前橋汀子の人生(とき)の調べ

前橋汀子の人生(とき)の調べ

 6月22日、ヴァイオリニスト・前橋汀子さんの「アフタヌーン・コンサート Vol.21」をサントリーホールまで拝聴しに出かけた。

 前橋汀子さんの存在は「題名のない音楽会」等の音楽番組や、時折出演される「徹子の部屋」を観ていたこともあり、昔から存じ上げていたが、その実演を聴いたことは一度もなかった。
 クラシック音楽は昔から、NHKが教育テレビで放送していた音楽番組を観ていた影響で大好きだったが、それらの演奏はどこか浮世離れしているところがあって、自分が直に聴けるものではないと思っていた。はっきり言ってしまえば、クラシックの演奏会なんてものはブルジョワのお金持ちのインテリが聴きに行くものだという、諦めにも似た認識が心のどこかにあった。諦めと言ったのは、そういった金持ちでインテリな親を持たなかった我が身のことである。
 親の趣味嗜好は幼い子供にとっては重大問題である。夏など枝豆とビールを両手に、「よし、打て」などと、巨人や阪神の野球中継を観ながらステテコ姿で胡座をかいて、バカみたいに大きな声でテレビに向かって叫んでいるような父親では、インテリもヘチマもあったものではない。とてもじゃないが、クラシック音楽の演奏会になど連れて行ってはもらえないと、子供心に諦めていた。

 そんな環境の中でも、私は大人になった現在まで様々な形で折に触れてクラシック音楽に親しんで来たが、それでもクラシック音楽の演奏会は今まで数える程しか聴きに行ったことはなかった。そういった情報を自分で積極的に探すことをして来なかったことも理由の一つだったが、大好きなピアノ曲は自分もピアノを弾いていた時期があり、解釈や演奏の好き嫌いが激しく、納得のいくピアニストの演奏でなければ演奏会は愚か、テレビですら耳に入れたくないという程の偏食ぶりも手伝って、私がクラシック音楽の演奏会に出かけることはごく稀だった。
 そんな中でも前橋さんは、ベートーヴェンやブラームス、メンデルスゾーンのヴァイオリン・ソナタのような、「これぞ、クラシック」「これぞ、ヴァイオリン」といった、玄人向けの専門的な楽曲だけを演奏するヴァイオリニストではなく、クラシックとは縁遠い人たちを振り向かせるために、ジャンルを超えた演奏活動を展開して来たように思う。その一つがこの、「アフタヌーン・コンサート」である。
 この演奏会は20年程前、サントリーホールで初めて開かれたというが、その当時も前橋さんは、どうしたらクラシック音楽に関心を持っていない人々をコンサート会場に足を向かせ、直にヴァイオリンの演奏を聴いてもらえるか苦心していたそうである。
 かくいう私もピアノ曲は大好きでよく聴いていることは先に書いたが、ことヴァイオリンとなると殆ど無知に近い状態である。
 終戦後、神童と騒がれてアメリカのジュリアート音楽院に留学したが、異国の地でノイローゼになり自殺未遂を図った末、十代半ばで半世紀近く寝たきりで生涯を終えた、前橋さんと同世代の悲劇のヴァイオリニスト・渡辺茂夫の演奏や、諏訪根自子、巌本マリ、辻久子といった往年のヴァイオリニストの歴史的音源を、本当にわずかだが聴いたくらいである。
 そんな私と似たか寄ったかのような人が、どこかで聴いたことのあるようなヴァイオリンの名曲の小品を中心にプログラムを組み、リーズナブルな価格でコンサートを開くということを、前橋さんは企画した。これは、クラシック音楽やヴァイオリンについて専門知識のない人でも、また金銭的な面でも非常にハードルが低く、聴きに行く人が多かったと見え、20年間好評のまま今回の開催に至ったということであろう。

 この日演奏された名曲の小品は次の通りである。

アントニオ・ヴィヴァルディ/ヴァイオリン協奏曲集「四季」作品8 全曲

J.S.バッハ/ シャコンヌ(無伴奏ヴァイオリン・パルティータ 第2番 ニ短調 BWV 1004)

ピエトロ・マスターニ/歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」より間奏曲

アントニン・ドヴォルザーク/わが母の教え給いし歌 スラブ舞曲 作品72-2

ジュール・マスネ/タイスの瞑想曲

カミーユ・サン=サーンス/序奏とロンド・カプリチオーソ 作品28

映画音楽より
ヘンリー・マンシーニ/「ひまわり」 ミシェル・ルグラン/「シェルブールの雨傘」 フランシス・レイ/「ある愛の詩」

アンコール
ヨハネス・ブラームス/ハンガリー舞曲 第5番

三岳章/川の流れのように

 この日私が座った席は、ちょうど舞台の後ろに当たるパイプオルガンの前の2階P席だった。したがって、演奏する前橋さんのご尊顔を拝することは出来なかったが、それでも演奏の素晴らしさが変わることはないと、ちょっとばかり落胆した気持ちを切り替えて、前橋さんのヴァイオリンを堪能出来ることを喜んだ。

 老若男女、国籍を問わずたくさんの聴衆が見守る中、舞台袖から登場した前橋さんは、ざっと拝見した感じだが、上は白いパフスリーブの半袖、下は光沢のある黒い生地に所々キラリと光る裾広がりのロングドレスを着て、頭には黒いリボンをあしらったカチューシャのようなものをしていらした。本当に残念なことに、演奏中の前橋さんの凛とした表情を伺うことの出来ない私は、ピンと伸びた背筋とヴァイオリンの弦を上下左右に走る指先。そして時折、共演者に視線を向けた時に見せる横顔しか拝見することが出来なかったが、きっとテレビで拝見した時のように演奏が始まると、にこやかな笑顔からキリッとした厳しい表情に変わるのだろうと、偉大な後ろ姿を見つめながらあれこれ思いを巡らせていた。

 ヴィヴァルディの「四季」が演奏された時、オーケストラは別として、生まれて初めて私は生のヴァイオリンというもの、ヴァイオリニストの演奏を聴いた。初めて本格的にヴァイオリンの演奏を耳にするなら、ヴァイオリニストは前橋さんでと決めていた私は、大好きなヴィヴァルディの「四季」を前橋さんの演奏で聴けて感無量だった。
 「徹子の部屋」に出演した際、肩を痛めて7ヶ月間療養に専念し、一切ヴァイオリンには触れていなかったので不安だという胸中を吐露されていたが、そんな心配はどこ吹く風とばかりに、共演者であるストリングスメンバーと息の合った素晴らしい演奏を披露した。

 インターミッションを挟んだ後、前橋さんは真っ赤なロングドレスに着替えてステージへと姿を現した。柔らかい生地で仕立てられたドレスなのだろう。全体的に軽く、歩くと肩の辺りから伸びた長い生地が、風に吹かれたように宙に靡いた。そのステージでの前橋さんの所作が非常に優雅で、私は見惚れた。
 照明が落とされ、一人舞台に立つ前橋さんにピンスポットが当てられ、奏でられたのはバッハの「シャコンヌ」。言わずと知れた名曲で、今回演奏される楽曲の中で最も聴きたかった曲の一つであった。
 どうしてバッハはこんな素晴らしい曲を書くことが出来るのだろうと思わずにはいられない曲で、私はクラシック音楽の奥深さというものを改めて、前橋さんの演奏を耳にして感じた。胸をえぐられるような激しさと悲壮感漂うメロディ、毅然とした前橋さんの演奏に心を打たれた。

 マスカーニの「間奏曲」は 一度も聴いたことがない曲だったが、これを人生の最後に聴きたいと私に打ち明けて下さった読者の方がいた。YouTobeでオーケストラ版を見つけて聴いてみようと思ったが、せっかく初めて聴くなら前橋さんのヴァイオリンでと、聴くのをやめてこの日に挑んだ。なぜだか分からなかったが、私の目から涙が濡れた。

 ドヴォルザークの「我が母の教え給いし歌」は、オペラ歌手としてポピュラーな人気を誇りながらも、2019年に惜しまれつつ世を去った佐藤しのぶさんの歌声が、前橋さんが奏でるヴァイオリンと重なり、懐かしくも切なく胸に響いた。
「スラブ舞曲」は聴いて、「あぁ、これがあの曲か!」と思い出した曲だったが、メランコリックなメロディがヴァイオリンと良く合う、素敵な演奏だった。

 マスネの「タイスの瞑想曲」は、厳かな気持ちになり、今こうして生きていること、今まで生きて来たことを振り返り、生きて来て良かったと、こんな素敵な時間を持ててなんて幸せなのだろうと、生きている喜びを感じずにはいられず、種々様々な感情が入り乱れて涙した。

 サン=サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」はロンド・カプリチオーソの部分で、前橋さんの弾く弓がリズミカルに、小刻みに軽やかに跳ねていたのが印象的だった。

 ヘンリー・マンシーニの「ひまわり」は、ソフィア・ローレンの映画はもちろんのこと、若くして世を去った女優の夏目雅子を思い出し、ミシェル・ルグランの「シェルブールの雨傘」は、カトリーヌ・ドヌーブの美しい姿と切ない人生の侘しさを、フランシス・レイの「ある愛の詩」は、若き純愛の貴さを思い、胸を打たれた。

 全てのプログラムを演奏し終え、緊張感から解き放たれた前橋さんの厳しくも凛とした表情が、一転晴れやかな笑顔に変わった。聴衆は前橋さんとストリングスメンバーに盛大な拍手を送った。よく割れるような拍手とか万雷の拍手と言うが、今日の拍手がまさにそれで、本当に割れるような拍手だった。サントリーホールの作りもあるのかもしれないが、こんな凄まじい耳を擘くような拍手を私は今まで聴いたことがない。
 いちばん後ろの席で、誰にも気を遣う必要もなかった私は、立ち上がって前橋さんに拍手を送った。前後左右の観客に深々とにこやかにお辞儀をすると、前橋さんはゆっくりと優雅に歩き出すと、舞台袖に姿を消した。鳴り止むことのない拍手とストリングスメンバーの足踏みに促されて、前橋さんは再びゆっくりと優雅に舞台に姿を現した。鳴りやまない拍手の中、ストリングスメンバーの方と何やら相談して、アンコールに応えて下さった。

 ヨハネス・ブラームスの「ハンガリー舞曲 第5番」は、威厳に満ちた出だしからリズムに乗り、前橋さんのヴァイオリンが伸びのある深い音色を奏でると、気づくと私は体でリズムを取っていた。

 三岳章の「川の流れのように」は前橋さん自身も好きな楽曲だとインタビューで話されていたが、肩の怪我を乗り越え、再びヴァイオリンを弾くことの出来る喜びが伝わって来るような、今現在、前橋さんが満たされた充実した人生を送っている、そんな心模様が垣間見えるような演奏だった。

 アンコールを終えると、前橋さんは再び前後左右の聴衆に深々と頭を下げ、笑顔で手を振り万雷の拍手に応えた。ストリングスメンバーと一人一人握手を交わすと、前橋さんは再び舞台袖に姿を消したが、聴衆の熱烈な拍手は収まらず、三度舞台へ姿を現した。私も三度立ち上がり拍手を送った後、聴衆に微笑む前橋さんに向かって両手を大きく振った。前橋さんが私に気づいて下さったかどうかなんてことは、もうどっちでも良かった。
 こうして、フォーレの「夢のあとに」ではないが、夢のような2時間はあっという間に過ぎてしまった。

 包み隠さず打ち明けると、私は前橋さんのヴァイオリニストとしての素晴らしさを具体的に理解出来ていない。まるで猫に小判のようで前橋さんには申し訳ないのだが、何度も書いているように私はヴァイオリニストやヴァイオリンに関する楽曲に関しては、恥ずかしながら全くの無知である。技術的に優れているとかいないとか、楽曲の解釈がどうだとか、そういった専門的な小難しいことは分からない。私はただのディレッタンティズム(愛好家)であって、専門家ではないからそれで良いと思っている。ただ前橋さんのように、長い間第一線で活躍を続け、年齢を重ねて来た演奏家というものは、前橋さん自身もおっしゃっていたが、その人生や経験、人格といったものが無意識に演奏に現れてしまうものである。中にはそうでない人もいるかもしれないということもおっしゃっていたが、前橋さんは前者のタイプの演奏家だと私は考えている。そうでなければ、ヴァイオリンに対して全く無知の私が、今まで親しんで来ることのなかったヴァイオリンの演奏会へ、プログラムが良いからという理由だけで、わざわざ足を運ぼうなどと思うには至らなかった筈である。演奏者である前橋さんに、そういったものを感じたからに他ならない。

 私がもし、ヴァイオリンの名曲を直に聴きたいと思い、再び足を運ぶのはきっと前橋さんの演奏会であると思う。喜びも悲しみもすべてを抱きしめて、人生(とき) を奏で続けて来た前橋汀子というヴァイオリニストが、私は好きなのである。
 私が前橋さんのヴァイオリンを聴きにコンサート会場へと足を運ぶ理由は、それだけで十分なのではないだろうか。
 いつか、前橋さんにお目にかかれる機会があったら、こんなディレッタンティズム(愛好家)もいるのだと、前橋さんにお伝えしたいと思っている。

前橋汀子の人生(とき)の調べ

2025年6月24日 書き下ろし
2025年6月25日 掲載

前橋汀子の人生(とき)の調べ

初めて聴いたヴァイオリニスト・前橋汀子の演奏は、私の胸を打った。今、生きている喜びを実感させた。夢のように過ぎた「アフタヌーン・コンサート」の模様をお届けします。

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-06-25

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