幻視者は座敷の奥で懊悩する

幻視者

 一年生を経験するのは二度目だ。学園の初等部では、友達はいなかった。学園中等部の一年生として僕は進学し。

 二度目の一年生になった。

 失敗は許されない、今度こそは友人をつくろう。

 友達百人できればいいなぁ、と本気で考えた春は過ぎる。自分からは友人をつくれない消極的な性格はそのままだ。

 けれども、学園の中等部の坂に植えてある桜が葉桜になるころ、僕は新しいクラスにも慣れてきた。



 ある日の下校時、学校の坂を友人の滝見沢くんと一緒に下りた。

「秘密を共有しようぜ」

 突然、滝見沢くんは僕にそう言った。

「共有? 秘密って?」

 聞き返してしまう。

「互いの秘密のことを教えあうのさ。例えば、好きなオンナの名前とか、な」

「好きな女の子ねぇ」

 僕は空を見上げて伸びをする。傾いた太陽が黄色く照っている。

「好きな女の子はいないなぁ」

「じゃあ、オトコが好きなのか」

「そういうことじゃなくて」

「ふーん。おれならいいぜ。お前がおれのこと、好きになっても」

「いやだよ、そういうの」

「ま、おれはクラスの女子でなら、井上が好きかな」

 僕は空から顔を滝見沢くんに向けなおす。驚いたからだ。

「井上さん? 井上デリンジャーって言われている、あのひと?」

「そう。聞く耳持たない、一方通行のひと。だから、デリンジャー。弾丸が一発しか入ってない銃の名前をその名に冠す、井上デリンジャーさん」

「渋い趣味しているね……」

「なんか、家の秘密でいいよ。教えろよ。共有だよ、共有。ちょっと前に流行っただろ。メンバー間でいろいろ共有するの」

「僕ら、なにかのメンバーだったの」

「秘密結社の、な。北関東秘密結社の」

「秘密……結社?」

「家族にでも訊いてみろよ、秘密。家の秘密が、あるかもよ」

「家の……秘密かぁ」

「そう。北関東秘密結社の結束は固い。秘密を共有し、守秘する」

「意味あるの、それ」

「さぁな」

 滝見沢くんは坂を下りきったところで、横断歩道の白線の目の前までぴょん、とジャンプして着地し、それから信号のボタンを何度もプッシュした。

「中等部生活、楽しくやろうぜ。今までおれと田村は面識すらなかった。嘘みたいだぜ。とにかく、秘密をおれにだけ教えろ。な?」

 僕は首をかしげる。

「家、反対方向じゃなかったっけ」

「ああ。塾だよ、塾。中等部になったんだ。進学のこと、今から考えなくちゃ。塾が駅前にあるから道はこっち方面」

「へぇ」

「では。また明日な、田村」

「うん。滝見沢くんも、勉強頑張ってね」

 信号機が青に変わると、滝見沢くんは足音を盛大にたてて駅前方面に走っていく。

 僕はその背中を眺めながら、

「勉強……かぁ」

 とつぶやき、なぜか少し泣きそうになった。



          一



 僕の家の奥の部屋では、いつも兄が寝込んでいる。

 年の離れた兄弟で、兄は成人だ。兄は学園を卒業している年齢。でも、働く様子もなく、ただ、毎日、布団にくるまっている。

 両親から、兄のことは他人には漏らさないように言われている。恥ずかしいから、だそうだ。

 これが、秘密といえば秘密なのかもしれない。



 両親は共働き。兄は家にいるが毎日寝ているので、僕は家の中で、いつも独りだ。学園にだって、友達なんてほとんどいない。ひととの話し方と話しかけ方が、僕にはわからないのだ。だから僕に話しかけてきてくれる、親切なひととだけ、僕は会話をすることができる。

 独りきりだから勉強をするかというと、家で勉強はほとんどしない。いつか僕も兄のように寝込んでしまうのではないかと思うと、勉強をする気が失せてしまう。

 なにをするのでもなく、ぼーっとしてみたり、音楽をかけてまんがを読んでみたり、今日も、いつものような時間の過ごし方をした。

僕はサイトで無料のまんがを読むだけじゃなく、少ない知り合いとの会話を成り立たせるために、少しはメジャーな作品も、お金を払って買って読む。僕のお小遣いはそれだけでなくなってしまう。

ゲームをやればゲームの友達ができるけど、余裕はなかった。それは、金銭面だけでなく、心にも。



「夕飯の時間だ。行かなくちゃ」



 奥の部屋のふすまを開ける。部屋には臭気が漂っている。

そのなかに、兄がいる。散乱した物やごみで足の踏み場がほとんどない。

 兄は布団にくるまりながら震えていた。

部屋の空気の悪さはごみを片付けないからだけではなく、換気もしないし、兄がお風呂にも入らないでこの部屋で一日中過ごしているせいだ。

 僕はなにも話しかけずに、おぼんに載せた食事を置くと、ふすまを閉めて部屋を出ていく。

 大きく深呼吸してから、自分の部屋に戻る。



「家の秘密……」

 ベッドに寝転がる。

「勉強も、しないとなぁ」



 ちょっと重いのではないか、と思ったので、兄のことは滝見沢くんに言わない。北関東なんとか結社には悪いけど、共有してどうするのだろう、こんなことを。

 僕は家の、ひとに言えるような秘密を聞こうと、両親の帰りを待つ。ひとに言えるようなことは秘密の範疇に入るのだろうか。むずかしい問題だ。



          二



 次の日の帰り道。僕が学園の坂を下っていると、だれかが走ってきて、背中にぶつかってきた。体勢を立て直して振り向く。滝見沢くんだった。

「秘密。あったか?」

 僕は頷き、昨日、お母さんに聞いた話をした。

「僕の家には槍や刀がたくさんある。それというのも、昔からそこに住んでいる古い家柄だからだそうだよ」

 滝見沢くんは、

「槍や刀かぁ」

と目を細めながらつぶやいて、それから、

「なに。自慢か?」

 と、吐き捨てるように言った。

「そういうつもりじゃないよ」

「へぇ。田村の家が旧家か。嘘だろ、それ」

「わからない」

「わからないって、なに」

「槍や刀は本当にあるよ」

「じゃあ、今度見せろよ」

 僕は躊躇した。

 家の奥の部屋には、兄がいる。“見せてはならないひと”がいるのだ。

「なんだよ、田村。目が泳いでいるぞ。見せろよ」

 息をのんで、

「いいよ。遊びにおいでよ」

 と僕は笑顔を作って滝見沢くんと約束を交わした。

 家にお客さんを呼ぶのは初めてだ。

「塾は夕方からだし、日曜日の昼に、田村の家にお邪魔することにするよ」

 日時が勝手に指定されたが、僕は、

「いいよ」

 と返事していた。困るのだけどな、とは言えなかった。

 親は日曜日も働いている。

 だから日曜日の昼間は僕が留守番をしている。兄が、暴れないように。

「楽しみだな」

 滝見沢くんは今日も信号機のボタンを連打して、それから駅前のほうに向かっていく。

 僕は日曜日のことを思うと不安でいっぱいになった。

「目が泳ぐの、当たり前だよ」

 雨が降りそうだった。

 僕は速足で家に帰る。



          三



 僕の頭は、幼い。勉強ができないこともあるけれど、他人の気持ちがわからないという意味でも、僕は全然成長していない。背は伸びてきているけれども、心はどんどんひとに追い越されていく。空気を読めないと、人の輪の中に入っていけないのに、だ。

 帰宅部を選んだのは、中等部進学直後に入った部活動で、僕だけ仲間外れにされたからだ。部活内では、まんがや小説を回し読みしているらしかったのだけれども、僕には全く本を貸してくれない。仕方ないから、違う本を買ったり図書館で借りたりして読んでいたら、話題が合わずに孤立が深まった。

 僕が退部届を出したのは、部活が得意じゃなかったのだけが理由ではなかった。

 それからの僕は、あまり共感できないものでも、有名な連載まんがはある程度読むようにした。部活仲間もいないで、勉強もできず、社交的ではない僕には、なにかしらひととの接点が必要だったのだ。まんがが接点になるかというと、そうとも言えないことも多かったけど、ほかに趣味があるわけでもない。まんがを読んでいることで、それが接点になる可能性があった。まんがのおかげでどうにか僕はひとと会話をすることができる機会があったのだった。

 クラスにはいろんなひとがいて、グループがいくつもできていた。ひとはグループをつくるものだ。そこからはみ出すのが怖いからグループをつくり、それを維持するのかもしれない。僕は話しかけられたら話をするけど、自分からどこかのグループに入ることなかった。

 滝見沢くんの言っていた北関東秘密結社という組織は、本当にあるのかどうか疑わしく、滝見沢くんはクラスで一番大きいグループに所属する、そのなかでどちらかというと目立たない存在だった。

でも、そんなことどうでもいいと、僕は知らぬふりを装って、毎日を過ごす。心の発達も勉強も全部、みんなに追い越されていく自分を、平常に保つために。

心のセンサーを敏感にして、気を遣いあわないとならないグループなんて僕には向いていない、とはだれにも打ち明けられないし、それにだれも、僕のことなんて心配していなかった。いてもいなくてもいいし、できればいないほうがいい存在だった。

休み時間に耳を澄ますと、ひそひそ話で、僕を気味悪がる、悪口を言っているのが聞こえてくる。僕の心がそう思っているだけで本当は言われていないのかもしれない。けど、真相なんて、どうでもよかった。僕がそう思って余計と神経をすり減らすのが一番問題だった。部活の仲間外れのときのことが、いまだに傷跡を残しているのだろう。他人にとってはくだらないことでも、僕には後遺症を残すほどの傷口だったのだ。



 呪詛を吐かないようにしよう。

 日曜日には、家に遊びに来るひとがいるのだ。おなかは痛くなるけど、仲良くなれれば、きっといいことがあるはずだ。おなかが痛くなるのは我慢だ。

 クラスにも慣れてきたのだ。

 次は。

 僕は、承認されたい。おこがましいかな。

 僕の承認欲求は、友達ができればきっと少しは満たされる。

 だから。僕は。

 呪詛を吐かないようにしよう。



          四



「秘密結社的には、槍や刀というのは、非常に興奮する」

 学園の坂の下で待ち合わせをした僕と滝見沢くんは、コンビニに寄ってから、僕の住んでいる家に向かう。家には客人に出すものはなにもないので、滝見沢くんがコンビニでお菓子やお茶を買っていたのは、都合がよかった。

 日曜日の今日、家に友達を呼ぶことは両親には内緒にしていた。連れてくるな、と叱られるのは目に見えていたからだ。

「槍って、長いのか」

「長いよ」

 コンビニ袋を提げて、歩く。コンビニから三分くらいで、僕の家に到着した。

「小さくて、古い家だな」

「うん」

「槍や刀を飾るスペースはあるのか」

「とにかく、入りなよ」

「そうだな。お邪魔します」

 中に入って、滝見沢くんが靴を脱いでスリッパに履き替えたところで、

「ようこそ、僕の家へ」

 と、僕は言った。



 僕の部屋でしばらく話をして過ごす。僕は手のひらに汗がびっしょりだった。緊張。会話が続かなくなったらどうしよう、とそれだけ考えていた。

「平屋建てなんだな。珍しい」

 だから、忘れていたのだ。

この家の奥にある部屋のことを。

「この平屋の奥、どうなってんの。廊下に格子が嵌って先に進めなくなってあるけど。その奥には、なにがあるんだ」

 探検~、探検~、と適当な節をつけて歌いながら僕の部屋を出て、滝見沢くんは家の最奥へと向かう。



 日のささない、奥の方へ滝見沢くんが行ってしまい、僕が追いかけたとき。

 家の奥の方で、なにかものを投げて、壁にぶつかった音が廊下に響く。

 音のした、木製の格子の先、閉じたふすまの方を、滝見沢くんは目を見開いて凝視する。

「誰か、いるのか。あの奥に……」

 兄の部屋の扉であるふすまを、見る。

「あの奥はなんだ……」

 滝見沢くんの声に被るかのように、大きな怒鳴り声がする。ふすまの奥にある、部屋からだ。

「黙れくそがっ! 頭の中に入り込みやがって! 心の声を聴いて、その醜さに笑い声を立てる本当の豚野郎が。おれのことをさんざん豚だのデブだの罵るが、本当に醜いのはお前らなんだよ! 豚まん!」

「おい……、なんだ、これ」

「聞かないで!」

 思わず背後から手で滝見沢くんの両耳をふさぐ。

 その手を、滝見沢くんは振りほどいて、口元を釣り上げて喜ぶ。

「すげぇじゃん! 格子が嵌ってると思ったら、あのふすまの奥、ゴリラでも飼ってるのかよ」

「そ、そうじゃないんだ。見ないで」

「なに言っている、田村。こんな見世物、独占するなんてずるいぞ」

「ごめん、滝見沢くん!」

 僕は格子のすぐそば、壁付けになっている警報装置を押した。

 ビー、というビープ音が鳴って、警報装置が赤く点滅する。

 これは兄が騒いだときのための警報装置だ。数分で警備会社のひとが来る。

 格子が廊下に嵌っているのは見つかったら人権問題に関わりそうだが、僕にはよくわからない。警備会社のひとは、定期的にメンテナンスをしにやってくるが、今まで特に問題は生じなかった。

 ビープ音と、やってきた二人組の屈強な警備員の剣幕に圧倒され、滝見沢くんはその場で立ちすくんだ。

「ごめん。帰って」

「おれも豚まんってことかよ」

「ごめん」

 両脇に警備員がいる僕は、少し強気に、ごめん、と声を大きく出して、それから頭を下げた。



 滝見沢くんが帰ったあと、僕は自分の部屋で泣き、それから夜になって、両親に怒られてまた泣いた。



          五



 月曜日、学校に行くのがとても嫌だった。空はどんよりと灰色がかっていて、カラスが飛んでいるのが、いつものことなのに気になってしまう。カラスが電線の上から僕を見下ろし、僕はうつむく。学校の坂を上り、校門をくぐる。ひとの視線を感じる。誰も気にしてなんかしていない。そう、言い聞かせる。

 昇降口の靴箱に手をかけると、その腕の手首をつかまれる。強い力がこもっていた。

「滝見沢くん」

「おい、豚まんゴリラ。昨日のあれは、ないんじゃないか」

「昨日の?」

「警報機のことだ」

 僕は黙った。

「殺すぞ」

 滝見沢くんは腕を振ってつかんだ僕の手首を離す。僕の腕が勢いよく、振りほどかれた。つかまれた手首が、赤く痕をつくった。

 振りほどかれて体勢を崩した僕は、転ばないように、足に力を入れて、態勢を整えようとする。少しふらついてしまい靴箱に手を置いた。振りほどかれ体勢を崩したからだけじゃなく、きっと眩暈のせいもある。頭に血がうまくまわっていないみたいだ。

 滝見沢くんが一発、僕の左頬を殴ると、僕は靴箱に背中からぶつかって、その場で倒れ、へたりこんだ。

 起き上がれない。起き上がりたくもなかった。

 滝見沢くんは去っていく。教室に向かうのだろう。

 ほかの生徒たちが倒れたままの僕を見下ろしている。誰も声をかけない。冷笑しているひともいる。

 しばらくすると昇降口には誰もいなくなって、予鈴が鳴る。

「クラスにも馴染めたはずなのに……」

 僕は起き上がると、靴から上履きに履き替えて、教室へ、ゆっくりと歩きだす。

 クラスではホームルームが始まっていた。

 誰もなにも言わず、こっちを見ている。僕が席に着くと、みんなの視線は壇上の担任教師に向かう。担任も、僕に注意をすることをしない。

 僕は机に伏せて顔を隠し、教師の話し声をうわの空で聞く。

 休み時間になるとやっぱり悪口を言われているような気持ちが再発する。

「……黙ろう」

 机に突っ伏して、その日は半日を過ごした。

 誰も僕に声をかけない。

 昼休み。給食の前に、僕はカバンを持って学園の外に出た。

 こんな日にクラスみんなでご飯を食べるなんて、気持ち悪かった。



          六



「恥を知れ! 恥を!」

 外に出たら教師に捕まった。学園に戻された僕は担任に怒鳴られた。

「僕には居場所がない」

 体育館の準備室。ここにはほかに誰もいない。だから、ここで説教を受けることになったのだろう。

「立派な家に住んでご両親も健在じゃないか! クラスには友達もいるだろう? いったいなにが不満だというのだ!」

 担任は、生徒指導の教師でもある。

「不満だらけですよ!」

 僕も叫び返してしまった。

「おまえは駄々をこねているだけだ」

「世の中には不幸なひとがいっぱいいる、って言うのでしょう。僕の問題なんてちっぽけだって。そんな考え方じゃ大人になって社会に出ることなんてできないって!」

「おいおい。そんなこと一言もおれは言ってないぞ」

「じゃあ、なんだって言うのですか」

「授業には出ろ。それすらわからないのか」

「……わからない。僕にはわからない」

「なんだと?」

「わからないって言っているんですよ!」

 僕の成績は低い。どんどんみんなに追い付かなくなっていく。

 中等部の勉強過程自体に、ついていけなくなってきているようだった。



「僕にはわからないっ!」



 視界が赤と黒色に染まる。動物の内臓の中のような景色が広がる。

 そのなかで担任は骸骨になって、あご骨をがくがく上下させている。笑っているのだろう。

 骸骨には眼球だけがついていて、僕に視線を合わせてきて、それがこのうえなく気持ち悪い。

「現実はグロテスクだ。外面も、中身も。その魂さえもが!」

 僕が叫ぶと、臓物の景色が脈打つように揺らいだ。

 あひゃひゃひゃひゃひゃ。

 骸骨は笑う。骸骨は僕に、

「笑うな」

と喋り、自分では笑いながら腹を抱える。

 僕は笑ってなんかいない。

 笑っているのはこいつだ。

 だが、僕が笑っている、と主張する。逃げている、と笑う。

 揺らいだ景色に、陽炎のようなモヤモヤが立ち現れて、それが滝見沢くんの骸骨のかたちを形成する。

「ゴリラ。おまえはゴリラだ。鎖につながれて、格子の嵌ったあのふすまの奥にいるのはお前だ。言いふらそう、言いふらそう。みんなに教えてやる。頭の悪いお前には最大限の罰を。すべてはお前がバカなのが悪いのだ。みんなが勉強を必死に頑張っているのに、お前は自分に甘えて、〈なにか〉のせいにする。そう、あのふすまの奥の。今にわかるぞ。お前は社会には出られない人間になる。年齢だけ大人になって、身動き取れずに死んでいくだろう。ざまぁみろ」

「やめろ! それ以上言うな!」

「やめないよ。これは〈事実〉だ!」

 哄笑。哄笑。

 笑い声が臓物の部屋に響く。臓物である壁面も地面も、ぐにゃぐにゃと気持ち悪い音を立てて蠕動する。

 僕は走って逃げだした。悲鳴を上げていたかもしれない。

 逃げても逃げても、それは地獄のような場で、僕は餓鬼のような有様で。



 自分の家らしきところに着いて、カギを開けて中に入る。

 台所で蛇口をひねると血の色をした水が出る。僕はそれをコップで一気に飲み干してから自分の部屋に戻って、ベッドに潜った。



 ……僕の心象風景は、乱れ切っている。



          七



 嵌った格子の錠前を開けて、一歩踏み込む。

 兄用のトイレを横切り、ふすまの前に立つ。



「話があるんだ、兄さん」

 僕はふすまを開ける。



          *****



 散乱した物やごみが、命を吹き込まれたかのように、波打ち、脈動する。大量の蟲がうごめいている幻視。部屋の正面には掛け時計。ダリの描いた目玉焼き型の時計に、見えてくるから不思議だ。

 内臓色に見える風景は変わらず、その中に、肉の布団をかぶったままこちらを見つめている、兄の姿があった。

「おれに、話か。どうした、幻視をするようにでもなったか」

「どうしてそれが」

「目が泳いでいるぞ。今にも白目を剥きそうにしているじゃないか。もともと、ここは通常空間ではないからな」

「通常空間では、ない?」

「カクリヨさ。ウツシヨとは、違う」

「僕も兄さんのようになってしまうのかな」

 兄さんは被った肉の布団から、頭部を出した。

「ならない」

「どうして」

「聞きに来たからさ。幻視をするほど、お前が他人にとって目障りな存在になっている、とでも言いたそうだぞ。心が疲れているから幻視する。だが、心が汚れているかどうかは、社会が決める」

「社会が決める?」

「そうだ。社会が、適応者と不適応者を分別する。燃えるごみと燃えないごみのように、な。おれに話を聞きたいとは、つまりは」

「そうだよ。僕は兄さんのようにはなりたくない。二の舞はごめんだ」

「おれも二番煎じをされちゃぁ、困る。食事を運んでくれる人間がいなくなってしまう」

「そうだね」

 僕の足元で多くの蟲が、くるくる回っている。今にも足から這い上がってきそうだ。

臭気はきつく、そして兄さんは始終、ぶつぶつ口を動かしていて、唇が渇くのか、たまに唇を自分の舌で舐めて潤す、という行為をしている。

兄さんが、手を伸ばして、僕を人差し指で、指す。

「お前には本当は、欲望があまりないのだ。だから、他人の欲望に取り込まれる。結果、自分を見失ってしまうのだ。自分の道が、ないのだ。その歳になっても、な」

芝居がかった兄の口調はスロウペースで、声の質はハスキーだ。誰とも会わない生活をしているとは思えない。僕は兄がこんな風に喋ることもできる人間だとは、思いもよらなかった。

「話をするならば、おれはおれの話をしよう。とある引きこもりの幻視者の、だれも聞きたがらない半生の話だ。なぁに。短い話さ」

 まるで初対面であるかのような距離感で、僕らは可笑しな風景に彩られた、嵌った格子の先の最奥部で、会話をしている。

「学校のテストで百点を取れないやつは小説なんて書くな」

 兄が抑揚をつけないで、台本の棒読み風に、言う。

「テストで百点じゃないと、小説は書けない?」

「おれが昔、お前と同じくらいの年齢だったときに言われた言葉だ。すべてはその一文に尽きる」

「それくらい、重要なことだったの」

「そうだ。どんなものでもいいが、『専門性』を身に着けないやつは、仕事のできない人間であり、また、趣味の分野でも、発言する資格がない。それが現実だ。百点を取れる人間じゃなければ、書物なんていう〈知識をひとに教える〉ものや〈ツボを押さえて気持ち良くさせる〉ものはつくれない。もちろん、書物とは、それだけのものではないが。だが、本の多様性とは、無知からは生みだせない。無知の知というのがあるが、あれは無知であるということではないし、な」

「勉強をしても、だんだんとみんなに追い付かなくなっていくんだ」

「お前は本来、落ち着いたタイプの人間ではない。むしろ、そわそわして興味がころころ変わって結局なにもかもが中途半端で終わるタイプだ。タイプ、で片づけないのが今の世の中の流れなのだが、それをここで言ったところで、なにが変わるわけでもない。勉強も、する気が起きないのだろう?」

「そうなんだ。勉強ができないし、勉強をしても、理解ができないことが増えていく」

「理解するまで勉強しろ、と言っても無駄そうだな。理解するまでやっても、人並み以下である可能性は高いだろう。だとしても、勉強を〈する〉ことをあきらめてはならない」

「兄さんは。あきらめたんだろ」

「いい質問だ。さて、すべてをあきらめた人間が家から出られないように格子の檻のなかに閉じ込められている、と思うか?」

 兄さんは天井から釣り下がった電灯のスイッチの紐を見る。紐に括り付けてあるのは、パソコンゲームの有名なキャラクターだ。いったい、いつのものなのだろう。制服を着ている猫型をしたキャラクターのそのぬいぐるみは、ぶら下がりながら電灯の光を浴びて、色あせながらもゆらゆら揺れている。

「あきらめるのと、あきらめさせられるのは、似ているようでいて、全く違う。当事者にとっては、な。なんでおれが“ひとさまにお見せできない人間”なのか、わかるか」

 布団にいつもくるまっている、年の離れた兄弟である、兄。彼はもう成人で、だが、一歩も外に出られないようになっていて。

「幻聴が聞こえてくるのだよ。そして、疲れると幻視者となる」

「こころの問題なの」

「幻聴も幻視も、〈社会生活に問題がある〉から〈問題〉なのだ。〈誰か〉に不適合に〈された〉とおれが感じても、悪いのは不適合者である、おれの方なのだ。だからお前も、その〈誰か〉に気をつけろ」

「誰か、って?」

「さぁな。その誰かが誰かはわからないし、独りかもしれないし複数かもしれない。時間差で現れる、互いには接点のない人間かもしれない。それは当事者にしかわからないことが多いものだ」

「防ぎようがないんじゃないの」

「防げないな」

「じゃあ、どうすれば」

「お前は今までなにをしていた。おれのところに毎食、食事を運んでいただろう」

「うん」

「おれに話を聞きに来るなんて、世間様におびえて立ちすくんでいるかのようにみえるが、実は〈やり過ごせば終わるだろう〉と思ってはいないか。時間が解決することもあるが、問題というものの多くは時間によってはその量が累積していくのだ。やり過ごすことは、できない。だからやめろ、〈やり過ごせば終わるだろう〉という、その発想は。警報機が鳴っただろ。あれがもしかしてなにかのきっかけだったのかもしれないが、そうだとしたら残念だ。こんなゴシップネタ、喜ばないほうがおかしい。事実の隠ぺいはむずかしいものだ。事実が闇の中に消えるのは、真相が究明できなかったか圧力があるかなど、それなりの理由がある。おれが閉じ込められているなんて、薄っぺらな事実でしかない。そこには大した真相なんて潜んでいやしない」

「どうしよう」

「お前、本当は欲望があまりないのではないか。劣等感があっても、それを昇華させるなり、解消させるなりを、する気がない風にしか見えない。本気さが足りない。考えてみろ。自分で外的なものごとをコントロールしたいと思ったことはないのか。今だってそうだ。自分の内的な問題で終わることじゃないだろう」

「それはどういう……」

「他人をコントロールしたいと思わないのか。言い換えれば、『利権』が欲しくないのか。そうした感情で劣等感を開放してやりたいとは思わないのか。そう、訊いているのだ」

「わからない」

「わからない、を連発するやつだな、お前は。また、おれの話に戻ろう」

「そうしてくれると助かる」

「ある種のタイプの人間は、憎い奴の足をわざと引っ張る。相手の足をつかんで引っ張ったら、そのままそいつを崖に突き落とすのだ。そして、自分が相対的にのし上がることになる。「おれは〈学校のテストで百点を取れないやつは小説なんて書くな〉の呪いに潰された。悪意が感染した。悪意の感染後は、おれも崖から突き落とす人間になりそうになったし、なにより汚い言葉しか書けなくなった。〈文字〉通り、潰された人間がおれなのだ」

「小説家になりたかったの?」

「ライター。書く人間。スペルは違うが、火をつけるライターにも、ライターという言葉は通じている。風変わりだが、コトダマだな。おれはライターで、火をおこすパイロキネシス能力者だ」

 僕は話についていけなくなってきている。

 それを察したのか、話を途中で切り上げるようにして、掛け布団をかぶったまま、兄さんはその場で立ち上がった。

 立ち上がってから兄さんは、かぶっていた掛け布団を僕に投げる。

 頭に覆いかぶさった布団で、僕の視界は真っ暗になった。

「ちょっと。なにす……、んん?」



 僕が掛け布団を押しのけると同時に、兄さんは僕の右肩に噛り付いた。

 兄さんの歯が僕の肩に食い込む。

 兄さんが肩の肉を服ごと、引きちぎる。人間の技とは思えない。

 僕は痛くて悲鳴を上げる。足がもつれるのを、必死にこらえて、立ちながら兄さんを見る。

 兄さんは部屋から外に出て、錠前の開いた格子からも外に出た。

 おかしい。引きこもりには違いないはずなんだけど、こんな兄は、物心ついてから、初めてみた。

 母の言葉が、頭に浮かぶ。

「あの子はね、うちの恥さらしものなのよ」

 父が言ったことも、そこに重なる。

「世間様に、お見せできるような人間じゃないんだ、あいつは」

 ……だから、家の奥につながれていたのだ。

 僕は肉がちぎれて出血している肩を押さえながら、もう片方の手で警報機のボタンを押した。ビー、というビープ音が鳴って、警報機は点滅した。

 警備会社のひとが来る前に、兄を追うのだ。

 僕は床に血を滴らせながら、走って追いかける。

 兄さんはたぶん、玄関から外に出るはずだ。

 ところどころで転びそうになりながら、僕は廊下を走り、玄関で靴を履く。兄さんは、父のカジュアル用の靴を履いて出ていったようだ。

 玄関を開けると、血がぽたぽたと垂れていて道を教えてくれる。僕の肩を噛みちぎったときの血が滴っているのだ。

僕は急ぐ。どうにもならないかもしれないけど、それでも、どうにかならないと決まったわけではない。

今日は僕が、兄さんの話を聞きに、格子の中に入ったのだ。責任は、僕にある。

街路樹の植わった大通りに出る。

そこで、不思議な光景を見る。

兄さんが手の人差し指から炎をだして、滝見沢くんに向けてその火の玉を飛ばしていた。

滝見沢くんはそれを避ける。流れ弾の火の玉は街路樹の一本に命中し、燃えだした。

僕の幻視は、いつの間にかこんな光景まで見せるようになったのか。

滝見沢くんが僕に気づく。

「田村。お前はおれの敵だ。この〈ゴリラ〉の飼い主であるお前は、躾もできないようだからな。おれがお灸をすえてやるよ。北関東秘密結社の叡智を見よ」

 言っている意味がわからない。

 状況もわからない。

 なんだ、これ。



          八



 血飛沫。

 それは滝見沢くんの身体から一気にあふれ出た。

 まるで見えないピアノ線でぐるぐると巻かれて、きつく締められたところから一斉に迸ったみたいな飛沫だった。

 怖さに鳥肌を立てていると、僕の背後から女性の声がする。聞いたことのある、静かな声だ。

「わたしには因果の線が見える。因果を辿って、彼の悪果から悪因を手繰り寄せて弾けさせたわ」

 クラスメイトの井上さんだった。

 別名、井上デリンジャー。

 線とか手繰り寄せるとか言っているし、銃であるデリンジャーじゃなくて、糸みたいなものを使うのか。やはり、兄と同じ、能力者なのだろう。



「おれはクラスの女子でなら、井上が好きかな」

「井上さん? 井上デリンジャーって言われている、あのひと?」

「そう。聞く耳持たない、一方通行のひと。だから、デリンジャー。弾丸が一発しか入ってない銃の名前をその名に冠す、井上デリンジャーさん」

「渋い趣味しているね……」



 滝見沢くんとの会話を思い出す。

 滝見沢くんは井上さんが好きだ、と宣言していた。が、玉砕した。今、血を噴き出して。

 井上さんは、僕の真横にすっと寄ってきて、耳元で、

「あなたも北関東秘密結社のものですか。それとも、〈ゴリラ〉の賛同者?」

 と囁く。

 兄さんがこっちを見て、

「離れろ、魔女! 弟から離れないと噛みちぎるぞ、いろんなところを、な!」

 と、井上さんに怒鳴る。

「具体的には?」

 静かな声で、井上さんは兄に質問で返す。

「あの、あれだ、えーと、で、デリケートな部分……とか?」

「セクハラの罪で殺しますよ」

 どうやらセクハラで殺す、殺される、の時代が到来していたらしい。

 体中が血だらけの滝見沢くんが体を折って口から血を吐き、それからゆっくりと立ち上がる。

「ちょっと待て! おれはまだ生きているぞ! 井上さんが魔女とは、くそ! それよりも、だ。田村! お前はおれの敵だ。〈ゴリラ〉は敵だし、井上さんも魔女だから敵だ。敵の味方も敵の敵も、全部おれの敵だ! いや、待て。敵でも味方でも、やっぱりどうでもよかった、お前はおれの敵だ!」

 錯乱したことを言うのを最後にして、滝見沢くんの全身から血がまた、大量に噴き出して、自分でつくった血の池に倒れ、そして果てた。

「目ざわりなのもまた、セクハラ認定されないとなりません」

 目ざわりだとセクハラ認定が必要な時代が到来しているのか。僕にはついていけない世の中になったのだな。

 感心していると、兄が火の玉を生成して、こっちに投げ飛ばしてきた。

「〈火きこもり〉の計だ、食らえ!」

 僕は飛び跳ねて逃げる。

 井上さんはその場に立ったままで、火の玉をずたずたに引き裂いた。

「言ったでしょう。わたしには、因果の線が見える……、と」

 兄が僕のそばに来る。井上さんは飛びのいて距離を取った。

 兄が僕に向かって言う。

「これが、〈幻視者〉の世界だ」

「幻視者の、……世界」

「もうじき警備会社の人間が来る。だが、今度こそ逃げだしてやる。お前に語った話で言えば、おれを社会不適合者にさせた〈誰か〉を殺すために、外の世界に出る。引きこもっていた間にいろいろ考えたよ。なにしろ、〈幻視者〉はその特性上、言語野や認知に影響を及ぼす魔力を身に宿しているからな。布団に潜ったまま、朽ち果てるかと思ったぜ。じゃあな!」

「待ちなさい! セクハラゴリラ!」



          *****



 僕は悟った。勉強ができなくても、違うやり方の世界があるのではないか、と。

 なんで『なにか』ができないとならないのか。

 なにかができるひとと、なにかができないひと。

 閉じ込められていた家の中の世界で、兄は役立たずの、世間様にお見せするのが恥ずかしい人間だ、と言われていた。

 しかし、世界が変わると、火の玉を指から出したり、ひとの肩の肉を噛みちぎったりするような人間で、それは通常の世界の常識とルールに反するけど、無能力だというわけではなく、そういう世界でそういう世界のひとたちと戦いをしている人間に様変わりするというだけの話なのだ。

 要するに、生きていく環境が変わると、役に立ったり、役立たずになったりするということだ。もちろん、役立たずの環境下で頑張らなければならないことも多いだろう。でも、その場所で役に立たないからって、自分にはなにもできないと、嘆く必要性はないのだ。

「テストで百点を取れないやつが小説を書くな」……か。僕が生きている場所では、テストは赤点だけど、それでも、僕はなにかをするだろう。

なにをするにしても、百点じゃないやつは手を出すな、と嘲られる。それでも、なにかをして、嘲られても嘆くことはしないで生きていこう。

嫌われていることが嫌でも、それは些細な問題なのだ。世界中で誰一人として味方する者がおらず自分を憎しみ、蔑んでいると、だれが言えようか。たまたま生まれて、育った環境がそういう風だという、それだけの問題なのだから。



考えていたら、警備会社のひとも出動してきた。捕り物帖が始まるのだろうけど、僕の話はいったん、ここでおしまいだ。捕り物帖は任せて、僕は僕のこれからを考え、行動を起こそう。ずっと機会を待っていた兄さんのように。



          〈了〉

幻視者は座敷の奥で懊悩する

幻視者は座敷の奥で懊悩する

どこにでもある話だよ。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • 成人向け
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2025-08-09

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