眠れないのは誰の所為

この作品の設定がもし現実と一致しても、それは偶然であり、この作品は作者の虚構と妄想に基づきます。

第一章【虚構】

 この文章は死ぬ前にどうしても語らねばならいことの一端を、なんとかかたちにしようと試みたエッセイになる予定だ。
 先だって構想メモをつくったのだが、自分の手首をナイフで切るくらいの痛みがメモ段階ですでに発生し、こころは血ににじんでいる。
 でも、こういう機会がないと、僕はたぶん、胸にしまったまま、死ぬことになるだろう、本当は話さなければならないことの数々を。
 とはいえ、名誉毀損だの誹謗中傷だの言われない程度には手法を考えて書くし、「まだ書く時期ではない」ことは書かない。じゃあ、「書ける時期」ってのが存在するのかということに関しては、「書いてそれが信用される時期になった」ということは往々にしてあるし、書いた文章が信用されない、「時機が熟していない」こともまた、よくある。
 具体的にはどういうことかは、徐々に触れていくことになるだろう。

 この作品、現段階ではタイトル案は『眠れないのは誰のせい』となっている。安心して眠れない、その蓄積されて肥大化していく「ひとには話せない内容」をこれから語っていくことになる。「出落ち」と呼ばれるかもしれないが、眠れないのは「自分のせい」であり、他人のせいではない。だから、この文章は本当は他人への攻撃ではない。だが、様々な他者への攻撃に思えるかもしれない。
 内容はあっちこっち跳びながら書いていくので、テーマに沿って書いていくつもりだが、ひとによっては断章形式の亜種のように感じて読みにくさがあるかもしれない。
 だけど、ひとつの作品としてパッケージングをするには、ぶつ切りにしてでも「それっぽく」まとめるしかなかったんだ、という僕のわがままに付き合っていただけるとありがたい。


 現在の僕の「身体」の話を、先に触れておいた方がいいように思われるので、しよう。


 実は最近、手足の震えが酷くなって、なにもしないで座っていると本当にガクガク震えてしまうときが多い。
 投薬を二十数年間続けており、今、一日二十錠近く精神薬を投与されていて、その関係だと思う。病人の大半は病気だからガクガク震えているとは一概に言えなくて、副作用でそうなってしまっている、というパターンは病棟などでよく観てきた。精神を保つはずの処方薬がひとの身体をダメにして生活を出来なくさせて一生檻の中に閉じ込められるパターンだ。
 治すはずの投薬により社会生活が出来なくなることはよくあることなのだ。
 一度に処方できる薬の種類には法律により限度があり震え止めが出せず、また震え止めの薬自体が僕には効かないこともあり、震えを止めるために、医者と相談してやっと減薬が始まった。
 が、一錠ですら処方薬を減らし慣れるまでは、精神的危機に直面する事実はあまり知られていない。

 僕はここのところ、事務仕事で座っているだけで足がガタガタ震えて、外を歩くとすべてに敵意があるように見えるという誇大妄想に近い状態にもなっている。
 そんななかで小説で〈成功〉する〈明るい未来〉という名前の〈保身〉は、ある程度やめたほうがよく思えたのは事実で、それが僕を今回、このエッセイを書くことに向かわせている。保身を考えず、書きたいことを書きたい。タイムリミットを予感して、駆り立てられている。

 内容についてだが、このエッセイは、僕の〈性〉にも、かなりスポットをあてている。
 不愉快な話題が多いだろうことも予測されるが、お付き合い願えると嬉しい。



☆2



 ミシェル・フーコーは「肉の告白」あたりで亡くなったし筒井康隆「文学部唯野教授」はフェミニズム批評をやるってとこで終わり最後の短編集でも書けないで終わるのを悔やむ内容書いてるし、知り合いの商業作家さんはジュディス・バトラー読んでなにか考えてたまま亡くなってしまった。僕にも課題だ。


 これに加えて今読んでいる大江健三郎もまた、論者になると女性が多く、最後の大仕事である『晩年様式集』の、主人公のまわりの登場人物はだいたい女性だったことなどからも、ほかの作家によくあるホモソーシャルな世界とは違う世界を提示しつつ亡くなったとも言えるし、僕も考えていたってわけ。まあ、発展させて、そのうちなにか書きたいな、と。


 ……ちょっと長いが、ウィキペディアから、上記に出てくる書名であるフーコー「肉の告白」を含む『性の歴史』の項をペーストする。ウィキは今後書き直されることが予想されるし、現時点でのウィキペディアを貼り付けておくのもまたいいだろうと思うからだ。


『性の歴史』(原題:L'Histoire de la sexualité)は、フランスの歴史学者・哲学者ミシェル・フーコーが西洋世界におけるセクシュアリティについて研究した、四巻に及ぶ書物である。フーコーはこの本で、言説的な対象としての、あるいは生活における分断領域としての「セクシュアリティ」の出現を調査し、あらゆる個人がセクシュアリティを有するという考えは、西洋社会において比較的新しい発達であると主張する。第一巻『知への意志』(La volonté de savoir)は1976年に出版され、第二巻『快楽の活用』(L'usage des plaisirs)および第三巻『自己への配慮』(Le souci de soi)は1984年に出版された。第四巻『肉の告白』(Les aveux de la chair)は死後の2018年に出版されている。
 第一巻でフーコーは「抑圧的な仮説」—西洋社会は17世紀から20世紀中葉にかけて、資本主義やブルジョワ社会の発達の結果として、セクシュアリティを抑圧してきた—という考えを批判する。フーコーが主張するのは、性にまつわる言説は実際のところ、この期間において増殖していたということである。この期間というのは、専門家たちが科学的手法によってセクシュアリティを調査し、人々に自らの性に関する気持ちや行動を告白するように促し始めていた時期なのである。フーコーによると、18世紀、19世紀の社会では、夫婦の関係には収まらないセクシュアリティに対する興味が増大していた。「倒錯の世界」—子どもにおけるセクシュアリティ、精神疾患、犯罪や同性愛といったもの—が、告白や科学的な聴取を通して次々に暴かれたのである。
 第二巻、第三巻になると、フーコーは古代ギリシアやローマにおける性のあり方を論じる。
『性の歴史』にはさまざまな反応があった。一方では賛美され、他方ではフーコーの学問に対する批判が寄せられた。
 同性愛を含むセクシュアリティは社会的構築物であるという考えが、他のどんな本でよりも『性の歴史』において密接に結びつけられている。



☆3



 公言はしていなかったはずだがゲイであったミシェル・フーコー『性の歴史』は、自分の性について語ることでもある特性上、フーコーはこの『性の歴史』の構想自体、思想的営為の最初期からあたまのなかではしていたと考えるのが妥当だろう。性の問題は、人生にとってクリティカルなものだからだ。
 だが、そこに至るまでに、誰も書き記していない論考を重ねないと〈前提〉が出来ない。
 つまり、もしも『性の歴史』を最初に書いていたら説得力がない、と言い換えることが出来る。
 なのでステップを踏むという側面もほかの著作に課されたミッションのひとつだったはずだ。
 具体的には、ほかの先行する書物で、監獄や精神病院には同性愛者もぶち込まれていた、という歴史的事実を語ることなど、である。
 そこまでしないと誰も〈先鞭を付けていない〉当時に〈重大さ〉をインパクトを持って伝えることは出来なかったのではないか。

「なにを」、「誰、またはどこで」書くかの選択、そしてそれを「どのタイミングで」するべきかというのは、フーコーも意識していたはずだと思うようになった。フーコー『性の歴史』に関しての僕の考えはそういう話からの推測である。推測の域を出ないが、でも、僕はそうなんじゃないか、と思っている。

 現在に話をまた戻すと、数年前まで言っても信じてくれなかった「事実」などの一部が、社会的な契機により信じてもらえる状態にもなった。
 一端を書くと、社会的信用がありそうな誰もが知っているどこかの〈業界〉の権威ある著名な男性が、男性(もちろん女性のときもある)に性的なことを強制する話が〈事実〉であることなどだ。
 昔、通っていた病院の医師に思い切って「(どこかの世界において)権威を持った男性に、やらせろ、と言われたことがある」ことなどを話したら「そんなことがあるわけないでしょう? 誇大妄想ですね。入院しますか?」と言われ、黙るしかなくなったことがあり、以来僕はこういったことを語ることはなくなった。
 自分と関係ない話をしているわけでなく、実際にそういうことに巻き込まれたこと、周囲の人間がそういうので泣き寝入りした事例など、たくさんあった。
 だが、書けなかった。
 僕は、たとえその周囲の人物たちに僕が裏切られて僕が地獄に落とされても、でも、僕はそいつらを〈売る〉ような真似が出来なかった。
 だが、もういいだろう。そういうのも含めてこの話では途中でそういった内容を語ることにもなるだろう。

 一言加えると、僕は今回は、性を巡る話を語ることだけをするわけではない。
 様々な、喉から出かかっても出せなかったことを書いていくだけで、そのなかに、そういう内容も含まれる、という話だ。



☆4



 この文章を書くにあたって、今回の文章を考えることになったベースがこれだ。



 ————よく認知バイアスがかかったひとがいう、日本には子供のポルノ(と言うが実際はイラスト)があふれている、ということへ対しての僕の意見も、少し書いておこうと思う。

 SNSのえっちぃコンテンツの話が僕はわからないんだよな。みなさまが信頼している(?)海外サイトを観ると「あなたはLGBTQですね」って判定を受けるんだ、僕は。普通に女の子大好きな男性なんだが。

 ここで重要なこととは、僕が「あなたはLGBTQですね」って判定を受ける、ということで、〈それが何故であるか〉を理解すれば話は早い。
 圧縮して書いているので意味がわからないだろうし、当たり障りがない程度にゆっくり説明していこう。
 まずは「SNSのえっちぃコンテンツの話」とはなにか。
 要するに論争という名前の、短文での言葉足らずの応酬のことである。
 アニメや漫画の、女の子の絵に過剰反応して「子供のポルノがあふれている」と怒りだして訴訟を起こすひと(だいたい女性)が多い。
 ちなみに、漫画やアニメの絵が街中にあったとき、それをスマホのカメラで撮ると、男性もかなりの確率で「へっ、このオタク野郎が!」とつばを吐くように言ってくるので、別に男女で差があるわけではないのは、SNSでは知られていないことであることを付け加えよう。
 で、これは子供のポルノなのだろうか。
 よく「海外ではこれは子供のポルノだと言われている」という言説が流布されている。
 だが、これは日本のアニメはその国の「文化侵害」で、自国のつくったコンテンツより流行ってしまって大変で、特に〈子供の教育に影響がある〉と言われている、というレイヤーがあることを忘れてはならない。
 教育に悪影響があるというので排除するというアレだ。
 それを踏まえた上で言うと、その〈理由〉のひとつにすることはもちろんあるだろうが、じゃあ、その、欧米のサイトで、ポルノアニメを観るとどうなるか。
 実は、これはサイトの、カテゴリで別枠のページになる。
 具体的にはゲイとかLGBTQの、レインボーマークの付いた、なんとなくSDGsに配慮したページになる。
 僕は男女がえっちぃことをしているタイプのポルノアニメを観ていたはずなのだが……。
 僕は考えた。
 すぐ答えらしきものにたどり着いた、どんなものにか、というと、これは〈ヘンタイ〉(えっちとはヘンタイのイニシャルを取ってえっちと呼ぶ。海外では普通にヘンタイと呼ぶ)という〈特殊性癖〉なのである、ということに、だ。
 大人とか子供とか、それ以前にこれはアニメーションに声優さんがアフレコしたボイスがついているもの、という、〈大枠〉があって、それが〈ヘンタイアニメ〉であり、だいたいこのキャラクターの図像に〈年齢〉を求めるのはそれこそリアルと虚構の区別がわからないひとであるのだ、という海外サイトの〈公式〉=〈運営〉の判断であったのだ。
 冷静に考えて欲しい。
 このアニメーションをつくっているのはだいたいおっさんとおばさん(お兄さんとお姉さん)で、ボイスもおっさんとおばさん(お兄さんとお姉さん)が声を出している。
 若いって言っても役者も職人も、熟練しているということは、義務教育課程の人間ではちょっと出来ないんじゃないか、という予想が立つ。
 おっさんやおばさんが頑張ってみんなで理想のそういうものを具現化させた結晶がその〈アニメーション〉なんだから、完全に〈特殊性癖〉なのが理解出来る。
 かくして、僕はLGBTQという判定を受けたのであった。
 正直、自分が性的マイノリティだと知ったときはショックだった。
 そこからわかるのは、これは漫画やアニメ、であり、生身の人間ではないのである、ということだ。
 たとえ人間だと仮定しても〈中の人〉は、それなりに歳を取った人間がボイスを出しているし、画像もまた、同様にそれなりに歳を取ったひとが描いていて、子供というファクタがない。
〈イラスト〉は〈イラスト〉であるのは海外のサイトが言う通りで、これはLGBTQの方に分類されるマイノリティである。
 実は叩くひとはマイノリティをポリコレ棒でぶん殴ろうとするという、ポリティカルコレクトネスの定義に下手すると反する感じになってしまうという逆説さえ生まれそうである。
 なにはともあれ、クィア理論もそのうち学びたいと思う僕なのであった。



 ……だいたい、性的マイノリティという言葉を使っても、いまいち〈当事者〉のその発言の〈重さ〉は伝わらないのがほとんどだ。
 僕は小学生のとき、男性に性的に強制的な暴力を受けたことがある。
 それを、おそらくは相手側の男性が吹聴していて、中学生のとき、女子が色めきだって、あげく「あんたこういうの好きでしょ」と言って、男性同士の性的描写の直接表現が含まれた漫画を、学校の机にねじ込んできたことがあった。
 たしかにそのうち耐性が出来て、小説などを中心にボーイズラブ作品を女子にオススメされて読むようになったが、でも、いくらなんでもあんまりな話である。
 具体的には血を吐き出すほど傷ついた。
 当事者が〈特権〉を持って語っている、と言われるかもしれないが、だが、それにしたって性的な被害が女性だけにあるわけではないのは、僕は特にショービズに関わったときなどにたくさん知って、経験して、酷いと思ったわけだが、一般的には「そういう噂があるだけでそれは噂でしかない」というクソみたいな理解が絶対的で、それ故に僕は昔、通っていた病院の世間知らずの医者に「そんなわけないでしょう? 入院しますか」と、誇大妄想のレッテルを貼られるに至るのであった。
 そして同性愛をライトに描いたものがある以上、ライトに考える人間もまた多いのは事実だった。だが付け加えると、ボーイズラブを同人誌で描くときにも不文律の禁忌が存在し、知らないで描くと描いた作者の存在がその業界から抹消されることについては、片足を突っ込んだ僕は知っているが、知る人ぞ知るだけの〈裏コード〉だったことを付け加えよう。これについても、後述するかもしれない。



☆5



 語るには前提が必要だ。
 何故、語れなかったか。
 理由はたくさんあるが、そこからまずは語った方がいいと判断した。
 簡単に述べると、碌でもない奴らはどうして碌でもないか。
 それは、尻尾なんて掴ませないで、自ら手を下さないでひとを死に追いやるなんてことは簡単に出来て、それは世の中日常茶飯事だから、である。君子危うきに近寄らず、とこの僕でもさすがに思うことはあるのだ。
 大雑把に書いていこう。



 創作物、そのなかで〈フィクション〉とは、想像上のものである。但し書きも付いている。だからこんな屋台骨を壊す発言はしてはいけないことだし僕のこれからする発言もフィクションで、現実とは一切関係ない、と但し書きを付けておきたいところで、それを踏まえた上で聞いて欲しい。
 創作物、シリアスなものに限らずエンタメの場合であれ、それはフィクションであるという〈テイ〉にして、〈告発〉を行っている場合がある。
 下品な言葉を使うようだが、例えばエロ漫画。エロ漫画を読むときに、「この作者はなんでこれを描かねばならなかったのだろう」と思ったことはないだろうか。助平だからという理由だけでモチベーションが出来るかというとそうでもないだろう。僕も昔、SMやスカトロジー、同性愛を含む直接描写を詳細に行った小説を書いたことがあったが、書いている最中、狂気に蝕まれそうになった。比喩表現ではない。狂いそうになりながら書いた。
 そういう作品も、あるものだ。これが助平心だけで描けるとでも?
 違うとしたらなんだろうか。たまに、知ることがある。具体的には昔のトラウマなどを昇華させようと試みている、言い換えると、わからないかたちで〈告発〉を行っている、という場合があることに。ただし、そういう場合をたまたま知ってしまう場合があるだけで、「妄想の産物だぜおらああぁぁ!」というスピリットで描くのが大多数だということは前提で、今、そうではない場合のことを書いているだけであることを付け加えておこう。
 エロはエロであり、ある種のエンタメ性が必要であるため、なにかトラウマが潜んでいそうなときも通常そうであるようにありがたがるのは失礼なので、受け手の方も「告発だろうな」と思っても、そんなことを語ってはならず、スルーするのが礼儀だと僕は思う。ただただ、「この〈作品〉、とても良いっすね!」と褒めるのが良い。また、その漫画と似た事件が〈あとで〉起こったときは「漫画を汚すようなこんな事件は許せない!」と怒るのが筋だろう。
 狂気で書くのと同じように「ぶっ殺す!」というのがモチベーションになるときがあるのを忘れてはならない。僕に対してもこれを読んで「ぶっ殺す」と思う人間は多いと思う。仕方がないことだ。ぶっ殺す作品を書いてくれ。そして、読んだら僕はたぶん不可抗力のままで死ぬだろう。僕は殺意だけで死ぬ。
 なお、これを書いている僕は失礼な奴だし、憶測で書いている、という訴えられるような行いをしている。間違わないように。これは僕の〈妄想〉だ! ケースバイケースだ、すべては。事情なんてひとそれぞれで、各々の考えで創作物はつくられている。決めつけはよくない。繰り返すが、創作の動機はひとそれぞれだ、決めつけてはいけない。そしてこの文章の文責は僕にある。あと、本当に怒られるし怒られたことはいろんなひとにたくさんあるので、〈すべては妄想の産物〉だぜ、だから今書いたことは僕の〈嘘〉だ、よろしく頼むぜ。



☆6



 書いちゃいけないことを書いたことが起因で、嫌がらせなどを受け、著者や作者が死に追い込まれることがあり、具体的な嫌がらせの一部をたまたま知ることもあった。だが、誰がなんの目的でそんな嫌がらせをするのか、僕は大抵わからなかったし、関係者でもない場合がほとんどなので、事後に知ることになってやるせない気持ちになることがほとんどだ。
 個人的な経験で知ることもあるのは、嘘に思えるかもしれないが「これ、どうやってんの? 僕は病気だから病気でなってるのか?」というような現実を疑うようなかたちで嫌がらせなどを行ってくる、団体だかなんだかは本当に存在する、ということだ。
 そういう団体やらは〈尻尾を掴ませない〉ので、訴えるも相談も不可能だ。せいぜい病棟にぶち込まれるのがオチだろう。
 だが、たまに時代の契機によってそれが妄想ではなく表舞台で明るみに出ることがある。
 噂ベースでしか知られていなかった性的な暴行を誰でも知っているような人間が行っていた、などの事例がその最たる例だ。あわてて付け加えるようだが、明るみに出ていないで同じことをしている人間の具体的な名前などを、僕はたくさん聞いたことがあるし、是正されているは考えにくい。その問題ですら氷山の一角なのであるし、いろんな業界で聞くので、どこかの業界だけが腐っているわけではない。酷い話だ。おそらくは、そういう地獄はどこかで、まだ続いている。

 それは〈性〉の問題だけに限らない。フィクションに賭ける人間は、その〈告発〉が、ときに〈突飛でもない〉妄想のように思われる場合があるので、最初からジャンルをサイエンスフィクションやミステリなどにコーティングしているのを確認することがある。フィクション化して無害化をどうしても計らないとならない事例が多い。
 誰でも知っている企業や団体が過去に行った本当にあった手口がミステリにフィクションとして描かれている例を読んだことが何回もあり、別になにをモデルにしたと明記されない、出来ない場合も多々あるのだ。だから小説を読むのは空想に浸る道具であるだけではないのは、わかっていただけるだろうか。チェスタトンではないが、「木を隠すなら森の中へ」なのである。
 もちろん、超絶的な妄想を叩きつける作者が現実と似てしまう場合も多くあり、その方が多い……と思いたい。



☆7



 社会的信用がある、というのはその人間の潔白とイコールではない。学歴や役職、職歴の話だけをしているわけではない。探偵を雇って身元調査してもそれが〈保証〉してくれるとは限らない。人間は置かれた環境に左右されるのは、身元調査をする側だって同じであることも考えてみよう。どこにだってパワーゲームはある。よって、〈完璧なものなんて存在しない〉。
 ただし、信用がない人間が信用がないのにはなにかしらのファクタが存在するだろう。マイナスの出来事の方が多いだろうが、世の中には「流言」という「計略」が存在し、さっきまでの話と真逆のことを言うようだが、「貶める」ために「悪い噂を流す」人間、団体は多く実際に存在する。
 繰り返すが、世の中に「絶対」なんて存在しない。
 本当に「どうやってんだこれ?」という方法で人間を追い詰めることが出来るのだ。
 それに対してのよくある反証に「おまえなんぞを追い詰めるのにそれほどまでに〈コスト〉をかけることってあり得ないのではないか」という意見がある。
 だが、それは追い詰められているその人間を〈中心〉に据えていると仮定するから生まれる。ひとを盤上の駒として考えるなら、中心というのはすなわち〈キング〉である。別に追い詰めている人間がチェスの〈キング〉であると決めてかかるから、この論理が破綻して見える。悪意を持った他人や団体が、自分をチェスの〈キング〉だから追い詰めていると考えたら大間違いで、ほかに〈キング〉がいると考えたらどうだろう。
 チェスをやったことはあるだろうか。将棋でもいい。いきなり〈キング〉を取ってチェックメイトは出来ないのが普通だと考えると、この場合どうだろうか。追い詰められている人間が〈ポーン〉でも、〈確実〉に取っておかないと〈キング〉を追い詰めることが出来ない場面だって多々ある。
 つまり、ポーンを確実に取っておきたい局面において、それに〈コストをかける〉場合は、意外と多くあるのではないか。その可能性を考えた方が良い。

 人間は全く他人と関わらないで生きるのは不可能だ。間接的であれ、他人とは関わっている。
 ならば、自分がチェスのキングであると他人が考えていなくても、言い換えると〈自分〉が〈中心〉だと考えるとあり得ないが、他人にとってチェスのポーンであっても、他人にとってそのポーンを確実に取らないとキングを〈倒せない局面〉は存在し、〈布石〉として〈倒す〉と考える悪意ある人間もいる、というわけだ。



☆8



 人間は弱いが強い。すぐに死ぬとも言えるし、生命力は強くしぶといとも言える。
 ポーンでしかない自分を他人や団体がかなりのコストをかけて「潰しにかかる」ことがあってもなんら不思議はない。
「まさか自分が被害に遭うとは思わなかった」のはよくあることだ。自分を中心に据えているから、そうなることもあるという逆説が生じる、または取るに足らないから狙われないだろうという思い込みは間違っている、さっきの話はそういうことでもある。



 それと関連して。一対一で向かい合っても、相手にもたくさんの人間関係があり、また自分側も同様に人間関係がある。一対一だとどうしてもその相手「自身」と向き合っていると思いがちになるが、相手がロール(役割)を、誰も観ていないのに演じている場合がある。または、それによるポジショントークをする人間も多い。
 演じると罪悪感が消える人間が多いからである。
 もっと厄介なのは自分は正義であると思い込んでいる場合と、それを前提に感情的に怒鳴るなどしてこちらのトークの論理を感情でぶち壊してうやむやにして、自分の正義を主張する輩である。盤上をちゃぶ台返しして、「なかったこと」にした上で、自分の思い込んだ正義を貫徹させて「勝った」と思い込ませる手合いだ。
 陳腐なのにとても厄介だ。

 ジャッジできる他者が介在しない場合、(おそらくは相手はそういう策略を巡らせているのだが)感情的になって話を聞かず自分の正義を主張して押し通してしまう人物がいる。そんな相手にはなにも通じない。論理も話も通じないし、正義だと主張しているから、例え殴ったところで通じないどころかこっちが悪人だという判定になってしまう。
 その具体例のいくつかは、僕の経験でこの文章に記す予定だ。
 さあ、まずはその一つ目から行ってみよう。

第二章【告白】

☆9

 僕は男性である。男子生徒だった僕は高校三年生のとき、後輩の女子生徒に、その後輩の自瀆行為の手伝いを、公共的な場所などでも毎日、させられていた。僕は相手に〈尽くす〉だけで、僕が快楽を得る行為は一切行われなかった。お互いの部屋のなかでは性行為はあったけれども。
 直接的に書くと、後輩の下着のなかに手を入れさせられて、僕は僕の指でひたすら、その後輩の陰核を擦る行為を、させられていた。後輩が絶頂を迎えると、その場ではいったん解放されたが、後輩がしたいときにはいつもさせられていたので、一日数回、必ずその自瀆行為の手伝いをさせられるのである。
 男性というのは、それでは快楽は得られないのだが、僕が快楽を得る行為がされることは、後輩の自瀆の手伝いのなかでは一度すらなかった。ひたすら〈奉仕〉をさせられていた。毎日、様々な公共的な場所で。僕は欲求不満がたまるが、我慢するしかなかった。
 今でこそ女性が男性に強要する、ということもあるという認識が世間に生まれたからこそ語れるが、少し前まで、〈女性〉の〈性〉というものは〈受動的〉だと世間は信じて疑わなかった。要するに、〈男性の僕の方が女性である後輩に性的な行為〉を〈行っている〉という、〈男性〉である僕の〈能動的〉な〈強要行為〉であると思われ、僕が凶悪な犯罪者であるかのように思われていた。その後輩がムラムラしたとき、僕が断ったらほかの男と性行為をしてしまう、という恐怖から、僕は後輩の命令に忠実に従っていた。
 彼女からの〈恐怖〉が僕を〈支配〉した。
 僕は〈悪人〉に仕立て上げられた。だが、僕にはどうすることも出来なかった。震えながら、後輩が浮気をしないように奉仕をすることしか、僕には出来なかったのだ。

 今まで黙っていたが、書く必要があって書いた。
 これを書くと、
「この子が悲しむだろ! 消せ!」
 と、ナイト気取りで僕に怒鳴って来る男がいる。今も、この後輩と繋がりがあるだろうから、やはり言うだろう。
 その台詞だけ切り取れば立派なナイト様だ。だが、こいつがペテンにかけるのが上手い〈詐欺師〉なのを僕はよく知っている。
 この後輩との関係にしても、間男のように二人の間に割り込んできて、引き剥がすのに成功し、泣いている後輩と連絡を取り合っていて、まんまと上手く性行為をしているのを僕は知っている。その後輩をキープしながら、刑事・民事訴訟を起こされてしかるべき(実際に起こされたこともある)性行動をほかの女性たちに働いていたのもまた、僕は知っている。
 後輩に関して言うのなら、こいつが策略で引き剥がしたのだし、差別発言かもしれないが泣いている女性を口説き落とすのはたやすいし、僕に「悲しむだろ」と怒鳴ることで好感度をさらに上げられるのをこいつはよく知ってやっている。怒鳴るとき関係性を知らない人間がまわりで観ていたら、そいつがさも〈正義漢〉に映り、僕はクズ男で、そして奴のナルシズムは満たされるだろう。詐欺師は最大の効果をどうすれば得られるかの計算が上手く、実行するときのナルシズムも反吐が出るほど計算済みだ。
 つまり、狙っていた〈オンナ〉をこの男は僕と別れさせて〈手籠め〉にすることに成功したのだ。
 さぞかし美味しい〈食事〉だっただろう、僕という〈ほかの男〉から〈奪い取って〉得た甘美なる性行為は。
 僕と後輩の話を語るとき、僕は血反吐を吐く思いで、この男のことも話さないとならない。
 今、書いていて気が狂いそうになっているが、僕がこの作品でどうしても書きたかったことのひとつがこの話だ。
 やっと書いても信頼性が出るような時代になった。
 だから、書こう。この僕の哀しい〈恋〉の顛末を。まずは、一番に書かないとならない僕の〈性〉の物語として。
 終わりなき悲しみに僕は陥ったが、僕が死ぬまで追ってきて、平然としながら僕の人生を潰そうとするこの間男の話も含めて。



☆10



 この女性である後輩が、局部に炎症を起こして病院へ行ってきたことがあった。後輩の自瀆行為の内容は、僕に陰核を擦らせることだ。擦らせながら、違う指で膣口に指を出し入れする必要もあった。後輩が満足するように考えて、技術を尽くさなければならない。後輩の身体を満足させないとほかの男に抱かれようとするのだから、振られたくない僕は必死である。
 だがそれは朝であれ昼であれ、公共空間で、誰がどこで観ているかわからない状態で行われた。僕がそれに〈備えて〉手洗い、指洗いを一日何十回もしていたと思うだろうか。指洗いなどに気を配るこころの余裕はない。どこでいつ始まるかわからないのだ。よって、後輩は身体の局部を〈清潔に保てなかった〉ので、炎症を起こした。
 炎症である。だが、後輩は一方で性知識が足りていないのか、性病と〈勘違い〉した。後輩は、性病だとしたら何故性病に罹患するのだろうと考え、それは僕がほかの女性と性交渉を持っているからだと考えた。
 僕は「違う。していない」と説明した。後輩は僕の初めての相手が自分であることを誇っていた。僕も「初めての相手は君だ」と説明した。だが、その信頼性が後輩のなかで揺らいだとき、二人の間に割り込んで、部屋まで付いてきてくる間男のような男が、こっそりと後輩に耳打ちした。「あいつは君が初めてではないんだ」と。
 僕は高校二年のとき、ペッティングをした相手がいた。ペッティングはセックスではない。間男は、このペッティングした相手を、僕のセックスした相手である、という虚偽を後輩に吹き込んだ。
 後輩はそれを信じた。
 自分が炎症を起こしたのは性病だと勘違いしていたし、性病に罹ったとしてその〈理由〉に〈説得力〉が与えられたからだ。
 後輩は僕を信じなくなった。浮気もどこかでしているように、噂話も聞いた。だが、僕は後輩を信じた。自瀆行為を手伝う日々は続いた。
 ある日、酷い喧嘩を後輩とした。正確には一方的にキレられた。何度も似たようなことがあったが、連続して起こるため、僕は疲弊していた。
 僕が後輩の家に電話したところ、「二度と電話してこないで!」と言う。
 そこに、間男が僕にこう囁く。「二度と電話するな、と言うのだから二度と電話するなよ」と。
 数ヶ月、後輩と音沙汰がなかった。彼女との喧嘩では、そういうことは初めてだった。いつもはすぐに仲直りだった。僕は後輩に数ヶ月後、電話をかけた。後輩の母親が通話に出て「あの子は東京に引っ越しました」と、言った。
 間男は東京に上京していた。また、僕が後輩のことを話すと「あの子が悲しむだろ!」と言う。連絡先を知っていて繋がっているのは明白だった。この間男の計略は成功した。
 僕は間男に女性を寝取られてしまった。

 この間男は後輩を大切にしたか、というと、そうではなかった。後輩本人の前ではナイトを気取っていただろうが、ある日のエピソードがある。
 間男が田舎に帰ってきたときだった。僕の音楽プレイヤーが壊れたのを話すと間男が、「おれの音楽プレイヤー売ってやるよ、使わないし」と言って、僕から一万円をもぎ取り、その使い古しの音楽プレイヤーを渡された。家に帰ってメディアを入れて再生すると、音が飛んで聴けない。壊れていたのだ。
 僕はその間男に、「これ、壊れているんだけど」と話して、プレイヤーを見せた。間男はプレイヤーを受け取り、プレイヤーの蓋を開け閉めして、僕に腹立たしくさせる顔とにやついた表情で、
「ガバガバ〜! ガバガバ〜! うひゃひゃひゃひゃひゃ!」
 と、顔を僕の方に突き出して挑発した。一万円は返してくれず、壊れたプレイヤーという粗大ゴミを僕に押しつけた。
 実はこれには重大な隠喩が含まれていた。後輩は、性的に奔放にしすぎてしまい、局部がとてもきつさがなくなってしまっていたのであった。性行為を実際にしないとわからない情報を、こいつが知っているということは……。
 間男は、それを「ガバガバ」と言ってゲラゲラうひゃうひゃ笑って表現した。セックスして、本人のいないところでは、最大限に後輩を〈蔑視〉していたのだ。どこかでその身体的特徴を〈吹聴〉したまわっただろうことも予測される。
 僕は死にたい気持ちになって、立ち直れなかった。
 僕はあの子を奪われてしまった。
 しばらくのち、僕は生まれて初めての、精神病院への入院を半年間、することとなった。



☆11



 いきなりだが、ある物語で僕が一番好きなエピソードの話を書きたいと思う。
 その物語は兄弟の話なのであるが、その兄弟は一応、モテないような設定になっている。で、その兄弟のひとりが、泣いている女性と出会う。そのとき、「マッスルマッスル〜」とか言って身振り手振りをする、いわゆる〈一発ギャグ〉をして、泣いている女性を笑わせる。女性に、そいつと会うときだけ、笑顔が戻った。
 ほかの兄弟が「なんでおまえ、その子と付き合わないの?」みたく言う。モテないのに仲が良い女性が出来たんだし、付き合えよ、というわけである。だが、プラトニックな関係を、そいつは貫いて、ただひたすらその一発ギャグでその女性をひとときだけ笑わせていた。
 ある日、女性はいなくなってしまう。女性は、一発ギャグで笑わせてくれたそいつの名前だかなんだかをタトゥーとして彫る。その子がいなくなってしまったので、そいつは悲しみに暮れるが、その子は戻ってこない。
 しばらくのち。そいつの兄弟のひとりが、アダルトビデオ店に入る。ビデオを棚から取ると、泣いていたその子と同一人物が、アダルトビデオの女優になっていた。名前のタトゥーが彫ってあるので、間違いがない。だが、そのビデオを、黙って棚に戻し、このことはみんなに黙っていることにして、店から立ち去る。
 女性を笑わせていたそいつは、道化のように、今日も一発ギャグの「マッスルマッスル〜」を、たまにする。その女性が今、どこでなにをしているか、知らないままで。


 僕はその世界の住人たちからは、いろいろあって追い出されてしまったのでその物語はもう観ないけど、男性もぜひ、観て欲しいな、と思える。今語ったエピソードって、なんとなく、「あるよな、こういうこと」って思わないだろうか。
 このエッセイで僕は、よく見かけるその物語のアイコンのひとたちに対する批判をしているように思えるかもしれないし、そう見てくれても自由なのだが、僕はその作品のそういうエピソードは理解出来るし共感もする。また、このアニメが華やかに見える業界で働く女性たちにも絶大な支持を得るのもわかるつもりだ。ただの「つもり」に過ぎないかもしれないが。
 それを念頭に置いた上で、この作品は、先へ進む。



☆12



 登録しておいてちゃんと観なかったので、今、その番組を観ている。例えば家族のなかで、子供ががんと戦っていると言うことは出来るが、子供が鬱と戦っている、とは言いにくいのが世の中である、と語られる。こころの病は〈負〉のものと見なされてしまうのでなかなかひとに言えない事柄なのである、ということが、提示されて、議論は進む。
 ひとはかなしみに蓋をするように〈仮面〉を付けて生きるようになってしまうが、それでは人間は〈壊れてしまう〉ことなどが、丁寧な構成で語られる。僕はこの番組をきちんと観ようと思った。

 僕は今書いているこの作品で、「こんなメンヘラ話を書いてどうするんだ。読んだひとが不愉快な想いをするし、やっぱり〈黙っていた方がいい〉のではないか」と絶えず自問しながら書いている。だが、『あなたに見えない私のこと』は、「話すことは大切である」ことを教えてくれる。
 ただし、そうは言っても僕のこの文章はひとを傷つけてしまうし、僕自身も社会的に終わってしまうと思われる。書くことによって。
 それはとてもつらいことだ。社会的に死ぬというのは、比喩表現ではない。だが、僕は今、これを書いている。
 こころの病は汚らしいものであると未だに多くのひとは思っている。醜いものである、と。
 傷つき、また、傷つけられる。
 だから、正常な判断だとばかりに仮面を付けて生きていく。しかし、それではいずれ人間として壊れてしまうことは、上述した番組で語られる。
 僕は自問しながら、今もこれを書いている。

「世界中で無数の人々が沈黙したまま、心の病と闘っている。病を癒やすには、沈黙を打ち砕く必要がある。今がその時だ」と、上述のドキュメンタリー番組の説明にはある。

 僕の〈方法論〉は間違っているかもしれない。だけど、僕の脳みそでは今書いているこの文章の書き方で精一杯である。それを踏まえた上で、この話はまだ続く。
 僕はきっとみんなに見放されてしまう。被害者のはずなのに〈罰〉を受けるかもしれないし、成功するハッピーな未来はなくなるだろう。いや、そんなことは書き終えてから考えることだ。敵をひたすら増やしながら、殺意を抱かれながら、僕はそれでも書くしかないのだ。



☆13



 まだ世界は女性に優しくない。だから、男性である僕は率先して矢面に立つ、というミッションを、今回僕はこの文章に課している。利己的エッセイとは違う。なのに、書くことによってよりにもよってその〈女性〉を〈傷つける〉結果となるのが、この作品でもある。つまり、「自分の主張だけをして、いまさら昔に関係のあった他人を突き落とす」という、利己的さがマックスの行いをしている、とも考えられる。しかも〈懐古厨〉というネットジャーゴンで侮蔑されそうでさえある。
 だが、聞いて欲しい。
 このエッセイの最初に、僕は二十数年間、投薬をしている話をした。僕は先天的な理由で投薬をしなければならなかったわけではない。複数要因が同時に襲ってきてそれが絡み合って、僕は高校の担任教師に紹介されて、県庁所在地にある保健センターという場所に行き、投薬を開始したのであった。
 そのときのことは、よく覚えている。書ける範囲で、書いていきたいと考えている。確かに語るのは遙か昔のことだが、僕は現在進行形で投薬をしており、治る見込みはなく、これは関係のあった他者にとっては遙か昔のことなのだが、僕には「今も悩み続けている問題」なのである。
 今の僕の問題なのだ、この話は。そして、身体まで蝕まれた僕は、〈また〉死にそうである。またとはどういう意味か。それは余力があればさらにずっとあとに語ることになるだろう。
 病気と診断されるに至るまでの話を覚えているなら書かないとならないだろう。〈ひとは理由があって病気になる〉のだ。「あいつは生まれつき脳みそに異常があるからこうなったんだ」といろいろなひとに言われて傷つけられてきた。それでも、僕は口に出来なかった。
 でも、語れるなら語ろうぜ。自分の首を絞めることになっても。とりあえずの着地点は、この作品の「☆9」から「☆10」に書いたところに着地する。だが、そこにたどり着くまでも結構入り込んでいて書き出すのは困難だ。腰を据えて書こうかな、とは思う。だいぶ省略して書かないとならない理由もあるにはあるけれども。

 こんな用語は使いたくないのだが、僕のまわりは僕が病気になってしまって今に至るまでの経緯に自分にも原因があることを否定する「歴史修正主義者」である。かたくなに自分は悪くない、「おまえが勝手に病気になったんだ。生まれた最初からあたまがおかしかったのだ」という主張をする。
 最初からあたまがおかしいとは一体なんだ?
 なんだろう、レイシズムの匂いを感じるぞ。
 そういった話も書けると良いのだが、筆力が足りないかもしれない。なにはともあれ、描き出すことを試みよう。



☆14



     【原稿原文より一部削除】


 ……東京都で有害図書指定されると、例えばKindleを更新したときにデータが抹消されるので、あとにはなにも残らない。形跡がなにも残らない。作者側や筆者側からすれば「なかったことにされる」「人物もいなかったことにされる」のである。これは怖い。
 都の有害図書条例も意図するところは同じなので、モラル(私的な道徳/不道徳)の問題にどこまで国家が干渉するのかは、パターナリズムと自由のせめぎあいである。この全国にある有害図書条例のなかで特に「東京都の条例で有害判定をされる」と、著者の存在もそのひとが書いたということも抹消されるのである、一瞬で。ちょっとあたまを巡らせないとこの「消される」のがどのくらいの干渉であるかはわからないと思う。逆を言えば、たぶん、ひとりひとりが〈薄い理解〉または〈なんとなくよくわからないまま〉で賛成してしまっている可能性が高い。

 

 が、話が逸れすぎるので、戻していこう。



☆15



 この文章の最初に、ミシェル・フーコーの名前を出した。フーコーと言えば『監獄の誕生』の内容もまた、このエッセイの内容を俯瞰するには有効だと思うのだが、俯瞰して論じようなんて人間はいないだろうし、この作品に僕自身が組み込むことにした。
 ミシェル・フーコーは『監獄の誕生』で、監獄や軍隊、学校に見られる〈規律型権力〉を論じた。具体的には「最大多数の最大幸福」を掲げた〈功利主義〉をつくったジェレミ・ベンサムが考案した、〈パノプティコン〉を論じたことがつとに有名である。パノプティコンは日本語訳で〈一望監視型監獄〉と訳される。どういうものかなのかは、そのままである。
 ウィキなどではごちゃごちゃ書いてあるのでわかりにくいパノプティコンだが、要するに円形状に牢獄を並べて配置し、その上の方の真ん中に、看守を配置する、というのがパノプティコンだ。看守は動かないでも牢獄が一望することが出来て、逆に囚人からは看守が見えない構造になっている。
 さて、「看守は動かないでも牢獄が一望することが出来て、逆に囚人からは看守が見えない構造になっている」とどうなるか。それは、収容された囚人は「いつ、自分が見られているかわからない」状態になる。〈監獄〉のなかで「見られているか見られていないかわからない」場合どうなるか。囚人は、見張り続けられているのだしそれが規則なのだから、「見られている(かもしれない)」と〈常に思う〉のである。〈常に思う〉とどうなるか。〈規律に従う〉ようになるのだ。
 看守は囚人に対して、一方的な権力作用を効率的に働きかけられる。囚人は、常に監視されていることを強く意識するために、規律化され従順な身体を形成する。
 これがパノプティコン内における〈規律型権力〉のかたちである。
 功利主義のベンサムが考え出したパノプティコンは、「常に監視しているわけではなくていい」が「常に監視していると思わせる」ことに成功させれば、最小限の力で最大の効果を発揮出来るような権力装置が出来上がるということだと、ミシェル・フーコーは考えた。

 ……と、いうのが僕なりの解釈だ。そしてこれが、フーコーの鍵概念である〈生政治〉(biopolitics)の説明によく使われるエピソードなのである。
 ウィキで「現代社会の支配体系の特徴として、例えば政府等の国家が市民を支配する際に、単に法制度等を個人に課すだけではなく、市民一人ひとりが心から服従するようになってきたとして、個人への支配の方法がこれまでの「政治」からひとりひとりの「生政治」にまで及ぶようになったと説明する。これを「生政治学(Bio-politics)」という」という説明のあとに、「近代国民国家の支配の方法として、法制度といったものを「外的」に制定するだけではなく、法制度を「倫理」として各個人の「内的」な意識レベルまでに浸透させるようになってきた」とあるように、このタイプの権力は〈個々人に内在化させる〉ことをするのである……ネット上では特に書いてないと思うけどね!

 で、この話がどこに着地するかというと、「ミシェル・フーコーはのちに、支配が各個人の倫理レベルにまで及ぶとする一方で、その支配に対する「抵抗」もまた人それぞれであるとした議論を『性の歴史』で展開し、この議論はこれまでの集団主義的、マルクス主義的な社会運動とは違う個人の意識をより尊重する事を主張するポストマルクス主義や新しい社会運動、さらにはゲイ・レズビアン運動といった主義や運動の存在根拠として言及される」と、あるように、最初に書いた「肉の告白」を含む『性の歴史』の話に接続するのである。

 実は世界中のコロナ禍で、フーコーの生政治は再び注目され始めたこともあり、今後、フーコーの著作はこれまで以上に重要になってくるのではないか、と思われる。
 各個人の倫理レベルにまで及ぶ支配に対する「抵抗」もまた人それぞれであるとした議論をミシェル・フーコーが『性の歴史』で展開したことが僕にはとても重要で、〈倫理レベルにまで及ぶ(内在化された)支配〉に〈抗う〉ことをこのエッセイでは企んでいる。
 具体的には、僕が語っていることは、例えば「〈女性〉の〈性〉というものは〈受動的〉だと世間は信じて疑わなかった」そのおかしな倫理レベルに及ぶ〈支配〉が絶対的である世界においては、どんなに僕が言葉を尽くしても〈無効化〉されてしまい、僕が〈加害者〉であるように〈支配された人間の目〉には映るからだ。
 僕は、理解してもらえないようなこのくそったれな〈支配〉に抵抗しないと、犯罪者の烙印を不当に押されて終わるのだ。この〈奸計〉から抜け出すように、僕は抗う!



☆16



 僕が底辺だからって、トップの方にいるひとたちにいつも蔑視されているかというと、それは違う。
 僕が「あなたは頂点の方にいるひとですよね?」と思うひとたちが手を差し伸べてくれて、助かったことも、いろんな世界で何回もある。奇跡的というか、本当に有り難い話だ。恵まれている、と言える。
 おそらくは本当に底辺でうずくまっているひとよりはある意味では「恵まれている」という理由もあって、今まで書けなかった話がいくつもある。噂ではなく、当事者やその近辺のひとと話していて出た話題だから信憑性があるが、それ故に言えなかったし、これもまた事実だったとしても業界の外のひとが聞いたら通常だったら嘘に思える話だと僕は判断した。
 しかも、なんでそんな話を僕がしなくちゃならないのか、全く意味が掴めないところがあったのだが、書く機会は今後もないだろうし、今、当たり障りなく書いておこうと思う。


 付き合っていることは内緒で、と言われていたので黙って付き合っていた関係性の女性がいることもあった。僕はどちらかというといじめられっ子だったので、確かにいじめられっ子と付き合うといじめられるので秘密にしていたかっただろう。その子の先祖は偉大な文学者って奴だった。
 と、いうことは、その子孫である、高校時代の一時期に付き合っていたその子も本当は普通の経歴ではない。その子は高校をよく休んでいて登校する日の方が少ないほどだったのだが、公休であることは、知っているひとしか知らなかった。彼女は和楽器奏者だった。
 海外に呼ばれていくことがたくさんある奏者であり、その子のエピソード自体も面白いのだが、今回はそういう趣旨の文章ではないので、違う話をする。
 名家なので、その子の従兄弟は、みんな東京都にある、芸能人と芸能人のたまごしか在籍しない学園に通っていた。
「わたしの従兄弟、全員ぶっさいくな男どもなんですよ〜! でもね、〈あの学園〉に通っているでしょ? クラスの集合写真を見せてもらったら美男美女ですよ、ほぼ全員。そこにぶさいくなわたしの従兄弟どもが並んで写っていてウケるんです。で、従兄弟たち、その学園に通ってるだけでステータスだからみんなプレイボーイなんですよ! 女をとっかえひっかえしてるの。プリクラや写真を見せてもらうじゃないですかぁ〜。付き合ってる女、どいつこいつも全員美女なんですよぉ〜! クラスの女とももちろん付き合う。この女たち、数年経ったらテレビに映って全国の男どもからブイブイ声援を送られるアイドルや女優なんかになるのですよぉ〜! めちゃくちゃウケるでしょ〜! みんなぶひぶひ言って応援している女がぶさいくなわたしの従兄弟に抱かれていると思うと笑いが止まらないですぅ〜!」
 僕は腹を抱えてその子と一緒にゲラゲラ笑った。
 露悪的なエピソードだが、めちゃくちゃ笑った。

 帰京後、友人からのすすめでオタクカルチャーにどっぷり漬かった僕だが、そもそも、中学高校の時点で上述した話をよく知っているのである。オタク化しようと試みた僕を、僕を知らないひとは普通に蔑んでいたし今も蔑まれていると思うが、僕のことを知る人間は、果たしてどういう視線で僕を見ていただろうか。

 話は、その子とのエピソードだけで終わるわけがないのである。
 僕が東京で活躍していた本物のモデルの女の子と付き合ったときのエピソードを付け加える必要がある。
 だまされているわけでなく、普通に雑誌に載っていた女性だ。
 そして、業界の裏話を聞くこともある、というわけである。



☆17



 モデルの女の子と出会ったのは二十代の後半だったと思う。
 僕は東京に住んでいた二十代前半の頃、雑誌のトップモデルのカップルと同じ職場で少しだけ働いていた。
 あと、そのカップルとは全く関係なく、二十代前半のその頃、モデル事務所に在籍しているギタリストと知り合いだった。
 この三者全員について別々のエピソードがある。語り口を間違えると大惨事になるので慎重に書きたいが、読んでいる方も話についていくのが難しいかもしれない。
 なので、補助線を引く。
 モデルのカップルは男女二人とも雑誌の表紙を飾ることがたくさんあるトップモデル。
 ギタリストは事務所登録したばかりの新米のモデル。
 付き合った女の子は、どちらかというと読者モデルに近いところに位置するモデルだった。
 全員が、東京都にあるモデル事務所の、本物の所属モデルだったことだけが共通しているが、全員が別々の事務所のモデルであった。
 それを踏まえたところで、話を始めよう。


 男女ともにトップモデルでカップルだ、という紹介を映画俳優の方から受けて知り合ったそのカップルのモデルは、二人とも当時すでに二十代後半だったと思う。だから渋さもあり、どこか愁いを帯びていて、セクシーな二人だった。
 だけど、モデルって歳を取ったらどうするのかな、とは思っていた。仕事はなにをして生きていくのだろう。
 俳優の方に「この雑誌の表紙をしているんだよ」と教えてもらって見ると、ファッション雑誌の表紙を飾っている。表紙常連というか、ほぼ専属で表紙をしていたはずだ。凄いと思った。全国の本屋に売っている雑誌なんだもんな。後先は不安かもしれないが、トップとして絶頂期だった。
 モデルが歳を取るのを見る前に僕は東京を追い出されてしまったから、どうなったのか、僕は知らない。
 だが、トップモデルになるのも地位を維持するのも大変だ、というのを、いろんな違った角度から考察することに、僕は何故かなってしまうのだった。知りたいと思ったわけでもないのに。

 新米モデルくんは、僕の郷里から三十分隔てた、隣の県の市に実家がある、将来有望なギタリストだった。別に楽器が上手いかというとそんなでもなかったが、美形だった。上京してすぐに、その才能を活かそうと、モデル事務所に入ったそうだ。仕事もちょくうちょく来るし、良い稼ぎだったようだ。高い服やアクセサリーを、たくさん買うお金は、モデルのバイトだけで稼げたらしい。
 ある日、モデルくんは、どこかの業界の有名人に指名されて、呼ばれた。相手は有名人というか、呼びつけるのだから権力持ったひとであり、ちなみに男性で、モデルくんは楽器奏者であり、彼もまた男性である。彼は「奏者としての仕事を回してくれるのかな」と思って行ったらしい、高級ホテルの一室に……。
 これを書いている〈今現在〉だからこそ、それは〈そうなる〉奴ですね、とわかるだろうが、世間が周知したのは、僕の記憶が確かならば、このエッセイを書いている年の去年から今年にかけて、である。当時、そんなの、情報は全く知らないひとが大半だったはずで、彼は不用心だったわけではない。仕事をくれるのかな、と本気で思っていたはずだ。だが、彼は大切なものを失ってしまったのであった。

 モデルくんの話は僕が二十代前半の話で、だからそういうことがありましたおわり〜、と普通はなるはずである。僕もそう思ってたよ、二度と会うこともないだろう、と。ところが、だ。前述したように彼は実家が僕の実家の隣の県で、そこで大きな地震が起こったこともあり、おそらくはそれを機に、僕の実家の県を根城にするようになっていたっぽいのだ。
 僕の住む県の県庁所在地のライブハウスからモデルくんが出てくるところに僕は、たまたま出くわしてしまったのである。
 僕は三十歳を過ぎた頃だった。本格的なオタクになるために、サブカルバンドのライブに出かけていて、並んでいたのである。そのライブハウスは、二階が貸しスタジオになっていて、彼はまだ楽器をやっていたのである。
 スタジオ練習なのに、「出待ち」の女の子とかがいて、キャーキャー騒いでいる。で、凄い偶然なのだが、僕の前を通るとき、立ち止まってさ、僕と目が合ってから、口を開けて、しゃべろうとしてからやめて、目を逸らして去っていったのである。
 実は彼と僕は、一度だけ、ニルヴァーナのスメルズライクティーンスピリットを一緒にプレイしたことがあった。僕はそのモデルくんに嫌われていたのだけど、プレイで通じて、「おまえ、やるじゃん」「おまえもよかったぜ」っていう、漫画みたいなやりとりをしたことがあるわけ。
 それが一方はまだ音楽やっていてキャーキャー言われていて、僕は〈オタク堕ち〉である。笑えるだろ。
 うん、確かに笑える。笑えるよ。
 でもちょっと、補足したいので、枕的な営業って実際はイメージと少しだけ違うって話と、イベントなどの〈サクラ〉のバイトの話をしてから、読者モデルの女の子の話に移ろうかと思うんだ。
 どうかこのエッセイが圧力で握りつぶされませんように。では、祈ったところで、先へ進もう。



☆18



 昔、酷い目にも遭ったけどずっとひとつのことを続けて今も頑張っているからファンがたくさん出来ました、おわり〜! ……と、僕も思いたいし、モデルくんはきっとそういうことで大人気ミュージシャンになったんだよな。そういうことにして終わらせたい。
 でも、僕のこころは汚れてしまった。汚れた目で見てしまうのは何故か。その大きいふたつが、「枕的な営業って実際はイメージと少しだけ違うって話と、イベントなどの〈サクラ〉のバイトの話」なのである、僕の知るところでは。
 モデルくんとは直接関係ない(だろう)けど、その汚れた僕のハートを説明するのに、そのふたつを語ることが必要だ。


 〈枕営業〉と呼ばれるものが存在する。結局被害者になっちゃったひとを女性でも男性でも数人、親しかった知り合いにいてよく知っているので、これは都市伝説ではなく、〈本当にある〉ことだ。
 僕は枕営業について、具体的なことについてはずっと黙秘していた。被害に遭ったひとがかわいそうだな、と思っていたのだ。だが、世間一般のイメージする枕営業というのは、名前の通り、枕を持って営業しているようなイメージ、つまり、下世話な話をすると「一回寝るとひとつ仕事が回ってくる場合」のみだと思いがちだ。そういう例もあるからその理解で構わないのだけど、「権力者と一回寝るとしばらく、またはたまに、仕事を回してもらえる場合」というのが存在する。
 〈寝ないと仕事が来ない地獄〉だったら、僕だってその性行為を強要する人物を訴えもしたさ。でも、厄介なのがその「権力者と一回寝るとしばらく、またはたまに、仕事を回してもらえる場合」があり、仕事が来る状態から上手く〈軌道に乗った〉奴を糾弾する結果になった場合、僕はそいつの「仕事を奪った奴」と恨まれるものの、助けてくれてありがとうとは思われないだろう、ということだ。恨まれつつ友達を〈売る〉か? ただの僕の売名行為だと勘違いされるだけで、余計なお世話ってもんだろう。僕はそう思っていた。


 誰かが僕に「わたしだったら不正はすべて告発するけどな」と言っていたひとがいて、その志はずっと持ってそのひとには生きて欲しいと思うけど、例えば、だ。役者って「本当にそいつしか出来ない役である場合」って、〈当て書き〉という手法以外では、極端に「少ない」のではないか。また、当て書き自体も、下手に脚本家がやると逆に不正を疑われるのも付け加えよう。
 ちなみに〈当て書き〉とは、演劇や映画などで、その役を演じる俳優をあらかじめ決めておいてから脚本を書くことを指す。
 役者って「本当にそいつしか出来ない役である場合」って極端に「少ない」とは、つまり、誰を「選ぶ」か、ってときに、それは「正解がない」なかで「恣意的」に選ばれる、ということ。

 恣意的とは、辞書で引くとこうある。……恣意的とは、個人の意志や感情に基づいて行動する様子を表す言葉である。この言葉は、主観的な判断や自由な解釈が行われる状況を示す際に用いられる。恣意的な行動や判断は、一般的には法律や規則、公平性を無視したものとされ、社会的な評価は低い傾向にある。しかし、芸術や創作活動の領域では、恣意的な表現が新たな価値を生み出す場合もある。恣意的な行動は、個々の自由や創造性を重視する一方で、公共の秩序や他者の権利を侵害する可能性も含んでいる。

 要するに、僕がここで言っている意味合いは、「誰か、または誰かたちの自由な、言い方を変えればなんらかの意図を指向して決める」ということだ。だって、キャスティングに〈法律や規則、公平性〉を求める方がおかしいでしょ。
 公平性を謳った幼稚園のお遊戯会の劇の話を聞いたことがあるが、酷かった。
 主人公(中心人物)がいると不公平なので主人公はおらず、〈全員が同じ台詞の数があり、また、台詞の長さも全員同じくらいに設定する〉のである。〈実験演劇〉としてはクッソ面白いが、もちろん考えたひとたちは実験演劇をやりたいのではなく、「法律や規則、公平性」を〈配役〉に適用し、〈恣意的〉なのを排除したつもりなのだ。これ以上に〈主催者側が恣意的に行った配役はない〉だろうと僕は思う。

 話が逸れたが、「配役」とは、誰か、または誰かたちが、恣意的に選ぶ。だが、「正解」は「存在しない」のである。
 その特性上、いろいろ操作があるときもあるわけだが、しかし、〈創作〉に関わっていたら、ストーリーとはどういうものか知っているわけで、公平性とは土台折り合いがつかないこともまた、知っているわけである。少なくとも幼稚園のお遊戯会で謎の実験演劇を〈演じさせられる〉のは、奇妙な体験が残るだけで「演劇の楽しさが伝わらない」と僕は感じるけど、どうだろうか。


 話を戻そう。〈寝ないと仕事が来ない地獄〉だったら、僕だって訴えもしたかもしれないが、「権力者と一回寝るとしばらく、またはたまに、仕事を回してもらえる場合」があり、仕事が来る状態から上手く〈軌道に乗った〉奴を糾弾する結果になった場合、僕はそいつの「仕事を奪った奴」と恨まれるものの、助けてくれてありがとうとは思わないだろう、という問題だ。
 僕には、不正を糾弾できなかった。
 ちなみに、性行為は強要されるばかりではない。もちろん進んで抱かれる場合も多くある。抱いて欲しい状況に追い込んで抱く、という手法の方がむしろ多いだろう。知らずに、そういう結果にならざるを得ないようにどこかで誰だかがセッティングする場合だ。どこからどこまで不正なのかわからないように仕組まれているときたら、僕にはお手上げだ。
 そういうわけで、〈枕営業〉と一口に言っても、難しいし、セッティングされて自由恋愛だと言われたら気づかないことがほとんどだろうよ。

 で、その「効力」は一回だけで持続する場合があるので、汚い僕の目には、「あー、まあ、なんかいろいろあったもんなぁ」と昔を思い浮かべてしまう、それこそ〈懐古厨怖いね!〉みたいな考えがあたまに浮かんで、なにも言えなくなるのだ。

 そもそも、キャーキャーの話も、依頼が来る。来るが、そんなバイト、僕はしない。
 ついでだしサクラのバイトの話も、寄り道をして、したいと思う。



☆19



 舞台に上がるのが舞台のプロであるのだが、観客がみんな「観客のプロ」でどうするのだ、と思う。舞台上のひとは病むと思う。
 サクラには種類があって、「今日の公演、空席だらけなんだ。観に行ってくれないか」というのが、通常語られる〈サクラ〉である。だが、〈プロのサクラ〉という、謎カテゴリ内に、何種類ものサブジャンルとしての〈サクラ〉があって、ひとはみな人生が違い生活圏が違うので、実は〈サクラ〉というものの共通の了解が取れないで、しかも結構裏世界の入り口っぽさがあるので、僕も自分を棚に上げて言うが〈知った気になりやすい〉のが〈サクラ〉というものである。
 ただ、ライトな世の中にはなったと思う。「好きな俳優さんの舞台挨拶でサクラになって盛り上げて、バイト代ももらっちゃおう!」って感じのキャッチコピーで募るようになった。まだましな気がする、昔と比べて。
 昔の(いや、たぶん今もあるんだろうけど)酷いタイプのサクラは、昔、ある長編小説内で僕は詳細に記述したことがある。気分も悪くなるし、それは繰り返さない。
 だが逆に、これからスポットライトを浴びる職業を目指したいひとは、観客のプロもたくさんいることを知ってから、舞台に上がって欲しい。知らないでその道に入って見渡したら「どっちが演技をしている側だかわからない」という状態は、完全にあたまがおかしくなる、間違いない。精神を病む。
 だから、ある程度そういうこともあるのを織り込み済みで戦って欲しい。僕はひとが病むのをあまり観たくない。わがままだけどね、こんなエッセイを書きながらなにを言っているんだ、って感じだ。

 ちなみに、遙か昔、テレビの収録は深夜帯まで及び、サクラを含む観覧者のひとたちは始発電車の時間まであまりなにもないがらんどうの地に置き去りにされた、というのは有名だった。だが、正確に言うと、始発まで暇だし暗いので危なく、そういうサクラの女の子を狙ってナンパすると高確率で最後まで行ける、という噂があった、という情報があったのが僕に届いた正確な情報なのである。
 知っていても、だ。お金のないクリエイターウェイを走っていた僕は、そもそもその埋め立て地にたどり着くまでの小銭すら捻出出来なかったので、そういったことは一切出来なかったことを付け加える。お金なくても問題ない部分はあるが、それは越えちゃいけない一線かな、と勝手に思い込んでいた。その判断は正しかったのか間違っていたのか、それは僕にはわからない。

 そして、話は戻り、読者モデルの子との話になるのである。



☆20



 二十代後半に知り合った、読者モデルの女の子の話を書こう。ここまで話が長かったが、思い出せるだろうか。
 最初にトップモデルの話をした。二十代前半にトップモデルと知り合いだった。で、その数年後に、読者モデルと出会った。その読者モデルの子、本人が言うには「わたしは一般レベルの読者モデル」である。もちろん、その子はトップの方にいる人々には複雑な感情を抱いている。
 普通に話していてもしょうがないので、カラオケボックスに入って、歌わないで会話することにした。カラオケ屋で働いたこともあるので、阿呆なことはしないしそもそもこのモデル、僕より腕力あるのは明白だったので、すごく丁寧に自分は悪意はない旨を説明して、話を聞き出すことにした。
 面白い話が聞けると思ったのだ。そして、ファミレスじゃ聞けないような話をたくさん聞いた。モデル業界の話だ。
 いや、その子はオタクウェイを当時走っている僕に釘を刺すように言う。
「偶然、一回、表紙を飾ることはあるかもしれない。でも、例えばいつも表紙を飾るのは、通常あり得ない」
 今、僕は複雑な気持ちでこれを書いている。たまにそのいつも躍り出てくるタイプの人間と知り合いだったり、そういう人間が僕を助けてくれることも、人生で何回も、あったのだ。だから、これを記述するのも正直僕自身が「どこサイドの人間でどこ視点で語るべきか」ということについて悩む。「おまえは誰の味方なんだよ? 結局全部裏切るんだな」と思われるかもしれないし、「嘘つきが嘘を吐いてる、誹謗中傷だ! このペテン師!」と糾弾されることもあり得るし、人生生きていくのがつらくなる。僕もどうしていいのかわからない。
 その子は、こう言う。
「なにも〈理由〉がない場合はない」
 と。
「具体的にはさぁ、お偉いさんにはパーティーに必ず呼ばれるわけ。で、必ず呼んだお偉いさんのそばにいるの、そういう娘って」
 それ以上は言わなかったし、それはその言葉以上の意味はないし、それ以下でもない。ただ、その子は見たことを見た通りに述べたに過ぎない。
 だが、僕にもう一度、釘を刺す。
「なにも理由もなく、いつも表紙を飾るのは不可能よ」

第三章【閉じられた物語】

☆21

 ここ最近、手足の震えが酷くなることがあり、それは投薬を二十数年間続けているからで、減薬が始まったことをこのエッセイの最初に書いた。投薬のきっかけは複数要因にまたがる。今まで筆力が足りなかったから書けなかったが、今の筆力なら解きほぐしながら書くことが出来るのではないか、と思う。
 様々な出来事が絡み合ったまま進行し、投薬が開始され、一度目の入院をすることになった話は、あとで余裕があったら書きたい。

 入院しました、治りました、ではないのは、現在も投薬の対処療法で身体とこころを押さえつけていることからわかると思う。
 だが、僕が基本的に健全な社会生活を送れないのは、自殺未遂者だからであり、僕の時の流れとそこで起こったことを大雑把に見るために、自殺未遂をしたとときのことを語る必要がある。
 このこともまた、今まで一度もきちんと語ったことがない。あまりにたくさんの関わりのあったひとに迷惑がかかると思ったのもあるし、それ以前にこの話は〈封殺〉され、その後〈黙殺〉されて終わったという経緯もあるのだ。
 終わったことを蒸し返すな、と言うかもしれない。そりゃそうだろう、僕以外の人々に、都合が悪いし、僕が自分が自殺未遂なんて罪を背負っているのが世間にも知られたら、今まで以上に「扱いにくい存在」として、なんの仕事も出来なくなり、仕事も回ってこなくなる。
 この話を語るのもまた、勇気がいる。
 だが今回、その話も書こうと思う。

 一言で言うと僕は、同居していた女性に酷いレベルでドメスティックバイオレンスを受け続け、自ら死ぬことを選んだのだ。
 未遂に終わり、そして、その理由は隠蔽された。
 なにもなかったことにされた。

 これから、その話をしたいと思う。



☆22



 内閣府男女共同参画局のホームページからペーストすると、「「ドメスティック・バイオレンス」とは英語の「domestic violence」をカタカナで表記したものです。略して「DV」と呼ばれることもあります。
「ドメスティック・バイオレンス」の用語については、明確な定義はありませんが、日本では「配偶者や恋人など親密な関係にある、又はあった者から振るわれる暴力」という意味で使用されることが多いです」と、ある。

ところが。同じ内閣府男女共同参画局のホームページによると。
「配偶者暴力防止法においては、被害者を女性には限定していません。しかし、配偶者からの暴力の被害者は、多くの場合女性です。
配偶者からの暴力などの女性に対する暴力は、女性の人権を著しく侵害する重大な問題です。相談件数や調査結果等から、少数の人だけが被害を受けているのではなく、多くの人が被害を受けていることがわかります」
 と、ある。

 被害は女性に限定されて男性が被害者というのはあり得ない、という〈社会通念〉があるので、〈僕が受けている暴力は取り合ってくれない〉か〈笑い話〉にされるのがオチだろう、と思ったし、少し話しても「気の強い女性なんだねぇ」という意見で終了した。男性が被害に遭っても人権を著しく侵害されたとは見做してくれないし、僕は精神病者という被差別者なのだった。
 誰も僕のことを考えてなんてくれなかったし、今もその内閣府男女共同参画局のホームページの記述を額面通り受け取ると、「男性が被害者? なに言ってんの、こいつ?」って感じである。聞く耳を持たないだろうし、実際、当時、警察は僕の話に取り合えってくれるそぶりすら見せなかった。

 その、同居人の女性は大きな声で怒鳴り散らしたり玄関のドアを蹴ったり殴ったり壁に頭を叩きつけて気合いを入れてから僕に暴力を振るっていたので、近隣住民は気づくはずで、僕の方は怒鳴らないのだから、喧嘩ではないのは察していたはずで、そのことを警視庁が知らないはずがない。近所で事情聴取を行っていないと考えられないからだ。
 だが、この件は隠蔽され、僕は泣き寝入った。まあ、外傷は見当たらなかっただろうし、「精神力が弱いそうだしこの男は死んで逃げた卑怯ものなのだ」と思っていただろう、そんなものだ、世間なんて。

 そもそも、だが。
 僕は投薬でこころに対処療法を受けている人間で、この自殺未遂には遺書も存在しない、その上でその同居人のバックにはいろんな権力を持った男が付いているとなれば、警察もおおごとになるのを避けるだろう。

 具体的にはどういうことか。書ける範囲で書いてみよう。



☆23



 目覚めると救急病棟だった。個室ではない。小さな体育館くらいの大きさの部屋に、ベッドがたくさん並んで、動けないけが人や病人がたくさん寝かされていて、起きているけが人や病人は一様に呻いている。
 ガンガンそのひとたちは冷たくなって、顔に白い布を被されて退室していく。
 僕は首の大静脈に穴を開けられ、そこから太い管を通されていて、一命を取り留めていた。胃洗浄では間に合わず、あと数時間で死ぬところだった、と説明を受けた。
 ドアのない大きい二人部屋に移されたときだったか、精神科医と思わしき白衣の老人が僕のところに来た。
「あなたは何故、こんなことを起こしたのですか?」
 僕は、間髪おかずに、
「さぁ?」
 と、言った。
 白衣の老人は去っていき、その後、理由を聞かれることは、一切なかった。
 一切ないというのは、誰からも訊かれない、ということだ。
 警察からも、医者からも、誰からも。

 その「さぁ?」というのは、〈そんなわけない〉のであるが、正常な思考が出来そうもないし、正直この老人、浅黒い顔をして猫背でぼそぼそしていて、この手合いとしゃべるような体力は今はないので、あたまのなかを整理してからちゃんと質問してくれ、ということだったのだが、「最初の言質が重要」だというルールを逆手に取り、〈これは突発的に起こした精神病者の狂言かなにかであり、事件性はない〉という判断に、〈コントロール〉したかったのは明白であった。
 僕は泣き寝入りすることになった。

 ドメスティックバイオレンスを行った女性は、ある地方の力を持った開業医である人物の一人娘だった。
 また、その女性は「権力者と寝たので仕事が回ってくるようになった人物」でもあった。正確には、権力者に抱かれ、妊娠し、人工妊娠中絶した過去を持つ。

 お手上げだった。僕は軽くいなされるようにして、被害者である事実をもみ消されたのだ。
 それに、この女性のドメスティックバイオレンスは、有無を言わせぬかたちの興奮状態で行われ、本人の意志ではあるだろうが誰かからの〈風聞〉などの計略で興奮状態になったとおぼしいところがあった。僕が自殺するのも見据えて計られたとしか思えない節がそこらじゅうにあった。殺人未遂事件だった、本来ならば。
 僕は23歳になる年だった。23歳で、僕の人生は終わった、とも言える。
 短い人生だった。



☆24



 僕の家族の話をほとんど僕は書いていないが、弟も父も母も、最悪な仕打ちを僕にしたのを僕が忘れているとでも思っているのだろうか。
 だが、それを書くのはまた別の機会に回した方がいいと思われるので、このエッセイでは割愛する。

 僕はいつも黙るしかなかった。間男は、調子に乗っていて、そいつのしでかした多くのことについてなにか言おうとすると、「おれに失礼だぞ! おれに謝れ!」と怒鳴る。日本語としてもはや崩壊している。
 僕が高校二年生から高校三年生に在籍した演劇部では、最終的には県大会で三位だった。二位までが関東演劇祭という高校演劇の最高峰に行けるのだから、惜しいところまで来た。廃部寸前のところを部員探しから始めてそこまで導いたひとりは僕だった。
 大会では僕の高校の演劇部に〈僕へのファンレター〉がたくさん届いた。だが、それは十行に渡って文章があったら九行は僕へのファンレターで、そこに一行、その演劇部への感想、というようなものが大半だったゆえに、僕は演劇部の部員たちから、露骨に仲間はずれにされた。また、これも間男と同じように、「僕にファンレターが届いたよね」と言うと「そんな事実はない!」と、歴史修正する気が十分の人間たちであることが最後に露呈して幕を閉じた。

 僕に、もう未来はないのかもしれない。小説を書き続けるが、今回もずいぶんと書いてはいけないことを書いてしまった。普通の精神を持った出版業の人間だったら、こんな僕はどんな文章を書いてもプロにはさせないだろう。そして、僕と似たようなことを書く僕ではない人間をデビューさせ、そいつがちやほやされるのだ。今までそうだったように、僕のことは認めないだろう、たぶん。……うんざりだ。

 このクソ美しい世界に住むおまえを僕は愛している、だから死んでくれ。



(了)

眠れないのは誰の所為

本作品は嘘吐きが書いた法螺話です。本気にしないように。

眠れないのは誰の所為

世界に平和を、おまえには死を。

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更新日
登録日
2025-08-08

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  1. 第一章【虚構】
  2. 第二章【告白】
  3. 第三章【閉じられた物語】