
広島、記憶の欠片、君に会いたい
一、發端(発端)
昭和18年の夏、広島市。16歳の女学生・悠子は、ごく普通の家庭で暮らしていた。優しい母、少し厳格ながら家族思いの父、そして元気いっぱいの10歳の弟・健一。戦況は厳しさを増し、物資は不足し、空襲警報が鳴る日も増えていたが、彼らの日常にはまだ、ささやかな温かさと笑顔が溢れていた。悠子は、食卓を囲む家族の談笑、庭に咲く朝顔の色、健一と交わすくだらない冗談、そんな何気ない瞬間一つ一つを「記憶の欠片」として心に刻み込んでいた。
二、展開
父は軍需工場への動員で帰りが遅くなり、家族が揃う時間は少なくなっていく。学校では学徒動員の話が本格化し、友人の間にも不安と緊張が広がる。健一は、学校で教わる「お国のために」という言葉や、戦場の英雄の物語に夢中になり、幼いながらも「大きくなったら兵隊になる」と言い出す。悠子は、そんな弟の無邪気な言葉に胸を締め付けられながらも、彼が安全でいられる未来を願うばかりだった。
悠子は、日々の不安の中で、幼い頃に家族四人で初めて遠出した宮島の記憶を度々思い出す。桟橋から見た海の色、鹿と戯れる健一の笑い声、母が作ってくれた握り飯の味。それは、戦時下の現実から逃れ、心を落ち着かせるための大切な「記憶の欠片」となっていた。彼女は、この欠片を失いたくないと強く願う。
三、結末
ある夕暮れ時、父が珍しく早く帰宅し、家族四人で食卓を囲むことができた。母が心を込めて作ったわずかなご馳走を前に、父は静かに、しかし優しい眼差しで悠子と健一を見つめた。健一は、いつものようにはしゃいでその日の出来事を話し、悠子はそんな弟を微笑ましく見つめる。
食事を終え、家族が縁側に座り、暮れていく広島の街の灯りを眺めていた。遠くから聞こえる軍歌の調べが、彼らのささやかな平和な時間を侵食しようとしているかのようだった。悠子は、隣に座る健一の小さな手をそっと握る。父と母の背中からは、家族を守ろうとする静かな決意と、未来への漠然とした不安が伝わってくる。
悠子は、この瞬間こそが、後に彼女が「もう一度、君に会いたい」と切に願う、最も鮮やかで、最も痛みのある「記憶の欠片」になることをまだ知らない。彼女はただ、この温かな光景が永遠に続くことを願いながら、家族の温もりを深く心に刻みつけるのだった。物語は、静かな夜の帳が降りる中で、家族の絆が強く輝く一瞬を切り取って幕を閉じる。
第一話 縁側の朝顔
昭和十八年、夏。「広島、記憶の欠片、君に会いたい」という静かな願いを孕むこの街の朝は、今日も変わらず、蝉時雨と庭の朝顔がそっと花開く音で始まった。
女学生の悠子は、縁側から差し込む柔らかな陽ざしの中で、畳の上で微睡んでいた。頬を撫でる朝の風は、隣家から漂う醤油の焦げる香りと、遠くから運ばれてくる潮の香りを微かに混ぜてくる。
「悠子姉ちゃん、起きなさい!もうお昼になるよ!」
弟の健一が、悠子の布団の端を引っ張りながら、元気いっぱいの声を上げた。十歳になったばかりの彼は、夏休みに入ってから、そのいたずらっぽさに拍車がかかっているようだ。悠子はゆっくりと体を起こすと、まだ眠気まなこで健一の頭を撫でた。
「お父さんはもう行ったの?」
「うん。朝早くから軍需工場に行っちゃった。お母さんももう朝ご飯の準備してるよ」
健一の言葉に、悠子の胸はほんの少し締め付けられた。この頃、父と顔を合わせるのは、朝か夜のほんの一瞬だけだ。以前は、休日に家族で近くの川へ魚釣りに出かけたり、縁側で将棋を指したりしたのに、戦争が始まってから、そんな穏やかな時間は遠い記憶になりつつあった。
台所からは、母が味噌汁をかき混ぜる音と、お米が焦げ付かないように注意深く炊く音が聞こえてくる。食糧事情は悪化し、白米ばかりを食べることは難しくなったけれど、母はいつも、僅かな食材で家族の食卓を温かく整えてくれた。
「今日も暑くなりそうね」
「うん、でも大丈夫!僕は今日も原っぱで遊ぶんだ!秘密基地も、もうすぐ完成するんだから!」
得意げに胸を張る健一の横顔を見つめながら、悠子はふと、父の背中を思い浮かべた。小さな弟の背中も、いつか父のように、この国のために戦うことになるのだろうか。そんな漠然とした不安が、ここ数年、悠子の心に深く根を下ろしていた。
庭の朝顔は、今日も変わらず鮮やかな色を湛えている。その隣で、健一が「僕が大きくなったら、お姉ちゃんを守ってあげる!」と、力強く宣言した。
悠子は、その言葉にただ微笑むことしかできなかった。この何気ない日常が、どうか長く続きますようにと、心の中でそっと祈った。
第二話 帰途の夕焼け
夏の午後の校庭は、汗の匂いとチョークの粉が混じり合い、少しばかりざわついていた。放課後、悠子は同級生の美咲と肩を並べ、いつもの帰り道を歩いていた。制服の襟元は汗で湿り、肌に張り付く感触が心地悪いけれど、間もなく訪れる自由な時間に、二人の心はわずかに浮き立っていた。
「ねえ、今日も先生が学徒動員の話をしていたね。なんだか、本当に怖くなってきた」美咲の声は、夕焼け空の下で、ひときわ心細く響いた。
「私たちまだ十六歳だもん、きっと大丈夫よ」悠子はできるだけ明るい声で答えたけれど、胸の奥には鉛のような重さが沈んでいた。
この数年、学校の授業は、学問よりも戦時下の訓練や心得を教えるものが増えた。男子生徒たちは、一人、また一人と戦場へ送られ、教室の席はまばらになった。女子生徒たちも、炊事や裁縫、応急手当といった、戦時下で必要とされる技能を学ぶことに多くの時間が割かれるようになっていた。かつて、未来への希望に満ちていた学び舎は、今は静かに、戦争の影を落としているようだった。
「そういえば、悠子ちゃんの弟さん、最近見かけないけど、どうしてるの?」美咲がふと思い出したように尋ねた。
「健一ね、すっかり『軍事ごっこ』に夢中なのよ。『大きくなったら、きっとお国のために役に立つんだ』って、毎日張り切っているの」
悠子の声には、少しの自嘲が混じっていた。健一の純粋な言葉は、大人たちの耳には可愛らしく響くのかもしれない。けれど悠子には、それがどこか不安の種のように感じられた。いつまでもあの無邪気な笑顔のままでいてほしいと、何度思ったことだろう。
西の空は、燃えるようなオレンジ色に染まっていた。帰り道の途中で、美咲がふと足を止め、空を見上げた。
「あれ、飛行機だ。また訓練かな…」
悠子もつられて空を見上げた。茜色の空を、一機の黒い飛行機がゆっくりと横切っていく。それは、夕焼けの美しい光景の中に、不気味な影を落としていた。
その瞬間、悠子の心に、言いようのない不安が押し寄せた。平和な日々は、もうすぐ終わりを告げるのかもしれない。そんな予感が、胸を締め付けた。隣を歩く美咲の存在だけが、今の悠子にとって、かろうじて現実との繋がりを保つための錨だった。「広島、記憶の欠片、君に会いたい」。まだ見ぬ未来への切ない願いが、夕焼け空に溶け込むように、悠子の心の中でそっと呟かれた。
第三話 約束の木の下で
「悠子姉ちゃん、見て見て!僕が作ったんだ!」
夕食後、健一は庭の片隅から、誇らしげに小さな木製の飛行機を持ってきた。それは、つたない手つきで削られた、翼も曲がったおもちゃの飛行機だった。
「わあ、すごい!健一が作ったの?」
悠子が驚いて褒めると、健一は得意げに胸を張った。
「うん!いつかこの飛行機に乗って、お姉ちゃんを遠いところに連れてってあげるんだ!」
その言葉に、悠子の胸は締め付けられるような痛みに襲われた。美咲と話した夕焼け空の飛行機。それが、弟の無邪気な夢と重なり、得も言われぬ不安を呼び覚ます。悠子は健一を抱きしめ、彼の小さな頭を優しく撫でた。
「健一、約束よ。お姉ちゃんと、ずっとここにいてくれる?」
「うん!約束だ!」
健一は元気よく頷いた。その笑顔は、いつものように輝いていた。
庭の隅には、悠子と健一が幼い頃、父と一緒に植えた柿の木があった。小さかった柿の木は、二人の成長と共に大きくなり、今ではたくさんの実をつけている。
「柿の実が熟したら、お母さんに柿餅を作ってもらおうね」
悠子は、柿の木の下で、健一にそう囁いた。柿の木は、家族の思い出が詰まった、大切な存在だった。柿の実が赤く色づき、甘く熟すのを、悠子は心から楽しみにしていた。
その日の夜、悠子はなかなか寝付けずにいた。蚊帳の外では、虫の音が静かに響いている。
(健一と交わした約束。この小さな日常を、どうか失わせないで)
悠子は、柿の木の下で交わした約束を、何度も心の中で繰り返した。それは、明日への希望であり、迫り来る時代の不穏な影に対する、ささやかな抵抗でもあった。この、いつまでも続くと思われた平和な日常が、「記憶の欠片」となる、その日が来ることを、まだ誰も知らなかった。
第四話 縁談
その日の午後、悠子の家に客が訪れた。客間から聞こえてくる母と見知らぬ女性の穏やかな話し声に、悠子は居間の奥で、どこか落ち着かない気持ちでいた。
やがて、母に呼ばれて客間に入ると、そこにいたのは、父の遠い親戚にあたるという女性だった。彼女の隣には、物静かで真面目そうな青年が座っている。彼の名は、健吾。海軍の兵学校に通う学生で、休暇で帰郷しているという。
母は少し緊張した面持ちで、悠子に縁談の話を切り出した。健吾は、将来を期待される優秀な若者であり、この乱世を生き抜くには、これほど心強い相手はいないと。
悠子は、突然のことに言葉を失った。健吾は、まっすぐと悠子を見つめていたが、その瞳の奥には、どこか冷たい光が宿っているように感じられた。それは、恋慕の光ではなく、ただの「義務」のように思えた。
健吾と二人きりになり、庭を散策することになった。柿の木の葉が、風に揺れている。
「将来、私は海軍の将校になります。あなたの家も、私が守ります」
健吾は、ほとんど感情を伴わない声でそう言った。彼の言葉は、頼もしいというよりも、一方的な宣告のように悠子の心に響いた。彼にとって、悠子は「守るべきもの」でしかなく、その心の内にある不安や葛藤には、まるで関心がないようだった。
悠子は、柿の木を見つめながら、健一との約束を思い出していた。
「私、健吾さんと結婚できません」
悠子が絞り出すようにそう言うと、健吾は少しだけ驚いた表情を見せたが、すぐに無表情に戻った。
「分かりました。ですが、この国に安寧の日々が戻ることは、もうないでしょう。いずれ、あなたもこの意味が分かる時が来ます」
健吾はそう言い残し、立ち去っていった。
悠子は、柿の木の下に一人残された。熟し始めた柿の実が、夕日に照らされて赤く光っている。家族を守ってくれると約束した健一の笑顔が、脳裏に焼き付いていた。
(ごめんなさい、お母さん)
悠子は、柿の木にもたれかかり、静かに涙を流した。健吾の言葉が、そして、健一との約束が、彼女の心をかき乱していた。安穏な日々が続くことを願う一方で、それがもう手の届かない夢であることを、彼女は薄々感じ始めていた。
第五話 約束を胸に
健吾との縁談を断ってから、悠子の家の中は、どこか重苦しい空気に包まれていた。母は何も言わなかったが、その表情には、悠子を案じる気持ちと、世の中の厳しさを思わせる悲しみが滲んでいた。
そんなある日の夕方、健一が泥だらけの顔で帰ってきた。彼の手に握られていたのは、小さなビー玉だった。
「これ、近所の兵隊さんにもらったんだ。すごいだろ?」
得意げに光るビー玉を差し出す健一の顔に、悠子は胸の奥が冷たくなっていくのを感じた。無邪気に喜ぶ健一と、彼の小さな手を握る兵隊の姿を想像するだけで、悠子の心は嵐のようにかき乱された。
「健一、そのビー玉は捨ててしまいなさい」
母が珍しく厳しい声でそう言うと、健一は目を丸くして、悠子と母の顔を交互に見た。
「どうして?兵隊さんがくれたんだよ?」
「いいから、捨てなさい!」
母の声に、健一は唇を震わせ、ビー玉を握りしめたまま、泣きながら奥の部屋へ駆け込んでいった。悠子は、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。
その夜、悠子は、そっと健一の部屋を訪れた。健一は布団の中で丸くなり、ビー玉を固く握りしめていた。悠子がそっと健一の隣に座ると、健一は小さな声で呟いた。
「姉ちゃん、お父ちゃんも兵隊さんみたいに、遠いところへ行っちゃうのかな」
その言葉に、悠子は何も答えることができなかった。ただ、健一の小さな手を握り、一緒にビー玉を見つめた。ビー玉の中に映る、ゆらゆらと揺れる二人の顔。それは、まるで、いつか失われるであろう日常を映し出しているようだった。
「大丈夫。お父さんも、健一も、ずっとここにいてくれる。お姉ちゃんが、守ってあげるから」
悠子はそう言って、健一との約束を、今度は自分自身に言い聞かせるように、強く心に誓った。そして、健一が大事にしているビー玉を、そっと手に取った。ビー玉の冷たい感触が、悠子の決意を固めるように、指先に伝わってきた。
彼女は、この小さなビー玉を、そして健一との約束を、これからの時代を生き抜くための大切な「記憶の欠片」として、心に深く刻み込むのだった。
第六話 柿の実の色
夏が終わり、秋の気配が深まってきた。
庭の柿の木には、たくさんの実がつき、少しずつ赤く色づき始めていた。悠子は、縁側からその柿の木を眺めながら、健一と交わした約束を思い出していた。
「柿の実が熟したら、お母さんに柿餅を作ってもらおうね」
あの日の言葉は、悠子の心を温かくする、大切な宝物だった。
しかし、その柿の実は、なかなか赤く熟すことがなかった。夏の間は強く照りつけていた日差しも、秋風と共に弱くなり、柿の実は、ただ青いまま、そこに留まっているようだった。
悠子は、毎朝、柿の木に話しかけるように、そっと手を伸ばした。
「早く熟して。健一との約束があるの」
そんな悠子に、母は静かに言った。
「悠子、今年は実が熟すのは難しいかもしれないね」
食糧不足は、日を追うごとに深刻になっていた。米や野菜は手に入りにくくなり、人々は、わずかな食糧を分け合いながら、必死に生きていた。柿の実も、まだ青いまま、貴重な食糧として、誰かの手に渡ることになるだろう。
悠子は、その言葉に、ただ頷くことしかできなかった。柿の木の下で交わした約束は、もう叶うことはないのかもしれない。健一の嬉しそうな顔を思い浮かべると、悠子の胸は、鉛のように重くなった。
ある日の夕方、悠子が縁側に座っていると、健一が帰ってきた。彼の手に握られていたのは、見慣れない包み紙だった。
「姉ちゃん、見て!お父ちゃんが、お菓子をくれたんだ!」
健一が包み紙を開くと、中には、小さなキャラメルの箱が入っていた。キャラメルは、戦時下では、貴重な贅沢品だった。
「お父ちゃんがね、『これは、みんなで食べるんだよ』って言ってたんだ」
健一は、そう言って、キャラメルの箱を悠子に差し出した。悠子は、その箱を大切に受け取ると、そっと健一の頭を撫でた。
「ありがとう、健一。お父さんに、ありがとうって伝えておくね」
夕日に照らされた健一の笑顔は、柿の実の色のように、温かく輝いていた。
(お父さん、健一。この日常が、いつまでも続きますように)
悠子は、キャラメルの箱を握りしめながら、心の中で強く願った。そして、柿の実が熟すのを待つように、家族との穏やかな日々が続くことを、ただひたすらに祈るのだった。
第七話 記憶の重さ
秋が深まり、空襲警報が鳴らない日がほとんどなくなった。
人々は防空壕を掘り、空襲に備えていた。悠子の家でも、庭の片隅に小さな防空壕が作られ、父と母は、食糧や水を運び込んでいた。
「悠子、健一を連れて、早く防空壕に入りなさい!」
空襲警報が鳴り響くたびに、母は、悠子と健一を急かした。健一は、最初は怖がっていたが、次第に慣れてしまい、防空壕の中で、小さな声で歌を口ずさんでいた。
悠子は、そんな健一の姿を見つめながら、健吾の言葉を思い出していた。
「この国に安寧の日々が戻ることは、もうないでしょう」
その言葉が、現実となって、悠子の心を押しつぶそうとしていた。平和な日常が、まるで、遠い昔の夢のように思えた。
ある日の夕方、悠子が縁側に座っていると、父が帰ってきた。父は、いつもよりずっと疲れた顔をしていた。
「悠子、お父さん、明日の朝早くから、遠いところへ行くことになった」
父の言葉に、悠子は、心臓が止まるかと思った。
「遠いところって、どこへ?」
悠子がそう尋ねると、父は、ただ静かに首を横に振った。
「お母さんと健一のことを、頼むな」
そう言って、父は、悠子の頭を優しく撫でた。その手は、いつものように温かかったが、どこか、遠い別れを予感させるような、寂しさが宿っていた。
悠子は、何も言えなかった。ただ、父の言葉を胸に刻み、その温かい手の感触を、いつまでも忘れないようにと、心の中で強く願った。
その夜、悠子は、家族四人で食卓を囲んだ。食糧は少なかったが、母は、ありったけの知恵を絞って、温かい夕食を作ってくれた。
父は、いつもより多く、健一に話しかけ、母は、静かに微笑んでいた。
悠子は、その光景を、目に焼き付けるように、じっと見つめていた。それが、家族四人で囲む、最後の夕食になるかもしれないと、予感していたからだ。
(お父さん、健一、お母さん。この記憶を、私は決して忘れない)
悠子は、心の中で、そう誓った。この、かけがえのない一瞬一瞬が、いつか、彼女を支える、大切な「記憶の欠片」になることを、彼女は知っていた。
第八話 別れ、そして朝
夜明け前、まだ空に星が残る時間。
父は、静かに家を出て行った。母と悠子は、玄関の土間で、ただ黙って父の背中を見送った。父は、一度も振り返ることなく、暗闇の中に消えていった。
「お母さん…」
悠子が不安な声で母を呼ぶと、母は、震える手で、悠子の手を握りしめた。母の手は、冷たく、そして硬く、まるで岩のようだった。
「大丈夫。お父さんは、きっと帰ってくるから」
母はそう言ったが、その瞳には、すでに涙が溢れていた。悠子は、何も言えなかった。ただ、母の震える手を、そっと握り返すことしかできなかった。
その日の朝、健一が、いつものように元気な声で目を覚ました。
「お父ちゃんは?もうお仕事に行ったの?」
健一がそう尋ねると、悠子は、父が遠いところへ行ったことを、小さな嘘を交えて話した。
「うん。お父さんは、遠いところへ行ったの。健一が、立派な男の子になるまで、帰ってこられないかもしれないけど…」
悠子の言葉に、健一は、少しだけ寂しそうな顔をしたが、すぐに、いつもの明るい笑顔に戻った。
「そっか。じゃあ、僕、お父ちゃんが帰ってくるまで、お姉ちゃんとお母さんを守ってあげる!」
健一はそう言って、得意げに胸を張った。その言葉に、悠子の胸は、温かい気持ちと、どうしようもない切なさでいっぱいになった。
その日の午後、空襲警報が鳴り響いた。
悠子は、健一の手を握り、庭の防空壕へと急いだ。防空壕の中で、健一は、小さな声で、父との思い出を話していた。
「この間、お父ちゃんと将棋したんだ。僕、もうちょっとで勝てそうだったんだよ」
健一の言葉を聞きながら、悠子は、父の優しい笑顔を思い出していた。いつか、健一が将棋で父に勝つ日が来るのだろうか。そんなことを考えていると、悠子の心は、まるで、壊れそうなガラス細工のように、脆く、儚いものに感じられた。
夕方、空襲警報が解除され、二人が防空壕から出ると、そこには、何事もなかったかのように、美しい夕焼けが広がっていた。
(お父さん、健一。いつか、また家族みんなで、この夕焼けを見られますように)
悠子は、夕焼け空に、そう心の中で願った。そして、健一の手を握りしめ、二人の影が、一つになっていくのを見つめていた。その影は、まるで、父の背中を追うかのように、静かに、そして力強く、伸びていくようだった。
第九話 焦げ付く匂い
秋は深まり、冬の足音が聞こえてくる頃。
健一は、相変わらず元気いっぱいで、悠子の心配をよそに、毎日、近所の子供たちと原っぱで遊んでいた。しかし、遊びの内容は、徐々に変わっていった。かつては、ただの「軍事ごっこ」だったものが、次第に、本物に近い、より実践的なものになっていった。
「姉ちゃん、お父ちゃんがくれたキャラメル、もうないの?」
ある日、健一がそう尋ねた。父がくれたキャラメルは、とっくになくなっていた。悠子は、何か美味しいものを健一に作ってあげようと、母と相談し、わずかに残った米と芋で、おはぎを作ることにした。
母と悠子が台所で、芋を蒸し、米をすりつぶしていると、健一が、縁側から顔を出した。
「姉ちゃん、いい匂いがする!」
健一は、嬉しそうに、そう言った。悠子は、その健一の笑顔を、いつまでも見ていたいと思った。
しかし、その日は、おはぎを作るには、あまりにも危険な日だった。
空襲警報が鳴り響き、悠子と母は、急いで、芋とおはぎの材料を抱え、健一と共に、防空壕へと急いだ。
防空壕の中で、健一は、少しだけ怯えた表情をしていたが、すぐに、母が持ってきた芋を嬉しそうに食べていた。その芋は、まだ熱く、甘く、健一の心と体を温めてくれた。
「お母さん、おはぎは?」
健一がそう尋ねると、母は、少しだけ寂しそうな顔で言った。
「おはぎはね、明日、作ってあげるから」
母の言葉に、健一は、少しだけ残念そうな顔をしたが、すぐに、また芋を食べ始めた。
その日の夜、空襲警報が解除され、三人が家に戻ると、台所から、焦げ付くような匂いがした。
台所の奥を見ると、すりつぶした米が、真っ黒に焦げ付いていた。おはぎを作るはずだった米は、もう、食べられる状態ではなかった。
「お母さん…」
悠子が母の顔を見ると、母は、ただ静かに、焦げ付いた米を眺めていた。その瞳には、涙はなかったが、悠子には、母の心の奥底にある悲しみが、ひしひしと伝わってきた。
その夜、悠子は、健一との約束を、そして、家族との日常を、何としても守り抜こうと、心に誓った。焦げ付いた米の匂いは、悠子の心に、一つの決意として、深く刻まれた。
第十話 終わらない冬
冬が訪れ、広島の街は、鉛色の空に覆われていた。
食糧不足は極限に達し、人々の顔からは、笑顔が消え、飢えと寒さで、ただ耐え忍ぶ日々を送っていた。悠子の家でも、食卓に並ぶのは、わずかな芋や大根ばかりで、温かい食事をすることは、ほとんどなくなっていた。
「お母さん、お腹が空いたよ」
健一がそう呟くと、母は、何も言わずに、悠子の作ったおはぎの残りを、そっと健一に差し出した。おはぎは、もう、ほんのわずかしか残っていなかった。
悠子は、健一の小さな手を握り、静かに言った。
「もう少しの辛抱だから。春になったら、きっと暖かくなるからね」
その言葉は、健一に言い聞かせているようでもあり、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
ある日の午後、空襲警報が鳴り響いた。
悠子と母は、健一を連れて、いつものように、庭の防空壕へと急いだ。防空壕の中で、健一は、母の膝を枕に、静かに眠っていた。その顔は、すっかり痩せ細っていたが、眠っている間は、どこか安らかに見えた。
悠子は、健一の顔を見つめながら、健吾の言葉を思い出していた。
「この国に安寧の日々が戻ることは、もうないでしょう」
その言葉が、現実となって、悠子の心を締め付けていた。この冬は、いつ終わるのだろうか。終わらない冬の中を、ただひたすらに、耐え忍ぶことしかできないのだろうか。
その日の夜、空襲警報が解除され、三人が防空壕から出ると、そこには、何事もなかったかのように、満天の星空が広がっていた。
悠子は、その星空を見上げながら、遠いところにいる父を思っていた。父は、この星空の下で、今、何をしているのだろう。父も、この星空を見上げているのだろうか。
(お父さん、健一、お母さん。きっと、春は来る。きっと、また、家族みんなで、笑い合える日が来る)
悠子は、そう心に誓った。そして、健一の手を握りしめ、冷たい冬の夜空の下で、ただひたすらに、春が来るのを待つことにした。
終わらない冬を生き抜くために。そして、いつか、家族みんなで、笑い合える日が来ることを信じて。
第十一話 あの日の空、そして、その後
昭和二十年、夏。
終わらない冬は、ようやく終わりを告げた。しかし、人々を待っていたのは、希望に満ちた春ではなく、ただ飢えと疲労だけだった。
それでも、悠子と母と健一は、静かに、しかし、強く生きていた。悠子は、畑仕事を手伝い、母は、わずかな配給を大切に使い、健一は、相変わらず元気に、近所の子供たちと遊んでいた。
「お姉ちゃん、今日もいい天気だね!」
健一が、縁側から空を見上げて、そう言った。悠子も、つられて空を見上げた。
その日、広島の空は、雲一つない、真っ青な空だった。まるで、この世の悲しみや苦しみを、すべて吸い取ってしまったかのような、静かで、穏やかな空。
その空に、一機の大きな飛行機が、ゆっくりと飛んできた。
健一が指をさし、大きな声で叫んだ。
「見て!B29だ!」
悠子も、空を見上げた。それは、これまで見てきた飛行機とは、比べ物にならないほど、大きく、不気味な形をしていた。人々は、空を見上げながら、その飛行機の姿に、ただ息をのんでいた。
その飛行機は、広島の上空に達すると、一瞬、機体を傾け、そして、何かを落としていった。
それは、まるで、小さな豆粒のように見えた。
次の瞬間、轟音と共に、閃光が走り、広島の街は、一瞬にして、白い光に包まれた。
悠子は、その光を、ただ見つめていた。まるで、神様が、この世のすべてを消し去るために、放った光のように感じられた。
(健一!お母さん!)
悠子は、そう叫びたかったが、声は出なかった。体は、熱い熱風に吹き飛ばされ、意識が遠のいていく。
次に悠子が目を覚ましたとき、そこには、瓦礫と化した街と、焼け焦げた匂いが充満していた。空は、鉛色に変わり、雨が降り始めていた。それは、黒い雨だった。
「お母さん!健一!」
悠子は、瓦礫の中を、必死に母と健一を探した。しかし、そこに、二人の姿はなかった。
悠子は、ただ一人、燃え盛る街の中で、呆然と立ち尽くしていた。
(もう一度、君に会いたい)
悠子は、心の中で、そう呟いた。この日の出来事が、彼女の人生を、そして、広島の街を、永遠に変えてしまった。
この日、家族と交わした大切な約束も、すべて、白い光の中に消えてしまった。
(お父さん、健一、お母さん。もう一度、君に会いたい)
悠子は、ただ、そう願うことしかできなかった。
第十二話 広島、地獄に降る黒い雨

白い光が広島の街を飲み込んだ後、悠子が目覚めた時、そこは地獄だった。
周囲は、見渡す限りの瓦礫と、焼け焦げた木々の残骸、そして、無数の亡骸で埋め尽くされていた。空は、鉛色に変わり、静かに、そして、重く、黒い雨が降り始めていた。
それは、まるで、この世の悲しみと苦しみをすべて吸い込んだかのような、真っ黒な雨だった。悠子の顔や手足に、その黒い雨粒が落ちるたびに、まるで、熱い鉄を押し付けられたかのような、激しい痛みが走った。
悠子は、その痛みにもかかわらず、瓦礫の中を、必死に母と健一を探し続けた。
「お母さん!健一!」
瓦礫の山をかき分け、焼け焦げた壁を乗り越え、悠子は、ただひたすらに、二人の名を叫び続けた。しかし、どこからも、二人の声は聞こえてこなかった。聞こえてくるのは、かすかなうめき声と、燃え盛る炎の音だけだった。
悠子の体は、熱い熱風に焼かれ、喉は、焼け付くように乾いていた。しかし、悠子は、足を止めることができなかった。母と健一が、どこかで、悠子の助けを待っているかもしれない。そう信じて、悠子は、ただひたすらに、歩き続けた。
その時、悠子の目に、見慣れた柿の木が飛び込んできた。
しかし、そこに立っていたのは、たくさんの実をつけた、あの柿の木ではなかった。幹は、無残にも焼け焦げ、葉は、すべて落ち、ただ、黒い影を落とす、一本の朽ちた木が、そこに立っていた。
「柿の木…」
悠子は、その柿の木の下に、座り込んだ。健一との約束を交わした、あの木が、見るも無残な姿になってしまった。悠子は、その柿の木にもたれかかり、静かに、涙を流した。
その涙は、黒い雨に混じり、悠子の頬を、真っ黒な線となって、流れ落ちていった。
(もう一度、健一に会いたい。お母さんに会いたい)
悠子は、心の中で、そう呟いた。そして、その柿の木の下で、ただ一人、黒い雨に打たれながら、静かに、静かに、家族を想っていた。
この日、広島の街は、地獄へと変わった。そして、悠子の心には、永遠に消えることのない、深い傷が刻まれた。
しかし、悠子は、生きなければならなかった。
いつか、きっと、家族と再会できる日が来る。その日を信じて、悠子は、瓦礫の中から、ただ一人、立ち上がった。
第十三話 生きるということ
黒い雨が降りしきる中、悠子はただ一人、焼け野原を彷徨っていた。
喉はカラカラに乾き、体は鉛のように重い。それでも、悠子は、足を止めることはできなかった。どこかで、母と健一が生きているかもしれない。わずかな希望を胸に、悠子は、廃墟の中を歩き続けた。
何日彷徨っただろうか。時間も感覚も、麻痺していた。出会うのは、同じように傷つき、疲れ果てた人々ばかりだった。誰もが、何かを探し求め、誰かの名前を呼び続けていた。
ある日、悠子は、川のほとりで、力尽きて倒れてしまった。意識が遠のく中、優しい声が聞こえた気がした。
「大丈夫ですか?」
ゆっくりと目を開けると、そこに立っていたのは、見慣れない老夫婦だった。二人は、心配そうな表情で、悠子を見下ろしていた。
老夫婦は、悠子に水を分け与え、わずかな食料を分けてくれた。そして、近くの小さな小屋に、寝床を用意してくれた。
そこで、悠子は、しばらくの間、身を休めることができた。老夫婦は、多くを語らなかったが、その温かい眼差しと、優しい言葉が、悠子の凍り付いた心を、少しずつ溶かしていった。
ある夜、悠子は、老夫婦に、自分の家族のことを話した。母のこと、健一のこと、そして、あの日のこと。話しながら、悠子の目からは、止まらない涙が溢れた。
老夫婦は、ただ静かに、悠子の話を聞いてくれた。そして、最後に、老人は、ゆっくりと口を開いた。
「生き残った者は、生きていかねばならん。亡くなった者たちの分まで、強く、生きていくんじゃ」
老人の言葉は、悠子の心に、深く突き刺さった。そうだ。母も、健一も、父も、みんな、生きていてほしかった。そして、自分も、生きなければならない。彼らの分まで、強く、生きていくんだ。
悠子は、老夫婦に深く感謝し、再び、歩き始めた。向かう先は、まだ見えない。それでも、悠子の胸には、確かに、生きるという強い意志が宿っていた。
あの日の記憶を胸に。失われた家族の面影を心に抱きながら。悠子は、瓦礫の街を、一歩ずつ、踏みしめて歩き始めた。それは、終わりの見えない、長い旅の始まりだった。しかし、その瞳には、かすかな光が灯っていた。それは、決して消えることのない、希望の光だった。
第十四話 瓦礫に咲く花
老夫婦のもとを離れ、悠子は再び一人で歩き始めた。
焼け野原と化した広島の街は、変わり果てた姿を晒していた。見慣れた道も、建物も、すべてが瓦礫の山と化し、もう、かつての面影はどこにもなかった。悠子は、まるで、知らない土地に迷い込んだかのような、心細さを感じていた。
それでも、悠子は、足を止めなかった。
(お母さん、健一、お父さん…)
心の中で、家族の名前を呼ぶたびに、悠子の胸に、温かい光が灯った。それは、老夫婦がくれた、生きるという強い意志だった。
瓦礫の山を乗り越え、焦げ付いた木々の間を縫って歩いていると、悠子は、ふと、地面に咲く小さな花を見つけた。
それは、可憐な白い花だった。焼け焦げた黒い地面から、ひっそりと、しかし、力強く、花を咲かせている。
「花…」
悠子は、その場にしゃがみ込み、そっと、その花に触れた。花びらは、まるで、焼け焦げた人々の心のようだった。傷つき、ボロボロになっても、なお、美しく、強く、生きようとしている。
悠子は、その花を、摘むことはしなかった。ただ、その姿を、目に焼き付けるように、じっと見つめていた。
(私も、この花のように、強く生きよう)
その花は、悠子に、希望を与えてくれた。
その花を見つけた悠子は、また、歩き始めた。
しばらく歩いていると、悠子の目に、遠くに、人々の集まる場所が見えてきた。そこには、多くの人々が、わずかな配給を求めて、列を作っていた。
悠子は、その列に並んだ。
悠子の番が来ると、配給係の男性は、悠子の痩せ細った顔を見て、少しだけ眉をひそめた。そして、わずかな食料を、悠子に手渡した。
配給をもらった悠子は、それを大切に抱え、人々の喧騒から少し離れた場所で、ゆっくりと食事を始めた。
その時、悠子の目に、一人の小さな男の子が飛び込んできた。
男の子は、悠子と同じくらいの年齢で、薄汚れた服を着ていた。彼は、お母さんを探しているのだろうか。その小さな背中は、どこか、健一と重なって見えた。
悠子は、自分の持っている配給を、少しだけ、男の子に分け与えた。男の子は、驚いた表情で、悠子の顔を見つめたが、すぐに、嬉しそうな顔で、その食料を受け取った。
「ありがとう…」
男の子は、そう言って、深々と頭を下げた。その言葉は、瓦礫の街に響く、美しい希望の音色だった。
悠子は、その男の子に、優しく微笑みかけた。
広島の街は、まだ、地獄だった。しかし、その地獄にも、花は咲き、人々の心には、希望が芽生え始めていた。
悠子は、強く生きることを誓った。家族と再会できるその日まで。そして、再び、広島の街に、笑顔が戻るその日まで。
第十五話 八月十五日、ラジオから響く声
日々は過ぎ、悠子は瓦礫の街で、他の生存者たちとともに、必死に生き延びていた。飢えと疲労、そして深い悲しみが、人々を重く覆っていたが、瓦礫の隙間に咲く一輪の花や、老夫婦からもらった生きる力は、悠子の心の中の光を消すことはなかった。
八月十五日、それは焼けるように暑く、重苦しい午後のことだった。
悠子は、何人かの女性たちと、仮設の小屋でわずかな配給食糧の準備をしていた。その時、遠くから人々のざわめきと、「ラジオだ!ラジオが鳴っている!」という叫び声が聞こえてきた。
悠子の心臓が、激しく高鳴った。人々について行くと、そこには、まだかろうじて形を保っている建物の前に、一台の蓄電池式ラジオが置かれていた。ノイズ混じりの音だけが、不気味に響いている。
人々が固唾をのんで見守る中、ラジオから、一人の男の声が聞こえてきた。天皇の声だった。
悠子は、天皇の声を初めて聞いた。その声は、どこか高音で、現実味のない響きだったが、一言一言が、集まった人々の心に、重くのしかかってきた。
「…朕は世界の大勢と帝国の現状を深く鑑み…」
悠子には、その難しい言葉の意味は分からなかった。しかし、「…耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」という言葉が聞こえた時、彼女はすべてを悟った。
戦争が、終わったのだ。
ラジオからは、まだ声が流れていたが、その場にいる誰もが、もう聞いてはいなかった。人々の顔には、勝利の歓喜も、安堵の表情もなかった。ただ、極度に複雑で、言葉にできない感情だけが渦巻いていた。
ある人は、その場にへたり込み、無言で涙を流した。ある人は、ただ茫然と、鉛色の空を見上げ、「なぜ…」と問いかけるようだった。またある人は、隣にいる人の肩を強く抱きしめ、体温を確かめ合っていた。
悠子は、ただ静かに、そこに立っていた。とめどなく、涙が頬を伝っていった。
(戦争が終わった…)
心の中で、何度もその言葉を繰り返した。それは、もう健一が兵隊として戦場に行く心配がないこと。もう空襲警報に怯える必要がないこと。そして、この国が、地獄のような混乱から、ようやく解放されることを意味していた。
しかし、それは同時に、もう決して戻らない、失われた命があることも意味していた。
(お父さん…健一…お母さん…)
戦争は終わったのに、悠子の家族は、あの日の白い光の中に消えてしまった。もう二度と、健一と柿の木の下で遊ぶことも、台所で忙しそうにしている母の姿を見ることも、父の優しい声を聞くこともできない。
悠子にとって、戦争は、終わってはいなかった。
悠子は、誰とも顔を合わせたくなかった。誰とも言葉を交わしたくなかった。ただ一人、焼け跡の街で、静かに泣きたかった。
ラジオの音は遠ざかっていったが、「…忍び難きを忍び…」という言葉だけが、悠子の耳にいつまでも残っていた。彼女は、本当の戦いは、これから始まるのだと悟った。生き残った者は、亡くなった人々の分まで、この痛みを抱え、前を向いて歩んでいかなければならない。
広島の夏は、戦争終結の報せと共に、最も長く、そして最も悲しい一日を迎えた。
広島、記憶の欠片、君に会いたい
この物語は、原爆という未曾有の悲劇が訪れる前の、ごく普通の家族の「日常」を描きたいという思いから生まれました。
私たちは、広島と聞くと、どうしても「原爆投下」や「悲惨な記憶」を真っ先に思い浮かべます。しかし、原爆が投下される以前、そこには私たちと同じように、笑い、悩み、未来に夢を抱いて生きていた人々がいました。彼らが大切にしていた、かけがえのない瞬間があったはずです。
この小説の主人公・悠子が心に刻んだ「記憶の欠片」は、決して特別なものではありません。夕食の食卓での会話、弟の無邪気な笑顔、家族で過ごしたささやかな時間。それは、平和な時代を生きる私たちにとっても、最も身近で、最も愛おしいものです。
原爆は、そのすべてを一瞬にして奪い去りました。
この物語が、失われた日々の美しさと、その記憶を抱きしめて生きる人々の強さに、思いを馳せるきっかけとなれば幸いです。
そして、この小説を通じて、平和な日常がいかに尊いものであるかを、改めて感じていただけたら、これ以上の喜びはありません。