百合の君(70)

百合の君(70)

 川照見盛継(かわてるみもりつぐ)は、上噛島(かみがみしま)城に向けて進軍していた。汗で濡れた兜の緒がきつかった。執事の彼は、将軍の不在を知っている。主のいない間に城を占拠し、穂乃(ほの)を殺害するつもりだ。盛継は思った。将軍がああなってしまったのは、百合の君のせいだ。戦のない世などという実現不可能な理想が、責任感の強い将軍の心を狂わせたのだ。このままでは家臣の心はますます離れ、早晩喜林義郎(きばやしよしろう)に天下を奪われるだろう。そうなる前に君を粛正し、幕府を立て直さねばならぬ。
「川照見殿、本当にやるんですか」
 馬を寄せてきたのは並作(へいさく)だった。
「親分は、優しい人なんですよ」
 暑さのためやや上気している顔は、やはり戸惑っていた。しかし並作は何も知らない。
「それは私も存じております。しかし、仕方がないのです」
「でも親分は、本当に俺のことを・・・」
 並作には、浪親が家臣を粛清すると言ってある。もちろん嘘だが、並作は確かめもせずに付いてきた。
「将軍は変わってしまわれた。何も討ち取ろうというのではないのです。城を占拠して、将軍のお目を覚ますのです。それがずっと従ってきた我らのお役目というものです」
「川照見殿がおっしゃるのなら・・・」
 並作はうつむいて、懐からデンデン太鼓を取り出した。盛継も何度か見たことがある。妻も子もない気の優しいこの男が、子どもたちと遊ぶときに使っていたものだ。
 テン テテン テ テン テテン
 テン テテン テ テン テテン
 途切れがちな、それでいて規則的な太鼓の音が、まるで非難するかのように響いていた。この謀反が上手くいっても腹を切らねばならない、と盛継は思った。

 文を受け取った時、義郎はちょうど木怒山由友(きぬやまよしとも)から稲の生育具合についての報告を受けていた。木怒山の顔は赤いままだが、髪には白い物が混じっている。義郎は己の手の甲に浮き出た血管を見た。別所を平らげてもなお、血はまだ力を欲して、体中を巡っている。
「鹿の角はなぜ付いているのか、知っているか?」
「鹿、ですか?」
 木怒山は顔を伏せ、わざとらしく文書に目を落とした。しかし義郎は構わなかった。
「他の鹿と戦うために付いている。決して奴らを食べようとする狼と戦うためではない。仲間と戦うための武器が、生まれつきあんなにでかでかと付いているというわけだ。人間同士の戦も、天の理なのだ」
「仰せの通りでございます」
「この世に我らしかおらぬゆえ、人の知能は異端に見えるがそうではない。人以外の動物はほとんどの子を食われるか病で失うかするが、他の生き物を征服した人は戦によって子供を殺す。将軍の言うように戦を克服しても、また人は別な方法で間引きを始めるだろう。それは良いとか悪いとかではない。我らはそのようにできているというだけだ。将軍の理想は、理を無視したゆえに座礁した」
「と、おっしゃいますと?」
「川照見盛継が謀反の兵を挙げた。幕府の執事、将軍に次ぐ役職の男だ」
 義郎は笑った。木怒山も追従しようとして、思いとどまった。
「ならば、川照見に加勢して、将軍を討ちますか?」
「いや、逆だ。川照見を討つ。まだ出海の首を取る時期ではあるまい」
 木怒山の返事を待たず、義郎は愛刀國切丸を持って出て行った。

 ひとり残された木怒山は、「山猿も賢くなったものだ」と独りごちた。
 
 頭を狂わせようとする蝉の声が止んだようだった。浪親はその文の一字一字が脳内を整然と並び変えていくのを感じた。このように思考が澄んでいるのは、いつ以来だろう?
 浪親は、あの村を思い出した。まだ盗賊をしていたころ、戸を蹴破ったら武装した男達がいて、返り討ちにされたのだった。あれは一揆の支度をしていたのだとばかり思っていたが、それはとんだ勘違いだった。あの村は、過去に襲ったことがある。あれは我らの再びの来襲に備えていたのだ。あの時、戸を蹴破るなど中途半端なことはせず、いきなり火矢でも射かけていたら、子分を酷い目に遭わせずに済んだのだ・・・。
「城に帰るぞ」
 馬に跨る浪親を見上げる家来が、夏の日差しを受けて眩しそうに眼を逸らした。確認するかのように、浪親は心のうちで繰り返した。あの時村人を皆殺しにしていたら、子分はみんな無事だったのだ。戦のない世をつくる一番の近道は、敵を殲滅することだ。
 こんな簡単なことに、どうして気付かなかったのだろう?
 日は相変わらず照っていたが、不思議と暑さは感じなかった。日の光は、まるで清らかな水の流れのように浪親には感じられた。涼しかった。
 馬に揺られながら、浪親は上噛島城を奪った時のことを思い出していた。人にはどうすることもできない運命がある。天が夢塔遠近(むとうおちこち)ではなく私を選んだから、あの時盛継が城にいた。
 そして今また、盛継と並作は謀反の兵を挙げた喜林義郎と戦っているという。やっとだ、浪親は思った。やっとあやつを討つ大義名分ができた。あやつの首を穂乃と珊瑚に見せびらかしてやる。

百合の君(70)

百合の君(70)

川照見盛継の謀反と各々の思惑です。途中の回想にある村の襲撃は(8)に、上噛島城の奪取は(15)(16)(18)にあります。また、並作がデンデン太鼓で遊ぶシーンは(40)にあります。その次の(41)がタイトルの由来となったシーンでもありますので、読み返して見ると面白いかもしれません。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-08-16

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