理性の眠り
僕の理性は眠りに至る
僕らは街の影にすぎない。それを意識したのは僕が十六歳のときだった。
僕らは街の影法師。僕のことを誰も知らない街のなかを彷徨するのが、僕の高校生になってからの趣味になっていた。
街では僕は影そのもので、また、ビルディングは舞台の大道具のベニヤ板。他人にしても、僕と同じように、それは影でしかなくて、僕らは街という影劇場を彷徨する影絵だ、と意識し始めたのだ。
そう思うと、僕は気が楽だった。気楽に、街を徘徊することが出来た。
高校で演劇部に入った僕は、顧問教師の福井先生の白髪交じりの髭面の口元を観ながら高校演劇のイロハを今日も教わる。基礎練と台本の読み合わせとエチュード。それから大会や文化祭などでやる演劇の台本を選ぶことをしながら、劇の喫緊の予定がないときは、顧問の福井先生の演劇論を、僕たち部員は、よく聴いていた。
そんなある日のこと。
その日は日曜日で、眠い身体を起こして部室に来ていた。基礎練をして次の舞台の台本読み合わせをみんなですると、ブレイクタイムになった。
僕は連日の疲れでテーブルに突っ伏して眠ってしまった。いや、起きていたと自分では思う。
白昼夢を見た。
白昼夢、というよりは黒昼夢と言うにふさわしい。それは間違いなく黒い夢だった。
夢のなかで黒い悪魔が僕に囁きかけてきて、死にたい気持ちでいっぱいになった。具体的にどんな夢だったのか、いまいち覚えていない。悪魔が僕に囁きかけると、コウモリやフクロウがその囁きから具現化して湧いて出てきた。そのこともうろ覚えで、覚えているとは言わないかもしれない。ただ、そのコウモリやフクロウは全身黒くて、妙に艶めかしく、吸い込まれそうだったことだけ覚えている。
黒い悪魔の囁きがなにを意味したか。それは僕にもわからない。言語ではなかったのかもしれない、コウモリやフクロウが囁きから湧いて出てきたのだから。
突っ伏した僕が椅子から倒れると、さすがに目が覚めた。
そのときだ。福井先生は、部室の本棚からゴヤの画集を持って来て開き、僕にフランシスコ・デ・ゴヤの銅版画集『ロス・カプリチョス』のなかの有名なエッチング作品、『理性の眠りは怪物を生む』のページを見せながら解説を始めたのだった。
千七百九十九年にフランシスコ・デ・ゴヤによって制作されたそのエッチング作品『理性の眠りは怪物を生む』は、自身の中に眠っている個人的な悪夢を描き始めるようになったゴヤが、風刺として描いたものだ。
テーブルに突っ伏して眠る人物の背後に、花咲くように黒いコウモリやフクロウが湧いていている。突っ伏すその人物を暗黒の森へと連れ去っていくのではないか、と思える構図のエッチングだ。
福井先生は僕にゴヤの絵を見せて、こう言う。
「理性が放棄されたファンタジーは信じがたいモンスターを生み出す。この眠る人物は理性であり同時にファンタジーでもある。この眠る人物は芸術の源泉であり、驚異の起源なんだ」
ただ、と言って先生は付け加える。
「描かれているコウモリやフクロウは『無知』や『愚行』を象徴するものだ、というのがこの作品の重奏性を与える物でね、さて、成瀬川。おまえが観ていた夢はどんな夢だ?」
「コウモリやフクロウの群がる、死に体の僕……ですね」
福井先生は鼻を鳴らしながら、
「そりゃあまた黒い夢だな。この版画の絵そっっくりだ」
「ですね」
「今、どんな気分で起きたんだ。眠り足りないか」
「いえ。部活を続けたいので起きますよっと」
「よろしい」
☆
『理性の眠りは怪物を生む』が製作されたのは1799年で、ゴヤが聴力を失ったのは1792年。
ゴヤの『黒い絵』シリーズは自身が聴力を失ったことをダイレクトに反映させたのは黒い絵を飾る別荘に「聾者の家」と名付けたことから想像出来る。
理性と想像力の結合こそ、芸術の源泉となる。
この〈理性の眠り〉とはその〈混淆〉を〈眠り〉という表現にしたものだ。
知性と感性、物理と感覚、などに言い換えが効くかもしれない。
あの有名に過ぎる『黒い絵』は「物理と感覚」という置き換えが、まさに誰でもわかるかたちで当てはまるケースである、と言い換え出来る。
この『理性の眠りは怪物を生む』を含む版画集『ロス・カプリチョス』もまた、その問題意識を創作に込めたのではないか、というのも想像が出来る。
予兆が、ゴヤのなかですでにあったのではないか。聴力を失う、その予兆が。
ゴヤは死の近く、『俺はまだ学ぶぞ』という文字を書いた絵画作品を残しており、臨終の床で「自分の手を見つめていた」ことは有名な話だ。
「知性と感性」に関して言うと、いきなり話は飛ぶが、イマヌエル・カントのなかではどちらもア・プリオリ(先天的)なものとして扱われる。
カントの純粋理性の重要なポイントは、「主客の一致」で、「主観→客観」があるのではなく、「主観と主観がぶつかる」ところに、ア・プリオリに「通じるもの」(現象界)が存在する、ということだった。
ア・プリオリとは先だって存在するものを指す言葉だ。先天性と訳される。ア・ポステリオリの対義語だ。
感性はア・ポステリオリ(後天的)とは違うということだった。
知性=理性と、カント認識論の感性と悟性の二層構造の認識(悟性の方に純粋概念と経験概念がある。また、感覚器官を通じて受け取る認識能力をカントは「感性」と呼んだ)、これが前提としてまずあって。
でも、理性は暴走する、ともカントは言っていて、実際西洋の「近代」は「理性(ロゴス)中心主義」を企てようとしたのだったが、それは現実の歴史では第二次世界大戦で、徹底的に考えとして敗北する。結局、システムだけで社会を回すことは出来なかった。そこから、ポスト構造主義の、ツリー構造(ヒエラルキー構造、またはハイラーキー)への疑義、否定と、それに対置するものとしての(もしくは近代成熟期の当然の流れとしての)リゾーム的(機能分化的)な考え方が出てくる。
遊牧的、って言葉でも良い。
この版画作品『理性の眠りは怪物を生む』では、理性が眠ったときに訪れるもの、具体的に言うと〈狂気〉というコントロール出来ないものが重要になってくる。「怪物を生み出せるのは理性が眠った時」と踏んだゴヤは、さすが「最後のオールド·マスター」と呼ばれるだけあって、先見の明があったのだと、僕は考える。
アートの聖性の「一端に触れる」ことが……ひとが追い求めてしまうものだとも思う。インスピレーションが降りてくる、っていうのも、インスピレーションを日本語訳すればなんとなく感じとしてはそういうことかな、と僕は思うから。
「理性と想像の結合はアートの源泉として大切」だと思う。「理性と想像の結合」、これを哲学でいう『異化効果』と呼ぶものに近しいニュアンスがある。また、もしかしたらほかにこのニュアンスに近いものはというと、ヘーゲルの『アウフヘーベン』に近いかもしれない。
話を「言語」に戻すと、基本的には自分の「引き出し」以上のものが出ないのが理性に属するもので、でも、それじゃアートにならない。想像力という、よく「翼」に例えられるものがないと、やっぱりアートには届かない。逆説になるが人間が人間である以上、想像力がない状態はない(無意識の想像力だって強い力を持っているから)ので、そこは技巧ではなくアルカイックであってもこころを打つ作品はつくる可能性が(極端に言えば誰にだって)ある、と。で、方法のロジックとしては、それは「結合」、つまり『異化効果』によって「俗」が、「転化」してアートに届くのだと、個人的には思っている。
☆
マッキントッシュを起動させる。
僕は学校から帰宅しては日々、深夜帯に小説や論考などの文章を書くようになっていた。小説や論考と言えば聞こえが良いが、正直、自分で読んでも下手っぴな代物である。深夜に書くポエムとなにが違うのか。たぶん、体裁が違うだけで、本質は「深夜のポエム」と同じだ。
深夜十二時を針が指さした影時間に、僕は闇に紛れて暗い心情を吐露するだけの、地下室の手記を書き紡いでいる。
それは自意識に塗れていて、描写もへったくれもない。それをテキストエディタでタイピングしながら、しかし僕は悦に入っていた。
無知な僕が描く愚行の極みが、まさにその小説や論考だったにも関わらず、だ。
僕は部屋の電気を消して真っ暗にして、机のライトだけつけてスポットライトを浴びるような雰囲気にして、そのなかで文章を書いていた。
それは快楽だった。僕に許された自由が、そこにあった。でも、そのスポットで出来る影こそが、僕の〈本体〉なのではないか。
福井先生の開いたゴヤの版画集と、その説明を聞いて、僕は僕なりのアンサーをマッキントッシュ内に打ち込む。
僕の深夜の文章執筆は、休み時間とは言え部活中に眠るほど打ち込むべきことでもなかろう、という気持ちは、ある。だが、気持ちと相反する影時間にのみ立ち現れる黒いテクストの快楽を知った僕には、執筆は止められない。
部屋の中でつくったスポットライトを浴びて執筆する僕はしかし、普段は学生服を着て、無個性を旨として、繁華街を歩いて、誰も僕を知らないことに安堵している。
街の影が僕だ。
そんな僕は、部活で高校演劇の俳優をしている。なにか倒錯して捻れた歪みを、感じていたところだ。
黒いコウモリやフクロウが背中から湧いた机に突っ伏した人物が観る黒い夢のその自意識と無意識こそが、理性とファンタジーで出来た芸術の源泉である、ということ。それは似たような〈なにか〉だ。
☆
「僕らは街の影にすぎない。この影絵を〈再演〉するのが、演劇なのではないでしょうか」
次の日、部室でぶしつけに僕が髭面の福井先生に言うと、先生は豪快に笑って返す。
「そうだな。アングラ演劇は暗黒舞踏がベースになっている、という説がある。〈舞踏〉が起源なら、その暗黒もまた、正統性があるな。その話も追々していきたいが、それより成瀬川、おまえは青春という〈一回性〉の輝きを〈再演〉させたいときが来るだろう。おそらくは毎夜書いているその小説で、な。たぶん、そのときこそ、〈街の影〉の〈正体〉を掴めるときだ」
「どういうことですか」
「そのうちわかるさ。十六歳で街の影を意識出来たっていうなら、それに越したことはないさ。楽しめよ、この〈影絵〉を。いや、理性の眠りが怪物を生む、その瞬間を、だな」
「キザな台詞ですね、先生」
「成瀬川の書いた小説を、いつかおれにも見せてくれ」
「でもそれはきっと〈理性〉ではないのでは?」
「そうだなぁ。理性よりも、それが眠って〈狂気〉と溶け合う〈怪物〉になったときに、読むさ。そのとき、おれにもおまえのことがはじめてわかることになるだろう」
「上手いですね、先生」
「そりゃあ顧問だからな。さて、宵闇が迫るまで、部活を続けるぞ」
☆
僕にはなにもない。いや、オールドな言葉で言えば「おれはなにもない男だ」に、なる。
普通、僕の年齢の男性はたくさん恋愛をしたり女性を抱いていたり、大抵意中の相手がいるか、実際に彼女くらいはいる。僕にはそれがない。それが何故かって言えば簡単に言うと、僕は男性としての魅力がないのが理由だろう。
フェミニズムやクィアの話って、いかにも平等に扱え、って風に捉えるひとが多いんだけど、その認識は自分の性差やジェンダーに物凄く意識が向いている。つまり、異性愛者だったら、同性のことを考えているだけではなく、異性からの目を絶えず意識している。
つまり、僕が「男としてダメだ」と言ったとき、それを「男とか女とか言う大きい主語を使うの気持ち悪い」と言ってしまうひとがいるであろうことが推測されるのは、確かに主張も無駄に大きくて阿呆みたいだが、でも、実際は異性に対しての感情を「ざっくり」と持っていて、異性愛者に於ける異性の目は、「誰か」への目であると同時に「自分の恋愛観に於ける異性」という、それこそ「大きすぎる主語」全体に対する目にも向けているからで、僕がそういう言葉を使うことをとやかく言われるのはお門違いかもしれないな、ということだ。
スピノザが「コナトゥス」と呼ぶものは、例えばジェンダーにしても個々に別個にパーセンテージ的なもので、しかもそれは遷移するものであり、また、ここでジェンダーって言ったけど、ほかの要素のパーセンテージと複雑に絡み合っていて、それこそ個性は「そのひと」固有のものなんだ、ということであるのを学んだことがある。
だがしかし、かなりの人間は、そうは捉えていない。男女と、あってもトランスとか、そういう括りくらいだろう。つまり、男女二項対立のなかで僕は「性的魅力に乏しい男」で、その理由なんか女性からしたらステレオタイプな「素敵な、魅力ある男」の持つ「要素」というのから外れている、というしょうもない理由からだろう。
言い換えると、「人間としてダメ」だからダメだと思っているより「男としてダメ」と僕を認識している異性がほとんどなのだろう、ということが言える。
実は「ジェンダー規範」に縛られているのは、僕だけではなさそうだぞ、ということも言える。僕を指して「こんな〈男〉は嫌だ」という目で見られているのではないか。繰り返すと「こんな人間は嫌だ」という理由のそれ以前に「こんな〈男〉は嫌だ」という目で見られているのではないか。
僕は恋愛対象としての男、と見た場合に「男として嫌われている」のだ。
変な話だが、気に食わない部分が僕が男だから許されない、という事態があまりに多いということだ。要するに僕には男としての魅力がないのである、と〈みんな〉思っているのでした、という、この話はそういう話になる。
僕はそんなことを思って、テキストエディタを打つ。
僕は十七歳の誕生日を迎えていた。
八月だった。
☆
夜中、執筆の休憩時間にトマトジュースを飲みながらBlurの歴代アルバムを聴いて「どれがBlurの最強のアルバムなのか選手権大会」を一人で開いていた。
かなしい高校生活だ。
だいたい友人で洋楽を聴く奴は皆無な上にどのみち音楽の趣味は合わないので、選手権大会は「個人種目」となった。
うーむ、やっぱBlur、僕は『13』かなぁ。かなり攻めたポストロックみたいなアルバムなんだけど、骨格がブリットポップ。「さすがですわ、お兄様」と僕がアニメのヒロインだったら言うかもしれない(言わないが)。
トマトジュースを飲みながら聴いていい加減にジャッジできたのはよかった。「夏休み始めに際して部活が数日間休み」ということで、くだらないことに時間を使いたくて、「どれがBlurの最強のアルバムなのか選手権大会」を一人で開いていたのであったが、意外とくだらなくなかったかもしれない。
次はプライマル・スクリームの歴代アルバムで同じことをしよう。
部屋のダストシュートにトマトジュースの空き箱を投擲する。それから僕はベッドに転がった。
神様、あなたは純粋なこころを持っていますか。
こんなことを訊いたこの僕に、あなたは罰を与えますか。
残念ながら僕はなにも信じてなんかいやしないぜ。
僕は僕自身すら信じていないんだ。
神様、願わくば僕が死ぬまでずっと観ていて欲しいだけなんだよ、ねえ、神様。
舞い戻って「男性として欠如している」という問題について。
数日前、床屋で髪を切ってきた。道すがら神社の前を通った。
揶揄したいところだが、僕の家がその神社の氏子だったり昔、祖父が氏子世話役だったが世話役ってやりたいひとがとても多く、祖父が亡くなったときに僕の家はそういう地位的な奴は全部手放した、と聞いている。
その関係もあるしうちの父はそれに加えてホテルマンだったので、日本のしきたりはやたら詳しい。
が、僕は高校生になるまで父の姿をほぼ見たことなかった。あってもはガキの頃に夫婦げんかに巻き込まれて吐瀉したりドメスティックなバイオレンスを受けたりした記憶くらいなものだ。
ちなみに母のドメスティックな奴は物理攻撃以外に、言葉で呪詛を唱えているのも相まって、とても怖かったし別居中の今は、「おんなひとりで生きるというのはつらいことなの」と言うのが口癖だ。
そう呪いの言葉が始まるときにガキの頃に唱えていた呪詛を思い出し本当は吐きたくなるのはここだけの秘密であるが、こういう男女差が僕にはよくわからない。男性は頭悪いんじゃないかくらいに即物的に、物理的に殺そうとするが、女性は呪殺や長期的な計画殺人になるイメージだ。それくらいの認識でしか捉えられない。
ここらへん、僕にはわからなくて、女性を観ると男の影がちらつくことが多いので、女性を見るとき僕はその女性のバックやバックボーンにいる男性を見ている気がする。
男性原理って性別が男って意味ではないし、ガイア理論って母性原理っていうところがある。だから性差って区別は問題系統が本当はここでは正確ではなく、問題が違っているのかもしれない。
例えば僕は基本的に裸にはなれないし、それは意味があってのことだが、母と女性はイコールではなく、なれない身体であった場合、それはもちろん女性という性別じゃないとわからない問題なのだが、僕が裸になれない理由は、ある種のフリークス性の問題であり、「男性として欠如している」という問題である。が、これは嘲笑の対象となるし、女性と母性と身体としての母、という問題系と僕の中では接点があるが、まずしゃべることは出来ない。反吐が出るような問題だ。ただ、しゃべらないにしても、考えることはしていこうと思っている。
地に足を付けた物言いをしていきたいな。
僕は観念的に過ぎる。
☆
生きる意思はある方がいいけど、傷も、深淵も、また生きる意味だの価値だのも生きている状態に付随しているだけで、生きているそのこと自体とはイコールではないと思っている。
生きる価値がないと死ぬかというと、そんなことないし、逆に傷があっても生きてる限り生きてる。僕はそれを強調したい。
意味がないといけないという価値観自体、読書の束縛というか、活字離れというなら、それこそそこにも問題があるんじゃないか、と思っている。
僕の繰り言を読んでた方が、意味の意味性であるとか物語の物語性であるとかそういうのがないとならない、という価値観をまずはぶち殺せるのではないか、とも思う。
……そう思いながら、影時間を僕は吐露するようにテキストエディタに叩きつけては、にやりとしていた。
間抜けの極みだろう。そんなの知ってる。
でも、僕には自意識という地下室で手記を書くしか、方法がなかったのだ。
だが、それは〈理性の眠り〉とはほど遠い。
文章を書き、疲れた僕は自室の机に突っ伏して、また眠りに落ちる。コウモリやフクロウが、僕をまた闇の森の奥へと連れていく。
これは僕のファイトクラブだ。シャドウボクシングの。
そう、思うことにした。僕が執筆のステージに立つことも、街の雑踏に紛れて安堵しながら観察をするのも。
映画『ファイトクラブ』には、作中にこんな鉄則があった。
First rule of FIGHT CLUB : You do not talk about fight club.
ファイトクラブ ルールその1 ファイトクラブについて話すな
Second rule of FIGHT CLUB : You do not talk about fight club.
ファイトクラブ ルールその2 ファイトクラブについて話すな
Third rule of FIGHT CLUB : When someone sads stop or goes limp,The fight is over.
ファイトクラブ ルールその3 だれかが、やめろと言う、もしくは引き下がったら、ファイトは終わり
Fourth rule of FIGHT CLUB : Only two guys in a fight.
その4 ファイトは1対1
Fifth rule: One fight at a time.
その5 一度に一試合
Sixth rule : No shirt,No shoes.
その6 シャツと、靴は脱ぐ
Seventh rule: Fights go on as long as they have to.
その7 試合は、戦えるまで
Eighth rule : If this is your first night at fight club ,you have to fight.
その8 初めてファイトクラブに来たものは、戦え
なるほどな、と独りごちる僕は、黒い森の奥で絶望と失望の夢を見る。狂気に蝕まれる感覚だけが、起きたあとに残る。だが、そんなの知ったことじゃない。
さて、今日はどう過ごそう。
☆
朝、携帯電話に礼二から電話があった。礼二は演劇部の男子部員だ。とりとめもない話を、僕は礼二とする。
とりとめのない話。ハイデガーだったら〈空談〉と呼ぶであろうそれを交わしてから、僕は通話を切った。
あとにはなにも残らない会話だった。結局礼二がなにを言いたかったのか、僕にはわからなかった。だが、それでよかった。僕は今も生きていて、ひとと会話をすることが出来ることに安心をした。
軽装の僕はスニーカーの紐を結んで、街に繰り出すことにした。
電車に乗って県庁所在地に行く。知らない、知らない、知らないひとたちが大勢、歩いている。その隙間を縫って歩く。落ち着く。だって、僕は街の一部になれた気がするから。この町の影の一部に。僕はパーツであって、しかも中心ではない。周縁であり、かつ、部外者とも言いがたい存在だ。僕がこの場で消えても問題はなにもなく、世界は回る。それは舞台上の僕とは正反対だ。
だが、ステージ上の僕は本当にぼくではないとならないか。答えは否、だ。僕である必要性はない。僕がいなくてもほかの誰かが上手くやって、僕に成り代わるだろう。僕はいなくてもいい存在だ。
それも含めて、この影絵劇場に紛れるのは代えがたい体験だ。僕は歩く。歩き続ける。
街中で、僕の耳元で自分の脳内の悪魔が囁くが、僕はそれを無視する。僕はまだ、狂気を飼い慣らしていることが出来る。己の内の〈怪物〉は、眠りに落ちたときだけ顕現すればいいのだ。
僕の人生は僕のものなのだろうか。そう思える奴はさいわいだと僕は思う。でも、僕の自意識は段々と腐りかけはじめの林檎のように茶色がかって、異臭を放ち始めているのも事実だ。僕の人生もまた、腐り始めているのを感じる。それで怪物に取って代わられるなら、それも良いだろう。
言いたいことなんてこれっぽちもないぜ。それが僕だ。
僕は街をさまよい、しかし自由詩のひとつすら浮かばない散文野郎だった。しかも、駄文を重ねるだけの。
凄さなんてない、凡人の僕は凡人であることをこの街に見せつけられる。反吐が出そうだ。ああ、これは吐く。嘔吐だ。実存の気持ち悪さの只中に僕はいて。上手く描けないストーリー。ナラティヴに拒絶される。構築できずにそれは僕の手からすり抜けていく。ああ、砂のようだ、砂の惑星の僕。喉が渇く。渇きは癒やされない。
☆
部室にて。部長の杏里は僕にお茶の用意をさせる。杏里、礼二、それから僕。部員は三人になってしまっていた。夏休みの部室にはエアコンが付いていない。扇風機が音を立てながら首を振っている。そのなかで熱いお茶を飲み。
休憩を挟んでから僕らは台本の〈読み合わせ〉をしている。
台本の人物に役を振って、朗読劇スタイルで演じる練習が僕らの部活での読み合わせだ。
追いつけない、追いつけない、でも、ここからなにも始まらないような気がする。無為に過ぎる時間。僕の存在と時間は、存在と無に生成変化する。
顧問の福井先生が来るのは午後で、午前中から集まった僕らは、基礎練をして読み合わせをして、創作劇をつくる予定を立てている。
僕はひとり、「描写力」について思いをはせている。「ト書き」に還元されない「地の文」について。
礼二は今日もおどけていて、杏里は不機嫌そうにしているかと思えば礼二のくだらないギャグに拍手を送っている。仲の良い二人だ。きっと僕の知らないところで抱き合ったり性行為を行ってrいたりするのだろう。
僕はこの閉塞された宇宙にひとりでうずくまっている。光が届かない、この深淵のなかに埋もれてもがいて絡まりながら。
「ファイトクラブ ルールその1。ファイトクラブについて話すな」
「いきなりなに言ってんの、成瀬川」
杏里が茶を啜りながら僕を笑う。
「成瀬川きゅ〜ん、それって君が僕たちに隠し事をしている、ってことぉ〜?」
礼二がおどけた口調で質問する。
僕はそれに答えない。問いに答える筋合いはない。
「ちょっとトイレに行ってくるよ」
僕が言う。
「早く戻ってきなさいよ」
と、杏里。
「おまえらはいちゃついていてくれ」
杏里と礼二はぶーぶー不満を漏らしたが、聞く耳は持たない。僕は部室棟を出て校舎内に入る。
紙パックのジュースの販売機で、珈琲牛乳を買う。ストローを刺して、飲む。冷たさが喉を伝う。でも、渇きは癒やされない。僕はなんでこんなに渇いているのだろう。なにを渇望しているのだろう。
難しい顔をしていたって答えは出ないさ。わかってる、そのくらい。きっと僕は呪われている。呪いをかけたのは誰だ。僕はカラになったパックを握りつぶす。プシュッと音がして、珈琲牛乳の残りと空気がストローから出る。パックは潰れた。それはエロティックさを帯びている。いや、僕の心象風景が妄想の塊なのか。失望する、自分に。
ギザギザする太陽に焼かれて、僕の翼はもがれた。そのことを僕は一体、誰に話せるというのだろうか。
僕がジュース販売機の横の壁を握った拳で叩き、それから壁に額を押しつける。歯を食いしばっても、涙はこぼれる。
「馬鹿野郎。僕は馬鹿野郎だ、くそっ」
額を壁に押しつけたまま、身体をかがめて、しゃがみ込む。
こんなに渇いているのに、涙はとめどなく。鼻水も流れる。クッソダサいな、僕は。
十六歳で影を知り、そして、十七歳で空虚で空洞のこころがただ渇くだけの藻屑となって沈み込み、もう戻れそうになかった。僕は怪物になる資格さえなさそうだ。
☆
一切は過ぎ去っていくばかりなのか。いや、実際そうなのだろう、僕においては。〈影絵〉を演じていたのはずなのに、舞台を下ろされた〈影〉は、〈闇〉に溶ける。それだけのことだ。再演は願えず、僕は置き去りで。言葉が紡げない。絡み合ってもつれ合って、この糸の意図は掴めそうにない。その糸はまるでワイヤーのようでもあり、僕の身体に巻き付くと血が流れ出す。
僕は深海を泳ぐ魚となり、大きく咆吼する。だが、飲み込めるのはプランクトンだけだ。そして、捕食されるのがオチで、それでおしまい。
これはきっと、あのときにあった恋の終わりと密接に結びついていて、そして僕自身の人生をも終わらせたのだ。
壁に背を向けて、壁を伝うように、今度は立ち上がる。それから校舎内一階のトイレに入る。トイレの洗面所の鏡で自分を見る。目は落ちくぼんでいて、自信のかけらもない。トイレから出て廊下を歩くとふらついて、倒れそうになる。吐き気もする。熱中症かもしれない。翼がもがれたからだ、と僕は思った。
「僕は醜いな」
と、僕はつぶやいた。涙がまたあふれた。僕はこれ以上ないくらい、世界で一番醜い。精神衛生上に問題があるかもしれない。だが、それで構わなかった。
雑踏の影、影、影。この影絵劇場は、光と闇しかない。みんな光に照らされて輝いているのに、僕はこの闇に押しつぶされて、死にそうだ。助けての、そのひとことが誰に言えようか。
「部室に戻らなきゃ」
歩く、歩く、足並みは重く、しかし、歩く。視界はぐにゃぐにゃに曲がり、サルバドール・ダリの時計の目玉焼きみたいな風景が広がる。
僕は前のめりに倒れる。頭を強打する。しかし、ブラックアウトはしないし、誰もここにはいない。沈黙と沈鬱と、沈殿する澱の檻で僕は倒れたままで考えた。限界だった。
気どった十六歳の僕を刺し貫いたあの女は、きっと今頃ほかの男の横ですやすや安眠しているだろう。
すべてが許せなかった。まずはこんな僕自身が許せなかった。あの女も、女を奪った詐欺師野郎も許せなかった。世界を憎んで憎んで憎んだら、自分が死ぬしか選択肢はなくなる。
視野狭窄なのか。早く僕に理性の眠りを!
僕は狂気の怪物になるんだ!
あのペテンにかけた男と、僕をボロボロにした女を殺すマシーンになるんだ!
すべてが遠のく。遠のいていく。
僕はまだ、気取っていたかったのに!
ああ、これが終焉か、この僕の世界の。光は差さない。深淵が僕を覗いて、世界から僕を除いて。笑っている深淵の、これが。これが深淵の始まりなのか、終わりなのか、とにかく僕の終焉で。周縁にいながらの。
☆
僕は男性である。女の子が好きだ。
僕は十六歳だったとき、後輩の女子生徒に、その後輩の自瀆行為の手伝いを、公共的な場所などでも毎日、させられていた。
僕は相手に〈尽くす〉だけで、僕が快楽を得る行為は一切行われなかった。お互いの部屋のなかでは性行為はあったけれども。
後輩の下着のなかに手を入れさせられて、僕は僕の指でひたすら、その後輩の陰核を擦る行為を、させられていた。
後輩が絶頂を迎えると、その場ではいったん解放されたが、後輩がしたいときにはいつもさせられていたので、一日数回、必ずその自瀆行為の手伝いをさせられるのである。
男性というのは、それでは快楽は得られないのだが、僕が快楽を得る行為がされることは、後輩の自瀆の手伝いのなかでは一度すらなかった。
ひたすら〈奉仕〉をさせられていた。
毎日、様々な公共的な場所でさせられる。僕は欲求不満がたまるが、我慢するしかなかった。
今でこそ女性が男性に強要する、ということもあるという認識が世間に生まれたからこそ語れるが、少し前まで、〈女性〉の〈性〉というものは〈受動的〉だと世間は信じて疑わなかった。
要するに、〈男性の僕の方が女性である後輩に性的な行為〉を〈行っている〉という、〈男性〉である僕の〈能動的〉な〈強要行為〉であると思われ、知っている者からは僕が凶悪な犯罪者であるかのように思われていた。
その後輩がムラムラしたとき、僕が断ったらほかの男と性行為をしてしまう、という恐怖から、僕は後輩の命令に忠実に従っていた。
彼女からの〈恐怖〉が僕を〈支配〉した。
僕は〈悪人〉に仕立て上げられた。
だが、僕にはどうすることも出来なかった。震えながら、後輩が浮気をしないように奉仕をすることしか、僕には出来なかったのだ。
今まで黙っていたが、書く必要があって書いた。
これを書くと、
「この子が悲しむだろ! 消せ!」
と、ナイト気取りで僕に怒鳴って来る男がいる。今も、この後輩と繋がりがあるだろうから、やはり言うだろう。
その台詞だけ切り取れば立派なナイト様だ。だが、こいつがペテンにかけるのが上手い〈詐欺師〉なのを僕はよく知っている。
この後輩との関係にしても、間男のように二人の間に割り込んできて、引き剥がすのに成功し、泣いている後輩と連絡を取り合っていて、まんまと上手く性行為をしているのを僕は知っている。
その後輩をキープしながら、刑事・民事訴訟を起こされてしかるべき(実際に起こされたこともある)性行動をほかの女性たちに働いていたのもまた、僕は知っている。
後輩に関して言うのなら、こいつが策略で引き剥がしたのだし、差別発言かもしれないが泣いている女性を口説き落とすのはたやすいし、僕に「悲しむだろ」と怒鳴ることで好感度をさらに上げられるのをこいつはよく知ってやっている。
怒鳴るとき関係性を知らない人間がまわりで観ていたら、そいつがさも〈正義漢〉に映り、僕はクズ男で、そして奴のナルシズムは満たされるだろう。
詐欺師は最大の効果をどうすれば得られるかの計算が上手く、実行するときのナルシズムも反吐が出るほど計算済みで、悦に入ってこのペテンを行うのだ。
クソみたいな思考で以てなめ回すような目で狙っていた〈オンナ〉をこの男は僕と別れさせて〈手籠め〉にすることに成功したのだ。
さぞかし美味しい〈食事〉だっただろう、僕という〈ほかの男〉から〈奪い取って〉得た甘美なる性行為は。
僕と後輩の話を語るとき、僕は血反吐を吐く思いで、この男のことも話さないとならない。
今、書いていて気が狂いそうになっているが、僕がこの作品でどうしても書きたかったことのひとつがこの話だ。
やっと書いても信頼性が出るような時代になった。
だから、書こう。この僕の哀しい〈恋〉の顛末を。まずは、絶対に書かないとならない僕の〈性〉の物語として。
終わりなき悲しみに僕は陥ったが、僕が死ぬまで追ってきて、平然としながら僕の人生を潰そうとするこの間男の話も含めて。
この女性である後輩が、局部に炎症を起こして病院へ行ってきたことがあった。
後輩の自瀆行為の内容は、僕に陰核を擦らせることだ。擦らせながら、違う指で膣口に指を出し入れする必要もあった。
後輩が満足するように考えて、技術を尽くさなければならない。後輩の身体を満足させないとほかの男に抱かれようとするのだから、振られたくない僕は必死である。
だがそれは朝であれ昼であれ、公共空間で、誰がどこで観ているかわからない状態で行われた。
僕がそれに〈備えて〉手洗い、指洗いを一日何十回もしていたと思うだろうか。指洗いなどに気を配るこころの余裕はない。どこでいつ始まるかわからないのだ。よって、後輩は身体の局部を〈清潔に保てなかった〉ので、炎症を起こした。
炎症である。
だが、後輩は一方で性知識が足りていないのか、性病と〈勘違い〉した。
後輩は、性病だとしたら何故性病に罹患するのだろうと考え、それは僕がほかの女性と性交渉を持っているからだと考えた。
僕は「違う。していない」と説明した。後輩は僕の初めての相手が自分であることを誇っていた。僕も「初めての相手は君だ」と説明した。
だが、その信頼性が後輩のなかで揺らいだとき、二人の間に割り込んで、部屋まで付いてきてくる間男のような男が、こっそりと後輩に耳打ちした。「あいつは君が初めてではないんだ」と。
僕は高校一年生のとき、ペッティングをした相手がいた。ペッティングはセックスではない。
間男は、このペッティングした相手を、僕のセックスした相手である、という虚偽を後輩に吹き込んだ。
後輩はそれを信じた。
自分が炎症を起こしたのは性病だと勘違いしていたし、性病に罹ったとしてその〈理由〉に〈説得力〉が与えられたからだ。
後輩は僕を信じなくなった。
この後輩が浮気もどこかでしているように、噂話も聞いた。だが、僕は後輩を信じた。
自瀆行為を手伝う日々は続いた。
ある日、酷い喧嘩を後輩とした。
正確には一方的にキレられた。
何度も似たようなことがあったが、連続して起こるため、僕は疲弊していた。
僕が後輩の家に電話したところ、「二度と電話してこないで!」と言う。
そこに、間男が僕にこう囁く。「二度と電話するな、と言うのだから二度と電話するなよ」と。
数ヶ月、後輩と音沙汰がなかった。彼女との喧嘩では、そういうことは初めてだった。いつもはすぐに仲直りだった。
僕は後輩に数ヶ月後、電話をかけた。後輩の母親が通話に出て「あの子は高校を辞めて東京に引っ越しました」と、言った。
間男もまた、東京に上京していた。この男に僕が後輩のことを話すと「あの子が悲しむだろ!」と言う。
連絡先を知っていて繋がっているのは明白だった。
この間男の計略は成功した。
僕は間男に女性を寝取られてしまった。
この間男は後輩を大切にしたか、というと、そうではなかった。
後輩本人の前ではナイトを気取っていただろうが、ある日のエピソードがある。
間男が田舎に帰ってきたときだった。
僕の音楽プレイヤーが壊れたのを話すと間男が、「おれの音楽プレイヤー売ってやるよ、使わないし」と言って、僕から一万円をもぎ取り、その使い古しの音楽プレイヤーを渡された。
家に帰ってメディアを入れて再生すると、音が飛んで聴けない。
壊れていたのだ。
僕はその間男に、「これ、壊れているんだけど」と話して、プレイヤーを見せた。間男はプレイヤーを受け取り、プレイヤーの蓋を開け閉めして、僕に腹立たしくさせる顔とにやついた表情で、
「ガバガバ〜! ガバガバ〜! うひゃひゃひゃひゃひゃ!」
と、顔を僕の方に突き出して挑発した。
一万円は返してくれず、壊れたプレイヤーという粗大ゴミを僕に押しつけた。
実はこれには重大な隠喩が含まれていた。
後輩は、性的に奔放にしすぎてしまい、局部がとてもきつさがなくなってしまっていたのであった。
性行為を実際にしないとわからない情報を、こいつが知っているということは……。
間男は、それを「ガバガバ」と言ってゲラゲラうひゃうひゃ笑って表現した。
セックスして、本人のいないところでは、最大限に後輩を〈蔑視〉していたのだ。
どこかでその身体的特徴を〈吹聴〉したまわっただろうことも予測される。
僕は死にたい気持ちになって、立ち直れなかった。
僕はあの子を奪われてしまった。
しばらくのち、僕は生まれて初めて、精神病院への入院をした。
☆
僕は生きていた。
なんで自分が未だに生きていられるのか、全く以て謎だった。死んだ方がましなのに、それでも僕は生きていた。
精神病院のなかは酷いところだった。
だが、もっと酷いのは結果として、僕は治らない病気の病人として、おそらくは一生涯の間、投薬をし続けなければならない、ということだった。
僕は、どうしても書かなければならなかったことを、テキストエディタに打ち込むことが出来た。
だが、それは魂を削る行為だった。
僕はもう、身体がふらついて、足下もおぼつかなくなっていた。
這うようにして校舎から部室棟に戻ってドアを開けると、杏里と礼二がキスをしていた。僕を振り向き、その場で固まる二人。僕は無言でドアを閉めて、家に帰ることにした。
吐き気がした。
僕はどこでなにをすればいいんんだろうか。僕は部屋に閉じこもって処方薬を飲むと、すべてのやる気というやる気が失せて、ベッドに倒れ込むだけだった。
身体が重い。動けない。
手足もピリピリ震えが止まらない。
魚が陸に打ち上げられて跳びはねて、動きもがきいずれ死んでしまうような、それと似たものを感じる。
僕は陸で死ぬ魚だ。水のない魚。僕という魚は水を得ない。
窓からは空が見える。見えるだけだ。
僕はあの空を飛ぶことが出来ない。あの太陽を打ち抜けば、この熱さと暑さと、あの厚みも消えるのか。
このだるい重さがなくなって、いつか解放されて軽くなって翼が生えて大空を飛べるのか。
すっかり病人の思考だ。ダメだな。
夜を待って、夜を纏え。スポットを浴びてテキストエディタをキーボードで叩け。マッキントッシュにすべてを打ち込め。まだ僕は書くことが出来る。
大丈夫。
僕のすべてを賭けろ。
ウェブになんか載せなくていい。
ただ、ぶち込め、文字列を。
醜い僕の、不細工な文章を。
僕は中原中也の四行詩を思い出す。こんな詩だ。
おまえはもう静かな部屋に帰るがよい。
かんぱつする都会の夜々の燈火を後に、
おまえはもう、郊外の道を辿たどるがよい。
そして心の呟きを、ゆっくりと聴くがよい。
静かな部屋。静かになるには、心の呟きをゆっくり聴くしかない。それはウェブに吐き出すのでもなく、誰かに吐き捨てるのでもなく、ただ〈僕を解体する〉ことだ。
僕は死ぬだろう、あのペテン野郎の奸計によって。
思い出したくもない。
死ぬ。
死ぬしか言えない。
部室でおどけていた礼二はおどけてなんていない、道化ではないのだ。本当の道化師は僕だ。笑い話にしかならない、こんなの。
こんなのってあるかよ!
畜生。
☆
夢で殺しても殺しても殺しきれない。
撃ち殺せない。
僕は過去を撃ち殺せない。
四面楚歌になるまで気づかなかった。
僕はひとを殺せないで、自分を殺そうとしている。
夢。夢を描け。殺したい悪夢ではなく、楽しい夢を。消えてしまった夢を取り戻せ。空想を飛べ。見る前に飛べ。ただ、天高く。
足はいつの間にか、校舎内の自分の教室に向いていた。三階が、二年生の教室がある階で、階段を上がって自分の教室にたどり着くと、横開きのドアを開けた。
光で見える埃が舞う教室の壇上には、生徒が誰もいないなか、〈先生〉がいた。
白髪交じりの髭面。演劇部の顧問教師、福井先生だった。
福井先生は壇上に両手を手を突き、背筋を伸ばして、真正面、教室のうしろをにらみつけていた。
ふぅ、とため息を吐くと先生は、僕の方を振り向く。
「来る頃だと思っていたぜ」
福井先生は、僕を見て口元をゆがめる。
「考えることと悩むことは違うことなのさ。悩んだって、答えが出ない顔をしているぞ、成瀬川。考えろ。悩むんじゃなく、な。だが、今おれはそれを教える場面じゃないな。それ以前の問題だ」
「先生、おれ」
「悩んでいるのは知っているさ。どこでも酷いことを押しつけられていたら、そりゃぁ、場所が場所だけに、おれにだって耳に入って来るってことさ」
「どうしよう。僕はどうすればいいか、見当も付かない」
「自分でこうやって言葉にするのを待っていたよ。二人の問題だ、とおれは捉えていたから。法に触れているとしても、でも、おれにはこれが、おまえら二人の問題だ、と思っていた。でも、酷い詐欺師にそそのかされたようだな」
先生は、また正面を向き、両手を壇上から下ろすと、片手をピストルの形にして、もう片方の手で、その銃を支えるポーズをして、水平に構えた。
片目を閉じて、教室のうしろに、バン、と銃を撃つ真似をする。
「心の闇を打ち抜け。この教室みたいな闇を」
あはは、と笑う先生。
「難しいか」
「はい。難しいです」
先生は窓のそばまで歩くと立ち止まり、教室の窓を開けた。
風が吹き込む。先生は、大きく息を吸った。
僕も、埃がきらきら舞うなかで、深呼吸をする。
先生は、窓の外を見ている。動かない。じっと、ただ、窓の外、グラウンドのさらに遠くにある、森林と空の方を見据えている。
「地球は、人間だけのものではないんだぜ」
僕も樹木とその上に広がる空を見る。風がよどんだ空気を洗い流す。
涙がこぼれた。ぼたり、と大粒のしずくが床に落ちる。
「僕らは街の影にすぎない、だったか。今が〈街の影〉の〈正体〉を掴めるときだと思うぜ」
「青春の輝きなんて、僕にはありませんでした」
「〈再演〉は、なにもコピーをつくるって話ではないんだ。まずは〈街〉という舞台から降りろ。街にいるから〈影〉でしかないんだよ。台本は、いつだって〈創作〉するものなのさ。影絵は、影絵の〈外部〉を知らなければ描けないだろうに。それくらいわかるだろ。その外部ってのは、おまえが思っているより、もっともっと、大きい。楽しんだはずだ、死に至りそうなくらいの苦痛を持って、この〈影絵〉を。理性の眠りが怪物を生む、その瞬間を、おれに見せてくれ。いつか、きっと作り出せるから」
「おれはどうしたら」
「おれは公務員で、な。働くおじさんってことだな、つまり。そして、親戚もいるんだ、とっておきの場所に。金なら出してやるから、行ってみろ、おれの親戚の家にでも。ほれ、これがそのガイドブックだ」
ジャケットのポケットから先生は文庫本を放り投げる。僕はそれをキャッチする。
表紙を見る。タイトルは『遠野物語』。著者は柳田國男だ。
「自然を見ろ。それから遡行してみろ、歴史にも、超自然にも。今はちょうどよく夏休みだ」
僕は頭を下げた。僕は、旅することにした。
「先生は何故、ここにいたのですか。まさか、本当に僕が来ることを察知していたわけでもないでしょう」
「昔、この教室で死んだ奴がいてな。今日がその命日なんだ」
僕は黙祷した、先生と一緒に。
僕は生き残った。
これから生き残った僕の旅が始まる。この眠りから、まずは覚めて、いつか、理性の眠りに至るように。
(了)
理性の眠り