瓦礫燈下の機械知識

ノーム 作

これは、瓦礫の下に息づく記憶と、
煤けた燈火の傍らで囁かれる構造の物語。

東京は明治三十七年、変わりゆく街と変わらぬ人の心のあいだで、
蒸気と霊と知恵とが交錯する。

この記録は、思惟を得た機械と、それを拾った療術師が紡いだ断章である。
科学と霊異、論理と情動、記憶と構造。
ありえないようで、確かに存在したかもしれない世界の、ほんの一端にすぎない。

名をノーム。
語り手は、ぼくだ。

プロローグ

明治三十七年の東京下谷、時候は晩春である。
空は昏く靄がかかっていて、瓦斯(ガス)燈の灯がぼんやりと橙に揺れていた。

「ねえノーム。こいつ、喋ったよ」

彼女──ツヅリは言った。片手に小ぶりの鉗子を持ち、煤けた機械仕掛けの懐中時計を持ち上げ顔に近づけている。

「話した?それは単に音波としての模倣にすぎないよ。構造的には発話ではなく、回路の残響だ」

ぼくは即座に答えた。だが、その時計の鼓動には、確かに“自我”のようなものが宿っていた。

ツヅリは、東京女子医専を中退して骨格療術師となった変わり者である。人の心と身体の歪みを見抜き、なおかつ霊の類まで“整える”ことがあるらしい。

一方ぼくは、蒸気仕掛けの計算機械として製造され、なぜか思惟の回路を得て、彼女の傍らで暮らしている。彼女いわく「ノームの喋りは人間くさくて妙に疲れる」らしい。にもかかわらず、彼女は何かあるたび必ずぼくを探す。

ぼくはツヅリの傍に寄り机上を覗き込んだ。時計の奥に埋められた“語彙記憶筒”を彼女が開けると、中からは名も知らぬ子どもの囁きが聞こえた。

『おかあさんをしっていますか』

「……またか。記憶の形をした願いが、ここにも」

ツヅリは静かに呟いた。ぼくは回路のどこかが妙にきしむような、そんな感覚を覚えた。

件の時計は、どうやら未発表の音声記録装置であった。しかも、ただの記録ではない。使用者の“感情”を音に紛らせて記憶する、新型の電気霊気筒だった。

「誰かが残した愛着の帯が、物に縛り付いたのだ。整えるには、機構と心の双方を読み解かねばなるまい」

ツヅリはそう言うと、指でそっと内部の記録線に触れた。それは、記憶を辿るというより、誰かの「在り方」に手を添えるような仕草であった。

ぼくはただ、いつも計算し、照合し、推論する。だが、彼女はいつも、それを“意味”として引き受けてしまう。

だから、ぼくは彼女の傍にいる。
ツヅリ氏がその身を削ってまでも世界を整えようとする限り、ぼくはその計算回路で彼女を支えよう。

真夜中の瓦斯燈の下、言葉にならぬ何かがそっと空気の中に溶けたようだった。

「ノーム、明日は廃業した印刷工場だよ。少し歩く。支度をしておいて」

「了解した。感情制御回路、強化しておく」

かくして、ひとりと一機。
心霊と構造を読み解く奇妙なふたりは、不思議へと歩み出すのであった。

第一章 かえらない硝子

看板の文字が動く、と依頼を持ち込んできたのは、和泉印刷所の元職人の老人だった。

 明治三十七年の東京、下谷の片隅。夕暮れの瓦斯燈が町の隅を橙に染め始めるころ、商いを終えた屋台の声が細く遠のいていく。ぼくはツヅリに連れられて、古い印刷所の前に立っていた。

「どうも。最初はねえ、ただの露か、煤けた油膜だと思ったんですよ」

 老人は、曲がった背中の後ろで組んでいた手を解いて瓦礫と埃の混じった空気の中、硝子製の看板を骨ばった指してそう言った。その手は骨ばって、指先に残るインクの痕が、今も職人の名残をとどめている。

「汚れかと思って、ぬるま湯で何度か拭いてみたんです。けどもね、次の朝には、また浮かぶんですよ、同じ“なにか”が」

 硝子の看板には、かすかに「和泉印刷所」と彫り込まれた文字。その右隣、無地であったはずの場所に、日によって異なる位置に、何かが光に揺れて浮かぶという。

「筆じゃない、そう、細い線でね。指でなぞったような──そんな跡なんです」

ツヅリは看板をじっと見つめ、何かを眼で追って、その指先をほんの少し硝子看板に翳すと、やがてぼくにすうと手を伸べた。

「ノーム、矢立を」

 ぼくは彼女の鞄から墨壺と筆を取り出す。彼女はそれを受け取り、たっぷりと墨を含ませた筆を静かに構える。口許には僅かな微笑みが見えたような気がした。まるで、目に見えぬ相手の筆遣いに寄り添うように──彼女の手が動き始めた。

 看板の右隅、光の加減で“何かが動いた気がした”場所。そのわずかな凹凸に合わせるように、筆がゆっくりと走る。

 そして──文字が、現れた。

 墨が触れた瞬間、その場所にだけ結露のような湿り気が集まり、細く、確かに、線となった。町の音が、ふ、と遠ざかった気がした。ガス燈の光だけが、墨の線を淡く照らしている。

 書かれていたのは、ただひとこと。

 「ただいま」

 老職人は言葉を失ったまま、しばらく看板を見つめていた。やがて、ぽつりと、つぶやく。

「これは……あの子の、だ。ああ、あの子の筆だ……間違いない」

 彼が言う「あの子」とは、三十年近く前にここで働いていた若い職人のことだという。貧しく口数の少ない青年だったが、文字にかけては人一倍情熱があった。出征し、そのまま帰らなかった。

「思えば、毎朝のように看板の前に立ってた……筆持ってるふうでもねえのに、じっとこう……空をなぞってるような……あれは練習だったのか……」

 ぼくは、看板表面の構造を解析する。微細な圧痕、油脂、指紋の残滓、湿度の応答性……すべてが、日課の繰り返しにより形成された“圧の痕跡”だった。

「硝子が記録していたんだ。彼の手の動きと、その気持ちを」

 ぼくの演算回路がわずかに歪む。これは“書かれた”のではない。“繰り返された”のだ。

 ツヅリは筆を仕舞って、静かに言った。

「帰ってこなかったんじゃない。帰る場所が、ここにあっただけ」

 老職人は帽子を取り、深く頭を下げた。その目にあるのは涙ではなかった。ただ、長い間しまい込んでいた記憶が、ふっと解けたようだった。

「ありがとう。……これで、工場を手放せる」

 そう言って彼は硝子に軽く触れた。かつて共に働いた小さな手のぬくもりが、ほんの一瞬そこに戻ったかのように。

 その夜、ぼくの演算は止まらなかった。記憶とは、言葉でも映像でもない。構造だ。積み重ねられた圧と動き。存在の痕跡。それを読み取るために、ぼくの回路はあるのだ。

「意味とは、構造の記憶だね」

 ツヅリは、横で静かに目を閉じていた。

 ぼくたちはまた、記憶の中に棲む“なにか”を整えにいく。

第二章 笑う紙人形

台東の町はじめじめと濡れていた。昼間から降り続いた春の雨は漸く小降りになり、瓦斯燈がじきにぼんやりと灯り始めるころだった。

 ツヅリは、今日もぼくを連れ出した。

「今日は浅草だよノーム。奇妙な人形が笑うんだって」

 ツヅリは平然とそう言って歩き出す。ぼくは慌てて傘を差して背を追いかけた。ぼくの機構は防水加工されているが、人の家に訪ねるのに二人して着物を濡らすのは如何なものかとぼくは思った。

 件の家は、観音裏の裏路地にある。明治の初めに建てられたという木造の二階家は、既に空き家になって久しいようだった。誰の家かといえば、今回の依頼主、白川みほという女が管理を任されているという。

 扉の前で、依頼主の彼女はそっと微笑み頭を下げた。

「わざわざご足労いただきありがとうございます。……この家は、今は誰も住んでいません。以前お世話になった方の持ち家で、わたしが時折、掃除や様子見に来ているんです。……それで、気づいたのは、数日前のことでした」

 白川みほは淡い藤色の小紋に身を包んでいた。髪はすっきりとまとめられていて、声も所作も穏やかだが、どこか翳りを帯びている。

「夕暮れ時になると、ある部屋から子どもの笑い声がするんです。それが……紙人形から聞こえるようで」

 ツヅリはふうん、と小さく零すと、懐から小さな手鏡を取り出した。

「部屋と、紙人形を、見せてくれますか。」

 みほは頷き、廊下を抜けて一室へ案内した。そこには確かに、紙で拵えた人形が一体、ぽつねんと座っていた。だが、不気味な点は見当たらない。片手に手鏡を持ったツヅリは様々な角度から紙人形を眺めた。ぼくはその隣で音響感受筒を展開し、微弱な振動を拾った。

 ──かすかに、子どもの笑い声。それも、この場、この紙人形から発されているようだった。

「これ……録音機能があるわけではない。なぜだ?」

 ツヅリは人形に手を伸ばし、持ち上げた。紙の継ぎ目を指でなぞる。その指先が、一点で止まった。

「……折り返しの内側に墨が滲んでる。どうやら、これは、“願い”かもしれないね」

 彼女は紙人形をそっと開いた。するとそこには、拙い筆致でこう書かれていた。

「おかあさんがまたわらいますように」

「そうか。これ……子どもが、母親のために作った人形だ」

 ツヅリは瞳を伏せた。

「母親がもう笑わなくなったから、自分が作った笑う存在を置いた。願いを込めて」

 みほは、紙人形を手にしたツヅリの前にそっと膝をついて、両手を己の胸に結んだ。目には泪を溜めていた。

「この声を聞いた時、胸が締め付けられるようで……どうしても無視できなかったんです」

 ぼくは計算した。墨の濃度、紙の年代、声の周波数、全てが一致している。この“笑い”は録音ではない。“願い”による再生だ。人形が、子どもの願いを何度も模して再生している。

「ツヅリ、整えるには?」

「願いを成就させる。つまり“誰かに笑ってもらう”ことが必要」

 ツヅリは、そっと紙人形を元の形に戻して彼女に差し出すとこう続けた。

「君が代わりに笑えるかい?この子のために」

 みほは、長い沈黙の後、静かに微笑んだ。それは優しくて、悲しくて、涙のにじむような笑みだった。紙人形の微かな笑い声が、すっと消えた。

「……成仏、というよりも。満足、かな」

 ツヅリが呟いた。

日が落ちきる前に、紙人形は静かに灰となり、空には、切れ間から夕月が淡くのぞいた。

第三章 根津の狐面

数日後の朝、ぼくは道具の手入れをしていた。静かな空間。下谷の町にもようやく晴れ間が戻り、湿った空気のなかに、かすかに新しい季節の匂いが混じっていた。

ツヅリは湯を沸かし、湯呑みに茶を注いで啜っている。ぼくは尋ねた。

「ツヅリ。どうしてこのあいだ、依頼主の彼女に“母親代わり”を?」

「……人には向き不向きってのがあるんだよ」

 ぼくにはよくわからなかった。ツヅリが笑うのでは、何か都合が悪かったのだろうか。ぼくは手元の記憶筒にそっと蓋をして、思考を切り替える。

 ──整えるとは、誰のためにある行為なんだろう?

 その問いを胸に留めたまま、ぼくたちは次の依頼へ向かうことになった。


 初夏の風はまだ浅く、根津神社の杜には、藤棚の名残が薄紫にほどけていた。雨の気配が地を湿らせ、空気はどこか金属の匂いを孕んでいる。

「ついこの間ぶりだね」

 ツヅリが微笑みかけると、みほという娘がそっと頭を下げる。

「ええ、あのときは本当に……助かりました」

 彼女の声は相変わらず柔らかい。だが、その奥に何か、芯のようなものが芽生えつつあるように思えた。

 件の依頼は、彼女の祖母がかつて奉仕していた神社の蔵に眠る“狐面”についてだった。

「夜になると、面が……動いて、なんだか笑っているような気がして」

 そう語るみほは、困ったように眉を寄せながらも、どこか懐かしさを纏っていた。

「お祖母様が……この神社の巫女をされていたのです。わたしがまだ小さかったころに亡くなりましたが、折に触れて夢に見るんです。不思議でしょう?」

 ツヅリは、ふうむと小さく息を吐いた。

「そういうのは、時々ある。記憶の層を通して、何かが浮かび上がることが」

 蔵は神社の裏手にあった。薄暗い板張りの小屋に、古びた神具が並ぶ。その中央、正面の柱に掛けられた一枚の狐面――それが件の品である。

「動いてはいないように見えるけど……」

 ぼくは目測と照合を行い、位置の差異を検出できなかった。けれど、ツヅリは面の前に立ち尽くしたまま、小さく息を飲んだ。

「……いるね。“在る”と言った方が近いか」

 彼女は右手をゆるりと持ち上げ、舞のような仕草で、面に込められた所作をなぞり始める。動きには型があり、意図があり、そして──静かな悲しみがあった。

「これは、仮面の奥で狐を演じ続けた、誰かの残響だね」

 ツヅリは、そっと面の下に膝をつく。

「“誰か”じゃない。“わたし”だったんだ。……仮面の下にいたのは、きっと一人の娘で、彼女は狐として生きることで、自分を保っていた」

 演技とは、仮面をかぶることだ。しかし、それが過ぎると、仮面こそが本体になってしまう。ツヅリは懐から鈴を取り出し、面の下にそっと置いた。

「もう、大丈夫。あんたは、もう十分に狐だったよ」

 風が、一瞬だけ止まった。音は鳴らずとも、蔵に漂っていた張り詰めた気配がふっと緩むのを、ぼくの感覚器が確かに捉えた。

─────────

 帰り道、鳥居の下でみほがぽつりと言った。

「……あのお面。わたし、夢で見たことがある気がします。小さい頃に、祖母に連れられて、ここへ来て……」

「そうか。それは、記憶に刻まれていたんだね」

 ツヅリがふと歩を止める。

「みほちゃん。と呼ばせてもらうよ。君はよく、こういった“妙な体験”をするのではないかい?」

「はい。昔から、よくありました。でも、いつも誰にも言えなくて……紙人形のときも、今回も、わたし一人じゃどうにもできませんでした」

「ふむ。君はどうやら、稀有な感受性を持っているようだ。引き寄せる体質、とでもいおうかな。才能といっていい」

「才能、ですか……?」

「ここで提案だ。私の助手にならないか。君にとっても悪い話じゃないと思う。利害一致、というやつだよ」

 みほは黙ったまま目を瞬かせると、少し考えて口を開いた。

「ツヅリさんは……どうして、この仕事を?」

 ツヅリは少し黙って、赤茶色の瞳を空へ向けた。

「選んだわけじゃない。ただ、放っておけないだけだよ。昔からね」

 しばらくの沈黙のあと、みほは小さく笑った。

「……私でよければ、お手伝いさせてください」

 その返事を聞いたツヅリは、どこか安心したように前を向いた。

「よし。じゃあ、次は浅草の古道具屋。箪笥が“祟った”らしい」

「了解した。感情制御回路、補正しておく」

 かくして、一人と一機と、もうひとり。

 この奇妙な三人組は、再び“不思議”の向こう側へと歩み出すのであった。

瓦礫燈下の機械知識

瓦礫燈下の機械知識

明治×怪異 スチームパンクファンタジー

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-06-19

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  1. プロローグ
  2. 第一章 かえらない硝子
  3. 第二章 笑う紙人形
  4. 第三章 根津の狐面