数から逃れられなくなっていく。民主主義は多数決を採用している。数で決まる。数がものを言う。いいねとフォロワーの数で決まる世界。知らない間に生活に数が忍び込んでくる。数学が嫌いな人はたくさんいるが、数が嫌いな人っているのだろうか。金が欲しいと言う人は、実際のところ数が欲しいのかもしれない。みんな数が大好きだ。数の魔力から逃れられなくなっている。政治はますます統計がものを言うようになった。唯物論と統計学が勝利してしまったのだろうか。統計がどこでも幅を利かせている。数への信仰は次第に強くなっている気がする。資本主義を批判している人はネット上にたくさんいるが、自分が書いた記事のいいね数が多いと、気分は悪くないのだろう。数への信仰から逃れられない時代の到来。近代文学という言語による挑戦は砕かれてしまったのだろうか。人間も数でまとめられる。人間A、人間B、人間C..という視点。この視点はすでに誰もが内面化している。人間はみな同じなのだ。同じ存在である。いい話にも聞こえる。数で考えることと、言葉で考えることの違いはなんなのだろう。数に収斂していく資本主義と民主主義。はじめから数字主義が問題だったのだろうか。何かが衰弱していっている。いいね数にフォロワー数に出生数に感染者数。すべてが数に還元されていく社会。人間の頭上に数が刻まれた時代。

 数も洗練されてきた。ローマ数字しか知らなかった時代から、アラビア数字を用いた時代がやってきた。数に対する認識が洗練されていくにつれて、人間と数が対応していく過程が進行していく。数がもたらす未来はディストピアでありユートピア。言葉はどこへいったのだろう。みんな言葉を使っているが、言葉が本来持っていた情念の力も霊の力も忘れ去られていく。数と空間と物質の影響力が増していき、言葉がもたらす垂直的思考の力は脇へと追いやられていくようでもあった。自分の内面を探る手法を忘却するようになり、次第に新しい思考法が主流になっているようだ。都市化と文明化によって、識字率は向上し、誰もが字を書けるような時代がやってきたが、その分書くことによって霊的な世界にまで至る可能性は薄まっていく。平穏な時代が到来したことは喜ばしいのだが、言いようのない苦しさがある。水面下で延々と続く飢餓感と孤独感。軽薄であることを強いられ、進んで道化を演じようとする痛ましさ。自身も相手も、周囲の人々も、どこを見渡しても空虚であり、枯渇した精神に清らかな水がもたらされる機会に出くわすようなこともない。言いようのない飢えを抱えているが、何に飢えているのかが当人にも誰にもわからない。

 数によって支配される社会から逃れられるのだろうか。逃れる必要もないのだろうか。統計を見て判断すれば、社会の行く末もある程度把握できてしまう時代がやってきた。どうも何か納得がいかない。そんな高い視点を人間が持ちうるのだろうか。統計を信じすぎてはいけないと言うのは正しいが、人間社会も自然界も数に支配されていることが浮き彫りになってきた事実から目を逸らすこともできない。数がまとわりついて離れなくなった。数の世界と、言葉の世界は、やはり違うところからやってきたのだろうか。人間の精神世界内で、異なる二つが混ざり合っている。

 考えるのはもういい。自己否定を前提とした自己陶酔を糧にして、色々と書くのも、もう終わりにした方がいいのかもな。陶酔を前提として、文章を書いているのだが、書きながらその陶酔にメスを入れていかないと、やはり面白くない。陶酔に依存しながら文章を書いているのだが、その陶酔を冷めさせようとするために書いているところがある。いつまでも、陶酔を頼りに書いていると、やがて陶酔も腐敗して衰弱していく。陶酔から目覚めて、静かな状態に達することを目的として書いているのだが、言葉というものは厄介なもので、言語的思考がまた新たな陶酔を見出そうとしているところもある。陶酔から抜け出したいのか、抜け出したくないのか。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-08-18

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