鳥籠のディスクルス
どのくらいの間、ここでおれはぼーっとしてるのだろう。今が何時だかも、昼なのか夜なのかもわからない。ただ、この鉄格子の中の静寂によって、耳鳴りが増幅されて、その音に耳を澄ますだけだ。
百太(ももた)は、ベッドから上半身を起こし、鉄の部屋の、鉄の開き戸を見た。鍵は、厳重にロックされている。開き戸に開いた小さなガラスの窓には、格子。その外から、ほのかな明かりが部屋に差し込んでいた。その明かりも蛍光灯のもので、普通の窓が全くないこともあり、時間感覚の麻痺は止まらない。
隔離病棟の、保護室。精神病院の中、というのは、なんとか理解できた。しばらく前、……それは何日前だかはわからないが、そう、しばらく前、百太は、この保護室に入る前は、手足を拘束具でベッドに縛られ、呻いていた。病院で着せられたと思しきパジャマの中には、紙おむつを着けられていた。局部には管を通され、そこから自動的に排尿させらていて、手首にも点滴の管が刺さっていた。
百太は、その時のことを回想する。数日前の、ベルトの拘束具を引きちぎろうと、引きちぎってどこかに「逃げよう」としていたその時のことを。おれは、「助けてくれ」と叫んでたな、と思う。なにが助けてくれ、なのか。逃げる場所なんて、元からなかった。だから、死のうとした。死のうとして失敗して、生き恥をさらした。だから、おれはこれからずっと、恥をさらして生きていかないとならないのだ。
「ここから出られる保証なんて、どこにもねぇし。はぁ。一生を檻の中で、過ごすのか。……思えばくだらねぇ人生だったな」
百太は、笑った。渇いた笑い声が、鉄格子の中に響いた。
紙おむつを外され、股間の管、カテーテルを外され、『ポータブル』と呼ばれていた『おまる』に排尿したときは、全身に激痛が走り、尿には血が混じっていた。その痛みで、自分はまだ生きているということに気づいた。
いや、本当に生きていると言えるのか。これが、生きている状態だ、と。
百太はベッドから起き、立ち上がって部屋に備え付けのスリッパを履いた。部屋には、トイレが付いていた。そこへ向かうためだ。この鉄格子の中は、くさい。換気もなにも、あったもんじゃなかった。その空気を吸い込み、吐き、それから、伸びっぱなしのあごの無精ヒゲをさすった。
「排泄するおれは、間違いなく人間だ」
百太は、そう呟いた。
その白衣を着た精神科医は、厚化粧の女だった。その背格好では、年齢を当てるのは難しい、そんな医者だった。
「あなた、ここになんで入れられてるか、自覚はありますか?」
「それより先生」
百太は話を折る。「鉛筆と、ノートをくれませんか?」
医者は、顔を歪める。
「あなたはまだ、そんなことを言っているんですか!」
百太は応答せず、ベッドの毛布にくるまったままだ。
「……つまりですね。こういうことです。あなたは自分がクジャクだと思っていて、どこかで拾ってきたクジャクの羽を広げて自分をよく見せようという自己アピールをすることだけにすべてを注いでいる。しかしその羽はどこかで拾ってきた薄汚い羽だし、ましてやあなたはクジャクなんかではなく、そこら辺でひとが蒔いた餌にぽっぽ、ぽっぽと群がるただの鳩でしかない。そのあなたの姿は醜く、滑稽で、はなはだ人々の笑いのタネ。その滑稽さに気づいていないのはあなただけで、みんな気づいていて、笑っているのです。あなたは愚かですね。ただひたすらに、クジャクの羽で自己アピールする無様な鳩。あなたは自分がクジャクになんてなれない、どこにでもいる不細工な鳩だということにいい加減に気づきなさい。鳩は鳩で、見ようによっては可愛くないこともないですよ? 私は鳩なんて大嫌いですがね」
医者は、そう言ってから、こう、付け足した。
「なにもしないのが、あなたの治療です。しばらくこの保護室でぽっぽぽっぽと鳴いていなさい」
医者が部屋の外に出て行くと、ロックを掛ける音がした。
百太は、しばらく動かないで開き戸のドアを見つめていたが、あふれ出す涙を隠すように、頭から毛布をかぶることにした。毛布の中で、百太は医者の言葉を、反芻した。耳鳴りが、大きくなった。
☆
病院を退院するとき、百太の身元引受人としてやってきたのは、父の兄である、伯父のオージーだった。その頃、百太は隔離病棟から閉鎖病棟へ移され、病棟内を歩いたり、レクリエーションやらに参加しながら、無為な日々を送っていた。まさか、退院する日が来るとは思っていなかったので、病棟の面談室に呼ばれ、行ってみるとオージーがいたのに、目を丸くしてびっくりしたのだった。
「元気かね、百太くん」
今にも唾を吐き出しそうな顔をしながらも、オージーは百太に会ってすぐ、そう言った。
「仁紀(ひとき)は来れないというから、わしが来たがね」
オージーは、百太から目をそらす。その顔を、見たくもないのだろう。
「感謝するがね。来てやったことにも、……生きていることにも」
オージーが目をそらしたまま鼻で笑うと、百太は、不快な気持ちになった。
「おまえら家族のことにわしは口出ししないがね。でも、これだけは言わせてもらうがね。親子というのは、血のつながりというのは、切っても切れない関係だってことがね」
「なにが言いたいんですか」
百太は、拳を握りしめた。
「なにが言いたいだと?」
逸らした目を、オージーは睨み付けるようにしながら、ゆっくりと百太に向けた。
「わしは慈善事業家じゃないがね。それでも、血のつながりがあるから、ここに迎えに来たがね。それだけの理由、されど、それがすべてがね」
オージーは舌打ちする。
「可愛くなく育っちまったものがね。今は、高校生? その年で人生を棒に振るとは、わしはもうなにも言えないがね。言うことがもしもあったとしても、言わないが、ね」
そこに、病棟の看護長が入ってきた。
「手続きは終わりました。もう、退院して大丈夫です」
面談室の椅子に座っていたオージーは立ち上がる。百太はさっきから、立ったままだ。
「さ、行くがね」
桜が舞う頃、ここに入り、そして、冷房がいらない、緑から赤に木々が染まっていく頃、ここを出る。百太に、今年の夏の記憶はない。高校二年生の夏。かなりの人間が、人生の中で一番思い出深い青春を送ったその時期に、百太はずっと、精神病院という鳥籠の中にいた。
しかもその鳥籠の中の鳥は、クジャクの羽を振りかざす鳩だってんだから、笑えるよな。
自嘲。
その鳩は、これから無理矢理にでも飛ばないとならないのだ。
自分を殺すための旅は、もう終わっていて、もし、殺すとしたら、これからそれは『他人』なのだ、と思いながら。
☆
百太が自分の暮らしているワンルームの電気をつけると、ちゃぶ台に置かれたままになっている金子の画集が鎮座していた。
金子ひかしゅー。高原高校三年、美術部の部長にしてプロのイラストレーター。ライトノベルの挿絵画家。いわゆる『絵師』である。
おれは死のうと思ったその時においても、こいつの画集のページを開いてしまっていたのだな、と思うと情けなくなる。まるでこいつに破れたから死を覚悟したみたいじゃん。
うんざりしつつ金子の描くちょっとえっちな美少女イラストを観て、それからそれを本棚にしまう。
オージーはまだガッコウには登校しなくていい、とは言うが、とりあえず部の顧問、保険医のサトミちゃんには顔を見せた方がいいな、と思う。
百太は台所の蛇口でコップに水を入れ、一気に水を飲み干す。水道水の消毒液くさい味を舌に感じると、「まだ、おれにはやることが残されている」と確信した。充電の切れたまま放置されているスマホの充電器をコンセントに差し込む。
日常が、戻ってくるんだな、と思った。
紅葉の始まりかける並木坂を百太は登る。高原高校はもう、目の前だ。あー、戻ってきちまったなーとか思いつつ、前を向くと、校門と古い旧校舎が段々と見えてくる。今は午前十時。授業はとっくに開始している。今日は、保険医で部の顧問・サトミちゃんに会いに行くだけだ。サトミちゃんは元気かな。
と、サトミ先生のことを思い浮かべていると、昇降口から全速力で駆けてくる、竹刀を持った女子生徒その姿。「なんだ?」とはてなマークを頭に浮かべる百太。女子生徒はなにか、うおおおぉぉ、とか奇声を発してこっちに向かってくる。その声に、さすがに立ち止まってしまう。校門を飛び出した辺りで、そのセーラー服を掻き乱しながら走ってくるその女が、自分を凝視しているのに気づいた。
逃げなアカン、と踵を返そうとした時には既に遅く。その生徒の振りかぶる竹刀が百太の顔面にストライクした。
走ったまま速度を落とさなかったその生徒は、そのまま坂を下りていく。打たれた顔面を押さえてうずくまる百太。そしたら坂の下でストップした竹刀女は戻ってきて、背中にドロップキックをかました。横転する百太。女は言った。
「お姉様の御心を弄んだこの卑劣漢がッ!」
「秘裂? えろいな」
うがーっと叫んで転びながら言葉を返した百太のみぞおちに膝を打ち込む女生徒。百太はおなかの中の物を戻しそうになる。もっとも、今日は朝からなにも食べてないが。
「お、おえぇ……。……なに、おまえ?」
膝を落としてから立ち上がり、竹刀を後ろに構える女。
「私は七咲ひまわり! 美しき『あの』お姉様の、妹だ!」
「え? 意味がわかんねぇ……、ごふっ」
もう一度みぞおちニーキックを食らう。
「お姉様が貴様のようなゴミ虫にも五分の魂的にも憐れみをかけてやっていたというのに。ゴミ虫、貴様はそれにすら気づかなかったのかぁぁ!」
「いや、まじ知ら……、うげら!」
四つん這いになって吐きそうになってるところに、竹刀が飛ぶ。何度も叩かれる。
「いや、痛っ、やめて」
手で「やめて」のジェスチャー。しかし、七咲ひまわりの攻撃は止まず、一分以上の間、竹刀でボコボコにされる。その攻撃が終わった時、ひまわりとかいう女になにか抗議する気も起きず、百太はひまわりが「ふん、ゲスが」とかなんとか捨て台詞を吐いて旧校舎昇降口に消えていくのをただただ、見やるのだった。
ガッコウに戻ってから即座にこれとは、とげんなりする百太である。
倒れながら見る並木は、綺麗だったのが、意外だった。
☆
身体に重く響くドラムキックが鳴り響く空間。薄暗い照明に全身をくゆらす人影の波。この波をクリエイトするDJシステム。ターンテーブルからはダンスミュージックが生成され、そこにMCの声が重なる。ヒップホップ音楽とはまたひと味違うMCのラップ。この韻を踏んだリリックを紡ぐのは、姫路ぜぶらという名前の女の子。ターンテーブルとDJミキサーを操作しているのは、DJ田所という男。この二人のユニットは、現在このフロアでライブパフォーマンスをしているのである。約一時間の持ち時間を、二人は泳ぐように演出している。とはいえ、バンドのライブとは違い、ステージに立っているわけでもなく、人々はこの暗いクラブの中で、各々の世界に入って、踊っているだけだ。コロナやハイネケンを瓶のままラッパ飲みする人々。 ただ、DJ田所は、自分らのプレイを開始する前、楽屋でぜぶらにある疑惑を話しかけていた。
「どうも、不穏な空気が、最近この街のクラブの方々で漂ってんだよな」
「不穏な空気? まあ、クラブだし、DQNもたくさんいるしさぁ、もめ事なんてふつーじゃん」
「いや、ちげーよ。これ、見てみ」
田所が差し出す手には、四角くカットした紙切れが握られていた。
「は? あぶらとり紙?」
「んなわきゃねーだろ」
「あれか? この紙切れにマジックで『薬』って書いて、それ握ると本当に薬を飲んだみたいに病気が治るってあれみたいな話か」
「プラシーボ効果、な」
「そうそう、偽薬効果!」
「って、ちゃうわ。いや、あってんのか……」
「んだよさっきからもったいぶりやがって」
「いや、鋭いな、ってな。これ、クスリなんだよ」
「?」
「この紙切れ、クスリが染みこんでんだわ」
「クスリって……」
「そう。違法薬物」
「うっわ」
「元々LSD系の薬物は、紙に染みこませたのを口のベロの下に入れて摂取すんだよ。食べるってのもあるけど」
「田所、おまえ」
「ちゃうっつーに。おれはやってない。ただ、リサーチしてたら回ってきた。この街のクラブに、この違法薬物が出回ってんだ」
「うひー」
「『インサートエフェクト』って愛称のデザイナーズドラッグらしい。どうも、こりゃこの街の若者をカモってるクズの集団が台頭してきてるみたいだぜ」
「で。それがどーした」
「これが税金の連中に知られてみろ。クラブはすべて潰され、おれたちの活動はオワコンになる」
「…………」
「そうはさせねぇ。変な噂が広まってハコに浸透する前に、首謀者を税金にドナドナさせてやる」
「へー。頑張ってね」
「は? なにか言ったか? 『運命共同体』さん」
「……てっめ!」
ぶつぶつ文句言いながら自分らのプレイを終えたぜぶらは、しばし休んでからバーカウンターでカシスソーダを注文する。プラスティックカップに入れたカシスの味を楽しみながら、フロアへ。むせかえる熱気の中に入ると、数人のお客さんがぜぶらに挨拶してくる。いつもだったら「むふふ」とかにやけるだけなのだが、田所に言われたことを考慮しながらフロアを見渡すと、なんだか照明の暗さも相まって、不穏な気配が渦巻いているような気がしないでもない。
壁に背を預けてカシスソーダを飲んでいると、見たことのある顔の男が、ぜぶらに近づいて来る。出演者でも、なじみのオーディエンスでもなく、ぜぶらがその顔を知っているのは、同じ高校に通う、同級生だったからだ。高原高校二年の、名前は確か、杉山といったか。
「ども」
お坊ちゃまカットの髪を金髪に染めた杉山は、ぜぶらに頭を下げる。ぜぶらは、「あかん。バレたか?」と思う。当たり前だが、高校生でこんな場所に夜遅く出入りして、しかも出演者としてチケット代を貰っている、なんてことがガッコウ側にバレたら退学することも考えられる。ぜぶらは背筋が凍った。杉山は、焦点の合わないとろんとした目でぜぶらに向き合う。
「DJ田所さんトコのMCさんッスよね? サイコーっした! お名前はなんつーんスか」
どうやら、身元はバレてないみたいだった。確かに、名前なんて出ていないし紹介なんてプレイ中にもしてないし、それでバレてない……。いや、こいつ、カマをかけているのか? 知っててワザと?
杉山は、足下がおぼつかず、身体どころか頭までぐるぐる回転させている。なにかが、おかしい。ぜぶらは田所の言葉を思い出し、確かめるために、口に出してみる。
「君、すごくキマってんじゃん」
「へへ。わかるッスか」
杉山は、しゃべりながら唾を飛ばす。どうやら唾液の調整が、身体の方で上手くいってないようだ。
「ここだけの話ッスよ。実はね、極上の『シート』があるんス」
「シート?」
杉山が「これッス」と言ってポケットから差し出したのは、あぶらとり紙に似た、四角い紙切れだった。ぜぶらは興味があるというように、驚いてみせる。
「これ、『インサーション・エフェクト』って奴?」
「そッス」
「これ、どのくらい出回ってんの? 他に、キマってる仲間、いる?」
「へへ……、かなり出回ってるけど、まだまだス。高原市じゃ流行りに敏感な奴らが、やっと注目しだしたとこス……」
話に深入りした方がいいのか。深追いは禁物か。ぜぶらの額を、汗が伝う。
出方をうかがっていると、ぜぶらの肩を後ろから誰かが叩いた。振り向くと、クラブのスタッフだった。
「ぜぶらさん、ちょっといいですか」
まさかヤバそうなとこに接触したのがマズかったか、と思ったが、そうではなかった。事態はある意味、もっとマズかった。
スタッフに「早く来てください」とせかされ、フロアを出て連れて行かれたのは、化粧室の前の、行き止まりの所だった。
そこには、壁に大量の血の跡を引きずって倒れ込んでいる、DJ田所の姿があったのだ。田所は、脇腹を手で押さえている。腹にも手にも、血がべっとりと付いている。
「マジかよ……」
ぜぶらの口をついて出た言葉は、それだった。
☆
仰向けで空を見ながら、百太は目を細める。今の状況が、いまいちピンとこない。なぜにおれは凶暴な女子生徒に竹刀でボコボコ殴られたのか。つーかうちのガッコウ、剣道部が休部になってたはずだ。休部の理由は、傷害事件。他校の奴らに絡まれたうちの剣道部の奴が、喧嘩したとかなんとか。まー、おれみたく自殺未遂するよりは、幾分か健全な青春の一ページだ。百太はそんなことを思いつつ、身体を起こす。凶暴な女はもう、校舎に消えているし、ここにわざわざ倒れている意味もねーし、みたいな。
殴られたから腹が立ったかかと言われると、そうでもない。調子込んだ剣道ワザで攻めてこられたら腹が立つが、どうもあの生徒は、剣道の心得があるのやらないのやら、微妙な攻撃方法だったし、そんなに腹は立たなかった。
ロングの髪を搔いて、学生服の埃を払う。
百太は、保健室を目指す。
高原高校の保健室は、校舎の別棟にある。
立て札の「在室」マークを確かめてから、百太は保健室に入る。中からはテレビドラマの音声が聞こえる。
「お邪魔しまーす」
自分の高校の保健室なのにお邪魔しまーすじゃねぇだろ、とか思いながら入ると、中のソファから黒い、三角形のしっぽと「悪魔の羽」が生えたセーラー服の少女の姿。その少女が寝そべりながら、向かい側に座っている保険医のサトミちゃんと、お茶を飲みながら会話をしていた。
悪魔の羽としっぽ? コスプレか? しかし、猫や犬のしっぽのように自然な動きで黒いしっぽが揺れている……。
「サトミ。お客さんが来たみたいなんだぞー」
その悪魔は、こっちを振り向き、そう言った。その声は甲高いが、眠気を誘うような声だった。
百太に気づいたサトミちゃんは、湯飲みのお茶を啜ってから、
「あんた、なに、その髪の毛?」
と、指を指した。
「真っ白い毛で真っ白けーだぞー」
同調してこの小悪魔はすっとぼけた声を出した。ソファに寝そべったまま。
百太もそれに応じ、
「そう、おれは浦島太郎のように一瞬で銀髪になりました」
と、簡潔に説明した。百太はちょっと恥ずかしげに頬を搔いた。
サトミちゃんが湯飲みをテーブルに置いた。
「現世に帰って来れてなにより、だよ」
百太はその言葉に、口元がほころんぶ。
サトミちゃんの向かい側に寝そべる女の子は無愛想な顔でテーブルからリモコンを取り、チャンネルを変える。
「あ、観てたのに」
サトミちゃんの言葉に黒いしっぽがぴーんと垂直に伸びる。
「サトミは再放送でわざわざ観なくても本放送全部観ただろー」
「もう、コスモスってば」
どうやらこの子の名前はコスモスというらしい。百太はテレビ画面を見る。そこには、昨日この町であった殺人事件の概要が語られていた。
「全く怖い話よねぇ」
サトミちゃんは茶を啜る。
「あ、もやしばら君も飲む?」
「いや、結構です」
「遠慮しないの」
「はぁ」
「んじゃ、ほら、コスモスちゃん、急須にお湯入れて」
「え~」
「少しは動きなさい。私みたく身体ものーみそも老けるわよ」
「うっ……」
「うっ、じゃない!」
サトミちゃんの自虐ネタにのけぞり、しぶしぶながらソファから起き上がるコスモス。効果があることにサトミちゃんは傷付いたが、結果オーライ、と思い直すことにした。
お湯は電気ポットから注ぐ。コスモスは棚から湯飲みを取り出し、急須からお茶を入れる。しかし湯飲みを取り出した棚が、食器棚ではなく薬なんかが入れられた棚だったので、サトミちゃんに対して「大丈夫か、うちの保険医は」と、百太はちょっと心配してしまう。
昨日起こったという、街のクラブで起こった殺人事件。クラブといっても、綺麗なお姉さんがいるそれではなく、音楽がかかって若者が踊る、あれであった。百太はそういうものに疎いので、テレビの報道を観ても、「ほへー」と口を開けるだけである。
「なんか最近、殺人事件が起こるとなにがなんでも『犯人はアニメが好きだった。それが殺人と結びついた』なんてもっともらしく言われてムカつくんだぞー」
「そうねぇ」
コスモスが注いだお茶を、サトミちゃんは自分の向かい側に置き、「座れば?」と、百太に促した。百太は頷いて、ソファに座る。すると、コスモスは舌打ちしてから、百太の横にどかっと腰を下ろした。
「この銀髪、絶対オタクだ! 犯罪者だ!」
何故に? とコスモスを見る。
「どことなく犯罪者っぽいツラしてるぞー。にひひ」
舌を出して笑う。
「そういうこと言わないの」
「はーい。もう言わないぞー。この犯罪者がぁぁ」
サトミちゃんは右の手のひらで顔を覆った。
このコスモスという女の子、一体なんなんだろうか。今は授業中の時間なのに。ソファに寝転がってたということは、サトミちゃんともかなり親しい間柄、といった風なのだろう。百太はそんなことを思って、コスモスを見る。
黒くてすらりと長い髪が窓から差し込む太陽の光で、ラメカードのようキラキラしてまぶしい。そのストレートの髪と同じ漆黒の色をした羽が、背中から出ている。羽は頭身と比べるとスモールサイズで、コウモリの羽の形をしている。悪魔の羽、といった方が、漫画好きの日本人には、わかりやすいかもしれない。「悪魔の」というのは、背中から生えている羽がそうなだけではなく、セーラー服のスカートから直接出ているような、先端が三角形をしたしっぽが伸びているから、セットで「悪魔の」と形容したくなるのである。小学生の時見せられる、虫歯をつくる悪魔、みたいなイラストと同じ、典型的な悪魔。その悪魔が生やす黒いしっぽと羽が、この少女には付いている。コスモスの細身の身体は、あまりに細く、食事をまともに食べていないかのようで、だから、この羽としっぽをその身体に追加すると、浮き世離れも甚だしい。浮き世、というよりも、この世のものではない、という表現が、ふさわしい。社会から離れているというより、この世界と違った世界にいる存在というか。しかし、その少女のトークは、彼女の体重のように、軽い口調でなされ、内容も軽そうだ。百太は、コスモスの白い肌をした顔をじっと見た。するとコスモスはふくれっ面をして、そっぽを向いた。
「なんなのよ、この犯罪者の銀髪。私の顔は見世物じゃないんだぞ」
「あ、いや……」
思わずうつむいてしまう百太。その二人のやりとりをほぼスルーして、サトミちゃんは、テレビ画面の報道を見ながら、マイペースだ。子供達の些細な感情のやりとりに、気を遣う風でもない。
「この町で殺人事件が起こるなんて、ねぇ。それも、クラブで。町にクラブがあること自体、はじめて知ったけど、やっぱりそういうところは危険よ。うん、危険。あなたたちはそういう場所へ、行っちゃダメよ。まあ、行かないタイプでしょうけど。高原市の繁華街は、地方都市の街とはいえ、やはり繁華街。危険よね。あなたたちは知らないでしょうけど、今日はどこのクラスでもホームルームで指導があったのよ。朝、職員会議でも生活指導のジョー茅根先生が生徒たちにきつく言っておくように、って吠えてたもの」
ずずっと茶を啜るサトミちゃん。コスモスは、テーブルに置かれた、皿に載せられたクッキーをかじっている。もうふくれっ面はしてないで、百太の横に座っている。百太もクッキーを取ろうと皿に手を伸ばすと、その手を叩く。クッキーを食べさせないつもりらしい。
「犯人が漫画やアニメが好きっていうのが大々的に取り上げられるこの風潮、なんだかやるせない気分になるわよねぇ」
サトミちゃんがそう言うと、コスモスは食いつく。
「萌え漫画や萌えアニメが好きっていうのが、一般的にキモがられるっていうのが、私には理解できないのだぞ。サトミは萌えに詳しいだろ」
「私、美術部の顧問だもの、詳しいわよ。日本生まれだと、そこは避けて通れない、いわばアイデンティティにすら、直結してしまうものなの。だから萌えアニメを主題にしたアートは、多いわ。ね、もやしばらくん」
自分にいきなり話を振られて、キョドる百太。
「えーっと、はい、そ、そうですよね」
話をよく飲み込めてなかったので、テキトーに返事してみる。
「漫画やアニメ好きだと、肩身が狭いですからね」
「私は思うのだが、お前のその銀髪、アニメのコスプレにしか思えないのだぞ。そうなのか?」
「ちゃうわ。つーか君のその黒いしっぽと羽の方が、よっぽど漫画ちっくだろ」
「んん? しっぽ? 羽?」
「いや、だから、さっきから揺らしてるそのしっぽだよ、悪魔的な」
頭にクエスチョンマークの浮かぶコスモスとサトミちゃん。
「意味不明だぞ。その銀髪は老化のしるしなのか」
通じない。何故だ? めちゃくちゃ目立つだろ、しっぽと羽。
百太も百太ではてなマークが頭に浮かんだ。ディスコミュニケーション状態で、その場を沈黙が包む。
重苦しくなってしまったので、百太は「じゃ、おれはこれで」と言って立ち上がり、帰ろうとする。サトミちゃんも立ち上がり、
「また、いつでも来なさい」
と、言って百太を見送る。
コスモスは座ったまましっぽで百太の頬を舐めるようにさすり、
「銀髪。あんたがもやしばら百太なんだね。覚えておくのだ」
と目を鋭くさせた。
「私のことは、コスモスと呼ぶのだ」
「お、おう」
百太は保健室の扉に手を掛け、
「じゃ、また」
と言い残し、扉を開けてその場をそそくさと去るのだった。
部屋に残っているコスモスはサトミちゃんに尋ねる。
「あいつの銀髪は、校則違反じゃないのか」
「そうはならないでしょうね。あれは染めたんじゃなくて、心労の証だから。身体拘束されて隔離されていたって、生きた心地もしない数ヶ月間だったでしょう……っと、私、口が軽いわね。いけないいけない」
「なんなのだ?」
「あの子はきっと、玉手箱を開けちゃったっていう、それだけよ」
「ふーん」
鼻を鳴らして、コスモスはまたソファに横になり、しばらくするとチャイムの音がした。が、その日コスモスが自分の教室に行くことはなかったのだった。
☆
保健室は校舎とは別棟である。保健室から渡り廊下を歩き、校舎に入る。保健室は明るい日差しが射す場所にあるが、教室のある校舎は、暗い。百太は自分がこの高原高校で過ごした一年と、二年生になってからの春を、思い出す。幸枝のこと。幸枝は、人生最後の一年間は、しあわさせだっただろうか。たぶん、しあわせなんかじゃなかった。おれと一緒に過ごしても、忍び寄る影は、消せなかった。そしてまた、おれも押し寄せた重圧に、耐えられなかった。
百太は、頭をかきむしった。それから、生徒のいる階に続く階段を見て、それから、階段とは逆方に進む。部室棟。とりあえず、美術部の部室に寄ることにした。あそこには、自分の書いた自由詩を書いたノートも、へたくそなドローイング帳ある。それを、取りに行こう。そう思い、校舎からでて、部室棟に進む。
木々の日陰にある、部室棟の二階、美術部の部室のドアノブを回す。鍵はあの頃と同じで、いつも通りかかっていなかった。入ると、渇いた絵の具のにおいと埃のにおいが混じっていて、百太の記憶を呼び覚ます。部室奥の、白いカーテンをめくり、中に入る。絵を描いた後の完成済みの絵のキャンバス群が、そこにはあった。積み重なったキャンバスをめくると、部長、金子ひかしゅーの描いた水彩画が出てくる。相変わらずの見事な筆致。思わず破り捨てたくなるほどだ。だが、自分の絵は見当たらなかった。それもそのはず。百太の抽象画は、部員の誰からも認められていない。どこか違うところに移動されたか、捨てられたかしたのだろう。脳裏に、部員の杉山たちの顔が浮かぶ。それよりも、とりあえずドローイング帳と詩のノートを探そう。
カーテンの奥で百太がごそごそやっていると、部室のドアを開ける音がした。マズい、と思う。ここの学生に、今は顔なんかあわせたくない。百太は、息を潜めた。
入ってきた音の主は、百太に気づかない。しばらくすると、バッグかなにかを開くチャックの音、それに続いて、衣の擦れる音。緊張に耐えかねた百太は、そっとカーテンの端をずらし、外の様子を見た。
見たら、相手はずっとカーテンの方向を見ていたらしく、いきなりで相手と目が合ってしまった。その相手は、さっき竹刀で百太をボコボコにした女生徒。確か七咲ひまわりとかいう。しかも、着替えていたのでセーラー服もスカートも脱いでいて、下着姿だった。
「あ……」
「…………」
女生徒、七咲ひまわりは、一瞬にしてその表情を憤怒の形相にして、顔を真っ赤にした。百太は射すくめられたネズミーマウスのように身体を動かせない。ひまわりは壁に立てかけていた竹刀を手に持つ。
「コロス」
「いや、だからこれは……」
うがーっと叫びながら竹刀を一閃。その太刀は百太の顔面に、横殴りに直撃した。
「貴様ッ。コロシコロガシマス! がーッッッ!」
またもボコボコに殴るひまわり。ひまわりはしかも、段々と百太に迫ってくるので、攻撃力も増してくる。迫り来るひまわりから距離を取ろうと後ずさりする百太は、キャンバスにぶつかって、後ろに倒れそうなところを、そのキャンパスを壊さないように前のめりになったらそのまま前向きに倒れ込んでしまった。倒れ込む拍子に、カーテンも巻き込み、とっさのことで逃げ遅れたひまわりも体勢を崩して一緒に倒れる。
「痛~」
仰向けのひまわりにのしかかるように、俯せに倒れた百太。女の子らしいぷにぷにの身体の感触が百太に伝わってくるし、シャンプーの香りがする。のーみそがくらくらする。
「離れろ、バカっ」
「あ、……ああ」
と、そこにまたしても、ドアが開く音がした。二人がくっつきながら見やると、そこにいたのは、仁王立ちした生活指導のジョー茅根だった。
「不純異性交遊、発見じゃ」
ひまわりと百太は、教師のジョー茅根によって、部室の中で正座させられていた。ひまわりは、もちろん服を着た状態になってから。どうやら、体操着に着替えるのを、美術部の部室でいつもしていた、ということらしい。が、規定の場所で着替えないという理由もあり、ジョーは更に不機嫌になっていた。
「おんどれら、どういうつもりじゃ」
「どういうつもりもなにも、私はこのバカがいたのなんて知らなかったんです!」
ひまわりは声を荒げる。
「どうして寝ながら二人で抱き合っていたか、と訊いておるんじゃあ!」
しなる音。竹刀の音だ。ジョーは、さっきひまわりが百太を叩いていた竹刀を持って、ビシバシ壁に打ち付けている。
「ですから私は……。ほら、あんたもなにか言いなさいよッ」
「えっと、いや、状況が飲み込めないんだけど」
「このヘタレ!」
正座したまま、横にいる百太にタックルするひまわり。
「いちゃつくな、と言ってるじゃろがボゲェ」
ジョーにはこのタックルが、カップルのスキンシップに見えるらしい。
きつい目をしたひまわりにタックルもされたし、百太も嫌々ながら、なにか発言することにした。とりあえず、話を逸らすのが急務に思えた。
「先生は、なんで部室棟に来たんですか? 今、午前の授業やってる時間帯ですよ。今は休み時間ではありますけど」
ジョーは竹刀を首の後ろにやって胸を張った。
「昨日、クラブとかいう社交場で刺されて死んだ奴がおったじゃろう。これが、どうも一ヶ月前のこの市の連続殺傷事件と、関連性が疑われておってのぉ。なんでも、若い奴ばかり、次々と死体で発見されてたあの未解決事件、手口が昨日の事件と似ていて、犯人が同じか、それか模倣犯か、とかいう線で捜査されとるんじゃ。うちのガッコウにも犯人が来る可能性もあるから、手の空いた教師は見回りを実施しておるんじゃ……って、おい! 聞いとんのかおどれら!」
ひまわりは聞く耳持たず、百太にタックルを何度もかましていた。「くたばれ、このエロ河童」と言い、それに対し百太は「おれは河童じゃねぇ! ハゲてねーし」と言い返している。
「おい、先生が一生懸命説明してやってんのにおどれらは絶賛不純異性交遊に勤しんでおるよぅじゃのぉ。……いてまうぞゴラ」
竹刀がビシッ! と床を叩く。悪役プロレスラーのようだ。ジョー茅根はそもそも趣味の悪いグラサンにでっぷりした体躯、なのでそれだけで教師に思われないのだが、竹刀を持っていると、かなり極悪超人だ、キン肉マンで喩えて言うならば。
と、そこでチャイムが鳴る。次の授業の始まる鐘だ。そう、ひまわりは体育のために、着替えていたのだ。
「私、行かないと」
「ふん。じゃ、行け、七咲」
「はい」
立ち上がり、ドアに向かうひまわり。ジョーにすれ違うとき、ジョーはひまわりの肩に手を取り、耳元で囁いた。
「おれの竹刀、隙を盗んで借用するとは、最近反抗しすぎなんじゃないか。……わかってるだろ? 立場ってもんをのぉ」
血の気の引くひまわり。百太にはいまいちよくわからない。その姿を見やるだけだ。
耳元から顔を離し、ジョーはひまわりの背中を叩いた。
「ほら、とっとと行かんか、かわい子ちゃん」
外に出る前、一瞬だけ立ち止まり、ジョーを睨み付けたひまわりはなにか言いたいのを噛み殺し、唇を噛んでから、ドアの外に出て行った。ジョーはそれをにやけながら見ていた。
百太は、二人の関係が気になったが、さっき校門からひまわりが飛び出てきたのも意味がわからなかったし、今回も、意味がわからなかったが、特に尋ねることもなく終わった。後で追求するべきか、そこんとこ、なんて思いつつ、正座しているのだった。ジョーはその百太に対し、学生の本分を解いた。うぜぇという印象しか、後には残らなかった。
☆
窓の外では、白くて大きな雲がひとつ、ゆっくりと空の蒼の中を悠々と泳いでいく姿が見える。姫路ぜぶらは、しばらくその雲を眺めていたが、視線を室内に移す。花瓶に活けた色とりどりの花。
「田所……。なんでこんなことになっちまったんだ……くそっ」
ぜぶらは、ナイフに刺されたDJ田所のことを思った。
「あいつのことは、忘れない。昔、DJ田所という男がいたことを」
「って、おい!」
野太い声質でぜぶらにツッコミを入れる男。
「おれは死んでない!」
包帯ぐるぐる巻きでベッドに寝ていたDJ田所は、痛い身体をゆっくりとぜぶらの方に向けた。
「勝手にひとを死んだみたいに言うな!」
「あ? わりぃ。私の中じゃお前、死んだから」
田所は「ああん?」とメンチを切ってみる。しかし、その睨みは、もちろん本気ではない。
「死んだっつーならおれがあのとき、DJプレイ後にCLUB鳳雛のトイレの中で発見したラリった小僧だ。おれが刺される前に発見した……」
ぜぶらは訊く。
「で、どーなの。田所は犯人、見たんだろ」
「見た。暗かったし一瞬みたいなもんだったから犯人の特定、個人の力じゃ難しそうだが……」
「ケーサツは?」
「それなんだよ」
田所は、上半身を持ち上げて、座ったような姿勢にした。
「おれはトイレに入るとき、すれ違った男がいた。手には血で染まったナイフ。尋常じゃないが、コスナイトじゃねぇけど、それでもコスって線もあるし、そいつをやり過ごしてトイレに入ったんだ。そしたらうめき声。個室の開いたままのドアから中を覗くと、視線の定まらない、口から舌をだらんと出してヘラヘラ笑ってる、ラリってるとしか思えないクラバー小僧。そいつが血だらけになっていた。まあ、ラリってたんだか刺されて気が変になってたんだかはわかんねんだがよ。で、踵を返して、ナイフ男の肩を捕まえて、……そんで、おれも刺されたってわけ。小僧は、この病院で聞かされたが、出血多量で死んだそうだ。犯人の野郎は捕まってない。問題はそこじゃねぇんだ、これが」
「じゃ、問題ってのは?」
「それがな、病院の連中も、事情聴取に来たケージもな、『大変な事故でしたね』って言いやがんだよ。おれ、刺されてんだぜ。死人も出てる。それが『事故』だって? 舐めてやがるぜ。どうも、死んだ小僧のことは、新聞によりゃ殺人事件として扱われてるみたいだが、おれの怪我の方は闇の中だ。事故ってことになっちまったし、犯人を目撃してるし接触もしてるのに、蚊帳の外に置かれている。これってよ、たぶん」
「たぶん?」
「犯人を、捕まえたくねぇんじゃねぇかな」
「まさか」
「そういう節、あるぜ、間違いなく。いや、もう、犯人が誰だか知ってるって感じなのかもしれないがよ」
ぜぶらは、バッグからあたたかい缶コーヒーを取り出し、「まあ飲め」と差し出した。受け取った田所は、プルタブを開ける。
「これ、しかも、一ヶ月前、三回だか四回だかあった連続殺人事件と同じ凶器が使われてるって話なんだが、おれは同じ犯人というより、複数犯、グループかなんかだと思うのよ」
缶コーヒーを音を立てずずずっと飲む田所。ぜぶらも自分の缶を取り出し、その缶のコーンスープを飲み始める。堅苦しくならないように、真剣な話をしてはいるが、ジュース類を飲みながらのトークにする。ほどよく、あたたか~く。
「報道じゃ同じ凶器とされてるけど、これからして怪しいんだ。犯人は凶器のナイフを持ち帰って洗ってまた使ってるのか? 人間の油が付いたナイフって、そんな三人も四人も刺すのに使えるのか? いや、毎回研いでいるとか、そんな阿呆な話なのかこれは。むしろ、わざと同じタイプの凶器を使ってるって可能性もある。税金連中とつるんでるパターン。だからたぶん、犯人が複数いても、捕まるのは一人だけだろう」
「考えすぎだよ」
「いいや。おれの予想は当たる。なぜなら……」
「田所さ~ん、具合はどうですか~」
田所が言いかけたところで、看護師さんが入ってきた。まさか、タイミングを見計らって入ってきた? まさかな、とぜぶらは疑いを頭から振り払った。DJ田所は、看護師のおねーさんを見た途端、にへらと頬を緩ました。ぜぶらは、缶を持った手に力を入れる。缶がへこんだ。看護師さんにいやらしい視線を充分に送ったあとで田所は、
「ま、話はまた今度、な。」
と、格好つけて言った。ぜぶらは「あいよー。お大事になー死ね」という言葉を残し、退室する。なんだか、すっきりしない気分だった。
病院の冷たい廊下を歩き始めると、ぜぶらは細身のシルエットのタイトな服に身を包んだ女生とすれ違った。女性は長い茶色の髪を振りながら、煙草を吸いながら歩く。ヒールの音が廊下に響く。反対方向から来た看護師さんが「当院は喫煙禁止です」とたしなめると、
「あぁ、そぅ」
とぽつりと返したかと思うと、煙草を床に捨てて、ヒールで火をもみ消した。絶句する看護師さんには目もくれず、女性は歩いて行く。
あまりにも謎の女性の態度に、唖然としてしまったぜぶら。ぜぶらはその女性を目で追った。すると、女性は田所の病室に入っていった。
田所の知り合い? まさかな。一人だけの個室ってわけでもないし、他の患者の友人とかなんだろ。
ぜぶらは前方に向き直ると、特に気に留めないようにしようと決め、病院を後にする。しかし、頭の中を気にしないモードに決定できない自分がいた。
☆
百太は一人暮らしである。自殺未遂で入院することになってしまったから、もう一人暮らしはできないだろうと踏んでいたが、実際はなんら変わることなく、この生活は維持できそうである。
父親、仁紀のことを、百太はよく知らない。母は、多大な借金を家に残して、いなくなってしまった。今は母がどこにいるのか、百太は知らないし、知ろうとも思わない。父がクソであるのと同様、母もクソだからだ。そんなクソの掛け合わせが自分、というわけだ。反吐の出るような事実に、百太は目を背ける。インスタントコーヒーの豆をカップに入れ、電気ポットからコーヒーカップに給湯すると、安っぽいコーヒーの香りが漂ってくる。それを一口飲むと、カップをちゃぶ台に置いて、百太はスマートフォンの画面を見た。メールはオンラインショップのダイレクトメールくらいしか来ていない。友達からのメールはない。というよりも、友達なんて一人もいないのだ。さすがに退院したてなのだから、誰かにいたわって欲しいものだ。でも、いたわってもらっても、なんの意味もなさない。現実がそれでなんか変わるとでもいうのか? それどころか、オーバードゥーズの自殺未遂なんて、自分の経歴に泥を塗って、現実は更に悪化の一途をたどってるのだ。クソでゲロまみれのこの世界にピースマークを送るぜ。
百太はスマホを座布団の上に投げ捨ててまた一口コーヒーを飲んだ。
心に渦巻く螺旋の果実。その身をもって、その実を囓れ。
☆
家にじっとしているのもだるいので、そのだるい身体を起こして、百太は市街地に行こうと思った。しかし、ガッコウの人間どころか、他校の生徒からも笑われる狂ったピエロ役を担わせられていた百太は、外に出ようと思うと思うほど手の震え止まらなくなっていく。インスタントコーヒーの豆の残量も減っていくばかりだし、せめてスーパーに行くか。でも通販サイトで買うという手もある。
などと考えていたら、部屋のドアをノックする音が玄関口から聞こえる。百太はもちろん無視した。置き時計を見ると、午後五時。夕方のこの時間。どうせ来るのは健康食品を使ったネズミ講の勧誘か、宗教の勧誘か、新聞の勧誘である。どのみち、碌なもんじゃない。無視無視。蟲蟲蟲蟲蟲蟲……。
百太が無視していると、今度は玄関ドアを蹴り飛ばす音が聞こえる。何度も蹴っている。しかも無言で。百太のアパートは古い木造建築で築ウン十年である。さすがにこれはまずそうだ。百太は鍵を開ける。大丈夫、鍵を開けてもチェーンロックが付いているから!
ゆっくりとドアを少し開けると、開けたドアの隙間へ突き出された刃物の先端が、青身魚の表面のように光った。それは、鉈だった。
突き出された鉈が、上から凄いスピードで垂直に下ろされ、ドアのチェーンは金属音を出すこともなく、一撃で切られてしまった。
いきなりのことでその場で百太は硬直した。
そしてチェーンを切ったセーラー服のか弱そうな女の子は背中の悪魔の翼をばさばさ動かしながら、
「さあ、私とキムチ鍋を囲むのだ、銀髪ちゃん」
と、目を光らせた。
「なぜにおれはお前とキムチ鍋を食べることに……」
ぐつぐつと煮えたぎる土鍋の中には野菜と牛肉がぎっしりと入っている。
「なんでキムチ鍋かって、そりゃー国交改善なのだよ。国交正常化」
「どことどこの国の話だよ……」
「銀髪と、コスモスちゃんのでーす」
ちゃぶ台を囲む百太とコスモス。なにがどうなったのか。コスモスはサトミちゃんから頼まれてガッコウのプリントを届けに来たそうだ。その時、不意に近所のスーパーの特売日だったことを思い出し、スーパーに入ったコスモスはキムチ鍋の素を手に取り……等々、かなり行き当たりばったりだったというエピソードを肉ばかり食べながらコスモスは百太に語った。これだとなんで鉈を持っていて、それでチェーンを切るという行為に及んだのかさっぱりだったが、詳しく尋ねることはしない方が身のためだという気がしたので、百太は黙っておくことにした。いや、さっき遠回しに百太は訊いてみたのだが、それについては「ミステリに鉈を持ったセーラー服少女は定番なのだよね」という返答だったのだ。なんだよミステリだと定番って。村人がなんとか村症候群とかいう奇病でみんな発狂して襲ってきたり集落が毒ガスで壊滅したりとかしなくちゃならないのか?
……と、いうわけで、二人はキムチ鍋をつくり、ちゃぶ台を囲んでいる。つくる過程では鍋奉行と思わしかったコスモスであるが、食べる段となると肉ばかり食う。
「お前、フザけんな。肉ばかり食いやがって」
「あら? 白髪には野菜が効果覿面ですことよおほほほ」
「テキトーなこと言いやがって」
「肉を食べるのはほら、私育ち盛りだからなのだ」
「全然胸が育ち盛りじゃねぇじゃんか」
「コロスぞ」
鉈を構えるコスモス。百太は黙ることにした。
「しかし竹刀だの鉈だの。んなもんを操るのが最近流行ってんのか?」
「竹刀?」
「いや、この前なんか竹刀を振り回す奴がいてだな……」
百太がガッコウに行ってから、もう三日が経過していた。三日。つまり、百太がひととしゃべってから、もう三日が過ぎていたということだ。あれから誰ともしゃべってない。だから、こうやってコスモスとしゃべれるのが、ちょっぴり嬉しかったりもする。
「ところでだ、銀髪」
牛肉を突きながらコスモスが話しかける。
「ところで、じゃねーだろが。つーかおれはなんでいきなり家のチェーンロックを鉈で破壊する奴と鍋を囲んでダベってんだ」
「ふむ。自己言及が多いな銀髪。だから白髪になるのだぞ。少しは他人とコミュニケーション取れ。だからみんなにいじられるのだ」
「いじられるっつーか、立派ないじめに遭ってんだけどな」
「サトミちゃんに色々聞いたぞ。ここに一人暮らしなんだってな」
色々聞いた、か。たぶん、おれがいじめに遭ってるのも聞いただろう。百太は白菜を飲み込んだ。
「銀髪はアーティストでポエマーだと伺ったのだ」
くっそサトミちゃん、余計なコトを……。
「私は恥ずかしいポエムが好きなのだぞ? 中二病全開なコンテンツに、命を賭けているといって過言ではない。まずはそのポエムを私に見せるのだ」
「断る」
「即答!?」
「この趣味のせいでかなり白眼視されてる部分もあるからな」
「いやいや、それはパンピーがパンピーである証拠なのだぞ。パンピーなぞどうでもいい。他人に理解されないからって悲嘆に暮れるのはヨクナイ」
「だがさ、おれは詩を書くっつても自由詩を書き殴ってるだけなんだよ。おれが自分でつくった抽象画に色を添えようと思って書いてるだけで」
「抽象画。いいじゃないか。サトミちゃんがお前の絵を褒めてたぞ」
「褒めてくれるのは美術部顧問のサトミちゃんだけだよ。コスモス、お前はやっぱわかってないよ。理解されないのが続くと、人間、意固地になる」
「意固地って言葉は、くだらないことに意地を張り通すことを言う。銀髪の絵は、ポエムは、本当に、くだらないことか?」
「…………」
「さあどうだ、見せてみろ、銀髪」
「あのさ」
「なんだ銀髪」
「その『銀髪』っていう呼び方、やめてくんないか?」
「ふむ。わかった。これからはお前のことを『ダーリン』と呼ぶ」
「はぁ?」
「ふふ。私がダーリンの理解者になってやろうというのだ。ありがたく思え」
コスモスのしっぽが左右に揺れる。そして悪魔の羽が大きく開く。黒い翼。コウモリの羽のようなその翼は、なんだか、とても中二病的だった。
「ポエムを見せろ」
「いやだ」
「……まあ、今すぐにとは言わないぞ。まだガッコウに登校はしないのだろう? だったら、気が向いたら保健室にポエムの恥ずかしいノートを持ってくるのだ。そう」
コスモスの黒いしっぽが、ビシッと百太の顔を指さした。
「私も、恥ずかしいポエムを書いて、自作のストーリーと合わせて、コミケやコミティアに出店している」
「コスモス、お前……」
「ほらほら、早く鍋を食うぞ」
そんなこんなで鍋パーティは続く。
鍋を食べ終わると、百太は土鍋をシンクに運ぶ。コスモスはちゃぶ台のテーブルを濡れた布巾で拭く。コスモスは自分のサークルの血塗られた闘争の歴史をずっと語っていたが、つまりはコミケのブースで売っても一回あたり二冊程度しか売れない、という話をしているのだった。
「しかしな、ダーリン。『嵐が丘』のエミリー・ブロンテの姉妹、かの有名な『ブロンテ姉妹』も、詩集を出版したが当時、二冊くらいしか売れなかったそうなのだぞ。だから、案ずることはないのだ」
「おれはやだよ、そういうの」
「それはダーリンがプライド高いからそう思うだけなのだぞ。その売れなかったら嫌だってプライドを、今はおれを誰も理解してくれないが後世の人間はおれを理解してくれるだろう的な孤高のプライドに変換すればいいのだよ!」
「そういうものなのか……?」
「そーいうものそーいうもの」
「ああ」
「ねっ? 持ってきて、ダーリン」
「……気が向いたらな」
「やりぃ!」
うまく丸め込まれてしまい、百太は今度、保健室にポエムのノートを持って行くことになってしまい、そこでキムチ鍋パーティは幕を閉じるのであった。
☆
百太は観覧車に乗っていた。見えるパノラマな景色。上空高くこの町一帯を見渡すと、意外に悪くない景観。市街地があって、森があって、工場地帯があって、海もある。雇用の低い土地柄で、その傾向がますます広がっている「オワコン」な市であるのが信じられない。そんなことを、ふと思った百太は、自分の肩に頭を乗せている恋人、雪枝の髪の毛を撫でた。
「ねぇ、百太」
甘い声が、二人だけの空高い密室を染め上げる。
「私たち、ずっとこのままでいられるかな」
「いられるよ、たぶん」
百太が即答すると、雪枝は自分の髪を撫でているその手をつかむ。
「もー、テキトーそうなトーンで答えないでよね。私、本気で言ってるの。
「本気本気」
雪枝は握った手を自分の頬にあてる。
「私、高校を卒業できたら、いろんな国を旅したいんだ。それに、付き合ってくれる?」
「うーん、どうかな。旅行だったら付き合うけど」
「旅行じゃないの。旅なの。ひとつの国に何ヶ月も滞在するような、そんな生活」
「外国語を、おれはしゃべれないしなー。そういや雪枝は英語、得意だよな。そのためだったのか」
「うん。私、作家になりたいんだ」
「へー。初耳。どういうの書きたいの?」
「開高健みたいな」
「ベトナム戦記……か。渋いな。つーか危ない土地系?」
「その通り」
「雪枝は『おにゃのこ』だから、やめとけよ」
雪枝は首を振る。それから、握った手の人差し指を、口に含んだ。
「高校、無事に卒業できたら、だけどね」
「不安でも?」
「不安だよ。百太だって、私を置いてどこかに行っちゃいそうだもん」
「それはないと思うけどな」
「物理的にもだけど、でも、百太の心も、私は理解できてないと思う」
「どーして?」
「あなたのイラスト、理解できないもん。あのぐにゃぐにゃの絵、やめて欲しいな」
「ぐにゃぐにゃじゃないし、イラストじゃないよ、絵画だよ、抽象絵画」
「ああいう世界、私は嫌いだな。芸術家気取りの人間が、大嫌い」
「じゃあ、おれも嫌いなのかな」
百太は笑う。雪枝はしゃぶっていた指を、口から取り出す。指と口の間が、唾液で糸を引いた。
「うん。芸術家モードの時の百太のこと、私は大嫌い」
雪枝も笑う。春にしては暑い温度の密閉空間に、二人の笑い声が反響する。
「百太が芸術家になりたいなら、私はそんな百太となんか、一緒にいたくないな」
観覧車は一番てっぺんに着くと、しばらくの静止の後、下降をはじめた。
「私は、不愉快に耐えられない」
「それじゃ旅なんてできないんじゃないの」
「不条理で理解できないのと、不愉快で理解したくないってのは別物だよ。そんなのもわからないの? 世界の問題と個人の問題を一緒くたにしないでくれないかしら」
「いや、難しい話はちょっと苦手で」
「百太はいつもそうやって逃げる。私は、逃げたくない! 目をそらしたくないの!」
百太は目を瞑って、謝った。
「ごめん」
百太と雪枝が高校二年になった小春日和の遊園地デート。この日から一ヶ月も経たないある日。
雪枝は、電車に轢かれて身体が粉々になった。
百太は、葬式に行く勇気が持てなかったし、状況に耐えることもできなかった。百太は、多量の精神薬を、一気飲みすることにした。
☆
「自殺未遂って手法、古ぃよなー」
机の上のお徳用サイズポテチが、バンバン大量になくなっていく中、ポテチを咀嚼しながら、杉山は唾を飛ばした。
「君はホントキツいこと言うね」
自分のいがぐり頭を叩きながら、掛札はゲラゲラ笑って応じた。
放課後の美術室。絵の具のにおいが充満する部屋だが、絵を描いているものはこの場にはいない。ただ会話をしている男が三人、集まってお菓子を食べているだけだ。
朝倉がポテトの袋を持ち、口に袋の中身全部を一気に食べる。
「ジュースみたいに飲み込んで食うなよ朝倉ぁ~」
杉山が腹を抱えて笑う。同調するように掛札も「僕ももっと食べたかったのにぃ~」とおどけてみせる。
「しゃーねーなー」
朝倉がポケットから小銭を取り、掛札に差し出す。
「購買部でまた買ってこいよ、まだ開いてんだろ」
渡された小銭に視線を落として、掛札が唸る。
「十円玉じゃ買えないよ~」
「じゃ、てめぇの財布から継ぎ足せばいいじゃん」
鼻を鳴らす朝倉。
「しょ、しょうがないなぁ~。じゃ、行ってきま~す」
声を震わせながら掛札はそそくさと購買部にでかける。それを見て杉山は嘲笑する。
「朝倉、サイコー。掛札、おれはコーラな」
「え~。お金は」
「出世払いってことでよろしく頼むよ。ま、出世したらてめぇとなんか縁を切るけどな。けけ」
部室を出る掛札の額に汗が垂れる。それをハンカチで拭いて、掛札は早足で部室からいなくなった。
いつもの日常だった。
美術部の部室を抜けて掛札が嘆息していると、その足を三年の教室に向ける。購買部は一階にあり、部室は一階から入ることのできる別棟にある。が、掛札は購買部を一旦素通りした。そして階段を昇り、四階にある三年生の教室へ。三年五組。理系のクラス。そこは、美術部部長、金子ひかしゅーの在籍しているクラスだった。
放課後、金子ひかしゅーは、課外授業を受けていた。進学のために予備校にも通っているひかしゅーだが、ガッコウの課外授業も受けているのだ。高校に通いながら一週間に三回、予備校に通うが、それ以外の日は、ガッコウで課外授業を受け、それから部室に顔を見せる。高三の秋。もう三年はとっくに引退の時期を過ぎているのだったが、ひかしゅーは部活動を続けていた。美術部。しかしひかしゅーは美大への進学は考えていない。自分のコンクールの優秀な成績を、そういった形で夢に繋げようなどとは微塵も思わないのだ。美大教育に対し、アンチを気取りたいのである。
「金子先輩ぃ~」
課外授業の最中だというのに、クラスの外からひかしゅーを呼ぶ掛札。ひかしゅーは通路側の席なので、掛札を見て、「帰れ」と言った。
「ひどいじゃないですかー。僕はただ、先輩の顔が見たくてきちゃったんですよぉ」
「嘘だっしー」
ひかしゅーは言った。すると授業を進めていた教師が怒鳴る。
「金子! おい! 金子ひかしゅー! そういう話は後にしろ!」
頬杖をつきながら、ひかしゅーは、
「だってさ」
と素っ気なく答えた。
「先輩、僕、先輩が好きッスから!」
そう言い残してから、掛札は教室から離れていった。
金子ひかしゅーは男性である。掛札も、男性である。しかし、掛札はひかしゅーに憧れを感じていた。パシリをやらされて泣きたくなった掛札は愛の台詞をひかしゅーにどうしても投げかけたくなったので、ここまで来てしまったのである。ひかしゅーも掛札のこのボーイスラブ感情を知っていたが、ひかしゅーには残念ながらその気はなかった。なので、今日もまた、あしらった。ただそれだけのことであった。
掛札は購買部に向かい、泣く泣くポテチ一袋とコーラをほぼ自分の金で人数分買い、ブヒブヒ鳴いた。コーラは、ひかしゅーの分も購入したのであった。これで先輩のご機嫌を取れたら、と思ったら胸毛だらけの胸がはち切れそうになった。
掛札は、そうして美術部に戻ったのだ。また、不毛に、不当にいじられるために。
高原高校の保健室は校舎の別棟にある。その保健室の隣は、茶道部の部室。和室であり、本格的な茶室なのだが、現在は使われていない。茶道部がなくなってしまったからだ。もう、五年ほど、ここは使われていない。その茶道部のふすまを、七咲ひまわりは開けた。そこにいるのは、和服を着た七咲コスモスであった。
「ここにいたのですか、お姉様」
座敷に正座をしながら、コスモスは目を閉じていた。
「瞑想中なのだぞ、ひまわり」
目を開けないまま、コスモスは言う。
「お姉様」
「ふ、私は『小お姉様』なんでしょ」
「それは……そうですが。いや、今はその話じゃありません。私が聞きたいのは、先日あのたわけの部屋にお姉様が連れ込まれたという話です」
「たわけ? 部屋? 連れ込まれた? それはなんの話?」
「いえ、ですからお姉様、お姉様がもやしばら百太の一人暮らしの部屋に連れ込まれた、という話です!」
「連れ込まれたのではないぞ、ひまわり。私から、会いに行ったのだ。ガッコウのプリントを渡しにな」
「では、夕飯を食べてきた、というのも本当なのですかッ」
「あー、もう。料理は材料を買ってきてつくったんだぞ、土鍋で。スーパー『サミット』が特売日だったのでな。どうでもいいではないか。無粋だぞ」
コスモスは目を開き、正座したまま、落ち着いた声でひまわりに言う。
「私はひまわりと血はつながっているが、一緒に住んでる姉妹ではない。籍を入れたままとはいえ、お父様と住んでる私とお母上と住んでるひまわり、この二人は本当はこうしてしゃべるのも、家庭内政治としてはよろしくないのだからな。各々の家庭の詮索は禁止だぞ」
「私は! 特にあの男のところだけには、お姉様に行って欲しくない! 仲良くなって貰いたくない! それだけです」
「抹茶を淹れようか?」
「結構です」
「そうか」
「私は……」
下を向くひまわりと、それを慈しむ目で見るコスモス。
「私は知りたいのだよ、あの男を。ひまわりの、大切だった『大お姉様』が好きだったあの男を」
ひまわりは唇を噛みしめながら、頭を下げた。
「それでは、私はこれで」
今は引き下がるしかない、とひまわりは思った。コスモスも、茶室のふすまを閉めて出て行くひまわりを引き留めることはしない。
ひまわりがふすまを閉めると、コスモスは死んだ少女のことを思い出す。雪枝という、今年の春に自ら死を選んだ、一歳年上だった、ちょっといじわるな少女のことを。百太の、恋人だった『大お姉様』のことを。
☆
「クッ。許さんぞもやしばら百太! お姉様は私だけのお姉様なのだ! お姉様の禁断の果実は私だけが囓ることが許されるのだからッッッ」
床のリノリウムを踏みつぶさんばかりの音を立てて、ひまわりは渡り廊下を進む。別棟から校舎に入り、自販機の前に来る。お金を自販機に投入し、缶コーヒーを買う。プルタブを開けて一気飲みをし、「苦ッ!」と言って舌を出した。ブラックコーヒーはまだ、ひまわりにには早かったようだ。
「これが大人の味……ということか」
と、ぶつぶつ呟いていると、そこに男子生徒がやってくる。美術部部長の金子ひかしゅーだ。
「元気かっしー、ひまわり」
手を挙げて挨拶するひかしゅー。
「お、部長殿。課外学習は終わったのですか」
「終わったなっしー。これから部に顔見せに行くんだけど、一緒にどうだっしー」
「いえ、私は」
目をそらすひまわり。
「今日も楽しいぜ」
「いえ、ですが。絵をたしなむならそれも良いのですが……。やはり、あのシートを舐めるのは」
ひかしゅーが睨む。
「おい、滅多なこと言うなよ。お前だから教えてやっただけなんだからっしーよ」
「…………」
うつむくひまわり。
「欲しくなったらいつでも言えよ。ひまわりはジョー茅根の野郎のお気に入りなんだからっしー」
うつむいたまま、頭に血が上るひまわりはしかし、言い返すことができない。
「ま、愛玩されてるのはお前だけじゃねーっしー。キャッハ」
野卑な笑みを浮かべながら、そのまま部室棟に去って行くひかしゅーを、ひまわりはやり過ごす。これが、この高校のアンダーグラウンドに通じるものの、処世術だ。互いにその暗部のことを、見過ごすという、このやり方。
「お姉様だけは、私が守る……!」
飲み終わった缶を握って、それから、それをくずかごにシュートする。なんでこんなことになってしまったのだろう、とひまわりは思う。大お姉様、幸枝の残したその負の遺産は、高原高校に根付いている。いや、もう高原市に蔓延し始めているのだ、その負の奔流が。
自分の無力さは、自分が女子高生だからなのか、女だからなのか。それとも、私が七咲ひまわりだからなのか。わからない。わからないし、そわそわする。なにかをしなくては、と思う。だが、いつもそれは『思うだけ』だ。結局なにもしないし、なにもかわらない。話はもう、殺人に至っているのだ。だがなにもできない。歯がゆさを越えて、歯ぎしりもできなくて、それはまるで虫歯のようだ。悪魔がドリルで歯に穴を開ける、あの虫歯だ。悪魔。悪魔は誰だ。私か、あいつらか。それとも、……なにも知らない人間達なのか。悪意だけが伝染するこの町に、救い主なんていない。ただ、一切は流転するのみ。
遠い記憶の中の、三人の少女。雪枝、コスモス、ひまわり。三人は、ひまわりの記憶の中ではいつも手を繋いで、明るい草原を歩いている。そのビジョンを汚したのは、一体誰だったのか。
ひまわりは立ち尽くした。顔に手をあてて、そして、泣いた。
☆
「チッ、『サミット』が特売日じゃねぇか」
新聞の折り込みチラシを眺め、寝転がった体勢がら姫路ぜぶらは飛び上がった。いきなりの動作に飼い猫の林檎ちゃんはダッシュしてぜぶらの膝元から逃げた。
ぜぶらのワンルームマンションには、大音量でギャングスタラップが流れている。フローリングには猫の餌入れと空気清浄機。ラッパーのぜぶらは、実は金持ちのご令嬢である。令嬢ゆえの逆コンプレックスか、ぜぶらは貧乏な黒人達がつくりはじめたブラックミュージックが大好きなのであった。ヒップホップが大好きだが、今やっているユニットは、テクノっぽいダンス音楽とラップを重ね合わせたもの。DJ田所のつくるそんな音楽が、ぜぶらの今やってる音楽なのだ。いや、だった、と過去形で語る必要が生じるかもしれない。田所はナイフで刺されて入院中、治っても、そんなことがあったクラブでDJプレイを今後も続けていくだろうか。微妙なラインだ。あいつなら笑ってまた戻ってきそうな気もするが。ぜぶらは指の爪を噛む。
「考えてもしゃーない! 買い物に出かけよう。特売日だし!」
ぜぶらは拳を頭上に掲げ、気合いを入れた。猫の林檎はご主人のそんな機微に冷たい猫目の視線を浴びせた。
スーパー『サミット』。大規模チェーン店である。高原市には数多のスーパーがあるが、日頃通うスーパーをここと決めているぜぶらである。マイバッグを片手に、自動ドアをくぐる。
店内は大変混雑している。にこやかな家族連れもいれば、家事疲れによりやつれてしまった主婦もいる。特売日。ぜぶらはお嬢様なので、あまり料理が得意ではない。なので、安売りのレトルトパウチのところへ一直線に向かう。行った後で、カレーならルーからでもつくれるし、などとちょっと思い、移動をはじめた。すると、なにやらキーキー騒ぐバカップルがコーヒーのコーナーにいて、ぜぶらの進行を邪魔していた。
「今日はカレー。本当はゴーゴーカレーに行って食べたかったのだぞ。しかし、今日はサミットの特売日。仕方がなかったんだぞ」
「どこが仕方ないだよ」
「ダーリン。手作りカレーでハートキャッチぷりきゅ……」
「あーそれ以上は言うな!」
「心がドキドキぷりきゅ」
「だから色々マズいから言うなって!」
こいつらもカレーかよ、とぜぶらはちょっと嫌になった。なんで私がこんなバカップルと同じもんつくらにゃならんのか。大体なんだよこいつの髪の毛。銀髪じゃん。
「で、だ。なんでコーヒーのコーナーに来てインスタントコーヒーをカゴに入れてんの? 確かに豆切らしてるからちょうどいいけど。んん? ブルーベリージャム?」
「入れるとおいしいのだぞ、カレーにインスタントコーヒーとブルーベリージャム」
「マジでか。っておい、どこへ行く?」
バカップルの女の方が走ってアイスクリームコーナーの方に行く。
ぜぶらは、そのバカップルを見て、不思議に思った。男の方は、ぱっとしない外見の高校生風で、ギャルゲーだったらモブキャラにしかならんような雰囲気を醸し出している。ま、そいつはどうでもいい。問題は、女の方だ。この女。天使の輪っかと翼を生やしている。コスかなんかか、とは思うが、その小さいサイズの翼が、あまりにも自然に見えるように作り込まれていて、本物の羽だ、と言われれば信じてしまいそうだ。そして、輪っか。頭の上にあるのだが、どう見ても空中に浮いているようにしか見えない。どーいうこった。 どーいうこった、と言うならば、今日の特売日でひしめき合った店内、この不思議天使少女に目を向ける人間が、ひとりもいないのだ。さすがにそりゃないだろ、見て、ぎょっとして、引くだろ、普通。これじゃまるで、私だけがこの純白の翼と輪っかに気づいてるみたいじゃないか。
そんなことを考えていると、天使少女がモブキャラ男のところに戻ってきた。
「おい、コスモス。お前、まさかガリガリ君ソーダ味をカレーに入れる気では……」
「えっへん。その通りなのだよ百太クン。この前ガリガリ君コンポタージュ味を入れたら殊の外うまかったのだぞ。きっとソーダ味もパンチの効いた味になるんじゃないかと」
「ふっざけるなァァァァ!」
頭をパチンと叩くモブキャラ男。天使の輪っかはモブキャラの手をすり抜けた。ホログラフィーなのか、これ? いかんいかん、考える必要ないだろ、無関係だし。
ウザいバカップルをスルーして、ぜぶらはとっととカレーのルーと食材を買って帰ることにした。
せっかく商店街に来たのだし、ということで、サミットで買った食材の詰まった布のマイバッグを持ち、ぜぶらは本屋へ立ち寄った。個人経営の書店『ブックスルーエ』だ。書店の名前の由来はよくわからない。が、品揃えの良い店だ。しばらく店先の女性ファッション誌を読んで、それから店内の、音楽書籍コーナーへ向かう。
姫路ぜぶら。女性ラッパー。声が武器。そのライムはたぶん、この町じゃなくても、アマチュアとしてはトップクラスの、女子高生。ホントは未成年が出入りしちゃういけないような店でラッパーとなって活動しているぜぶらだが、実はぜぶらは吃音である。言葉が上手く出てこないことが多い。それは日常生活での話で、ステージでは大丈夫。だが、劣等感は消せないし、元々はその、言葉を上手く発音できないが故に、ラッパーになることを決意したという経緯があったりする。
と、、いうわけでボイトレの本なんぞを立ち読みしてみる。吃音嬌声の本は家にたんまりとある。それは買わざるを得ないから買うが、「発声が通常」の人間が読むボイストレーニングの本なんて、買いたくないのだ。よって、立ち読みで済ます。ぜぶらは気合いを入れて内容を覚え込む。こんなにかたくなにならなくても良さそうなものだが、高校生ぐらいの若さで夢を追うとは、こういうことなのだ。
歯がゆい気持ちは収まらない。相棒であるDJ田所は復帰するのか。あいつは性格がいい加減だからなー、と思う。自分がやるのはあくまで田所のつくるトラックにライムを乗せるという、そういうことなのだ。果たしてここでボイトレの本を立ち読みしてる場合なのか。自分でも今後の活動のために手を打たないといけないのではないか。ぜぶらは手のひらが汗に浮かんでくるのに気づく。いけない。悩んでも仕方がないのだ。動くか、信じて待つか。できるのはその二択くらいなのだ。堂々巡りに悩むのは避けるべきだ。気分転換に、ぜぶらは写真集のコーナーに行くことにした。イケメンの写真でも眺めりゃ悩みは吹っ飛ぶ……のか?
ぜぶらは写真集のコーナーに来ると、黒人シンガー、アッシャーの写真集を手に取り、ページをめくる。その半裸の写真を見て「へへ、やっぱ男は腹筋と胸筋よねっ」と、口元を緩める。
と、そこへうるさい二人組が現れる。がーがー言い合っていて、どこかで聞いたような声をしてるな、と思い、目を細めて振り向くと、それはさっきサミットにいたバカップルだった。
「ダーリン見て見てこの写真集。このロリータ服の女の子、チョー可愛いいと思わない? 私はこの女の子がとても好きなのだぞ」
「へー。なんてひと?」
「えーっと、なんだっけ……。ああそうそう、えー、なんとかすみれっていう」
「お前も名前うろ覚えじゃねぇか」
「もー、ダーリンは! とにかく可愛いだろ! ね? ね!」
「おれ、アイドル興味ないし」
「アイドルじゃないぞ! 声優なのだ」
「西友? セゾングループか?」
「あーもう。ふざけるとコロスよ? ブチコロガシマスよ?」
「大体さー。女が女に対して言う『可愛い』ほど、あてにならないものはねーぞ。だって女って、自分より不細工な女にしか可愛いって言わないし、自分らより可愛いと可愛いで、裏の方でこそこそと『なによあの腐れビッチ。あの女これまで何本くわえ込んだか知れたもんじゃないわ』とか言うだろ。おれ、知ってるぜ? まあ、この写真集の女の子は本当にかぁいいけど」
「かぁいいとか、表現がキモいぞこの童貞」
「なっ! おれは中学時代に女性一千人を抱いて、ついた異名がサウザンドマスターって……」
「寝言は死んでから言え」
「くっ!」
「はっはっは。そうなっしー」
と、笑いながら今度はまた変な学ラン男が現れ、バカップルの会話に加わりはじめた。学ランは我が校、高原高校の制服だ。ったく同じ高校の奴かよ、ホントウザいんですけど。なんか今日は私、厄日なのか。ぜぶらはため息をついた。
バカップル男は険しい顔をする。
「部長。お元気そうで」
「わかるかい? 私はこの通り元気だよ」
そこにバカップル女。
「エロ本を持ちながら会話してくるほど元気なのか、ひかしゅー」
バカップル女は鋭い視線で学ランを睨み付けている。
「ふふ。私はエロ本は学生服で買う主義なんでね。それより、二人は仲むつまじくここでなにをやってるっしー。どうもコスモスさんはデレモードに入っているとお見受けするがっしー」
「黙れ」
バカップル女は強い語調でそう言うが、背中の天使の翼はぶるぶる震えている。
「七咲コスモス。あんたの妹さんとは仲良くさせてもらてるっしー」
含みのある笑みを浮かべ、学ラン男はその場の雰囲気を支配している。
「まあ、私はこれで失礼するよ。お二人の邪魔をしちゃ悪いからね。……百太、お前は雪枝さんのことがあっても、すぐにそうちゃらちゃらするんだね。あきれるっしー」
学ランは去って行く。いや、エロ本をレジへ持っていったのだ。バカップル二人は沈黙している。
この場にいるのも重苦しいし、それに私、こいつらとなんの関係もないし、と思ってぜぶらもここから立ち去ることにした。全く、飛んだ厄日続きの日だ。神社でお祓いでもした方がいいかも。
☆
ガリガリ君ソーダ味入りのカレーを食わされ、そのサイケデリックな味に目眩をしていると、百太の部屋からコスモスは帰っていった。金子ひかしゅーが本屋で話しかけていった時から、百太とコスモスは、まともな会話ができなくなってしまっていたので、気まずさが支配していた今日のカレー食事会、終わって今はほっと一息つけた、と百太は感じていた。
百太はまだ、自分の恥ずかしい詩を、保健室に持っていってない。今日、その話が話題にのぼることはなかった。いや、ひかしゅーに会わなければ、もしかしたらその話題もあったかもしれない。コスモスは自分のコミケ底辺武勇譚を、きかせたい節があったし。
コスモスも、高原高校美術部部長、金子ひかしゅーと、面識があるどころか、なにかつながりがあるらしい。が、どう考えても、今日の一件を踏まえるとそれは感じの良い話ではなさそうだ。
低い天井を見上げながら、百太はこれからどうしたもんか、と考える。
ひかしゅーが口に出した、雪枝のことがあったのに、という一言が、百太を傷つける。今はその切られた傷口から血があふれ出しそうになっている。
百太は、大量の薬を一気飲みして、自殺未遂をはかった。が、それは前後関係を見てしまうと、ただ一身上の都合で自殺を図ったということにはならない。エゴイスティックではあるがそれだけの問題でもなく、その前には、付き合っていた女性の死、という問題があるのだ。死ぬ二週間前、そう、観覧車で語り合ったあの時から間をおかずして、雪枝は中東の国に旅に出かけた。あれから、雪枝の中でなにかが変わった。その変わった心に、その時百太は気づくことができなかった。気遣ってやることができなかった。そして、百太が戸惑いはじめてまもなく、雪枝は電車の走ってくる線路に飛び込んだ。その美しい身体は、粉々になった。 そう、おれのことなんて、どうでもいい。百太はそう思う。
考えてやるべきは雪枝のことだ。
じゃあ、なにを考える? 死者に向かって……。おれは退院早々、女の子といちゃついて。こんなおれ自身に対しては、気に留める事柄なんか、ない。
百太は拳で床を叩いてから、ノートを取り出す。美術部から持ってきた、詩のノートだ。死の、ノートだ。百太はなにかを、書き殴ろうとして、そしてあの医者の言葉を思い出す。
…………おれは、ひとから餌を貰って喜んでるだけの鳩なのか。拾ったクジャクの羽を見せびらかして自分をアピールするしか能のない、クジャクのフリをした鳩なのか。
シャープペンシルを持つ手が震える。医者の顔を思い浮かべたら、なにも書けなくなってしまいそうだ。書けない人間に、なってしまいそうだ。
季節違いのようにわき出る、頬を伝う汗を手で拭い、百太はシャープペンシルを走らせる。
自由詩だけじゃなく、絵も描きたい。ガッコウに、行かなくちゃならない。画材なんて、ここにはないのだ。
深呼吸すると百太は、窓の外では今、雨が降っているのを知る。ああ、おれがオーバードゥーズしたあの日も、天気が悪かったんだった……。
☆
朝、目覚めると雨は止んでいて、百太は、コスモスに自分の詩を書いたノートを持って行こうと思った。部室にも行って、絵を描こう、とも思う。心境の変化。それは、コスモスもそんなに悪くない人間だと思ったからで、保健室のサトミ先生だって、優しいからであもある。自分を取り巻く人間たちを、敵視しなくてもいい、という思い。自殺未遂によって一旦、過去の自分の人生は終わり、そして新しい人生が始まり、その人生のスタートも好調に見えるという、安堵感。過去の方がおかしかったんだ、と百太は思った。確かに、教室に戻るのは怖い。しかし、前に進むためには、どうしても、クラスに戻る必要性があると思われたのだ。過去を断ち切るためには、過去を清算しなくてはならない。昨日の夜降っていた雨だって、止んだのだ。雨は降り、止む。その繰り返し。ならば、苦しいことばかりじゃないはず。雨のように、苦しさが心に振り、やみ、それが繰り返すはず。百太は洗面所に行き、顔を洗う。タンスから、ハンガーに掛けた制服を取り出す。あとは、勇気を持つのみ。百太は、先に進もうと、その一歩を歩み始める。
昇降口の下駄箱を覗くと、自分の下駄箱が焦げ付いていた。どうも、紙かなんかを中に入れて、燃やしたらしい。真っ黒焦げだ。シューズももちろん煤に成り果てていた。この前ガッコウに来た時はなんともなかったから、こりゃたぶんおれがガッコウに戻ってきたのを見計らって、こういう行為に及んだのだな、と百太は思った。でも、こんなのよくあることだ。毎日シューズの中に画鋲を入れておく連中だ。たいしたことじゃない。百太は靴を脱ぐと黒焦げの下駄箱に仕舞い、購買部で新しい上履きを買ってそれを履いた。
なにかと気が引けるが、自分のクラスに向かう。今日は登校することに決めたが、さすがに登校の時間にガッコウの坂を上がるのは辛かったので、一時間目が終わる頃を見計らっての登校とした。だから、登校中の生徒に会うことはなかった。それは気が楽だったが、どのみち生徒達には、廊下や教室で会うことになる。キツいけれども、復帰するとは、そういうことだ。気合いを入れる。
一時間目の休み時間。歩く白髪の百太は、とても目立つ。そうじゃなくとも、オーバードゥーズをやらかした身の上、目立つこと甚だしい。自分のクラスに向かう廊下では、こそこそ囁き合う同級生たち。それを無視して、教室に入る。
一瞬の沈黙。一斉に、クラス中の人間が、こっちを向く。百太は息をのんだ。自分の席には花瓶に活けられた菊の花。死んだ、という設定らしい。花瓶を教室の後ろのロッカーの上に置いてから、席に着席する。百太にしゃべりかけてくる人間など、いない。ただ、視線をこちらに向けてニヤニヤされるだけ。でも、こんなの苦痛じゃない。机の中は、特に荒らされた様子はなかった。学生鞄から教科書とノートを取り出し、二時間目の授業の準備をする。二時間目は、英語だ。
教室に入ってきたハゲ面の英語教師。その目は爬虫類のようで、口から出した尖った舌で、唇を舐めている。教師は、百太を一瞬だけ見て、鼻で笑った。
礼をして、授業が始まる。英語教師は壇上で言った。
「キミタチは勘違いしている。いじめなんぞ、この高原高校には存在しない。今までも存在しなかったし、これからも存在しない。教頭も、校長も、我々職員も生徒諸君も、それは周知のことだし、諸君らにも自明のことだろう。もし、いじめで自殺者が出たら。いじめなんかこのガッコウにはないが、もしもいじめと称して自殺するモノがいたらそれは、その自殺する人間が一方的に悪いのだ。キミタチが悩む必要は一切ない。いじめがあるという狂言の下のことだからね。そもそも自殺というものは、自然淘汰が行われたに過ぎない。自然に適応できなかった弱者が、勝手に自分から死んでいく。それが自然淘汰で、まさに『この世に必要のない人間が、勝手に死んでいく』ということだ。邪魔者には、とっとと退場願いたいからね、我々としても。もしも、だ。その自殺が未遂に終わったとしたら。それは大変遺憾なことだ。この世の害虫が生き残ってしまったということだからね。害虫は駆除する必要があるだろう? 私が言いたいのは、そういうことだ」
これは、おれへの当てつけだろうか、と百太は思った。実際、クラス中に、クスクスという噛み殺した笑いが充満している。しかし、これはどういうことだろう。彼らは、誰を笑っているのだろう。おれか? それとも、頭のイカレたことを壇上で口走っているこの教師をか?
百太はいきなりの目眩に襲われ、気づけば立ち上がっていた。そして、無言で教室を飛び出していた。吐きそうだったので、トイレで吐いた。水で吐瀉物を流してから、向かったのはサトミちゃんの保健室だった。逃げ場が、そこしか考えられなかったのだ。
保健室の前に這々の体でたどり着いた百太が見たのは、プレートに書かれた『外出中』の文字。だが百太は、ためらいなくそのドアを開けて、中に入る。逃避行には、逃げる場所には、ここがベストだとしか思いつかないのだから、仕方がない。ドアノブをひねり、開けて入る。
と、中に入って飛び込んできたのは、女生徒が上半身が裸の姿で、二の腕に包帯を自分で巻き付けている姿だった。
「……や、やぁ」
なんか最近、前にも同じような状況があったな、と百太は思ったが、とりあえず、悪気はないということを証明するために、挨拶してみた。女生徒は、その裸の上半身には、下着もつけていない。百太は、だめだだめだと思いつつも、どうしてもその豊満な乳房に目が行ってしまう。女生徒はそれに気づいたのか、
「私はブラジャーはつけない派なんでね」
と、ゆっくりと説明した。
「は、はぁ。そ、そうなんですか」
しどろもどろでしか応えられない百太をよそに、ゆっくりと包帯を巻いていく女子。その包帯には、すでに血がにじんでいた。
百太は目を見張る。その女子が、見事なプロポーションをしていたからだ。でるとこはでてひっこむとこはひっこむという、無駄のない身体。引き込まれてしまいそうになる。
包帯を巻き終えた女生徒は、セーラー服の上着を着てから、百太の方へゆっくりと歩いてきて、百太の前で立ち止まる。そして、耳元に顔を寄せ、百太の耳元に息を吹きかける。
「おい。どうだ、私の身体。……思わず惚れちまいそうだろう、モブキャラさんよ」
百太は身体をひねり、少女と至近距離で目を合わせる。頬を寄せられ、キスする寸前の距離。
すると、ドフッという鈍い音が百太の鳩尾に響いた。少女に腹をパンチされたのだ。
呻いてうずくまる百太。
「私の裸はタダじゃねぇ。このバカップル男」
「も……モブキャラ男? バカップル?」
額にかかる髪の毛を掻き上げて、その女は目を細める。
「二年。姫路ぜぶら。それが私の名前だ。あんたこの前女の子と一緒にサミットで買い物してたろ。モブキャラみたいなツラしてるくせによくやるぜ。まさか同じガッコウの奴とは思わなかったけどね」
「二年? ど、同級生?」
うずくまったまま百太は声を漏らす。
「私はガッコウなんか出席日数ギリギリにしか登校しないからね。知らなくて当然。私だってモブキャラの名前なんて覚えてらんないし」
どうにか鳩尾の痛みが治まって、立ち上がる百太。その時、ドアが開き、サトミちゃんが中に入ってきた。
「あらあら。二人は知り合いだったの?」
「違います!」
少女、ぜぶらは、即答した。
「ぜぶらちゃん。また喧嘩でもしたんでしょ。なんだかそんな顔してるわよ」
「いや、私は別に……」
「まだ剣道部のこと根に持ってるって話、職員会議で聞いてるわ。でも、絶対他校と喧嘩なんてしない方がいいわ」
「いや、でも工業高校の連中は一方的にうちのガッコウを狙って……」
「あなたは、それどころか剣道部ですらないでしょ。助っ人なんてやる人間じゃないわ、あなたは」
ぜぶらは、大きく息を吸って、それを吐いて、身をぴしっと正してから、
「じゃ、私はこれで」
と言って、去って行った。サトミちゃんも、それを見届けただけで、深入りはしなかった。
百太はただ、それをぼーっと見る。
サトミちゃんはそんな百太に苦笑した。
「浮気はダメよ、コスモスの『ダーリン』。コスモスなら、自習室よ」
「いえ。今はコスモスじゃなくて、ここで休みたいんです」
「そ。わかったわ」
なにも聞かないで、休息を取らせてくれるサトミちゃんに、百太は感謝する。感謝しながら、いじめられてるということは、今まで通り黙って過ごすことにした。
☆
危険が身に迫った時、逃げ出すようでは駄目だ。かえって危険が2倍になる。しかし決然として立ち向かえば、危険は半分に減る。何事に出合っても決して逃げ出すな。……と、ぜぶらはかっこつけた。
しかし私、喧嘩で負傷するなんて、ちょっと危険な女なんじゃないの?
高原高校剣道部と高原工業高校のいざこざは、クラバー同士の権力闘争だった。クラブ通いをしている高校生が、この街には多すぎる。DJ田所の負傷、それに殺人事件。デンジャーな空気が高原市を襲っているが、それでもやんちゃな学生連中はこぞってクラブで踊り、酒を飲み、そして恋愛をする。うちのガッコウの剣道部の主将と工業高校の番長みたいなリーダー格の奴が色恋沙汰で喧嘩を起こしたのをきっかけにして、第一の喧嘩があり、それが元でうちの剣道部が活動休止を言い渡された。それを根に持った剣道部が工業高校の不良グループと対立、ガヤガヤと第二の争いがクラブとは関係なしに始まった。そんなだからこのところ、私がMCをプレイしてるCLUB鳳雛には高校生はほとんど来なくなった。でも昨日、ラップのフリースタイルバトルで勝負したのが工業高校の奴で、私が勝ったもんだからいちゃもんつけられるわ、今日はボールペンで工業高校の不良に刺されるわで、包帯巻きに入った保健室でモブキャラ男に裸を見られるわで、もー散々。と、ぜぶらは回想する。
そもそも、相棒の田所は、異様に喧嘩をさせない強制力を持っていて、そのDJブースから発せられる威光で、それで今まで私たちのプレイ中にいざこざが起こらなかっただけだしなー、と思うと、威圧感の足りない自分に嫌気がさすぜぶらなのだった。
「ぶっ殺す!」
と、不良はペンを構えた。
「は?」
と、ぜぶらは唖然とした。なぜに文房具? とぜぶらは口を開けて歩みを止めた。そしたらそのボールペンの先で刺された。ペンは剣より強しって、そういう意味だったのか、と感心してしまった。感心してる隙に不良は逃げた。ひどい話だ。工業高校は男子校で、そいつはもちろん男で、私は女だぞ。そこらへんは男女差別しとこうよ。
ホントうんざり。
しかし、喧嘩っ早くて悪さばかりしている工業高校のクソども。ドラッグ関連の話は、たぶん工業高の奴が絡んでいると私は見た。ただし、それを調査するのはどうかと思う。威圧感と飄々とした物腰を使い分ける田所は、病院のベッドの中だ。頼ることは出来ない。……って、あれ? 頼るもなにも、調査なんかするもんかこのバカ野郎。そんなの税金に任せときゃいいんだよ。私には関係ない。つーか今年度の授業がガッコウで始まった頃から、うちのガッコウの生徒はほとんど鳳雛には姿を見せてない。この前、なんか生徒の姿を見たけど、まあ、そういう物好きがいるって話なだけで。
連続殺人事件。殺されたのはフリーターやら会社員やら、普通の大人。共通してるのは、クラバーだったってとこ。ドラッグ絡みの匂いはするが、そう早合点していいものか。
ぜぶらは、保健室で包帯を巻いて出て行ってから、教室には戻らず、田所の見舞いに行くことにした。どーせ授業受けても、私の将来となんら無関係に思えるし。ちゃらんぽらんな人生を、私は生きるのさ。
☆
病室に入ると、ベッドに寝ている田所の傍らには、煙草をくわえた女性が立っていた。会話をしないで、女性は煙草を吸っている。病室も、病院も、喫煙禁止であるのだが。
ぜぶらに気づいたDJ田所は、片手をあげてぜぶらに「うぃっす」と挨拶した。ぜぶらも「うぃっす」と返す。
「ぜぶら。ちょうど、紹介したかったところなんだ」
田所は、林檎を囓りながら、そんなことを言った。もちろんこいつが林檎を剥くわけがなく、田所は丸かじりしている。
「坊やの相棒が、この子なのかしら?」
女性は彫りの深い顔で、田所とぜぶらを交互に見る。田所は笑った。
「ぜぶら。お前、知らないだろ、この人。でも、それが、ホントは知ってるはずなんだよなー」
「なんだそのもったいぶりは。……どうも、初めまして。私は姫路ぜぶらと言います」
女性はくわえた煙草を、手に持った。
「あら。紹介ありがとう。あたしは、伏見月桂冠」
そこに田所が口を挟む。
「この人は鳳雛レコード主宰の月桂冠さんだ。な? 知ってるだろ?」
「あ、あなたが……。お世話になってます」「ふふ。あのコンピ盤、結構売れたのよ。あなたらの曲もいい感じだったわ。CDで黒字になったのは、あのコンピ盤が、うちのレーベルでは初だったの」
コンピ盤。コンピレーションアルバムのことである。鳳雛レコードのコンピ盤に、田所とぜぶらは参加していたのだ。
コンピ盤は普通のCDと違って、そのアルバムを出して金を稼ぐ、というよりは、バンドやユニットの存在を知ってもらうために出すことの方が多い。ライブの販促、といった趣である方が多く、ぜぶらたちの参加したコンピ盤も、そういった側面のあるものだった。そして、そのレーベルの主宰が、この伏見月桂冠という女性だったのだ。
「鳳雛レコードの主宰ということは……」
ぜぶらが言おうとしたことを察知し、月桂冠は遮るようにして頷く。
「そう、あたしはCLUB鳳雛の立ち上げから関わってる。鳳雛をオープンさせた時の元手金も、あたしが負担したわ。借金してね。だから、あなたたちのプレイの反響も、結構知ってるわ。ここ数年は、レコードレーベルの仕事の方が忙しくて、フロアには顔を出してられなかったのだけどね。うちは、フロアの経営以外に、ライブハウスもいくつかやっていて、そこからメジャーデビューするアーティストもいたから、てんやわんやだったの。この機にレーベル自体も、老舗インディーに負けないようにしたかったからね」
「すごい……」
ぜぶらは感心した。メジャーなんて、夢のまた夢、にしか思えない。なぜなら、なんだかんだで一介の女子高生にしか過ぎないのだ、このボーカリスト・姫路ぜぶらは。
この伏見月桂冠という人は、あきらかに四十歳を越えてそうな顔をしていて、確かに派手なタイトスカートに身を包んでいるとはいえ、ここで田所と恋人同士だ、と言われても即座には納得できない。だから、この病室に入ってきたとき、いや、この前このひとと病院ですれ違った時も、田所とこのひとの関係を、不思議がってはいたのだ。だが、ここでぜぶらは合点がいった。なるほど、と思ったのだ。
「いきなりだけど、ぜぶらちゃん」
「はい?」
話を振られて飛び上がるようにするぜぶら。この月桂冠は偉い人なのだ、と思って硬直してしまっていたのだ。
「あたしと、しばらく組まないかしら?」
「な、なにを?」
月桂冠は病室の床に煙草の灰を落とす。
「ユニットよ」
「ユニットって? 私、レコードレーベルの仕事とかわからないんですけど」
「違うわ。音楽ユニットよ。田所はしばらく、休業するのよ。その方がいい。暗部との関連で、ケーサツもこの男は怪我しても死んでも、助ける気がないの。だから、とうぶん休養を取ることを、あたしとさっき約束したわ。『インサートエフェクト』の蔓延を防ぐチェッカーとして、あたしもフロアに立つわ」
いきなりの申し出に、ぜぶらは戸惑う。
「大丈夫。あたしも昔はプレイヤーだったのよ。腕には自信があるわ。ヒップホップのトラックをつくる、あたしは得意なのよ。あなた、ラッパーでしょ。田所の電子音楽とはスタイルが違うけど、組んでもやっていけるわよ。会社にはあたしが現場に立つこと、もうおっけーが出てるから」
「は、……はぁ」
「じゃ、決まり!」
そしてぜぶらは、かようにして伏見月桂冠とヒップホップユニットを結成することになった。ぜぶらは、頭の中が真っ白で、よくわかっていなかった。そう、レーベルの偉い人とユニットを組むということが、自分のステップアップにもつながるということに。
☆
「ペンタブねぇ」
サトミちゃんは保健室の窓を開けて換気をしながら、思案した。
「パソコンで絵を描くのは、私は感心しないわ」
「そ、そうですか……」
百太は、下を向いた。
「だってあなたは抽象絵画ばかり描いてるじゃない。パソコンからプリントアウトしたものとは、あまり相性がよくないと思うわ。うーん、でももやしばらくんがノートに描いてる可愛いキャラクターの素描なら大丈夫だと思うけど。でももやしばらくん。あなたはもっとデッサンを描いて練習しないとだめよ。後で絶対後悔することになる」
授業を抜け出して百太は保健室に駆け込んだ。そしてサトミちゃんと話をしていたが、美術部顧問としてのサトミちゃんは、あまりに真面目すぎて、百太としては、会話をしていたら息苦しくなってしまったのだった。
「今日はせっかく登校もしたんだし、今から部室で絵を描いてみたらどうかしら」
百太も、画材が家にないし部屋を汚したくはないしで、部室で絵を描くとも思っていたのだ。しかし。
「大丈夫。美術部のみんなは、良い子ばっかりよ。それは知ってるでしょ? それに今はまだ授業中で誰もいないから、好きに描けるわ」
みんな良い子ばかり……。サトミちゃんにはそう写るのか。百太は、床をじっと眺めていた。そんな百太の肩に、サトミちゃんは手を置いた。
「さ、行きなさい、部室へ。ここにいても意味ないわ。愛しのコスモスちゃんも、今日は自習室で勉強してるし」
「……はい。わかりました」
そして百太は、部室に向かう。
コスモスのところに顔を見せなくてもよかったのかと百太は悩んだが、まだ午前中の授業をやってる時間だから、誰も来ない今のうちに部室に行く、という選択を取ることにした。しかし、この前のようにひまわりとかいう女が入ってきたらどーする、とも思ったが、それはどう考えてもイレギュラーな事態だろう。だから、考えなくても大丈夫なはず。
あのひまわりとかいう竹刀女、もしかして美術部の部員なのか? ま、どうでもいいや、と思う。百太は美術部の部員と意思疎通をすることはもう諦めているのだ。
部室棟は、相変わらず暗い。木陰ということもあるが、空気が澱んでいるような気がする。この澱みの空気を吸っていると、どうしても今、この町で起こっている連続殺人事件を思い出してしまう。
「クラブ……、ね。音楽なんて嫌いだよ。特にヒップホップなんてのは、ね……」
百太はいつも鍵の開いている部室に入る。
壁のスイッチで電気をつける。そういやこの間は電気をつけてなかった。誰からも知られないように、なんて思ってたからだけど、今は、堂々とするしかないな。
百太は、画布に触れたことが、この部室でしかない。高校生だが、美大の予備校に通っているわけでもない。それに、とりたてて絵が上手いわけでもない。普通の、絵が好きで絵を描いているフツーの高校生にしか過ぎないのだ。だが、ここで絵を描いている時だけは、自分はアーティストだ、と百太は思っている。いいじゃないか、放課後だけアーティストになれるなら。
ここに来て描くためのラフスケッチならば、描いて持ってきた。さっきは保健室で部室に行くか行かないかで悩んだけど、元々はここに、部室に、来て、絵を描く予定だったのだ。だから、そのための用意はしてきたというわけだ。あとは……本番としてキャンバスに描くだけだ。
百太はキャンバスを持ってきて、立てかけ、下書きを描き始めた。それは、至上の瞬間にも思えた。無へ、命を吹き込むこの瞬間が、百太はたまらなく好きなのだ。
おれはなんで、一旦は自死を選んだのだろうか。こんなに楽しいことも、世の中には存在するのに。
不思議な感覚。まるで、他人事のような。だが、これが百太のリアルな感情であり、感想だった。
どんなに楽しいこともあると思ったって、それだけで苦しい場面のすべてを乗り切れる人間なんていない。そして、『その時の』重圧に負けて、その時の激情によって、死ぬ。ただ、それだけのことなのだ。「人生には楽しいこともあるよ」なんて、気休めにもならない。それは、苦しさを軽減する効果なんて、たいして持ってなんかいないのだ。
百太は、息を吸って、大きく吐いた。百太の下書きの鉛筆は、直線を描き、曲線を描く。ただただ、抽象的な絵を塗るための準備を、していく。題材は、雪枝のことだ。死んだ恋人。そして、一緒に死ねなかった自分。それを、形而上学的に、表現する。たぶん、この絵が完成しても、このモチーフについては、誰一人わからないだろう。それに、あの部長の金子ひかしゅーとは違って、自分はコンクールで入賞出来る人間ではない。おそらくはこの絵が他人の目に触れることなんてほとんどなく、忘れ去られていく、そんな絵にしかならないだろう。最初から、闇に葬り去られることが前提の絵画。でも、そんなのがあったっていいと思うのだ。おれは、ただ描くだけだ。百太は、鉛筆を走らせながら、そんな風に思った。
百太は描いているうちに時間を忘れ、今は何時だろうと、ふと思い、腕時計を見ると、昼休みが始まってしまっていた。やば、帰らなくちゃと席を立つと、大きな音を立てて、ひとが部室に入ってきた。入ってきたのは、同級生である二年の朝倉、杉山、掛札の三人だった。朝倉が、
「久しぶり~、百太きゅん」
と言い、杉山と掛札が腹を抱えて笑う。どこに笑えるポイントがあるというのか。あきらかに、この笑いは嘲笑だった。
「なに一人でお絵かきごっこやってんのかな~」
「お、お絵かきごっこじゃない! 美術部の部員がそんなこと言……」
「はいはい。寝言は死んでから言えや」
百太の言葉を遮り、朝倉は鼻で笑った。
それに続けて杉山が
「おめぇは死んだろ。もう死んでんだよ、おれたちの中ではよぉ」
と言って、歩いてくる。百太の絵を見て、
「なんだよこりゃ。へろへろな線を描いて芸術家ぶりやがって。幼稚園児より絵が下手くそだなぁ。自殺未遂の精神病者がやることは、おれにはわかんねぇなぁ、ひゃははは」
と言って、キャンバスを蹴り飛ばした。朝倉は
「おいおい、蹴ったら部室が汚れちまうだろが。この雑菌様が描いた便所の落書きでよ~」
と笑い、百太はうつむいて唇を噛みしめた。
「落書きは落書きらしくね」
そう言ってキャンバスに女性器のような絵を百太のキャンバスに木炭で殴り書きする掛札。
「ね。僕のイラストの方が上手でしょ」
掛札は舌を出しておどけて見せる。朝倉と杉山は大いに笑う。
そして朝倉は百太の髪をつかんで、うつむいた百太の顔を上げさせる。
「出てけや。死人」
朝倉は唾を百太の顔に飛ばした。その唾は百太の眉間のあたりにへばりついた。
朝倉が髪の毛を離すと、百太は無言でまたうつむいて、自分の鞄を持つと、部室を出て行こうと走り出した。
出て行くのを見て、朝倉は鼻をほじった。
「全く、あんなバッチぃ病原体野郎が部室を汚すと、興ざめなんだよ、この汚物が」
汚物、と言われ、ドアのところで一瞬百太は立ち止まり拳を固めた。が、また駆け足で、逃げるようにして、その場からいなくなった。
部室の中の朝倉、杉山、掛札の部員三人は、昼休み中、ずっと笑いながら昼飯を食べて過ごしたのだった。
☆
昼休みが終わり、次の授業が始まる前、予鈴が鳴った頃も、まだ朝倉、杉山、掛札は美術部の部室にいた。談笑する三人のいる中に、七咲ひまわりが入ってきた。ひまわりは、汚いものを見る目で、三人のいる部室を見回した。
「ひどい有様ね」
ひまわりは、蹴飛ばされたまま放置してある百太のキャンバスを見た。
「ハッ。あのポエマー様のバッチぃ描きかけなんぞ、汚くて捨てるにも触れねぇんだよ。お前が掃除しろよ。女子だろ? 家政婦みたく働きゃいいだろが」
「うちのお母さんの職業をバカにしないでくれるかしら」
朝倉は鼻で笑い、杉山もそれに倣った。掛札はビスケットをかじるのに忙しい。朝倉は笑いながらも、こめかみから血管が浮き出ている。気分を害したらしい。と、そこで本鈴が鳴る。五時間目の授業が始まるのだ。
「行かなくていいのかよ」
朝倉は食ってかかるようなしゃべり方でひまわりに望む。
「私に用があるんでしょ? あるなら早くして」
「そうせかすなよ。ひまわり、女子の方はどのくらい捌けた」
「それがひとにものを聞く態度かしら」
「ハンッ! ジョーとひかしゅーさんのお気に入りとなると物言いが違うねぇ。調子込みやがって。このビッチが。権力持ってりゃほいほいと股を開くようなクソ女が」
「いいから早くして。こんなところにいたくないの。わかるでしょ」
ひまわりは金の入った財布を投げて朝倉に渡す。
「こんだけかよ。パケ二千でどうしてこれくらいにしかなんねぇのかねぇ」
「金を数えることも出来ないのかしら豚ゴリラさん。これで正確な代金よ」
「そうかよ。…………あ、ひかしゅーさん」
朝倉が入り口の方を向いて頭を下げた。部長の金子ひかしゅーが入ってきたのだ。
ひかしゅーは頭を下げる朝倉の方を見向きもせず、ひまわりに話しかけた。
「ひまわりくん。撮影の方はどうなんだっしー」
「知らないわ」
「知らないわけないだろ。ジョーさんが今回のは最高だって言ってたよ」
「知らないってば!」
「君が斡旋したんだろ、あの一年」
「やめてちょうだいッ!」
ひまわりは思わず怒鳴ってしまう。ひかしゅーはその怒声を堪能する。サディスティックな欲望が身体の中で疼く。
「はは。まあいいか。……おや、この描きかけの絵はなんだっしー。は。ここに来たのか、百太が」
床に放置されていた百太のキャンバスをひかしゅーが手に取る。朝倉は「やめてくださいよひかしゅーさん。バッチぃッスから」と言うが、もちろんそんな言葉、ひかしゅーは聞いていない。
「死ななかったと思ったらこんなもの描きやがって。死ねばみんな喜んだのにな。どうして息を吹き返してしまったっしー。バカは死んでも治らないというが、はた迷惑な話だ。で、その下書きの上から殴り書きに描いてある便所の落書きみたいなイラストはなんだ?」
と、満面の笑みを浮かべて、掛札が応える。
「ひかしゅー先輩! ぼ、僕が描いたんだ!クソが描いた絵なんてクソ以下だからね! 僕がアートにしてやったんだ!」
「そうか」
「うん」
笑顔の掛札にひかしゅーは、キャンバスを床に捨てて近づいた。
そして、掛札のその顔面を殴った。掛札は吹き飛んだ。尻餅をついてひかしゅーを眺める。どうして自分が殴られたのか、その理由がわからない。
ひかしゅーは掛札を見下ろす。
「木炭を使ってこんなゲスな落書きをするな」
掛札は、自分はきっとひかしゅーに褒められると思っていた。だが、殴られた。頭が混乱する。だが、ひかしゅーは掛札のそんな表情の機微を追うことは、しない。ただ、自分の流儀にしたがい、殴った。それだけのことだったからだ。
「おい、朝倉」
「へへ、はい。ひかしゅーさん」
「ジョーさんに上納金、早めに渡せよ」
「は、はい」
「それからひまわり」
ひかしゅーは床にある百太のキャンバスを踏みつけながら言った。
「もやしばらなんかと関わるな」
ひまわりが校門で竹刀を百太に振りかぶったのを、もうほぼ全校生徒が噂で知っている。
「貴様のような奴がもやしばらの一族と関わると、こっちも大変になる。……言われなくても百太自身は、消すか、消えるかしてもらう予定だが、な」
☆
ツラいってのは、生きてる状態それ自体の病なのか。どうして自分以外の人間は自殺未遂もしないで、生きていけるのか。それが百太にはわからない。それが、あの英語教師の言っていた自然淘汰なのか。自分は、淘汰されるよう、自然から要請された忌まわしき存在でしかないのか。
おれは鳩だ。ぽっぽっぽっぽと鳴いて餌を乞う公園の鳩。平和ボケの象徴。精神科医が隔離病棟で宣言したそれは事実で、地面から餌を拾う人生を生きるしかない存在。なんでおれは鳩として生まれてきてしまったのか。この鳩の翼では大空を自由に飛び回るのは無理で。鳩は飛べる。でも、たかが知れた飛行能力。それで、おれはクジャクの羽で武装し、みんなの失笑を買う。
もしおれが、コスモスのような悪魔の翼を持っていたら……。
いや、そう考えるのがすでに「クジャクの羽を広げて自分を良く見せようとしている」状態なのか。
鳩は鳩として、鳩の群れにいるべきなのか。だが、自分以外の誰が鳩だというのか。みんな、楽しい人生をクジャクとして、徒党を組んで送って、おれはひとり取り残されている。自分だけが、人生の敗者として恥ずかしい人生を生きてるとしか思えない。だったらどうする。死に損なったこの余生を、どう過ごす?
絵画。詩。
自分が作り出すこれらのものが、おれのすべてだ。だがそれは、淘汰される自分の作った、淘汰されるべき作品だ。誰も知ることもなく消えていくさだめの、かわいそうな作品。まさに、クジャクの羽。それは悪魔の羽でもなければ、天使の羽でもない。
いつもそうだ。こうやって自分はなにもできない。進行方向を選び取ったとしたって、その先は行き止まりで、だから、先に進むことができず、引き返す。笑われながら引き返して、また選ぶその選択は、いつも間違っている。そしてまた笑われる。こんなおれがつくる作品はまるでポンコツの、誰からも評価されずに朽ち果てていくもので。
百太は思う。どうして自分の人生は、歩いてきた道は、他人からいつも否定されるのか、と。どうしてひとは、自分を忌み嫌うのか、と。
百太は思い浮かべる。サトミ先生を、コスモスを。彼女らは自分の理解者か、と問われたら「違う」と応えざるを得ないが、でも、それでもまともに会話をしてくれる存在だ。コミュニケーションを取ってくれるということは、自分の父も母も放棄したものだ。だからある意味、親族と同格か、それ以上の親密さ、と言ってしまってもいいほどだ。家族がしてくれないことを、サトミちゃんやコスモスはしてくれているわけだ。だが、そこで安穏としてはいけないのだ。他人の心なんて、すぐに変わるものだから。
死ぬ前の二週間、雪枝は外国から戻ってきて、なにを思って生きていたのか。心が、全く違うものになってしまったかのような。そして、生を肯定できず、すべてを否定し、死んでいった。
あれが、他人の本質だ、と思う。心は変わるから、信頼できない。信頼すると、痛い目に遭う。痛みなんて、感じたくない。だから、ひとなんて信用したくない。
そんなことを思いながら歩く、並木の下り坂。高原高校から市街地に向かうその坂道で、百太は人知れず泣く。泣きながら坂を下る。銀杏の木が、黄色く色づいている。黄色い葉っぱが風に揺れて舞い散る。落ちていくモーションが、スローで再生されているかのように、百太には感じる。人生の速度が、失速する。この悲しみが、無限に続くのかと感じる。
メランコリー、または終わりなき悲しみ。そう名付けられたスマッシング・パンプキンズのアルバムの曲が流れるみたいな、緩やかな絶望。落ちる黄色の葉と、坂を下っていく百太。すべては重力の作用で下へと向かうとしたら、その力はこの世の下にあるという地獄の、闇の放つ引力なのか。
百太はただ、出来事を反芻して悲しみを深めるだけなのだった。
百太が自分のアパートに戻ると、玄関の鍵をかけ忘れていたのに気づく。しかし、不法侵入するようなバカな奴はいないだろう、と思ってドアノブをひねり、中に入ると、その、そんな『バカな奴』がいた。コスモスであった。コスモスは、テーブルに肩肘突きながら百太の方を振り向き「おかえり」と挨拶した。
百太は、その場で泣き崩れた。
☆
百太が泣き崩れると、コスモスが立ち上がり、玄関の方へ歩いてくる。そして、百太の前で立ち止まる。
百太とコスモスの目が合う。
コスモスのまっすぐな眼差しに百太は引き込まれる。すると、コスモスの悪魔の羽が大きく広がりはじめた。その翼が、大きくなり、アパートのワンルームを覆い尽くす。部屋全体が、羽の色に溶け込み、真っ黒に染まる。大きな鴉のような鳴き声がどこからか湧き起こる。百太は気が動転する。気が動転したまま、その百太の身体は、まるで水が浸透していくかのように、その鴉色の闇に包まれていく。
なにがなんだかわからないまま、百太は気を失う。
しかし、気を失いながら、心が解放されていく気分になった。妙に身体が温かい。薄れゆく意識の中、百太はその闇の中で、コスモスに抱きしめられていることを知った。
☆
私はあなたの作品をみてみたいんだ、ホントだぞ。なぜ、ダーリンの作品を誰も認めないのか。それは、みんな観るという行為自体を拒否してるんじゃないかな。好きとか嫌いとか、そういう評価の前に、拒否してる。いじめっ子がいじめられっ子の作品をけなす、これは幼児的なやり方をしてるだけなのに。だから、そんなの気にしなくていいと、私は思うのだ。
本当は、ひととひとはわかり合えないものなのかもしれない。でも、だからこそ、心を共有するためとしての手段として、言葉があったり、絵があったり、音楽があったりするのかもしれないとは思わないかな? それが個人のエゴでつくられたものだとしても、作品は鑑賞される可能性を秘めたものだから、自分のためにだけつくるっていうひとがいてもだよ、実際は他人からの視線を受けること、他人の評価に晒されるものになるのが、創作物だと私は思う。
ひとは他人にはなれない。けど、ほかのひとの気持ちと同じ気持ちを、自分の中から抽出することは出来る。ひとはそのひとにはなれないけど、自分の思う、『自分の中で想像する』その相手の気持ちになりきることができると思うの。そういう意味では、わかり合えるのに似たところまで近づけると、私は思うのだ。
ダーリンは自分の殻に閉じこもって自分の可能性を潰してる。私だって保健室登校の人間だけど、それでもまだ、外に開かれているのだよ?
ダーリンは、女は自分より可愛い人間には可愛いとは言わない、って言う。でも、例えば、漢字の『可愛い』と、カタカナの『カワイイ』は違う。カワイイっていうのは、スマホをデコレーションしたり、服を着こなしたり、ネイルアートなんかしてみたり、そういうものに対して使ったりする。カワイイは、可能性に開かれている。そう、カワイイっていうのは、可能性があるって話。
言葉を否定して、言葉を使う人間も否定する。それじゃ、自分の可能性すら、潰してしまうのだぞ。わかったか、ダーリン。
☆
その部屋は高価な調度品だけが揃っている、なんとも暴力団組長の個室らしい個室だった。安楽椅子に座って葉巻を吸う組長の前田は、劇団員上がりの高学歴、インテリやくざだった。その頭脳と劇団仕込みのトークスキルで成り上がった。その経歴を知っている、この部屋で対峙しているもやしばら仁紀は、心の中で「この狸が」と毒づいた。
前田の安楽椅子の両サイドには、後ろ手に手を組んでいる二人の屈強な組員。仁紀の後ろに控えている田所月天は、組員達を眺めやり舌なめずりした。この無表情な二人の組員を殺したら、どんなに気分がいいことだろうか、と思い。
前田は仁紀に言う。
「『インサートエフェクト』の販売ルート、増やしたいと思いませんかの」
葉巻をくわえながらふぉっふぉと笑う。
「それはそちら次第、だと何度も言っているはずですが?」
「いやはや仁紀さん。そのレシピが非公開というのは、こちらとしてももう我慢の限度なのですぞ。おたくの若い者らの団体『高原連合』ですか? そこの月天くんが頭をやってるそうですが、ここのところ、あまりに傍若無人すぎやしないかと言っているのです。若者に麻薬をつくらせて裁いている、その方法はやくざのルールに反しているのを、こちらは黙って観ていたのですぞ。が、もう限界でね。その秘伝のレシピを渡していただいたら、ほら、悪いようにはしませんぞ。高原連合としても、我々の傘下に入ればいいことづくめなのはおわかりでしょう。それに……」
前田は口から煙を吐く。
「『大鴉』の所在を、教えないこともない」
仁紀は顔をしかめる。
果たして、本当に相手は大鴉の存在を、知り得ているのか。いや、ハッタリだろう、と思う。その存在は「終末に関係した者」以外には、普通の人間と見分けがつかない、という。
仁紀はまず、インサートエフェクトのレシピを日本に持ち込んだ雪枝の妹二人、七咲コスモスとひまわりを疑った。が、結果として「そうなのかどうかわからない」という結果しか、わからなかった。雪枝の交友関係をあたった。そこには、雪枝と恋人だった、自分の息子の百太もいた。が、それらも皆、一様に、普通の人間と変わらなかったのだ。
それなのに、目の前の男、前田はその存在を突き止めた、と言っている。これは本当なのか。
「暴力団の情報収集能力を舐めないでいただきたい」
前田は言った。
「さあ、どうです? 悪い話ではないでしょう」
「それでは保留ということで……。今日はこれで失礼いたします」
言葉を遮るように、仁紀は挨拶し、月天と一緒に、部屋を出て行こうとする。
「おい、お前ら、仁紀さんを見送ってこい。……気持ちよく帰ってもらいなさい」
前田は傍らに立っている二人の組員にそう指示した。もちろん、これは死体にして、それを海に沈める、という意味だ。前田は交渉が不可能とみて、インサートエフェクトのレシピを知れないなら仁紀を殺して、ついでに高原連合の頭も殺し、この町の元締めとしての威厳を取り戻し、暗部の利権を自分らの手に戻そうと思ったのだ。
仁紀らのあとを追うように、ゆっくりと組員も部屋を後にする。
が、血祭りにあったのは、その二人の組員だった。
組員二人は仁紀の、止めてあった乗用車の近くで、月天の釘バットでボコボコにされ、病院に搬送される事態となった。意識不明の重傷である。その様子は描写するまででもなく、一方的な暴力の渦が、その場を包んだまでのことであった。
釘バットの月天。前田の見立ては甘かった。月天を殺すことなんてもってのほかだ。
高原市の暗部に接して知らない者はいない、アウトロー中のアウトロー。それが田所月天。DJ田所の弟だった。
☆
「思い続ければ、進み続ければ、歩みを止めなければ、夢は叶うのか。私はそれはそうだと頷くし、そうじゃないとも思うのだ。わかるか、ダーリン」
「わからん」
「夢に突き進んでいけば必ず夢は叶うってのは嘘だけど、でも、少なくとも歩みを止めたら、確率がほぼゼロになってしまうのは自明のことなのだ。でも、歩みを止めなければ、チャンスはやってくる確率も、ゼロではなくなるし、チャンスは人生につき一回、ということじゃないことは多い。ゼロは全くなしということだけど、歩みを止めなければ、1パーセントくらいは、可能性があるんじゃないかな。可能性が少しはあるのと全くないのじゃ、立つステージが違いすぎる。故に、夢に突き進んでいけば夢は叶う、という文言より、正確には『夢に向かって進むのを辞めたら、確率がゼロパーセントになる』ってのが、正しいと私は思うのだ。……だから私は、中二病全開なポエムを書いて、即売会の会場で本を売るのだ。凄いのだぞ、私の本。これでもオフセット印刷なのだから」
「よく金があるな、そんなもんつくって」
「お金なんてない。でも、無理矢理金をつくって、こういった本を生み出し、売る。売るというか、売れない。売れ残る。だが、諦めない」
「諦めない、か。嫌な言葉だ……」
「嫌な言葉だ、って嘯いても私は知ってる。ダーリンは、諦めるのが出来ないタイプの人間だって。だから、精神病院から退院してきても、すぐに絵を描こうと美術部に足を運ぶし、この部屋の隅の方に置いてあるそのノートには恥ずかしいポエムが書いてある」
「ッッ! 見たのか……ッ!?」
「たっぷり堪能したのだぞー。てか、毎回ここに来る時はダーリンがトイレに行ってる隙にチェックをしているのだ。あれだけ保健室に詩のノートを持ってこいって言ってるのにこの銀髪はノートを持ってこないからぁ~」
「いや、持って行こうとは思ったし、一回ガッコウに持って行ったこともある。でも、見せることが、どうしても出来なかった」
「自信がない?」
「ああ」
「じゃあ、なんで書き続けるのだ。日記のように、他人に見せるもんじゃないって? あっは。それはおかしいよ。自分の絵に添えるための詩だって言ってたじゃん。説明文は、読まれてこそ意味があるし、読まれるために存在している。そこに自信があるもないもないよ。クオリティのことを考えてる? それはどうかな。習作っていうのとも違うじゃない、これの存在価値は。絵に付随した文章って時点で」
「…………そうだけど」
「ダーリンは、もうそろそろ歩き始めないといけない。その翼を、広げないといけない」
「翼……。コスモス、お前の背中に生やした悪魔の羽、のようなものか……」
「んん?」
「堕天するのも、いいかもな」
「ダーリンは歩みを一旦止めた。でも、生きていた。いつでも歩き出せるんだよ、生きていれば。それが、その道が堕天だっていうなら、それでもいいぞ。むしろ『お姉様』と離れてしまった時に、ダーリンが闇の属性に囚われてしまった、と思っても、間違いじゃない」
「お姉様?」
「そう。雪枝お姉様のように」
「コスモス、…………お前は」
「私はただ、ここにいて、あなたを見ている。それはお姉様が出来なかったこと。あのひとは、あまりに自分を愛しすぎていた。それがわかったんだ。だからお姉様は、私にもひまわりにも、そしてあなたにも、さよならを告げず、逝ってしまった」
「雪枝……。ひまわり……。コスモス……。そうか、そうだよな、七咲って名字。雪枝には、父親が付き合ってる女生とその連れ子がいたって言ってた。覚えてる。その名字が七咲っていうのも、覚えてる。七咲って名字はそうそうない。お前らは、姉妹か。でも、それならなぜおれのところに、お前は来たんだ。からかっている……わけでもなさそうだし。でも、それならなんでそんなダメなおれにかまう。雪枝は、最後にはおれを憎んでいた。憎みながらこの世を去ったんだぞ」
「違うぞ」
「違わない!」
「違うんだぞ。大鴉の、大ガラスの秘術が私をつくって。それで」
「大ガラス? マルセル・デュシャン?」
「なんでもないぞ」
「よくない! 全部を話すんだ、コスモス。話して、そして囚われたことからその身を離すんだ!」
「ダーリン……」
「コスモス」
「まだ、まだ話せないの。心から、離せないの。そういうことなんだぞ。私は、ダーリンの家族の話だってろくに聞いてない。それだって話せないのだろう? なら、同じだ。私たち、互いにまだ、溝がある。身体で手を繋いでも、心の手はまだ、繋いでない。だったらまだ、話すことじゃない」
「世界は終末へと向かう。その終末の到来を知り、緩和させるためにお姉様がつくったもののレシピが、いずれこの街を覆う。だとしたら、私たちは手を繋ぐことが必要なのだ。でも、決して手を離さないようにするには、まだまだ接した期間が短すぎる」
「なにを、言っているんだ?」
「わかるようになるぞ、嫌でも。だけど、今はその時じゃない。……ダーリン。私は帰る。洗い物はよろしく」
「おい、コスモス!」
「……この街には、鴉が多いね」
☆
胃の内部を彫刻刀でガリガリ削られるような痛みに目を回しそうになりながら、百太はガッコウで授業を受ける。上履きに画鋲を入れられるのはいつものことだが、休み時間、トイレに入っている間にペンケースにカミソリを入れられていて、ホントうんざりする。カミソリを誰かがいれた事実よりも、それを教室にいた人間はみんな知っているというのに、何事も起こっていないかを装う、明るい笑顔に包まれた休み時間を、みんながみんな、演じているのに気持ち悪くなる。この演技に満ちた教室、果たして道化なのは、おれなのかクラスメイトたちなのか。百太にはその判別がつかない。自分にわかるのは、スクールカースト最底辺の人間が、他ならぬ自分だ、ということだけだ。しかし、せめて高校くらいは卒業したい。だから、ここで踏ん張るしかない。一度人生を諦めた身で、この困難を乗り越えて、待っているのは希望ではなさそうだがしかし。悪魔の鴉は言った。歩みを止めるな、と。夢に向かって進め、と。儚い希望でも、希望には変わりない。なら、その光を消さないように、生きるだけだ。
自分には絵の才能はないだろう。詩の才能も、ないだろう。でも、描き続けるには、書き続けるには、どうしたらいいだろう。たぶん、その答えは「生き続ければ良い」ということだ。生きる、というミッション。このミッションを遂行する。となれば、戦う相手は、間違いなく自分だ。自分を殺す人生は終わった。これからは、いわば他人を殺す人生だ。つまりは、他人に負けないこと。このイカサマライフゲームは、「勝ち」はなくて、「負け」だけがある。勝って終わることは、ない。だが、負けたら終わりだ。ひたすら消耗戦を戦う。それもいいだろう。
百太は、ペンケースに入っていたカミソリの刃をゴミ箱に捨て、また着席する。そして授業が始まる。己の体裁の維持のみを生きがいにする教師どもが教鞭を執る、くそったれな授業が。
昼休みのベルが鳴る。百太は、コスモスに会いに行こう、と思った。たぶん保健室にいるだろう。それか、自習室か。なんでコスモスはあんなに美人なのに保健室登校なのだろうか。思えばその理由を聞いたことない。おれは、コスモスのことをなにも知らない、と百太は思った。つながりを求めるなら、どこかのタイミングでそれを尋ねないといけないだろう。そんなことを考えながら、購買部に向かう。保健室の前に、まずは焼きそばパンとコーヒー牛乳だ。手に五百円玉を握りしめて、百太は廊下をダッシュする。女の子にはスカートひらり翻し、走りだしたいときがある。まあ、百太は男だし、もちろん廊下を走ることは校則違反だが。
購買部のおばちゃんの前には人だかりができていた。なかなかその輪に潜り込めず右往左往していると、横合いから首根っこを何者かにつかまれ、首を思い切り締め付けられた。新たないじめか、と百太はつい閉じてしまっていた目を薄く開けると、首を絞めているのが、この前保健室で出会った女の子、姫路ぜぶらだと気づいた。胸を見られたことを根に持っているのかと思ったが、本人を前にすると、ぜぶらの裸の胸が鮮明にフラッシュバックし、いてもたってもいられなくなる。
ぜぶらはひとだかりから離れたところまで首をつかんだまま百太を押して移動させると、首を離した。
「よぉ、モブキャラ」
「も……モブキャラ……?」
「まあ聴けよ。お前を今度、私のライブにご招待する。ライブっつーか、クラブイベントな」
「く、くら……ぶ?」
「そう、ナウなヤングがペヤングな、あのクラブイベントだ。ほれ、これがチケットだ」
と、ぜぶらは百太の手にチケットを握らせ、代わりに手の中の五百円を奪い取る。
「ちっ。しけてんなぁ。ま、五百円でもいっか。とりあえずチケットノルマのクリアだけ考えときゃいいし。あとは暫定の新・相棒がうまく乗り切ってくれんだろーしな。あ、ドリンク代は別途で当日かかるからな。つーこって」
「どういうことだよ。おれ、音楽とか興味ないから」
「そう言うなって。お前が会いたいひとに会えるぞ。私、そのひとから頼まれてんだ、悪く思うな。ほら~、私出席日数すれすれでガッコウに登校してっからよ、周囲の目とか関係なくおめーと接することできんだぜ、ありがたく思っとけよ、そこは。モブキャラだってうっぷんたまってんだろ。踊ってすっきりしろよ。てか、来ないとコロス」
「…………」
「ほんじゃねーダスビターニャぁーん」
「はぁ」
言いたいことだけ言って、少女は去って行く。五百円玉を奪い取って。百太は、よくわからないが、そのクラブとかいうところに、行ってみようという気になった。なぜなら、さっきから姫路ぜぶらのふくよかな、はだけた胸の映像ばかりが思い浮かぶからである。百太は、それはそれでチャラい男なのかもしれない。
☆
「プリーズミニスカッ、ポストウーマンッッッ!!」
DJ田所は叫び、その声は病室を抜けて廊下まで響いた。
「はぁ?」
冷めた視線を病室のベッドの傍らにいた月桂冠は送る。
「ドットビキニがッ! 女子中学生のドットビキニが見たいなう!」
「……心配になってこうやって見舞いに来てんのに。サカってんじゃないわよこの阿呆」
げんこつが田所の脳天に振り落とされた。
田所は頭を押さえて、
「まじで早く退院してアイドルコンサートでサイリウム振りたい」
と主張した。田所のバイト代の大半はアイドルのイベント代に費やされる。DJとしてアイドル曲のリミックスを作っていたら、いつの間にかディープなアイドルの世界に没入してしまっていたのである。そんなミイラ取りがミイラになったのが、田所という男である。正真正銘のミイラなのだ。
「頑張らなくてもええねんで」
と、月桂冠は返した。が、聞く耳持たずDJ田所はベッドの上でオタ芸をしていた。ダメだこいつ、と月桂冠は頭を抱えた。
「ところでさ」
「あぁ? んだよ、プラチナチケットは渡さない」
「あんたねぇ……。まさかDJ引退してアイドルオタまっしぐらになるわけじゃないでしょうね」
「それは神のみぞ知るセカイ……」
「そーじゃなくて}
「なに?」
「今この高原市、ヤバいことになってるでしょ。あたしが思うに、あんたの弟が絡んでるんじゃないのって」
「まっさかぁ」
「まっさかぁ、じゃない。高原連合と暴力団の前田組が衝突したって噂もあるのよ。あんたの弟、知ってる? あの子、『釘バットの月天』の異名を持ってるのよ」
「初耳」
「でしょうね。あんたがぜぶらちゃんと組んで忙しくなった頃を境に、あの子は高原連合のヘッドを襲名したんだから」
「へー」
「興味、なさそうね」
「いや。そんなこともない。おれ、知ってんだ。ケーサツから『事故です』とか言われてこうやってここにいるのも、あいつが、弟がなんらかのかたちで関わってるからだってさ」
「さっき、まっさかぁとか言ったじゃない」
「嘘も言うよ、そりゃ。あいつに迷惑かけたくないし。あいつは昔から人一倍頑張ってる。ただ、頑張った方向が悪かったのは、おれのせいでさ、でも、こうなっちゃ仕方ねえじゃん。あいつを応援することはできないけど、まー、おれなりに見守る方針でよぉ。ケーサツとしちゃ、おれなんて死んでも事故扱いだろうよ。高原連合は、嫌われ方じゃこの街一番だから。しかも、税金の連中は高原連合じゃなくて、やくざの方の仲間だってな。笑えないぜ」
「フン。わかってるじゃない」
「あんたの離婚した旦那の方も、大変なんじゃないか」
「離婚、してないわよ」
「そーなのか?」
「書類上は、だけどね」
「おれは、なにも言わないぜ」
「なにあんた、あたしの彼氏ヅラでもするつもりなのかしら」
「んなわきゃねーだろ」
「でしょうね」
「くっだらねぇ」
「ぜぶらちゃんとのステージ、決まったわよ」
「ハコは?」
「CLUB鳳雛」
「大胆だね。あえて殺しの現場になったとこに、このまだ余韻が残るままでやるたぁ」
「勝負、賭けてるから」
「あっそ」
窓の外は、夕暮れ色に移り変わっていく。それを、田所も月桂冠も、二人で無言になって見つめた。橙色の空は雲一つなく。
病室に差し込む光が、二人の顔を赤く染めたのだった。
☆
スマホでグーグルマップのアプリを開き、百太は知らない場所を歩く。百太はこの、高原市で生まれ、高原市で育った。しかし、こんな裏路地を歩くのは初めてだった。
ぜぶらから貰ったクラブイベントのチケット。このイベントに行こうと思ったが、しかし場所がわからない。なのでこうやってGPSで場所を確認しながら歩いている、というわけだ。
高原市の市街地の裏路地は、生ゴミの匂いが充満していた。ビルとビルに挟まれた、日が射さない吹きだまりがあるかと思うと、誰が来るのを想定したのかわからない、砂の地面の緑地帯があったりする。道路の下を通るトンネルの歩道には、バンドなどがライブハウスで行うギグのフライヤーが壁に敷き詰められていて、その中に、探偵事務所が貼った、行方不明の子犬や子猫を探していますというポスターもある。このカオティックな場所の一角に、そのクラブはあった。CLUB鳳雛。ワインレッドに塗られたコンクリートの建物。入り口は狭く、黒い柵が開いた状態になっていて、そこがライトに照らされている。このハコの外には、客と思わしき若者達が、煙草を吸っている。
入り口でモギリの人間にチケットを渡すと、五百円を請求された。ドリンクチケットを買わないといけないらしい。百太は渋々、五百円を払い、中に入る。
中は重低音が鳴り響き、その音の振動が、おなかの中までガンガン響いてくる。ただ、百太はそのサウンドに顔をしかめた。それは、その音楽がヒップホップだったからだ。クラブというから、てっきりテクノを流しているのだと思っていた。だが違って、今日のイベントはヒップホップ系サウンドのDJパーティらしい。百太は舌打ちする。
母親が、よくヒップホップを家で聴いていたのを、百太は思い出す。なんでも母は、若い頃、音楽関係者だったらしい。特にヒップホップが好きで、CDではなくレコードで、ラップなどを聴いていた。しかし母は、借金をつくり家を出て行き、それからのことなんて百太は知らないし、興味があるかといったらないのである。最低な母親だった。それでも噂は回ってきて、また音楽の方面に関わりはじめたとかなんとか。でも、百太にとっては、そんなの他人事のようにしか思えないし、ホントどーでもいいインフォメーションだった。
百太はドリンクカウンターでコーラを貰い、トイレに入る。トイレの中で、「そーいやサトミちゃんは、クラブなんか行くなって言ってたな」と誰にでもなく、独り言を呟いた。そう、高原市では連続殺人事件が起こり、その被害者の共通点は、クラブ通いをしている人間達だ、ということなのだ。百太はそれを思い出し、唾を飲み込んだ。洗面所で手を洗い、コーラを飲み干した。気づかないうちにトイレにコーラを持ち込んじまったぜ、とか言いながら。
おれは音楽なんて大嫌いだ、と思う。思うが、今日は楽しもう。百太は、そう決めた。
そして、フロアに入る。
「よー。来たかモブキャラ」
フロアに降りたって戸惑う百太に話しかけてきたのは、ここCLUB鳳雛に百太を招いた、姫路ぜぶらだった。
黒く揺れる人影で満員になったフロアは、汗のにおいと、その汗が蒸発した湿気で生暖かい。大型のスピーカーから流れる音楽は滝のようで。重低音はドラムのキックを踊る人間達に浴びせかかる。バーカウンターから持ってきた酒類を飲み、意気揚々とリズムを刻むクラバーたちのその姿は、ここで殺人事件が起こったことなんて、まるで嘘であるかのように、軽やかだ。
フロアには、ステージなんて、ない。客とプレイヤーは同じ地平に立つ。フロアの奥のDJブースでは、暗い照明の中、パイオニアのDJシステムとPCをつなぎ、ミキサーを操作しプレイしている。
そして、そこでMCをする出演者であるぜぶらが、今、百太に笑顔を向けている。
「もうそろそろ私のプレイタイムだから、ゆっくり観ていってくれよ。きっとお前、笑うぜ?」
そう言って楽屋に戻っていくぜぶらを、百太は無言で見やる。
ここはユートピアのようでいて、ディストピアでもあるな、と百太は思った。ここには、人間の喜怒哀楽と、憂鬱を吹き飛ばす、なにか底知れぬものがあって、それらが渾然一体となっている。もし天国というものが存在するなら、そこはほがらかな草原ではなく、こういう音楽の重低音が鳴り響く場所なんじゃないか、そして地獄があるとしたら、そこは無言の苦しみで満たされた場所ではなく、こういう鬼が踊り狂う場所なのではないか。そう、だからここは、天国で地獄だ。天国より野蛮で、地獄よりも清冽だ。
DJシステムが入れ替わり、マイクを持ったぜぶらが現れた。檄を飛ばし、オーディエンスを鼓舞する。そして、遠目からも傷んだ髪が見えるそのタイトスカートの女が、ミキサーの調節をする。PCから素材を流し、そのドラムパターンと既存の曲をミックスさせ、ぜぶらのプレイは始まった。
暗がりでも、百太は理解した。なぜ、ぜぶらが自分を呼んだのか。会いたい人物とは誰か。痛いほど、痛烈なほど、百太にはわかった。そう、今、このヒップホップのトラックを生成し、場を盛り上げているこのDJ。それは…………、百太の母、伏見月桂冠だった。
伏見家は、ライブハウスを経営していた、それは百太も知っていたことだ。家を出て名字を変えていながら、離婚だけはしていない、自分の母。最低なクソ女。自分をヒップホップ嫌いの音楽嫌いにした張本人、月桂冠。
そう、百太はここで、五年ぶりに、母親の姿を見た。小学六年生だった頃にいなくなった、自分の母の姿を。そして生き様を。
百太はただ、ため息を吐いた。
☆
釘バットでの本気の打撃を受け、顔面から出血しながら崩れ落ちる肉体を、田所月天は足蹴にした。
「次はどいつだ」
犬歯を剥き出しにして月天は釘バットを構える。どっぷりと付着した人間の血液がバットを染め上げる。
尻込みしたスーツ姿のやくざ三人が震えていると、月天の仲間、高原連合のメンバー五人がぐるりと周囲を囲む。メンバーはそれぞれ手に得物を持ってにやけている。
こうなっては、プロのやくざも形無しだ。そもそも、このやくざたちのボス、前田は、月天も高原連合も、軽くみているのだ。まさか、暴力団に暴力で対抗してくる素人集団がいる、なんて、考えがたいことなのだろう。前田組には、バックに政治家や警察がいるのだから。警察とやくざは仲良し。それがこの国の暗黙の了解。それに楯突く高原連合は、強敵と呼ぶにふさわしい集団だった。
「ホームラン!」
周りを囲まれたやくざは、一人一人、釘バットで潰されていく。暴力でこの国を支配している団体は、同じく暴力の掟の中で生きる集団に破れていく。
最後の一人を滅多打ちにした月天は舌なめずりして、自分の身体に付いた血の味を堪能した。
「渡さねぇ。ドラッグも、それに大鴉も、な。おい、誰かこいつらをゴミ収集所にでも捨ててこい」
はい! と大きな声で応える高原連合の面々は、今や虫の息になったやくざたちを自動車のトランクに入れて運ぶ。
車が出て行くのを見てから、月天はマルボロを吸う。
「大鴉。どこにいやがるってんだ」
この街の大物で高原連合のスポンサーでもあるもやしばら仁紀から請け負っているのは、デザイナーズドラッグ『インサートエフェクト』の売買と、そしてもうひとつは、『大鴉』というコードで呼ばれている人物の特定、及び身柄の確保である。
大鴉とは、話によると、翼が生えた人間、らしい。どういうこった、と月天は思う。なにかのメタファーなのだろうと、月天は判断している。元々は、インサートエフェクトのレシピと原材料を中東から持ち帰ったなんたら雪枝とかいう頭のキレる女子高生だかなんだかが、その麻薬を使った秘術で、世の中に未だ存在しない『この世の原罪から解放されるドラッグ』の知識と製法を埋め込んだ人物らしい。胡散臭い話だが、その秘術を施した後、中東から来た軍人だかなんだかにその雪枝という女子高生は殺され、ミンチ状にされた。しかも、それはこの国のお偉いさんたちにより、電車に飛び込み自殺をした、という偽装までされたのだった。だから月天は思う。たぶん、その秘術も翼の生えた大鴉というのも、政治的に重要なポジションのことであり、ひとなのであろう、と。
大鴉というのは、世界の終末と関係しているのだ、と仁紀から月天は聞いた。それがどういうものなのかは、仁紀は語らなかったが、この話、そこだけ聞いても宗教くさい。そして、この世の中というのは、宗教が強すぎる力を持って、成り立っている。宗教のためなら、人間はいつだって、いくらだって戦争をするし、残虐なことをいくら行っても、それは正当化される。歴史を学べば、それはどんな阿呆であってもわかるし、生きていればそれは反吐が出るほど実感する。たぶん、仁紀というオコトも、カルトで頭がイカレちまってる人間なんだな、と月天は理解しているし、それでもビジネスパートナーとしては最高だから、あえてそこに踏み込むことはしない。ただ、ミッションをこなし、そのフィードバックで、組織を維持するだけだ。
「こんなときゃ、兄貴のDJプレイでも観にいきゃスカッとするんだが」
ふと、そんなことを呟いていると、腰のポケットのケータイが振動する。電話に出ると、相手は高原高校でいつも大量のドラッグを捌くバイヤーの一人からだった。
「ああ? ……ああ。わかったよ。ああん? うっせ。てめえは黙って捌いてりゃいいんだよ、クソが。てめぇはジョーとやりとりだけしてりゃいいんだ。直接おれに電話してんじゃねぇぞ」
相手としゃべってから、忌々しそうに電話を切る。「うぜぇ奴だぜ、あの金子ひかしゅーとかいう小僧は、よ」
ドラッグでため込んだ汚い金で、なにかを事業をしようと企んでいるバカな男、と月天はひかしゅーのことを考えると虫ずが走る。が、そんな奴が案外、この世の中で成功するということを月天は知っている。
あのガキを潰す必要が、あるかもな。高原連合のメンバーの姿を見回して、月天はそう独りごちた。
☆
「お前の片割れのバカップル女も連れてくりゃよかったのに」
「バカップル女? コスモスのことか」
「いや、名前はわかんねーけど。あの天使」
「天使? 悪魔だろ」
「あん?」
「んん?」
「…………」
「…………?」
ぜぶらと百太は、薄暗いフロアの中で、話をする。ぜぶらの出番が終わり、一息ついたところだ。
「ところで、DJの人……」
「あっは。ウケるだろ」
「ウケねーよ!」
ぶちキレそうになる百太を、「まあまあ、怒るなって」と受け流す。二人には、根本的なノリの違いがある。母子の数年ぶりの再会、なんてのは、例えば元カノ元カレが再会しやすいクラブという特別な場所に住み着く人種のぜぶらにとっては、たいして重要なイベントごとというような気は全くしないのである。その一方の百太としては、重大イベントである。人生にとって重大イベントである。なにしろ、母親の月桂冠は、自殺未遂を百太がしたおりにも、別に見舞いにも来なかったし、電話もメールもなかったというような、そんな間柄になってしまっていたのだ。それが、そんな母親がフロアのオーディエンスを煽りつつDJプレイなんぞをしているのだ。しかも相棒は百太と同じ高校に通っている女子高生。殺意しか浮かばない。
「おれ、もう帰る」
「そー怒るなって。このイベ、オールナイトだぜ」
「ふざけんなッ」
そう言うとぜぶらに背を向け、フロアを去る百太。
入り口まで腹を立てながら歩いて行くと、そこには、伏見月桂冠が立って煙草を吸っていた。
「あたしに挨拶もなしに帰ろうとしてんのかい」
「あんたにゃ関係ない」
「殊勝なこと」
「そりゃあんただろ」
百太はCLUB鳳雛を去る。
月桂冠は追わない。引き留めない。
家族だったのは、昔の話なのだ。
☆
ガッコウに続く坂道を登る。七咲コスモスの、一日で一番嫌な時間が、登校するこの時間だ。たしかに、他の大半の生徒がこぞって登校する時間帯は避けてはいる。が、それでも誰とも遭わないというわけではないのだ。
「あの子、今日も気味悪いわよね」
「ねー」
この声は幻聴なのか、実際に言われてるから聞こえるのか。いや、登校中聞こえるのは自意識の過剰からだろうが、それでも、全く言われていない妄想なのかというと、それも違う。コスモスは、みんなから「気持ち悪い」とか「気味悪い」と言われ、クラスで迫害された。きっかけはわからない。ただ、みんなと順応できなかっただけだ。理由があるとすれば、それくらいだ。ただし、その「クラスに溶け込めない」というのは、ガッコウに通う身としては、致命的だ。
そんなことわかっていた。コスモスはそれがわかっていたから、みんなと仲良くしようと努力をした。が、無理だった。こっちからアプローチしても、拒絶された。ひまわり言うところの「大お姉様」の雪枝が死んだら、それは顕著に表れた。
コスモスとひまわりの母は、二人の父と別れ、違う男の元に走った。その男の連れ子が、雪枝であった。ひまわりは母のもとで暮らし、コスモスは父の家に暮らすままで。姉妹は家庭的に引き離され、しかし、姉妹は二人から三人になった。
が、その雪枝は死んでしまった。飛び込み自殺と、コスモスは聞いている。新たな姉妹、コスモス、ひまわり、雪枝の三人は、とても仲が良かった。が、そのバランスは、死という暴風により崩れ、その崩れは、ガッコウ生活にまで、波及した。
仕方ない、とコスモスは思う。雪枝は、大お姉様は、思い詰めた結果、そうなってしまったのだ。コスモスはそう思う。これは、仕方がなかったことなんだ。
でも、その恋人であったもやしばら百太は、それを食い止めることができなかったのは、どうなのだろう。
そこで、百太の顔を、コスモスはガッコウに向かう並木坂を上りながらぼんやりと想起させる。昨日、百太の部屋にいつものように遊びに行ったら『マヨラー』と『ケチャップラー』の話で盛り上がった。食べ物にはなんでもマヨネーズをかけるマヨラーと、食べ物になんでもケチャップをかけて食べるケチャップラー。コスモスはマヨラーで、百太はケチャップラーであることが判明した。それで討論したのだ。百太は「ケチャップラーは正義!」と言い張った。あのときの百太のドヤ顔は面白かったな、と吹き出してしまうコスモス。
百太とのそういう些細な喜びが、今のコスモスを支えていた。
コスモスはただ、百太のことを、もっともっと知りたかった。今、生きている意味があるとしたら、たぶんそれはもやしばら百太という存在が、大きく関与しているのは、間違いない。人生とか、セカイとか。そう言ったものの秘密を解く鍵が自分の中にあるのなら、それは百太という鍵穴に差し込めばドアが開くような、そんな気がするのだ。
気がする、だけなんだけども、ね。
☆
印刷所の都合もありますので先生、早めにお願いしますねー、という電話を編集者から受け、金子ひかしゅーは舌なめずりしてから、受話器を置いた。
先生、と呼ばれるこの生活。たまらない。ひかしゅーはいつも思う。ラノベの挿絵を描く『絵師』として認められたのは、他の人間がイラストの投稿サイトからの起用なのが自分はそうではなく、有名な美術の展覧会で賞を獲り、その後、高校生でありながら自分の絵画の個展を開いたことによることであり、その事実のエリート感が、そのままひかしゅーの万能感につながっている。ひかしゅーの父親もアーティストであり、そして自分もまたアーティストである。エリート家系の人間。向かうところ、敵なし。
ひかしゅーは電話の子機の受話器を置いてから、自分の部屋の本棚から、自分の画集を取り出し、眺める。なんて自分は至高の人間なのか。選ばれた人間。先生。すべては、自分にひれ伏すために存在している。ひかしゅーはそう思った。
ひかしゅーは、麻薬『インサートエフェクト』の末端の方のバイヤーであり、自分もまた、麻薬を摂取する。が、実はひかしゅーにとっての快楽とは、麻薬による恍惚だけでなく、一緒に麻薬の『パーティ』を開いたとき、周りの人間を眺め、まるで豚のようにぶひぶひとラリった顔をする、その表情を眺めて蔑むときにこそ、その恍惚が顕現するのだ。クズの卑しいクズ顔を眺めるときに訪れる興奮は、なにごとにも変えられない。ひかしゅーは一人で頷いた。この世界なんて、早く滅びればいい。『世界の終末』は、すぐそこだ。
あの、いつもぼやっとしているのに、たまに鋭い目つきをして抽象絵画とかいうくだらんものを描き、それに自前のポエムを添えて悦にいってるもやしばら百太! なんて汚らわしい! なんであいつは、あんな目をおれに向けるのか。いじめてもいじめても、死にはぐっても、まだ息をしている。なんで、自殺は未遂に終わったのか。それはこのガッコウに通う、すべての人間が思っていることだ。ゴキブリの生命力を、なんで神はあのくそ百太に与えてしまったのか。ゴキブリは、人類が滅亡しても、生き延びる確率が高いと言われている。そんなゴキブリのゴキブリ絵画に、ほんとうんざりする。まさか、そのつくる絵画までが、ゴキブリの生命力で自分のイラストよりも長く生き残ってしまったら?
「クソがっ!」
ひかしゅーは壁を拳で叩いた。なんでおれはあんな取るに足らない奴のことを考えてしまうのか。
「絶対に殺してやる」
ひかしゅーは、部屋でひとり、唸った。
☆
「けけ。丸見えだぜ。けけ」
杉山が口に手を当て、朝倉の方を見やる。
アイコンタクトを杉山と交わした朝倉は、
「これだからやめられねぇよな」
と鼻息荒く、隣にいる杉山と掛札に言ってこの感情を共有した。
高原高校の保健室は、本館とは別棟にある。
保健室登校の七咲コスモスは、保健室登校である故、本館のお手洗いを使いたくない。それで幸いなことに、トイレは本館と保健室のある別棟の間に、仮設トイレがあるので、それを使用している。この仮設トイレは、元々はテニス部のコートの近くにトイレが欲しい、という理由で建てられた。高原高校は、女子テニス部が強いので、そのわがままが通るのである。
そして、美術部の部員である朝倉、杉山、掛札の三人が今、なにをしているのかというと、女子トイレの盗撮である。現在、トイレの個室に入っているコスモスを盗撮しながら、CCDカメラでモニターしているのだ。
朝倉はクスクス笑いが止まらない。
「うひゃひゃ、美少女も台無しだよなぁ!」
それに呼応するように、杉山がはしゃぐ。
「こいつ今、おならしたぜ! おなら! 女のおなら!! けけけ、け」
「二人とも~、僕にもカメラみせてよ~」
掛札がカメラをのぞき込もうとすると、朝倉がその頭頂部をこづく。
「うっせ」
画面を見入る朝倉に、杉山が言う。
「おなら! 最高だよ、女子のおなら! 放尿! 女もおならやおしっこするんだね!」
興奮している自分を押さえきれない杉山。
朝倉は、下半身の丸見えになっているコスモスの姿をカメラで凝視しながら、そんな自分は興奮なんかしてないんだぞ、というように振る舞う。
「ジョーさんの今度の獲物はこいつなんだろ、七咲コスモス。美人だが、薄気味悪い女だよな。あのひまわりの姉だってんだからな、ジョーさんも人が悪いぜ。脅してAV撮影して、その後は自分でもたっぷり可愛がるんだろな、いつも通り。ひまわりと姉妹どんぶり狙ってるんだぜ、あのデブ。なにが生活指導だよ。なんの指導してんだって話だよなぁ! 上手いことやってるよ、あの人は。おれたちにも分け前もっとくれりゃいいのによ」
「で、でも、でもさ、朝倉くん」
掛札がそこに割って入る。
「盗撮の代金として、ひかしゅー先輩からインサートエフェクト、たくさんもらってるじゃない。先輩は心が広いんだよ。うん! ひかしゅー先輩は僕たちのことを、弟のように可愛がってくれる! 最高の先輩なんだよ!」
「最高の先輩、……ねぇ」
杉山は鼻で笑った。
朝倉は言う。
「でも部長、だいぶいろんな女をジョー茅根から世話してもらってるらしいぜ。おこぼれも預かれないおれたちと、ジョーさんからの待遇は、全く違うしよ。解せねぇっつーか」
「ヤバ。個室からでてくる。移動しよう」
「おう」
「うん」
なにも知らないコスモスがトイレを出て、外の蛇口で水を出して、手を洗う。ハンカチで手を拭く姿を見て、掛札は言った。
「この子も無理矢理犯されちゃうんだね。女なんて、ダッチワイフとなにも変わらないね。だから僕、ひかしゅー先輩みたいな悪くて強い男の方が…………好きなんだな」
それを聞いた朝倉と杉山は、ゲラゲラ笑った。
CCDカメラをトイレから回収した朝倉は、盗撮した内容を確認した。
「しかしジョーさんのやるこたえげつねぇよなぁ。恥ずかしい姿を録画して脅す、とは言うけどよ、着替えとかセックスとかじゃなくて、トイレで用を足してる姿を音声付きで録画すんだもんな。こりゃ、命令に逆らえなくなるよな」
「おならだもんな、おなら! うひゃひゃ」
杉山は放屁に興奮している。
「ひかしゅーさんにこのビデオを渡して、おれたちはドラッグを貰う。ビデオはジョー茅根に渡され、ひかしゅーさんは金を貰う。ひかしゅーさんはなんでインサートエフェクトをこんなにあっさりおれたちに渡すんだろな。ひかしゅーさんて、おれたちと一緒にキメてる時、いつもすごい形相でこっち見てるじゃん。あれ、ちょっとおれは苦手なんだよね」
朝倉がそう言うと、「先輩は僕らの顔を見るのが好きなんだよ!」と、掛札が切り返す。
「そんなもんかね」
朝倉はウザそうに掛札を見た。
「ところでよ! いつもおれは思ってたんだけど、おれたちも、たまにはセックスしたいと思わない?」
杉山は主張した。
「車かなんかで拉致ってさ。あとでビデオダビングしたのをみせりゃ、女も黙るじゃん。知ってるんだぜ、おれは。あのおなら美女、もやしばらと仲良くしてるって」
「おれも知ってる。あのクソポエマー、手が早いよな。前の女が自殺したら、もう次の女ってよ」
「ぼ、僕らも、セックスできるの?」
掛札は目を輝かせた。それを朝倉は見逃さない。
「ああ、出来るよ、今すぐにでも。おい掛札、お前は放課後、教師の自動車奪ってこい。お前、運転できるんだってな」
「へへ。無免だけどね。うちの果樹園でよくトラクター乗ってるから」
「決まりだな」
☆
高原高校、二年の教室。百太は押し黙って授業を受け、休み時間はコスモスとサトミちゃんのいる保健室に出向く。そうするうちに、百太のガッコウでの一日は終わる。最近、この保健室とクラスの往来が、百太のガッコウでのモチベーション維持に欠かせなくなっていた。もしもコスモスがガッコウにいなかったら、さすがに百太はもう、このガッコウになんかいられない。恋人の自殺。そして、自身の自殺未遂。百太の人生は、めちゃくちゃになっていたからだ。
そうして今日も最後の授業が終わり、百太はクラスに人影がなくなったのを見計らってから、教室を出る。今日は美術部には顔を出さないで、帰る。生徒がいなくなった校門で、コスモスと落ち合って、一緒に帰ろうと約束をしたのだ。
最近、ひまわりというあの剣道女に出くわす回数が増えたが、百太はなんとか毎回切り抜けていた。あいつ、うるさいのだ。コスモスの妹ということはわかったが、とにかくウザい。うるさいとは言っても、校内で会話を交わしたことはない。ものすごい形相で睨んでくるのを、いつも見るだけだ。まあ、話しかけてこなくてなによりだ。自分はいじめられっ子で、いじめの被害者に近寄ると、そいつもいじめられるから。おれになんか関わらない方がいい。百太はそう思った。それを思うと、部屋のチェーンを鉈で破壊し、部屋に居着いてしまったコスモスの実を案じてしまうわけだが、なんとかうまくやっているような気はする。
そんなことを考え、教室を抜けると、だぶだぶのジャージをスカートの下に穿いている女子生徒が、腕組みして壁に寄りかかって、百太を待っていた。
「よお、モブキャラ」
それは、姫路ぜぶらだった。
「おれはモブキャラって名前じゃない」
「わりぃわりぃ、そうだよな。本当のモブキャラは、そんな白髪に染まった頭なんてしてないだろうしな」
くすくす笑うぜぶらは、組んだ腕を解いて頭上に挙げた。背伸びをしている。
「どうよ、スクールカースト最下位の気分ってのは」
「ひどい言いぐさだな」
「ま、歩きながら話そうか」
そうして、二人は昇降口に向かって歩き出した。
黙りながら歩いて、階段を降り、一階に着く頃、ぜぶらは話し始める。
「この前は鳳雛に来て貰って、サンキュな。私は今、お前の母さんと組んでプレイしてる。まー、相棒が入院中でな。仕方ねぇっつーか。それにしてもお前の母さん、すげぇだろ。DJプレイもそうだが、レコードレーベルの主宰だし、CLUBやライブハウスの経営陣でもあるしな。お前、この街じゃセレブなんじゃないか?」
「おれとあのクソは関係ない」
「そう言うだろうと思ってたよ。家庭が複雑らしいしな。でもどーよ、母子の対面って、なかなかオツな演出だったろ」
「全然」
「そうですかー」
「そうだよ}
二人は昇降口に着く。そこでぜぶらは、百太の靴箱を見て、「うっひょー」と口笛を鳴らした。
「な。……おれといると、碌なことねぇぜ」
靴箱は真っ黒焦げだし、中に入っていたスニーカーはずたぼろに引き裂かれていた。
「ハードな生活、送ってんじゃん」
「お前もずたぼろにされるぞ」
「いやいや、クールだぜ? ロックしてるっつーかな。お前、ロックスターの素質でもあるんじゃねーか?」
「んなわきゃないだろ」
「ふーん。でもよ、おれもひまわりからお前のことは色々聞いたよ。上手い具合にディスられてるみたいだってな。そりゃたぶん、雪枝のこともあるんだろうし」
「雪枝を、知ってるのか」
「知ってるよ。クラスメイトだったもん」
「そう……なのか?」
「あーあー、あいつも偏屈な奴だったからな。裏じゃ結構ヤバいことにも手を突っ込んでたらしいし」
「ヤバいこと?」
「お前、彼氏だったのに、知らないのか?」
「教えてくれ」
「教えるもなにも、私はなにも知らないよ。ただ、お前の親父さんと関係性があったのないのって」
「親父? もやしばら仁紀のことか」
「そうだよ。だから、私も知ってる。月桂冠さんが探り入れてるみたいだからな。今、CLUB通いの奴らが次々に殺されてる事件、あるだろ。あれとの関連を、洗ってるとこなんだよ。月桂冠さんにしろ、私の相棒にしろ、色々動いてる。そのラインに、雪枝の名前も出てくる」
「どういうことだ?」
「いや、知らねぇ。そこは今、調べてるとこだ。たださ、もやしばら仁紀のことを調べるなら……」
「おれってことか」
「ビンゴ。その通り。お前をパイプにして、もやしばら仁紀に接近する。どうだ? お前、親父さんとも仲が悪いだろ、それは知ってんぜ。でよ、なにか聞き出せないかと思ったときに、仲が悪いけど家族、みたいなお前なら、ここらへんどうにかなるんじゃないかなって思ったわけ。もう私は今、かなりぶっちゃけてしゃべってる。だから、私が裏があってこういう話してるわけじゃないの、わかるだろ。協力してくれ。な、頼む」
「あ、……あぁ」
頷く百太は、ガッコウの上履きで外に出る。ずたぼろのスニーカーで帰るのは、気が引けるらしい。
ぜぶらと百太は、昇降口から外に出る。校門には、鞄を提げたコスモスが待っていた。百太に気づき、手を振ってくる。百太も、手を振り返す。バカップルがまさかひまわりの姉と月桂冠さんの息子だとは、ね。
愛らしい恋人たちだねぇ、とぜぶらは思って微笑んだ。愛らしいだろう、そこには、天使の羽を生やした少女が見えるのだから。
と、そこに。
いきなり黒塗りの車が乱暴な運転で校門に止まり、そこから、美術部の朝倉と杉山が出てくる。百太が目をこらすと、運転しているのも、美術部の掛札だ。
素早く自動車から降りた朝倉と杉山は、コスモスの両サイドに立ち、まず杉山がコスモスの顔をひっぱたく。そこに、朝倉が腹を殴って、そして朝倉と杉山はコスモスを無理矢理車の後部座席に押し込み、自分らも自動車に入り、ドアが閉まる。
そして黒塗りの自動車は動き始めた。
あまりにとっさのことだったので、百太もぜぶらも、身体が動かなかった。
一瞬遅れて、ぜぶらが言う。
「ありゃ英語のトカゲ野郎の車だぜ? それで人さらい? なに考えてんだ?」
百太はどうしていいかわからず、オロオロする。
「追うぞ」
「は?」
「いいものがある」
「?」
百太は知らなかったが、実はぜぶらは、ひまわりとともに、工業高校の人間と争っていた。そして今、駐車場には、高原工業高校の生徒が、バイクにまたがって、たむろしている。最近、工業高校の嫌がらせはエスカレート気味の方向にあり、なにをするでもなく、高原高校にバイクでやってきては、バイクのエンジン音をふかして、騒音を出すという嫌がらせをし始めていたのである。ぜぶらは、そのバイクに目を付けた。
ダッシュしたぜぶらは速度を落とさずバイクにまたがった工業高校生を蹴落とし、自分が乗る。
「あとはよろしく!」
手刀のように構えて挨拶をすると、バイクはエンジン音を唸らせ、ガッコウを去っていく。ぜぶらは追う気が満々だ。かなりのスピードで、校門から外に出て、いなくなってしまった。
残された百太と、高原工業高校の不良たち。
「これ、おれに相手しろって、…………ことだよね」
百太の身体から、血の気が引いた。
☆
「ひかしゅー先輩、愛してます!!」
掛札は深々と頭を下げた。
「あっそう。何度も聞いてるっしー」
ウザそうに顔を歪めるひかしゅー。
頭を下げたままの掛札を、朝倉はど突く。
「おい、愛の告白はいいからてめぇはとっとと車持ってこい」
「え? え? これから一緒にキメるんじゃないの?」
「てめぇは運転すんだからインサートエフェクトはお預けだ、クソ犬」
朝倉が言うと、杉山は「クソ犬、クソ犬」とゲラゲラ笑った。
「私も今日は遠慮するっしー」
そう告げ、盗撮ビデオを受け取ったひかしゅーはデザイナーズドラッグであるインサートエフェクトを朝倉の手に渡し、踵を返していった。
そのひかしゅーの後ろ姿を見て、朝倉は、
「ひかしゅーさん、最近やつれてきたな」
と評す。
杉山は、
「そんなこたいいから早くドラッグやろうぜ」
と返した。そして掛札を足蹴にして怒鳴る。
「おい、とっとと車持ってこいって。早めに取りに行かないとあの英語トカゲが帰っちまうだろ!」
「わ、わかったよ」
走って英語教師がいつも一人でだらだら休んでいる喫煙所へ向かう。
「早くセクロスしたいなぁ。けけけ、け」
杉山が笑うと、朝倉もそれに釣られたように笑った。
その爬虫類じみた英語教師を、誰もいないところで殴る蹴るなどの暴行を加え、掛札は自動車のキーを奪い取る。
駐車場で待機していた朝倉と杉山は、車のキーをくるくる回しながら持ってきた掛札を見て、ゲラゲラ笑い転げる。
「なんだっけ? 自然淘汰で死ぬべき人間は勝手に死んでいくとか言ってたよな、あいつ。死ぬのはあいつじゃね? あのトカゲ野郎」
朝倉はそう空を見上げて笑う。愉快でたまらないらしい。「さ、行くぞ」
掛札がロックを解除し、一同は自動車に乗る。車は黒塗りの豪華そうな代物なのにオートマだったので、一同はここでも更に笑った。
杉山は、
「あのハゲいつも偉そうにしてんのに免許もオートマ限定だったりな」
「で、でもこっちの方が運転しやす、す、すいよ」
そう返してから掛札はエンジンをかける。
自動車は走り出す。ブレーキから足を離しアクセルを踏むはいいが、無免で運転しているので、Rにも変えないままいきなりで加速してしまい、自動車は駐車場の壁に激突して足舞う。
「おい掛札。心中するつもりか。殺すぞ」
朝倉は掛札に平手打ちする。ぴしゃりと派手な音が車の中に響く。
「ごめん、……ご、ごめんよ」
謝った掛札は、慎重に自動車の運転をはじめる。
一度校内を出て、ガッコウの周りを一周する。それでだいぶ感覚はつかめたらしい。
朝倉はガッコウの中を見て、
「しかし、工業高校のやつら、バイクで高原高校に侵入してきてよ、まじムカつくよな。今度あいつらもおれたちでボコろうぜ」
と言うと、杉山が、
「それより今はセクロスだべ」
と、笑顔を向けた。
「きゃ! なに!? やめてッ!」
叫ぶコスモスの頬をはたき腹を殴って黙らせ、杉山と朝倉が校門の前に上手い具合にいたところを、車の中に引きずり込み拉致する。
「へへ。セックスセックス……」
頭の中が性行為で一杯になっている朝倉、杉山、掛札の三人。美味い飯にありつけるまでもう少し、と思うと興奮が収まらない。
「おい早く車を出せ!」
朝倉が後部座席で叫ぶ。
「わ、わかってるよ」
そして自動車が走り出す。
後部座席でコスモスの両サイドにいる朝倉と杉山は、耐えきれなくなってコスモスの胸を制服の上からまさぐる。「嫌っ、やめて!」というその声と抵抗して身体を動かすことに、更に興奮を覚える。
「誰も助けになんかこねぇよ」
杉山はそう言って、コスモスの太ももをさする。足をじたばたさせるコスモスの顔面を殴り、制服のスカートの中に、手を滑らせていく。
「セックスセックスセックス! うひゃひゃひゃひゃひゃ」
杉山が笑いながら手をスカートの中を撫でると、「てめぇばかりやってんじゃねぇぞ」と鼻息荒く、もう一方のふとももを朝倉はなで回した。
コスモスの足の付け根に自らの手を到達させた杉山は、
「おいてめっ! ぱんつの上にショートパンツなんてはいてんじゃねぇぞ」
とキレだし、手をスカートの下から取りだし、頬をビンタした。泣き出すコスモス。しかし、泣き顔を見て、男たちの興奮は高まっていく。
鼻息で温度が上昇していくその自動車の運転席から、掛札がいきなり甲高い声を出した。
「朝倉くん、杉山くん!」
「んだ、っせぇな」
朝倉も、コスモスの太ももから手を離し、後部座席から掛札の首を絞める。
「誰か! 誰か! バイク! バイク!」
「あぁん?」
「改造バイクが追ってきてる!」
「改造バイク? 工業高校の奴らか? おい掛札。撒け」
「う、うん。でも、ノーヘルで……」
そう言われ、後方を振り向く朝倉は、
「女ッ!?」
と、素っ頓狂な声を上げた。工業高校は男子校なので女性はいない。ならば一体こいつは?
加速する自動車。しかし、バイクもその速度をあげ、追いかけてくる。追いかけてくる、というよりは、もう完全に掛札の運転する自動車にへばりつく形になっている。こういった状況が、運転している掛札にプレッシャーを与える。
「やばいやばいやばいよ!」
スピードをぐんぐん上げながら、掛札はバックミラーを見る。道路には他に、車がいない状況で、スピードを上げていっても大丈夫だったのでかなり速度を上げたが、バイクはついてくるのだ。
朝倉、杉山が後ろを向いていて、掛札もバックミラーで手一杯。運転が雑になったところで。
自動車は急ブレーキを踏んだ。
タイヤのゴムが金切り声のような音を立てて、車は急停止。
「おい掛札なにやって……」
と、杉山が怒鳴ろうとした時、車の後ろで、ドカッッッと、鈍い音を立て、それから車のボディに重い物が激突した音が鳴り響く。
掛札が車を急停止したのは信号が赤だったからなのだが、その急停止に歩調を合わせられなかった改造バイクがこの黒塗りの自動車に正面衝突、バイクは車に激突、乗っていた人間ははね飛ばされ、前方にそのまま跳び、自動車の屋根にぶつかって、さらに停止している車のその真ん前に飛び、転び、倒れ込んだのだ。
「殺しは、ヤベぇって……」
顔面蒼白の朝倉が言った。声に出したのは朝倉だったが、杉山も掛札も、顔面蒼白だったのは同じで、一様にこの事態が自分らの人生にとってクリティカルにヤバいことに気づいたのだった。
自動車から出てきた朝倉、杉山、掛札の三人は、慌てふためく。それはバイクから横転して吹き飛んだ女性が、道路に血だまりをつくって倒れているから、当然といえば当然だった。
「おい、やべぇ、どうする」
血だまりを見ながら、杉山は横にいる朝倉の脇を小突いた。
「へ、へ……。お、おれは知らねぇ……。そ、そうだ、これは掛札が運転してたんだ、掛札が悪い」
震える声で、朝倉は責任転嫁しようとした。
すると、血だまりの中から、少女が飛び上がった。ぴょーんと、跳ね起きたのだ。
「ふははははははは! 超美少女戦士・姫路ぜぶらちゃんとは私のことだあああああぁぁぁぁ!!」
「ッッッッ!?」
車から出てきた三人は絶句した。
「あーあーあー、貴様ら。モブキャラの彼女を拉致るとは、いい度胸だぜ。こいつはCLUB鳳雛の、月桂冠さんの息子の彼女だぜ? つーか友達の姉ちゃんでもあるしよ。まじ殺すから。お前ら、まじ殺すから」
「ひ、ひぃィィ」
朝倉は後退りした。そりゃそうだ、この女、姫路ぜぶらはぱっかりと割れた額から血を滴り落としていて、なぜか笑っているのだ。笑いながら、身体でリズミカルに飛び跳ねている。完全に狂気の沙汰だ。
「ヒップホップパーンチ☆」
ドスっという鈍い音を立てて、ぜぶらは杉山の鳩尾に拳を沈めた。そしてそのリズムを崩さず、掛札も蹴り飛ばす。二人は抵抗するまもなく、道路に倒れ込んだ。
怯える朝倉。
「おーおー、てめぇがこいつらのボスだろ? よくわかんねーけど、そんな気がする」
血をダラダラ流しながら、しかしリズムは崩さず、ぜぶらは言った。そこでなにか誤魔化して逃げようと思った朝倉だったが、しかしここは公道。当たり前だが、自動車や歩行者の往来がある場所なのだ。そもそも、スピードを出して爆走していた今までの状態が稀なだけであって、当たり前に考えて、いろんな人が、ここを通る。そう、だから道路の真ん中に自動車を止めている朝倉たちを、後続車はぶーぶーサイレンを鳴らすし、「どけやぼげぇ!」と、叫んでから通り過ぎる車もちらほらと出てきている。
いや、それどころか、バイクと自動車が接触事故を起こしたのは明白で、車を横付けして降りてくる人間や歩行者が集まりはじめたのだった。
ビビる朝倉は、がたがた震える自分の両足に、暖かい体液が漏れ出しはじめたのに気づく。朝倉は、失禁してしまったのだ。それをくすくす笑う、集まりはじめた人々。朝倉は声が出ないで、震えるだけだ。その顔に、ぜぶらのリズミカルな拳が、まずは右から、その直後左から、重くぶち込まれた。朝倉は前歯が何本も折れ、その場に倒れ込み、「ごめんなさいごめんなさい、おれは悪くないんです。こいつらが、こいつらが全部悪いんです」と、平謝りした。
更にそこにたたみかけるかのように、パトカーのサイレンの音が聞こえてきた。
「バカかてめぇ? すでに通報済みだし、高原高校の坂を下りたらすぐんとこに警察署があんだろ。死ね」
ぜぶらはそう履き捨て、額から流れる血を手のひらですくった。ぜぶらが見ると、あきらかにこの朝倉と杉山はラリった顔をしている。この頃の町の状況を鑑みるに、こいつらはあきらかにドラッグ『インサートエフェクト』を体内に含んでいるだろう。
「さて、税金の連中はどうでるか。公にするか、看過するか……。まあ、見てみようじゃないの」
ぜぶらは呟き、警察官がパトカーから出てくるのを見やってから、力尽きてその場に大の字になって倒れ込んだ。
☆
胸で息を吐き、途切れ途切れの呼吸でくらくらになりながら、百太は路地裏を走っていた。ここはどこだ? 全然わからない。
高原高校を抜け、百太は闇雲に走ってきた。今はもう市街地だ。もしかしたら、ガッコウの校舎の中に入っていった方が、あいつらは追ってこなかったのでは、と思うが、それはもう、後の祭りという奴だ。もしかしたら、なんて考えてる場合ではない。
コスモスが車で拉致され、ぜぶらはガッコウの駐車場でたむろしていた高原工業高校の不良どもが乗っていたバイクを横取りし、車を追いかけていった。その場に残された百太は、その不良どもと対峙することになった。対峙? 違う。対峙なんて出来ない。自分に出来るのは、この不良どもから逃げることだけだ。そう決断したはよかったが、振り切れなかった。逃げても逃げても不良は追ってくる。どんだけ力をもてあましてる体力バカなんだこいつらは。そう思ったが、そもそもが他校に嫌がらせをしに改造バイクでやって来た人間どもである。体力が有り余って喧嘩する気が満々であることは、想像に難くない。やっべーとか口で漏らしながら、百太はダッシュした。校門を過ぎ、坂を下りる。その時点で間違っていた、と思ったのだが、すでに遅し。坂の下には警察署があるのに、逆方向に逃げてしまった。パトカーとすれ違ったが、ケーサツは百太を無視して走り去ってしまったし、不良どももスルーしてしまったようなのだ。せめてこいつらが改造バイクで追いかけてきたり武装してきていたりすれば、ケーサツも相手にしたかもしれない。が、疑うだけの状態では罰することはできないし、ケーサツにとってみりゃ、百太がぶん殴られてはじめて、この工業高校の不良を罰することができるのかもしれない。巫山戯た話だ。
ダッシュに次ぐダッシュ。路地裏の、吹きだまり特有の匂いが立ちこめていて、定食屋の厨房からの暑い空気が百太を不安にさせる。
途中、ポリバケツにぶつかり、転びそうになるが、体勢を立て直した。倒れたポリバケツから、生ゴミが散乱する。が、それには「しめた!」と思ったりもする。進路妨害できるからだ。……と思ったら、料理店の厨房裏から出てきたバイトと思われるにーちゃんから怒鳴られる。それを無視して、百太は更に走る。路地が終わり、商店街のメインストリートに出る。今度は人間の海で攪乱しよう、と思った。だが、今日はそんなに人が歩いていない。なんてこった、と思って猛ダッシュ。
すると、そこに本屋。ブックスルーエがある。知ってるお店! ダッシュする気力も萎えてきたところで、この本屋の立ち読み客に紛れて追っ手を撒こうと思い立つ。百太は店内に入った。
追っ手が来なさそうな場所は、ときょろきょろして、哲学書のコーナーに行く。たどり着いた百太は、本を読む振りをした。呼吸を整える。しばらくすると、「ここに入ってきたの、見たぜ」という声。もう、祈ることしか出来ない。百太は本棚の方を向いて顔を伏せるように、平積みのところから本を手に取り、読むふりをする。百太は目を閉じた。
一秒……二秒…………三秒。
時間を数えていたら、いきなりがちっと後ろから羽交い締めにされた。「ひっ」と声を出してしまう。
目を開け、顔を上げると、そこには知らない男。あれ? 痴漢か? と思ったが、そうじゃないらしい。男は耳元で言う。
「なーいすだぜ、もやしばらくんよ」
おれの名前を知ってる? と頭にはてなマークを浮かべる百太に構わず、男は言う。
「てめぇらが探してんのはここにいんぞ」
追ってきた不良どもが一斉に百太の方を振り向く。と、その男は百太を離し、下唇を舐めた。
「だが、てめぇらの相手はこのおれだ」
男は、ブランケットでくるくるに巻いた長い棒を、傍らからつかみ取る。ブランケットが解かれると、出てきたものは野球で使う木で出来たバットだった。しかし、そのバットはチューンナップされている。打つところに、何十本もの釘が打ち込んであるのだ。
釘バット。
それが、この男、田所月天の得物なのだ。
釘バットに思わず息をのむ工業高校生たち。ひそひそと、「月天だ、あの釘バットの月天だ」と囁かれる。その囁きは工業高校生の不良どもだけでなく、本屋の他の客からも聞こえる。
有名人の、月天。この街の不良で知らない人間などいない、かの『高原連合』という集団をまとめているボスなのだ。そして、その背後にいるのはこの百太の父親であるもやしばら仁紀であり、また、この工業高校の不良の裏には、最近仁紀と仲違いしたやくざの前田組の影。
月天にとっては、戦うための動機は、充分にあるのである。
そして、怯えきった不良どもに、本屋の店内で思い切りスィングをはじめる月天に、その場のすべての人間が、凍り付いたようになった。
☆
「グッドアフタヌーン。は~い、今日も始まりました高原ラジオ、高原ポップカウントダウン! 皆様今日はどうお過ごしでしょうか。時刻は午後三時。今日も三時のおやつとともに放送を楽しんでくださいね。はーい。それでは本日のゲスト、紹介しちゃおうかな~。それでは! ご紹介しましょう、本日のデイリーゲストは、新進気鋭のラッパー、姫路ぜぶらさんですー」
パチパチパチ。
「や、や、どもども」
「姫路さんは只今高校二年生であらせられるとのことですが」
「え? なに? それ、言っちゃっていいの?」
「大丈夫ですよ~。実は校長先生から許可は得てるんです」
「……どういう類いの圧力が……」
「はっはっ。なにをおっしゃいますか姫路さん。圧力なんて全然かかってませんよ~」
「あ、じゃあそういう体で」
「ま~たまた~。お口がうまいですね~、姫路さんは。大丈夫ですよ。ノープロブレムです」
「あ、はい。……えっと、ラッパーの姫路ぜぶらです。はじめまして、が多いかな、やっぱこれ聴いてる人には。高原高校二年、姫路ぜぶらです。今日はよろしくお願いします」
「は~い、どもども。で、どうですか、活動の方は。今、売り出し中のラッパーじゃないですか、姫路さんは。あの『脳髄即パコテクノDJ』との異名を持つテクノ人間・DJ田所さんとユニットを組んで、現在は療養中の田所さんにかわって鳳雛レコードの主宰、伏見月桂冠さんとコラボをしてるそうじゃないですか。しかも月桂冠さんとはヒップホップのユニットをやっていて、そこでMCとしてステージに立っているとのことですが」
「あ、いや、フロアってのは基本的に、ステージはないんスよ。暗いフロアの中で、スポットライトは浴びずに演奏をするんです」
「あ、そうですか。それは失礼しました。今はちまたじゃCLUBは危険だの言われてますが、それに関してはどうです?」
「ね。そうですよね。高原市も今、結構ヤバいし、そこでみんなの誹謗を浴びる感じになっちゃってますよね、CLUBとか、それにライブハウスも。確かに、そんな褒められたもんじゃないですけどね、そういう文化。でも、私は、そこに賭けてるんです」
「お、それは?」
「もちろん、ミュージシャンとしてですよ。カルチャーってのは、アンダーグラウンドからしか生まれないって、私は思ってますし、だから、こんなに危険だって取りざたされてるCLUB文化に足を突っ込んだままなわけです」
「そこに、光明がある、と」
「かっこよく言えば、そういうことです」
「具体的には?」
「いつだったか忘れましたが、『海の家ダンスフロア化事件』って、知ってます?」
「いや、存じ上げませんけど」
「逗子海岸っていうとこ、あるじゃないですか。そこが、海水浴の季節が終わってから、夜中に海の家で大音量でクラブミュージックを流しはじめたんスよ」
「ほぅ」
「それで、クラバーたちがたくさん集まりはじめて、『レイヴ』、つまり野外CLUBのフロアになってしまったんです」
「へー。それは知らなかった」
「それでみんなお酒飲んでDJミックスに合わせて踊ってたわけです。ところが」
「お、ところが?」
「ええ、ところが、市がそれを廃止に追い込んでしまったんですよ」
「それはなぜ?」
「品行の関係ですよ。夜中爆音で酒飲みながら踊ってるのは品が悪い、と。海水浴場って、シーズン中、昼間は子供達もたくさん来るわけです。それなのに、大の大人がその『みんなの』海水浴場の海の家で踊ってるのは、品が悪い、と」
「はっはぁ」
「それでそんなことはしちゃダメだと、条例が出来ちゃった。ひどい話ですよ、文化にとってはね」
「う~ん」
「いやいや、そういうところはアングラ化するし、仕方ないとは思うんですよ。イギリスにも悪名高い『レイヴ禁止法』とかありますから。でも、常に文化って、そういうところから生まれてくる、って私は思うんですよ。だから、私はそういう文化を発信する、または、今後していきそうなものを、DJブースから擁護していきたいって思ってます」
「な~るほど。そうですか。私もそんな姫路さんをこれからも応援していきたいと思います。それでは今日は短い時間でしたが、ありがとうございました。ラッパーの姫路ぜぶらさんでした~! それでは、今日もランキングのカウントダウンをはじめましょう! それでは今週の第十位から。第十位は鼻そうめんPさんの…………」
☆
ラジオ局のロビーに、その女性、伏見月桂冠は身体を腕で抱くようにして立っていた。そして、生放送が終わったぜぶらが歩いてくると、くすりと微笑んだ。
「どうだった? はじめてのラジオ出演は?」
「最高でした」
まさか、こんな私が出演できるなんて、と言おうとして、止める。なぜなら、この地元FMラジオ局の番組に出れたのは、自分の実力というより、この今、自分の目の前に立っている伏見月桂冠のおかげであり、それ以外のなにものでもないからだ。慢心してはいけない。自分の力ではないのだ。
「この前はありがとうございました」
「なんのことかしら」
月桂冠は嘯く。そして、煙草を吸う。ここには灰皿がある。さすがの月桂冠も、マスメディアのそのただ中で、吸ってはいけないところで煙草を吸うことはしない。
「でもまあ、あの時、まさかあたしを身元引受人に名指すとは、思ってもみなかったけどね」
あの時とはつまり、バイクを強奪しコスモス救出に向かった時のことを指している。
「うふっ。でも、あなた、クールよ。バイクで追いかけて吹き飛ぶなんてね」
「い、いや、……あはは」
掛札の運転する自動車が急ブレーキで止まり、吹き飛ばされた時、実はぜぶらは衝突する直前にジャンプした。昔、ぜぶらはテレビで、スタンドマンが自動車に衝突するパフォーマンスをしても大丈夫であるのは、その直前にジャンプするからなのだ、というのを観た記憶がよぎったのだ。なので、とっさの判断で試しにジャンプしてみた。すると、そのテレビ番組通り、衝突による身体のダメージは半減した。あの時、あいつらを殴る時に、奴らにそれを蕩々と説明したかったんだよなー、とぜぶらは思い出した。が、実際はぶん殴った後、自分も力尽きて、倒れた。かっこよく決めたかったはずなのにー、と、今思い出しても恥ずかしくなる。
月桂冠は紫煙を吐き出す。
「ケーサツも、今回のラジオの出演を高原高校の校長に許可させたのも、私の力というよりは、あのクソ男、もやしばら仁紀の妻だからって点の方に多くを負っているのよね。ふがいない」
ちょっと歯ぎしりする月桂冠に、ぜぶらは吹き出してしまう。この人も子供っぽい部分があるなぁって。
「うちのどら息子も、大丈夫だったみたいだし」
「気になりますか」
「そりゃ、少しは、ね。腹を痛めて生んだ息子だもん」
銀髪の自殺未遂者で、町の有力者の親族。こりゃ確かに、モブキャラには不適合かな。ぜぶらは顔を上げると、月桂冠と目が合う。そして、二人で笑った。
「さ、今日はごちそうするわよ」
「え、ホントっすか」
「ホントもなにも、このビルの前にタクシー待たせてるわ。打ち上げよ」
「うっひょー」
そして、ぜぶらは歩き出す。願えば、そして願いを胸に秘め歩き出せば、いつか夢は叶う。そんな絵空事が絵空事で終わらないような人生を、ぜぶらは一歩、踏み出したのだ。
頑張らなくちゃ。ぜぶらは自分の手をきつく握った。
☆
おれは断ち切らなければならない、この鳥籠の中の物語を。望まなくとも明日は無慈悲に来てしまうから。この切っ先から今日を切り取って、今ここをアートに変えてしまうべきなんだ。
なぜ、コスモスはあの日、おれのアパートの部屋のチェーンロックを鉈で断ち切ったのか。これは、アナロジーだったんだ。おれと、悪魔の鴉の回路を繋げるための。ループする過去の亡霊は、いつまでもおれにつきまとうだろう。その結束点を、ノードを、打ち破ってくれた。それがコスモスだ。なら、おれはここからコスモスの手を取って連れ出さなくてはならない。クズな日常を変えるように。おれが描く抽象絵画と詩のような、ガッコウのディスクルスを臨界突破させる化学結合を起こし、コスモスの、その身体を抱きしめながら。
高原高校保健室。今日も保険医、サトミちゃんはお茶を飲みながらテレビドラマの再放送を観ている。その傍らで、保健室登校のコスモスはノートに計算式を書きながら勉強をしている。百太はそんなコスモスを見ながら、デッサンの勉強をしていた。
昼下がりの陽光が、保健室を照らす。百太は目を細め、大きく息を吐いた。
「不気味の谷」
と、コスモスはノートから目をそらさず、言った。百太はコスモスの顔をのぞき込んだ。
「『不気味の谷』っていうのは、球体関節人形を制作して、その人形が一定以上人間に似過ぎていると、逆に人間との差異が際立って、観るものが不快感を覚えてしまうことを、そう呼ぶのだぞ」
「なんの話だ?」
「私が、みんなから嫌われている理由」
コスモスは百太に語りかけている。サトミちゃんは傾聴することもなく、ドラマに見入っている。コスモスは続けた。
「雪枝お姉様が私に施した『大鴉』の秘術は、私を人外の者にした。『大鴉』は、『大ガラス』でもある。そのガラスの屈折する光から、ダーリンには私が、異形の者に見えているはずだぞ。普通の人間には人形に見えるし、ダーリンのような『終末』に関わるかもしれない人間には、私は『絡繰り人形』に見える」
「なにを、……言っているんだ?」
「マルセル・デュシャンのアート作品『大ガラス』は、その制作方法がオープンソースになっているから、レプリカがつくれる。それと同様、私の身体にも『この世の現在から解放される、解法させるドラッグ』の知識、製法が埋め込まれている。大ガラスの設計図のように、ね」
「…………」
「雪枝お姉様は、世界を恨んで、でも、世界を救いたかった。けど、陰謀に巻き込まれて、それが叶わないで、死んでいった。そのお姉様は、ダーリンには、私を残した。私は、なぜ、そんな形で私とダーリンを結びつけたかったのか、出会って、いっぱい話をして、それで」
コスモスが顔を上げる。百太の目とコスモスの目がクロスした。百太は陽光に照らされたその姿に、顔を赤らめた。
「全部わかった。それは、ダーリンと私という人間が『対』なのではなく、お姉様にとって私たちは、同じコインの表と裏くらい『同じ』だったからなんだ、って」
「いや、……コスモスは美しいクジャクで、おれは鳩だ」
「クジャクの雌は、綺麗じゃないんだよ。だからそれ、褒め言葉になってない」
コスモスはくすくす笑う。
「おれは自分のことをアピールすることにばかり熱中する、クジャクの羽を拾って見せびらかせているだけの、ただの不細工な鳩なんだ」
「ダーリンの翼は、本当はこの大空を飛べるような立派な羽だぞ?」
コスモスの背中の悪魔の羽は、羽ばたくようなモーションを繰り返す。でもその羽は小さくて、その切なさから百太は抱きしめたくなる。
だから百太は、コスモスの唇にそっと、自分の唇を重ねた。
コスモスの翼の漆黒が百太を包み込む。
二人はしばらくの間、ずっと互いの唇を重ね合わせたままにしていた。
サトミちゃんは、それにも気づかずテレビを観ていた。
鳩はそれでも、無理矢理にでもこの大空を舞おうと決意した。
鳩としての人生。ぽっぽぽっぽと餌をもらうためにだけ生きる人生。しかし、それを卑しいと蔑むだけの人間は、果たして卑しくないと、高貴な生き方をしている人間だと言えるのだろうか。百太は自分の人生を振り返る。一度は死んだ人生、しかしこの世を去るのは阻まれ、こうやって生きる。人生を賭したはずのこの絵も詩も、すべては否定され蹂躙される。このまま一生が続くとしたら? 百太の瞳には、昼間にキスを交わしたコスモスの顔が浮かぶ。でも、それは救いなんかじゃない。いや、救いって言葉がおかしい。自分を救うのは、自分なのだ。自分で自分を救えない人生ならば、それはどうなのか。それでもきっと、鳩を蔑むゴージャスな羽をしたクジャクよりきっと、価値ある人生だ。もしも、その価値を、誰もが否定して蔑むとしても。
部屋の明かりを消そうとして、百太は、着信が誰からもないケータイ電話を見つめる。誰にもつながらない電話。でも、つながらないのは、おれの人生だって同じだ。
消灯。この女々しい人生には、一体なんの意味があるのだろう。
いや、それでも、この戦う意志は、意志だけは崩されない。喩え世界中の誰もが認めなくても。それでも、「生きる」という戦いは、続く。
飛ぶために、戦う。
☆
朝起きて、ふと、百太はこのワンルームのことを、思う。この暮らしがあるのは、親の金のおかげだ、と。だが、母はあんな感じで人生をエンジョイしているし、父は、全くなんの仕事をしているのか、息子である自分でもわかってない、と。
洗面所で歯を磨くと歯ブラシに血がにじみ、その洗面所の鏡を見ると、自分の不細工な顔が、不健康そうなツラを映し出す。
ガッコウに向かおうと靴を履いた時、いきなり、ケータイの着信音が鳴った。部屋の電話でなく、ケータイ。はて、自分は誰と誰に、この番号を教えたというのか。
百太は、電話に出る。すると、野太い声が、百太の名を呼んだ。
「私だ」
その声に、百太は「聞き覚えがあるな」と思った。聞き覚えのない声が、ほぼ誰にも教えてないケータイからするわけがない。だが、そんな風に思った。
「あっ」
ケータイに耳をあてたまま、素っ頓狂にも思える声を出してしまう。こ電話の主は、父の仁紀からだ。
「なんの用だ?」
この部屋の維持も、高校の学費も、親が払っている。お小遣いも、毎月振り込まれる。感謝すべきだ。それはわかっている。だが、わかっていても、尋ねてしまう。親子の絆なんて、薄ら寒いものを求められても、困るからだ。
「放課後、うちの事務所に来い。場所は……建物の名前だけわかっていれば、グーグルマップにでも頼むんだな」
「わかった」
「では」
それだけで、着信は切れた。切ったのは向こうの方からだった。これが、家族というものの正体だ。切りたくても切れないから、人生が始まった時から子供には必然で、親にとっては「産み落としてしまった負の財産」である、この関係。逃げたくても、この世で一番逃げられない、この関係。これが、この通話の短さが、体現している。
「わかってるよ……くそっ」
靴を履こうとして玄関先に立ったまま、百太は目を瞑り、玄関の扉を、拳で叩いた。殺したかった。
昼休み、保健室に行くと、サトミちゃんから今日はガッコウにコスモスは朝から来ていないと言われた。なので、もしかしてクラスに復帰したのか、と思ってコスモスの教室に向かうと、百太はぜぶらに小突かれ、
「七咲ひまわりの姉ちゃんはいねぇよ。お前はちょっとこっち来い」
と、屋上まで連れて行かれてしまった。
一体なんだろう、と百太は思う。
屋上は、この時期、とても寒く、冬の到来を告げるようだった。なので、屋上には誰もいない。それに気づいたか、
「誰もいねぇから、ここにお前を呼んだんだよ」
と、ぜぶらは言った。まさかずっと前に裸の胸を見てしまったことを根に持っているのか、と胸がすくむ思いがする百太だったが、とりあえず、
「この前は、ありがとな」
とだけ、どうにか言えた。矛先を胸からこの前の拉致事件のことに変えようと思ったのだ。姑息なり、おれ! 百太そう呟いた。
「ああ。なんか私はすぐに退院できたしな。血がどぱーって出たのに。いや、でもお前にゃ感謝してんだ。お前の母親、月桂冠さんのおかげで、地元FM局にもでれたしな。あ、もしかして聴いてくれた、とか?」
「いや、聴いてない」
「……そっか」
しょげるぜぶらに、百太は「ミスったか」と思って戦々恐々だったが、どうやらここに呼ばれたのはぷるぷる揺れたあの胸の話ではなさそうだな、となんとなく思えてきた。
「ここに呼んだのは、あまりひとに聞かれちゃマズい話をするからだ」
「ですよねー」
敬語で応じてしまう百太。
「あの天使」
「天使? 悪魔じゃなくて?」
「大鴉」
出てきた、大鴉という単語。
「お前にゃ悪魔に見えるんだろうな。終わりを告げる者としてのあの子の存在に」
「どういうこと」
もちろん、うすうすは気づいていた、コスモスのあの、異形の佇まいに。悪魔の鴉……。いや、と百太は否定する。あの子は、紛れもない天使だ。
「要するに、あの子は『マレビト』なんだよ、民俗学とかいうもんで言うところの」
「ま、……まれ……なんだって?」
「そりゃたぶん私たちが知らなくてもいいことなんだろうぜ。お偉いさん方からすりゃ、とーっても意味があるんだろうがな。要するに、『どこか遠い土地』から現れて、すべてのルールを変える者、なんだ。もしくは、その可能性を秘めたもの。で、それは神話的なもんだから、そう見えちまうんだろうな。『関係がありそうな私たち』には。あの羽が」
羽。天使の羽。悪魔の羽。クジャクの羽。鳩の羽。なら、コスモスの羽は、一体、どこに位置づけられて、おれはどこの羽に、位置づけられるのか。百太は、息をのんだ。こんな宗教くさい話、まともじゃないかもしれないが、しかしそこに、「現実に見える」から、もしも自分の感性を信じるなら、そこには、なにか重要な意味がある、と考えていい。それは、社会的なこと、政治的なこと、というよりも、「自分の人生にとって」という意味合いにおいてだ。それこそ、政治的ななんたらは、こんな学歴最低の高校に通う高校生が知るような話じゃない。
「コスモスという少女は、雪枝という人間に、一種の催眠をかけられているんだ。で、その脳内に『この世を変革するドラッグ』の秘術が、かけられている」
百太には、もう意味がわからない。確か、コスモスもそんなことを言っていたな、と思うだけだ。
「ほら、雪枝ちゃんは死ぬ前、中東に旅行にでかけたろ」
「いや、旅だ」
「うん。その、旅だ。で、そこでなにか吹き込まれた。この世の終末とか、そういう話を。で、それをこの国に、伝播させ、その『終末』とやらを、日本でも同時多発的に起こすために、血のつながってないにしろ、妹であるコスモスに向こう仕込みの秘術をかけた。で、そこにはドラッグの作り方やら思想が埋め込まれていて、彼女自身が『イコン』とも、なってるってわけ」
「どーいうこと?」
「な? 私もわかんねぇ。が、アンダーグラウンドの、暗部の人間としちゃドラッグの製法が知りたいし、お偉いさん方としちゃ、その『イコン』としての七咲コスモスの存在そのものが、欲しい。今この高原市じゃ、インサートエフェクトってドラッグが流行っているが、それはその秘術のドラッグの劣化版。それを試しに流してみて、結構イケることがわかったらしい。だから、今度は『本物』をいよいよ投入したいってわけ。この世の終末をここでも、他と同じく同時多発的に起こすためにな」
「あ? あぁ……」
「よくわかんねぇだろ。私もわかんねぇんだ。だが、一応説明させてくれ。もやしばら仁紀って人、お前の父親は、暗部の人間だ。で、さっき言ったように、この国のお偉いさんたちとも、そんなわけで利害が一致しはじめていて、つながりが強化された。親父さんはドラッグの製造、お偉いさんは、イコンであるコスモスの存在と、その先にあるドラッグか……もしくはもっと危険な、コスモスを使った『なにか』が。だが、黙ってないのはこの町のやくざとか、暗部の他の勢力だ。で、その抗争が起こってて、それは高原連合と工業高校の争いにも、反映されている。それ以外にも、高原連合が売ってるドラッグがこの高原高校の連中にも入ってきて、ずっと前の争いの剣道部の休部にも一役買ってるし、お前の在籍してる、美術部の連中にも入ってきてたわけだ。一方の工業高の連中にも、ドラッグが絡んでて、それは町のやくざが絡んでる、と。つまり、群雄割拠の状態なのよ」
「で?」
「で、じゃないだろ、てめぇの父ちゃんの話だろ」
「つまり、おれにどうしろと
「ああ。話してやるよ。ここで話に登場してもらうのが、そこの貯水タンクの後ろで待機してもらってる、七咲ひまわり嬢だ……」
百太は、ぜぶらの後ろの方にある貯水タンクを見る。ここは、ガッコウの水を供給しているタンクだ。ぜぶらがそこに指を指すと、ゆっくりと、あの竹刀女であり、コスモスと雪枝の妹である、七咲ひまわりが現れた。
ぜぶらは話す。
「うん。さっきの話でいや、なんで雪枝の『実験』にひまわりが選ばれなかったか、って話なんだ。が、それは明白だ。雪枝と一緒に住んでいたのはひまわりだけで、色々話を雪枝ちゃんも聞いたんだろう。それでコスモスは『適合』してるが、ひまわりはその身体が汚れていて『不適合』だってのを、知らされていたから、だな」
ぜぶらが言うと、歩み出て近づいてきたひまわりが、頷いた。
「私の身体は、『汚されている』から」
「本人から、説明を聞こうぜ。私も、あんま話したくない。胸くそ悪い話だしな」
そして、ひまわりは、その罪を話しはじめる。
「このガッコウには、麻薬のシンジケートが関与している。直接的には、生活指導のジョー茅根が取り仕切ってそこと掛け合っている。美術部部長の金子ひかしゅーも、そう。これは、さっきぜぶらさんから聞いたでしょ? 『実験』なのよ。しかも、金儲けをしつつの、ね。高原連合という集団が、ガッコウの上位組織にあたる。そして、バックにはあなたのお父さん、もやしばら仁紀が、製造を請け負って存在しているの。私は……私は脅されて、その組織に関与せざるを得なくなった」
ひまわりのその声は、か弱い。ぜぶらは、
「私が説明、続きをこいつに話すか?」
というが、ひまわりは首を横に振る。
「私はあの茅根に犯され、それをビデオに撮られた。それで脅迫されて、麻薬のハブ、ネットワークのノードに組み込まれ、インサートエフェクトのバイヤーをやらされた……。でも、それだけじゃなかった。調子に乗った茅根は、私にこのガッコウの女子を『斡旋』することになった。援助交際と、アダルトビデオの撮影の。ほとんどの人間は、それでもお金を稼ぐためにするんじゃない。ビデオに恥ずかしい場面を撮されたりして脅されて嫌々やるか、ドラッグ中毒にされてするか、……ガッコウの卒業後の進路を紹介してもらうために……する」
ぜぶらがそこで百太に、平然とした声で言う。
「な、生活指導の教師らしいやり口だろ?
なんの指導してるんだって話だよ。撮ったビデオはお前の父親が裏で流して金を儲ける、って寸法だ。お前んとこのクラスの大半の女子がオッサンどものセックスの相手をさせられてるよ。そりゃーお前もスクールカーストの最下層になるって寸法よ、黒幕の息子だもん」
百太は声が出ない。気持ち悪くなってきた。
「穢れているから、私はお姉様のようになれない……」
ひまわりはその場でうずくまって泣き出してしまう。
「私は! 私の人生は否定された! この世界からッ! 私は、私は穢れているのよ!」
そこに容赦なく説明を、ぜぶらは入れはじめる。
「ほら、お前、いきなりこいつにボコられただろう、竹刀で。あれな、……あーっと、んん。この屋上が、セックスする場所のひとつなんだわ」
百太は吐き気がこみ上げてくる。口を手のひらで押さえて吐き気をおさめようとする。
なんなんだ、この現実は。現実ってのは、こんなに気持ち悪いものなのか。
「気持ち悪いのはわかるぜ、銀髪。その銀髪が銀髪になったのは、まーお前が潔癖すぎてこの世から綺麗な形でいなくなりたかったからの、その自殺未遂の名残なのはわかるけどよ」
しゃべり出すぜぶらを遮るようにして、ひまわりは絶叫する。
「あの時も私は、茅根の相手をされていたのッ! そして、ここから見えたの、あなたの姿がッ! 大お姉様の、雪枝お姉様の恋人になっていたこともあるあなたが! 私は、あなたに会いたかったの! でも、拒絶したかったのっ! どうしていいかわからない気持ちだった! だから、茅根の、変態性欲丸出しのスパンキング用の竹刀を持ち出して、それで……それであなたをっ」
百太は言う。
「もういい、お前はもうなにも言うな」
「私は、私はこの世界、この人生から疎外されて、それでも生きているの。もう、もう嫌だ……」
「…………おれは。こう思う。そう決めた」
百太は、しかしこの問題を自分の問題に引き寄せて言う。
「この世界、この人生、全ての人間が自分を否定するならば、おれはただ戦うだけだ。この世界と、それからこの人生と」
百太は深呼吸する。
「おれは、自分を殺す人生を終えたから、次は、誰かを殺すための人生を生きる」
話がかみ合ってなくとも、しかしこの場をまとめるのに、話の整合性はいらなかった。あまりにこの狂気は、深い。
「で、私からサービスとして」
ぜぶらが百太に、話しかけながら、うずくまったひまわりの頭を撫でる。まるで、猫をあやすように。
「コスモスは、お前の親父んとこにいるみてーだぜ。もう、カウントダウンは始まってる。この町の『終末』が、な。行け、百太。終末がお前を待ってるぜ!」
「姫路……さん。あんたは」
「私はこれから、ガッコウを公欠でラジオの生放送。情報提供と私のラジオ出演は、お前のお母さん、月桂冠さんから、多くを負っているってな。まぁ、あとは私の相棒、DJ田所が推理して情報も集めての、この話はその探偵役が請け負うはずの、言ってみりゃその代役ってわけさ。あの野郎は、怪我治って退院したのに、安楽椅子探偵なんぞを気取りやがって。はっ!
ひまわりを一瞬見た百太は、しかし、声をかけないで走り出す。後ろは、振り返らないようにした。ただ、走る。向かうは、もやしばら仁紀、自分の父親の事務所だ。あいつは、今日、来いと言った。なら、対決する気があるってわけだ。逃げることはしないだろう。
百太は屋上の階段を降り、学生鞄を持たずに、下駄箱へ。真っ黒焦げの下駄箱のスニーカーから入れられたカミソリの刃を捨て、履く。ダッシュで坂を降りていく。さっき、屋上に行った時はあんなに寒かったのに、と思う。今は、心臓がばくばくして、全身の血が沸騰しそうだ。とにかく、暑い。熱い。
冬が間近のこの日。全てを決するしかないと、百太は一回も立ち止まらず。休み時間に調べたその場所まで、走った。
☆
泣き顔のコスモスが、その部屋の奥に立っていた。そこから動こうとしない。
コスモスの横、たっぷりと余裕のある椅子に座り、木材の机に頬杖をついているのは、もやしばら仁紀だ。ここまでたどり着いた 百太は睨む、仁紀の蔑むようなその目を。
「来たか。どうやら、かなり『知っている』ようじゃないか」
「ふざけんな! コスモスを解放しろ!」
「解放? ガキが。なにを言ってるんだ? こいつは自分の意志で今、ここにいる」
「てめぇ、どうせ」
「そうだ。話が少しはわかるようになったようだな」
頬杖をつきながら、仁紀は口元を歪めるような笑みを向ける。「こいつは、ひまわりの秘密を漏らされたくない。それで、ここにとどまる。『大鴉』の秘術で自分の記憶が全て飛んでなくなってしまう前に、お前の顔が見たかったんだとさ。だが」
最前百太が入ってきた部屋のドアが開く。百太が振り向くと、そこには、本屋で百太の代わりに戦ってくれた男、田所月天が、釘バットを抱えて入ってきた。
頬杖のまま、仁紀は言う。
「百太。本当に私はお前に失望しているんだ。自殺未遂をするようなバカな息子などいらん。大鴉には、最後に見せてやると言ったのだ、百太、お前の最後を、な。一緒に消えてなくなる恋人か……。傑作だ。月天」
仁紀に頷いた月天は容赦なく百太に釘バットをふるう。一撃目で視界に星が飛び、目の前がブラックアウトしそうになる。だが、百太は声を出さないように歯を食いしばる。コスモスに、悲鳴なんて聞かせられない。
そしてまた一撃が、百太の銅を殴る。走ったまま来たその学生服が破れ、血がにじむ。
更に三発、四発と釘バットを浴びると、釘の効果で肉が削られ、血が吹き出るように傷口を作る。
目が回る百太はしかし、声を出さないで耐える。なにか、なにかないのか、ここの突破口は! おれはこんなことをされるためにここに来たんじゃない。コスモスを助けて、このクソ親父を殺すために、ここに来たんだ! 負けるわけにはいかない!!
百太は、何発も殴打されるうちに、膝から崩れ落ちる。そこに月天は鳩尾に蹴りを入れてから、仁紀に「どうします」と聞く。
「そうだな……。おい百太。お前は美術家になりたいのだったよなぁ。…………なら、芸術家にさせてやるよ」
机の引き出しからナイフを取り出した仁紀は、倒れている百太に近づいてくる。泣いていたコスモスは「やめて!」と叫び、仁紀を止めようとしたが、手ではね飛ばされてしまう。
百太の髪の毛をつかんで顔を持ち上げ、
「ゴッホのようにしてやるよ」
と仁紀はほくそ笑んだ。
仁紀は百太の左耳に、持っているナイフをあてる。そして、ゆっくりと、ステーキを切るように動かしながら、ナイフで百太の耳を切っていく。
さすがに、この痛みに百太は耐えられず絶叫した。もう頭が働かず、百太はその暴力の中で、自分の意志を失っていく。自分にはやはりなんの才能もなく、好きな女の子を助けることすらできず、実の親に惨殺される。これが、こんなどうしようもないものが、人間が生きるリアルなのだ、と思った。百太はその諦念を、悟りだ、と一瞬思った。だが、それは果たして悟りと言えるのか。
仁紀のナイフは耳を削っていく。コスモスは自分の目を両手で覆い、しゃがんで泣いているばかりだ。
最後にどっぷりと血が流れ出て、耳は切断され、仁紀はその百太の左耳を投げ捨てた。
と、そこに、鮮烈な光が部屋を満たした。
それは一瞬だった。仁紀は「まさか、大鴉の秘術が発動したか?」と思ったが、そうではないようだ。そもそも、仁紀にはコスモスの羽は見えない。コスモスのその羽は、月天には見えたのだ。だから、そこから大鴉を、やっと特定できた。なら、月天は、なにかを見たのか? 仁紀は月天を振り向く。しかし、月天はかぶりを振った。その動作をしているうちに、光が何度も部屋を満たす。
フラッシュ。
スピリチュアルなものばかりに気を取られて気づかなかった。そう、これは普通に、カメラのフラッシュだ!!
気づいた仁紀と月天が、窓の方を見る。すると、隣のビルからカメラを構えた人間がいた。少し遠い位置にビルはあるが、たぶんこの様子はばっちり撮影できたことだろう。仁紀は百太の頭とナイフを離して、動くことができない。仁紀は考える。マスコミの操作を、これ以上できるだろうか、と。わからない。いや、しなくてはならない。
焦っていると、耳をそがれた百太が、耳をつんざく叫び声を上げ続け、その声はどんどん大きくなる。
その叫びの絶頂と同時に、部屋のドアが開いた。
カメラのフラッシュの光。
そこには、報道の人間だと一目でわかるフィッシャーズジャケットのような服を着た人間が、しかも三人も立っていて、ドアを開けてすぐ、またフラッシュをこの現場に浴びせた。
もうダメだ、と仁紀は嫌な汗を流した。そしてその汗が頬を伝うのと同時に、鋭い鈍痛が、胸にきた。
仁紀は自分の胸をスローなモーションで見る。胸にはナイフが刺さっていた。刺しているのは、百太だった。
「死ね、クソじじいッッッ」
☆
外国車の後部座席に乗り、どっかりと腰を下ろしている巨躯の人物は、前田組組長、前田である。前田は笑いが止まらない。
「もやしばらがマスコミに感づかれ、その上、あのどら息子に刺された、か。あっはは、こりゃもう奴の力じゃこの局面は乗り越えられまい」
自動車に笑い声がこだまする。前田はこのときを待っていた。もやしばら仁紀の失墜。これで、この高原市は我が前田組の一党支配になる、と。
自動車は走る。受けた電話の内容を噛みしめ勝利の美酒に酔う前田をミラーでちらりと運転手は見たが、無表情のまま運転を続ける。
前田を乗せた車が走っていると、高速度の運転をしている自転車が走ってきて、ほぼ前田の自動車の横を走行している。競技用の自転車だ。前田はその自転車を不快に思った。が、このときの前田は、運転手に自転車を突き放すなどの命令を出さなかった。この自転車に乗った小僧を、自分で怒鳴りたい気分だったのだ。この街に君臨する王としての、自分の威厳を示したかったのだ。前田は窓硝子を開け、横付けで走っている自転車の運転手に怒鳴ろうとした。
が、結果として、それは果たせなかった。
窓硝子を開けた前田に、その自転車の主は、拳銃を突きつけていた。前田は、その小僧の顔に見覚えがあった。
「金子……ひかしゅ……」
発砲音。
その音とほぼ同時に前田の顔は潰れ、脳漿を開いた窓から道路に飛び散らせた。
それと同じく、金子ひかしゅーの、エリートとしての人生も、幕を閉じた。
夕方の空は、秋が終わるこの時期、とても寒くて、そのあかね色が他のどの季節よりも物寂しさを感じさせる。
その物寂しさを、背中に受け、自分の人生の最後にはふさわしい、とジョー茅根は高原高校の屋上で思った。屋上の柵に手を掛け、自分の人生を振り返る。最高だった、と思う。ジョー茅根は、自分の罪も罰も感じない。ただ、ここから『撤退』しようと思っただけだ。その撤退は、とても勇敢なことなのだと、自分に言い聞かせた。茅根は自分がこれまで脅迫して抱いてきた女の身体を、走馬燈のように思い出した。最後に思い出したのは、七咲ひまわりの裸の姿だった。
ひまわりが自分の目の前で泣いている姿をじっくりと思い浮かべて、茅根は屋上から飛び降りた。
落下した先はコンクリートで、助かるわけもなく、絶命した。その死体を町の鴉がついばみはじめた。
☆
「入院中、病院に見舞いに来てもよかったんじゃね?」
とかなんとか百太にぜぶらは言われたが、しかし行かなかったのは、月桂冠から「行くな」と言われたからで、しかし月桂冠から、「あたしのことは言うなよ」ときつい口調で言われたので、そこら辺は口を濁しつつ、なんとか百太をぜぶらはなだめた。
ブックスルーエ。なんとも色々あった場所であるが、今日はここに百太が謝りに行くとのことで、怪我で入院してたのをやっと退院したのと同じ日に、コスモスを連れ立ってやってきて、その二人に何故か同行したぜぶらなのだった。
いや、吃音嬌声という課題のクリアがこれから私の人生に大きく関わってくる、と焦っていたとこだったのだ。しかし、その本を買うのはなー、とずっとためらっていて、だがそんな時に百太から電話があったので、こりゃいい機会だし買うか、となったのである。
あの時、ぜぶらはラジオ局に向かい、百太は仁紀の事務所に向かった。
百太の「誰からもかかってこないケータイ電話」の、その少ない電話帳にあの日、屋上に向かう時、ぜぶらの番号を登録しておいたのだ。そう、『友達』として。そして、その『友達』としての権限を発動した。この高原市を走る百太は。ラジオという、マスコミの力を発動させるべく、ぜぶらの、友達の力を頼って。
元々ぜぶらも、ラジオ局の人間になにかを言おうとは思っていた。が、ことがことだけに、どうしようと思い悩んでいた。が、友達のためなら、という結論に達し、地元FM局の人間に洗いざらいしゃべった。隣にいた月桂冠も、別居中の夫の悪行をしゃべりまくった。話は、この高原市を取り巻くアンダーグラウンドの闇そのものの話になる。これをマスコミが見逃すわけがなかった。ちょうどラジオ局に週刊誌の記者が来ていたのがよかったのかもしれない。この街、殺人事件の真相を、今CLUBで売り出し中のMCがしゃべる。効果はてきめんだった。マスコミがこの話に乗らないわけがない。殺人事件は、ドラッグの売り上げの多くを得ているもやしばら一味にたいしての制裁として、前田組が動いたことに起因していた。しかし、もやしばら一味も高原連合を操って、前田組の下部組織と化した工業高校の人間たちとの代理戦争になっていて、そして今、そのもやしばら仁紀のところから、その息子が恋人を助けに行っている。
百太は、この高原市を闇雲に走ったわけではなく、そして、一人だけで戦ったわけでもなかった。
「君子危うきに近寄らずっつーが、つまりおまえは君子じゃねーってわけだ」
ポケットに手を突っ込んだまま、ぜぶらは百太に言った。
「どういう意味だ、そりゃ」
本屋に工業高校との一件を今更ながら謝った百太は、本屋の軒先で、ぜぶらにそう返した。
「うーん。そのままの意味だと思うぞ、ダーリン」
コスモスが頭を捻りつつ、横やりを入れる。
「結局お前は自殺未遂したり自分の親父さんをナイフで刺したり、やってることが意味わかんねぇって話だ」
「片耳も、もう取れて、ないしな」
なくなった左耳のあった、包帯ぐるぐる巻きの箇所を自分の手のひらで撫でながら、百太は言った。
「そーいう意味じゃねーよ」
ぜぶらは口をとがらせ、そう言って目をそらした。
「おれは鳩なんだ。鳩の羽しか持ってない。でも、鳩の羽でも、この大空は飛べそうだって、わかったんだ」
「お前は、鳩じゃねぇよ」
「うん?」
ぜぶらは言ったが、百太には聞こえなかったらしい。
「じゃーな。私はこれから、本屋で買い物だ。お前らは昼飯を食いに行くんだろ。先に言っとくけど、私はいいぜ。デートを邪魔するほど、鈍感じゃねぇからな」
手を振って、本屋の前でわかれる。
歩いて行く百太とコスモスの背中を見ながら、ぜぶらは誰にでもなく、呟く。
「はぁ。なんたらの秘術とかで天使だか悪魔だかの羽が見えるって、ありゃー嘘だな。それにあいつはモブキャラじゃねーし、鳩でもない」
ぜぶらは、踵を返して、本屋に入る。
「だって、あいつら二人共の背中に、見えんだよ。コスモスちゃんにだけじゃなく、あいつの背中にも、な。見えるんだよ、天使の翼が、さ」
百太とコスモスは手を繋いで歩き去っていき、ぜぶらは夢に向かって邁進する。
「じゃーな。天使さん。その翼で大空へ羽ばたけよ」
冬の風に、コスモスと百太の背中に生えた翼はたなびき、そして輝いた。
<了>
鳥籠のディスクルス