
ついのすみか Ⅶ
61 ならないために
ハジカミさんは勉強した。切磋琢磨して勉強していい学校に入った。立派な人と結婚して立派な息子を育てた。
息子は結婚し、旦那様を看取り……月日は流れた。
そして赤ちゃんに戻った。タチの悪い赤ちゃんに。
世話が焼ける。排泄物の量は多いし、ヨチヨチ歩いては転ぶ。
そうならないために、なにかできなかったの?
イチイさんの部屋には脳トレの本がたくさんあった。娘に迷惑かけまいと、気に入らない施設に入れられても我慢した。嫌いな人(コデマリさん)がいるから、とリビングで皆と過ごさなくなった。
そして、10歳も年上の嫌いな人より先に逝ってしまった。
ストレスと平穏とどちらがいいのか?
ストレスで血圧は上がるけど、平穏で会話はなくなり認知が進む。
人生の秋から冬。
青春:少年から青年期。10代から30歳くらいまで。
朱夏:青春より少し成長した成年期。30代前半から50代前半まで。
白秋:より年齢を重ねた時期。50代から60代前半まで。
玄冬:人生の終盤。60代後半以降。
冬がいちばん長い。
もう冬か……
切磋琢磨しなければ。
必死に勉強したように。子育てしたように。
それ以上に努力しなければならない。
生まれてきて長い人生の最終目標は、
認知症にならないこと!
それが大事。それがいちばん。それがすべて!
もう、そのために生きなければならない!
便を漏らしたハジカミさん。
「赤ちゃんが産まれる〜 産婦人科の先生呼んで〜」
と、暴れたとか。
きれいにしてもらっている間、怒っていた。
「あんたのせいよ。あんたがちゃんと仕事しないから……でくのぼうばかり」
誰かを犯罪者にしないために。
周りに迷惑をかけないように。
どうすれば?
人生の冬。
もう、料理するのは旦那さまのためではない。自分のためだ。料理は認知症予防にいいのだから。
ウォーキング、投稿も認知症予防のため。あ、ピアノもいいらしい。また再開しよう。挫折してる場合ではない。
ボケないために弾くのだ。ボケないために歩き生きる。
人生の最大の最後の目標、課題は認知症にならないこと!!
全力で取り組まなければならない。
✳︎
認知症のリスクが高い人には、生活習慣や性格、病歴、遺伝的要素など様々な要因が関わっています。
具体的には、食生活の乱れ、運動不足、過度の飲酒・喫煙、睡眠不足、糖尿病や高血圧などの生活習慣病、怒りっぽい性格、他人を頼らない傾向、脳をあまり使わない仕事、遺伝的にアルツハイマー病のリスクがある場合などが挙げられます。(AIによる概要)
よかった。どれも当てはまらない。
リスクが高い持病がありながら、毎日酒を飲み、歩くのも嫌がる夫。
年金で特養には入れるだろうが、かなり待つだろう。入ったら私の生活は厳しくなる。自分の年金だけでは厳しいどころではない。半分がマンションの管理費、修繕費。
働き続けなければ。死ぬ前の日まで働かなければ。
それは幸せなことかも?
夫が亡くなれば私も遺族年金で特養に入れるだろうか? 特養は介護度3以上。
入れても入りたくない。
茶はぬるいし、内緒だけど……
若い職員は急須に蓋をしないの。蒸らさないとおいしくないのに。蓋をしなければ洗わなくて済むから。工程を省く。
それでなくても施設の茶葉はおいしくない。おいしい茶の入れ方の紙が貼ってあるが、どうやってもおいしくない。
自費で買う紅茶はティーバックだし。コーヒーはインスタント。
茶が人生の楽しみなのに。
イチイさんも言っていた。
「ジャンピングした紅茶が飲みたい」
と。
そんな施設があるとしたら、月々いくらかかるのだろう?
ナースコールを押したらいつでもすぐに来てくれる施設は?
無理だ。無理。特養の施設への支払いだけで精一杯。嗜好品は買えません。
皆は10時に豪華なおやつ。最近の入居者さんの家族はすごい。高級チョコに⚪︎屋の羊羹。1年前とは大違い。1年前は冷蔵庫もガラガラだった。
子どもたちは生活に必死でばあさんの嗜好品まで買えないから、私は施設の麦茶だけ……
そういう方もいるのです。預かり金の残高がない……買い物を頼まれても言いにくい。しっかりした方だから辛いです。
ナースコールを何度も鳴らすツバキさん。
誰かが転倒しようが、救急車が来て大変だろうがおかまいなし。
わからないわけではないだろうに。
高学歴の方だ。
若いのに。私より若いのに。
新人が、胃が痛いって言ってますよ。
入居を待つお年寄りは山ほどいるけど、介護する人は貴重なのですよ。
だから都から住宅手当が付いたという。
親元から通ってる若い女性にも支給されている。パートの人たちにも支給されている。
私は103万円以下だからナシ。
賞与ナシ。
勤続手当ナシ。(いちばん長くオープン当初からからいるけど)
健康診断ナシ。
ナシでもいいです。
働ければ。
62 お題から
他サイトのお題で投稿した掌編です。
【マンサクさん】
仮名マンサクさん。
紳士だった。この方からヒントをいただき小説を書いたくらい。
クラシック音楽が好きで、映画のDVDがたくさんあって、話が合った。
脚本家になりたがってて、物知りだった。石川達三が好きだって。娘に全部捨てられたと怒っていた。
石川達三なんて、私は読んだことがない。第1回芥川賞受賞。Wikipedia読んだら興味深い。
初めてお風呂に入れたときは、贅肉なんてついてなくて、スポーツやってたの? と聞いたわね。
でも、だんだん居室に閉じこもり偏屈で怒りっぽくなった。
太ったね。動かないから。
洗濯物をしまいに行ったら、引き出しに季語辞典があった。細かい字でびっくり。
「すごいね、俳句作ってたの?」
「作ってないよ」
今は無気力で何を言っても否定的。
それでも私が適当に読むと聞いていた。
はさんである名刺には覚えがないと。
「お孫さんの名刺じゃないの?」
たぶん初めて作った名刺だろうに、もう孫の名さえ、
「なんだっけかな?」
テレビの音量は100になってる。よくかけているのが『必殺仕事人』
「中山麻理知ってる? 亡くなったよ。サインはVの。きれいな人。三田村邦彦の奥さんだった」
反応した。マンサクさんと同じくらいの歳だね。
「渋谷陽一も亡くなったよ。私よく聞いてたんだ。知ってる? ロックは聴かなかった? ダダンダダダ〜ン」
「運命か?」
「違うよ。運命はダダダダ〜ン」
「ヘタクソだな」
「マンサクさん、カラヤンがクラシック以外で認めた曲が2つあります。
ひとつは『君が代』。世界の国歌の中で、もっとも荘厳な曲だって。もう1曲はなんでしょう?」
「知らねえよ」
「じゃ〜ん、レッド・ツェッペリンの『天国への階段』でした。興味ないか。
うるさくてごめんなさい。お邪魔しました」
『お題』 覚えがない名刺
【日常】
お年寄りは寒がりだ。
夏でもひざ掛け、カーディガン。
カリンさんなんて頭からショールを被って出てきたからびっくり。
リビングの温度は27度。それでも寒いから切って、と言われる。
「温度、上げましたから」とウソをつく。
私は一年中半袖のユニフォーム。
シーツ交換に入ると、エアコンが切ってある部屋がある。
昨年は電気代が高騰してるから、節約してください、なんてお達しがあったので我慢したけど、今年は無理。
最低賃金で命落としたくない。
部屋のエアコンを付けると熱風が。暖房になっている。そんな部屋もよくある。さすがに18度設定にはお目にかからないが。
夜になると帰宅願望。
「帰りたいの。今日帰れるかしら?」
「今日は台風だから危険です」
「でも、すぐそこなのよ。歩いて行けるわ」
「強風で飛ばされてしまいますよ。ハジカミさん、か弱いから」
「あら、そう?」
「ハジカミさん、高校どこでしたっけ?」
「A校よ」
「優秀だったんですねえ」
不毛の会話が繰り返される。
「帰りたいのよ。帰れるかしら?」
以前いた職員なら、
「帰んなっ!」
と怒鳴っていた。
「帰んなっ! 帰っていいよっ!」
言ってみたい。
辞めて行ったあの人は、今はどこでどうしているのやら?
そこへタラノキさんがやって来る。掛け布団を持って。枕を大判のバスタオルにくるんで肩にかけてサンタクロースみたいに。
タラノキさんは姉と同じ歳。まだ、70代。
キッチンにもスタッフルームにもよその居室にも入ってしまう。
「タラノキさん、出身はどこ?」
「オレ、会津だ」
女なのに『オレ』と言う。
「会津といえば白虎隊。
もう少しぃ、時がぁ、ゆるぅやかであったなぁらぁ〜」
パチパチパチ。
「おねえさん、うまいねえ」
『お題』 「冷房」「18度」「強風」
63 言わないで
言ってはいけないが言ってしまった。サカキさんの今……
職員がコソッと言った。
「もう、人間じゃないよね」
「前からですよね」
キッチンでの私との会話。
蔑んでいるわけではない。病気だとわかっている。病気のこともわかっている。
「あー! ハヨ持ってこぉい! はやくしろぉ!」
聞き取れない大声でテーブルを叩く。周りの人がうるさがる。だからたまに、隣のユニットに連れて行ったりする。
ビニールのエプロンをかじる。滑り止めのマットをかじる。スプーンを持たせても口まで届かない。エプロンに落ちる。手づかみで食べる。そして食事介助。食べるのは早い。ソフト食を完食。
陰部に手を入れ、便を舐めた……
夜勤さん、拭くのは大変だろう。
カリンさんはベッドの柵に塗りたくったことがあった。
「ミトンしたいですね。私の母親ならミトンします」
職員さんが言った。よくわからないが、ミトンをするのは虐待らしい。
サカキさんの家族は面会に来なくなった。服や靴は季節の変わり目に送って来る。だからきれいな服がタンスにしまいきれないくらいある。持って帰ってほしいが、捨ててくれ、と言われたそうだ。
家族も見たくはないだろう。
壊れた母を。
手を出せば腕をつねられる。力だけは強い。
最近入ってきたタラノキさん。
若い。姉と同じ歳だ。70代前半。
なのに、面会に来た娘さんのことさえわからない。
「なんにもわからないですから」
初めて来た長女さん。
父親もショートステイにいるが母親のほうが認知が進んでいる。
春に亡くなったネムノキさんはご主人がしっかりしていた。よく面会に来たそうだが、妻が亡くなるとあとを追うように逝ってしまったのだと。
カリンさんのご主人もよく面会に来ていたが、妻より先に死ねない、と言っていたが相当なお年だったのだろう。コロナ禍で亡くなった。
「タラノキさんは謙虚ですから」
なんとか良いことを言ってあげたい。
「そうですかあ?」
ユニットでいちばん大変なんですが……
タラノキサンは接客業だった。(理容師)
ショートカットで髪形はいつも羨ましいくらい決まっている。
見た目はきちんとした奥さん。歩ける。食事は常食。
手持ち無沙汰で素手でテーブルを拭いている。洗面所をシャツの裾で掃除している。キッチンペーパーを排水溝に詰め込む。
かがんで床をこすっている。テーブルの足までこすっている。
キッチンにも、スタッフルームにも入ってきてしまう。他の入居者の部屋にも入ってしまう。
マンサクさん(男性)の部屋で肩を揉んでいた。マンサクさんも怒らないで揉ませていた。
他の女性は嫌がって、自室の鍵をかける。タラノキさんの部屋の鍵をかけるのは虐待になるのだ。
私より若いツバキさんも謙虚だ。きちんと挨拶をしてくれる。私がいる短時間の間に「すみません。ありがとうございます」を何度も言う。
コデマリさんもそうだ。ありがとう、が口癖になっている。それはもう、ありがたみがない。
謙虚そうだがふたりともわがままだ。若い職員は態度や言葉に出してしまう。
ツバキさんは博識だ。リビングのテレビの真ん前の席なので、ニュースに詳しい。いろいろ教えてくれる。事故や事件、災害、トランプさんがどうのこうの……
半身が不自由だが認知はない。もう、ひとり暮らしは無理だから入居したのだろう。お子さんはひとり。同居はできない。
お金はどうなっているのか気になってしまう。自分の年金か遺族年金?
家賃や介護費用のほかに、身の回り品、おやつ等は職員が買いに行く。今のユニットは皆オヤツが豪華だ。少し前までは冷蔵庫は空っぽだった。皆チョコレート菓子や和菓子、飲み物も〇〇○コーヒーのカフェ・オレとか。家族からの差し入れも多い。
そんな中でツバキさんはおやつがない。コーヒーも切れている。お金がない。家族からの入金がない。
化粧品やおやつ代、子どもが出すのかわからないが、うちの息子だとしても、自分の生活で精一杯。月に5千円でも大変だと思う。
知っているのか知らないのか、いろいろ要求する。
でも高いんです。それは。
ストイックだったポプラさんは亡くなった。
紳士だった。それこそ誰よりも謙虚だった。それが最近の職員には信じられないようだっが。
若い女性職員にはわがままになった。孫より若い子にキンキン注意されるのがプライドを傷つけたのか? 人を見て態度が変わる。まるで赤ちゃんのようにウーウーうなり、手がつけられなくなった。
持病のせいか目の焦点が合わなくなり、耳も聞こえないようだった。
そして夢を見た。
夢と現実の区別つかなくなり、ひと騒動。
「人を殺してしまった。もう生きてはいられない」
と、トイレでタオルで首を吊ろうとしたとか。
それからは見守り強化。
電話口で奥さんは泣いていた。
精神科往診が決まり数日し、ポプラさんは朝起きてこなかった。午後に熱発し搬送されすぐに亡くなったと。
…………
奥様には伝えたい。紳士だったと。
私が会った男性の中であんなに謙虚で努力家の方はいなかった、と。
ついのすみか Ⅶ