この腕が燃え尽きても、君の家族になりたい

この物語は、復讐に囚われた少年が、偶然出会った少女との関係を通じて真の家族の意味を学ぶ現代心理小説です。

主人公の炭咲は、幼い頃に父親の野望によって母と妹を失い、事故の影響で両腕が木炭と化してしまいました。十四歳まで復讐だけを生きる目的として孤独に過ごしてきた彼の前に、ある日突然現れた少女。彼女もまた、誰かに捨てられた子供でした。炭咲は彼女に「ステラ」(捨てられた子という意味)と名付けます。
この作品では、超自然的な要素を含みながらも、人間の内面的な成長と家族の絆を中心に据えて物語を展開しています。炭を操る能力や神の存在といった幻想的な要素は、登場人物の心理状態や精神的な変化を象徴的に表現する装置として機能しています。

特に、血のつながりを超えた家族愛、失うことの痛み、そして再生への希望というテーマを通じて、現代社会に生きる私たちが抱える孤独感や疎外感、そして人とのつながりの大切さを描きたいと考えました。

炭咲とステラ、そして各務アリマとの三人の関係は、現代の家族のあり方を問い直す契機となるでしょう。束の間の幸せと深い絶望、そして最終的な救済へと向かう物語の流れを通じて、読者の皆様に何かを感じ取っていただければ幸いです。

文学的な深みと現代的な感覚を併せ持つ作品として、幅広い読者層に訴えかける普遍的なテーマを扱っています。純粋に読書を楽しむ場である星空文庫で、静かに物語と向き合っていただければと思います。

第0話 春を呼ぶ少女

 初春の雪が降りしきる深夜、少女の鼻先には甘ったるい薬の残り香が漂っていた。東京都心のどこかにある石造りの豪邸は、今夜いつもと違う匂いをしているが、記憶を食らう怪物のように夜闇に佇んでいた。

 その腹の中で、たった一つの小さな心臓が、自由を求めて激しく鼓動している。

 普段なら大人たちの懐中電灯が規則正しく外壁を照らしているはずの時間。しかし今夜、その光は二時間前から消えている。

 理由は簡単だった——誰かが、大人たちを眠らせたのだ。

 少女の指先が扉の取っ手に触れた途端、金属の冷たさが骨まで染み渡った。心臓が破裂しそうなほど激しく鼓動し、喉の奥で小さく「あ、あ…」と声を漏らしかけて慌てて手で口を押さえる。

 鼻をひくひくと動かす。甘ったるい眠りの香りが廊下の向こうから漂ってくる。他人の汗と煙草の匂いがするはずなのに、今夜は違った。

 重い扉を慎重に押し開くと、軋む音が闇に響いた。全身が石のように硬直する。鼻先に漂う人の気配は薄く、遠い。みんな深く眠っている匂いがした。

 ——にげる。にげる。

 言葉にならない想いが胸で渦巻く中、少女は廊下に立ち尽くしていた。窓を叩く音だけが、異様に静まり返った夜を支配している。

 階段を降りる際、靴音を消すために裸足になった。氷のような石段が足の裏を刺すが、痛みを言葉で表現することを知らない少女は、ただ「うぅ…」と小さく唸るしかなかった。

 突然、背後で床板がきしむ音がした。

 少女の動きが止まる。血の気が引いていく。鼻をひくひくと動かすと、かすかに違う匂いがした。起きている人の匂い——鋭く、冷たい警戒の香り。ゆっくりと振り返ると——誰もいない。ただ、廊下の奥で小さな影がゆらりと動いたような気がした。

 ——こわい。こわい。はやく。

 もう時間はない。

 玄関を抜けた途端、吹雪が少女を襲った。薄いコートでは寒さを防ぎようがなく、息は瞬時に白く凍りついた。それでも足を止めるわけにはいかない。

 ——さむい。いたい。でも、にげる。

 庭園の石畳は雪で覆い尽くされ、一歩進むたびに足を取られそうになる。転びかけて手をついたが、反射的に掌に雪の鋭い冷たさが食い込んだ。「ぁ…」小さな悲鳴が唇から漏れる。

 立ち上がろうとしたその時——豪邸の二階に灯りが点った。

 次の瞬間、もう一つ、また一つと窓に明かりが灯っていく。

 ——見つかった。

 恐怖が血管を駆け巡る。もう隠れることなど不可能だ。少女は雪を蹴散らし、庭園の奥へと必死に駆け出した。木の枝が頬を裂き、雪塊が首筋に落ちて溶けていく。足跡は追手にとって完璧な道標となるだろう。

 背後から怒号が響いた。

 「逃がすな!」

 門はまだ遠い。吹雪は勢いを増し、視界を真っ白に染めていく。振り返る余裕もなく、ただひたすら前へ進むしかない。足先の感覚は失われ、呼吸は荒く乱れ、喉は渇ききっていた。

 そしてついに、重厚な鉄の門が雪の向こうに姿を現した。少女の震える手が錠前に伸びる——しかし、複数の足音が急速に近づいてくる。

 ——でられない。どうして。どうして。

「こっち」

 突然、門の影から凛とした声が聞こえた。

 少女が振り返ると、自分よりも少し年上に見える女の子が雪の中に立っていた。その子の手には小さな懐中電灯と、何かの鍵が握られている。まるでお姉さんのような落ち着いた佇まいだったが、その瞳には深い悲しみが宿っていた。

 鼻先に優しい匂いが漂った。温かくて、安心できる香り。この人は敵じゃない、とネネの本能が告げていた。

 「急いで。門の鍵、開けてあげる」

 女の子は迷うことなく門に走り寄り、慣れた手つきで錠前を開けた。カチャリという音と共に、重い門がゆっくりと開く。

 少女の頭の中に疑問が浮かんだが、それを言葉にすることはできなかった。ただ漠然と やさしい。だれ? という思いが心をよぎる。

 少女は女の子を見つめ、何かを伝えようと口を動かしたが、「あ…ぁ…」という音しか出てこない。女の子はそんな少女を優しく見つめ、理解したように頷いた。

 豪邸から複数の人影が現れ、懐中電灯の光が庭園を照らし始めた。怒声が夜気を震わせる。

 「そこにいるのは分かってる!大人しく戻ってこい!」

 風に乗って、怒りと苛立ちの匂いが鼻先を刺した。追手たちの興奮した気配が、まるで獣の匂いのように濃く漂ってくる。

 女の子は少女の手を強く握り、門の向こうへ押し出した。

 「絶対に振り返っちゃダメ。真っ直ぐ森の道を行って。バス停があるから」

 少女は困ったような表情で首を傾げる。女の子は慌てたように付け加えた。

 「そこで、パパを探して。本当のパパを見つけるの」

 少女の瞳が大きく見開かれた。初めて聞く音の響き——だが、なぜか胸の奥が温かくなる。口の形を真似るように唇を動かし、たどたどしく声に出した。

 「パゥパあぁ——?」

 不完全だが、確かに言葉だった。女の子の目に涙が浮かんだ。

 「そう、パパ。きっと…、きっと見つかるから。ネネ」

 そのまま、少女の中で何かが響いた。「ネネ」——それが自分を指す音だということが、なぜかわかった。忘れていた何かが、かすかに蘇るような感覚だ。

 「ネェネ?」少女——ネネは、その音を不思議そうに繰り返した。

 「そう、あなたはネネ。私の......」女の子は何かを言いかけて口を閉じたその時、彼女の表情に深い痛みが走った。「行って。ネネが自由になって、本当のパパを見つけるのを見るのが、私の唯一の願いだから」

 追手の声がもうすぐそこまで迫っている。

 「いた!門のところだ!」

 雪と闇の中、ネネの姿が森の向こうへ消えていく。口の中で「パゥパあぁ…」という音を転がしながら、少女は希望という名の光を胸に駆けていった。

 女の子は門をそっと閉め、深く息を吸った。背後から追手の声が近づいてくるが、もう怖くはなかった。

 ——あのこ、にげられた。よかった。

 雪が全てを覆い隠し、二人の少女の運命を白い静寂の中に包み込んでいった。そして森の奥から、か細く響く声があった。

 「パゥパあぁ、——パゥパあぁ——」

 それは、記憶を失った少女が初めて自分の名前と希望を同時に手にした奇跡の一瞬だった。

 春風に運ばれたその小さな声は、遠く離れた場所で、誰かの心の奥に眠る記憶の扉をそっと叩こうとしていた。

第1話 赤いマフラーと黄色の野花

 昨夜から曇った空は、春を告げる三月だというのに街の上に雪を降らせていた。その雪は灰色よりも(あわ)く、白よりも濁った色をしていた。寒さが(ただよ)う朝の空気は、街中に少しずつ積もる雪とともに人の肺を痛めた。

 普段なら街を一望(いちぼう)できる坂道を、いつもの調子で歩いていた。しかし雪のせいで駅にたどり着くまでの時間が倍近くかかっている。そのため、僕は時間に間に合うかどうか心配になってきた。念のためスマートフォンから乗換アプリを開いて、次の電車の到着時間を確認した。

 突然の降雪で数分の遅延が発生しているようだった。僕は深く息を吸って吐き出した。仕方がない、と思いながら雪に覆われた街を眺めた。

 前方には高層ビルが林立(りんりつ)し、地平線の彼方まで続いている。振り返ると、同じくらいの距離に巨大な桜の木が東京の中心部にそびえていた。あの桜は、百年前の大洪水の時代に各地で小さな苗木として発見されたもので、いまだに原産地がわからない日本固有の落葉樹である。

 今年の春も例年と同じように、巨木から咲く数百万の花びらによって、都心から半径十キロ圏内には花粉飛散警報が出される予定だ。そう予想していた割に、なぜか三月に入ってもまだ積雪注意報が出されている。春を楽しみにしている人々には気の毒な話かもしれない。受験生である僕にとっては、残念ながら試験当日の朝に雪が降っている時点で邪魔に感じるだけだった。

 「いらっしゃいませ——」

 眠そうなアルバイト店員の声を背中に聞きながら、僕は早速おにぎりコーナーに向かった。最近、唯一の楽しみといっても過言ではないほど、朝と昼に『大きな鮭はらみおにぎり』を食べることに夢中になっている。

 他のおにぎりと違って、大きな鮭はらみおにぎりは三日連続で食べても全く飽きなかった。魅力はその充実した味にあった。初めて一口かじった時、舌先に伝わる鮭はらみの脂ともっちりしたお米の食感に驚き、噛めば噛むほど濃くなる味にさらに驚かされる。ここに加えて、おにぎりでのどが詰まった時に牛乳をごくごくと飲み干すのが重要なポイントだ。少し塩味が中和された状態でもう一度おにぎりを口に入れることで、口の中からのどの奥まで滑らかに流れ込み、胃に到達した時の満足感が全身に広がる。

 もちろん、今の話はあくまで個人的な好みに過ぎない。しかし、牛乳は米の味を水のように流してしまわず、炭酸飲料のように味を消してしまうこともなく、本来持つ甘みを引き出す力がある。

 他のメニューでは味わえない食感を味わってしまった以上、僕の体は毎食この組み合わせしか受け付けなくなってしまった。さらに、普段は百九十二円だった大きな鮭はらみおにぎりが、今月に入ってから割引セールの影響で九十九円に値下げされている。これだけの理由があれば、大きな鮭はらみおにぎりと牛乳を選ぶ理由は十分だった。

 「ポイントカードと袋はいりますか?」

 「いえ、いりません。お会計はSuicaで」

 僕はレジで会計中の客を通り過ぎ、正面に見えるおにぎりコーナーに目を向けた。コンビニに入った瞬間から、これから買うおにぎりを大きく一口かじる想像をして、口の端からよだれが垂れそうになった。早く食べたい気持ちで胸が()った。

 しかし、おにぎりコーナーは空っぽだった。大丈夫だ、とまだ整理されていない在庫の箱を眺めながら、僕は希望を抱いた。アルバイト店員に気づかれないよう青い箱に目を向けて中身を確認する。ちらっと見た限り、『大きな鮭はらみおにぎり』の品出しはまだのようだ。仕方がない、と失望しながら、残っていた卵入りサンドイッチを一つ手に取ってかごに入れた。

 「パゥパあぁ——」

 牛乳を買いに向かった先で、ある少女がドリンクコーナーのガラスに顔を押し付けて中を眺めていた。親らしい大人の姿は周りには見当たらなかった。

 僕は少女の隣に行き、しばらく様子を見た。ボロボロになった服装で、靴も履いていない素足は赤紫色に腫れ上がっている。頬はあかぎれを起こし、爪は血の気を失って白く濁り、足は霜焼(しもや)けで浮腫(むく)んでいた。

 まだ薄暗い夜明けの時間帯に、子供が一人でコンビニの中を自由に歩き回っている。上着を着ている僕でさえ、寒さが骨に染みる天気だ。さすがに女の子一人で、保護者もなくコンビニをさまようのはおかしな状況だ。

 したがって、疑う余地もなく、この子は十中八九、親に見放された捨て子——つまり、ノバナだ。僕は声を殺して一人でつぶやいた。

 長く見つめていたせいか、僕の視線に気づいたその子と目が合った。青緑色で薄く輝く珍しい瞳を持っている。だめだ、と僕は自分に言い聞かせた。せっかく休みをもらって準備したガーデンズ学園の受験だ。余計な仕事を増やしては本末(ほんまつ)転倒(てんとう)である。でも、なぜかさっきから僕に興味を持ったようにノバナが距離を縮めてくるような気がした。

 「すみません、何か問題でもありますでしょうか?」

 レジに立っていた若いアルバイト店員が、在庫のチェックリストを手に持ち、僕の方に近づいてきた。制服のネームプレートには『星野』と書かれている。

 「ノバナが店内にいます。かなり前からいたようですが、何か対応した方がいいでしょうか?」

 「あれ?ネコちゃんだ。ネコちゃん、また来たの?これ以上はうちも面倒見られないって言ったじゃない。まだ勤務時間中だから食べ物をすぐにはあげられないよ」と星野さんは慣れた様子で野良猫に話しかけるようにノバナに声をかけた。

 僕はその反応を見て、腹の底から湧き上がる怒りを抑えて、用心深く子供の様子を観察した。

 服装以外にもノバナの栄養不足が際立っていた。体はあばら骨が薄い布の上からでも見えるほど痩せている。寒さと乾燥で唇が割れて荒れていた。一日中、まともな食事をした様子もない。それだけではない。足元には適切な治療のタイミングを逃して自然に治った青あざがくっきりと残っている。他にも親から暴力を受けたと思われる傷跡もいくつか見受けられた。

 素人でも一目でわかるくらい助けが必要な子だが、周りから簡単に手を差し伸べられなかった理由は、おそらく鼻をつく臭いが原因だと思われる。数日間洗っていない髪に汚れと雪が混じって、触れただけで汚れが移ってしまいそうだった。とはいえ、このまま放置するには痛ましい有様だ。

 「お知り合いのノバナのようですね」

 「ええ、まあ。三日前から私がシフトに入っている時間帯に寄ってくるノバナです。二日前は店長がいる間にも来て、店の中を走り回って大騒ぎでした。店長が警察(バベル)に通報する寸前に捕まえて見逃してあげたのに、どうしましょう。監視カメラに映っているからもうすぐ店長が来ると思います」

 「バベルよりは、施設に通報すれば無料で引き取ってくれると思いますが」

 「やりましたよ。初日からずっと東京庭園管理(T G C)センターに何度も通報しましたが、毎回満員だからと言って断られました。このまま放置するのは可哀想だし、しばらくはシフトが終わる時間に合わせて食べ物だけあげていました」と星野さんは心配そうな顔をしてノバナを見つめた。

 すでに半分は関わってしまっている状況だった。しかし、今手を差し伸べるとすれば、正式にこの問題に関わることになる。仕方がない、と口癖のように心の中でつぶやいた。

 僕は連絡先から『小泉』を検索して通話ボタンを押した。

 「もしもし、だれですか?」

 「朝早くからすみません、小泉さん。東京支部のユニットⅡの三に所属している炭咲(たんさき)です。急で申し訳ありません。五分だけお時間をいただけますでしょうか」

 「炭咲くん?あれ、今日は休みじゃなかったっけ?どうしたの、こんな時間に。何かあった?」

 まだ寝ぼけている様子なので詳細な説明は後にして、現場の説明から始めた。「実はノバナを発見して電話しました。年齢は多く見ても十歳未満で、性別は女の子です。少なくとも一週間以上は放置されているノバナです」

 「能力(トゲ)の大きさや種類は?」

 「外見上は特に見当たりません。推測ですが、親からの愛情不足と栄養不足が原因で、まだ発現していない状態かと思われます。他の班が処分する前に、小泉さんの班で回収していただけませんか?」と僕は返答を待ちながら、店員に小声でここの住所を聞き、小泉さんに伝えた。

 「ありがとう、教えてもらった住所で場所が特定できた。今から出発する前提で四十分ほどかかるかな」少し沈黙が二人の間に流れた。「よく考えてみれば、そうだ。今日はガーデンズ学園の共通テストがある日だよね?仕事して大丈夫?遅れてない?」

 特に仕事をしたわけではないので小泉さんには問題ないとごまかしておいて、コンビニまで安全運転をお願いした。言われなくても気をつけるよ、と軽くたしなめられた。

 「あの、すみません。まだ勤務時間中なので私はこれで大丈夫でしょうか?」

 「電話が長くなってすみませんでした。もうすぐTGCの関係者がこちらに来る予定です。それまでこの子を預かっていただけますか?」

 協力してくれたものの、業務に支障が出て困った顔をしている。気持ちはわかるが、せめて子供の前では見せてほしくない表情だった。星野さんは小泉さんの情報をメモした紙を受け取り、ノバナをスタッフ専用の休憩室に連れて行った。星野さんがノバナを休憩室に連れて行く前に、僕は自分の赤いマフラーをノバナに巻いてあげた。

 気がつけば自分一人になっていて、内心すっきりしないものを感じつつも、次の電車に遅れると受付時間に間に合わなくなってしまう。後は小泉さんの対応を信じて、急いで駅に向かって走った。

第2話 首の皮一枚

 「ガーデンズ学園に訪問してくれた受験生の皆さんは、各自の受験番号を確認し、先生の案内に従って入場をお願いいたします」

 電車の遅れで、僕は骨抜きにされたような状態でガーデンズ学園の最寄り駅に到着した。狭い車内で缶詰のように圧迫され、時間ぎりぎりまで満員電車に揺られたせいで、駅に降りてから歩く気力すらなくなっていた。

 しかし、地獄はまだ先にあった。

 駅の改札口からガーデンズ学園までの広場は、蟻の行列のような人波で混雑していて、前へ進むのもひと苦労だった。

 僕が判断に迷っている間、後ろに並んだ三人家族の会話が耳に入った。

 「すごいな、相変わらずここは人が多いね。先にここで記念写真でも撮ろうか?」

 「正気なの?嫌よ、絶対撮りたくない。撮りたければ、お父さん一人で撮ってよ」

 「冷たいな。どうせここから校門まで、途中で止まれないぞ」

 「それでも嫌です。もういい、お母さんと先に行くね」

 母娘(おやこ)は父親を残して改札口を通った。仲の良い家族だ、と思いながら、僕も何気なく三人家族の後について駅を出た。

 外は予想以上に混雑していた。足を踏み入れる隙がないほど受験生とその家族で混んでいる。意思を持って歩こうとしても、ただ流れに身を任せて前に向かうしかない。気がつけば、僕もガーデンズ学園の校門に向かってのろのろと進んでいた。

 「ガーデンズ学園は毎年行方不明になる受験生をリスト化して公開しろ!進学を悪用して罪のない学生たちを誘拐する行為はやめろ!」

 息を抜いている僕に、見知らぬ中年女性が紙のチラシを手渡しした。紙には過去に共通テストを受けた学生の顔写真と名前が載っている。裏には連絡先と謎のマークが印刷されていた。

 「君も気をつけてね。ガーデンズ学園は一人で来た受験生を狙っているから」

 深刻な表情で僕を見つめる女性からは、子供を失った悲しみが滲み出ていた。みんなが受験生を応援するこの場で、この人たちは警告の言葉を囁いている。その気持ちを理解できる僕は、渡されたチラシを捨てずに、鞄の中にしまった。

 ガーデンズ学園が失踪事件に関わっているという話は、最近ネット上で炎上している有名な都市伝説の一つだ。ほとんどの人は古い噂話だと笑い飛ばすが、実際にここ二年の間、かなりの人数がガーデンズ学園に関連して行方不明になっている。

 TGCの問い合わせ窓口にも、毎年この時期になると似たような捜索願が届く。普通の能力を持った一般生徒から、将来を嘱望(しょくぼう)されていた特殊能力(トゲ)を持つ受験生まで、様々な子供たちが同じ日に姿を消している。

 依頼はいつも失敗で終わる。そして、失踪者の両親に頭を下げて謝罪する。まるで犯人の代わりに謝るように、何度も繰り返して謝り、すべての恨みを全く無関係な僕たちが受け継いだ。

 当時を振り返ると、あれは犯人を捜すレベルではなかった。本当に神の手が子供たちを隠したように、受験生の遺留品も犯人の痕跡も、どこにも残っていなかった。

 ある日、僕は仕事帰りの道で奇妙な錯覚に襲われた。最初からこの世に存在しなかった相手を探しているのではないか、という忌まわしい現実を想像した。その影響で、三月は憂鬱になる日が多い。

 バベルはこの件について、未だに公式なコメントを出していない。結局、責任を負う人のいない世界で、被害者だけがあの日に縛られて、心から苦しんでいる。

 「あれ?なんで赤ちゃん一人でここに来たの?パパとママはどこ?」

 鼻に馴染んだ匂いを感じると同時に、スマホが鳴り始めた。父親(あいつ)からの電話だった。僕は着信名を確認して、そのまま終了ボタンを押した。電話が切れて数秒後、メッセージが届いた。

 『試験が終わったら電話すること。近いうちに本社まで来ること。断る場合は来月から実家に戻ること』

 僕は目的がはっきりとした短いメッセージを無関心に見つめた。まだ施設にいた頃、月に一回の研究目的での採血が嫌で、父親の言いなりにならず、反抗的な態度を取った時期があった。反抗といっても、注射針が火傷の跡に刺される痛みが嫌だからやめてほしいと頼んだだけだった。

 父親は僕の願いにこう答えた。

 「お前にしかできないことを他人に押し付けるな」

 それを聞いた僕は自分を責めた。「馬鹿、お父さんはみんなを助ける仕事をしている大人だ。きっと、何か大きな計画があるんだ」

 言うまでもなく、父親に大義名分に基づいた計画なんて初めからなかった。七年前の火事でママと華栄(カエ)が亡くなったのも、元をただせば、あいつの野望が引き起こした事件だった。結局、骨の髄まで自分のことしか考えない勝手な人間である。

 最近の連絡も今まで通り同じ理由があると思われる。既に他の女性と再婚して苗字も緑埜に変えた人だ。何の目的もなく、過去の汚点を人前に晒すほど、あいつは自分の損になる行動を取らない。きっと今回も僕の能力(トゲ)が目当てで間違いないだろう。

 「パッ、ハ!」

 僕を呼ぶような幼い女の子の声が聞こえてくる。振り返ると、コンビニで顔を合わせたノバナが、もみじのような小さな手で僕のズボンを引っ張っていた。瞳の色、見覚えのある傷跡、僕があげたマフラーまで、すべてついさっきコンビニで会ったノバナだった。

 小泉さんに連絡を取ろうとしても、彼女が来るまで待つには時間がなく、間もなく共通テストが始まってしまう。さらに困ったことに、ノバナのみすぼらしい格好を見て、人々がざわめいている。下手をすれば通報されて、今年の共通テストを諦める事態になりかねない。僕は急いでノバナに自分の上着を着せ、れた髪は余った包帯で軽く拭いてあげた。

 「あの、すみません。もしかして炭咲(たんさき)千春(ちはる)君ですか?」

 ノバナの影を慕って、顔の小さな女の子が声をかけてきた。僕の名前を知っている人は職場の人以外に少ない。しかも、僕よりも身長の高い女の子だ。どこかですれ違ったとしても忘れないような印象がある。

 「やっぱりさっちゃんだよね!久しぶり、元気だった?背は昔から伸びてないね。牛乳は相変わらず嫌い?」

 彼女は馴れ馴れしく、人の弱みをさりげなく突いてきた。

 「好き嫌いはダメだよ。ちゃんと飲まないと背は永遠に百五十センチのまま大人になるよ?」

 あの呼び方を聞いて思い出した。昔、同じ施設にいた同期が、確かに僕を「さっちゃん」と呼んでいた。名前は小麦だったような気がする。

 「あのね、一人だけ喋らせておいて反応くらいしてよ。ほら、見て。すごいでしょう。この一年間、頑張ってバストアップしたのよ?すごいでしょ。身長も百六十センチを超えて、最近はバレー部にも入ったからね」

 彼女は自分の体を誇らしげに見せながら、深々と頭を下げる。ここまで親しい関係だったかと、違和感を覚えた。一応、周りの視線を意識して軽く後頭部に手のひらを乗せてあげた。小麦はそれでも嬉しそうに笑顔を見せる。それを隣で見上げていたノバナが、小麦の笑顔を真似して同じような表情を作った。

 「ええ、この子ってなんでこんなに可愛いの?ねえ、さっちゃんのお知り合い?名前を教えて」

 無邪気にはしゃぐ小麦を無視して、僕は小泉さんにノバナの所在について連絡を入れた。また同じ状況に置かれた自分が情けないと思うが。また同じ状況に置かれた自分が情けないとは思うが、今の状況では子供と一緒に試験場まで入る方法しか頭に浮かばなかった。

 「パッ、パッ!」

 ノバナが両手を広げて抱っこを求めた。冷静に考えれば、学園の中には大人の先生たちが常駐している。せめて共通テストの間だけでも子供を預けることができるかもしれない。

 「お前も運がいいな」

 僕は冗談半分で言った。

 「お願いだから、連れて行くから大人しくしてくれよ」

 実際、子連れの受験生は僕以外にも何人かいるようで安心した。これで受験は問題なさそうだ。

 「あと、お前もそろそろ急いだ方がいいんじゃないか?もう校門が閉まるぞ」

 それだけ言い残して、僕はノバナと共に試験場に向かう行列に足を踏み出した。

 「ちょっと、ちょっと。久しぶりに会った幼馴染(おさななじみ)に『お前』呼ばわりは冷たくない?」

 とぼやきつつも、朝九時を知らせるチャイムが園内に響いた時。折よく校門が重い音を立てて閉ざされるところで、睨むように見つめている小麦の顔を後にして、急ぎ足で園内へ歩いた。

 校門を通ってからは、皆が平凡で目立たない様子で誰一人文句を言わず、じりじりと前方に向かって歩いている。無意識的に秩序(ちつじょ)を守ろうとする姿は、同じ道の上にいる人として絶景だった。ただ、遅れた人々の絶叫が容赦なく皆の足元で踏みにじられる光景は、多少歪んだ一面を人前に見せつける。運に見放された外側の人は、また来年の春か、もしくは秋入学を目指すしかない。

 「でも、会えてよかったと思う」

 小麦は歩く速度を僕に合わせて肩を並べた。

 「おはよう。さっきは私がいきなり声をかけて驚かせてしまってごめんね。改めて自己紹介させて。私は久城家の娘、久城(くぼ)美縁(こむぎ)です。みんなにはムギと呼ばれているから、好きに呼んでもいいよ」

 「おい、やめとけ」

 僕はノバナに自己紹介をしようとする美縁を止めた。

 「偶然知り合ったノバナに無責任なことはするな」

 「その割にはノバナちゃんが随分さっちゃんに懐いているね。マフラーも当然ながらさっちゃんの私物だし、今時のツンデレキャラ?」

 美縁に頭を撫でられる前に、スムーズに横に避けた。それを見ていたノバナも僕と同じ方向に頭を動かす。さっきから僕と美縁の行動をそのまま真似するような様子に不安を感じ始めた。気のせいかもしれない。

 「パッパ、パッパ!」

 ノバナが片手で僕の服の襟を掴み、どこかを強い意志を持って指さした。先頭に立った人の背中に遮られ、視野が確保できない状況にも関わらず、ノバナは前へ進みたいと駄々をこねる。

 何度も子供を落ち着かせようとしても言うことを聞かなかった。だからといって、子供が泣き出すまで我慢するには、自分の体力が持たないような気がした。僕は深くため息をついて、ノバナを下に降ろした。親代わりになりたいわけではない。最低限の人間関係で求められる礼儀を教えるだけだ。

 「子供だからといって、自分勝手な行動は許されない。分かったか?欲しいものがあるときは、まずお願いをすること。また、周りに迷惑をかけてはいけないから、わがままはほどほどにすること」

 僕は一文字ずつ丁寧に自分の名前をノバナに教えることにした。

 「あと、僕の名前は炭咲千春だ。た・ん・さ・き、ち・は・る。しばらくお前の面倒を見る人だ。名前くらいは覚えなさい」

 ノバナは真面目に僕の話を聞いているふりをして、自由に動ける状態になった途端、注意された内容を完全に忘れて、猫のような動きで人込みの間を走り回り始めた。出会って僅か一時間で、子育ての壁を感じる僕である。案外、子供という生き物は自分に素直なのかもしれない。

 「元気いっぱいな身のこなしだね。追いかけなくても大丈夫?」

 美縁がスマホでSNSの記事を見せてくれた。

 「そういえば、今年の受験生の中で花魁(おいらん)も紛れ込んだみたい。ほら、これを見て。今もファンの人が写真をアップしているよ」

 どうでもいい、と思った。僕は風になびく赤いマフラーを目で追いかけていて、彼女の声は意識の端を素通りしていった。

 「すまん、今なんて言った?」

 「君って本当に自己中心的な男だね。昔と少しも変わっていない。せめて人が話すときはちゃんと聞いてよ」

 美縁が拗ねた声で言った。

 「でも、久しぶりに会えて楽しかった。次は一緒に入学式で会えるといいね、チハル君」

 初めて下の名前で呼ばれたとき、頭の片隅から小さな違和感が膨らんできた。その正体を探ろうとして顔を横に振り向くと、美縁の声の余韻も消えて、元からそこには誰もいなかったような静寂だけが残り、背の低い見知らぬ女の人が僕を見下ろしていた。僕は息を呑んだ。

 「皆さん、ご覧ください。新吉原の花魁が受験生として試験場を通っています」

 誰かが叫び、人々がざわめき始めた。噂の人物――世間で最も話題となっている花魁の突然の登場である。興奮した群衆が一斉に彼女を見ようと一カ所に押し寄せた。このままでは人の流れに押し流され、群衆に押し潰される恐れがある。足元が不安定になり、前後左右から受ける圧迫で身動きが取れなくなった。押し込まれる時間が長くなるにつれ、息苦しさが増していく。それでも倒れないよう、必死に体勢を保とうとした。

 「パッ?」

 ノバナが空いた隙間からモグラのように姿を現した。手には何故か初めて見る高級な生地(きじ)を持ちつつ、僕を呆然と見上げている。

 「えへへ、パッパ」

 僕と目が合った瞬間、満面の笑みを浮かべた。

 へらへらと笑っている場合ではない。僕は一刻も早くここから抜け出さないと、呼吸ができなくて気を失いそうだった。まさに阿鼻叫喚といえる現場の状況で、わずかな時間差で生と死に分かれる。

 気がつくと、ノバナは僕の冷ややかな態度が気に入らなかった様子だった。大いに不満そうな表情で、赤いマフラーを僕の手首に結び付け、思いきり下へ引き寄せた。

 僕はその弱い外力で、体のバランスを崩して地面に倒れ込んだ。自分の体がかなり危険な位置に挟まれていることは分かっていたが、無防備なところへいきなり加えられた子供が引っ張る力によって、体勢が崩れるとは思わなかった。

 「いい加減にしろ。今はお前の遊びに付き合う暇がない」

 ノバナに怒鳴る前に、体の変化に気づいた。

 呼吸が、だいぶ楽になった。まだ人波の中にいる状況だが、上の方に比べれば足元の方はまだ背の小さい僕でも動けるほど隙間がある。この子はそれを知った上で僕を下に引っ張り出したのだ。

 勘のいい子だ、と僕はノバナの頭を撫でた。

 「あり——」

 大丈夫だと思ったのも(つか)()、圧迫に苦しむ人々が生きるために前の人を蹴ったり激しく押し合ったりし始めた。ここも安全ではないと判断し、うつ伏せの状態でノバナの後について移動した。ノバナはまた楽しそうに地面を這いつくばって、ゆっくり前方に進んだ。

 移動しながら、何度も人々の足元に背中と手の甲を踏まれた。痛みはなかった。着ている制服が擦り切れることも気にしない。脚の森の中から通り抜ける、ただそれだけを考えて両手足を激しく動かした。

 「申し訳ありませんが、安全のために距離を取って歩いてください」

 人々が自然と作った人垣に囲まれて、花魁道中が行われていた。中央を歩く花魁が外八文字(そとはちもんじ)の歩きを披露し、その豪華絢爛な姿に周りの視線が釘付けになっている。周囲の人々と同じように、僕も彼女の醸し出す洗練された雰囲気に魅了されていた。

 椿柄の入った豪華な着物、地面に引きずるほど長い裾、黒塗りの高下駄(たかげた)に映える白い素足――伝統的な花魁の装いが、この場に幻想的な美しさを作り出していた。

 「誰か、この子の保護者をご存じでしょうか?」

 その美しい光景に見入っていると、突然係員の声が響いた。慌てて振り返ると、ノバナが花魁の歩く道を遮るように走り回っていた。花魁も困ったような表情を浮かべ、周りの観客たちもざわめき始めた。僕は恥ずかしさで顔が燃えるように熱くなった。

 「おい!」

 叫んでもノバナは気づかず、代わりに周りの人から嫌な顔で睨まれた。それに対して言い訳もできないから、思わず大きく舌打ちをした。

 一方、ノバナは僕の立場など全く考えていない様子だった。花魁の着物の裾に隠れてみたり、慌てて追いかけてくる係員たちから逃げ回ったりと、まるで遊園地にでもいるかのような無邪気さだった。

 あれほど楽しそうに遊んでいる様子を見ると、無理に止めるのは可哀想に思えてしまう。だが、このまま放っておくわけにもいかない。保護者として何とかしなければと思いながら、暴走したノバナをしばらく見守った。そして、考えを巡らせた末、一つの方法を思いついた。

 「迷惑ばかりかけないで、いい加減こっちに来い。ステラ」

 周りのざわめきが一瞬で静まった。とはいえ、肝心のノバナは、まだ花魁の側で遊んでいる。まだ自分の名前だと自覚していない様子で、もう一度子供に向かって名前を呼んだ。

 「ス——テ——ラ」

 僕が名前で子供を呼ぶ間際に、ただの野花(のばな)に過ぎなかった子供は特に反応を示さなかった。

 「ステラ!今、お前のことを呼んでいる」

 その名を三度目で呼ぶ瞬間、僕の懐に駆け込み、捨てられた花は僕の(ステラ)になった。

 「パパ、ステラ?」

 ステラがずっと口癖にしていた単語は、本当は父親(パパ)のことだったようだ。ステラという名前を授けられたノバナは、嬉しい顔をして大人しく僕を待ってくれた。

 「愛らしいお名前でございますこと。お名前の由来をお聞かせいただいてもよろしゅうございますか?」

 絵日傘(えひがさ)の影から、花園にも稀な若い美人が一息届く距離まで歩み寄った。髪も黒くふさふさとし、白い肌と琥珀色(こはくいろ)の瞳が調和する顔立ちは、言葉を失うほど美の完成形に近かった。僕は一瞬前のことは忘れたかのように、名前の由来を目の前の女性に教えた。

 「捨てられた野花だから『ステラ』です。特に意味はありません」

 「あら?ご自身でお名前をお付けになったのですか?それも野のお花に?もしやこのままお屋敷にお連れして育てるおつもりでしたら、それはお止めになった方がよろしいかと存じます」

 意外な返答を聞いた花魁は、ステラの顔色を(うかが)った。僕は体を起こしながら服についた埃を軽く払った。

 「TGC所属の炭咲千春と申します。子供は共通テストが終わり次第、施設の方に送る予定です」

 ポケットから身分証明書を出して花魁に見せる。

 「今朝、家の近くで知り合ったノバナです。訳があってノバナの方から僕を追いかけてきた状況です」

 「にわかには信じがたいお話でございますが、とりあえず承知いたしました」

 花魁は手に持っていた小さな草履バッグからハンカチを取り出して唾をつけた。

 「もともと、ノバナという子どもたちは親御さんの香りがお体に染み付いている花童なのでございます。いつ、どちらにおいでになっても必ずお会いしに参りますので、もしかすると、炭咲さんを実の親御さんとしてお慕いしているのかもしれませんね」

 花魁は、汚れたステラの顔をハンカチで拭き、持っていたヘアバンドを使って髪も整えてくれた。たったの五分で、見すぼらしかったステラが別人のように美しく変身した。

 「女は愛らしさが武器でございますからね。常にお美しさを磨いておかないと、大切なときにご自分のお身をお守りできませんわよ」

 ステラにアドバイスを残す花魁だった。

 周りの目に気づくまで、僕は呆然とした表情で二人を眺めていた。

 「共通テスト管理局から、ガーデンズ学園の共通テストを受験する皆さんへお願いと、ご案内を申し上げます。館内での喫煙、客席内でのご飲食、及び同じ受験生への録音、録画、写真撮影はご遠慮くださいますよう、お願い申し上げます。また、試験場の出入りをする際に、携帯電話など音の出る電子機器は、必ず電源をお切りください」

 構内に若い女性の声でアナウンスが流された。それに気づいた人は、僕を含めて、アナウンスを聞きつつ、ポケットからスマホを出した。圏外、と画面の右上に表示されている。いよいよ共通テストが始まるのかと思い、周りの反応を見回した。ほとんどの人が慌てて困ったような表情をして、壊れてもいない携帯を叩き始めた。

 「ただいまより選別テストを十分間、実行させていただきます」

 再びチャイムが鳴り、選別テストという謎のテストが始まった。

 「周りの人や構内の施設に害を与えないよう、ご注意ください」

一瞬の静寂の後、アナウンスが校内に響き渡った。

 「間もなく選別テストが終了されます。構内にいる受験生の皆様は、その場で次の案内まで少々お待ちください」

 その瞬間、僕とステラ以外の全員が一斉に地面に倒れた。まるで見えない力に操られたかのようだった。

 この異常な状況に戸惑いながらも、僕は横たわった人たちの様子を確認した。呼吸は安定している。死んではいない。ただ深い眠りについているだけのようだった。安堵と同時に、なぜ僕とステラだけが無事なのかという疑問が頭をもたげた。

 僕は身の危険を感じてステラを抱き上げた。見渡す限り、半径二百メートル以内に意識のある人はいない。誰も起きない静寂の中で、次のアナウンスを待つしかなかった。

 やがて深い霧が白いベールのように地上を覆い始めた。視界が確保できない状況は、さらに不安を煽った。考えてみれば、テストが始まった時点から監視官の先生やスタッフが現場にいないことも不自然だった。

 ますます怪しい状況の中、僕は警戒しながら校門の方に向かった。もうテストの合否は重要ではない。僕とステラだけが残されたこの状況は、どう考えても異常だった。

 「パパ、あれ」

 ステラが指差した霧の向こうから、人の形をした何かの影が薄く姿を現した。人影を確認した僕は、他にも生存者がいたのだ——そう思った僕たちは、前方に向かって足を運んだ。

 だが一歩踏み出したその時、視界の先に一点の紅い光が尾を引いて街角を駆け抜け、煌めいて消えていった。急に気温が下がったかのように、全身に鳥肌が立った。一点だった光は二点に増え、同時に錆びた刃物がぎしぎしと軋む嫌な音が響いた。

 僕の心臓は、これまで経験したことのないスピードで鼓動しはじめた。幻覚でも夢の中でもない。現実の恐怖を目の当たりにした僕は、その場に凍りついて動けなくなった。

 突然、霧の中から奇妙な鳴き声が聞こえた。それとともに、視野を妨げていた厚い霧が薄くなり、その向こうに人ではない何かの輪郭が浮かび上がった。

 「パパ、あれ、何?」

 ステラの質問に、僕はなにも答えられなかった。麦わらで造られた普通の案山子が、肉眼で視認できるほどの距離にじっと立ったまま、ぽかんと僕の方を見つめていた。ボロボロになった紳士服を着ている。背中には大きな刃物を担いでいる。その姿 を見た瞬間、『庭師』という言葉が頭に浮かんだ。

 庭師?——なぜそんな言葉が浮かんだのだろう。薄れた記憶の奥から、過去の一場面を必死に掴み取ろうとした。
 
 断片的に、誰かの声が聞こえる。

 『未だに陽の炎を抑える力は庭師には…』

 そうだ。誰かが崩れた棚の下から僕を引き出して命を救ってくれた時の記憶だった。

 だが、かちんかちんと時計の針が動く音が記憶にノイズを入れた。案山子の内部からの音だった。その耳障りな音は、心臓の音よりも繰り返し頭の中に響いた。

 霧が消えた園内は暖かかったが、もはや軽やかな空気はなかった。すべてが静止し、辺りは死のような静寂に包まれている。

 僕は深呼吸をして、再び目の前の案山子を見据えた。うつろな両目は(かわ)きで周辺の光を吸い込み、しばし視線を交わしただけで、体が金縛(かなしば)りにあったように動けなくなった。

 立ち尽くしていると、ステラが頬をつねった。僕は何とも言い難い思いを抱えて目を瞑った。重い緊張に満ちた雰囲気に疲れと悪寒が体を走る。

 案山子を刺激するような大きな動きは避けた方がいい。僕はそう判断した。飾り物に近い無生物に対して、人間の常識が通用するとは思えない。

 しかし、相手が動かない限り、僕から先に仕掛けるのは危険すぎる。

 「パパ?」

 しまった。慌ててステラの口を押さえたが、既に案山子はハサミを背負ったまま姿を消していた。

 案山子の次の動きを警戒していた時、一瞬の隙を突いて刃物が僕の首筋に迫った。僕は半ば反射的に左腕で刃を受け流した。首を斬られる寸前で、腕に深い裂傷を負う程度で済んだ。

 僕はステラの目をマフラーで隠し、次の攻撃に備えた。案山子の振り下ろしたハサミを腕で受け止めた時、手応えは感じられなかった。麦わらの体で自由自在に振り回すには、ハサミの重さは軽くない。つまり、相手の動きには物理的な常識が通用しないということだ。

 正面から案山子の攻撃に立ち向かえば、生身の体が無残に切り刻まれるだろう。僕は両腕を前に構えた。

 後方から風を切る音が聞こえ、右側に身を避けた。足音はしないが、鉄の鈍い音で案山子の動きを察知できた。僕は体のバランスを崩した隙を狙い、案山子を蹴り倒した。そのままハサミを両手で掴む。

 一番邪魔になる武器を奪い取る考えだった。しかし、貧弱な麦わらの手に持たれているハサミを奪うことは困難だった。持ち運ぶ力が足りないわけではなく、最初から僕の手には負えない物のように動かなかった。

 僕が動揺している間に、案山子が隙に乗じてハサミの片方で攻め込んだ。重傷は避けたものの、出血を伴う切り傷を負った。今の状態で長期戦になれば、生身の僕に勝ち目はない。

 その時、腹部の奥に錆びたハサミが深く突き刺さった。何を考える間もなく、内臓を貫く激痛と共に、口から血が溢れ出た。痛みが脳を支配し、意識が遠のいていく。

 「おい、くそバケモノ。ようやく捕まえたぞ」

 両腕の包帯から黒い煙が静かに這い出し、人の肉が焼ける臭いが霧の中を取り囲んだ。

 血管を駆け巡る熱が、溶けた鉛のように体の奥深くまで染み渡る。やがて、既に負っている傷口が一斉に疼き始めた。火傷の痛みが、神経を通じて脳に鋭い信号を送り続ける。

 やがて奇跡が起こった。炭化してしまった腕の奥深くから、生命の赤い炎が宿る。その炎は希望の光のように見えた。新しい細胞が次々と生まれ、破壊された組織を修復しようと懸命に働いた。

 だが、その希望は束の間だった。同じ赤い炎が、今度は破壊の牙を剥く。生まれたばかりの細胞を、容赦なく燃やし尽くしていく。まるで左手が右手を食らうように、回復した端から破壊されていく。

 これは救済ではない。永遠の拷問(ごうもん)だった。

 外部からの傷に反応して、この地獄のような破壊と再生が僕の意思とは無関係に体内で繰り返される。止めることも、逃れることもできない。これが、一人で生き残った僕のトゲであり、呪いだった。

 一時的に体を動かせるようになっても、それは死刑囚に与えられた最後の散歩のようなものだ。炭化した腕の周りにある正常な細胞は、絶え間ない炎症に晒され、やがて焼かれた跡を残して壊死していく運命から逃れられない。

結局、回復の速度は破壊の速度に追いつかない。この能力は僕を生かし続けるが、決して救ってはくれない。永遠に死の淵で苦しみ続けることを強いられた、生ける屍として。

 もう後がない。これが最後のチャンスだった。僕は案山子の顔面を片手で掴み、麦わらが破れるまで力を込めた。

 「死ねえええ!」

 炭化した手のひらから爆発を起こし、麦わらに火の粉を放った。焼かれた顔は灰になった。有効なダメージを与えたと思うものの、案山子が僕の腹に刺さったハサミを抜き取った。

 大量の血が臓器の一部と共に腹から噴き出した。炭化した腕の燃焼も加速された。もはや痛みを感じる傷のレベルではなくなっている。しかし、これでバケモノを倒すための条件は満たされた。

 案山子は不気味な剣舞を踊るような動きで、ハサミを僕の首に向けて振り回した。首を狙って来るハサミを炭化した腕で弾いた後、神速で相手の下に潜り込み、燃え上がる拳で腹を突き抜いた。

 火は抑えようもなく麦わらの体に広がった。僕は息を切らしながら、一つ一つの(わら)が黒い灰となって風に消えて行く場面を見届けた。

 僕は息を切らしながら、一つ一つの藁が黒い灰となって風に消えて行く場面を見届けた。地面に落ちた僕の肉片は黒い燃えかすになっている。

 「もう大丈夫だ。驚かせてごめんね」

 周りに散らばった案山子の残骸を片付けた後、身を隠していたステラに優しく声をかけた。

 だが、まだ炭化した腕の奥から火の息が噴き出る状態では、ステラに危険が及ぶ恐れがある。僕は遠く離れた場所から、彼女の様子を見守った。

 「パパ?」

 「違う。まだ人を間違えてどうする。僕は一時的に君の保護役に徹するだけで父親ではない」

 「うう、パパ——!」

 ぐずつき、泣き出したステラは僕の懐に飛び込んだ。小さな体でも、父親を頼りにしてくれているようだ。僕は両腕を上げ、ステラが落ち着くまでしばらく待った。そして、早く自分の血で汚れた服を着替えたいと思った。

 「危険です!後ろに気をつけてください!」

 オペレーターの切迫した声が響いた。何かの勘違いだろうと思うものの、僕は不安な胸騒ぎを覚えた。突然、止まっていた時計の針がまた動き出す音が耳元に聞こえてくるような気がした。

 「アブナ…い、キヲツケ…て」

 振り向くまでもなく、後ろにある不吉な声の正体について薄々勘づいた。

 「パパ、あれ、ある」

 アンティークな懐中時計を中心に、一本一本の麦わらが絡み合い、少しずつ人の形を作り上げた。蛇が地を這う音が人の精神を悶々とさせる。

 僕はステラから離れて懐中時計に手を伸ばした。壊すつもりだった。しかし、予想外のところで邪魔が入り、動きを封じられた。相手は、気を失った受験生の一人、いや二人以上が、上半身だけ動かして僕の炭化した腕を掴んだ。

 悲鳴も唸りも出さない人々は、火傷の痛みも我慢してまで麦わらの本体には行かせなかった。腕だけでなく、足と腰も動きが取れない状態になった。

 この状況に違和感を覚えた。僕は目を凝らして人々の体にくっ付いた「何か」を掴み取った。蜘蛛の糸に似ている細長い麦わらの織糸が、人の身体を糸操り人形として操作している。案山子の能力か、それとも自然の成り行きか。一体僕は何者と戦っているのか、混乱を感じる。

 「キヲツケ…て——おニイチャン」

 「てめぇの口で言うセリフではないだろう」

 程なくして、もやもやとする記憶の隅から、あの夜の記憶が蘇ってきた。僕が命乞いで掴んだ足首は、七歳の子供の力では手に余るほど大きな存在だった。切ない嘆きは笑い事として扱われ、小さな手の甲に炎で熱した杖先で焦がされる。その記憶が僕の血を再び沸かしている。

 「まさか、てめぇも七年前に、あの場にいたのか?」

 父親が見捨てた僕の家族が火災で亡くなって以来、僕は今日に至るまで真犯人を探す毎日を過ごした。孤軍奮闘の覚悟でTGCでバイトしながら、七年前の放火事件の情報を集めた。そして今、その手掛かりを手に入れたことで感情が高ぶり、絶句してしまった。

 喜びとも恐れともつかぬ感情に腕が震え、脳内ではエンドルフィンが滝のごとく量に分泌されている。

 僕は思い切り舌を噛んだ。思ったより口の中から大量の血が出た。出血に続いて、傷口から勝手に再生と回復が始まった。炭化した腕の火力は段々高まり、腕を掴んだ人々が次々と目を覚まして、焼け爛れた肉体の苦痛で悲鳴を上げた。これで邪魔者は消えた。

 「バケモノだ。た、助けて」

 僕は我慢できないほど嬉しくて、満面の笑みを浮かべた。それを隣で目撃したある一人の受験生が僕を恐れ嫌がり、案山子がいるところまで這いずった。

 「私を、助けてください」

 そう言った後、生まれ変わる途中の案山子に体を丸ごと飲み込まれた。

 一人が飲み込まれてから、何人かの受験生が麦わらの中に吸い込まれた。案山子が人を飲み込むたびに、麦わらの形はより一層人間らしい姿になった。顔は男性のもの、身体は女性のものを借りている。そして残った最後の男の子を口の中に放り込み、太い舌で唇を舐め回した。

 「おはようございます。自分、あの方の花園を守護する案山子と申します。樹の一族であるあなた様にご挨拶を申し上げます」

 知能を持った案山子が人のように自己紹介の言葉を述べる。中途半端な人間の声で自分を語る格好が不自然で不愉快だった。

 「早速ご提案したいことがありますが、お二人様をあの方の花園から排除、いいえ、収穫してもよろしいでしょうか。できれば今すぐお願いしたいです」

 「図々しい顔で人を排除すると言い放つバケモノの話を聞く人はいないぞ。それより、てめぇは何者だ。なぜ、あの夜の華栄が話した言葉を知っている」

 「自分が、でございますか?とんでもございません」

 案山子が顔を横に傾けてこう言った。

 「まず一つ、案山子である自分は一人が全てであり、全てが一人であります。二つ、あれは庭師様があの方から授けられた聖火で、あなた様のような樹の一族をあの方の花園から浄化した聖なる行為です。三つ、あの方から盗まれた樹の一族は、あなた様が二人目です。よって、順次に収穫させていただきます」

 僕は黙って話を聞いた後、口を開いた。

 「てめぇは、バベルの所属なのか?それともどこかの研究所で作られた実験体なのか?」

 「自分は汚れないあの方の庭に属する存在でありながら、忠実な僕であります。どうか今後の収穫祭にご協力をお願いします」

 「ああ、やはりバベルだったのか。それで十分だ」

 僕は最後に大きく拍手を叩いて火の粉を起こした。

 「とりあえず、てめぇもあの夜僕が感じたように、藁にもすがる気持ちを味わわせてあげる」

 炭化した腕から響く清い鉄の音が校内に響き渡り、拍手を打った手のひらから火花が散った。身体中の細胞が焼かれる痛覚が神経に伝わり、血流が一瞬で脳まで駆け巡る。

 僕は手で前髪を持ち上げて、軽く後ろに流した。前方から案山子が駆け込んでいる。僕から相当離れていない場所に錆びたハサミが落とされている。僕はすかさずハサミを拾い上げて、近寄る案山子を斬るつもりで大きく横に振り回した。

 案山子は地面を軽く蹴り、華麗な足さばきでハサミの攻撃範囲外に避けた。

 「失礼、これは取り返していただきます」

 空中から慣れた手付きでハサミのハンドルに指を入れ、僕からハサミを抜き取って反対側に着地した。相手の動きに体が反応したけど、捕まえることはできなかった。

 体勢を立て直した案山子は、ハサミの刃を開いて二刀流として構えた。そして、案山子が僕から目を離して集中していないことに気づき、また違和感を覚えた。ハサミの刃は僕の方に向いているが、もう片方の刃の向きは定まっていない。

 注意喚起の目的とは言え、獣に近い案山子が人間の観点で動くはずがなかった。何か大事なことを忘れたような嫌な予感がする。

 「樹の一族を二人も同時に収穫できる日は珍しいです」

 ハサミが案山子の手を離れ、素早くステラの方へ向かった。高ぶった胸が一瞬でぎくっとした。今までずっと一人だった人生の中で、大切な人が敵の標的になるとは思わなかった。

 「ステラ、逃げろ!」

 僕の叫びにステラは笑顔で返事した。もう手遅れだった。間もなくあの小さい心臓に錆びた刃物が刺され、僕は絶望に落ちてしまう。あの夜と同じ恐怖を感じるだろうと思いながら、息を切らしてステラの方に走った。

 「パパ、逃げる?」

 片方の刃物が何者かによって弾かれ、空中で大きく回転した後、先の部分から地面に突き刺さった。皆が眠りに落ちている中で、他にも意識を取り戻した人がいた。僕は感謝を込めて手を振った。

 それを見たステラは元気そうにこちらに向かって手を振り返してくれた。

 「愛らしいお嬢さんに物騒なものをちらつかせるあなた様は、父親としていかがなものでしょうか」

 ステラの命を助けてくれた人は、同じ受験生の花魁だった。着物の裾が太ももまで大きく裂けていること以外は、それまでと変わらず元気そうに立っている。

 「すみません、おかげさまで助かりました。ありがとうございます」

 「まともにお勝ちになれるお相手でもないのに、なぜ喧嘩をお売りになっていらっしゃいますの?まずはお嬢さんのご安全をお考えくださいませ」

 「いや、まさか先に子供が狙われるとは思いませんでした。しかも、この子は僕とは無関係な他人です」

 「この愚か者が!お言葉の意図をお考えになってお話しなさいませ。敵からすれば、一番弱いお方から狙うのが道理でございましょう」

 言われてみれば筋が通る理屈だった。

 「何をぼんやりしていらっしゃいますの?さっさとお嬢さんのご安全を最優先になさいませ!」

 花魁に叱られる際も、僕の目は案山子を追っていた。これで相手の動きを予測できないことはよく理解した。遠距離でステラを狙おうとしても、花魁がそばにいる限り安全だ。

 地面に刺さったハサミの片方は、案山子より僕の方が近い距離にあった。案山子の心臓部にある懐中時計を潰すまでは時間が必要だった。案山子が油断するタイミングで火力を最大に上げた状態で案山子の体を燃やし尽くす。

 頭の中で案山子の動きをシミュレーションしてみた。目で見てから反応していては遅い。相手の動きを予想して一撃を与えないと、一生案山子にやられっぱなしになることは確かだ。

 僕は案山子が地面に刺さったハサミに目を向けた時を狙って、一歩目の踏み込みから全速で駆け出した。倒れた人々を飛び越え、案山子との距離を一息に詰める。そして、炎を込めた炭化した腕を相手の腹部に叩き込む。ここまでが僕が考えた作戦だった。

 「あなた様であれば、そう来ると思いました」

 電光石火の速さで、いつの間にか案山子の手元には二つの刃物が一つになり、僕の首を締め付ける寸前まで近寄っていた。さっきみたいに、ハサミの刃が合わさる部分に腕を入れようとしても、先に首が刃に触れてしまう。一方、速度がつき始めた足を止めても、加速した体はそのまま前へ進むだろう。

 「悪くなかった」

 僕の首はあっさりと錆びついたハサミの刃を受け入れ、綺麗に斬られて体から分離された。

 『君は生きろ。陽の計画に君の死はまだ先のことである』

 七年前の記憶が小さい点になるまで切り刻まれ、意識の底まで深く沈んだ亡霊の呪いを呼び寄せる。天地が逆転する間にモザイクの欠片が集まった走馬灯が僕の脳裏で駆け巡る。

 いよいよ幕が降りる時間だ。

 ステラには本当に悪いことをした。生への未練なのか、あるいは虚しい死に対する後悔なのかは知らない。いずれにしても、僕には最後の祈りすら許されていないだろう。

 万が一の奇跡が起きて、もう一度やり直せるチャンスが与えられる場合は、一生懸命ステラの親を探してあげよう。

 そんな情けない後悔を呟きつつ、僕は闇に落ちた。

第3話 新吉原と隠花

 何もない空間に僕一人が立っている。漆黒の天井に不慣れな光が漂い、暗い色の壁が周りの灯りを吸い込んだ部屋。その代わりのように、扉の隙間を縁取る赤い燐光(りんこう)が部屋の陰に混じって、ほのかに輝きながら波静かに揺蕩(たゆと)っている。

 朦朧とした意識の中で、ふいに目の前の景色により黒い影が光を遮った。扉の前で執拗に部屋の中に入ろうとして、やがて断念したように姿を潜めた。

 心の中で生じる不安にドアノブを握り締めた途端、手のひらが焼かれる痛みを感じ、すぐ手を放した。肌は黒く硬張り、だんだんと血の気が引いていく。かすかな不安が心をよぎった。

 しばらくして火の面影が立ち上がり、絶えず部屋の中に消えない懸念を放り込む。蟻のように心と体を虫食みながら、由来も知らない脅威が胸を揺れ動かした。

 憂いに沈んだ心は、いても立ってもいられぬような感情で満たされ、心臓の鼓動は高まっていく。自らの頭脳の延長上に新しい幻覚を築き、そこに偽りの息を吹き込んだ。

 暗澹(あんたん)たる気持ちと共に差し迫った危険を感じる。感情が沸き立つ際に、目の前の扉を潰す勢いで体をぶつけた。だが、確かにそこにあった扉は、僕の体が触れた途端に石の壁へと変貌し、同時に背後から軋む音が聞こえた。振り返ると、さっきまで何もなかった場所に、錆に侵された白いドアが音もなく現れていた。僕は後ろに現れたドアまで全力で走り、消える前にノブを回してドアを開けた。

 ドアの向こうの世界は、どんよりした空模様の下に雪が積もった荒野が広がっていた。厚い雪雲が群れを組んで移動する羊のように次々と空を覆い、僕が開けたドア以外に他の足跡は見えなかった。雲の底の平面が白く染まった荒野と平行して遠ざかり、果てしなく続く地平線との間に、一条の鉛色(なまりいろ)の空をくっきりと残している。

 僕は何気なくドアの向こうにある世界に足を踏み入れ、当てもなく歩き回った。
不自然だ──足元から違和感を感じ、目線を向けると、汚れた素足が周りの雪を次第に濃い黒に染めていた。

 慌ててドアまで戻ろうとした。しかし、振り返るたびに足跡の黒い汚れは広がり続けている。最初は細い一本の線だったものが、時間が経つにつれて幅を増し、やがて隣り合う足跡同士が繋がり始めた。黒い染みは雪原を侵食するように広がり、ついには一面の黒い海となって、地面の白さを完全に飲み込んでしまった。

 「────」

 何かしらの音が、空ろな荒野に渡って聞こえた。哀れな小羊が親羊を呼びかけているようだった。僕は二回目の泣き声を聞いてから、それが人の赤ん坊の泣き声だと気付いた。赤ん坊の命が危ない──そう判断した僕の足は、頭の中で躊躇(ちゅうちょ)する暇もなく、必死に声が聞こえる場所まで地面を踏み荒らした。

 広い空が地平線に沈むように近づいた頃、半径百メートルほどの小さな窪地(くぼち)が現れた。泣き声は穴の中心から聞こえてくる。しかし、窪地の底は雪に覆われたせいで、下手に動くと地上に帰ってこれない危険があった。

 案の定、僕が躊躇(ためら)していたとき、また赤ん坊が声を高めて泣き始めた。今はとにかく赤ん坊を救い出すことが最優先だ──そう思い、窪地の内側がゆるやかな長い傾斜であることを確認し、下まで滑り降りた。

 底の地面は上と違って、雪の下が柔らかい物で埋まっていた。足を一歩踏み出すたびに膝が嵌まり、あたかも沼の中を歩むような錯覚を生じさせた。

 「アァ──」

 赤ん坊は窪地の中心部に近くなるほど、金切り声と呻き声の混乱した音で僕の耳を切り裂き、段々ひどく泣き出した。耳を防いでも脳みそまで入ってくる声は人を狂わせる。いくらそうだとしても、赤ん坊を一人にすることはできなかった。

 ようやく泣き声の元まで辿り着いたと思った途端、一線を超えて周りが静かに沈んだ。僕はあたふたとその辺を駆け回って赤ん坊の跡を探した。でも、赤ん坊はどこからも見つけることはできなかった。まさかここまで探って何も出てこないとは思わなかった。

 再び赤ん坊の泣き声が窪地の真ん中から聞こえた。今度は小さな声で泣いている。もしかすると僕が見逃したかもしれない──そう思いつつ、足元を素手で掘り出した。

 地面を掘り出して、僕は奇妙な既視感(きしかん)に襲われた。今まで散々踏み付けていた物は、ただの地面ではなく、数え切れない人形のパーツだったのである。ここでまた若干の違和感を覚え始めた。そして自らの手で自分の心臓に触れ、疲れない鼓動の音を確かめた。

 今の自分は死んでいるのか?──そんな疑問を抱いた僕に、足下から幼い女の子が顔を出して声をかけてきた。

 「パパ」

 眼球を失くしたその顔は、感情すら近寄れない清い笑顔をして、禍々しく口だけで「パパ」と呼び出した。危険を感じた時には既に壊れた人形たちに囲まれ、壊れた手で脚を掴まれていた。急いでその場から離れようと体を動かせば動かすほど、僕の体は下へ、下へ、下へと徐々に陥り、周りの人形たちと一緒に地下へ葬られてゆく。

 「パパ」

 その虚空のどこかで、僕をいらだたせるような呼び声が微かに耳に刺さった。それを皮切りに、捨てられたものどもがそれぞれの口で哭泣(こっきゅう)し、(おぼろ)げな僕の記憶にパパの言葉が刻まれるまで呼びかけ続けた。

 意識が遠のく前に見上げた空は、また飽きもせず雪を地上に散らした。雪はうずたかく積もり始め、僕は朦朧とした眼で、光が点になるまでじっとそれを見つめた。

 「お父さま、私は、ここにいます」

 誰かが自暴自棄になった僕を人形の墓場から引き出した。顔も知らないその娘は、潤んだ声で僕を「お父さま」と呼んでくれた。しかし、僕の心は安堵よりも困惑に支配されていた。なぜこの少女が僕を知っているのか、なぜ「お父さま」と呼ぶのか。涙ぐんだ少女の眼には複雑な感情が隠されているように見える。僕は恐る恐る手を伸ばして涙を拭いてあげた。

 「君は……、誰だ?」

 僕が女の子の名前を聞こうとした寸前に、目が覚めた。

 意識はまだ夢の中に取り残され、現実と非現実が混ざり合っている感じがする。僕は闇に目が慣れるまで時間を待ちながら、手探りで周囲を確認した。指先から、しっとりと畳をきちんと敷きつめた平坦な部屋の床が伝わってくる。どうやら僕は荒野に積もった雪の中でも、受験生で溢れた道上でもなく、初めての場所に誰かによって運ばれたようだ。

 隣に誰かがいる──そう思った時、小さな寝言を聞き、その辺りは避けてゆっくりと壁に手が当たるまで這いずった。しばらく行くと、ふいに柔らかな人肌が手のひらに触れ、無意識的にそれを二回、揉み続けた。

 「…嫌だ、まだやりたいの?もう今日は無理だってば」

 「いや、あの、その」

 思わぬハプニングに舌を噛んでしまった。僕は頭の中が真っ白になって、今の状況にどう謝罪すればいいか、考えてもさっぱり分からなくなった。とにかく、このままでは誤解を招きそうだから、相手の胸から手を離して身体を後ろに引いた。

 「逃げても今はもう遅いの、もう起きちゃったから」

 お互い何も見えない闇の中で、相手は僕の顔を両手で捕まえて懐に引き寄せた。暖かい体温が伝わってくると共に、僕の掌は少しずつ汗ばみ、鼻先に触れ合う人肌の香りが全身に宿って僕の感覚をくすぐっている。

 流石にこれ以上は後になって気まずい状況になりそうだ──そう思って離れようとしても、相手の太股に挟まれて身体に力が入らなかった。動けば動くほど二人の間には荒い息づかいが響き、首を抱かれてハグをされてからは顔の距離もどんどん近くなった。

 危険だ──そう思った僕は必死に首に力を入れて、相手の顔から離れようと耐え続けた。

 「パパ、起きた?」

 部屋の外からステラの元気な声が聞こえた。子供が自由に歩き回れる場所は、僕が持っている情報の中ではTGCの施設しかない。とはいえ、TGCが運営する施設は必ず男女に分けて部屋を割り当てている。しかも、窓がない部屋は聞いたことがない。

 「あらら、もう降参?」

 僕が少し気を取られた隙に、体がひっくり返され、僕と彼女の位置が逆転していた。そのまま僕の上に馬乗りになった彼女は、暗闇の中でニヤリと不気味な笑みを浮かべた。抵抗しようとしても膝で両腕を押さえられて身動きが取れない。顔が近づくたびに髪からシャンプーの香りが漂い、この異常な状況との落差に僕は混乱した。

 「あの、人違いだと思います」

 僕はなるべく落ち着いた声で相手に話しかけた。

 それを聞いた彼女が驚いて悲鳴を上げた。「あんた、誰?」

 「炭咲千春と言います。まだ十四歳です」

 「聞いていないことは教えなくてもいい。それより、姉さんたち!ここに変態侵入者がいるわよ。はやくおいで」

 できるだけ会話で今の状況を乗り越えたいと思った僕の希望は無残に却下された。部屋の引き戸が開かれ、五、六人くらいの子供たちが中に入った。皆、小学生と変わらない身体つきをしている。中でも僕が誤って触れてしまった女の子は、気が強くて同じ年頃に見えた。

 一応、言い訳は通じないと判断して、早速土下座をした。

 「大変失礼いたしました」

 「よろしいの、よろしいの。お部屋に一緒にお通しした私どもにも責がございますから」

 そう言われても、僕を軽蔑する視線はまだ消えていない。そんな中、ステラはさっきから僕の隣に来て、理由は分からないが一緒に土下座をしている。

 「ご紹介させていただきますわ。こちらは、今回の共通テストでお顔を合わせた若い方とお嬢さん。お名前は、炭咲さんとおっしゃいましたわね?お嬢さんはステラちゃんとお呼びするそうですから、どうぞ仲良くしてくださいまし」

 返答の代わりに相手から軽く舌打ちされた。孤高(ここう)を保つ女の怒りで部屋の中に(しも)が降りそうだ。あの状態だと、容易く許されそうにない。

 「それから、炭咲さん?ようこそ、新吉原へいらっしゃいまし。ご挨拶代わりに、これをお納めくださいな」

 小学生ほどの年頃に見える女の子からタオルと着替えの浴衣を渡された僕は、呆然とした顔で目の前にいる女の子たちを眺めた。それぞれ異なる顔立ちで、国籍も身長も違う女の子たちに囲まれた状況は慣れない光景だった。どうして自分がここにいるかは後で聞くことにして、先に部屋の中に視線を向けた。

 四十畳の部屋にクローゼットと幾つかの鏡台が壁に並んで置いてあった。化粧品は同じ商品を使っているようだ。それ以外は特に何もない部屋で、強いて言えば窓がない部分が不思議だった。大人がいない部屋で子供同士で生活している環境は少し変わっているとも言えるだろう。

 「パパ、パパ。もう大丈夫?」

 ステラが元気そうな声で僕の懐を抱きしめた。さっきの女と同じ香りがステラの髪から漂う。僕は時計を見るために周りを振り向いた。

 「何かお探しでも?」

 「いや、何でもないです」──時計がない部屋にまた驚く僕だった。

 茶髪の女の子が軽く手を叩いた。「よろしいけれど。奈緒美ちゃん、炭咲さんをお風呂場までご案内してくれる?お姉さんが戻るまでにお食事の支度をしますから、あなたにもお手伝いしてもらえると嬉しい」

 「何で(うち)が?」と聞きたい顔で奈緒美は僕を睨みつけた。

 「先ほどの一件で、お互いに誤解を解く必要があるのではなくて?」

 「別にそれは、あの変態が勝手にナオミの──」

 「必要が、あるのではなくて?」

 微妙に語気を強めて言う相手に、奈緒美が渋々大人しく席から立った。顔だけ見ると、僕と関わることを明らかに嫌がっている。僕も一瞬気まずそうな表情をしたが、相手と目が合って笑顔に切り替えた。

 先日、案山子との戦いで首を斬られた後の記憶がないことを含めて、まだ新吉原について把握し切れていない情報が多くあった。苦手でも、今はここの住民と感情的に対立するより、優先的に情報収集を考えて、友好的な関係を築く必要がある。

 「ステラもパパと行く!」

 かなり力が入った自己表現だ。僕が寝ている間にお姉さんたちにひらがなから教えてもらったようで、言葉の使い方が前より豊かになっている。あるいは、元々優れた頭脳を持って生まれた子供だったのかもしれない。

 僕はステラの頭を撫でながら、「ステラは必要ない」と言った。

 「パパ、ステラはいらない?パパ、ステラのこと嫌い?」

 子供を相手にして言葉が足りなかった──浅はかだった自分の行動を後悔してももう遅かった。すでにステラは、僕の話に心が痛むような顔でしくしく泣き始めている。

 「すまん、すまん。その意味じゃない。ええと、僕と一緒に行ってもステラはやることがないから、部屋に残った方がいい、という意味だった」

 ついでに大事なことを言い忘れた。「ステラのことは好きだから泣かないで」

 別に最後の話は、意味を持って話したわけではない。手前で待っている奈緒美から口の形で『最低』だと言われる前に伝えようと、頭の中で考えていたセリフだった。

 「ステラもパパが好き。ステラはパパと一緒にいたい。だから、一緒に行く」

 結局、ステラを含めて三人で部屋を出た。僕が引き戸を閉じた後から、何故か部屋の中が騒がしくなった。そして、隣にいた奈緒美がため息をついた。何はともあれ、僕は奈緒美の後について広い廊下を歩いた。

 「パパ、ステラのこと見てね」

 余程一晩深く熟睡していたのか、ステラが元気を取り戻した。窓も人も、何もない廊下の上を走り回る姿が、まるで普通の子供のようだった。

 ノバナになった子供は大体、現実を否定して鬱に落ちる。僕も過去にTGCの施設に入った初日はトイレに閉じこもって、食事もせずに三日を過ごした。

 施設の生活はたいして一般家庭と変わりはなかった。優しい先生たちと健康な食事は子供に良い環境を提供してくれた。しかしながら、子供たちの成長は小学校五年生で止まったまま、普通の思春期を迎える子供ノバナはいなかった。

 そう、ちょうど部屋にいた女の子たちも、僕が知るノバナと同じ雰囲気がする。

 「子供まで連れて新吉原には何しに来たの?」

 先に奈緒美から質問が入った。

 「特に理由はありません」

 僕は本当のことを話した。「ガーデンズ学園で気を失ってから記憶がないです。目を覚ました時も、ここが新吉原だと知りませんでした」

 僕の記憶は、ガーデンズ学園で案山子と争って、最後は首を斬られた部分で止まっている。首が元に戻った理由も、新吉原に入った経緯も、僕には分からないことだった。

 「あら、そう?間違いなく、お姉さんが外で作った新しい彼氏だと思った」
奈緒美が残念そうにため息をついた。「なあんだ。つまらない男だね。新吉原の花魁と二人きりでいる間に何もしなかったの?私にやったように積極的にすればよかったのに」

 「本当に申し訳ございませんでした。あれは事故だと思ってください」

 「まあ、別に謝らなくてもいいよ」

 と言って次の話に移り変わった。

 「でも、普通に考えても変だと思わない?受験生しかいない共通テストの当日に、テロを起こして何の得になるかしら。今回の騒ぎで共通テストは秋まで延期になったし、結局その場にいた学生がそのまま被害を受けたからね」

 「テロって、何の話ですか?」

 自分が知らない話に、物事の詳細を尋ねた。

 「今回の件は、七年前と同じく案山子の仕業ではなかったのですか?」

 「七年前に何かあったの?それと、畑もいない都内で案山子が何であるの?」

 奈緒美は共通テストの当日に起きたテロの記事が投稿されているサイトを見せてくれた。

 「ほら、ここにちゃんと『東京都内でテロ事件が発生』と書いているでしょう。私はお姉さんの話を聞いてネット上の記事を調べた。その他は知らない」

 奈緒美の話は嘘ではなかった。本当にテロの話ばかりがメディアに記事化されている。どこにも案山子の正体やバベルに関する記事は、元々起きていない事件のように、検索にも引っかからなかった。僕はあり得る可能性を広げるために、奈緒美に他のことを訊いてみた。

 「テロを起こした真犯人について、花魁さんから何か聞いていませんか?」

 奈緒美は僕の質問にすぐには答えなかった。少し間を置いてから、鋭い視線を向ける。

 「それを聞いて、あなたに何ができるの?まさか復讐でもするつもり?」

 「いや、それは……」

 「あなたがここに来る前の人生に興味はないし、知りたくもない。でも、姉さんと一度関わった以上、これからの人生で変な真似はさせないわ。ステラちゃんも、うちにとって大事な存在になったから、あなたにはなるべく安全な生き方を選んでほしい。うちが何を言いたいか分かる?」

 僕は黙って頷き、ステラの手をそっと握った。奈緒美に協力を求めることはもう難しそうだ。仕方がない。また一人で今までの出来事を頭の中で整理することにした。

 バベルとガーデンズ学園が裏で結託(けったく)している。花魁は案山子を僕と一緒に目撃したのに、なぜか身内の人にまで嘘をついている。案山子が起こした殺戮(さつりく)の現場は、謎のテロリストの仕業に変わっている。一体どこから手をつければいいのか分からず、解決すべき課題が増えて軽い頭痛を感じた。

 それでも、ステラが無事でよかった。そう思いながら歩いていると、僕の足が温泉の前に着いた。

 入口には赤い暖簾(のれん)だけが掛けられている。

 「それじゃ、うちは帰るから、終わったら中にある内線を使って部屋に電話して。多分、誰か一人は迎えに来ると思うわ」

 奈緒美は手を上げて言った。

 「じゃあね」

 「ちょっ、ちょっと待ってください。ステラと一緒に女湯には入れないです。ここに男湯はないですか?」

 慌てた僕はまた舌を噛んだ。

 「はあ?あのね、うちらの中に男子はいないよ?ここはうちらのプライベートスペースだから、男性用の施設はない。今は誰も風呂場を使わないから、安心してさっさと入りなさい」

 奈緒美は不愉快そうな顔つきで僕を睨んだ。

 僕はその顔に何とも言えなかった。

 ステラが先に風呂場の扉を開けて中に入った後、僕は念のため外で丁寧にノックをし、「お邪魔します」と声をかけてから引き戸を開けた。

 中に入って目にした風呂場は、思ったより快適で広かった。洗面台には数多くのスキンケア用品と、名前も知らない道具が並んでいる。あまり詳しく見ても失礼だから、足を他の場所に向けた。

 脱衣場の床を歩いて適当にロッカーの前に立った僕は、ステラが先に浴衣を脱いで風呂に入るまで待った。いくらステラが僕をパパだと思い込んでも、僕は赤の他人である。問題になりそうな部分は事前に避けた方が賢明だった。

 しばらく時間が経つと、ステラの笑い声が浴場から響いてきた。僕は静かに散らかされたステラの浴衣を拾い、扉から一番近いロッカーに服を入れておいた。そして、いよいよ僕も服を脱いでお風呂に入る準備をした。

「これ、誰の服だろう」

 今更になって、着ている服が私物ではないことに気づき、ショックで体が固まった。普通に考えて、当日着た服は案山子との戦いでボロボロになったはずだ。

 忘れよう。僕はいつものように記憶を忘却の彼方に追いやり、バスタオルを腰に巻いて風呂場の扉を開いた。

 風呂場も脱衣場と同じくらいの広さで作られていた。特に熱い湯とぬるい湯があり、アヒルの口から温泉のお湯が流れ、熱さと特有の匂いが肌と鼻に伝わってきた。先に入ったステラは水風呂の中で、一人で水遊びを楽しんでいる。

 それを見届けながら、僕は蒸気があふれるお湯に入る前に、簡単にシャワーを浴びることにした。体のあちこちに刻まれた傷跡には、時を経て黒紅色に変わった血の痕が、まるで呪いの印のように肌に焼きついていた。痛みはなくても汚い痕跡だから、石鹸の泡で跡を残さず水に洗い流した。

 顔を洗って鏡に映った自分の顔を眺めた。首が斬られる感触は確かにあった。いわゆる「確定死亡」の状態に一度落ちた僕にとって、目の前の現実は違和感に満ちている。本物の僕は死んで、鏡の中にいる男が体を乗っ取った可能性もある。

 自分の顔をあらゆる方向から確かめる中で、首の辺りに黒い一線を見つけた。水垢で見にくい鏡を水で洗い流して、黒い部分に目を凝らした。傷跡は首輪のように後ろまで繋がっている。試しに石鹸で洗っても傷は取れなかった。

「なるほど、そういうことか」

 僕は冷たい水で泡を流して、アヒル天国と名付けられた湯船に足を入れた。ついでに隣に置いてある湯桶を顔にかぶせ、体を寝かせたまま目を閉じた。

 首にある瘢痕(はんこん)は、一見して木炭化の症状に見える。七年前に火傷を負った時も、両腕に同じ跡があった。詳しい理由は知らないが、細胞の再生力が体の中で木炭化を活性化させるようだ。症状自体は、言わば白血病(はっけつびょう)に似ている。ただし、僕の場合は手術でも治らない期限付きの人生で、木炭化が首まで広がったせいで、その期限も昨日よりも短くなっている状態だ。

 「期限が短くなっただけで、やることは同じだ」

 独り言をつぶやいて、緊張した心を温泉の湯に委ねた。

 まだ体を動かせるうちに、ステラの親に連絡してみなければならない。これから先の困難を考えると、手はいくらあっても足りない気がする。テロの影響で共通テストが延期になり、しばらくは予定が立たない今、余った時間をステラのために使うことは大した問題にはならない。急ぐ必要はない。僕の体が壊れるまで、まだ時間はあるはずだ。

 風呂に入ってからも、なかなか落ち着かず、いろいろな雑念が頭の中を去来する間に、誰かの気配を感じた。多分、ステラだろうと僕は単純に思った。

 「ステラには少し熱いから、体を深くまで浸からない方がいいよ」

 「はい、パパ。気をつけるわ」

 穏やかな口調で返事が返ってきた。

 ステラが年上の人に敬語を使える子だったのか。一瞬、変な違和感を感じた。特に僕にだけは、他の人よりも親しげに近寄ろうとする甘えん坊が、いきなり敬語で僕との間に距離を取ろうとする行為は辻褄が合わない。遊んでもらった吉原の女の子たちから敬語を教えてもらった可能性はもちろんある。が、その可能性はゼロに近い。

 「えへへ、パパみーつけた!パパも、かくれんぼする?」

 かぶっていた湯桶が誰かに取られ、明るいステラが僕に顔を押し付けた。急な出来事に驚いた僕は、反射的に体を起こした。

「いたいよぉぉぉ!パパのばか〜!」

 額同士がぶつかり、床に尻もちをついたステラが涙を流した。慌ててステラを慰めようと体を起こすと、めまいがしてそのまま意識が飛んだ。温かいお湯の中で体が一度深く沈み、浴槽のタイルが背中に当たった。

 気を取り戻した時は、風呂場の外で寝ていた。時間はそれほど経っていない感覚だった。そして、花魁と目が合った。

 「す、すみません。お世話になりました」

 正確には、太ももを枕として貸してくれた花魁と向き合った。彼女は目を閉じていた。さすがに迷惑をかけたと思い、その場で土下座をして謝った。花魁は何も反応してくれなかった。一人で言い訳をぶつぶつ述べていると、これは誰のために行っている謝罪なのかと疑問が湧き始めた頃、後ろでくすくすと笑い声が聞こえた。

 「炭咲、裸で何してるの?」

 声の正体は赤髪の少女だった。彼女はウーロン茶に氷を入れたグラスを三つ、トレーに載せて戻ってきた。僕は恥ずかしそうに頬が少女の髪色より赤くなり、そそくさと床に落ちたタオルで下半身を隠して座り直した。

 初対面の人に恥ずかしいものを見せてしまい、顔も上げられなかった。挨拶をするタイミングを逃し、床だけを見つめて、何を言うべきか考え込んでいた。

 「恥ずかしがることないのよ。あたしは悪くないと思うけれど。そこら辺の男なんかより、ずっと頼もしいお体だったもの。だから炭咲、もっと自分に自信を持ちなさいよ」

 未だに笑みを浮かべて褒め続ける彼女である。

 「誤解です。これには事情がありまして、奈緒美さんがここに男湯はないから、女湯に入ってもいいと言ったので——」

 顔を上げて女の子と目が合った瞬間、過去にすれ違った人々の瞳を思い出した。短い人生の中でも、数少ない人間関係の中で、大抵の人々は僕にとって普段忘れがちな存在である。しかし彼女の瞳からは、どこか既視感を覚えた。

 「ひょっとして花魁さんですか?」

 「あら?どうして分かったの?あたしの素顔、まだ見せてないでしょう?」

 花魁は感心して言った。

 「今まで最初から気づいた人はいなかったのに、もしかして炭咲は探知系の能力も持ってるの?」

 「昔から人は瞳の色で覚えました。でも、実際口に出すまでは半信半疑でした」
僕は後ろに跪いて、大人バージョンの花魁を見つめた。

 「あれは、本物の人ではなく、人形だったんですね」

 人形と呼ばれる『あれ』は、各務(カガミ)コーポレーションが医療目的で開発した人型の着ぐるみである。普通の着ぐるみと違って、シリコンや着用者の髪の毛で作られるため、本物に驚くほど高い完成度。初期バージョンまでは、成長が止まった人や子供の体を持った人をターゲットにして人形を宣伝したが、次第に高額になり、今は限られた顧客や専門業者を対象にしている。

 花魁の人形も、本物の花魁が大人になった時を想像できる外見を持っている。モデルはかなり最新バージョンで、背面にファスナーがあった。

 「花魁を近くで見た感想はいかがですか?」

 「感想ですか?ええと、言わないとダメですよね」

 困った顔をした僕は、もう一度目の前の小さな花魁を見上げた。

 「普通に可愛くて綺麗な方だと思います」

 「でしょう?あたしもそう思うの。だからこっちの体はあまり好きじゃないのよ」

 花魁の反応に驚き、早めに追加の説明を並べた。

 「あの、違います。今の話はあくまでも生身の方でした」

 「え?あたしのこと?」

 「はい。顔がもともと可愛いから、人形の方も可愛いと言われると思います」

 花魁の目がまた大きくなった。二回目だ。

 「生身のあたしが可愛いって、変な愛情表現ね」

 床に座り込んだ彼女の微笑は、他の誰もが初めて見る清々しさだった。

 「失礼しました。あの、生身という表現は決して裸の意味ではなく、人形ではない状態のことです。本当です」

 僕は花魁の反応を見て、最後の話はしない方がよかったと後悔した。

 「炭咲は変わった人ね。聞いていて気持ちよかったわ。ありがとう」

 花魁は持っていたウーロン茶を僕に差し出した。

 「飲んで。話はステラを連れてきてからにしましょう」

 一人だけ残された僕は、人形と距離を取ってウーロン茶を飲みながら、二人が戻るまでじっと待った。時計もない場所で一分はかなり長い時間に感じる。暇つぶしに飲み干したコップから氷を出して口の中に入れた。

 「ね、ちょっとあたしのところに来てもらえる?相談したいことがあるの」

 足を運んだところでは、拗ねているステラに花魁が手こずっていた。床には、花魁がステラをなだめようと出したおもちゃが散らかっている。ステラは部屋の隅で背を向けていた。僕の足音にちらっとこちらを見つつ、再び壁の方に顔を隠した。だいたいの状況は分かった。

 拗ねた原因は僕にある。だから、おもちゃでもお菓子でも通用しなかったのに違いない。

 「ステラちゃん、聞いてくれる?ステラちゃんが大好きなパパがステラちゃんに話があるみたい」

 片手はステラの背中を撫でて、もう一方の手は僕に手招きした。

 「炭咲、そうでしょう?」

 僕は素早く花魁の隣に正座して、次の反応を待った。

 「本当に?」

 ステラが大きな絆創膏(ばんそうこう)を貼ったおでこを小さな手で隠して、僕の方を振り向いてくれた。拗ねた子供の瞳には涙が滲んでいる。

 僕は反省を込めた言葉で頭を下げた。

 「本当にごめんなさい。僕が気を抜いたせいで、ステラを傷つけました」

 『嘘つき。本当は謝りたくないくせに、なぜ謝っている。ただの自己満足だろう?』

 この声は、僕が持つ心の呵責から生まれた、もう一つの僕の声だ。あの夜、謝るべき対象に謝れなかった記憶が足枷となり、僕は、あの夜から、毎晩同じ時間になるたびに一人で、ずっと謝罪の言葉を述べ続けてきた。そして、それは以前に思っていたほど難しいことではなくなっていた。そのはずだった。

 「パパもここ痛い?」

 ステラが僕の額を撫でてくれた。

 「パパにもあげる」

 ステラは手のひらからつぶれた絆創膏を僕にくれた。動物のキャラクターが描かれた可愛い絆創膏だった。

 「パパもステラも一緒だね!」

 ステラは絆創膏のテープを剥がして、僕の額に貼り付けてくれた。

 「先に痛みに共感するのか」

 僕の話にステラが小首をかしげる。

 「何でもない。絆創膏はありがとう。おかげで気が楽になった」

 何も知らないステラは僕パパに抱きついて、幸せそうに笑った。やはり、バスタオルでは済まない。服が必要だと判断した僕は、花魁にお願いして着替えてくるまでステラを任せた。

 「着替えならここにあるわ。フリーサイズだから体に合うと思う」

 事前に用意された服は、黒地の格子柄が入った浴衣だった。フリーサイズでも僕には手と足が余って、紐を使って体に固定した。着てから気づいたが、柄の模様がステラが着た浴衣と同じ種類だった。

 「うん、やっぱりあたしの目に狂いはなかったわ。ステラちゃんと二人で並んでみる?すごく可愛くてお似合いよ」

 「この服、かなり高級品に見えますが、僕たちがもらっても大丈夫ですか?」

 「全然大丈夫。むしろ着る男がいなくて捨てるところだったの。それより、炭咲はスマホ持ってない?あたしが二人の写真を代わりに撮ってあげるから、持ってきなさい、早く!」

 花魁に急かされるというより、絶えず追われた僕は、キャビネットからスマートフォンを出して花魁に手渡した。だが、昨日から充電していないせいで電源はとっくに切れていた。どうしようもない状態で、花魁が謎のどこからか電源アダプターを持ってきて充電に成功し、念願だった僕たち二人の写真を撮る願いを叶えてみせた。

 「ここまでする必要がありますか?」

 花魁は綺麗に撮れた写真を選んで、液晶画面を僕の前に出した。

 「あるわ、きっと。時間が経っても写真は残るからね」

 細い眉毛の先が微かに震える。

 「たいしたことではないけれど、たまには今の記憶が止まった時間を動かす力になる日が来るわ」

 「偽のパパ役の僕が、勝手に名前を付けて、勝手に家族ごっこを続けるとしても、別れの結末が決まっている関係を写真で残してもしょうがないと思いませんか?幼い頃の記憶なんて、一年経てば忘れてしまいます」

 僕は思わず思ったことをそのまま口に出した。

 「すみません、失言でした。今の話を聞かなかったことにしてください」

 花魁が笑窪を右頬に作り、丁寧な仕草で目を伏せた。

 「でもね、あなたたち二人の関係が本当の親子関係でないことくらい、とうに気づいているわ。でも、それが何だというの。血のつながりがあっても子を捨てる親は、この世に星の数ほどいる。あたしの親も、そうだった。あたしが可愛く振る舞うから父親が手を出したのだと、そんな理不尽な言いがかりをつけて、最後は新吉原に売り飛ばした。皮肉なことに、その過去が売りとなって、あたしは人気ナンバーワンの座を手に入れたけれど。
 ノバナは歳を取らない体を持つ、永遠に若く美しい花だとよく言われる。けれど実際は、親に捨てられ、生まれた瞬間から見放され、金のために身を売られた子供たちばかり。皮肉なものね。あたしたちは八歳から十歳の間で時が止まったまま、獣のような欲望に満ちた夜を美しく彩るための道具として、花魁という仮面をつけて、人生の大半を商品として『一人で』で過ごしている。
 だから、炭咲。あなたとステラちゃんの関係が本物であろうと偽物であろうと、あたしの目にはかけがえのない親子に映っていることが、何よりも大切なの。どんなに辛い時が来ても、今この瞬間を心に刻んで、一人でも乗り越えられる力を……あたしは、そっと預けておきたい。これは償いなのかしら。いえ、きっと違う。これは……あたしの、とても小さくて、とても愚かで、でも、誰よりも真実な……祈りに近い想いだわ」

 愛を知らないまま時が止まった小さな体で、夜ごと大人たちに愛されなければならない彼女を見て、僕は何も言えなくなった。年を重ねても変わらない姿で、大人の欲望という名の愛情を受け続けている。表面上は大切にされているけれど、その愛情がおかしいことを、彼女が一番感じ取っている。

 彼女が「祈りに近い想い」と言った時、胸の奥で鈍い痛みが静かに広がった。その言葉の重さが心の奥に染み込み、彼女の瞳に宿る諦めと、それでも消えない何かが僕の心臓まで響いた。何か言おうとしても適切な言葉を選べず、ただ彼女の次の言葉を待っていた。

 「は〜い、この話はここで終了。写真は何も削除していないから、後でも見ててね」

 花魁の気まぐれはここで終わらなかった。

 「まだあれをするまで数日は残っているのに、なんでこんなにセンシティブに反応してるのかしら。うふふっ、変よね」

 より一層反応しづらくなった僕は、間抜けな顔で固まった。

 「嘘、嘘。冗談よ、ジョーダン。あれをするノバナはいないって突っ込まないと困るわ。女を困らせないでよ、ステラちゃんのおパパさん」

 知らなかった。成長が止まるという意味を知った僕は、ステラの方に目を向けた。今はまだ体と精神年齢が同じでも、僕と同じ歳になっても体は過去に取り残されたまま、一人の人生が紡がれていく。周りは変わって自分の体だけは変わらない。そう思うと、彼女たちの心境が分かるような気がした。

 「ところで、炭咲。もうお互い裸で触れ合った仲だし、いちいち敬語をつけて距離を取るよりは、そろそろ名前で呼ばない?」

 言いながら膝を抱いて、ステラと顔を合わせた。

 「ステラもうちを名前で呼んでもいいよ」

 「名前?ステラも呼ぶ!」

 「うふふっ、分かったわ。それじゃあ、教えるね。あたしの名前は——」

 花魁は末っ子を愛しがるようににこりと笑い、はきはきした声でひらがなを一文字ずつ話した。

 「パパ、ステラのお腹ぺこぺこ」

 元気いっぱいなステラも、いよいよ疲れ切った顔で大人しくなった。

 「お腹すいたのね。じゃあ、お食事しに行きましょうか?」

 僕には、どこのことか分からなかった。食べ物のある場所といえば、コンビニしか思い浮かばない。ステラと一緒に店で食事をした記憶もないのだから、彼女が期待しているのも、おそらくコンビニだろう。

 「花魁さん、新吉原にもコンビニはありますか?」

 僕は隣にいるステラの頭をそっと撫でた。拗ねさせてしまったことへの謝罪の気持ちを込めて。

 「名前を教えてまだ五分も経ってないのに、忘れた?それともただの意地悪なイタズラ?」

 まだ下の名前で人を呼ぶことにあまり慣れていない僕は、頭の中で二十回ほど発音の練習をした。あくまで舌を噛まないためである。

 「こひな、どうか食事の件をお願いしてもよろしいでしょうか?」

 僕の反応に満足したこひなは、不機嫌そうな表情から満ち足りた表情を見せた。

 「二人の前にいるあたしを誰だと思ってるの?あたしと友達になった記念に、今まで味わったことのない料理を食べさせてあげる。今頃、食事の準備は終わってるはずだから、部屋に戻りましょう」

 上機嫌なこひなの後について、僕とステラは女湯から出て部屋に向かった。

第4話 罠と拉致

 部屋に戻ると、すでに宴会の準備が整っていた。畳用のテーブルには、こひなが約束した通り、見たこともない豪華な料理が次々と並んでいる。サーモンの刺身、色とりどりの前菜の盛り合わせ、香ばしい鶏肉の炙り焼き——炊き立てのご飯に合う料理ばかりで、何から手をつけていいか迷うほどだった。

 僕はテーブルの端に座り、オレンジジュースを一口すすりながら壁にもたれかかった。ステラは皆に囲まれて思う存分可愛がられている。あの様子なら、僕がいなくても周りが面倒を見てくれるだろう。

 先に食事を始めることにした。まず、味噌焼きのステーキを皿に取る。表面に薄く焼き色がついて、中は美しいピンク色——見ただけで美味しさが伝わってくる。わさびだけを少し載せて口に運ぶと、柔らかな肉質が口の中でとろけた。

 「美味しい」

 それだけで十分だった。堪らない食欲に任せて、もう一切れ取り分ける。

 「パパ、ステラのおくち、ひりひりする!」

 次に食べる料理をサーモンと大トロの間で迷っている僕に、ステラが涙をぽろぽろ流しながら抱きついた。僕は何が起こったのか分からずに、ステラの鼻から垂れる鼻水を優しく拭いてあげた。

 「この匂いは……ステラ、もしかしてわさび入りのお寿司食べちゃった?」

 ツンとした辛いわさびの匂いが、ステラの口から漂っている。さすがにわさびはまだ早すぎるだろう。苦しそうなステラを楽にしてあげるため、オレンジジュースを飲ませた。

 「もうやだ!ステラ、お寿司きらい」

 僕が差し出したサーモンの刺身にも、ステラは顔を横に向けた。わさびが入っていない寿司さえ、『(あつもの)に懲りて(なます)を吹く』のように拒否して、僕の懐に顔を埋める。ステーキも舌で味わっただけで、すぐに口を閉じてしまった。

 本当に、困ったものだ。

 「姉さん、急用で今日の定期検査をずらしたいって、さっき先生から連絡があったのよ。どうしましょう」

 何かの報告を聞きながら、こひなが一升瓶の日本酒を持って隣の席に座った。『千光』のラベルがある黒い瓶を開けて、檜の枡に立てられた枝垂桜のグラスに酒を注ぐ。馨しいアルコールの香りが部屋に広がり、嗅いだだけで酔いそうになった。落ち込んでいたステラも匂いに興味を示し、好奇心に満ちた瞳でテーブルに上がろうとする。

 「無理を言って約束を取ったのは私たちですもの、来週でも構わないとお伝えしておきますわ」

 こひなは枡を天井に向かって持ち上げた。

 「みんな、席に着いて乾杯しましょう。今日は私たちの食事会に初めてお客様をお迎えしたのですから、もっと楽しくいただきましょう——乾杯!」

 賑やかな雰囲気の中、僕は皿の上のサラダを一口食べた。元気になったステラは、謝りに来た姉さんたちに追われて部屋の中を逃げ回っている。他の人たちはカラオケ機器の前で仲良く歌を歌っている。とても楽しそうで混沌としたディナーパーティーだと、ジュースを飲みながら思った。

 「首、まだ痛む?」

 こひなが話しかけてくると、日本酒の香りがほのかに漂った。目は半分恍惚感に浸り、力の抜けた体をテーブルに寄せかけて、僕に向かって優しく微笑んでいる。色白の頬が紅潮するまで、かなり酔いが回っていた。この状態では、まともな会話は難しいだろう。氷を入れた水をこひなに渡す。

 「あら、気にしてくれるの?優しいのね——」

 こひなは冷たい水を一気に飲み干すと、そのままテーブルに突っ伏した。やってしまった。軽く肩を揺さぶったが、反応がない。耳を傾けると、すでに深い眠りに落ちて寝言を呟いている。
 
 僕は視線を宙に泳がせながら、どうしたものかと考えた。隣で無防備に眠るこひなの姿に、なんだか胸がざわつく。部屋の隅に置いてある本のことを考えてみたり、ステラに教えてあげる文字の練習について頭を巡らせたりしながら、テーブルの向こう側に目を向けたり、天井を見上げたりして、なるべく自然に振る舞おうと努めた。

 「お姉さまに馴れ馴れしく触らないで」

 酔っ払っていても怒った顔は変わらない奈緒美が、いつの間にか同じテーブルの前に座っていた。

 「今、居眠りしているお姉さまを狙っただろう。このド変態野郎」

 酔っ払いに真面目に説明しても、まともな会話はできない。昔、バイト先の食事会で小泉さんが酒を飲み過ぎて酔っ払ったことがある。あの時の小泉さんは、悔しそうな顔で同じ愚痴を一時間も繰り返していた。未だに小泉さんから聞いた男の名前を忘れられない。

 「奈緒美さん、これは誤解です。あくまで倒れたこひなの様子を見ただけです」

 「はあ?そんじゃ、誤解だって言えば、あたしの胸を揉んだことがチャラになると思うの?」

 「声が大きいです。それと胸の件は、奈緒美が別に謝らなくてもいいと言ったでしょう」

 「いいえ、あたしは言ってないわ。嘘までつくなんて、本当に悪い子ね。そうよ、土下座よ。今すぐ、あたしに土下座しなさい。土下座で誠意を見せなさい」

 「分かりました。土下座しますので、どうか落ち着いてください」

 土下座を要求し続けた奈緒美の声が、だんだん曇ってきた。涙を見せまいとするかのように、切なく俯く。

 「ナオミの胸は小さいから、揉んでも感触がしない?」

 何も言っていない、と言い返そうとして止めた。そもそも、突き詰めて言えば、この部屋にいる皆が平気で酒を飲んでパーティーを楽しんでいる。見た目は子供でも、精神年齢はその年齢に相応しく熟した、普通の大人として目に映った。ただ、瓶ごと飲む姿は、何度見ても慣れない光景だ。

 「全部、君のせいだよ」

 今度は奈緒美から突然責められた。

 「あなたが私たちの平凡な日々を壊したのよ。なぜ来たの?なぜ私たちにあなたの世界を見せたの?永遠に知らない方がよかったのに」 

僕の世界が奈緒美の大切な日常を壊した——そう言われても、素直に納得がいかなかった。壊した理由も方法も覚えていない。テーブルの上のおにぎりを一つ手に取る。中には鮭の腹身が入っていた。

 「奈緒美ちゃん、嫉妬は程々になさい」

 こひなの声に驚いて、ご飯が喉に詰まった。寝落ちたと思ったこひなが、テーブルに伏せたまま、ぼんやりした横顔で奈緒美を睨んでいる。酔っていた目は元通りに生き生きとして、脳裏に深い印象を残した。

 「うええええ、お姉ちゃんに嫌われちゃった。悲しい、悲しくて死んじゃいそう——」

 奈緒美が堰を切ったように両手で顔を覆い隠し、抑えきれない感情に号泣した。

 今の言葉は、僕が聞いても空しく、冷たく響いた。

 「泣かないの、泣かないでね」

 ついでに眠りから起きたステラも啜り泣きを始める。それに狼狽えて、僕はステラの背中を撫でて落ち着かせた。

 「うちもそれ欲しい」

 奈緒美は僕の左手を自分の頭に乗せて、自ら撫でる真似をした。どうしようもない状況で、隣にいたこひなは無愛想に口を結んでいたが、眼差しに微かな笑みを交えていた。「女たらしめ」という目だった。

 結局、他の女の子たちが来て奈緒美をトイレまで連れて行き、ステラは二度寝に落ちた。これで、ようやく僕のテーブルに平和が訪れた。

 「悪くは思わないでちょうだい?」

 こひなが話を切り出した。

 「みんなは今まで、四角い部屋にある四角い布団で寝起きして、目を覚ましたら四角い鏡に映る自分の顔を見ながら、慣れた手つきで昨日と同じ化粧を施して毎日を生きてきたの。ところがある日、四角ではなく三角や丸の人生を持った炭咲とステラちゃんが、私たちの世界を訪れた」

 彼女はジュースの入ったグラスの縁を人差し指でそっと撫でた。

 「その日、華奢なみんなの世界は否定され、壊れてしまったのよ」

 微弱な振動がグラスに伝わり、細い笛の音が鳴りつつ、罅が入った。単純に指先で撫でただけで、グラスが元の形を忘れてしまった。

 「女の子は認めたくない時、主体となる存在に憧れて、そのうち嫉妬してしまうものよ。奈緒美ちゃんを除いて、他の姉妹たちが炭咲を歓迎しても名前は教えない理由も、きっとそれが原因だと思うわ」

 話が終わった後も、相変わらずこひなは黙然とテーブルの向こうを眺めていたし、僕も何となくそんな彼女を眺めていた。目が合うと照れ隠しに笑い合ったりしたが、どこか寂しさを感じる気がした。

 「複雑ですね、女の子は」

 僕は食べ終わったおにぎりを皿に置いた。

 「そうね。でも、それが女の子よ」

 気だるそうな口調で話を終わらせたこひなの頬に、苦笑いがかすめた。

 「こひなは強い女性だと思います」

 「あたしが?」

 こひなは疑問を呈した。

 「カカシと戦った時のことを話している?」

 僕はしばらく沈黙して、それから取って付けたように咳払いをした。

 「こひなの話の通りなら、僕は皆さんにとって気まずい相手です。同じノバナである他人のステラがパパと呼ぶ僕の存在は、相対的に『剥奪』された感情を呼び起こすトリガーになると思います。それを、こひなは気にせずに僕と会話を続けている。もちろん、隠している本音は違うかもしれませんが、少なくとも僕にはそう見えます」

 手に入らない憧れの対象は『夢』とは呼べない。眺めるだけで辛い思いをさせる『悪夢』である。奈緒美が抱いた苦情は、感染しやすい風邪のウイルスに似ている。症状は同じでも、治るタイミングは皆それぞれ違う。その中で、こひなは比較的よく耐える姿を見せている。今までの人生は知らないが、同じノバナとして尊敬できる心構えを持った人だ。

 「あたし、今、炭咲からすごく褒められたのね?な、なんか照れちゃう……ありがとう」

 照れるこひなは珍しかったが、小さくぼそぼそと次の話題に移った。

 「そうだ、炭咲もあたしたちと一緒に共通テストの準備をしない?週明けの月曜日か火曜日に予定が空いていればの話だけど。場所は新宿にある知り合いのカフェに連絡してお願いする。どう?来られる?」

 そう言えば、こひなは昨日、ガーデンズ学園の受験生として参加していた。ガーデンズ学園の入学条件に年齢と身分の制限はないとはいえ、新吉原の娘が共通テストを受けることは、社会的にぎりぎり論外中の論外として扱われる。当時、花魁の登場がSNS上で盛り上がった理由も、今まで裏社会の住民がガーデンズ学園に現れた実例がなかったからだ。

 「一人で勉強しました?」

 「常連さんの秘書にお願いして、色々手伝ってもらったの。共通テストの対策用の参考書も買ってもらったり、白花(シロバナ)を第一志望に決めて面接の練習もしたのよ。案外、テストの成績は他の受験生に比べて高い点数をもらえたと思うわ」

 久しぶりに話し相手を見つけたように、こひなはペラペラと僕の志望した花道を聞き出した。

 「赤花(アカバナ)です。実技試験がメインで行われる花道で、白花よりハードルが低いです」

 「赤花だったんだ。トゲの種類を聞いたら、失礼?」

 僕は自分の両腕を前に出して見せた。

 「特別なトゲではありません。ただの再生力がチートレベルの体を持っています。ただ、ここには事情が——」

 「ある」と言う直前に、大量の鼻血が畳に流れ落ちて、話が途中で止まった。昨日、無理して体を動かしたせいで副反応が出始めたのだ。テーブルにある紙ナプキンで応急処置をして、携帯の連絡先から香月の名前を検索したが、突然電波の受信状態が圏外と表示された。

 「よくあることですので、心配しないでください。血はすぐ止まります」

 相手を安心させて、小鼻をつまんで圧迫した。

 出血は中々収まらなかった。鼻に詰めた紙ナプキンが血で赤く染まり、その先からは小さな血の雫が畳の上に滴り落ちた。

 「ここ、電話が使える場所はありませんか?」

 僕は慌てるこひなに向けて聞いた。

 「外部と繋がる通信機器が必要です。ネットに繋がったパソコンでも大丈夫です」

 「内線はあるけど、新吉原の半径百メートル以内は通信妨害がかけられているから、外との通信は繋がっていない」

 こひなはすぐに理性を取り戻して、対案を出した。

 「裏の通路があるわ。でも急がなきゃ。ほら、ついてきて!」

 眠りに落ちたステラを部屋に残し、僕はこひなと一緒に廊下を駆け抜けた。止まらない鼻血が廊下に点々と滴り落ちても、もはや気を遣っている余裕はない。壁に囲まれた迷路のような通路の先には、ブロンズ製の時計針式フロアインジケーターとエレベーターの扉があった。

 ガラス張りの外扉と蛇腹式の内扉で二重になった扉を手で押し開けて乗り込むと、こひなが何も書かれていないボタンを素早く押してレバーハンドルを操作した。

 二人を乗せた古いエレベーターは孤高な節操を守り、錆びた機械音とともに下降した。扉の外は木造の壁になって、下の階にあるものは見えなかった。ついにこひながレバーハンドルを下ろして、黒い廊下がある階でエレベーターを停止させた。ここも上で見た廊下と構造的な違いはなかった。

 「さっき連絡しようとした人は、東京都内にいる?それとも関西の方?」

 僕は鼻を押さえて答えた。

 「花園大学医学部附属病院にいます」

 「名前は?」

 「小児科の香月(こうずき)モネと言います」

 名前の情報を聞いたこひなは、今度は後ろにある東京地図から病院がある文京区を指で押して、再びレバーハンドルを上に上げた。

 「多少は揺れるから、しっかり掴まって」

 鉄がぶつかる音が、耳を塞いでも奥まで差し込まれるように聞こえてくる。不安定な状態の中で、僕は片手で安全バーを握り、なるべく壁側に体を密着させた。体感的に五分ほど移動した後、完全にエレベーターが停止してから、外扉の向こうにもう一つの扉が現れた。

 どこかで見覚えのあるドアだった。僕は恐る恐るドアを軽くノックした。

 「午後は休診だ」

 ドアを開け放つと、下着姿の香月がいる診察室が現れた。新吉原から病院までの所要時間は分からないが、五分で来られる距離ではないことだけはよく知っている。なお、午後の休診日は火曜日だ。新吉原に泊まる間、外では三日が経っている。

 「突然お邪魔してしまって、ほんまに申し訳ありません。(わたくし)、新吉原で働いておりますこひなと申します。こちらの炭咲様のお体に異変が起きて、急いで参りました」

 こひなが丁寧な仕草で頭を下げて謝罪を申し込んだ。

 「お手数をおかけしますが、休診やのに申し訳ないんですけど、一度だけ診てもらえませんでしょうか」

 「おい、ちょっと待て。鍵をかけたはずなんだが、どうやって入った?」

 気まずい挨拶を交わして、鼻の状態を遠くから見せてあげた。さすがに状態の深刻さを見極めた香月は、ハンガーラックから白衣を取り出して机の前に座り、刺々しい顔つきで僕を叱る仕草を構えて待った。

 「えらい怒られそうやね。昔からの知り合いなの?」

 「僕の叔母(おば)さんです。本来なら自分で何とかしたいところですが、今は仕方がありませんね」

 「家族やのに、なんでそんなこと言うの?」

 静かな口調で、ほとんど関心もないかのように淡々と言葉を告げた。

 「借りを作りたくないからです」

 こひなは一時間後に迎えに来ると言い残して、ドアを閉じた。人の気配が消え、ドアの小さなガラス窓から人々の影が見え始めた。今更、自分が乗ってきたアレの正体が気になる。

 「何突っ立ってるんだ。さっさとこっちに座れ」

 厳しい言い方に恐れをなし、文句を言うまでもなく香月の言葉に従って、患者用の丸い椅子に座った。香月はさっそく引き出しの中から鼻血ストッパーを取り出し、赤く腫れた鼻の穴に差し込み、小型の冷蔵庫から氷嚢を出して首の後ろに乗せてくれた。続いて鼻血をサンプル容器に入れて、机の上にある顕微鏡で観察をした。

 「あの火災、お前がやったのか?」

 顕微鏡から目を離して、ペンライトで僕の眼球を右と左の順で確認した。

 「それとも偶然が重なった事故?」

 僕は鼻が詰まった声で言い返した。

 「信じないと思いますが、当日の朝、園内に怪しい者が侵入しました。これはあの時の戦いで無理をして出来た傷です」

 「つまりお前は無関係ってことか?」

 「……よく分からないです。最後に首を斬られて死んだので、記憶がないです」

 「嘘じゃなさそうだな。首の周りの新しい木炭の傷は、七年前のと似てる。俺はてっきりお前がやらかしたと思ったんだが。ああ、薬は左の引き出しの二段目だ。水と一緒に飲め」

 「ありがとうございます」

 お礼を言って、引き出しの中からお薬を探した。まだ販売されていない試作品をピルパックから二個だけ取り出し、お水と一緒に飲み込んだ。お薬の効果は、胃袋の中で消化液に溶けるまでの五分後に現れる。

 「成子、お疲れ」彼女は受話器を取りながら言った。「第七研究室に連絡して、共有ラボのシート確認してくれ。今から一時間後だ」

 電話の向こうからの返事を聞きながら、香月は疲れた様子で頷いた。

 「空いてるか?そうか、ありがとう。じゃあ予約を頼む。駅前のパン屋、新作出るらしいから今度奢る。ああ、じゃあな」

 受話器を置くと、香月は深いため息をついた。そして僕の方を振り返る

 「それを大人しく着てついて来なさい。まだ、さっきのお姉ちゃんが来るまで時間があるでしょう?今日こそ精密検査をさせる」

 そう言いながら、ハンガーから私服のコートを僕の方に投げてきた。

 逃げ場はない。僕は受け取ったコートを着て、顔はポケットの中にあったマスクで隠した。女性服で個人的には違和感を感じても、人の目には身長の小さい子供が姉のコートを着ているように見える。これで正体がばれる恐れはなくなった。

 僕と香月は病院の廊下に出て、人目につかない道を選んで反対側にある研究棟に向かった。エスカレーターは避けて、階段から二階にあるビルの連絡橋まで上がって行った。前回ここに来た時はまだ工事中で利用できなかった連絡橋が、今日はセキュリティカードを所持した関係者なら自由に出入りできるように変わっていた。僕は同行者として訪問シートに名前を書いて、一時的に使える出入りカードを発行してもらった。

 「どこに向かってますか?ドクター香月」

 迫力ある声の持ち主が、独特な呼び方で香月を呼び止めた。密かに後ろから、二人がいるところまで歩いて来る人々の存在を把握した。

 「おはようございます、虎徹(こてつ)先生。後にいる龍崎(りゅうざき)もお疲れ」

 「ハロー、今日の午後は休診じゃないんだっけ。研究棟には何か用件でもある?」

 子供のような雰囲気で挨拶をする男は、龍崎の名前で呼ばれた。

 「ああ、分かった。樹の一族に関した研究会が今日だったよね?」

 香月は揺れない声で、僕を後ろに隠した。

 「いいえ、研究会は先週行いました。今日は別件で訪れる予定です」

 それを聞いた虎徹という名前を持った男は、強く香月を壁に押し付けた。

 「誰ですか、この子は。またお金のない患者さんを診た場合は首になると警告したはずです。念のためにお聞きしますが、そのことを忘れましたか?」

 威圧的な雰囲気にひるまず、堂々と相手の顔に向かって顎を上げた。

 「研究目的であれば、たとえ身元不明の患者でも特殊患者診療録(SCC)に登録して診療する方針は、今年の経営会議で審査まで終わった方針ですが、虎徹先生はそれをご存知ないようですね。それとも知った上で、俺の邪魔をするおつもりでしょうか。文句があればご自分で病院長に言ってください。許可は得ております」

 「そう来ると思いました。SCCはまだ小児科に限った方針であり、他の部署には許可が降りていない状態です。これについてはどう説明してくれますか?」

「私の部署は、診察した患者のデータを研究目的で使用する条件で、先ほどの話と同じく病院長に合意を取っています。それとも他に何か別の理由で、また邪魔をするつもりですか」

 香月は自分より背の高い虎徹を、萎んだように眼球周囲に皺を寄せて睨み付けた。

 「前にも同じ理由でお断りしましたが、虎徹先生。そんなに俺が好きなら、正式に付き合ってあげますよ」

 「調子に乗るな、外道め。お前の家系はいつも出過ぎた真似をして人を困らせる。上の香月は結局のところ、犬死に同然の死に方で亡くなった。お前も近いうちに後を追うだろう。だが、この病院に恥をかかせる真似は許せない。数年前にお前の姉が犯した犯罪で、どれほどの同僚が同じ犯罪者扱いされたか、もう一度思い出させてやろうか?」

 香月が言った。

 「虎徹先生、それ以上は口にしない方がいいですよ」

 「はは、私に命令でもするつもりか?」

 「まさか。俺も虎徹さんには若死にしてもらって構わない主義だが、病院には迷惑をかけたくないだけです」

 香月は疲れた表情を浮かべながら、僕の頭に手を置いた。そして虎徹の方へ数歩近づき、声のトーンを落とす。

 「あなたがどれだけ俺を嫌ってるかは分かりますが──」

 香月の声は低く、普段の投げやりな口調に冷たい嘲笑が混じっていた。虎徹を見上げる目は、疲労の奥に軽蔑の光を宿している。

 「でも、俺は別に構わない。ただ、大人の都合で子供を巻き込むって、医者としてどうなんだろうね、虎徹」

 彼女の言葉は途中から敬語を捨て、相手を見下すような調子に変わっていた。まるで相手が自分より格下の存在であることを、わざわざ言葉遣いで示しているかのようだった。

 「落ち着け、春くん。お前がここで騒いでも、俺が面倒なだけだ」

 香月は疲れた表情で僕を見下ろした。

 血が頭に上る感覚で身体が熱くなる。拳が砕けるほど勝手に力が入った。僕はマスクを外して、母親の元同僚の顔を目に刻んだ。

 ここは、かつて両親が働いた病院であり、今回で二度目の訪問だった。先日は、他の病院から赴任されたばかりの母親と一緒に病院内を散歩した覚えがある。目の前の男は、その時にすれ違った爺さんと顔が似ている。鋭い目つきと油断を見せない鉄のような性格を、メガネの裏側に隠した人物だ。

 「何だ、その目は。親から礼儀というものを教わっていないのか?」

 世間では母親が起こした事件だと知らされているが、事実上は別の人だと僕は推測している。証拠はない。あくまで被害者である僕の視点でそう思っているだけで、それだけで犯人と決めつけるのは良くないと思うが、心証的には黒に傾く。

 「待てよ。この子の顔、どこかで見た覚えがある」

 じっと二人を後ろで見守っていた龍崎と呼ばれる医者が口を挟んできた。

 「そうそう!思い出したよ!君は緑埜家の坊やだね!以前、緑埜さんとお話しした時に息子さんのことを聞いたことがあるんだ。えーっと、名前は確か――」

 龍崎の声は明るく弾んでいて、まるで久しぶりに会った友達を見つけたかのような喜びが込められていた。

 「初めまして、炭咲千春と申します。父親からどんな話を聞いたか知りませんが、六年前に家族としての縁を切った状態で、最近まで顔を合わせたこともありません」

 「なるほど、教えてくれてありがとう。話は分かった。緑埜さんのところも色々と事情があるみたいですね。それにしても、苗字だけでなく名前も、元々は千春ではなかったですよね?僕の記憶では、亡くなった香月の名前が『千春』だったような気がします」

 黙って話を聞いていた虎徹が舌打ちをし、軽蔑を込めて呟いた。

 未だに母親への異常な執着に囚われているのか。相変わらず哀れな家族だ」

 「てめえ、今何て言った」

 頭に血が上った。気がついたときには、自分より背の高い虎徹に向かって突進していた。低い姿勢から踏み込んで、渾身の蹴りを腹部に叩き込む。虎徹がよろめいたところを、素早く足を払った。

 倒れた虎徹の胸ぐらを掴み、拳を振り上げる。

 「歯を数えるのが好きか?」

 僕は冷たく微笑んで言った。殴りかかる寸前のことだった。
 
 「そこまでにしろ」

 隣にいた香月が疲れ切った声で割り込んだ。白衣のポケットに手を突っ込んだまま、面倒臭そうに溜息をついている。いつものことだった。

 「俺の患者にするつもりか?」

 僕は握りしめた拳をそっと緩めた。風船から空気が抜けるみたいに、怒りが静かに消えていく。周りを見渡すと、いつの間にか多くの人たちが集まっている。奇妙な静寂があった。我に返った僕は、地面に倒れた虎徹に手を差し伸べた。

 「大怪我はしていないようで何よりです。弁償はいくらでもしますので、俺宛てに請求してください」

 その声は平坦で、感情が読み取れない。天気予報を読み上げるアナウンサーのようだった。そして、視線を周囲に向けて唖然とした龍崎に一口を溢した。

 「龍崎、悪いが、後のことは頼む」

 龍崎はただ口をぽかんと開けて立っていた。突然現れた宇宙人と遭遇した人のようだった。

「じゃあ、よろしく」

 龍崎は軽やかに手を振った。コンビニでお釣りを受け取るときのような、あまりにも日常的な仕草だった。何事もなかったかのように僕たちは人の目が集まった場所から離れ、隣のビルに向かう連絡橋のゲートを通った。

 特に警備に通報された様子はなかった。共有ラボに着くまで、僕と香月の間には気まずい空気が流れていたが、足音は引き続き廊下に響いた。何かを言いかけたようでもあったが、結局はすべての検査が終わるまで口を閉ざしたまま、互いの沈黙を見守った。

 「最近、何かいいことでもあったか?」

 カルテの内容を確認した香月からの質問だった。

 「特に何もないと思います」

 ふとステラの顔が浮かんだ。

 「三日前から、僕をパパだと慕っているノバナの面倒を見ています」

 香月はカルテを机の上に置いて、かけていたメガネを布で拭いた。

 「どうかしました?」

 「カルテの結果、春くんはどう思う?」

 「……去年よりは平均値に近い数値でしょうか?」

 「ああ、見た通りだ。木炭化が進行した割合に対して、体の成長もある程度進んでいる。血液中の樹の一族を攻撃していた白血球の数値も下がって、去年より健康な状態だ」

再びメガネをかけた香月がカルテをめくって話を続けた。

 「話が変わるけど、まだ聖次郎(せいじろう)のことを恨んでいる?」

 香月が遠慮がちに訊いてきた。診察室の白い壁に囲まれた空間で、その名前を口にするのは、古い傷口を再び開くような行為だった。

 聖次郎は、父親が緑埜家の女と結婚し婿養子となる前の旧姓だ。僕の昔の苗字でもある。炭咲は、僕が施設に入って一年が経った時に院長が勝手に付けてくれた苗字だ。火事から生き残った意味として付けてくれたらしい。名前だけは自分で決めたいと言って、母の名前を戸籍に載せた。

 「はあ、あいつはママと華栄を殺した真犯人です。しかも実の息子を実験体として扱って、最後は見捨てた人間以下の奴です。まだ恨んでいるかと聞きましたよね。答えは、はい、まだ恨んでいます。一生恨み続けると思います」

 しばらく視線を天井に向けて小さく息を漏らした。もう一度あいつのことを想像すると血が沸いてきた。

 「あいつが何を企んでいるか知りませんが、最近は僕の携帯に電話をかけてきます。また、しょぼい研究の実績のために僕が必要なのでしょう」

 「なるほど、分かった」

 香月はそれだけ言い残して口を閉じた。何かほろ苦い気持ちで僕の顔をなにげなく眺めて、頬を手で慰めてくれた。しかし僕はその優しさを受け取ることができず、ただ棚の研究備品がガラス越しに放つ冷たい光を見つめ続けていた。

 「俺の診察室に戻るまでの間、一緒に暮らしているノバナという人について話してくれないか」

 「ステラのことですか?特に研究のネタにはならないと思いますが」

 香月が僕の鼻を軽く掴んだ。

 「医療報告書という名の退屈な書類に囲まれた生活を送っていると、時折まったく違う種類の話を聞きたくなる。俺は今まさにそんな気分だ」

 僕は、ラボから出て同じ建物の一階にあるカフェで、香月が奢ってくれたカフェラテをテイクアウトしてベンチに座った。久しぶりに香月と仕事以外の話ができて、少しテンションが上がった。

 ステラを最初に遭遇した時から、カカシとの戦いで新吉原の花魁と出会えたことまで、すべて話した。香月は話の中でもカカシに関して特に興味を持った。具体的にどのような動きをして、心臓の代わりに懐中時計を原動力にした生物なのか機械なのかなどについても説明を求められた。論理的に説明できない部分は、適当に話を誤魔化した。

 会話を交わしてからだいぶ時間が経った頃、院内にアナウンスが流れた。

 「コード名、ブルー。繰り返します。コード名、ブルー。コード名、ブルー」

 「炭咲!」

 二階の連絡橋から僕の名前を叫ぶ声が一階まで響く。顔を仰いでみると、二階で顔だけ出したこひながいた。人形も着ていない生身の姿で、何か急用があって訪ねてきたのかも知らない。

 「ステラが黒いスーツの男たちに連れ去られたわ。今一階に向かってるから、絶対に逃がしちゃダメよ!」

 話を聞いてから、注意深く一階にいる一人一人に目を配った。車椅子に乗った患者と後ろで押してくれる保護者や看護師、または休憩に入ったスタッフがそれぞれの位置に立っている。怪しそうな人物はまだ見当たらないと思った頃、黒いスーツを着た大人たちが人群れに身を隠して僕がいるフロアに姿を現した。

 僕はまだ半分くらい残っているカフェラテを持ちながら、先方に歩いている男性に声をかけた。

 「こんにちは、カラスが昼間から病院に何の要件ですか?」

 僕の挨拶にカラスたちは動揺した。やはり僕の顔を知っている。となると、誰かに指図されて僕がいる病院まで来たか、あるいは偶然すれ違った可能性もゼロではない。何よりもステラを拉致した根拠がない状況で、下手に手を出せなかった。もう少し時間稼ぎをしつつ、情報を得る必要があった。

 「パパ!ステラ、ここにいる」

 呼びかけるステラの声と同時に、とある老人が尋常ではない動きで影から大きな袋を取り出した。

 「炭咲、その叔父さんが犯人よ!捕まえなさい」

 確信を得た時点では、影がステラの体を完全に呑み込んだ後だった。

 目的を達成したカラスは地面に手をついて、徐々に影の中へ沈んだ。僕は邪魔をするカラスたちを倒して、犯人の首筋を掴めた。

 「大人しくステラを影から吐き出せ。そうすれば灰にならずに済ませてあげる」

 微動だにも許せない口調で相手を見下ろした。首やその露わとなった肌が、焼けて赤く染まってゆく。しかし、カラスがいかに震えようとも、両腕、両脚とも微動だにもさせなかった。

 「ぐはっ...」血を吐きながらも、老人は苦笑いを浮かべた。「なるほど、噂に違わぬな。敵と見なした者には容赦せぬ坊ちゃんじゃ」

 言い終わった老人は、体を砂のように変えて影の中に溶け込んだ。

 カラスは僕のことを認知していて、それでもステラを優先した。つまり、僕の存在を知った依頼主が、あえてステラを攫ったということになる。誰の指示で来たのか、およそ見当がついた僕は、入口の回転ドアに向かって木製のベンチを投げつけた。

 普通は物が割れる音に恐怖を感じ、怖がって体をすくめるものだ。だが現在、その場に立ったまま僕の動きを警戒している人々が八人いる。混乱の中で冷静さを保った一人が、残り七人を指揮して僕を取り囲もうとした。あの人がこのグループのリーダーだ。

 「相手は一人だ。油断せずに一気に取り囲めろ」

 リーダーの指示に従い、七人のカラスが各自のトゲを構えて僕に向かってきた。

 最初の一人が右側から刃を振り上げた。僕は半歩後ろに下がり、二人目の左からの攻撃を腰を捻って避けた。しかし三人目の足払いを完全には避けきれず、バランスを崩した瞬間、四人目のトゲが左の二の腕を浅く切り裂いた。

 血が滴り落ち、木炭化した腕の表面で小さな火花が散った。五人目と六人目が同時に正面から襲いかかる。僕は右に転がって回避したが、七人目が既に回り込んでいた。その刃が右肩を掠め、新たな傷口が開いた。

 傷から流れる血は木炭の表面で蒸発し、薄い煙を立ち上らせた。体の組織が破壊され、同時に修復される奇妙な感覚が繰り返された。やがて両腕全体に炎が宿り、オレンジ色の光が周囲を照らし始めた。

 七人のカラスは一瞬動きを止め、炎の明るさに目を細めた。

 「一人だけ本拠地を吐け。そいつだけは灰にしないでやる」

 僕の言葉は静かに空気の中に放たれ、淡々と空気そのものを焼いて消した。カラスたちの瞳には、暖炉の奥で燃える人影が写っている。両手を包んで踊る炎を見て、僕の話が比喩ではないことを理解した様子だった。この少年の前では、沈黙は焼死を意味するのだと。

 接近系のトゲは僕の手のひらに触れてから、一分も経たない間に焼かれて灰になった。遠距離の相手は、腕から爆発を起こして距離を詰め、武器となるトゲを焼き尽くした。トゲは灰になり、トゲに触れた体の一部は焦げた傷跡を負った。一人ずつトゲが壊れる場面を後ろで見守るカラスは、灰になる仲間たちの悲鳴に怯えながらも、自ら前に出て参戦はしなかった。

 「時間だ」

 警告はした。僕は地面に散らばった、まだ温もりを残す灰を一握り掌に掬った。ほんの数分前まで呼吸をしていた人の灰は、風に連れ去られそうになったが、結局は僕の指の隙間に留まった。僕はその奇妙な質感を確かめるように掌を見つめてから、リーダーらしい男に向かって、静かに手を打ち合わせた。

 火の種と可燃性の灰が外部の衝撃でスパークを起こして、重い轟音が巻き上がり、点火した途端に爆発を起こした。爆発の衝撃で、僕は病院の外まで放り出され、アスファルトの地面に落ちてから二回ほど転んだ。

 耳元から金属音の耳鳴りが段々と車のクラクションに変わって聞こえた。ぼろぼろになった口の中は、血まみれの歯が何本か転がっている。

 生きていれば問題ない。病院の入口までの階段を徐に上がった。階段に一歩を踏み出す際に、胸から腹まで見えた肋骨に赤い肉が一筋ずつ付いた。最後に顎の骨が元の場所に戻って、自由に口を閉じられるようになった。

 僕は壊れた回転ドアを通って病院のロビーに入った。そして、真っ先にカラスのリーダーを探した。気絶した人々の中で、一人の男性が目に入った。男性は下半身を地面に引きずって、背中いっぱいに肘を足代わりにして動いていた。

 下に落ちた灰を素足で踏みにじりながら、ゆっくりとその男に近づいた。一歩、また一歩と歩くたび、灰は足の下で細かく砕け、風に舞い上がった。男は僕の足音を聞きつけて振り返り、その瞬間、動きを完全に止めた。

 胸の奥で何かが疼いた。怒りとも憐れみともつかない、鈍い感情だった。早く終わらせたい。男の震える背中を見ていると、苦いものが喉の奥に残る。
 
 圧力をかけるでもなく、ただ静かに。僕は、無言のまま男の左脚をつま先で押さえつけた。

 「本拠地を言いなさい」

 淡々と一言告げる。声に感情は込めなかった。

 「分かった。お、おれが全部話すから命は――」

 男の顔は青ざめ、額に汗の粒が浮かんだ。その震え声が途中で途切れ、男の体が煙のように姿を消した。背後から殺気を感じた。反射的に身を横に逸らして背中への刃を避けようとしたが、一歩先で倒れている看護師の姿を見て、咄嗟に攻撃を受け入れた。激痛は一瞬で消え、大量の血が背中を伝って流れ落ち、青い刀身を濡らした血は赤黒く凝固していった。

 「大量虐殺を起こした素町人の分際で、一抹の良心を残して何が変わる」

 爆発を生き延びたカラスは荒い息を吐き、血走った目を見開いている。額の深い傷が痛むのか、刀の柄を握る手がわずかに震えていた。相手がどのような能力者なのか完全には把握できていないが、それでも僕の方が優位に立っていることに変わりはない。

 一瞬の躊躇も、攫われたステラの命取りになりかねない。この戦いを早く片付けて、ステラの居場所を一刻も早く突き止めなければならない。体力も限界が近い。決着をつけるためには、ここでカラスを完全に無力化する必要があった。

 「カラスにだけは、人聞きの悪いことを言ってもらいたくないな。それを言うならお互い様じゃないか?僕だって、仕事でカラスのせいで散々な目に遭った」

 「たとえ同じ目的で動いているとしても、人殺しのバケモノと私たちを同様に扱われることは論外だ」

 「論外?僕が体で刀を防ごうとしなかったら、看護師さんが代わりにやられたと思うけど、これはどう説明しますか?」

 「君に詳細まで教える義理も義務もない」

 言い切ったカラスが呼吸を整え、身を低く構えて突撃の姿勢に移った。相手は刃物を持ったプロだ。距離を置いても、長いリーチとトゲの活用範囲が僕には不利に働く。

 一か八かの賭けに出るしかない。僕はカラスの懐に飛び込み、襲いかかる攻撃を左肩で受け止めた。その一瞬の隙を突いて武器を奪い取り、襟首を掴んで全身で相手に密着した。肌に焼けるような痛みを感じたカラスは、必死に僕から逃れようともがき始めた。まるで狂ったように身を捩らせながら、絶叫を上げ続けた。

 「子供をどこに連れて行ったか教えてください」

 「……分かった、分かったから放してくれ」

 「本拠地はどこにありますか?」

 「と、虎ノ門だ。とらの――」

 微かな声で駅名だけを言い残して、カラスは気を完全に失った。虎ノ門にはバベル直下の機関があり、あいつが勤めている緑埜家の本社も位置している。疑いを明確にする目的で、倒れたカラスの上着から業務用で使われている携帯を探した。

 画面ロックを解除し、連絡用のアプリを開いてメッセージの全文をざっと読み下した。マネージャー以上のグループチャットから現状の報告を求める連絡が届いていた。僕は倒れたカラスの『高橋』に代わって、「始末しました。本社に戻ります」と返答した。

 電源を切ってスマホを握ったまま息を長く吐いた。突然の本社からの出向に複雑な気分に惑わされた。僕が立てた計画に、今日このタイミングで父親と対面することは描いていなかった。まして、その人が僕の計画を見通した可能性は低くない。が、ステラと僕の関係を疑うほど、人との関係より目に見える結果を重視するタイプだった。

 僕は目を瞑って、頭の中で今までの出来事をまとめた。メッセージの内容を見る限り、虎ノ門の本社からカラスを病院に派遣するまでは約一時間かかった。ステラは病院に来るまで新吉原にいて、僕が病院にいることを知った後に追いかけて来た。冷静に考えれば考えるほど、ステラが発見されて、また攫われるまでの間が短すぎる。

 何もかもが辻褄の合わない状況に、妙な感心を覚えてしまう。僕は七年前にあいつに見捨てられた時と同じような、心細さと冷たい無力感に襲われた。しかし、いくら理屈を並べ立てても、答えは見つからないままだ。

 院内では、意識を取り戻した人々が金切り声で助けを求める一方で、通報を受けて現場に駆けつけた関係者たちが一階のロビーに押し寄せ、大変な混雑となっていた。

 僕は誰にも気づかれないうちに、倒れたカラスからスーツを脱がせて肩にかけた。サイズの大きい部分は折り込んで内側に入れて着る。靴も必要だったので、床に転がっているスリッパを拾って履いた。

 「炭咲?」

 こひなが人込みの中で僕の名前を呼んでいた。新吉原にはあとで忘れ物を取りに戻る予定だ。その時にこひなに今までの経緯を話して謝罪しようと心に決めて、聞こえてくる声に耳を塞ぎ、病院から立ち去った。

 垂れ落ちる鼻血を汚れたスーツの袖で拭いながら、僕は最寄りの駅に着くまで、決して振り返ることはなかった。

第5話 血を流した父子関係

 東京の空から舞い散る雪が地面に薄く積もり、通りすがる人々の足音に踏み固められている。冷たい冬風に晒された鼻は赤く腫れ、マスクもせずに歩く僕の鼻水は止まらない。着込んだ服も東京の厳しい寒さには歯が立たない。

 それでも、僕の胸の奥で燃え続ける炭火のような感情は、決して消えることがなかった。乾いた薪に宿る火のように、僕の体を内側から温め続けている。

 改札を通り抜けてしばらく経つと、浅草行きの電車が滑り込んできた。車内には家族連れの乗客や、大きなキャリーバッグを持った観光客の姿があった。季節に合わない薄着の僕を見て、外国人観光客は不安そうに席を移動する。

 気にすることはない。僕はスーツのポケットに手を入れ、中身を確認した。会社の社員証とハンカチ、そして社員証の裏に挟まれた一万円札。非常用として、別のポケットにそっと移しておく。

 スマートフォンの電源ボタンを押すと、画面には韓国アイドルの写真が映し出された。時刻は午後二時を示している。そろそろ目的地の虎ノ門駅に到着する時間だ。

 「この電車は浅草行きです。まもなく虎ノ門、虎ノ門です。電車とホームの間が広く空いているところがあります。足元にご注意ください。出口は左側です」

 虎ノ門には二度と来ないと心に決めていた。それでも、ステラのためなら仕方がない。自分で立てた掟を破ってでも、ここに来る必要があった。

 地下の不快な臭いと薄暗い照明に包まれたホームから、改札口を目指して歩き始める。虎ノ門駅の構内は迷路のように複雑で、工事中の仮設壁が本来の通路を塞いでいた。壁に貼られた案内図を見ても、どの方向に向かえばいいのか分からない。

 結局、どの道も一つに繋がっていることに気づいた僕は、カラスに追跡されないよう駅員にスマートフォンを預けて、真っ直ぐ前方の通路を歩いてエスカレーターに乗った。地鳴りのような低い振動が、スリッパ越しにじわりと足の裏を侵食してきた。

 地上に出ると、文部科学省の重厚な建物が右手に見えた。公園を挟んで向こう側には、東京ミドリエビルディングがそびえ立っている。昼過ぎのロビーには低い話し声が絶えず流れており、コーヒーを片手に持った営業マンたちが角側に立って、誰かを待っているようだった。

 僕は手前にあるインフォメーションセンターで、セキュリティカードに記載された部署の所在階を確認し、エレベーターに乗って七階のボタンを押した。エレベーターは静かに上昇していく。その間、僕は壁に映る自分の姿を眺めていた。

 七階に着くと、扉が開いて僕は一人でその階に降り立った。他に誰も降りる人はいなかった。廊下には微かに空調の音が響いている。壁に貼られたオフィスレイアウト図を見つけて、対外資産管理本部の位置を確認する。レイアウト図は親切で分かりやすいイラストで各エリアを案内しており、この階には二つの部署がそれぞれの縄張りを主張するように領域を分け合っていた。キッチンやラウンジ、仮眠室といった設備も、まるで小さな村のように部署ごとに配置されている。

 フロア全体を見渡してみると、この階だけで優に百人は超える人々が、それぞれの小さな宇宙で働いているのだろうと思った。そのことが僕には少し不思議に感じられた。

 「何のご用件でしょうか」

 真面目そうな印象の女性が、落ち着いた声で話しかけてきた。僕より背が高い。スーツの着こなしがきちんとしていて、声には事務的な響きがあった。僕は素直にポケットからセキュリティカードを取り出し、拾った物を返しに来たのだと伝えた。

 「それは高橋さんの物ですね。本人が戻り次第、私からお渡しします。申し遅れました、中村と申します。高橋さんと同じ部署の者です」

 中村はセキュリティカードを受け取ると、表裏を丁寧に確認した。彼女の仕草には職業的な慎重さが感じられた。

 「失礼ですが、これをどちらで拾われたか教えていただけますか?」

 「花園大学医学部附属病院です」

 「かなり遠いところからわざわざ…」
 
 口調に微妙な変化が生じた。疑念というほどではないが、何かを測りかねているような響きがあった。

 「お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」

 「あなた方には『緑埜家の坊ちゃん』と呼ばれているようですが、お分かりになりますか?」

 中村の表情が一瞬で変わった。それは僕が正しい場所に来たことを物語っていた。

 僕は迷いなく相手の膝裏を蹴り上げ、右手で首を掴んで押し倒した。重心を失った中村は抵抗する間もなく床に倒れた。それと同時に僕は彼女の喉を押さえ続けた。これで助けを呼ぶことは困難になるだろう。

 「フクロウと呼ばれる老人が連れ去った女の子を探しています。白い髪で、小学一年生くらいの年齢。言葉遣いが幼い子です。知っていますよね?どこに隠していますか?」

 彼女の瞳が動揺で揺れている。素直に答えそうな気配を感じて、僕は喉への圧力を緩めた。

 「侵入者発生! アカバナの男性一人です!」

 解放された中村が、すぐさま大声で仲間を呼んだ。僕は騙されたのだと思ったが、もうそれは問題ではなかった。事態は既に次の段階に移っていた。

 僕は中村の声に反応して駆けつけてきた「カラス」たちと、一人ずつ目を合わせた。どこかで見覚えのある光景が、再びこの場に再現されている。全員で四十人ほどが、エレベーター前に集結している。年齢も性別も様々な人々が、僕一人を止めるために、それぞれ武器を手に攻撃の構えを取った。

 見た限りでは、ステラはここにいない。だからといって、「退いてください」とお願いしても、素直に応じてくれる雰囲気ではなかった。

 「これから行われる全ての暴力行為と施設の破損は、皆さんの副社長であり、かつて聖次郎と呼ばれた道田という男と僕との間のプライベートな問題を解決するために必要な手段です。
 それゆえ、敵意を持って僕を止めようとする人は、緑埜さんに賛同しているものと判断し、灰にして差し上げます。恐怖を感じる方は逃げていただいて構いません。緑埜と違い、僕は弱者をいじめる趣味はありませんから」

 僕のこの警告めいた忠告を聞いて、カラスたちは露骨に嘲笑した。それはちょうど子供が大人の真似事をしているのを見るような、そんな笑いだった。僕も一緒に笑いながら、中村から取り戻した高橋のセキュリティカードを、皆の前に投げつけた。カードは静かに床に落ちて、小さな音を立てた。

 「先に灰になった高橋さんに、遅ればせながら心よりお悔やみ申し上げます」

 挑発に釣られたカラスたちが、一斉に僕に向かって怒りを爆発させた。

 まずは人数を減らす必要がある。最初に突進してきた二人のトゲを灰に変え、例の方法で拍手を打った。金属と金属がぶつかり合う音が響き渡り、窓側の強化ガラスに亀裂が入る。

 一度目の拍手で同じ傷を負った体は、病院のロビーにいた時よりも速いスピードで再生を始めた。同時に、両腕の木炭化も加速していく。

 命を削る能力トゲと呪いによって、僕は徐々に死に向かっている。どのみち死ぬ運命の体だ。予定された死に対して、特に悲しみや悔しさといった感情は湧かない。ただ一つの希望として、父親の緑埜が大切にしている社会的名誉と築き上げてきたキャリアに大打撃を与えることができれば、それで満足して死ねるだろう。

 「同じことを繰り返すのも疲れますが、皆さんの仲間が拉致した女の子を探しています。白い髪で、小学一年生くらいの小さな子です。言葉遣いが幼く、よく泣きます。ご存知の方はいらっしゃいますか?」

 考えないようにしていたが、実は最近、一つの重大な懸念があった。ステラの存在についてだ。

 今まで街中で出会った数多くのノバナたちを、自分の手で施設に送り届けてきた。しかし、強い信頼関係を築けた子供は、ステラが初めてだった。

 普通のノバナは、警戒心を解くことなく、別れるまで無言か無関心を貫く。ところが、ステラは違った。僕を「パパ」と呼んで家族として認識してくれた。

 あの声を初めて聞いた時、僕は暗い微笑を浮かべた。僕のような人間には、人の親になる資格など所詮ない。俗念(ぞくねん)にまみれた、人格者からは程遠い存在だと思っていた。

 けれど、ステラと出会ってからは何かが変わった。家族の死を迎えるにふさわしい人生を送ってきた僕が、本来存在しないはずの親心を感じるようになった。この感情は、一生懸命に守りたいという気持ちとして現れた。

 説明は難しい。理解も不可能だった。ただ、僕の中で何かが静かに変化していることだけは確かだった。

 「パパ」と呼ばれた時から、色を失った僕の世界は、たった一人の子供を守るための世界に作り替えられた。ステラから存在意義を授けられたのだ。

 いずれ遅かれ早かれ別れる関係だと、僕も自覚している。あまり深く関わらない方が、別れた後の互いの生活への影響は少ないはずだった。

 「もう一度お聞きします。女の子は、どこにいますか?」

 僕は不機嫌な声で問いかけた。
 
 頭の中では冷静に判断しようとしても、心はステラを求めている。どうやら僕は、情愛中毒に陥ってしまったようだ。理性と感情の間で、何かが静かに軋んでいた。

 「少しお待ちください。秘書室の熊捕からお電話が入りました。出てもよろしいでしょうか」

 四十人の中で五人だけが意識を保ち、状況を見守っている。秘書室は副社長の直下にある部署だ。もしかすると、緑埜からの連絡かも知らない。

 「その電話、僕が出てもいいですか?」

 手に持っていた誰かの肉片を放り投げて、内線電話に耳を傾けた。

 「炭咲様」

 中性的で穏やかな声がスピーカーの向こうから聞こえてきた。

 「お久しぶりです。秘書室の熊捕(くまとり)でございます。先日は色々とお世話になりました。本日は本社にお越しいただき、ありがとうございます」

 熊捕は、本題に入る前から礼儀正しい口調で会話の主導権を握った。初対面の時からそうだった。緑埜の代理人として、あらゆる書類を手際よく処理し、退院した僕を施設に送り込んだ張本人だ。とにかく僕には気の毒な人だった。
 
 熊捕という名前も、古風でしかしどこか人工的な響きがある。僕にはいつも、誰かが慎重に選んだ偽名のような印象を与えていた。

 「お手数をおかけして申し訳ございません。今からお迎えに参りますので、一緒に執務室までお越しいただけますでしょうか。緑埜副社長がお待ちしております」

 「花園大学医学部附属病院から女の子が一人攫われました。福社長の緑埜さんの命令ですか? それとも単なるビジネス犯罪ですか?」

 「ご用件については承知いたしました。恐れ入りますが、通話では共有できる部分が限られておりますので、直接お会いしてからお伝えします。五分後にそちらへ参ります。少々お待ちください」

 それだけ言い残して、熊捕の方から一方的に電話を切った。

 「この階に男子トイレはどこにありますか?」

 僕は受話器を置いて、一人で男子トイレに向かった。

 戦いで汚れた顔を冷たい水で洗い流し、トイレットペーパーで丁寧に拭き取る。洗面台の鏡に映った自分の姿は、髪の色が極限まで抜けて真っ白に変わり、長さもかなり伸びていた。なんとも無様な格好だった。

 臨機応変に、水で前髪やサイドの髪を後ろに撫でつけてオールバックにする。それで少しはマシに見えた。

 身なりを整えてトイレを出ようとした瞬間、僕は口から大量の血を噴き出すように吐いた。激しく咳き込み、痰が詰まる苦しさと共に、ひどいめまいがしてうずくまった。短時間にトゲを使い回した反動が始まったのだ。

 内臓がついに限界を超えて悲鳴を上げているような気がする。とにかく、外にいる人々に気づかれないうちに、香月からもらった薬を喉に押し込んだ。

 まだ耐えられる。僕は乱れた髪をもう一度後ろに撫でつけながら、血で汚れた口の周りを水できれいに洗い流した。鏡に映った自分の顔は、さっきとは様変わりしていた。顔色は青白く、目の下に黒い隈ができ、鼻や歯からは血が流れている。

 自分の病弱な姿に呆れた。僕はできる限り血を拭き取り、深呼吸を繰り返した。唇は強く噛んで赤くし、頬は軽く叩いて血色を良くする。痛みも苦しさも、どこか他人事の他人事のように捉えながら冷静さを取り戻した。

 「大丈夫だ。少し計画が早まっただけだ。しっかりしろ」

 僕は声に出して、自分の決意を固めた。

 トイレを出ると、カラスたちが三々五々、群れを作って人が出てくるのを待っていた。僕は待機していた女性のカラスにヘアゴムを二個借りて、後ろ髪をポニーテールに結んだ。

 「お待ちしておりました。執務室までは私がご案内させていただきます」

 熊捕がエレベーターから降りて、廊下から僕に挨拶をした。相変わらず背の高い人だと思う。熊捕は身長百八十センチの元日本代表クライミング選手だった。スーツの上からでも、引き締まった筋肉が見て取れた。

 当時四十歳だった熊捕は、今年で五十歳になったというのに、体つきを見ると三十代に負けないほど鍛えられている。漢字の通り、本当に(クマ)のようだ。

 「前より背が伸びたような気がします。最近、筋トレでもされていますか?」

 熊捕が何気なく気づいたことを口にした。

 「失礼しました。この階に着いてから、逞しい気迫を感じ取って、つい思ったことを口に出してしまいました。どうぞ、気にせずお乗りください」

 ノバナの僕が成長するはずはない。そう思って、エレベーターの鏡から自分の横顔を落ち着きなく眺めた。僕の目にはまだ何の変化も見当たらず、今も相変わらず小さな体に過ぎなかった。

 「ドアを閉めさせていただきます。眩暈がする可能性がありますので、手すりにおつかまりください」

 二人を乗せたエレベーターは、静かに三十階まで上がり続けた。途中から、東京市内が一望できるガラス張りの壁が現れ、気まずい雰囲気から逃れることができた。

 まだ冬の季節に染まった街は、上空から見ても白一色だった。東の方角には、新吉原と思われる高層建築群も見える。東京タワーより低くても、東京に住む数万人の欲望を吸い取るその場所の存在感は、一度目に入れば、どこにいても見つけ出せる。

 お礼とお詫びを言わなければならない人がいる時は、なおさらだった。

 到着しました。足元にお気をつけください」

 電子チャイム音とともにエレベーターの扉が開いた。地上から離れた高層階には、のどかで美しい風景と壮大な建築物が広がっていた。窓の向こうの庭園には、寒木瓜や椿をはじめとした冬の花が色鮮やかに咲き誇っている。

 内部は天井が高く、白い大理石の柱が空間を支えている。窓からは地平線の彼方まで見渡すことができた。建築に興味がなくても、これほど重厚な素材で建てられたビルなら、耐震工事にかなりの費用がかかっただろうと思われる。

 「炭咲様、執務室はこちらです」

 熊捕に案内されて、僕は緑埜のいるところまで歩いていった。廊下の壁には骨董品やヨーロッパの古い絵画が並んでいたけれど、どれも僕の心を動かすものではなかった。

 でも、ある絵の前で僕の足は自然に止まった。三人家族を描いた水彩画だった。父親と緑埜家の奥さん、それから小さな女の子。不思議なことに、その絵だけが照明の光を受けて、まるで内側から光を放っているように見えた。家族が寄り添って過ごす穏やかな時間を切り取った、静かで幸福な絵だった。

 僕はしばらくその絵を見つめていた。なぜかはわからないけれど、その絵は僕の中の何かに触れたのだった。

「どうかなさいましたか?」

 油絵の中に描いている父親は偽善者の面に笑みを浮かべ、正面の僕を見つめていた。あの顔と向き合うまでに七年もかかった。子を捨て、家族を犠牲にしてまで仕事に夢中だった男にとって、この絵は家族への欺瞞に満ちた行為にしか思えない。人付き合いの悪い僕が人を評価できる立場ではないが、父親に関しては断言できる。あれは家族を作ってはいけない男だ。

「行きます」

 もう一度、幸せそうな絵画に視線を向けてから僕は答えた。

 熊捕は執務室の前で二回ノックし、扉を開けた。室内は中央に長い応接テーブルがあり、壁際には本棚が並んでいる。曇り空のようなブルーグレーの床と洒落た家具は、どれも高級品に見えた。

 「お前はそこに座れ。熊捕、お茶を用意しろ。お菓子も一緒に頼む」

 「承知いたしました。京都のお土産をお持ちします」

 「いや、それは既に各務家の娘に渡したから残っていない。この間の出張で買ってきた温泉饅頭がある。それを出せばいい」

 この人は望み通りに出世したのだ、と僕は思った。昔から毎日を書斎に閉じこもり、家族に背を向けて研究だけに時間を費やした人だった。週末の家族旅行は時間の無駄だと言って、家で小さなケーキやケンタッキーを注文して食べた記憶しかない。家族写真は古いデジタルカメラで撮って家のプリンターで印刷し、小さなアルバムに保管していた。骨の髄まで自分のことしか考えない人間——それが僕の元父親だった。

「何をぼんやりしている。座らないのか?」

単刀直入(たんとうちょくにゅう)に聞きます。二時間前に病院から連れ去った女の子は、今どこにいますか?」

 緑埜はテーブル前のソファに腰を下ろした。「座れと言っただろう。話はその後だ」

 高圧的な口調に、反論も交渉の余地も許されなかった。僕はステラの話をする気持ちを抑えて、大人しく一番離れた席に座った。

 「炭咲様にはウーロン茶をご用意しました。饅頭と一緒にどうぞ」

 熊捕がテーブルにお茶とピンクと緑色の饅頭を置いた。

 「お話が終わりましたら、呼んでください」

 事務室の空気が急に重くなった。饅頭を味見するよりも早く、ステラを連れて家に帰りたいと思った。

そういえば、今住んでいる部屋にステラと二人で暮らすことについて考えを巡らせていた頃、向こうから六年ぶりに話しかけてきた。何かに背中を押されたように、口を開く。六年間の沈黙を破って。

 「お前はいつまでそうやって逃げているつもりだ。そろそろ本家に帰って来い」

 声は低く、抑制されている。その奥には長い間押し殺してきた何かがある。僕に対する苛立ちか、それとも諦めか。あるいは、もっと複雑な感情なのかもしれない。

 父親はしばらく沈黙が続いて、今度は少し違う口調で言った。
 
 「芙美にも会わせてやりたいんだ」

 緑埜(みどりえ)芙美(ふみ)。僕は一度もあの女を母親と思ったことはなかった。でも、そのことを口に出すつもりはない。そんなことを言っても、何も変わらないということを知っている。

 僕は熱いウーロン茶を一口で飲み干して軽く息を吐いた。

 「言いたいことはそれだけですか?何か勘違いをされているようですが、僕はステラの居場所を聞きに来ました。他に話すことはありません」

 父親は眉間に皺を寄せて、無言で目を閉じたまま、別の角度から話を切り出した。

 「質問を変えよう。これからあの子をどうするつもりだ」

 その声には、最初の厳しさとは違う何かがあった。実用的な、現実的な響きだった。

 「まさか君が一生面倒を見るつもりじゃないだろうな。まだ未成年なんだぞ」

 どの口でそれを言うのか。僕はそう思うだけで、沈黙で言い返した。心の中では答えを知っていた。僕はステラを手放すつもりはない。それがどんなに馬鹿げたことだと思われようとも。

 「やはりあなたが依頼主でしたか。なるほど、教えてくれてありがとうございます。あの子は今どこにいますか?」

 「実の父親に向かって、その呼び方はなんだ。僕はお前をそんな風に育てた覚えはない」

 「当然です。あなたのお金で育てられた息子は、七年前に起きた東京大火災で死にました。今この場いる(ぼく)は、失った家族を取り戻しにきたただの他人です」
 
 「貴様!」
 
 僕は何も答えず、ただ机の上の空っぽのコップを眺めていた。その透明な底に、何か答えがあるかのように。

「ステラはどこにいますか?」

 僕は事務的に尋ねたが、返ってきたのは怒鳴り声だけだった。七年経っても、この人は何も変わっていなかった。

 「ステラの居場所を教えていただけないなら、ここで失礼します。お忙しい中、ありがとうございました」

 「この恩知らずが!」
 
 父親がテーブルを叩きながら声を吐き出した。

 「お前だけが被害者だと思っているのか?あの夜に千春と華栄が亡くなったのは、君にも責任がある」

 七年という長い時間をかけても消し去ることのできなかった罪悪感が、地面に垂れた影のように僕の肩に戻ってきた。

「いい加減、あの二人の死を他人のせいにするのはやめろ。過去に取り憑かれていても、亡くなった二人は蘇らない。生きている人間は前に進むのが、この世の道理だ」

 道理という言葉が胸に深く刺さった。この人は一体何を理解しているというのだろう。優れた言葉に己の身を隠して、大人らしい振る舞いを見せても、それは過ちを美しく装飾しているようにしか思えない。緑埜家の娘は、この男の何を見て再婚を決めたのだろう。僕にはそれが解らなかった。

 家族は死んでも家族だ。それは変えようのない事実だった。無視しようとしても、忘れようとしても、魂に刻まれた関係について他人からああだこうだと言われると、僕の中の何かが静かに怒りを燃やし始める。それは深い井戸の底で燃える炎のような、抑制された怒りだった。

 「十分説明したから、お前も理解したと思うが——」

 父親は携帯を取り出して誰かに電話をかけた。

 「今日、お前の妹が本社を訪れる予定だ。この際、顔を合わせて挨拶しておけ」

 なんて、おぞましい想像だろう。僕は歯を食いしばり、ソファに背中を預けて天井を見上げた。照明に照らされたコンクリートの壁が、色のついた泥のように見えた。

 キリのない会話に疲れて、僕は軽い酔いのような眩暈を覚えた。一方、父親という男は革張りの椅子に座り直すと、机の上の内線電話を取り上げて熊捕に連絡を入れた。

 「優香(ユカ)に連絡して、今どの辺りにいるか確認してくれ」

 「お客様の方はいかがいたしますか?」

 スピーカーモードで通話の内容が部屋の中に広がった。

 「契約を果たすまでは帰らないとおっしゃっています」

 「各務家に借りを作る良い機会だ。私が契約書を持って直接会いに行くまで、ゲストルームには誰も近づけるな。用事が終わってからそちらに向かう」

 内線を切ると、席を立って机の引き出しを開け、何かを探し始めた。

 「最近、お前が仕事を休んでいることは知っている。多い金額ではないが、しばらくこれで生活できるだろう。受け取れ」

 また自分の分を越えたお節介で、人を見くびっている。歳を取っても変わらない作り物の表情が、心配するふりをして百パーセントの嘘を湛えている。一方で、相変わらず昔のままでいてくれて安心した。

 僕は封筒を開けて中身を確認した。一万円札が五十枚と、交通系ICカードが二枚入っていた。今まで通り、お金で二人の関係を何とか誤魔化すつもりだろう。ますます人を失望させる思考回路を持った男だ。他の人なら多少のお世辞も言えるが、「こいつにだけは借りを作りたくない」と思う自分がいた。「大事な何かを得るために嫌な人とここまで会話を続けると、ストレスで病気になる」と呆れている自分もいた。
結局、お金の入った封筒はテーブルの上に置いて、最後にステラの所在を聞いた。

 僕は封筒を開けて中身を確認した。一万円札が五十枚と、交通系ICカードが二枚入っていた。

 いつものパターンだった。お金で何とかしようとする。この男はいつもそうだった。問題が起きると、まずお金を出す。それで解決したような気になる。まるでお金さえあれば、人の心も時間も買えると信じているかのように。

 僕は封筒をテーブルの上に戻した。

 「こんなもので何とかなると思っているんですか」

 父親は何も答えなかった。でも、その顔には困惑の色が浮かんでいた。お金で解決できない問題があるということが、この人には理解できないだろう。本当に、気が合わない人間だ。

 「大事な何かを得るために嫌な人とここまで会話を続けると、ストレスで病気になりそうです」

 僕は率直に言った。もう隠すつもりはなかった。

 「最後に聞きます。ステラはどこにいますか」

 長い沈黙が流れた。時計の針の音だけが、静かに時を刻んでいた。

 「またその話か?君は、たかが実験体の女の子が実の家族よりも大事だと言いたいのか?諦めろ。アレはもうお前の手を離れている」

 「実験体って何ですか?初耳です。あの子は僕が街で救ったノバナです」

 「これを読んでみろ。お前が救ったという女の子は、各務家の娘が作り出した禁断の子供だ。これが第三者にバベルに通報された場合、お前は一朝にして重罪犯になる」

 父親の手には契約書があった。既に社内稟議も通っているようだった。

 僕はその契約書を読んだ。

 『花と巨樹の遺伝子情報を組み合わせて改良品種に成功した新しい花に関する全ての研究資料を、ミドリエ製薬会社に提供する』

 新しい花の詳細には、性別の『女』だけが表記されていた。名前も特徴も記載されていない。まるでステラが物のように扱われている。

 契約内容を見ると、一方的にミドリエ側が得をする条件ばかりだった。常識的に考えて、こんな契約が成立するはずがない。立派な会社を経営している代表が、自ら機密情報をライバル会社に渡すなど、現実的ではない。

 契約相手の会社名には『株式会社各務コーポレーション』とあった。担当者の名前欄は空白になっている。

 熊捕との内線での会話から推測すると、各務家の代理人は今、この建物のゲストルームにいる。自分で確かめるしかない。

 僕はそう決めた。

 「分かりました。僕もその場に同席させてください」

 「却下する。一般人が契約に口を挟まれては困る。君は優香が着くまでここで待て」

 「何か勘違いしていませんか?はっきり言わせてもらいますが、僕に新しい妹はいません。それと、これはお願いではなく提案です。最後に、緑埜の娘と僕を二人きりにしても本当に問題ないとお思いですか?もし僕が『実は君の義理の父親は昔、実の息子の体を利用してプロジェクトの実験体にしたことがある』と真実を伝えたら——」

 「何か勘違いしていませんか?」

 僕は穏やかに言った。まるで天気の話をするように。

 「はっきり言わせてもらいますが、僕に新しい妹はいません。それと、これはお願いではなく提案です」

 父親は黙っていた。僕は続けた。

 「緑埜の娘と僕を二人きりにしても本当に問題ないとお思いですか?」

 僕は微笑んだ。とても自然な微笑みだった。

 「もし僕が彼女に話したらどうなるでしょうね。実は君の義理の父親は昔、実の息子の体を利用してプロジェクトの実験体にしたことがある、と」

 父親の顔に影が落ちた。当たりだったようだ。

 「そんな話を聞いたら、あなたの娘はどう思うでしょうか。きっと興味深く思うでしょうね」

 僕は椅子に深く腰を下ろした。

 「さて、どうしますか?」

 最後の言葉でブチ切れた父親に、頬を殴られた。口の中から血の味がする。最後は荒い息を吸い込み、もう一度同じ頬を手のひらで叩いた。久しぶりの痛みだった。昔はたまに怒られるたびに、掃除道具で手のひらやふくらはぎを叩かれた。あの頃は痛みよりも恐怖が強く、父親から逃げ回った記憶がある。

 最後の言葉で父親の中の何かが音を立てて壊れた。長い間抑えていた何かが、一気に噴き出した。僕の頬に平手打ちが飛んできた。口の中に血の味が広がる。鉄のような、懐かしい味だった。父親は荒い息を吸い込んでいる。そして、もう一度同じ頬を叩いた。久しぶりの痛みだった。しかし、不思議と痛くなかった。昔に比べれば、ずっと軽い。

 昔はもっと酷かった時もあった。怒られるたびに、掃除道具で手のひらやふくらはぎを叩かれた。あの頃は痛みよりも恐怖の方が強くて、僕は父親から逃げ回っていた。

 「終わりましたか?」

 僕は頬を手で拭いながら言った。

 「随分弱くなりましたね」

 「黙れ。その生意気な口をきくのはやめろ。私の我慢も限界だ。何のために、誰のために、私があのプロジェクトに参加したと思ってるんだ?」

 とうとう怒りが頂点に達し、父親の顔は怒りで歪み、全身に震えが走った。

 「結局、家族みんなを道連れにして、残ったのは僕一人だけじゃないですか。誰のためなんて、もうその言葉は聞きたくない。卑怯ですよ、そういう言い方は。子供だった僕が親に逆らって拒否できたと本気で思ってるんですか?父さんに責任があるとは考えないんですか?正直に言ってくださいよ。俺は失敗して逃げた、俺は家族を犠牲にしてここまで来たって、妹の前ではっきり言ってみてください」

 「黙れと言ったはずだ!」

 もう一発殴られたところで、二人の関係がこれ以上悪化することも改善されることもなかった。根深いところで互いを憎悪し合い、いつしか腐敗した悪臭が立ち込めていることにも気づかず、今なお引きずっている関係——それが僕たちの現実だった。

 傷だらけの二人の間で、冷酷な内線電話が鳴り止まない。しつこく響く音に、最後はケーブルを引きちぎって壁に投げつけた。飛び散った欠片が身体に突き刺さり、小さな切り傷を作った。

 「気が済むまで殴ってもらっても構いません。ただし、その後は必ず僕も一緒に、各務家の代理人がいる部屋に連れて行ってください」

 父親は血色を失った作り物のような表情で答えた。

 「お前と口論するのにももう疲れた。勝手にしろ。だが、お前はあくまで熊捕の代理で参加することを忘れるな。独断で妨害するようなら、会社として個人のお前を相手に訴訟を起こす。返事は?」

 僕は約束を交わして、ソファに身を沈め直し、頬の血を拭った。ステラを取り戻すまで、もう少しの辛抱だ。離ればなれになってからまだ一日も経っていないのに、三日間は過ぎたような感覚がする。次に顔を合わせる時にステラがお腹を空かせているだろうと思い、熊捕から譲り受けた土産をポケットに忍ばせた。小豆味と苺味だった。

第6話 七日間の契約家族

 ゲストルームは三階下のオフィスエリアに設けられていた。来客がくつろげる休憩室、飲み物コーナー、簡易クリーニングサービスまで揃っている。僕は足早に周囲の設備を確認しながら、ゲストルームBの前でノックをする父親の背後に無言で立っていた。

 「はい、どうぞ」

 遠い夢の底から浮かび上がってくるような少女の声が、ドアの向こうから聞こえた。

 「失礼いたします」

 部屋の中には、グレーのシャツドレスの女性がゲスト用の椅子に腰掛けていた。業務用タブレットを手に、何かの連絡を待っているらしい。整った眉と丁寧に施されたメイクが、洗練された印象を醸し出している。身に着けたアクセサリーも、一目で高級品だとわかった。

 この人は降伏しに来たのではない、と一目見ただけでわかった。様々な武器で身を武装し、先手を打って攻めに来た女将軍——僕は目の前の女性を見ながら、なぜかジャンヌ・ダルクのことを思い出していた。

 「息子さんを人の前に連れてくるなんて、緑埜さんらしくありませんね」

 「はは、申し訳ございません。事前にご連絡できなかった点をお詫びいたします。特に問題は起こしませんので、ご容赦ください」

 結果的に父親の顔を潰す形になってしまった。意図したわけではないが、これはこれで悪くない。だから僕の同行を嫌がったのかと、さっきの会話を思い返した。どうせ結果は同じだったとしても、正直に理由を説明してくれれば理解できたのに。

 各務家の代理人は僕を見つめ、指を顎に当てて話しかけてきた。

 「お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」

 「炭咲千春と申します」

 僕は聞かれた名前だけを答えて口を閉じた。

 「初めまして、炭咲さん。失礼でなければ、両手の傷についてお聞きしてもよろしいですか?拝見したところ、木炭化がかなり進んでいるようですが」

 「ああ、これですか」僕は自分の手を見下ろした。「本来は包帯で隠しているのですが、今日は慌てていて巻き忘れてしまいました。感染の恐れはありませんので、ご安心ください。普通の火傷と同じレベルです」

 「失礼な質問にも丁寧にお答えいただき、ありがとうございます。文献や論文を見ても、生きた人間に木炭化が起きた実例はなかったもので、つい興味を持ってしまいました」

 彼女はそう言いながら、さらに奇妙な頼み事を切り出した。

 「もしよろしければ、間近で直接確認させていただけませんか?もちろん、嫌でしたらお断りください」

 相手から契約書の話を切り出さないのは少し奇妙だった。何を考えているか読めない女だ。父親の様子を見ると、特に止める気配もなかったので、僕は彼女に近づいて両腕を差し出した。ただし、まだ熱を持っているので触れないでもらうよう伝えた。

 「おっしゃる通り、確かに木炭化していますね。ありがとうございます。これで確信が持てました」

 それを言い終わると、彼女は突然僕の胸ぐらを掴んだ。

 「不愉快な親子ですね。各務家を相手に嘘が通用するとでも思っていますか?最初から襲った犯人が緑埜家と関係していたのなら、交渉の余地はありません。あの子をどこに隠しているのですか?」

 僕は各務の激しい口調に動揺しながらも、疑問をぶつけてみた。

 「最初からって、何の話ですか?僕は子どもを襲っていません。むしろ僕もあの子を探しに来たんです」

 「想像力の足りない言い訳ですね」
 彼女はそう言い放った後、今度は壁際に立っていた父親に向き直った。

「緑埜さん、余計な真似をする前に、ご自分の立場をお考えください。緑埜家の副社長であるあなたの息子が、ガーデンズ学園でテロを起こした真犯人だとマスコミに流れたら、この場で一番困るのは緑埜さんご自身です」

 圧倒的に不利な状況に追い込まれた父親は、携帯電話を下ろして通話を切った。ガーデンズ学園で発生した事件に僕が直接関わっていることを知らない顔をしている。各務家の娘がどうやって、父親でさえ把握できなかった事実を知っているのかは分からない。だが、これで状況が一変した。

 「各務コーポレーションの資産を直ちに返していただければ、今の話は契約書の秘密条項に追記し、口外しないことを約束いたします。当然、マスコミにも緑埜家の当主にも口止めいたします」

 彼女の目がキラキラと輝いた。

 「今の提案について、いかがでしょうか」

 状況の急展開についていけずにいる父親は、落ち込んだ声で答えた。

 「承知いたしました。今から部下に連絡して、アレを連れてまいります」

 そう言って熊捕に電話をかけた。

 僕も二人の会話に少し戸惑ったが、結果的にステラを取り戻せる話になったので、黙って見守った。

 五分後、ステラと熊捕が一緒に部屋に入ってきた。ステラは部屋の中を不安げに見回し、警戒心を高めていた。目元は泣いたせいで腫れ、涙の跡が頬に残ったままだった。

 「ステラ、こっちにおいで」

 僕の声を聞いたステラが目を大きく見開き、大粒の涙をポロポロと溢し始めた。心臓が針で刺されるような痛みを感じた。あの小さな子が泣く姿を見ていられなかった僕は、込み上げる感情を抑えながら、大きく手を広げてステラを抱き上げた。

 「パパがいなくなって、ずっと探してた。会いたかった」

 おそらく今この瞬間は、残り少ない人生の中で何度も何度も思い出される、忘れ得ぬ記憶として心の奥に刻まれるだろう。そう思いながら、ステラが落ち着くまで頭を撫でてあげた。

 「お姉様から離れてください!」

 横から僕とステラの間に割り込んできたのは、各務家の代理人だった。大人げない口調でステラを「お姉様」と呼んでいる。とにかく、僕はまずステラの安全のため、各務から距離を取り、ステラの耳元に囁いた。

 「ステラ、あの人は知り合い?」

 「ううん、ステラ知らない。初めて見る人」

 ステラが怯えた様子で否定すると、知らない人扱いされた各務は慌てて自己紹介を始めた。

 「お姉様、私です。お姉様が大好きなネネです。お忘れになりましたか?」

 僕は慌てて腕を前に出し、ネネと名乗る代理人を制止した。

 「これ以上近づかないでください。子供が怖がっています」

 話を聞いた各務は冷静さを取り戻し、丁寧にステラと二人だけにしてくれるよう頼んだ。当然、僕はステラを危険にさらしたくないと断り、結局、僕も一緒に部屋に残って話を聞くことにした。

 「少しお姉様と後ろを向いていていただけますか?二分で準備を終わらせます」

 謎めいた言葉を残して、彼女は服を脱ぎ始めた。

 全く予想のつかない人だと思いながら、ステラと共に後ろの壁を暫く見つめた。僕と会えてようやく心を休めたステラは、その短い間にすやすやと居眠りを始めた。眠っている子どもの体温が心臓に届いて、僕も少し眠気を感じた。ステラは人に安心感を与える不思議な子だ。

 「お待たせしました。もう振り向いて大丈夫です」

 あくびを押し殺そうとしたタイミングで、各務から許可が下りた。眠り込んでいるステラの頭を僕の手のひらで支えながら、ゆっくりと体を百八十度回転させた。

 振り返った瞬間、僕は現実と夢の境界線がぼやけているような錯覚に陥った。

 さっきまで僕と普通に会話を交わしていた各務家の代理人が、そこにいた。いや、正確に言えば、そこにいたのは代理人だったが、僕が知っている代理人ではなかった。別の人のようだった。

 彼女は膝をつき、床に額がつくほど深く頭を下げている。しかも全裸で、背中も背筋も何も身に着けていない素肌の状態だった。これはまずい状況だった。このまま彼が顔を上げたら、きっと危険なことになる。そんな予感があった。

 僕は静かに息を吸い込んだ。空気中には、何かが変わってしまったような、微かな緊張感が漂っていた。

 「何ですか?服まで脱いでお願いするような筋合いではありません。服を着てください、お願いします」

 僕は目をぎゅっと閉じたまま、できるだけ冷静に言った。

 「こちらに来る際、余分な服を持参できませんでした。一時しのぎとして人形の服を身に着けていましたので、あまり驚かないでください」

 声が微妙に若く聞こえた。気のせいだと思いながらも、なかなか目を開けて相手を確認することができなかった。

 「あの、炭咲さん。会ったばかりの私を完全に信じてくださいとは申しませんが、一度だけ私の話に従ってもらえますか?ずっと目を閉じたまま会話するわけにはいかないでしょう」

 その時、僕はあることを思い出した。新吉原のこひなが着用していたスーツも確か人形と呼ばれていた記憶がある。お風呂場で人形の体に記載されていた製造メーカーは、各務コーポレーションだった。

 「もしかして新吉原のこひなと知り合いですか?」

 確認のために各務に質問を投げかけた。

 「えっ、こひなちゃんを炭咲さんがなぜ知っているんですか?まだ未成年なのに?どうして?」

 意外な人脈に反応が崩れた。

「すみません、答えになりませんでしたね。はい、こひなとは長い付き合いです。毎週定期的に訪問して、人形の点検を行っています。今日は契約の件でリスケジュールしましたが、来週に予定を入れました」

 話を聞いて、床に身を伏せた「人形」の背中を詳しく見た。首の辺りに花タンポポのタトゥーが彫られている。それが製造メーカー名の代わりであることを僕は知っていた。人と人形の境界線は、もはや人の目では区別がつかないほど差はない。人間より人間らしく作られた精巧な人形を、今日だけで二台——いや、二人と遭遇した。意外と人形は自分の日常と遠く離れていない場所にあるのかもしれない。それに、人形を着た人でも社会活動から排除されず、普通にみんなと一緒に生活できる可能性を確かめた。

 「あの、炭咲さん。中身の私はここです」

 黒い姫カットの少女が椅子に座って僕を見上げていた。艶やかな肌に浮かぶピンク色の唇が妙に印象的で、オレンジ色の瞳と視線が交わった瞬間、なんともいえない既視感のようなものが胸の奥で静かに波打った。この子はきっとステラと何らかの関係があるのだろう——僕はそう思った。根拠があるわけではない。ただ、そんな気がしただけだ。

 「改めて、きちんと自己紹介をさせていただきます。私は各務家の次女で、各務有馬(アリマ)と申します。お姉様がいろいろとお世話になっているようで」

 小さな体のどこかから、大人顔負けの静かな力強さのようなものが滲み出ていた。

 「ちなみに炭咲さんはおいくつですか?」

 十四歳だと答えると、アリマは矢継ぎ早に質問を浴びせかけてきた。

 「どちらのご出身ですか?」

 「現在の収入をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

 「お姉様のお名前をなぜステラにしたのですか?」

 「ご両親とは仲が良いですか?」

 「ガーデンズ学園の共通テストが行われた当日にテロを起こした理由は何ですか?」

 「お付き合いしている女性はいらっしゃいますか?」

 まるで機関銃のように質問が飛んでくる。僕は少し圧倒されたけど、ステラの家族を前にして嘘はつけないと判断し、一つずつ答えを出していった。

 「——最後に、ガーデンズ学園で起きたテロについては、僕が気を失ってから発生した出来事なので詳細は知りません。こひなが一緒にいたので、彼女なら何か知っているかもしれません。あと、お付き合いしている女性はいません。以上です」

 僕の回答を黙って聞いていたアリマは、タブレットからその日の記事を検索して僕に見せた。

 「犯人は首から上が炎になって周辺一帯を燃やして逃走し、今も容疑者は特定できていない状態。現場にいた証拠も燃やされて、バベルではカラスにも依頼して犯人探しを行っている」

 記事の最後には、防犯カメラで薄っすらと映った首なしの写真が掲載され、犯人の正体を推測する内容が書かれていた。僕の記憶によると、カカシから首を斬られた直後にこの事件が発生したと思われる。だとすれば、学園の関係者たちは犯人が誰か分かる可能性が高い。僕はそう考えて、この仮説をアリマに伝えた。

 「バベルの関係者から聞いた情報では、生憎防犯カメラが原因不明の理由でその時間帯のデータが全て使用不能になったそうです。復元できたデータもこの写真一枚だけ。防犯カメラを管理していた担当者も、真犯人のことは覚えていないと言いました」

 アリマさは話を一度止めて息を吐いた。

 「実は、炭咲さんの正体を事前に把握できた理由も、こひなちゃんの人形が記録した動画のおかげです。各務コーポレーションが製造した人形は、眼球で取得したデータを個人や本社のクラウドサーバーにアップロードするように設定されています。今回の事件も、人形が機能停止する前にサーバーに動画がアップロードされていました。犯人の姿は撮れていませんでしたが、お姉様と一緒にいた炭咲さんの方が重要だったので、そのデータを参考にして、バベルに通報する前に私の方から先に緑埜家の副社長に連絡し、所在を調べました」

 話を聞いて、ますます真相が分からなくなった。

 「記事には人的被害はゼロ人と記載されていますが、これは本当ですか?」

 「事実です。こひなちゃんもお姉様も、現場にいた受験生三百十二名も、全員傷一つなく無事でした」

 「こひなからは僕に関して話を聞いていなかったみたいですね」

 「はい、ですから少し裏切られた気持ちもあります。しかし炭咲さんを隠したとはいえ、私には些細なことです。後でゆっくりと事情を聞けば済む話ですからね」
そう言い残して、アリマは次の話題に移った。

 「ところで、この後のご予定はいかがですか?」

 特にないと答えた僕に、アリマは話を続けた。

 「実は、ちょうど私からお願いがありまして、このままお姉様と一緒に、しばらく炭咲さんのお宅で泊まらせていただけませんか?もちろん、生活費はお支払いします」

 この子は一体何を言い出しているのか——突然の三人暮らしを提案され、僕は冷静な判断力を失い、戸惑った。真面目に親に育てられてもいない僕が子どもの面倒を見るなんて、道端の猫でも首をかしげるような話だ。

 「五日間だけです。お姉様が炭咲さんから独立できるまで、五日間は今まで通りにお世話していただけますか?五日を待たなくても、お姉様が慣れ次第、家から出ます。約束します」


 何かの家庭事情があるのだろうと思いながらも、頭の中では簡単に割り切れないものが残っていた。それはアリマにステラの話を聞かされたり、僕のことについて質問されたり、曖昧なお願いをされたりした時から、密かに芽を出していた感情だった。第三者の立場でこのことを考えると、その感情が胸の奥で重くのしかかってくるのだった。

 自分以外の存在に責任を取れるほど、僕は器の大きい人間ではない。僕はただの子どもに近い存在で、自分のことで精一杯だった。それなのに、なぜか人には強がって見せてしまう。人形のように無邪気なステラに保護本能をかき立てられるのは正常な本能だろう。そしてその本能に従った今、僕はこの先もずっと保護者の立場に立たされ続けることになるのかもしれない。

 「五日間一緒に生活しなくても、寝ている間に実家まで連れ戻したら、本人は気づかないと思いますが、だめですか?」

 それを聞いたアリマは、人を軽蔑するような目で僕を睨んだ。

 「今のは最低でした。お姉様の前では絶対におっしゃらないでください」

 「最低」という言葉に口を封じられ、何も言い返せなかった。気がつくと、話は僕が望まない方向に流れ、五日間は各務家の姉妹と一緒に生活することになった。アリマがここまでステラを思ってくれるのは、やはり家族だからなのだろう。ステラに確認する間もなく、僕が住んでいるアパートに向かうことになった。

 頻繁に留守にしている部屋の掃除ができていないことを思い出した時、アリマは人形を着て出かける準備を済ませていた。

 「それでは、参りますか?引き続きよろしくお願いします」

 出発を告げるアリマの元気そうな声に、僕は家に着くまでにコンビニに寄って掃除道具を買ってもいいか、あらかじめ了解を求めた。

 「構いませんが、どれほど汚いのですか?必要なら私もお手伝いします」

 そう言われて、僕は「まぁ、まぁ」とつい誤魔化した。

第7話 束の間の幸せ

 東京都内から荒川大橋(あらかわおおはし)を渡り、江戸川区に向かう高速道路で、久しぶりに冬の海を眺めた。十二年前の大震災で、この辺りは津波によって水平線まで綺麗に掃き清められた。

 東京湾の主要航路が閉鎖されてから二年が経ち、三年目にして奇跡的に海外貿易が再開された。海外メディアは「東京ミラクル」と呼んで、前代未聞の出来事として報じた。

 しかし、景気回復の陰には莫大な犠牲があった。街には家と職場を失ったホームレスやノバナが前年度より二割増加していた。バベルは当初、彼らに臨時避難所を提供し、日常生活に戻れるまでサポートを続けた。だが翌年、東京都内で大火災が発生し、大勢の命が失われた。避難所使用の優先順位から外され、人々は再び街に追い出された。
 
 僕がTGCでアルバイトを始めた頃、老若男女を問わず、二十歳前後の若者から高齢者まで、センターで配る無料弁当を求めて昼時間の一時間前から行列を作っていた。現場で働いた際、闇市で家賃より安い値段で取引されているノバナたちを、一週間で三十人以上施設に連れてきた。

 「お嬢様、もうすぐ目的地に着きます」

 考え事をしている間に、車は船堀に到着していた。東京都心まで電車で約二十分の町で、家賃の安い物件が多い。僕の住む桜ハイツも周辺より安い家賃で入居でき、冬の時期に空き家に住み着くノバナが若干増えることを除けば、住み心地の良い住宅街に建っている。

 車が入るには狭い道のため、僕たち三人は車を降りて歩いて移動した。地上より三メートルほど高い台地の割には坂道が少なく、ほとんどが平地だった。隣を流れる川では、週末になると釣り人で賑わい、子供たちのはしゃぐ声がよく聞こえる。見た目には穏やかで平和な街だった。

 「申し訳ございませんが、十五分ほどステラと一緒に外で遊んでいただけますか?部屋の掃除がまだ済んでいないもので」

 眠そうなステラがアリマの手を握って言った。

 「ステラも一緒に掃除する」

 「お姉様のおっしゃる通りです。三人で掃除すれば早く終わりますし、一緒にやった方が効率的だと思います」

 僕は困った顔で二人を制した。

「いや、本当に汚いんです。まず僕が掃除してみて、それでも終わらなければ手伝っていただきます」

 説得力に欠けたが、事情を説明する時間がなかった。二人が近くの公園で散歩している間に、僕は郵便ポストの中から予備の鍵を取り出し、三階の部屋の扉を開けた。

 電気をつけると、何日も放置されたゴミ袋から一週間前に食べ終わった弁当まで、腐敗臭とともに床に散らかっていた。今が冬でよかったと思った。

 とりあえず窓を開けて不要な物は袋に詰め、全てゴミ置き場に運んだ。流し台では湯が出るまで蛇口を開けっ放しにし、その間に掃除機をかけた。古い服や下着は丸めて二槽式洗濯機に放り込んだ。洗濯機に水が流れ込む音がドア越しに微かに聞こえた。

 一人暮らしを始めてから、部屋の掃除は週に一度だった。明日から五日間、三人での生活が始まる。今まで通りというわけにはいかないだろう。最低限、人に見られても恥ずかしくない程度には保たなければならない。

 約束の時間まで三十分ほど残っていた。僕は久しぶりに片付いた部屋を眺め、壁に視線を向けた。部屋の片側には、施設を出た日から今年の共通テストに向けた人生プランが黒い線で描かれている。そして、それらのきっかけとなった七年前の火災事故に関わった人物の関係図が左側を広く覆っていた。

 口頭で聞いた情報を付箋に書き込み、要注意人物の写真の周辺にプッシュピンで固定した。ネット記事は切り抜いて年度別に整理し、床に置いてある。最近は電子資料も並行して整理している最中だ。ただし、これらの情報は極めて機密性が高いため、全てローカルのハードディスクに保存している。集めた情報は最終的に、場所や人物写真などのプッシュピンを赤い糸で結び、一目で関係が分かるようにした。しかし一貫性に欠けるため、今までは情報収集に重点を置いていた。

 この数日間で新しく入手した情報を黄色の付箋に順番通り書き並べた。カカシと樹の一族の繋がり、ガーデンズ学園と失踪事件の関わり、ステラの周辺関係など。七年前の火災事件をめぐって迷宮入りとなった真実のパズルピースが一つに集まりつつある。この事件は、同時期に発生した他の火災とは明らかに性質が異なる。意図的に仕組まれたものである可能性が高い。

 「一人で七年前の大火災事件をここまで調べた人は初めてです」

 後ろからアリマの声が聞こえた。

 「素晴らしいです。私が把握しきれなかった情報もあります。一体、どこからこれほどの情報を集めたのですか?」

 僕は振り返らずに壁の関係図を見つめ続けた。入り口はあるが、出口が見つからない巨大な迷路に他人を誘い込んだことは初めてだった。

 「マスコミは事故として報道していますが、あなたも事件だと考えているということは――」

 「ええ、その通りです。あれは人為的に起こされた火災です。地下の天然ガスパイプの爆発は、あくまで結果に過ぎません」

 アリマは一歩前に出て、僕の隣に並んだ。

 「しかし、真相を知っている人はごく一部しかいないはずです。炭咲さんがここまで辿り着いたのは、並大抵(なみたいてい)のことではありません」

 僕は勢いよく振り返り、溺れる人が浮き輪を掴むようにアリマの肩を掴んだ。それは自分でも気付かない無意識の行動だった。

 「誰から聞いた話ですか?詳しく教えてください、お願いします」

 「落ち着いてください。確かに私が『事件』と言いましたが、事態の詳細についてはそこまで知りません」

 アリマが苦しそうに説明を続けた。

 「企業家の中で選ばれたメンバーだけが入れるダイアモンドクラブがあります。私が知っている情報は全てそこから聞きました。炭咲さんの必要に応じて、緑埜家を通さずに情報元を紹介することもできます」

 冷静さを失った僕は、小さく震えている肩から手を離した。怒っているのではない。僕が間違っていないことを証明してくれる人に出会えて、素直に嬉しかった。

 七年間、僕は一人で調べ続けてきた。施設にいた時から周りの人に妄想だと言われ、心配そうな目で見られても、僕が諦める理由にはならなかった。永遠に鳴り続ける電話にいつか応答があるまで、一日も休まずに資料を探しだ。アリマの口から出た言葉は、過去に葬られていた僕の時間を再び蘇らせてくれたのだ

 「失礼しました」

 僕はアリマに向き直った。

 「興奮してしまいました。ダイアモンドクラブについて、もう少し詳しく教えていただけますか?」

 「構いません。むしろ、炭咲さんの情熱に感服しています」

 アリマは壁の関係図を見上げた。彼女の視線は、夜空の星を数える人のように、丁寧で集中していた。

 「ダイアモンドクラブは表向きは企業家の親睦団体ですが、実際は情報交換の場として機能しています。政財界の重要人物が定期的に集まり、表には出ない情報が飛び交う。それはちょうど、地下で流れる暗渠(あんきょ)のようなものです。表面からは見えないが、確実に存在している」

 「どのような情報ですか?」

 「計画的だったということ。そして、ある特定の組織が関与していたということです」

 アリマは慎重に言葉を選んでいるようだった。まるで、壊れやすい陶器を扱うように。

 「しかし、その組織の名前や詳細については、私も推測の域を出ません。だからこそ、あなたの調査結果に興味があるのです。同じ楽譜を違う楽器で演奏しているようなものかもしれません」

 話の最中なのに会話はここで止まった。思わぬところで邪魔が入ったからだった。

 「パパ、これは何?」

 ステラが壁に垂れた赤い糸に手を伸ばした。

 「勝手に触るな!」

 咄嗟に大声を出してしまった。慌ててステラに謝ろうとした時には、既にステラは泣きそうな顔でアリマの後ろに隠れていた。僕はため息をついた。子供相手に大人気ない失態を見せた。

「この壁に貼ってある物は僕が大切にしているから、糸を引っ張ったり写真を剥がしたりしないでほしい。分かった?」

 「パパ、ステラのこと嫌い?」

 ステラは落ち込んだ声で僕の顔色をうかがって、今にも泣き出しそうになった。

 「ああ、僕が悪かった。もう二度とステラに怒鳴らない。約束する」

 泣く寸前の子供を慰める方法がすぐに思いつかない。
 
 「よし、指切りげんまん、指切った。嘘ついたら針千本飲みます。これでパパはステラとの約束を絶対破らない」

 「指キル?ハリセンボンってお菓子?」

 ステラは今にも泣きそうな顔で僕と小指を絡ませている。

 「もう一回しよ。ステラもハリセンボン食べる」

 僕は少ししゃがんでステラの頭を右手で撫でた。短い期間とはいえ、五日間は僕がステラの保護者代理だ。ステラの前では乱暴な言葉遣いに十分注意しようと決めた。

 「あの、約束の十五分が過ぎました。まだ何か掃除することがありますか?」

 僕は洗濯機の終了時間を確認し、トイレの扉を閉めた。

 「ありません。まだ早いですが、夕飯の準備をしますか?座って待っていてください。適当に何か作って――」

 そう言って冷蔵庫を開けると、中が空っぽだったことに気づいた。

 「すみません、買い物が必要でした。近くにライフがあります。一人で行ってきますので、ステラと一緒に休んでください。あ、着替えが先ですね」

 僕は収納クローゼットからお土産でもらった大阪サブレの缶を探した。掃除の際に目につく場所に置いた記憶がある。ユニクロで買った黒いセーターに着替え、缶の中から小銭と千円札を数枚取り出してポケットに入れた。外はそれほど寒くなかった。

 「行きたい、行きたい、ステラも行きたい!パパと一緒じゃなきゃやだ」
 
 鼻声でステラが一緒に連れて行ってとせがんだ。ここまで自分の意思を強く主張したのは初めてだ。表情やコミュニケーション能力も先日と比べて豊かになっている。

 子供は一人一人が個性を持ち、成長には個人差があると言われる。しかしステラは日々、周りからの新しい刺激を全て吸収して成長を続け、人を驚かせる。おそらくアリマも、このことに気づいて、身内であるステラの変化を一番近くで見極めたいから僕と契約したのだろう。

 そうでなければ、僕の背景を知っていてもステラをこの家に泊まらせる理由がない。

「ネネも行きたいでしょう?ね、行きたいでしょう?」

 ステラはアリマを「ネネ」と呼びながら、行きたいとアピールした。正直なところ、僕には悩ましい問題だった。子供の面倒を見るだけで疲れるのに、買い物までする体力がなかった。

 「はい、ネネも一緒に行きたい、デス」

 最後の「デス」は絶対にわざとだ。アリマは、人を困らせるためにステラをけしかけている。この二人は、育児経験が全くない僕にとって、とんだ災難だが、嫌いではない。

 やるしかないだろう。僕は二人の目線に合わせて優しく話しかけた。

 「二人とも、僕の話を聞いてください。今日の夕飯はコンビニで済ませます。各自、出かける準備をお願いします」

 はしゃぐステラに灰色のフードパーカーを着せて、マスクで口を覆った。アリマは事前に用意した服に着替えて、僕が終わるまで待っていた。アリマにも手伝ってほしいと思ったが、諦めて靴を履いた。

 ここでまたステラが、自分も靴が欲しいと駄々をこねた。当然、下駄箱に子供用の靴はない。どうしても欲しいと言うので、仕方なく靴下を重ね履きさせて僕のスリッパを履かせた、ステラのサイズに合わせてあげた。

 「パパ、ありがとう。大好き」

 全ての準備が終わり、僕たち三人は家の近くにあるコンビニに向かった。ステラが道中で雪玉を作って投げ始めると、自然に鬼ごっこが始まった。鬼は僕だった。家から五分足らずの距離を、三十分かけてようやく辿り着いた。

 三人とも雪だらけになり、体は冷えたが、心は温かかった。

 「ステラ、遊びはここまで。お買い物してから温かい家に帰ろうね」

 店内に入り、まず弁当を選んで、ペットボトルの水を買った。他に明日の朝食用として食パンとイチゴジャム、子供用のヨーグルトも追加で買った。ステラが店内のガチャガチャに興味を示したので、百円玉を渡して好きにさせた。コンビニを出るまで約十五分、三人とも満足のいく買い物を終えた。

 家に帰り、まず二人にお風呂に入ってもらった。その間に僕はコンビニで買った弁当やファミチキをテーブルに並べ、洗濯物を洗濯機に入れた。

 「パパ、ステラはお腹空いたの」

 ステラが後ろから駆け寄ってきた。

 「ちょっと、まだ洗濯物を干しているから邪魔しないで。アリマさん、ステラをお願いできますか?」

 「ステラもパパと一緒に洗濯物を干したいの、干したいの」

 ステラがどうしても手伝いたいと言うので、洗濯物を干す作業を一緒にやった。終わるまで時間は倍かかったが、ステラは達成感に満ちた笑顔を浮かべた。

 風呂上がりのアリマはまだ洗面台の前で何かしている。何をしているか気になって尋ねると、「スキンケアを行っています」と淡々とした返答が返ってきた。僕には馴染みのない習慣だった。

 食事の準備を始めてからテーブルに着くまで、二時間弱が経ち、時計の針は午後六時を指していた。

 「今日は、お疲れ様でした!」

 というお礼の言葉に合わせて、三人で乾杯した。乾杯といっても、未成年なので酒の代わりにお茶とジュースを飲んでいる。

 「ステラも乾杯!ネネも乾杯!」

 ステラがまた騒ぎ出そうとした。前の住まいと違ってこの部屋は壁が薄く、隣に声が聞こえてしまう。そのため、僕はステラに気を配り、大声を出す前に急いでファミチキを食べさせた。

 「アリマさんも何か食べますか?お口に合うかは分かりませんが」

 「私は大丈夫です。それより、これを見てください」

 アリマから受け取ったタブレットには、エクセルでスケジュール表が作成されていた。

 「三日間のスケジュールを私なりに作成してみました。明日からはこれに従って姉さまと一緒に行動してください」

 アリマが作成したスケジュール表は、三日分の予定がびっしりと詰まっていた。
日付ごとに、明日は上野動物園、明後日は新宿の映画館とイベントセンター、三日後は水族館が記入されていた。それぞれの項目には時間帯と最寄り駅が記載されており、一日の流れが一目で分かった。備考欄の参考リンクをクリックすると、家族連れにおすすめの観光地を紹介するサイトが開かれた。

 「明日からの四日間は、姉さまと二人きりの思い出を作ることに集中してください。残りの予定は明日中に調べて追加しておきます」

 「アリマさんは行かないんですか?」

 僕は思ったことを口に出した。
 
 「脇役(わきやく)である私が一緒に行っても、お二人に迷惑をかけるだけです。気にしないでください」

 実の家族が抜けた家族旅行に、僕のような第三者が参加する。冷静に考えれば、確かにおかしな話だった。だが、このまま気まずい雰囲気を続けるわけにもいかない。僕は意識的に話題を変えることにした。

 「ステラはアリマさんと一緒に動物園に行きたくない?」

 「動物園?」

 聞き慣れない言葉に、ステラの大きな瞳がきらきらと興味深そうに輝いた。

 「パパ、動物園って何?楽しいところなの?」

 僕は動物園をうまく説明できず、手元のタブレットで検索をかけた。

 「これが動物園だ。中に入ると、こんなに大きな動物と可愛い動物が見られるよ」

 タブレットの画面に映る象やライオンの写真を指差しながら説明した。

 「へー、ステラ行きたい!」

 ステラは持っていたおにぎりを丁寧に半分に割って、アリマに差し出した。

 「これ、美味しいからネネにもあげる」

 その無邪気な優しさに、僕は心が温かくなった。アリマも娘の気持ちを受け取るように、そっとおにぎりを手に取った。

 一口食べたアリマの表情が、ほんの少し柔らかくなったような気がした。

 「お姉様のお誘いですから、明日は特別に私も同行させていただきます。決して楽しみにしているわけではないので、誤解しないでください」

 アリマは素っ気なくそう言ったが、その表情は隠しきれない期待で輝いていた。彼女なりの照れ隠しなのだろう。僕は彼女の本心を察しつつも、あえて何も言わずにタブレットに目を向けた。

 明日の予定を確認する。正午から上野動物園に入場し、二時間のコースで園内を回ることになっている。上野駅は仕事で何度か利用したことがあるが、動物園は初めてだ。入口までの道のりを検索で調べながら、ステラが残したおにぎりを手に取った。

                  ◇

 「パパ、起きて!朝だよ」

 久しぶりに夢のない夜を過ごして、ステラの声で朝を迎えた。しばらくぼんやりとしたまま何度か瞬きをし、「うーん」と寝ぼけた声を漏らしながら、声がした台所へ顔を向けた。

 「炭咲さん、初日から寝坊ですか。お姉様への示しがつきませんよ、そういうだらしないところは」

 アリマが母親のような口調で僕を叱る。その手元では、こんがりと焼き目のついた卵焼きが皿に乗せられていた。まさか、と思いながら枕元の携帯を探す。半分しか開かない目で捉えたデジタル表示は、無情にも午前八時を少し過ぎた時刻を告げていた。

 「ネネ、パパが何も喋らないの。どうしよう」
 心配そうなステラの声で、僕の意識はゆっくりと覚醒する。

 窓の外から差し込む朝日が眩しい。僕はまだ少し重い瞼を瞬かせ、「おはよう、ステラ」と、自分でも寝ぼけているとわかる声で挨拶を返した。

 「おはよう、パパ」

 僕の声に気づいたステラが、少し離れた場所からぱっと顔を上げた。その表情は、見る者を安心させるような無邪気な笑顔だ。

 「ネネが朝ごはんを作ってくれたの。ステラも手伝ったんだよ!ねえパパ、ステラは良い子?」

 「ああ、すごく良い子だ」と褒めながら、ご褒美に彼女の頭をそっと撫でる。出会ってまだ数日だというのに、あれほど口下手で不器用だった面影はもう薄い。年相応の子供らしい表情を見せるようになり、気のせいか、背も少し伸びたように感じられた。

 「お姉様、危ないから部屋の中で走らないでください。炭咲さんも、いつまで寝ているつもりですか? いい加減にしないと、本気で怒りますよ」

 僕は憤るアリマを眺めながら、昨晩の出来事を思い出した。

 玄関ドアのロックが外れる音がして目を覚ましたのは、深夜過ぎだった。横を振り向くと、ステラの隣で寝ていたアリマが見当たらなかった。外に何か用事があるのだろうと思いつつ、再び眠りに落ちる際に、外から誰かの話し声が聞こえた。怪しいと思った僕は、念のため静かに玄関に耳を押し当てて、外の様子に聞き耳を立てた。

 「……には来週まで回収できると……ください。その……はボタンさんにお任せします」

 声の主はアリマだった。アリマは小さい声で、名前も分からない相手と真剣な話し合いを、明け方近くまで続けた。足が痺れるまで聞き続けたが、はっきりと聞き取れたのは『回収』という一つの単語だけだった。

 「ゆっくりしている時間はありません。予定の電車に乗るためには、三十分後には家を出なければなりません」

 アリマが提案した五日間は、もしかすると本人に与えられた猶予期間かもしれない。具体的に何を回収するのかは分からないが、昨夜聞いた声の主は何かに追われているようだった。

 「昨日は車で行くはずではなかったのですか?」

 「元々そうでしたが、状況が変わって今日からは電車で行きます。お分かりになりましたら、さっさと起きてください。時間に間に合いますから」

 昨夜の電話の件は、きっと夜中にかけた通話先の相手と関係があるのだろう。そんなことを考えながら、僕は散らかった寝床を片付けた。

 洗面台で歯磨きをしようとしていると、ステラが廊下から声をかけてきた。

 「朝ごはんの準備ができました」

 「もう少し待って」と言いかけたが、彼女はすでに台所に戻っていた。

 仕方なく軽く口をすすいでから、僕はテーブルの前に座った。アリマが作った卵焼きを一口食べると、ふんわりとした食感と優しい味が口の中に広がった。これほど美味しい卵焼きは久しぶりだった。

 目的地の上野公園まで、アリマの指示に従って移動した。電車の中でもアリマは緊張した顔色で、手からタブレットを離さず、電車の乗り換えアプリを一分ごとに更新した。最悪の場合、時間内に着かない未来まで想定して、プランAからプランCまで対策を考えているようだった。

 「電車が少し遅れてるみたいですけど、まだ時間に余裕がありますから大丈夫ですよ」

 僕はステラを見守りながら言った。

 「それに、平日の朝っぱらから動物園に行く人はいないと思いますし、混雑する心配もないでしょう」

 九時過ぎても車内は出勤する人々で混雑していた。僕と各務家の二人姉妹という組み合わせは、周りの大人たちの目には珍しく映ったようだった。保護者らしき大人もいない中で、子供だけの三人連れが電車に乗っているのだから当然だろう。

 しばらくすると、僕たちの前に座っていた中年の男性が立ち上がって声をかけてきた。

 「お疲れさま。よろしければどうぞ」

 「お気持ちだけで十分です」と丁寧に断ったが、「遠慮はいらないよ」と言われた。

 結局、ステラを僕の膝の上に座らせて、隣の席にはアリマが座ることになった。男性は満足そうに頷いて、吊り革につかまって立っていた。

 「炭咲さんは上野動物園に行ったことがありますか?」

 「僕も今日が初めてです」

 頼りにならない僕の返事に、アリマはうんざりしたため息をついた。それ以上話しかけてくることはなかった。

 上野公園に着いた三人は、動物園の入り口に続く長い列を見て言葉を失った。十一時過ぎに到着したからといって、人が少ないと思った僕が甘かった。列に並んでいる人々の大半は家族連れで、何かのイベントでもあるかのような賑わいだった。この人数だと中に入っても全体を回るまで、かなりの時間がかかりそうだった。

 「ありえないわ」

 アリマは呆然とした声で言った。

 運が悪かった、というには状況が悪すぎる。一時の気まずい沈黙の後、僕はステラに向かって明るい声で話しかけた。

 「みんな、パンダさんのことが好きなんだね。ステラ、あれを見て。パンダさんだよ?可愛いでしょう」

 ステラは僕を見上げて言った。

 「パンダさん、怖い。パパ、だっこ欲しい」

 「いや、いや。パンダさんは可愛いよ?ふわふわでぷよぷよだから、ステラも直接見てから好きになるよ」

 「パンダさんを触れる?」

 熊は人を襲うこともあるとは言えないから、曖昧に答えた。

 「実はパンダさんって皆のアイドルだから、ファンも多いらしい。もし一対一でファンミーティングが開かれたら、大勢の人々が集まって、パンダさんが疲れてしまって、ステラまで順番が回らないと思うんだ」

 会えないと聞いたステラが泣きそうな顔になり、初めてかすれた声でうめいた。

 「その代わりにパンダさんの親衛隊が動物園を貸し切ってコンサートを開くから、今日は遠くでパンダさんを応援することで我慢しようね」

 「そうなんだ。パンダさんは人気だね。ステラもパンダさんみたいになれる?」

 「もちろん。ステラはパンダさんよりも可愛いから、有名なアイドルになれると思う」

「じゃあ、パパがステラの護衛になって、ステラを守ってね。約束だよ」

 約束の小指を差し出したステラが明るく笑って見せた。いたいけな笑顔だと思った僕は、約束通りに小指を組んであげた。これで動物園の中に入るまでの時間が延びても、ステラは理解してくれる。問題は、さっきから爪を噛みながら、いてもたってもいられないアリマの方だった。

 約束の小指を差し出したステラが明るく笑って見せた。いたいけな笑顔だと思った僕は、約束通りに小指を組んであげた。これで動物園の中に入るまでの時間が延びても、ステラは理解してくれるだろう。

 問題は、さっきから爪を噛みながら、いてもたってもいられないアリマの方だった。

 「まだ大丈夫。パンダを見るまで時間がある」

 その声は低く、地面を掻き毟るような響きだった。顔に手をかざして表情を隠しながら、アリマは呟き続けた。その絶望した声色に、僕は慰めの言葉を失った

 当日券を販売する列に並び、チケット三枚を購入して動物園の中に入るまで、およそ一時間がかかった。入園してからパンダ舎に向かうと、二十人ずつのグループに分けられた。前後をバーを持ったスタッフに囲まれたまま、屋外の放飼場に到着した。

 各場所を三十秒ずつ見学し、一方通行で出口まで誘導された。僕はパンダの可愛い仕草よりも、浮かれてギャンギャン喋り立てる子供たちの声に疲れていた。このまま家に帰っても満足できそうだと思ったところで、ステラから要望が来た。

 「パパ、ゾウさんも観に行きたい」

 東園にいるゾウを観るためには、もう一度いそっぷ橋を渡って反対側に行く必要があった。僕はため息を吐いて、ステラの頭を撫でてあげた。

 「ゾウさん以外にも観たい動物はいる?」

 せっかく東園まで行って、西園にいる動物が観たいと言い出したら困るからだ。あの橋は二度も渡りたくない。

 「ううん、白いパンダさんと猫さんも観たい!」

 上野動物園のマップパンフレットを見ながらステラが喋った。

 「パパは?」

 「パパはもう大丈夫かな」

 「ええ、何それ。つまらないの。パパも選んでよ」

 しつこく付きまとうステラには敵わないから、適当に西園で子供が一番嫌がりそうな動物を指で指して見せた。

 「カ・メ・レ・オ・ン?」

 一文字ずつ発音したステラは眉根を寄せた。

 「変な名前。可愛くない」

 クマやパンダと違って、モフモフな毛もない爬虫類が好きな子供は相当少ない。僕の狙いは、カメレオンという嫌な存在がいる西園から離れて、東園に展示されている動物で今日の日程を終了させることだ。たとえ西園に未練があっても、カメレオンについて語りながら恐怖心を植え付け続ければ、事態は僕の思惑通りに進むはずである。

 「でも、パパも好きな動物を観ていいよ」

 ステラが決心を込めてベンチから身を起こした。

 「行こうよ、パパ。カメレオンが待ってるよ」

 親切なステラのおかげで、僕はカメレオンが展示されているビバリウムに行って、中にある全種類の爬虫類と対面し、東園でステラが観たかった動物たちを次々に訪れた。パンダに比べて人は多くなかった。

 カメレオンまで観終わると正午になった。そろそろお腹が空いてきたステラの手を繋いで、池の近くにあるカフェに寄った。

 ランチメニューとして、ジューシーなウインナーのホットドッグとオレンジジュースを注文して、僕たち二人はテーブルに座り、しばらく休憩をした。

 「パパ、ここ行きたい」

 動物園に入ってから今まで、ずっと歩き続けたせいで、ろくに食べられない僕と違って、ステラは食事を終えてから元気を取り戻して、午前に回れなかったエリアまで行こうとした。結局、エクセルに書いた予定より時間をオーバーして、午後の営業時間まで動物園の中で過ごした。

 見上げた空が灰色の日暮れがかった頃、冷たい冬風が吹いて、頬をそっと撫でた。帰る時間になってようやくスマホを触る暇ができた僕は、何となくヘルスケアアプリを開いた。そして、今日歩いた歩数を確認すると、一万歩の数字が表示されていた。ふくらはぎが痛かった原因は、恐らくこれだろう。

 「私が立てた計画は、どうしていつも上手くいかないんでしょう」

 帰り道に眠ったステラを背負って電車に乗った。ぽかんと立って窓の外に映る夕焼けを眺めていると、アリマがしくしく泣き始めた。慌てて慰めようとしても手が空いていなくて、次の駅でとりあえず降りて、ベンチに座らせた。電車から降りたアリマは、周りの目を気にせずに本格的に泣き出した。僕が思っていたより、自分の計画通りにならなかった一日にストレスを感じている様子だった。

 「私って、だめな人間です。全然、役に立たない」

 自分を責める言葉を呟いて、垂れる鼻水をハンカチで拭いた。

 「炭咲さんもそう思いますよね?」

 僕はアリマのすぐ側に座って、立ち去る電車の後ろを見送った。

 「今日は生まれて初度動物園に行きました。さすがに六時間歩いて身体は疲れましたが、絵本で読んだ動物を実物で観ることができて、楽しかったと思います」

 大袈裟ではなく、本当のことを言った。僕は施設に入る前は、外に出られないくらい病弱な体を持っていた。その後も監視される毎日を過ごし、独立してからはバイトやらで忙しい毎日を過ごし、生活費を稼ぐ以外に何かを考える余裕が全くなかった。

 「僕は自分の人生をたった一人にフォーカスして、昔からの復讐計画を実行に移す準備を、着々と進めていました。今年の春、ガーデンズ学園に入学しようとした理由も、その計画の一部です。ですが、三月の共通テストは延期になり、ステラに会えてからは、自分が思った日常とはまた別の人生を生きています」

 僕は息を吸って話を続けた。

 「正直なところ、今のままで悪くはないと思う自分と、どこから人生をやり直せばいいか呆然として、気が転倒している自分の間で混乱しています。あの人は僕が追いかける間にだんだん遠ざかって、僕は停滞しているようにも見えますからね。最初に戻って計画を立て直すには、今まで耐え切った過去の自分が可哀想で、また同じことを繰り返す勇気が出ないです」

 アリマの顔色を探ったら、いつの間にか涙を止めて、僕の話に集中していた。

 「でも、今日はそれを忘れるほど、楽しい一日を過ごしました。計画にならない人生でも大丈夫だと、初めて思いました。だからアリマ、今日は人生初の動物園に連れて行ってくれて、本当にありがとうございました。また今度、一緒に行ってもらってもいいですか?」

 人を労い励ます言葉に慣れていない僕は、自分の口から出た話が恥ずかしくて死にそうだった。今まで僕自身が聞きたかった言葉を、そのままアリマに聞かせたからでもある。これを聞いて本当に気持ちが楽になるかは、保証ができなかった。

 「あ」

 だけ言って、アリマの瞳から涙がこぼれ落ちた。

 「それってデートの誘い?」

 僕は後始末をつけるために、頭を先に下げた。

 「ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」

 「ううん、違う」

 アリマは泣きながら笑って見せた。

 「気が楽になった。ありがとう」

 地平線に沈んだ夕日が上空の雲を照らし上げ、赤く染め上げられた雲を背景にして、ありとあらゆる感情が彼女の笑顔と共に心の中に染み入った。言葉では説明が難しい瞬間と向き合った僕は、さりげなくアリマの頭を撫でてあげて、「よく頑張りました」と言葉を残した。

 それを聞いた彼女は、僕の胸に抱かれて、次の電車が来るまでじっとしていた。血の繋がらない三人は、一緒に暮らし始めた二日目から、何となく家族らしい形を整えていくような気がした。

第8話 家族喧嘩

 「お前も、この家から出ていけ」

 冷たい声が部屋に響き渡った。混乱した僕の口から、取り返しのつかない言葉が流れ出た。

 三人での生活が始まって四日目の朝だった。前日映画館で過ごしたせいでインフルエンザにかかってしまった。体調は最悪で、頻繁に出る咳と共に熱が上がり続けていた。全身を覆うだるさの中、かろうじて水を口に運んだ。

 少しでも体調が回復したら、二人と一緒に出かけたかった。しかし、半日で治る病気ではない。

 「アリマさん、今日は体調が悪くて外出は難しいと思います。申し訳ありませんが、ステラと二人で出かけてもらえますか?」

 今日の予定は葛西臨海水族館だった。海の近くにある水族館で、家から一時間ほどの場所にある。電車とバスを乗り継ぐ必要があったが、アリマはタクシーでの移動を提案した。僕は当然、そこまでする必要はないと強く断った。

 「だめです。一緒に行かないと意味がありません」

 アリマの声は有無を言わさない調子だった。

 「午後に出発しますので、それまでに体を休めて治してください。お願いします」

 「いえ、午前中に治る病気ではないので、無理です」

 しかし、頑固なアリマは一歩も譲らなかった。

 「午後の予定を変更して、まず病院に行きます。その後、薬を処方してもらって、水族館にはタクシーで向かいます。お姉様にインフルエンザが移らないよう、室内でもマスクを着けてください」

 「おい、なんだその言い方は?」

 話がまったく噛み合わない。僕は休みたいと言っただけなのに。大声を出したせいで、喉がさらに痛んだ。

 アリマは僕の話を聞く様子もなく、淡々と着替えの準備を始めた。

 「予定をキャンセルする選択肢はありません。炭咲さんには契約を履行する義務があることをお忘れなく。お分かりいただけましたら、午後までゆっくりお休みください。タクシーが到着次第、具合が悪くても予定通りに動きます」

 「死にそうな人間に対して契約の義務の話は酷くありませんか?」

 人の話を無視する態度に怒りがこみ上げた。

 「口約束で契約した時は、義務の話なんて聞いていません。アリマの話は分かりました。ステラの父親役はここまでにします。あとは僕がいないところで好きにしてください」

 「逃げるおつもりですか?」

 アリマが舌打ちをした。

 「最初に、父親役を何だと思って契約を引き受けたのですか?父親とは、子供が生まれた瞬間から責任と愛情を持つ存在です。自分より子供を優先し、自分を犠牲にしても子供を守る。時には常識を超えてでも、子供の夢を実現するために努力する。それが親なのです。炭咲さんにも親がいるのだから、私の話は分かるはずです」

 話の最中に、ステラが二人の間に入ってきた。すでに外出の準備を整えた状態で、僕とアリマの顔色を窺った。さっきまで平和だった雰囲気が、なぜ殺風景になったのか。ステラは戸惑っていた。

 「炭咲さん、あなたはまだお姉様の父親です。それだけは忘れないでください」
頭の回転が鈍くなった今、アリマの話は半分以上聞き流していた。しかし、彼女の口から出た言葉がふと耳に引っかかった。

 義務とは何だろう。

 何度も自問すると、僕はナイフを胸元に突きつけられたような気分になった。それでも今になっても、自分にパパ役を強いる義務感は感じなかった。ある意味で、どこかで親になる覚悟はできていたかもしれない。でも、今の状況に直面する覚悟はしていなかった。

 遭遇した子供ステラが、死への諦めに沈んでいた僕を自分の世界に引き込んだ。お互いに一種言いようのない強い親近感を抱く関係が、僕が気づかない間に結ばれていた。思いもよらない偶然から一人の子供と知り合いになって、僕の性情は不思議な方向に導かれている。

 僕は初めて味わう感情に、心臓が締め付けられる感覚を覚えた。これは漠然とした誰かへの怒りを思い出させた。似ているが、本質は違う。あえて言えば、これは自己嫌悪に近かった。

「怖いパパはダメ。ネネに優しくして」

 隣で話を聞いていたステラが、軽くパンチを繰り出した。

 僕は奥歯を固く噛み合わせ、肩で息を吐いて背筋を伸ばした。泣き腫らしたようなステラの顔が目の前で邪魔になった。

 「人の耳元でギャーギャー騒ぐな。今はアリマと話し中だ。邪魔になるから、僕の前から退きなさい」

 右腕を上げて、ステラの肩を押し退けた。

 「お姉様に何をするのですか? ネネ、大丈夫?」

 アリマの慌てた声で、ふと我に返った。僕は、ステラを簡単に押し退けられるほど軽くはないだろうと考えていた。

 「いや、僕は——」

 傷つけるつもりはなかったと言う前に、ステラと目が合ってしまった。ステラは激しいショックを受けて、泣きそうな顔で僕を見つめている。罪悪感が心の底から噴き出した。

 「パパなんて大嫌い」

 それだけ言い残して、ステラは素足のまま外に出た。鉄製の階段を駆け降りていく。呼び止めようと手を伸ばしたが、壁の方から不吉な音がして視線を移した。ステラの足に赤い糸が絡まり、プッシュピンで固定した写真が全て剥がされていた。玄関のドアには、糸に絡まった紙がゴミのようにぶら下がっていた。

 虚無の中に生まれたかのような長い沈黙を破って、僕は口を開いた。

 「お前も、この家から出ていけ」

 「何を言っているのですか。このまま、お姉様がまた行方不明になったら、ただでは済まないと思ってください」

 アリマは僕のコートを借りて、玄関のドアを開けっ放しにしたまま、家出したステラを探しに出て行った。

 僕は一枚の破れた関係図を見上げ、独りでくすくすと笑った。なんだか、大いに空振りをした気分だ。ジェットコースターのような感情の波に振り回されても、幼い子供に八つ当たりした行為は、決して正当化されない。すでに起きたことに後悔を重ねても無駄だった。

 気持ちが落ち着くまで待てない。僕は取り急ぎ灰色のチェスターコートを着て、玄関のドアに鍵をかけた。普段よりも強い雪が降っており、外の寒さで白い息が口の周りに広がった。朝の時間帯にもかかわらず、曇った天気が街中に影を落として夜よりも暗く見える。

 まだ家を出て五分も経っていないから大丈夫だと自分に言い聞かせるものの、心の中の不安がひたすらに足を急がせた。

 この街は都内でもノバナが多く滞在している場所だ。TGC内では「ネペンテスの鉢」と呼ばれ、ノバナを狙って寄ってくる虫どもを排除する依頼が毎朝会社に来る。実戦経験が足りなかった新人の頃は、先輩の指示に従って動いたが、あの時に遭遇した虫どもの力は人のレベルをはるかに超えていた。

 「はあ、もうこの街を離れてしまったかもしれない」

 自分を責めた。

 足跡が雪で消えて、これ以上追跡が困難だと思った時、雪の上に何かを見つけた。それは、僕が壁にピン留めして使った赤い糸と同じものだった。

 これだ、と本気で感謝した。ステラが外に出た時に糸が体のどこかに引っかかり、地面に引きずられたようだ。僕は雪の積もった住宅街でその手がかりを追い、ステラがいるところまで駆け出した。

 道路の端で右に曲がり、小さな橋を渡って別の街に着いた。足が止まった場所は、四月に完成予定の工事現場だった。帰り道にあるから見慣れた場所である。周りに人影は見当たらない。

 赤い糸は入口のパネルゲートの奥まで続いている。他に探す方法は思いつかなかった僕は、入口近くにある安全ヘルメットを被って中に入った。

 金属製の板の足場と防護ネット、養生シート等で囲まれた内側は、外からの光が遮断されて夕暮れに近い暗さの雰囲気がした。雪風で単管パイプが互いにぶつかって、甲高く不快な音を鳴らしながら、暗闇が僕の足を奥へと向かわせた。

 「……けて」

 人の声が闇の奥から聞こえてくる。

 「た……け」

 湿気が濃くなった。一歩ずつ時間をかけて声が聞こえる方向に近づくと、人の顔と片手が闇の真ん中に浮かんで、力なくうめき声を上げていた。赤い糸はその人の片手にぶら下がっている。

 声の正体を確かめて分かった。あれは、ノバナを狙って街に潜り込んだ虫どもの一員だ。僕は、ステラを脅かす存在を先に見つけ出して安心する一方で、とても嫌な予感がして後ずさりしながら、前方に向けて警戒を強めた。

 「タスケテ——」

 遺言らしい言葉を最後に、完全な闇に飲み込まれ、怪しげな姿は消え去った。ここで僕は闇の向こうで何かの動きを感知した。その何かは、ギザギザに並んだ歯で人の肉と骨を噛み砕き、喉越しよく獲物を胃袋の中に入れ込んで、最後は物足りなさそうに舌鼓を打った。

 かすかに闇の向こうから姿を現した存在は、左右の眼球を別々に動かしながら、大振りで長い鼻といった彫りの深い顔立ちには、なんというのだろう、野生の威嚇とでもいうようなものが感じられる。有無を言わさぬ威圧感が、存在そのものから発されているようにも思える。

 やや大きめの爬虫類らしき何かが、ぜいぜいと荒い息をついて僕の方に近寄った。しかし、その正体は暗闇ではっきりと確かめられず、馴染みのない足跡を地面に残すだけだった。アルファベットのYを連想させる足跡は根本から二つに分かれ、その先にまた分かれた二本と三本の指を持っていた。二日前に遊びに行った動物園でも見たことがある生き物だ。

 「巨大カメレオンなんて聞いたこともない」

 透明に擬態した野獣に驚愕しつつ、勝てない相手に戦意を失って、頭の中が真っ白になった。勝てるどころか、ここから生きて帰れる自信さえなくなっている。

 動物園で見たカメレオンは、わずか二十分の一秒で舌を伸ばし、舌の先から出る粘液で獲物をくっつけて捕らえた。目にも止まらない速度の攻撃を僕が避けるのは現実的に無理がある。改めて、人間の無力さに打ちのめされるような気がした。

 「下手に動かない方がいいです」

 隣から聞き慣れた女の子の声が響いて、僕の耳元に届いた。

 「お姉様はこの中のどこかに隠れています。先にお探してください」

 「アリマさんは無事ですか?」

 内心ではステラが心配だったが、妹の安全も確認しないと、あの子に申し訳ないと思った。

 「私の心配をする前に、まずは自分に差し迫った危機を脱する対策を考えなさい」

 当然のことながら、頭の中で大量の思考がぐるぐると渦巻き、カメレオンと対面した事態を打開する方法を模索し続けている。しかし、完全にパニックになったステラの顔が目の前にちらつく。

 弱肉強食の世界で、ステラは僕よりも小さな生き物だ。カメレオンがここにいる理由は後回しにして、所在不明のステラがいる場所を見つけ出すことを最優先で考えた。

 「炭咲さん、直ちにその場から離れてください」

 アリマの合図に合わせて、巨大な影が地面に長く伸びた。そこに突然現れた謎の爬虫類は不気味な地鳴りを起こし、僕と先ほどのカメレオンの間に割り込んだ。黒みを帯びた緑色の体を持った色違いのカメレオンは、口を開けて縄張り争いのように激しい喧嘩を始めた。

 僕は体色を変える二匹のカメレオンから逃げ出して、独りで怯えているはずのステラを探しに暗い鉄骨の中を走り回った。

 「ステラ、どこにいる。僕の声が聞こえたら、答えて」

 「パパのこと嫌い。もうあっちに行って」

 反応は意外と上の方から聞こえてきた。

 どうやって二つ上の階に行けるのかを頭の中で想像して、周りを見渡したところ、土木作業員が作業時に使う仮設階段を発見した。階段は狭いため、建物の壁に張り付いて歩かないと単管パイプに上着が引っかかってしまう。ちょうど小さい子供が自由に通れる階段だ。

 七階建てのビルの高さを、命綱もつけずに移動できるなんて、どういう精神力なのだろう。今更ながら、ステラの恐れ知らずな勇気と大胆さは認めざるを得ない。

 「危ないから、一緒に降りよう。アリマさんも今、ステラのこと心配している」

 今度は上から、だだだだ、と走る音が響き、同時に階段全体が軽く揺れ動いた。喧嘩を終えたカメレオンがここに戻ってくる場合、僕を含めて足場の作業床の上にいる者が危険な目に遭うかもしれない。

 「ステラ、どこだ。危ないから、動かずに僕が行くまで待っていろ」

 と叫んだ瞬間、誰かの悲鳴が上がった。

 「ネネ、危ない!」

 顔を出して上の階を確認すると、一匹のカメレオンが単管パイプを木の枝のように器用に伝って登っていた。地上で遭った二匹のカメレオンとはまた別の種類である。カメレオンの視線の先には、走る子供の人影がかすめた。

 先に動き出した獣よりステラがいる階まで行くことは現実的に困難だと判断した僕は、階段ではなく工事用に設置された鉄パイプを踏んで上まで登り始めた。

 「ステラから離れろ」

 人の言葉を理解したかのように、ギョロリと目玉が反応した。

 しかし、カメレオンは言葉通り僕を見下ろしながら、体を前後に動かしながら、長い尻尾をくるりと巻いて腹の部分に密着させた。

 向こうも僕の存在に気づいて意識している様子である。

 カメレオンとの距離を三分の一ほどに縮めて、僕は再び階段で動き出した。二、三段を一気に駆け上がると、風邪気味の疲れなど感じる暇もなかった。

 「ここから先は、関係者以外立ち入り禁止だ」

 僕は一回の深呼吸で体重を片足に乗せた。そしてすぐ、膝を内側に向けて腕を伸ばし、体をひねってカメレオンの腹にパンチを放った。爬虫類の皮膚は硬くて、肩がずきずきと痛んでくる。だが、いきなりの攻撃に危険を感じたカメレオンは体を膨らませ、威嚇音を出した。

 「カメロンちゃんを傷つけないで」

 ステラの声だ。顔を上げて様子を確認する途端、カメレオンの尻尾が僕の首を巻き取り、きつく締め付けた。息が苦しくなって体に力が入らなくなり、大人しくカメレオンの目の前まで運ばれた。初めて自分より大きな爬虫類と対面して、背筋にざわっと鳥肌が立った。

 僕はカメレオンと緊張したアイコンタクトを通して、お互いの存在を認め合った。といっても、一方的に食べられる直前まで追い詰められているのは僕だった。

 「パパを食べちゃダメだよ。カメロンちゃん、こっちにおいで」

 ステラが子供をあやすような口調で、やわらかな声で巨大な爬虫類に呼びかけた。カメレオンは素直に言うことを聞いて、僕をステラの前に降ろしてくれた。

 僕は安心しつつ、ごほんごほんと苦しく咳き込み、ようやく息を整えた。あと数秒で気を失うところだった。

 「ステラ?」

 自分の前に立っているステラの身の安全を確かめた。

 「どこか、怪我はしていないか?」

 「邪魔だって言ったのに、なんでステラのことを探したの?」

 「ごめんなさい。僕が、ステラに悪いことを言ったから、謝りに来た」

 隠さずに、直ちに僕の過ちを認めて二人の関係をやり直そうとした。

 「ここは危ないから、一旦下に降りてから話さない?」

 話を聞いたステラは顔を横に振った。

 「パパがステラの心を傷つけたから、一緒に帰らない。だから、別に謝らなくてもいい」

 僕は膝を曲げて、ステラと同じ目線の高さになった。

 「本当にごめん。僕が病気で機嫌が悪くて、ステラに八つ当たりしてしまった。君は何も悪くない」

 ステラの瞳に涙がたまっているのが見えた。

 「パパ、本当に反省してる?」

 「している。君を傷つけて、本当に申し訳ないと思っている」

 「じゃあ、今度は優しいパパになる?」

 「なる。約束する」

 ステラは小さくうなずいた。

 「カメロンちゃんも、ステラを守ってくれたの。だから、カメロンちゃんにもありがとうって言わなきゃ」

 僕はカメレオンの方を向いて、頭を下げた。

 「ありがとう、カメロン」

 カメレオンは色を変えながら、満足そうに鳴いた。

 「それじゃあ、みんなで下に降りよう」

 ステラは僕の手を取って、にっこりと笑った。

 「うん。でも、パパの熱は大丈夫?」

 「君が無事なら、もう何でも大丈夫だよ」

 三人と一匹は、雪の降る工事現場から静かに家路についた。赤い糸は、僕たちを結ぶ新しい絆の象徴のように、雪の中に鮮やかに映えていた。

 ステラは拗ねた顔をしていたが、白い雪の光が、その表情の奥にある余裕を照らし出していた。その余裕がおとなびているように見えて、僕にはステラの本音が透けて見えるような気がした。今思えば、当時の僕の勘違いだったのかもしれない。

 まだ子供だと油断するには、ここ二、三日の間であまりにも急成長を遂げ、僕を驚かせた出来事がある。水を吸い取るスポンジのように、新しいことをどんどん学習し、自分のものにしてしまう。

 最近——といってもまだ一週間も経っていない関係だが——ステラに昔の自分の姿を見るようになった。これからは荒い言動には注意を払おう。ステラの前で膝をついた状態で、自分の行動を省みた。

 「僕がどうすればいいか教えてくれない?誠意が伝わるまで謝りたい」

 「セイイ?ステラはムズカシい言葉は知らないの」

 ステラが皮肉めいた口調で言い返した。

 「さっきのステラが話したこと、全然聞いてないんだ。サビシい」

 ステラに冷たくされて、僕は少なからず驚いた。焦るまいと意識しても、頭の中とは裏腹に、心の底では夏の嵐のように揺れていた。

 せめて今まで交わした会話の中で、ステラが怒った理由を教えてくれれば、『それ』に近い返答もできるのに。『それ』が分からない僕は、思いをまとめないまま何でも喋ろうと口を開いた。すると頭の中で、たまたま煌めいた過去の過ちが、稲妻のように脳裏から飛び出してきた。

 「分かった、アリマさんに怒ったからだ。そうだろう?」

 ステラは言った。

 「パパ、何を嬉しげな顔をしているの? ステラ、まだ怒ってるよ」

 両腕でしっかりと膝を抱き、幼い顔に不機嫌な表情を浮かべている。

 僕は先ほどの部屋でやらかした暴言を思い出したが、ろくな謝り方は知らず、かといってこのまま放置するわけにもいかない。ここは一先ず頭を下げて、ステラの機嫌を伺うことにした。

「アリマさんに本当に申し訳ないことを言ってしまい、すみませんでした」

「違う、違うの。それじゃないの。なんでステラの前で嘘をつくの?」

 無邪気な顔で攻め込まれた僕は、以前に経験した同じような違和感が底深く這い上がり、ふと不安を感じた。ステラの声が図星を突き、自分の頬を冷や汗が伝うのが分かるほど、今の僕は緊張していた。

 今まではとりあえず謝って、その場を取り繕ってきた。お互い、わざと口に出さないという暗黙のルールを守って、ただ表面の礼儀だけを弁えて聞き流してくれた。それをステラは敢えて関係の中に持ち出して、「本当にパパが怒った理由ってなに?」と、僕が本音を語るまで待っている。

 「大丈夫、ステラはパパの話ぜんぶ聞いてあげる」

 ステラが僕の頭を撫でながら慰めの言葉をかけてくれた。その手の温もりに触れて、父親が嫌いになった理由を思い出した。

 僕は昔、父親——あいつを世界一尊敬していた。クラシック音楽が好きだった父親の書斎からは、いつも音楽が流れてきていた。毎月、生活費がなくて貧乏な食卓を用意することになっても、本に関しては気にせず買ってくれた。おかげで僕は、六歳になってからは父親が集めた研究用の資料を少しでも読めるようになった。知らない単語があった場合には、自力で調べたり、父親に質問して答えを得た。

「身の程を知らずに大それたことをする」という言葉があるが、まさに昔の僕のことだった。それほど父親は、僕の世界のすべてだった。

 だからこそ、あの日、父親が立てた仮説を証明する場で、僕は第一適応者として接木の手術を受けた。実験は大成功だった。元々僕が持っていたトゲが活性化し、手術は問題なく終わった——と後から香月から聞いた。

 「君を育てるために俺の目標を諦めたくない。だから、君は俺に恩を返す必要がある」

 父親はそう言った。

 結果的に、父親は喉から手が出るほど欲しがった出世を叶え、残りの二人は一握りの灰になった。僕のせいで家族がばらばらになった。
 
 施設に入って一週間は、服も着替えないまま父親が来ることを待っていた。僕を見落としてしまうのではないかと、ひどく不安だったからだ。一ヶ月が経ってからは、父親に電話をして謝った。僕が悪いことをしたからだと勘違いしたからだ。一年が経過して、僕は、父親への復讐を誓った。そうでもしないと、自分も父親と同じ道を歩む未来が来るのが怖かった。

 父親一人のために、我を捨て、未来を捨て、家族も捨てた。

 父親一人のせいで、名を捨て、過去を捨て、命も捨てた。

 ところで、ステラが僕の本音を聞きたがっている。昨日と明日が一つの点として噛み合った今、ステラは僕のどこまで知っているのか。不安に胸を締め付けられるような感覚がした。

 昨日まで赤の他人だった女の子が、僕に娘になりたいと告白した。しかし、それは単なる美談では済まない話だった。僕と父親の間に、僕とステラの間に、すべての人間関係に潜む記憶の残滓を、彼女は見抜いているのではないか。


 「アリマさんは正しいことを言った。僕も知っている。それなのに何故か僕は、僕が一番嫌いな父親と同じ態度で、二人を傷つけてしまった。うまくパパの役割を果たせると思ったのに、全然できていない」

 世間に気兼ねして立ち止まっていた時間が動き始め、つぐんでいた口から爽やかな味がした。

 「僕は、父親の影から永遠に逃れられないかもしれない」

 この親にしてこの子あり。父親——あいつから生まれた僕に、父親——あいつの背中を見詰めて生きてきた僕が、果たして父親の存在になれるのか。自信を失った僕は、小さく独り言をこう呟いた。

 「最初から君の保護者にならない方が良かった」

 「違う、違うの。パパはステラのパパなの」

 その切ない訴えに、仰向いたステラの顔は今にも泣きそうな表情をしていた。
目はかっと見開かれ、ついに涙に濡れて、僕の胸は痙攣するように波打った。

 「パパはステラが選んだパパなの。ステラはパパが好きなの」

 僕の重い話を和らげようと、ステラが言葉を切った。人生には思い出したくない、うまく言い紛らしてしまいたい時があるものだ。ずっと後になってみれば、惨めな空気に埋もれ、それもばかばかしく感じられるだろう——とステラの瞳に映った自分の顔を眺める。

 ステラは快活な性格の子だ。今日の出来事は明日になるときれいに忘れて、元気そうに新しい一日を過ごしてくれるだろう。きっと僕の話を聞いて嫌がっても、いつかは理解してくれるはずだ。

 「ごめん、ステラ。やはり僕は、ステラのパパには——」

 「いやだ、いやだ、いやだ。聞きたくない、キキタクないない、ない!」

 互いの関係から愛情が不意に起こってくるのを、僕はしばしば避けていた。中途半端な優しさが内なる感情として父性愛を呼び起こし、人知れぬ情の炎に心を燃やしながら、形として明確に結ばれないように、ステラと心の距離を置いた。実のところを言えば、情緒的な理由ではなく、「僕なんかがステラの保護者になれる資格があるのか」との根本的な質問から始まった不安が胸に去来したことだった。

 「ステラのパパを返して!」

 動揺するステラの鳴き声に、足場が軽く震え動いた。規模の浅い地震かと思い込んだが、それに比べて地表で伝わってくる揺れは小さい。

 「極めてセンシティブなお姉様です。それ以上は刺激しないでください」
 
 背後から密かに忍び寄った声が僕の耳を打った。

 「アリマさん?」

 「説明は後からにします。今はお姉様を抱きしめて落ち着かせてください」

 アリマの目に怯えに似た色が瞳に差していた。

 「ネネ!」

 やはり聞き違いではない。アリマもステラを「ネネ」と呼んでいる。これで二度目だ——と思っている間に、不安定だった足場がカメレオンの重さに耐えきれずに崩壊した。僕は前方に身を挺して、ステラの頭を右手で守って懐に抱き抱えた。下に落ちる間際に一本の単管パイプを掴み取り、ギリギリで命拾いした。

 でも、この状態で長くは持たない。二人の重さに耐えるには、体もパイプも限界が近づいていた。

 僕は腕の力だけで体を支えた。足元に何かが触れるまで耐え続け、鉄筋に足先が届いた瞬間、その反動を利用して上に向かって体を押し上げた。

 「アリマさん、ステラを頼みます」

 最後の力を振り絞って、ステラをアリマがいる階まで押し上げた。その直後、鉄のパイプが限界に達して折れた。ステラは無事に足場の上に着地し、僕は七階建ての高さから地上一階に落ちるまでの数秒間を空中で過ごした。

 建物の残骸が連鎖的に他の鉄骨を巻き込んで崩れ落ちる中、冬風に震える工事現場は砂煙に包まれた。風が耳を切り裂き、やがて平和が地上に訪れた時に、心臓は重さを失ったように軽やかに、いつもと違って鼓動を忘れたかのように静かに脈打っている。朦朧とした意識の中で、僕は下敷きになった体を動かしてみた。不思議なことに、手足の痛みが少し和らいできる。頭の中は霧がかかったように白くなり、そこで大きなあくびが出た。まだ朝を迎えて数時間も経っていないというのに、軽い眠気がぼんやりと視界を覆ってくるのを感じる。

 「あ、なんだか、疲れた」

 少しだけ、沈んだ気分が晴れたような気がした。その網膜にステラの像を捉えようと目を細めたが、脳からは血の気が引き、意識は混濁していく感覚で全身から力が抜けた。

 「パパ、死んじゃだめ」
 どこからか少女ステラが泣き声を迸らせた。

 音が籠もってステラの声がよく聞こえない。程なく体に強い寒気が走り、手足がわなわなと震え出した。激しい渇きを覚えた喉は、息を吸うたびに、喉の奥から血が込み上げてきて咳が出た。おかしい、僕は死なないトゲを持っている体のはずだった。だが、今は死にかけている。

 初日にステラを助け、初めて新吉原に泊まり、初めて父親に刃向かい、初めての動物園にも行った。今更ながら、ステラといる時間は何事も初めてだったことが不思議に思える。それぞれ悪くない時間が多かった。無彩色の白と灰色に分かれていた人生が、有彩色に満ちた人生に変わった。

 死に至るまでちょうどいい季節だ——と僕は未練なく思いを手放し、空を漂う積乱雲を見上げた。大地が再び大きく揺れ動いた。時が来たと、僕は周りの変化を従容として受け入れ、目を閉じた。

 「パパはステラが救ってみせる」

 壊れたコンクリートの破片に覆われた地面から、太い樹の根が勢いよく伸び上がった。僕の体は暖かな温もりを帯びたオレンジ色の光に包まれ、生々しい何かが喉の奥に流れ込んできた。たちまち「飲まないと死ぬ」と僕に告げるように、全身の細胞が光を吸収した。

 意識が明確になって、最初に目にした光景は、地面から生えた樹の根元が、壊れた周りの残骸を支える壁になって、外へと続く通路を作り出していたことだった。僕は雨の匂いがする森のトンネルで、道の真ん中に倒れているステラとその隣のアリマを見つけた。

 「ネネ、ネネ!」

 「一体、これは、何なんだ?」

 「すべて、あなたのせいです! あれほどお姉様を刺激しないよう注意したのに。身を投げてお姉様を助けたのはありがたいですが、結果的にお姉様が力を使うことになり、状況は最悪です」

 僕は状況に慌てる暇もなく、ステラの様子を伺った。ステラは汗をかきながら、ふう、ふう、と荒い息を吐いた。体も微妙に震えている。初めて見る症状に、応急処置のやり方も忘れてしまった。

 「お姉様がまだ意識があるうちに、ここから出ましょう」

 重いコンクリートの破片を支えていた樹の根が、軋むような音を立て始めた。もはや、ステラが作り出したと思われるこの応急のトンネルから一刻も早く脱出することが急務だった。

 「一人で走れますか?」

 アリマの問いかけに僕は頷き、ステラを抱えて、アリマと一緒に必死にトンネルを駆け抜けた。外で確認した工事現場は、見た限り、今にも倒壊しそうな雰囲気であった。余震に備えて工事現場からかなり離れた場所まで、二人は足を止めなかった。

 しばらくして、工事現場から一大轟音が街中に広がった。家にいた人々は、それぞれ思い思いに動きはじめた。窓を開けて災難の正体を確認しつつ、消防車のサイレン音に外に出る人もいる。その景色は、人々の感情が織りなす交響楽であって、実に多彩な表情を見せていた。

 その騒然とした光景に向かって人々が足早に駆け寄る中、僕だけが川を遡る魚のように、粛々と反対方向へ歩いていた。

第9話 秘密の向こうにある名前

 家に帰った僕は、ステラを床に寝かせてから、アリマと二人で家の近くのカフェに向かった。ずたぼろの服で外を歩けないため、簡単に上着だけ着替えて出た。

 店内の最も奥まった場所にある、三方を壁に囲まれた小さなテーブル席に座る。漆喰の壁を照らす柔らかな照明の下で、僕たちは暖かいコーヒーを注文した。他に客はなく、小さく流れるジャズのリズムと、淹れたてのコーヒーの香りが、人の温もりの代わりに店内を満たしていた。

 「ステラについて、僕に何か話したいことがあるのですか?」

 注文を終えた僕は、迷わず本題を切り出した。
 
 「そうですね。誤解を解く必要もありますから、順を追って話しましょう」

 アリマが軽く頭を下げる。

 「まず、ガーデンズ学園で案山子からお姉様を助けていただき、ありがとうございました。炭咲さんのおかげでお姉様の行方を把握できました」

 僕は腕を組んだまま大きく息をつき、アリマの顔を見つめた。虎ノ門での時とは態度が大きく変わっている。どうやら、ガーデンズ学園でのテロの真相を掴んだようだ。こひなから聞く時間はなかったはずだが、みんなが眠りについた夜明けに、誰かと電話していたことを思い出した。

 「事件が起きた現場で、バベルの関係者から樹の一族について話を聞きましたか?」

 僕は顎に手を当てて考えた。

 「特にありません。人を収穫するとか、罪人扱いしたことは覚えていますが」

 「樹の一族の正体については聞いていない、ということですね」

 アリマは僕の反応を見て、話を続けた。

 「樹の一族とは、巨樹から生まれた後裔でありながら、今は絶滅した存在を指します。一族について記載された文献では、巨樹の呼び声を直接聞いたと伝わっていますが、実際にどのような(トゲ)を持っているかは分かりません」

 「少なくとも、僕は樹の一族ではありません」

 「もう一つ質問してもよろしいでしょうか?」

 アリマは上品な仕草でショートケーキをフォークで切り取り、口に運んだ。

 「樹の一族と関係のある研究所に勤めていたご家族や知人はいらっしゃいますか?具体的に言わなくても構いません。いる、いないだけで結構です」

 その質問に僕は押し黙り、複雑な思いで再び考え込んだ。

 「特に樹の一族について知っている人はいないと思い——」

 そう言いかけた時、先日の病院で香月と同僚が交わしていた会話を思い出した。研究会に香月が参加していた。しかも、あの二人は母親を昔から知っているような口ぶりだった。

 僕の知っている母親は専業主婦で、病院の仕事とは全く縁のない人だった。それなのにあの二人は母親を知っていた。しかも、僕の存在まで上から目線で見透かしていた。何かがおかしい。僕は自分の記憶に疑いを抱き始めた。

 「その反応だと、誰かいるのですね。最初にお会いした時は緑埜社長かと思いましたが、彼が本格的に活動した時期は緑埜家に入ってからでした」

 アリマの話は僕を混乱させた。

 「待ってください。まだ僕はその質問に答えていません」

 アリマがコーヒーを啜りながら目を閉じた。

 「目が左上を向いていますよ。何かを隠したい時は、せめて自分の目くらい意識した方がいいでしょう」

 「いや、そんなはずがない。あいつが、あいつが実験をしたから僕の家族は亡くなったんです」

 話が白熱する中、店員が注文した飲み物をテーブルまで運んできた。小さなイチゴショートが添えられていたので尋ねると、今日最初のお客様へのサービスだとのことだった。甘いものが苦手な僕は、アリマに全部あげて熱いマグカップだけを自分の前に置いた。

 「各務コーポレーションは十年前から、ダイアモンドクラブのメンバー同士で共同研究を行いました。大きな目標は、巨樹の遺伝子情報からトゲの発現を誘導する薬剤でした」

 アリマはコーヒーを一口飲んで話を続けた。

 「共同研究を始めて三年目の三月のある夜、研究に参加したメンバーの一人が、巨樹の冬芽から特殊なサンプルを抽出しました。通称『青薔薇(アオバナ)』と名付けられたそれは、現代人には発現しない樹の一族のトゲだと判明し、どのような特徴を持っているかを確認する段階に進みました」

 研究内容の概要を聞いて、僕はあいつの書斎で読んだ昔の研究資料を思い出した。英語で書かれていて内容までは覚えていないが、何かの細胞のイラストが描かれた資料だった。

 「問題は、青薔薇を定着させる条件にありました。巨樹から取り出した青薔薇は、動物の体内に移植した際に拒絶反応を起こしました。ネズミ、豚、猿、最後にイルカまで。あらゆる手段を尽くしましたが、すべて失敗に終わりました。研究が進まない日々が続く中、私たちは意外なところからその条件が判明しました」

 僕は黙ってアリマの話に耳を傾けた。各務家の話だと思っていた内容が、次第に僕の知らない秘密と繋がり、今まで信じてきたことが覆されそうな気がした。

 「青薔薇が反応を示す唯一の生物は、人間でした。しかも、生きた人間の血液でなければ青薔薇は完全には開花しませんでした。意外にも、その条件が判明すると、研究チームの中から自ら被験者を志願する者が現れました」

 「……その研究員は、誰でしたか?」

 僕は固唾を飲んでアリマを見つめた。

 「残念ながら、当時の研究資料には名前は記載されていません。ただ——」

 アリマが言葉を濁し、僕の様子を心配してくれる。

 「最初の実験は、体の不自由な幼い子供を対象に行われたと記録されています」

 アリマから聞いた真実に、僕は唖然とした。話に出てくる幼い子供は体が不自由だったというが、僕の身体に特別な問題はない。だから僕とは違うはずだ。しかし、それでも僕があの実験に無関係だとは断言できなかった。

 「実験は大成功でした。続いて何人かの被験者を集めて第二、第三の実験を行いました。お姉様は、その実験の被験者だった子供の一人です」

 「案山子が僕たちを狙った理由も、樹の一族の遺伝子情報が僕たちの体内にあるからですか?」

 「具体的な理由は案山子の背後にいる者から聞くしかありません。今までガーデンズ学園で行方不明になった受験生についても、バベルが公式に声明を発表したことは、今年の共通テスト以外にはありませんでした。バベルが隠している真実は、まだ他にもありそうです」

 「今回は違ったということですか?」

 「そうですね。おそらく、テロという予期せぬ出来事で一般の人々にも知られてしまったため、今まで通りの隠蔽はできなかったのでしょう」

 アリマはティーカップを皿の上に置いて、話を続けた。

 「証拠はありませんが、ガーデンズ学園側は毎年の共通テストが行われる日に合わせて、受験生の中から樹の一族の血を引く子供を見つけ出し、バベルに引き渡していたと思われます。七年前に取り逃がした子供たちを、今度こそ確実に捕らえるために」

 僕が案山子と戦ったことが予想外の連鎖反応(れんさはんのう)を引き起こし、噂を表沙汰にするきっかけを作ったようだ。

 「アリマさんの話では他にも樹の一族になった子供がいるようですが、実験に直接関わった大人がいれば、その方の連絡先を教えていただけませんか?直接聞きたいことがあります」

 「残念ながら、現在のダイアモンドクラブのメンバーは二代目で、先代のメンバーは全員、七年前に『庭師』というバベルの関係者によって焼き殺されました」

 「一人残らず全員ですか?」

 「はい。信じがたい話ですが、嘘ではありません。研究者とそれを指示したメンバーは皆、庭師の炎によって焼かれ、灰となりました」

 真相を教えてくれる人がいなくなったのは残念だが、いくつかの疑問については答えが得られたので一定の満足感はあった。残りの疑問は、香月と父親に尋ねれば解決するだろう。僕は今までの話を頭の中でまとめた。

 「僕からも一つ質問があります」

 今になって根本的な話を切り出した。

 「一度捨てたステラを、再び本家に連れて行こうとする真意は何ですか?」

 「随分と回りくどい言い方をしますね」

 アリマは苦いコーヒーを一気に飲み干し、イチゴを口に入れた。

 「子供にとって大切な存在は誰だと思いますか?」

 「僕の質問に質問で返さないでください。真面目に答えるつもりがないなら、この場でTGCの知り合いに連絡してステラの件をお願いすることも考えています」

 「なぜですか?炭咲さんはお姉様の代理保護者に過ぎず、私は実の妹です。家族である私が、身内のお姉様を引き取ることに理由が必要でしょうか?」

 「本当に大切に思うなら、子供を捨てたりしません。子供のためであれば、何があっても親として子供を見守るものでしょう。捨てた理由は聞きたくありませんが、まずは子供を大切にしなければ、また同じことが起きないとは保証できないと思います」

 それだけ言うと、アリマさんはしばらく口を閉ざした。

 自分らしくもない余計な世話を焼いて、アリマを怒らせてしまったと思った。しかし目の前の相手の顔を見た瞬間、アリマへの警戒心を強めた。

 微笑んでいる。ただそれだけだった。努めて微笑んでいたが、その無理な笑顔がかえって違和感を生んでいた。それは、心に傷を負った少女の寂しい微笑みにも見え。

 「失礼、前置きが長くなりました」

 彼女は当たり障りのない答えばかりをして、最後に残った一口分のケーキをフォークに載せて僕に差し出した。

 「炭咲さん、お姉様の世話係としてではなく、本当の父親になってくれませんか?」

 あまりに唐突な提案に、僕は自分の耳を疑った。アリマは今の言葉など何でもないかのような平静な顔でカフェ内を眺めていた。

 「今すぐ答えなくても構いません。五日後の朝までに決めていただければ」

 「正気ですか?」

 「と、言いますと?」

 「普通に考えれば、ステラを各務家に連れ戻すために僕を説得するのではなかったのですか?」

 「私は契約の話を提案した時点で、炭咲さんにお姉様をお任せしようと決めていました」

 「いや、おかしいです。絶対におかしいです」
 「契約が終わるまであと二日ほどですが、その間にお姉様に良い父親の姿を見せてください」

 「冗談にも程があります。僕の意見も聞いてください」

 僕は両手を振って制止した。

 「そう簡単に、一日二日で僕が実の父親を超える父親になれるわけがありません。子育てのことを考えても、一人暮らしの男性より、経済的に安定している各務家の方が、ステラにとって何不自由なく暮らせると思います」

 「炭咲さん、私が軽い気持ちでお姉様をあなたに預けるような人に見えますか?それに、良い父親になるために求められる部分は、子供を大切にする心構えだと炭咲さんがご自分で言いましたよね。あれは、ただの言い捨てでしたか?」

 「いや、いくら何でも突然それは——」

 話し終えたアリマは、一層顔の線を固くし、少しきつく感じられる目を窓から僕の方へ向けた。父親の会社で見たアリマさんの人形とそっくりだった。それほど軽い雰囲気は微塵もなかった。

 「私は姉様の家族である前に、一人前の起業家です。炭咲さんであればお姉様を任せても問題ないと判断した根拠と理由を考えてお願いしています。お姉様には、あなたが必要なのです」

 「もちろん、アリマさんの判断は尊重します。しかし、これは一生涯、本当にステラの人生にとって重要な分岐点です。僕は六年以上を親と離れて生活し、今でもあいつからの支援を断って一人で暮らしています。そのような僕が、父親らしくステラを育てることができると思いますか?」

 「逆に聞きたいのですが、父親らしい人物とは具体的に誰のことでしょうか?」

 「それは当然、子供に優しく経済的にも安定した大人のことです」

 「その基準で判断するなら、炭咲さんの家庭の事情や貧しい境遇が改善された場合、お姉様の父親になる資格を得られるということでしょうか」

 「僕から目を逸らしてください。僕は親の役割など初めて経験する、ただの十五歳の子供です。期待されても困ります」

 「何も期待していません。だからこそ私が炭咲さんにお願いをしているのです」

 アリマは差し出したケーキを僕の口に入れ、にこりと笑った。

 「立場的に考えれば、最近お姉様の面倒を見始めた炭咲さんと、年を重ねた大人が初めて父親になった時に経験することの間に、大きな違いはないでしょう。大人だって、パパとママになることは初めてです。炭咲さんは、パパになる機会が他の人より早く訪れただけです。その機会を掴むか掴まないかは、炭咲さん次第だと思います」

 アリマはそれを最後にフォークをテーブルに置いた。

 「どうか、炭咲さんが考えた理由や条件は置いておいて、本当にお姉様のために必要かどうかを考えてください。どうか、引き続きよろしくお願いします」

 ここまでの話を聞いて、僕は口を閉ざした。説得力があるからではない。ステラのために僕を説得しようとするアリマの様子を不思議に思いつつも、言い返す言葉が浮かばなかったからだ。僕自身が思っている以上にステラを大切に思う気持ちが強くて、断りづらくなった。

 「お姉様の本当の親になってくれませんか?」

 アリマの言葉が、静かに耳元に留まった。

 親など、僕の人生には不要な存在にすぎないと信じていた。実際、父親からの経済的支援がなくても、自力でアルバイトを見つけ、一人暮らしに必要な生活費を稼いでいる。まるで最初から独りだったかのように、不便でも不満に思ったことはなかった。

 父親の手で荒れた人生を送った僕には、自分の身を守ることなど簡単にできる。父親に散々振り回され、苦労した人生に慣れているからだ。

 ただし、ステラの父親になれるかという話は、また別の問題が生じる。家族の安全が関わる場合、正直な話、僕が判断を間違った時のプレッシャーに耐えられるか分からない。ステラには、僕が歩いた道を同じように経験させたくない。ステラには、できるだけ幸せな毎日を送らせたい。人生の主役が僕からステラに変わった時、僕の人生に何か物足りなさを感じるようになった。

 仮にステラが僕の娘になった後を想定しても、心配の種は残っている。果たして、ステラが僕の見苦しい一面を見ても、僕を嫌いにならずにいてくれるだろうか。家族になってから、互いを傷つけるほどの大喧嘩をしても、ずっと一緒にいられるだろうか。

 僕はマグカップのココアが冷めるまで、じっと考えた。

 「炭咲さん、何か甘い物でも注文しますか?」

 僕は何気なく、心が望むままに口にした。

 「オレオクッキーミルクをお願いします」

 「承知しました。オレオクッキーミルクですね」

 それから僕はアリマと一時間ほどカフェで明日の予定について話し合い、久しぶりに料理の材料を買ってから家に帰った。

 ステラはまだ何も知らずに居間で眠っている。すやすやと眠る天使の寝顔に、艶のある髪が白い頬にかかり、小さな耳は枕に隠れて見えなかった。明日は午前中に水族館に行く予定だから、そろそろ昼寝はやめさせた方がいいと思ったが、寝ている顔があまりにも可愛くて、もう少しだけ寝かせておくことにした。

 その間に僕は、時間的にはまだ早いが夕飯の準備を始めた。フライパンをあらかじめ洗い、ネギ一本をまな板の上に置いて包丁で小さめに切る。今日の夕飯はネギ油を使った鶏の唐揚げだ。一ヶ月に一回、贅沢な気分を味わいたい日にしか作らないが、一人暮らしを始めた頃、中華料理屋で初めて習った料理が鶏の唐揚げだった。他の料理は下手でも、これだけは自信があった。

 洗ったフライパンに火をつけ、油を入れると、そのうち寝起きでぐずるステラの声が聞こえてきた。

 「パパ、うるさい」

 僕はごめんなさいと謝り、料理が終わるまで我慢してくれるよう頼んだ。

 「料理?パパ、何作るの?」

 ステラが眠たそうな目をこすりながら言った。

 鶏の唐揚げと答えると、今度は期待に満ちた表情で僕のところにやってきて、料理をする姿を見上げた。アリマも念のため、ステラが怪我をしないよう隣で僕たちを見守っている。

 なんだかんだ言って、家族らしい雰囲気が漂い始めた。僕は心の中で呟きながら、電子レンジにパックご飯を入れて温めた。

第10話 別れの覚悟と、その涙

 翌日、水族館に着く前からステラの体に異常が生じた。最初は僕が風邪を引いた時のように単なる風邪だと思い、体調が良くなることを期待して館内のカフェで時間を潰した。しかし、時間が経っても熱は下がらず、軽い咳が悪化して息切れが激しくなった。

 周囲の人々から迷惑そうな視線を向けられ、これ以上は危険だと判断した僕は救急車を呼ぶためにスマホを取り出した。だが、途中でアリマに止められ、携帯を奪われてしまった。

 「牡丹(ぼたん)さん、各務です。先ほどメッセージで送った住所まで、車を一台お願いします」

 アリマは僕の代わりにどこかへ電話をかけ、現場の状況を伝えた。

 「エマージェンシーコード・レッド、U012です。今からそちらへ向かいますので、先生方にコールを入れてください。それから、牡丹さんに連絡して人形の準備をお願いします」

 僕は近くのベンチに座り、冷たい缶コーラをハンカチに包んでステラの脇の下に当て、ステラの熱が下がるのを待った。五分が経過するとアリマの電話が再び鳴った。呼び出した車が駐車場に到着したようだった。迅速な対応に感心しつつ、急いでステラを背負って階段を駆け下りた。

 僕が慌てているのと対照的に、アリマは慣れた様子で冷静に歩いていた。

 駐車場には黒い車三台が一列に並び、すでに出発の準備を整えていた。三つ又の銀色のマークが特徴的なベンツから降りた三人の運転手たちは、丁寧に挨拶を済ませた後、アリマの指示に従って車のドアを開け、頭をぶつけないよう気遣いながら僕たちをエスコートしてくれた。

 「出発してください。着替えるまで暗幕の配置もお願いします」

 乗客の安全を確認した運転手は無言でウインカーを出し、前後の車と共に高速道路へ向かった。僕は目的地も分からないまま、無力感を抱えながら、小さなステラの手を握った。

 あっという間に車は東京市内に入り、東京中心部の高層ビル群を通り過ぎると、窓の向こうの景色が徐々に見慣れたものに変わっていった。やがて車が停まったのは、とある病院の地下駐車場だった。

 「お待ちしておりました、各務様。ご指示いただいた通り、各センターから協力を得てカプセルのご用意が完了しております」

 「花園の先生方からはまだ連絡が届いていませんか?」

 「申し訳ございません。もう一度連絡を入れてみますので、少々お待ちください」

 二人の会話についていけない僕は、ステラを優しく抱いて車から降りた。車のドアを開けて地面に足を踏み出すと、黒いスーツを着た人々が病院のゲートまで一列に並び、背筋を伸ばして深々と頭を下げ、アリマに向かって敬礼していた。皆、スーツの左襟にタンポポをモチーフにした社章を付けている。

 感心している場合ではない。僕はステラを抱えたまま病院の中へ向かった。

 「ここからは各務様以外は立ち入り禁止です。恐れ入りますが、被験者はこちらでお預かりいたします」

 背の高い警備員が片手を広げて、中に入ろうとする僕を遮った。

 「弥蛇山(みだやま)さんのところに見慣れない方がいらっしゃいますね。新人さんですか?」

 アリマが奇妙な笑みを浮かべながら警備員を見詰めた。

 「大変失礼いたしました。おい、君、各務家のお連れ様に何と無礼な真似だ。すぐに道を開けろ」

 「いえ、大丈夫です。マニュアル通りに対応したので問題ありません。ただ——」
 
 着替えを終えたアリマが改めて皆の前に姿を現した。

 「相手が悪かったですね」

 アリマは緊張した数分間を過ごした後、人を軽蔑するような眼差しでこう告げた。

 「今日までお疲れ様でした。あなたは今から解雇です。また、二度と各務家が運営する会社や子会社に就職することはできませんので、ご理解ください。ご不満がありましたら法務チームまでご連絡ください」

 瞬時に解雇された警備員は弁解する間もなく、地上へ追い出された。アリマから、初日に会った時と同じ冷たい空気が流れ、僕の背筋を震わせた。

 「それでは、参りましょう。研究室には私も同行させていただきます」

 冷静なアリマの後を追って、僕は関係者と共にエレベーターに乗り、地上三階にある第三研究室の前に着いた。どどこか見覚えのある施設だった。よく見回してみると、ここは先日訪れた花園大学医学部附属病院だった。

 「失礼いたします。お子様をお預かりしてもよろしいでしょうか」

 誰かがステラを引き取るために僕の前に来た。虎徹だった。僕のことはまるで眼中にないかのように、ステラを移動式ベッドに寝かせて体の状態を確認した。虎徹は手元の紙カルテに記載された内容をアリマに見せながら、何かを深刻そうに伝えた。カウンセリングシートを読んだアリマの顔色が悪くなった。

 せめて治療がいつ終わるかでも聞きたかったが、アリマを含む関係者全員が僕を除いて研究室の中に入ってしまった。僕は肩を押し下げる無気力感に襲われながら、一人で病院の廊下に立って時間を潰した。

 僕はステラが元気になるのを一日千秋の思いで待ち続けた。あたりは夕闇が灯りに照らされて、空に紫がかった雲が広がり始めた。夜になって気温が下がり、外から吹く風が冷気を運んできて、膝元まで冷えが這い上がってくる。

 僕はふと、昼夜まるまる何も食べていなかったことに気づき、タイミングよく腹がグーっと鳴った。何かお腹に入れなければと思い、近くの自動販売機から天然水を買った。一口飲んだ冷たい水が食道を通り、空っぽの胃袋まで流れ込んだ。腹は減っていたが食欲はなく、再び座っていたベンチに戻って呆然と病院の壁を虚ろな目で見詰めた。

 「誰もいない廊下で一人で何をしているんだ?」

 人の声に顔を上げると、私服姿の香月がそこにいた。白い開襟シャツに度の入っていない黒縁の伊達メガネという姿が、仕事帰りに飲みに行く社会人のようだった。僕は力なく挨拶をした。

 「あ、香月さん。お疲れ様です。先日は色々すみませんでした。暴れるつもりはなかったのですが、ステラのことで取り乱した姿をお見せしてしまいました」

 ステラを取り戻すためとはいえ、病院の施設や多くの人々に怪我をさせてしまった。悔恨の念に苛まれる良心を犠牲にして、自分が犯した犯罪行為を忘れるほど愚かではない。当時はすべてが終わったら罪を償おうと思ったが、状況が変わった今は別の方法を考えている。

 「家族に対して堅苦しいことを言わなくてもいいと思うけれどね。俺よりも、病院の関係者や他の人々に謝りなさい」

 香月はバッグからメモを取り出して僕に渡した。

 「これ、爆発に巻き込まれた人たちの連絡先リスト。今週中には連絡した方がいいぞ」

 受け取ったリストを上から順に確認すると、こひなの名前を見つけた。こんなところで本名を見ることになるとは思わなかった。連絡先の欄は空欄になっている。僕は香月にこひなのことを聞いてみた。

 「彼女さん?」

 質問に質問で返され、僕はきっぱりと否定した。

 「最近、意外なところでハルくんの意外な一面を見ている気がする」

 興味深そうな様子の香月は話を続けた。

 「その子から携帯電話を預かっている。ちょうど充電が終わったばかりだから、電源を入れてすぐ使えると思う」

 「ありがとうございます。すぐ電話してみます」

 「周りの人は大事にしてね。いつ何が起きるか分からないからさ。それと、薬もちゃんと飲みなさい」

 さよならを告げる香月を見送ってから、僕はガラケーの電源を入れた。まず連絡先に目を通した。保存されている電話番号は一つだけだった。「本邸」と記入されている。このタイミングで電話をかけても、言い訳を聞かされるだけで終わりそうだった。

 どう会話を始めようか一瞬迷った末、咄嗟に心を決めて通話ボタンを押した。しばらく呼び出し音が続き、僕は頭の中で言葉を整理した。

 「はい、ナオミです。どちらの方でしょうか」

 「すみません、炭咲ですが、こひなから電話を——」

 「ねぇさん!あの男から電話が来た。どうする?」

 遠くにいる誰かに向かって大声で僕からの電話を伝えた。

 「分かった。もしもし?悪いけれど、ねぇさんが五分後に折り返し電話するって言っているから、ここで一旦切らせてもらうわね」

 何か言い返す間もなく、電話はそのまま切れた。約束の五分が経つと、本邸から着信が入った。僕は両手の指でそっと目を押さえながら、深くため息をついた。先に謝ってから話を始めよう、と小さくつぶやいてから電話に出た。

 「炭咲です。先日はお世話になりました」

 短い挨拶から会話を始めた。

 「今、ステラの調子が悪くなって病院に来ています」

 反応はないが、受話器の向こうから息遣いが聞こえてくる。

 「はあ、ずるいわよ、炭咲。嘘でもステラちゃんを盾にして逃げないでくれる?」

 「いえ、そういうつもりではありませんでした」

 動揺した僕はこひなに状況を伝えた。

 「今朝、ステラの調子が急に悪くなって、急いで車に乗って水族館から病院まで来ました。ステラの家族と一緒です」

 「へぇ、デートしたのね。あたしはそれっきり新吉原に連絡でもすると思ったのに、すっかり忘れられていたわけね」

 地雷を踏んでしまった。謝るつもりで言った言葉が、かえってこひなを不機嫌にさせてしまったような気がする。どう反応すればいいか迷っているうちに、こひなが先に口を開いてくれた。

 「で?結局、本当の家族を探したんだ。ステラは喜んでいる?」

 「喜びました。でも、実は少し心配事に悩んでいます」

 「あら、何かあったみたいね。言ってごらん。男の悩み事はあたしの専門だから、真面目に聞いてあげる」

 「こひなに正直に言ってもいいですか?」

 僕は昨日から考え込んでいたことを文章にまとめて声に変えた。

 「ステラのことが怖いです」

 「ええと、ステラちゃんを失うのが怖いの?それとも、まだあなた自身への自信がないから?」

 「後者の理由で前者の結果になるのが怖いです」

 こひなは話を聞いてこう言ってくれた。

 「色々あったみたいね。ステラの家族と何かあった?」

 僕は父親との会話からアリマと交わした契約の話まで、この四日間に起きたことをこひなに話した。ただし、ステラが暴走したことと樹の一族については秘密にして、それ以外はできるだけ全部話した。

 「なるほどね、炭咲と仲良くなるなんて羨ましい。少し嫉妬するかも」

 こひなは軽く笑った。

 「二人の会話でステラちゃんを実家に連れて行く話でもした?それともステラが行きたくないと言ったの?」

 まるでこひなが目の前で話を聞いているように、僕は気安い雰囲気で胸の奥に埋めていた話をぺらぺらと喋った。こひなが話し相手だと、誰に憚ることなく話ができる。今まで沈黙を守っていた心の声が、ブレーキが壊れた車のように口から暴れ出し、感情は心臓の鼓動と共に高ぶった。

「身内の人から、今後は実の父親として、ステラの面倒を見てくれと頼まれました。でも、僕もノバナ出身で、良い手本になりそうな大人が周りにいないです。僕は自分がいい大人になる想像ができないのと同じように、僕がいい父親になる想像もできないです」

 大人に対して不信感を持っている僕にとって、誰かに相談することは実に難しいことだった。素直に大人を信じて助けを求めようとしても、二度も痛い目に遭った僕には、三度目の勇気はなかった。話をする前に、相手から何かを奪われるのではないかと心配した。

 香月には悪いと思っている。しかし、たとえ親戚であっても、父親と同じ大人である限り、きっと優先順位があり、僕はその下位に位置していると思う。ただほど怖いものはない。だから大人には借りを作らない。僕のモットーとなったこの考えに愛のかけらも含まれていない理由は、僕が傷つきたくないからだ。

 こひなが大人になれないノバナだから信用できる、という意味ではない。同じ年齢の子供として、似た心の傷を負った経験があるから、話しやすい相手だと感じているのだ。うまく説明できなくて、僕も未だにこれがどんな意味を持っているかをよく分かっていない。たぶん、今後もこの違和感は正体を現さないまま終わるだろう。

 僕の事情を聞いたこひなは長い沈黙を破り、布団に身を縮めて消え入りそうな声でこう言った。

 「告白……されたの?」

 何か大事なことを言い忘れた気がして、すぐに訂正した。

 「あの、誤解です。ステラの姉の方から頼まれたことです。まだ返答はしていません」

 「なあんだ、そうだったの?びっくりしたわ」

 こひなはほっとしてため息をついた。

 「ご両親が亡くなったり、ひとり親家庭だったりするの?」

 「いえ、親はいると思います。こひなと面識のある人です」

 「あたしが知っている人の中でステラを捨てた家族がいた?誰なの、その人は」

 「各務家のアリマさんです。病院にも一緒に来て、今はステラの治療を手伝っています」

 「えっ?」

 こひなが思わず声を上げた。

 「……炭咲、今、各務先生と言った?本当にあたしが知っているあの各務先生がステラの家族だったの?」

 「僕も信じがたいと思いましたが、ステラがアリマのことを親しげに『ネネ』と呼んでいたから、嘘ではないと思います。アリマさんもこひなを知っていると言っていたので、間違いなく同一人物です」

 こひなの反応を聞き、釈然としないものが胸に立ち込めて、喉が詰まるような感じがした。それはちょうど、漠然と異常を察知した時の気分に似ていた。

 「こひな、何か気になる部分でも——」

 そこまで話したところで、研究室の中から虎徹がマスクを外しながら廊下に出てきた。着ていた服に誰かの血が付いている。

 僕は携帯電話を閉じて廊下の椅子から立ち上がった。短い息抜きの時間を邪魔したくはないが、中の状況が知りたくて自動販売機から缶コーヒーを買い、虎徹に近づいた。六時間以上続いた労働で虎徹の目の下には濃い隈ができ、白目が血走って疲労が溜まり、唇は乾いてやつれている。それでも体力はまだ残っているようだった。こんなに疲れ切った人に話しかけるのは気が引けた。

 「失礼しますが、各務家の娘はどうなりましたか?大丈夫ですか?」

 僕はぶっきらぼうな口調で声をかけた。

 「病名だけでも教えていただけたら幸いです」
 
 僕は続けて言った。
 
 虎徹は疲労で重くなった瞼を一度閉じ、それから静かに口を開いた。

 「ナロコウイルスに感染した状態で、体内の力が大量に消耗された影響で高熱と炎症が多発しています。有効なワクチンがまだ見つからないので、これからは集中治療室(ICU)に入院させ、明日の朝まで様子を見ることにしました。各務先生の処置も、まだ時間がかかりそうです」

 話を聞いてから僕は考え込んだ。先日の暴走がステラの具合を悪くしたとしたら、僕にも責任がある。だが、何の能力も権力も持たない僕に残されたのは、外で治療が無事終わるまで無力感を抱きながら待つことだけだった。

 この長い一日の間に、久しく大切に思っていたステラに対して、何の責任も果たせない自分の無力さを痛感した。それでも、いつかステラの本当の保護者になれるかもしれないという淡い期待を抱いてしまう。

 「まだ学生だろ。多くても高校生くらいに見えるけれど」

 疲れに染まった声が僕を妄想から呼び戻した。

 「各務先生から聞いたぞ。あの子の保護者でいてくれたみたいだね。詳しい事情は知らないが、責任を負う覚悟を持つだけで子育てをうまくできると思わない方がいい。子育ての理論や教育方針を知った親でも、想像以上に大変だと感じるものだ。特に、君のような学生が背負うには、あの子の特殊な状況は手に負えないリスクになる」

 この人は年下だからといって容赦しないタイプだ。何でも言える立場だと思っているに違いない。僕は斜め前の椅子に座っている男から目を逸らさなかった。目の鋭い、彫りの深い顔立ちで、いかにも冷徹で傲慢な印象を与える男だった。

 「お説教、ありがとうございます」
 皮肉を込めて会話を終わらせようとした。

 「ずいぶん乱暴な言い方をしたが、君も内心では第三者の口から、子供が子供を育てるはずがない、と聞きたかったでしょう」

 僕は虎徹の言葉を否定しようと口を開きかけた。だが、ふと自動販売機にわずかに映った自分の顔を見て、静かに口を閉じた。

 「まあ、缶コーヒーをもらったお礼に一言言わせてもらうが。聞くか聞かないかは君の判断に任せる」

 缶を開けた虎徹がふうっとため息を漏らした。

「今回の件で、親の責任の重さを理解したはずだ。年若い君が、まだ芽生えていない父性愛に心を燃やしたところで、明確に定義されていない関係はいずれ忘れられる。現実的には、あの娘の幸せを祈ることしかできないだろう」

 消毒剤の匂いが鼻先に漂い、缶コーヒーの甘い砂糖の匂いが消えていく。そして、喉に残っていた胃液の違和感で気分が悪くなり、僕は不意に、たった一滴の涙を零していた。思いがけないことだった。

 「あの人から何を吹き込まれたかは知らない。知ったところで意味もないが、各務家の思惑通りの話だろう」

 虎徹は、疲れの取れない顔を軽くこすり上げて次のことを言った。

 「各務家との関わりは今後控えた方がいい。アレについては、本家の当主が治療を完了次第、直接回収に向かう予定になっている。そうなれば、君の出る幕はなくなるだろう。各務先生からは、それ以外に何か伝言があったか?」
 
 僕は驚いた目で虎徹を見詰めた。

 「当主の話を知らないとは。やはり先生の一存で動いているのか。各務先生が意図的にアレを逃がしたという話が出ているが、真実かもしれんな。私の知ったことではないが。君も引き上げろ。ここに留まっても、もうアレとは顔を合わせることはない」

 虎徹は飲み干した缶コーヒーをゴミ箱に捨てて、再び研究室に戻った。僕はまた一人で廊下の椅子に座った。

 必死に我慢するように唇を横に引き結び、眉間に力を入れ、目を見開いた。体は段々と重くなり、膝が震え、額に冷たい汗が浮かんだ。視線は焦点を失い、立っているのがやっとだった。もともと白い肌から血の気が引き、めまいと吐き気が込み上げてきて、僕は慌ててトイレを探した。

 廊下を歩きながら、すれ違う人たちが僕の青白い顔を見て眉をひそめているのがわかったが、それを気にする余裕はなかった。やっとの思いでトイレにたどり着いた時、僕はしきりに便器に顔を突っ込んで胃の中身を吐いていた。

 吐いて、涙があふれて、心臓が激しく鐘を打ち、肺は十分な空気を求めて喘いだ。腹の底にあった重苦しいものがなくなるまで吐き続けた。喉がひりひりと痛み、塩辛い涙の味が舌の上に残る。

 それは不快感の味だった。 

 何も残っていない腹の中から最後の一滴まで吐き出した僕は、よろめきながら立ち上がると、個室の壁に手をついて体を支えつつ、洗面台まで歩いた。廊下の方から心配そうな声が聞こえてきたが、僕には遠くに感じられた。

 気を取り直すために冷たい水で洗顔を済ませると、みじめな姿の顔が目の前にあった。水に濡れて蒼白な色を帯び、灰色の唇は生気を失い、充血した瞳は疲れ切っている。流れ落ちる水を拭うことも、垂れてくる前髪をかき上げることさえもできなかった。

 ぼんやりと見詰めた鏡に映る惨めな自分の姿を見て、僕は込み上げる怒りを抑えきれずに握り拳を振り上げた。

 洗面台の鏡が割れ、手の甲から血が流れた。僕は割れた鏡の破片が散らばる洗面台を見つめた後、足元の欠片を避けながら、トイレの外に集まった数人の前を通り抜け、その場を立ち去った。

 外はすっかり日が落ちて暗くなっていた。

第11話 紫紺の牡丹は人を騙かす

 家に帰って数日が経っていた。正確には、今日が何日で何曜日かも分からないまま、暗い部屋に閉じこもって時間を潰していた。廃人のように、まともな食事も水分も摂らずに布団を被って眠り続ける日々。そんな生活に慣れかけていた時、玄関のチャイムが鳴った。

 「炭咲さん、ご自宅にいらっしゃいますか。各務家の者です。お嬢様からの伝言をお伝えするために参りました」

 聞き覚えのない声だった。僕は重い体を何とか起こし、ふらつきながら玄関へと向かった。ドアに手をかけたものの、鍵を開ける気力すら残っていなかった。

 「お願いします。話だけでも聞いてください。もう最後かもしれません」

 ドアの向こうから聞こえる切迫した声に、僕は壁に背中を預けたまま、返答もできずに黙って相手の話に耳を傾けた。

 「まだ反応がございませんか。下がっていてください。私が予備キーを所持しております。これで開錠できるはずです」

 「あの、失礼ですが、そちらのキーはどちらでお求めになったのでしょう」

 「これでございますか?一階の宅配ボックスに入っておりましたので、お預かりしてまいりました」

 「それは法に触れる行為ではございませんか。お嬢様のお名前に傷がつくようなことは、どうかお控えください」

 「学校の先生からご指導いただいた方法でございます。ご心配には及びません」

 すぐ近くでこひなの声が聞こえ、外から鍵穴に鍵を差し込む音が部屋に響いた。しかし僕は、ドア一枚向こうが外の世界だということに心細さを感じて怯えていた。

 カチャリと鍵が開く音がした後、ドアが勢いよく開かれた。

「炭咲!」

 こひなの声が部屋に響く。半ば意識が朦朧とする中で、夢とも現実ともつかない足音を聞いた。何かに苛立っているらしく、乱暴な歩き方だった。

 「牡丹さん、急いで車を用意して出発準備をしてください」

 暗闇の中に白く光る人影が現れ、その輪郭はどんどん明瞭になっていく。やがて椿柄の着物を着た女性の顔が網膜に映った。こひなだった。その後、僕はあっさりと気を失った。

                  ◇

 朦朧とした意識の中で、周りの声がぼんやりと聞こえてくる。

 「——時間がありません。どう考えても、今起こさなければもう間に合いません。体の回復は移動しながらでも大丈夫でしょう」

「無茶を言わないでください。香月さんの話を忘れたのですか?いくら各務先生が緊急だとしても、炭咲は死にかけていますよ。本当に死ぬか死に損なうかの境界線上にいる人に無理をさせるなんて酷すぎます」

 「こひな様は少し黙っていただけますか?今は炭咲さんの保護者である香月さんとお話ししています」

 「はあ?それ何?気持ち悪い」

 こひなが鼻で笑った。

 「保護者の資格なら私にもあるから、勝手に部外者扱いするのはやめてもらえます?」

 「話になりません。いつからあなたが炭咲の代弁者になったというのですか。ご家族を前にしてわがままが過ぎます」

 「いつからって、炭咲が気になってからです!何か文句でもありますか?」

 うるさいという漠然とした不快感が、薄れゆく意識の隅に引っかかっていた。何かに対する苛立ちらしきものを感じるが、それが何なのか、なぜなのかも定かではなかった。

 「香月さん、ずっと黙っていないで、何か話してください」

 こひなの声には、わずかに困惑した様子が滲んでいた。

 「そうだな。医師として言わせてもらうと、現状での移動は非常に危険だ。ただ、あくまでもこれは医者としての話で、春くんの判断には何の役にも立たない」

 椅子がきしむ音がして、香月が体勢を変えたようだった。少し間を置いてから、いつもとは違う軽い調子で続ける。

 「ところでこひなちゃんは、具体的に春くんのどこが好きなんだ?あの子って結構、人に対して厳しいから、中々人から好かれないんだよね」

 「香月さん、炭咲があんな状態なのに、恋愛話をするのはどうかと思います」

 こひなの声は相変わらず落ち着いていたが、わずかに冷たさが増したように感じられた。

 「それとも、医者として患者の知人を安心させるための話術ですか?」

 天井のシミが僕を見下ろしていた。それは僕が見慣れたシミではなかった。僕は慌てて上体を起こした。右腕から鈍い痛みと共に痺れが伝わってくる。気がつくと、片腕にはリンゲル液の点滴針が刺さっていて、記憶にない部屋にいた。

 カーテンで囲まれて周りが見えないが、向こう側から聞こえる話し声と、空気に漂う独特な匂いで察しがついた。コーヒーの苦い香りと、消毒液とは違うアルコールの匂い、そして薄っすらとタバコの匂いが混じり合っている。間違いなく、香月の執務室にいるのだろう。 

 「すみません、誰か。ここがどこなのか教えてもらえますか?」

 カラカラに乾いた喉から、掠れた声が出た。

 水を探そうと体を動かすと、カーテンが開いてこひなが現れた。泣きそうな悲痛な顔をしている。僕は何と言えばいいか迷ったが、泣きながら抱きついてくるこひなを片腕で受け止めた。


 「無事でよかった」とこひなが言った。

 僕が辺りを見回すと、壁際に立っていた男性と目が合った。まるで古い映画から抜け出してきたような人だった。身長は170センチほどで、痩せた体に白髪が混じった髪をきちんと整えている。その佇まいには、長年主人に仕える者だけが身につけられる、独特の品格があった。

 「お初にお目にかかります。各務家に仕える牡丹一華と申します。大変恐れ入りますが、直ちに本家までお越しいただけますでしょうか」 

 僕は咳払いをして聞いた。

 「本家の方が僕に何のご用件ですか?」

 「移動しながらご説明いたします。今はとにかく私の言葉を信じて動いていただけませんか?」

 横で話を聞いていたこひなが、氷のような視線を牡丹さんに向けて言った。

 「炭咲は動かせません。詳細な説明もなしに連れ出すなど、論外です」

 強い拒絶反応を示すこひなの声には、普段の冷静さに加えて警戒心が込められていた。確かに筋の通った話だった。僕は何も言わずにいたが、本家にいるステラのことが心配で、牡丹さんの申し出を断る気にはなれなかった。
 
 「分かりました。手短に現状をお伝えします」

 牡丹さんは本家で起きている事態について手短に説明してくれた。ステラが危険な状況にあること、一刻も早く向かう必要があることなどを。

 その説明が終わると、コーヒーカップをソーサーに置く音がして、香月が口を挟んだ。

 「今回は本当に危険だった。その腕に頼り切って体を壊し続けるなら、今度こそ本当に死ぬぞ」
 
 いつものように抑揚なく続けた。

 「当面は絶対安静が必要だ。完全に体調が戻るまで、危険な仕事は一切断った方がいい」
 
 苦い笑みがこひなの頬に浮かんだ。

 「ね、炭咲?各務家には他の人を送ることもできるから」
 
 彼女はベッドサイドに歩み寄りながら、優しく語りかけた。僕が何か言いかけようとすると、こひなは僕の言葉を遮るように、そっと手を僕の手首のあたりに触れた。感覚は失われているはずなのに、彼女の手の温かさが僕の中の何かに語りかけてくるような気がした。

「本当に、無理しないで」

 冷静さの奥に隠れた切実な心配が滲んでいる。僕が倒れた時の恐怖が、まだ瞳に暗い影が残っているのが見えた。

 「春くん、君が倒れた時…あたし、本当に怖かった。あんなに大量の血を吐いて、呼吸も止まりそうになって。もしあの時香月さんがいなかったら、炭咲は――」

 震える声に僕は彼女の手を軽く握り返してから、「大丈夫です」と言いかけたが、軽く手の甲を叩かれた。

 「その『大丈夫』は信用できない」と言いながらも、僕の手を離そうとしないこひなだった。
 
 「春くん、君の体は今、懐炉の中の炭と同じ状態に置いてある。傷口が自然に再生する速度よりも、炭化が進む速度の方が上回っている。子供の頃に移植した巨樹の細胞が焼かれて他の臓器、特に心臓と肺の機能が急速に低下している。いつ限界を迎えてもおかしくない状態だ」

 香月が電子タバコを口にくわえ、鼻から煙を吐いた。

「血痕や粘膜の剥がれた跡が残っているのを見る限り、最近また大量の血を吐いたり倒れたりしたことが少なくとも二、三回はあったはずだ。再生のトゲが既に寿命を尽くした現状では、炭化させる頻度が増えるほど体は内側から崩壊していく。今まではそれなりに心臓から遠い部分から炭化が進んでいたが、今後は炎を灯し続け、燃やし尽くすまで炭化を止められないと思う」

 僕は天井を見上げた。いつか来ると分かっていた結末を改めて告げられただけのことで、特に何も感じることはなかった。

 「ステラを取り戻すまでは、もう少し時間があると思っていたんだけどな」

 声に出してみても、やはり何も変わらなかった。
 
 「君の体は巨樹の細胞のおかげで、普通の人間より生命力は強いはずだった。だが今の状態では、その特殊な体質すら維持できなくなっている。医者の俺が言うのも何だが、自分の体の限界は君が一番分かっているだろう」

 確かに体の異常には薄々気づいていた。でも今はそれどころではない。僕は腕から針を抜き取った。点滴針を抜いた腕の血管部分にガーゼを押し当て、包帯で固定して止血した。

 「申し訳ありません、今日一日だけ正気でいられる薬を処方してください」

 「はあ、炎を起こす前にこれを飲みなさい」

 香月は薬入りのピルケースを軽く投げてよこした。

 「せめて痛みからくる頭痛が酷くなるのを事前に防いだ方が動きやすいだろう。後から飲んでも効かないから、必ず能力を使う前に飲みなさい」

 薬を受け取り、こひなの顔を見た。怒ったような、心配するような曖昧な表情をしている。僕は軽く頭を下げて部屋を出た。

 「こひなには色々とすみません。会ってからずっと僕の世話をしてくれて、面目次第もありません。帰ったら全部お返ししますので、もう少し待ってください」

 「もう待つだけの時間にはうんざりだから、あたしも一緒に行く。問題ないですよね、牡丹さん」

 同意を得る前にベッドから体を起こした。

 「問題になることは特にありません。先に出て車を用意しますので、病院の地上駐車場でお待ちください」

 僕は水を一口含んで喉の奥に飲み込んだ。「香月さん、行ってきます」

 香月は挨拶の代わりに手を振ってくれた。

                  ◇

 病院を出た僕は、巨樹の北にある桜並濠区域まで車で移動した。牡丹さんの説明通り何かの事情があるようだが、頭がもやもやして途切れ途切れにしか話が聞けなかった。出発前に飲んだ薬の副作用で眠気があるようだ。背筋から冷や汗が流れ続け、焼きごてを押し付けられたような痛みの記憶が両腕を長く苦しめた。ふと意識を向けると、隣席に座っていたこひなの肩に頭を乗せていた。

 「要するに、ネネ様をあの家から救出することが最終目的になります。私の説明に不明な点はございますか?」

 「ない」と短く答えた僕は、ピルケースの中の薬を一気に飲み込んだ。全部で六個あった。副作用も普段の六倍は強くなると思うが、一時的にでもステラとの再会で血を吐くようなイレギュラーは避けたかった。

 ステラの前では何があっても弱い姿は見せない。僕は極限状態まで自分を追い込んで覚悟を決めた。

 「炭咲さん、本家に着きましたが、体の具合はいかがでしょうか?」

 浅い眠りで眠気の残る目を擦りながら、僕はぼんやりと窓ガラスの外を眺めた。そこには自分がヨーロッパにいると勘違いするほどの、異様な雰囲気を醸し出す光景が広がっていた。

 敷地内には池や天然石が配置され、植栽が施された閑静な別荘地に建つ豪邸は、何世代にもわたって住み継がれるような威厳を保つ一軒家だった。木々が生い茂る森の中に格調高いデザインで設計された庭園には、数え切れないほどの植物が配置されていて、圧倒的な風景に言葉を失った。

 突然、一発の銃声が豪邸の中から聞こえた。

 「お嬢様が動き始めたようです。急ぎましょう。道案内をしますので、私の後についてきてください」

 駐車場から豪邸まで階段が続いていて、階段を駆け上がると玄関前にまた小さな庭が現れた。しばらく人の手が入っていないように、枯れた花と木の植栽が形だけ残っている。僕たちは死の影が長く伸びた庭を通り抜け、大理石で建てられた各務家の豪邸に到着した。

 牡丹さんは豪邸のドアに耳を傾けて軽くノックした。

 「牡丹です。例の保護者と一緒に戻りました」

 中の誰かに向かって小さく囁いた。

 「中の状況はいかがですか?」

 「当主様はまだ三階におられます。君たちは台所の裏門が開いているから、そこから中に入りなさい。ご令嬢様は南の廊下から階段を上がってすぐの部屋に隠れておられます」

 「ご協力に感謝します。報酬は仕事が終わった時にお支払いします」

 「万が一当主様に気づかれた時には、私は君たちのことを全面的に否定するつもりだ」

 謎の声は二度軽くノックしてから話を終えた。

 「裏門は反対側にありますので、ここからまた走る必要があります。お手数をおかけしますが、よろしくお願いします」

 裏門まで走りながら、前方に見える巨樹に目を奪われた。

 かつて江戸川区からも遠くに見えた巨樹を、これほど近い距離から見ることは滅多にない。この時期は痩せた枝が地面に網のような影を落としている。

 しかし春が過ぎて夏になると、東京都全域を超えて日本列島を覆い隠すほどの勢いで枝を限りなく伸ばす。それが原因で巨樹の下の街には陽が当たらないため、春から夏の季節にはバベルが定期的に日差しを与えに地上近くまで降りてくる。

 普通の日差しと何が違うかは写真でも分からない。目には見えなくても確かにそこにある空気のように、巨樹の下にいる人間は、ごく普通に陽の当たる街と変わらない日常を過ごし続ける。

 僕は時々こうして巨樹を見上げていると、巨樹の影が濃くなっていく印象を受ける。だが、その黒い影が足元に数滴滴り落ちる街にいる間は、自然に周りと同期している自分がいる。

 まるで人が海の中を自由に泳げるように、未知なる存在への恐怖と説明できない自由に包まれ、体は都外にいても魂は巨樹に縛られて生きている感覚が確かにある。

 「申し訳ございませんが、こひな様は炭咲さんが戻るまでここでお待ちください。三人が一緒に屋敷内をうろついていては、当主様に発見される恐れがあります」

 牡丹さんは懐から鍵を一つ取り出してこひなに渡した。

 「これは庭にある倉庫の鍵です。お嬢様がよく使われた新吉原まで通じる扉があります。私と炭咲さんが三十分以内に出てこない時は、この鍵を使って一人で先に逃げてください」

 こひなを外で待機させ、僕は牡丹さんと一緒に豪邸の中に潜り込んだ。台所に足を踏み入れた時、温もりは一切感じられないほど空気が冷たく重々しかった。一日二日どころか、一年以上は食事の準備を行っていないように見えた。台所を抜けて正面の階段を上がり、二階に向かった。

 あれは一体何だと思い、ちらりと廊下の方を見ると、頭だけが残った獣の標本が列をなして壁際に並んでいた。これほど常識外れの趣味を実現できる時点で、狂気しか感じない。

 「先々代の思いを引き継いだ趣味です。ここから廊下の端まで、当主様の叔父様が狩りに出かけて戦利品として持ち帰った動物たちです」

 牡丹さんは眉をひそめた。

 「今の当主様のものは、あれを含めて二つだけです」

 それを聞いた僕の視線は、一か所に留まった。

 「当主様が初めて作られたのはあの人形ですか?意外と派手なものがお好きな方のようですね」

 人形は全裸の姿で、白い肌が花の色に染まるように、ガラスの棺に収められていた。黄色い髪にエキゾチックな異国情緒あふれる顔立ちが特に印象的である。御伽話に出てくる白雪姫が眠りに落ちた時を再現しているようだった。

 よく見れば、こひなが装着している人形とは若干の違いがあるが、清らかで整った顔立ちがアリマのモデルによく似ている。恐らくあれは、各務コーポレーションが最初に造ったプロトタイプかもしれない。

 「やはり素人の目にもそう見えますか」
 牡丹さんはしばらく間を置いてから、かろうじて話を切り出した。
 「あれは……当主様の奥様です。二十年前にお亡くなりになって以来、ずっとあの場所で屋敷を見守っております」
 思わぬ真実に息が詰まった。嫌な想像が頭をよぎった時、二度目の銃声が屋敷内に轟いた。僕はあの人形を目の当たりにして、なおさらステラの身の上が心配になった。

 「牡丹さん」

 胸の底から湧き上がる感情で口が勝手に動いた。

 「ステラの母親は誰ですか?」

 「ステラ?あ、すみません。確かに末井様のことを『ステラ』と呼んでいましたよね」

 泰然とした口調で名前を述べる牡丹さんの顔から、ぎこちない笑みが消えた。

 「ああ、これはお嬢様に怒られますね」

 「お前たちは人をどこまで馬鹿にする気だった?ふざけるのも大概にしろ。言え、ステラはどこの施設から連れてきた?あの小さな子に何をさせた?」

 怒りが体を震わせた。僕は血管に熱いものが流れるのを感じながら、弱くなった腕で牡丹さんの胸ぐらを掴み、壁に押し付けた。僕は彼らが隠している事実を暴き出すつもりだった。

 「落ち着いてください。ここで立ち止まって話をしても、時間が流れるだけで状況は何も変わりません。ステラとおっしゃいましたね?あの子を助けるには今が最適です。急がないと間に合いません」

 僕は拳を握りしめながら、目の前の図々しい男に低い声で告げた。

 「…ステラは俺が保護者として連れて行く。将来的にも、各務家に関わったすべての人間は、個別にステラへの連絡を禁止する。会いに来ることも一切禁止だ。アリマも例外ではない。俺の話の意味が理解できたか?」

 僕の要求を聞いて、牡丹さんは肯定するような表情を浮かべた。この人はだいぶ悪質な大人だと僕は後から思った。こひなや香月の前では見せなかった陰険な目つきだった。余裕のある態度が気に入らなくても、ステラを探すまでは我慢だ。

 それにしても、ステラがアリマに抱いた愛情に偽りはつゆほども感じられなかった。特殊な教育や洗脳を受けた可能性はあるが、二人とも目鼻がそっくりだった。血縁関係でなければ、奇跡的な確率でしか存在し得ないドッペルゲンガーを見つけ出し、家族の一員として迎え入れたという、常識では考えられない状況が生まれることになる。

 もっと時間があれば良かった。僕は自らの不甲斐なさに苛まれ、この状況の裏に隠された別の真実を見逃しているのではないかという不安に心を掻き乱された。しかしそれもまた、今この場で交わす話ではなかった。

 「末井ステラ様は当主の書斎にあるセーフルームに隠れています。ドアのロックは中から解除しないと、外の人間は入れない仕組みになっています」

 なるほど、それゆえに僕という存在が求められているのかと理解しつつ、廊下の端にある書斎のドアを開けて中を確認した。床には棚から落ちた本や額縁が散らかっている。人の気配はない。安全を確保してから中に忍び込み、セーフルームと思われる扉の前に立った。

 部屋に入ってすぐ、空気中に漂う火薬の匂いで不愉快な気分になった。鼻を押さえながら室内を見渡すと、壁や天井のあちこちに無数の銃痕があった。床には少量の血痕と、十発を超えて使用された薬莢が落ちている。まさに地獄絵図であった。

 開かぬ扉に向けて闇雲に銃弾を浴びせかけ、跳弾によって自らの身を傷つけたのであろう。使用された武器は散弾銃に違いない。狭い室内においては、これほど破壊的な威力を発揮する凶器は他にない。かくも凶悪な殺傷道具を幼い子供に向けた各務家の当主に対し、僕は生まれて初めて父以外の人間への殺意を覚えた。ステラを一体何だと思っているのか──そう問い詰めたい怒りが胸中で渦巻いていた。

「弾切れを待ってから脱出するのは難しいですか?」

 僕の質問に牡丹さんは素早く答えを返した。

 「ありえなくもないですが、当主様は常にアシスタントを同行させて狩りに出かけます。今日も例外ではありません」

 僕はため息を飲み込みながら、次の対策を考えた。

 「だとしても、相手が銃を持っている間に下手に子供を連れて動くのは非常に危険です。屋敷内に秘密通路はありませんか?」

 「その問題についてはお嬢様の方で手を打っております。あまり信用できないと思いますが、末井様が信じるお嬢様を信じてください」

 その台詞まわしに、どこか芝居がかった響きを感じる。

 僕は時間に追われるような切迫感に急かされ、重厚な扉を叩いた。

 「ステラ、僕が来た。扉を開けなさい」

 「何をやっているのですか、炭咲さん」

 牡丹は厳しい表情で僕を見据えた

 「やけに子供が怖がるような言い方はお止めください」

 咎められた口調を正し、今度は包み込むような優しい声で扉越しに呼びかけた。

 「ステラちゃん、扉を開けてください。僕、炭咲だよ」

 「お嬢様からは子供の扱いに長けた方だとお聞きしておりましたが、今拝見した限りでは些か疑問符が付きますね」

 呆れ果てたような表情で僕を見据える牡丹が、思い出したように一言付け加えた。

 「そう言えば、姉様が好きなあだ名で呼んでみてください、とお嬢様から伝言を預かっています。何か思い浮かぶことはありますか?」

 あだ名といっても、特に何も——」そう言いかけて、僕の言葉は宙に消えた。

 あだ名などではない、ステラが僕から聞きたがっている特別な呼び方があることを思い出した。普段は照れくさくて口にできずにいたその言葉を、僕は愛情を込めて紡いだ。

 「ステラ、遅くなってすまなかった。ステラが愛してやまないパパが迎えに来たよ。もう大丈夫だから、扉を開けてくれるかい?」

 扉の向こうでステラが素直に応じてくれた。鋼鉄の扉が開かれると、密室に籠もっていた冷気が溢れ出すと同時に、小さな影が僕の胸に飛び込んできた。僕は突然の衝撃に体勢を崩し、そのまま床に倒れ込んだ。やがて、ステラの嗚咽が静寂を破った。それから、ステラの泣き声が聞こえた。

 「パパあァあ、ステラ寂しかったの」

 僕は泣きじゃくるステラを胸に抱き寄せ、その小さな背中を優しく撫でながら慰めた。触れた肌は外気に晒されていた僕よりもずっと冷たかったが、熱を持っている様子はなかった。

「ステラ、可愛い写真もいっぱい撮るから!パパが嫌いなことはしないから!前よりずっといい子にするから、ステラを一人にしないで、パパ」

 僕は、ステラに何も言葉を返すことができなかった。これほど切実な願いを向けられては、どのような言葉も喉の奥で凍りついてしまう。

 「お父さん、一人は寂しいの。僕も一緒に連れて行って。もっと頑張るから、僕を見捨てないで」

 施設に預けられることを告げられたあの日のことが蘇った。灼熱のアスファルトの上で父の足に縋りつき、必死に謝罪の言葉を重ねた。しかし許しを得ることはできず、ついには作り話の懺悔まで口にして父の気を引こうとした。実際は、僕の過ちではなく、あの男が元凶だったのに、幼い僕は見捨てられる理由を自らの内に求めようとした。

 「もういい、もういいよ。ステラ、君は今でも充分、いい子だ」

 疲れと優しさが混じっていた声にステラは一筋の希望に揺れる瞳で答えてくれた。

 「本当に?じゃあ、ステラのことを置いて行かないの?」

 「もちろんだ。今日は、パパがステラの言う通りにするから、帰り道に何か欲しい物があったら教えてね」

 「本当の本当に?もうステラ、ここ来ない?」

 小さな手が僕の袖を掴んだ。

 「本当の本当だ。ここはもう二度と来ない。パパが約束する」

 「やった!ありがとう、パパ。優しいパパが世界で一番好き!」

 ステラの顔に満面の笑みが咲いた。そう言った後、ステラ彼女は部屋全体を見渡した。

 「ネネも一緒に帰っていい?」

 その質問に僕はしばらく躊躇った。理由はどうであれ、世間が偽物だと言っても、ステラにとっては本物の兄弟姉妹関係だった。僕がそれを知った上で、二人の間に真実を打ち明ける資格などない——名残惜しさに濡れたステラの瞳を見て、僕は口を閉じた。

 「はい、ロック解除しました。はい、あちらも外に出て身柄を確保しました。どこに連れて行きましょうか、当主様?」

 自分の耳を疑って後ろを振り返ると、牡丹さんの片手に携帯電話が握られていた。通話相手は、各務家の当主だった。最初からあの人は、当主との取引のために僕を利用していたのだ。

 「今からそちらに向かいます」

 牡丹さんは電話を切って僕に手を伸ばした。

 「ということで、一緒に来ていただけますか、炭咲さん」

 今更気付いたところで、自力で迷路のような豪邸を逃げ出す方法は、事実上皆無に等しいことをよく知っている。だからなのか、あの平然とした顔を見る度に僕の腹が立った。

 僕はステラが見えない角度で牡丹さんの腹部を強く殴った。

 「ステラに指一本でも触れたら、てめえを灰にしてやる」

 「承知いたしました。一旦、私について来てください。当主様が外でお待ちしております」

 他に選択肢がなかった僕は、ステラを背負って大人しく各務家の当主がいる場所まで移動した。独りで待っているこひなには申し訳ないことをしたかもしれない、と僕は心の中でお詫びの祈りを捧げた。

第12話 花は天の階段をそっと歩く

 牡丹さんが連れて行った場所には、銃を杖にした中年男性が待っていた。細い体躯に目の下の青いクマ、疲労に刻まれた顔立ち。一見すると現代の一般的なサラリーマンのような男が、散弾銃で人を脅している。ここは日本だ。狩りの名目であっても、人に銃を向けることなど考えられない。しかし、各務家の当主はそれをやってのけていた。撃たれれば、体の一部が瞬時に吹き飛ばされる。

 「愛しい末井(スエイ)よ。ようやく再会できて、俺はとても嬉しい」

 中二病めいた一人称で堂々と名乗る男に、また驚かされた。嫌な予感がして、ステラの顔を手で隠す。

 「で、お前らは誰だ?またあの女に雇われた邪魔者か?電話で俺と話をした者は何者だ?おい、そこの君。お前が答えろ」

 牡丹さんはヘラヘラと笑いながら、当主の顔色を窺った。

 「お待たせしました。当主様とお電話した者は私でございます。連絡用の携帯を持参しておりますので、直接お電話いただければお分かりになると思います」

 当主は眉をひそめ、携帯でどこかに電話をかけた。すると、牡丹さんの携帯から着信音が鳴り響いた。

 「はい、もしもし、牡丹さんです。ご確認ありがとうございます」

 彼は笑顔で、騒々しく鳴り続ける携帯を当主に見せた。その厚かましい嘲笑は当主の神経を逆撫でしたが、感情を押し殺している様子が見て取れた。気持ち悪いと感じるのは当然だ。隣で見ている僕でさえ、五臓六腑(ごぞうろっぷ)がひっくり返りそうになる。しかし当主には、彼らへの要件がまだ残っていた。

 「実に下らない面だ。俺の末井はそこに残して、さっさと消えろ。今なら撃たずに見逃してやる」

 「取引の条件をお忘れですか?末井様の引き渡しではなく、交換です。見る限り、アリマ様は一緒ではないようですが、お嬢様はどこに——」

 その時、突然、耳を(ろう)するような発砲音が響いた。血が逆流するような激しい憤りが全身を熱くする。アスファルトの地面がぽっかりと凹み、壊れた破片が足元に飛んできた。

 「十を数える間に消えないと、次はお前らの顔面にぶち込む。一、二、三……」

 「一旦、落ち着いてお話を聞いてください。さすがに二年ほど各務家に勤めた私でも、当主様が素直に取引に応じないことくらいは見通していました」

 こうしたはったりめいた態度にも動じず、当主は引き続き数を数えた。牡丹さんは深くため息をつき、教師のように当主が何を見逃したかを丁寧に説明した。

 「七日前にガーデンズ学園で発生した爆発事件の真犯人が、まだ捕まっていないことをご存知でしょうか」

 「……七、八、九」

 「犯人は、傷を負ってもすぐに回復し、さらに刺激を与えた場合、半径二百メートル以内のものを灰になるまで燃やすらしいです」

 続いて牡丹さんは僕の肩に左手を置き、強い口調で告げた。

 「紹介しましょう。真犯人の炭咲千春です。銃に撃たれる瞬間、ここでガーデンズ学園の惨劇が再現されます。それでも問題ないというのであれば、そのまま撃っても構いません」

 そう言いながら、腕の包帯を外して枯れた黒い木炭を当主に見せた。その時、僕は片手を乗っ取られ、ステラを手放しそうになったが、幸い残った片方の手だけでもステラの体を支えることができたため、落とすことはなかった。

 「しっかり抱えてください。その子の安全が、私たちの身の安全に繋がっています」

 「ふざけるな。勝手に僕の腕を掴んだのはお前じゃないか。灰にするぞ」

 「細々とした愚痴は後にしませんか?今は空気を読んで、目の前にいる当主様から目を離さないでください。ある意味で、あなたと似た人ですから、注意しないとこの場で死人が出ます」

 死ぬのはてめえだ、と声にならない口の形で呟いた。これ以上牡丹さんに振り回されるものかと決めて、彼の手を払いのけた。アリマがどうなろうと、すべては自ら招いた結果なのだから、僕には関係ない話だった。

 「アリマ様は、自らを犠牲にして末井様をこの家から救おうとしています」

 牡丹さんが急いでアリマの話を持ち出し、僕を呼び止めた。

 「明日、バベルの委員会アゴラが開かれます。お嬢様はその場に当主様を出席させる計画を立てました。しかし、炭咲さんの協力がないと、アリマ様の計画は水の泡になります。仮に、もし強行してここから逃げたとしても、当主様は二人を探し出すために人を雇うでしょう。それでも大丈夫ですか?各務家との腐れ縁を断ち切るチャンスを、自ら蹴り飛ばしても良いのですか?」

 「明日、バベルでアゴラが開かれる。お嬢様はそこに当主を引きずり出すつもりです」

 牡丹さんの表情が一変した。刃物のように研ぎ澄まされた目が獣のように映る。僕は無意識にステラを抱く腕に力を込めた。

 「でも、あなたが協力しなければお嬢様の計画は台無しになる。それでいいんですか?」
 
 声のトーンが低く、威圧的になった。当主の銃口が向けられている状況でも、牡丹さんは僕を脅している。

 「ここから逃げても当主は必ず二人を追いかける。お嬢様の最後の望み…あなたが潰すことができるんですか?」

 「盗人猛々しいにも程がある」

 僕は怒りを抑えきれず、声を荒げた。

 「だったらどうしろと言うんだ?最初から騙さずに助けを求めていれば、その『計画』に僕だって協力したかもしれない」

 牡丹さんは僕の剣幕に気圧されることなく、深々と頭を下げた。

 「その点に関しては申し訳ございません。今回の非礼は、後でお嬢様の分まで私がすべて償わせていただきます」

 頭を上げた牡丹さんの目に、今度は哀願の色が浮かんだ。
 「だから、どうかアリマ様を助けることに手を貸してください」

 僕は懐に抱かれたステラをじっと見つめた。頬に当たる彼女の寝息が温かい。アリマを完全に信用できるわけではない。それでも、ステラにとって姉の存在がどれほど大切かは分かっていた。

 悩む必要はない。ステラが望むことだけを考えればいい。

 僕は顔を上げ、牡丹さんに手を差し出した。差し出された手は思ったより冷たく、そして震えていた。

 「街を騒がせた噂の罪人がお前だったのか——」

 当主の声に、僕の血が凍りついた。バレた。

 「あの女が俺に反旗を翻した時は、いよいよ己の無能さに頭がおかしくなったと思ったが」

 当主はゆっくりと銃を下ろしながら、獲物を品定めするような目で僕を見た。

「こうして切り札を隠していたとは予想もつかなかった」

 牡丹さんは石のように無口を貫いている。僕も同じように沈黙を守ったが、心臓の鼓動が耳に響いて仕方がない。ステラの重みだけが、現実を教えてくれた。

 「生意気な女だ」

 当主の舌打ちが空気を切り裂く。

 「最後まで俺を欺こうとしている」

 そして突然、当主は踵を返した。

 「興が冷めた。俺があの女を連れてくるまで、先に庭の渡り橋で待ちなさい。お前との取引は、あの場で行う」

 背中越しに告げられた言葉に、僕は初めて安堵のため息をついた。

                  ◇

 嵐のような時間を通り抜け、休む暇もなく、当主が指定した約束の場所に三人は向かった。途中から、ぎこちないながらも、ステラが元気を取り戻し、なんとか自分の足で歩こうとした。不安はあったが、ステラを信じることも大事だと牡丹さんに言われ、僕は半歩後ろからステラの歩みを気を揉みながら見守った。

 当主が話した庭は、屋敷から五分ほど離れた場所にあった。まだ春が訪れていないはずなのに、新緑が眩く輝き、庭の入口から甘い匂いが辺り一面に漂っている。フローラルな香りがそよ風に運ばれ、衣服に染み付いた火薬の臭いと混ざり合い、僕の肺を徐々に満たしていく。こうして穏やかな雰囲気に心の不安を和らげられ、やがて僕たちは静かな庭への誘いに心を奪われた。

 奇妙な空気を醸し出す狭い入口を抜けて次へと歩むと、陰気な通路が現れた。緑の迷路は複雑で太い木に覆われ、一歩足を踏み入れた瞬間、僕は未知の危険に満ちた土地に取り囲まれた。たちまち、ステラは興味を示し、わざと大きな足音を立て、柔らかな茎を手で触りながら前へ進んだ。この道にはきっと、人々を不安がらせる何かがある。僕はそう思いながら、ステラから目を離さなかった。

 「ネネが、あそこにいるの」

 ステラは千篇一律の森道を、一切の迷いなくアリマの居場所に向かって進んだ。
庭の中心部に辿り着くと、いかにも冷たい感じの湖のような大きな池が見渡す限り広がっていた。凍った池の表面には今朝降った雪が積もり、冬風が水面を渡って岸の雑木林に吹いている。その奥に架けられた赤い橋以外は、今まで通ってきた場所とは全く異なる、殺風景なほど何も置かれていない場所だった。

 「パパ、あれを見て」

 ステラが指差した方向には、一機の小型ヘリコプターが庭を飛び越え、空気を斬る駆動音に混じって池に向かってきた。それを見た牡丹さんが身を乗り出して注意を促したが、吹き下ろす風に声も言葉も一緒に飛ばされた。

 「穢らわしい愚民どもめ、究極に美しい俺の末井を渡しなさい。それがお前たち下々の者どもの仕事である」

 ヘリから吹きつける強風が静まり、中二病めいた台詞を語る人影が橋の上に降りてきた。約束通りにアリマと一緒に来た、各務家の当主だった。これまで僕は、父親以外の親はまともな思考のできる大人だと思っていた。しかし、あれを見ると、体だけ歳を取ったガキと変わりがない気がする。

 愚民とは、まるで自分がどこかの王様であるかのような言い方だ。池から離れた上空に留まるヘリを見上げながら、僕はそう考えた。

 「牡丹さん?あんたが何でここにいるのよ。姉さまと一緒に炭咲さんのところに避難しろって言ってたじゃない」

 明らかに当主との取引を企んだのは牡丹さんだった。怒られても当然だ。僕は非常に不快な顔をしかめて彼を睨みつけた。非難されても当然の本人は、反対側にいる当主に向かって大きな声で何かを叫んだ。

 「お嬢様がお元気そうで何よりです。約束通り、橋の真ん中で二人を交換しましょう」

 そう言った後、牡丹さんは僕の耳元にあることを囁いた。

 「間もなく天空から塔が敷地内に降りてきます。当主の注意は私が引きますので、その間にお嬢様と一緒に橋を渡ってください」

 無理だと言い返す前に、牡丹さんはステラの手を握って橋を渡り始めた。ステラも何の抵抗もなく、牡丹さんと一緒に歩いている。また、僕は苦しく胸の辺りを掴んだ。また独り取り残される感覚が、心臓の奥に刻まれたあの日の無力さを再び蘇らせ、僕を苛んだ。

 僕は橋の手前で立ったまま、向こうで話が無事に終わることを、そわそわしながら見守った。万が一の事故が生じた時は、走って当主を阻止することも想像した。

 「炭咲さん、今です!二人を連れてこの場から離れるのです」

 牡丹さんが非常に差し迫った声で呼びかけた。いつの間にか赤い橋の真ん中では、男二人が互いに体をぶつけ合って争っていた。アリマとステラは近くでじっと動かない。僕は遅れて状況を把握し、子供たちがいるところまで走りかけた。

 「ステラ、アリマさん。そこから離れなさい」

 突如として池の面に巨大な影が落ち、世界が暗闇に包まれた瞬間、僕は天を仰いだ。頭上で鉄の鳥が踊っていたヘリコプターが、見えざる手によって引き裂かれ、各務家の庭へと墜落していく。炎を纏った金属の亡骸から立ち上る業火が、乾いた枝という枝に飛び移り、庭は炎の収穫祭と化した。池の辺りは水という聖域に守られて災禍から逃れていたが、その向こうでは再び、あの地獄絵図のような阿鼻叫喚の夜が蘇っていた。

 ステラを探さなければ。その一念だけが僕の胸に宿り、赤い橋の中心へと足を向けた。

「お前ら、俺を騙しおってただで済むと思ったか?」

 激発した銃声が耳を引き裂く。音がした橋の中心には、赤く滲む血煙がまつわり、牡丹さんが左胸に紅い桜を咲かせて倒れていた。僕は素早く当主から銃を奪い取り、投げ捨てた。二度と銃など使えないよう、自分の木炭で潰し折った。

 「おやおや、各務一家を通報した娘とその仲間となる小僧が、揃いも揃って何をしているんだい?通報の内容を読んで、ある程度は予想していたが、まさかここまでやってくれるとは期待していなかった」

 お芝居がかった声で、何者かが言葉を投げかけた。

 「それにしても、陽様の花園を模倣できるとは、たかが知れた野蛮な虫けらとは大違いだ。褒めてあげよう」

 「牡丹さん、気をしっかりして。死んじゃダメだよ」

 何が起きているのか。僕は突然出現した謎の者とアリマの間で、様子を窺った。どこか見覚えがある。焦がされた家の壁に映った、オレンジ色の火炎の中で見た顔が、目の前にいる存在と重なって記憶の混乱を起こした。

 「お前が何でここにいるんだ」

 僕は緊張のあまり吃った。

 「何で、ここにいるんだよ!」

 僕は倒れた人の前で泣いている人を見て、息を呑んだ。その時、ただならぬ気配を感じ取った。七年前に庭師と一緒に家を訪れた仲間の中に、奇妙な笑い声を上げて僕を見下ろした案山子がいた。服は昔より派手になったが、あの声は、十死一生の日を思い返しても一生忘れられないだろう。

 「仕事だ。案山子AとB、各務家の娘の身柄を確保しろ。急げ、急げ。次のアゴラに議題を上げないと、陽様から怒鳴られるぞ」

 僕の記憶の中にいた案山子は、確かに学園で会った案山子より人間らしい表情を持っていた。今では他の案山子に命令を出しているが、元々は命令を受ける方で力仕事を任されていた。服も高級ブランドのスーツを着て、顔には似合わない片眼鏡をかけている。案山子でも出世をするようだ。

 意思を持たない二体の案山子が、アリマを捕らえた

 「放してください。まだ、あの人に何も言えませんでした」

 「ネネをいじめちゃダメ!」

 泣きながらも牡丹さんから離れようとしないアリマの姿が、いかにも哀れに映る。その隣のステラは、泣き出しそうな顔で案山子の足を引っ張った。僕は意識を失った牡丹さんの鼻元に耳を寄せた。呼吸音が乱れているが、まだ生きている。病院に運べば助かる命だ。

 「た、助け…助けてくれ!あの女が、あの女が殺し屋を雇ったんだ!」

 当主が折れた手を震わせながら、案山子に命乞いをする。生き残るためであれば、靴先でさえ舐めかねない勢いだ。

 「各務家の小僧よ、陽様から授けてもらった服に指一本も触れるな。病気が移る」

 そう言った後、モノクルを服で拭いた。

 「そうやって急かさなくても、次は君の番だ」
 
 「待ってくれ、俺は本当に無関係なんだ!」

 当主の声が裏返った。

 「不運だな。通報者とその関係者は一旦、バベルに監禁することが原則だ。それに、君はあの娘の保護者である父親の立場としても、一緒に行く義務がある」

 「違う、違うんだ!」当主は必死に首を振った。「あいつは各務家の本当の娘じゃない。元々は新吉原から連れてきた孤児で、出身地も知らない——」

 「ほう?」

 案山子の声に嘲笑が混じる。

 「樹の一族の研究だって、あの女が勝手に始めたことで、俺は最初から反対だった。本当に信じてくれ!」

 当主の額に汗が浮いていた。

 話の展開が早すぎて、思考が追いつかない混沌の中、案山子の目玉と僕の視線が交差した。死神の微笑みが、そこにあった。

 「じゃあ、証明してもらえる?君が樹の一族と無関係であることを、今この場で血と涙で証明できるのか?まあ、君の娘だと名乗った人物はあの娘一人しかいないから、君の命までは奪わない。ただ、今の話は、直接バベルに通報が入った件を調査するために出向いた案山子の特権として、君に最後の弁論する時間だと思えばいい」

 当主は案山子の言葉を聞いてから、何かの計算をするように呆然とした。そして、僕はその虚ろな視線が幼いステラに向かっている邪悪な真意を悟り、立ち上がって一気に足を動かした。

 「要するに、問題になるその小娘を処分したら済む話ですね?」

 一片の躊躇もなく、血溜まりに落ちていた銃を拾い上げ、引き金に指をかけた。さっきは、当主の指ではなく銃という悪魔そのものを完全に破壊しておくべきだった。後悔が津波のように心の底に押し寄せてくる。

 寸分の差で、ステラの絶望と僕の影が重なり合った。

 「パパ?」

 僕が咄嗟に体を飛び出したおかげで、銃弾からステラを守れた。一発目の銃声と二発目の銃声の間にできた僅かな時間差に、崩れた姿勢を立て直す余裕は十分あった。最初の一発は右腕に当たり、次は背中に命中した。傷口から熱を帯びた痛みが大量の血と共に流れ出し、橋の上に赤黒い水溜りを作った。

 「ステラ、大丈夫?怪我してない?」

 「ステラ怖い。ここ、嫌だ。ネネと一緒に家に帰りたいの」

 良かった。怪我はなさそうだ。ステラを安心させるために頭を撫でようとした時、自分の右腕が手首まで砕けていることに気づいた。薬を一度に飲んだせいで、痛みと共に脳の神経が麻痺し、感覚自体が鈍くなったようだ。

 「パパも大丈夫?痛くない?」

 僕は言葉の代わりに、ステラの頭を左手で優しく撫でてあげた。完全無欠と考えられていたこの体にも、ついに限界が来ている。すべてを防御するはずの木炭がそうではなかったことを七年ぶりに直面し、僕は片手だけでも動くことに心から感謝した。

 「炭咲さん、後ろです!」

 そう呼ばれて振り向くと、そこには銃をまだ手放していない当主が、壊れた左手で銃身を支え、もう一発装填した銃口をこちらに向けていた。弾切れにならないのかと問うには、薄汚い当主の笑みに口が凍ってしまった。

「俺の勝ちだ」

 背中で銃弾を防ぐつもりで、ステラを抱きしめた。再生力がなくなっても、一人の子供くらいは皮が剥がれて血みどろになった生身の背中で守れると思った。だが、それは自分だけの傲慢に満ちた勘違いだった。

「ダメ!——」

 銃に撃たれた直後、僕はステラを抱いた状態で橋の上に倒れた。地面に手をついて立ち上がろうとしたが、腰が砕けたように下半身に力が入らなかった。また銃声が聞こえた。

 灰色の腕が銃弾をはじき飛ばし、冷え切った鋭い破片になった木炭がステラの胸に食い込むのを見届ける僕にとって、その数秒間は恐ろしく長かった。横たわった状態でステラの顔を見ると、苦痛に歪んでいるはずなのに、なぜか笑顔を浮かべていた。今回も無事にステラを守ったと思って、僕は完全に無防備になった体に疲労感が押し寄せるにつれて、視界が徐々に霞んできた。

 「パパ、ネネと仲直りしてね。本当はね、ネネもステラと一緒に優しいパパが好きなんだよ」

 「へえ、それは知らなかった。アリマさんがステラに本音を言ったのか?」

 「ステラも知らなかったの。でもね、この間、パパと出会えた時の話を聞かせたら、『アリマも優しいパパが欲しい』って言ってた。ネネ、すごく可愛い顔をしてたよ」

 「本当か?信じられない。冷酷で冷静なアリマさんに可愛いイメージなんて、想像できないな」

 「でしょう?ネネもステラみたいに笑えるんだよ」

 なぜか自然にステラとの会話が始まり、家族の話で雰囲気が和んだ。親子関係というものは、何かの行き違いで明日どうなるか分からない。個人同士の関係に似ているが、家族には特別な繋がりがある。しかし僕は、この世の中の親子関係というものを、ずっと冷ややかな目で見てきた。それぞれの親子関係は千差万別で、同じものなど一つとしてないというのに。自分が父親に捨てられた僻みからなのかもしれない。

 「パパに一つお願いがあるの」

 ステラが柔らかな微笑を浮かべる。血が唇を染めているのに、その笑顔は美しかった。

 「ネネのことを大事にして。何があっても守ってあげて。悲しい時も嬉しい時も一緒にいてあげて」

 「それは父親のようにということか?無理だよ、それは」

 「どうして?」ステラが輝く瞳で僕を見上げた。「ネネもパパの娘なの。忘れた?」

 「僕は実の父親でもないし、お金も社会的地位もない。そんな僕が子供の面倒を見てどうする。もっとちゃんとした大人に任せて、世話を見てもらわないと」

 「じゃあ、パパはいつパパになれるの?」

 「それは…僕にも分からない。今より歳を取って、大人になったら自然になれると思う」

 「えええ、それってパパが大嫌いな人たちと同じでしょ?パパもそうなりたいの?」

 言われてみれば、その通りだった。僕が話していた「大人」は、ただ歳を取っただけでなれる存在ではない。それはもっと責任感を持って、子供を大事にしてくれる人のことを意味する。夢と現実の間で大切な何かを失った大人は、ステラが話した優しい人からは程遠い存在だった。

 「だったらね、パパがなってあげてよ。パパならできるよ」

 「僕が?」

 「うん、パパは今も優しいし、責任を持った立派な大人なの。ネネも言ってたから、きっとなれる。ステラが応援するから」

 ステラは息を荒げながらも元気な声で言った。

 「ステラは世界で一番優しいパパが一番大好き」

 その言葉と共に、ステラの手が僕の頬から滑り落ちた。

 僕はステラの告白を聞いてすぐに目を覚ました。白い息を吐きながら、辺りを見回す。静かな病室にベッドサイドモニターと点滴が二本、そして小さな加湿器が置いてあった。各務家の庭ではなく、見知らぬ病院にいるようだった。隣にはもう一つのベッドが置かれていたが、空いていて僕一人だけが部屋を使っている。

 呼吸マスクを外して吸った空気は、冷たいミントの味がした。無理に体を動かそうとするたび、脳を針で刺すような頭痛が強くなった。そして下半身から何の感覚も伝わってこない。確かにある体の一部が、他人のもののように感じられる。頭では自分の体だと認識していても、臍から足先までの主導権を失っていた。

 夢の中のステラの最後の言葉が頭に響いている。あれは現実だったのか、それとも僕の願望が作り出した幻想だったのか。

 とりあえず、ステラを探すために、ここから出る方法を考えた。しかし、下半身に力が入らず、車椅子に移るのも一苦労だった。

「す……み……ません」

 声が掠れて出ない状態で、仕方なくナースコールを押した。少し待っていると、看護師が病室のドアを開けて僕と目が合った。何か書くものが欲しいとジェスチャーで示したが、慌てたように「先生をお呼びします」と言って立ち去ってしまった。

 歩けないことに改めて気づくと、ベッドの横に車椅子を発見した。使ったことがない物に慣れるまで時間がかかった。ぎこちなくハンドリムを回して前進と後進を覚えてから、病院の廊下に出た。

 外はやけに静かだった。窓から眺める外の世界は、四月の夜空に季節外れの雪が舞い続いている。僕は車椅子を操作して、同じ階の病室を一つずつ訪れ、小さな窓からステラの姿を探した。

 「その部屋は空室です。どなたかお探しですか?」

 ある医師が中性的な声で僕に呼びかけた。銀髪という珍しい容貌の持ち主だった。僕は軽く頭を下げて挨拶をする。声が出ないため直接説明するのは難しく、ステラの身長を手で示してジェスチャーで表現した。これくらいの身長の子供を探している、という意味だった。

 「一緒に入院されたお子さんをお探しでしたか」

 医師は疲れきった表情でそう言った。目の下にうっすらと隈が見える。

 「案内いたします。少し歩きますので、車椅子は私が後ろから押させていただきますね」

 徹夜明けらしい疲労の滲む様子に申し訳なく思い、もう一度軽く頭を下げて感謝を示した。

 「お礼は結構です。これも仕事のうちですから」

 名札を見ると「銀」の一文字だけが書いてある。簡素で、どこか謎めいていた。
静寂に包まれた病院の廊下を通り抜け、エレベーターホールへと向かう。銀さんがボタンを押すと、やがて機械的な音と共にエレベーターが九階に到着し、扉が開いた。中に人の気配はない。

 「一階ですね」

 銀さんは一階のボタンを押してから、振動で車椅子が動かないよう、慣れた手つきで壁側にブレーキをかけてくれた。エレベーターがゆっくりと降下を始める。密閉された空間に、かすかな機械音だけが響いていた。

 一階に到着するまで一分もかからなかった。

 エレベーターの扉が開かれた瞬間、人々の泣き声が木霊となって空間を圧倒した。ある声は切なさに染まり、ある声は怒りを孕んで重く響く。人の嘆きが呼吸するたびに耳に飛び込んでくる。僕の心臓がそれに呼応するように激しく打ち、血が頭に上った。

 「お子様は、一番奥の霊安室にいらっしゃいます」

 その時、奥の霊安室の扉が開き、白衣を着た小柄な中年女性が現れた。僕より背が低く、赤縁の眼鏡をかけ、後ろ髪を綺麗に結んでいる。香月さんだった。

 僕は自分の力で車椅子を動かし、廊下を進んだ。背後で何か言われたが、無視した。まず確かめなければならないことがある。

 扉は重く鈍い音を立てて開かれた。霊安室に入り扉を閉めると、真ん中に置かれたベッドに薄い光が差し込んだ。閉ざされた部屋に線香の匂いが漂い、僕の体を包み込む。

 親しい人の死の匂い。

 その瞬間、僕の世界が崩れ落ちた。

 心臓が破裂するかと思うほど激しく打ち、胸の奥から何かが引き裂かれるような絶叫が込み上げてくる。声にならない悲鳴が喉の奥で渦巻き、息ができない。激しい吐き気が波のように押し寄せ、それを抑えようと必死に体を伏せた時、バランスを崩して車椅子から冷たい床に転落した。

 違う、これは違う。ステラじゃない。ステラじゃない、ステラじゃない、ステラじゃない——

 心の中で呪文のように繰り返しながら、僕は両腕で床を掻きむしるように這って行った。爪が割れ、手のひらが擦り切れても構わない。這い、吐き、嗚咽を殺して、魂が砕け散るのを辛うじて堪えた。立てない脚が僕を裏切り、立てない脚が僕を這いつくばらせる。

 上半身の力だけで体を起こし、白いシートで覆われたその小さな、あまりにも小さな影を見つめた。

 僕の手は震えていた。シートに手をかけることすら、この世で最も困難な行為に思えた。

 「あああああ」

 獣のような叫びが喉から絞り出された。止めどなく涙が溢れ出し、僕は自分の胸を拳で叩き続けた。鈍い音が響く度に、心臓が潰れそうになる。喉から零れ落ちた形を失った声が、行き先を見失った亡霊のように部屋の中を彷徨う。

 僕は再びベッドの上に横たわるステラの遺体に向き合った。

 ステラ。僕のステラ。

 体を反らして慟哭した。左腕が砕け散るまで床を叩いた。皮膚が裂け、血が滲んでも、この痛みはステラを失った痛みには遠く及ばない。僕の魂の一部が、この静寂に包まれた霊安室で永遠に死んだ。

「炭咲、炭咲。君のせいじゃない。だから、自分を責めないで」
 その優しい声が、僕の世界をもう一度完全に破壊した。

 血涙が頬を伝って流れ落ちる。尽きることのない思いが胸を焼き尽くし、もどかしい過去の面影は跡形もなく消え去った。ベッドに横たわるステラを見つめる僕の目には絶叫の涙が溢れ、悔しさと絶望が混ざり合った感情が心臓を鷲掴みにする。その鼓動が耳元で太鼓のように響き、僕を狂気の淵へと追い立てた。

 構わず泣き叫ぶ僕を、後ろから誰かが抱きしめてくれた。人の温もりが氷のように冷え切った僕の体内に染み込んでくる。永遠に冬の季節に閉じ込められたステラを思い出し、あの夜と同じく、一人だけ生き残った自分の運命を呪った。

 なぜ同じ試練を僕に与えるのか。なぜ僕だけがこの苦痛を背負わなければならないのか。

 「なぜ……なぜ僕だけ……」

 枯れ果てた声は僕の意思とは関係なく、錆びついた鎖のように途切れ途切れに響く。神への問いかけか、運命への呪いか、それとも自分自身への裁きか——もう分からない。

「炭咲のせいじゃない。ステラちゃんもきっとそう思ってるよ」

 この声は、こひなだ。

 暖かい腕に包まれながら、僕の記憶が蘇る。各務家での出来事、一緒に過ごした時間、そして今も隣にいてくれているこの人。花園大学医学部附属病院からステラを探しに一人で父親の会社に向かったあの日、僕は二度とこひなに会えないと思った。

 一人の人生に慣れ切った僕にとって、他人と関わり合い、すぐに別れることは日常茶飯事だった。人は現れ、消えていく。それが僕の人生の定理だった。

 しかし、ステラに導かれて絆で結ばれたこひなとの縁は、不思議なことに今もここにある。僕の最も暗い瞬間に、彼女はまだ僕の隣にいる。この奇跡のような事実が、僕の心をさらに引き裂いた。なぜステラは去ったのに、なぜこひなは残っているのか。

 「早く起きろ、春」
 
 香月の低い声が耳に響いた。

 「いつまでそうやって俯いているつもりだ」

 僕は顔を上げることができなかった。ステラの最期の表情が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。

 「炭咲…」優しい声が聞こえた。「無理しなくていいから」

 僕の肩に、そっと手が置かれた。

 「手を離せ」香月が低く言った。「今はそっとしておいてやれ」

 「でも…」

 「これは俺とハルの問題だ。部外者が感情的になっても状況は改善しない」

 香月の声には、普段の穏やかさが微塵もなかった。彼女の手が、僕の肩から離れていく。

 「部外者?」声が震えた。「あたしが部外者だって言うの?」

 香月が振り返った。表情に変化はなかった。

 「あたしだって…」言葉が途切れた。「ステラと炭咲と三人で過ごした時間があるのに」

 握りしめられた手が、行き先を忘れてぶれている。

 「それなのに、どうして…」涙が頬を伝った。「どうして炭咲くんを責めるの?一番つらいのは彼なのに」

 「どの口が言う」香月の声に、抑えきれない怒りが滲んだ。「医者を責めるお前は、あの場で何ができた?お前はただ見ているだけで、何一つ手を貸そうともしなかった」

 香月の目が冷たく光った。

 「俺が手術をしている間、お前は廊下で震えていただけだろう。医学の知識もない、技術もない、ただの素人が偉そうに口を出すな」

 言葉の一つ一つが、鋭い刃のようにこひなに突き刺さった。彼女の顔が蒼白になり、唇が震えた。
 
 「結局、ステラは死んで、各務家の使用人は意識不明のまま寝ている。首謀者である各務アリマはバベルに逮捕されて、各務家の戸籍からも除籍された」

 香月は淡々と事実を並べた。

 「おそらく、あの子一人で全ての罪を背負って、明日のアゴラで処刑されるだろう」

 こひなの目が見開かれた。情報を整理しているようだった。

 「嘘でしょ」彼女の声が震えた。「もしかして各務家の当主は、自分のために身内の先生を見捨てたわけ?」

 香月は答えなかった。

 「それに処刑って…」こひなの声が高くなった。「まだ有罪判決も何かの勘違いじゃない?普通は判決期日はほぼ一ヶ月後に設定されて、求刑通り死刑判決が言い渡されるのが筋でしょ」

 「詳しい事情は知らないが、ステラの遺体をバベルの方から回収するという連絡が病院長宛に届いている」香月の声は淡々としていた。「この場合、翌日の朝五時に予定されているアゴラで罪人を起訴することが多い」

 こひなの目が見開かれた。

 「ありえない。それは絶対におかしい」彼女の声が震えた。「早く止めに行かなきゃ」

 香月の表情が更に冷たくなった。

 「お前が行ってどうする」声に嘲笑が混じった。「ただの新吉原で人形売りの姿に隠れて夜の仕事をするノバナの証言で、アゴラの結果が覆るとはとても思えない」
こひなの顔が青ざめた。

 「さらに、お前には参加できる資格すらないだろう」香月の言葉は容赦なく続いた。「各務家の娘は、残念ながらもうお終いだ」

 「あなた、本当に炭咲の親戚なの?」こひなの声が高くなった。「全然似てないけど。人の命をそう簡単に諦めないで。先生は何としてもあたしたちの力で助けてみせる」

 香月は答えなかった。

 二人の声が隣の部屋から響く足音や話し声と混じり合い、やがて深い静寂に包まれた。怒りも悲しみも哀れみも、全てが宙に浮いたまま行き場を失っていた。

 その中で、僕だけが妙に冷静だった。

 「香月さん、今何時ですか?」僕は、頑張って言葉を発した。「僕に薬をください」

 枯れた声と元の声が混ざって聞こえる言葉を、誰も聞き取れなかった。何か書くものが必要だとジェスチャーで伝えると、こひなが自分のスマホを差し出した。画面にひび割れの入った古い機種だった。

 「薬?」香月の眉間にしわが寄った。「君もいい加減にしろ。あるとしても、体はもう通常の薬では効かない。今は医師による専門的な診断と通院治療を受ける時期だ」

 僕はスマホを受け取ると、三本しか動かない指で文字を入力した。

 『樹の一族プロジェクトで開発している新薬を僕に注入してください』

 「その話、誰から聞いた?」香月が頭に手を当てて激しいため息をついた。「まだ臨床実験も行っていないし、治験の段階も踏んでいない全く新しい薬だ。リスクが大きすぎる」

 具体的な話は知らなかった。ただ、自分がもう一度立ち上がる力を手に入れる方法があるなら、何だって構わないと思っていた。

 『それを使えば、炎を出せますか?』

 「炭咲くん、何を考えているの?」こひなが心配そうな表情で僕の顔を見つめた。「薬をもらって何をするつもりなの?まさか、その体で外を歩くつもりじゃないよね?」

 僕はベッドに体を寄せて座った。

 『アリマを助ける』

 その文字を読んだこひなの手が、僕の右頬を叩いた。血の味が口の中に広がったが、痛みは感じなかった。

 『痛いじゃないか』と嘘をついてスマホに打ち込んだ。

 「香月さんの言う通り、いい加減にしてよ」声に涙が混じった。「どれだけ人に心配をかけたら気が済むの?先生はあたしたちに任せて、炭咲くんは自分の健康だけを考えなさい」

 香月が怒った。怒ったけれど泣いている。他人のせいではなく、他人のために怒る人の顔を久しぶりに見た。僕は包帯を巻いた左腕で、こひなの涙を拭った。

 『アリマと一緒に帰ってくる。帰ったら三人で映画でも見に行こう』

 偽りのない約束と共にスマホをこひなに渡した。

 その後、こひなの肩を借りて車椅子に座った。向こうのベッドにまだ静かにステラが横たわっている。今でも寝床から起きて僕に駆け寄ってくるような気がした。僕はステラに別れの手を振って霊安室を出た。

 僕は、この一週間、違和感に満ちた日々を過ごした。しかし振り返ってみると、あの時に感じた気持ちは、生まれて初めて味わう感情の塊であり、幸せだったのだと認めた。全てはステラのおかげだ。ステラが起こした事件と出会いが、偶然を重ねて僕をここまで導いてくれた。でも、ここからは僕の意志で前に進む番だ。

 ステラは僕の娘であり、僕はステラのパパだ。そしてアリマはステラの妹であり、ステラはアリマのネネだ。姉妹そろって世間の汚れが染み付いた大人たちに振り回され、一人は死の直前まで僕と一緒にいてくれて、もう一人は今まさに周りから脅かされている。唯一アリマの無実を証言してくれる牡丹さんは意識不明の重体となった。各務家の戸籍から名前が消され、各務家に否定されている。実際にアリマの味方になれる人物は、僕しか残っていない。言い換えれば、僕はアリマを救うために必要不可欠な存在なのだ。

 個人的には、自分の大切な人々の遺志を引き継ぐためでもある。子供が危険な目に遭った時は、親が身代わりになって守ってあげる。妹の優しいパパになってあげる。二人が見せてくれたそれぞれの教えを、今度は僕が自分の娘のために実践する順番が回ってきた。

 ステラが繋いでくれた縁を見逃さない、と決めて胸に手を当てて目を閉じた。アリマを無事に連れて帰ることを小さく呟きながら、約束の祈りをステラに捧げた。今度は絶対に救ってみせる。そう心に誓いながら、明日への準備を始めた。

第13話 この腕が燃え尽きても、君の家族になりたい

 飯田橋の駅近くには、バベルを祀る大神宮がある。バベルと無関係な一般人には縁結びのご利益で有名だが、我々関係者には地上からバベルに入る唯一の入口として知られている。僕もバベルの役員から真実を聞くまでは、他の参拝者と同じ認識だった。

 「ここからは徒歩で移動します。全員、車から降りてください」

 JR飯田橋駅から歩いて街中に入ると、途中から道の両側に春日灯籠と石段が現れる。その石段は八十八段あり、昨夜から降った雪の白と、ライトアップされた赤い灯籠が鳥居への道に並んでいた。コンクリートのビル街と石段に積もった雪が境内を彩り、朱色と真っ白な雪との鮮やかなコントラストが調和している。

 手錠に腰縄を打たれた僕は、夜明けの静寂に包まれた幻想的な風景に見惚れ、しばらく立ち止まった。この光景をステラに見せてやりたかった、と思ったが、背後から急かされて早足で歩き始めた。

 「薬が効くまでは無理をしない方がいい」隣で一緒に歩いている香月が注意深く話した。「少しでも副作用があれば、約束通り近くの救急室に連れて行くから、我慢せずに私に言いなさい」

 「そこ、罪人と距離を置いて歩いてください。また、余計な会話は禁止ですのでご遠慮ください」

 僕は今、罪人の身として首輪と手錠をつけられたまま、人影のない街中を歩いている。たとえ通りすがりの人がいても、古式に則った藁製の編笠——顔を完全に隠す円錐形の帽子を被ったおかげで、身元が割れる心配はなかった。この時代錯誤な装束は、バベルの古い掟に従ったものだった。

 「余計な会話ではありません。主治医として患者に注意事項を伝えました。大体この悪天候の中で患者を歩かせる君たちの方がナンセンスです」

 香月が声を荒立てて言い返しても、相手は一貫して無視する。僕は深く息を吐き、雪が積もった階段を上がり続けた。皆、僕以外は同じ仮面を付けているから顔を判別することはできない。性別も判別できない服を着た人の群れが一列に移動し、やがてバベルの入口である神社に到着した。

 神社内は、五十人を超える人々が集まるには多少狭い場所だった。

 「なぜ、汚らわしい罪人どもが俺と同じ道を歩いているのだ?」

 アイマスクを着けた何者かが、同じくアイマスクを着けた他の人に理由を問い詰めた。しかし誰もまともな理由を口にしなかった。むしろ、その人物から距離を置いて会話を避けようとしている。

 「『バベルに入る道は一つであり、陽様の優しい花園から生まれた花であれば、差別されることなく、皆が同じ道を歩む兄弟姉妹である』。バベルが定めた規則に従って罪人と分類された花でも、バベルに入る時だけは、陽様の名の下に愛しい花なのです」

 「無礼者め!この方が誰だと思って口答えをするのだ。この方は、自明党の中でも最も次期総理に近い杉田様だ。早く謝罪しなさい」

 途端に周囲が慌ただしくなり、大声を出した二人を中心に人々が円を作った。僕と香月は一歩離れた所で状況を見守った。

 「『バベルが定めた規則は絶対的』。『バベルは陽様が建てた聖なる場所』。『陽様の言葉に逆らう人は、陽様が作った花園に入れない』」皆が合唱するように声を揃えて言った。「感謝のできない人が陽様の楽園に入るよりも、らくだが針の穴を通る方が易しいのです。故にお二方はご自宅にお戻りください」

 群衆の一人が代表として頭を下げ、二人を丁重に階段まで見送った。二人は最後まで何かを言おうとしたが、結局地面に放り投げられ、うめき声を上げた。しかし、誰も相手にしなかった。

 僕は顔を伏せて後ろで目立たないよう気を配った。バベルのことを宗教レベルで信奉する集団の噂は、現場にいた時に小泉さんから『偶然でも関わらない方がいい』と注意された覚えがある。正式な名称ではないが、TGCではサンライズ団体を略してエス団と呼んでいる。

 陽様という唯一無二の存在が、ある日突然人類の前に現れ、全くの虚無から真の創造が可能だという概念を人々に示した後、集まった追従者によって作られた団体がエス団だ。直接見聞きしたわけではないが、噂によれば、一見変わった集団に見えても、バベルにも所属する知的エリート層や芸術家が多くいるため、決して敵に回してはいけない集団らしい。

 今、その噂が大袈裟ではなかったことをよく理解した。

 「時間になりました。全員一列に並んで階段を上がりましょう」

 雲の扉が開かれたように、空から千本の鳥居が神社に向けて降りてきた。多くの鳥居で形成された朱色のトンネルに足を踏み入れると、陽射しの下を歩むように、途中で吊り灯籠から柔らかい光が灯った。冬の背景から朱色の方形が遮られることなく、合わせ鏡の間に入ったかのような不思議な感覚に襲われ、宇宙まで伸びる光景に目を奪われた。

 透明な階段に足を踏み出すと、足の裏に伝わる冷たい感触が現実を突きつけてくる。手錠の金属が皮膚に食い込み、じわりと痛みが這い上がってくる。この痛みが、僕がまだ生きていることを証明していた。未知への恐怖——それは死への恐怖ではなく、もっと原始的な、理解できないものへの畏怖だった。その恐怖を無理やり胸の奥に押し込めて、雲の中を歩いた。

 雪風が吹く天気の中で、鳥居の中は揺れることなく洞窟の中のように静かだった。だが、その静寂が逆に不気味だった。風の音も、足音も、呼吸音さえも鳥居の朱色に吸い込まれていく。空気は薄くなり、肺が小さく痙攣を起こし始めた。高度が東京タワーを超えた頃、東京の街並みが遠い地平線の向こうに沈み、視界の端で雲の中から何かが近づいてくるのが見えた。

 圧倒的な存在感で人類を威圧する石造建築物が、日本列島上空を覆う雲から徐々に姿を現した。あれは、塔だ。実物を近くで見るのは今日が初めてだが、直感でバベルの塔だと分かった。

 塔の全貌が明らかになると、僕の脳は理解を拒否した。目の前にあるものは、建築物というより生き物に近い何かだった。石材一つ一つが脈動し、表面には血管のような亀裂が走っている。至高の存在が宿る塔は、途中で建設を止めたビルのようにいつ地上に落ちるか分からない不均衡を保ちつつ、空中で逆さまになって一階が天辺にあり、最上階が底にあった。

 重力を嘲笑うように、下から上へと石材が積み上がっていく。まるで時間が逆流しているかのように、崩れ落ちるはずの石が空に向かって飛び立っていく。奇妙なパラドックスだ。普通はあり得ないことを、認識の歪みとして受け入れれば、正常な現象として見えてくる。

 しかし、僕の身体は正直だった。胃の中身が逆流し、冷や汗が首筋を伝った。あれは人間が作るべきものではない。神が人間の傲慢を嘲笑うために作った、狂気の結晶だった。僕はそう思って、鳥居の隙間から見え始めたバベルに見入った。それは美しく、同時に絶望的だった。

 「到着しました。各自、検問所で指定された席に案内してもらい、会場まで進んでください」

 鳥居のトンネルから抜け出て逆さまの塔に着くと、東京ドームより広い荒野が人々の前に現れた。僕の足は思わず止まった。これは現実なのか?目の前に広がる光景は、まるで核戦争の後の世界のようだった。

 その上には花も他の生物もなく、不自然な空虚が空間を支配していた。足元の地面は乾いた砂利で、一歩踏み出すたびにじゃりじゃりと音が響く。空気は異様に乾燥していて、喉の奥がひりひりと痛んだ。風は吹いているのに、それは死んだ風だった。生命の気配を一切運んでこない、ただ砂埃を舞い上がらせるだけの虚無の風。

 周囲の人々も同じような困惑を見せていた。アイマスクをつけた何人かがざわめき始め、「これが陽様の楽園なのか」と小声で呟く者もいた。それでも、大部分の人々は沈黙を保っている。まるで何かに怯えているかのように。

 ただ一つ例外として、古い建物一軒が壊れた大理石の柱などと一緒にぽつんと置かれていた。風が長年にわたって壁に歳月を刻んだように、円形の建物は半分以上が元の姿を失っている。

 あの建物は何だろう?形状から判断すると、古代ギリシャの神殿のようにも見える。しかし、なぜここに?まさか、これがバベルの塔の原型なのか?それとも、人間の文明が到達した最高峰の証拠として、陽様が保存しているのか?建物の周りには朽ちた石の欠片が散らばり、かつてここに壮大な何かが存在していたことを物語っている。

 だが、その廃墟から漂ってくるのは古さの匂いではなかった。それは新しい死の匂い、まるで昨日まで生きていた何かが突然消滅したかのような、生温かい絶望の匂いだった。

 僕の背筋に冷たいものが走った。これは楽園ではない。これは墓場だ。人間の傲慢が最終的に辿り着く場所、それがここなのかもしれない。バベルの塔は、ただ空に向かって積み上がっているだけではない。それは同時に、過去のすべてを踏み潰して成り立っている。

 検問所は簡素な木製のテーブルと椅子が置かれただけの場所だった。制服を着た係員が数人、参加者たちを振り分けている。香月は僕の手を軽く握り、係員の一人に近づいた。

 「罪人の主治医として同席予定の香月モネと申します。私たちの席まで案内していただけますか?」
 
 香月の声は普段より少し高く、緊張しているのが分かった。係員は書類に目を通しながら、機械的に答えた。

 「恐れ入りますが、お受けいたしかねます。罪人が座る席と参加者の席は分かれていますので、ルールに則って着席をお願いします」

 僕は香月の表情が強張るのを見た。彼女は深く息を吸い込み、もう一度試みる。

 「事前に話は通してあります。これ、地上で使っている電話番号です。必要であれば確認していただいても構いません」

 差し出された名刺を係員は一瞥もせずに突き返した。その無礼な態度に、香月の頬が紅潮した。
 
 「地上からの話はバベルでは通用しません。お手数をおかけしますが、バベルのルールに従ってください」

 周囲の参加者たちが振り返り始めた。アイマスクをつけた何人かが小さく舌打ちをする。香月は拳を握りしめ、声を低くした。

 「言い争いをする気力はないので、上の責任者を呼んでください。または、龍崎家の人を呼んでください。中にいるでしょう?」

 「龍崎家」という名前が出た瞬間、係員の表情が変わった。慌てたような、それでいて警戒するような複雑な表情。しかし、すぐに元の無表情に戻る。

 「お下がりください。これ以上は公務執行妨害として拘束いたします」

 係員の手が腰の警棒に伸びた。香月は一歩後退し、僕を見つめた。その眼差しには諦めと、申し訳なさと、それでも何かを諦めきれない意志が混在していた。

 僕は首を横に振った。「もういい」と口の形だけで伝える。香月は唇を噛み、最後に一度だけ係員を睨みつけてから、僕から離れていった。

 一人になった僕は、係員に向き直った。手錠の音がかちゃりと響く。

 建物に向かって歩き始めてから体感的に十分ほど歩いて、ようやくアゴラが開催される建物の入口に着いた。中に入る前にいくつか身分証明書を提示し、ボディーチェックを受けた。問題は、その後席まで移動する際に起きた。

 体調の優れない僕を気遣った香月は、入口で立ち止まり、スタッフと押し問答を続けた。その間、僕は一人で周囲を見回して、空の上に人類が建てた文明を眺めた。むっとする土の匂いが壁から顔に迫ってくる。一体誰がこれを建てたのか不思議に思った。

 「ネネはあそこにいるの」

 耳元でステラの声を聞いた。

 僕は香月に声をかける前に、ステラの手に引かれてアゴラを支える柱の間の柱廊を歩いた。ステラは幻で、過去の記憶のように曖昧で儚い存在だった。

 もうこの世にはいないはずなのに、僕の前を歩いている。振り返ることもなく、ただ姉のもとへ、姉のもとへと僕を導いている。彼女の手は確かに暖かく、その温もりだけが、この悪夢のような現実で僕を正気に保ってくれていた。
 
 警備員たちにアゴラの内部に入ることを阻止されたとき、僕は手錠を振り払って強引に突き破った。

 光も入らない闇の通路の中で、僕の両腕から赤い炎が毛筆のように一線を描き始めた。炎がうねる音が耳に響き、焦げた匂いが鼻を突く。木炭のような腕から立ち上る炎は、立ちはだかる人々を次々と薙ぎ倒していく。彼らの叫び声が石壁に反響した。

 僕の感覚は研ぎ澄まされ、目には映らない音の波紋や湿度の変化までもが、まるで墨絵のように無の空間に浮かび上がって見えた。口の中に金属的な味が広がる。

 立ちはだかる人々は木炭の灯りの輪の中で黒い灰の渦となって埃のように消えた。灰の粉っぽい匂いが漂い、舌に苦みが残る。彼らは本当に消えたのだろうか?それとも僕の意識がそう見せているだけなのか?もはや現実と幻覚の境界は曖昧だった。ただ一つ確かなのは、僕がアリマを見つけなければならないということだけだった。

 やがて、そこから通り抜けた僕は、広場の真ん中に跪いているアリマを見つけた。彼女の姿を認めた瞬間、胸の奥で何かが締め付けられるような痛みが走った。やっと、やっと見つけた。

 「アリマ!」枯れた声で人の名を叫ぶ。声は弱々しいのに、その必死さだけが物凄い勢いで彼女を人の前で呼び掛けた。広場の中央で跪く彼女の姿を見た瞬間、胸が締め付けられた。各務家に見捨てられ、父親の罪まで背負わされた少女が、たった一人でこの場に立たされている。

 「君は、今日から、炭咲有馬だ——」

 声が震えていた。本来なら段階を踏むべき手続きを、僕は感情に任せて飛び越えてしまった。慌てるアリマの顔が遠くからでも見分けられる。周囲がざわめき始めた。うまく物事を進めるには守るべき順番があり、それを通してから初めて周りを説得できる力を持つ。

 その過程を全部省略するとだいたい失敗で終わる。僕も当然知っている理屈だが、深く考える前に追い詰められたアリマの顔が見えて、先に自分の娘だと宣言してしまった。

 付け加えると、アリマを僕の戸籍に入れる書類上の手続きは、香月の人脈を最大限活用してなんとか処理している最中だ——と、香月から聞いた。確かに人事を尽くして天命を待つ譬えの通り、自分にできることは我武者羅にやった。アゴラが開始する前に間に合うかは、胸の奥に不安が渦巻いているが、手続きが無事に完了することを祈っている。

 「静まれ」

 石畳に響く足音が、僕の心臓の鼓動と重なって聞こえた。広場の手前に置かれた監獄の壁龕から、老人の声が響いた。その声は地の底から湧き上がるような深い響きを持ち、空気そのものを震わせていた。

 周りの人々が不意を突かれ、その圧倒的な声量に場の空気が重くなった。僕は無意識に首をすくめる。湿った石の匂いと、何か燃えるような香の匂いが鼻を刺した。

 ステージを扇形に取り囲むように湾曲した木材の長椅子が七十台ほど並んでいる。顔を隠した人々がそこに座っている。彼らの纏う灰色の布が夕暮れの光の中で幽霊のように揺れていた。時折、布の隙間から覗く目が僕を見詰めているのを感じる。その視線は好奇心というより、もっと重いものを含んでいた。

 僕は老人に向かって挨拶代わりに会釈を返し、真ん中にあるステージに降りて行った。どうやら罪人を低い場所に置いてアゴラを行う仕組みらしい。

 足を一歩踏み出すたびに、石段が軋んだ。老人の顔は壁龕の影に隠れて見えないが、その存在感だけで空間を支配している。古代の処刑場を思わせる構造だった。
ステージの中央に立つと、周囲の視線が一斉に僕に注がれた。扇形の観客席から見下ろされる感覚は、まるで井戸の底にいるようだった。夕日が西の空に傾き、長椅子の間から差し込む光が、顔を隠した人々の輪郭を浮かび上がらせている。

 「地上から来た小さな花よ、何の騒ぎだ」

 老人の声に、僕は思わず身を竦ませた。小さな花—まるで僕を蔑むような、それでいて慈しむような響きがあった。地上から来た、という言葉が暗示するのは、目の前にいる存在に常識が通用できないと言うことだった。

 僕は深く頭を下げた。

 「俺の娘が皆さんに大変ご迷惑をおかけしました。本当に申し訳ございません」

 声を張り上げて言った。扇形の観客席からざわめきが起こった。灰色の布に包まれた人々が、驚きとも困惑ともつかない反応を示している。

 「俺の娘?まずは名を名乗れ、小さな花よ」

 老人の声に、僕は背筋を正した。

 「炭咲の千春と申します。今日からこの子の父親になる者です」

 僕の言葉が石の空間に響いた瞬間、静寂が訪れた。観客席の人々は身じろぎひとつしない。老人でさえ、壁龕の奥で言葉を失ったようだった。

 その沈黙の中で、僕は自分が何か取り返しのつかないことを口にしたのだと理解した。

 壁龕の奥で老人が一瞬眉を顰めたような気配があり、反論を述べた。

 「事前に読み終えた報告書には別の親に関する内容は記載されていなかったと覚えている。今の話に嘘はないのか?」

 老人の声に疑念が込められていた。扇形の観客席からも、より深刻なざわめきが起こった。灰色の布に包まれた人々が、僕を見詰める視線により鋭さを増している。 

 風が吹いて、灰色の布がざわめいた。誰かが小さく咳をする音が聞こえた。僕は深呼吸をして、この奇妙な法廷で自分に課せられた役割を演じる覚悟を決めた。

 「はい、嘘ではありません。またもう一人、俺の娘になった子がいます」

 「その花は誰だ」

 「ステラと名付けた女の子です。世間では各務家の末井と呼ばれていた子供です」

 話がここまで進むと場内はより一層騒がしくなった。僕の話は特定の人だけでなく、この場にいる皆に影響を与えた様子だ。

 「ふ、ふざけるな。末井は俺の娘だ!」

 発言の主は後席に座っていた各務家の当主である。やつれた顔をしているが、予想していたよりは声に張りがあった。顔には深い皺が刻まれている。僕は彼の発言を無視して、老いた顔が見え隠れする壁龕の奥の存在との話を続けた。

 「ノバナだったステラを僕が拾い、名前をつけてあげました」

 僕の声が石の空間に響いた。観客席からのざわめきが一瞬止まる。

 「調べればすぐ分かりますが、TGCに通報された時、保護者の情報欄に俺の名前が書いてあるはずです。実際、ステラも俺を父親として認識し、しばらく一緒に暮らしました」

 壁龕の奥で老人が長い沈黙を保った。その間、僕は自分の心臓の音が聞こえそうなほど緊張していた。

 「炭咲の千春という名前は、確かにTGCの資料で見たことがある」

 老人の声に、わずかな認識の色が混じった。しかし次の瞬間、その声は冷たく突き放すように響いた。

 「しかし、小さな花よ、君の発言には中身が空っぽだ。根拠も証拠も足りない状況では、ここに集まった他の花を説得できない」

 僕の胸に絶望が広がった。だが老人の言葉は続いた。

 「何よりも君は発言権がない状態で話を持ち出した。急いでいる気持ちは分かるが、とりあえず自分の席に戻り、次のアゴラに参加するが良い。ルールは絶対的に守らねば混乱を招くからだ」

 アゴラに入り込むことだけを考えた僕は、その場で次の作戦を一生懸命に絞り出した。説得するための手段が足りない現状をひっくり返す何かの手段が必要である。

 「無謀すぎます。炭咲さんはここに来てはいけなかった。どうしてあなたまで来て状況を悪化させるのですか?まさか私をネネの身代わりにするつもりで来たのではないでしょうね」

 アリマが僕に向かって厳しい口調で言った。

 「まあ、何の準備もせずに来た僕が言うのも変ですが、一応助けに来ました」

 僕は怒りのこもった言葉を聞きながら、僕を捕まえに来たスタッフの手から逃れた。

 「正直なところ、アリマがどんな罪を犯して逮捕されたかは興味がありません。俺はただ、今更ながらステラが最後まで望んだように、アリマの父親になるために来ました」

 「ありえない、ありえない、ありえないです!ネネは私ではなくあなたのことを心配しました。自分を責めるから守ってあげなさい、と私に遺言まで残した。それなのに、あなたはその気持ちを無視して、自らバベルに近づいて死のうとしている。一体何を考えているのですか?」

 アリマの言葉が石の空間に響いた後、重い沈黙が降りた。観客席からの視線が針のように僕の背中に刺さる。僕はアリマの震える唇を、その瞳に浮かぶ絶望の色を見つめていた。

 時間が止まったような静寂の中で、僕の中に奇妙な安堵感が芽生えた。ああ、これでようやく分かった。ステラが最後まで僕に伝えようとしていたもの。彼女が僕の手を握りしめながら、か細い声で囁いた言葉の本当の意味。

 僕の唇の端がわずかに上がった。この場の重苦しい空気には似つかわしくない、どこか諦めにも似た微笑み。それは自分でも驚くほど自然に浮かんでいた。

 「呆れた」

 アリマの声が震えていた。灰色の布に包まれた観客たちがざわめく中、彼女の声だけが僕の耳に届いた。

 「今までの努力が台無しになって絶望のどん底に落ちた私の前で、よくそんな顔ができますね」

 彼女の手が拳を作り、小刻みに震えているのが見えた。

 「それとも何ですか?悲しくて、惨めで、人生そのものに腹が立って仕方がなくて——だから笑うしかないとでも言うのですか?」

 アリマの最後の言葉が、まるで自分自身に向けられたもののように聞こえた。僕は彼女の中にある、僕と同じ痛みを感じ取っていた。

 その時、僕は自分の表情がどれほど彼女を傷つけているかに気づいた。微笑みが急速に消え、代わりに後悔の影が顔を覆った。

 「ごめん、ごめん」

 声は小さく、石の空間に吸い込まれるように響いた。アリマの怒りが静まるのを待つように、僕は深く息を吸い込んだ。観客席の人々も、この予期せぬ謝罪に戸惑っているようだった。

 「これは僕が悪かった」

 僕は言葉を選ぶように、ゆっくりと話し始めた。

 「僕の知るステラは、アリマを誰よりも大切にしていた。小さな心遣いひとつひとつに気を配って、人と人との間を円滑にさせる優しい子だった」

 ステラの面影が脳裏に浮かんだ。あの子がアリマの名前を呼ぶときの、特別な響き。

 「さっきの笑みは——あの子から預かった願いの本当の意図を知って、純粋に嬉しくて笑ったんです。決してアリマの気持ちを踏みにじるつもりはなかった」

 僕の声に、初めて本当の温かさが宿った。アリマの表情に、わずかな変化が見て取れた。

 再び、アリマに近づこうとする人影があった。僕は今度も迷わず動き、その人物の首を掴んだ。またしても、灰色の粉が僕の指の間からこぼれ落ちた。
 
 アリマの表情に恐怖が浮かんだ。観客席のざわめきが一層激しくなる中、僕は淡々と話し続けた。

 「前に僕の家で壁に貼ってある写真を見ただろう」

 先ほどの温かさを失った声は、どこか遠くを見つめるような響きを帯びていた。

 「あれは、家族を見捨てた父親に復讐するために立てた人生計画だった。長い時間をかけて練り上げた計画だったが——」

 僕は手のひらに残った灰を見つめた。

 「今となっては、全て意味を失ってしまった」

 アリマは言葉を失い、ただ僕の顔を見つめていた。

 「アリマがネネの父親になってください、とお願いしたことを覚えている?あの時、なぜすぐ答えられなかったか自分なりに理由を考えてみた。表向きの理由で断ろうとしたが、やはり本音は、僕も父親——あいつみたいに駄目な父親になるのではないかと怖がっていたと思う」

 見てきた父親の背中は頼りにならない世俗的な人で、亡くなった母親の優しさには複雑な事情が隠されていた。そんな二人の血を継いだ過去の記憶が、もしかしたらステラや他人の人生にまで悪影響を与えてしまうのではないかと——

 僕の声が震えた。アリマの瞳が、僕の中にある恐怖を見透かしているような気がした。

 ある夜、あの家族を燃やし尽くした炎は、僕の人生に決定的な影響を与えた。わずか七歳の少年が父親に復讐しようと決心し、幼年時代を送ってきた。それは復讐という名の死に向かう生き方であり、普通とはとても言えないほどの——

 「壊れた人生だった」

 最後の言葉を吐き出した瞬間、僕は自分が何十年も抱え続けてきた重荷を、初めて他人に明かしたのだと気づいた。

 「だから、父親に似たような大人にならないよう常に意識して生きて来た」

 近づく者を全て退けながら、僕はアリマの表情を見つめた。彼女の顔に浮かぶ困惑、そして——憐れみ?それとも理解?

 「父親の蛮行に対して僕の手で償わない限り、先に行った二人に許されない限り、自分の人生を始めることすらできないと勝手に生きる目的を決めつけた」

 アリマが小さく息を呑んだ。

 「バイトから帰ったら部屋の暗闇が僕を迎え、冷めたコンビニの弁当が僕の空腹を満たしてくれる単調な日常に慣れる頃——」

 僕は一度言葉を切った。その頃の自分を思い出すと、胸が締め付けられる。

 「僕はステラと出会えた。本当に偶然だった」

 アリマの表情が変わった。硬かった顔に、わずかな温かさが宿る。

 「僕がステラに名付ける前は、あの子はただの野花に過ぎなかった。僕があの子をステラと呼んだ時、ステラは僕のところに来て意味を持った一輪の花になった」

 僕の声に、初めて本当の愛情が込められた。観客席の人々も、まるで神聖な何かを目撃しているかのように静まり返っている。

 「僕がステラに、ステラが僕に忘れられない存在になったように——」

 僕はアリマの目を真っ直ぐに見つめた。

 「互いが互いにとって大切な存在になった花園の中で、君にも花が咲く時が訪れる。それをアリマに伝えてあげたいのだ」

 アリマの目に、涙が光った。

 「あなたは——」彼女の声がかすれた。「あなたは本当に、ステラの父親になったのですね」

 「これは僕がどうしてもやり遂げたい事なんだ。もちろん、無茶な話であることは自覚している。それでもアリマには僕を信じて欲しいと言いたい。君を大切に思ったステラの父親である僕が、大事な娘の願いを叶えるために頑張る姿を、まだ未熟で頼りにはならないけれど、最後まで見届けて欲しい」

 告白めいた話をしてしまい、急に恥ずかしくなって、アリマからどんな顔をされるかが、やけに不安になった。

 「本音を聞かせてくれてありがとうございます」とアリマが反応を見せた。「すみません。実は私、まだ炭咲さんに言ってない話があります」

 何を、と言い返す前に何者かによって地面に引き倒された。相手は——案山子だと思っていたが、改めて見ると全く違う何かだった。先日から僕の人生に絡みついている、あの不気味な麦わらの化け物だった。

 「待って待って待って。こんなに面白い話を陽を除いて語り合えるとは狡いぞ、アリスよ」

 頭上から空間を裂くような声が響いて聞こえた。また、冷たい風に霙が混じって吹いてくる。気圧がぐっと下がり、周りの騒めきが静かに収まった。

 「退け——」僕は体を押さえている案山子の体を左手で掴んだ。「僕の上から退けと言っているだろう」

 赤い炎が麦わらの化け物の一部を燃やして灰にした。全身に火が広がる前に、それはどこからか大きなハサミを持ち出して自分の左足を切り取った。綺麗に切れた部分から急速に新しい麦わらが伸び始めた。

 と同時に、麦わらの体に変化が起きた。まるで繭から蝶が羽化するように、首のない人型の影が麦わらの外殻から抜け出し、空中に浮かび上がった。

 「炎…?ああ、なるほど。あの夜に燃やした種が芽を吹き出したのか。実に面白い」と僕の状況を見た謎の存在は、豪快に笑った。「小さい花よ、もう一度お名前を聞いても良いか?」

 自分のことを(ヨウ)と名乗った存在が、まるで羽根でも生えているかのように、ふわりと上から僕の手前まで降りてきた。首がない——僕ははっと息を呑んだ。だが、恐怖よりも先に奇妙な美しさに心を奪われた。首の断面が異様なほど綺麗に、まるで磨き上げられた黒曜石のようにツヤツヤと光っていたのだ。

 衣服は——いや、これを衣服と呼んでいいのだろうか。紫色の絹のような布地に、金糸で縫い取られた八角形の紋様が散りばめられている。一枚の布を肩から斜めに掛け、古代ギリシャの哲学者が纏うヒマティオンのような優雅さを醸し出していた。日本の妖怪というよりは、遥か昔の地中海沿岸を彷徨う亡霊のような、そんな異国情緒を漂わせていた。

 「私は炭咲千春と申します」

 敬語で言わなければならない気配がして、相手に『私』を使った。

 「娘がどのような過ちを犯したか分かりませんが、ここはどうか、寛大な心でお許しください」

 「赤の他人から見捨てられた娘を、自ら義理の娘に迎え入れて、更にその代わりにお詫びを申し込んでいる」

 首なしのヨウが、ひたすら感心感嘆した。

 「アリスよ、人間の情というものが犬畜生の欲情と境界線が曖昧になった今のご時世にしては、彼の話は珍しく思わないか?そうであれば、娘が犯した罪も知らせる義務があるだろう」

 「ヨウ様……」

 壁龕の老人──その名をアリスと呼ばれた人物が困った声を出したが、ヨウは手のひらを前に出した。

 「ただし条件がある。ヨウが造った案山子を倒してみせろ。それくらいの覚悟がないと話にならない」

 ヨウが足元の地面に手をかざすと、土がもこもこと盛り上がり始めた。まるで見えない手が畑を耕すように、黒い土が人の形に整えられていく。胴体、腕、足——粘土細工のように滑らかに成形されていく様子は、どこか神聖ささえ感じさせた。

 「ほら、千春。昔話にもあるだろう?土から人を作る話が」

 ヨウの指先から金色の麦わらがひらりと舞い落ちて、土の人形に突き刺さった。すると、まるで種から芽が出るように、麦わらが土の中で根を張り、全身に広がっていく。

 「お前の怒り、絶望、娘への愛——そういうものを全部練り込んでやった。なかなかの出来栄えだろう?」

 最後に黒いボタンのような目が土の顔に埋め込まれると、それはゆっくりと立ち上がった。

 案山子は意気揚々とした様子でハサミを振り回した。

 「どうだ、難しそうであれば条件を変え——」

 そう言うヨウに向かって、僕は答えた。

 「娘を罪から救える方法も教えてくれるのか?」

 「それは千春という父親の次第で、解決できる問題になるか、あるいは永久の償いになるかが決まると思う。もちろん、嘘はつかない」

 確信を得た。僕はその言葉を聞いて迷わず、案山子がいるところに進んだ。

 案山子の麦わらが風もないのにざわめいた。僕はその音を無視し、相手の動きだけを見つめた。案山子のハサミが宙を切る瞬間、僕は体を沈めて横に滑り込む。右手に熱が集まっていくのを感じながら、案山子の足元が一瞬ふらついた隙を突いた。

 木炭が胸の麦わらを貫く手応え。指先が冷たい金属に触れた途端、僕は迷わずそれを掴み出した。錆びた懐中時計が手のひらに転がり落ちる。

 前回の失敗は繰り返さない。時計の表面に亀裂が走る音が聞こえるまで、僕は力を込めて握り続けた。

 「おや?一瞬で終わらせて良かったのか?案山子との間にまだ蟠る古い怨みがあったようだが」

 「案山子にもう用はないので大丈夫です。それより私との約束はどうなりますか?まだ何か必要ですか?」

 ヨウはしばらく考え込んだ後、落ち着いた声で命令を出した。

 「良かろう。アリスよ、娘がやらかした犯罪行為の内容を手短に伝えてあげろ。あまり時間がかかりそうであれば、途中からヨウが割り込む」

 「しかし、ヨウ様。バベルの掟を破るまで罪人に気を遣う必要はありません。他の花に反感を買う事態になります」

 アリスが強い懸念を抱いた様子で反論した。

 「一度、これに関して議論をした上で決めることはいかがでしょうか」

 「君たちは、いつもそうやって都合がいい時にだけ民主主義を持ち出して、陽に逆らおうとする」

 首がないヨウが不機嫌そうに言い、続けて語った。

 「時の始まる前、何もないところから絶大な存在である陽が生まれた。そんな陽が、なぜ不完全な被造物の機嫌を取らねばならないのだ?アリスよ、古代から賢者の器を持った君なら、その理由を説明できるか?」

 絶対者の質問に、アリスを含めて場内にいた日本の代表者たちは無言で通した。ヨウは、それが大人のやり方だと思っているとでも言うように、僕に向かって後ろから親指を上げた。僕に今の場面を見せつけるかのように。

 「ちょっとした余興に過ぎない。深く考えなくてもいい。問題がありそうであれば、普段通り君アリスに処分を任せる」

 アリスは降参したように、ヨウの言葉に従った。

 「各務有馬はバベルにて禁忌とされた樹の一族について、その遺伝子情報を盗み、人体実験を行いました。更に樹の一族の遺伝子と各務家の卵子を組み合わせ、新しい花──青薔薇を生み出すことで、花園の主人である陽様の御名を汚す行為に及んだのです。その犯罪の動機は——」

 「お見事だ」

 ヨウの声が神殿(アゴラ)の石柱に響いた。

 「流石は元賢者、話術は円熟の域に達している。これで娘が何の罪を犯したかは、通りすがりの犬でも一目瞭然で分かるだろう」

 「お褒めに預かり光栄です」

 アリスは状況への照れ隠しか、苦い微笑みを浮かべた。やむを得ぬ演技であることを、その皺に刻まれた表情が物語っている。

 「さて、炭咲の名を持つ花よ」

 ヨウの視線が僕に向けられた。まるで大理石の神像が突然命を得たかのように、その瞳に意思の光が宿る。

 「君は今の話をどう思うか聞きたいのだが……まだ考える余地が必要か?」

 「根本的な質問をしてもいいですか?」

 僕はアリスの話を聞いて思った疑問を口にした。

 「一体、樹の一族とは何ですか?社会的犯罪を犯したというよりは、樹の一族に関わったから罪になったという風に聞こえます」

 指摘された内容に、ヨウが答えた。

 「大元の罪目は拉致と人体実験、および殺人未遂などの犯罪に類するものだが」
ヨウの声は、まるで古代の法典を読み上げるかのように響いた。

 「小さい花が言った通り、処罰対象となった原罪は『樹の一族に関わらないこと』を守らなかったからだ。君の質問に答えよう。樹の一族とは、陽の玉座を脅かす一族であった。まして、各務家の娘は陽の意志に逆らったその一族と同じ道を歩んでしまった。どうだ、話の答えになったか?」

 「ただそれだけの理由で、今まで人々を処分してきたのですか?」
呆気ない理由に反吐が出そうになった。

 「結局、バベルがアリマを捕らえた理由は合理的ではなく、単なる陽様の仰せのままに書かれた規則に基づいているということですね」

 実に馬鹿馬鹿しい話だ——と素直に怒りを感じた。

 バベルは、基準にしてはならない基を持って人を判断している。僕は法律について詳しく知らないが、それはあくまで人を処罰するためではなく、事前に犯罪を防いで社会というシステムを保つために存在すると思っていた。

 しかし今日、その信念が打ち砕かれた。

 「口を慎め。陽様の御前で無礼な口を利かないよう注意しなさい」

 かっとなった各務家の当主が話に割り込んだ。

 「首を突っ込むな。これは陽様と僕の間の会話だ。お前が口を挟む場ではないから、黙って見届けていればいい」

 僕は手のひらを叩いて、黒い木炭に赤い火を起こした。久しぶりに不合理な話を聞いて、冷静でいるはずの胸が熱くなった。

 「話を戻しますが、アリマがここに引き摺られてきた理由は、結局のところ、陽様のお望みに応じなかったからでしょうか」

 「ここは陽の花園、君たちは陽の花だ」

 ヨウの声が、まるで天上から降り注ぐ光のように響いた。

 「陽の役目として、道を迷った花には適切な指導を、道を外れた花には道に戻れるよう正しい躾を与えている。時には美しい花を咲かせるために試練を授けるが、今回の件はそれとは関係ない。単純に、花が間違った道を歩み出して、純潔さを失ったせいだ」

 その言葉は、まるで自然法則を述べるかのように淡々と語られた。まるで花園の主人が、枯れた花を摘み取るのは当然の行為だと言わんばかりに。

 「ああ、陽様の話はよく理解できました」

 僕は歯を食いしばってお礼を言った。

 「思ったより人間的な思考回路を持っていらして安心しました」

 「ん?それは、どういう意味だ?」

 首がないヨウの姿を見て、最初は無意識的に全知全能な神の顔を想像していた。ところが、あいにくなことに今の発言を聞いて、あいつの顔がふと頭の中を過ぎった。それで良い——と握り締めた拳から力を抜いた。

 「いいえ、何でもありません。答えてくださってありがとうございます」

 礼儀正しく挨拶の言葉を告げる。

 「話が変わりますが、娘の罪が許される方法を教えてください」

 ヨウは腕を組んで僕のところに歩み寄った。

 「炭咲の名を持つ花よ、陽に聞きたいことはそれで終わりなのか?」

 「はい、他は大丈夫です」

 「……それで態度が急に変わったのか。なるほど、確かに一理はある」

 首がないヨウが小さく呟きながら頷いた。

 「一つ、陽からも質問して良いか?」

 「どうぞ。俺が分かる範囲であれば何でも答えますよ」

 「陽と対面してどう思う。何を感じたか正直に言ってほしい」

 「それは初印象のことでしょうか」

 「初印象?」

 僕の問いに、ヨウの声調が高くなった気がした。

 「良かろう。初印象だけではなく、その後の印象も、ぜひ聞かせてくれ」

 僕は思うままに話した。

 「最初は、天上天下(てんじょうてんげ)唯我独尊(ゆいがどくそん)的なナルシストで、人智を超えた存在に見えました。今は、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な印象で、首なしの状態でご飯はどこから食べるのか気になっています」

 「小さな花は、陽が食事をする姿が見たいのか?」

 「いや、別に見たくはないです。ただ興味があるだけです。良かったら地上に降りてくる際に、ファミマの『大きな鮭はらみおにぎり』と牛乳をぜひ試してください。美味しいです」

 その瞬間、古代の石柱が軋むような音を立てて、ヨウの体から異様な威圧感が漏れ出した。

 「……おもしろい。本当におもしろい」

 声が低く、底知れぬ深さを帯びた。まるで地の底から響いてくるような、不気味な笑い声が続く。

 「小さな花よ、陽にファミリーマートの鮭はらみおにぎりを勧めるのか。この神聖なアゴラで、添加物まみれの工業製品を」

 アリスの皺が深く刻まれた。各務家の当主は完全に硬直している。

 「でも、美味しいものは美味しいじゃないですか。神様だからって、美味しいものを食べちゃいけない理由はないでしょう」

 僕は肩をすくめた。

 「それに、陽様は全てを知っているなら、ファミマのおにぎりがどんな味かも知っているはずです。知識として知っているのと、実際に体験するのは違いますよね」

 ヨウの体が一瞬、光を放った。

 「……全知と体験は別物だと言うのか。興味深い論理だな」

 今度は本当に楽しそうな声だった。

 「アリスよ、この子は何者だ?まるで陽に哲学を語りかけているではないか」

 「恐れ入ります、ヨウ様。この者は——」

 「いや、良い。陽が直接聞こう」

 ヨウが僕の方に向き直る。

 「炭咲よ、陽を人間だと思っているのか?」

 「思ってます。すごく人間らしい反応をする神様だなって」

 「……なるほど。それで、陽がどう人間らしいのか、具体的に聞かせてくれ」

 「承認欲求がありますよね。僕の印象を聞きたがったり、アリスに同意を求めたり。それって、とても人間的だと思います」

 場内が水を打ったように静まり返った。

 「それに、僕が態度を変えたことに気づいて、理由を推測しようとする。これも人間の行動パターンです」

 ヨウは長い間、沈黙していた。

 「……興味深い観察だ。では、陽が人間らしいとして、君はどう接するつもりなのか?」

 「普通に接します。敬語は使いますけど、必要以上に萎縮することはありません。陽様も、そっちの方が面白いでしょう?」

 ヨウの体が微かに震えた。笑っているのか、怒っているのか判然としない。

 「面白い、確かに面白い。陽は最後に、君がどんな花を咲かせるか楽しみになってきた」

 「誠に嬉しく存じます」

 アリスが震え声で答えた。

 「そこでだ。娘の判決を陽が下したいが、アリスを含めて皆の意見を聞きたい。どうだ。百年ぶりに罪悪感を感じない判決の結果を味わえる時間を、陽が再び授けてあげよう」

 初めてのお呼びに、黙って状況を見届けていた皆が一斉に席から立ち上がった。たった一人を除いて、ヨウの提案に同意をする模様だった。

 「いや、いや。子供の遊び場でもあるまいし、自分勝手に有馬の処分を決めても良いのですか?」

 そう言いながら僕の方に指を差した。

 「おい、小僧。邪魔だ。罪人ならば罪人らしく席に戻って判決を待ちなさい」

 「各務の名を持つ花よ、邪魔をする者は君のことだ」

 またたく間に、ヨウが各務家の当主に移動してその指を折った。悲鳴を上げる時間もなく口が封じられ、気を失った。非常に過激かつ適切と思われる対応に、息を殺して見守った。

 「当主様の言う通り、無茶なことはここで辞めましょう。陽様は炭咲さんが思うように人間らしさを持った方ではないです」

 ひたすら人を案じる娘の頭を、死人のように冷たい手で優しく撫でてやった。まだ大人のように大きくはない僕の手だったが、これからこの子の父親になろうとする者にとって、この会話は特別な意味を持っていた。

 「大丈夫だ。僕が何とかする」

 父親って、こういう時何て言うんだっけ?言葉を発しながら、心の奥では複雑な感情が渦巻いていた。年若い身で父親になろうとしているなんて、確かに無謀に聞こえるかもしれない。

 「何とかって——」アリマの声が震えた。「はったりをかます相手を完全に見誤ったことに、未だお気づきにならないのですか?」

 怒りと悲しみが入り混じった表情で、それでも涙を堪えようとしている。僕のせいで心配かけちゃったのかな。まるで叱るべき相手を前にした時のような、複雑な感情が彼女の瞳に宿っていた。

 「炭咲さんは誰も望まなかったことを堂々と言い表してくれるから、実に私を困らせます」

 「ステラの望みでもあるからね」

 そう、これはステラの望みでもある。あの子が命を賭けて守りたかった家族。その言葉を詠むたび、僕の心は締め付けられる。家族として、人間として、そして一人のパパとして。
 
 「ネネは最後にどうでしたか?」

 慎ましやかな態度で、アリマはステラの最期について尋ねた。その声は震えていて、大切な人を失った悲しみが滲み出ていた。

 「何か言い残したことはありませんでしたか?私のこととか……」

 人によっては、冷たいベッドの上で孤独に死を迎えたと記憶するかもしれない。しかし死の寸前で僕と顔を合わせたステラは、とても安らかな顔を——いつものような、優しい笑顔を見せてくれた。最期の最期まで、自らの妹と慕うアリマの行く末を案じながら、静かに眠りについた。

 「とても幸せそうな顔で、『アリマのことをよろしく頼む』って言った。まあ、夢の中で聞いたことかもしれないけれど」

 僕は意図的に軽い口調で答えた。本当はもっと大切なことを託されていた気がする。でも、どう説明していいか分からない。大人だったら、もっと上手く伝えたかも知らない。年若い身で背負うには重すぎる約束だったが、それでも受け入れなければならなかった。

 「そうですか。また私はお姉様を…最後まで迷惑ばかりかけてしまいました」

 僕はもう一度、アリマの頭に手を置いた。木炭の腕で、触感はないが、それでも娘に温もりを伝えたかった。ずっと言えなかった言葉を、ちゃんと伝えるために。何て言えばいいのか迷ったけど、思ったことを正直に言うことにした。

 「アリマ、君は迷惑なんかじゃない。ステラは君を誇りに思っていた。それが真実だ」

 心の奥で、僕も一人暮らしが長いから、家族ってどんなものかよく分からない。でも、ステラとアリマを見てると、なんとなく分かる気がする。僕は静かに誓った。たとえ若くても、必ず良い父親になる。それが、ステラとの約束だから。

 「アリマは充分頑張った。それでいいんじゃない?具体的に何を頑張ったのかは知らないけど、アリマのおかげで、僕はステラと家族になり、ここ最近で一番幸せな日々を過ごした。ステラもきっとそう思うよ」

 僕は柔らかい笑顔で、なんか照れくさくて、最後はちょっと笑いながら言った。よく気を配ってくれてありがとう、とステラの代わりに感謝の言葉を伝えたかったけど、恥ずかしくて言えなかった。

 「……余計なお世話です」

 僕の褒め言葉を聞いて、アリマは俯いたまま、今まで我慢してきた涙をポロポロとこぼし始めた。僕は何気なくアリマの前に立って、自分の陰に隠した。

 本人から家庭の事情は詳しく聞いていないし、あえて口にするつもりもない。ただ、アリマにこれ以上悲しい思いをさせたくなくて、僕なりに慰めようとした。

 ある意味で僕は、ステラに感謝している。ステラがいなかったら、ほんの子供だった僕が、誰かの保護者になる機会は来なかったかもしれない。または、子供のために命を捨てる覚悟の意味すら分からないまま、先に寿命が尽きたかもしれない。

 『お父さん、僕が書いた答えを見てください。この公式で問題を解けました』

 各務家の姉妹と共に暮らすうちに、昔の自分を思い出した。わがままで、短気だった。何かを考えるより、思ったことをそのまま口に出してた。分からないことがあると、いつも質問ばかり。かまってほしい時は、いたずらして父親の気を引いたりもした。その度に怒られて、叩かれたけれど、嫌いにはならなかった。なぜだろうと、今でも不思議に思っている。

 『私が、誰のためにそのプロジェクトに参加したか知らないのか?』

 なぜこのタイミングで父親の言葉が蘇ったのか、僕は深いため息をついた。胸の奥に重く沈んだ真実を、僕はずっと見ないふりをしてきた。父親が僕のためにプロジェクトに参加したこと。それでも結局、僕を手放したこと。そして今、僕自身もステラをより良い環境に送ろうとして、同じ選択をしてしまったこと。

 子供のためを思いながら、結局は別れを選ぶ。父親と僕は、同じ過ちを繰り返している。愛情の名の下に、大切な人を失う道を歩んでいる。

 認めたくなかった。父親の気持ちが分かってしまうことが、何より辛かった。あの人を憎んでいる方が、まだ楽だった。理解してしまえば、許してしまいそうで、それが怖かった。

 分かっている。頭では全て理解している。それでも、心がついていかない。まだ僕には、この複雑な感情を受け入れる時間が必要だった。

 「アリスよ、判決のことだが、陽の考えには、古典的なやり方に戻ることを提案したい」

 自分の席に戻ったヨウが、アリスに話題を取り上げた。

 「と、おっしゃる通りであれば、いつの世代のことでしょうか」

 「陽が太初に語った『追放』の時代における言葉と行いの話をしている」

 ヨウが出した話題に対して、場内の人々に動揺する様子は特に見当たらなかった。考えられる可能性としては、東京あるいは日本という国からの追放があり得る。しかし追放について考える前に、太初を基準とするかを明確に知らなければ、当の僕を含めて、この場に集まった人々がその意味を理解できるはずがない。

 「陽様の仰せのままに、降臨祭をご用意いたします」

 申し付けられたアリスは、天地がひっくり返るような大きな息を吐き出した。
 
 「塔バベルよ、此の世に降臨される太初の剣の炎を、眠りから起こして迎え入れなさい」

 足元の地面が横に震え始め、揺れが激しくなると同時に石畳の地面が下に崩れ落ちた。わずか一分間で崩壊は終わり、穴は僕の足元の手前で止まった。大きく開いた穴は塔の中心を貫いて、小さな羊雲と筋雲が層をなす東京上空を肉眼で見ることができた。吹き抜ける風の音が、人の悲鳴のように耳に響いた。

 更に全ての光が弱まり、辺りに黒い闇が広がり始めた。形なく、虚しく、闇が訪れ、何者かの息遣いが大気に響いていた。

 ヨウは「炎があれ」と言った。すると一瞬の間に、猛烈に燃え上がる太陽の炎の塊がヨウの頭上に現れ、光と闇とを分けた。続いて右手を炎に入れ、左手を後ろに回した状態で、巨大なハサミを取り出した。案山子が使ったハサミよりも熱く、今でも火が付いて赤々としている。

 「炭咲の名を持つ花よ、陽の真の姿を見届けた感想はどうだ」

 強烈な光で目がくらみそうだと思うものの、目の前に現れた光に惑わされず、言うべきことを口に出した。

 「俺たちを地上に追放するお考えでしょうか?」

 ヨウは答えた。

 「いいや、違う」

 そして、言葉の代わりに真っ赤に熱せられた刃物を僕の首に当てて、追放の意味を告げた。

 「陽の庭から追放されることは、死そのものを意味する」

 熟した果物を眺めるように、炎が風に軽く揺らめいた。僕は、明確な答えに奇妙な安堵感を覚えた。素直に嬉しいと言いたいところだが、今の有様をアリマに見せたくないという気持ちが同時にあった。

 「あの、父親である自分が身代わりになっても問題ないでしょうか」

 「小花よ、どういう話だ?」

 感情を隠した太陽の塊が、僕の返答に少し揺れ動いた。

 「追放のことです。アリマの代わりに俺が追放されることで、娘が許されるかを聞きたいです」

 「君は、死ぬことがもはや怖くなくなったのか?」

 「まさか。七年前も今も、死ぬことは怖いです。もしできることなら、この死の杯を過ぎ去らせてください、と言いたいところです」

 僕は固唾を呑んで話を続けた。

 「しかし、俺の望みのままではアリマを罪から救えないから、ヨウの御心に任せたいと思っています」

 返答を聞いたヨウは、瞬きほどの間、沈黙を保った。既に、他のことは頭に入らなくなった。ただただ、闇の中で輝く赤い炎だけが、視界いっぱいを占めていた。

 「何ですか、その理屈は。なぜ炭咲さんが私の代わりに死ななければならないのですか?意味不明です」

 アリマが裏返った声で叫び出した。

 「各務家の問題をあなたが背負う必要はないですよ。特に私を救うために自ら命を犠牲にするなんて、私としてはもっとも望ましくない選択です」

 「そんな顔をするな。全ては僕の計算通りだ」

 そう言いつつ、振り返ってアリマと目を合わせた。

 「多分僕は、もうじき死ぬだろう。だから、ちょっとくらいはパパとしてカッコつけさせてくれよ」

 「病気のことであれば、ご心配無用ですわ。各務コーポレーションで積極的に支援してあげることを約束します」

 すぐにでも泣きそうな顔で、僕にすがりつく。

 「だから、だから代わりに死ぬなんて言わないでください」

 僕は首を横に振った。

 「ありがたい話だが、体のあちこちが壊れて、バベルに来る前から薬がないと両足で立つことすら難しい状態になった」

 薬の効果が切れる時間が近づいたように、手足が震えた。口の中もだいぶ枯れている。終わりが、すぐそこに来た。最後にアリマの顔を眺めた。言葉で説明できない何かが心の中に生じて、不思議な気持ちが肌に伝わった。

 「もっと早く君たちの父親になってあげられなくて、ごめんね」

 アリマに笑顔で別れを告げた僕は、足を引きずりながら処刑場へと向かった。東京タワーの展望台に設けられた巨大な穴——それが僕の最期の場所だった。

 跪いて穴から見下ろした巨樹は、小さな木の芽に見えた。僕の眼に映った世の中は悲劇で、舌先に塩っぱい味がしたのに、高いところから眺める東京は平和に酔って溺れている。一生をかけて住んだ町も、遠くからは無数のフィギュアが並べられているようで小さく感じる。木に目を取られ、森の全体を見極めなかった過去の自分へ、残念な言葉を流す間に、陽の光筋が一寸刻みに地面を這い進み、壁龕のアリスの上を通り過ぎて、僕がいるところまで寄りかかった。

 背中からヨウの気配を感じる。僕は思わず吐息を漏らし、目を瞑った。ここまで来て、頭の一部では、アリマを一人だけ置き去りにすることが心配になり、自らの生への欠片を未練がましく感じた。

 さぞかし、あの子は俺を引き留めようとするだろう。

 「アリマ!君は、炭咲家の娘だ。これからは僕の言うとおりに、いい子じゃなくて自分らしく生きろよ」

 脅迫めいた言葉を遺言として言い残して、僕は穴の奥に吸い込まれるように落ちた。地面に落下させる平和的な処刑方法で、意外と優しい判決だと思った。が、遠くなる塔を見上げた瞬間、会議場の床に倒れた自分の体を見つけた。そうか、今落ちているのは僕の首だけだ——と、呆気ないほど静かな死にひどく感服した。

 アリマに笑顔で別れを告げた僕は、足を引きずりながら処刑場へと向かった。東京タワーの展望台に設けられた巨大な穴——それが僕の最期の場所だった。

 膝をつき、穴の縁から見下ろすと、地上の巨樹が小さな木の芽のように見えた。僕の眼に映る世の中は悲劇に満ちていて、舌先には塩っぱい涙の味がした。それなのに、高いところから眺める東京の街は平和に酔いしれ、まるで何事もないかのように輝いている。

 一生をかけて住んだ町も、遠くからは無数のフィギュアが並べられているかのように小さく感じる。木ばかりに目を取られ、森の全体を見極めなかった過去の自分へ、残念な思いを抱いている間に、西日の光筋が一寸刻みに展望台の床を這い進み、壁際のアリスの肖像画を照らして、僕がいるところまで届いた。

 背後から陽の温もりを感じる。僕は思わず吐息を漏らし、目を瞑った。ここまで来て、頭の片隅では、アリマを一人だけ置き去りにすることが心配になり、自分でも生への執着を未練がましく感じていた。

 きっと、あの子は俺を引き留めようとするだろう。

 「アリマ!君は炭咲家の娘だ。これからは僕の言うとおりではなく、いい子を演じるのではなく、自分らしく生きろよ」

 脅迫めいた言葉を遺言として言い残すと、僕は穴の奥に吸い込まれるように身を投げた。

 落下しながら、これは地面へ落下させる平和的な処刑方法なのだと思った。意外と優しい判決だった。だが、遠ざかる東京タワーを見上げた瞬間、展望台の会議室の床に倒れた自分の体を俯瞰で見つけた。

 そうか、今落ちているのは僕の首だけなのか——

 呆気ないほど静かな死に、ひどく感服した。

 世界がぐるぐる回る中、首の傷口から生まれた小さな火種が頭を包み込み、目の前が白く変わった。木炭化した筋肉が焼かれる音が耳元から遠ざかるまで、火傷の痛みが僕を酷く苦しめた。一秒でも早く一握りの灰になりたいという願望があるにしろ、時は跡形もなく淡々と流れてゆく。

 呼吸が浅くなり、意識が半分ほど飛んだ頃、周りが静かになった。

 「た、タンサキさん?」

 青息吐息で聞こえるアリマの声に目が覚めた。変な話だけれど、地上に落ちたはずの僕が、謎の理由によって、穴に落ちる前の状態に戻った。意識が途切れる寸前、体中の細胞が逆流するような感覚があった。そして不思議なことに、切断されたはずの首は元通りに繋がり、血まみれの体で穴の縁に立っていた。

 勘違いでも、逆行でも、転生でもない。僕は、生身の状態で、アリマの目の前で生き返ったのだ。

 周りを振り向くと、さっきまで僕の体が倒れていた床には大量の血が散らばり、何かが穴に落ちた痕跡が確かに残っていた。着ている患者服の袖には、血と汚物の交じり合った赤黒い染みが、さっきと同じようについていた。

 現状を把握するまでの約数十秒の間、場内に集まった人々の視線が僕に注がれているのを感じた。同じ人が同じ場所で生き返るという異常事態に、ヨウを除いて、全員が不安な表情で見守っている。

 「本当におと——、炭咲さんですか?」

 枯れたアリマの声が耳に届き、耐え切れぬ淋しさが胸に込み上げた。振り返ると、僕と向き合って号泣するアリマが、ひどく腫れた目で僕を見上げていた。

 「——」

 慌てる姿が子供らしくて可笑しい。そう思いながら自分の喉に触れると、言葉が出ない原因を探ろうとした。すると首の辺りに、形のない暖かい何かが指先に触れた。これは、炎だ。視野に入ったのは、確かに今まで見たこともない青い炎だった。

 何気なく見つめ直した自分の右腕には、炎に触れた部分から青い光を噴き出す火の粉が自然と燃え上がっていた。気付けば木炭の殻を徐々に失って、乳児の肌のような新しい肉芽が盛り上がっている。

 七年前も似たような炎を両手で触れた覚えがある。だが、今はそれよりもアリマとコミュニケーションを取れない問題が先決だ。とりあえず、必死に身振りや手まねで自分が炭咲の千春であることを伝えようとした。

 「えっ、落ちて気がついたらここに?それで木炭化も治ってる。…理由は分からない?うーん、もしかして頭を失ったショックで、何か眠っていた力が目覚めたのかもしれませんね」

 そこでアリマは少し意地悪く微笑んだ。

 「でも、これで炭咲さんの大好きな鮭はらみおにぎりは食べられなくなっちゃいましたね」

 「——」僕の炎が小さく萎むように揺れた。

 「あははは、冗談ですよ。本当かどうかは実際試せないと分からないです。首がなくても陽様は人の言葉を喋れるみたいなんですが、お父さまはまだ鍛錬が必要そうですね」

 『今、僕のことをお父さんって言った?』

 僕の炎が急に大きく揺らめき、驚きを表すように左右に激しく揺れた。

 「えッ?あッ、すみません。失言でした。今の話は忘れてください」

 僕は炎を小刻みに上下に震わせ、もう一度言ってほしいと懇願した。

 「な、何をですか?私が呼び間違えたことにしつこく付き纏わないで貰えませんか?」と言いつつ、僕の手を押し退ける。「い、嫌です。嫌ですってば!」

 それでも僕は諦めず、炎を静かに、しかし熱く燃やして最後のお願いを示した。

 「はあ、意外と意地悪い嫌がらせがお好きなんですね。分かりました。でも、一回だけですよ?」

 僕は炎を穏やかに縦に揺らし、深く頷くような動きを見せた。いつにも増して真剣に、炎の色も一段と濃い青に変わった。

 「お帰りなさい、お父さま」

 大満足だ、と両手の親指を立てて前に出した。

 その後もアリマの気が済むまで変な会話はしばらく続いた。炎に関する質問から記憶の話までとりとめもなく喋るアリマの姿は、間違いなく親に好かれたい子供の顔をしていた。話をする中で時々、僕は炎の中に指二本で笑顔の絵文字を描いた。するとアリマも微笑を浮かべて、慈愛に満ちた目で僕を見てくれた。

 「罪人が謀反クーデターを起こして陽様から炎を盗んだ!やつを捕まえろ」

 周囲の人々が騒然となった。クーデターなんて思いもしなかった、と言い訳しようとしたが、アリマがそれを遮った。

 「いけません。陽様がいなくなりました。冷静に考えてタイミングが悪すぎます。ここは一旦、大人しくしていた方がいいと思います」

 自分ではさほど危険ではないと信じているのに、他人の目には僕がヨウの炎を奪ったように映るらしいのだ。なるほど僕は、今、ヨウと同じ首なしのバケモノであった。皆の顔には強い懸念が浮かんでいる。アリマが返した表情は厳しかったが、落ち着いて見える。

 この状態を打ち破るには、僕の首の上に浮いてるこの炎をまず何とかしないといけなかった。

 『炎が問題であれば消せば済む話だ』

 僕は半信半疑ながら、まだ木炭化が進んでいる左腕に火を付けた。左手の木炭から立ち上がる赤い炎を、首の代わりに燃えている青い炎へと近づける。人の手に戻った右手で、首の炎を掴むようにして支えながら、左手の炎と触れ合わせた。

 お互い違う二種類の炎は化学反応を起こしつつ、やがて一つに重なり合って形が大きくなった。

 重い。右手一本では取り落としてしまいそうな気がして、左手でそっと下から支えた。これ以上は限界だ、と思った僕は、この巨大な混炎をどこかに処理する方法を思案し始めた。が、人の手と木炭の手で支えながら考えることはかなりきつく感じた。場内に炎を保管できる場所も道具もない。穴の下に放り投げるのは言うまでもなく論外だ。

 中と下が駄目であれば、残った方向は上しかない。僕は両手に力を込めて混炎を支え、天井へ打ち上げる想像を繰り返した。通常、事前練習が求められるけど、今回の件は一発勝負で全てが決まる。できるかできないかより、やるかやらないかの意思の問題だ。

 『どうか、よろしく、お願いします!』

 炎が完全に僕の手から離れ、天井に穴を開けて勢いよく空高く上がった。夜明けの空に一筋の花火が高く打ち上がり、東京上空から雪雲に吸い込まれ、雪の粉と一緒に混ざって地上に降り出した。薄い紫の炎を含んだ雪は積もることなく、アスファルトの隙間に根を下ろしているものに細やかな温もりを与えた。

 僕は両手で混炎を押し上げるようにして放った。炎が完全に僕の手から離れ、天井に穴を開けて勢いよく空高く上がった。夜明けの空に一筋の花火が高く打ち上がり、東京上空の雪雲に吸い込まれていく。

 やがて雪雲の中で炎が雪と混ざり合い、薄い紫の炎を含んだ雪となって地上に降り出した。この特別な雪は積もることなく、アスファルトの隙間に根を下ろしている小さな植物に細やかな温もりを与えた。

 枯れ衰えた一枚の花は、別のトゲが同じ根からまた新しく芽生えた。とある小さな花は、深い眠りから起きて雪びらが舞い散る夜空を見上げた。そして殆どの炎を空へ噴き出せた僕は、首の部分が顎から段々元の形を取り戻していた。意識が地上から元の体に戻る寸前に、巨樹の枝に一片の雲を落として、いつか東京に訪れる春のために、先に季節の痕跡を咲かせておいた。

 街の片隅で、枯れ衰えた茎から新しい芽が出し始めた。とある小さな花は、深い眠りから起きるように花びらを開いて、雪びらが舞い散る夜空に向けて咲いた。

 そして殆どの炎を空へ噴き出せた僕は、首の部分が顎から段々元の形を取り戻していた。完全に意識が体に戻る寸前、遠くの巨大な桜の枝に一片の炎を落として、その炎で桜の花を咲かせた。いつか東京に訪れる春のために、先に季節の始まりを告げておいたのだ。

 「ただいま、アリマちゃん」

 僕は、いささか照れくさい面持ちで挨拶をして、アリマの頭に右手を乗せた。その瞬間、指先に残っていた種火がアリマの髪に移り、ぱっと白い炎となって燃え上がった。慌てて手を振り払うと、炎はすぐに消えたが、アリマの髪は僕と同じ白い色に変わっていた。

 二人の間に気まずい沈黙が流れた。アリマは鏡で自分の髪を確かめ、複雑そうな表情で僕を見つめている。僕は何と言えばいいのか分からず、現実逃避のように天井を見上げた。

 数十秒が過ぎた頃、アリマが小さくため息をついた。

 「お父さま、『ちゃん』付けはお辞めください。もう子供ではありませんから」

 優しい叱責の言葉だったが、僕には救いのようにも聞こえた。

第14話 そして家族になる

 鳥居のトンネルを潜り抜けて地上に着く頃、長いようで短い夜明けが終わり、もう訪れることがないと思った朝が来た。雪雲が晴れた空には朝日が昇っている。未だに積もっていた灰色に染まった雪は溶けて地面に染み込み、最初から何もなかったように、街は綺麗になった。

 香月は神社を出て駅前の近くにある喫茶店に入って俺たち二人に温かいココアを奢ってくれた。一晩中立ちっぱなしだった僕は、足がだるくなって、カフェの席に腰を下ろそうとした。が、ココアに口をつけるか否かのうちに香月が捕まえたタクシーに乗り、そのまま家に送られた。

 車窓から見える街は、あの夜のことなど知らぬ顔をしていた。

 「お疲れさん。今日はゆっくり休んで話はまた明日にしよう」

 香月から今後の計画について質問されて、別れる前に秋入学を準備すると言い返した。嘘ではない。今まで準備した努力のためにも共通テストは再度受けるつもりだった。ただ、木炭が使えなくなった以上、新しい能力を自ら調べる時間が必要だった。更に今までとは違う入試の種類と仕組みを一通り把握し、受験の準備にまた手間がかかる。

 しかし一旦花言葉診断テストを通じて、新しく生じたトゲの確認を行えば、受験はもっと加速されるはずだ。それに何によらず、いちばん難しくて厄介なのは、冒頭の部分なのだ。

 「お父さま、帰り道にコンビニに寄っても宜しいでしょうか。急用を思い出しました」

 到頭、アリマからお父さまと呼ばれた。僕はアリマの願望で、家の近くでタクシー代を支払い、あの坂道にあるコンビニの中に入った

「いらっしゃいませ——」

 ちょうど入荷時間が近づいたから、大好物の大きな鮭はらみお結びがおにぎりコーナーに並んでいた。今日は絶対食べると思った僕は、お結びを二つ選んでミニバスケットに入れた。念の為にアリマが食べないことも想定してサンドイッチも持って行った。途中からいなくなったアリマを探しに店内を見回ると、ドリンクコーナーの前で陳列された飲み物を眺めていた。

 「アリマ、食べたい物はない?」と生々しい過去と交差する現在を記憶の彼方に葬って、アリマの横顔を見守った。「もし良かったら僕のお結びを一緒に食べてもいいぞ」

 「あ、すみません。ぼっとしていました。私も、同じ物で大丈夫です」

と、ほろ苦そうな表情で視線を微笑みで受け止めた。ひどく辛そうな、切ない感じの笑みだ。結局アリマの買い物は、コンビニの中を回るだけで、何も買わずに済ませた。

 「まだ時間が早いが、ここで朝飯を食べてから帰ろっか」

 なるべく外から見えないように店内のイートインスペースの隅っこの方に腰をかけた。そしてすぐ、買った物をテーブルの上に出して先にお結びをアリマにあげた。下手に慰めるよりはこの方が無難でいいと思ったからだ。

 疲れた様子でも美味しそうにお結びをパクパクと食べるアリマの姿は、例えようもない安心感を与えてくれる。僕も余分で買ったサンドイッチのフィルムを剥がして口に入れた。ハムとチーズが入ったベーシックな味であった。

 「お父さまがこれを好む理由を、少しわかる気がします」

 アリマの方から先に味見の感想を聞かせてくれた。なんとも微妙な表情で、僕があげたお結びを食べ終わらせて、自ら二個目を食べ始めた。食欲は、僕より強く見える。

 「あの、お父さま。少しお時間よろしいでしょうか。話があります」

 そろそろ食事が終わる頃に、アリマが丁寧な言葉使いで二人の間に軽い緊張感を呼び起こした。僕は食べ飽きたサンドイッチをテーブルの上に置いて、顔を横に振り向いた。そこにはアリマが椅子の上で膝を折り、体を蹲って僕に向かって頭を下げていた。

 「この度、醜い私のために死にかけてまで命を救っていただきありがとうございます。本日をもって一意専心、お父さまに相応しい娘になるまで邁進いたします」

 堅苦しい言い方に鳥肌が立った。

 「仮に『お父さま』よりは『お父さん』とか『父ちゃん』はどうかな」

 「私にお父さまは、お父さまです。そのようなお呼びは許されません」

 頑固な娘だ、と思った。しかし、素直に自分の心を父に示すようになったから、悪いことではなかった。しばらく僕は頭を抱えて、他に使える言い換えがないかを考えた。

 「…父はどうかな」

 「却下します。親しげに振る舞うのはお父さまの威厳がなくなります」

 流石に「様」つけで呼ばれるとまだ恥ずかしい、と言いつつ、本当のことを言った。

 「前からステラにパパと呼ばれているけど、あくまで相互理解を深める呼び方として聞き慣れている『パパ』よりは、アリマが呼びやすそうな『(ちち)』がいいような気がしたんだ。それに、アリマには悪い話かもしれないが、僕は特に厳しい父親になりたいとは思わない」

 アリマは僕の言葉を聞くと、首をかしげた。

 「厳格でない父親像…」小さく呟いた。「理解できません。保護者としての権威性を放棄すると、指導効果が低下するのではないでしょうか」

 「指導効果って」僕は苦笑いした。「アリマは僕のことを上司か何かだと思ってるのか?」

 「違います。炭咲さんは私の…」アリマは言葉を探すように間を置いた。「存在意義です」

 その真剣な表情に、僕は何と返していいかわからなくなった。

 「でも、威厳がなくても構わないということでしたら」アリマは続けた。「私にとって呼びやすい呼び方を選択する合理性は理解できます。ただし」

 「ただし?」

 「父が厳格でないなら、私が規律を維持する必要があります。父の生活習慣の改善、栄養バランスの管理、そして学習効率の向上。これらは私の責任です」
 
 どうやら、僕が優しい父親でいたいと言ったことで、アリマは逆に自分が厳格になろうとしているらしい。これは予想外の展開だった。

 「アリマ」僕は彼女の肩に手を置いた。「君はもう少し、普通の子供みたいに振る舞ってもいいんだぞ」

 「普通の子供…」アリマは首を傾げた。「例えば?」

 「えーっと、駄々をこねるとか、わがままを言うとか」

 「駄々、わがまま」アリマは単語を反芻するように呟いた。「それは非効率的な行動パターンです」

 「効率だけが全てじゃないよ」

 「では、何が重要なのですか?」
 
 アリマの純粋すぎる疑問に、僕は言葉に詰まった。この子は一体どんな環境で育ったのだろう。

 「君の気持ちは嬉しいけど、それは僕が背負うべき荷物だ」僕は彼女の肩に触れかけて、途中で手を止めた。この子にとって、身体接触はまだ未知の領域なのかもしれない。「アリマには、もっと自分らしい時間を過ごしてほしいんだ。例えば…夕焼けを見ながらアイスを食べるとか、雨音を聞きながら本を読むとか。そういう、何の意味もない贅沢があるだろう?」

 「意味のない贅沢…」アリマは言葉を反芻した。その表情は、まるで異国の言語を解読しようとしているかのようだった。「私には理解できません。私の存在意義は、父のお役に立つことです。それ以外に私の価値はありません」

 まるで壊れたレコードのように、同じ場所に針が戻ってしまう。

 「分かった。でも一つだけ条件がある」僕は彼女の瞳を見つめた。その奥に、まだ名前のついていない感情が揺らめいているのを感じた。「僕が間違ったことを言ったら、遠慮なく反論してくれ。アリマの方が僕より多くを知っているんだから」

 「反論…」彼女の眉がわずかに寄った。「でも、父に逆らったら、私は不要になりませんか?」

 「逆だよ。君が僕に意見できるようになったら、それこそ本当の家族になれる」
僕は小指を立てて差し出した。アリマはそれを見つめ、まるで古代の遺物を前にした考古学者のような顔をした。

 「これは…契約書の代替手段ですか?」

 「約束の儀式。指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます」

 彼女の小指は陶器のように冷たく、そして脆そうだった。でも、繋いだ瞬間、僕の心に温かい何かが宿った。

 「父」アリマが突然、事務的な声音に切り替わった。「現実的な問題について相談があります。ガーデンズ学園の秋入学についてですが、木炭化の治癒は医学的に奇跡的ですが、異能を失った状態での共通テスト合格率は統計的に絶望的数値を示しています」

 僕は思わず笑ってしまった。娘に現実を突きつけられる父親って、どんな気分だろう。少なくとも、普通の親子関係ではないことは確かだった。

 僕の言葉が、アリマの瞳の奥で小さな炎を点火させたようだった。彼女の表情が一瞬で切り替わり、まるで高性能コンピューターが複雑な計算を始めたかのように、眉間に縦じわが寄った。今回の事件が秋入学にどんな影響を与えるのか、彼女なりの戦略を練り始めているのが手に取るように分かった。

 「香月さんには強がって見せたけど」僕は自分の両腕を見下ろした。木炭化していた頃の記憶が蘇る。あの時の力強さは、もう二度と戻ってこない。「正直なところ、トゲを失った状態での一般入試は茨の道だ。いっそのこと、体が健康になったことだし、学園の用務員にでも応募してみようかな」

 自嘲気味に呟いた僕に、アリマが振り返った。その瞳には、僕が見たことのない光が宿っていた。

 「父」彼女の声に、今までとは違う何かが混じっていた。「実は、お話したいことがあります」

 「私の説明に不備がありました」アリマは椅子の上で膝を抱えたまま、まるで王座に座った小さな審判官のような威厳を放った。「元々歩もうとしていた花道を捨てるなら、トゲの痛みなど些細な問題です。秋には一般生徒向けの特別入学制度があります。父がTGCに復帰して準備を始めても、時間的には十分間に合います」

 彼女の声には、今まで聞いたことのない確信が宿っていた。

 「確かに入学の壁は高い。花言葉診断から個人面談まで、準備すべき項目は山積みです」アリマは一瞬、僕の顔を見上げた。「でも、父なら問題ありません。断言します。父は必ずガーデンズ学園に秋入学できます。私が保証します」

 その言葉の重さに、僕は思わず身を乗り出した。「そこまで自信満々に言う根拠は何だい?」

 アリマは人形のように無表情な顔を僕に向けた。でも、その瞳の奥には、まるで氷の下を流れる川のような静かな熱が潜んでいた。

 「バベルのアゴラに参加した罪人の中で、生還を果たした者は史上初です」
彼女の声は淡々としていたが、その言葉は僕の心臓を鈍器で殴ったような衝撃を与えた。

 「それだけで十分すぎる履歴書になります」

 反論の余地など、どこにもなかった。

 「まぁ、船は出港してしまったからね」僕は運命の波に身を委ねるような気持ちで、残りのサンドイッチを頬張った。「これから、よろしく頼むよ」

 「はい。全力でサポートします」アリマの声には、今までにない温かさが宿っていた。「ガーデンズ学園の入試対策なら、私にお任せください」

 その時、彼女のお腹から小さな抗議の声が聞こえた。おにぎり二つと牛乳では、やはり足りなかったらしい。僕は気づかないふりをして、さりげなく残りのサンドイッチに手を伸ばした。

 「父」アリマが恥ずかしそうに俯いた。「もしお時間があるようでしたら、おにぎりをもう一つ買ってきてもよろしいでしょうか?昨日から何も食べていなくて、まだお腹が空いているんです」

 ついに素直に欲求を口にするようになったか。僕は内心で微笑みながら、千円札を彼女に手渡した。安定した二人暮らしを築くためにも、早めに引越しを考えなければならない。四月は引越しシーズンの真っ只中で動きにくい。梅雨入り前までは静かに同居生活を続けて、もし大家にバレたら家賃を上げての再契約も覚悟しておこう。

 「父、ピザまんが出来上がったようです。一緒に食べませんか?」アリマの声がレジの方から聞こえてきた。「あ、すみません。見間違いでした。チーズカレーまんです。えっと…ピザまんはないんですか?」

 不器用な娘の困惑した声に、僕は思わず席から立ち上がった。一人でコンビニの商品に翻弄されているアリマを見ていると、放っておけない気持ちになった。

 「はいはい、落ち着いて」僕は苦笑いしながらアリマの元へ向かった。「一緒に選んでみようか」

 きっと、これから僕たちは多くの選択を一緒に迷いながら歩んでいくのだろう。コンビニの暖かい光が、僕たちの小さな物語の始まりを優しく照らしていた。

この腕が燃え尽きても、君の家族になりたい

この腕が燃え尽きても、君の家族になりたい

復讐に囚われた十四歳の少年・炭咲。両腕を木炭に変えられ、炎を操る異能を得た彼の前に現れた少女。「パパ」と呼びかける彼女もまた、捨てられた子供だった。炭咲は彼女に「ステラ」(捨てられた子という意味)と名付ける。 製薬会社の重役・各務アリマとの七日間の契約を通じて、三人は束の間の家族となる。しかし、真の絆が芽生えた時、悲劇が彼らを襲う。 血のつながりを超えた家族愛、失うことの痛み、そして再生への希望。現代社会に生きる私たちが抱える孤独感と、人とのつながりの大切さを描いた現代心理小説。 炭を操る能力や神の存在といった幻想的な要素は、登場人物の心理状態を象徴的に表現する装置として機能し、文学的な深みと現代的な感覚を併せ持つ作品です。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • アクション
  • 青年向け
更新日
登録日
2025-07-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第0話 春を呼ぶ少女
  2. 第1話 赤いマフラーと黄色の野花
  3. 第2話 首の皮一枚
  4. 第3話 新吉原と隠花
  5. 第4話 罠と拉致
  6. 第5話 血を流した父子関係
  7. 第6話 七日間の契約家族
  8. 第7話 束の間の幸せ
  9. 第8話 家族喧嘩
  10. 第9話 秘密の向こうにある名前
  11. 第10話 別れの覚悟と、その涙
  12. 第11話 紫紺の牡丹は人を騙かす
  13. 第12話 花は天の階段をそっと歩く
  14. 第13話 この腕が燃え尽きても、君の家族になりたい
  15. 第14話 そして家族になる