百合の君(62)

百合の君(62)

 天妄元年三月、浪親(なみちか)は内裏に参上した。この世のものではないような、得も言われぬ香りが漂い、遠く微かに笛の音が聞こえる。ひれ伏した浪親の目の前にある石でさえ、白く玉のように輝いている。
 気配が、帝のおでましを告げた。笛も止んだ。浪親は唾を飲んだ。
出海(いずみ)浪親、面を上げよ」
 刀を背骨にしたような気持ちで、正面を向く。同時に、浪親は公卿たちの息を飲む声を聞いた。彼らには絶対にない顔の傷が、浪親の決意と自信とを無言のうちに伝えていた。
 関白、脈祖手先咲(みゃくそでさきざき)は思わず目をそらし、浪親の衣に目をとめた。その視線の移動は、浪親の意図した通りだった。清道の染めた、掛軸と同じ意匠の狩衣は、見る者に時と場所を忘れさせる。遥か神代から人はこの海と空に囲まれて生き、そしてまだ見ぬ平らかな世の民もまた、このような海と空に生きるのだろう。
 関白は、浪親の視線から逃れた先に太平の世を見、同時に田舎者の野卑な自己顕示をも感じ取った。
 一方、勝利に満足している浪親は、それには気づかない。
「先の戦、大儀であった」
 帝の言葉に、別所来沓(べっしょくるとう)との必死の一騎打ち、燃える湖畔の城下町、長美千尋(ながみちひろ)村での母親の呪詛、それらの光景が次々と思い出され、もう少しだ、と思った。もう少しで、すべてが報われる。猫が鼠を殺してしまう前の世界に、もうすぐ戻る。私が戻す。
「戦のない世という浪親の願い、朕もまた同じように感じている。頼もしく思うぞ」
 感激のあまり、返事が一瞬遅れた。帝もまた、同じ理想を持っておられる。私の理想は、すべての人の願いなのだ。「ははーっ」と腹の底から応じると、浪親は己の意志を噛みしめるように頭を下げた。

 関白は、新しい征夷大将軍の後ろ姿を見て、その自信が、あの狩衣の空のようにむなしくなるのではないかという予感がした。
「お上、あそこまでおっしゃって良かったのでしょうか。出海が思い上がって、かえって戦火を広げることになるのではないか、先咲は案じております」
 人の自信も不安もそしらぬ顔で、鳥が鳴き交わしている。やや間があって、帝がお答えになる。
「人というものは自分が正しいと思った時には既に道を誤っているくせに、自分が正しいと思わねば何事も成すことができぬという厄介な生き物。朕は、臣民の背中を押してやるだけよ」
 帝の祖先である神ならば、きっと同じことを仰るであろうと思い、関白はまた深く頭を下げた。神は、人の歴史が始まってからずっと、そのあらゆる過ちをただ受け入れ、悔やむ者を許して来た。それは無力であると同時に、限りなく偉大であるが、将軍がそれを知るのはおそらく失敗した後であろうと思うと、その「厄介な生き物」である人間が歯がゆかった。怪我をしたことのない子供に、人を殴ってはいけないと教えたところで、理解されるものではないのだ。
 子供たちの駆けまわる声が聞こえ、ふと庭に目をやった。桜が零れんばかりに咲き、蝶が飛び交っている。都は春盛りだった。

百合の君(62)

百合の君(62)

あらすじ:別所に勝利した出海浪親は、将軍宣下を受けるため、上洛しました。妻への疑いや同盟相手への憎悪はいったん忘れ、勝ち取った勝利に自信を深めた様子ですが・・・。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-06-21

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