守護天使
かのタイタニック号ではないが、氷山に衝突してあっという間に船は沈み、気がつくと俺は一人ぼっちだった。
甲板に出ていた俺だけはとっさに氷山に飛び移ることができたが、同僚たちは間に合わず、船と運命を共にしたのだ。
もはや船の影すらない波間を見回し、幸運に感謝しても、空気は肺を切るように冷たく、氷山は白く巨大で、無人の野球場のように広がっている。
その尖った中央部は、アルプスのように高い。
「おや、あれは何だろう?」
氷上の雪だまりに足跡を見つけた時、俺はぞっとした。
「何かの動物だな」
犬や狐にしては大きく、熊にしては小さい。
だが考える必要はなく、俺はすぐに正体を目撃することになった。
全身が真っ白な狼とは、俺も初めて目にした。
立ち上がれば俺よりも背が高いだろう。
尾はエリ巻きのようにふさふさしているが、俺に向け、クギのように尖った牙を見せたのだ。
もちろん俺は逃げ出したが、武器一つ持たぬ身だ。
氷の急斜面を駆け上るのが精いっぱい。
息も絶え絶えに頂上にたどり着いたが、ここでまた別のものが俺を迎えてくれた。
ガラスのように透き通った氷の内部に何かが閉じ込められているのだ。
それがなんと飛行機なのだ。
一機がまるまる氷中に封じ込められている。分厚い氷だから、もちろん手を触れることはできない。
それゆえに保存は完璧で、以前の姿をそのままに見ることができた。
かつてバルハラ航空の飛行機には、女神バルキリーのイラストが大きく描かれていたことをご存知だろうか。
その髪は金色に輝き、手には長い剣を持つ。
瞳は北極の空にふさわしいブルーだが、視線は俺をまっすぐに突き刺すかのようだ。
機体いっぱいに描かれた、身長何メートルという美しい姿なのだ。
だが俺には、感慨にふける余裕などもちろんなかった。すでに狼は背後に迫っている。
身を守る方法はない。
しかしその時、ある声が俺の鼓膜を打った。
拡声器を通して割れた声だが、これほど人を安心させる声を俺は聞いたことがない。
「その場に伏せろ。弾に当たるな」
もちろん俺は従った。氷の上に腹ばいだ。
その俺のすぐ上を、2発の弾丸が通り過ぎていった。
ダン、ダンという音に狼が身をひるがえらせたが一瞬遅い。
一発が命中し、俺が恐る恐る顔を上げたときには、すでに狼は事切れていた。
海上に汽笛が響いたので、俺は手を振った。
氷山に沿って、海軍の船が姿を見せていたのだ。
地味な灰色に塗られ、さして大型ではないが、その姿がいかに心強かったか。
狙撃銃を構えていた水兵が、甲板から体を起こすのが見えた。
すぐに俺は救助されたが、艇長の話では、沈没の直前に俺の同僚が放ったSOSを受信したとのこと。
この日の出来事に関しては、俺は幾人もに感謝しなくてはならない。
好奇心に駆られ、やがて水兵たちも氷山に乗り移ってきた。
俺たちの足元には、狼が身を横たえている。
物問いたげに艇長が見つめるので、俺は提案した。
「獣なりに命をかけて守ろうとしたんです。ずっと彼女のそばにいさせてやろうじゃありませんか」
狼も今は目を閉じ、穏やかな顔つきをしている。
狼が人間の女に恋をするものか、俺にはわからない。
だがこの出来事は、そうとしか解釈できないではないか。
氷原で狼は彼女を見つけ、その守護者たろうと決めたのだろう。
氷が割れて陸から切り離され、海上を漂い始めても、そばを離れることはなかったのだ。
そこへ現れた俺の姿も、狼の目には迫害者と写った。
全力を尽くし、彼女を守ろうとしただけなのだ。
俺たちは狼を、女神のすぐそばに横たえてやった。
そばから見上げると、氷中にたたずむバルキリーは光を発し、とてもこの世の者とは思えない。
水兵たちですらため息をつくのを俺は聞き逃さなかった。
そのまま俺は安全に帰国することができたが、氷山と狼はどうなったのだろう。
おそらくはあのまま南へと流され、氷山は溶け、次第に小さくなっただろう。
その途中、何かの拍子に氷が割れ、女神と狼は海へ落ちただろう。
今ではどちらも海底に眠っているはずだ。
願わくば、彼らが互いに遠からぬ場所に横たわっていますことを。
守護天使