吸血鬼は満足そうにやっと前の酒を口にして、博士は幽霊の飲む様子とグラスを眺めて、魔女は得意気に笑って説明をする。
「これね、ミルクにお酒を漬けて作るんだ」
「ミルクも酒も、漬けるではなく混ぜるではないのか?」
「どうやって作るの?」
魔女は一度吸血鬼に目配せをするも彼は手元のグラスを掲げ首を振るので、三人分のグラスに氷を入れて少しだけ注いで席につく。改めて皆で乾杯をすると、嬉しそうに魔女は語った。
「十日くらい寝かせて作るんだ。ミルクとウォッカと、あと砂糖も。で、ナツメグとか、オレンジの皮とか入れて、あとは、濾すだけ」
「なるほど、柑橘類でミルクのたんぱく質を凝固させるのだな。そこで紅茶のえぐみも抜けるのか」
面白そうに納得して博士が説明するが、魔女は分かったような分からないような返答をする。
「そうらしいね?」
「ありがとう。美味しいわ」
「よかったら、少し甘くする? ハチミツもおすすめ」
「いただこうかしら」
「博士は?」
「せっかくだ、いただこう!」
カクテルを作るように二つのグラスをもらい、ハチミツと何かのサイダーを入れてマドラーで混ぜてやる。しゅわしゅわと音を立てるグラスに、スライスレモンを添えて完成だ。
「どう?」
「甘い! 美味しいわ。これ、レモネード?」
「んふふ、あたり。好きでしょ。博士も頭使うから、こういうの良いんじゃない?」
「実に美味い。いや、参ったな。これではごくごく飲めてしまう」
「あんまり飲んで酔っ払わないでね?」
「味わっていただくさ」
博士と魔女が笑いあう姿を見て、幽霊もにこやかに微笑む。ふわりとした柑橘の香りと、えぐみのない優しい紅茶の香りと味に、幽霊は舌鼓を打つ。
「だからね!! どうしても幽霊に好きそうなお酒を作ってあげたかったの! 幽霊って紅茶好きじゃん。それで作れるお酒ってこのミルク酒なの!」
「いやはや、幽霊君はここまで味覚を持つのだな。実に興味深い! 同じモンスターでも吸血鬼君はほとんど酒を口にしていなかった。やはり味覚の差だろう。これほどモンスターでも差があるとは面白いと思わんかね?!」
「ふふふふふ、素敵ね。こうやって一緒に楽しい時間を過ごせるなんて。ふふふ、楽しいわ」
「ねぇ、幽霊、酔ってる?」
「うふふふふふ、楽しいわねぇ」
「幽霊、酔ってるじゃん!」
「まいった、私も文字が霞んできた!!」
「みんな酔っ払ってんじゃん! ねぇ、戻ってきたら吸血鬼にもお酒飲ませよう。彼だけ全然食べないし飲まないの不公平じゃない?!」
「それは興味深い!! 彼もはたして酔うかどうか、大変興味がある!」
そうしてキッチンで洗い物を終えて戻ってきた吸血鬼も巻き込み、朝まで皆でハロウィンパーティーを続けるように笑い明かした。
ハロウィンモンスター
ハロウィンパーティーには、様々な招かれたモンスター達がいる。骸骨、吸血鬼、ミイラ、幽霊、キョンシー、食人鬼、かかし、狼男、化け猫、死神……そして、人間ならざる人間も。どんな者であれ、招かれなければそこには入れない。
「あぁ、もう、まったく、ねぇ、なんなんです、あなたは?」
怒りのせいで言葉にならない言葉を羅列する。いまにも折れそうな細い全身を黄ばんだ包帯で包んだミイラが、己の包帯を毟り取りそうに引っ張りながら力説する。
「あの死神様と同じなんです! どういうことが分かっています?!」
「……あぁ、まぁ……」
「あなたは昔からそうですよね?! 他人様の家にも墓にも勝手に入ってきては我が物顔をする! 蘇りだの神の使いだの、私の一族も散々あなたに無礼を働きましたけど、それでもあなたはあなたで不躾です!」
「……それはもう何回も謝っただろ」
ミイラは吸血鬼の左手を、骨が食い込むほど思い切り掴む。吸血鬼は気圧されつつも面倒くさそうに相槌を打った。
「見ぃつけた」
「あぁ、死神様!」
暗く廃れた教会の中、颯爽と影が現れる。長いマントをたなびかせる姿に、ミイラは歓喜に震え、挙動不審に意味の分からない行動を始めた。死神と呼ばれた者は深く大きいフードを被り、その下はマズルのやや短い獣の仮面をつけている。黒く長い袖や裾は、足元も手元も見えなく隠していて、声も男性にしては高く女性にしては低く、性別も年齢も分からない。
「やぁ、我が信徒と不死の君、なんてなぁ」
「死神様、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
死神と呼ばれる黒フードの登場で、急にミイラはしおらしくなる。天窓から緩やかに月明かりが差しこみ、後光が射すように死神を照らした。
「何の話をしていたんだい」
「あぁ、聞いてくださるのですか! 感謝します! 私は毎年欠かさずにパーティーに招かれています。しるしも集まりました。完成まで、あともう少し! あなた様とお揃いまであともう少しなのです! なのに、たまに姿を見かけないわりに、このひとはあなた様と同じしるし——完成したしるしなのです。私の祈りが足りないのですか。パーティーの捧げものが足りないのですか」
何を嘆くのか全く分からないというように、吸血鬼は死神とミイラを交互に見やる。死神は仮面の顎を自分の顔のように撫でて小首を傾げる。
「しるしねぇ……。どういうものか、君は知っているのかい?」
「えぇ、もちろんですとも!」
そうしてミイラは自分の腕をさわりながら語る。
「毎年、ハロウィンの日になると、それは現れます。私はいつも腕です。そこの彼は左手。しるしは招かれた回数で、どんどん複雑になっていきます」
ミイラは得意気に続ける。
「最初は矢や針のような形で、数回招かれたら十字架のように十字をきる。そこからが長いんです。徐々に羅針盤のような形になるまで、何年も何十年もかかる! 完成するには一体何年かかるのやら!」
「君のいう完成とは、十三番目のことかい?」
「はい、それです! 私は十二番目までは招かれています。なのに、いくら招かれても十三番目になりません!」
「なんでだろうなぁ」
からかって笑うように、それでいて不思議がるような、曖昧な声色で死神は飄々と語る。ミイラの肩を抱いて、死神は内緒話をするように包帯で見えない耳元に囁いた。
「捧げものってさぁ、足りないと怒られない? 君、ちゃんとお菓子は用意してる? ほら、彼は毎回相当な量のお菓子を用意するでしょ?」
「お菓子。そんな。私の召し使いはミイラになっておりません。私一人では……」
「それは残念。君のしるしは永遠に完成しないかも」
「あぁ、お待ち下さい! 分かりました。なんとかします! 次回はこのひとに負けないくらい用意します!!」
ミイラは懇願するように死神にひれ伏す。死神は小首を傾げて、笑っているようだった。
「もし、十三番目になれたなら、何かしてあげよっか?」
「は、え、えぇ、では、ぜひ、あなた様のお名前を……お伺いしても? それまで死神様とお呼びしてよろしいですか?」
「はは、好きに呼んで。死神でも冥王でも」
「あぁ、ありがとうございます!!」
「さぁ、自分は彼と話があるから、席を外してくれないかい?」
「はい! あぁ、お話してくださり、ありがとうございます!」
ミイラは後ろ髪をひかれるように何度も振り返りながら教会を後にする。ひらひらと手と愛想を振りまく死神に、隣の吸血鬼がため息をついた。
「敬虔な信徒だな」
「砂漠の民らしいねぇ」
「あいつに貢がせても意味がない」
「夢くらい見させてあげないと」
「いくら知性があろうと、招かれようと、あいつは十三番目にはなれない」
「そりゃあ知っているさ」
「詐欺師だな」
「詐欺師でなく死神ですぅ」
悪気なさそうに死神が笑うので、吸血鬼は居心地悪そうに肩を狭める。それを分かっていながら、死神はミイラにしたように吸血鬼の肩を抱き寄せて、小さく囁いた。
「十三番目は君みたいなのじゃなきゃ。ねぇ、夜の君?」
吸血鬼の左手にぽんぽんと握手をするように何度か撫でて死神は笑う。布越しの硬い骨のような感触が、何度か吸血鬼の手を刺すようにつついた。
「よく言うよ……」
吸血鬼の乾いた笑いが次第に楽しげに変わる。つられるように死神も笑った。
「だってさぁ、不死の君より、伯爵に倣って夜の君が良くない?」
「どうでもいい。どうせろくでもない頼み事でもあるんだろう」
「媚びてるってばれてるぅ」
「何年の付き合いだと思っている」
「それもそうだ」
「くくっ、伯爵にもそうやっておまえは媚びを売るだろ。それは尊敬するよ」
「あれぇ? 自分に媚び売っても君の負担は変わらないけどねぇ?」
おかしそうに笑う相手に、死神も仮面の額を手で覆って大袈裟に反応してみせる。
「実はねぇ、君が最近連れてくる魔女の子がいるでしょ。あの子について、聞きたくて」
吸血鬼が返答代わりに眉をひそめる。大袈裟に考え込む様子を見せて、死神は吸血鬼の鼻先に袖を突きつけて下手な演技で困ったように話す。
「魔女ちゃん、本当に人間?」
「……?」
「何かと混血だったりしない? どんな血筋? 混ざってる可能性は? 人間じゃない何かを、君は感じない?」
死神は思うがままに、まくしたてるように少し早口に尋ねながら、長いローブを引きずり、隠れて見えない指でもう一度吸血鬼を指す。
「彼女の肉体に、少しでも人間じゃない可能性は、ある?」
「さすがに……それは……間違えない」
「ほぉお?」
答え方に迷いながら話す吸血鬼を、死神は信じていない様子で首をひねる。口元を手で押さえて、驚いたような、必死に思い出すような、考え込む間を置いてから、吸血鬼は改めて首を横に振った。
「……いや、さすがにそれは間違えない」
「少しも?」
「全く」
「そっかぁ。血のスペシャリストが言うなら、そうなんだろうね」
「どうして、そう思うんだ?」
死神は袖の長い腕をひらひらさせて飄々と語る。
「例えばさっきのミイラちゃん。彼女は人間だった頃の魂を手離して、今は立派なモンスター。魂と肉体は、基本的にみんな一人一つずつ。それは人間もモンスターも変わらない。君も、魂は一つ」
指を立てているのか、袖がふわりふわりと何度も浮く。
「たまに例外はいるけれど、魔女ちゃんも、ちゃんと魂は一つ。なのに、自分にはどうしてもただの人間には思えない」
「俺には……人間にしか思えないんだが」
「そうかぁ」
「確かに魔力は人間離れしているが、それだけだろ」
「魔女ちゃん……やっぱり魂の方が問題なのかなぁ。自分みたいに魂に関わる者は皆一様に気にしていてねぇ。悪霊とかの霊魂達も魔女ちゃんをものすごく狙ってる。悪さしないといいけれど」
死神の話に、吸血鬼は一瞬返答に詰まるも喉の奥で笑って答えた。
「なんだ。それなら全く心配ない。たかが霊魂があいつをどうにかできるとは思えない」
吸血鬼は魔女のことを自分のことのように自慢気に話す。
「おまえから見たって、あの魔力は一流だろう。扱える種類も、威力も桁違いだ。もしかしたら、おまえだって、彼女の魔法の前では壊れるかもな」
「はは、それはどうかなぁ? 君だってそこまでじゃないでしょ」
「俺は無理だな」
「そんなばかな」
「いや、無理だ。百年では戻れないかもな」
「やめて? それはやめて! もしそうなったら、誰が君の分まで準備をするの!」
大袈裟に死神が反応する。吸血鬼は他人事のように小さく笑った。
毎年、死神も吸血鬼もその他のモンスター達も、手分けして各々お菓子と称したお守りをばらまいている。それのおかげで、まるで仮面舞踏会のように、誰が人間で誰がモンスターか曖昧になる。モンスターのお守りは、人間を隠す隠れ蓑になっているのだ。そのため、本来喰う喰われるの関係であっても争いを生まず、楽しいパーティーに仕上がっている。
「魔女とはいえ、人間ちゃんだからねぇ。念のため、魔女ちゃんに強いお守りでも持たせたら?」
「強いお守り?」
「何か食べさせてしまう。それか、いっそ噛み跡をつけてしまえば?」
「伯爵にも勧められたが……そんなに必要か?」
「乗る気でないねぇ」
吸血鬼の項垂れた視線に、死神は仮面を布越しの手で拭くように撫でて低く笑った。
「モンスターの加護——お守りは、呪いと紙一重だからねぇ」
楽しそうに笑って話す死神は両手を結ぶように袖を合わせてはしゃぐ。
「あの子の魂は特別、魅力的だ。気をつけた方がいいよ。自分みたいに魂を狩る者が狙うとも限らないしねぇ」
忠告か宣言か分からない口調で、手の中に何かを持っているかのように両手をすり合わせて、死神は楽しそうに笑うのだった。
吸血鬼とお守り
何週間か姿を見なかった吸血鬼が、大量の荷物を抱えて屋敷に戻ってきた。
「あれ、おかえり? どこ行ってたの」
「ただいま。買い物をしてきた」
どさりと荷物をロビーに置く。木箱十数箱に、大量の袋。どう考えても一人で運べる量でないそれらを置くと、そのうちのいくつかの箱や袋を片手に担いで、吸血鬼はひらりと手を振る。
「先にこれを片づけてくる」
吸血鬼はロビーを後にする。呆気に取られていた魔女は、その姿を見送ると、なんとなく一番手前の紙袋を開けた。何やら様々な種類の缶が入っていた。どれも紅茶のようだ。
「なにかしら」
気づくと、幽霊も姿を現していた。同じく袋を開けて、中から一つの袋を出して微笑む。小麦粉の袋だった。
「まぁ、パーティーの準備ね。わたくしも手伝うわ。魔女ちゃん、一緒にお菓子を作りましょう」
「いいね!」
「できれば、ハーブの効いたお茶と合うものが良いのだけれど」
「そう、どんなハーブ?」
二人はあれこれめぼしいものを取り出して、話しあいながら荷物を抱えてキッチンに移動した。
「さぁて、あらかじめ魔法をかけておくのは……っと、このへんかな」
ボウルやヘラなどいくつかの用具がふよふよと宙に浮く。魔女は袋からレモンやオレンジを取り出して、包丁を構えた。
「乾燥させて、うーん、どうしよっかなぁ……水魔法で、こっちはケーキの材料で。うーん、デザインどうしよっかな」
楽しそうにする魔女に、幽霊も先程見つけた紅茶缶を見せながら微笑む。
「これを使ってスコーンを作らない?」
「やろう!」
「食用に……ええと、ここにしまったかしら。あぁ、これね。食用のお花なの。これも使えない?」
勝手知ったるように棚から一つの缶を取り出して見せる。魔女もにこりと笑って、ならこのレシピにしよう、これはああしようなどと決めていく。次第に、キッチンに甘い匂いが充満する。
「楽しそうだな」
すっかりマントも上着も脱いできた吸血鬼が、先程ロビーで持ちきれなかった残りの荷物を持って、キッチンで騒ぐ二人の元にやってきた。
「ジャムの瓶も持たせてしまったか。重かっただろう」
「大丈夫だよ。魔法をかければそんな重くないし」
「そうか、ありがとう。あと、これを」
持ち運んできた荷物のうち一つの木箱から瓶を取り出して吸血鬼はほんの気持ち程度笑う。
「ブランデーだ。使うだろう?」
「やった! さっき、これ、重いし硬いしすぐ開かないし、まぁいいやって、置いてきちゃったんだよね。幽霊の好きなデザートができそう」
喜ぶ魔女は一旦手を止め、持ち込まれた荷物を漁った。たくさんの包装紙の入った袋から目を引いたリボンを取り出して、魔女は言う。
「いつもすごい量のお菓子を用意してるけど、絶対こういうリボンをつけてるよね。それに、実際吸血鬼が配ってなくない? 見たことないんだけど」
「俺はこれをばらまいてくれれば、それでいい」
「これ、なんか意味あるの?」
飴菓子などを小分けの袋に詰め直しながら、吸血鬼は淡々と静かに語る。
「まぁ……なんだ、お守りだ」
「前に言ってた迷子にならないお守りだっけ。こんなんでもいいんだね」
「まぁな」
軽い相槌で流して、吸血鬼はできあがった一つの袋を魔女に差し出す。
「お一つ、どうぞ。まだあるから、二人とも、それは食べてしまっていい」
透明の包装に紫とオレンジのリボンで留めた、クッキーやキャンディなどの入った詰め合わせだった。
「あら、可愛い」
「ねぇ、お守りっていうならさ、吸血鬼だって! 私まだ数回しか行ってないけど、狼男の子とかずっと笑ってるキョンシーとか、よく連れ回されてるじゃん。帰ってこれなくならないように気をつけてよね」
「そうだな、ありがとう」
やはり軽く流すように答える吸血鬼と不貞腐れる魔女を、幽霊が楽しそうに笑った。魔女は不服そうに、でも楽しそうに、元いたところに戻り料理を再開する。その傍ら、茶葉相手にあれこれ悩んでいた幽霊に、吸血鬼はそうっと話しかけた。
「なぁ、今年、博士は招かれると思うか」
「わたくしは楽しみにしているわ。みんなお揃いで行きたいじゃない」
「まぁ、そうだな……」
「博士さんのこと、心配?」
「仮にも同居人だ。仕方ない」
「ふふふ、そんな言い方しないであげて。それで? 博士さんには、あげるの? あなたのお守り」
「……俺がやらなかったら、幽霊が何とかしてくれるのか?」
いたずらに笑う吸血鬼に、幽霊は待ってましたとばかりに上の戸棚から三つの小瓶を差し出す。植物の蔦で飾られた手のひらサイズの黒茶の半透明なそれは、中に氷砂糖のような何かの結晶が液体に浸かっていた。それを見て、少し躊躇ってから吸血鬼は愛想笑いを浮かべた。
「あなたがいつもお守りをくださるから、わたくしも真似してみたの。持ち物だとなくしたら困るでしょう。だから、飲み物。これなら、あなたも飲めるでしょう。魔女ちゃんと博士さんにも、これをお渡ししようと思うの」
「気持ちは嬉しいが……どうだろう。二人には、少し……工夫をしてやった方がいい」
「工夫?」
「彼らがそれを飲むのは難しくないか? 香りだけ使って、匂い袋にしたらどうかな」
「あなたにも難しい?」
「……すまない、匂いが……きつい」
幽霊の作ったお守りという瓶はまだ蓋が締まっている。それなのに吸血鬼は苦笑いをするので、幽霊は少し考える。
「あなたも匂い袋なら大丈夫?」
「本音は……遠慮したい、かな」
「そんなに匂うかしら」
瓶を持つ彼女の手ごと手で包んで、吸血鬼は首を横に振った。
「そうじゃないんだ。それは、幽霊が作っただろう。幽霊になったとはいえ、元々は人間だ。人間味のあるお守りは、逆に俺が狙われてしまう」
「そうなの?」
「あそこはモンスターの巣窟だ。どうしても人間は狙われやすい。元人間だとしてもだ。だから、それを隠すために、俺はいつも何かを渡している」
「そうなのね」
「だから、俺はいい。二人には、ぜひ渡してくれ」
少し楽しげに吸血鬼が言うので、幽霊も頷いて吸血鬼が持ってきた袋から二人はあれこれと包装紙やリボンを取り出した。
「あぁ、それがいい」
「このコットンに含ませて、この袋がいいかしら」
「なにやってんのー?」
魔女がホイッパーを片手に問いかける。二人は手を動かしながら魔女にそれを見せた。
「吸血鬼さんが毎年お守りを作ってくださるでしょう。わたくしも作ってみたの。これでよし。魔女ちゃん、はい、わたくしからプレゼント」
生成りのコットンフラワーの入ったオーガンジーの袋は、小さなドライフラワーが添えられていた。
「すてきな香り! なんの香りだろ。甘いけど……木の香り?」
「あれこれ考えながら作ったから、なんだったかしら」
「樹脂と香木……サンダルウッドか?」
「うふふ、作ったわたくしより、吸血鬼さんの方が詳しそうね」
「俺も詳しくないよ」
断るように手で遮る吸血鬼を、幽霊はやんわりと笑った。ほどなくして、オーブンが焼き上がりの鐘を鳴らした。幽霊は匂い袋と使い切っていない二つの瓶を両手で大切そうに持って魔女に振り向いた。
「魔女ちゃん。博士さんのところに行ってくるわね」
焼きたてのクッキーの並ぶトレイを置いて、ミトンの手で魔女は返事をした。
廊下を歩きながら、幽霊は作りたての匂い袋を眺めている。吸血鬼も魔女に渡したものと似たようなお菓子袋を持っている。それをつまみ上げて、吸血鬼は目を細めた。
「まさか幽霊がお守りを作るとはな」
「ふふ、わたくしにもできるものね」
「……そうだな」
「本当はね、この匂い袋みたいに……香水も、身につけるものでしょう。それでも失くさないと思ったの。他にも、あれこれ考えたわ。考えたけれど、その方とずっと一緒で、離れなくて……どうやっても失くさないものって、身につけるのではなく、食べてしまえばいいわと思って」
幽霊は未開封の瓶——正確には吸血鬼に渡すはずの瓶を持っている。それを恨めしそうに睨んで、吸血鬼はゆっくりと質問を返した。
「自分で、そう思いついたんだ……?」
「えぇ。だって、そうじゃない? 食べたものは失くせないもの」
「あぁ……おまえも、大概モンスターなんだな」
「えぇ?」
苦笑いを浮かべる吸血鬼に、意味が分からないと幽霊は愛想笑いをする。
「彼らを、俺達を思って作ってくれたんだろう。ありがとう。その気持ちは嬉しいよ」
「そう? そうなら良いのだけれど」
「けれど、加減を覚えてくれ。強すぎる思いは、呪いになってしまう」
「……もしかして、わたくし、そんなものを作ってしまったの?」
吸血鬼は片手で自分の喉元から胸元をゆるりと指でなぞる。
「魔力も含めて、体内に入れたものは体中に回る。だから、どれも強烈なんだ。加減をしないと呪いと同じになってしまう」
「全くそんなつもりはないのに」
「だから、加減してくれればいい」
「……これでも、大丈夫かしら」
「それくらいがいい。俺達が作るものは、それくらいがいい」
「難しいのね」
幽霊は悩んで頬に手をあてる。吸血鬼が持つ袋を眺めて、幽霊は軽くため息をついた。
「それは食べられるから、そんなに強い思いではないのね?」
「既製品のアレンジだしな。俺は、これくらいでいいんだ」
吸血鬼は幽霊の口元を指さして、少し怒るような口調で言った。
「おまえだって元は人間だったことを忘れるな。言っただろう。向こうはモンスターの巣窟だ。向こうで実体を持つおまえが、どれほど牙を立てるに容易いか。魔女すら狙われるんだ。博士なんて典型的だ。生身の人間だ。魔女のように魔力もない。招かれてみろ。無防備の人間を、誰が放っておく。どこの馬の骨とも知れない爪痕をつけられるくらいなら、俺が……」
「それで、いつもお守りを……?」
はたと言い淀み、幽霊を指した手を離して、吸血鬼は手で顔を覆う。
「すまない。違う。そうでは、なくて」
幽霊は驚いた顔をしていたが、項垂れる相手の様子を、目を細めて見つめた。
「あなたがいつもお守りをくれて、わたくし達はそれに守られている。だから、何事もなく、無事に帰ってこられる。お守りが大切なのは、骸骨さんからも聞いているわ」
「……」
「心配してくれているのよね?」
微笑む幽霊に、吸血鬼は少し戸惑ったように顔をしかめて苦笑いをする。
「これは、心配、でいいのか? 違うだろう。これは、なわばりを争う、獲物を誇示する、醜い感情だろう」
「なんでもいいじゃない。家族や友達でも、危険なものから遠ざけるでしょう。していることは、同じよ」
「そうだろうか」
「そうなの」
そうして二人は博士の部屋の前まで来て、お互いに顔を見合わせた。幽霊はしっかりと怒った態度を見せて、そうして笑った。
「しっかり博士さんも心配してらっしゃい。醜い感情なんかではないわ。立派な仲間思いの心よ」
背中を押されて少しよろめいた吸血鬼は、幽霊の微笑みに、観念したようにため息をつき、苦笑した。
ハロウィンパーティーの招待状
幽霊屋敷の住人が四人になり、三度目の秋がやってきた。
「博士、いるー?」
廊下を飛ぶように走り、声を張り上げて、魔女は博士の部屋に流れるように走り込み叫ぶ。いるのかいないのか姿は見えないが、研究室となった部屋の一角で、器材に埋もれるようにして、当人はいた。
「いや、こうじゃない。ここに? これで……」
何かを試行錯誤をしているのか、独り言を呟きながら、手を止めず、返事もしない。魔女は積み上げられた書類や器具を倒さないよう、そろりと中へ入って行った。
「ふーん、博士は顔なんだね」
「何がだ」
「ほら」
そう言って魔女は手鏡を差し出した。そこに写る自分の姿に、博士は眉をしかめ、まじまじと自分の顔を覗いた。
「……な、んだこれは?!」
「ふふん、ついてきて。教えたげる」
するりと書類達を潜り抜けて、魔女は博士の手を引いて部屋の外へと誘う。ぴょんぴょん跳び跳ねて楽しそうにしながら、魔女は博士をロビーへと連れていく。
「ねぇ、見て見て!」
ロビーには、待っていましたとばかりに出迎える二人がいた。元々普段から姿勢もよく正装の似合いそうな二人が、まさに正装に身を包んで、どこかに出かける様子だ。魔女は博士の腕を取って、まじまじと顔に浮かび上がった模様を見つめ、なぞった。
「えへへ」
いたずらにスカートの裾を捲し上げ、自分の太腿のしるしを見せて、魔女は笑う。
「私はここ」
「なんと」
女性の太股といえど躊躇もせず博士はそれを凝視してから、幽霊達を見直した。幽霊の胸元にもしっかりと何かしらの模様が現れている。吸血鬼は、服装のせいか分からない。分かるだけでも三者三様で、形が違っている。
「これはなんだ。なんの呪いだ」
「呪いじゃないわ。秘密のパーティーに招かれた証拠なの」
「パーティー?」
「ええ、あなたも招かれたのよ」
「今年はみんなで行けるね!」
「あぁ、最悪だ。おまえも招かれたのか」
幽霊と魔女は楽しそうに踊るように舞う。あからさまに嫌そうにして吸血鬼が自らの顔を手で覆う。その際、博士はその手のひらにも何かが描かれているのを見逃さなかった。
なるほど、これらの模様が何かに招かれた証拠なのだなと、博士は楽しそうな予感に身震いした。
「面倒を起こすなよ。おまえの面倒までみきれない」
「とか言って。本当は心配してるくせに」
茶化して魔女が大袈裟に肩をすくめる。
「なんの話だ?」
「パーティーだよ! ジャック・オ・ランタンの導く、どこでもない、どこでもある、秘密の場所!」
博士の手を引いて、魔女はゆっくりと、しっかりと語る。
「ふふ、パーティーへようこそ。あなたも今夜は目一杯楽しんでね」
「迷子になって、魂を取られても知らないからね?」
くすりと笑って、魔女がその手を離そうとする。幽霊が先導立って、案内する。
……案内する?
博士は何度も瞬きをした。
「(先程まで、ロビーにいなかったか? ここはどこだ)」
いつの間にか世界が変わっている。仄暗い屋敷のロビーから一転、同じく仄暗いが屋外にいる。屋敷の中と同じ気温だが、こちらは少し湿気ている。ロビーの点々とした蝋燭の火は、浮遊するいくつかの光に変わっている。その場に立っていたはずが、今は歩いている。
「(どうやって今、歩いてきた? ——……いや、歩いた、か?)」
博士はもう一度、瞬きをした。
「……は、はははははは!」
薄暗い、雲の立ち込める空と、輝く星と月。どこからか甘い匂いと、妙にすうっとする匂い。微かに霧がさして、うっすらとだけ分かる井戸か何かと、その向こうの大きな鉄の門に、何かのモニュメント。オレンジの外灯が照らすのは、古びた石畳の足元と、何かの小動物の死骸と枯れた草花。
「ここが、秘密の場所だと? なんという、空間!」
博士は臆せず辺りを見回し、先に見知った影を見つけ、走り寄る。
「あはは、博士、こっちこっち!」
大きな飴を舐めながら、魔女が手をふる。幽霊もその傍らにいた。吸血鬼の姿は見えない。目を輝かせて、いや、ぎらつかせて、魔女は笑う。
「ようこそ、この世でもない、あの世でもない、どこでもあって、どこでもない、秘密のハロウィンパーティーへ!」
がやがやと騒がしい、様々な生き物のひしめきあう広場の一角で、マリオネットの糸を両手両足から引きずりながら、可愛いカボチャ頭の少年が、見知った例の吸血鬼の傍に駆け寄る。彼は片手を掲げて、指揮をするように、楽器を持った霊魂達の楽団に向かう。彼の一振りで、大きなラッパが吹き出し、メロディーを奏で始める。
軽快でおかしな、どこかおどろおどろしい音楽が流れ出す。集った様々な生き物達が、楽しげに歌い出す。目まぐるしく各々が騒ぎだし、目が追いつかない。一際目を引く背の高いシルクハットの骸骨が丁寧にお辞儀をしてみせる。
「さぁ、今宵も捧げよう。恐怖を、悪夢を、驚きを、楽しみを。秘密の夜に、乾杯」
カボチャの少年が、籠いっぱいのお菓子を抱えて、走り出す。どこからか響き渡る声で、骸骨が楽しげに司会を始める。
ハロウィンパーティー。
今宵は、年に一度のお祭りだ。
世界の隅々、各地から、
そこはどこから? あの世かこの世か、
招かれ集まる、秘密の場所。
お菓子の準備はいかがかな?
ジェリービーンズにアップルパイ。サイダー、レモネード、 そうだ、マシュマロも焼いておこう。
クッキーは持った? 魂入りの甘いものがお好きかな。
ジャムはどうだ。叫びに涙のスパイス一つ、刺激的な味を用意しよう。
さてさて、
皆様お揃いで、お待ちかね。
招かれたしるしはお持ちかな?
体に刻まれし、招待状。
いくつの夜をお楽しみ?
集めた欠片はいくつになった?
迷わないように、失くさないように。
今宵も宴を始めましょう。
さぁさぁ、皆様、盛大な拍手を。
いかがでしたか。秘密のハロウィンパーティーと、そこにまつわる四人の物語——悲しい魂の物語に、とあるモンスターの物語、そして、強い絆の物語に、人間の業の物語は。
これは、決して彼ら四人だけの話ではありません。ハロウィンパーティーは、この世でもない、あの世でもない、どこでもあって、どこでもない、秘密の場所。
招かれたらなら、歓迎いたします。その際は、どうぞ、合言葉をお忘れなきよう。
※語録・設定
【幽霊】地縛霊の霊魂。俗説「いわゆるツタの生えた建物に幽霊は入れない。ツタが魔除けとして働いている」「11月2日はシャンパンのはじける泡を幽霊が味わう」「こどもの霊は手入れされていない庭を遊び場にする」を使用。弱点は聖魔法と成仏だが、作中の魔女くらいでないと弱点にならないし、成仏するにも生前の記憶が完全に戻り怨霊にならなければの条件つきなので、基本的に無敵。その代わり、あれこれと制限が多い。
【霊魂】本作の幽霊と区別するため、いわゆる幽霊のことは全部霊魂で表記。
【吸血鬼とその姉】本作の不老不死枠。そのため弱点を取っ払ってモンスター側の説明役に。俗説「新月の後の水曜日に生まれた人間に対して吸血鬼は何もできず殺されてしまう」より、特定の条件下でないと死ぬに死ねない。本来「死ぬ」と表現したいところは「壊れる」で代用。変身はしない。成人の儀は小学生から成人になるイメージ。姉は人間の町に住みつき、人間の伴侶との間に子供をもうけている。手紙のやりとりで、弟もそれを知っている。
【魔女の師匠】ただの人間ではない。いわゆるエルフ系と人間の混血。死神が魔女を怪しんだのも、師匠の加護があるため、ただの人間に思えなかった。ちなみに弟子の魔女は人間。
【魔法】聖、火、水、風、地、光、闇の属性。一般的に人間は聖と闇が使えない。モンスターは種族により聖と闇の得意不得意がはっきりしている。
【魔力】生まれつきの固有能力。人間は基本的に魔力をあまり持たない。
【魔法使い、魔女】アーティファクト(魔力を持った道具)を使い技術で魔法を使うのが魔法使い、生まれた時から膨大な魔力を持っている者を男女ともに魔女とする。なお、アーティファクトは法と信頼の下、長い年月をかけ人間と友好関係を築いた者が作っている。
【博士の怪物と商人の旦那】原作「スイス屈指の名家の長男」「実弟、義妹、幼馴染の商人の親友がいる」を前世とし、親友との友愛を情愛へ。原作は女の怪物を作成拒否したため親友を殺されるが、本作では完遂しており、怪物達のための島も商人の旦那が購入している。商人の旦那はあくまで博士のために動くので、原作にもある墓荒らしなど、一通りの共犯者である。
【種族の表記】人間か、モンスターか。本作では、種族表記、化け物や妖怪などの表記はしない。表現しにくいものは「人間ではない」で代用。
【生命】いのち。人間は心臓ありき、モンスターは核ありき。核は体内にあると限らない。
【月の満ち欠け】俗説「化け物どもは、月が満ちていく間に活発になる」伝承「月光が狂気をもたらす」を使用。
【モンスターの好む香り】俗説「死体やミイラ作りの防腐剤として、植物油脂(ゴマや杉)、白檀、木炭、ハーブや香辛料、塩、酢が使われてきた」を使用。ミイラの語源、ミルラ(没薬)もその一種。
【冬の老婆】イタリアのクリスマスの彷徨う魔女ベファーナより。俗説でもフードに老婆の姿。「キリスト生誕に向かうも辿り着けなかったため、ほうきとお菓子をもって彷徨い続ける」「子供を失って気が狂った女がキリストを我が子と勘違いする」「クリスマスにいい子にお菓子の贈り物をする」
【キョンシー】中国のゾンビ。「凶暴で血に飢えた人食い妖怪」より、本作は噛みつき癖にした。死後硬直で体が動かないと描写が難しいので、制限のある動きと硬い体に。ゾンビと区別化するために話ができるようにした。「魂がなく肉体だけの状態」「毒の爪をもつ」も使用。
【フクロウ】フクロウに変身する吸血魔女ストリゲス、インドの幽霊ペンチャペチより。「完全に独りの状態になった人間を狙い、追いかけ襲う」
【妊婦の幽霊】インドネシアの妊婦の幽霊ポンティアナックより。「満月の夜、赤ちゃんの泣き声とともに現れる」「特定の男を狙って襲い、はらわたを食べる」食人鬼、幽霊どちらの表記もあるので実体のある幽霊とした。
【ゾンビ】語源「奴隷の神ンザンビ、実は死んでいない」を使用。本作では脳も機能しないただの肉塊。実は死んでいないかも説は博士に代弁させた。
【大男の吸血鬼】舞台と小説ドラキュラより「背の高い痩せた男」「燃えるような赤い目」「尖った犬歯」「尖った形の爪」「オールバックの髪型」「夜会服にマント」「怪力無双かつ変幻自在」を使用。一般的な吸血鬼イメージはこちら。俗説「吸血鬼達は冬の間に引っ越しをする」も使用。
【ミイラ】古代エジプトのミイラ。埋葬がしっかりしているので上級王族の設定。女。カノプス壺もたぶん持ってる。
【死神】死神の集合体イメージ。「中身が骨」「足がない」「大鎌持ち」「死の天使サリエル(霊魂を天国地獄に運ぶ)」「エジプトの死神セクメト(猫科仮面の破壊の女神)」「冥界の神アヌビス(狼仮面のミイラ作りの男神)」を混ぜて使用。本作のミイラはアヌビスだと思っている。
【骸骨】物語上、ハロウィンパーティー側の話を円滑にするために作ったネタバレ進行役。初めから幽霊をマダムと呼ぶなど、なんでも知っている。伯爵と呼ばれているが、誰も正体を知らない。パーティー創設者のイメージだが、設定ではない。
【作中の料理】[パーティーの準備]ソウルケーキは、アイルランドやイギリスの伝統菓子。ハロウィンの時期に作られ配られる。サーオインのおまじないも同様。ビスケットの割れた形で一年を占う魔女の遊び。[冬の迷い人]老婆がイタリアのネタなので、差し出されたスープもイタリア料理ミネストローネに寄せた。
[幽霊の乾杯の日]キュルテーシュカラーチは、ハンガリーやルーマニア領トランシルヴァニア地方の伝統菓子。ドラキュラゆかりのトランシルヴァニアを吸血鬼姉の住む地に、ソ連領でもあったハンガリーを幽霊屋敷の立地モデルにしたので、設定上、吸血鬼のよく知る料理で、幽霊には馴染みのある味になった。オッソブーコは、イタリアミラノの家庭料理。設定上、博士や魔女には食べやすい味になる。ミルク酒は、ポルトガル(リトアニア?)の自家製の酒。ミルクウォッシングという技術でタンニン等を取り除くので飲みやすい酒になる。伝統的な魔女の酒ともされる。
【ハロウィンパーティーの招待状(後)】