振り返る

 自分は若い頃は人よりも良く仕事をしていた。残業も当たり前だったし、定時で帰ることなんてほとんどなかった。休みの日も仕事をしたりすることもあった。そして結構街に出て遊んだりもしていた。空いている時間に読書もしていた。どういう風に時間を配分していたか今ではわからない。当時はエネルギーがありあまっていた。負の方にも正の方にも感情が揺れ動いていた。とにかく安定していなかった。内側の方では深い疲弊を感じていたのだが、その疲弊が表に出てくることはなかった。疲弊がかえって活動的にさせるという、私の人生の根幹となる悪循環がここでも働いていた。この悪循環にいつでも支配されていたので、がんばってはいけないところで無理にがんばる回路が完全に自分に定着しており、もはや取り除くことが不可能になっていた。その事実に自分でわかっていながら、どうしようもないと諦めているところもあった。何重にも錯綜してメタ思考を働かせ、幾重にもメタを上乗せさせ、そうしてまた根底からそのメタを崩してみたりしたが、結局悪循環は健在だった。もはやこの悪循環こそが自我そのものであるかのように思えた。


 とにかく私は働いた。遊んでもいた。本も読んだ。この時期のことをまだほとんど言葉にできていない。無理に言語化しようとすると、壊れてしまうと思っているのかもしれない。社会人になる前の学生時代のころについてはかなり言語化、相対化できるようになってきた。こうしてある程度自分の過去を振り返ることができるようになるのに、40歳を過ぎてしまった。30代前半くらいまでは、ものすごくしんどかった。自分の過去がまったく整理されていなかった。過去と向き合わず、前ばかり見ていた。


 自分の過去を整理して楽になりたいという願望は自分の中にある。自意識過剰かもしれないが、自分の書く文章はいちいち人を怒らせることが多いようだ。それでも書くしかないと思っている。自分は文章を書いているといつも脱線する。論理の世界と比喩の世界があり、両世界の間でバランスを取りながら文章ができていくのだとしたら、私は後者の方にいつも流されてしまうということなのだろうか。


 過去ばかり見ていないで未来を見据えた方がいいというのは正論だが、自分の場合過去を蒸し返して整理しないと、とても判断や行動をする気力が湧いてこないというところがある。私はずっと過去に執着している。昔は過去の記憶がもっとばらばらに点在している感じがあった。記憶が時系列順に並んでいない感じがあった。過去を振り返ることを拒否しているところがあった。勇気を持って直視するためには、身体を壊す必要があったようだ。身体を悪くしたことで、心身のあり方が穏やかになり思考がそれほど活発ではなくなったことで、ようやく落ち着いて過去を振り返ろうと思えるようになった、と自分は考えている。


 傷つけられた記憶は少しずつ治癒していくものだが、傷つけた記憶はずっと残り続けるもののようだ。傷つけられた場合は自分の痛みだから自分で対処できるが、傷つけた場合は相手の痛みだから自分ではわからない。だから、いつまでたっても対処のしかたがわからない。

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-08-17

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