白堊系の砂岩の斜層理と、深宇宙の残光の座標について

その図書館には、奇妙なうわさがあった。
それは、宇宙ステーション「アテナ」の最下層に広がる、巨大な情報アーカイブのことだ。かつて地球にあったあらゆる知識をデジタル化して保存し、宇宙の片隅で人類の記憶を継承する役割を担っている。だが、一部の古参クルーの間では、「このアーカイブには、本来存在しないはずの『幻の階層』がある」と囁かれていた。
カシオはこのアテナ・アーカイブのデータ司書として働いている。日々の業務は膨大な情報の分類と整理、アクセス障害の修復など。彼の相棒は、AIナビゲーターのカミーユ。普段は冷静で論理的なカミーユだが、最近、彼女のプログラムに奇妙なバグが頻発していた。突如として無意味な数値が画面を埋め尽くしたり、過去に友人キアズマと交わしたチャットが、ノイズ交じりの音声で再生されたり。それはまるで、カシオの内面の混乱を映し出しているようだった。
キアズマの乗った小型探査機が、深宇宙での未知のデブリ群と衝突したのは半年前のこと。彼は宇宙空間に流され、遺体も見つからないまま捜索は打ち切られた。以来、カシオは拭い去れない後悔と罪悪感に日々苛まれている。
キアズマはカシオの唯一の親友だった。地球が荒廃し、宇宙ステーションでの生活が当たり前になった時代でも、二人は古い文学、特に宮沢賢治の詩集に熱中した仲間。キアズマはいつもカシオをリードし、カシオがまだ漠然としか捉えられなかった思考の断片を鮮やかな言葉で明確にしてくれた。
『おれはやっとのことで十階の床ゆかをふんで汗を拭った。そこの天井は途方もなく高かった。』
キアズマは、賢治の『圖書館幻想』の一節を朗読しては、「未来の宇宙で一緒に十階を見つけよう」と笑っていた。なぜ、キアズマがあの詩を何度も読んだのか、カシオは今になってぼんやりとだが理解できるようになった。
きっと、キアズマは予感していたのだ。いずれ、二人の間の溝は決定的なものになることを。その予感に抗い、自分たち二人はずっと同じものを見つめるのだと、キアズマ自身に言い聞かせていたのだろう。
地球の膨大なデジタルアーカイブを掘り起こし、その中に人類の未来を見出そうと誓い合った二人の道がすれ違い始めたのは、研修期間を終えて研究領域が分かれたことがきっかけだった。カシオは地球の地質データや生態系の記録を深掘りし、地球を知ることこそが人類を知ること、その過ちから学ぶことが人類の未来を拓くと固く信じていた。
だが、キアズマは違った。彼は荒廃した地球のデータに未来はないと考え、人類の生存に新たな活路を見出すべく、宇宙の未踏領域の探査や新素材開発、生命の再構築といった、より急進的な研究に没頭していった。
地球への関心を薄れさせていくキアズマに、カシオは失望と苛立ちとともに、彼を引き戻さねばという使命感も覚えていた。同じく賢治の詩を愛したキアズマなら、地球を捨てることなどないはずだ――と。
『白堊系の砂岩の斜層理について。』
宮沢賢治の『圖書館幻想』にあるこの一節についても、かつては二人で熱い議論を交わしたものだった。カシオにとって、人類の起源、そして辿ってきた道を理解するための根源的な問い。地球の遥か古の地層の成り立ち。その一節を、地球における白亜系砂岩地質データと、そのデータに近似した他惑星のデータとともにキアズマに送った。
『君の地球への固執にはうんざりだ。君は過去のデータの中に閉じこもりすぎている。』
キアズマはそんなメッセージを送り返し、一方的に共同研究から離脱した。『白堊系の砂岩の斜層理について』は、キアズマにとってはもはや意味をなさない抽象的な科学議論に過ぎなかったのだ。以来、カシオはキアズマとまともに顔を合わせないまま、彼が、『圖書館幻想』の中のダルゲのように冷ややかに笑う姿を想像した。
他のクルーから伝え聞くキアズマは、普段の態度においては変わらず明るく快活な好青年のようだった。しかし、無謀とも言えるほど頻繁に新たな星系の探索ミッションに志願し続けていた。そして、あの事故が起きた。
『うんざりだ』
彼からの最後の冷たいメッセージが、賢治の詩の中のダルゲの声と、公開された事故映像とともにカシオを蝕み続けている。漆黒の宇宙に突如現れた怪物のような無数のデブリと、その映像に残るクルーたちの雑音混じりの音声。
――回避間に合わない!
――機体損壊! 圧力隔壁、急速な減圧!
――キアズマ! 聞こえるか! 応答しろ!
――……しぞらの……れひつ…………
――キアズマ!
――通信途絶! ……喪失を、確認……。
『脳波に疲労がみられます。カシオ、休息をとってください』
カミーユからの警告メッセージで我に返り、カシオは作業の手を止めた。アーカイブの深部でデータ修復作業に当たっていたのだが、最終シフトのクルーもすでに帰り、ドーム状の巨大なサーバー室にはサーバーの稼働音だけが響いている。
普段なら休憩ポッドに戻るのだが、疲労のせいだろうか、その日はデータ転送用の旧式リフトの前で立ち止まってしまった。ふと見上げると、通常は表示されないはずの「LEVEL 10」という文字が点滅している。
カシオの心臓は跳ね上がり、全身の血が一瞬にして凍りついたようだった。このアーカイブはレベル9まで。キアズマが夢見ていた「十階」は、ここには存在しない。
「……まさか、そんなはずが」
カシオは吸い寄せられるようにリフトに乗り込み、恐る恐る「LEVEL 10」のボタンに指を触れた。ボタンは吸い込まれるように奥へ沈み込み、リフトは重々しい駆動音を立てて上昇し始める。
普段とは違う異常な加速だった。まるで、アテナ・ステーションの構造を突き破ってどこまでも上昇するように。
G負荷で視界が歪み、平衡感覚が狂いそうになった。やがて、ゴン、という鈍い衝撃と共にリフトは停止する。ハッチがゆっくりと開き、目の前に広がっていたのは、まさに賢治の詩で読んだ通りの光景だ。
『天井は途方もなく高かった。全體その天井や壁が灰色の陰影だけで出來てゐるのか、つめたい漆喰で固めあげられてゐるのかわからなかった。
(さうだ。この巨きな室にダルゲが居るんだ。今度こそ會へるんだ。)とおれは考へて一寸胸のどこかが熱くなったか熔けたかのやうな氣がした。』
カシオの頭の中では、キアズマの声でその一節が再生される。まだ、二人の間に熱があった、あの頃の声で。
高い天井、どこまでも続く灰色の空間。照明はほとんどなく、薄暗い中に無限のデータサーバー群がそびえ立っていた。空気はひどく冷たく、回路が焦げ付くような電子臭。
カシオの足音が、不気味なほど大きくその空間に響き渡った。サーバーラックには見たこともない古びたデータディスクがぎっしりと並び、ラベルには読めないコードや、奇妙なシンボルが記されている。ディスクを一枚手に取って再生しようとしたが、データは破損し、意味をなさないノイズばかりだった。しかし、カシオの目はある一点に釘付けになった。
サーバーラックの奥、システムエラーを示す赤色灯が瞬く場所に人影がある。
「ダルゲ……」
カシオは思わず呟いたが、その影が自分の知る人物だとすぐに気づいた。
それはキアズマだった。彼はカシオに背を向け、巨大なメインモニターをじっと眺めている。腰には、薄いデータケーブルのようなものが巻き付いていて、微かに光を反射していた。
夢の中にいるような気分で、カシオはゆっくりと彼に近づいた。キアズマは動かない。ただ、モニターに映し出された未知の宇宙空間を見つめている。そこには、無数のデータ残光が、くしゃくしゃに縮れた銀色の雲のように奇妙な光を放っていた。
「キアズマ」
カシオが声をかけると、彼はゆっくりと振り返った。その顔はカシオが知っているキアズマよりもずっと歳を取り、濁った瞳から感情を読み取ることができないが、しかし、その口元は冷やかに笑っていた。
いや、笑っているのだろうか。笑っているのなら、それはカシオに対する嘲笑か、キアズマ自身への自嘲か。それとも――。
「おまえも来たのか」
キアズマの声はひどく冷たく、凍りついた空気がキシキシと震えるようだった。まるで彼だけが極寒の宇宙にいるように。
「キアズマ、……どうしてこんなことに。なぜ、あんなに無謀な探索をしたんだ?
地球に固執する僕に、キアズマの考えが正しかったと見せつけるため?
そんなことのために……」
「そんなこと? それは、お互いさまじゃないか」
カシオは言葉を探したが、キアズマはカシオの言葉を遮るように、ダルゲのような『冷たいすきとほった声』で歌い始めた。その声はデジタルノイズが混じり、棘のようにカシオの心を抉っていく。
『西ぞらの
ちぢれ羊から
おれの崇敬は照り返され』
キアズマは頭上の円窓越しに宇宙を見上げ、「照り返され」と消え入るようにもう一度口にする。
カシオはこの場にいることに耐えがたい苦痛を覚えた。キアズマの歌声はまるで鏡のようだったから。
カシオが彼に抱いていたすべての感情――尊敬、憧れ、嫉妬、劣等感、そして決別による痛み、後悔、罪悪感。地球に固執するカシオも、結局は孤独な存在であるという、キアズマからの冷徹な宣告だった。同時にそれは、キアズマ自身が辿り着いた果てのない孤独。
カシオはしばらく立ち尽くしていたが、突然足元の床が崩れ始め、サーバーラックが軋み、データディスクが雪崩のように落ちてきた。キアズマに手を伸ばしたが彼は一歩も動かず、ただ静かに、しかしどこか温かいものを宿した笑みを浮かべていた。そこに、賢治の詩を通して二人で見た熱が、わずかだけれど灯っているように感じられ、カシオはたまらず叫んだ。
「白堊系の砂岩の斜層理について!」
崩れ落ちる十階の中で、キアズマは無言のまま微笑んでいる。それは、カシオがこれまで想像していたダルゲのような冷たい笑みではなく、肯定を湛えた表情。カシオへの嘲笑でも、キアズマ自身への自嘲でもなく、互いの背後に確かに存在する、異なる熱への激励――。
「カシオ。おれはおれの、君は君の――」
その声が聞こえたのを最後に、カシオは暗闇の中へと落ちていった。
ふと気づくと、カシオは自分のデスクで突っ伏していた。時計は午前二時。モニターの画面には、開かれたままの宮沢賢治の詩集のデジタルデータが表示されている。
「……夢?」
カミーユのメッセージ履歴を確認しようとした時、カシオは手の中に一枚の古びたディスクがあるのに気づいた。焦げ付いた電子回路のような、嫌な匂いに心臓がどくんと音を立てる。
奥底にしまい込まれたディスクドライブを引っ張り出して確認してみると、データはほぼ破損していたが、その中で数行だけ読み取れるテキストデータがあった。
『十字路にてわかれ、一人踏みしめた十階の床は冷たかった。天の海にただようおれは、カシオペヤを探している。』
「……キアズマ」
カシオは、このアテナ・アーカイブのどこかに本当に「LEVEL 10」が存在する可能性について考えた。そこに、未だ行方不明となっているキアズマがいる可能性について。頼りのカミーユは『解析できませんでした』と言い、事故調査本部へディスクを提出することも考えたが、結局カシオはそうしなかった。
彼はそのテキストデータの最後に、自らの言葉を書き加える。
『おれは空の向ふにある氷河の棒をおもってゐた。この巨きな宙にただよう北斗十字を探しながら。』
エンターキーを押すと、画面は窓の外に広がる宇宙のように真っ暗になったが、カシオが落胆することはなかった。むしろ、ほんの少しだが鬱々としていた胸が軽くなったように思えた。
見上げた天井の円窓には漆黒の宇宙。星は、ちらちらとモールス信号のように点滅している。
白堊系の砂岩の斜層理と、深宇宙の残光の座標について
本作は生成AI(Gemini)との共作です。Geminiとの対話及びGemini原文はnoteに掲載しています。
なお、冒頭文はpixiv主催の「日本SF作家クラブの小さな小説コンテスト2025」の共通書き出し文ですが、コンテスト応募作ではありません。