パーマンがそこにいる、とき。
パーマンが飛んでいる。きっと悪者を退治しに行くその途上であろう。丁度、東海道新幹線の上空を飛び、新幹線の速度に追いついてそして追い越していこうというところ。
「あ、パーマンや」
誰かが車窓を見上げて叫んだ。新幹線の窓に群がる修学旅行の生徒たち。そして万来の賛辞でパーマンに手を振る。パーマンもそれに気付いて彼らに手を振り返す。小田もまた一緒に手を振って「ガンバレ~」などと応援の言葉を掛けていたのだが、隣に座っていた下戸島はそんなパーマンに目もくれず携帯用ゲーム機でゲームをしているのだった。
「お前、パーマン来てんねんぞ!手ぐらい振れや!」
小田は思わずその下戸島の態度に腹が立ち彼に言った。
「はあ、知らんやんけ、何で俺がパーマンに手ェ振らなあかんねん!」
下戸島は小田の言葉にゲーム機から顔を上げて、小田を睨みながら言う。
「なんやねん、お前、パーマン来てんねんぞ!みんな振ってるねんぞ、手ぇ!」
「知らんやんけ!パーマンとか俺関係ないやんけ!」
「お前、なんやねんそれぇ!」
「何で俺がパーマンに手ぇ振らなあかんねん!」
「みんな振ってたんやんけ、お前だけ何で手ぇ振らんのじゃ!」
互いに折り合わず、二人は対立する。この一事は小田と下戸島に禍根を残すこととなった。それはパーマンが新幹線の上空を飛び去り、興奮の冷めやった車内でみんな元のくちゃくちゃ喋りの続きを始めだしても、無言のまま睨み付ける小田とそれを無視してゲームをする下戸島の目に見えないある種のせめぎ合いが続いていたのだった。
それから小田は事ある毎に下戸島の悪口を言うようになった。近しい友人たちにこう言って自分の見識の賛同を得ようとするのだった。
「パーマンやで?パーマン来てて普通にあれはないやろ、手ぇ振らんとかあり得る?」
「ないなぁ…」
小田は近しい友人から遠いクラスメートにまで見識を広めていくことに余念はなかった。というのも小田は自分の方にこそ正当性があることは充分承知していたからだった。正義を行う者を応援するのは当然のことだ、そして正義は当然報われるものである、と。しかし、クラスメートたちのほとんどがこの見識に対する一致を見ても、下戸島はそんなことには何処吹く風であった。下戸島自体がクラスメートには交わらない性格だったので、この軽微な排除的な傾向、腫れ物に触るかごとき現象には彼の学校生活になんら支障を来すことはなかっただけである。何か忘れ物をしたときにだけこの傾向にちょっとした不具合を感じたぐらいである。
それに彼は小田の言い分に誤謬を見いだしていた。正義は絶対的に正義とは言いがたく相対的なものである、それにまた自分は彼に正義を行うことを頼んだ覚えはなく、その点でもパーマンは勝手にやっているだけで、勝手なことをしている人間に過ぎない、勝手にやっている分にはいいが、そこに何故自分が応援したりしなければならないのか、応援などしなくていい、という結論を見いだし、理論を強固にしていくことに下戸島もまた余念がなかったのである。
その闘いは一方は人間の見識を享有し合い全体を教唆して違いをあぶり出していく方法、かたや他方はその見識の誤謬から理論を確立しあぶり出されたとて理論的な支柱の強固さで持って防御を行う方法と言えよう。パーマンという感情論的現象はある種の狂熱をともなっており彼らの見識の誤謬をついて逆に教唆していくことの困難さが下戸島を後手にさせたのだろう。
そして事態は思わぬ展開を迎えることになる。一方は連帯を組んで付き合いを行わない方法論とまた一方は抽象領域でのカント的なアプリオリなことはいつまでもアプリオリだから別段問題はないんだという無視をする彼らを逆に無視をする方法論、この目に見えないせめぎ合いに決定的なことが起こるのも逆説的なことで、それはあくまで肉体的なことであった。それは小田の精神状態の何度とない敵愾心の高低の反復のタイミング、休憩時間の弛緩と人々のアトランダムな動きの中からの突然の下戸島、小田の進路に対する障害物性が合わさって、思わず小田は下戸島を押し倒してしまった。
「どけや!」
それからはめくるめく早さで事態は進行していく。押し倒された下戸島はすぐにも起き上がって反撃をする。
「なにしとんねんボケ!」
それからはもう血みどろの闘い。パンチが舞い上がり、キックが宙空を滑る。パンチが宙空を横切って、キックが空を切る。そしてパンチが唸り、キックが遠吠えを上げるのだった。
椅子に座っているのは担任の鮒寿司先生、その前に立たされる二人の生徒、小田と下戸島。
隣では電話の対応をし唾を飛ばしながらソフトボールの納品の期日がどうのとソロバンをはじきながら喋っているのは数学の教諭、その隣では生物の教諭が虫の標本作りにピンセットでテントウムシをつまみ、奥では保健体育の教諭が裸婦画を校長に差し出しながら虫眼鏡を使うことをお勧めしている、よく見えますよ、家庭科の教諭がテレビのマラソン中継を見ながらエンドウ豆をさやから取り出してボールに放り込み下拵えをし、教頭はすっくと立ち上がって今し方入って来た教育委員会からのダークスーツのエージェントの応対をしているのは、どうでもいい話だ。
「もうお前ら、中学も三年やがな、今年で卒業やがな、そんなんしてたらあかんがな、何があったんや?んん?言うてみ」
鮒寿司は椅子に座り二人の生徒を立たして言うのだった。
「いきなりこいつが押してきたんですよ」
下戸島はこう述べた
「小田、お前そんなんしたらあかんやないか。何でそんなんするんや。そんなんしたらあかんやないか」
小田は少し戸惑った、何故そういうことになったかはそこに至る過程がある。そして話をすれば長くなるのだったが、あまりにも沈黙は自ら不利にするだろうと思い、
「こいつがパーマン来てるのに手ぇ振らんかったからですよ」
「何?パーマン?おい下戸島パーマン来てたのにお前は手ぇ振らんかったんか?」
「こいつね、ゲームしてたんですよ」
小田はすかさずそこに合いの手を入れた。少し風が吹いたと思ったのだ。
「はあ、お前いつの話してんねん、それ修学旅行の時やんけ、今日、お前、いきなり押し倒してきたんやろうが」
「なんや、小田、今日お前いきなり押し倒したんか?あかんがな。謝ったれ」
「ちゃうんっすよ。こいつパーマンが来てんのに手ぇ振らんかったんです」
「それは分かったがな。今日はお前がいきなりそれで下戸島のこと押し倒したんやろ、そのこと言うてんねや。それはお前、悪いで」
「……」
「謝れ、謝っとけって、ちゃんと…」
「すいません…」
「俺とちゅうがな、ちゃんと下戸島の方を向け」
「すいません」
「下戸島、ええか?小田もこう言うとねんや下戸島、もう許したってもええな?」
「…まあ、許したるわ」
「これでまあ一件落着やな、ところで下戸島、お前もな、なんかパーマン来てて?手ぇ振らんかった言うてたな、そら何でや、手ぇ振ったったらええやんか?」
「……」
下戸島にも言い分はあったが、正義とは相対的なものであるというこれまで強固にしてきた理論をこの場で述べるには何か似つかわしくない気がして黙っていた。むしろ小田とは対称的に彼は沈黙を選んだ。沈黙しているとそのうちに彼に対する興味がだいたいの人間が失われることを知っていたからだが。
「まあな、お前もなそんなんやと社会に出たときつらいぞ。お前は高校へ行かへんねやろ。仕事するんやろ。職場なんかでもみんなに合わせていかなあかんがな、ちゃうか?パーマン来ててな、手ぇも振らへんとかしとったらな、生きていかれへんぞ。まあ、トイレしてるときとかに来たら、まあしゃあないかなってみんなも思ってくれるわ、でもな、ゲームしとるだけやったら、ちょっと顔上げたらええやんけ、なあ、ちゃうか?」
「……」
「もうはっきり言うたるわ。お前、みんなから嫌われてんねやで。こういう問題が起こるかなと俺も思ってたところやがな。もう卒業やし何もなさそうとも思ってたのにな。なあ、下戸島な、そうやってな何か言われたら無視してやり過ごそうとしとってもな、すぐに人には分かるぞ。なあ、自分でな自分を褒めて上げるようなことを考えて生きていかんとあかんやろ?壁に耳あり障子に目ありとか言うやんけ。何処で誰が見てるか分からへん。パーマンなんかおったら手ぇ振ってみんな応援しとるからな、彼なんかまだ小学生ぐらいやんか、お前らより年下や、なあそんな子が頑張ってんのに、お前なんかお兄さんやないか、応援したらなあかんのとちゃうか…なあ」
その時、職員室内がざわついた、窓の外、その上空に人影が見える。
「あ、パーマンだ!」
誰かが叫んだ。それは教育委員会のエージェントだった。窓に張り付いてパーマン、パーマンと手を振っている。
「ほら、パーマン来たで、ええ機会や、お前も手ぇ振れ、なあ下戸島…」
と鮒寿司は言って立ち上がり手を振ろうと窓の方に近づいたがすぐに踵を返して座りなおした。
「あら、パーヤンや、あいつはええわ」
「何でなんすかパーヤンはええんすか、パーヤンも頑張ってくれてはるやないすか?」
と小田は意見するが、
「あいつ東大阪のコンビニでよく見かけるし、ええわ、カップラーメン山ほど買ってんのん何なんあれ、あいつどんな暮らししよん」
と鮒寿司は言った。また言わなかったが、難波の風俗店での待合室でも隣同士になったことがあり、あいつ結構変態や、と自らを棚に上げて思ったことを思い出したのだ。また日本橋のエロのDVDショップにもおったなあ、あいつの緑の服何処おっても分かるわとそれから感慨に耽る鮒寿司。
「下戸島、パーヤンやったら別に手ぇ振らんでもええぞ」
鮒寿司は言った。しかし言ってから何か思うところがあったのか、
「まあまあ、振りたかったら振ってもええし、強制はせん」
しばらくして鮒寿司はこう付け加えながら、ふっと思い出したように首を回し、
「大盛さん、それ茹でんの?」
机の反対側でエンドウ豆を剥いている家庭課の教諭に声を掛けている。三十数年辛抱するかのように授業でも寡黙な大盛先生はその豆剥きの手を止めずに、その自身豆っぽい頭を動かしてうんっと頷いた。
「さよか…」
そして生徒二人は同時に、そら茹でるねやろ、と思ったのだった。そうして世界に日が暮れ、いつものように平穏のもとに一日が終わる。
パーマンがそこにいる、とき。