うららかストローク

   ***

 げらげらげらげら。まず一年一組の連中が腹を抱えて笑い、その後僕のクラス、二組の連中もつられて笑い出す。袴を着た鼻の穴のデカイ体育教師の方を見てみると、奴もへらへら笑みを浮かべている。
 竹刀を構えたパイナップル頭の一組男子を攻撃しようとすると、パイナップルはそれをひょい、と躱し僕の手首に竹刀を打ち付ける。僕にヒットすると同時にまた笑い声。パイナップルは自分への歓声と僕、オトピチへの罵声に顔がニヤけ、照れた笑いを浮かべながら、ギャラリーの連中に向かって口から舌を出して自分が余裕だというコトをアピールする。僕がその隙を見て攻撃しようとするとパイナップルは攻撃を受け流し、今度は僕の胴にに竹刀を打ち込む。場内がまた爆笑に包まれる。教師も相変わらずへらへら笑っている。

 アッタマきたぜっ!

 僕は自分の竹刀をパイナップルに投げ付ける。パイナップルは驚き、避けようとする。そのモーションと同時に、ジャンプして腹を蹴りつける。剣道が上手いとはいえ不意打ちを食らうとは思ってもいなかったパイナップルは僕の蹴りをまともに受け、尻餅をついて倒れる。僕は攻撃を止めない。丁度良い高さにきた頭を蹴り、パイナップルが転倒したところを足蹴にし、追い打ちをかける。今まで笑っていたギャラリーの連中は皆目を丸くしている。

 揃いも揃って馬鹿にしやがって!

 僕は咳き込んでいるパイナップルを無視して笑ってた連中のいる方に向かって飛び込む。人垣が割れる。
「こらっ! 止めないか!」
 鼻の穴がデカいコトだけがとりえの体育教師が顔を赤らめ僕を睨んで叫ぶ。僕は体育教師の声も勿論無視。うがぁー、と叫びながら一組男子の連中を見境なく蹴り飛ばす。すると、体育教師が鼻の穴を更にデカくして鼻息荒く僕の顔面を殴った。よろめいたのを合図にして今度は僕に一組男子からの報復が始まる。後ろから手足を押さえつけられ動けないところを殴る、蹴る。みぞおちに拳を入れられて吐きそうになるとまた爆笑。股間を蹴り上げられ泣きそうになってもモチ爆笑。体育教師は腕を組んでリンチされる僕を見て笑っている。そこにパイナップルがやってきて竹刀で胸を突く。
 うごえぇ!
 僕が堪らずその場で嘔吐してしまうと「汚ねぇー」とか言われ、僕は連中に髪の毛を掴まれ自分の嘔吐物に顔を押しつけられた。

 畜生!

 僕は顔も身体もゲロまみれになり体育の授業をダッシュで離脱、胴着を脱ぎ捨て洗面所で顔を洗い、下着をゴミ箱に捨て制服に着替え、誰にもなにも言わず早退した。まだ高校入りたての四月だってぇのに。いつものコトだが、僕は全くついてない。

 帰りがけマクドナルドに寄ってテリヤキバーガーとポテトとマックシェイク(チョコレート味)を買ったのだが、店内に並んでいる時嘔吐物の臭いがしたらしく、前に並んでいたおばちゃんから蔑視の視線を受けた。仕方ねぇだろっての。

   ***

 のーみそこんがらがるくらいイヤフォンは爆音を耳に叩き付ける。曲はトム・ウェイツ。僕は洋楽しか信用しない。
 学校離脱後、二軒ある駅前の本屋のうちの一方の方、『ダス・ゲマイネ書店』に入り、まんがコーナーに行く。すると万引きの現場に出くわした。そそくさとコミックス単行本をエコバッグに入れる少女、おそらく学校サボりの小学生低学年。赤いリボンで髪をツインテールに結っていて、無表情だがかわいい。そのかわいい万引き少女が、コミックス何冊エコバッグに入れるのかと思ったら三冊。『純情ロマンチカ』一〜三巻。総額千円ちょっとを盗むのは割に合わないんじゃねぇか、とも思うがどーせスリルがたまんないとかそういう理由なのか、とも思う。つーか僕がガン見してるのにお構いなし。それは僕が無害そうだというコトか。イヤフォンを外し首にかけ、僕は万引き少女に声をかける。
「おぜうさん」
「…………」
「そんなコトしてたら君を脅迫して身体で口止め料を払ってもらうよ?」
「…………」
 無視かよ。それにこっちを見向きもしないし。もしや僕が嘔吐物の臭いを振りまいているからか。
 少女はしばらく間を開けてからダッシュ。僕が止めようとする前に店の外に消えていってしまった。ああ、まあ、良いや。僕は店員に何も言わず、その場を立ち去ろうとする。世の中、病んでるぜ。ひとをいじめても何も思わない人間より心が病んでた方がマシだけどな。でも犯罪は良くないぜ、うんうん。今度から口で言うんじゃなくて行動で止めよう。僕はイヤフォンを耳に付け直し、店の外に向かう。腕時計を見ると午前十一時。あー、腹減った。
「お客様、ちょっと」
眼鏡の店員が僕を呼び止める。
ん? なんだろ?
「あなた、さっき万引きしましたよね」
「は?」
「目撃した人がいるんですが」
「はい?」
「すみませんが、こちらへ」
 眼鏡が僕の右の腕に手を絡める。どこからきたのか、もう一人、マッチョな店員も来て反対の方の手をやはり腕に絡め、引きずられるようにして連行される。連行された先は店の奥、スタッフルームだ。
 良く分からんが、ピンチであるというコトだけは分かった。

「で。僕が盗みを働いた、と。そういうわけですね」
「そうだ」
 眼鏡が高圧的に言う。僕を睨んでやがる。マッチョの方は眼鏡の後ろで、腕を組み仁王立ちしている。
 なに二人して威圧感を出そうと思ってんだ。気に入らねぇ。頭に血が上る。
「クソ店員がっ! どこに証拠があるってんだ、言ってみろ、タコ眼鏡!」
「ガキ。言葉遣いには気をつけろ」
「その眼鏡、お洒落のつもりかよ。それ、自分が好色なのを喧伝してるようなもんだぜ?」
マッチョが僕に近づく。額に血管が浮いている。眼鏡も同様に血管が浮いている。マッチョが僕に迫ろうとするのを眼鏡が手を水平にあげて制す。
「万引きの現場を見たお客さんがいるんだよ。嘘なんてついてもすぐバレるもんなんだぜ?」
 眼鏡が顎を動かしマッチョに指示を出す。
マッチョが僕から鞄をひったくる。
鞄の中身をマッチョが漁る。すると、コミックス単行本が三冊、それもよりにもよってBLまんがの『純情ロマンチカ』が出てくる。
 んなアホな。いろんな意味でピンチ!
眼鏡が口元を歪ませ、ニヤける。
「あ〜あ〜、嘘が簡単にバレちゃったね〜」
 眼鏡がいやらしい笑みを浮かべ、こっちを見る。マッチョも声に出さないだけで肩を上下させ笑う仕草。
「ありがとね〜、お嬢ちゃん」
 眼鏡が部屋の奥の衝立に向かって言うと、衝立の後ろから人が出てきた。
 出てきたのは、最前の万引き少女。
 どーなってんだ?
「不細工」
 少女が無表情でそう言う。
「なっ?」
 僕は頭がフリーズしている。現状が把握できない。
 眼鏡が少女に問いかける。
「このガキ……、いや、お兄ちゃんが万引きしてたんでしょ?」
「うん」
 眼鏡がこちらに向き直る。
「これで確定だな、ガキ」
 僕は咄嗟に眼鏡を殴りにかかる。しかし腕を振りかぶったところで手を掴まれた。後ろを振り向く。止めたのはマッチョだ。
「おっと、今度は暴力かぁ、ガキ。待ってろ、今、警察と学校と親に電話してやるからよぉ」
 ひへへ、と眼鏡が笑う。
 どういうコトなんだ、考えろ、考えろ、考えろ、僕!
「電話しないであげて、店員さん」
 ツインテールのかわいい万引き犯が瞳をきらきらさせて言う。
 眼鏡は心なしか顔を上気させてそれに応える。
「仕方ないな〜、じゃあ、ここはお嬢ちゃんに免じて」
 なにが「お嬢ちゃんに免じて」だ、ロリコンクソ眼鏡が! 万引き犯はこいつだ、タコが!
「そういうコトだ、帰れ、人間のカス。もう二度とこんなコトするなよ、不細工が」
 酷い言われようである。
 僕は尚も考える。そして分かった、このトリックが。
 僕は本を読んでいた。この少女をたまに見ながら。その時僕は、鞄を床に置いていた。そしてこの少女がダッシュして去るのを見て、それから本の立ち読みを本格化させた。僕は何冊か本を読んだ。鞄は最初に置いたところから移動させず、僕はある程度離れたところにも移動をした。そう、その間だ。その間に、ツインテール少女は戻ってきて、僕の鞄に「なぜか」最前万引きしたコミックスを三冊、僕の鞄に入れたのだ。少女は一回、店の外に出た。しかし、再び戻ってくるのに自動ドアが開閉していたとしても、本を読むと立ち読みでも意識を集中してしまう僕には音なんて聞こえない。それに、鞄。僕にはあまりにも「自然なコト過ぎて」鞄のコトなんて考えない。そう、たとえ鞄を開けられて本を入れられても。
 これは、日本の郊外の「ひったくり率の少なさ」からくる油断と、僕自身には当たり前過ぎる「立ち読み時は鞄を置いている」コトに起因した、トリックともいえないトリックだ。
 なんてこった。
 僕は眼鏡とマッチョから視線を逸らし、少女を見た。目が合い、少女は微笑んだ。嫌気がさした。僕は店員に学生証のコピーをとられ、その後、床を見ながら、スタッフルームを出て、店内に戻った。もう、立ち読みをする気も起きず、僕はダス・ゲマイネ書店を出た。
 駅前にあるもう一方の本屋、美人なおねーちゃんがレジ打ちをやってる方、『ブックス・ルーベ』に入れば良かったんだ!

 僕は店を出てとぼとぼ歩く。
 くじ運最悪、今日は散々だぜ、早く家に帰ろう。ちっくしょう! 

 そして。話はそこで終わるはずだった。しかし、なぜかこの本屋の話は続く。
 僕が眼鏡野郎の本屋から出てもう一方の駅前にある本屋ブックス・ルーベのレジ打ちおねーちゃんの胸のふくらみのコトを考えながら歩いていると、ちょうど、青森の林檎を使ったアップルティーが自慢の喫茶店『黒うさぎ』の入り口の目の前に、無表情のかわいい万引き犯が、仁王立ちしていた。さっきの、あの子だ。まっすぐ、こっちを見ている。いつの間に、僕より先回りしていたのだろう。
 僕が自分の後ろを振り返ると、誰もいない。駅前だというのに、誰もいない。というコトは、この小憎たらしい万引き少女は僕を見て、僕に対し、仁王立ちをしている、というコトだ。ああ、もう、この一件はなかったコトにしたいのに! 今日はなんだってんだ!
 つーかだなぁ。
 うぜぇ。

「不細工なお兄ちゃん」
 またもやだが、酷い言われようである。もうちょっとソフトな言い方はできないのか、この子。うざいのでとっとと立ち去りたいところだが、どうせ次の電車まで時間がかなりあるので、少しこの子に付き合ってやるか、と思った。 それに、さっきなんで僕の鞄に本を詰め込んだのかも聞きたいし。いや、五分五分。真相を聞くより、忘れたい。が、とりあえず会話を進めるコトにする。
「なんだい?」
「……さっき、お兄ちゃんが言ってたコト、ホントなの?」
 無表情。無表情の中に、恥じらいが見える。僕にはロリコンの気はないが、それでも胸に来るものがある。この子は美人に育つと思うぞ。
「さっき僕が言ってたコトって?」
「…………」
 なんだ、この間は。マジうぜぇな。てか、僕、なんか言ったか? ど忘れしてるぜ。
「その……、身体で口止め料を払ってもらう、……って」
 んが? そんなコト言ったっけ? まあ、たぶん言っただろうな。そんな気がする。今日はパイナップルヘッドや体育教師に対する憤りがあったから、こんなかわいい子に破廉恥な台詞で軽くセクハラしたような気もする。僕は阿呆だ。この子、万引き犯とはいえ小学生だぜ? ん? 万引き犯は僕ってコトになってんだっけ?
「そんなコトも言ったっけなぁ」
 僕が髪の毛をもすもす掻いていると、少女は微笑みツインテールを揺らしながら、僕に向かって走ってくる。よく走る子だ。さっきも眼鏡の方の本屋で走ってたし。
 少女はそのまま僕の胸の中へと飛び込んでくる。そして顔を僕の身体に埋め、両手はしっかりと背中に回す。
 僕はどうして良いか分からない。抱きしめ返すか? いやしかし。
 つーかなんだこの状況。
 わけわかんねえ。
「不細工なお兄ちゃん」
 それでも、『不細工な』お兄ちゃんなのか。不細工なのは確かだけれども。
「お兄ちゃんにならわたし、…………良いんだよ?」
「な!」
 斜め上を行く展開。なんとなくここで犯罪者になっても良い気分。そもそも僕はすでに凶悪な万引き犯なのだ! ここで小学生に手を出して前科を増やすのも……、いや、ダメだって!
「いや、その、あの……」
 しどろもどろ。僕は異性に言い寄られた経験など皆無なのだ。訂正。同性にも、もちろん言い寄られたコトなど、ない。断じて、ない。
「うん。じゃあ、ぼ、ぼ、僕と」
「なんてね」
 少女の顔をのぞき込むと、少女は顔を僕の顔を見ていた。目が合うと、少女は舌を出してウィンクし、自分の頭をポカリと叩いた。『てへぺろ』って奴だ。実際やってる人間を初めて見た。微笑むと、すげーかわいい。思わず見とれてしまう。見とれてしまう、が。
「?」
 少女が舌を出すのと同時に、背中に激痛が走る。いつの間にか、少女は手になにかを持っいて、それを僕の背中に押しつけていた。
 激痛。鈍痛。感電。
 これは、感電の痛みか。
 一瞬の激痛のあと、痺れが全身を駆け巡る。
 気が、気が遠くなっていく。
「この、変態」
「な……」
 なんじゃそりゃ。
 僕の視界はブラックアウトしていく。
 し、死ぬ。これ、マジで、死……死ぬ……。
 僕は路上に倒れた。アスファルトに頭を打ち付けたが、もう痛みも感じない。
 ああ。


  ***


 しゃりしゃりしゃり。しゃりっ、しゃしゃしゃしゃりっ。
 僕が目を開けると、天井が見えた。真っ白な、天井。
 横を向くと、白い壁。
 僕は、寝ている。ベッドに寝ている。もう一方の壁、しゃりしゃり音がする方を向く。すると、よく見かける面がいた。馬並だ。馬並シュージ。親友と言っていいような、僕の友人だ。馬並が、林檎の皮を剥いている。
「よお、起きたか」
「んが? ああ」
「おれが、分かるか」
「ああ。分かる。不細工な顔が見える」
「貴様と比べたら美形だ、ばーろー」
「あ、ああ。そうだな」
「分かればよろしい」
「いや、まて。どちらがより不細工かという問題だがなぁ。僕としては馬並の方が断然不細工だ、と思うのだが」
「その話はもういい。そこまで流ちょうに話せるなら、大丈夫みたいだ、な。林檎、食うか」
 馬並が剥き終えた林檎の乗った皿を寝ている僕の方に差し出す。
 僕は上半身を起こし、それを受け取る。
「わりぃな」
「礼には及ばん。たんと食え」
 囓ると林檎はフレッシュな音を立てる。旨い。僕は、林檎が好物なのだ。
「ここ、病院だよな」
「ああ、しかも個室だ」
「僕は一体……」
「道ばたで倒れてたんだよ。それで救急車で運ばれてきた、そういうわけだ」
「なるへそ」
「古い表現だな。それはともかく。貴様の親父さんが仕事を抜けられないんで、おれ様が代わりにやってきた、というわけだ。今の話、分かるか?」
「分かる」
「分かるなら、頭の方は大丈夫だな。大丈夫でも、頭が悪いのは変わらんだろうが」
「余計なお世話だ」
「オトピチ、貴様はどうやら改造スタンガンのようなものを食らったらしい」
「ああ、なるほど」
 スタンガン、か。しかも、改造、ねぇ。小学生にしては物騒なもん持ってるじゃねぇか。どうも護身用ではなさそうだな。一体どういうつもりだ。僕が訴えたら終わりなんじゃないのか。そこらへんが小学生、というコトか。
「心当たり、あるのか」
「まあ、な」
「たぶん警察が後で聞きに来るぞ」
「だろうな。黙秘するけどね」
「オンナ絡みか」
「そう見える?」
「見えん」
「だろうな。馬並、おまえ心配してくれてんのか?」
「いや、全く」
「そりゃどうも。それは分かってたよ」
「ふん。分かって、……ねぇよ」
「んが?」
「な、なんでもねぇよ! こっち見つめんな!」
「ああ」
 馬並はなぜか慌てふためいたように手に持った果物ナイフを振り回す。デンジャーな奴だ。林檎の次は僕の皮を剥くつもりか。とりあえず僕は起きてる上半身を後ろの方に傾ける。今、至近距離にいたら切られる、間違いなく。
 なんか、高校入学したてなのに、不運だ。まあ、僕の人生で運が良かったコトなんて、一度もないと言って良いのだが。

 身体は動くし、どうやら精密検査を受けたら帰宅しても良い、とのコトだった。
 馬並が帰った後、僕はもう一眠りするコトにした。僕は病院が嫌いではあるが、眠るには静かで丁度良いのだった。「早く帰りたい!」と思って寝る。それは入院患者の理想型なのではなかろうか。僕は理想的な患者だ。

 今日は散々だったな。いや、今日も、散々だったな、だ。
 僕は一日検査入院し、次の日には家に帰るコトを許されたのであった。警察には、なにも話さなかった。
 でも。

 これでいいのだ。

 って、僕は バカボンのパパか。


   ***


 家に帰った頃は、もう夜になっていた。一日ぶりの我が家。別に、感慨深くもなにもない。帰るべくして帰ってきた。ただそれだけのコトだ。
 玄関で靴を脱いであがる。鍵はかかっていなかった。親父が帰ってきている証だ。親父は、いつも鍵をかけない。
 居間を覗くと、親父がテレビを観ながら酒を飲んでいた。
 白ふんどし一丁の姿でちゃぶ台の前であぐらをかき、左には鞘に収めた日本刀を縦に、杖のように直立させて持っている。右手には杯。その杯で冷酒をちびちび飲んでいる。異様な光景だが、我が家では日常の風景だ。
「ただいま」
 僕が挨拶をすると、見舞いにも来なかった親父は、「おう」とだけ返した。無愛想な顔をして言ったのだろうが、こちらからはその顔は見えない。テレビではお笑い芸人がコントをやっている。親父は笑いもせず、観ている。楽しんで観ているのではなく、ただ今やっている番組の中で一番視聴率の取れそうな、無難な番組なので観ているだけなのだろう。親父は、芸能に詳しくない。僕も詳しくないが、親父はその上芸能人を心底嫌っている。嫌っているが、観る。矛盾していそうだが、これはただテレビを観ているというポーズなのだ。親父は、無趣味だからな。
 僕が居間に入り親父に近づくと、親父は杯を置き、いきなり鞘から日本刀を素早く抜く。そして伸ばした日本刀の切っ先を僕の眼前に突きつけた。こちらに向けた顔は、酒に酔ってはいるが、険しい顔つきだった。
「まずは風呂に入れ。それから飯を食え。飯はピヨヒコが、つくったからな」
 言うと同時に親父は日本刀を振り下ろし、そのままちゃぶ台の皿に盛りつけてあったマグロの切り身に向ける。そして切り身を日本刀でスライスする。スライスしたマグロを日本刀に載せ、左手で掴んで、口に運ぶ。その後、日本刀をまた鞘に収めた。
 心臓に悪いぜ、畜生。
 そんなやりとりをしていると、階段をおりてくる足音。我が愚弟、ピヨヒコだ。愚弟とか言うもののその実、出来た弟だ。そのピヨヒコが、居間を覗く。
「あ、お帰りでしたか、兄上。夕飯はレンジでチンして食して下さい。それではワタクシ、これから塾デスので」
 言うが早いかすぐに家を出て行った。
 取り残された親父と僕。気まずい雰囲気がまたこの場を支配する。
「とっとと風呂に入り、飯を食え。食器の片付けはおまえだ」
 僕は、おとなしく風呂に入るコトにした。


   ***


 朝、また僕の通学が始まる。
 やってらんねぇぜ、と思う。教師も生徒もムカつく奴らばかり。まあ、どいつもこいつもムカつくのは中学校の時からだが。やっぱ、きっかけは前田とのあの一件からか。
 うえー、考えてても仕方ねぇ。貧乏くじ引くのは僕の十八番。くじで外れてもぐちぐち愚痴らず前に進めるかどうか。それが大切なコトで、僕はかっこ悪くてもしぶとく生きてやるんだ。生きるコトそれ自体が、奴らへの復讐になるのだから。
 復讐? いや、そんなネガティブなコトじゃない。もっとポジティブな、なんつーの、うーん、よくわかんねぇけど。わっかんねぇけど、とりあえず僕は生きるの! 生きるんだっつーの!
 自分でもその生きるだの生きないだのが「浅っ!」とか思ったりして、んなコト考えて歩いていると、いつの間にか学校の校門。門を抜けようとすると、後ろから声をかけられた。
「よぉ、ブタ夫!」
 僕をブタ夫と呼んだ野太い声に振り返ると、呼んだ奴は杉山田タカジルだった。このデブが! 僕はブタ夫じゃない。ブタみたいな体型してるのはてめぇの方なんだよ。そう思うが、もちろん声には出さない。入院した日、あの日の学校の武道場、剣道の授業の時に僕がやらかしたコトを考えると、当分の間、また問題を起こすようなのはまずいから。そういう判断から、僕は笑顔でこのデブ過ぎて学生服がピチピチの杉山田タカジルに応える。ムカつくけどさ。
「なに?」
「おめぇよ〜、一日入院してたんだでな? なにさやったんだど? どうせまた問題起こしたんだろ。誰かとトラブったのが原因なんだろ? え? どうなんよ?」
「いや、なにも問題なんて起こしてないよ」
「オラの目はごまかせねぇど〜」
 うるせぇ、デブ! 死ね。
「まあ、ちょっと看護師さんと恋愛してるからさ。彼女の様子を見ににね」
「うそコクでねぇど〜。ブタ夫嘘つきだからの〜」
 デブが! あと僕はブタ夫じゃねぇ。
「ブタ川ブタ夫そっくりのくせに看護師の彼女なんかできるわけねぇだど」
「僕はブタ夫じゃねぇっつてんだろ! デブ!」
 僕は右の拳を強く握り、杉山田に殴りかかる。
 しかしその軌道を読まれパンチを躱され、逆に杉山田のカウンターパンチが僕に襲ってくる。
 そのカウンターは見事に僕の左の頬に直撃した。
 僕は殴られ倒れ、尻餅をついた。いってぇなぁ、このデブが!
「口の聞き方には気をつけるがええど〜。オラは寛大だからこれだけで許してやるがの〜。有り難く思うど」
 クソがっ!
 殴って気が済んだのか、杉山田は先に校門の奥に消えた。高校の他の生徒たちが尻餅をついている僕を見ているが、誰も助けようという気はないらしかった。こっちを見てみんなひそひそ話をしている。てめぇらはうわさ話好きのおばちゃんか! だがまあ、当然だな、僕は嫌われ者だから。
 でも。でもさぁ。
 畜生!
 それしか感想がねぇぜ。
 僕がその場で殴られた左頬を押さえていると、始業五分前のベルが鳴った。僕は起き上がり、教室を目指した。


   ***


 どうにかホームルームに間に合った僕ではあるが、いきなり学級委員長が「委員会の振り分け」をはじめて速攻で振り分けが決まるのを見るに、これはどうもホームルームが始まる前に、すでにみんな相談して誰がどこに入るか決めていたようだっつーのが分かった。
 またしても孤立感が高まる僕ではあるが、それもいつものコトだ。こういう時は気持ちだけでもスルーしときたい。この議題自体がスルー出来るわけではないが、まあ、心持ちラクになっておきたいのだ。
 そんでもって委員長が「放送委員は誰にしますかー」とか言うと、女子の一人飯塚さんが「オトピチくんが良いと思いまーす」とか言う。するとあのクソデブ杉山田が「オトピチくんはギターの弾き語りだけが得意なんでそれが良いと思いまーす」と大声で言う。そこで拍手が起こり、僕は放送委員会に入るコトが決定する。しっかしこのクラス、小学生の集まりみたいだ。いや、キョービの小学生はおませなコト言ってスタンガンを突きつけるんだぜ? あきらかにこのクラスのノリはそれ以下の年齢のノリじゃね? どうでもいいが。

 そしてなんとか無事に授業を受け、四時限目。どうも今日のこの時間は委員会活動に充ててあるらしく、みんな休み時間にせっせと移動を始める。僕も委員長の笹本さんに放送委員会の集まる場所を訊いて、移動を開始した。笹本さんに訪ねた時にかなりキモがられたが、気にしないコトにする。
 僕の趣味はアコギでの弾き語りだが、それは放送とは本質的に違うように僕には思える。同じようなものに見えるのかもしれないが、僕の場合ギターを持ってるからこそ大声を出して歌えるのである。これがなにも持たずにアナウンスをしろ、と言われても出来るもんじゃない。別物なんだよ、弾き語りと校内アナウンスは。でもそれを分かれと言っても経験のない人間には、分からないもんなんだろーなぁ。
 で。集まる場所はどうやら学校本館の放送室。何度か放送室の前を通ったコトがあるので、迷わずに行けた。しかし、こんな狭い場所に学校中の放送委員が集まれるのだろうか。そんなコト思いつつ、放送室のドアをノックする。するとやる気なさそうな男性の声で「はいよー」と聞こえた。僕はノブを回して放送室の中に入った。

「王手!」
「うへぇ。ぼ、ぼくのま、負けなんだな」
「ユー、ルーズ。ゆーあーる〜ざ〜! うっひひひひ。おっしゃー、俺様の勝ちだぜぇ!」
「くっやしいんだな」
「やっくそく通り俺様にやきそばパンおごれよなー、花札く〜ん」
「うへぇ。んんんんんっ! もう一回勝負なんだな!」
「ダメだぜ。約束は約束だからよ」
「無念、なんだな」
 なんかヒートアップしてるようだが、僕はとりあえずさっき「はいよー」と言った方の声の持ち主の方に顔を向けて声をかける。その男は校則違反丸出しの茶髪で、さっきからうっっひひひひ、と笑っている。チャラい。軽薄だ。心なしか目つきも悪い。一方『花札』さんという男の方は猫背で背が低い。泣きそうな顔になっている。角刈りで無精ひげだ。この人たちはたぶん、先輩たちで、おそらくは委員会の偉いひとたちだろう。なぜなら我が物顔でパイプいすに座り、将棋をやっていたからだ。だが、気になるのはそこではなく。
「あの〜」
「なんだい、少年」
「委員会の集まりで来たんですが」
「おう。んで?」
「ここにはお二人しかいないようなんですけど、他の人は」
「じゃんけんしようぜ、少年」
「はあ?」
「はい! じゃんけんぽん!」
 僕はとっさにチョキを出した。茶髪の人はグー。
「おっれ様の勝ち〜。んじゃ、少年はコーヒー牛乳ね」
「はい?」
「俺様のコーヒー牛乳だよ。購買部に、ダッシュだ! この時間は委員会の時間だから、何故かやってんだよ、購買。はい、とっとと行く! 花札、この少年を連れてってくれよ」
「し、仕方ないんだな」
「はい?」
「こ、こっちなんだな。ついてくるんだな。二階堂くんにはさ、逆らわない方が、良いんだな」
 僕は花札さんとかいう人に手を引っ張られ、購買部に連れていかれる。僕、場所は知ってるんだけどな、よく買いに行くし。って、そうじゃねぇ。なんでパシリにされてるんだ、それもいきなり!
 よくわからないまま、僕は購買部に連れていかれるのだった。

「あのー、えっと、花札、さん」
 廊下を歩きながら、僕は花札さんと呼ばれていた猫背の人物に話しかける。相手と目を合わせて話すには、かなり下の方を見ないとならなかった。背が低いしひどい猫背だからだ。無精ひげがなければ小学生のようにも思える花札さんの学生服のネームプレートの色は、二年生の色だった。
「ん? なんなんだな」
「なんで花札さんは唯々諾々とあのひと、二階堂さんに従ってるんですか? 僕だったら怒りますけど」
「でも君は、お、怒らないでこうやってついてきてるんだな」
「いや、咄嗟の出来事だったんで、意味不明のままこうやってパシリ状態になってしまったというか。今更引き返して抗議するのもかっこ悪いし」
「ほへえ」
 花札さんは、少し考えてから、話し出す。
「ぼ、ぼくはだな、嫌々やってるわけじゃ、ないんだな。ぼ、ぼくは、偉い人の命令には従うべきだって、小学生の頃に先生から教わったんだな」
 さっき、「もう一度勝負」とか言ってなかったか?
「だから、将棋でもし負けなかったとしても、買ってきてくれと言われたら買いに行くんだな。副委員長より、委員長の方が、偉いから、と、当然なんだな」
 なるほど。説明台詞でよく分かった。あの二階堂さんてのが委員長で、花札さんが副委員長なんだ。そりゃ我が物顔で放送室を使うはずだよ。
「つ、着いたんだな。ここが購買部なんだな」
 僕は、そんなん知ってるわい、とはツッコまなかった。そうですか、とだけ、言う。仕方ないので二階堂さんへの『献上品』コーヒー牛乳を購入。自分の分も買う。花札さんにも訊いて、欲しいんだな、と言うので買ってあげる。「買ってくれるなんて嬉しいんだな」とか喜ばれた。しっかし、あの二階堂さんという人は、なにを考えてるんだろう。もう独白の中でも『さん』付けやめようかな、と思う。考えれば考えるほどムカついてくる。殴ってみようか。でも委員会でまで問題起こすと、さすがに居場所がなくなるんじゃねぇかな、と。いや、委員会活動なんてどうでもいいけどさ、無理矢理決められたんだし。
 そんなコトを考えつつ、僕らはまた放送室に戻るのであった。
 おっと、訊いておかないと。
「花札さん。他の委員会のひとたちは、どうしたんスか? さっき放送室には花札さんと二階堂さんしかいませんでしたけど」
「そういうコトは委員長に訊くんだな。大切なコトを喋るのは委員長の仕事、なんだな」
「はあ」
 このひとは、二階堂さんというひとを信頼してるんだな、と思った。他人なんか信頼しない方が良いのに。損するだけだぜ? 僕、ひねくれてるかな。まさか。事実を述べただけさ。
 僕は放送室のドアノブに手をかけながら、先輩らなんかに目を付けられたら嫌だなぁ、と思ったのだった。だって、僕は殴るのも殴られるのも、それ以上に陰湿なモンも、嫌いだからだ。ましてや同級生じゃなく、上級生相手だったら、勝ち目なさそうじゃん?

 放送室に入ると、二階堂さんは横長の机に脚を投げ出して雑誌を読んでいた。読みながら、うっひひひ、と声に出してニヤけている。僕は今、たぶん額に血管が浮き出てるハズだ。
「コーヒー牛乳です、どうぞ」
 二階堂さんは雑誌を机に置き、こっちを眺める。雑誌の表紙を見ると、『くんずほぐれつ倶楽部』と書いてある。エロ本だ。このひと、なに考えてんだ?
「いや、わりぃねぇ。焼きそばパンは?」
「あるんだな」
 花札さんが焼きそばパンを差し出す。僕もコーヒー牛乳を差し出す。
「ほんじゃ四人揃ったところで、麻雀でもやろうか」
 四人? 三人じゃないのか? ここにいるのは三人だぞ。
 二階堂さんが両手を二回叩く。不意のハンドクラップ。わけわかんねぇ。
 意味不明だなどと思っていると、叩いて一呼吸おいたくらいに録音ブースのドアが開き、中から一人、ひとが出てきた。
 ああ、そうか、ここはミキサールームで、それとは別に録音ブースがあるってわけだから、そこに四人目がいたからか。
 って、いやしかし、防音なのに、どうやって二階堂さんのハンドクラップが分かったんだ?
「坊ちゃま、なにかご用で?」
「おう、麻雀やろうぜ」
「かしこまりました」
 出てきた男性は、この学校の学生服を着てるから生徒なのは分かるが、言葉遣いも変ならば、オールバックの髪型も変だし、なにより右手を制服の中、胸のあたりに入れてるのが変だった。なんつーか、外国のギャングみたいだ。
「僕、やりませんよ!」
 正確には、「もう好い加減ふざけたコト言ってると殴りますよ」だ。まあ、返り討ちに遭うだろうし、上級生とのいざこざは避けたいところなのだが。
 と、怒りの前に訊くコトが。
「そうじゃなくて、ですね」
「ん? なんだい、少年」
「僕は少年じゃなくて水野オトピチです。放送委員会に入った一年二組の生徒です」
「自己紹介あんがちょ〜」
「あんがちょ〜、じゃなくて。なんでここには二階堂さんと花札さん、そして僕と、今ブースから出てきたひとしかいないんですか!」
「そんなコトかー、説明、してなかったなー、わりぃわりぃ」
 悪いコトした記憶ナッシングな感じでヘラヘラしながら、二階堂さんは答える。脚はまだ机に投げ出したままだ。なんでこの人はこんなにチャラいんだろうか。
「ああ、結果から言うとな、昔からいる奴らはみんな逃げて、籍だけ置いてるからなんだわ。新しく入る奴らも、事情知って入ってるから、最初からここには来ない。みんな今頃授業サボってるぜ。以上」
 脱力。全身の力が抜けた。なんだ、その理由は。幽霊部員ならぬ、幽霊委員で成り立ってんのか、ここ。しかも事情を知らなそうな一年生も僕しか来てないし。
「なにも知らないで入ったんだなー、オトピチちゃん。ここ、吹き溜まりだからよ、内申点取れねーどころか入っただけで内申下がるようなトコでよ。オトピチちゃん、君はいじめられてんだろ、クラスで。そうじゃなきゃこんなトコに入らないぜ? どーせ推薦で決められたとか、そんなトコだろ」
 二階堂さんは口に手を当てて笑いをかみ殺す。
 うう。ホントのコトだが。
 だが。
 その挑発的態度。
 ガチムカつく!
 本気であったま来たんですけどっ!
 許せねぇ。
 殴ってやるわ!
 僕は二階堂さんを殴ろうと腕を振りかぶった。
 と同時に。
 いつの間にか僕のそばにさっき現れたオールバックが、僕の目の前、本当に目の前、つまり僕の眼球のすぐ前に向けて、モデルガンを突きつけていた。
「な?」
「坊ちゃまに暴力行為を働こうと思うのでしたら、容赦は致しません。一歩でも動けば、貴方は失明します」
 この人、目がマジだ。たぶん躊躇いなく僕の眼球にモデルガンの弾を撃ち込むぜ。
 僕とオールバックが数秒間静止していると、
二階堂さんが笑って止めに入る。花札さんは口を開けてこっちを傍観している。口を開けて、というのはびっくりしているのではなく、惚けてる感じで、なのだが。
「もういいよ、石原。大丈夫だって。オトピチちゃんも本気じゃねぇって。そりゃな、欲求不満の団地妻みたいな気分だったんだよ、きっと」
 どんな気分だ、それ!
 心でツッコんでいると、石原さんとやらはモデルガンを下ろし、それを学生服の胸の中に仕舞った。ああ、胸の裏ポケットには、モデルガンが仕込まれてたのね。
「と〜こ〜ろ〜でぇ」
 気合いの抜けた声で、二階堂さんは一枚の紙切れを僕に見せる。
「オトピチちゃん。初仕事だよん。この紙、さっき先生が持ってきたんだよ。放送しろってさ。生徒の呼び出しってやつ。やってみそ」
 今時「やってみそ」って言い方は古いを通り越して寒気すらするが、それはおいといて。
 仕事か。やってやろうじゃん。僕にはアナウンスなんて出来ないと思っていたし、今もその気持ちは変わらないが。

 売られた喧嘩は買うべきだ。
 これ、僕を試そうとしてるんだろ?

「分かりました。僕が放送します」
「最初にスイッチで音鳴らして、それからミキサーのカフ上げればマイクのスイッチがオンと同じ状況になる。下げればオフ。ミキサーの調整はそのまんま、デフォルトで良いからさ。連絡は二度、繰り返してね。今までガッコウで聞いてきた感じでやりゃ良いから。ほんじゃ、やってみ」
「はい」
 教師からの伝言の紙を二階堂さんからもらい、僕は生まれて初めてアナウンスというものをやるコトにした。カフとかいうやつにはちゃんと色つきのガムテープが貼ってあってそこに「カフ」と書いてある。上等だ。行くぜ!
 ぴ〜んぽ〜んぱ〜んぽ〜ん。
「生徒の呼び出しをします。一年二組の、水野オトピチくん、水野オトピチくん。朝倉リョウ先生がお呼びです。至急体育教官室に来て下さい。繰り返し連絡します。一年二組の水野オトピチくん。朝倉リョウ先生がお呼びです。至急体育教官室に来て下さい。以上、連絡をお伝えしました」
 やった。やったぜ、僕。初めてのアナウンス。
 ……じゃ、なくて。
 呼び出されてんの、僕じゃねぇか! なに、これ? 僕が僕の呼び出しを全校生徒にきかせるってなんだ? どんな罰ゲーム?
 二階堂さんを見やると、うっひゃひゃひゃひゃひゃひゃ、と下品きわまりない笑い方をしている。花札さんは「すっばらしいんだな」とか言って拍手してくれてる。石原さんとやらは腕組みして難しい顔をしたまま二階堂さんのそばに立っている。
 なんだ、この図は?
「つーわけで、体育教官室に行って来いよ、オトピチちゃん」
 言われなくとも行くわ! ボケ茶髪!
 僕は自分でも分かるくらい赤面しながら早足で放送室を退出した。ああ、なんで僕はいつもこんな感じなんだっ!


   ***


 体育教官室。体育館の中にある、体育教師たち用の職員室みたいなモンだ。
 僕は学校本館を出て渡り廊下を通り、体育館に向かう。渡り廊下のそば、左右には何本もの桜の木が植えてある。桜はすでに散り始めていた。
 僕を呼んでる朝倉リョウというのは、剣道の時『お世話になった』鼻の穴がデカくて鼻息の荒い体育教師の名前である。そんな名前、思い出したくもなかった。あの鼻息野郎はたぶん、病院から帰ってきたのを知り、改めて僕を叱りつける気だろう。僕は全然悪くないのに。生徒に混じって僕を笑い続けた罪は重いぜ? つーか、うぜぇ。絶対謝ったりなんて、しねぇよ!
 体育館の中に入り、そのまままっすぐ体育教官室に行く。ドアをノックすると、朝倉の声で「入ってこい」と声がした。僕はドアを開け、中へと入った。
 体育教官室の中は乱雑で、壁には教師間の連絡事項の張り紙らしきものがそこら中に貼ってあり、冬場に使ったガスストーブが片付けないまま部屋の中央に鎮座していた。奥の方にあるテレビには教育テレビが映っており、現在朝倉しかいないこの部屋では、テレビを観ているものは誰もいない。
「おお、よく来たな、水野」
 今日も一段と鼻の穴をデカくして、朝倉は僕を見た。
 まず僕の顔を見、それから目線はどんどん下へ向かう。腰のあたりに目線が行くと、朝倉は好色そうな目をして、そこでしばらく凝視する。
「なんの用ですか」
 朝倉の目線が上がり、僕の目を見る。
「分かっているだろ」
「剣道の授業の件ですか」
「分かってるじゃないか」
「僕は、悪いコトはひとつもしていません。謝る気もありません」
「悪いコトなのかそうじゃないかは、私が決めるコトだ。水野が決めるコトじゃない」
「お言葉ですが先生、貴方も生徒に混じって笑っていたじゃないですか。しかも殴ったじゃないですか、僕を」
「授業は楽しく行うものだ。笑ったのは金城が強いから、その動きを見て、見事だと思ったからだ。おまえを笑ったわけじゃない。殴ったのも、あの場では仕方がなかったコトなんだ。誤解しないでくれ」
 ちなみに金城というのは、もちろん一組のパイナップルヘッドの名字である。
「僕には悪意があるようにしか取れませんでした。僕に非はありません」
「非がある、非がないというのは問題ではないのだよ。授業を壊したのは、間違いなく君だ、というのが問題でね」
「それで? なんですか? 僕に何をしろと?」
 今までパイプ椅子に座っていた朝倉は立ち上がり、まっすぐこっちを見ながら歩いてくる。
「私もコトを荒立てたくはないのだよ。そのコトは分かるな?」
「はあ」
「そして水野は授業を壊した」
 朝倉は僕に接近し、腕を僕の背中に回してきた。
「内申点も、体育の点数も、良い方が良いだろう? 君は進学を望んでるそうじゃないか」
 朝倉は僕の背中に回した手で、まず肩を撫で、背骨のラインに沿って手を下の方へと向かわせながら撫で回していく。
「私に、逆らわなければ、ただそれだけで良いんだ。分かるな?」
 朝倉の手が僕の尻に差し掛かり、朝倉はその手で丹念に尻を撫でる。
 僕は怖くて硬直してしまっていた。頭は真っ白だ。事態が飲み込めない。僕は何をされているんだ?
「私には分かる。水野、君は私と同じ趣味の人間だろう? 隠さなくても良いんだ。初めて君を見た時から分かっていたよ。マイノリティはマイノリティ同士、助け合おうじゃないか」
 朝倉は腕を後ろに回したまましゃがみ、顔を僕のズボンの前に来るようにした。
「君は不細工だ。だが、だからこその純真さを持っている。今回の件は、その純真さが招いたものだ。もう少し、大人になろう、水野。今から私が、大人への道を拓いてあげるからな」
 朝倉は自分の口を僕のズボンに押しつけ、それから唇で僕のジッパー下げる。ジッパーが下がり終わり、トランクスが見えたところで朝倉は普段以上に鼻の穴を大きくし、鼻息を荒くした。
「咥えさせ……、ほげっ!」
 僕は知らないうちに、朝倉に蹴りを入れていた。その蹴りは朝倉の顔面にヒットしていた。
 朝倉が蹴りで鼻血を出し、手で鼻を覆ってうずくまっている内に、僕はダッシュして体育教官室を抜け出していた。僕は訳もわららないまま、涙が出ていた。鼻水も出ていた。だが、かまわずダッシュしていたのだった。

 体育館を抜け、一気に渡り廊下まで走った。渡り廊下に来て立ち止まり、一息つくと涙が自分でも驚くほどにあふれてきた。誰も周りにいないコトを確かめ、嗚咽を漏らしながら泣く。

 だせぇ。
 メチャかっこわりぃ。
 僕は、なんてかっこ悪いんだ、クソがっ。

 なぜ僕はああいう時には相手を倒そうと思わず逃げ出すのか。あそこで朝倉をもっと殴って本格的にやり合って、そんでもって問題になって退学になったとしたって、正義は僕の方にあったハズなのに。
 なぜ逃げた。
 なぜ泣いてる。
 なぜ足が震えている。
 くそっ、あのガチホモがっ!
 朝倉リョウには悪い噂が昔からあったらしい。数少ない学校の友人志賀によると、学校の生徒何人かに手を出したコトがあるとかなんとか。朝倉は理事長の親戚で、だから事件はいつももみ消しになって、朝倉は飄々と教師をやっている、と。その噂は本当だったらしい。まさか男子生徒に手を出していたとは驚きだが。志賀情報も馬鹿には出来ないな。
 僕は起こった出来事が、理解出来ない。マイノリティってなんだ?
 なんでいつも僕はこんな目に遭う?

 僕が渡り廊下に立ち止まり、下を向いて吐きそうにしていると、春の風が強烈に吹いた。
 顔を上げる。桜が一斉に舞う。
 まるで風自体がピンクであるかのようだ。
 桜が舞った先。
 一人の女子生徒が腕組みをしながら僕を見つめ立っていた。
 その生徒は背が高く、黒髪のストレートロング。目が細くて縁なしの眼鏡をかけている。唇は赤くて細く、狐を想像させるような顔をしていた。狐のようだが、美人。和の美人である。セーラー服がはち切れそうなほどの胸が女としての魅力に拍車をかけている。
 その狐美人が声を発する。その声は良く通る腹式呼吸だった。
「あなたが水野オトピチちゃん、で良いのかしら。放送委員の、ね……」
 狐美人は胸を揺らしながらこっちに向かってくる。そして、ゆっくりとだが、朝倉と同じように迫ってきて、僕の身体のラインを手でなぞった。背中ではなく、彼女は前側を。
「ふーん、なるほどねー。良いじゃん、その身体付き」
 さ〜く〜ら〜、さ〜く〜ら〜、となにかの歌を口ずさみながらその手はやはり下の方へと移動する。
「どうせあの朝倉にもこんなコトされたんでしょ」
 僕はなにも言えない。
「図星みたいね。……どれどれ」
 狐美人は僕の股間もまさぐる。
「ひっ!」
「ふむふむ、こっちも感度良好、と」
 狐はクスリと笑い、その口元をグーの手で押さえる。
「チャック、開いたままよ」
「あっ」
 僕は言われて初めてさっきジッパーを下ろされたままだったのに気づく。慌ててジッパーを上げる。
「決めたわ。オトピチちゃん、演劇部に入りなさい。あなたが今まで見たコトもない世界に、私が連れてってあげるわ。……貴方のコトなんて全部お見通しよ。だから返事は、まだでいいから。考えといてね。それじゃ」
 狐は踵を返すと、本館の方へと戻って行く。そしてまた一陣の風が吹いた。桜が狐の身体を包み込むかのように、僕は錯覚する。
「ああ、そうそう、私の名前は小島恵美子。以後、お見知りおきを」
 狐はこちらを振り返らずそう言うと、狐らしく木の葉隠れするように、桜に同化していく。
 僕はただ、狐の美しさと舞い散る桜の美しさに、涙を流すコトさえ、忘れていた。

 呆然と立っていると、チャイムが鳴った。
 そうだった。まだ四時間目の授業中だったんだ。次は、昼休み。クラスに戻ってもひとりぼっちで飯を食うコトになるし、また放送室に行こう。頼りの志賀は今日もサボりだし。仕方ねぇな。
 そう思った僕は、涙を拭いて、渡り廊下をゆっくりと歩き出していた。
 朝倉リョウ。小島恵美子。それに二階堂さんとそのゆかいな仲間たち。
 今日はまた、よくわからん連中と関わる日だなぁ、と思った。
 もうすでに、ムカつくとかそういう次元では物事が語れないような気がしてきたので、思考するのは保留しようと思った。
 放送室の前に、また購買部に寄ろう。なんか、異様に腹が減ったから。

 そして僕は、本館へと戻ったのだった。
 演劇部?
 わけわかんねぇ。


   ***


 本館放送室。こざっぱりした室内に長テーブル一つ。そこにパイプ椅子が六つ。その椅子に座った二階堂さん、その対面の花札さん、それから二階堂さんの脇を陣取る石原さん。
 二階堂さんはエロ本『くんずほぐれつ倶楽部』を読んでいる。机にはそのバックナンバーと思わしき雑誌類が積み重なっている。石原さんは渋い顔で黙して座っており、花札さんはおにぎりをもしゃもしゃ食べている。
 ミキサー卓には音源がセットしてあり、校内に昼休みのBGMを流している。色々あったから忘れそうになったが、今は昼休みなのだ。
 僕が放送室に入ると、こっちを見ないで「おお、帰ってきたか、オトピチちゃん」と二階堂さんが言葉を投げかけてきた。
「はい。帰ってきました」
「あっそ」
 興味なさ気に二階堂さんがそれに応える。
 僕は空いているパイプ椅子に座り、購買部で買ったジャムパンを机に置いてため息をついた。室内にも音楽が流れている。ユニコーンというバンドの『ヒゲとボイン』という曲だ。なんというか、この放送室のメンバーに似合っているギャグともシリアスともつかない不思議な曲だ。
 しばしの沈黙。誰も喋らない。しかし、その空気が心地よかった。心地よすぎて、僕は涙で視界がにじんでくる。
 そして僕はまた泣き出した。
「お、おにぎり、旨いんだな」
「それは良かったですね、花札さん。今日も母君がつくってくれたんですか」
 石原さんが言うと、
「そうなんだな、ママのおにぎりは世界一なんだな」
 と花札さんが胸を張る。
 僕は僕を完全に無視したその会話で、一気に泣き崩れた。机に突っ伏して、声を出して泣く。僕を気遣ってかのその僕をガン無視の会話が、僕にはなんだか暖かく感じたのだ。
「小島と会ったか訊こうとしたが、……ま、いっか」
 二階堂さんがぼそっと漏らすのを聞き取ったが、今の僕には言葉を返すコトは出来ない。ただ、僕は泣き続けた。
 五時間目の授業には、出られそうもなかった。


   ***


 教室に戻ると、クラスメイトたちのひそひそ話がそこら中から聞こえてくる。朝倉に呼ばれたコトは学校中に知られている。だからひそひそ話はどこもおかしいものではないんだ、と自分に言い聞かせてそれをスルーする。
 明るい教室に渦巻く暗い感情。それはただ僕がそうと感じるだけで、みんなはひそひそ話しながらも明るい会話をしているだけなのか。
 僕を肴にして、明るく。

 自分の机に行くと、僕の机の上に落書きが書いてあった。
『顔面ゲロまみれのブタ川ブタ夫。ホモ野郎。キモい。死ね』
 分かり易い文面だ。ただ、言っておくと僕はホモではない。
 僕が落書きを消しゴムで消し、授業をエスケープするために机の中をいじっていると、杉山田が近寄ってきた。
「ブタ夫〜。朝倉にナニされたんか?」
「なにもされてないし、おまえには関係ない話だ」
「オラに『おまえ』とか言うなよ、キメぇど」
「僕はキモくない。邪魔するな」
「うわっ、バッチい。つば飛ばすんでねぇど」
 杉山田の声に合わせるように、くすくす笑い声が教室のそこら中で起こる。
 痛いほどの蔑視の視線。
 慣れてはいるけれども、ツラい。
 いや、ツラく感じるというコトは、慣れていないというのと同じなのか。
「友達のいないおめぇさに話しかけてやってんだど、感謝するべきなんだどな」
 無視。僕は鞄に教科書とノートを仕舞うとそのまま教室を出る。杉山田は「待てよブタ夫ー。シカトさコクでねぇど」とか言ってるが、こいつには無視を通すコトにした。

 教室を出て校門を後にしたところで、僕はケータイで馬並にメールをする。「明日、ストリートライヴをやろう」とだけ書いて送信。あいつの学校も今は授業が始まったくらいだろうし、返事は先になるだろう。待ちつつ帰ろう。あ、あとは志賀にも連絡を入れよう。そっちはメールではなく、電話で。志賀はメールが嫌いな人間だからな。
 学校から続く坂道には、僕以外だれもいない。僕が歩く道には、誰もいない。振り返っても、そこには他人なんて誰もいないのだ。日々を塞ぎ込んでいる僕には、僕だけしか認識できないのかもしれないが、それでもちょっとばかりそんな他人不在の人生を思い返してしまう。僕は生まれた時からこんな人間なんだっけ、と。中学二年の時の前田との一件が、確かにターニングポイントになっていたとは思うのだが、でも、それでも僕はそれだけで変わったのか? そうなんだろうか。考えるだけ無駄か。まずは今のコトを、現状を鑑みろ。
 今の問題。
 授業をまたボイコットする僕。
 授業をまたサボったのが知れたら、あの親父になにか言われるだろう。
 それは分かってるが。
 しかしそれならそれで良いとも思う。僕にだって僕の考えがあるのだ。
 ただ、その考えが幼稚だ、という引け目もあるのだが。
 いや、どうでもいい。
 そう、すべてがホントどうでもいいんだってば。
 世の中全部、わけわかんねぇし。


   ***


「あー、その人ね。ああ、ああ、知ってるって。おれが知らねぇわきゃねぇだろ、有名人過ぎるぜ、その女。そいつはな、『狐憑きのエミー』だ」
「き、狐憑き? ハイ? なんだって?」
「狐憑きのエミーだよ。大層な通り名だろ」
「どうしてそんな通り名がついてんだ?」
「なんでもな、中学の時に夏の関東演劇祭とやらで一暴れしたらしい。相棒の『失楽の右手』って奴のオリジナル脚本で主演女優をしてな、その時に狐が憑依したかのような演技をしてだな。まあ、それが一年の時から続いて、三年まで毎年、破竹の勢いで優勝。そんでついた通り名が『狐憑きのエミー』。別の名前もあって『バーサーカーエミー』だ、そうだ」
「凄い人なのか?」
「そりゃそうだな。でも、高校に入ったらさっぱり表舞台には上がってこなくなったみたいだぜ。相棒の『失楽の右手』が脚本書き辞めて、その女、小島恵美子さんとやらが脚本書きもするようになったは良いが、そっちは鳴かず飛ばず。地区大会は勝てるものの県大会止まりの成績らしい」
「ふーん」
「変なのに目を付けられたな」
「最近、変な奴に目を付けられるのが僕の日課となっててね」
「あー、鼻の穴デカイのだけが取り柄の朝倉の野郎な。あと、さっき言ってたその小学生、か」
「大変だろ」
「いや、オトピチのストリートライヴに『サクラ』として参加ってのも、おれとしては大変だよ」
「わりぃな」
「あ〜、大変」
「だからわりぃって言ってんだろ」
「わーってるって。行くよ。要は客として歌聴いて拍手とかしてりゃ良いんだろ」
「頼む」
「じゃあ、報酬はワイルドターキーで」
「なぜウィスキーを。志賀も高校生だろ」
「学校サボって音楽活動をしようって奴に言われたかねぇな」
「それもそうだ」
「んじゃ、ターキーよろしく。ライヴの帰りがけにでも買って渡してくれりゃ良いからよ」
「すまないな」
「馬並の奴も学校サボりおーけいなのか?」
「たぶん。まだメールの返事がないいんだけどな」
「あとは、オトピチが、自分の父ちゃんにどう言い訳するか、だな」
「ああ、それは気が重い」
「んじゃ、やめりゃいいだろ」
「いや、もう学校なんて行きたくない」
「尾崎豊か、おまえは」
「なんとでも言え。僕は僕の道を進みたいだけだ」
「ミュージシャンになりたいのに保険として大学に行こうとか考えてた奴がなにを言う」
「う、それは……」
「ははは。わりぃわりぃ。ま、明日楽しみにしてっからよ、んじゃ」
「おう。明日ね。バイバイ」
 僕はケータイを切る。
 明日。ストリートライヴ。初めてではないものの、学校をサボってやるからなのか今から緊張してしまう。馬並からはまだメールの返信がない。明日は僕一人でやるコトになるかもしれないな。でも、それも修行だと思ってやろう。
 そんなコトを考えていると僕の部屋をノックする音がする。「はい?」と言うと部屋の外からピヨヒコの声で「兄上、夕飯の用意が出来ました」という返事があった。僕の家の夕飯は大抵弟のピヨヒコがつくる。中学生に食事つくらす僕は最悪な兄かもしれないな、なんて思いつつ、僕は階下のリビングへ向かうコトにしたのだった。

 リビング。居間のテーブルには食事を盛った皿がいくつか用意されていた。我が家の食卓って感じの夕飯、である。焼き魚にサラダ、卵スープにご飯。基本に忠実なメニュー。だからこそ腕が試されるってな。料理のコトなんて僕はからっきしダメなのでよくわかんねぇが。
「親父の分はあるのか?」
「兄上、聞いてなかったのですか? 今日から父上は出張です」
「ふ〜ん」
 ふ〜ん、とか言いつつ、僕は心の中で安堵した。怒鳴られるのが先延ばしになったからだ。先延ばしなだけで、結局のところ怒鳴られるのは確定したようなものなのだが。
 この前剣道の授業を飛び出した日のコトは、その後の電気ショックビリビリで入院したコトで有耶無耶になったが、今度はそうはならないだろう。なにしろもうガッコウには行かないと決めたわけだし。
 でもまあいい。ストリートライヴをした後に怒られるなら。正直久しぶりのライヴの前に怒られたらモチベーション下がるどころの話ではない。世の中には怒られて『負の感情』を溜めたコトによる勢いで音楽をやる人間も少なからずいるが、僕は残念ながらそういうタイプではないのだ。そんな僕はローリングストーンズが嫌いでビートルズが好きだ。馬並にそう言ったら「貴様はそういう好みだけは素直なんだな」と言われた。たぶんそれは当たっているのだろう。僕は通ってるガッコウでもバンドをやってると公言している人間を入学早々何人か知ったが、奴らは不良を気取りたがる。あきらかに優等生なビートルズより劣等生なストーンズが好きなタイプだし、奴ら自身もそう言っている。でも僕は、そうはなれないし、それで良いと思っている。別に自分の道を歩もうと思って音楽を選んだのに、その音楽をやる時にまで他人と歩調を合わす必要はないのだ。ビートルズ好き。結構なコトではないか。そこらへん、実はかなりどうでもいコトなのではあるが、でもそんなコト考えてしまう。
 おっと、そうじゃなくて。親父のコトだ。
 ピヨヒコに、訊いておきたいのだ。
 親父のコト。
 我が家の静かなる暴君のコトを。
「ピヨヒコ」
「はい?」
「ちょっと良いか」
 早速席についてサラダの皿に箸を伸ばしていたピヨヒコに、僕は訊く。
「はい。なんでしょうか」
「ピヨヒコはさぁ、塾通ってんじゃん」
「それがなにか」
 箸を止め、ピヨヒコは構える。そもそも兄弟で会話なんてほとんどしないのだ。構えて当然だろう。
「高校は、どこにすんだ?」
「柄谷一高にしようと思っています」
「県北地区だな」
「家から近い方が良いと思いますし。何度か兄上に同じコトを訊かれたコトがありますが、お忘れですか。希望校は変わりません。これからも第一志望は一高です」
「そうか」
「それが?」
「いや、おまえはずっとこの家で飯時は食事をつくる気なのか、と言いたいんだ」
「仕方ないではないですか、母上は出て行ってしまったままですし」
「おふくろの居る所に引っ越す、っつーのもアリだと僕は思うぜ?」
「愚問です」
「そうか?」
「二人で父上と戦うと、決めたじゃないですか。それもお忘れですか」
 そうだった。そんな約束をしたコトも、あったな。
「決心は揺るぎません。兄上が父上に屈服するなら、それはそれで良いでしょう。しかしながら、ワタクシはこの家に居ながらも戦い続けます」
「わりぃ。ホントに愚問だったな」
「食事が冷めてしまいます。早く食べましょう」
「そうだな」
 僕ら兄弟の誓い。まだ覚えてたか。
 誓いが日常の海に埋没してしまいそうだったのは僕だけのようだ。ピヨヒコは、戦う中学生なのだ。
 かっこいいじゃん。
 僕はそう思うとご飯を口に掻き込んだ。

 自分の部屋に戻ってケータイを見ると馬並から返信メールが届いていた。「路上ライヴ、望むところだ。何時集合にする?」と書かれていた。僕は「午前九時集合。正午からライヴ開始」と打ち、送信。
 僕らは練習を休みの日に散々してきたんだ、当日はぶっつけ本番でも大丈夫。でもとりあえず今から個人練習をしておこう。そう思い僕はスタンドに立てかけているアコギを手に取る。
 チューナーでピッチを合わせ、それからピックでストロークしだす。曲は馬並と僕の合作のオリジナル曲。オリジナル曲はすでに八曲ほどある。明日はそれらすべてを弾くコトになるだろう。テレビの天気予報によると明日は晴れらしい。思う存分弾けるな。
 僕はストロークして歌を歌い出す。
 僕、水野オトピチはストロークしか出来ない。アルペジオなんて出来ない、ましてやメロなんて逆立ちしたって出来そうにない。それでもまあ、馬並とコンビをしてる分には大丈夫なのだ。馬並はアルペジオ担当。僕もストロークのバッキングパターンをいくつか知ってるから、それで合わせてやっつける。これまでそうしてやってきた。確かにそれは相手に依存してると言えるわけであり、もし馬並とのユニットが解消されてしまったらどうするんだ、という憂慮もあるが、それはそれ。明日はたぶん大丈夫。その日暮らしというかなんというか、明日以降のコトは明日以降に考えれば良いのだ。
 僕はストロークしながら歌を歌う。その歌は調子っ外れかもしれないが、作詞した僕の希望が詰まっている。

 なんで僕はいじめられるのだろう。
 なんで僕ばかりこんな目に遭うのだろう。
 日本中でいじめられてる人間の人口はかなりのもんだろうから、僕だけが被害者ヅラするのは間違ってるかもしれない。
 でも、それでも僕は悩んでしまう。
 君だけがこんな目に遭ってると思うなよ、みんなそれぞれ大変なんだよ、とかそんな台詞が僕は嫌いだ。
 僕の気持ちは僕だけのものだから。
 僕がいじめられて苦しいのは、僕だけの気持ちだから。
 この気持ちは、僕だけのオリジナルだから。
 他人がどうこう言って良いもんじゃ、ないんだ。
 そんな気持ち、希望の詰まった歌を、僕は歌う。

 僕は尚もストロークする。
 僕がうららかな日差しの中で、うららかな気持ちでストローク出来る日はいつ来るのだろうか。
 それともずっとこのままの人生が続くのか。
 うららかなストロークを、僕は弾きたい。
 僕の、願い。
 この願いは、望めばきっと叶う願いなのか。
 でもそんなの僕は知らない。
 それとも、知らないからこそから願うのか。
 知らねぇ。
 それこそ神のみぞ知る話だ。
 僕はただ、ストロークして歌えば良いだけの話だ。
 希望の歌を、歌えば良いだけだ。
 いつからこうなった。
 中学二年の冬。
 ああ、あの時僕の世界が変わったのは確かだ。
 でもそれだけか。
 どーでもいい。
 どうでもいいぜ、そんなん。
 どうでもいいのに思い出す、あの頃の出来事。
 僕はよっぽど執念深いらしい。
 執念。
 嫌な言葉だぜ、ったく。


   ***


 午前九時、柄谷市柄谷駅前。そこにはギターを背中に抱えた僕と、腕組みして仁王立ち、僕を威嚇する、やはりギターのソフトケースを背中に背負った馬並の姿があった。
「おれはもう何度も貴様に言ったハズだ、おれは志賀が嫌いなんだ、とな」
「いや、でもさー」
「却下! 全て却下! 志賀のツラを見るくらいなら、おれは帰る! なんで正午スタートなのに九時集合なのかと思っていたらこれだ。貴様はよっぽどおれを怒らせたいようだな」
「ちっがうって!」
「違わん!」
「客も必要だろ? そしたら適任が志賀くらいしか思い浮かばなかったんだって」
 そんなやり取りをを馬並としていると、よろよろと覚束ない足取りでやってきた開襟シャツに学校指定のカーディガンを羽織った男が現れた。志賀である。右手にはカップ酒を持っている。すでに飲んでいるようで、顔が赤い。
「よお、オトピチ、馬並、元気かぁ」
「噂をすればこれだ! 全くツイてない、今日の運勢は最悪だ、クソがっ!」
 馬並はつばを飛ばしながら怒る。
 そこで僕はフォローを入れようと試みる。つーかこうなるのは予想済みの事態ではあったので。
「そこまで言うコトないだろ。あと、志賀も酒飲んでちゃダメだろ。高校生だし、まだ午前中だぜ?」
「人生には酒が必要だ、自分の人生に酔いしれられる酒が、な」
「いや、無理矢理格言っぽくしないで良いから!」
 そして志賀は馬並に絡む。
「馬並ぃ〜、ちょっとおれに冷たいんじゃないかぁ」
「貴様と喋るべき言葉など、これっぽっちもない」
 と言って馬並は親指と人差し指で小さい輪っかをつくる。つまりその、指でつくった輪っかよりも小さいほど「喋るべき言葉」なんてない、という意味だろう。
「馬並ちゃ〜ん」
「『ちゃん』付けで呼ぶな、キモっ!」
「小さい男だなぁ。そんなんじゃ女の子に嫌われちゃうよ〜」
 しっかしへべれけになると志賀は性格が様変わりするな。
「余計なお世話だ、クソがっ!」
「そっか〜、でもユーコちゃんはおおらかな男の子が好きだってよ〜」
「はぁっ? なに言ってんだ、志賀」
 馬並はわざとらしく口を大きく開けて「ぽかーん」としている状態を擬似的につくった。こういう時は、だいたい馬並は焦っている。
「わっからないかな〜、柄谷東高校一年四組の、等々力ユーコちゃんのコトだよ〜」
「キッ、貴様ァ〜! その情報をどこで手に入れた!」
「さぁ? どこからかな〜」
 さすが志賀、どこからか馬並の好きな女子の情報を手にいれていたようだ。
 馬並は顔がみるみる真っ赤になっていく。
「まさかオトピチ、貴様がチクったんじゃないよな!」
 馬並は目も充血してしまい、その目で僕を睨むものだからちょっとビビってしまう。
「違うってば」
「じゃ、じゃあ誰だ、クソっ!」
 志賀は馬並の動揺を見ながらカップ酒をちびちび飲んでいる。ガッコウ指定のカーディガンを羽織っているので補導されるんじゃねぇか、とも思うが、まあそれは僕や馬並だってガッコウをサボっているのだからヒトサマのコトは言えない。問題はこの馬並と志賀を仲直りさせるコトの一点だと思う。
 でもこれ、そもそも僕が悪くない?
 僕の予想では喧嘩っぽくなってもいつも通り上手くいくと思ってたんだけど。

 ……ああ、そっか。馬並も緊張してるのか。
 だからか。
 さて、じゃあどうするか。

 僕は考える。
 僕は考えるが、考えてる間も志賀と馬並のこの状況は続くわけで。
 どーしよ……。
 僕の思考回路はショート寸前、となかんとかアニメの某美少女戦士の歌の歌詞のような台詞が頭に浮かんで、軽くパニくってしまった。

 馬並も志賀も、いつの間にかファイティングポーズを取っている。まあ、ファイティングポーズといっても、二人とも格闘技は習っていないので、我流なのだが。
「志賀、分かってないようだな。おれを怒らせるとどうなるのか、というコトがな」
「おうおう、やめとけやめとけ、おれとやり合うのはよ。怪我じゃ済まないかもしれないぜ?」
「ふん。どうだかな」
「来いよ」
 うおーっ、と叫び、ギターを下ろして身軽になった馬並は志賀に向かい突進する。そしてそのまま全身でタックル。志賀は後ろに思い切り転んだ。
「ってぇな……」
 頭を打ったのか、志賀は起き上がりながら頭を手で押さえている。
「言っておくがな、これは本気じゃないぞ」
「ったりめぇだ、全然痛くねぇよ」
「ちょっ……、二人とも……。ここ、駅前だから」
 志賀が完全に起き上がるのを、馬並は腕組みしながら待つ。
 そして、起き上がったところで馬並は下から上に向かって蹴りを入れる。その蹴りは見事に志賀の股間に当たる。
 絶叫ともとれる、志賀の声にならない声があがる。
 その絶叫で、みるみるうちにギャラリーが集まってきた。
「どうだ、これでもおれは、力の半分も出してないぞ」
「てっめー! 殺すぞっ!」
「殺せるもんなら殺してみるんだな。しょせん、貴様の方が殺されるのが、目に見えているが、な」
 馬並がそう言うか否や、素早い動作で志賀は馬並の顔面に酒のカップを叩き付けた。
 材質の所為か、大きな音も立てずにカップは割れる。志賀が飛び退くと、馬並の顔が僕から見えた。見ると、馬並の顔から大量の血が流れ出ている。こりゃ喧嘩じゃ済まねぇんじゃね、と僕の頭が混乱する。
 間髪置かずに志賀の次の攻撃。割れたコップを更に、馬並の顔面にぶつける。
 顔をガードする隙もなく、馬並はこの攻撃を食らった。酒のカップは粉々になった。
 僕はその様子を、ただただ呆然と見ているしかなかった。
 その後、お互いの身体をつかみ合いながらの乱闘が始まった。殴る、蹴るの応酬。しかしながら格闘技を習ったわけでもない二人の攻撃は、相手をノックダウンさせる致命傷には至らず、結局数分間のバトルの末、近くの交番から来た警官に取り押さえられて終了した。
 ちなみに、僕も交番まで連行された。

 なんでこうなるんだ……。
 僕はもしかすると、トラブルを呼び寄せるエキスパートなんじゃないか、とすら思えてくる。

 それから。
 交番での事情聴取が終わった時には、すっかり夕方になっていた。学校には連絡が行き、志賀と馬並の家にも連絡がいったようだ。僕はどうにか免除。学校無断欠席の中、これは奇跡と言えたのだった。


   ***

 夕暮れの街。僕は人並みをかき分けてゲーセンに向かう。ギターは背負ったままだ。馬並と志賀は強制的に帰宅させられたが、僕だけはなぜか解放された。解放されたは良いが、今日はもうストリートライヴをやる気にはなれない。足は自然とゲームセンターに向いていた。
 雑居ビルの一階を丸々ゲーセンにしてある所に到着。
 入り口付近のUFOキャッチャーの中のぬいぐるみを見ながら奥へ。最奥部はコインのカジノになっているが、そこまでは行かず、格闘ゲームのコーナーへ。そこで古い格ゲーの対戦台の1P側に座る。
 ふむ、さすがに格ゲーの元祖のこのゲームを今更やろうって酔狂な奴はいないからな。僕が台を独占してやろう。そう思ったのだった。
 コインを投入口に入れて、さっそくプレイ。使用キャラは角刈りのアメリカ兵。
 ここは対戦台。裏側の2P台で誰かが乱入してきても、僕が負けるコトはそうそうない。誰も対戦してこないだろうけど。でも、気持ちの上では「いつでもかかって来やがれ!」みたいな。そう思いながらプレイ。
 サマーソルトキックと繰り出しながら敵と戦う。
 無敵無敵無敵!
 僕の使うアメリカ兵は強かった。もう、このままクリア出来んじゃね? みたいな。まあ、ラスボスが強すぎて、クリアしたコトないけど。

 僕が良い感じにプレイしてると、ずぎゃおーん、という大仰な効果音が鳴って誰かが乱入してきた。対戦者、誰だかは知らないが、そいつは僕のこの華麗なプレイを見ていなかったのか?
 僕は両手の指を広げて音を鳴らす。
 ヘンな奴もいるものだ。愚かな。

 ヘイヘイ、即座に返り討ちにしてやんよ!

 対戦相手がキャラを選ぶ。選んだキャラは相撲レスラーだった。
 弱いキャラを選んだもんだな。負ける気がしねぇ。

 対戦開始!
「ガンダムファイト・レディ・ゴー」
 僕はつぶやいた。

 僕のアメリカ兵がしゃがみ込んで待っていると、相撲レスラーはジャンプして飛び込んでくる。「かかったな!」と思ってサマーソルトキックを発動。しかし、空振り。相手は上手い具合にサマソの射程距離ギリギリのところで着地したのである。サマソという技は空中に飛びながらオーバーヘッドキックをかます、という技で、空振りすると着地まで無防備状態になる。その無防備状態を狙っての飛び込みだったのだ。僕のアメリカ兵が空中から降りてくるところを狙って張り手が迫ってくる。ぽぽぽぽぽぽぽ、と叫び相撲レスラーは高速で張り手を何重にも繰り出す。アメリカ兵はその攻撃の全てを食らい、ダウンした。その後、立ち上がりを狙っての頭突き。大技を決められたアメリカ兵は、今度は鯖折りで身体を痛めつけられる。そこからはもう相手ペース。なにも出来ないまま、僕は負けたのであった。

「うっひゃひゃひゃひゃひゃひゃ、ひゃっほーい!」
 対戦相手はどんな奴だったのだろうと、負けて台から離れた僕が裏側に回って見てみると、対戦台に座っていたのは制服姿の二階堂さんだった。横には、いつものように石原さんが立っている。ああ、そうか、もう下校時刻をとっくに過ぎてる時間なんだな。
「に、二階堂さん……」
「よ、オトピチちゃーん、こんばんにゃー」
「こんばんにゃー、じゃないですよ」
「おっれの勝ち〜、ひゃっほーい!」
「この遊戯で坊ちゃまに敵はいません」
 横に腕組みして立っている石原さんがおだてる。
「やっぱ、そうだよなー、俺様ってばゲームのてんさ〜い」
「はあ……」
 僕は一日の疲れがどっと出てしまった。もう、いいや、この人らに付き合うのは止めて、とっとと帰ろう。
 僕が二階堂さんたちから離れようとすると、格ゲーの台からまた、ずぎゃーん、と効果音が鳴った。僕は立ち去ろうとしていた足を止め、二階堂さんの台のディスプレイをのぞき込んでしまった。
 誰だ、うっひゃひゃひゃひゃひゃ、とかゲームしながら声を出す人間に挑んでくる阿呆は。
 ディスプレイの中で対戦者は、胡散臭いヨガファイターをキャラに選ぶ。この選択は正しいのか。確かに強いキャラではあるが、かっこ悪いキャラだぞ。
「よっしゃ、来いや!」
 二階堂さんは気合いを入れ、ゲームスタート!

 ヨッガ! ヨッガ! ヨッガ!
 ヨガをやってる人間を勘違いしそうになるくらいアクロバティックな動作でヨガヨガ叫びながら、ヨガファイターは宙を舞う。相撲レスラー二階堂さんは身体が重いため、ジャンプしての迎撃が出来ない。相撲レスラーは完全にヨガファイターに躍らされるコトになった。
 ヨッガファイ!
 ヨッガフレイ!
 なんかよくわからんがヨガファイターは口から炎を吐く。これこそヨガの真骨頂、と言いたそうな飛び道具の炎。それを躱そうと相撲レスラーが飛ぶと、そこを狙ってヨガファイターは伸びる手足でジャンプ中の相撲レスラーを攻撃する。「あっれ、おっかしいーなー」とか「ちっくしょ、クソッ!」とか言いながら二階堂さんはキャラを上手くヨガファイターの懐に飛び込まそうとするが、全て失敗。攻撃範囲、リーチがこの二人のキャラでは全く違う。相撲レスラーはリーチが短く、全然攻撃が出来ないが、ヨガファイターはヨガの神秘で手足が伸びまくり、かなり遠くからでも相手を攻撃出来る。

 ヨッガ! ヨッガ! ヨッガ!
 ヨッガフレイ!

 戦いは、全く話にならなかった。
 結果、無傷でヨガファイターは、相撲レスラーを倒した。
 つまり、二階堂さんは完全に敗北した。

「おーっほっほっほっほ」
 反対側の対戦台から声がする。キレイな腹式呼吸の、女性の声だった。この声には覚えがある。そう、あのひとだ。
 僕が女性の方へ足を運ぶと、そこにいたのは、ロングストレートの黒髪で狐の姿をした、美しい女性だった。
「貴方のコトなんて、全部お見通しよ」
 小島美枝子。僕はその姿を忘れられるハズがなかった。
「こんにゃろー、やっぱり小島かっ!」
 いつの間にか席を立って、二階堂さんはその小島さんの側に来ていた。
「当然。この地区のゲーセンでヨガファイター使いといえば、この私をおいて他にいないわ」
 よゆー、と言ってこの美しい狐は、口笛を吹いた。口笛の旋律に乗って大きな胸が揺れる。
「小島。おまえ……」
「ふん、辛気くさい話は今度にしてくれる? 私は忙しいの。これからヨガファイターで世界中をストリートファイトして回らないといけないから」
「別に、辛気くさいかどうか、わっかんねぇだろ」
「話さなくてもわかるわ。言ったでしょ、貴方のコトなんて全部お見通しだ、って」
「くっ!」
 なんかよくわからんが、どうおこの二人にはなにかしら『ある』らしい。でも、僕は別にこの二人の関係に立ち入ろうという気はないので、もうこの場を去ろう、そう思った。正直痴話げんかは余所でやってほしい。僕の目の前でそんなのをやらないでほしい。そう思った。

 ずぎゃおーん!
 本日三度目の効果音が鳴り、小島さんは二階堂さんとの対話を打ち切る。
「挑戦者が、現れたようね」
 僕は小島さんの台をのぞき込む。二階堂さんも、僕と一緒に小島さん側の台を凝視する。
「誰が相手だろうと、この私がフルボッコにしてやるわ」
 ぴろ〜ん、と音が鳴って対戦者はキャラを選択し終えた。使用キャラは、ロシアの闇プロレスラーだった。ちなみに、このゲームの最弱キャラだ。
「面白い、やってやろうじゃない」

 らう〜んどわんっ、ファイッ!

 ぽあ、ぽあ、ぽあ、と声を発し、プロレスラーはゲーム開始後、即スクリューパイルドライバーを決める。「負けないわ」と小島さん。しかし、起き上がり後即、次のスクリューパイルドライバーが決まる。小島さんのヨガファイターは口から炎を吐いたが、ぽあ、と奇声を発しロシアのプロレスラーは身体を回転させ、炎をすり抜ける。そして炎を出して硬直しているところにまたスクリューパイルドライバー。
「わ、私が負けるわけないわっ!」
 ヨガファイターは再び攻撃を仕掛けるが、全て回避される。リーチの長い攻撃も、その伸びる手足の先端にパンチを突きつけられ、逆にヨガファイターが攻撃を食らってしまう。
「卑怯よ! こんなの『ハメ技』じゃないのっ!」
 その後、一撃も食らうことなくパーフェクトゲーム。ロシアの闇プロレスラーは勝利した。
 闇プロレス、恐るべし!
 伊達に非合法のキング・オブ・スポーツを名乗ってないぜ!

「分かったわ! 石原ね! あの男の嫌がらせに違いないわ!」
 ゲーム離脱後すぐに小島さんは席を立ち、裏側の対戦台に向かう。僕と二階堂さんも覗く。
 すると、石原さんはゲーム台の横に直立不動してゲームを見ていただけだった。
 じゃあ、誰だ?
 知らない人か?
 僕が台に座っている人物を見たら、その対戦者は対戦後の一人プレイをしながら、持参したとおぼしきおにぎりを食っていた。

 それは、花札さんだった。

「ぼ、僕のプロレスラーは、む、無敵なんだな」
 石原さん以外の僕ら三人は、大きくため息をついた。
「勝てて良かったですね、花札さん」
 石原さんが微笑む。
「ま、ママのおにぎりは、せ、せ、世界一なんだな」
 …………。
 僕はもう古い格ゲーはやめて、可愛い女の子たちがバトる萌えガチな新しい格ゲーをやろう、くっそ可愛くてカッコイイあのアルクェイド・ブリュンスタッドちゃんが出てくる奴を。そう思ったのだった。


   ***


 次の日。僕は朝、気合いを入れて最寄りの大江駅に向かう。背中にはギターケース。電車に乗って繁華街のある柄谷駅へ。僕は昨日の夜、なかなか眠れなかった。なぜなら、今日は生まれて初めて人前で、一人っきりで弾き語りをするからだ。不安と興奮がせめぎ合い、僕はちょっと目眩がしていた。
 柄谷駅、午前十時。僕は駅構内で良い場所を見つけ、そこに腰を下ろし、弾き語りの準備をする。

 通行人をみんな、ドッキドキにしてやるぜ!

 昨日、そして今日の朝、馬並は電話に出なかった。メールも返信がなかった。志賀も同様だった。僕は、一人でやっていくしかなかった。しかし、僕の胸は高鳴る。高鳴りっぱなしだ。やるしかねぇ。僕は決心した。やってやる。僕の真価が問われるのは今だ、と。

 僕はストロークしながら歌う。
 最初、誰も聴いてなかった。
 しかし、尚も僕はうららかな気持ちという境地に立つべく、ストロークする。
 誰かが立ち止まり、しばらくすると通り過ぎる。そんなコトが何回かあった。上出来だ。少しでも僕の奏でる旋律に耳を止めてくれれば、それでいい。
 そして2時間が過ぎ、昼頃になった。最前までサラリーマンが多かったが、昼時になると若者が多くなる。これからが勝負か、と思う。暇を持てあました人なら、ちゃんと聴いてくれるかもしれない。
 だが、若者のほとんどは僕を無視した。わずかな数の人間は、一瞬だけ聴いてくれるがやはりすぐに去っていってしまう。そんなもんだ、これは恥じるようなコトじゃない。僕は、一生懸命、ギターをかき鳴らし、大きな声でがなる。うららかな心を欲している、がなり声。

 がなる。われる。だれる。がなる。われる。だれる。
 何度も何度も、僕は歌う。

 それからもしばらく歌っていると、女の子が、僕の目の前にやってきて、歌を聴いてくれた。今日、初めて一曲を通して聴いてくれた女の子。それは、赤いリボンで髪をツインテールにした、小学生くらいの女の子。
 そう、その子はあの、可愛い万引き犯だった。ダス・ゲマイネ書店の時のように、少女は無表情だった。
 こんにゃろー。
 無表情とはいえ、聴いてくれたのは嬉しい。嬉しい、けど。こいつとは一回、話し合わねばなるまい!
 僕は一曲歌い終えた後で、万引き少女に話しかけようとした。
 すると結構離れたところから、万引き少女を呼ぶ声がした。
「トウコちゃ〜ん。なにをやってるんですの〜」
 呼んでる声の主は僕と同じガッコウの制服を着ていて、カールのかかった長い髪をなびかせながら、万引き少女に手を振っていた。万引き少女ことトウコちゃんとやらもその巻き毛少女に手を振り返す。
 巻き毛の子は僕の目の前までやってきて、僕にお辞儀をした。
「さあ、行きますわよ。お姉様もお待ちなんですから」
「うん……」
 万引き少女トウコちゃんは巻き毛の子に手を引かれ去っていく。トウコちゃんは手を引かれながらもこっちをチラチラと見ながら遠のいていく。
 僕は遠ざかっていくトウコちゃんとかいう万引き少女と巻き毛の子に視線を送り、見送った。視界から消えるまで、僕はそのツインテールの後ろ姿を、ずっと見ていた。
 つーかさ、この時間帯。ガッコウをサボってる奴って、多いんだな。僕はガッコウをサボるのに命がけに近い決心までしてるのに。まあ、僕の家の親父みたいな厳格な親ってのは、今は流行らねぇ、ってだけなのか?
 そうして弾き語り一日目は、トウコちゃん以外で一曲まるまる聴いてくれた人間はいないままで終了した。
「お疲れ様でした」
 僕はそうつぶやくとマクドナルドに向かった。自分で自分をねぎらうかのように帰りがけ、てりやきバーガーを買って食ったのだ。
 一人で食うマックのてりやきバーガーは、なんだか、意味もなく噛んでて噛みすぎてしまったガムのように味気なかった。

 土曜日。僕は懲りずに弾き語りに出掛ける。そもそも僕は、顔がお笑い芸人のブタ川ブタ夫に似ていると言われ馬鹿にされていて、なのに人前に顔をさらして歌を歌いたいなんて、気が触れているとしか思えない。僕はステージに立つというコトになにを求めているのか。ホントマジわけわかんねぇ。
 で。わけかんねぇまま、僕はその感情のごった煮スープを吐露すべく、駅構内にギターを運ぶ。一人きりの戦い。しかし、この戦いに勝つには、オーディエンスという他者が味方をしてくれないと勝てないという。一人きりが、一人きりじゃなくなった時に勝つという、これは考えてみると不思議な戦いなのだった。

 今日の朝、馬並に電話をかけた。開口一番、馬並は怒りに満ちた口調でこう言った。
「貴様と話すコトなど一言もない。消えろ。もう二度と電話してくるな」
 もうちょっとソフトな言い方ってもんがあるだろう、と僕が返すと、いきなり口調を変え、馬並はにこやかに、
「水野くんはもう、ただの他人じゃないですか。同じ市内の昔の知り合いではあるけど。……じゃ、二度と電話してくんな、死ね」
 と言って電話を切った。
 会話、強制的に終了。
 そういうわけで僕はこれから、一人でやっていくコトになったのであった。

 柄谷駅構内。僕は腰を下ろし、ストラップを肩にかけ、アコースティックギターをかき鳴らした。心なしやけくそ気味で。僕の奏でるごった煮スープは、いつもよりカオス化している気がした。僕はいつになったらうららかな気持ちでストロークが出来るのだろう。そんな思いで、ギターを弾く。こういう時、エレキじゃなくてアコギで良かった、と思う。アコギは感情をストレートに反映する。個人的な怒りを公衆の面前でかき鳴らすのはどうか、という意見もあるだろうが、これはこれで僕のオリジナル曲のコンセプトには合うような気もするので、良しとする。それにこの怒りは『負』とは違うのだ。説明は出来ないけれども。
 怒りの所為か僕の声は上手い具合に大きく響き、しばらくすると立ち止まって聴いてくれる人がぼちぼち現れた。前回よりもその人数は多い。とはいえしばらくすると人々は飽きたかのように立ち去ってしまうのだが、でも、僕はこれでも収穫アリ、とした。だって、ほんのちょっとでも立ち止まってくれたら、嬉しいじゃんか。

 何時間弾いただろうか。もうとっくに昼は過ぎていた。そういや飯食ってねぇな、と思いつつも、歌が、まるでかっぱえびせんのごとく、やめられねぇ、止まらねぇ。僕の衝動は、まだまだ出し尽くせない。出し尽くすまでイクぜ、とギターを弾き、歌う。
 夢中になって歌っていると、いつの間にか僕の目の前には女児のぱんつがあった。
 僕はぱんつを見ながら、歌っていた。
 いや。正確に言うと、目の前に女の子がしゃがみ込みながら僕の歌を聴いているのであった。チェックのミニスカ、そしてぱんつだ。
 僕が顔を上げ、ぱんつの主を見ると、それは赤いリボンでツインテールにした、可愛い女の子、そう、万引き犯のトウコちゃんだった。
 トウコちゃんは、無表情で僕の歌を聴いていた。トウコちゃんが『見せぱん』しながらしゃがみ込み一曲目が終わる。と、トウコちゃんは無表情のまま拍手をしてくれた。僕は手を止め、「ありがと」とお辞儀した。
「不細工なお兄ちゃん」
 トウコちゃんは僕に呼びかける。
「なんだい」
「私の名前はトウコっていうの。覚えといて」
「うん」
 すでに名前は知っているが、ここはうん、と頷いておくコトにした。
「私ね」
 トウコちゃんが話して良いのか迷うように身体をもじもじさせながら、話し出す。
「私、お兄ちゃんをひとめ見た時から……」
 うっ。
 なんだこのテンションは。
 告白的な、なんかそういうものを期待してしまいそうになってるぞ、僕。
 心拍数が無駄に上がる……。いや待て。この前は期待したらスタンガン食らっただろうに。
 し、しかし。
 僕の胸は高鳴る。
「お兄ちゃんのコト」
 うん。そ、それで?
「私ね、……反吐が出るくらい、憎んでるの……」
「はい?」
 しゃがみ込んだ姿勢のまま、トウコちゃんはいきなりすさまじいコトを言う。僕は思わず視線をトウコちゃんの顔から逸らし、その目でぱんつを見た。
「お兄ちゃん、大江高校の生徒でしょ」
「う、……うん。それが?」
「だからかもしれないし、そうじゃなかったとしても私、お兄ちゃんのコト憎んだかもしれない」
 ぱんつは、女児らしく純白だった。しかし、言ってるコトはそれに反しダークリーだった。
「私、反吐が出るくらい、お兄ちゃんを憎んでるの」
 状況がまたしても飲み込めないが、僕は年上として一言言っておこうと思った。
「女の子が反吐が出る、なんて言っちゃダメだよ」
 なんだ、そのツッコミ? 自分で言っておいてなんだが、論点がずれてる。
「私に気安く話しかけないでね。不細工が移るから。話をするのは、私の方が気が向いた時だけ」
 って、おまえはツンデレかっ!
 僕が絶句していると、意味不明なツンデレ言語を言い放ったまま、トウコちゃんは立ち上がり、「バイバイ」と手を振って雑踏の中に消えていった。
 僕はもう、その日は歌を歌えなかった。

 日曜日。僕はまたしてもストリートライブに向かう。
 こうなら徹底的にやってやる。馬並がいなくても、ストロークしか出来なくとも、この衝動は止められねぇ。
 日曜日の繁華街の最寄り駅といえば、暇そうな連中がたくさん来るハズだ。それに賭けよう。今日こそが、多くの人に見せるチャンス。

 僕がいつもの場所に陣取り歌を歌っていると、曲の終わりと同じくして一陣の強風が吹いた。砂埃のようなものが目に入り、目を閉じ、それから目をこすりながら開けると、駅ビルから正午を知らせる放送があり、それと同時に、僕の眼前には、一匹の狐が立っていた。
 狐は、ニヤリと微笑んだ。
 そう、その狐とは、小島恵美子だった。
「元気そうじゃない、オトピチちゃん」
 悲しいコトに小島恵美子、エミー以外は僕の周囲にはいない。僕はエミーと話をするコトにした。
「おはよう、小島さん」
「恵美子で良いわ」
「じゃあ、恵美子。おはよう」
「今はもう昼。こんにちは、でしょ」
「そうだね」
 僕がなにか話題を探して喋りだそうとすると、恵美子はそれを手で制した。
「貴方のコトなんて、全部お見通しよ。オトピチちゃん、貴方、トウコに会ったでしょ」
 トウコ、という名前が出て僕は思わずチェックのミニスカートから覗く純白のぱんつを思い出してしまった。
「あの子はまだ小学生なの」
 そう、小学生らしい、ぱんつだった。あのぱんつはきっと、後ろから見たらクマかなんかのイラストがプリントされているに違いない。
「惚れちゃ、ダメよ」
 と言って僕を指さす。
「はい?」
「小学生に手を出したら、法律で裁かれる、という意味よ」
「そんなコト、するかーっ!」
「あら、そうかしら。だってあの子、私に似て、美人でしょう」
「ん? もしかして」
「うふっ」
 恵美子は胸を張る。胸を張る動きで巨乳が揺れた。
「小島トウコは、私の最愛の妹よ」
「マジっすか」
「マジっすよ」
 …………。
 なんか、予想はしてたけど。雰囲気が独特だし。いや、そうだったら、言うべきコトがあるな。
「ちょっと、恵美子さ、トウコちゃんがさ」
「ほうら、やっぱり。『トウコちゃん』なんて呼んでる」
「それは別に良いだろ。そうじゃなくて」
 僕は咳払いして、言った。
「あの子、万引き犯なんだぜ」
 恵美子は、チッチッチッと三回舌打ちし、人差し指を振った。『甘い』という意味だろう。
「常習犯よ」
「…………」
「家庭がちょっと複雑でね、親への当てつけのつもりなのよ」
「じゃ、じゃあ、僕に万引きの罪をなすりつけたのは? なんでだ」
「貴方のコトが、きっと好きなのよ」
「はい?」
「その後、スタンガンを食らわなかったかしら」
「食らった」
「愛情表現の下手な子でね」
「って、下手とかいう問題かっ!」
「父親にいつも、隙があれば改造スタンガンを突きつけようとする子でね」
「どんな親子愛だっ!」
「オトピチちゃん、もう逃げられないわよ、あの子から。そして……」
 また、風が吹いた。
 生暖かい風だった。
「私からも、ね……」
 エミーの長い黒髪が、風になびく。
 僕はその姿をただ、眺めるしかなかった。
 だって今の台詞、まるで……。
「あら、もうこんな時間。私、今日は予備校なのよ。それじゃ、失礼するわ。また、会いましょ。是非、部室にも来てね」
 狐がしっぽを振るようなモーションで、恵美子は手を振る。やはりこいつは狐だ。もしかしたら僕は狐に化かされているのかもしれないな、と思う。

 僕はそれから、また弾き語りに戻る。夕方まで歌い、それから駅ビルの輸入雑貨屋でルートビアを買って、電車でルートビアを飲みながら帰った。
 家には今日も親父の姿はなかった。親父はまだ、出張から帰ってなかったのだ。もしかしたらそれは口実で、愛人の家にでも泊まり込んでるのかも知れないが。いや、そうにちげぇねぇ。そんな親父へ憶測を僕は、ピヨヒコと夕飯を食べながら語り合った。恵美子やトウコちゃんのコトは、黙っておくコトにした。

 次の日は、平日だった。しかし僕はガッコウには行かず、ソフトケースに入れたアコースティックギターを背負って弾き語りに向かう。
 駅にはサラリーマンやOLがたくさんいて、電車の中は慌ただしかった。
 僕もいつか、この電車に乗ってるサラリーマンたちのようになってしまうのだろうか。夢を、あきらめてしまう日が来て、スーツを着てデスクワークをする日が来てしまうのだろうか。いや、そんなん考えらんねぇ。
 サラリーマンたちと一緒になって電車に揺られていると、柄谷駅に着いた。僕は電車を降り、いつもの場所に陣取る。ギターをソフトケースから出し、チューニングを始める。
 それが終わったら、手でピックを握り、深呼吸してから、ギターの弾き語りを始めた。
 僕は歌う。僕の夢に向けて、歌う。
 一時間くらい歌うと、ツインテールの女の子が、しゃがみ込んで僕の歌を聴いていた。その女の子は小島トウコちゃんで、今日もぱんつは純白だった。
 僕はドギマギする。それは別にぱんつがどーの、というわけじゃなくて、昨日の小島恵美子の言を思い出すからだ。この女子小学生、トウコちゃんは、僕のコトが好きだ、というのは本当のコトなんだろうか。いや、そうだとしてもこの子は小学生。今が平日で、この子はそうするとガッコウを休んだわけで、つまり不良な小学生だけど、不良だからって手を出したら犯罪だ。って、その前に僕のコトが好きだって決定したわけじゃない。憎しんでるとか言ってたし。トウコちゃんは、そりゃ可愛いけど、それに対し僕は『不細工なお兄ちゃん』だぞ。ブタ川ブタ夫なんだぞ。そんなの、許されるわけないじゃないか!
「不細工なお兄ちゃん」
「ん?」
「ギター。手が止まってる」
 なにやってんだ、僕は。今は、演奏に集中すべきだろ。
「わりぃ」
 僕は、たった一人のお客さん、トウコちゃんのためにギターで弾き語りをすべき時なのだ。こんな煩悩に捕らわれてる場合じゃ、ない。
「僕の演奏、どう?」
「うん。まあまあ」
 まあまあ、か。良いだろう。現段階の「まあまあ」から、今すぐ「サイコー」に変えてやるぜ!
「次の曲『兵士の歌』、行くぜ」
 トウコちゃんはしゃがんだまま拍手をくれる。今はお客さん、一人しかいないが、その一人のお客さんを大満足させる、それが今、僕に課せられた使命だ。
 僕はギターをストロークする。歌は、それに合わせて勝手に僕の口から発せられる。この感覚。ここは、僕のステージだ。僕は僕の使命を果たそう。僕は、シャウトした。トウコちゃんは「いえーい!」と拳を突き上げた。スウィングする感覚に、僕は身を任せた。
 最高のステージを、見せてやる。
 最高のステージで、魅せてやる。
 今、ここで。

 『兵士の歌』を弾き終える。この曲は僕と馬並が一緒につくった曲で、僕が馬並の家に泊まって、二人で夜更かししながらつくった思い出の曲であったりする。あんときゃ楽しかったなー、と回想しつつ、トウコちゃんに感想なんぞを訊いてみる。
「どうだった、トウコちゃん」
「うーん……」
「反吐が出るような歌だったど。下手くそブタ夫」
 罵声。その罵声の主に僕は振り向く。声の主は、杉山田タカジルだった。
「おうおう、ブタ夫よ〜。やってんのォ。感心だっぺよ」
 その巨体、つまり肥満体型に気圧されてか、トウコちゃんは杉山田を見て顔をしかめる。
「ガッコウさこねぇでなにやっとんど、ブタ夫さよ〜」
 杉山田は右手にコーンカップのアイスクリームを持ち、ぺろぺろ舐めながら話す。僕は、冷静な口調で応える。
「ガッコウに行くのも行かないのも、僕の勝手だろ。それに杉山田、おまえも今日、ガッコウはどうしたんだよ」
「心優しいオラはブタ夫さ迎えに来たんだっぺよ。噂には聞いてたども、ブタ夫さストリーなんたら、ホントにやっとったで、びっくりだっぺよ。このままじゃ有名さなってストリーキングさなるのも、時間の問題かのォ〜」
 杉山田はげらげら笑う。笑った後、アイスを一気に掻き込み、コーンのカップもバリバリ頬張る。口の中にアイスとコーンを入れ、もしゃもしゃさせながら、杉山田はもう一度笑った。
「気に食わねぇど、ブタ夫〜。そのツラさしてガッコウへ来てみ〜、その清々しかツラ、治らんばほど殴っちゃるど」
「おい、杉山田。小学生の、しかも女の子の前で汚ねぇ話してんじゃねぇよ」
 杉山田は口に入れていたアイスを飲み込んだ。
「オラに逆らう気か。女の子の前だからっていい気になるでねぇど」
 杉山田は僕に近づいてくる。僕も、トウコちゃんをかばうような形で前に出る。ギターはソフトケースの上に置く。
「ブタ夫、可愛いお姫様のナイトさ気取っとるけんども、絵にならねぇ不細工なツラで、笑えるど〜」
 杉山田はわざとらしく腹を抱えて笑う仕草をした。
「それからのぉ〜、ブタ夫」
 僕は焦る。果たして僕はトウコちゃんを守りきるコトが出来るだろうか。今の内にトウコちゃんを逃がすか?
「オラは杉山田『サマ』だど! オラのコト呼びつけさしてただで済むと思っとんのか!」
 杉山田が飛びかかって来た。僕は後ろのトウコちゃんの方を向く。トウコちゃんはダッシュで人混みの中に逃げた。良かった!
 飛びかかって来た杉山田に僕は身構える。
 しかし、杉山田の狙いは、僕でもトウコちゃんでもなかった。
 杉山田の狙いは。
 僕の、アコースティックギターだった。
 僕は止めようとするが、しかしそれは遅かった。杉山田は足でギターを踏みつけ、メキメキという音がして、それから木材が破裂するような音がして、ギターは丸いサウンドホールの穴から真っ二つに割れた。その後にもまだ杉山田は力任せにギターを何度も踏みつけ、ギターが形を保てないほど破壊される。僕は止めようと杉山田に飛びかかったが、顔面を殴られ、転倒した。転倒しているうちにも杉山田は踏みつけ続ける。転びながら僕は杉山田の足首を掴んだが、その手を思い切り踏みつけられ、それから倒れたままの僕の顔に蹴りを入れられ、僕は鼻血を出しながらうずくまった。一瞬うずくまったが、鼻血を床に垂れ流しながら杉山田に攻撃しようと手を伸ばす。しかし、また顔面を蹴られる。何度も、蹴られる。僕に攻撃した後、杉山田はまたギター破壊に戻る。
 杉山田がギター破壊、そして僕への攻撃をしている間も、駅の通行人は『我関せず』のまま、この場を素通りしていた。駅員も、警察も、警備員も、誰も助けに来ない。救いだったのは、トウコちゃんが逃げたコト。それだけは、ちょっと安心した。
「ブタ夫のくせに偉そうにギターさ弾きおってよォ〜!」
 叫びながら、杉山田は僕のギターを粉々にし続ける。もう、ギターの形なんて、していない。ただの、木の屑、粗大ゴミだ。しかし、杉山田は踏みつけ続ける。
「ムカつくど! ムカつくど!」
「おい、おまえ」
 新しい声がした。僕が見ると、その声の男は杉山田の肩を掴んでいる。校則違反の茶髪のその男は、二階堂さんだった。
「もう止めろって。このデブ」
「んごおおぉぉォォ!」
 杉山田は咆哮し、二階堂さんを殴ろうと拳を振る。しかし、二階堂さんはそれを躱した。キレイな躱し方だった。
「あっぶねぇなー。そんな叫ばなくても良いだろが、デブ」
「デブって言うなあああぁぁぁ!」
 杉山田は二階堂さんにタックルを喰らわそうとする。しかし、二階堂さんはそれも躱し、杉山田はタックルを途中で止められず、突進したまま二階堂さんを越えていき、転びそうになりながら、二メートルくらい先でどうにか止まる。
「オラを怒らせたらどうなるか、見せてやんどぉ!」
「坊ちゃま」
 音も立てず、後ろに控えていた石原さんが現れ、二階堂さんと杉山田の中間に立つ。石原さんは片手を着ていた黒いジャケットの中に入れ、威圧感を出す直立の姿勢で、杉山田を睨み付けている。
「おめぇさが噂の石原だっぺか! 二階堂の腰巾着が、偉そうにすんでねぇど!」
 杉山田は、今にも飛びかかっていきそうな体勢だ。しかし、石原さんはひるまない。
 石原さんは、ジャケットから手を出した。
 その手に握られていたのは、拳銃だった。拳銃は、杉山田にまっすぐ向けられている。
「こけおどしだっぺ。そんなおもちゃの拳銃で、オラがびっくりさコクとでも思っとるんか」
「この『デザートイーグル』がこけおどしかどうか、試しますか?」
 杉山田は大げさに笑う。
「撃ってみー、撃ってみー。オラを打ち抜いてみるど」
「なるほど。それでは、撃ちます」
 パンッッッッッッッッ!
 耳をつんざくような炸裂音が、辺りに響いた。僕は思わず目をつぶり、倒れた姿勢のままで耳を塞いだ。
 杉山田は自分の後ろを、痙攣した動きで振り向いた。すると、後ろのコンクリートの壁には、銃痕が刻まれていた。
「う……嘘だど……、そ、そんなわけ、ねぇど……!」
 杉山田は、失禁していた。ズボンの股間のところから水分がにじみ出てくる。
 がくがく、という擬音が似合うほど、顎を上下させ、痙攣した動きのまま、立ち尽くす。
「これでも、おもちゃだ、と?」
 石原さんはニヤリとする。
 杉山田は、何秒間か間を置いてから、「はひ〜!」と間抜けな声を出し、ダッシュして逃げていった。逃げていったルートには、杉山田の汚い水で出来た跡が残った。
 僕らの周りの通行人も何人かは立ち止まったが、映画の撮影かなにかと勘違いして、慌ただしくなるコトはなかった。
「大丈夫ですか、水野さん」
 石原さんが拳銃、デザートイーグルをジャケットの内ポケットに仕舞ってから、僕に手をさしのべた。僕はその手を取り、立ち上がる。
「まあ、その鼻血拭けや、オトピチちゃんよ」
 二階堂さんがハンカチを貸してくれた。
「ありがとうございます、二階堂さん、石原さん」
 僕の目から涙があふれ出る。
「あー、あー、ギターな。おれも石原もオトピチちゃんのストリートライブ観に来たんだけどなー。せっかく放送室を花札にまかせて来たってのによー」
 二階堂さんは「やれやれ」と肩をすくめる。
「ま、今度聴かせてもらうコトにするわ」
 僕はハンカチを手に握ったまま、喋っている二階堂さんに目を合わせられないでいた。僕の視線は、破壊されたアコースティックギターに向く。
「坊ちゃま」
「ん、そうだな。……ほんじゃオトピチちゃん、ここじゃなんだからよ、マック行こう、なんでもおごるぜ」
「でも……」
「いーのいーの、ゴミ片付けは駅員さんのお仕事だからよ、……たぶんな」
 そして僕と二階堂さん、石原さんはマクドナルドに行くコトになった。
 僕はマックの店内で、ここ一週間近くのストリートライブを巡る話を、二人に聞いてもらった。特に僕の曲『兵士の歌』についての話を、二階堂さんは気に入ってくれた。
 いなくなったトウコちゃんのコトが気になったが、それを除けば、僕はすこし、気が収まったような、そんな気がした。


   ***


『健全なる悪意は、健全な肉体にこそ宿る』
 それが、僕の持論だ。
 僕の大切な、大切な、大切なギターを破壊した杉山田。あいつは健全な肉体を悪用する。だから、悪意も肉体と同様、健全にまっすぐを向いて発動する。それはだから、僕が中学二年生の時に経験した、前田という男とのいざこざと同じ種類の悪意なのだ。
 前田。前田ヒデノコ。僕が大江中学校二年四組だった時に同校三年四組だった、先輩。
 あの健全な悪意の持ち主前田とその取り巻き連中が僕にした仕打ちは、僕の人生最悪のモノだったし、奴らが僕にしたコトは公にはならなかったものの、みんなの人気者前田に嫌われるという事実は、その中学校全体の人間に疎まれるというのと同義だった。前田との一件から、僕は完全に嫌われ者となり、高校生になってからも、僕と同じ大江中学校から進学した人間からの評判から、いじめられるコトが決定した。僕はいわゆる『高校デビュー』に失敗したってわけだ、畜生!
 あの二年の冬。ガッコウのトイレで便器を舐めさせられた時、そしてその後の、目を背けたくなる、今だって思い出したくもないあの出来事からの呪縛から、僕は逃れられないでいる。なんだって僕はこんなに悩まなくちゃならんのか。考えただけで吐き気がするのに、考えるコトから逃げられないこの状況。吐き気がするのが、いつの間にか僕のデフォルトの感情になっている。僕はこんなにも、うららかな気持ちでギターをストロークをしたいのに。今はもう、弾くための楽器すら奪われた。どうすりゃ良いってんだ、これから。

「兄上。夕飯が冷めてしまいますよ」
「ああ、わりぃ」
「なにか、考え事でも?」
「まあな」
「ああ、そうそう、そうでした。兄上、今日は父上が帰ってきますよ」
「げっ! 何時頃?」
「今は七時半過ぎですから、もうそろそろか、と」
 ツイてねぇぜ。なんだって僕がギターを破壊されたって日に帰ってきやがるんだ、あのクソ親父。だが、分かってるんだ、ガッコウを休んでる以上、親父と言い合わなくちゃならねぇ日が来るってコトが。ただ、その日が今日だってのは、やっぱキツい。あー、会ってなんつえば良いってんだ?

 僕とピヨヒコが夕飯を終え、当番のピヨヒコが食器を片付け始めた時、僕は一足先に自分の部屋に戻るコトにした。リビングを出て、二階への階段を上りに玄関前まで行くと、玄関の外に、大きなシルエットが見えた。
 チッ! 親父、帰ってきやがった。
 僕が玄関の鍵を開ける。すると、そこには黒い革の鞄を持った、白フンドシの大きな男が、仁王立ちしていた。
 僕は、絶句した……。

「座れ、オトピチ」
「はい」
 夕飯の食器を片付けたリビング。僕と、親父の水野キョウゾウは、対面して座布団に座るコトになった。親父はもちろん、フンドシ姿だった。
「鬼頭さんから聞いたぞ。おまえ、高校を無断欠席しているのか」
 鬼頭とは僕が通っている大江高校の教頭で、親父の友人だ。
「…………」
「おまえ、自分がどういう境遇にいるか、分かってないようだな」
 自分がどういう境遇にいるか、僕は分かってるつもりだ。このクソ親父に総てを握られているって境遇が、さ。
「おまえ、繁華街の駅でギターを弾いてるそうだな」
「ええ、歌は、僕の夢ですから」
 僕はびくびくしながらそう言って、自分で自分の首を絞めてるような気がしてくる。いや、それは正しかった。なぜなら、親父は手元にいつものように置いてあった日本刀を手に取り、鞘を抜いたからだ。
「高校には行け。大学に行く費用は出してやろうと私は思っているのだぞ。嬉しいとは思わんのか? あ? どうなんだ」
 親父は首を鳴らし、手首も回して準備をする。何の準備か。それはもう決まっていた。僕を痛めつける準備だ。
「僕は、……僕はギターを弾いて歌が歌いたい! それだけなんだよっ、親父!」
 僕が声を振り絞ると、親父は一瞬笑った。
 そして。
 笑いと同時に。
 僕の左手首を。

 日本刀で斬った!

「うぎゃあああああああぁぁぁぁぁぁぁ!」
 血が飛び出る。左手から、左手の、手首から、血が飛び出る。だらだら出るのではない。本当に『飛び出る』のだ。そ、そうか、手首には動脈が通っているからか、だからなのか!
 僕は右手で左手首を押さえつける。しかし、当たり前だが出血は止まらない。痛い。痛い。痛い。痛い痛い痛いィィィ!
 しかし、血は飛び出る。なんだ、これ。僕は、し、死ぬのか。畜生!
 親父に目をやると、親父はゆっくりとした動作で日本刀に付いた血をティッシュで拭き取り、鞘に仕舞う。
 仕舞うとそのまま、僕の方は顧みずに部屋を出て行く。奥の自室に戻るつもりなのだろう。
 僕は、泣く。痛いからなのか。それもある。しかし、それだけではない。僕は気づいたのだ。そう、僕が斬られたのは左手。
 つまり。
 親父は、ギターのフレットを押さえる手の手首を、斬ったのだ。
 もし僕が生きていても、ギターが弾けないように、左手の手首を斬ったのだ。
 ああ、なんてこった!

 …………。
 血が散乱したリビング。僕は一人でうずくまる。血は、なぜか止まった。人間というのはすげぇんだな、と思った。生きてる。僕は生きてる。とりあえず、それだけで良しとしよう。
 僕が正面に目を転じると、そこにはピヨヒコが立っていた。
「兄上。救急車を呼びましょうか。それとも、霊柩車を呼びましょうか」
「……ピヨヒコ、おまえ面白くないぞ、そのジョーク。救急箱持ってこい」
 涙顔のまま、僕はツッコミを入れる。
「了解しました」
 僕は安堵する。ピヨヒコがジョークを言うくらいだ、たぶん、僕は死なない。それが分かった。
 小走りで救急箱を取りに行ったピヨヒコが、そのまま小走りで戻ってくる。
 ピヨヒコが僕の前で救急箱を漁る。
「お待たせしました、兄上。これが包帯です」
「ああ、サンキュ。……って、これは包帯じゃなくてフンドシじゃんッッッ!」
「面白いですか」
「七十点」
「……………………」
「……………………」
 そして、僕は死なずに済んだのだった。


   ***


 次の日の朝は、なにもなかったかのように訪れた。親父は会社に行き、ピヨヒコも中学校に登校した。
 僕は家に、一人で居る。知ってるさ、僕もガッコウに行かなくちゃならないコトくらい。しかし、足が動かない。両足が、震える。登校拒否の人たちがどういう状態になってガッコウに行けないかが、分かった気がした。
 お茶を飲む。日本茶。急須を持つ手も震えた。
 怖い。なにが怖いのかは分からないが、とにかく、怖い。なにもしたくない。
 布団にくるまっていると、玄関のチャイムが鳴った。どうせなにかの勧誘だろう、無視しよう。そう思った。すると、良く徹る腹式呼吸で、「オトピチちゃ〜ん、ママよ〜ん!」と声がする。そのまま、連続で同じフレーズを連呼する女性の声。よほどこのフレーズが気に入ったのだろう。たまに自分で言っておいて吹き出してる音もする。声でなんとなく誰だか分かった気がした。僕は布団から起き上がり、玄関口に向かう。
 ドアを開けると、一陣の風が吹いた。
 風の中、目をこらす。すると。
 目の前に立って僕を呼んでいたのは、狐。
 小島恵美子、エミーだった。
「ここがオトピチちゃんの家ね。ふ〜ん」
 恵美子は辺りを見回す。
「なんの用だよ、恵美子」
「見てみそ、見てみそ」
「その表現、古すぎるよ」
 と、ツッコミを入れつつ僕は恵美子が指を指す、恵美子が背負っているモノを見る。
 それは、ギターのソフトケースだった。
「ホントはこれ、ハードケースに入ってるんだけど。オトピチちゃん仕様で持ち歩きやすいようソフトケースに入れてま〜す」
 キモい。非常にキモい。なんか、恵美子がニコニコ顔で喋っている。だが、僕は、ケースから目が離せない。なぜならそれは、アコースティックギターのケースだからだ。
「じゃじゃ〜ん」
 擬音まで繰り出し恵美子がソフトケースを開けると、そこには高級なエレキアコースティックギター、つまりエレアコがあった。
 オベーション。この機種は、アコギ弾き憧れの一品だ。確かに、もっと高いアコギの種類は山ほどある。しかし、オベーションのエレアコは、値段の問題ではなく、ギターキッズの憧れなのだ。もちろん、これだって僕のアコギが四本くらい買えるような値段のモノだ。
 僕は、恵美子が手に持つエレアコを凝視した。
「わっかったかなぁーん、オトピチちゃん」
「いや、わかんねぇが」
「これを、私が貸してあげま〜す」
「マジっすか」
「マジっすよ」
 そこで身を乗り出す僕を、恵美子は手で止めた。
「もっちろーん、交換条件が、あっりまーす」
 当たり前の話だった。恵美子というのは、善意の人ではないのだ。当たり前過ぎる。
「その交換条件とは! ぱんぱかぱーん。発表します。交換条件は『演劇部に入るコト』! 簡単でしょ。ね!」
 そうきたか。そりゃそうだ、こんなに迅速に行動するのだ、それなりの条件があったとしてもおかしくはない。部活に入るというコトは僕の高校生活を身に差し出すというコトだ。それが交換条件、か。
「悪くないでしょ。それに、オトピチちゃん、リスカしてるし、すぐにはギター弾けないでしょ」
 リスカ? ああ、リストカットのコトか。
「いや、僕にはそんな自傷行為をする趣味はないけど」
「またまたー。あんたみたいなヤンデレちゃんはリスカするもんでしょ。だからホラ、今だって左手首に白いフンドシを巻いてる」
 ヤヨイはくすりと笑う。
「オ・サ・レ・さ・ん」
「ちっがーう! これはただ、包帯がなかっただけだ」
「あらそう、まあ、良いわ。今日、さっそく放課後に演劇部の部室に来てね。授業は出なくても良いから。私だって授業抜け出してここに来たし。そこんとこはルーズに、ね」
 恵美子はエレアコをケースに仕舞うと、押しつけるように僕の胸にギターをケースごと渡し、「ほんじゃね〜」と言って帰っていった。玄関先に残された僕は、エミーが見えなくなるまで、ずっと見送ってしまったのだった。


   ***


 
 家を出る。両足の震えはいつの間にか治っていた。頬を挟むようにはたき、気合いを入れる。春。僕の高校生活は始まったばかりなのだから。
 ガッコウの校庭に着くと、スピーカーから音楽が流れていた。曲は椎名林檎の『りんごのうた』。この曲を選ぶセンス。『りんごのうた』をお昼に流す心意気を、僕は買おう。
 靴箱を入念にチェックしてから上履きを取り出す。たまにカミソリの刃が入っていたりするので。そんな八十年代チックな低脳トラップも、仕方ないものと、僕は割り切るべきなのだ。コンバースのスニーカーを仕舞って上履きに履き替え、僕は深呼吸。そして、そのまままっすぐに放送室に向かう。今は昼休み。教室に行くのは、五限目が始まる頃で良いだろう。どうせ僕と一緒に昼飯を食べてくれる人なんて、教室にはいない。志賀だってたぶんズル休みか、居ても友達と昼食を取っているだろう。邪魔はしない方が良い。

 僕が放送室に入ると、石原さんが「オトピチさん、ご苦労様です」と声をかけてくれた。花札さんも「お、お昼、い、一緒に食べるんだな」と言ってくれた。ここは、僕にとってオアシスなのかもしれない。僕はピヨヒコが朝、作ってくれた弁当箱を広げる。
 テーブルに足を投げ出している二階堂さんに目を転じると、二階堂さんは「ウィッス」と僕にチョップの仕草で挨拶してくれた。そして二階堂さんの視線は、読んでる雑誌『くんずほぐれつ倶楽部』に落ちた。
「おお、これはっ! ふむふむ、大変社会勉強になるなぁ。そう思わねぇか、オトピチちゃんよ」
「いや、ならねぇってば、二階堂さん。それ、エロ本ですからっ!」
「ロマンのないコト言うなや。ささっ、オトピチちゃんも読め読め、バックナンバー揃ってっから」
「読みません」
「え? ホ、ホモ?」
「ちっがーう! ガッコウ内では読まないってコトです」
「ツレないな〜。んじゃ、花札、読めや」
「ママに怒られるから、や、やめとくんだな」
「んじゃ、石原」
「結構です。エロ分の摂取は足りてます故」
「なーんだよ、みんなしてよー」
 とか言いつつ爆笑する二階堂さん。それにつられて全員が爆笑。僕も爆笑。ここは、平和だ。僕の居場所、と思っても良いのかもしれない。ただし、昼休みだけの、オアシスなのだけれども。

 自分のクラス、一年二組に入る。五限目の授業が始まるまで、クラスの至る所から好奇の視線が集まるように僕には思えた。自意識過剰なのだろうか。「知ってるか、ブタ川って下手くそな歌を路上で歌って喜んでるんだぜ。愚かだよな」「ブタ川って体育の朝倉とヤッたんだって」「うわっ、キモ〜い」とか、僕に聞こえるようにうわさ話するクラスメイトたち。完全にディスられてる。どうもこれは僕が自意識過剰なだけではないらしい。
 そのまま五限目の数学が始まりクラスメイトの声は止んだが、僕は授業の内容が全然頭に入らなかった。五限目が終わりまた休み時間になっても、僕はハブられているので、会話なんてする相手が居ない。なのでそのまま教室内の罵倒に耳を澄ます。なんでこんなにディスられなくてはならないのか。そういや杉山田の顔が見えない。休みなのか。馬鹿でも風邪を引くのだろうか。休み時間をじっとしてやり過ごすと、六限目の生物の授業。そういや僕はガッコウをサボっていたので、わけがわからないのだった。これは単に頭に内容が入ってこないだけではない。入ってきたって分かるわけがない。家では教科書を広げるコトすらしなかったので、当然と言えば当然だった。数学も生物も、知らない外国語を聴いてるかのようだった。
 授業が全て終わると、ホームルームの時間になった。担任で世界史の笹井が教室に現れる。笹井はクネクネ動きながらどうでもいいコトをべらべら喋る。最後に「水野ぉー、ホームルーム終わったら私のところに来るっしょー」と言って、ホームルーム終了。僕は壇上の笹井のところに行く。
「水野ぉー、四月からいきなりサボりはマズいっしょー。一回親御さんに会うコトになるっしょー」
 親御さんに会うコトになるっしょー。これはつまり、母親が別居してるので、僕の親父、水野キョウゾウに笹井が会う、というコトだ。これはヤバい、と思った。下手すると奴はモンスターペアレント野郎になる(でもまあ、僕が家で親父に受けてる虐待まがいのコトを考えると、モンスターペアレントってのもヘンな話だが)。で、だ。ガッコウを休んだのは僕だからそれは良いとしよう。しかし、もしも僕がいじめられてるコトを奴が知れば。考えたくもなかった。笹井の首が飛ぶのは明白だ。別に笹井のコトなんかどうでもいいが、でもそんな状態になるなんて、考えたくもなかった。気持ち悪い結果となるのは目に見えている。
「すみませんでした。これからは、授業に出ますので勘弁して下さい」
「分かれば良いっしょー。手首にフンドシ巻き付けて水野ぉ、お洒落さんなのは良いけど、あんまり頭に血が上る性格ってのは、どうにかした方が良いっしょー。それも気をつけるっしょー」
 そう言い残し、笹井はクネクネしながら教室を出て行った。どうにか、問題にならずに済んだので、ほっと胸をなで下ろすコトが出来たのだった。

 放課後が訪れる。今度は演劇部へ行かなくてはならない。場所は知っている。旧体育館裏の建物が、演劇部の部室となっている。入学した直後、学校案内で行ったコトがあるので、迷うコトはないだろう。
 演劇部部室に行くには一旦校舎を出て外から行く。なので僕は昇降口に向かう。
 一年一組を通り過ぎようとしたその時、一組の教室から男子生徒が三人、僕を待っていたかのように出てきた。三人中二人は知らない生徒だが、一人は髪型から分かった。パイナップルヘッド、金城だった。
「調子に乗ってんじゃねぇぞ!」
 パイナップルヘッドはそう叫んで僕の顔面を殴りつけた。杉山田よりは威力は弱いものの、僕は殴られてよろける。そこに生徒二人が両サイドから僕の方を掴み、僕を引き摺るように一組教室に連れ込む。パイナップルヘッドも僕を押し込む。反撃する隙もなかった。
 一組の教室。僕は初めて入るのだが、「へー、ここが一組の教室かー」とか言ってる状況ではなかった。一組に入ると同時に僕は突き飛ばされ、転んでしまう。一組には、僕たち四人しかいない。ああ、そっか。剣道の授業の時のコト、こいつまだ根に持ってやがるんだな。
 教室の中、パイナップルヘッドたち三人は無言で転んだ僕を蹴る付ける。ひたすら蹴りつける。僕も無言で蹴りつけられ続ける。悲鳴を上げるヒマは皆無。
 最後に鳩尾を蹴られ、吐き気を感じ「おえぇっ!」と漏らし僕がうずくまったところで、蹴りつけ終了。
「これからは身の振り方に気をつけろ、ブタ川。手首にフンドシなんか巻き付けやがって。オサレさんかよ。不細工が調子に乗るとむしゃくしゃすんだよ、タコがっ!」
 ブタなんだかタコなんだか、混乱するので出来ればどっちか一つに決めて欲しかったが、もちろんそんなコトを言う余裕はなかった。パイナップルヘッドたち、すなわちパイナップルヘッズが出て行った一組の教室で、僕は数分間うずくまり、痛みが引けたところで洗面所へ向かった。吐くのと顔を洗うためである。
 学生ってのもラクじゃねぇな、ったく。畜生がっ。


   ***


 思いがけなくボロボロになりつつも、演劇部部室に到着する。建物を改めて見ると、大きな建物であるコトに気づく。古い建物ではあるが、町の集会場だ、と言っても信じてもらえるような、大きな木造建造物だ。
 僕はさっそくノックをして扉を開け、入る。鍵はかかっていなかった。
「お帰りなさいませ、ご主人様!」
「はい?」
「……じょ、冗談よ! ようこそ、演劇部へ」
「はあ」
「だっ、だから冗談って言ってるでしょっ! お姉様がメイド喫茶の真似しろって言うからやってあげただけ! 勘違いしないでよねっ!」
 わけわかんねぇ。
 なんかいきなりで笑う余裕すらなかったが、どうやらギャグをかましたらしい。ギャグをミスった少女は巻き毛の女の子で、今は完全に不機嫌モードに入ってるようなので無視して部室の中に入るコトにした。そういやこの女の子、どこかで会った気がする。
 中に入ると、部室は広かった。床は木で出来ていて、部屋の奥には古そうな木製のテーブルと、これまた古そうな椅子が何脚かあった。空気は埃っぽい。埃っぽいが、掃除は行き届いてるような印象だ。物が、きちんと整理されている。
「ようこそ、オトピチちゃん」
 椅子から立ち上がり、小島のエミーが背筋を伸ばし、言う。背筋を伸ばすものだから、大きな胸が強調される。ぷるるん。そんな擬音が似合いそうな。
 恵美子の向かい側の椅子には二人の女生徒が座っていて、湯飲みで何かを飲んでいた。二人ともこちらを向いて、お辞儀をする。僕もお辞儀を返した。
 そして、テーブルの奥。椅子に座ったツインテールの女の子が一人。
 ここには場違いな、小学生の女の子。
 小島トウコ。
 トウコちゃんが、座っていた。
 ああ、そっか。巻き毛の女の子は、トウコちゃんを迎えに来たコトが何回かあったから覚えてるのか。それにしても。
「恵美子。なんで小学生がここにいるんだ?」
 僕はトウコちゃんを指さし、恵美子に訊く。
「気安くお姉ちゃんに話しかけないで、不細工なお兄ちゃん。それと、お姉ちゃんを呼び捨てにしないで、不細工なお兄ちゃん」
 そんなに何度も不細工と連呼せんでも。
 オベーションのためにここに来た僕。
 いじめられっ子の僕がここにいたら、みんな迷惑なんじゃないだろうか。
 いや、そうにちげぇねぇ。
 早計か。
 僕に、演技なんて出来るのか。
 いろんな想念が渦巻く。そんな呆然とする僕を、見透かしたかのように恵美子が狐のような仕草で口元をつり上げて見る。
 沈黙が訪れる。
 沈黙を破ったのは、湯飲みで何かを飲んでいた女の子の一人だった。
「オトピチさん? オトピチさんて言うんですぅよぉね〜。オトピチさん〜、なんで左手首に白いフンドシを巻いてるんですぅかぁ〜?」
 ヤヨイが応える。
「リスカよ、リスカ」
「ええ〜! せっかく神様から貰い受けた命を、粗末にしてはいけませんですぅ〜!」
「ちっがーう! 断じてリスカじゃない!」
「ふふっ、そうね。オトピチちゃんはフンドシフェチなだけですものね」
「ええぇぇ! フンドシの男性がぁご趣味のぉ、アブノーマルな方なんですぅかぁ! 変態さんなんですぅかぁ!」
「毎晩このフンドシの臭いを嗅ぎながら、オトピチちゃんは妄想にふけるのよね」
「お姉様! そんな変態を仲間にしてはいけません!」
 巻き毛の女の子が走って来て会話に加わった。お姉様とは恵美子のコトだと知る。
「はあ。全くタラミったら。良いじゃない、フンドシフェチくらい。そのくらいなんだってのさ」
 湯飲み片手に最後の一人も会話に加わった。
「あら、ワカメさん。やはり変態の貴女には親近感が沸いてしまうのでしょうけれども、演劇部に変態は貴女一人で十分だ、と私は言いたいのですわ」
「なんだとぉ! わったしは変態じゃなーい!」
 ていうか僕も変態じゃないんですけど。
「はいはい。フンドシ談義は置いといて。このド変態オトピチちゃんは、今度の週末の、県北地区合同講習会から演劇部の一員となります。みんな、仲良くするように」
「納得出来ませんわっ! お姉様の言いつけとは言え、納得が出来ませんわっ!」
「そうね。そうでしょうね。分かったわ」
 恵美子はニヤリと口元を歪めた。
「オトピチちゃんには、今から即興で、一分間のショートコントをやって貰います。それで、判断してもらいましょ。良いわね、みんな。……それに、トウコも」
「分かったわ、お姉ちゃん」
 トウコちゃんは頷く。他の三人も無言で頷く。
 なんか、これはヤバいコトになってしまった気がするが。
 僕は、即興で一人コントをするハメになってしまったのだった。

「一人だけ舞台上にいるのもなんでしょうから、私がとっておきの小道具を使うコトを許可するわ」
「とっておきの小道具? そりゃなんだ、恵美子」
「これよ!」
 どこから持ってきたのか、恵美子はいびつな人型のモノを手に掲げた。
「我が校の演劇部に代々伝わるぬいぐるみ、ダッチなワイフの『南極さん』よ!」
「…………」
 それ、ぬいぐるみじゃないから! ってか、モロにいかがわしい用途のアレなんですけど! 大丈夫か?
 が。しかし絶句したのは僕だけで、部員たちはダッチなワイフの南極さんの登場にパチパチと拍手をする。
 つーか、これ小学生のトウコちゃんに見せちゃアウトだろ……。
「シンキングタイムは五分間。さあ、五分の間にコントを考えるのよ! 否! 考えるな! 感じろ!」
 この場合、ブルース・リーの有名な台詞を引き合いに出しても格好良くないからっ!
 僕は仕方なしにコントを考える。いつになく恵美子が饒舌なのはアレだろうか。これが『狐憑き』というモノなのだろうか。まあ、そんなんは良いから、コントを考えねば。

 僕はストリートライヴ前の日の夜の時と同じくらいの緊張感で、コントを考えた。

 …………。
 …………。
 よし、出来た!

「はーい、五分。シンキングタイムしゅうりょ〜」
「良し。イケるぜ!」
「じゃ、やってみて。舞台は、バミリの線が引いてある、そこの空間よ」
「よっしゃ!」
 冷静に考えると、僕はなんでこんなコトに躍起になってるのか。よくわかんねぇが、やるしかない、そう思った。

 ショートコント、開始!

 僕はダッチなワイフの南極さんに話しかけるようなスタイルでコントを展開する。
 あらすじはこうだ。僕はプロのミュージシャン。自宅であるボロアパートに帰ってくると、ドアの前に女の子(南極さん)が座っている。その子(南極さん)は、僕の追っかけの子なのだ。「家の前に来るなんてルール違反だろー」とか言いつつ、僕は追っかけの女の子(南極さん)を追い出そうとする。もちろん、南極さんは人間ではなくダッチなワイフなので動かない。仕方なく、僕は調子っぱずれな歌を歌ったりステージパフォーマンスを再現してみたりして快く女の子(南極さん)に帰ってもらおうとする(この歌やパフォーマンスがギャグなのだ!)。しかし追っかけの女の子(南極さん)は微動だにしない。最終的には根負けした僕が「やっぱおれ、才能ねぇのかな」と悲しそうに言って、エンド。そういう筋書きだ。

 僕はダッチなワイフの南極さんに向かい、必死に役を演じた。これは僕が小学生の時、クラスの出し物としてクリスマスにやった劇以来の、久々な演劇体験だった。思えばあんときゃまだいじめられてなかったんだよなぁ。

 とにかく、僕は上手い具合に演じきるコトが出来た。しかし、コントにも関わらず、笑いは起きなかった。
「ふーん。まあまあじゃない」
 巻き毛の女の子が、そっぽを向いて言う。
「面白かったぁですぅよぉ」
 湯飲み一号の、ふわふわした口調の女の子が、言う。
「やってくれるじゃない! べらぼー良かったぜぃ!」
 湯飲み二号が言う。よく見ると、この子はなぜか制服を腕まくりしている。
「どう、みんな? 演劇部にこの人材を入れるかどうか」
 ヤヨイがみんなを見渡す。すると、
「つまんなかった!」
 トウコちゃんが、大声を出す。
「全然つまらなかった! 南極さんがかわいそう!」
 トウコちゃんは叫んで、走って部室を出て行こうとする。
「トウコ……」
 恵美子がつぶやく。
 僕はコント後の息切れで、わけがわからない。
 トウコちゃんが出入り口に到達し、扉を開けて外に駆け出そうとすると、人とぶつかった。扉の向こう側に、大きなクマのような人が立っていた。その人にトウコちゃんはぶつかったのだ。トウコちゃんは尻餅をついた。
「いったーい!」
「ああ、悪いな、トウコちゃん。大丈夫か」
 クマのような男は、低い声でそう言うと、トウコちゃんに手をさしのべ、立たせた。それから、部室に入ってきた。
「先生。どうでしたか?」
「おお、小島。おれがずっと外にいたのに気づいていたか」
「ええ」
「なかなか、良かった。よっしゃーって感じだ。さすが、おまえが見込んだ男だな」
「?」
 僕が頭の上にはてなマークを出していると、
「あなたのコトなんて、全部お見通しよ。こちら、顧問の片瀬ヨシヤ先生。三年の古文を教えているわ」
「あ、どうも、水野オトピチです」
「水野、な。こちらこそよろしく。好きなら南極さん、持っていって使っても良いぞ」
「いりません」
「ははは。よっしゃーって感じだ、な」
「はあ」
 片瀬先生とのトークを遮るように、恵美子が一枚の紙を僕の前に突き出す。
「これ、入部届。今更入らないなんて言わないわよね?」
 僕は一瞬ひるむ。トウコちゃんを横目で見やると、唇をかみしめている。そんなに僕が嫌いなのか。でも、僕は。
「ああ、入るよ」
 入部届にサインをした。
「よろしい」
 恵美子がニヤリとする。
「そんじゃ、軽く紹介しとくわ。このくるくるの髪の子が、タラミ」
「よろしくですわ、ご主人様。……なんてね」
 巻き毛のタラミちゃんがスカートの裾を持ってお辞儀をする。僕もぺこりと頭を下げた。
「この天然娘が、プニコ」
「よろしくお願いしますでぇすぅ」
 プニコちゃんはなぜか手を振る。僕も手を振り返した。
「で、この似非江戸っ子が、ワカメ」
「よろしくでぃ!」
 制服を腕まくりしているワカメちゃんは、親指を突き上げた。僕も親指を突き立てる。
 なんかこうして紹介されると、賑やかそうなメンバーだなぁと、そう思った。
「さて。紹介が終わったところで、とりあえず今日の顔合わせは終了。次は、今週末の県北地区合同講習会よ。そこで学んでから、オトピチちゃんには部活動に参加してもらいましょう」
「お、おう!」
「講習会から帰ってきたら、またショートコントをしてもらいましょ。ね、トウコ」
「どうせ不細工なお兄ちゃんは不細工な演技しか出来ないもん! 観る価値ないわっ!」
 恵美子はニヤリと狐の笑みをする。
「それはどうでしょうね、ふふ」
「よーし、じゃ、いつものやっとくかぁー!」
 クマが叫ぶ。いや、片瀬ヨシヤ先生が叫んだ。
「勝ったぜーっ、よっしゃーっ(かたせー、よしやー)!」
 部員の四人は声を合わせ「勝ったぜーっ! よっしゃーっ!」と復唱し、その場で拳を突き上げジャンプした。僕はなにがなにやらわからなかった。トウコちゃんを見ると、ふてくされていた。

 そして僕は、演劇部と関わるコトになったのだった。


   ***


 僕は駅前の喫茶店『黒うさぎ』で当店ご自慢の青森産林檎を使ったアップルティーを飲んでいた。手には分厚い本。テーブルにはさらに何冊かの本を置く。
 僕は、週末の、泊まりがけの講習会とやらの前に、予習をしておこうと思い、ガッコウの図書室で演劇に関する本を借りた。放課後の今、それを読んでるわけだが、なんだか予習をするなんて、僕の柄に合わねぇな、と少し恥ずかしげになってる最中だ。
 今借りてる本は、僕が選んだわけではなかった。

 ガッコウの奥の方、光のあまり当たらないところに、図書室はあった。僕はマンガと雑誌以外、普段全く本を読まない。なので図書室なんて場違いなところに自ら入ろうなんてのは、人生初のコトだった。
 僕は恐る恐る中に入る。
 静寂。たまに本をめくる音や、誰かの咳、歩く音や椅子を引く音などが聞こえるだけだ。その音等は、通常は気にならないような音なわけで、ここがそれだけ静かな場所ってコトなんだな、と思う。
 貸し出しカウンターには、椅子に座って本を読んでる女の子が一人。タイトルは『複製技術時代に於ける芸術作品』。著者名が外国人で、タイトルと横文字作者からして難しそうな雰囲気を醸し出す本である。僕はその難しそうな本を読んでる女の子に、勇気を絞って声をかけた。なぜ勇気を絞ったかというと、本なんて読むのは気むずかしい人に決まっているからだ。
「あのー」
「はい?」
 女の子は視線を本からずらし、僕を見る。至近距離で見ると眼鏡をかけた可愛い子だってのがわかる。女の子は僕を見ると僕の顔を指さし「あっ!」と言った。それから、図書室で大きな声を出してしまったからか、口を手で押さえ、周囲を見やる。
「あなた、水野さん、ですよね。水野、オトピチさん」
 この子、僕の名前を知ってる。なぜだろう。いじめられてるからか。
「そうです」
「ホモの」
「ちっがーう!」
 今度は僕が大声を出し、口を手で押さえる番だった。
「冗談ですわん。オトピチさんの武勇伝は聞いていますわん。剣道の授業中に竹刀を投げ捨てて相手と闘ったとか、ガッコウを休んでストリートライヴをしてたとか、あの放送委員会でまともに仕事をしてるとか。それに」
 女の子はクスリと笑い、グーの手を口元に充てる。
「狐憑きのエミーさんに気に入られてる、とか」
「…………」
 気に入られてる? それは誤解だと思うのだが。ま、それはおいといて。
「すみませんが、あの、僕、こういう場所の勝手が分からなくて。本を借りたいのですが」
「どんな本を?」
「演劇の」
「へー。エミーさんとは、上手くいってるんですのん?」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「うふ。冗談ですのん。聞いてますよ、オトピチさん、演劇部に入部したんですよね。ガッコウ中の話題ですわん。『あの』演劇部に男性が入部したの、久々らしいですから」
「そう、なんですか」
「私はチハル。ここの委員長をやってますのん。学内で劇をやる時は、是非とも呼んでくださいね」
「あ、はい」
「それじゃ、本を何冊か見繕いますので、ここに座って待っててくださいですわん」
 そして僕は、なぜか貸し出しカウンターに座って待つコトになった。
「すみませーん、これ借りたいんですけどぉ」
 僕を図書委員会と間違えた生徒が、貸し出しカウンターに分厚い本を何冊か置いた。そして、その生徒と僕は、目があった。
「あ、おっまえはっ。オトピチちゃんじゃね?」
「二階堂さん」
「これはなにか? 放送委員会に対する背信行為か? 図書委員会に浮気か」
「い、いや、違いますってば」
「あ、わかったぜ! 俺様のチハルちゃんを奪いに来たってわけか!」
「え? 二階堂さんとチハルさんはそういう関係なんですか」
「ちげーよ。世界中の可愛い女の子は、おれの物なんだよ!」
「オトピチさん、持ってきましたよ」
 そこに上手い具合にチハルさんが戻ってくる。
「あら。二階堂さん」
 チハルさんを見て、二階堂さんはニヘラ、と破顔した。

 僕は時計を見る。もうこの喫茶店に陣取ってから、二時間が経過した。さすがに帰らないと。家で読むか。しかし、家で読むのは気が進まないなぁ、と思う。そもそも演劇部に入部したのは親父に内緒にしておくつもりなのだ。いつまで内緒に出来るかは微妙だが。そんな中、演劇の本なんか読んでたらそわそわして仕方がなくなるだろう。演劇部に入ったコトは、親にバレる。その時、僕はどうすれば良いのか。部活なんて、あのクソ親父が許すわけがないのだ。チハルさんの話だと僕が入部したのはガッコウ中に知れ渡ってるらしいし。今度は手首を斬られるようなコトじゃ済まないだろう。
 僕はため息をつき、「なんとかなるだろ」と思うコトにした。


   ***


 土曜日。天気は曇り。午前七時。大江高校校門前。僕と演劇部の面々は、マイクロバスを待っていた。僕の横ではプニコちゃんがいちごポッキーをリスのような仕草で食べていた。
 僕は目の前で腕を組んで、足でリズムを取りながら鼻歌を歌っている恵美子に後ろから話しかける。
「トウコちゃん、今日は来ないんだな」
 恵美子がこちらを向く。
「あら、ロリコンなオトピチちゃんは小学生女子を毎日見ないと落ち着かないのかしら」
「ちっがーう! ただ、なんとなくだよ。いつも、いるみたいだからさ」
「あの子は、演劇部の部員じゃ、ないわ」
「ま、まあ、そうだけどさ」
「来たわ」
「へ?」
「バスよ」
 マイクロバスは到着した。ずいぶんと小綺麗なバスだ。よくこんなの呼べたなー、と思うが、部費で落ちるらしい。演劇部の部費は、結構あるらしいので。チハルちゃんによると、「うちの高校の演劇部は、五年くらい前までは名門だったんですのん。バスを呼ぶくらいの部費はあるはずですわん。でも最近は部員がいなくてつぶれかけてたんですのん、厳しかったんですわん、練習が。そのつぶれかけてたところに、狐さんが現れて、立て直したんですのん」だ、そうだ。
 名門、か。
 僕らは、マイクロバスに乗る。
「ほら、プニコさん、出発しますわ。早く乗りなさい」
 バスに乗ったタラミちゃんが窓から外にいるプニコちゃんに言う。
「ちょっと待っててでぇすぅ。お写真撮ってから乗るんでぇすぅ」
「いいから早く!」
「ベストショットがぁ、まだベストじゃないんでぇすぅ」
「お姉様からも一言お願いします。プニコさんは自己中だからいけませんわ。物事はもっと俯瞰しないといけないんですのに」
 恵美子は狐にしては優しい目つきで窓の外のプニコを見る。
「でも、物事を俯瞰するのは、私の役目よ」
 俯瞰。僕には難しい言葉だが、なんとなく意味は通じる。でも、『狐憑き』が俯瞰か。僕にはよくわかんね。ま、いっか。
 そんなやり取りがなされていると、バス車内にハウリングノイズが鳴り響く。続いて、マイクからの声。
「えー、それでは長らくお待たせしました。これから、柄谷山合宿場に着くまでの間、このあたし、ワカメによりますナウ・ソング・ショウをお楽しみ下さい! まずは一曲目。『津軽海峡雪景色』。ご堪能下さい!」
 いきなりワカメちゃんによるカラオケが始まる。
「いや〜ッッッッ! 演歌なんていや〜ッッッッ!」
 そういう問題なのか。叫んで耳を押さえるタラミちゃん。無視する恵美子。そこに、写真を撮りおわったプニコちゃんがバスに乗ってきた。てか、まだバスは発車すらしてない。
 プニコちゃんは車内に入るとすぐに近くに設置してあったマイクを掴む。
「ワカメさんばかりズルいでぇすぅ。私もお歌歌いたいでぇすぅ。私はぁプリキュア歌うでぇすぅ」
「こらっ、プニコ! あたしまだ歌ってる途中なのにマイクで喋るなっ!」
「プリキュアが良いでぇすぅ!」
「いや〜ッッッッ!」
 ああ、騒がしい。僕と相席になった恵美子の方を見やると、恵美子は寝息を立てていた。慣れたもんだな。思わず感心した。

 横で寝息を立てる恵美子を、僕は見る。確かにその姿は狐のそれだけど、この人が美人なのもまた事実だ。縁なし眼鏡の奥の瞳に、なんだかんだで吸い込まれそうになっている自分がいるのも事実で。
 いや、だからなのか。だから僕は演劇部に入り、一泊二日の合同講習会に参加するのか。それだけなのか。僕のギターは破壊された。そこに恵美子がオベーションのエレアコを持ってきてくれた。それが始まりだったとして、それだけで高校生活を一変させる部活というものに参加して、そんなんで良いのか、僕は。ガッコウでいじめられてて居場所がなくて。委員会に居場所を見いだそうとしてる僕がいて、でも委員会は仕事の時しかいられないから。だから。だからなのか。その代替としての部活動なのか。
 ……わけわかんねぇ。
 この際、くだらない自問自答は、やめよう。僕はただ、やりたいと思ったから、ここにいるんだ。それで良いじゃん。

 僕はため息を吐いた。すると、それに反応して、目をつぶったまま、恵美子が僕に話しかける。車内ではまだ、ワカメちゃんが歌を歌っている。
「あなたのコトなんて全部お見通しよ。トウコのコト、訊きたいんでしょ?」
 僕は窓の外を見ながら、頷く。
「ああ」
「トウコはね」
 恵美子は尚も目をつぶったままだ。
「あなたと、同じなのよ。きっかけがあって、それからガッコウでいじめられ出した。小学二年生の時だったわ。今は四年生だけど、未だにいじめられてる。そんな子、放っておけると思う?」
「いや」
「優しいのね、オトピチちゃんは。私の場合は、ちょっと違うわ。私は、トウコの演劇の才能に目を付けた。あの子、いじめられたおかげか、ガッコウの外で、外向きの、外にいる時の顔を『演じる』コトを身につけたの。しかも、それを処世術にはせずに。ガッコウでは、むしろいじめられっ子を『演じている』って言った方が良いわね。自分の、みんなへの役割を、知ってるの、あの子。私は、そんなトウコを、無敵の演劇人にしようと思ってるのよ。だから、この演劇部を観に来させてる」
 僕からすれば、それこそが恵美子の優しさだと思うのだが。そう思ったが、そんなの言えるわけない。
「でも。あなたには、友達と呼べる人たちがいるわね。それに、……繋がりのある、他の関係の人たちも」
「…………」
 なんか、見透かされた気分だ。でも、こいつはいつも見透かしたコトを言う。まるで、過去の僕を知ってるかのような。
「ん?」
「もうすぐ、着きそうね」
 恵美子が目を開ける。
 僕が不思議に思ったのは、柄谷山に入るための山道には入らず、市街地を通ってるコトで、しかも、僕らのガッコウではないガッコウ、中上高校の側まで来たってコトで。
 そして、バスはそのものズバリ中上高校の校門前に到着した。校門前には、生徒たちがバッグを持って待っている。
 しかも。
「なぜみんなアロハシャツを着てるんだ?」
「中上高校は服装が自由。アロハシャツはここの演劇部の戦闘服よ」
「…………」
 って、んなアホな。腑に落ちないんですけど。
「知ってるかもしれないけれど、中上高校と大江高校は、ライバル校なのよ。うちの演劇部が廃部寸前になってからは、演劇祭の関東大会進出常連校は、中上高校だけになってるけれどね」
 実はその情報も、僕はチハルちゃんから聞いて知っていた。
「二校合同でバス代を出して、部費の節約。だから、中上高校と一緒なのよ。私と片瀬先生が決めたの」
 僕が「ふーん」と頷いていると、バスのドアが開く。「おはようございます!」と生徒全員で挨拶してから中上高校演劇部の面々が乗ってくる。男子と女子の割合は半々。男女どちらもアロハシャツを着ている。女の子のアロハシャツ姿ってのも、結構良いなぁ、と思った。しかし、中上高校、ね……。
「さっきの話の続きだけど、『演じる』コトに慣れたトウコが感情をむき出しにするのは、珍しいコトなの。感情。パッション。あなたがいれば、トウコのパワーアップにもつながる。感情を意識的にむき出しに出来れば、役者にとっては大きな武器になるのよ。まずはむき出しにするコトを覚え、それから徐々に意識的に行えるようにする。……そうね、感情をむき出しにしてしまうような人物。例えばオトピチちゃん、あなたの場合は……」
 しかし。
 僕は、恵美子の話を聞いてられなかった。
 なぜなら。
 僕の前には。
 バスに乗り込んできた、あの男が乗っていたからだ。
 あの男が。

 血が。
 僕の体中の血が逆流する。

 僕の目の前に、あの男が、立っていたから。
 あの男。
 前田。
 前田ヒデノコ。
 僕の人生を変えた、僕をいじめられっ子に仕立て上げた、前田が、僕の目の前に立っていたのだ!

 殺してやるッッッッッッッッッッ!

 僕が飛びかかろうとするのを、恵美子は制した。恵美子は力を入れ、本気で僕を押さえつける。動けない。なんて馬鹿力なんだ!
「オトピチちゃん」
「でも! 離せよ、エミー!」
 恵美子がどれくらい僕の過去を知っているのかは知らない。かなり知ってるのかも知れない。
 でも。
 僕はこいつを殴らないといけない。そうしないと、いけないんだッッッッ!
 僕と恵美子が取っ組み合いを演じていると、僕の目の前に立っている前田が、目を細めて僕の顔をのぞき込んだ。僕の顔の至近距離に近づき、
「チッ!」
 と舌打ちすると、すぐにその浅黒い顔を背けた。
「前田さん、どーしたんスか」
 中上高校の部員の一人が前田に訊く。
「なんでもねぇよ」
 僕を蔑視しながら、前田はバスの奥の方に去っていった。
 僕は殴らないといけないと思った。
 だが。
 ふと僕の横の恵美子を見て。
 息をのむ。恵美子の僕への視線に気づき。
 僕は、恐怖した。

 恐怖。
 この歳になってここまで恐怖するなんて!
 恵美子のその僕を見据える目は、人を殺める時の顔だったのだ。
 悪鬼。
 そうとしか言えない、その顔つきは確かに『狐憑き』としか表現できない、そういう殺意の籠もったような、人外のモノの顔だった。
 僕は恵美子の顔を見ながら、身体の震えを止めるコトが出来ない。手が、足が、顎が震える。失禁までしそうだ。
 恵美子は僕を見ながら、僕を見ていない。まるで、僕の愚かな魂を見ているようだ。そして、そのまま僕の魂を喰ってしまおうかと思っているようにすら。

 僕は恐怖から逃れようとするように、必死に自分を抑えた。
 怖い。単純に、怖かったのだ。
 このまま前田を殴りに行こうとしたら、その前に僕が死ぬコトになる。そう思った。

「オトピチちゃん」
 僕は全身が震えるような低音で話しかけてくる恵美子に、目眩がした。
「今度の演劇祭、私たちが勝ちましょう。それで、良いわね?」
 僕は掠れた声で、「ああ」とだけ言った。
 僕から手を離した恵美子は「それじゃ。着くまで寝るわ」と言って、何事もなかったかのようにその目をつぶった。
 そしてバスは、再び走り出した。


   ***


 バスが合宿場に到着する。アロハシャツの中上高校の面々が先にバスを降り、ついで大江高校演劇部のメンバーが降りる。僕ら大江高校の部員たちがバスの運転手のおじさんに「ありがとうございました!」と声をそろえて挨拶すると、バスはドアを閉め、走り去っていった。アロハシャツの奴ら、前田たちは挨拶すらしなかった。感じわりぃぜ。
 バスが去ったところで恵美子が腕に付けたオレンジのベイビーGを見る。しっかし恵美子の時計がベイビーGって。似合うんだか似合わないんだか。
「七時四十五分。もうそろそろ始まっちゃうわね。みんな、集合!」
 みんなそれぞれうろちょろしてるところを恵美子が集合をかける。
「わかってるとは思うけれど、一応確認するわね。役者の講習は私とオトピチちゃんが出るわ。タラミは照明、ワカメは大道具・小道具、音響はプニコ。場所は各自、事前に配ったパンフを見て。以上。実践のワークショップでまた会いましょう」
 三人は「はーい」と気の抜けた返事をする。なんか、僕はこのメンバーのノリがわかってきたような、そんな気がした。
「恵美子」
 僕は疑問をぶつけてみる。
「役者の講習には僕と恵美子って、他のメンバーって裏方だったのか?」
「正確には違うわ。公演の時はみんな舞台に上がるわ。裏方は私の親衛隊に任せて、ね」
「親衛隊って……」
「嘘よ。私の友達。でも裏方のスタッフの指揮を取るのはあの子たちなの。役者のセミナーで習ったコトは、あとであの子たちに教えてあげるのよ」
「ふーん」
 なるほどね。
「私たちも、早く行くわよ」
「へいへい」
 そして僕たちは合宿場のホールに向かった。

 合宿場中ホール。僕たちがホールに着いた時にはすでに席が埋まりかけていた。今日、明日の合同講習会に集まるガッコウは、夏目高校、柄谷第一高校、柄谷第二高校、芥川高校、梶井北高校、中上高校、大江高校の七校。この七校が県北地区で演劇部がある高校の全てだ。そして夏の演劇祭では、この七校から二校のみが地区大会である県北大会を突破でき、県大会に進める。七分の二なら確率が高そうだ、と勝手に思っていたのだが、その考えは甘そうだ。だって、ここに集まってる役者連中は、いかにも役者って感じの顔つき体つきをした奴らばかりなのだ。街を歩いていても、こんな役者然とした連中と出くわすコトはない。いつもはどこにいるんだ、こんな奴らは。とにかく、そんな生え抜きの奴らが集っているのだ。
 僕と恵美子が席に着くと、あまり間を置かずに講師が入ってくる。メタボ気味でジャージ姿の男だった。
「良いか〜、それではセミナーを始めるぞな〜!」
 なんつーか、予想はしていたが講師も濃い奴のようだ。
 セミナーは、この国の演劇の歴史から始まった。『新劇』から『小劇場演劇』、いわゆる『アングラ演劇』への流れ、それから『メタ演劇』ブームの話をして、『静かな演劇』と呼ばれるものへと話は続き、その後の、クスリと笑えるような最近の演劇まで、説明がされた。で、僕がなんで今説明を出来るかと言うと、これは図書室で借りた本の何冊かに書いてあったからだ。さすがチハルちゃん、役に立つ本を選べるなんて、すげぇな、ホント。助かったぜ。
 その後も話は多岐にわたり、僕は読んだ本の内容とセミナー内容を頭の中で照らし合わせ、どうにか理解出来たように思えたのだった。僕は頭の中をフル回転させてどうにか話についていけたのだったが、隣に座っている恵美子を見てみると、ぐっすりと眠っていた。頭に入れる気すらねぇのかよ! ああ、これはあれだ、七時集合で、今だってまだそんなに時間経ってねぇし眠いよな、……そう思うコトにした。あれ? でもそーすっと他のメンバーに話を伝えるのって、僕の役目になるんじゃ……。
 それから。セミナーが終わる直前に恵美子はタイミングを見計らったように起きた。話が全て終了すると同時に、講師に拍手をする。恵美子はそれどころか講師に「ブラボー!」とか叫んでる。何も知らぬ講師は涙目で「ありがとう、ありがとうぞな〜!」と返していた。まさか眠ってた奴に拍手されてブラボーとか言われたとは思ってないだろう。ま、どうでもいいけどさ。

「ところでさぁ、恵美子」
「なに」
 セミナーが終わって、立ち上がったところで隣に立っている恵美子に訊く。
「これから部屋に移動とか講師が言ってたけど、僕たちの部屋ってどこなんだ」
「はあ?」
「いや、だから大江高校の部屋だよ」
「あんた、エロゲー脳なんじゃない? 保育園のお泊まり会でもあるまいし、男と女が一緒の部屋なわけないでしょ。エロゲーだったら男が一人女部屋に班分けされるのはお約束だけど。はあ……。大切なコトなのでもう一度言うわ。……このエロゲー脳!」
 う、酷い……。
「部屋割りは他のガッコウとごちゃごちゃに、班になってるから、さっきの『ぞなー野郎』に訪ねると良いわ」
 さっきは「ブラボー!」とか叫んでた癖に、そりゃないよな、ぞなー野郎ってネーミングは。
「それじゃ、ワークショップで会いましょう」
 そう言って恵美子はさっさとホールを出て行った。僕はぞなー野郎に部屋を訊くコトにした。


   ***


 ぞなー野郎が言うには、僕は三号室という所に泊まるコトになっているらしい。僕は着替えの入っているナイキのスポーツバッグを肩からさげて三号室を目指す。どうもここはホテルの部屋みたく合宿場の室内に部屋があるのではなく、長屋みたいな建物が離れに連なっていて、そこが宿泊施設になっているらしい。僕はホールのある合宿場本館を出て、敷地内の雑木林を歩く。
「あった。ここが三号室か」
 僕が独り言を漏らすと、後ろから声がかかる。
「おい、オトピチ」
 僕は背筋が凍った。凍ったが、それは恐れと怒りとが入り交じったものだった。この声を、僕が忘れるわけがない!
「わしのコトを忘れた、とは言わせねぇ」
 僕は振り向く。
「前田……、ヒデノコ……ッッッッ!」
「チッ。覚えてるじゃねぇか」
 アロハシャツ姿の前田は舌打ちする。アロハシャツは赤い金魚柄で、手には缶コーヒーを持っている。自販機に買いに行ったのだろう。しかし、僕に声をかけてくるとは。バスの中でだって僕に近づいてきたし、こいつはなにを考えてるんだ。
「立ち止まってんじゃねぇよ! わしが部屋に入れねぇじゃねぇか」
「部屋?」
「チッ、聞いてねぇのかよ。てめぇとわしは一緒の部屋だぜ?」
「なっ!」
 前田は舌なめずりする。美形である前田のその動作は、映画だったらダークヒーローの仕草というコトで説明がつきそうな、そんな舌なめずりだった。
「仲良くしようぜ、オトピチよぉ」
 僕は頭が真っ白になる。
 畜生! わけわかんねぇ!
 前田は部屋に入っていった。
 しばらくすると部屋の中で喋っているのか、笑い声が聞こえてくるようになる。僕は、その場に数分間立ち尽くした。入る勇気が、中々つかなかったからだ。しかし、曇った空から雨のしずくが少しずつ落ち始めてきたのに気づき、僕も意を決して部屋に入った。
 そこは六人部屋で、僕が入ったコトで六人全員が揃った。「よろしくお願いします」と言ったきり、僕はなにも喋れなかったし、前田も、僕のコトはなにも言わず、しれっとした態度で部屋の他のメンバーたちとお喋りを再開した。ここに集まったメンバーは全員違うガッコウの人間たちが集められたのだが、前田は普通に喋っていた。前田は二年生。昔から人気者だった前田は一年間で知り合いをもっと増やすコトに成功したのだろう。それに、演劇部はどこの高校も男性部員が少ない。少ないから、知り合いになるのは簡単なのだろう。そう思った。思いながら、僕は貝のように口を閉ざした。ホントに貝のように体育座りで部屋の隅にいた。それが、僕のデフォルトの状態でもあったのだが。前田への怒りも、隅っこにいる感覚で落ち着いていてきたので、そこは救いだった。

 僕はスポーツバッグを畳の上に無造作に置き、時間を見計らって本館にある食堂に向かう。昼飯の後、またここに戻るコトになる。食堂で飯を食ったら、ここに戻ってきて着替え、そしてそれから身体を動かすワークショップ、つまり研究集会みたいなもん、をするコトになっているのだ。
 貝のように口を閉ざし体育座りの僕は、セイコーの腕時計を見て立ち上がる。十一時半ちょっと前。さあ、昼飯だ。僕は部屋の人間たちには目もくれず部屋を出る。僕に声をかけてくる人間は、誰もいなかった。前田をちらりと見るが、僕をガン無視していた。だから僕も無視するコトにした。
 ぱらぱら降り出す雨の中、傘を差さず僕は雑木林を抜ける。風も出ていて針葉樹がさざめく。しばらくすると本館に着く。案内板を見て食堂を確認、まっすぐに向かう。
 食堂の入り口に到着。だが、入ろうとした時に後ろから肩に手をかけられる。
 僕は振り向く。
 すると、肩に手をかけていたのは。
 前田ヒデノコ、……だった!
「オトピチよぉ、ちょっと待てや」
 ヤンキー訛りで前田は、僕を挑発するかのように、言う。
「てめぇ、ガッコウで『ブタ川ブタ夫』って呼ばれてるんだって?」
 口元を歪ませ、これでもかとワルぶる前田。しかしその顔は美形のまま。
 僕は歯をかみしめ前田を睨む。睨むが、前田は意に介さない。
「てめぇは不細工だからよぉ、美少年のわしと違ってな。ヘッ! ただの不細工じゃなくよぉ、芸能人みたいな顔って言われてバカにされんのも、良いもんじゃね?」
 僕は前田の手を肩から振り払う。
「おいおい、ここでヤる気か? チッ、くだらねぇ。てめぇとわしじゃ格が違うのに気づけよ。わしは『入れる方』、てめぇは『入れられる方』だ。パワーバランスをちっとは考えろや」
 前田の顔が、悪意に満ちる。
「また入れられたいのか? あの頃みたいによ」
 食堂前! しかし! ここで殴るか! だが、ここで問題を起こすのは、うちの演劇部のメンバーに悪い。
 それに。
 ヤヨイとも約束をしたんだ!
「オトピチ、よがってたよな。感じまくってたんだろ、中学校の便所で、何度も何度も毎日、男に尻の穴に入れられるって、どんな気分なんだ? 答えてみろよ。ただ、本当のコトを言えば良いんだよ、『前田さんの肉棒をお尻に入れられて感じちゃいました、お尻の穴に射精されて、大満足でした』ってな」

 クソがッッッッ!

 なにも考えられない!
 躊躇せず僕は顔面を殴った!
 前田はよろける。
 よろけながら踏みとどまり。
 そして今度は前田からのパンチが飛ぶ。
 こっちも顔面に喰らい、僕はよろける。
 しかし、僕もまた踏みとどまる。

 殴り合いを食堂から見ていたぞなー野郎が僕らの元へ小走りに駆けて来て、僕らを制した。
「喧嘩は良くないぞなー! 二人とも落ち着くぞなー!」
 食堂内がにわかにざわつく。
「喧嘩じゃありません。スキンシップです。な、オトピチくん」
 クソ前田は笑みまで浮かべて嘘を吐く。
「そーかー。喧嘩は〜、喧嘩は良くないぞなー。スキンシップでも、誤解を招く行為は厳禁ぞなー!」
「はい」
 ぞなー野郎の言葉に前田は頷く。
「な、おまえ、え〜と、大江高校の、え〜、そう、水野。水野も〜、わかったぞなかー?」
「はい……」
 僕は目を伏せて、言った。
「よろしいぞな! みんな仲良くな!」
 高笑いをしてぞなー野郎は去っていく。去っていったぞなー野郎に前田は舌打ちし、それから食堂に入っていった。場内はまだざわついていた。視線が食堂に入る前田に集まる。前田は、何事もなかったかのように、笑顔で、自分と同じアロハシャツの男性、おそらくは中上高校の生徒、に喋りかける。それを見た周囲の人間たちは、普通の状況に戻り始めたのだった。
 畜生がっ!
 僕は、しばらくその場に立ち尽くしていたのだった。殴られた頬が、痛みで僕を責め立てた。

 食堂に入る。周囲に目をやるが、ざわつきは落ち着いたし、なによりこの食堂には今、恵美子たちの姿が見えなかった。それが救いだ。こんなザマ、見せられねぇから、それに約束破りの僕はクズだから。……クソッ!
 前田が僕に性的な行為を強要していたのは、紛れもない事実だ。あの頃、僕が中学二年で前田が三年だった頃、僕は毎日前田に犯され続ける日々を送っていた。思いだしたくなかった。だが、前田と邂逅するというコトは、避けて通れないこの事実と向き合わなくてはならないというコトなのだろう。確かに、前田とその仲間たちと、この僕しか知らないハズの事実であっても、事実は事実だ。互いにとって逃れられない記憶というものだろう。畜生! あいつ、なんでまた演劇なんかやり始めたんだ!
 僕はいらだちを抑え切れないまま、バイキング形式で昼食のメニューを選んでいく。ご飯、味噌汁、焼き魚、お新香。シンプルイズベスト。「どこの精進料理だよ!」とツッコミを入れたくなるようなメニューでキメて、空いている席に座る。さて、料理を食べ始めようか、と思ったその時、僕の目の前に、知らないひょろい少年が座る。テーブル越しに向かい合う僕とひょろい少年。僕が黙っていると、少年はきらきらした瞳をしながら口を開いた。
「あの、水野さん、ていうんですよね?」
「はい?」
「ああ、すみません、僕の名前。……えっと、僕は犬山といいます。夏目高校の」
「ああ、そう」
 なんだか、こいつには関わらない方が良いな、と思わせるオーラを、犬山君は纏わせていた。
「水野さん」
「つーか、よく僕の名前、知ってるね」
「そりゃもう! 有名人ですもん。大江高校に入りたての『猛獣』水野さん。噂には聞いていました。その人がまさか演劇部にいるなんて」
 猛獣ってしかし……。
「それに僕、お笑い芸人のブタ川ブタ夫のファンなんですよ!」
「あー、ふ〜ん」
 僕にブタ川って言うな! と脳内ツッコミを入れる。
「水野さん。僕のハンバーグあげます!」
 犬山君は自分のお膳のハンバーグの皿を僕に渡そうとする。ちょっと待てって。僕は今、胃が受け付けないから精進料理モードなんだよ!
「いらない。犬山君が自分で食えよ」
「そうですか……。ところで水野さん! 水野さんて、前田さんと知り合いなんですか!」
「まあ、一応」
「すっごく仲良さそうですもんね! 殴り合いなんか、普通の関係じゃ出来ませんよ! さすが県北地区にこの人あり、と言われてる名優・前田さんと猛獣・水野さん、と言ったところですか」
「あー、君、なにか勘違いしてるようだが」
「凄いなー。やっぱり凄い人と凄い人だと、常人にはわからないような縁が、あるんですね!」
 常人にはわからないような『縁』、ね。言うじゃないか、君。
「僕は前田さんの演技の大・大・大ファンなんです!」
 前田のファン? つーかマジうぜぇ……。
「僕はいつか前田さんみたいな役者になりたいんです!」
 そして。
 その後も貧弱そうな犬山君は延々と前田の演技について語る。語る語る語る。僕は食べてる物の味が全くわからなくなるほど、前田の話を聞かされる。とりあえず、前田は県北地区で恵美子に次ぐ第二位の俳優だ、というのがわかった。どうも、犬山君の口ぶりだと、前田はみんなからリスペクトされてるらしい。ムカつく話だ。そんな話が終わったのは、しっかりと昼食の時間が終わる十二時半のコトだった。一時からはワークショップ。身体を動かすので着替えないとならない。なので僕は喋り続ける犬山君を追い払い、部屋に戻るコトにしたのだ。それでやっと話が終了したという。
 で。僕は。
 部屋になんか戻りたくねぇのだが。


   ***


 着替えは、なにもイベントは起こらず終わった。ガッコウ指定のジャージを着た僕は、宿泊部屋を出て、本館の大ホールへ。そこで、ワークショップが行われるのだ。
 ホールに着いた僕は、大江高校の面々と合流する。
「さて、全員揃ったわね。裏方……そんな言い方はダメね。もとい、スタッフの講習を受けたあなたたちと、役者の講習を受けた私とオトピチちゃんの、情報の交換は、合宿二日目が終わった時に行うわ。合宿終わったら、部室に集合、ミーティングをした後で、解散。わかったわね」
 みんな「は〜い」と手を挙げて頷く。
「その時、トウコが部室にいる手筈になってるから、オトピチちゃんはトウコに合宿の成果を見せるのよ」
 う……、そういう話もあったな、と思い返す。
「しゅ〜ご〜ぞな〜!」
 僕らが事務連絡をし終えるぐらいに、ぞなー野郎が全生徒に集合をかける。そしてワークショップが始まった。

「発声練習ぞなー!」
 ぞなー野郎が、ここでも講師らしい。他の高校の教師陣はホールの後ろで生徒たちを見守っている。片瀬先生はこの場にいないようだが、気にしないコトにした。
 ぞなー野郎がレクチャーを始める。
「……と、いうわけぞな。それでは各自、やってみるぞなー!」
 プニコちゃんがふふふ、と笑みを浮かべた。
「わたし発声練習は得意なんでぇすぅ」
「そうね、プニコはこれ、得意だわね。それじゃ、入部したばかりで右も左もわからない、そんな人生に迷ったオトピチちゃんに発声練習を見せてあげなさい」
「はぁ〜いでぇすぅ」
 いや、人生には迷ってねぇから! いや、迷ってるか?
「いきますぅでぇすぅ! あぁいぃうぅえぇおぉ、いぃうぅえぇおぉあぁ、うぅえぇおぉあぁいぃ、えぇおぉあぁいぃうぅ、おぉあぁいぃうぅえぇぇぇぇぇ!」
「なにッッッッ! エコーがかかってるっ!」
 僕はプニコちゃんの発声にヤマビコ効果、つまりディレイ、まさにアナログディレイがかかってるコトに驚いた。
「これが大江高校クオリティよ!」
 嘘つけッッッッ!

「それでは次に、ういろう売りをやるぞなー!」
 ぞなー野郎がういろう売りの文句を、カンペを見ながら囃し立てる。
「それでは各自、やってみるぞなー!」
 ええ? 今のでわかるわけねぇだろが! 確かチハルちゃんに選んでもらった本にも書いてあったが、あんなん、そんな簡単に覚えられるわけねぇぞ。
「ふふ、私の出番のようね」
「いよっ! さすが部長!」
 ジャージも腕まくりしているワカメちゃんが恵美子をおだてた。
「いくわよ。拙者親方と申すは、お立合いの中に、御存じのお方もござりましょうが、お江戸を発って二十里上方、相州小田原一色町をお過ぎなされて、青物町を登りへおいでなさるれば、欄干橋虎屋藤衛門只今は剃髪致して円斉となのりまする。……(以下略)」
 恵美子は淀みなく全て暗唱した。
「おお、すげぇ!」
「あなたのコトなんて全部お見通しよ。すごいと思ってるんでしょ。素直に私を褒め称えなさい」
 くっ、なんかムカつく。
「これが大江高校クオリティよ」
 は、はあ、そうですか……。

「それでは、身体を動かしていくぞなー!」
 ぞなー野郎のストレッチ講座が始まる。そして、太極拳へと流れる。
「太極拳ぞなー! それでは各自、やってみるぞなー!」
 ワカメちゃんが息を大きく吐く。
「てやんでぃ! 今度は私の出番だってね! 行くわよ、太極拳!」
 ワカメちゃんがぶんぶんと右手を回す。
「てや! 唐竹割ィィィィ!」
 バキッ! ボキバキボキッ!
「ほげぇっ!」
 ワカメちゃんの唐竹割が僕にヒットする。
「どうでぃ?」
「太極拳は格闘技じゃねぇ! ってか、唐竹割はなんの関係性もねぇ!」
「てへ。そうなんだぁ」
「…………」
「これが大江高校クオリティよ」
 そして恵美子もボケをスルーすんな!

「お次はヨガぞなー。それでは各自、やってみるぞなー!」
 そこで待ってましたとばかりに、タラミちゃんが名乗りを上げる。
「このノリで行くと、私はお姉様のためにボケないとなりませんわね」
 僕はいじわるを言うコトにした。
「じゃ、ヨガファイアやってみてよ」
「ふふん。オトピチさん、私をナメてもらっては困りますわ。私はそれどころかヨガ使いダルシムの投げ技コマンドの技を披露します」
「へぇー。じゃ、やってみそ」
 タラミちゃんがニヤリとする。そして。
「ヨガ! ヨガ! ヨガ!」
「ほげぇ! 脳天めがけて殴るのはやめて!」
 またもや僕はボコボコにされた。
「あなたお姉様を呼びつけで呼んでタメ口聞くからこうなるの。悔い改めてお姉様のコトはちゃんと『お姉様』と呼びなさい!」
「とか言いつつまた脳天殴るのはやめて!」
「これが大江高校クオリティよ」
 そしてまたしてもこのオチか! 業界用語で『天丼』やね。

 基礎練を一通り終えたところで、ぞなー野郎が「次は特別に基礎練のメソッドを伝授するコーナーぞなー!」と鼻息荒く説明する。
「特別なメソッドを紹介してくれるのはこの人、大江高校古文教師、片瀬ヨシヤ先生ぞなー!」
 ぞなー野郎が紹介すると、ホールに片瀬先生が入ってくる。先生は照れた笑いを浮かべていた。もしかしてこのために外で待機していたとでもいうのか!
「みんなー、よっしゃーって感じだなー!」
 片瀬先生は上機嫌だ。僕は近くにいる恵美子に耳打ちする。
「片瀬先生って、もしかして有名人なのか? 練習のメソッドを教えてくれるなんて。普通、そんなんやらねぇんだろ?」
「片瀬先生は県北地区で一番の演劇人よ。『カタセメソッド』をつくりだしたのでその名が知られてるわ。顧問としても一流で、彼が顧問をつとめるとほぼ確実に関東大会に行けるわ。……まあ、私の力不足で去年は県大会で負けたけどね」
 言葉の後半は下を向いて喋る『狐憑き』のエミー。よっぽど自分の力不足を嘆いているらしい。そうだった、中学時代、恵美子は『失楽の右手』という人物とのタッグで暴れてたんだっけ。
「よっしゃー! では、私の真似をして動いてみろー」
 僕らは動く。器械体操をアレンジしたような動作。基本的に足を重点的に動かすのがこのメソッドの特徴らしい。あれ? でもそういうの、チハルちゃんから図書館で渡された本にもなんか、説明があったような……。
「なあ、恵美子。このメソッドって」
「そう。主に足腰を重点的に鍛え、また練習中以外にも鍛えるコトの出来る日常トレーニング。それが『カタセメソッド』よ!」
「いや、それなんだが。その下半身を重点的に鍛える練習法、この前読んだ演劇の本に書いてあったぜ。でもその名前ってカタセメソッドじゃなく、確かススキメソ……」
 名前を言おうとした瞬間、恵美子の鉄拳が飛ぶ。
「カ・タ・セ・メ・ソ・ッ・ド!」
「はい。カタセメソッドです……」
 僕はくらくらする頭で復唱した。

 片瀬先生のカタセメソッド講座が終わると、最後にダンスの練習に入った。演劇とダンス。このふたつの関係は深い……らしい。だが、そういう問題ではなく、僕にとって問題なのは、生まれてこのかたダンスなんぞ踊ったコトが一度もない、というコトだった。町内会の盆踊りは、この場合ダンスにはカウントできねぇよなぁ。発声練習の場合は、ヴォーカリストである僕としては本領を発揮出来る分野だが、ダンスはなぁ。黒人音楽、僕はまるでダメだったし。
「ダンスダンスレボリューションぞなー!」
 ぞなー野郎がまた講師として叫ぶ。なにが『ダンスダンスレボリューション』なのか理解はしがたいが、ぞなーの叫びはじまりでダンス音楽がホール内に響きだした。
「まずはボックスからぞなー!」
 『ボックス』とはなんぞ? 僕はわからないが、ここに集まった生徒たちはみな、ヒップホップな感じで動き出す。かっちょえー動きで、みんな踊る。
「どうしたぞなー、水野! さっきの殴り合いが嘘のように大人しいぞなー!」
 やかましいわっ!
 僕がホールの正面を向くと、そこには踊らないで椅子に座っている犬山君の姿が見えた。犬山君は、
「水野さん、ファイト!」
 と声援をかけてくれる。君は良い奴だな。
 音楽が一回終わり、ぞなー野郎が僕に個別指導をしだす。「ボックスも知らないんぞなー。珍しい奴ぞなー」とか言うので、「僕、演劇部に入ったばかりなので」と言うと「そうかぞなー。じゃあ、私が教えてやるから、私の動きをよく見るぞなー」とつばを吐きちらしながら、踊り出す。一小節の四拍でひとつの動きを成すのが、どうやらボックスであるというコトがわかったが、頭で理解出来ても身体がついていかない。どうにか形になりそうになったところで、みんなは更に先へ進んでしまう。
 ミッキーマウスマーチ、アシッドテクノヴァージョン。そのテクノに合わせて、ぞなーが振り付けをキメる。みんなその動きを必死になってコピる。僕にはなにがなにやらわからない。
 そして結局居残りで補習授業を受けるコトになった。
 みんな部屋に帰って、夕食までの間に談笑でもするのだろう。しかし、僕はぞなーから与えられた四時から五時の一時間、みっちりとダンスを仕込まれるのであった。犬山君も部屋には帰らず、僕に声援をかけ続けてくれる。恵美子も帰らず、僕の、ダンスにならないダンスを腕組みしながら見ている。「みっきま〜す、みっきま〜す、みっきみっきま〜す」とか鼻歌をアシッドに乗せて歌っている。だが、僕は必死だった。
「水野さん、ファイト」
 犬山君は椅子に座って声をかけてくれる。ちょいウザだが、嬉しい部分もある。曲が終わって小休止を入れる時、僕は犬山君に尋ねた。
「犬山君はなんで躍らないの」
「僕、心臓が弱いんですよ、病気で」
「わりぃ。今の、気にしないで」
「良いんですよ、水野さん。ハンデ背負いながらやる演劇もまた格別ッスよ」
 なんつーポジティヴシンキングだ。
「すっばらしいわね、薄弱少年。頭の中がお花畑のオトピチちゃんとは違うわね」
「お花畑って! それと薄弱少年はねぇだろ」
「いえ、良いんです。身体が薄弱でも、心は強く持てば良いんですよ」
「そこまでポジティヴシンキングなのかよっ!」
 僕は思わず口に出してツッコミを入れてしまった。
「それにしても貴方たち、ヤオいわね」
「ヤオくねぇよ!」
「このカップリングでやおい同人誌がいくらでも書けるわ」
「んなもん書くなっ!」
「でも僕、水野さんとなら、……良いかなって」
「ほらね」
「ほらね、じゃねぇ! てか犬山君も『良いかな』とか言うなっ!」
「またまた〜、オトピチちゃん、可愛いわねぇ、うふっ」
 と、そんなやり取りをしながら、僕は必死にミッキーマウスマーチ・アシッドテクノヴァージョンの振り付けを覚えたのだった。なんでも、明日は寸劇をやった後、このダンスを復習して、合宿は終了するらしい。
 夕食後はついに劇か。僕は補習終了後、付き添ってくれた恵美子と犬山君にお礼をして、三人で夕食の用意してある食堂に向かった。
 恵美子はタラミちゃんのところに行き、僕と犬山君は、二人で一緒にご飯を食べる。僕はスパゲティを食べ、犬山君はパエリアを食べる。僕らはお互いのコトを、喋る。楽しい時間が過ぎる。ああ、友達。僕は、友達が欲しかったのかもしれない。馬並も僕から離れていってしまったしな。
 そして夕飯の時間が終わり、僕らはまたホールに赴く。寸劇。さあ、ここからが演劇合宿本番だ。

 雨音が大きくなってきた。雨のつぶてが屋根にぶつかる音が激しくなる。しかしそれにかまわず僕らの合宿は続いていくのだ。
「じゃ、班分けをするぞなー!」
 相変わらずぞなーが仕切っている。そして班分けされて、ぞっとした。僕は前田と同じ班になってしまったのだ。班分けが終わり、各班が別々の部屋にわかれていく。僕は極度の緊張感を持ち、僕らの班、D班の集まる部屋へと移動する。移動の途中、前田を横目で見やると、同じく僕の目を見る前田と、視線が合ってしまった。前田は舌打ちをする。僕も慌てて目をそらした。
 僕の横では歩きながら、一緒の班になった犬山君が目を輝かせている。
「水野さんと一緒の班になって嬉しいです。それに、前田さんとも一緒なんて! 名優と猛獣の夢の共演! そこに僕も加わるコトが出来るなんて〜!」
 僕はため息をひとつ。なんでこの子はこんなにも純真なんだろ。劣等感がこみ上げてきそうだぜ。胃が痛い。前田となんて、畜生!
 僕と犬山君はD班の集まる部屋にたどり着く。部屋の中では片瀬先生が待っていた。
「みんな、よっしゃーって感じだな。ここでは明日発表する寸劇に向けて劇の練習をするからな。まずは顔合わせ。みんな自己紹介をしてみようか」
 そしてみんなが順々に短い自己紹介をしていく。僕も犬山君も自己紹介をする。正直言って僕は自己紹介という奴が嫌いだ。だが仕方なしに軽く挨拶する。「ブタ川ブタ夫に似ている水野オトピチです。大江高校演劇部に入りたてです」というと、ブタ川に反応して笑いが起こる。自分で言っておいてなんだが、笑われるとムカつく。我慢我慢。……大人になれ、オトピチ!
 最後に自己紹介するのは前田だった。前田の自己紹介の途中、ここにいる僕以外の全員が、僕の時とは違う笑顔になる。好かれてるのだ。前田はさらに道化たコトを言って進んでみんなを笑わす。紹介が終わると拍手が起こった。人望がお厚いようで。なんつーか、最悪だ。
「よっしゃー。じゃ、挨拶が終わったところでさっそく脚本の読み合わせをしてみようか。台本、脚本をコピーしたものを配るから、それをまず各々読んで、それからとりあえずの役を決めて、台詞を読んでみよう。全員が読み合わせ終わったところで、役を決めよう」
 とかなんとかで読み合わせも終わる。僕はヴォーカルなのでそこはなんなくクリア。そして役を決める段になる。そこで、前田が挙手して片瀬先生に言う。
「先生、わしはオトピチくんと対になる役が良いでーす」
「お、良いな、前田、自分から立候補するなんてな。感心感心。対の役というコトは、この劇では、主人公と、その父親の役かー。前田はやぱり主人公の役がやりたいのかー」
「いえ、わしは父親の役がやりたいです。オトピチくんが主人公をやるってのはどうですか。初心者だからこそ、やってみるべきだと思うんです」
「なるほどなー。水野はうちの高校の生徒だから知ってるんだが、水野は放送委員会の生徒だからな、やれば出来るだろう。どうだ、水野」
 会話が勝手に進められ、僕は前田を睨む。すると前田はおどけた表情をする。もちろんこのおどけた顔は僕だけに向けられたものではなく、みんなの前だからこそした表情なのだろう。
 それから役決めは順調に終わり、みんながそれぞれ本を読み込む時間を空けてから、半立ち稽古が始まる。半立ち稽古とは、チハルちゃんからの本によると、台本を片手に持って、動きを入れて練習するものである。今回は、まず自分の役の動きを自分で考え、シーン別に一回やってみる。シーンが終わった毎に片瀬先生の台本解釈で、役者の意見を尊重しながら変更点などの指導をする。そして、最後まで終わったらまた最初からやってみる。とはいえ寸劇スタイルなので、通し稽古というわけではなく、元の劇の一部分だ。動きが決まったところで、休憩。
 正直、このクソ名優・前田の台詞回しや動きはパーフェクトだった。それに比べて僕はしどろもどろ。胃も痛いし。休憩に入り、その間に台本を覚えるようにするのだが、僕はまず休憩に入るとともにトイレに駆け込んだ。胃がいてぇ。トイレから出た廊下で、犬山君に会う。犬山君は、顔を真っ赤にしている。
「凄いです、水野さん! 僕、こんな至近距離で前田さんの演技が見られるなんて思いませんでした! それに。水野さんて、対の役をやるよう指名されるなんて、前田さんと仲が凄く良いんですねっ!」
 なんたる勘違い。しかしながら、それを正すのも犬山君に悪いので、そこはスルーする。
「水野さん、がんばりましょうね!」
「ああ、そうだね……」
 僕は早くもトイレに戻りたくなるのだった。

 僕が吐き気を催すような、うだるビートで前田は演技をする。確かに前田の演技は上手かった。前田は常に心に仮面をつけている。周囲の人間を楽しませるコツを、前田は持っているからそれを実行している。人気者になれる仮面を、持っているし使っている。普段からそれだから演技はそりゃ上手いだろう。しかし、ダークな一面、地下街の人間としての前田を、ほとんどの人間は知るよしもない。それを知る僕は、陵辱された僕は、その演技に、つまり、劇の中の演技と、劇を終えての普段の演技と、そのふたつの演技に、吐き気がするのだった。腹が立つという言葉を超えたところにある、奥底からこみ上げる吐き気。
 今日の研修が全て終了した頃、僕は目眩と吐き気と怒りと、そして前田が人気者であるという事実による絶望感に、打ちひしがれた気がした。いや、気がしたなんて言葉じゃないな。でも、この感覚は言葉には出来ないタイプのものだ。僕は前田にも、前田の演技に気づかないみんなにも、吐き気がしてしまったのだ。
 僕は不意に犬山君を見やる。犬山君は前田を見て目をときめかせていた。食われるぞ、犬山君。


   ***


 部屋に戻ると談笑が交わされていた。僕は輪に入れない。部屋の隅に縮こまる僕を見ながら、劇の練習で一緒だった一人が「前田さん、なんであの大江高校の人を主人公に推薦したんスか」と訊く。前田はただ口元を歪め、笑っていて答えない。
「前田さんも人が悪いッスね」
 と、訪ねた奴が言う。
 このやり取り!
 僕は耐えられず、ジャージ姿のまま、風呂に入る時の着替えをタオルに包んで、逃げるように部屋を出て行く。畜生。
 外は雨が降っている。僕は雨の中雑木林を傘を持たず進んでいく。風呂は本館にある。今はまだ女子が浴場を使う時間だから、僕は男子の番になるまで本館の廊下で待つコトにする。浴場に続く廊下の自販機で『あったか〜い』缶コーヒーを買う。缶を持って自販機側のベンチに座る。缶を開ける。時間を稼ぐために、ちびちびと飲む。しばらくすると風呂上がりの女生徒たちが通るようになる。腕にはめたセイコーを見ると、もうすぐ男子が風呂に入る時間になるコトがわかる。僕はぼけーっと女子を見ながら時間をつぶす。
 女子生徒の流れが途絶え、廊下に僕一人になった時、一陣の風が吹いた、気がした。僕は俯いた顔をあげる。すると、そこには美しい狐の化身が立っていた。
 狐。小島恵美子だった。
 目が合う。恵美子はいつも通り不敵な表情を浮かべている。その流れるような髪の毛は湯上がりのせいか、輝くように濡れていて、いつもより五割増しで艶めかしく揺れている。
「あら、オトピチちゃん」
 僕は息をのんだ。犯罪的なその姿に、僕は見とれていたからだ。
「貴方のコトなんて全部お見通しよ。……私に、見とれていたんでしょ」
「み、見とれてなんてねぇよ」
 僕はしどろもどろだ。見透かされている、と思った。
「うふっ、可愛い。でも、もうちょっと素直になった方が良いわ。だって」
「だって?」
 僕は反復する。間が持たないからだ。美しさで心がつぶれてしまいそうなのだ。
「それに、私も、オトピチちゃんのコトが、好きだからよ」
「なっ!」
「うふっ、……じゃ、またね」
 狐の化身はそう言うが否か、その場を立ち去る。後ろ姿を目で追っていると、また風が建物の中を吹き抜けた。目をつむり、目を開けた時、すでに恵美子の姿は見えなくなっていたのだった。
 放心状態になり、しばらくして正気を取り戻して時間を確認すると、男子が風呂に入る時間になっていた。僕は手に持ったままの缶コーヒーの残りを飲み干した。その液体は冷たくなっていた。

 風呂からあがる。僕には行くあてがない。うちのガッコウの連中は女子ばかりだし、部屋に行くわけにはいかない。しばらく最前のベンチに腰掛けていたが、ここにいるとどうしても恵美子のコトを思い浮かべてしまう。でも、それは、今考えるのは良くないコトのようにも思える。僕は恋愛がしたくて女だらけの演劇部に入ったのか。いや、それは違う。じゃあ、なんでここにいる。ギターを持ってきてくれたからか。いや、それも、今は違う。また自分に問う。じゃあ、なんで?
 ……くだらねぇ問いだ。
 成り行きでここにいて演劇部の練習をしたって良いじゃねぇか。行き当たりばったりおーるおーけぃ。そう思おう。
 僕はそわそわして、結局部屋に戻ってしまう。部屋では同じ部屋の奴らが会話している。僕が部屋に入っても、目を合わすコトすらしない。まあ、良いだろう。こんなの、慣れてるから。僕は布団を敷き、布団の中で横になる。同室の奴らの会話を聞きながら、目をつぶる。
 消灯の十一時になった。電気は消され、みんな暗闇の中で会話を楽しんでいる。くだらねぇ会話だ。どの女子が可愛いかとか、誰々は誰々が好きだとか、そんな会話。思えば僕は中学の時の修学旅行の時もみんなの恋愛話に耳を傾けながら一人でこうして布団の中で押し黙っていた。
 同じだ。全く、あの時と同じだ。
 僕は寝ようと努力する。寝ようと思えば思うほど目は冴える。暗闇の中、一人、また一人と会話から抜けて、寝息を立てる。しばらくすると、完全な沈黙が訪れた。静寂。僕はこのしじまの中、物思いにふける。家族のコト、ガッコウのクラスのコト、委員会のコト、部活のコト、そして音楽のコト。
 夜中、腕時計が深夜二時を指した頃、突然の尿意にさいなまれた。仕方なく起きて、本館にあるトイレに向かうコトにした。
 雑木林の闇を傘を差さず通り過ぎる。雨はさっきよりもずいぶんと強くなっていた。
 トイレで用を済まし、部屋に戻ろうとまた、雑木林の中に戻る。雑木林の中、僕は、自分は闇の住人なんじゃないか、と思う。闇に生きる者。舞台の上に立ったら、僕はどうなるんだろう。ストリートライヴを行った時に感じるステージの上の興奮。それは、もしかしたら路上だから居心地の良い興奮に包まれるのではないか。路上は明るくてもアンダーグラウンドにつながっているから。路上はステージであり、かつ闇でもあるのだ。じゃあ、演劇部で、役者としてステージに立ったら? わかんね。どうなるんだろ。でも、今はそんな心配はしなくて良いハズだ。もしかしたら、演劇は僕を変えるかもしれないが、変わった時のコトは、変わった後に考えれば良いんだ。
 僕が雑木林を歩いていると、進行方向から、一人の男が歩いて来た。僕は目をこらす。
 男は、僕の目の前で立ち止まった。
 その男は。
 前田ヒデノコだった。
「よぉ、オトピチ」
 僕も立ち止まる。僕はどう反応したら良いか、惑う。戸惑っていると、前田は次の言葉を続けて吐く。
「わしも、用を足したくなったんだぜ。わかるか、意味が?」
 前田も、傘を差していなかった。雨のつぶてが二人に降りかかる。
「出したい時には出してぇだろ、男ならよぉ」
 前田はそのイケメンオーラを発し、俳優らしく通った声で吐き捨てる。
「おっと、オトピチが男かどうかってのも微妙だから、わかんねぇだろうな、こんなわしの気分はよ」
 前田の手が伸びる。僕の首根っこを力を込めて掴む。
「わかんねぇだろ、オトピチ。てめぇはクソな雌豚だからよぉ!」
 首根っこを掴んだ手を、雑木林の木の幹に押しつける。僕は幹に張り付けになる格好となった。首を締め付けられて苦しい、息が出来ない。
「この腐れビッチが。夏目高校の坊やと仲が良いみてぇじゃねぇかよ」
 前田は僕の眼前に自分の顔を接近させる。今日の朝のバスで近づいて来た時より、もっと至近距離だった。前田の吐息が僕の鼻にかかる。その息は、生暖かかった。
「おれだけの穴になれよ。公衆便所になったら、わしが許さねぇ!」
「!」
 前田の顔が、僕の顔と重なる。唇と唇も、重なった。キス。前田は、そのキスを唇の重なりだけで済ますつもりはないらしく、僕の唇をこじ開け、舌を侵入させてくる。
 首根っこは押さえつけられたまま。僕の舌に絡みつく、男の臭いを含んだ前田の舌が、僕の口の中を縦横無尽に這い回り始める。
「ん、……んん、っんふ、うぅ、じゅるっ、うん……ん、ちゅ、ん、……んぐ」
 僕は抵抗しながら、思わず息を漏らす。漏らした息で興奮したのか、前田の動きは強まる。前田の怒張したモノが僕の足のあたりでムカデのように動く。情けないコトに、僕のモノも反り返し始めてしまう。
 頭が真っ白になる。僕は今、なにをされている?
「あの頃も毎日こうやって可愛がってやったよな。てめぇみたいな雌豚は、毎日でも突かれてねぇと欲求不満になるからな。じゃじゃ馬馴らしも大変だったんだぜ?」
 前田は首根っこを掴む方とは反対の手、右手をポケットに入れ、プラスティックの容器を取り出す。片手で器用にキャップを外し、手に液体をなすりつける。ベビーローションだ。前田は、ベビーローションを塗りたくってぬめる手を僕のジャージのズボンの中に入れ、僕の尻に指を突っ込む。
「ほぐしてなんてやらねぇぜ。てめぇはなにしろわしの玩具なんだからよ」
「ひぎっ!」
 僕のお尻に激痛が走る。指は容赦なく奥まで突っ込まれる。本当にほぐす気はないらしい。ローションを塗った指であっても、痛いものは痛い。涙があふれそうになる。
「良い締まり具合だぜ。やっぱ女のアレより、男の蜜壺の方が感度が良いからな」
 前田は首根っこを掴んだ手を離し、僕の髪の毛を無造作に引っ張り、また木の幹に押しつける。そして、首に舌を這わせ始めた。
「くっ! んん……んっく!」
 舌は首筋から上がって行き、また口づけをするようになる。僕は目をつぶってそれに耐える。尻への愛撫も続く。
 僕は痛みと精神的な苦痛を感じるが、どうしようもないコトに、今置かれている状況下に興奮をしてしまっているらしく、股間が熱くなってしまう。僕の身体は、なにかがおかしいのではないか。
「ちっ、時間がねぇな。見回りとか、ありえねぇよ、ったくよぉ。もう少し遊びたいところだが、ぶち込んでやるぜ、今すぐにな」
 舌を這わせるのを止めてそう言うと、髪の毛を掴んだまま、その手を半回転させる。髪の毛が引きちぎれそうになってしまうので、僕も自然と向きを変えてしまう。前田に背を向ける格好となる。前田は尻から指を引き抜く。
「久々のご馳走にありつけて、てめぇも嬉しいんだろ。わしだけの肉便器になれるんだ、感謝しろよな」
 勝手なコトを言う。僕がどういう気持ちだか、こいつはわかってない。くそっ!
 降り続ける雨は二人の身体を濡らす。身体も心も濡れていく。着ている服はもうびしょびしょになっていた。
「てめぇももう、待ちきれないみてぇだしな、ぶち込んでやるよ」
 前田は髪の毛を掴んだまま僕の頭を下に向くように押し込める。そして臀部を持ち上げ、ちょうど屈伸運動をするために下を向いたような体勢に僕を誘導する。前田は僕のズボンをトランクスごとずりさげる。ズボンはジャージなので、すぐにずり落ちる。前田は自らのズボンとぱんつも下げ、そそり立つものを雨の雑木林に晒す。それから。
「ひぎっ!」
 僕の身体に先ほどとは比べものにならない激痛が走る。秘裂からの電気信号が脳内を駆け巡る。僕の中にずかずかと入り込んできたのだ。僕は痛みの中、木の幹に両手を付け、身体を支えようとした。
「あ、がっ、くっ! くうぅ、ちっくしょ、くっ! ああ!」
 前田がブラインド運動を始める。そのピストンは手慣れたもので、奴がプレイボーイであるコトがわかってしまうほどだった。こいつは一体、僕以外の何人と関係を結んだのか。相手は女だったのか男だったのか、それともそこに見境はないのか。僕は意識を逸らそうと必死になって、なにか別のコトを考えようとする。しかし、その獣じみた動きに、僕は意識を集中させてしまう。前田が僕の中に入る。男のものは女のそれとは違う。入れるものではなく、本来は出すもの。一旦奥底まで入ったものは、ともするとどこまでも入っていってしまうような気がする。だが実際は違う。中に入ったものは僕の思考とは無関係に、外へと押し戻そうと運動を始める。僕は腰を振らない。しかし、僕のその滑稽な穴は、まるで僕がこの動作を望んでいるかのように蠕動し、外へ向かう運動を開始してしまう。押し戻された奴のそれは、外に戻ってから、また勢いをつけて、中へとまた入ろうと突っ込まれる。その繰り返し。この禍々しい運動は、僕の意志とは無関係に成り立ってしまうのだ。
「あ、あ、あ、ああっ! くぅっ! や、やめっ! くそっ! ぐ、んうう!」
「てめぇも楽しめや。な?」
 前田は僕のいきり立つ根っこを掴み、しごき出す。その動きは激しい。まるで自分のものを慰めている時の容赦なさ。僕は苦痛と、押し寄せる苦痛とは正反対の感情が入り交じり、思考停止に陥る。
「や、だ、だめっ、だめだって、……くそっ、あ、あくぅっ! だめぇっ!」
 僕はまるで女のような声を出してしまう。
「くっ、良い締まりだな、雌豚が! もう、イクぞ!」
 前田は耐えきれず、ついに僕の中に、白濁したアブサンのような飛沫をぶち込んで、果てた。
 ……そして。
 僕は終わる瞬間、恵美子の顔を思い浮かべ、意識が飛んでしまったのであった。

 雨の中、僕に覆い被さるように、前田は木の根本でうつぶせになっている。身体はまだ繋がったまま。夢うつつの僕は、こんなのを他人に見られたらマズいな、と思った。
 雨の強さはだんだん激しくなり、この濡れた身体をどうすれば良いのかと考え、天を仰ぐ。目に雨と汗が入り込み、しみる。
 僕は視線を前方に向けた。すると。
 そこには。
 僕と前田を呆然と見下ろす、犬山君の姿があった。
 犬山君は大きく口を開けて、、差していた傘を地面に落とした。
「見られちまったようだな」
 前田は舌打ちし、立ち上がる。
「あ、あの、まえ、前田さん、……それに水野さんも、こ、こ、ここで一体なにを……?」
「チッ! 見ての通りだよ。ナニしてたんだよ、坊主」
「あ、あのっ、ど、道徳的に、ど、道徳的に良くありません!」
「うっせぇなぁ、ガキ。……へっ、どうだ坊や。ここでわしらと一発ヤらねぇか?」
 僕は放心状態のまま、うつぶせになった状態で、話を聞いていた。いや、なにも僕は聞いていなかったのかもしれない。
「ぼ、僕はそんなはしたないコトは」
「してぇんだろ、ホントは。オトピチのコト、抱きたいと思ってんだろうがよぉ」
 前田は倒れている僕の髪の毛を持って僕を無理矢理立たせ、またバックの体勢にする。こいつはホントにこの体位が好きだな、と思った。僕はもう逆らう気が失せ、静かに木の幹に手をやった。
「じゃあ、そこで見てろ坊や。坊主には、おあずけだ」
 言うが否か前田は手で僕の割れ目を開け、そこに舌を這わせた。
「湿り気は十分だな」
 前田は尻から顔を離すと、その甘い果実を僕の中に、再びインサートしてきた。
「ひむっ!」
 僕は嗚咽を漏らす。しかし、そんなのはお構いなしに、蛇の身体のようなそれは僕の中を蠢き回る。
「あっ、あっ、あっ! はっ、くう……! や、やだぁ……」
 僕は涙が出そうになったが、それをこらえた。僕は今、ひとに見られながら蹂躙されている。こんな姿、見られたくない。
 僕が突かれ続けていると、その行為を凝視していた犬山君は、ズボンを下げ、ブリーフを下げ、自分のそれを雨の中に晒した。息も絶え絶えにその自分自身を手で持ち、手による前後運動を始めた。
「水野さん、水野さん、水野さん。ぼ、僕は、僕は水野さんが好きです。い、入れたい。入れたい。僕も、水野さんの中に入れたいですよぉ」
 前田は動きに緩急をつけ、メリハリを付けて僕を嬲る。
「え、エロいですよ、水野さん! もっと、もっと僕に結合部分を見せて下さい!」
「はうわ、は、はん、はう、……は、はわぁ! そ、そんなコト言わないでぇ……」
「どうだ坊や。ヤりたいだろう? へっ、でもこのビッチアナルはわしのもんだ」
「はあ、はあ、はあ、水野さん、前田さん……、す、素敵です」
 僕を道具にしたピストン運動は続く。前田のピストンと連動するかのように早さを調節して、犬山君の動きはエスカレートしていく。
「で、出ますっ!」
 犬山君の精液が放出され、勢いよく僕の横顔にかかった。僕は右頬に浴びせられたそれを手ですくい、舐める。
「チッ! いやらしい雌になったじゃねぇか、オトピチよぉ。坊やのお味はどうだ?」
 僕は吐息を吐く。もうなにがなんだかわからない。
「オトピチよぉ。欲しいんだろ、その童貞ペニスがよぉ。欲しいなら欲しいですって、言ってみろよ」
 前田は動くときも手に掴んでいた僕の髪の毛を上に引っ張り、犬山君のそれの目の前に押しつける。犬山君のそれは放射したばかりで、萎えている。
「ほ、……欲ひぃれすぅ。おひむぽ、欲ひいのぉ」
「だとよ。だが坊やに穴はやれねぇ。お口で我慢しろや」
「は、はい! 嬉しいです、前田さん!」
「ほらっ、咥えろよ、雌豚!」
「は、はひ。わはりまひたぁ」
 僕は虚ろになる意識を途絶えさせないように、犬山君のそれを口に咥えた。
「本当にどうしようもねぇビッチだな、てめぇはよ。せいぜい一生懸命ご奉仕してやれや」
 僕が犬山君のスイーツを咥えると、それはむくむくと起き上がり、弾力のあるものへと変貌しだした。
 僕は犯され続ける。男だけの饗宴は、果てしなく続くかに思えた。
「も、もう僕は限界です。射精します!」
 僕の口の中で濃厚なミルクが出される。僕はそれを一気に飲み干す。
「ん。……んまぁい……よぉ」
「わしも、射精するぞ」
「……はぁい」
 僕の後ろのいやらしい部分のその奥に、男の証明ともいえる液体がたっぷり放出された。
「あ、はぁ……、くっ、……らめっ、らめぇぇええぇぇッッッッ!」
 僕はもう、性の奴隷になった気分になっていた。いや、性の奴隷そのものだった。
 悪夢のような宴が終わる頃には、僕は茫然自失になっていたのだった……。


   ***


 朝が訪れた。
 朝はやってくるのだ、こんな状況下にいても。
 僕は訪れた朝に向かって唾を吐きかけたかったが、具体的にどこに唾を吐き捨て、この怒りをぶつけて良いかわからなかった。
 全てが終わった後に前田は僕に「楽しかったんだろ?」と言った。僕はなにも答えなかったが、全然楽しくなかったといえば嘘になる。
 そんな自分が、嫌で嫌で仕方がなかった。
 なので僕は、どこに怒りの矛先を向けて良いのかわからないというわけなのだっだ。
 起床した僕は、本館にある洗面所へ向かう。ジャージはぐしゃぐしゃになってしまったので、寝間着として着ていた学生服のまま、向かう。あの出来事があった雑木林を抜けて、洗面所へ。
 僕より早く起きた人たちがたくさん洗面所にたむろし、会話をしていたが、僕はそういう人たちとは無関係に、顔を洗い、歯を磨き、鏡でチェックして、また部屋に戻る。部屋の中でも会話をするコトなく、終わる。僕が部屋に戻った頃に起き出した前田を見るが、奴はやはりこのタイミングでも僕を無視した。まあ、そんなもんだろ。僕は気にせず、練習の時間まで部屋の片隅で、体育座りをしながら時間をつぶした。前田も換えのジャージがないらしく、金魚柄のアロハシャツだった。
 七時。本館ホールに着くと、ラジオ体操が始まった。講師のぞなーは朝っぱらだっつーのにハイテンション。やれやれだぜ、と思いつつ身体を動かす。昨日のあの出来事が祟ったのか、腰と足の辺りが異様に痛む。筋肉痛のようだ。僕は自分が情けなくなった。
 体操が終わると、発声練習。発声の後にも昨日習った基礎連のおさらいなんぞをして、班に分かれる。僕は、D班の集まりの中へと入っていく。D班には前田も犬山君もいる。僕は一瞬躊躇したが、仕方がないので、集合に応じた。割り当てられた部屋へ、集まる。
 部屋に入り、前田を見る。前田は、僕と目を合わせない。昨日と同じだ。犬山君を見る。犬山君と目が合う。犬山君は僕を見てもじもじしている。もうどうにでもなれ、と思うしかなかった。
 D班の担当である片瀬先生は寸劇の練習の前にエチュードをやらせる。それで僕らの朝のぐだぐだ感を取り除かせる気らしい。みんなと混じって僕もエチュードを実践する。チハルちゃんから借りた本を読んで良かった。僕もすんなりとこなせた。ただ、僕がエチュードで、工事現場のおっさんの役を文字通り即興で演じたら片瀬先生は「水野、心ここにあらずって感じだぞ。よっしゃーって感じにはほど遠いなぁ」とのコメントをくれた。そっか、モードチェンジしねぇとな、と思った。
 そして、劇の練習。僕の相手役は前田。僕の役は主人公とはいえ、シーン的にはずっと前田との掛け合いをすれば良いだけなので、前田との関係性だけを考慮すればこの役はどうにかなる。
 僕は考える。
 考えて、やる。
 失敗。
 また考える。
 考えて、やる。
 失敗。
 それを繰り返す。
 そして、僕の心は自動演劇人形となる。
 何度も何度も繰り返し演じていたら、僕はパターン化した自分の演技の方法を見つけた。それをぶつけたら、拍手が起こった。「マジでこいつ演劇初心者なのかよ」とか「やる度に上手くなるな、あいつ」とのつぶやきも聞こえる。片瀬先生のみが、「もっとエモーショナルな演技をやった方が良いんじゃないか」との感想。しかし、僕はこれで行くコトにした。前田は僕の最後の演技の練習が終わると、チッと舌打ちをした。
 練習時間が終わり、僕らは大ホールへ。全ての班が練習を終え集まる。僕らはD班なので、出番は四番目だ。
 A班から寸劇を始める。シナリオは、僕らと同じ演目だ。しかし、シーンは各班違うシーンを演じるコトになっていた。
 B班にはタラミちゃんとワカメちゃん、C班にはプニコちゃんがいて、それぞれ個性的な演技をしていた。僕らのガッコウのメンバーは、上手い。他のガッコウの生徒たちとは比べものにならないくらい、上手い。なんでそれなのに大江高校の、そして恵美子は、県大会止まりなのだろうか。やはり、脚本の問題なのだろうか。
 そんなコトを考えているうちに、僕らの出番。僕は始まる前に首を回す。首は音を立てて軋んだ。
 カチ、カチ。カチカチカチカチ、チチチチチチチチ。
 僕の脳内でスイッチが入り、のーみそでインストール仕立ての演劇用アプリケーションソフトが起動する。そして僕は『自動演劇人形』のテンプレを選び、そこに自分の台詞を乗せる。台詞読みはヴォーカルであり、動きはステージングである。変換させると、実に分かり易かった。自分がどう振る舞えば良いか、僕にはわかった。
 僕は演技をする。
 数分後。
 僕の班が演技を終えると、観ていた連中は皆、固唾をのんだのがわかった。一瞬遅れての、拍手。僕はここでも拍手をもらえたのだった。
 僕が観客側にまたまわり、その後も寸劇の発表が続く。G班。恵美子の演技が始まった。

 狐のエミーの演技。
 そこには、間違いなく、淀みなく。
 神が、宿っていた。

 神業。そう呼ぶのがふさわしい。神業とは、神のわざ、だからである。
 もしも神がいて、演技をするならこうやっただろうというような演技を、縁起を籠めて、狐憑きの小島は、恵美子は、やってのけた。それはさながら、狐憑きの『クチヨセ』のようだった。
 僕の時とは比べられないほどの緊張感を持ってみんな恵美子を、エミーの演技を、エミーの縁起を、観ているのがわかった。僕だって、全身に鳥肌が立ちそうだった。演劇初心者の僕ですら、だ。
 恵美子の班の演技が終わった時、場内は割れんばかりの拍手に包まれた。みんな口々に「すげぇ」と言い合っている。

 そうして、寸劇の発表は終わり、最後にダンスのをしてそれも終わり、制服に全員が着替えた後集まって、講師陣によるホームルームっぽい小言を聞き、帰る段となった。

「ありがとーございやしたー!」
 集まった全員で挨拶をして、合宿は終わりを告げた。
「オトピチちゃん、オトピチちゃん」
 恵美子はクイクイッと指を曲げて、僕を手招きする。なんだろ、と僕は思って恵美子に近づく。すると恵美子は。
 僕に正拳突きをかました。
 僕は吹っ飛ぶ。勢いよく床に倒れ、じりじりする頬に手を当て、立ち上がった。
「な、なにすんだ、恵美子」
「あんた、なに、あの演技?」
「はあ?」
「『はあ?』じゃないわよ、貴方ね、ロボットにでもなったつもり?」
「う……」
 僕は返答に困った。実際僕は機械になったつもり、演劇の機械人形になったつもりで演技をしたのだ。
「でも、みんな拍手してくれたじゃないか」
「驕り高ぶるのはやめて頂戴。そもそも貴方の天性の演劇スペックなら、拍手貰うのなんて簡単よ。それに音楽やってたしね、努力も十分」
「な、なら良いじゃねぇか」
「ダメね。機械のような演劇なんて、それで拍手を貰って、あんた、嬉しい?」
「うう……」
 確かに、僕は嬉しくないし、僕が客で、役者が機械のように思ってする演技だって知ったら、間違いなくキレる。
「でも、……でもおれは」
 しかし、その『でも』の後に続く言葉は、僕にはなかった。僕はただ、駄々をこねる子供みたいなだけだ。

「貴方、なんでここにいるのかわかってるの? 演劇をするために、ここにいるのよ?」

 そう。そうだ。僕は、僕は演劇をやるために、ここに来たのだった。僕はなにがなにやらわからずここまで来てしまって、どうしたら良いのか、自分でもよくわからなかったが、答えは、そう、答えはシンプルだった。
 僕は演劇をやるために、ここにいるのだ。
 ここに来るまでの、演劇部に入るまでの過程なんて、そんなのどうでもいい。
 僕は。
 僕は演劇をやるために、ここにいるんだ!
 そう。だったら、誇りを持とう。ギターを弾く時のような気持ちで、演技をしよう。
 それが僕の、演劇での、うららかストロークだ!

「恵美子……」
 僕はまっすぐ、恵美子を見る。
「うじうじ悩むのなんて、ホントは貴方には似合わない。しっかりしなさい」
「おう!」
 僕と恵美子が見つめ合っていると、
「あ、あのー、水野さん」
 と、僕を呼ぶ声がした。声の方向を見ると、それは犬山君だった。犬山君は、ニヤけていた。
「え、えへへ。水野さん、あのコトをバラさらたくなかったらまた僕と……」
 言うか否か、恵美子は「うがああああぁぁぁぁッッッッ」と咆哮し、犬山君の股間に蹴りを入れた!
 股間を蹴られた犬山君は吹っ飛んで横転した。ちなみに、恵美子のスカートは短いので、ぱんつ丸見えだった。
「は、はううぅう」
「ガキはオナニーでもして家で寝てろ」
「い、痛っ、……え、えへっ……水野さん」
 蹴られた股間を手で握りながらも転んでいる、黙らない犬山君の顔面に、恵美子はもう一度蹴りを決めた。
 目標は完全に沈黙した。


   ***


「それじゃ、行くぜ」
 僕は気合いを入れる。もう、合宿の時のような機械的なものは、やらない。僕はもっと、有機的に演技を捉えるべきだったのだ。しかし、基本は同じ。台詞はヴォーカルであり、動作はステージングである。うららかな気持ちになれるよう祈って、僕は役者として、トウコちゃんを笑わせるのだ。大丈夫。僕ならきっと出来る。このステージは今、僕だけのためにある。
 大江高校演劇部、部室。僕らは合宿から帰ってきて即、部室へ向かった。なぜなら、僕が即興のコントでトウコちゃんから合格点をもらわなければならないからだ。そうしないと、僕は認めてもらえない。認められないというコトはつまり、僕は表現者として落第点だ、というのと同義だ。ここは、負けるわけにはいかねぇ。
 演技、スタート!
 僕はダッチなワイフの南極さんに語りかける。おおまかなコントのストーリーは、合宿前と同じ。だから、僕がコントを始めると、部員たちに動揺が走ったのがわかった。
 だが。僕の本気はこんなもんじゃねぇ。
 コントとは『間』の取り方で全てが決まるといって良い。つまり、ここで肝要なのは『呼吸の支配』だ。そう、それは太極拳と同じなのだ。僕はなにもぼけーっとして合宿を過ごしたわけじゃない。太極拳が「これは使える」と思ったりしていたわけだ。僕は、早くもそれを実践しているっつーこった。

 ガガ、ガガガガガガガガガガ!
 僕は気合いを入れて、コントをする。ある時は南極さんを平手打ちし、ある時はズッコける。僕のギャグ一つ一つでみんなが笑うのを、僕は見届けつつ演技をする。トウコちゃんもクスクスとだが笑っている。
 ガガ、ガガガガガガガガガガ!

「しゅーりょーよ!」
 タイムキーパーをやっていた恵美子が、手を挙げて終了の合図を出す。
 合図と同時に、僕は倒れ込んだ。
 こんなに、コントというものが疲れるものだとは思わなかった。
 僕はみんなのところへと戻り、ペットボトルのミネラルウォーターを飲み干した。
「どう? トウコ。笑ってたみたいだけど?」
 恵美子は髪をさらっとかき上げて問う。
「つまんない」
 トウコちゃんは涙目で答えた。
「つまんない! つまんないつまんないつまんない!」
 言葉が終わる頃はもう、完全に泣き出していた。そして、そのままダッシュして更衣室へと向かう。
「ちょ、ちょっと待てってば、トウコちゃん!」
 僕もダッシュでトウコちゃんを追いかけた。
「やだっ! ついてこないで! 不細工なお兄ちゃん!」
 あ、まだ僕の呼び方は『不細工なお兄ちゃん』なんだ……。まあ、それはともかく、部屋のドアをトウコちゃんが閉めるのを、ドアに手をかけて止め、僕も更衣室へと入った。みんなはこっちには来ない。ただこっちを見守るコトにしたのだろう。
 更衣室の中は、電気を点けてないので、暗いままだった。暗かったがしかし、トウコちゃんが泣いているのがわかった。トウコちゃんは嗚咽を漏らしている。
「お、お姉ちゃんは! お姉ちゃんは渡さないもん!」
「なに言ってんだよ、トウコちゃん。僕はただ、コントでトウコちゃんから合格点をもらおうとしただけだろ」
「お兄ちゃんは、お姉ちゃんのタイプだもん! お姉ちゃんは才能のある男の人が大好きなんだもん! だから、お兄ちゃんなんか大ッ嫌い!」
「トウコちゃん……」
「こっち来ないで!」
 トウコちゃんは近くにあった分厚い本を投げる。本は僕の胸に当たり、床に落ちた。
「トウコちゃん!」
 僕は大きな一歩を踏み込み、トウコちゃんを抱きしめた。
「!」
「大丈夫だよ、トウコちゃん。僕のコトはいつだって嫌って、殴っても蹴っても良いから。だけど、だけどさ、僕をこの演劇部の仲間にしてよ。お願い。僕は、……僕には、倒したい相手がいるんだ。そいつに勝つまでは、僕はここを去るつもりはないよ」
 僕はトウコちゃんを抱きしめる手を、もっときつく、抱きしめるようにした。
「お兄ちゃん……」
 僕が手を離そうとした時、トウコちゃんは顔を僕の胸にうずめ、両手を僕の背中に回した。僕も手を離そうとするのを止め、抱きしめ直す。
「お兄ちゃん。もうちょっと、このままでいさせて」
「うん……」
 暗がりの中、僕とトウコちゃんはしばらく抱きしめ合ったのだった。

 僕とトウコちゃんが更衣室から出ると、みんなは部屋の隅にあるテーブルに座り、入れ立ての茶をすすっていた。
「あら、もう終わりかしら」
 湯飲みを持ちながら、恵美子はさらっと言う。
「トウコ。もう気が済んだわね?」
「うん。お姉ちゃん、ごめんなさい」
「よし、それじゃ、オトピチちゃんは合格ね」
「よっしゃ!」
 僕はガッツポーズ。
「あとは、『あの男』だけね。あの男さえ呼び込めば、夏からはじまる全国演劇祭は、もらったも同然ね。まあ、あの気まぐれなあいつを呼び寄せるのは難しいだろうけど」
「恵美子。『あの男』って誰だ?」
「もちろん、『失楽の右手』よ」
 『失楽の右手』。『狐憑きのエミー』とタッグを組んで、中学の全国演劇祭でその名を馳せた、伝説の中学生脚本家、のコトだったよな。
「まさか、『失楽の右手』って、このガッコウの生徒なのか!」
「ええ。そうよ。オトピチちゃん、部に入っていきなりで悪いけれど、指令を出します。『失楽の右手』を連れてきて頂戴」
「はあ?」
 いきなりで、メンドそうな指令を出されたのだった。この小島姉妹って、かなり癖のある姉妹だよなー、と僕は思ったのだった。


   ***


 ピヨヒコはフライパンを豪快に操りながら、回鍋肉をつくっていた。キッチンから回鍋肉の匂いとともに、そのピヨヒコの声が聞こえる。
「兄上。昨日、兄上が帰って来なかったコトを、父上が許すとは思えませんが、どうするのですか。父上は、もうそろそろ帰宅するかと思われますが」
「ああ、僕もどう対処するか、全くわからないんだ」
「兄上はパッションで動きすぎです。もう少し自重するのを覚えた方が良いか、と」
「中学生に言われたかねぇよ」
「事実です」
「む〜」
 僕はどうすれば良いか、わからなかった。なるようになるしかねぇ、と多少は開き直ってはいたが。
 そして、暴君は帰宅した。暴君は居間に鎮座する。今日はフンドシ一枚ではなく、甚平を素肌の上に羽織っている。
「ここに座れ、オトピチ」
「はい」
 座れとこの人に言われて、素直に座る以外になにが出来るというのだろう。
「鬼頭さんから聞いたぞ。演劇部の合宿、だと?」
「そうです。演劇部に入りました。昨日から合宿に行っていました」
「ほう。それで? 楽しかったか?」
「はい」
「学生の本分というのがなにであるか、わからないわけではあるまい」
「学生の本分とは、今を楽しく生きるコト、です」
「あ、兄上……!」
 僕の横に正座しているピヨヒコが、ビビりまくりながら僕の意見を止めようとする。しかし、僕は止まらない。
「学生とは、学業以外にも学ぶコトがあるんだと、思います。それは、見識を広くするコトなんだと、僕は思うんです」
 自分で言ってて言葉の意味が良くわかってない僕がいる。見識ってなんだ? 意味なんて知らねぇ、ただ、心が叫び出そうとする。僕は抑えたトーンにして、言葉を紡ぐ。
「その、つまり社会性を身につける、それは勉強だけしてりゃ良いってもんじゃないんだと、僕は思う」
「大層なコトを喋れるようになったな。それも合宿とやらで学んだコトの一つか?」
「僕には目標が出来ました。どうしても、夏の演劇祭で勝ちたい。倒したい相手が出来たんです。僕は、今演劇部をやめるわけにゃならねぇんですよ!」
「ガキが。だからガキの意見は浅はかだというのだ。良い大学に入り、良い会社に入るのが正しい道だ。それ以外、貴様に選択肢なぞない。私が育ててやっているのだ、その恩を返す義務が、貴様にはある。良い大学に入っても就職難だというのに、貴様は他の部員とお友達ごっこをして自分の将来を潰すというのだな」
「お友達ごっこ? 親父、ふざけんのも好い加減にしろよ。僕の仲間は、お友達ごっこなんかしてねぇぞ! 絆は、そんな浅いもんじゃねぇッッッッ!」
 僕はちゃぶ台を大きく一回叩く。ピヨヒコがその音で一瞬飛び上がる。
「鼓笛隊ごっこの次はお遊戯会か。貴様の幼稚な考えには辟易する。私はそんな風に貴様を育てた覚えはないのだがな。悪い母親の影響だな」
「おい、てめぇ! おふくろの悪口はよせや!」
 僕は親父の着ている甚平の胸ぐらを掴んだ。
「おふくろはなあ、てめぇの所為で!」
「自分の父親をてめぇ呼ばわりか。わかった。貴様がそのつもりなら……」
 その後。
 いつものようには日本刀を所持していなかった親父だが、そもそもが屈強な肉体を持つ奴と、ミュージシャン希望のひょろい僕とじゃ、話にもならなかった。刀を使うか否かなんて、関係などなかった。わかりきっていたコトだったのに。
 僕は瞬時の内にフルボッコにされてしまったのだった。ボコボコにして、自分の部屋へと暴君は去っていく。
「兄上。救急車を呼びましょうか、それとも霊柩車を呼びましょうか」
「ああ、……霊柩車でも、良いかもな」
「そうですか、それでは救急箱を持ってきます」
「包帯の代わりにフンドシ持ってきたら、殺す」
「う……」
「って、ピヨヒコ、まだそのネタで引っ張ろうとしてたのか」
「救急の前に、ワタクシが汲々です」
「上手いコト言うじゃねぇか」
「恐縮です」
 ……って、なんじゃそりゃ。


   ***


 次の日は月曜日。僕にはまず行かなくてはならない場所があった。そう、小島恵美子から『失楽の右手』とかつて呼ばれていた『あの』人物を仲間に引き入れないとならないからだ。だがしかし、その人物を説得するのは骨が折れそうだぞ、と思う。これは長期戦を覚悟しなきゃなんねぇだろう。リュービゲントクがショカツリョーコーメーを仲間にした時だって三顧の礼とかいうのをしたそうじゃねぇか、横山光輝のまんがでそんなのを読んだぜ? そんな勢いでへばりついてしがみついて説得する覚悟がいるだろう。僕にそんなん出来るかな。まあ、やってみるさ!
 僕が昇降口から上履きに履き替え目的の場所を目指して歩き出すと、教師用昇降口の方から担任の笹井がこっちに向かってきた。
「おー、水野ぉ〜、い〜ところにいたっしょ〜」
「あ、僕急いでるんで」
 僕が礼をして通り過ぎようとすると、笹井に腕を掴まれた。
「つれないっしょ〜、水野ぉ〜。話があるっていったっしょ〜。ちょっと話を聞くっしょ〜」
「は、はあ……」
 あー、もう。急いでるのに。
「実は昨日の夜、水野の親御さんから電話があったっしょ〜」
 親御? げっ、親父か! あのクソがっ!
「水野が部活に入ったコトについて色々訊かれたっしょ〜。水野、お父さんとは上手くいてないのかぁ〜?」
 ヤバそうな展開だぞ、どうする、僕。
「それで、親父……いや、お父さんはなんて」
 笹井は笑う。
「あはは、だいじょぶっしょ〜。水野のコトはこれでも私はわかってるつもりっしょ〜。親御さんには上手く言っておくから、心配しないで部活に励むっしょ〜」
 なんつーか、意外に頼りになるのか、この担任は……。
「ありがとうございます! それでは」
「お〜、がんばるっしょ〜。でも授業には出るっしょ〜。先生との約束っしょ〜」
「はい!」
 僕はもう一度礼をすると、その場から離れた。笹井は手を振っていた。僕は急いで朝のホームルームが始まる前に、あの場所へと歩いたのだった。
 そう、放送室へ、と。

 僕がノックすると、放送室のドアが開いた。
出てきたのは花札さんだった。
「おー、オトピチくんなんだな。ま、待ってたんだな」
 待ってた?
「ささ、は、入るんだな」
「はあ……」
 待ってたとか言われると逆に拍子抜けするんだが。ま、厄介者であるよりゃマシか。僕は放送室へと入る。花札さんもドアを閉めてテーブルへ向かう。
 花札さんはテーブルの上に置いてある電気ポットで、カップにインスタントコーヒーを入れ、お湯を注いだ。
「お、オトピチくんは、コーヒーは飲めるのか、かな?」
「はい。いただきます」
 そう言って僕は、いつも通りテーブルに足を乗せてエロ本『くんずほぐれつ倶楽部』を読んでいる二階堂さん、いや、『失楽の右手』を見やる。
 それと同じタイミングで、『失楽の右手』は僕の方を見ずに僕に語りかけた。
「あー、あー、タリぃぜ、マジで。どうしてみんなオトピチオトピチ言うのかねぇ。どうよ、本人としては?」
「は? はあ」
「ま、コーヒーでも飲めや」
「はい」
 僕は花札さんがいれてくれたコーヒーを一口飲む。熱い。
「どーせ志賀情報なんだろうけどさー、オトピチちゃんの周り、盛り上がってるみたいじゃん? そんな噂だぜ?」
「志賀と知り合いなんですか?」
「おう。中学が一緒だからな。情報通の志賀とは、仲良くしてもらってるぜ」
「そうなんですか」
「で、だ。今日朝早く、違うガッコウの制服着たあんちゃんが来るからよー、ここに。ヤンキーが襲ってきたかと思っちまったぜ、違かったけどな。そいつも、たぶん志賀情報で俺様のところに来たんだろうけどな」
 僕はコーヒーをすする。
「おれ、オトピチ、小島の三人の関係性、わかってるみたいでよ。その違う制服着たあんちゃん、馬並って奴がさ」
 う、馬並がここに?
「馬並、で良かったのかな? まあ、名前とか良く覚えてねぇけどよ、そいつが『オトピチをオトコにしてやってくれ』とか抜かすわけよ。おれに土下座してさ」
「ど、土下座!」
「ああ、更に『くんずほぐれつ倶楽部』のバックナンバー、おれが欲しくても手に入らなかった幻のボリューム0号を持って、だ」
 二階堂さんはため息を吐く。
「仕方ねぇからよ、書いてやるよ、脚本。演劇祭、勝ちてぇんだろ? 全く、どいつもこいつもオトピチオトピチうるせーっての」
 二階堂さんが本をテーブルに投げ、僕に目線を合わせる。
「みんなに愛されちゃってるじゃん? オトピチちゃんよぉ」
 そして、二階堂さんはニヤリと口をほころばせた。僕はその冷たい笑みに背筋がぞくりとした。その冷たさは、恵美子と似た、あの狐と同族の、そんな妖艶な冷たさだった。


   ***


 僕がみんなから愛されているかどうかは知らない。とりあえず放送室から出た僕は、いつも通りみんなから迫害を受けていた。机には落書きがびっしりと書いてあるし、廊下を歩いていたらパイナップルヘッドに体当たりされ、僕は床に尻餅をついたりした。休み時間は完全にクラスののけ者だったし、僕は昼休みは逃げるように放送室へと向かった。放送室にの面々は、こちらもいつも通り優しかった。それにしてもあんなに僕と普通に接してくれる放送室や演劇部のメンバーも同じ高校の生徒だなんて、信じられない。なんなんだろう、この状況は。
 放課後、僕は演劇部の部室へ行って、『失楽の右手』を引き入れるのに成功した、と報告した。巻き毛をいじりながらタラミちゃんは「見なおしましたわ!」と僕を誉め、その後立て続けに部の人間から賛辞を受けた。恵美子は「さて、お膳立ては出来たわね。役者陣も、脚本に負けないくらい頑張りましょう。別にあの人が戯曲を書いてくれるから必ず勝てる、なんて都合の良い話じゃないのだから。片瀬先生が演出をしても、去年は勝てなかったのよ。それを忘れずに」とみんなに気合いを入れさせ、その日の練習が始まった。この日、僕は演劇部、初めての練習だったのだが、演劇は奥が深いとか、そういう月並みな感想を抱きつつ、意外にキツい基礎練をこなした。部室には、トウコちゃんの姿もあった。トウコちゃんの、恵美子に対する尊敬のまなざしが、いやに印象的だった。ホントにこの子はお姉ちゃんが好きなんだな、と思った。
 そして、練習が終わり、僕らは駅までみんなで一緒に帰った。よく考えたら、女の子たちと一緒に下校するなんて、人生初のコトだった。
 電車の中、僕は担任の笹井のコトを思い出す。果たして、あの親父が笹井先生の説得に応じるだろうか。はなはだ疑問だったが、ここは信じるしか、なかったのだった。

「座れ、オトピチ」
 帰って来て早々、またクソ親父は説教を始める。内容はいつもと同じ。うんざりするクソうぜぇ奴だ。笹井の説得には、まるで応じなかったというわけである。笹井とどんな話をしたかは知らねえが、この親父はきっと高圧的に話をしたのだろう。下手すると年下である笹井にも説教を喰らわした可能性すら、ある。モンペ野郎の誕生である。
「貴様は何度言わせればわかるのだ。お遊戯会を辞めろ、と言っているのだ。簡単な話だろう?」
 簡単じゃねぇ、クソがっ! 僕は前田に勝たなくちゃならねぇんだよ! そう言いたかったが、話がこじれるので、言えない。なにも言い返せない僕はダメな奴だと思う。だけど、言わなきゃこの事態は解決出来ないだろう。畜生! どうすりゃ良いってんだ!
 親父は、今日はフンドシ一枚で腕組みをして座布団に正座している。日本刀が正座しているその足の横に置いてある。デンジャーな状態だ。また、斬られるかもしれねぇぜ。
 親父がぐだぐだ喋っているのを聞き流して今後どうすりゃ良いか考えていると、「ちわーっす、クロウサギヤマタの宅急便で〜す」と玄関から声がする。
「ピヨヒコ、行って来い」
 親父が顎で玄関の方を指すと、僕の横で正座して黙って話を聞いていたピヨヒコが立ち上がり、正座で痺れたふくらはぎを手で揉みながら玄関へと向かう。
 玄関から、その宅急便だという男が、僕と親父がいる居間まで聞こえるように、大声で話し出す。
「君がピヨヒコくんだね、おれはオトピチの友達で二階堂ってんだ、よろぴく」
 よろぴくってなぁ、あんた……。
「いやいや、夜分遅くすみませんだってばよ!」
 え? 語尾がナルト? わっかんねぇよ!
「これ、つまらないモノですが」
「これはこれはご丁寧に」
「これ、お口に合うかな、ピヨヒコくん?」
「これは、饅頭、ですか?」
「おう、そうよ! これはおれが敬愛する米米CLUBのヴォーカル、カールスモーキー石井さんの実家で売ってる饅頭で、『米米饅頭』ってんだよ! うめぇぜ!」
「いや、ですがワタクシ、饅頭が、怖いですので」
「…………」
「…………」
 ぜってぇ今のギャグすべってるぞ、ピヨヒコ!
 二人が黙っていると、意外なコトに親父が玄関先のピヨヒコに向かって声を出した。
「ピヨヒコ。そこではなんだから、上がって貰いなさい! 米米饅頭は私の大好物だしな!」
 って、マジっすか! いや、いろんな意味で。
「あ〜、いや、そりゃどうも〜」と言って二階堂さんが靴を脱いでる音が聞こえる。
「おう、んじゃ、石原も一緒に入ろうや」
 え? 石原さんもいるの?
「それでは、失礼します」
 石原さんの挨拶まで聞こえた。そしてドカドカと廊下を歩く音が聞こえる。この足音は、絶対二階堂さんの音だと思う。石原さん、足音どころか気配を消せる人だからな。
「いや〜、どもどもども〜」
 二階堂さんが頭を下げて入ってくる。いつもの偉そうな二階堂さんとは違い、愛想笑いを親父に対し、している。とても奇妙な感じだった。ショルダーバッグを下ろした二階堂さんと石原さんがピヨヒコに促されて親父の向かい側、僕の横に座る。ピヨヒコも二階堂さんと反対側の、僕の横に座った。
「これが米米饅頭ッス」
 二階堂さんが親父に饅頭を手渡す。
「ふむ」
 親父は頷く。
 が、しかし、どういうつもりなんだ、二階堂さん。宅急便を装って入ってくるコトからわかるように、これは否が応でも僕の家に入ろうとしてたのは明白。ただ、その理由が、僕にはわかんねぇ。
「いや〜、お父さん、素敵な服装で」
「うむ」
 ひ〜! それは言うな、二階堂さんっ! そして親父も顔を赤らめて「うむ」とか言ってるしさぁ。
「健康的で良いッスよ。なあ、石原」
「独創的で良いと思います」
 親父は眉毛を片方だけつり上げる。
「二階堂くん、と言ったかな」
「はいッス」
「で、そっちが石原くん、と」
「はい。以後、お見知りおきを」
「ほう。では二年生の二階堂ホウイチと、同じく石原マモル、だな」
「そうッス」
「なるほど。『十の刃』か」
 僕にはさっぱりわからない。なんだなんだ? なんで親父が二階堂さんと石原さんのフルネームを知ってんだ?
 そして、反応したのは親父だけではなく、ピヨヒコも、だった。
「えっ! この方たち、あの『十の刃』なんですか!」
 僕は横に座っているピヨヒコに尋ねる。
「なんだ、『十の刃』って?」
 ピヨヒコは僕に耳打ちする。
「兄上、知らないでこの方たちと付き合っていたのですか。『十の刃』とは、全国模試で常にランキング十位に入っている、不動の十人のコトです。ランキング十位『失楽の右手』の二階堂ホウイチさんと、ランキング一位『興醒めの審判』の石原マモルさん、ですよ。県下ではもちろん、一位と二位のコンビです」
 よくわからんが、すごいらしい。二階堂さんは脚本家として有名なだけで通り名があるわけじゃねぇってのが、わかった。
「で、なんでそんな凄い人が僕の高校にいるんだ?」
「それはさぁ」
 話を聞いていたらしい二階堂さんが僕に言う。
「家に一番近い高校を選んだから、だぜ」
「私は坊ちゃまと同じ高校を、と」
 石原さんも、答えた。
 親父が話に割って入る。
「十の刃が、家になんの用で来たのかな」
「それは、ホントは知ってるッスよね」
「なるほど、失楽の右手は、脚本書きだ、と聞いたコトがある。そういうコトか」
「そういうコトッス」
「私を、怒らせたいようだな、失楽の右手よ」
 親父は脇に置いておいた日本刀を手に取る。
 だが、二階堂さんは動じない。動いたのは石原さんだった。着ていた学生服の胸ポケットに手を突っ込む。銃を取り出す気だ。だがしかし、ポケットから銃を取り出す前に二階堂さんが手を水平に、石原さんの目の前に伸ばし、制する。
「坊ちゃま」
「良いんだ、石原」
「……わかりました」
 親父は手に取った日本刀の鞘を抜く。現れた刃は輝いている。僕でさえ、その刀身が良く手入れされているのがわかる。
 親父が日本刀を二階堂さんに向けて振る。刃は二階堂さんの制服を切り刻んだ。石原さんが唇を噛みしめる。耐えているのだろう。二階堂さんは無表情。微動だにしない。
 日本刀は何度も何度も二階堂さんの制服を切り刻む。二階堂さんはそれでも尚、正座したまま動かない。切り刻む、切り刻む、切り刻む。制服が削られて見えている、露出した肌からは、どこもかしこも血がしみ出している。
「ガキがっ!」
 斬ッッッッ!
 大きな音を立てて振られた最後の一撃は、二階堂さんの左頬を斬った。かすめただけとはいえ、頬から血が飛び出る。
 しかし、二階堂さんは、狐と同じ、冷徹な瞳で僕の親父、水野キョウゾウを見た。
 親父はその目に一瞬ひるみ、それから言った。
「ふん。そのくらいの覚悟があるなら良いだろう」
 二階堂さんは、冷たい目をしたまま、微笑む。頬の傷からは血が滴っているが、拭おうともしない。
「ありがとうございます。オトピチくんには、僕と石原がガッコウで習う以上の勉強を仕込みますから、安心して下さい」
「わかっておるわ。そのために、君たちが派遣されて来たのだろう」
「はい」
「くだらんな。友情ごっこか」
「友情ごっこではありません。友情、です」
 二階堂さんは親父を見据える。どこまでも、冷たい瞳だ。しかし、その冷たさの裏には、熱すぎるほどのなにかが詰まっているようなそんな目だ。
「それから、お父さんにはこれを」
 二階堂さんは、横に置いていたショルダーバッグから瓶を取り出す。日本酒の一升瓶だ。
「お口に合うかわかりませんが」
 瓶のラベルには『大吟醸・美少年』と書いてある。
「美少年から送られる美少年も、乙なものでしょう」
 親父も無表情なまま、言う。
「そうだ、な」
 二階堂さんから一升瓶を受け取ると、親父は血が付いた日本刀をティッシュで拭き、鞘に仕舞い、居間から去っていった。
「二階堂さん……」
「坊ちゃま」
「大丈夫だって、こんくらいはよ」
 二階堂さんはその場で仰向けに倒れる。
「うひ〜。でも死ぬかと思ったわ」
 どっちだよ!
 そこへピヨヒコが駆け寄る。
「大丈夫じゃありません! 救急車を呼びますか、それとも霊柩車を呼びましょうか」
「いや、普通に警察呼べよ……」
 二階堂さんのツッコミは、正しかったのだった。


   ***


 僕は憎しんでいる。誰を。前田を。ガッコウでのいじめは? もちろん。僕はこの状況下を憎しんでいる。ただ、憎しみの質が、数日前とは違う様相を呈しているのもまた間違いない。今の僕なら、この憎しみをポジティヴに反転させ、その想いを織り上げ歌うコトが出来る。この状況下だからこそ、うららかなストロークが出来る。部活から帰ってきて、恵美子が持ってきたオベーションのエレアコを弾く。だが、僕の音楽修行は、今や音楽をやるだけではない。演劇も、僕の立派な音楽修行の場だ。
 エレアコを仕舞い、机のデスクライトを点けながら考える。
 僕の演劇への原動力は、前田たちへの憎悪、なのではあるが、それは問題なのだろうか。答えは否、だ。人がどういう欲望を持って物事に励むか、それを、人の心の中の欲望までは、誰も裁けない。憎しみをどうにかしようという発想は確かに危険分子のそれではあるが、だがしかし。
 憎しみは、僕にとって『きっかけ』であり、また努力する時のモチベーションを上げるためのものであって、実際にナイフで前田やクラスメイトたちを殺傷しようという気はないのだ。それは至って健全で、健全だからこその、悪意なのだ。悪意。しかし、昇華させようともがく、そんな悪意の発散をするところまで含めての、僕のうららかストローク。
 うぃー。なんか柄にもなくかっこつけたコト言ってるじゃん? ヤベぇヤベぇ。もうちょっとシンプルに考えないと、わけわかんねぇ。シンプルイズベスト。僕は前田に『演劇で勝つ』ために、努力している。奴には逆立ちしたって出来ない、うららかなストロークで、勝ってやる。ただ、それだけのコトなんだ。
 思考終了。
 僕は、自室の机の上で鉛筆を回す。机の上にはノートと教科書。二階堂さんのメンツを立てるため、勉強も頑張らねぇとな。

 図書室に演劇の本を返しに行ったらチハルちゃんが「今年は演劇部の発表会はやらないんですのん?」と訊いてきた。僕は「部長に訊いてみるよ」と返した。
 そんで。その日の部活中に恵美子にそのコトを尋ねてみた。すると。
「そうね、今年もやるわよ。実はそのためにホウイチには脚本をゴールデンウィークが終わるまでには書き終えるよう、言ってあるわ」
 と、答えた。秘密裏に話が進んでいるコトを僕は知って、「言わない辺りが恵美子らしいな」と思ったのだった。
 そう思っていたら、部室に二階堂さんが登場。身体を左右にくゆらしながらの登場であった。昼休みはなんともなく感じたのに、このやつれ具合はなんだ?
「おーう、皆の衆〜、元気かぁ〜」
「それはあんたに訊きたいわ。貴方は元気、なのかしら」
 二階堂さんがフラフラでも、毒を吐くコトは忘れない恵美子である。
「いや、よぉ、なんつーの、放課後くらいになったら起きてる時間が四十時間を突破しちまってよぉ、そのコトに気づいたら急に体力の限界がきちまったってわけよ」
「ふ〜ん。で、脚本の方はどうなの」
「……バッチリんこ」
「お下品な人ですわ」
 タラミちゃんが言う。
「どういう意味でぇすぅのぉ?」
 プニコちゃんが隣のワカメちゃんに尋ねる。
「ほら、だからバッチリんこで、ちんこなわけよ!」
「ワカメさんっ!」
「あ、ヤッベ。ごめんごめん、つい」
「ちんこってぇ、なんですぅのぉ?」
「知らなくて良いです!」
 タラミちゃんは両手を交差させてバッテンマークをつくる。
「その脚本は、持ってきてるのかしら」
 ヤヨイはメンバーの漫才にはガン無視を決め、話を進める。
「書いてる途中の原稿はノートPCに入れて持ってきてるけどよ、まだ見せられねぇな」
「じゃあ、なんでここに来たのかしら。貴方も部のメンバーとはいえ、用もなくやってくるとも思えないけれど」
「おう、それよ。許可を取るのを忘れててよ」
「許可?」
 恵美子は首をかしげる。
「オトピチ」
「は、はい」
 いきなり名前を呼ばれたのでびっくりする。
「おまえよぉ、前にストリートライヴやってた時、兵士がどーのって歌、歌ってたじゃん」
「ああ、『兵士の歌』って曲です」
「あれの話を聞いた時、内容が素晴らしいと、おれは思ったわけ。そんで、それにインスパイアされてよぉ、今書いてる戯曲、兵士の物語にしたぜ」
「え? あ、はあ」
 いきなり言われてもピンと来ない。
「タイトル『ペーパーソルジャー』。養成ガッコウで習った戦闘訓練と、実際の戦場が全く違うから、その実戦にあたふたする兵士たちを描いたスラップスティックコメディだ」
「面白そうね。でもホウイチ。うちの部はほとんど女よ。それで兵士の劇をやるっていうのは無理がないかしら」
「いや、まさに見所はそこよっ! これは『萌え』に特化した戯曲なのさ」
 二階堂さん、絶対『萌え』を拡大解釈してるよな……。
「ギャルゲーをやると気づくんだが、どうも今の男向けコンテンツ産業ってのは、普通は男だらけの環境を描く場合であっても、やたらめったら女の子ばかりなんだよ。基本、ストーリーに出てくる男は主人公一人。町に男一人しか存在しないとかもザラでよ。おれはそれを今まで疑問に思ってたわけ。でもよ、これって使えねぇか、と。そんで今回、そういう女だらけで萌えストーリーをやろうと思ったんだわ。兵士でも女兵士ばかりっつーな」
「なるほどね」
「今回の戯曲は、もちろんそのまま演劇祭、大会用の本なんだろ」
「そうよ。発表会は大会の前哨戦」
 はじめて聞いたぞ、それ。まあ、発表会のコトも今日聞いたわけだが。
「気合い入れて書かせてもらうぜ。ある程度書けたらおまえらにも見せるし、演出の片瀬先生と話し合って軌道修正していくからよ。まあ見てなってばよ!」
 またナルトの語尾になってるぞ、二階堂さん。

 そして、僕らは夏の大会と演劇部発表会に向けて動き出す。


   ***


 ざわざわざわざわ。
 大江高校体育館中がざわめき立つ。六月。今日は演劇部の発表会なのだ。有名な『狐憑き』小島恵美子の演技を一目見ようとガッコウ中から客が集まってきた。チハルちゃんの顔もあった。もちろん、トウコちゃんの顔も。放送委員会が毎日広報活動したとはいえ、僕はこれほどまでに客が集まるとは思わなかった。正直、意外だった。ディスられてる僕がいるのに、これなんだから。どうやら演劇部は期待されている、というのがわかった。気合い、入れねぇとな。
 舞台袖から顔を出して客入りを見ていた僕は、「集合!」という恵美子の声で、緞帳の中に戻った。
 一ベルが鳴る。そして二ベルが鳴ると、客は静かになった。
 恵美子はメンバーに円陣を組ませる。
「良いかしら? いくわよ!」
 みんなで手を前に出し、その手を重ね合わせる。そして、みんなで叫ぶ。
「勝ったぜー、よっしゃー!(片瀬ヨシヤー!)」
 そして、開始ベルが鳴り、緞帳が開いていく。

 が。

 なんじゃこりゃー!

 緞帳が開くと、そこには今までの客は居なくなっており、用意されたパイプ椅子には金髪、ドレッド、モヒカン、スキンヘッドよりどりみどりで各々鉄パイプ等で武装した不良たちが座っていたのだった!
「殺すぞおおおぉぉぉぉ!」
「ぶっ殺ーすッッッッ!」
「八つ裂きじゃああああアアアアッッ!」
 明らかにボキャブラリーの少なそうな野郎どもがその貧困な言葉で僕ら演劇部を威嚇する。不良たちは立ち上がり、こちらに今にも向かってきそうな勢いだ。
 その不良たちの中から、一人が前に進み出て、僕を睨み付ける。そのはち切れそうなデブの男は、杉山田タカジルだった。ガッコウをずっと休んでるので退学になったんだとばかりと思っていたら、こんなところでなにしてんだ、こいつは。
「ブタ夫〜! 最近一段と調子こいてんじゃねぇどか?」
「うるせぇ、デブ」
 僕も言葉を返す。
「んだどぉ! おめぇ、これ以上言ったらマジ殺すど! 言ってくけんどもなぁ」
 杉山田は、大きな声を張り上げた。
「前田さんは、オラのもんだどおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッッッッッッッッッッッッッ!」
 咆哮。
 不良たちも一斉に叫び出す。それはさながら動物園かサファリパークのようだった。
 不良どもが来る前に、奥の方に引っ込んでいた二階堂さんが役者陣全員に聞こえるような声を出し、恵美子に言う。
「今電話したら、石原はあと五分くらいでここへ到着するらしい。あいつが来ればこいつらを片付けるのは十分だし、教師どもも駆けつけるだろう。片瀬先生も今、体育教官室に向かったしな。五分、こいつらを引きつけて耐えれば、おれたちの勝ちだ」
 恵美子は鼻を鳴らす。
「五分あれば十分よ。こいつらを私たちで片付けましょう」
 マジっすか?
「行くわよ、オトピチちゃん」
 え? 僕?
 敵多すぎだろう、と戸惑ってるうちに不良どもが舞台上に這い上がってくる。ピンチ。
 まず飛び出したのは二階堂さん。舞台に手をかけて上がってきそうな不良を足で蹴って下に突き落とす。ヤヨイもそれに準じる。
 しかし、不良どもの数は多い。中には上がってくるのに成功する奴が出てくる。
「ど、どうするぅんでぇすかぁ!」
 プニコちゃんが慌てふためく。
 ワカメちゃんは二階堂さんと恵美子に混じって蹴る係になっていて、プニコちゃんにはタラミちゃんが答える。
「私たちもお姉様たちとともに闘うんですのよ!」
「で、出来ないでぇすぅぅぅぅ!」
 プニコちゃんは泣きそうになる。そんなプニコちゃんめがけて、上がってきた不良の一人が襲いかかってくる。
「ひ、ひいいぃぃぃでぇすぅぅぅ!」
 そこへ、ジャンプ蹴りが飛んできて、不良を吹き飛ばした。
「ほげぇぇぇ!」
 不良は吹き飛びながら悲鳴を上げる。
「だ、大丈夫、な、なのかな?」
 蹴りをかましたのは、花札さんだった。体育館放送室に演劇部の手伝いで来ていたのだ。
「野郎ォォォォ!」
 違う不良が花札さんを襲う。
 しかし、花札さんは掌底を不良の鳩尾に一発ぶち込む。
 不良は撃沈。
「ぼ、ボクはこれでも、石原さんにちゅ、中国拳法を、ま、学んだんだな」
 花札さんがプニコちゃんとタラミちゃんを守っているその頃、僕、二階堂さん、恵美子、ワカメちゃんは不良に全方位を囲まれていた。僕らは自然と背中を合わせるようにして、それぞれ違う方向を向いて、構える。
「お、オラの想いは、前田さんへの想いは、本気なんだどォォォォ! なんで、なんでブタ夫ばかり前田さんに好かれるんだど、許せんどおおおおぉぉぉぉォォォォ!」
 恵美子は、クスリと笑う。
「オトピチちゃんのモテオーラが、こんなところにも違う意味で派生してるのね。でも、オトピチちゃんは、そうでなくちゃ、ね」
 うふっ、と乙女のように微笑む恵美子の顔を僕は見たかったが、どうやらそんな場合ではなさそうだった。
「やるしかねぇようだぜ、オトピチちゃんよぉ。準備は良いかい?」
「はい」
 僕は答える。
 ワカメちゃんも無言で頷くのがわかる。
 そして恵美子は、不良には絶対負けない声量で叫ぶ。
「私たちを。……勝たせて、よっしゃあああああああァァァァァァァ!」
 そしてその叫びを合図に、僕らは自分の対面する方向の不良たちに向かって飛び込んでいったのだった。

 こうして、盛大なバトルから、僕らの演劇は始まった。




   ***エピローグ***


 公民館の舞台裏。控え室と舞台を繋ぐ廊下。スピーカーから本番中の高校の劇、役者の声とBGMが鳴り響いている。モニター用マイクが役者の声を拾っているようだ。
 鳴り響くBGMは祭り囃子。そこにプロよりは拙い高校演劇の俳優の声が重なる。
 その音の中。
 僕と前田は廊下で対面してしまっていた。廊下には二人以外、誰もいない。
「よぉ、オトピチ」
「前田……」
 僕は息をのむ。
 今は秋。夏の演劇祭地区大会は、前田の高校が一位、僕らが二位で、ともに県大会へと駒を進めた。その県大会が今日で、今やってる高校の次は前田の出番、そして僕らは前田の次の出番というコトになっていた。
 僕らの夏はまだ、続いている。
 僕と前田はどちらとも、もう控え室で待機の時間。だが、まさか出くわしてしまうとは思わなかった。
「オトピチ、お前まだ演劇を続ける気か」
「ああ、やらしてもらうぜ、誰がなんと言おうとな」
 虚勢。しかし、そう答える以外、どう答えろというのだろう。
「まさかお前がここまで勝ち進むとはな。『猛獣』水野オトピチと、『猛獣使い』小島恵美子のコンビ、ね」
 前田は舌打ちをする。
「お前も偉くなったもんだな、オトピチよぉ」
 僕は秋なのに金魚柄のアロハシャツを着崩しているその不敵な男を、精一杯睨み付けた。
 祭り囃子が、まだ鳴っている。
「そう怖い顔すんなや。……認めてやるよ、お前を、わしのライバルとして、な」
 僕は無言で、尚も睨む。睨むコトしか、出来ない。劇では俳優が、流暢な長台詞を披露している。
「つくづく気にくわねぇ野郎だよ、お前はよ。……闘ってやるぜ、わしも全力で」
「…………」
 スピーカーから音が消え、廊下が静寂に包まれる。その中で、僕と前田は睨み合った。長い沈黙の後、前田は笑った。
「楽しくなるぜ、これからよ。わしは今年入れて二年、お前は三年ある。その間に、どこまで名声を得られるか、勝負だ」
 僕は、唾を飲み込み、言い放つ。
「望むところだ!」
 静寂が終わり、またスピーカーからは祭り囃子が流れ出す。
 この祭りは、一体いつまで続くのだろう。この戦いは、いつまで続くのだろう。この祭り、この祭り囃子は、いつか終わりが来る。しかし、それまで僕は、命がけで闘おうと思う。仲間がいる。ライバルがいる。今の僕には、それだけで闘う意味は十分過ぎるほど、ある。
 意味、か。
 自分で言っておいてなんだが。

 わけわかんねぇ。
 僕はただ、仲間とともに戦うだけだ!

廊下にはまだ、祭り囃子が鳴り響いている。
 そう、僕らの奏でる祭り囃子は、僕らの奏でるうららかストロークは、まだまだ続いていく。


                 (完)

うららかストローク

2010年頃に、某純文学雑誌で3次選考まで行ったんだっけな。別名義で。

うららかストローク

五大文学雑誌の賞でいいとこまで行ったが、過去の話さ。おっと、おれが誰だかわかっちまうかもな。お手柔らかに頼むぜ?

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2025-08-09

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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