天沼サニーサイドインサニティ
2010年代に書いたpdfからサルベージ。猛者だけ読んでくれ。
サイダーみたいに弾ける妄想。
嘘だと思われるかもしれないが、おれは昔、アイドルと友達だった。
七海茄子 (ななみなすび) は神社の手水で口をすすぎながら回想する。 天沼神社の境内、
日はもう、暮れ始めている。
今をときめくアイドルがまだ小学生だった頃、そいつ、由比ヶ浜ユユは、おれの唯一の
友達だった。と、七海は思い出しながら、境内の中の弁天池に、歩を進めた。
なんであいつは、すぐに夢を捨ててアイドルを辞めるとか、そんな話になってるんだろ
う。あんなに熱く
、アイドルを志願してたあいつが。
汗ばんだ手に持っている、 週刊誌に力を込めると、 週刊誌はぐにゃりと歪んだ。 七海は、
今日十二回目のため息をこぼした。
夕暮れの空に、鴉が鳴いている。弁天池には、赤色の鯉が口を開け、こちらを覗いてい
る。七海は池のそばの苔むした大きな石に、腰を下ろす。
三月。まだ日が沈むのは早く
、肌寒い。
石に座って弁天池に向かって、七海は手を広げる。すると、七海の動作に反応して、小
池の鯉が水面に浮き顔を覗かせ口を突き出しぱくぱくするのだが、手を下ろし、しばらく
すると、水面に戻る。
水面にもどったところで、七海はまた、手を挙げる。すると、また鯉たちが顔を覗かせ
る。鯉たちは、七海が餌をくれるのだと勘違いをしているのだ。七海はげらげら笑って、
手を挙げ下げする動作を繰り返す。鯉たちは、めげずに餌を貰おうと必死になっている。
しばらくその動作を繰り返していると、背後から七海は頭を小突かれた。
振り向くと、この天沼神社の娘で巫女さんの、甘夏杏樹だった。
「なーに笑いながら阿呆なことをやっておるのだ、この馬鹿たれ」
口をぷっくりと膨らませ、杏樹は腰に手を当て、お怒りモードだった。
「ん? 茄子、お前珍しいな、おっさんくさい週刊誌なんぞ片手に持って」
不思議そうに言う杏樹は七海が手に握っている週刊誌に指を指す。
「あ……ああ」
「どれどれ、見せてみろ。もちろん袋とじのグラビアを、という意味だが」
「見せねーよ」
「いいからいいから悪いようにはせぬ」
「やだったら」
「ほーれほれ」
杏樹が迫ってきて、立ち上がった七海は、週刊誌を背中の方に回し、ブロックする。
が、杏樹はぴったりと七海にくっついてきて週刊誌を取ろうとする。
「ちょっ、ちょっとなぁ、杏樹。どさくさに紛れてどこを触ってるんだこの変態」
「どこって、おしりだよおしり。男だし、恥ずかしくはないだろう」
「すっげ恥ずかし……ああ!」
杏樹は週刊誌を奪い取り、その手に掲げる。 「取った!」という勝利のポーズである。
が、そこでバランスを崩し、片足を挙げたままで体制を崩した七海は、ふらふらとして
しまい、体勢整わぬまま、池に落下した。
水しぶきと大きな音を立て弁天池に落ちた七海は、全身ずっぽりと水の中。
しばらくばたばた手足を動かしたが、池の中は浅く
、すぐに池の中から、顔を出す。
- 1 -
「てっめ、このバカ巫女」
「バチが当たったんじゃ、このエロガキ」
「どっちがエロだよ」
「私のような美少女と身体が密着してたから、さぞかし気分が良かったろうに、隠さんで
もいいぞ。鯉に食われないでよかったな」
「ぶっ殺す」
跳ね上がるように池の外に上がってくる七海だが、全身びしょ濡れで、怒る気力はすぐ
になくなる。
七海がくしゃみをすると、
「ほれ、社務所で暖にあたれ。風邪引くぞ」
と、原因は自分にもあるということを微妙に隠しつつも優しい言葉をかける、巫女の甘
夏杏樹である。
「なーんちゃって。てぇい!」
「ぬおっ」
どぼーん、という池に落ちる音。
優しい言葉で安心したのもつかの間、杏樹の手に押されて、弁天池にまたしてもダイブ
してしまう七海なのだった。
社務所。つまり神社の事務用の部屋に連れられていった七海茄子は、甘夏杏樹のススメ
により、 ここの乾燥機で池に落ちて濡れた服を乾かすことになった。 乾かしてる間の服は、
神主さんのものを着ることにした。
畳敷きの六畳ほどの部屋は、狭い。出された座布団に七海は、事務用椅子に腰を下ろし
た杏樹を見上げるように見る。椅子を反対向きに座り、巫女服のまま背もたれに覆い被さ
るかたちに座り、ゆらゆら身体を動かしており、その仕草が子供っぽい。
「そう。お前は子供っぽい」
「なにをいきなり。子供っぽくないぞ」
「はしたなく脚を広げて背もたれの両サイドから出してるってこの格好はガキっぽいだろ
う」
「が、
……ガキっぽい女の子は、
…………嫌いか?」
「はぁ?」
そこで杏樹は咳払いを一つ。
「え、まあ、そのことはわからないならもうよい。それより、せっかく私が出した茶を飲
まんとは。罰が当たるぞ」
「そんなことで罰が当たってたまるか」
「黙れ。飲め」
「へいへい」
最前杏樹が運んできた湯飲みを手に持つ。
「お。どうやら茶柱が……」
「おお、立ったか?」
「立つわけなかった!!」
- 2 -
「もういいからとっとと飲め」
なんでそんなに茶を飲ませたいのか不思議がりつつ、七海はグリーンティーを飲んだ。
熱かったので、一気に飲めそうにない。七海は少しずつ飲むことにしたのだった。
椅子を揺らしながら、杏樹は若干つまらなさそうにしゃべり出す。
「高校生活はどうなのだ」
「ババくさい質問だな」
「ひとのことをガキっぽいとかババくさいとか。お前にとって私ってどんな存在だよ」
「友達」
「即答かよ。ちょっとヘコんじゃうぞ?」
「高校は相変わらずだよ。杏樹が聞きたいのはおれが入学早々につくった新しい部活の話
なんだろうけどさー」
「うむ。名前を聞いただけで上手くいきそうにない部活だもんな」
「デスクトップミュージック(DTM)研究会。
……確かに、なじみない言葉だよな、デ
スクトップミュージック……
。部員、作ったはいいけどおれ一人だけだし。もう三月も終
わるぞ」
「新入生に期待せい」
「だなー
。ガッコウ側から廃部宣言されないだけでもまだラッキーっていうか……」
「今はもう、音楽つくるどころか聴く人間すら激減の世の中だからのー
。芸能とか言って
ももう、カルチャーの島宇宙化が進んで、音楽だのなんだの芸能の話をしようにも、共通
の話題にはなりにくいもののぅ」
「そうなんだよ。関心がなさすぎっていうか。音楽、楽しいっつうのによ」
「芸能の道、じゃよな。ふむ。だからその袋とじ付きの週刊誌を大事そうに手に持ってい
た、というわけなのだな。芸能的エロを摂取するために」
「ち、が、う!!」
「じゃあなんなのだ?」
「あー
、だからアレだ、知り合いの話題があって」
「知り合い? げーのーじんに知り合いなんて、いるわけないだろう。そんな夢みたいな
ことばかり言ってるから、ひとりきりで昼休みお弁当食べて、友達0人で変な音楽の部活
つくっちゃったから放課後ひとりきりで部活に勤しむことになるのだ」
「お前、なにげにラディカルな物言いすんのな……」
「当然至極シゴック先生なのだよ! 七海茄子のことを理解できるのはこの世で私ただひ
とりなのだ!」
「私ひとりって……
、なんかヘコむな」
「ヘコむなよそこでッ! めっちゃ私恥ずかしいこと言ってるよッッッ?」
「はぁ、それはまあいいとして」
「よくねぇよ!」
「その週刊誌をなぜおれは買ってしまったか、という話だ」
「……ふむ、聞いてやろう、寛大なこの私が」
「小学生の時、一時期この天沼市に住んでた、由比ヶ浜ユユって女の子がいたの、覚えて
るか?」
- 3 -
「いや、覚えてない。私は茄子より三歳年上だからな。小学生の頃、といっても私と茄子
の間じゃ、かなり記憶に差があるだろう」
「確かに。杏樹は覚えてなくて、みかんなら覚えてるかもって感じになっちゃうか」
「みかんちゃんも関係した話なのか」
「いや。あいつと直接関係はなかったはずなんだ、一歳年下のみかんは。そのユユって子
は、おれのクラスメイトで、クラスメイトだから一緒に遊んだことがある、って感じの間
柄でさ。だからみかんと面識は、なかったんじゃないかな。接点がなさそうだし」
「で。これはどういう話なのだ? かいつまんで一言で言い表せ」
「ああ、要するにその由比ヶ浜ユユ、アイドルになったんだ」
「なに? お前の妄想の中でってこと?」
「違う。思い切り違う! CD出してるしテレビにもたまに出演してるぜ」
「ふーん。テレビなんてあまり観ないからのー
。その子がどーしたのだ」
「いや、それがアイドルを辞めるだの、そんな話が出てるからさぁ。ガチ情報かどうかは
わかんないけどさ」
「茄子と同じ歳ならまだ高校一年生だろう。年頃なんだから、まあ、そういう葛藤もあろ
うに、それでそういう説が出ちゃう感じなんだな」
「そうなんだよ」
「ま、おぬしと友達だという話が本当かというのはさておき」
「いや、それが本当なんだって」
「ふーん。で?」
「おれに音楽のすばらしさを教えてくれたのが、そのユユって子なんだよ」
「妄想厨、乙!」
「妄想じゃねぇって! その子が弾くピアノで、おれは音楽に目覚めたの!」
「はいはいはいはい。わかりましたよー
。ブハッ!」
「お前今吹き出しただろ殺すぞ」
「女の前で違う女の話をするおぬしの方が殺される確率は高いと思うぞ」
「ああ? なんのはな…………し……
、アレ? なんだ……?」
バタリとその場で俯せに倒れる七海。そしてその倒れた姿を見下ろしながらくすくす笑
い、椅子から立ち上がる甘夏杏樹。巫女の目はここぞとばかりに座っている。
「ふふ。気づかなかったようだのぅ」
「てめ、
……まさか」
「その通り。お茶にしびれ薬を混ぜておいたのだぞ」
うつぶせで横向きの顔で杏樹を睨む七海。
七海が見ているのを意識しながら杏樹は、さらりと軽いモーションで巫女の服を肩から
脱ぐ。その羽織と袴を脱ぐと、その下には下着をなにも着けておらず、その上気したピン
ク色の素肌が現れた。
「お……い、この……
。おま……え、
……一体な……にを……」
「巫女っていうのは歴史的には本来、こういう仕事だってこと。
……大丈夫。あなた以外
には……あげないから」
裸の杏樹の姿を直視してしまい、しびれ薬でしびれて動けないし抵抗する術がなにもな
- 4 -
く
、七海は頭の中でだけ手足をばたばたさせ暴れた。が、実際は手足はもう動かない。
杏樹は七海の耳元に囁いた。
「私の愛で身体を清めてやろう」
「~~~ッッッ」
と、迫り来る杏樹が七海に手を触れた時。
障子の戸が盛大な音を立てて全開に開き、鬼のような形相をしたここ、天沼神社の神主
さんが入ってきた。神主さんは、杏樹の父親だ。
「このあばずれ娘がッ」
「チッ、ジジイか!」
そして始まる親子の乱闘。
七海は身体を動かせないまま、そのドタバタを見守ることになったのだった。
☆
ここ、天沼市は、昔の町並みと新しい町並みの混在する町である。ただ、混在している
というのは市全体を俯瞰した場合の話で、実際は旧町並みのある西天沼と、新興住宅街や
ゲイテッドコミュニティやら国道沿いのジャスコやらがある新しい町並みの東天沼に、は
っきりとわかれている。
七海の住む西天沼は、もうほとんど、その機能を停止する寸前、と言えなくもない。商
店街はボロボロだ。それでも、市はショッピングモールを誘致するしかなかったし、結果
それで商店街はシャッター商店街となったけれど、人々の暮らし、特に東の地区に住む住
人にとっては、国道沿いのショッピングモールとその周辺の店と、点在するロードサイド
ショップさえあれば、それで充分だった。天沼市よりさらに南にある工業地帯をはじめ、
道路公団や土木の仕事なんかもわんさかあるし、そもそも東の住民は西の古い住人との接
点なんて最初からないから、ジャスコ化するセカイに、特に異議申し立てをする必要性な
んて皆無なのであった。
だが、西地区の住民である七海茄子は小学生の頃、東地区の住民である由比ヶ浜ユユと
いう少女と出会ってしまった。
その出会いから別れまでの時間は、とても短かった。が、出会いに長いも短いもない。
ただただそこには、その出会いに自分の人生に影響を及ぼすか及ぼさないかという物差し
があるだけであり。
七海にとって、ユユという存在は、その「深い影響を及ぼした」存在であって、そうい
う意味で七海にとってユユとの出会いは決定的だった。
七海はだから、今もユユのことを、大事に思っていた。アイドルになったユユに対し、
他のファンと同様の眼差しにしか、それがならないとしても。
杏樹にしびれ薬を飲まされた七海だったが、どうにかこうにか起き上がり杏樹をド突き
- 5 -
(もちろんそういう意味ではない) 、乾かした服を着込んで帰宅すると、その日はすぐに
眠った。
眠る前に、週刊誌の「由比ヶ浜ユユ、引退か?」という見出しの付いた記事を七海は何
度も繰り返し読んでしまった。この記事の扱いは大して大きくもないし、記事にしたって
憶測で書いているだけで、どうも本当の情報をリークしたという記事でもなさそうであっ
たのだが、気になって気になってしょうがなかったのだ。
イマドキ、アイドルなんてそこら中にいる。詳しくは知らないが、そういうのって、ど
うも流行っているらしい。どのくらいアイドルという存在がいて流行っているのか、七海
はほとんど知らないが、知らないなりに、たくさんいて、その中でもたくさんの種類にわ
かれている、ということだけは知っていた。
……だけど。いや、
……だからなのか。
ユユには、頑張っていて欲しいなぁ、とぼんやりと思うのだ。いや、ぼんやりではなく
切実に思っているのだ。七海にとってユユの存在は、偶像としてのアイドルという言葉で
説明すると、わかりやすいほどにわかりやすい。 「君が輝いているからこそ、ファンの僕
は日々を頑張れる」というアレだ。
そしてそのカルトの教祖と信者のような関係こそが、アイドルとファンの間柄なのだ。
もっとも、アイドルオタクではない七海を、オタク的な分類をしていいのかは疑問ではあ
るのだが、でもまあ、七海もすでに、そのカルト的なアイドルのドグマに、片足を突っ込
んでいるのは間違いなかったのだった。
眠りに落ちた七海は、目を覚ます。鼻を指す匂いにむせて、目を開けた。
目を開けると、周囲が白いもやのようなものに覆われている。 「目やにか」と思い、目
をこする。が、依然目の前は真っ白だ。
そこで気づく。白い煙に視界が遮られている。こりゃ火事だ、と。
布団を跳ね上げ起きあがると、煙にまたむせてしまった。なので、匍匐前進で移動する
ことにした。 「どこの特殊部隊だよ」と自分でツッコミを入れ、寝たときに腕に巻いたま
まだった腕時計を見ると、朝八時。この時間帯はもう、両親はとっくに会社に出かけてい
る。いや、一応親を探そうか。うん、やめておこう。まずは、外に出るべし。
ザッザッザ、とパジャマがこすれる音を出しながら、二階の自分の部屋を出る。すると
階段に着いた。階段は、一段一段、匍匐したまま丁寧に着地しながら、降りていく。平常
心を、七海は心がけた。
そして、一階に降り、周囲を見渡すと、どうも火元はキッチンのようだった。キッチン
から、煙がもくもくと出ているからだ。悩んだ末、七海はキッチンに向かう。
普通に考えたら火事の火元に接近するのは命を惜しまぬただのバカ、と思われて当然だ
が、しかし七海は「どこかおかしい」という直感があった。大体火事の煙だったら黒いは
ずなのに、この煙は白いし、ここまで煙が充満しているなら、とっくに中毒になって気を
失うはずではないか、と。でもそうならない。火元はここだ、というその憶測の下、匍匐
しながら七海はキッチンの半開きになったドアを開け、潜入する。
そして見た。煙の中、顔にガスマスクを付け、こちらに向かって仁王立ちしているツイ
ンテールの人物を。誰なのか、即座にわかった。
- 6 -
「おい、みかん!」
「シュゴォォ……
、シュゴォォ」
「てっめぇの仕業だろ」
「シュゴォォ。
……ワレワレハ、インベーダーダヨ? シュゴォォ…………」
ガスマスクのツインテールは、木下みかん。中学三年生。受験を終えたばかりの、隣の
家に住む七見の幼なじみ。生意気なガキだ。
ガスマスクを睨んでいて気づかなかったが、犯人がわかってようやく周りをじっくり見
れるようになると、火元、というより煙の正体は、キッチンに五つも同時にセットされた
バルサンだった。
「バルサン……だと?」
一気に脱力する。みかんはなおもガスマスクからシュゴォォという音を吐いている。
「冷蔵庫のケーキを食おうとしたら、ご機嫌なゴキちゃまが、かさこそと動いてたのよ…
…
、シュゴォォ」
火事ではないのがわかった七海は立ち上がり、バルサンをキッチンの勝手口から外に放
り投げた。
「紛らわしいことすんな、しかもいきなり」
ツインテールの頭から七海はガスマスクを引きはがす。
「だから、ケーキが」
「ここはお前の家じゃねぇ。なに勝手にやってんだって」
「ケーキは七海には渡さないわ。合格祝いをすべきよ」
「はぁ?」
「合格しました! 天沼第一高等学校に! まー
、七海と同じガッコウだから受験したっ
てわけでもないんだけど」
「おめでとう」
「ねっ。だからケーキは私のもの。あれ、今人気のお店、荒井堂のなんだから!」
「だからここはお前の家じゃねぇ」
「言っておくけど、 この家に 『裏口』 から進入したのは、 別に意味なんてないんだからっ!
裏口入学じゃないのに裏口から潜入。ぷぷっ」
「そーですかそーですかとっとと帰れ」
「は、春から、改めてよろしくって」
「ふーん」
「もっと喜びなさいよっ」
「いや、別に…………グハッ」
突然平手打ちを喰らう七海。
頬を打たれてひりひりするその顔のまま、七海はガッコウに行かなくちゃ、と思う。期
末試験の終わった三月とはいえ、まだ授業はあるのだ。打たれた頬を七海は撫でるように
さすった。痛みは治まらない。
「四月から、また一緒か」
「文句ある?」
「ありすぎる」
- 7 -
足のつま先を思い切り踏まれた。更に痛い。
七海は、 バルサンの煙が退いてきたキッチンで、 みかんと一緒に朝食を取ることにした。
みかんはさっきから話題にしていたケーキを食べた。ホールサイズで買ってなくてよかっ
た、と思うほど、速攻で平らげたみかんなのだった。
☆
朝食を食べ終えると、隣に位置する自分の家に、木下みかんは帰っていった。それだけ
で七海はげんなりしてしまったが、ほっと胸をなで下ろすひまもなく
、通ってる高校に自
転車で今日も休まず登校することにした。
家からガッコウは近い。自転車で行ける。みかんも、家に近いから、きっと天沼第一高
等学校を選んだのだろう、と七海はひとり、頷いた。自転車で行ける範囲だと、みんなと
同じように登校中の電車の中で、スマホのソーシャルゲームで遊べず、みんなとコミュニ
ケーションが取れず結構大変だけれど、元々友達は少ないし、それも仕方がないと思って
いた。
七海は自分ひとりだけが部員の部活、 DTM研究会で、 卒業までに成果を残したいのだ。
成果を残す、つまり、名曲をつくってデモテープをレコード会社に送り、デビューする。
そんな、大それた野望が、七海にはあり、その目標に、青春時代を捧げている。ハードな
目標。部員、現在ただひとり。
- 8 -
うんざりするような最悪な日常を愛せるように、七海茄子は、今日もガッコウまで自転
車を走らせた。
自転車に乗りながらイヤフォンを付け、走る。
iPodから流れるのはイエローマジッ
クオーケストラ。アルバムは『テクノデリック』 。そのインストテクノの音色が心に沁み
る。
七海は自転車を飛ばしながら、誰もいないたんぼ道のところで叫んでみた。
「お米食べろよおおおおおおお!」
叫んだ内容は、松岡修造だった。
七海は、何故に高校受験で落ちなかったのかわからないほど、頭が悪い。しかし、内心
はその松岡修造リスペクトでもわかる通り、熱い男なのだった。
住宅地を抜けたんぼ道を自転車で風を切るように走ると、七海はガッコウに着く。たん
ぼが多いこののどかな町も、ここ数年でだいぶ変わってしまった。
この天沼市は、その中央に七海が通う高校があり、その近くに、南から北へとまっすぐ
線路が走っている。その線路で分断された、東天沼と西天沼で、この町はブロック分けを
されている。
七海の住む西天沼は、昔ながらの土地である。住宅街があって、下町になっていたり、
商店街がある。昔の町並みだから、甘夏杏樹が巫女をやっている、古い伝統のある、弁天
池を持つ天沼神社があったりもする。天沼神社を囲むように商店街はあり、昔はそこでよ
く遊んだ覚えが、七海にはある。縁日なんて、昔はそりゃたくさんの人が来た。
西天沼のエスニック・ストリートも、今では住んでるのは古参の外国人で、もはや日本
人である。ただ、他の住民とエスニック・ストリートの外国人が違うのは、東天沼の住民
と接触があるかどうかだ。この外国人達は、東天沼の住民達に溶け込み、うまく商売をし
ている。うまく渡っていけないのは、エスニックではなく
、この土地に根を下ろしている
日本人の、古くからの住人たちの方だ。
西天沼の住民達は、東天沼の土地開発により、商売が出来なくなってきてしまった。そ
れは、 一言で言うなら 『ジャスコ化』 による 『国道文化』 の波が、 日本の他の田舎と同様、
押し寄せてきてしまったからだ。
東天沼の南北を進む国道6号線。その国道沿いに立ち並びはじめた、ロードサイドショ
ップや、 ショッピングモール。 なにも土地のジャスコ化が悪いと言っているわけじゃない。
だが、あきらかに、この国道沿いの文化が、この土地の人間のライフスタイルを変えてし
まったのは事実で、それにより、西天沼の商店街は、ほとんどシャッター商店街の様相を
呈してしまった。
本などを読むと『ファスト風土化』という言葉と出くわすことがあるが、要するにそれ
だ。 「地域の個人経営の店を使おう」みたいなスローライフをわざわざ送る必要性を、東
天沼の人眼は感じないし、西の人間だって、東の国道へ自動車を走らせれば、そこにはフ
ァーストフードでコンビニエンスな、それはそれは便利な、インスタントな世界が広がっ
ている。田舎とはいえ現代人なら、そちらへ行かない方がおかしいだろう。
かくして、 西天沼の古い住民は、 高層マンションの建ち並ぶ東の人間に、 完全に敗北し、
国道を走れば、そこが日本のどこの田舎でも見かけるような、そんな没個性の海に沈んだ
のである。この流れは、そうそう変えられそうにない。
小学生の頃、西天沼に住む少年・七海茄子は、東天沼のマンションに引っ越してきた家
庭の女の子・由比ヶ浜ユユと出会う。
ユユと出会い、そして、ユユはまた、どこかへ引っ越していった。
あの、ユユがこの町にいた数年間が、幼い頃の七海に与えた影響が、今の七海の全てを
形作る。
七海は、ユユのことを、未だに想っている。
アイドルになってしまったユユを。
アイドルを想うが、自分はそれとは真逆の、将来が見えてるような暗くて鈍くさい奴で
ある七海はただ、自転車でたんぼ道を走りながら、叫ぶだけだ。
「かっげきなレディいい! だっいりせきぃぃでぇぇ、ゆっめをみるぅ!」
ユユと遊んだあの日々は、真昼に見た夢なんかじゃない、と思いながら、
iPodの音
楽に乗せて、歌う。
☆
- 9 -
天沼第一高等学校に七海茄子は自転車を飛ばして通学、ガッコウの門に入る。三月。三
年生はすでに受験も終わり自由登校、だから通学路にもひとは少なくなっている。
おれももうすぐ二年生かぁ、 と思いながら七海は自転車置き場に自分の自転車を止めた。
校舎に入ると、下駄箱でクラスメイトの小暮が靴を履き替えているのが見えた。七海は
小暮に近づいた。
「よぉ、小暮」
「あ、おはよう、七海くん」
「今日も冴えない黒縁眼鏡だな」
「七海くんよりは冴えた学園生活を送っていると僕は自負しているよ。 ていうか七海くん、
君、バルサンくさいよ」
「え、匂うか、バルサン」
「とっても」
「そっか」
「これから七海くんはバルサン星人としてもっともっと嫌われ者になると、 僕は踏んだね」
「ひどい言われようだな、おい」
「ところで七海くん、まだあの部活、続ける気なのかい」
「DTM研究会な。続けるよ」
「四月にはやっぱり新入生に入って貰うプレゼンテーションとか、するのかい」
「するよ。新曲つくったり、今、してる」
「でもさ、軽音部みたいにライブとかしないと、目立たないんじゃない? 僕の演劇部な
んかは、新歓の公演するって決まったよ」
「へー
。演劇部はやっぱ劇をやるのか。うちの演劇部、県内でも強いもんな」
「DTM研も頑張りなよ。どう頑張るかはわからないけど。あ、そうだ、顧問の桃畑先生
を全面に押し出してアピールすれば、きっと新入生、入るかもしれないね」
「うーん、桃畑先生を使う、
……かぁ」
「誰を使うって!」
七海の背後から声がかかる。というか相手はすでに七海の背後にへばりついていて、 、
豊満な胸が肩胛骨のあたりにむにぃっと押しつけられている。ちょっと顔を赤くして、身
体を離して振り向くと、出席簿で七海は頭を叩かれた。
「私の噂をしていたみたいね」
「先生……」
七海は、自分の担任で部活の顧問である、桃畑先生を見た。化粧がバッチリで、正直年
齢がよくわからないその顔の口元は薄く笑っていた。
「七海。ウェーブスの新しいプラグインを買ったから、今からインストールするわよ!
部室に来て」
「ウェーブス。代表格ではあるけど高価なエフェクトっすね。高かったでしょ。部費とか
ないのにどうやって」
「うっふっふ。校長に話したら、おーけいが出たのよ」
「マジでか」
- 10 -
桃畑先生と話していると、小暮は、 「じゃ、またあとで」と言って、教室に歩いていっ
た。
「部員は一人だけ。正直、新入生が入らなかったらマズいわ。私も打ち込み音楽大好きな
のに」
と、そこに震えるような老人の声が木霊する。
「ひとりでできるもん!!」
七海はため息を吐いて、声のした方向を見た。そこには、白髪のじいさんがいた。じい
さんは、女物のぱんつを、頭からかぶっていた。
「わしも、デスクトップミュージック研究会のメンバーじゃもん」
老人に桃畑先生はツカツカとハイヒールを鳴らして近づき、そして老人の顔面に正拳突
きを喰らわした。
「ほげれぶぅッッッ」
老人はよろめき、呻いた。桃畑先生は、老人がかぶっている下着をもぎ取り、
「訴えますよ!」
と怒鳴った。
「違うもん、わし、違うもん。これ、女子高生のぱんつじゃないから犯罪じゃないもん…
…」
「こんの桜岡のジジイ! これは私の着替え用のぱんつです! どうやって盗んだこの腐
れ外道」
「これはもうすでにわしのぱんつじゃぁぁ、
……ほげぶっ」
さっきとは反対の正拳突きを喰らうじいさん・桜岡鳥栖(さくらおかとす)であった。
鼻血を出し、桜岡はポケットから出したティッシュを棒状に丸めて、鼻に突っ込む。
「桃畑ちゃんが健全に成長してるか気になってのぅ。あんなに小さかった幼女がもう、こ
んな大胆な下着を穿くようになってからに」
「黙れ下着泥棒」
「泥棒じゃないわい。わしゃ、匂いをたくさん嗅いだら、元あったロッカーに戻そうとし
てたもん」
「殺す」
桃畑先生の目が野生のオオカミのように鋭く光った。
一分後、ボコボコに瞬殺された桜岡老人はハイヒールで顔面を踏まれ、泣く泣くポケッ
トからその他の下着類も没収され、ガッコウを後に、去っていった。桜岡の脳内では『ド
ナドナ』が流れたという。
七海は、髪の毛を掻いて、肩をすくめた。
「桜岡さん、一応おれのDTMの師匠なんだけどな……」
☆
朝のホームルームが始まる前にプラグインを使える状態にしておこうと、部室に急ぐ七
- 11 -
海は、音楽室で足を止める。
音楽室から、 「ほげー」という美声が聞こえる。声の主は同じクラスの緑川勇作。声楽
部、唯一の部員だ。たぶん、放課後はブラスバンドで音楽室を使うから、音楽室を使える
朝の時間に、
くそマッチョイズムな朝練でもしてるんだろう。そう七海は断定した。
「殊勝なこったね」
呟くと、勇作が声を止め、こちらを向いた。こっちの呟きが聞こえたわけでもなかろう
に、そのタイミングの良さに、七海はギョッと目を見開いてしまう。怖っ。
「おやおや、なに目を丸くしてるんだい、七海」
しかも、話しかけてきた。
「うぜぇなって思っただけさ」
「ふん。君はクラスメイトにどういう口の利き方をすればいいのかすらわからないみたい
だね。協調性がないな」
「てめぇは他のクラスメイトとは別だ、このお澄まし野郎」
「童貞」
「黙れボゲ」
吐き捨てた七海は、自分の部室へ。朝から嫌な気分になったな、と思った。
大体声楽とかひとりでやっちゃって、頭おかしんじゃね? とDTMをひとりでやって
ることを棚に上げて七海は心の中で嘲笑した。
まじでいけすかねぇんだよな、緑川のやつ。
ウェーブスのプラグインをDVDからインストールしたあと、DAW(だう) 、すなわ
ちデジタルオーディオワークステーションを起動させ、プラグインのパスを通し、使える
ようにする。これだけで、かなりの時間がかかった。
音楽のソフトは、大体英語だらけだ。外国製が多いだけでなく
、日本人のためなんてこ
とを全く考慮していないという感じであることが大半という、この宅録音楽の世界。英語
スキル皆無の七海は感覚だけで乗り切るのだ。
桃畑先生が部室にちょこんと顔を出して、
「ホームルーム、始まっちゃうよん」
と、舌を出しておどけて見せた。
「今行きます」
七海は、クラスに向かう。音楽室からの歌声は、いつの間にか止んでいた。声のしない
音楽室をドアの窓枠のガラスからのぞき込んで、
「ひとりきりの、部活か……」
と口に出し、それからまた、教室に向かって歩き出す。 「おれも緑川も、部員は一人な
んだよな」
「なんでサイゼリアって、フォカッチャのことをフォッカチオって呼ぶんだろうね。卑猥
だね、響きが」
- 12 -
「お前ののーみそが卑猥なんだよ」
「ひどいよ、七海くん」
教室に着くなり、小暮が話しかけてきたのだが、ホームルームが始まり、後ろの席にい
る小暮の方から、前に向き直る七海だった。
壇上では桃畑先生がしゃべり出す。
「はい。もうそろそろ春休みですね。休みだからって気を抜かないように。もうすでに春
休み気分でガッコウに来なくなっちゃった人もいますが、学生生活の本分は勉強です。き
っちり勉学に勤しみつつ、節度ある立派な態度で過ごさなきゃダメですからね。特に卑猥
な行動は厳しく罰せられます」
そう、今週で三学期が終わるのだ。
世界の終わりがそこで待ってるよと、紅茶飲み干して、君は静かに待つ!
よくわからないが、七海はそう思った。
今週末までに、一曲仕上げよっかな。脳内の高まりに思わず口笛を鳴らした七海に、桃
畑先生はチョークを投げつけ、七海の顔面に当たった。
「痛ッ。
……っつぅ~」
「真面目に話、聞かなきゃダメよ」
「へへへーい」
次は黒板消しが飛んでくるのだった。
そして、一日がまた始まり、過ぎていく。
☆
DTM。デスクトップミュージックの意。要するにパソコンを使って曲を作成、録音し
ちゃおうっていうものである。
そのDTMを愛する者が集まる部活、それが天沼高校DTM研究会である。現在、部員
数一人。
そのDTM研の部長である唯一の部員、七海茄子は「うがぁぁ」と奇声を発し、天沼神
社の弁天池に釣り糸を垂らしていた。
「どうやったら部員集まるんだ。曲も出来ねぇし」
「なーに騒いどるのだ」
「あ、杏樹か」
釣り竿のグリップを握りながら七海は、やってきた杏樹の方を振り向いた。
「ここでなにをしとるのだ」
「釣り」
「鯉を、か」
「悔しいけど恋しちゃってるんだよ、池の鯉に」
「なんかムカつくのだぞその定番のダジャレ。こんなに鯉みたく口をぱくぱくさせとる私
には恋をしないくせに」
- 13 -
「はい?」
「なんでもないんだぞ」
「それにしてもさ、スタ丼ってあるじゃん、スタミナ丼っていう食い物」
「牛肉とか生卵とかが無造作に載ってる丼飯のことだな」
「そうそう、そんでそれを参考におれはインスタントラーメンに『玉』を載せるわけ。ス
タ丼方式で、なんでも生卵をぶち込みゃいいだろってわけでよぉ。スタミナつくだろって
判断」
「めちゃくちゃだな、阿呆の茄子よ」
「阿呆は余計だ。で、このスタミナ丼イコール生卵載せみたいなスタイルで作曲ができな
いかって思って。生卵を載せときゃなんでもおーけい、って奴。東方アレンジってのがD
TMのジャンルにあるんだけど、あれの場合はとりあえず原曲があって、そのメロを使っ
てればなんでもあり、っていうゆるい決まりがあるんだけど、おれも『七海システム』み
たく
、なんか『これさえ入ってればおーけい』ってのに、持っていきたいわけよ」
「ずいぶん安直だな、お前」
「だが、それで具体的になにを『システム』として専売特許にするか考えてるんだけど、
なかなか思い浮かばねーんだよ」
「ホントバカ丸出しだぞ。
……ていうかだな、茄子。ここは釣り堀ではないのだぞ。御利
益バッチリの弁財天様を祀ってる神聖な池なのだ。だからとっとと……」
「あ、かかった!」
七海の持つ釣り竿が池の中にひっぱらられる。七海は「ばっちこーい」とか言いながら
リールの糸を巻きはじめる。
「こりゃ強い引きだ!」
がーがーがーときつくなっていく手応えのリールを巻いて竿を引き上げる。
「釣れたあああああ」
水しぶきがあがり、獲物が水面にその顔を覗かせた!
ていうか本当に『顔』を覗かせた。
「痛い痛い痛いのん! 唇がッ! わしの大事な、大事な、大事でセクシーなたらこ唇が
ッッッ! ……こんなに激しくしたら、わし、壊れちゃうぅぅぅ」
釣り針に引っかかって水面に上がってきたのは、老人・桜岡鳥栖であった。
手足をばたばたさせ、水が周りに跳ねる。
どうにか体勢を取り戻した桜岡は、
「わしは恋のキューピットじゃもん。 『ガールフレンド(仮) 』のキュピチケ、たくさん
持ってるんじゃもん。課金しまくりじゃもん!」
と叫びながら、釣り針を自分で外す。
「なにやってんすか、桜岡さん」
七海は目を細め不審の眼差しで桜岡に問いかける。が、
「お前も神社で釣りしてるんだから同罪じゃぞ、ばかたれ」
と、ツッコミを入れるのを忘れない巫女の杏樹だった。
杏樹は拝殿の方に踵を返すと、池の方を向かないままで、
「桜岡さん。今日の夕食は抜きです」
- 14 -
と言った。
そう、身寄りのない桜岡老人はこの神社の居候なのだ。
「やだもんやだもん、わしもハンバーグステーキ食べるんじゃもん」
ぶりっこぶって腰を振る桜岡のその仕草はキモい。
「桜岡さん、まじ半端ねぇっすね」
七海に言えるのは、そのくらいだった。
夜中曲作りをしてて三時頃寝て、目覚ましもなく朝、起きると、七海は階段を降りて居
間へと向かう。親が働きに出る時間は過ぎていて、誰もいないはずが。
そこにはがつがつご飯を食べながらしゃべっている七海の担任である桃畑先生と隣の家
の少女、木下みかんがちゃぶ台を囲んでいた。
「遅いよ、七海。先生なんかもう、ご飯二杯目よ」
ため息を吐く七海も、座布団の上に正座して座る。
「先生、なにやってんすか」
「ご飯を食べながらみかんちゃんとガールズトークしてるんだけど?」
「さも当然のようにさらっと言うの、やめていただけません?」
「女子会だもんねー
、みかんちゃん」
「そうよ七海。七海は細かいこといちいち口にするから大ッ嫌い」
「へーへー
、そうですか」
「そこで頷かないでこのバカ!」
「乙女心の模式図は複雑なのよ。それよりほら、おかずが冷めちゃう前に食べなさい」
「だから先生がなんでいるんだよ」
「ふふ。話は後でね。今は朝ご飯が先よ」
そこでみかんが告げ口スタイルでしゃべり出す。
「桃畑先生、このバカはね、この間インスタントの味噌ラーメンにドライジンジャー入れ
て食べてたんですよ」
「チャレンジャブルね、七海くん」
「それは……」
「ひとつの料理の中で味噌とジンジャーが反発し合ってるー
、だって。ぷぷっ。カレーみ
たく隠し味にスパイス入れればどうにかなるという認識は間違っていた。
……だったっ
け?」
「あー
、みかん、お前、この話は忘れろって言ったじゃんか!」
「こんなおいしいネタを忘れるわけないでしょ。ラーメンはまずかったけど話はおいしい
ってね」
「こんのドリルヘアが!」
「ツインテールはドリルじゃないッッ! デリカシーなさ過ぎッッッ! あと、ヘアとか
言わないで! 変な意味にとっちゃうじゃない!」
「変な意味ってどういう意味」
「バカ変態最低、このゲス野郎ッ! ヘアトニック!!」
- 15 -
そこに、二人の間に仲裁すべく割って入る桃畑先生。
「仲が良いのはわかったから、落ち着いてご飯食べましょ、二人とも」
「ぶー」
「ぶー」
「ところで七海くん。曲作りは進んでるかしら」
「それが難航してて」
「七海くん。今の世の中、ここまで音楽のアーカイヴが膨大なまでにあるのに、あえてそ
こで新しい曲をつくる意味なんてあるのかしら」
黙り込む七海は、しかし一瞬間を置いてから、それに応える。
「確かにおっしゃる通りです。今だって世界で一番売れているのは、未だにビートルズだ
し、聴きたいジャンルさえ自分の中で確立すれば、あとはそのジャンルの歴史をたどって
いけば、それだけで一生聴く音楽に困らない人も多いと思います。でも」
「でも?」
「作りたい衝動は、止まりません。それは、ミュージシャンは全員そうです。もしかした
らみんなから、新しい曲を制作するのは望まれていないかもしれない。けれど、作品を作
ってしまう創作の連鎖の輪は、決してなくならないし、なくしちゃいけない。この灯火を
絶やさぬよう、僕らミュージシャンは、曲を作っていくまでです」
「エクセレント。さすが、トマ美の息子ね」
「母さんを、知ってるんですか」
「知らなきゃここでこんな時間に、ここにはいないわよ。私と同窓なの、トマ美は。それ
より」
桃畑先生は、両手をパチンと打ち鳴らした。
「新入生のみかんちゃんと我が部の部長の七海。あなたたち二人に素敵なプレゼントがあ
ります」
「はい?」
キョトンとしてしまう七海に、桃畑先生は二枚のチケットを横に置いていたセカンドバ
ッグから取り出す。
「トマ美と知り合いなだけでなく
、私はみかんちゃんとも前から知り合いなの。それで、
アイドル好きのみかんちゃんが欲しい欲しいと言っていたアイドルコンサートのチケット
が手に入ったので、二人で行ってきなさいってことで」
そう言うと、桃畑先生は、みかんに二枚のチケットを渡す。
「二人、仲良く行くのよ。帰りがけのラブホは禁止」
みかんに向かってウィンクする桃畑先生。
「みかん、アイドルが好きなの?」
「悪い? 悪いの? アイドルが好きなのが」
「いや、そうは言ってないけど」
おれもアイドルの由比ヶ浜ユユのことが好きだし、とはここでは言えない。
「で、でも、私が七海とライブに行くってのは、保留! チケットは、私が預かってるか
らっ」
くすくす笑う桃畑先生は、とても楽しいそうだ。
- 16 -
「だって~
、七海くん。このままだと他の男とライブに行っちゃうかもよ~」
「……いや、それはみかんが決めることだしさぁ……」
「バカッッッ」
怒鳴るみかんは、怒鳴った後無言で朝ご飯を食べ出す。もの凄い勢いで食べ出した。
七海は、なんだかよくわからない気持ちで、ご飯を食べることになった。七海とみかん
を桃畑先生は交互に見やり、
「若いわね」
と言ったのだった。
☆
教室の朝。先生とみかんに対峙した家の朝食から解放され、清々とした気持ちで登校し
た七海は、自分の席に着くと、椅子に座る。足を広げて背もたれにあごと腕、肘の辺りを
載せ、反対向きに座って、後ろの席の小暮としゃべる。朝食だけでクタクタになった七海
は、クタクタのまま小暮に向かう。
「なー
、小暮。アイドルって、どう思うよ?」
「はぁ? なにを急に言いだすんだい、七海くん。頭のねじがついに吹き飛んだのかい。
アイドルって、アイドルだろ? テレビとかに出てる」
「そうだよ」
「いつもショービズは敵だ、とかロッカーな発言が多い君には思えないね、アイドルって
単語を出すなんて。アイドルの、なにを訊きたいんだい?」
「いやだから、アイドルは好きか、って話だよ、分かれよな、そのくらい」
「僕は七海君くんの恋人でもないし、そんなのわからないよ、分かれとか言われても」
「まー
、そりゃそうだ」
「どうせみかんちゃん絡みの話なんだろ」
「ああ。みかんが、アイドルとか、好きみたいなんだよ」
「ふーん。まあ、憧れるだろうね、銀幕の世界」
「そういうの、気持ちがわかるのか」
「わかるさ、演劇部で俳優やってるし」
「あー
、そうだったな」
小暮は演劇部。 しかも、 期待のホープなのだった、 と七海は記憶をさかのぼって考えた。
「七海くんは硬派気取ってるから知らないと思うけど、今、アイドルって、人気が凄くあ
るんだよ、ブームってくらいに」
知ってる。ユユは、由比ヶ浜ユユは、そのアイドルだから。
「今、ヒットチャートで上位に来るのは、大体がアイドルとか声優とか、アニソンやゲー
ム、固定ファンが確実にCDを買ってくれる、そんな層であるひとたちが出したものだけ
だからね。でも、七海くんには馬の耳に念仏、だったかな」
「ああ。おれは馬じゃねぇけど、念仏はわからないから、似たようなもんだ」
- 17 -
「うん。アイドルは好きだよ、僕も。アイドルの音楽も、意外と悪くないもんだよ」
それも知ってる。七海は自分の部屋の、机の中に大事に仕舞っている、ユユのCDのこ
とを思い浮かべる。
「まさか七海くん、みかんちゃんにつんくや秋元康批判とかを説教しだしたわけじゃない
よね?」
「そんなこと、しねーよ。で、アイドル、お前は誰が好きなの」
「うーん、やっぱ、由比ヶ浜ユユ、
……かなぁ。地下アイドルだし、ちょっとマニアック
なチョイスかもしれないけど」
「…………」
「あ、ごめん、知らないよね。はは」
「いや」
「知ってるの?」
「あ、ああ、まぁ」
「そうだよね、由比ヶ浜は、この天沼に住んでたこともあるらしいし」
「う、うん、
……そ、そうだな」
七海は気まずくなってきた。あまり、そういう話題に慣れていないのだ。
「みかんちゃんはアイドルが好きなのか~
。一体誰が好きなんだろうね。興味あるな。僕
も仕事上……
、あ、えっと、じゃなくて、演劇部として、リサーチしたいものだしさ」
「ふーん」
「今日もみかんちゃん、朝、君の家に来たのかい」
「ああ、朝食も一緒だった」
「アレだよ、 『文化人は堕落して気づく』とは言うけどさ、七海くんは高校一年でみかん
ちゃんはもう卒業だけど中学生で。あまりヤングアニマルな荒んだ関係をし続けて堕落し
ても、きっといいことはないよ?」
「そういうことは一切してないッ」
「……それもどうかと思うけど」
トークを続けていると、
「おい七海! くだらないこと言ってないで黒板消しのクリーニングぐらいすればどうな
んだ、日直だろうが! 君はいつもいつも……」
と、怒鳴られた。怒鳴った主は、緑川勇作。声楽部唯一の部員の、あいつだ。
ゆっくりと、七海は教室正面の黒板の近くでふんぞり返っている緑川を振り返る。
「七海、僕はお前と一緒に日直なんて、だから嫌だと思っていたのだよ。この役立たずが
っ。ちゃんと働くんだ、このヘタレ作曲家」
「はいよ、このオールバック野郎」
「こんのクソが。この髪型はだなぁ」
「説明はいらん」
「なんなんだその言いぐさは!」
話しながら七海は椅子から立ち上がり、黒板の方へと歩く。
高校一年の最後も、 こうやって普通に終わっていくんだなー
、 とぼんやりと思いながら。
七海が窓の方を見ると、太陽の光に教室の埃がチラチラと舞っていた。
- 18 -
この埃っぽさが、 おれの日常だな、 と七海は、 口元を緩めながら、 日直の仕事を始める。
☆
放課後。這々の体で日直の仕事を終わらせ、最後に日誌を書いたところで、七海はダウ
ンした。ダウンと同時に、日誌に記入してたシャーペンの芯が吹き飛び、後ろの席で授業
中からずっと居眠りしてたままの姿の小暮の髪の毛にグサリと刺さった。
「ほげっ? ほげぶぅ」
シャーペンの芯が刺さり、それで起き出す小暮。
「あ、おはよう七海くん……
。英語の授業はおわっだぶぅ」
「くそ。おれの今日の日直の忙しさを尻目にのんきだな、おい」
七海は小暮を見てから、放課後の教室の点検などをしている緑川勇作に「日誌終わった
ぞ」と攻撃的口調で言う。
窓の鍵が締まっているのを全て確認した緑川は、
「僕はこれから用事があるんだ。日誌を頼んでいいかな」
と、ぶすっとした表情のままで言う。
「おれだって部活があるぞ」
「君に頭を下げるのは気が引けるんだけどね……頼みます」
そう言った緑川は、本当に頭を下げたので、七海は「わーったよ」と応えた。
日直の仕事を終えた緑川は教室を後にする。
その姿を身で追い、七海はふて腐れた。
「やってらんねーなー」
「あれ? 七海くん、給食の時間は終わっちゃったのかい」
「高校に給食の制度はねぇよ。つーか小暮、お前はいい加減起きろ」
「僕はさぁ、いつも思うことがあって。小説や脚本ってのも、設定の時点でみんなの度肝
を抜くアイディアがないとダメだと思うわけ。あまりやり過ぎるとマンガっぽくなっちゃ
うとか言うけど、なら、マンガでいいじゃんって。設定が普通の人間の普通の日常で、中
身が面白みっていうフックすらないものを描いてるとか、ホントなんのギャグだよって、
僕は思っちゃうね」
「はぁ?」
「僕はぶっ飛んだ設定を望む。日常のクソみたいな生活を吹き飛ばして、夢を見させてく
れるものをこそ望む。安っぽいストーリーはいらない。だから、僕はそんな演劇をやって
いきたい!」
ああ、小暮ってこんなに演劇バカだったのか、と七海は話を聞きながら、若干引いてし
まった。まあ、たぶんまだ夢うつつだからなのだろう、とデコピンしてみた。
「ぐはぅ」
吐息のようなものを漏らし、小暮は机に突っ伏した。だめだこりゃ。
「小暮、お前疲れてるのか」
- 19 -
一応優しい声をかけておこう。
「ああ、七海くん。僕はもうダメだよ。週末に野暮用があってね、それで今もかり出され
てるってわけさ。睡眠不足は、授業中に解消しとこうって」
「高校生としては、だいぶ間違った睡眠不足解消法だな」
「僕に構わず、先に行けッ!」
ホントにマンガ脳だな、と思いつつ、七海は書き終えた日誌を、担任の桃畑先生に渡し
に職員室へ行く。七海が席を立つと、小暮はまた、夢の世界へと旅立つのだったが、知ら
ないふりをすることにする。下校時刻過ぎても、おれは知らない、と。
職員室に、桃畑先生はいなかった。もう帰ったのかもしれないな、と七海は一応探すよ
うに目をきょろきょろさせた。桃畑先生のデスクに、日誌を置き、七海は部室に行くこと
にする。
曲を、つくるのだ。
☆
創作活動をする、というのは、ある種の人間にとっては、救いを求めているようなもの
である。 「小説に救いを求めているから」小説を書く
、 「美術に救いを求めているから」
絵画を描く。そういった類いの、信仰のようなもの。それが芸術の役割のひとつであるこ
とに、異存はないだろう。
だがしかし、と七海は思う。
「DTMer(でぃーてぃーえまー)は、DTMに、救いを求めない」 。七海はそう思う
のだ。
デスクトップミュージック野郎、即ちDTMerは、大抵マルチクリエイターだ。なに
か他の創作活動もやっていることが、ほとんどだ。それに、無職ではなく
、なにか職に就
いて、片手間でトラックメイカーをしているのが普通で、 「おれはDTM一本で食べてい
く!」とか、冗談で言うならともかく
、そういう専業でDTMだけに全てを賭けるような
奴は、あまりいない。いたとしても、そういう人間はセミプロで、進退窮まった奴と相場
が決まっている。そう、人生をDTMだけに捧げて生きる人間は、そうそういない。換言
すればそれは、DTMに救いを求める一途さを、みんな持ち合わせていない、ということ
になる。
そう、だから、DTMerはDTMに、救いを求めない。七海の持論だ。
ただ、手段としてのDTMは、七海にとっての唯一の武器であり、この武器を取りあげ
たら、七海に残された武器はなにひとつとして、ない。それが現状。
楽器は弾ける。でも、それはアレンジの道具として使える程度の最低限の演奏技術だ。
それに、一緒にやってくれる友達がいないから、バンドなんてやったことすらない。ひと
と楽器を一緒に演奏した経験がゼロなのだ。いや、ゼロだからこそ、この道しかなかった
と言える。
DTMerは孤高のゴミだ。
- 20 -
孤高ではあるが同時に、社会のゴミでしかない。
だから、ゴミでしかない、と知りつつ、そうなるしかなかったのだ。
ゴミである七海は、金になる確率ほとんどゼロのこのコンポーザーモドキとして、今日
も部室でせっせと鍵盤を叩くのだった。
いや、意外に孤高のゴミである人生も悪くはないぜ? と笑いながら。
でも。
日直の仕事をしながら、 「君は本気で音楽をつくっているのかな? どうなんでしょう
ね? 怪しいもんだね」と、七海は今日のもう一人の日直である緑川勇作に言われた。
頭にきた。
「うっせボゲ」
とだけ、言っておいた。
言っておいた……けど、ホントは自分で、このDTMとしての作曲活動を、どう思って
いるのだろう。自分でどう思ってるのかだけでなく
、周りから、どう思われているのかと
か。七海は思考する。
そして黙り込む。七海は、黙りながら、黙々とシーケンスフレーズを入力していく。マ
ウスを動かす。鍵盤を弾く。ソフトシンセは快調に音を鳴らす。
結果を出す!
部の存続と、目標達成と、そしてあの日の約束と。
やることはいっぱいあった。
「これちょっとリア充じゃね?」
と世迷い言を漏らしたが、まあ、リア充なわけがなかった。
- 21 -
☆
曲作りも佳境にさしかかったところで、放課後は下校時刻のチャイムが鳴ってタイムア
ウト。続きはデータを移して、自宅でやることにした。
七海はデータをUSBメモリに入れ、 自転車置き場へと向かう。 そして走らす自転車は、
自宅ではなく
、東天沼の、ショッピングモールの本屋。アイドル、由比ヶ浜ユユの、引退
騒動の続報がどこか雑誌に出てないか、知るためだ。 「ネットの情報は、ちょっと嘘くさ
いもんな」と思って。
もう日は暮れて、危ない夜道になりそうだったが、そんなことに構ってる余裕はない。
一路、七海は自転車で飛ばす。
メタルという音楽ジャンルのミュージシャンは、 本場アメリカでは工業地帯出身が多い。
なぜだかはわからないが、 そうなのだ。 デトロイトで生まれた 『インダストリアルロック』
というジャンルだって、名前の『インダストリアル』というのは『工業化』を意味した単
語だ。
そもそも著名人という類いの人間というのは、大体、どこ出身かで、どのジャンルで成
功した有名人なのかがわかるほど、 地域とジャンルが結びついているものであったりする。
ホント、理由が謎なのだが。 「才能というのは、一カ所に集まるモノなんだな」と七海は
それに対しそういう理解をしている。
で、ここ天沼は、南下していくと、隣の市に、工業地帯がある。更に南下すると、県庁
所在地の商業地区がある。天沼の、東天沼の新興住宅街に住む大人たちは、その工業地帯
か、県庁付近で働いているのがほとんどだ。ここは、ベッドタウンなのだ。
漂白剤で脱色されたかのような、日本ならどこの地方にもある風景を持つ、東天沼はし
かし、アイドル、由比ヶ浜ユユを生んだ。アイドルという、人格と偶像の狭間にあるこの
記号を生んだ東天沼もやはり、 そういう磁場が働いていたのだな、 と七海は推測している。
どこにでもある、広い空間に建てられたマンション群。国道に面したファミレス、コン
ビニ、ファーストフード店。
自転車で走りながら、七海はこの土地と、そこに住む意味を考える。この無味乾燥な土
地は、それでもなにか『才能』を生み出すというのなら、人間てのは、花ではなく
、雑草
そのものなんだな、と。なぜなら雑草は、どこにだって、根を下ろすから。
土地によってどんなジャンルの人間が頭角を現すのかがわかるのならば、日本中どこに
だって同じようにあるこの国道沿いの文化からは、雑草が雑草らしく現れるだけだ。どこ
に、どの土地にも置換できる、そういった、普遍的である、偶像の存在。例えば、それが
アイドルだ、由比ヶ浜ユユだ、というのが、それだ。
最上のポップアイコンであるアイドルはどこにでも咲く雑草中の中の、最上級のハーブ
だ。
- 22 -
均質化された土地。均質化されたおれ。均質化されたストーリー
。
どこにでも同じようにある土地。どこにでも同じように咲くおれたち。どこにでも転が
っているようなストーリーを吐き出して。安っぽいストーリーを垂れ流して。この土地で
生み出すジャンルがあるならそれはアイドルで、 しかしアイドルを生み出す土壌は日本中、
どこも均質にそうであるのだ。
だからこそ、おれは叫ぶのか。きっと、そうなのだろう。七海は叫ぶ、 『雑草の歌』を。
風を切りながら七海は飛ばし、星が出始めた夜空に、テキトーな節で鼻歌を歌った。歌
声は、いつしかいつものように叫び声に取って代わった。
ショッピングモールに入った大型書店は、もうすぐそこだ。駐輪場に自転車を止めて、
七海は息の上がったその自分の鼓動を聴いた。
ショッピングモールの中の大型書店に入り、雑誌コーナーに飛びつく。が、七海はユユ
の載ってる記事を探し出すことは出来なかった。
それは、ユユの記事が週刊誌に載ってないからなのかもしれなかったが、そうじゃない
かもしれないのだった。
今は、アイドルというのは世の中にたくさんいる。そして、一部の大売れのトップアイ
ドル以外は、アイドルという言葉に反し、あまり有名ではなく
、 「知るひとぞ知る」存在
にしか過ぎないのだ。また、アイドルではないが、 『アイドル的な存在』というのが、そ
れはもうたくさんいるし、本職のアイドルより、そっちの方が有名人であり、週刊誌の記
事になりやすいのだ。
よって、一時間かけてもユユの記事を見つけられなかった。なので七海は、食料品店の
方に足を向ける。
大型スーパーが、ショッピングモールに入っているので、そこへ。
ここらへん、スーパー激戦区なのだが、ちょっと品の良い、モールの中の店を七海はチ
ョイスした。それには、他の場所へ移動するのが面倒だった、という理由もある。
「杏樹にはいつも世話になってるし、な」
ぼそりと呟き、七海は肉のコーナーへ。
値下げされたパック詰めのすき焼き用牛肉を手に取ろうと手を伸ばす。世話になってる
杏樹……と桜岡のじいさんに、買っていこう、なんていう考えによる。
七海が手を伸ばすと、横にいた客も同じ値下げのパックを取ろうとし、手と手が触れあ
い、お互い「あっ」とか言いながら、手を引っ込めた。
女性の手が触れて顔を赤くする七海。
そしてその客の顔をのぞき込む。顔を見たら、その客も七海と同じく
、恥ずかしそうに
顔を赤らめていたのだが、顔を認識したらその赤らめた顔も、平常通りに速攻でひやりと
冷たく戻った。
その客は、担任の桃畑先生だったからだ。
「えーっと、先生、こんなとこでなにやってんすか」
思わず訊いてしまった。
「あなたとこんなところで偶然出会うとはね。私たち、結ばれる運命なのかしら」
「絶対違います!」
「……全否定されるとそれはそれでへこむわね」
「先生はなんでこんなところで買い物してるんですか」
「ガッコウの職員寮がこの近くなのよ。寄ってかない?」
「寄りません」
「あ、そう。更にへこんだわ。七海くん。作曲の方はどうかしら」
「なんとか。どーにかこーにか、です」
「実はね、DTM研、来年度の春の間に新しい部員が入らないと、廃部なのよ」
「マジすか」
「マジすよ。すでに部費も底を尽きたわ」
「それ、先生がウェーブスのプラグインエフェクト買ったからじゃないスか」
「そうとも言うわ」
「…………」
「と、いうことで七海くん。これから私の部屋で作戦会議よ。ベッドの中でね」
「ピロートークが作戦会議だなんてお断りです」
「そこまで私を避けることないじゃない」
「これが普通の対応です」
「ふーん」
- 23 -
鼻を鳴らしてから、 桃畑先生はさきほど手を引っ込めたその肉のパックを再び手に取る。
「しかし七海くん。スーパーは格差社会を照らしているって知ってる? 低所得者の利用
店は清涼飲料水や肉、インスタント商品が充実していて、逆に日持ちのしない野菜なんか
は在庫をあまり抱えない店もあったするのよ。一方の高級スーパーは、極端に材料厳選主
義であったりするの。同じ町でも、客層から何から何まで異なる別世界なのね」
そういえば桃畑先生は現代社会の教師なのだったな、という基本情報を思い出す七海。
現代社会っていう政経と倫理を足して二で割ったようなその教科が、不得意な自分の授業
態度を顧みながら。現代社会の教師、桃畑先生は続ける。
「だからね、高校生でスーパーに立ち寄るのも、悪くないわ。社会勉強になるから。いか
にもあなた、コンビニ弁当至上主義っぽい身なりをしてるじゃない。私の友人であるあな
たのお母さんのトマ美も、ちょっと放任主義だしね」
言葉を句切り、それから買い物カゴに肉のパックを入れる。
「今、私はお肉を買ったけど、本当は創作をする人間なら、肉や魚を捌くことくらいは、
経験した方が良いと、私は思うわ。ダークな面が脱臭されたかたちでお店には肉や魚が置
かれているけれども、実際は捕まえたり繁殖させ養殖させたりしたものを、屠殺して捌い
て、精肉する。生き物を殺して、それを食べているっていうことを、忘れちゃダメ。なに
かを殺し、そのおかげで生きている。なのに、世の中はどんどんその『殺している』とい
う事実を隠蔽する方向に動いてるわ。私はそれが良いことだとは思えない。命の尊さを知
る、というのは、創作家にとって、重要なキー概念になるわ」
「…………」
「ごめんね、変な話をしちゃって。
……続きは二人でひとつのシーツにくるまってしまし
ょ」
「嫌です」
「はっきり言うわね、あなた。
……まあ、七海くんにはみかんちゃんがいるし、ってとこ
なのでしょうけど」
「違います」
「え、違うの?」
「…………」
「みかんちゃんと喧嘩でもしてるの? 二人でライブコンサート、行ってきなさい。二人
で行けるよう、チケットを二枚渡したんだから」
そう言って桃畑先生は七海の背中をぽん、と叩いて、それから肉のコーナーから遠ざか
っていった。
七海はその先生の後ろ姿をしばらく見やっていた。
「安売りの肉、取られた……
。あれひとパックしかあの値段では値下げされてなかったの
に」
西天沼に自転車で戻ると、環境は一変する。古い町並みが、区画整備されてないような
くねくね曲がった道路で、嫌でも土地が変わったことを確認されてしまう。東天沼には高
級なマンションが並んでいるが、こちらにはボロボロの木造アパートが多い。住宅も、築
- 24 -
何年経ったか知りたくないような家がたくさんある。 大きな地震があったらどうするのか。
わからない。 住んでる住人も、 お年寄りが多い。 旧市街のひとたちを暖かい人々ととるか、
因習に縛られた人々ととるか、そこらへんはもう、個人の考え方による。が、たぶん、若
い奴はみんな、こんな潰れかけた町は嫌いなのだろう。若い人口はどんどん減っていく。
少子化だけでなく
、遠くの大学、遠くの会社へと、若い人間は行ってしまう。
ここを去るのは、選択肢としては懸命かもしれないな。七海は思った。この古い町では
「楽器を弾いてるバカ息子」って認識をされているだけだしな。マジ笑える。
先生の話じゃないが、スーパーに陳列されて『死の刻印』を脱臭された『清潔な』肉や
魚のように、東天沼の新興住宅街は『生活臭』自体を『脱臭』させられている。
だから、そんな場所からだからこそ、アイドルである由比ヶ浜ユユは生まれ、ポップア
イコンとなれた。生活臭の脱臭された無垢の存在、アイドル。
「西天沼の古い町では、おれはただの阿呆扱いだ」
自転車を天沼神社の鳥居の前に止めた七海は、
「バカでも阿呆でも結構だけどよ」
と、上着の両ポケットに手を突っ込んで吐き捨てた。三月終わりの頃のこの夜、まだ外
は少し寒い。
買い物袋を手首に下げ、ポケットに手を突っ込んだままで天沼神社の鳥居をまたぐと、
シャアアアアという小さいうめき声と、なにかが足下で横切る影があり、七海は一瞬たじ
ろいだ。見るとそれは蛇だった。三月って、蛇って冬眠から目覚めるもんなのか? とい
う疑問符を頭に浮かべていると、
「天狗が現れる予兆じゃよ」
と、後ろから声がした。振り向くとそれは、色々なものを詰めたエコバッグを持った甘
夏杏樹だった。どこか、買い物に行っていたらしい。巫女装束ではなく
、明るい色の、春
物のコート姿である。
「天狗?」
「そう、天狗じゃぞ」
ツカツカと音を立てて、杏樹は七海の横に来る。
「蛇は、この町の言い伝えでは、天狗の使いなのだ。天災の前触れが天狗の出現、と言わ
れておるが、しかしここは日本。言葉遊びの国じゃ。 『天災』はすなわち『天才』でもあ
る。また、新たなる才能が生まれるか訪れるかするのじゃろう。まあ、注意しておけ。早
い時期の蛇は冬眠から目覚めたばかりで腹をすかしておろう」
「ふ~ん。天才……ねぇ」
「天才と言っても、おぬしじゃないことは確かじゃろう。
…………バカで、阿呆なのじゃ
ろう、ぷぷぷっ」
「てっ、てめぇこの杏樹ッ! さっきの独り言、聞いていやがったのかッッッ!」
「くっくっく。 『バカでも阿呆でも結構だけどよ』じゃっけ?」
あーひゃひゃひゃ、と笑う杏樹と、恥ずかしさに打ち震える七海。七海は「うわあああ
ああ」と頭を抱える。
「ところでどうしたのだ。こんな時間に」
- 25 -
「いや、すき焼きでも食べないか、と思ってさ」
どうにか気持ちを切り替えようとする七海が言うと、
「バカで阿呆でも、たまには気が利くのだな」
と返す。また引用されてちょっと目が回るほど恥ずかしい七海はまた頭を抱え呻く。
「さぞかし桜岡老人も、うちのクソ親も喜ぶじゃろう。もちろん、一緒に食べるのだろ、
茄子」
「あ……
、あーん、どうすっかな」
「食べていけ」
「わかった」
頷くと七海は、買い物袋からすき焼き用の肉を取り出す。受け取った杏樹はそれを自分
のエコバッグにしまう。
「しかし茄子、値下げ品の肉でも良かったのじゃぞ?」
「そうしたかったんだけどな」
そして二人は横並びで、神社の階段を上がった。
階段を上がって行くと、神社の賽銭箱の鈴を鳴らす音が響いてきた。もう外は真っ暗の
時間である。こんな時間に、お参りだろうか。七海は拝殿の方を見る。
と、そこには、教室でよく見かける仏頂面の男の姿がある。緑川勇作だ。
拝んだ後、踵を返したところで、緑川も七海に気づき、歩いてくる。
近づいてきた緑川に七海は、 「なにやってんだ、お前」と声をかけた。
鼻で笑うように、緑川は、
「君には関係ない」
と、そっけなく応答した。
その間を取り持つように杏樹は、
「まあまあ、二人とも。今日はすき焼きだ。勇作くんもうちでご飯を食べればよかろう」
と言った。うじうじする緑川だったが、杏樹の笑顔を見てしばらく思案した後に
「甘夏さんがそう言うのなら……」
と、応えた。
黙りながら歩く三人は、 神社内の杏樹の家に入った。 居間に通された七海と緑川を残し、
杏樹はすき焼きの用意をしに、キッチンに向かう。居間では桜岡老人が寝そべりながらテ
レビでアニメを観ている。七海と緑川を興味なさげに一瞥してから、またアニメの方に顔
を向ける。 「むさい男どもよりまどかちゃんじゃ」と、ぼそり呟く。まどかちゃんとは、
放映しているアニメのヒロインの女の子のことらしい。
しばらく七海と緑川は黙っていたが、緑川の方が口火を切った。
「天網恢々にして漏らさず」
「はぁ?」
七海には意味が通じなかった。むしろわけわからないことを言う緑川に、思わずキレそ
うになる。
「ふん。そりゃな、七海よ、天が張った網は大きく広く
、その編み目は荒っぽいかもしれ
- 26 -
んが一人も悪人を逃さない、という意味じゃよ」
顔を二人の方には向けず、寝そべりながら放屁しつつ、桜岡老人が説明をした。
「わけわかんねぇ」
もうそろそろこの声楽野郎を、殴った方がいいかもな、と七海は拳を握る。
「天は僕たちを常に見ている」
「だから、なに?」
そこに、すき焼き用の鍋を持って、杏樹がキッチンから戻ってくる。
「勇作くんは、ここ一ヶ月、毎日お参りに来ているのだぞ」
鍋をちゃぶ台に置き、杏樹は言った。
「殊勝なこった」
七海は目を細めて、意地悪に言った。
「お参りしていたら、効果があった」
「へー
。どんな」
いい加減な気分で、七海は緑川を言う。
「天沼一高の声楽部は潰れない。ホープとなる人材が、入学してくる」
七海はさっきより一段高く
、むっと腹が立てた。部員一名で潰れそうなのは緑川の声楽
部だけではないのだ。 七海のデスクトップミュージック研究会も潰れるかの瀬戸際なのだ。
「今日、七海に日直を任せて、僕はその人材にコンタクトを取ってきた」
「へー
。で?」
「木下みかん。彼女が、声楽部期待のホープだ」
七海は下を向いて、お辞儀をするような身体の曲げ方で頭をちゃぶ台に自らぶつけて、
その痛みでムカつきを取っ払う。
「みかんが? お前正気か?」
顔を上げて、七海は相手の頭の中を疑った。 「僕は正気だ」
「そもそもお前と接点がねぇだろ」
「カラオケ屋で、隣の部屋から聞こえてきた彼女の歌声に、僕は惚れた」
これって、声楽っつーか、
……恋愛?
「木下みかんちゃんの歌声は本物だ。部員が入らねば部が潰れるとの話を聞き、ここにお
参りしつつ悶々としていた僕が気晴らしに入ったカラオケ屋で隣の部屋から聞こえてくる
『桃じゃむぅ~』とかなんとか変な歌詞の歌を歌うその声は、まさに本物だった」
「は、はぁ…………」
ダメだこいつ。七海は口を開けたまま、緑川の話を聞く。その開いた口からは、今にも
よだれがこぼれそうだ。
「茄子よ、すごいじゃろ? うちの神社の池は弁天池。音楽の神であるサラスバディこと
弁財天様を祀っておるのだからな。効果抜群! というわけなのだ」
小さい胸を張って杏樹は得意げにした。
「祈ってた内容は他にもあるけれどね」
緑川は杏樹を視界から逸らして誰にも聞き取れない小さい声で言う。
しゃべっている間にも鍋はセットされ、お湯が煮えたぎってきていた。
飯の用意が出来たということで神主さんも現れ、居間を見渡し、緑川の姿を発見するや
- 27 -
否や、
「おお、ポエマーくんも来とるんか」
と、ぶっきらぼうに言った。
ポエマーとは?
頭にはてなマークが浮かんだ七海だったが、どうやら神主さんも緑川と知り合いらしい
というのがわかった。
「県民新聞でいつも見てるぞ、ポエマーくんの自由詩。おれは君のファンだからな。いや
ー
、昔から勇作くんの短歌は町で有名だったしなぁ。知ってるか、茄子よぉ」
「知りません」
どうやら緑川は、知り合いどころかこの県のレベルで有名人であるらしい。
話が複雑になってきた。
七海は頭をまた抱える。
すき焼きを食べ始めると、テレビを消してひっきりなしに話し出した桜岡さんと神主さ
んのトークの応酬に、 杏樹、 七海、 緑川の若い三人はただただ、 話に聞き入るだけだった。
どうも話は、西天沼一帯の斜陽と、東天沼の次の産業廃棄物処理場建設の如何を巡った
話になっていった。そして、産廃施設の誘致を吹き飛ばすような今度の天沼復興の大イベ
ントを開催するに辺り、県からの助成金がどーたらこーたら、と。
☆
家に帰った七海は、二階にある自分の家にまっすぐ向かう。親には「ただいま」と、挨
拶だけ、しておいた。桃畑先生と自分の母親が知り合いだって知ったところで、自分と母
親の関係性が変わるわけでもなく。
ドアを開け、入り、鞄をベッドの上に投げ捨てる。そのあと、自分もベッドにダイブす
る。スプリングが軋んだ。
しばらく天井を見上げていたが、むくりと立ち上がり、机に座り、机の上のラップトッ
プのパソコンの電源を入れる。
パソコンは動きだし、 七海はUSBメモリからデータを取り出す。 それから、 DAW (デ
ジタルオーディオワークステーション)の、キューベースを起動させる。
上手く起動したのを確かめてから、さっきUSBメモリから入れた、ガッコウで作りか
けだったデータを開く。オーディオインターフェイスに接続されているモニター用の高価
なヘッドフォンを耳にあて、音を確かめる。
「なにかが足りないな……」
呟く。 だが、 なにが足りないのかがわからない。 音数は、 多くない方がいい。 これ以上、
音数を増やすのは良くないはずだ。なら、なにかを削るか?
わっかんないなー
、と髪の毛をかきむしってから七海は、椅子を引き立ち上がり、一階
に降りていく。冷蔵庫からコーラを取り出し、コップに氷を入れ、コーラのペットボトル
- 28 -
と一緒に、二階に持って戻る。
椅子に座り直し、コップに泡が立たないようにコーラを注ぐ。
コーラを飲んで七海は、
「歌……か」
と、思い至る。
七海がつくるのはいつもインストゥルメンタルの曲だ。ボーカルが入っておらず、主メ
ロも、楽器が奏でている。
今までずっと、 インスト曲をつくってきた。 だが。 春に部員を誘うための音楽としては、
それじゃフックが足りないって、思ってしまうのだ。
オリコンチャートを見てみよう。そこに、インスト曲のシングルなんて、紛れているこ
とがあるか?
例外はあれど、基本、 『歌もの』っていうのが、この日本では今も昔もメインストリー
ムだ。そして今、つくらなくてはならないのは、その「ボーカルが入った歌もの」なので
はあるまいか。
もうひとくちコーラを飲み、げっぷをして、コップに目を転じ、それから一息に、七海
はコップの中の液体を飲み干した。
おれは、歌なんて歌えねぇ……
。
非常に困ったことに気づく七海なのだった。
そもそもメロディってのも、インストとボーカルものじゃタイプが違う。そのメロディ
をつくれたとして、歌詞を書く才能はゼロ。更に、自分で歌を歌うなんて、不可能だ。
はー
。参った参った。
困ったなー
、と悩みながら歌モノっぽいメロに主メロを入れ替えたりしていたら、いつ
の間にか身体は机から離れ、ベッドにまたもやダイブしていた。
部屋の電気を消す。一応、パソコンのキューベースは起動させたままだ。いつでも戦闘
態勢に戻れる。
戦闘態勢には戻れるが、今は戦わないで、考える。どうするか。いや、どうするかを考
えていたら、次第に女の子のことを思い出しはじめていた。由比ヶ浜ユユという、天使の
ように可愛かった、今は遠くにいて活躍している、あの少女のことを。
- 29 -
あの少女のことを思い出す。
でも、今のおれのこの手は、その少女に触れることさえかなわない。
全ての歯車は回り始めてしまった。人生の車輪が。
だとしたら、自分に出来ることはなにか。
つかむことの出来ないその翼の生えた天使に、せめて近づくことができるように祈るに
はどうしたら。
……いつの間にか、七海は眠ってしまっていたらしい。だが、閉じた瞳を再び開くと、
まだ時間は夜だった。たぶん夜中。
知らないうちに開いていた窓から、冷気を帯びた三月の風が吹き込んでくる。
薄い色のカーテンが揺れる。
カーテンが動くと、窓枠に足を掛けて、人影がこっちを見ていることに、七海は気がつ
いた。
「……ユユ、
…………なのか?」
月の光を浴びて、少女の姿が浮き彫りになる。
「私だよ……」
目をこする。
ユユがいる?
ユユ!
いや。
ユユじゃない。
違った。
その月影のシルエットはユユの長い黒髪ではなく
、左右対称に編まれたツインテールだ
った。
それは、隣の家の木下みかんだった。隣接した隣の家から、屋根を伝って、こっちに来
たらしい。
みかんは、すっと、手を差し出す。その手の先には、長方形の紙。ライブのチケットだ
った。
「眠ってたら、起こすの悪いと思って。
……でも、違うみたいだね」
いつもの強い口調はなく
、和らいだ声。そして、涙をためた瞳。
「私以外の誰かを想ってるんだね、きっと。
……ううん。でも、一緒に行こう。ここに…
…置いておくから」
蹴りの一発でもかまされるかな、と思ったらそれもなく
、みかんは机の上に先生にもら
ったペアのチケットの一枚をそっと置き、窓から屋根を伝って、帰っていった。
夢うつつのまま、どうにか身体を動かし、頭を抱えながら七海は机にあるチケットを眺
める。とりあえずこれを引き出しにしまわなくちゃ、と思い。
七海がそのチケットに書かれたアーティスト名とライブツアー名を読むと。
そこには 『由比ヶ浜ユユ、 ぽむぽむ☆ちぇりーライブツアー天沼公演』 と書かれていた。
七海は頭痛がしてきたので、パソコンの電源を落とすことにして、眠りに就いた。
☆
蒸し暑い季節。日の光は小学生高学年の、少女と少年、この二人の肌を熱く焼く。
麦わら帽子をかぶった少女、由比ヶ浜ユユと七海茄子。小学五年生の二人は相変わらず
照りつける太陽の下、西天沼の路地を駆け巡っていた。
商店街を駆け抜け、路地裏に入るとそこには空き地や細い私道など、ノラ猫が散歩道を
歩くような気分を体感できるゾーンが広がっていた。
- 30 -
二人は走る。笑いあいながら。
七海とユユの二人はある日、うち捨てられたおもちゃのピアノを見つける。粗大ゴミと
して捨てられたものだ。小さくて赤い、手のひらサイズの代物。ユユはおもしろがって、
それをいつもの空き地まで持っていくことにした。
雑草だらけの路地の空き地は七海とユユの、二人だけの秘密基地だった。その空き地に
置いてある、自動車の古タイヤを椅子代わりにして座り、二人はおもちゃのピアノを弾い
てみることにした。
鍵盤を器用に鳴らすユユ。音はちゃんと鳴り、その音の音色と、それを弾いているユユ
の動作に、七海はしばし見とれてしまう。ユユは、ピアノを習っているのだ。
「次は七海の番」
ユユはそう言って白い歯を見せて笑顔を見せる。わかった、と頷くと、七海はおそるお
そるおもちゃのピアノを奏でた。弾いた曲は『猫踏んじゃった』という、幼稚園生この時
に習った曲。七海はそれくらいしか、弾けなかった。弾き終わったあと七海がユユの顔色
をうかがうと、ユユは「結構、上手いね」と笑った。
笑ってくれたその笑顔がまぶしくて、七海は調子づく。七海は、
「おれ、作曲家になる!」
と、突然言った。でまかせとかテキトーとかそんなんじゃなくて、七海はユユの笑顔が
ずっと見たくて、 それで、 今見せたその笑顔のまぶしさに、 衝動的になって、 でも真剣に、
「この笑顔が続くなら、そのために作曲する!」と思い、そう宣言したのだ。
「なら私、七海のつくった歌を歌う歌手になる」
七海は、ユユの顔をのぞき込むように見る。そこには、太陽の逆光を浴びた、天使のよ
うな笑顔がある。でまかせじゃない、テキトーでもない、おれは絶対に、オンガクをつく
るひとになる。そう思う七海は、自分の拳を強く握りしめる。
あの日から、七海の人生は始まった、と言っても、それは言い過ぎじゃないのだ。それ
は、七海自身も、そう断言しはばからないはずのことだ。
もっとも、太陽のまぶしかった、ユユと過ごしたあの夏の出来事を、誰に話した事もな
かったが。
☆
夏の日の約束を夢に見て目覚めた七海は、ゆっくりとベッドから起き上がる。まだ目覚
まし時計が鳴り響く時間じゃない。時計より早起きしてしまったようだが、インパクトの
ある夢を見たあとなんて、大抵そんなもんだ。
夢に見ると、なんだかあの小学生時代のユユとの一コマが、どうにもねつ造された架空
の出来事に思えてならない。そう、架空の思い出がねつ造され、大志を抱いて架空請求を
催促されているかのような……
。
「いかん、現実は現実だ。そこを忘れんなよ、おれ」
自分の顔を両手でひっぱたき、目をこする。
- 31 -
一度部屋から出て、洗面所で顔を洗う。一階のキッチンを覗くと、両親はまだ家にいた
ので、おはよう、と挨拶してから、また二階の自分の部屋に戻る。
シンセサイザーの電源をオンにして、鍵盤を叩く。弾くのは、由比ヶ浜ユユのアルバム
に入っている曲のメロディ。美しいメロディ、とはいえない。むしろ、コード進行とかけ
あわさると「あざとい」動きに思えてならないメロディだ。しかし、極上のポップスなん
て、大概こういうものなのだ。
ガッコウの教科書やノート、それから制作途中の曲のデータが入ったUSBメモリを鞄
に詰めて、あくびをしたところで、目覚まし時計がじりじり鳴り、それを止めてから、下
に降りる。親は仕事に出かけたあとだ。
ひとりでパンをかじっていると、裏口のドアノブが動き、ドアが開く。
「朝からでかい音を鳴らすなバカッ!」
いきなり怒鳴られた。
入ってきたのは木下みかんである。みかんの部屋は七海の部屋と隣接しているので、音
漏れがひどかったのだろう。 ま、 いつものことだ。七海は平然とパンを咀嚼し、 「おはよ」
と挨拶した。挨拶する七海の目をのぞき込み、みかんは「むぅ~~~」と唸った。顔は林
檎のように赤くふくれている。
七海の母親、トマ美の勧めで一緒に朝食を食べ終わると、みかんは卒業式間近の中学校
に向かう。七海の家を出るとき、抜け駆けにかんは、
「ライブ、楽しみだねっ」
と言った。そう、七海はさっき、ユユの曲を弾いた。その音が聞こえたはずなのだ。コ
ンサートはそのユユのライブだ。 だから、 そういうことなのだろう。 なにも言わなくても、
七海も楽しみにしていることをみかんは知っている。
「たまにはお前とでかけるのも、そう悪くないしな」
七海がそう言うと、みかんは「バカ」と返し、 「べー」と舌を出す。それから二人は、
方角の違うそれぞれのガッコウに登校する。
そーいやみかん、やっぱあの緑川のとこの声楽部に入るんだろうか。七海は思う。
みかんと接触した、とかなんとか緑川が昨日言ってたしな……
。
七海は頭を左右に振った。
「いやいや、みかんが誰と会おうがおれには関係ない。断じて!」
ガッコウの校門の前で七海は頭を振って髪を搔き握りその後、 拳をつくって 「でも……
。
あー
、うー」とか呻いて右往左往する。それを登校中の他の生徒たちが奇異の目で見てい
るのに気づき、七海は咳払いした。
「なにやってんの、朝っぱらから」
振り向くとそこにいるのは小暮。小暮は眠たげな目をしながら、七海の肩を叩いた。
「あ、いや。あっはは」
笑ってごまかす七海を不審な目で見やりながら、小暮は、
「あー
、もう春だからねー」
と、叩いた手を今度は自分の後頭部に回しながら笑う。
- 32 -
「どーいう意味だそれ」
「うん。春はバカが増える。四月バカ。君は全くなにも考えてないってことだよ」
「少しは考えてるよ」
「どーせみかんちゃんのことでしょ」
「うっ」
と、そこでくすりと笑む小暮。
「でも、君が会いたい人のことも考えてやらないと。嫌われちゃうよ」
「は?」
七海は首をかしげる。
「さ、風紀の先生が怒鳴り出す前にガッコウの中に入ろうよ」
小走りで駆けていく小暮。それを追うように、 「ちょっと待てよ」とか言いながら七海
も校門をくぐり、昇降口に向かった。
段々と、気温も春めいてきているな、と七海は感じながら。
うとうととする昼下がりの授業。壇上に立って講義する桃畑先生は、かつかつと音を立
ててチョークを黒板に走らせる。チョークの筆圧は高く
、チョークが折れて床に向けて吹
き飛ぶ。
黒板に文字が書かれると、現代社会の授業お馴染みの三権分立がどーのという内容。穴
埋め問題のように開いた空欄を埋めよと、桃畑先生はテキトーに生徒を指さす。
当たったのは小暮。小暮はふはははは、と演劇チックに笑う。あれ? 小暮って演劇部
以外でこんな風に笑ったっけ、とうとうとしながら七海は思う。
小暮はなにやら中二病を演劇病と併発したからなのか、黒くて裏生地が真っ赤な、マン
トを羽織っている。そのマントをバッと広げて教壇へ。黒板に答えを書く。ただ、その答
えは七海にもわかるくらい、あきらかな間違いだ。
七海が首をかしげると、背中から首を回すように二本の腕が伸びてくる。
「わからないのか、答えが。
……おれが教えてやるよ、その答え」
耳に吹きかかる息。はっと息をのみ、七海は相手に振り向く。するとそいつのぼやけて
いた声が一気に知り合いの声に変換され、見たその相手は声楽部の緑川勇作だった。
ああん?
しかめ面をする七海の頬を、手のひらで包み込む緑川。
「ダメだろう、こんな問題がわからないなんて。僕は期待してるんだ、君に。君の顔に、
君の手に、君の足に、君の首に。君の身体全体に」
頬を寄せる緑川は、そのまま七海にキスをする。舌を入れてのキス。それははじめての
キスなのか。いや違う。これは二度目のキスだ。じゃあ、一度目のキスはいつだった?
ああそうだ、おれがしたファーストキスは小学五年生の時、由比ヶ浜ユユとしたキス。
あれがおれのファーストキスだ。そう、思い出す。
熱くした唇を離す緑川。 緑川は恍惚とした目で、 七海を見た。 そして緑川は七海に言う。
「愛してる、ユユ。僕はいつも君のことだけを見てる。いつもいつも、必ず。だからきっ
と僕らは巡り会う、この日常の隙間を縫って、夢と現実が交差するこの場所で…………」
- 33 -
違う! 違う! 七海は首を振る。何故首を振る?
自分はユユじゃないからか。いやそれだけじゃない。こんな現実が許せないのだ。おれ
のユユが、この緑川の声楽家特有の筋肉質な身体にキスしてしまうのが。抱かれてしまう
のが。
七海は思う。自分は、自分の人生でベストを尽くしてきた、と。だが、そんなのはアイ
ドルであるユユにとっては、関係のないストーリーなのだ。それよりも、ユユに頬寄せ合
い、キスを奪う緑川の方が、よっぽどユユにふさわしい。そう七海は思うのだ。
ただ、その断念はどこに向かう?
この断念は、自分の夢への放棄なのか。
違う違う違う。そーじゃない。
このテディベアのような男、 緑川に男として負けることは、 自分の敗北と同じではない。
断じて違うのだ。うまく説明できないが、自分のこの敗北は敗北で、敗北は等しく等価で
はあるが、そういうことじゃない!
七海は「うがあああああああ」と叫ぶ。叫びはディレイのやまびこ効果で何度も弱まり
ながら響いていく。教室のリバーヴも効いてる。最高の音響だ。すくなくとも、この中二
病的叫びの鳴る箱としては。
そして、その箱は一旦、閉じた。
気づいたら授業中だった。七海は目をこする。壇上では普通に学生服を着た小暮が桃畑
先生に出された三権分立の問題の答えをチョークで黒板に書いている。
背中を振り向く。そこには誰も座ってない。当然だ。だってそこは小暮の席で、緑川の
席じゃない。
どういうことだ、と七海は混乱した頭をげんこつで叩く。叩いたら痛かった。どうやら
これが現実らしい。
ユユと緑川?
接点がないじゃんか。 それにおれとキスしてそれがユユと緑川のキスに変換されて……
。
あーバカらしっ。
「次は七海。答えなさい」
「はい?」
桃畑先生の質問に戸惑う七海。その挙動不審にため息をつく先生は、
「あなたは正解よ、小暮くん」
と、小暮を褒めて、そこでちょうどチャイムが鳴って授業が終わるのだった。
- 34 -
☆
「最近、そういうわけで蛇が多いんだよ」
「へー」
弁当を食べながら、 昨日杏樹が言っていた、 蛇が天狗の使役する使い魔みたいなもんで、
天狗が現れるのは天災が起こる前触れなんだ、というのを七海は小暮に説明した。
「でもさ、七海くん」
「なに?」
「例えば『天災』が、杏樹さんの言うように『天才』のメタファーだったとしよう。でも
そしたら、やっぱりその前に考えなくちゃいけないのは、 『天狗』というメタファー
、言
葉の意味それ自体だ、って僕は思うなぁ」
「どゆこと?」
「ほら。天狗って、よく『天狗になる』って言うでしょ。つまり偉そうにしてる人を指す
言葉としての『天狗』 。これはもう、エンカウント確実のモンスターとして、現れるんじ
ゃないかなぁ。 そのモンスターのメタファーとして天狗って言葉が使われてる気がするよ」
「天狗になる、ねぇ」
「だってさ、七海くん。君だってガッコウ中の人間からひそひそと『七海茄子、あいつは
天狗になってるよな』って陰口叩かれてるの、知ってる?」
「えっ! マジで?」
「うっそだよ」
「脅かすなよ、泣くぞ」
「いや、でも僕は君は天狗だって思うもん」
「どんなとこが」
「イマドキ、ライトノベルの主人公みたいな振りして、とても間違った草食系男子を気取
ってるとことかだよ」
「はぁ?」
「だって、君、八方美人過ぎでしょ。ルートは絞らないとバッドエンドだよ。うん。僕に
は見える、君が調子にのって女の子の気持ちをたぶらかしてるうちにそばには誰もいなく
なって四十代チェリーボーイの妖精さんになってしまうその輝けるバッドエンドの未来が
ッッッ」
「…………」
「黙ってるってことは自覚あるのかな?」
「おれはそういうのじゃない」
「じゃあ、なにさ」
「わっかんねぇよ!」
「うわー
、七海くんがキレた~」
そんなやりとりを七海が小暮としていると、そこにサンドイッチを手に持ち、緑川が現
れた。
「ちょっといいかい、七海」
「なんだよ」
「君は木下みかんを、どう思ってる?」
小暮はハンドクラップし、喜んだ。
「ほら来た!」
「黙れ小僧! もとい小暮」
- 35 -
七海は臨戦モードに入る。
「これは手土産のサンドイッチだ」
「ああありがたい、てめぇの食べかけのサンドイッチが嬉しいよぉ」
食べかけのサンドイッチを目の前に差し出され、本当にキレかかる七海に、
「来た来た来た~」
と、小暮は更に喜んだ。
「七海、君からもみかんちゃんの声楽部への入部、促してはくれまいか」
「なんで?」
「彼氏だろ」
「おれが?」
七海はもうよくわからなくなってくる。さっき授業中見た白昼夢のこともある。実は今
もってその白昼夢の内容と現実が混在してしまう七海なのである。少し気を抜けば「ユユ
がユユがユユが……」と音声ループ再生してしまいそうになるところを、今度はみかんの
彼氏だとかなんとか。七海の精神のキャパはとっくに振り切れている。
七海は頭を抱えて「あーあーあーなんなんだもう……
。あーあーあー」と、ぶつぶつ呟
いた。
「ちょっとこいつ錯乱してますので、ここらへんにしてもらえませんか、詩人さん」
首を横に傾けて、にこりと緑川を見据える小暮。その目は笑っていない。
「し、し、詩人じゃないぞっ!」
慌てふためく緑川は、手に持ったサンドイッチを床に落としてしまう。落としてから
「さ、三秒ルールだ」とか言ってまた拾う。完全に動揺している。
「最近、新聞の読者投稿欄でも『ライブ』でも、大活躍だよねー」
言われた途端、目をそらす緑川。
「君はどういうつもりか、僕は知らないけどねー」
「く
、
くそがッ」
緑川は地団駄を踏む。
「小暮、君とはいつか決着をつけないといけないみたいだね」
「望むところだよ」
ですます口調で牽制し合う二人の会話が聞こえていない七海は、まだ「あーあー」唸っ
ている。なのでその頭を抱える七海を見て小暮は、
「君はナルシスト過ぎるんだよ、この天狗さん」
と言葉を投げかけたが、それが七海に届くことはなかった。
☆
その日。 七海とみかんはお互いの家の玄関先に同時刻に現れ、 それをもって集合とした。
由比ヶ浜ユユの、 『ぽむぽむ☆ちぇりーライブツアー天沼公演』の日の正午ごろの話だ。
「物販、並ぶわよ」
- 36 -
と気合い十分のみかんと、徹夜で曲をつくっててローテンションの七海だった。
ユユと間近で会える、と思ったら居ても立ってもいられなくなった七海は、深夜から朝
を経由しその日の昼まで、ぶっとおしで曲をつくっていた。
いや訂正。つくっていたのはリミックスであり、作曲では、ない。由比ヶ浜ユユのデビ
ューシングルの爽快なギターポップを、ダンスチューンへとリミックスさせていたのだ。
まあ、それでも完成しなかったのだが。
さて、リミックスとはなにか。リミックスとは要するに、既存の曲を、その2ミックス
として完成している曲のデータそのままを使い、その上にいろんな音を載せたりして、新
しい曲にしてしまおう、というものである。同時にリミックスとは、 「フロアで鳴って踊
れるのに適したかたちにする」という意味も、大体の場合、付加される。プロの現場では
音素材をパート別になったデータとしてもらってつくるが、一般的にDTMerがつくる
ブートレグリミックスの場合は、市販されている曲をそのまま取り込んで使う。
その『リミックス』を、七海はDAWと波形編集ソフトと呼ばれるものを使って、組み
立てていたのだ。
ちなみに、そうやってリミックスなど、DTMには、作詞作曲編曲以外の、なかなかカ
テゴライズしにくい作業を行うことが多く
、そのため曲をつくる人間を、ライターとは呼
ばず『コンポーザー』と呼ぶことが多い。そのコンポーザーという言葉は、リミックス時
代ならでは、である。
それはさておき。
みかんに半ば連れられるように、七海は西天沼から、東天沼まで移動する。
途中までは、路線バスを利用した。バスに乗ったら、席に座っていたおばあちゃんが、
「あんれまぁ、木下んとこの嬢ちゃん、彼氏とおでかけさね?」
とか、みかんに声をかけてきて、
「やだなー
、中村のおばさんたら~」
と受け答えたりした場面もあった。そう、楽器をやってる七海家のバカ息子と違って、
木下さんの家のお嬢ちゃん、であるところのみかんは、西天沼の年配の方々から大人気な
のだ。
- 37 -
ふむ、いわばアイドル。そう思ったなぜか吹き出してしまう七海なのであった。
☆
「サウンドクラウド、か……」
音楽をストリーミング配信するのとSNSを組み合わせたようなアメリカのウェブサイ
ト『サウンドクラウド』の、自分のアカウントの『ストリーム』と呼ばれるタイムライン
に並んだ楽曲群を眺め、小暮は椅子にもたれ、後ろに背中を反らしながら、ノートパソコ
ンのキーを叩いた。流れてきたのは、七海茄子のつくって今月アップしたばかりの曲だ。
「悪くない。悪くはないけど、な」
東天沼のライブハウス『リンリンクラブ』の楽屋でインターネット回線に繋いだパソコ
ンを前に目を細める彼、小暮は、演劇部の期待のホープであると同時に、請負でライブの
『前説』を行ったりなど、司会者業をこなすプロの業界人でもある。もちろん、ガッコウ
の校則違反なので、ガッコウ側には黙って活動している。七海も小暮のこの活動のことを
知らない。
黙っている、とはいえ、小暮は小学生時代から、俳優の事務所に所属していて、その事
務所経由で仕事が回ってきているのだ。公然の秘密、といったところである。
幼少の頃、俳優事務所のスカウトで業界へ。
今、ここにいるのは、よくタッグを組まされる、由比ヶ浜ユユのライブの前説を承って
いるからだ。ユユは、中学入学と同時に事務所入りしている。小暮はだから、ユユの先輩
格ということになる。
ライブハウスでの小暮は小暮ではない。彼こそは、闇の魔王『デーモン・オクレ』なの
である!
ドーランを塗ったくったその顔に、黒いアイシャドー
。魔王然としたゴージャスなファ
ッション。それはさながら、ビジュアルショックなバンドのメンバーのようである。
「うーん。 でもバンドを組んだこともない人間がつくるテクノポップで、 しかもインスト。
需要ないよなー
、実際」
七海の楽曲を聴いて一分が経過したところで、曲を止める。 「でも七海、ボカロはやら
なさそうだし。どのみち底辺はいつまで経っても底辺、ってね」
「デーモン・オクレ閣下~
、リハ始まりますよ~」
楽屋の外からスタッフの声がする。それに小暮、いや、デーモン・オクレは応じる。
「ふはは、我が輩が貴様の年金を無効にしてくれるわッッ!!」
決めぜりふを言い、役に入り込み気合いをみなぎらせる男が、本番を待っている。
計算が得意な子供だった。小暮は幼児虐待を受け、酒乱で暴力をふるう父親と我が子を
助ける気が毛頭ない母親から引きはがされ、一時施設に預けられ、育てられた。ひどいと
ころだった。施設の職員の性的嫌がらせは、男の子である小暮の身にまで及んだ。
小学生高学年、由比ヶ浜ユユがこの天沼の土地を離れるのと入れ違いのように、小暮は
普通の小学校へと編入された。施設の子供達は施設の子が通う学校に通っていたのだが、
心を入れ替えた、と自称する両親が小暮を迎えに来たのだ。
が、自称は自称だった。そしてそれを飲み込み生活を変えた小暮は自傷を自称するに至
るのだ。家庭内暴力は尽きなかった。
家庭内暴力をドメスティックバイオレンスなんていう横文字にされた意味を、小暮は探
る。そしてわかる、それは頭の良い人間によるイメージ変えの戦略なのだ、と。ちょっと
お洒落で、知的で、受ける方もカウンセリングされるのに抵抗がなくなるような、そんな
名称への変更なのだ。そんなことを、小暮は計算してはじき出す。
家での暴力を受けるのと施設での暴力を受けるのを天秤にかけようとした時、天からの
囁き声のようなものが聞こえてくる。容姿の良かった小暮に、子役の俳優にならないか、
というスカウト。
- 38 -
もちろん二つ返事で、事務所に入り、幼少の頃から金を稼ぐようになる。父親は酒浸り
になり会社を辞め、小暮の収入をあてにする。父親にとってもしめたものだし、小暮にと
ってもまた、しめたものだった。これで「こいつらを支配できる」と、小暮はほくそ笑ん
だ。
そんな小暮は、この計算は文系の力だと気づく。理系とは空間に関する学問で、文系は
時間に関する学問である。だから理系は『再現可能なもの』を学問し、文系は人生などの
『一回限りのもの』を学問する。小暮は、時間を支配したかった。
空間に展開し、時間の総合芸術として機能する『演劇』 、これがやるべきことであり同
時に天職なのだと、小暮は自分を理解した。
世界は自分を中心に回る。だから、その姿はできるだけ隠して、今は生きる。スキルを
磨く。それが今のこの時期なのだ。小暮はそう考えている。高校生くらいの少年にありが
ちな自己中心的な独我論者。
「この街に降り立つ天狗は、他の誰でもなく
、このおれなのかもな」
そう信じ込むと、背筋を通るぞくぞく感がその身を貫いて、小暮の心を補強した。
ステージはいつもおれのもの。だから今はまだ、キミタチにかりそめのスポットライト
を貸しといてやる。
☆
例えば木下みかんならば、この天沼の土地に一生生きていても大丈夫だろう、と七海は
思う。だが、自分ならばどうだ。うん。たぶんおれはこの孤島のような土地にいたら、そ
のままひからびて死んでしまうだろう。
七海は由比ヶ浜ユユという少女の存在、そして昔の約束を、たびたび思い返す。でも、
それが自分を構成する全ての要素だったのだろうか。それはたぶん、否だ。
自分はアイドルであるユユにいつしからか、都会のイメージを重ねるようになった。
そもそもアイドルという輩は、やたらと東京のことを歌いすぎるきらいがある。確かに
田舎の土地を歌ったら演歌歌謡になってしまうから、 という理由もあるにはあるだろうが、
それ以上に、アイドルというアイコンは、都会・東京を象徴させていないと難しいような
気もするのだ。ご当地アイドルという言葉をいつだったか七海は聞いたことがあったが、
それはつまり『色物』だ。色物は色物に過ぎない。それが、食べ物での色物である納豆が
日本のスタンダードになっているかのように、ご当地のアイドルとやらもいずれ、そう機
能するかもしれないが、その方法論は、ゆるキャラなんかと違って、成功率は低い気もす
る。
七海も、サウンドクラウドというサイトで曲を発表しているから推測できるが、ネット
の中でさえ、求心力を持つのは東京というワードやキーワードだ。アニメグッズを売る時
に、店に「秋葉原がこの街にも!」みたいな惹句が効果的だったりするのだ。結局、幻想
の東京が、そこかしこに乱舞しているのが、この国の田舎から見たリアルだ。
この町の東西の落差は、古い町並みの西地区の息苦しさを、七海はずっと感じてきたも
- 39 -
のだったが、しかし新興住宅のある、国道文化圏の東地区は、広大な、なにもないところ
に、 『東京のように』何でも揃う、といううたい文句が鳴っているような、そんな店舗群
が形成されていて、 それが求心力になる。 これからもその 「東京のような」 地区ばかりが、
旧市街を破壊し、生まれていくことだろう。
こんな田舎のリアルに生きる若者は、今後どうしていけばいいのだろうか。正直、みん
な、この土地を離れていくだけではなかろうか。
田舎の地元志向のヤンキー文化がそれに太閤しているように思うかもしれないがそれは
間違いで、七海が思うにそれは『諦念』なのだ。あきらめなのだ。あきらめが最初にあっ
て、だから、諦念をしてもってはじめて、この土地でまったりとできるのだ。
だが、自分はその地元文化から切り離されていて、更にネットで日夜『リトルトーキョ
ーの幻影』を浴びせられるようにコンテンツを摂取せざるを得ない状況が生まれているの
だ。これはどういうことだろうか。
ユユは、東京を歌うアイドルだ。だから余計と輝いてみえる。自分とのつながりは、地
獄に垂らされた蜘蛛の糸のような、そんなつながりに、変化してきてしまっている。あり
ふれた「東京を詐称する田舎」から生まれるアイドルたち。ユユもその系列に位置する。
そんな都会のアイドル・ユユが、今日、この田舎の天沼に舞い戻って来るのだ。
☆
長い長い長蛇の列。その男性比率九十パーセントを誇る列は、ライブハウス『リンリン
クラブ』の入り口前に設置された横長のテーブルでやりとりされる物販の列なのである。
売るのは由比ヶ浜ユユの、促進販売グッズ。Tシャツ、マフラー
、マグカップなど。ど
れもユユの名前やこのコンサートツアーのタイトルが刻印されている。しかも、ここで買
えるのはこのツアーの間だけ、とあって、オタクくさい列のお客さんたちはガッツリ買う
構えだ。実際、ほとんどの人はグッズのほぼ全てを買って去って行く。
この列、午後二時くらいに販売開始で、その三十分前に到着した七海もみかんも、長い
この列の最後尾に着くと、先頭の方がまるで見えないほどであった。
コンサートの開場は五時。この場にはとどまってはならないという案内を何度も拡声器
からアナウンスされているので、みんなグッズを買ったらどこかへと散っていく。二時に
買って五時まで、一体この何百人もいる人数の全ては、どこに散ってどこで時間を潰すの
だろう。
七海にはちっともわからない。が、ただ、この列に並んでいるひとたちは、手にスマホ
を持っていじくっていたり、携帯ゲーム機をプレイしていたりするから、時間を潰すのが
得意な連中なのだろう、と七海は推測した。これで、合点がいくぜ。
「しっかし、みかんもグッズとか買うわけ?」
「あったりまえでしょ! そのために並んでるんだから! 間違ってもあんたに早くドル
オタのいる風景をみせたかったわけじゃないんだからね」
- 40 -
「なんだよそのおかしな用法のツンデレ言語は。あとドルオタってなに?」
「アイドルオタクよ! ツンデレとかじゃなくて、見せたいの! この町の周辺にもアイ
ドルを愛好するひとたちがたくさんいるってとこ」
「みせたいとかみせたいわけじゃないとかわけわかんねぇけど、でもなんとなくそれは理
解したよ。みかんもそのドルオタで、その同好の士を、見てほしかった、と」
「うぅぅぅ、直接言われるとちょっと恥ずかしいかも……」
とかやりとりをしていると、周囲の目が厳しい。 「リア充めがッッッ」 と言わんばか
りのとげとげしい視線をさっきからビシバシ感じる。ユユの姿は見たいけどそれまでに殺
されかねんな、と七海は殺気に身がすくんだ。
その視線に鈍感なのかなんなのか、みかんは気にも留めない風だ。こういう時、女は強
い、と七海はみかんの顔をまじまじと見た。
「なによ?」
周囲の視線には無視を決め込んでいるのに、七海の視線には敏感なみかん。思わず七海
は苦笑した。
「だからあんたはなんなのよー!」
みかんはツインテールドリルを逆立たせ、七海の頬をつねる。そうしてるうちに並んで
いるひとが徐々に捌け、三十分後にはグッズを買うことができた。
全種類のグッズを買ったみかんはほくほく顔になった。七海も、Tシャツを買う。ネイ
ビーブルーのシャツで、センスは結構良かった。アイドルの促販といえど、侮れないお洒
落さであった。
- 41 -
列から捌けたあと、七海とみかんはライブハウスから離れ、近くの喫茶店に入る。ライ
ブハウスの近く
、 というだけあって、 店内は混み合っていた。 が、 そんなのどこ吹く風で、
みかんは気楽に珈琲飲みながらぺちゃくちゃしゃべる。みかんの通ってる中学の話や、終
わったばかりの受験の秘話。それから、毎日部屋にいるときに使っているアロマの話や、
家族のこと。
どれも、みかんにとっては重要な話なのだ。だが、七海は話を聞きながら「ああ、これ
からユユの歌ってる姿を観るんだな」と、そればかりが頭に浮かんだ。それが表面にたま
にでるのか、 「ちょっとー
、ひとの話はちゃんと聞いてよね!」と怒られるのだ。
そして開場時刻。再びやってきたライブハウス・リンリンクラブの入り口で、チケット
の提示をしてモギリの人に入念にチェックされて、やっと箱の中に入る。
キックの音が漏れるフロアの扉を開く前に、みかんは七海に言う。
「さ。扉を開けたら新しい世界が開けるよ~
。
……それではようこそ、地下アイドルの世
界へ~~~」
☆
扉を開けて中に入ってからのことを、七海はよく覚えていない。オールスタンディング
の人の群れから熱気が伝わってきて、おろおろしているとユユの名前が刻印されたはっぴ
を着た人が寄ってきて『コール本』と呼ばれるものを七海にくれた。そして笑顔を見せる
とはっぴの男は去って行き、他の人たち一人一人に配っていった。
コール本というのは、ライブ中の「合いの手」が書かれたものだ、とみかんは言う。
七海はコール本のページをめくる。これには例えば「愛してる~(愛してる~) 」 「君
のことが(ウー
、ハイハイハイハイ) 」 「私はとっても~(ラブリーラブリー
、ユ・ユ・
ちゃ・ん) 」など、七海にはルールがいまいち掴めないものが書かれていた。みかんに読
み方を聞くと、歌の歌詞に紛れて入っている『 () 』内に入っているのが、いわゆる『コ
ール』で、歌の途中で、このかけ声を会場のみんな全員で叫ぶらしい。マジでか、と七海
は説明を聞いて目を丸くした。だってこれ、全部の曲の至る所にその『コール』が入って
るじゃん。ここにいる人たちはこれ、全部覚えたの? 七海は絶句せざるを得なかった。
オタク、恐るべし。
コール本を二人で読んでいると場内の照明が消され暗くなった。スタートだな、と七海
は胸が高鳴る。
ステージがパッと明るくなると、そこに現れたのはユユではなく
、顔に真っ白なドウラ
ンを塗りたくったど派手な衣装を着た男だった。 「なんだなんだどーいうことだ」と七海
はぽつりと言ってしまったが、そう思ってるのは七海だけだったようだ。ドウランの男は
我が輩がどーたらこーたら、とわざとつくったような低い声でなにやらしゃべりだすと、
場内は爆笑の渦に包まれる。
七海は男のパフォーマンスに興味が湧かなかったので、みかんに話しかける。
「なぁ、みかん」
「なに?」
「おれ、アイドルのコンサートって、コンサートホールでやるものだとずっと思ってきた
よ。でもここ、バンドのライブやったりDJイベントをやったりする箱だぞ?」
「だからさっき言ったでしょ、由比ヶ浜ユユは『地下アイドル』なのよ」
「地下アイドル? マイナーなアイドルってこと?」
「違うわよ。七海、あんたユユをディスってんの?」
「んなわけねーだろ」
「地下アイドルっていうのは、 別名 『ライブアイドル』 って言われるの。 その名前の通り、
ライブを中心に活動する、観客とちょっと距離が近いアイドルのことを指すのよ。今、有
名なアイドルっていうのは、その活動はとても芸能人芸能人してて、テレビのバラエティ
番組に出たり、雑誌のグラビアや写真集なんかの、かなり目立つことを全般的にやってい
くの。でも、地下アイドルの活動は、そこじゃない。もちろん、写真集は出すけど、これ
はファンにとってはその写真集が目当てなんじゃなく
、こういうものが発売した時にほぼ
確実に開かれる、そのアイドルやアイドルグループの『お渡し会』や『握手会』が目当て
なの。アイドルだけど、至近距離にいる。だから、大きいホールでもコンサートを開くけ
ど、基本的には、観客と距離が近いライブハウスとかで歌を歌う。握手やハイタッチをフ
ァンとする。これはなにも、アイドルの新しい潮流というよりも、伝統的な日本のアイド
ルのスタイルを、現在に復活させただけなのよ」
熱弁に力が入るみかん。みかんが話していると、ステージではドーラン男が客を煽り出
- 42 -
しているところで、そのアジテーションはラストを迎えていた。男は自分の名を、デーモ
ン・オクレ、と名乗っていた。が、特に面白みを感じなかった七海はしらけた目で、デー
モン・オクレの方を向いたのだが。
「お前ら、由比ヶ浜ユユは好きかッ?」
オー
、という歓声。
「由比ヶ浜ユユは、好きですかぁ?」
オー!
「ユユ!」
ユユ!
「ユユ!」
ユユ!
「ユ・ユ・ユ・ユ・ユ!! Fu、Fu、Fu!!」
ユ・ユ・ユ・ユ・ユ!! Fu、Fu、Fu!!
オーディエンスとステージ上の男、なんかよくわからないがものすごくヒートアップし
ていき、実はこのデーモン・オクレという前説の男は、すごく才能があるんじゃないか、
と七海は徐々に思うようになった。しかしこいつ、どこかで見たことあるような……
。
「それでは紹介する! これから最高のパフォーマンスを披露してくれるみんなのお姫様、
由比ヶ浜ユユたんだあああああああ」
湧きに湧く会場。フロア全体がオタクたちの雄叫びで響き、震えだす。唖然とする七海
が周りをみると、会場のほぼ全員が、各々のバッグなどから、棒を取り出し、スイッチを
一斉に入れた!
光る棒!
オタクたちがスイッチを押し、その光の色を変えていく。赤、蒼、黄色。そして、みん
なが合わせたのは、ユユのイメージカラーであるピンク色だった。この光る棒、色が何色
も実装されているのか! 驚く七海にみかんは耳元で、
「これがサイリウム。キングブレードなの」
と囁いた。もちろん、みかんもそのキングブレード、略称キンブレを手に持ち、スタン
バイを整えている。
デーモン・オクレは去り、それと入れ替わりに現れた由比ヶ浜ユユ。いきなり曲が始ま
った。アップテンポなその曲は、七海がいつも、辛い時にひとり、部屋で聞いて勇気づけ
られる曲だった。
ああ、またユユに会うことが出来た……
。
七海は、一曲目『恋愛素(れんあいそ) 』の頭から、涙が出そうだった。
☆
「どうだった、ライブ」
いたずらな目を輝かせながら、みかんは七海の顔をのぞき込む。
- 43 -
熱気、熱気、熱気。
ユユのライブパフォーマンスは、このしらけた世の中にこれほどまで熱いものが存在す
るのか! という驚きを、七海にもたらした。こうやって今、ライブコンサートが終わっ
たあとのBGMが小さく流れるフロアの中で、七海は呆然と立ち尽くすしかなかった。
ユユは、由比ヶ浜ユユという存在は、もう、自分から遠く離れていってしまった。そう
確信するしかない。
自分は作曲をしている。だが、プロのつくった音楽を、ボーカリストとしてダンサーと
して、そう、アイドルとしてみんなに届けるという職業をしているユユには、自分は遠く
及ばないのだ。これは表現者としての、完全な敗北であり、まだ高校生でもある、自分と
同じ年齢の、それも昔友達だったあの少女と自分との、人生そのものとして比べての落差
だった。
じゃあ、七海は絶望に苛まれてしまったのか。それは違う。一体この充実感は、なんな
んだろう。たぶん、それこそが『地下(ライブ)アイドル』の『ライブ』というものの引
き起こす快感なのだろう。
人もまばらになって、フロアから七海は誰もいなくなったステージを見つめていた。
「ユユ……」
みかんはニヤニヤしている。
「あれ? もしかして好きになっちゃったのかな、由比ヶ浜ユユのこと?」
七海とユユが知り合いだったことを知らないみかんは、今、はじめてユユのことを七海
は大好きになってしまったのだと勘違いして、そんなことを七海に尋ねる。
七海のこめかみに、一筋の汗が流れ落ちた。
ライブハウス・リンリンクラブを抜けて、若干疲れで虚脱しながら、七海とみかんは歩
く。ライブハウスの前には結構ひとがたまっていて、スマホをいじっていたり、ユユに送
られた花束などの写真を撮っていたりする。そこから少し歩くと、 『由比ヶ浜ユユ ぽむ
ぽむ☆ちぇりーライブツアー天沼公演』に来たオタクたちを睨み付けるようにしている地
元ヤンキーたちがたむろしている。
冷めやらぬ熱狂で興奮状態にあるみかんは、
「あ、ヤンキー座りしてる不良ってもはや化石だよねー」
とか七海に言う。七海も笑って、
「ここらへんの人間は田舎人間だからな。田舎らしくてほほえましい、
くらいの感じで笑
ってやりすごせばいいんだよ。さ、とっとと飯でも食いにいこうぜ」
と返して先を急ごうとした。が、
「ちょっと待てやッ」
と、凄む声。七海とみかんが声のした後方を振り向くと、そこには、田舎にしか生息し
ていないとされるリーゼント頭のヤンキーが、改造した学ランを着て、こめかみに血管を
浮きだたせていた。
「オタクがよぉ、調子のってんじゃねぇべ」
かなり訛りのあるイントネーションで、七海は吹き出してしまった。
- 44 -
「なにがおかしいんじゃぁ」
威圧するその声もへろへろで、たぶんドスをきかせようと必至なんだろーなー
、と想像
すると、更に笑えてしまう。笑えてしまう、というか、実際に腹を抱えて七海はゲラゲラ
笑ってしまった。
「おんどりゃァァぶっ殺すべごらァッ!」
腕を上に挙げて殴るポーズをするリーゼント。 そこへ、 その横合いから腕が伸びてきて、
リーゼントの手を掴むものがいた。
それは、 『ユユ・ラブ』と書かれたはちまきを頭に巻き付けたオタクだった。
「オタカップルをいじめるな!」
かっこよく決めるオタク!
しかし、捕まれてない方の腕でリーゼントは即座に殴り、顔面を殴打されたオタクは吹
き飛んでしまった。下敷きになったオタクのバッグからは、プラスティックが壊れるかん
高い音がした。転がったオタクはびっくりして、バッグのチャックを開ける。
「ああ、おれのキンブレが!!」
殴られたことよりも、自身のサイリウムが破壊されてしてしまったことの方にショック
を受け、泣き出すオタク。
「ユユたんのライブに行くときはいつも、
……いつも一緒だった、思い出のキンブレが…
…
。あああああああああ」
慟哭。
オタクの分身であるその光るキンブレはもはや壊されてしまい、もう光ることはないの
だ。オタクは泣き叫ぶほかなかったのだった!!
「うっせぼげッ、っこのっオタクさ泣いてんでねぇべよ」
「五月蠅いのは貴様だこのかっぺ野郎」
リーゼントと七海とみかんとオタクのこの騒動を傍観するようにできあがってしまって
いた人垣の中から勇ましい声がする。七海はその声の主を探る。どこかで聴いたことのあ
る、よく通る声だな、と。
そして人垣から出てきたその男は、七海のよく知る相手だった。その、さっきのオタク
と同じユユラブはちまきを巻いて、ユユの名前入りのはっぴを来た男は言う。
「キンブレの代償…………
、すこしばかり高くつくぞ、三下がッ」
道路にペッと唾を吐き捨て拳を鳴らし臨戦態勢に入ったそのオタクは、七海の通う学校
唯一の声楽部の部員。
「学ラン。申し遅れたな。僕は『ユユたん帝国』の帝国民、さすらいのバリトンボイス、
緑川勇作だ……」
「んだてめっこのっ」
「能力(スキル)発動!!」
なにが『能力(スキル) 』だかはわからないが、とにかく緑川は強かった。一方的に殴
り、倒れたところを蹴り、 「漆黒の闇(フォース・オブ・ダークネス)に堕ちるがいい」
とかわけのわからないことを言い、ヤンキーを足蹴にしたどころか鳩尾や金的などを繰り
返し、その上で顔面を足でで踏みつけた。たむろしていたヤンキーたちがかたきを取りに
やってきたが、あまりの攻撃にリーゼントがゲロを吐き出したのを見て後退りし、リーゼ
- 45 -
ントを起き上がらせると緑川に頭を下げて、逃げるように散っていった。
圧勝だった。伊達に声楽のために筋トレしているわけじゃなかったのだ。
「大丈夫か……」
「は、はい。ありがとうございます」
サイリウムを破壊され泣き崩れていたオタクに声をかける緑川は、胸ポケットから、一
枚の写真を取り出す。
「キンブレはもう元には戻らない。辛いだろう、一緒に戦ってきた友(フレンズ・オブ・
トゥルース)を破壊(ジャスト・ソー・デストロイ)されたことは。ふっ、仕方ない、君
はこれをやろう」
「あ、この写真……
、ぶ、ブロマイド。で、ですがこれはCD『いちごの日』の初回特典
の応募用紙を送って抽選でしか当たらないブロマイド、
……ですよね」
「大丈夫。僕はユユのCDは常に三枚買う。つまり、このブロマイドはまだ、家に二枚あ
る、ということを意味する。
……『いちごの日』の抽選、三枚全部当たったんだ。
……僕
は強運の持ち主なのさ」
なんだかよくわからないことになってきたな、と一連の流れを見ていた七海は思う。っ
ていうか、震源地はおれとみかんじゃないか、もしかして……
。
☆
気まずい……
。
七海は今の状況をどう説明したものか、考える。東天沼のショッピングモールの一角に
あるファミレスで、というかガストで、七海とみかんは緑川勇作と向かい合って禁煙席の
テーブルについていた。みかんの頼んだハンバーグが一番先に運ばれてきたところで、緑
川は口を開いた。
「で? キミタチはデートをしていたところを、 僕に助けてもらった、 ということかな?」
それを受けて、 みかんは目を輝かせて緑川に質問を投げかける。 黙っていりゃいいのに、
と七海は思うのだが、こいつの性格じゃなぁ、とか、ため息を吐いた。
「勇作さんって、由比ヶ浜ユユのファンなんですか?」
自分の質問をはぐらかされたことにちょっと「むっ」と不機嫌になるがそれは一瞬のこ
とで、緑川は、紳士的に答える。
「僕は生粋の『帝国民』だよ」
帝国民。それはユユのファンを指す言葉だ。正式には『ユユたん帝国』の『帝国民』で
ある、とされる。
「僕は幼い頃……」
幼い頃、という一言で、七海は視線をきつく緑川に向ける。
「僕は幼い頃、当時一世を風靡したアイドル、下田ザクロの大ファンだったんだ」
一言一言噛みしめるように語り出す緑川。七海は、 「幼い頃」のあとに、ユユと知り合
いだったとか言い出すのではないか、と思ったが、そうじゃなかった。そもそもこいつの
- 46 -
生い立ち、七海は知らないが、目の前にいるこの男が天沼市には住んでいなかったのだけ
は確かだ。そもそもうちの高校は、県の隣接都市からたくさん生徒が通っている。この天
沼という土地自体、そんなに大きい場所じゃない。ここに昔から住んでいるなら、自分が
知らないはずがない、と静かに頷き、七海は耳を傾けた。
「あの頃、一世を風靡したアイドル・下田ザクロは、それはそれは輝いてみえたし、実際
その活動は凄かった。あの残滓を、僕は成長してからもずっと追い求めていたんだ。そし
て三年前、その下田ザクロ直系の弟子と呼ばれるアイドルがデビューした。それが由比ヶ
浜ユユだ。僕は歓喜した。由比ヶ浜ユユ、
……ユユたんは、小学生時代、小六の頃から、
下田ザクロにアイドル指南を受け、実力を磨いた、という。中学生に上がるまでのユユた
んのプロフィールは不明とされ、憶測だけが飛び交っているが、それはそれは苦しい時代
を送っていたのではないか、というのが帝国民の間では通説になっている。だから、ユユ
たんの幼少期を描いたという二次創作のマンガが、コミケでは大人気だ。某国の諜報機関
とつながりがあったという下田ザクロは、自分の人気が上がるにつれ、身の危険を感じ、
故郷であるアトランティス大陸に帰っていった、という。ちなみにそのザクロのいきさつ
を描いたファミリーコンピュータ用ゲームカートリッジが『アトランティスの謎』だとい
うのは有名だね。
……そう、もしも冷戦がもっと早く終結していたのなら、下田ザクロが
アイドルを引退することもなかったであろう。まあ、その場合はユユたんが顕れることが
なかったかもしれないから、なんとも言えないけどね。まあ、その弟子であるユユたんが
業界に送り込まれ、僕ら帝国民がブヒブヒとオタ芸ができるのだから、全ては結果オーラ
イだ、と言えなくもないんだ。
……なぜ今頃になって下田ザクロが業界にユユたんを送り
込んだのか、これは考察に値することで、僕ら有志が集まり、日々調査と研究を重ねてい
るところだよ」
なるほど、よくわからん!
七海は頭を抱えた。こいつ、本気なのか? 頭がそんなにおかしい奴だったのか。七海
は緑川勇作という人物の壊れっぷりにちょっと引き気味にならざるを得なかった。ていう
か声楽の練習して成績優秀で最近は天沼神社にお参りしてるこいつだが、そこに、更にオ
タクっていう属性まで加わってこいつは絶対にダメな奴だ。人間としてダメな奴だ。
「ああ、それと僕は、今回のツアーは全公演、行っている。いや、帝国に毎回『帰国して
いる』んだ」
ああ、ほんまもんの阿呆や。阿呆がいる。ここに阿呆がいる……
。
「えっ、全公演追っかけしてるんですかぁ、すご~い」
すご~い、じゃねぇよみかん。お前も大丈夫か?
思わず目を細めて緑川とみかんを見てしまう七海だったが、自分の頼んだステーキが運
ばれてきたので、脳内でツッコミを入れるのはやめにし、料理を食べることにした。みか
んはまだハンバーグに手を付けてないし、緑川はまだ料理が運ばれてきていないのだが、
そんなの知ったことか。七海は「うまうま」言いながら口に肉を突っ込む。
「みんなの分が揃ってから食べなよ、七海のバカ」
「バカはお前らだバカ」
「なにぉ~~~」
「ところで、みかんちゃん」
- 47 -
緑川は、シリアスな真面目顔のまま、尋ねる。
「入学したら、声楽部に入ってくれるね」
「うーん、どうしよっかな。まだ考え中」
そこに緑川の雑炊が運ばれてきた。
声楽部の話はみかんの帝国民への質問攻めにより打ち切られ、 夜が更けていくのだった。
七海は緑川の「声楽部への入部の誘い、お前からも頼む」という約束を果たしていないの
がバレバレで、ちょっと気まずかった。みかんと緑川のオタ話は、三時間続いた。
☆
「デーモン・オクレさん、お疲れ様です」
ライブハウスの楽屋は木の板の壁で出来ていて、埃っぽい。古い小屋を改装してできて
いるのだ。ここ、天沼に、昔のバンドブームの頃から存在している『リンリンクラブ』 。
「ビートパンクブームのあの頃の小屋。同時に、アイドルブームだったあの頃……」と、
デーモン・オクレ、つまり小暮は思考を巡らす。揺り戻しのようにやってきたアイドルブ
ームの今、またここが、この県の震源地にもなりそうで。
ここ、東天沼は、新興の土地だ。だから、ほぼ新しい建物ばかりが、でーんと建ってい
るイメージに囚われがちだし、実際その通りなのだが、よくよく見て見ると、古い建物で
やっていた店は運良く残っているか、事業に失敗した店舗が去って行って、そのテナント
が新しくなってなにかの営業を開始している、というのが少なくない。
西天沼、七海たちの住む方の商店街は壊滅状態だから、東地区に「たまたま土地を持っ
ていた」人間は、まさに「運が良い」という理由だけで、サヴァイヴできている場合が多
々あった。正直、このリンリンクラブもそういった物件だ。店の評判より、伝統より、運
が良いという理由によってのみ、 存在を許されてしまっている。 それが小暮の分析であり、
印象である。
楽屋にちょっと顔を見せて小暮に挨拶していったのは、ユユのマネージャーのスーツ男
である。いつもビシッとしたスーツ姿。さわやかな笑み。はきはきした物腰と、敏腕のマ
ネージメント。そして、その裏で業界の女の子をばくばく食べている好色漢の男。どの要
素を取り出してみても、小暮はこいつを、好きにはなれそうになかった。好きになれない
まま、嫌悪感を抱いたまま、ビジネスライクに、小暮はデーモン・オクレとして、こいつ
と向き合っていた。
マネージャーのことなんてどうでもいいのだ。問題は、 『アイドル』という存在の醸し
出す、あのなんとも言えない『ぶきみなもの』感だ。ポップ・アイコンという、ぶきみな
もの。
アイドルはなぜアイドルなのか。それはひとえに『努力』というものの介在が多くを占
めている、と小暮は思う。可愛い女の子なんて、そこら中にいる。でも、アイドルを「可
愛い!」と評し、逆に普通の可愛い女の子を評価せず、時には無視するオタ達の心理状態
は、要するに「相手をリスペクトできるかどうか」なのだと思うのだ。リスペクト精神と
いうところで、オタクとラッパーには通じるモノがある。
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アイドルは、歌い、踊る。特に地下アイドルという存在はそうだ。歌手ともミュージシ
ャンとも近い位置にいるが、しかしボーカリストとして売っているのでもない、ダンサー
でもない。不思議な存在。血の通わない風を装う、しかし熱い血のたぎる存在、それがア
イドルだ。そして、そのアイドルを信奉する信者たちの振る舞いも、異常というか、独特
だ。
小暮は、その業界で、仕事をこなす。確かに、仕事で一緒になるアイドルのカリスマ性
に、信服するほどだ。
だが、と思う。
「気にくわない」
小暮はデーモン閣下のメイクを落とし、汗でびっしょりになった下着を取り替えながら
呟いた。 「どいつもこいつも笑顔を振りまきやがって」
小暮は知ってるし、ファンもみんな知っている。別に、ハッピーなわけじゃないのだ。
本当なら、笑顔なんて見せれる状態にそのアイドルがいないことも、かなり多くあるのだ
……そんなの、知ってる。
今回、小暮は由比ヶ浜ユユのライブハウスを回るツアーについて回っている。ファイナ
ルまで、ずっと小暮はついて回る。司会、前説、まあ、いわゆるMCとして。
ユユは前半の公演を消化したあたりから、見る見る心の調子が悪くなってきた。楽屋で
泣きじゃくるようになっていて、それが治らない。最近では、公演が終わっても小暮に挨
拶しにくることもなくなった。ホテルに直行して、眠ってしまうのだ。だから、打ち上げ
もなにもあったもんじゃない。なので、さっきのようにヘラヘラした笑みを浮かべて、マ
ネージャーが挨拶しに来る。
アイドルが『苦労』という代償と引き替えに輝くのならば、由比ヶ浜ユユはこれを乗り
切れば、もっともっと輝くだろう。
だが、そんなショービズの世界とは、要するに人間の幸福も不幸も吸い取って金に換え
る、悪夢のような装置なのではないだろうか。
こんなところに、果たして自分はいるべきなのか。ふと、そう思ってしまう小暮だが、
地下アイドルは、現代に蘇った地下演劇だ、と思っていて、今は自分は黒子として、見届
けようと思うのである、この地下街の人々の演劇の行く末を。 「そこに、おれの未来が幻
視出来る」とばかりに。
嫉妬と羨望の眼差しに耐えて、週刊誌に引退説がでるくらい毎日泣きじゃくる由比ヶ浜
ユユを、しかし小暮は慰めない。
☆
休日が終わり、小暮は何故か月曜日に行われることになった、ガッコウの終業式に向か
う。眠い。歩く通りには、梅の花が咲いている。もうすぐ桜の季節だな、と思う。ユユの
心の調子は悪いが、ツアーは後半戦、あとライブを三本控えている。ファイナルは東京。
ホールクラスでの公演だ。
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握手会などで露出が多い東京では、 ホールでの公演もすぐにソールドアウトする。 だが、
この天沼のような場所では、当日券も出るような案配だ。まあ、当然。
小暮はそう遠くない未来、 自分がメインで出演する劇やトークショーのことを夢想する。
……悪くない。
アスファルトの焦げ臭さのないこの梅の時期の道路を通っていると、なんだか自分が高
校生なのか芸能人なのか、どっちなのだかがわからなくなる。実際はどっちもであるのだ
が、我がペルソナはどちらで、どちらの方が自分の本物の顔なのか、問わずにはいられな
い。
天沼の中央に位置する天沼第一高校に続く坂を登っていると、段々と同じ道を通るガッ
コウの生徒たちとかち合うようになる。
小暮は誰とも挨拶を交わさずに歩く。歩いていると、坂道に、蛇の死骸を発見する。た
んぼ道でもあるまいに、そして、今は三月だというのに。一体、これはどういうことなの
だろう。
そこで思い出す。神社の巫女さんが、天災の前触れである天狗は、蛇を従えている、と
いうことを言っていたと、七海が話していたのを。小暮が立ち止まり、しばらく死んだ蛇
を眺めていると、自動車がその骸をタイヤで轢いて何食わぬ風に走っていく。
「そんなもんだよな」
小暮の口元に笑みが浮かぶ。夢を食べる賢しき蛇は死んで、足蹴にされるべきなのだ。
笑みを浮かべた小暮を追い越すように、ガッコウの生徒達はどんどん坂を登っていく。
その坂道は、正解のルートなのかい? 息を切らせながら登っていってもそれは取り越し
苦労をしているだけじゃないのかい?
小暮が追い越していく生徒を眺めていると、横に来て立ち止まる生徒がいた。小暮は横
を向く。そこには、緑川勇作がいた。
「やあ」
緑川は無愛想にだが、手を挙げて挨拶した。 「どうも」
ガッコウでは大人しく。そう自分に課している小暮だが、やはりこいつと二人で話すと
すると、ため口しか使いたくなくなるな、と思うと不意に舌打ちしてしまう。いやいや、
敬語敬語。
「林檎農園の息子がなんのようだい? 僕に林檎を売ってくれるのかい?」
先制攻撃。
「今回のパフォーマンスも良かったよ」
林檎農園のことはスルーする緑川にカウンターを喰らって不愉快な気分になる小暮。
「そりゃどうも。今日は朝練、しないんだね」
「終業式の日くらい、朝練は休むよ」
「ふーん」
「蛇を、見てたのか。内臓が飛び出ちゃって、かわいそうなもんだね」
「蛇は、女だ。そして女は、蛇だ」
黙り込む緑川。小暮は続ける。
「媚びを振りまいたり、誘惑したりして、しかし身体を男にゆだねることはあっても、決
して心を男にゆだねようとはしない、 それが女だ。 それが蛇だ。 ましてやアイドルなんて、
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な」
「どういう意味だい?」
「君が武闘派のオタクなのは知ってる。なんでもあの日、不良からオタクを助けたらしい
じゃないか」
もちろんこれは、七海たちを襲ってきた暴漢に挑んで負けたオタクを助けたことを指し
ている。七海が襲われたことは、小暮は知らない。
「その前は『ヤラカシ』を退治したもんな、ドルオタの鏡だよ、君は」
小暮は悪意に満ちた笑みと目で、緑川を射竦める。
「だが、ね。 『ヤラカシ』が、アイドルが嫌がることをわざとして、怒られることで顔を
覚えてもらおうとするのと、君みたいな『粘着厨』がアイドルにへばりつくの、どっちも
どっちだと思うよ。キミタチは結局、アイドルを人形かなんかと勘違いしてるんじゃない
かな。疑似恋愛は結構だよ。でも、アイドルだって恋はするし、セックスだってする」
小暮はしゃべる自分に酔いしれる。
「君のお姫様は、君の知らないところで王子様の上にまたがって、腰を振ってるだろうね
ってことだよ。そして君の声は決して届かない」
「ッッッッ!!」
「君は黙って林檎ちゃんを育てていればいいんだよ。アイドルを育てるのは業界の人間に
任せて、な」
小暮は蛇の死骸を革靴で踏みつけ、それから怒りが込み上がって爆発しそうな緑川を置
いて一人、坂を登っていく。坂には、梅の香りが風に流されてくる。
☆
終業式が終わった後のホームルームが始まる。壇上では担任の桃畑先生がなにか言って
いる。それを聞き流しながら、緑川は、今朝の小暮の態度と物言いに腹を立てていたまま
で、今はその怒りの勢いでノートにペンを走らせていた。
先生が今しゃべっている春休み生活指南のメモではなく
、 書くのは自由詩。 ではあるが、
宮沢賢治風の心象スケッチみたいな、心情吐露とはちょっと違う代物で、書くのは「来た
るべき自分の曲のための歌詞」である。声楽部である緑川は音楽と近い場所にいるが、作
曲が出来ない。ピアノは弾けるけれども、理論書を読んでも内容が理解できないのだ。な
ので、作曲ができないというわけだ。これが七海だったら「今はそんな時代じゃねぇ。理
論なんかわかんなくても作曲は出来る。フィーリングをそのまま形にしちまうのがポスト
MIDI時代、DTM時代の作曲だ」というだろう。だが、MIDIどころかパソコンに
すら詳しくないオールドタイプの音楽家である緑川は、自分はバカだから作曲が出来ない
のだ、と思い込み、曲をつくらず、ただ歌詞を書く日々を送っていた。来たるべき自分の
曲のための歌詞を。
そもそも今は、現代音楽になるとクラシックの領域でもオーケストラの指揮者がノート
パソコンを置いてそれを見ながらタクトを振るなんていう景色が珍しくもなくなっている
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のだが、なにしろこの天沼は辺境の土地なのだ。だから、実はこの緑川のようにアナログ
な感じに歌詞のようなものを書き綴っているだけの人間はたくさんいる。そしてその中二
病をこじらせると、インターネットで自作の詩が乱舞する個人サイトをつくりはじめてし
まうのだ。なんとも痛い環境、痛い現実である。
それはともかく
、緑川はフラストレーションを一気に解放し、その怒りでなにか書き綴
っていたのだが、そこに運悪く
、七海茄子がやってきた。緑川が気づかぬうちに、すでに
ホームルームは終わっていて、通知表やプリント類も配り終えられてしまっていたので、
生徒たちはそそくさと教室を後にし春休みにうきうきしていたが、それには全く気づかな
かったのだ。
七海は緑川に声をかける。しかし、返事がない。七海が緑川が熱心に書いているものを
盗み読むと、
……それはそれは痛いものが書いてあった。
「いや待て、おまえ高校生だよな? 今度高校二年生になるんだよな?」
七海は人目もはばからず大爆笑した。 その爆笑で、 やっと我に返る緑川。 緑川にとって、
事態は最悪なものに思えた。
「なっ! き、君はいきなりなんなんだ。一声かけてくれたっていいじゃないか!」
大わらわの緑川のその表情に、更に笑ってしまう七海。
「いやさ、ライブの時に助けてくれてサンキュって言おうとしたんだけど、お前一体、な
にをしてるんだ?」
「こ、これはだから……」
「こいつ、有名な詩人なんだよ、七海くん」
「んが?」
七海が声の方を向くと、健全そうな笑顔の仮面をかぶった小暮がいた。
「七海くん。笑っちゃダメだよ。緑川くんは、新聞の日曜版の投稿欄にも自作の詩が載っ
てるほどの、自由詩の書き手なんだ」
「ふーん」
納得顔の七海は、だが緑川のノートを見て、
「でもなんか、ソネット形式だのなんだのみたく形式張って、四行、二行、八行のリピー
トみたく書いてあって、歌詞っぽいなーって思うんだけど」
言われて真っ赤になる緑川。そうなのだ、これは歌詞なのだ。
「あ、あー
、七海。君にはわからんだろうけど、こういう形式があるのだ。そ、そう!
こ、これはアメリカの……アメリカの、えーっと、あ、そうそう、これはアメリカのプラ
グマティズムという形式で」
「ぷらぐ……なんだって?」
しどろもどろに誤魔化す緑川の咄嗟の嘘に、なんとなく「そーいうのがあるんだ~
。ほ
へー」とテキトーに頷く七海は、横文字っぽい言葉に弱いのだった。
「これはだからマスカレード・カレー・ウキウキというファンタジスタドールがだなぁ…
…」
「よくわっかんえぇけども。でさ、
……この前はありがとな、緑川。助かったよ。で、今
日の朝、みかんに会ったから声楽部、勧めといたよ。そしたらどうも、 『もしかしたら春
休み、やらなくちゃいけないことがあるかもしれないから、正式な返事は、それが終わっ
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た後でね』だってさ」
「やらなくちゃいけないこと?」
緑川は首をかしげる。この文脈からして、わざわざやらなくちゃいけないことがある、
と言ってるわけだから、特別な用件があるとアナウンスしているものだ。それが一体なん
なのか、言われてしまうと知りたくなるだろうし、それを狙った発言ともとれる。
「おれにも教えてくれなかったんだけど、今週中に返事が来て、なんかの出演をするだの
しないだの、なんか、そんなこと言ってた。でも歌うの大好きなみかんのことだから、き
っと声楽部に、入るんじゃねぇかな」
「……そうか。ありがとう」
応えながらそそくさとノートを鞄にしまう緑川。小暮は七海に、
「この前のライブってので、なにかあったの?」
と尋ねてみる。
「ちょっとごたごたがあってね。 助けてもらったんだ。 そういや、 小暮に似た奴がいたよ。
下手くそなギャグを飛ばしまくってて、会場が沸いてるんだかなんなんだか、微妙な空気
があって」
「微妙なギャグ……か」
歯ぎしりする小暮に、七海は気づかない。
「楽しかったな、あのライブコンサート」
小暮は一旦息を大きく吸って、歯ぎしりを止める。
「で、誰のコンサートに行ったんだい?」
「ん? 秘密」
☆
生きてる意味と出会えるか。生まれた理由を言えるか。七海は自分にそう問いかける。
自分の深遠な信念に手を伸ばせば、その暗闇から手を伸ばせば、そこには爆音が鳴り響い
てくる。
祈り。小さな小さなそれは祈りのようで。七海は今日も、そんな自分の音楽を奏でる。
七海はガッコウから帰宅してすぐ、自分の部屋に引きこもった。新曲はもうすぐ、完成
しそうだった。
部室と家では制作環境が違うので、できるだけシームレスな移行ができるよう、使うソ
フトシンセは同じものを使用することにしていた。具体的にはキューベースにバンドルさ
れているハリオンソニックだけでつくる、という風な方法だ。それだと奇抜なものが作り
づらいので部室だけ、家だけで作るときは、もちろん他のソフトシンセも使う。ネクサス
やサイレンスといったプラグインシンセだ。これらは家のパソコンにインストールしてあ
る。だが今つくっているのは大がかりになりそうなので、部室と家の両環境で作業できる
ような配慮をしていた。
- 53 -
ちなみに生楽器を使わない七海のデータはMIDIノートで記録するから、実は同じ環
境で制作する必要はなく
、ファイルをインポートした時に、家なら家で、トラックに自分
のパソコンの環境で使えるシンセとその音色をトラックに割り当てれば作業は普通にでき
る。 ただ、 七海はそれをしたくなかった、 というだけだ。 つまり、 めんどくさがりなのだ。
七海は「う~ん」と唸る。それから首を左右に振り、机に置いたレッドブルを飲んだ。
どうも主メロが微妙な感じがしたので、一旦作業の手が止まった。
メロディというのは、楽器で奏でるのに心地良いものと、人の声で入ると心地良いもの
で、だいぶ差があるのだ。楽器は基本、メロディが「動いてなんぼ」という世界である。
一方の歌ものというのは、人間の声という繊細な要素が本当に色々と加わるので、実はメ
ロが動く必要はあまりないし、むしろ動かない方が中毒性がでたりもする。例えばダンス
ミュージックが同じフレーズをループさせているだけで、それで人が酔うのと、理屈は同
じだ。そういう反復フレーズに、人間の歌は『強い』 。
七海がボカロを使わない主義なのは、そことも関係している。いろんなパラメータをい
じらないと歌ものの醍醐味であるいろんな『声に詰まった要素』が表現できないし、ボカ
ロの作曲者たちは元々ボーカリストじゃない人間がはじめたのか、 楽器で演奏するような、
メロが動きまくるものが多く
、その「難しいメロ」を歌いこなせるか勝負、みたいな変な
伝統が『歌ってみた』などで生まれてしまったため、本来の歌ものの良さ、というのと乖
離してしまったジャンルになってしまったのだ。そのボカロ伝統に則した曲をつくる必然
性は皆無だが、なんとなく七海はそれでボカロを敬遠してしまう。
で、現在。七海がつくっている曲の主メロは、どうしても人間の歌を入れたくなった感
じなのだ。 そこで頭に浮かんだのは隣の家の木下みかんの顔だったが、 思い浮かんだ途端、
「ありえねー」
と口に出し、七海はベッドにダイブした。
それからハッと我に返り、 「息抜き!」とばかりに椅子に座り直すと、波形編集ソフト
の『オーダシティ』を起動させ、由比ヶ浜ユユの『いちごの日』という屈指の名曲を取り
込んだ。 「ライブで観た『いちごの日』も、最高だったな」と、ユユの歌う姿をもやもや
と思い出しながら。
波形編集ソフトとは、文字通り音の波形を編集するソフトである。この波形を、切り刻
んだりつなぎ合わせたりとかが出来るのだ。
それでなにをしたいか、というと、七海はこれから、ユユの『いちごの日』の『リミッ
クス』をしようともくろんだのだ。
七海はそれから、深夜までリミックス制作に没頭する。時間は深夜になったが、明日か
らガッコウは春休みなのだ。時間なんてどーでもいい。
七海は目薬をさしてストレッチもして、身体にリカバリーをかけながら、息抜きではじ
めたリミックスの作業を、本気を出してやりはじめたのだった。
そんなことをしていたら寝落ちして、一旦起き、パソコンの電源を落とさぬまま、ふら
ふらと立ち上がり、布団にまたダイブした。
- 54 -
☆
真夏の太陽はギラギラ輝き、炎天下の小学校のグラウンドで、七海は額から落ちる汗を
手で拭った。傍らには美少女すぎる美少女の微笑。その微笑は、クラスでもみんなと折り
合いのつかない七海の心を癒やし、どんな時もその微笑を見れば元気が出るのだった。
その美少女は由比ヶ浜ユユ。同じクラスの女の子。
夏の約束は、七海が作曲家になって、それをユユが歌手になって歌う、というシンプル
な話だった。作曲家になる、と豪語しつつも、歌をなにもしらない七海は、ユユからオー
ルディーズの洋楽の講義を、 毎日ガッコウの昼休み、 グラウンドの片隅で受けるのだった。
ユユは、英才教育を受けていた。洋楽の知識だけでも凄かったが、後から七海が思うに
それは、ユユが芸能界に入るための布石とも言える勉強を叩き込まれていたからだった、
と思うのだ。ユユは、勉強も出来るし、運動も抜群だった。いつもぽわぽわしているのだ
が、切れ味の鋭いダンスを、気が向くと七海に披露してくれる。
ああ、ユユ。太陽の逆光を浴びて微笑む、あの日の幻。ユユは、 「出来る子」であるが
故に、この天沼を去った。親の都合も、ユユの教育の都合もあったのだろう。でも、今、
おれはユユを幻視している。
「……茄子」
ユユが七海の下の名前を呼ぶ。ユユは裸で、唇を尖らせて目を瞑り顔を近づけてくる。
キスする五秒前の心境を、七海は噛みしめる。ユユはいつの間にか、小学生ではなく
、高
校生でアイドルの、由比ヶ浜ユユの姿になる。
素敵な夢だ。夢の中で、おれはユユと結ばれる。七海も、ユユの差し出された唇にそっ
と接近し、目を瞑ってその唇を重ねた。
柔らかい感触と、レモンのような味。これがキスなんだ、と七海は全身がとろけそうに
なる。
七海は目を開ける。雀が鳴いている。朝だ。
目の前には裸のユユがいる。
……って、んんんんんん???
ベッドの布団に、七海は入って寝ているのだが、そこに添い寝している全裸の女の子が
いる。みかん、
……では、ない。
七海と一緒に寝ているのは、見間違いようもない、アイドルの、ライブアイドルの、由
比ヶ浜ユユ、その人であった。
七海は「ぐおっ!」と呻き、布団から跳ね上がって起きた。すると、目を覚ましてゆっ
くり上半身を起こすユユは、目をこすって、
「んん…………
。茄子……
、おはようじょ」
と、朝の挨拶をした。
うわー
、空から美少女が降ってくるとか、アニメで散々観たあれだぁー
、とかそれくら
いしか感想が出てこない。口をぽかーんと開けて「ついにおれも現実と空想の区別がつか
ない『エロゲ脳』になってしまったか。こりゃ犯罪起こしてメディアに『マンガやゲーム
の悪影響による犯罪ですね、けしからん。これだからオタクは!』って言われるぜ」とい
- 55 -
う脳内シミュレーションをしてしまうだけである。これはまずい。まず、おれ、チキって
身体が震えてんもん、と頭がぐるぐる回る。
七海はDTMerである。なので、夜中に布団に潜りながら「もし、朝目が覚めたら隣
に初音ミクが寝てたらどうするよ?」 とは、 思うわけである。 そりゃもう、 思うしかない。
それがDTMerという人種である。だがしかし、本当に歌姫が添い寝してくれていたと
したら、どうする? あまりにこれは現実感がなさ過ぎる。歌姫とベッドインできるよう
なのは音大卒のプロデューサーぐらいだし、ありえねぇぞ、ああああああ。七海はそんな
ことを思って跳ね起きたはいいが、意味なくゴロゴロ回転して床に転げ落ちた。
床に転んで頭を打ったが、 痛かった。 どうやら、 夢ではないらしい。 このご都合主義は、
イマドキ古いのではないか、とか未だにのーみそで自分にツッコミを入れているが、これ
は現実なのだ。
そして、ユユは上半身を起こしたまま背伸びしながらあくびをして、それからベッドを
すり抜けるような優雅さで抜けて、立ち上がった。
その肌はとても白く
、わずかばかり上気している。スタイルの良さは抜群で、腰のくび
れがセクシーである。その身体のラインは、細すぎて肋骨が浮き出てはいるが、それはや
はりシェイプアップしてるからだろうし、逆に男なら誰でも抱きしめたくなる体型とも言
える。
七海は、生まれてはじめて、女性の全裸をまじまじと見つめた。裸と遭遇することは多
々あれど、はじめてそんなにガン見した相手はアイドルで、昔の友達で、それから、ずっ
と追いかけてきた相手だった。 手の届かない存在になってしまった、 と七海は思っていた。
だが、今、こうして、由比ヶ浜ユユは、自分の手の届くところにいた。ああァァ、一体な
にから話そうか。いや、話すことなんてなにかあるか? このふがいないパンピーの自分
に?
美少女は寝ぼけ眼の千鳥足で、
「あちき、
……できちゃったじょ」
と、七海に言った。
「は? なにが?」
「なにがって、決まってるじょ。責任取ってくれじょ」
「…………」
そんなバカな! おれ、そんなことしたの? と、総毛立った。マズい、アイドルを孕
ませたのか。でも、いつ? 覚えてないぞ。でも、
……決断を!! 七海は腹を据えた。
「わかった! おれが責任を持つ!」
「本当?」
「ホントホント」
「茄子は気前が良いじょ。あの頃と同じだじょ」
八重歯を覗かせ飛び上がって喜んだユユは、電源の入れっぱなしになっているPCをス
リープモードから元の戻した。
画面には完成済みになっていたユユの曲『いちごの日』のダブ・ミックス。
「完成したから、これ、もらうじょ」
「……はい?」
- 56 -
できちゃったのは、リミックスだった。どうやらユユが作りかけだった作品を、仕上げ
たらしい。しかしリミックスって、これを公共の場に出したら著作権違反のイリーガルな
ものなんだけどな、と七海は落胆しながらツッコミを入れた。
ユユはベッドの傍らに置いた自分のブランドモノのセカンドバッグからUSBメモリを
取り出し、いちごの日のリミックスをエクスポートした。それから裸のまま、紐のついた
そのUSBメモリを首から嬉々としてぶら下げたのだ。これがそんなに喜ぶことなのか、
と七海はユユを見る。上から下まで眺め、下半身に目が行って、それから顔を赤くして目
をそらした。
「服を、着なよ」
「裸のわちきを、みてもらいたかったじょ」
「そ、そっか」
「このリミックス、大事にするじょ」
「……おう」
と、そこに「な~な~み~」と、間延びした声が聞こえてきた。誰であろう、木下みか
んの声である。七海はバッと猛烈なスピードで飛び上がり部屋の窓を見る。そこには、隣
の家から屋根を伝ってこの部屋に侵入してこようとするみかんの姿が見えた。
「ジーザスッッッ」
叫んだ七海は、ユユの手を取りタンスの大きなドアを開け、そこにユユをもの凄い速さ
で詰め込んだ。
「私じゃないオンナの匂いがする」
開口一番、棘だった語調のみかんは、部屋に入ってくるなり、七海を睨み付けた。
「ブッシャァァッ」
ツインテールを逆立てながら猫の威嚇のような奇声を発し、それから、
「そのタンス、怪しい」
と言った。
「いや、 普通に普通のタンスだろ。 普通にいつもある、 この部屋の普通のタンスでごんす」
うわずった声の七海はみかんに気圧される。
「普通普通と連呼するのはおかしい……
。なにかあるでしょ」
疑いの目に、七海は一歩下がって、上半身を反らしてしまう。
「ところでお前、なんで来たの」
「ん~
、それはね」
一転して笑顔になるみかん。気性の激しい奴だな、つーか早くこの場を去ってくれ、と
いう願いを七海は頭の中で唱える。
「今日は私、これから隣町の叔母さんの家に行くの。でさ、
……あーまあいいや。あんた
のことだから、私のこととか……興味ないよね」
「そ、そんなことない」
弱気な発言を柄にもなくするみかんにびっくりして、七海は首を高速で左右に振りまく
る。色々と動揺していた。
「うん。わかってる」
まるで思春期の女の子のようなはにかみだ。その表情を見て七海は思ったが、みかんは
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普通に、普通の意味で思い切り思春期の女の子そのものなのだ。そこに、七海は気づかな
い。
七海を一瞥し、 みかんはガスマスクを顔に装着した。 「?」 と七海がきょとんとすると、
みかんはいきなり背中から火の付いた発煙筒を取り出し、部屋に投げた。しかも二つ。
「シュゴォォ。なんかよくわかんないけど、シュゴォォ……
、オンナの匂いするし、
くれ
でも喰らっとけぇぇ」
ロケット花火のような危険な音を立てて発煙筒は煙を部屋に吐き出す。
「よし、オンナの匂いが消えた。それじゃ、まったねー
。シュゴオオォォ」
「おいみかん、お前わけわかんね……ゲホゲホ」
咳き込む七海を尻目に、みかんはガスマスクのまま屋根を伝って煙の中から逃亡した。
全く意味がわからない。
いや、それは嘘だ。七海にはわかっている。みかんは、なにか言いたいのだ。だが、恥
ずかしくて言えない。それでこんな意味不明なパフォーマンスをしてしまった。そういう
ことだ。
「みかん……おま、え、え、え、
……ゴホワッ」
みかんがいなくなったところで七海はうずくまり、それから頑張って煙を吹き出す発煙
筒二つをつかみ、洗面所に持って行って水で煙を消すことにした。
部屋に戻ると、またPCをいじくる、全裸のユユがいた。首からはさっきのUSBメモ
リをぶら下げたまま。まだ室内は煙いのだが、意に介さないという感じだ。
「服、着ろよユユ」
「わちきは気にならない」
「おれは気になる」
「なら、茄子が裸になればいいじょ」
「お前なぁ」
「つくってるじょ?」
「だから子供つくるとかそういう話は」
「曲」
「はい?」
「曲、つくってるのか、茄子」
七海は黙り込む。あの夏の日の約束、七海が作曲者になり、ユユが歌手になってその歌
を歌う。覚えているのだろうか、ユユは。
「このキューベースのデータ、茄子の曲じょ?」
一旦下を向き、それからゆっくり顔を上げて。
誇らしげに七海は言う。
「ああ。おれの曲だ!」
それからユユが服を着るまでは大変だった。 「楽屋ではいつも裸じょ」と謎の主張をす
るユユが服を着たのは、じつにみかんがいなくなってから三十分後のことだった。
「くだらぬことをたびたびしゃべり、書くこともできる。でも、肉体も精神も殺せやしな
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い。ものみな元のまま。だが、愚かなることを衆目の眼前に差し出すは、魔法を有するこ
となり。そは、官能を縛り付け、魂を奴隷になすが故に」
窓から射す光がユユの詩の暗唱をする表情を浮き彫りにする。空中には埃が舞っている
のが見えて、その顔も、その声も、メディア上に存在する由比ヶ浜ユユと、同一人物とい
う気がしない。今そばにいるのは、ぽわぽわしているのに頭が良く活動的だった、あの小
学校の同級生の、由比ヶ浜ユユなのだった。
七海は息をのむ。ユユの美しさと危うさが同時に眼前に迫ってきて。そしてユユは、ゆ
っくりと自分の唇を七海の唇に重ね、そしてその華奢な身体で七海を抱きしめた。
二人は無言のまま、しばらくそのままの状態でいた。一体どれくらいの時間が過ぎただ
ろう。ユユは身体を七海からそっと離すと、
「ところでタンスの中に置いてあった、黒い皮の服を着たお姉さんが男性を縄で縛ってる
表紙の雑誌は、七海の趣味なんじょ?」
と尋ねた。慌てたように話題を振ってキスを誤魔化そうとするユユに七海は破顔した。
なんでおれなんかのところに、ユユは来たのだろう、と七海は思う。どうも、よくわか
らない。おれはそんなに、わざわざ会いに来るべき人間でもなかろうに、と。そしてタン
スの中の猟奇的な雑誌についてはノーコメントでいこう、と。
「案内よろしくだじょ、茄子」
「案内?」
「思い出のこの天沼を、回ってみたいじょ」
そういうことか、と七海は思う。
あの頃の思い出が生きる糧になっているのは、おれだけじゃなく
、ユユもなんだ、と思
って。七海は嬉しくなる。七海は「いいよ」と返事をした。
☆
家の近所を歩く。七海のあとを、きょろきょろと辺りをせわしく見ながらユユはついて
くる。しかし、朝、目覚めたら美少女が寝てるとかどこのラノベだよ、とか七海が思って
いると、
「ベタじょ?」
と、 首をかしげて、 ユユが七海に訊いた。 あまりに自分の思考とシンクロしているので、
七海はドキッとして震えた。
「でも、アイドルの仕事の大半は、ベタなシチュエーションでベタなことをすることなん
だじょ?」
無言で、七海は頷いた。確かに、その通り。 『ベタ』とはすなわち『様式美』だ。様式
を踏まえての勝負、それはポップソングのソングライティングと同じだし、そのポップソ
ングを歌うのこそが、アイドルなのだった。例えば日本のアニメのキャラが様式美に則っ
て髪の毛の色がカラフルでも、その変な様式があるからこそ輝くわけで、そこを疑問視し
たらなにも始まらない。カラフルな色の髪の毛にしている日本人はあまりいないけど、そ
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れが様式美だからそれでいいのと同じように。だから、ユユがこうやってベタなシチュエ
ーションで現れたとしても…………って、 おい。 やっぱおかしいだろ、 間違いなくッッッ!
ユユのこと、スキすぎてキレそう、ときゃりーぱみゅぱみゅの歌のタイトルのような言
葉が七海の頭に浮かんでいると、 井戸端会議中の近所のおばちゃんたち二人がヒソヒソと、
「やぁねぇ、七海さんちのバカ息子」
「ねぇ、あんなに可愛いみかんちゃんがいるのにねぇ」
と、わざわざ聞こえるような音量での『ヒソヒソ話』をしている。ホントうざいな、と
七海がおばちゃんらを睨むと、
「あの反抗的な目!」
「そうね。
……あれ、隣の女の子、どこかで見たような気がするわ」
「あらやだホント、テレビで……」
と言い出す。しまった、ユユは芸能人なのだった、と七海は思って舌打ちする。ユユの
方を焦って振り向くと、ユユもそれに気づいたのか、セカンドバッグから風邪のマスクと
キャップを取り出す。
「わちき、着けるじょ?」
と、少し潤んだ目でユユは囁いた。七海が「うん」と言うと、おばちゃんらが視界から
消えたところまで来てから、着用した。マスクとキャップでどうにかなるものなのだろう
か、と七海は思った。実際その『変装』後のユユをじっくりと眺めても、そのスタイルの
良さまではごまかせないのであった。が、変装しないよりはマシだろう。七海は、ユユの
腰の見事なくびれを見て、ちょっと照れてしまう。
「みかんちゃん、ていう名前なんだじょ?」
「うん?」
「ガスマスクの子。 あの子がいつも茄子の部屋に入ってきてるの、 わちき、 知ってたじょ」
「ああ……」
だから、おれの部屋の窓や家の裏口が開いてるの知ってて、侵入したのか。でもこれ、
一歩間違えたら不法侵入だぞ、大丈夫だったのか、アイドルとして……
。七海はユユが新
聞の三面記事になったときのことを想像してぞっとした。そうじゃなくても今、ユユは引
退騒動が出ているのに。
「今日は保養じょ」
また、こころを見透かされそうになって七海はびっくりする。ユユは八重歯を出して微
笑んでいる。
「たまには休むのも良いじょ!」
でもその微笑んだ顔は、触れてしまったら壊れそうで、七海は息を飲み、その華奢な身
体でパワフルなライブコンサートををこなす地下(ライブ)アイドル・由比ヶ浜ユユの存
在にうっとりとする。
「ゆっくりさせろ! なんだじょ」
「うん。行こう」
そして七海はユユを連れて、ひとときのデートをする。たいして見るべき場所のない町
だけど。
七海はまず、町が一望できる高校の裏の丘へ行き、そこからあの『空き地』へ、ユユを
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連れて行こう、と思い、ユユと一緒に歩き出す。
☆
春休みに入ってガッコウと隔絶された生活も、 送ろうと思えば送ることが出来る小暮は、
しかし今日も演劇部の部室に行こう、と考えた。
「望みを失いし者の言葉は風に散らされる、か」
テーブルの上のデスクトップパソコンでサウンドクラウドにアクセスし、七海のつくっ
た下手くそなインスト曲を聴きながら、どうしておれはこんな曲を毎日聴いてしまうのだ
ろう、と舌打ちしてしまう。 「だが、望みを持ったままの者の言葉の大半も、いずれは風
化してしまう」
どんなに曲をクラウド化しようとも、忘れさられてしまうし、その前に大抵の作品は、
誰にも認められず、そして闇から闇へ消えるのが必定で、それはこの歴史の必然だ。クラ
シック音楽の教科書に載っているのが全てのクラシック音楽家じゃないってことは、誰で
も知っていることだ。この死屍累々の世界は、だから、それ故に美しい。
自分がやっていることは、七海のDTMと同じことなんじゃないか、と気を抜くと思っ
てしまう小暮は、その考えを必死で否定する。DTMとは、基本的にはひとりで全てのパ
ートをレコーディングする音楽だ。故にひとりよがりで許される。一方の自分の芸能活動
も、自身が子役時代から活躍しているため、かなりフリーダムに出来る。そこに、ひとり
よがりの萌芽がある、と自己分析してしまうが、じゃあ、どうしたらいいのか。それに、
銀幕の中でそれならば自己陶酔も出来ようが、 今のこのデーモン・オクレとしての活動で、
一体何人の人間が、 自分を記憶してくれているのか。 金にもならない、 記憶にも残らない、
この仕事。
焦燥だけが募る。そのイライラは、七海のお気楽な、時に渋谷系じみた、時にテクノポ
ップじみた、そんな音楽で、更に加速した。
「人生というのは理不尽で唐突で哀愁に満ち、無限に続く恐ろしいものだ」
小暮は声に出して、PCに向かう。その声も演劇のように、声色をかえての発音だ。小
暮は自分でもその茶番に吹き出してしまいそうになる。だが、それが自分の流儀だ。演劇
っぽくやらせてくれよ、と思う。 「対してひとの手によって書かれた劇の脚本は、理路整
然と流麗で綺麗にページに収まる有限の、去勢された人生にすぎない」
本当に笑える。自分が人生で目指すところは、去勢されて権力者に首輪をかけられた飼
い犬の人生、つまり『役者』なのだから。おれは宦官の志願者か? そこまでして、金が
欲しいのか?
小暮は、立ち上がり、PCから流れる七海の音楽に唾を吐きたい気分で、珈琲を飲むこ
とにした。珈琲を飲んだら、部室に向かおう。
靴を上履きに履き替え部室を目指すと、今日もうるさい声が聞こえる。小暮は部室に行
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く前に、そのバリトンの発声をしている男の方へ、足を向ける。
そこにいるのは、音楽室で美声を響かせている声楽部唯一の部員、緑川だった。
「どいつもこいつも真面目にクラブ活動を送っていやがって!」
ガッコウでは一人称を「僕」にして、ですます口調にしている小暮だが、しかし虫酸が
走るような部活のきらびやかな汗を見ると、自分のガッコウでの『キャラ』をかなぐり捨
てたくなる。デスクトップミュージックも、歌も、こんなもんはこの国じゃアートではな
いのだ。金を出してくれる企業の指図にただ従って、ぺこぺこ頭を下げながら「売れる」
ものを工業製品のようにつくる汚い職業だ。その汚い職業を目指して、人生の目標にして
汗水流すこいつらは、一体なんなのか。
……いや、それは自分も同じか。
緑川はしかも由比ヶ浜ユユのファンで、ライブにもイベントにも、毎回欠かさず顔を見
せる『粘着厨』なのだ。粘着厨とは粘着質にアイドルを追いかける奴らの総称で、こいつ
らは一様にアイドルをモノかなんかと勘違いしてるとしか思えない行動をする。アイドル
がそのキャラクターとしてふさわしくない言動を見せれば途端に怒り出すし、自分に都合
の悪い言動をみせる、例えば男と付き合いはじめるとか、すれば、なにをしでかすかわか
らない。一言で言えば『迷惑なファン』なのだ。アイドルというものを粘着厨はプロレス
ラーかなんかと勘違いしてるんじゃないか、と小暮は常日頃思っている。
小暮の司会や前座の仕事というのは、そのアイドルたちの存在がキャラとして最初から
駆動するように「会場をそのような空間へ変貌させる」ことだ。アイドルだって、どんな
に厳しいレッスンを積んできているとはいったって、年端もいかない女の子なのだ、誰か
がサポートしなければ、パフォーマンスを最初から発揮するのは難しいだろう。だからこ
そ、自分がいる。小暮のアイデンティティにはその自負、プライドがあってこそ、成り立
っていた。
だが今、小暮はその商売にとって迷惑きわまりない人間の候補生である緑川をわざわざ
見に来てしまい、腹を立てて手の親指の爪を囓る。爪の味はしょっぱかった。
緑川は小暮に気づかない。小暮は、自分の部室に歩いて行く。
部室で基礎練のメソッドをこなし、昼飯を買いに、コンビニに行こうと小暮は校門を出
た。坂の下に、一番近いコンビニはある。コンビニこそは、田舎がどこの地域でも同じ風
景になっているというこの国の象徴的存在だ。それはまるで、この国の『アイドルという
システム』と同じような存在で。
坂を下りようとまさに校門を出たところで、坂をやはり下りてきていた男女と鉢合わせ
になった。
その相手は、マスクを着用したオンナと、それをエスコートしてる冴えないオトコ、七
海茄子だった。
「やぁ、七海くん」
いつものガッコウでの口調で、手を挙げて小暮は挨拶をした。
「ああ、オッス、小暮」
小暮は七海の手元を見る。その手は隣の少女とつながっている。坂をおりてきたところ
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から察するに、景色の良いところにデートがてら行ってきた、というところか。
繋いだ手の先を追って小暮がそのキャップを目深にかぶった少女の顔を見て、ハッと気
づく。 いや、 気づかない方がおかしい。 マスクを着けてはいるが、 そのスタイルの良さと、
髪の毛のつややかさは、小暮が知る……いや、デーモン・オクレが良く知る商売先の美少
女、由比ヶ浜ユユだったのだから。
目を細めて相手を見る小暮は、相手の出方をうかがうことにし、質問してみる。
「お嬢さん、どう、この田舎町は?」
薄く微笑するユユは、間髪置かずに応える。
「西の地区の古い町並みと、東の四角い建物の群れのコントラストが素敵でした」
そう来るか、ユユ。
「今じゃ地方の町に行けばどこにでもある平凡な風景さ。国道沿いの文化が古い町並みを
侵食していくありふれた風景。平凡な町並みの、平凡な崩れ去る町のストーリー
。そうじ
ゃないかな、ねぇ、
……可愛いお嬢さん」
満面の作り笑いで小暮は牽制するが、それで不愉快な気分になるユユではない。小暮も
よく知る強くてはかないメンタルの持ち主の表情だ。
「お嬢さん、お名前は?」
「由比ヶ浜」
「由比ヶ浜?」
「おい、ユユ」
そこに割って入った七海。でもユユは笑顔のままだ。
「七海くん。みかんちゃんに怒られちゃうんじゃいの、他の女の子と歩いていたら」
カマを掛けてみる。が、ユユは平然と、
「みかんちゃんにも、わちき、会ってみたいかな」
と、素っ気ないそぶりで七海に向かって言っている。食えない女だな、と小暮はのどの
奥がイガイガするのを感じる。アイドルのメンタリティはこれだから嫌だ。人間離れして
いる、というか。
「お嬢さんは七海のなんなの?」
「茄子の許嫁だよ」
ストレートに質問したら、返ってきた答えに小暮は呆然とする。さすがにアイドルの発
言としてヤバ過ぎるし、そもそも一体なんでこいつらが一緒にいるのか、全く予想がつか
ない。 昔の知り合いなのは察していたが、 どういうことだ。 七海が過去で 「会いたいひと」
なのも、薄々感じていたが。
しばし沈黙する小暮だが、しかしこいつらに尋ねたところで教えてはくれないだろうと
思う。新学期になったら七海を問い詰めればいいことだろうということにして、質問の矛
先を小暮は変えた。
「お嬢さんのこと、僕は初見なんだけど」
おれもよくさらさらと嘘がつけるようになったもんだと苦笑してしまう小暮は、どうせ
ユユも自分がオクレだということは知っているだろうからと、こちらからもストレートに
問いかける。 。 「なんでここにいるの?」
ユユは上半身を前方向に少し折って、まるでグラビアに載せるポーズになり、ウィンク
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する。
「寝付いたら最後、下手したらわちきは起きられないかもしれないじょ。だったら病院で
寝ているよりも、歩いて病気を追っ払った方が良い。茄子はわちきのかかりつけのお医者
様だじょ」
「…………」
絆が深い。どういうことだかわからず、小暮は沈黙した。まさか本当に許嫁とか?
「わちきだって人間だじょ。気分が良くなかったり落ち込んだりすること、あるじょ」
そして、悪びれずこう言った。
「アイドルはロボットなんかじゃないじょ」
まさにその通り。ユユの言葉の重みに、小暮は降参する。まさに今、引退騒動が起こっ
ているユユは、だからお医者様だというその横にいる冴えない、先の見えたような男の力
でも借りてどうにかしたいのだな、と理解した。
「よくわかんないけど、デートの邪魔して悪かったね。じゃ、僕はこれで」
とっとと立ち去った方が良いと察した小暮は、手を振って帰ることにした。坂を下りる
のは同じだが、別のコースでコンビニに行くことに決めて。阿呆な七海だが、さすがに追
うようなことはしなかったので、小暮はちょっと安心したのだった。
☆
「わちきはファンのみんなのことが大好きじょ」
あの夏の約束をした空き地に着くと、ユユは目を潤ませながら、七海にそう言った。
「ファンのみんながいてはじめて、わちきはアイドルになれる」
ファン。 『帝国民』のことだ。ふと、そんな名称を七海は思い出す。
「茄子に会えば、なにかを取り戻せると思ったんだじょ」
「それは光栄だね」
「うん」
繋いだ手を振り解き、ユユは微笑んだ。
「わちきだけじゃなかった」
「なにが?」
「この空き地のこと、覚えてるのが」
「…………」
「全てはここから始まったじょ」
「うん」
「茄子が曲を書いて、わちきが歌う。
……とっても、シンプル」
自分の言った言葉に、吹き出すユユ。 「でも、それって別にプロになるのが条件ってわ
けでもなかったじょ」
確かに。七海は頭を搔いた。確かに、プロになる必要が必ずしも必要か、というと、そ
うでもない。聞いた七海も一緒に吹き出す。おれはなにをやってんだろな、と自分にツッ
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コミを入れる意味合いで。
「茄子はDTMをやってる」
「おれはもう、DTMやらないと、自分を保てないよ。情けない話だけどさ。だからおれ
も、スタート地点のこの空き地から、遠いとこに来ちまった」
「この町から引っ越して、 色々あったじょ。 いろんな出会いや別れがあった。 悲しいとき、
歌がわちきを救ってくれた。今度は自分がみんなを救う番だって思って頑張ったじょ」
そこで一旦、言葉を止めるユユは、涙を目にためている。
「でも、もうダメかもって。嫉妬や嫌がらせには慣れたつもりだったけど、
……キャパオ
ーバーじょ」
目をこすって、胸のところを握るユユ。ユユの胸には七海のつくったユユの曲のリミッ
クスが入ったUSBメモリが服の中にある。それを握ったのだ。
「茄子……
、わちきは」
言いかけたところで、路地をダッシュしてくる老人が七海たちの方へ向かってくる。老
人の後方からは「下着泥棒ッ」という女性の叫び。叫びに反応して老人は「わしゃ捕まら
ぬわ」と、後ろを向いて舌を出し挑発する。
が、後ろ向きになって走っていた老人は七海とユユがいることを失念し、走ったまま七
海の身体に激突した。
老人は全速力で駆けていたらしく
、七海との衝突で、もの凄いクラッシュをした。F1
のレーシングカーのように、老人の身体は吹き飛び、空き地の草の生い茂る土に何回転も
しながら倒れ込んだ。さながら、アイルトン・セナの最後のように。
老人にぶつかられてその場で転んだ七海が起き上がり、老人を見る。女性のショーツを
握りしめて地面に叩きつけられているのは、天沼神社の居候、変態の貴公子・桜岡老人だ
った。
追いかけてきた女性は、若い女性ではなく
、どう見ても熟女だった。倒れたまま動けな
い桜岡の顔面を熟女は踏みつけ、下着を奪い取る。桜岡は「あんたが美人だったもんで、
つい」とか、悪びれずに言っている。その場に七海とユユがいるからか、熟女は顔を真っ
赤にして、引き返していった。
七海は、倒れたまま力尽きている桜岡老人を指さし、
「ユユ。この下着泥棒が、おれの音楽の先生だ」
と、紹介した。
☆
「今日はうちのくそおやじは町内会の集まりでな。私と、桜岡こと下着泥棒の二人で夕飯
だったのだ。茄子とユユちゃんが来てくれて大歓迎なのだぞ。くそおやじがいないときで
良かったというか、な。今をときめくアイドルが来たとなれば、どんな騒ぎを起こすかわ
かったもんじゃいからの」
杏樹はホットプレートを用意しながら言う。ホットプレートに油を染みこませたキッチ
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ンペーパーで塗り込め、杏樹は焼き肉の準備を整えた。
「わしゃ『恋愛素』がスキじゃぞ、ユユたん」
すでになれなれしくなっている桜岡はご機嫌モードだ。この老人は気持ちの浮き沈みが
激しい。 しかも今日はご機嫌な気分で下着泥棒だったのだ。 なにを考えて生きているのか、
七海には不思議でならない。
天沼神社の境内の中にある家で、七海たちは夕飯を食べることになった。桜岡が無理矢
理七海とユユを夕飯に呼んだのだ。なので、町を歩き回って日が沈む頃、七海とユユの二
人は、 天沼神社を訪れた。 ちなみに、 この焼き肉に関し、 桜岡は一銭も金を出していない。
桜岡はふっふっふと肩を上下させた。
「天沼市はどうだったかな、ユユたん」
「昔わちきが住んでた頃と、変わったところも変わらなかった場所も、どちらもドキドキ
しましたじょ」
「天沼市は」
桜岡はあごの無精ヒゲをさする。 「その名前の由来はここ、天沼神社じゃ。この神社に
は、天沼弁天池、という池がある。そこはサラスバディ、つまり弁財天を祀っているのじ
ゃが、そのサラスバディは、音楽の女神なんじゃ。ミューズ、じゃな。歌姫のユユたんと
は、縁があるんじゃろ」
「わちき、昔住んでた時、ここに来たことが何度かありましたじょ」
「ほぅ」
杏樹がユユの発言に、少しびっくりする。
「ユユちゃん、天沼神社に来たことがあるのか。私も小さい頃のユユちゃんの姿を目に焼
き付けとけばよかったかな」
そこで苦笑。 「でも、そしたらこいつのようにユユちゃんのことをずっと想いながら生
きることになっていたかも」
「どーいう意味だよ、杏樹」
「そのまんまの意味じゃ、このたわけ」
「うっ……」
「ユユちゃん、今日あったのもなにかの縁じゃし、私に出来ることがあれば、なんでも協
力するぞ」
「はい」
「しかし茄子がまさか本当に由比ヶ浜ユユと知り合いだったとは」
「お前はひとの言うことも少しは信じろよ」
「いや、私はひとの言うことは信じるタイプじゃぞ。ただ、おぬしのことだけは信じない
ようにしているのだ」
「信用ねぇなぁ、おれ」
桜岡は手を広げてみんなに言う。
「これもわしが盗んだ下着のつくった縁じゃ! わしを褒めろ、下着を盗むわしを!」
間髪置かずげんこつを脳天に落とす杏樹。桜岡は呻いた。
「痛っいのぉ。 あのな、 ひとこと言っておくぞ。 年寄りはあとくされなく去らにゃならん。
年寄りはどんなときでも満足して、自分の知恵が咲き誇っている間に、感謝しながら美し
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く死んでいかなきゃならんのじゃ」
「ほっほぅ。この居候、下着泥棒をするのが美しい、と?」
「なにを言っておるんじゃ、杏樹。この乳なし娘が。下着泥棒は男の美学じゃ。ルパン三
世を見習ってみろ。あやつはいつも美学を持って泥棒するじゃろ。わしも同じじゃ」
「ルパン三世は下着泥棒などせんわこの色ボケ老人! ……っと、 みな、 用意は出来たな。
ボケ老人は放っておいて、焼き肉を食べようぞ」
みんなで「おー!」と言いながら肉を焼きはじめる。
焼いた肉の良い匂いが立ちこめたところで、障子がババッと開いて、いきなり大きい声
が響いた。
「私!! 天沼市の『ご当地アイドルコンテスト』の一次予選、受かったわッッッ!」
そう叫んで肉を焼いてる部屋に上がり込んできたのは、木下みかんだった。
「ご当地アイドル?」
七海は箸をホットプレートにの上で停止させたまま、あたまにクエスチョンマークが浮
かんだが、それはここにいる他のみんなも同じだった。
☆
「あっ……」
みかんの目に由比ヶ浜ユユの姿がロックオンされ、動けなくなる。十秒ほど経っただろ
うか。さっきより更に大きな声で、みかんは「ゆッゆううううううゥゥゥゥ」と叫んだ。
「うっさいな、迷惑だ」
七海は耳を両手でふさぐ。
「あば、あば、あば。あばばばば」
なにか芥川龍之介の小説のタイトルのような呻きを発し、それから元に戻った。
「どういうこと?」
それは七海に向けられた声だった。
「どういうことって。ユユだよ。アイドルの」
「…………」
「…………」
ユユは立ち上がり、みかんの前まで来ると、手を差し出した。
「由比ヶ浜ユユです。お話は伺っていますじょ、みかんちゃん」
「うっっひょぉぉぉぉォォォォ」
完全に自分のキャラを失念しているみかんはがっしりとユユの手を握り、ぶんぶん振り
回す。いつものツンデレはどうしたのか、七海はいささか不安になったが、まあ、そのう
ち治まるだろう、と悠長に構えることにした。
「みかんちゃんもどうじゃ。焼き肉」
「戴きます!」
杏樹の提案に即答だった。
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「あ。あの、杏樹さん。実はもうひとりいるんだけど……」
七海はものすごく嫌な予感がした。
「みなさん、どうもこんばんわ、緑川勇作です」
部屋の中に入ってきて即座にフリーズしたこの男こそは、ユユのファンクラブの会員で
あるという、根っからの由比ヶ浜ユユのファン、ユユたん帝国の帝国民、緑川だった。
ここまで来るともう、フォローが出来るとか出来ないとか、そういう問題とはパラダイ
ムがシフトしちまったんじゃないかな、と七海は思って冷や汗をかいた。
ホットプレートは焼いている肉がジュー十ー唸っているままだ。
「とりあえずみんな、食え」
杏樹は、その場を仕切り直すことに尽力した。
☆
「ぼぼぼぼ僕の名前は~」
さすがにこのご時世、アイドルを前にしたってそんなに緊張する奴はいないと思う。し
かもこの緑川という男は、握手会とかハイタッチ会とかに参加しまくっているわけで、そ
こでキョドっているならわかるが、そういうわけじゃないのだ。なぜ、なのにここでユユ
に対してこんなに震えているのか。七海は不審に思ったが、しかし緑川勇作という男は、
その点、 純真なのだった。 どれほど純真かというと、 焼き肉をどうにかこうにか食べつつ、
「ずっとここでお参りして、ユユたんの引退騒動が収まるように、祈ってたんです。今年
の一月から、ずっと!」
とか宣うほどなのである。この純真さはすでにアジアの純真とさえ言えるだろう。てっ
きり七海は、緑川がお参りしてたのはつぶれかけの声楽部の復興を願ってだけだとばかり
思っていたから「なに考えてんのこいつ」とツッコミしかかってしまったが、そもそも自
分だって週刊誌とか買ってユユの動向をうかがっていたのだ。五十歩百歩とはこのことだ
ろう。
しかし、挙動不審にガチガチ動く緑川より七海が気になるのは。
「みかん。 『ご当地アイドルコンテスト』ってのは?」
そう、本物のアイドルを目の前にして目を輝かせているこいつに、訊かなくちゃならな
いのは、これだ。
「いーだ! 教えないよ、バカ七海! ユユさんと知り合いだなんて、私にひとこも言っ
てくれなかったじゃん。それなのに私、知らないでユユさんのライブに誘っちゃったりし
てさ、
……バカみたい」
「ライブ、来てくれたの、ありがと」
「えっいや……
、あっ、えへへ……」
デレモードが発動してるこの珍しい光景に、七海はなんと言えばいいのか、とても興味
深く観察してしまう。
「アイドルに必要なものってなんですか?」
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「感謝とリスペクト精神じょ!」
ってそりゃヒップホップのラッパーじゃねぇの? と思ったが、そのツッコミも七海は
止しておくことにした。なぜなら答えてくれたユユに、みかんが更に目を輝かせていたか
らである。 「さすが本物は言うことも一流!」と褒め称えてる。
話を弾ませながら、みんなは各々焼き肉を食べていき。
「ところで七海。コンテスト、明日なんだけど」
「明日?」
早すぎだろ、いくらなんでも。今日通知が来て明日本選なのかよ。七海は箸で持った肉
をテーブルに落としてしまう。
「うむ。そのことなのだが」
そこに杏樹が申し訳なさそうに言う。
「実は今日ここにいないで町内会に行ってるうちのくそおやじなのだが、実はコンテスト
の審査員で、今日の町内会の議題は、コンテストのことなのだ。町の復興プロジェクトで
の」
しばし、全員の沈黙。沈黙で一旦クールダウンしたみかんが、顔を七海に向ける。
「明日、歌の審査があるんだけどさ……七海、あんたの曲、使えないかな」
「はっ?」
「別にあんたの音楽の宣伝しようってわけじゃないんだからね。ただ、
……あんたの曲を
歌った方が、オリジナルってことで注目されやすいんじゃないかなって思うわけなんだか
ら!」
「でもおれ、インストしか持ち曲がないし」
「馬鹿者!」
そこで桜岡が割って入った。
「おまえはホントダメな弟子じゃな! 好機じゃろが、楽曲提供をせいや! おまえが歌
詞をつくるのが下手だからインストにしてるのを、わしは知っておるが、そんなのここに
いる県下でも有名な詩人がおるのじゃから、このむっつりスケベの御仁に任せれば全て解
決じゃ! 七海の曲のメロディラインを楽器じゃなく歌メロに直せばそのまま使えるよう
なのもあるじゃろが」
確かに、その通りなのだ。それも、今つくってる、新入生へのプレゼンテーション用の
楽曲、それは「歌える楽曲」なのだ。七海は押し黙り、考える。
「考える余地なんかないじょ。茄子の曲は、わちきも大好きだし、部屋で聴いた、つくり
かけのあの曲なんか、絶対名曲になるじょ」
「部屋で? 部屋でってどういうこと?」
みかんのドリルのようなツインテールが蛇のようにゆらゆら動く。
「あ、あー
、だからなんでもないんだってば! うん。そうしよ、うん。使ってくれよ、
おれの曲。うん」
桜岡が茶碗を持ってご飯を口に入れたまま、
「今日はわし、七海、それにそこの詩人の三人で合宿じゃ。おまえの部屋でのぉ。女子三
人はこの家でお泊まり会じゃ。女子トークに花を咲かせれば良いじゃろ」
「ユユさんとお泊まり会! そうしよそうしよキャー」
- 69 -
桜岡はニヤリと笑い、あごをさすった。
「決まりじゃの、バカ弟子よ」
☆
音楽はひとりでやるもんじゃない。それは基本的なことだ。しかしデスクトップミュー
ジックというのは、ひとりで制作し、ネットで配信すればオーディエンスすらも不可視な
存在になる。友達のいない七海のような人間にとってはひとりでつくれるからひとりでつ
くって楽しむという、とても暗い創作の姿勢に慣れ親しんでしまっていて、だから今回、
桜岡と緑川の三人でつくる、という体験は、それはそれはエキサイティングに七海は感じ
たのだった。
楽しんだ、といえば聞こえは良いのだが、徹夜で修羅場という状況であり、楽しかった
という感覚は事後的なものだった。つくってる途中は、何度投げ出したくなったかわから
ないほどだった。
DTMに詳しい桜岡にむち打たれ楽曲を練り直しながらつくり、そこに同時進行で緑川
が歌詞をつくっていく。曲と歌詞のチェッカーは桜岡だ。歌詞の関係で、アレンジだけで
なく主メロも微妙に修正していく。
つくったあとのミキシングとマスタリングは、桜岡が担当した。手慣れた手腕でがちが
ちつくる桜岡だが、音響チェックは三人全員で行う。イコライザーや定位などは、さすが
年季の入った桜岡だけあって、 七海は横にいて 「神かっ!?」 と唸るほどだった。 特に 『音
圧』の上げかたは神レベルだった。ユユのことを最初はぶーぶー豚のように聞き出そうと
していたドルオタの緑川だったが、作業も後半になっていくと、完全に詩人モードになっ
ていく。 「よごれちまったかなしみに」とかぶつぶつ言いながらつくるスタイルだ。 「ゆ
やーん、ゆよーん、ゆやゆよーん」と言い出した時はさすがに七海は緑川を部屋から締め
出そうとしたほどだ。
雀が外でピヨピヨ鳴く頃になると、三人ともふらふらで、七海が電話してデータを取り
に杏樹が自動車で七海家に着き、USBメモリやマスタリングしたCDーRを手渡し、自
動車が去って行くのを見送ったあとは、三人には深い眠りが待っていた。
コンテストは夕方から始まる。杏樹の家で時間ギリギリまで、歌を覚えたりをするらし
い。みかん、殊勝なこった、と思う七海だが、部屋に戻ると先に力尽きて寝ている緑川と
桜岡の、その床に雑魚寝で寝ている様を見ると、七海も床にそのまま寝ることにした。選
択肢なんてない。ただ、眠るだけなのだ。ここに来て七海は「音楽って素晴らしいなぁ」
と呟く。しかし完成するのは、これを歌ったその瞬間なんだ、みかん。七海のまぶたが段
々重くなっていく。
そしてそのまま、眠りの海に引きずられ。
☆
- 70 -
ライブハウス、リンリンクラブ。この天沼市でユユのライブが行われた場所。今日の天
沼市ご当地アイドルコンテストの開催地もここなのだ。
七海は開催地が東天沼のライブハウスだということを知り、なんとも皮肉だなぁ、と思
う。ご当地アイドルを欲しているのは、たぶん昔の共同体が未だにあってなおかつそれが
機能不全を起こしはじめている西天沼の、特に商店街などの町内会の人間たちだと推測で
きるからだ。だからこその復興プロジェクト、町おこし。西地区で欲するご当地アイドル
を、東地区を闊歩する若者たちに訴えかけ、どうにかする。どうも、そこには複雑な思い
が張り巡らされているような気が、七海にはした。
とはいえ訪れたリンリンクラブの建物の前には、開場までまだまだ時間があるというの
に、ギンガムチェックのシャツを着て眼鏡を掛けているようなオタクたちが今か今かと待
っている光景が見受けられた。ここに由比ヶ浜ユユも個人的なみかんへの応援で来ている
と知ったらどうなるだろうか。ぞっとしない話だ。
搬入口から七海、緑川、桜岡が入る。首からは関係者に渡されるバックステージパスを
ぶら下げていて、これを提示することで中に入れる。中に入ると、入ってすぐの自販機の
でコーラを買っている杏樹と遭遇した。
杏樹も、自分が出場するわけでもないのに、かなりそわそわしていた。廊下を歩いてい
るアイドル志願の女の子たちも、杏樹と同じくそわそわしている様が見て取れる。緑川が
低い声で、杏樹に話しかけた。
「杏樹さん。みかんちゃんはどう?」
コーラのプルタブを開け、ぐいっと一回飲んでから杏樹は、
「メイク中。ユユちゃんが手伝ってるのだ」
と答えた。そのコーラの缶を持つ手は、震えている。
「そうか……」
桜岡老人は「女の園じゃもん、わしも禁断の園でエレクトしちゃうんじゃもん」とか言
いながら廊下をダッシュしてどこかに消えてしまう。いつもだったら杏樹がそんな桜岡を
止める役割を果たすのだが、今のこの緊張感の中では、それも叶わず、桜岡は放置される
ことになった。
「コンテストの審査は、みっつ。第一が『ファッション審査』 、第二が『水着&トーク審
査』 、そして第三が『歌唱力審査』らしい」
説明してコーラを一気のみする杏樹に、七海は、
「お前が緊張してどうする」
と言うと、
「ユユちゃんってすごい。いや、アイドルはすごい、というべきかの。毎日こんな緊張感
と戦っているわけだから」
なんて返す。杏樹がこうなるなんてよっぽどのことだ。それは個人が緊張しているだけ
でなく
、周りの『空気』のせいもあるだろう。でも、七海にはこんな杏樹が新鮮に思え、
新鮮と言えば、ここのところ新鮮な場面に遭遇してばかりだな、とここ数日を振り返る。
しかし、 七海たちが楽屋に入れぬまま開場の時間になり、 雑談もあまり弾まないうちに、
- 71 -
廊下で待機しているとアナウンスの後『一ベル』が鳴った。もうすぐ、開演だ。
楽屋からはメイクをキメたアイドル志願の女の子たちが出てくる。七海はその中からみ
かんとユユを見つけようと思いきょろきょろ目を動かしていたが、そうしていると、男性
用の楽屋から顔に真っ白なメイクを施した男が出てきた。今日のコンテストの司会者、デ
ーモン・オクレそのひとである。
七海が楽屋から出てきたオクレを見るより早くオクレの方が七海に気づき、ツカツカと
七海に歩み寄る。その充血した目に七海が気づくのとほぼ同時に、デーモン・オクレは七
海の首根っこを掴み、そのまま強引に押して、七海の身体をコンクリートの壁に押しつけ
た。
わけがわからない七海に業を煮やし、オクレは首を掴んでいるのとは逆の手で拳を握り
しめ、壁にその拳を叩きつけた。
「おい、どういうつもりだ七海! なぜこんなとこにユユを連れてきたッッッ?」
「はい? えっと。オクレさんでしたっけ?」
「まだ気づねぇのか七海。おれは小暮だクソが」
「こ……小暮?」
七海は「えー?」とか言おうとしたが、首をきつく絞められているので上手く声にでき
ない。ひゅー
、という息が漏れるだけだ。
「ユユをてめぇらの茶番に付き合わせてんじゃねぇよ!」
「茶番?」
「そうだ」
由比ヶ浜ユユはトップアイドルではないものの、地下アイドルとしてはデビューからこ
こ数年間だけで大躍進している、今売り出し中のアイドルなんだ、こんなご当地アイドル
とは格が違うし、ましてやここはアイドルの発掘プロジェクト。ユユを連れてくるような
場所じゃない。口に出すと角の立つこれらの言葉を、しかし司会者の立場の小暮は声にし
て言えない。
「みかんは本気なんだ。ユユはそれに付き合ってくれた」
「お前は知らないだろ。ユユは毎日泣いてるんだぞ」
「友達なんだ、おれたちは」
「まだ言うかクソが」
七海に殴りかかる小暮のその拳を、 七海は避けようとしない。 そのまま素直に殴られる。
小暮は七海の首から手を離す。顔面を殴られた七海は、壁にもたれかかったまま、ずる
ずると倒れていく。
「おれの『本来の』フィールドに入ってきて邪魔なんかすんなこの三下野郎ッ」
桜岡も、 そして緑川も、 二人のやりとりを静観している。 緑川も助けるべきか悩んだが、
やはり助けるのは『違う』と判断した。
ステージに向かうデーモン・オクレ……
、小暮のその背中を、七海たちはただじっと見
ている。もうすぐコンテストが始まる。スピーカーからは二ベルが鳴った。
☆
- 72 -
さっきとは打って変わってハイテンションでひょうきんな役柄を演じているデーモン・
オクレのオープニングトークを、七海たちはバックステージに設置してあるモニタで観て
いる。コンテストが始まり、まずは概要説明というわけだ。会場はオールスタンディング
ではなく
、お客さん用にパイプ椅子が用意してあり、みんな座ってステージを観ている。
オクレのギャグのひとつひとつに反応して笑う客席。デーモン・オクレというキャラは全
国区の芸人であり、そんな彼が飛ばすギャグはこの田舎町の人間にとっては都会の息吹さ
え感じられる洗練されたギャグ、というわけだ。そのオクレ本人がまさかこの天沼で高校
生をやっているとは、誰も知らないのだろうけども。
「それでは紹介致しましょう! このコンテストにエントリーして一次予選を突破したみ
なさんでーす」
デーモン・オクレの紹介で上手(かみて)から歩いてくるアイドル志願の女の子たち。
全部で八名いる。
「一次予選、 と言っても、 ここに来た時点で予選は終わり、 本選です。 ファッション審査、
水着審査、歌唱審査の全てを、最後までやってもらいますよー
。まずはファッション審査
から行きましょう!」
舞台に花道はないものの、ステージにひとりひとりが前に出て、端から端まで歩く。ア
ピールタイムだかなんだか知らないが、歩いたあとで一言なにか言っていく。
それを観て、 「おお」とか「うんうん」とか漏らす審査員達と観客。
「あんのうちのくそおやじ……」
いつの間にか七海の横に来てモニタを観ていた杏樹が呟く。
こうやってコンテストで女の子たちを観ていくと、ほぼ毎日会うから気づかなかったも
のの、木下みかんという存在はかなり美人である、と気づかされる。このコンテストで飛
び抜けて可愛いのは、みかんと、そしてゼッケン7番の江崎ぐり子という女の子だ。金髪
に髪の毛を染めた女の子で、ちょっとヤンキーっぽいのが、この田舎の天沼っぽいと言え
る。どうもそのぐり子という女の子はみかんにライバル意識を抱いているらしく
、さっき
からみかんを睨み付けている。
「みかんちゃんなら、大丈夫じょ」
杏樹と同じく
、七海のもとへ来たユユが言う。 「服装もみかんちゃん一人じゃなくわち
きと杏樹ちゃんも一緒になって選んだじょ」
「そっか……
、って、んんんん??」
映ってはいけないものが画面に映ったような気がした。七海は目をこする。いや、これ
はなにかのギャグか? と七海は思った。
「ゼッケン8番、桃畑桃子どぇ~す」
「桃畑先生……」
カメラに映っているのは、七海の担任教師、桃畑桃子先生だった。
「わたしぃ、 出る気はなかったんですがぁ、 ダチのトマ美が私の名前で応募しちゃってぇ、
- 73 -
それで一次審査受かっちゃったんですぅ~
。私ぃ、がんばるからぁ、みんな応援してねぇ
~」
オーディエンスに向かってウィンクする桃畑先生。いや、あんた三十路越えてるだろ。
あと、 『ダチ』って……
。七海は応募したという『ダチ』である自分の母親を呪った。
「この芸風、80年代を席巻した『ブリッ子』というキャラ様式だな」
思わず解説してしまう緑川。これのどこがブリッ子なのか、七海は理解に苦しんだ。
そしてファッション審査が終わり、少女たちが一斉に舞台から捌ける。着替えたら水着
審査だ。
☆
「先生、なにやってんすか」
まずはそこを聴かざるを得ない七海。
「あらやだ七海くん。私だってガッコウのアイドルでしょ? このアイドル性を全国に知
らしめて……玉の輿よッ」
「訊かなきゃよかった……」
即座に後悔する七海だった。
「正直ぃ~
、七海くんという彼氏持ちのみかんちゃんや、絶対ヤリまくってるヤンキービ
ッチのぐり子ちゃんなんかより、私みたいなヴァージンな女の子の方がぁ、アイドルには
向いてると思うのぉ」
「ヴァージンなんすか、桃畑先生……」
本当に心の底から聞かなきゃよかったと、七海は思った。しかもなんださっきからのこ
の『ブリッ子』なるキャラ付けは。まじキレそうなんですけど。
「私、おひめさまになりたいのッ」
「はい?」
「私、おひめさまになって毎日バケツプリンが食べたいのッ」
ダメだこいつ、と七海は顔を手で覆った。
七海としては、自分はみかんの彼氏ではない、という主張からしていきたいのだが、言
い惑っているうちに、ステージから降りてきたみかんが現れた。
「どう? 結構可愛いでしょ、私」
「可愛いじょ!」
「でしょでしょ」
ユユとみかんが高い声でやりとりをはじめ出すと、そこに金髪の女子が現れた。
「ふん。あんた、いい気になってんじゃないわよ」
「はぁ?」
キレ気味で返すみかん。相手の金髪は、みかんや桃畑先生と共に舞台に上がっていた、
江崎ぐり子という女だった。
「あんたの媚び売りまくりの視線が超ムカつくのよ」
- 74 -
「はん。キョービ『超』とかつけてる時点であんたは失格ね」
「なんですって!」
なんというか、 「どっちもどっちじゃね?」とその場にいる男子勢は思ったが、あえて
二人にはなにも言わないことにしたのだった。
「あんた、木下さんだっけ。あんたみたいなビッチがアイドルになってもどうせお偉いハ
ゲジジイどもに身体を売る枕営業をしまくったあげく若さがなくなったらポイッと捨てら
れるのがオチよ」
罵倒がエスカレートしてきた。 みんなが慌てふためいていると、 そこでスタッフから 「木
下さーん、江崎さーん、出番近いですよー
。早く着替えの方、済ませてくださーい」と呼
ばれ、みかんとぐり子はにらみ合いながら着替えに向かう。
胸をなで下ろすしかない、七海たちであった。
「アレ? 私だけ、なんで呼ばれないの?」
戸惑うのは、桃畑先生のみ。しかし、 「おばちゃんだからじゃね?」とは誰も言えなか
った。
☆
「七海よ」
「なんだ、緑川」
「あのヤンキーのぐり子という女、意外と強敵かもしれないぞ」
「確かに、他の出演者から抜きんでているもんな」
「そうじゃないんだ。実はアイドルというのは、 『元ヤン』が多いんだよ」
「元ヤンってなに?」
「昔ヤンキーだったってこと。昔不良だったのが更生してアイドルになる、というストー
リーは『鉄板』なんだ」
「ふーん」
「次の審査は水着のままアピールタイムということだから、みかんちゃんにはそれを打破
出来るようなトークを期待するしかない。それと」
「それと?」
「勝負は、
……僕たちのつくったオリジナル曲だ」
七海は真剣に語る緑川に対し、微笑む。
「当然。おれたちは、強い」
「……だな」
「あっは。どうもこんばんわ、木下みかんです。今日はお越し下さいましてありがとうご
ざいます。わ、わ、私はこの町がスキです。スキなんです。ここは田舎だけど、空気は綺
麗だし星空は素敵だし、水もおいしい」
- 75 -
なに言ってんだみかん、と七海は思った。アピールタイムって、完全に町のアピールに
なってて、内容は凡庸だ。ここから自分のアピールに繋げていくのかと思いきやそんなこ
ともなく
、制限時間いっぱいで天沼市のアピールをして終了した。
最初、みかんがステージに現れた時、水着姿で「おお」となるにはなったが何故かオタ
クアピールなのかスクール水着で、なんとも痛々しい感じだったのだが、そのトークの痛
々しさも合わせるともう、マジで次の歌唱でどうにかするしかないな、と言ったところだ
った。
逆に、後に出てきたヤンキー少女・江崎ぐり子は、紐で結んであるタイプの肌色成分の
圧倒的な悩殺水着で、それが金髪と見事に合わさってグラビアにそのまま載せられるんじ
ゃないかってほどだったので七海は頭を抱えたが、隣の緑川は押し黙っているし杏樹は自
分の胸に手を遣っているしで、 どうしたんだろう、 と七海が辺りを見回すとユユが 「爆乳」
と唸ったので「ああそういうことか」と納得したのであった。
お目汚しである桃畑先生のハイレグを横目で見ながら七海は、
「次が勝負だな」
と、 応援に力を入れようと決意した。 自分が決意したところでなんら意味がないのだが。
いや、全く意味がないわけではない。
「おれの楽曲がどれだけ通用するか、勝負だぜ」
握る手が汗ばんでくるのを実感した。
「おれたちは、強い」
☆
最終審査の歌唱審査の進行で使う台本を、デーモン・オクレとなった小暮は読む。今日
のこの仕事は、スケジュールの都合上ぶっつけ本番になってしまったので、三つある審査
の空き時間空き時間をこまめに利用し、咀嚼する。プロにとってはこんなぶっつけ本番は
よくあることだし、そんな仕事を小暮は断らない。役者が成長するにあたって一番必要な
ものは 『場数を踏む』 ことだということを熟知しているからだ。 自分にプラスになるなら、
断る必要はない。 「ぶっつけなんてプロの仕事じゃない」なんていう世迷い言をつぶやく
ぐらいなら、ガンガン場数を踏むべきだ。小暮はそう思っている。
そして、最終審査でしゃべる内容に、 「出演者のひとりが、自分の仲間がつくったオリ
ジナル曲を披露するので、 それにそれに驚いてコメントする」 という項目が振られていた。
冗談じゃない! あのクソが。
単なる同人クリエイターのつくった曲、しかもあの七海と緑川がつくった曲に、コメン
トだぁ?
小暮は歯ぎしりが止まらない。あいつらがなんでバックステージパスを持っていたか。
それは『作曲者』様と『作詞者』様だからだったのだ。そこに神社の娘とご老体も付きそ
うというかたちで、遠足にでも行くような気分で楽屋裏をうろついている。反吐が出る話
だ。 「なにかあったら」どうするんだ。誰が責任を取るんだ。この町のこのプロジェクト
- 76 -
の運営者たちの、文字通り『お里が知れる』というものだ。
七海茄子という男は、もう三年以上音楽をやっているが、未だにどこの事務所からも誘
いが来たことがない。それを小暮は知っている。そしてそれが致命的である、ということ
も知っている。あいつはたぶん、このまま行くと同人コンポーザー(音楽制作者)になる
だろう。
小暮はこう思っている。よく
、 「同人からプロデビューした人もいる」という言い訳を
する同人コンポーザーがいるが、そんなの鼻で笑える話で、そんなこと言う奴は一生プロ
になんかなれない。
バンドには『三』という数字がつきもので、バンドを結成して三ヶ月でライブが出来な
ければそのバンドは潰れ、ライブをやって三年で客が入るようになったりレーベルから誘
いが来なければ、大体そのバンドは永久にそのままの状態で終わる。
それと同様に、 三年音楽をやってどこからも誘いが来ない七海は、 もうダメだろう。 「同
人からプロデビューした人がいる」というのは、そのプロになった人物がたまたま、初出
が同人ベースだっただけで、そういう奴は最初から商業ベースでやっていけるスキルを持
っているのだ。それは大きな差異だ。それに、同人はプロを目指すためにやるものじゃな
い。同人とは、自分の作品やひとの作品、そのジャンルなどを愛するための文化だ。同人
からプロになったひともいる? 笑わせてくれるぜ。そいつは根本的にズレてんだよッ。
「同人的なお遊び野郎が、あのユユまで召喚してなにを巫山戯ていやがるんだ」
小暮は台本を握りつぶす。 「木下みかん、
……か。ハッ」
☆
第二審査が終わり、モニタから離れた七海が手を洗ってトイレから出て廊下の角を曲が
ると、自販機の前でみかんが江崎ぐり子の胸ぐらを掴んで叫んでいるのに出くわした。
「このビッチ! 泥棒ッ! 私の服を盗んだでしょ! あんたなんかエリーゼの白い奴だ
け食って死ね!!」
「言いがかりはやめてこの焼きハマグリ! 海洋深層水に潜って死にな!!」
意味不明だが、とりえあず怒鳴り合っているようだ。こりゃいかん、と七海は小走りに
駆けていって、二人の間に割って入る。
「ちょっと止めろって。どうしたんだ、おい」
「ブサイクがッ。割って入ってんじゃないわよ! あんたには関係ないでしょ」
押さえ込まれていた胸ぐらの手を振り払ったぐり子が七海を手で押して吹き飛ばす。
「なっ、どうしたんだ喧嘩はやめろって」
体勢を戻し七海がみかんを見る。みかんは涙を目にためて唇を噛んでいる。
「この子が、私が自分の服を盗んだって言い張るのよ」
吐き捨てるように言って、ぐり子はみかんを鼻で笑った。
「冗談じゃないわ。私が優勝候補だからってやっかみは止めて。ホント、ウザいから」
みかんはさっきの審査の時と同じまま、水着を着たままだ。一瞬その姿に目が行ってし
- 77 -
まい、七海は顔を赤らめて目をそらす。
ぐり子の方は、 着替えが終わったらしく
、 ギャルファッションに身を包んでいた。 そう、
もうすぐ第三審査が始まるのだ。着替えていて当然なのだが。
「だって他に誰が盗むの? あの更衣室にはあなただけが入って着替えていたんじゃない」
「だから言いがかりはやめてっていってるでしょ。確かに着替えで割り振られている更衣
室は私とあなただけが使う部屋だったけど、だからってどうしてそれだけの理由で私だっ
て決めつけるの? そんなことするわけないじゃない」
「じゃあ誰が」
「オンナの私がオンナの服を盗んでどうするの? それを着るってでも言うの? バカじ
ゃない、あんた。こんなのオトコの仕業に決まってるでしょ。変態が盗んで、今頃あんた
のくさい匂いでも嗅いで喜んでるわよ。それに疑うならそこの変態そうなブサイクじゃな
い? いきなり割って入ってキモいし、モテなさそうなカオしてるし」
いきなり犯人候補になってるのだがこれはどういう……
、と七海は思ったが、これはど
うやらみかんの服が盗まれた、ということらしい。みかんの服が盗まれて、この更衣室が
同じだったというヤンキーのぐり子が犯人なんじゃないか、と思ってみかんが追い詰めて
胸ぐら掴んでいたところに、おれが来たというわけか、と七海は推測したし、それは当た
っていたのだった。
みかんとぐり子が、ぎゃーぎゃーと怒鳴り合う。七海はそれを傍観するしかない。どう
すりゃいいんだ、と焦るが、七海が焦ったところでどうにかなるものでもない。
「どうしたんじゃ、七海」
声をかけられた七海が振り返ると、それは桜岡老人だった。
「次の審査はおぬしのつくった曲の披露じゃろ。しゃきっとせい、しゃきっと」
「…………ぱんつ」
シリアスな顔をした桜岡は、頭から女物のぱんつをかぶっていた。
「お前が犯人かあああああァァァ」
桜岡をド突く七海。七海の声でみかんとぐり子が二人とも桜岡を見る。
「なんじゃ、おぬしら。そんな見つめちゃ、いやん」
ぽっと頬を赤らめ、桜岡はおしりをスウィングさせた。
「ホラ、私じゃないじゃないの。このジジイが犯人でしょ!」
そう結論を下しそうなところに、廊下をダッシュしてくる人の足音がばたばたとする。
その足音の主は桃畑先生で、走ったまま桜岡にドロップキックをかました。
「私の下着を返せボゲェ!」
「ぐはぅ!」
キックを食らい壁に激突する桜岡。桜岡に「みかんの服、盗みましたか」と尋ねる七海
に、 「わしは桃子ちゃんのぱんつにしか興味ないもん」と拗ねて見せた。たぶん、それは
その通りだろう、と七海は理解した。
そんな騒ぎを起こしていたからなのか、運営のスタッフがやってきた。そのスタッフの
手には、スポーツバッグが握られていた。
「そうしたんですか、みなさん。大声を出して」
スタッフがみかんを見て「あっ。ちょうど良かった」と言う。
- 78 -
「木下みかんさん。トイレにあなたのバッグがありましたよ。中に名前がプリントされた
CDーRが入っていたからわかりましたけど、これ、みかんさんのですよね」
みかんは、スポーツバッグに名前は書かなかったが、バッグの中に予備のCDーRを入
れていたから、それでスタッフは持ち主に気づいたのだった。
それを受け取ったみかんは、バッグの中を開けて見て見る。
そこには、ずたずたに引き裂かれた衣類が、乱雑に入っていた。最終審査どころか、こ
こに着てきた服さえもが、引き裂かれている……
。
みかんは、耐えきれずに泣き出した。
☆
「みかんちゃん、わちきの服を着ればいいんだじょ!」
みかんの肩を揺さぶるユユのその言葉に、みかんは泣き止む。
「裸になったって、 わちきが審査中、 更衣室で待ってればいいんだじょ。 簡単なことじょ」
一同は息をのむ。確かに、そうすればこの場はしのげる。それは素晴らしいアイディア
だ。七海は一筋の光をそこに見る。
だが。
「それはダメだユユ」
その男の声は、氷の刃のように辺りに響く。誰だ? 知らない声。大人の声。スマート
な声。こんな奴、おれは知らないと、七海はユユとみかんから目をそらし、男を見る。
「マネージャー!」
ユユは震える声で、男の正体を明かす。
「こんなところでなにをやっている。ずっと探していたんだぞ」
そう。ここに来たのも、七海とユユが会っていたのも、それはユユの独断で。
「帰るぞ」
「いや!」
スーツ姿のきちんとした身なりをしたその男はユユのマネージャーで。
「みんなが待ってる。スタッフも、ファンも、そして私もだ」
「わちきはみかんちゃんを助けるの!」
「こんな奴らと関わるな。お前はこれから輝こうとしている、アイドルなんだぞ」
「このひとたちは友達なんだじょ。みかんちゃんも、緑川くんも、杏樹ちゃんも、桜岡じ
いちゃんも、それに……茄子も」
「友達……ね」
鼻で笑うマネージャーに憤りを感じる七海だが、だけどもこいつが言っているのは至極
真っ当だとも思うのだ。そう感じてしまうと、この場を乗り切る言葉が口を出ない。七海
はこのマネージャーとは違い、大人の社会なんてなにも知らない高校生なのだ。あまりに
その立場が違い過ぎる。
「茄子くん、だね」
- 79 -
ユユのマネージャーは、七海にゆっくりと、丁寧なしゃべり方をしながら、なめ回すよ
うにその全身を見た。下から上へと、その目線を動かし、七海と目を合わせた。
「君たちにも迷惑を掛けた。いきなりこの子が、自分の立場もわきまえないで現れたこと
には、頭を下げよう。だが、この子には仕事がある。この子の仕事にも支障をきたすし、
君たちの生活にもこのままだと支障をきたす恐れもあるだろう。なんたってユユは『アイ
ドル』なのだから。引き下がってくれないか?」
その場にいる誰も口を挟めない、それは提案の内容の言葉でありながら、口調は断言で
あった。
そこに口を挟めたのは、緑川だった。
「ユユは、引退騒動が出ているのは僕も知っています! だからこそ、僕ら友達の力で、
勇気づけることが出来るんじゃありませんか。今はみかんちゃんを、ユユは助けるって言
ってる。ユユの意志です。ユユ自身の意志を、あなたは尊重させてくれないんですか?」
マネージャーは歩き出し、そして緑川の前に立つ。それから無言で口元を歪ませ、それ
から緑川に背を向ける。マネージャーはみかんのそばにいるユユの前に来て、 「帰るぞ」
と、また同じ事を言った。
その「帰るぞ」という一言の強制力は本物だった。緑川の言葉にも真実みはあったが、
しかしそれも、高校生の、一人の子供が言った言葉にしか過ぎなかった。
ユユはうなだれ、しばし沈黙してから、マネージャーの前に立った。
「君たち、悪かったね。
……君たちは君たちの茶番の続きをしてくれたまえ。それじゃ」
「 『茶番』だとッ」
殴りかかろうとした緑川の右の腕を、いつの間にかそばに立っていた桜岡が掴んで止め
る。
「やめておくんじゃ」
「だって」
「仕方ないんじゃ。世の中には、そういうこともたくさんある。ここは堪えろ」
「…………」
マネージャーに背中を押されながら去って行くユユを、誰も止められない。みかんは胸
のところを手で握りしめる。 そこには、 七海がつくったリミックスのUSBメモリがある。
廊下からユユとマネージャーの姿が見えなくなってから、桜岡はみんなに聞こえるよう
に、大きな声で言った。
「みかんちゃん、とりあえずここはその水着で出るんじゃ。その間、わしがエロ可愛い服
を買ってくるからの。それで帰ることは出来る。今は審査じゃ。水着でも大丈夫じゃろ。
この箱の近くにはラッキーなことにショッピングモールもあるしの。行くぞ、杏樹」
この空気を打破出来たのはやはり、桜岡老人の今までの人生経験のおかげだった。とは
いえ、その重たい空気を打ち消すには、あまりにも状況が悪かった。
☆
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無言の激情が流れる。一体緑川は今、どういう心境だろう。七海は自分の横でモニタに
食い入る緑川を横目で見て、思う。由比ヶ浜ユユの大ファンで、いつもユユの動向を見や
り、ライブコンサートやイベントに参戦する『ユユたん帝国』の『帝国民』 。そんな彼が、
そのユユの『友達』になれたとしたら。そして、 『友達』であることをそのマネージャー
に『否定』されたら。七海は今の緑川の心の奥に渦巻いているであろう感情に酩酊する。
「七海」
緑川は言う。 「ありがとな」
「なんで」
「ユユに会えただけで嬉しいし、仲良くなれるなんて、夢のようだった」
「…………」
「じゃ、夢の続きを、追うぜ」
「おう」
画面ではみかんがステージに立って、緊張している姿が見える。他の登壇者はみな、思
い思いの綺麗な服を着ているが、みかんだけ第二審査の時のスクール水着の姿のままだ。
モニタの集音機器のセッティング位置の関係から、ステージの、みかん以外のご当地ア
イドル候補生たちの「なにあの子」 「スク水だって、笑っちゃう」 「オタク受けでも狙っ
てんでしょ」などの声が聞こえてくる。この声はもちろんステージにいるみかんにも聞こ
えているはずで、いつものみかんだったらかんかんに怒ってしかるべき様相を呈している
わけだが、審査中に怒るわけにもいかず、さっきのユユの騒動も影響してだろう、みかん
は緊張しながら必至に耐えていた。
耐えている? いや、元気をなくしている。まずいな、と七海は思って緑川を見る。緑
川も、七海と同じように思ったらしい。二人で顔を見合わせてしまった。
そして、みかんの歌唱が始まる。
その歌声は伸びやかに、七海のテクノポップのリズムに合わせ、緑川の歌詞を運んでい
く。確かにいつものみかんの歌声には劣る。だが、本番というのは、基本的には練習の7
0パーセントの実力しか発揮できないと言われている。これだけ歌えれば上出来、と言え
た。中学校を卒業したばかりの、なんのレッスンも受けていないみかんの、これが本気だ
った。ピッチは外さない。リズムも取れている。ただ、そこに感情を乗せるまでは行って
いない。昨今のポップスのことを思えば、感情を乗せないのは主流ではある。が、そこに
はなにか、物足りなさを感じてしまうのは、仕方がないのか。
「やっぱ曲の練習の期間が必要だったか。その場しのぎでいけるのは、限界があるぜ」
七海の分析。
「いや。他の出演者には負けてない」
緑川は答える。
確かに、負けていない。が、それは負けていないだけだ。みかんの魅力は発揮できてい
ない。七海のこめかみに汗が伝う。
みかんの歌唱が終わり、桃畑先生も『津軽海峡冬景色』を歌ったりして、それから審査
も終わる。
審査員の講評がある。杏樹の父親をはじめ、天沼市のお偉いさん方が、ごちゃごちゃし
ゃべり出すが、七海と緑川は、それらが耳に入ってこない。
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そして運命の瞬間。ステージが暗転し、ライトがついた。
そのスポットライトが照らし出したのは、木下みかんではなく
、江崎ぐり子だった。
杏樹の父親である、天沼神社の神主がカンペを読みながら、告げる。
「歌唱力は正直言ってまだまだだが、江崎ぐり子くんの持つポテンシャル、それからバイ
タリティは、これからの天沼の地域でアイドル活動をしていくに辺り、大変望ましいもの
と思われ……」
神主のコメントがモニタから聞こえる中、七海と緑川はその場で横になって、そのコメ
ントをやり過ごした。
二人は、みかんの迎えに行く前に、しばらくその身を脱力させる必要があったのだ。そ
れに、二人とももう、体力の限界だった。
☆
飛んだ『茶番』だったな、と小暮は先日の天沼市ご当地アイドルコンテストのことを思
い出して、笑った。
「トップアイドルってのが存在して、一方で地下(ライブ)アイドルがいて、一方にご当
地アイドルがいる。この境界線に、今の日本の縮図があるんだからな、笑っちまうぜ」
由比ヶ浜ユユのコンサートツアー
。そこの楽屋で今、小暮は待機していた。春休みのこ
の時期、どこもかしこも、ツアーのチケットはソールドアウト状態だった。その進行役と
して、今日も小暮はデーモン・オクレとなる。
小暮の楽屋・更衣室には、ノートパソコン。ネットで繋いであるのはサウンドクラウド
の、七海茄子のページだった。七海の最近投稿した曲が、PCのスピーカーからは流れて
いる。これは、あのコンテストでみかんが歌った曲の、インストバージョンである。
「さてさて」
小暮は芝居がかった声を出して、 誰もいない楽屋で、 発声練習のような声を出しながら、
誰にともでもなく
、自分に言い聞かせるように、発声する。
「一体、蛇を束ねる天狗は誰だった? まだ天狗が起こす天災は、起こってすらいねーの
に、おれはもう一仕事終えた気分なんだぜ?」
笑みを浮かべると、目の前にある鏡台には、その歪んだ笑みの自分の姿が映る。小暮は
もう、オクレのその白いメイクが施されていて、まるで別人になったかのようで。
化粧を施した小暮は、その笑みを浮かべたまま、楽屋を出る。
すると都合良く
、会いたかった人物を捕まえることが出来た。廊下で会った人物は、由
比ヶ浜ユユのマネージャー
。
マネージャーは「お疲れ様です」と言い、そそくさとその場を離れようとしたので、小
暮は肩を掴んで、自分の方にマネージャーを無理矢理振り向かせた。
そして、 振り向かせたそのマネージャーの顔面に、 小暮は右の拳を思い切り打ち込んだ。
拳を打ち込まれたユユのマネージャーは、仰向けに倒れた。その倒れたマネージャーの
胸ぐらを掴んで、 小暮は馬乗りになって、 そのまま頭上から何発も両方の拳を交互に、 右、
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左、また右、左と、拳で顔面を殴った。
「おれをくだらねぇ茶番に付き合わせやがって!」
「なんのことだね」
激高する小暮に、唇を切って血を流すマネージャーはとぼけて見せる。
「お前がおれにやらせたことだよ。木下みかんの服も下着も、ハサミでずたずたに引き裂
くように命令したことだ」
「はっ。当然だろう。君は私に同意した上でのことだろう。今更なにを?」
「気にくわねぇ。平然としてるてめぇがな。この一件が闇に消えるなら、消える前に真実
を知るおれがてめぇを殴っておかないとな。茶番の最後はちゃぶ台返しって、相場が決ま
ってんだよ!」
本気の一撃を、小暮はマネージャーに喰らわす。マネージャーは抵抗しない。倒れ込む
マネージャーから、小暮は身を離して、立ち上がった。
「木下みかんの歌唱力、お前も目を付けてただろ。なのにお前はそれを台無しの結果にし
た」
「当然だ。七海茄子を、ユユに近づけさせないための処置だ。小物は小物たちで和気藹々
とお遊びをしていればいい」
「そうかよ」
廊下を、他のスタッフが歩いてきたのをきっかけに、小暮とユユのマネージャーのやり
とりは終わる。マネージャーは唇を手の甲で拭き、立ち上がる。小暮も、もうマネージャ
ーのことは無視して、 ステージの袖まで歩き出す。 もうすぐ、 今日のライブの本番なのだ。
小暮は、待機する舞台の袖に、後方を振り向くことはなく
、ただ、静かに向かった。
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小暮がいなくなると、激痛が走る顔を手で撫でながら、マネージャーは唾を吐いた。
「木下みかん。あんなに可愛い子が、アイドルコンテストなんてもんで『落札』されてた
まるかよッ! 野に咲く花は、そのままで美しいんだ……ッ」
☆
「由比ヶ浜ユユ、引退報道を否定、
……のぅ。ふーん」
読んだ女性週刊誌から境内を竹箒で掃除している七海に、杏樹は目を転じた。
七海は竹箒を弁天池に振りかざすと、それに反応して水面に鯉が浮き上がり口をぱくぱ
くさせるのが楽しいらしく
、そのモーションを何度もしてゲラゲラ笑っている。
「今日からガッコウは新学期じゃのー」
七海は箒を地面に戻し、杏樹を見た。
「学生に戻りたいのか?」
「私はもう、歳じゃよ」
「いや、まだまだこれからだろ」
「ふん。えらそーに宣いよって。私にはどうせ振り向くこともないだろうに」
「はぁ?」
「いいからとっととガッコウに行け。新学期初日から遅刻はまずいじゃろ」
「七海~! シュゴオオォォ」
そこにいつもの調子で神社の階段を登ってくる女の子がいた。みかんである。
「お前、なにそのガスマスク」
「あっ。別に奇抜さを狙ってるとかクラスの人気をかっさらおうとか、そういうわけじゃ
ないんだからねっ」
ガスマスクを取ると、そこにはみずみずしい顔があった。 「うふふ」 と、ご機嫌な様
子だ。
「今日から一年生~」
「正確には一昨日入学式だろ」
「で、昨日が始業式~」
七海とみかんのやりとりを見て、杏樹はため息を吐いた。
「私の前途も多難よな」
「なにが?」
「もうよいわ。早く行け」
「へーい」
「えっへっへー
。それじゃ杏樹さん、行ってきまーす! ほら、行くよ七海」
神社の階段を早足で駆けていく二人。杏樹はこれからの自分の恋愛の成就のため、 「私
も頑張るぞ!」と、その場で気合いを入れた。
二年生に進学した七海茄子は、小暮とはクラスが変わってしまったが、緑川勇作とは、
また同じクラスになった。二年で習う教科の内容を、新学期初日のこの日はレクチャーさ
れ、疲れたままでチャイムが鳴る。七海は新歓のプレゼンのことを訊こうと部活顧問の桃
畑先生のいる職員室に行くと、 桃畑先生の机のところには、 みかんと、 そして緑川がいた。
「あら、七海くん。ちょうど良かったわ。新部員の二人よ」
「はい?」
「いや、だ・か・ら。デスクトップミュージック研究会の、新部員の二人」
「声楽部じゃなくて?」
緑川は首を振ってゴキゴキ鳴らす。
「部活掛け持ちで、今日からDTM研の部員になった。
……いや、正確には」
「正確には?」
思わず七海は尋ねてしまう。
すると、緑川は胸を張って言った。
「木下みかん・アイドル化プロジェクト!!」
「…………」
「七海、別にあんたの曲を歌いたいとか、そういうわけじゃないから」
あー
、わかってるよ、と七海は答える。桃畑先生は声を弾ませて、説明する。
「今日から声楽部とDTM研は、合併します」
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七海には理解不能なことに、どうやらなっていたようだ。
「目指せ、アイドルへの道!」
桃畑先生が拳を突き上げると、緑川とみかんは「オー!」とところ構わず叫び、恥ずか
しそうにして七海も一緒に拳を突き上げた。
そう、チャレンジャーというのは、常に前進することを考えねばならず、青春というの
も、トライアンドエラーで突き進むべきなのだ。
「お前に追いつくように頑張らせてもらうぜ、ユユ」
七海茄子は、こうして同志たちと出会ったのであった。
了
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天沼サニーサイドインサニティ