20250612
2025年、6月12日の朝、X(旧Twitter)を開いてまず真っ先に飛びこんできた、ブライアン・ウィルソンの訃報だった。
享年82歳。半年ほど前の、パートナーのメリンダ・ウィルソンの訃報、認知機能の低下等のニュースは把握していた。カントリーミュージックのアルバムを出すよって聞いてたけど難しいかもしれないな、でもいいや、生きててくれるだけでいいやって思っていた。彼が、生きて存在している一人の人間であることを知った時からずっとそう思ってた。
どこから話そうか。
あの頃、私は若くて貧乏だった。
貧乏で、人づきあいが悪くて、ついでに顔色も悪くて、長身コンプレックスから姿勢も悪くて、喋ることが苦手で、でも他人から好かれたい気持ちはあって、でもでもやっぱりそんなの無理で、なんとなくこの世から消えてしまいたかった。恋人も友だちもいなかった。
お金がなさすぎて、暇つぶしのコンテンツはほぼすべて図書館で仕入れていた。映画は深夜帯のテレビ放映だ。そして岡山市の図書館はありがたいことに、本の貸し出し冊数は無制限! 音楽や朗読、落語などのCDもあった。
あの頃。山のように本を借りて読んだ。たくさんのCDを借りて聞いた。テレビは小さなブラウン管で、小さなMDラジカセを持っていた。図書館のCDのぼろぼろになった歌詞カードを目で追いながらたくさんの歌を聞いた。個々のアーティストのアルバムは聞きたくなくて、知らないたくさんの歌を知りたかった。目についた洋楽のオムニバスのCDをいっぱい借りて聴いた。
そしてオールディーズ(洋楽懐メロ)沼にいつのまにかはまりこんでいた。
予約せずに借りられる、図書館に置いてある音楽CDってのは、だいたいが懐メロなのだということには気づいていなかった。
今ならスマホでささっと検索できるが、当時のことであるから、個々の楽曲やアーティストの背景などなにも知らずに聴きまくった。歌謡曲っぽいじめじめ湿気た歌はあんまり好きじゃなくて、黒いブーツでぶっとばせとか、ダ・ドゥ・ロン・ロン、夢見るビートルズ、起きろよスージー、しびれさせたのはだれ、カラ・ミーア、そんな軽くてポップでノリのいい曲が好きになった。(今これ書きながら思ったけど、この頃の曲のタイトルの邦訳すごいよね)
最初はそれらが50年代後半から60年代前半の懐メロ曲だということにもあんまり気づいていなかった。なにしろ歌詞カードがあればまだ良くて、ライナーノートや解説なんかあるほうが珍しかったのだ。
それで、それらの中にビーチボーイズの歌があった。
確か、ドント・ウォリー・ベイビーとドゥ・ユ・ワナ・ダンスだったと思う。
ああ、あれとこれ、同じ人たちなんだな、コーラス?ハーモニー、これ好きだ、いつまでだって聴いていられる、ガールズ・オン・ザ・ビーチ、これも同じ人たちだ、10人くらいでやってんのかな、すごいな。
初めて、自分自身で見つけた、まともな、綺麗なものだと思った。サーフミュージックというジャンルは知らなかったし、それらの曲がいつ発表されたのかということにも当初はあまり興味がなかった。
ただバラバラのタイミングで現れた点が、心の中で線になった。なんだか好きだな、は、もっとずっと聴いてたい、になって、今ここにあるだけじゃぜんぜん足りないってなって。
やりくりしてCDを買った。今はもうない岡山駅前のタワレコだ。とにかくタワレコに行けばどうにかなると思った。実際どうにかなった。予備知識は限りないゼロのまま、オリジナルっぽいアルバムとベスト盤をそれぞれ何枚か見つけた。
ここは悩むまでもなくベスト盤の一択だ。棚の中のオリジナルアルバムはどれを買えばいいのかわからなかった。だって同じアルバムが国内版と輸入版と紙ジャケと2in1で出てるんだもん。あと正直あんまりお金がなくて失敗できなかった。
グレイテストヒッツ1962-1965という真っ赤なジャケットのベスト盤が初めて買ったビーチボーイズのCDだ。(緑色の1966-1969と、青色の1970-1986も後から買った)、彼らのことや曲のことを知りたかったからライナーノートのつく国内版がよくて、他のアルバムと同じくらいの値段で30曲ほど入っててもう最高。総集編ぽいタイトルも良い!
そうこうするうちに(ガラケー全盛期である)どうにか情報を収集するすべを覚えていった。その頃のビーチボーイズ関連のWEBサイトやコミュニティはPCサイトがほとんどだったから、プロキシを通して覗いていた。当時はSNSはブログと掲示板がメインだったと思う。
今ならば『推し』という言葉でくくられる感情。けれども推しという言葉には、この人たちの活動を後押ししたい、布教したいという意思を感じる。まず推し対象に推す余地があること(世間の認知度が高くない等)、存在を広めるためのSNSなり現実なりでの人間関係が必要なのだが、ビーチボーイズのコミュニティはすでにたくさんの情報を持っている古強者たちの集まりで(リアルタイム世代も多かった)新参者は覗き見るのが精一杯。そして現実世界では前述の通り、私はかなり人間関係がダメなタイプだった。
だからずっと一人で聴いてた。耳の中を彼らの歌でいっぱいにするのは喜びだった。何気なく読んだ小説や流し見してたテレビに不意に彼らの音楽が出るとウワァってなった。
個々の思い出を掘り起こすと長くなりすぎる。
それで……、そんな中で、ブライアン・ウィルソンがソロ活動を続けていることを知ったんだった。
ふしぎだった。当時の私にとって、彼らがメインで活動していた時代(60年代)は生まれてもない遠い過去だった。とてもきれいな白黒写真だ。切り取られてる。さわれない。もう亡くなった作家が書いた小説みたいにそこで終わってる世界。
でも違った。あの時代は断絶された遠い過去ではなく、現在の私と地続きにつながっているのだ。実際に、まだ生きて活動が続いてるのだ。
幸運なことに、ビーチボーイズは数年ごとにリバイバルの波があった。ブライアンは2000年代に入ってからとても精力的にソロ活動をしてくれた。ビーチボーイズ名義でのニューアルバムなんてものまで聴けた。
うずもれていた古い音源ではなくて、新曲!
新曲、ニューアルバム!それらをリアルタイムで聴ける!
切り離された遠い過去の人じゃない。いま彼は生きてこの世に確かに存在している。私は間にあったんだ!同じ時代に存在できてるんだ!
私はといえば、彼と彼らの音楽を好きになって、10年が経ち、20年が経ち、その間にうっかり結婚をして娘を授かった。夫になった人はまぁそこそこの変人だが、玉置浩二の歌を心から愛しているようで、聴きながらグッときて涙ぐんでいるのを2度ほど目撃したことがある。ブライアンの新しいアルバムとかの情報が出ると、まだちゃんと生きててくれてるんだ、がんばってくれてるんだって嬉しくなるんだよって言うと、えらくしみじみと『わかる……!』とつぶやいていた。
気持ちはだんだん『新しいアルバム出してくれるだけでありがてぇ』から『もう生きててくれるだけでいいや……』ってなってきた。なにしろ私よりもだいぶん年上の人、いつか私は彼の訃報を耳にするだろう。その間に私は個人サイトからmixiを経て、Twitter民になっていた(陽ではなく陰なのでインスタやFBは無理)、とにかく情報は速い。心のどこかにずっと、いつか来るこの日のことがあった。
なんとなく気恥ずかしくて夫にも話していないが、昔、夢を見た。夢の中で私は小さな女の子で、ピアノの前にはブライアンが座っていた。いつの時代の彼かはわからないし顔も見えない。ただ小さな女の子の私になにかを歌ってくれた。私のためだけに。それだけの夢だ。
まだ娘が2歳かそこらのころ、彼女を抱っこして湯船に漬かっていると、いつか見たその夢のことをよく思い出した。いつか私が死ぬ時に幸福な思い出をなにか一つ持っていけるなら、あの温かなお風呂の中で裸で子どもを抱いて、うとうとと幸福な夢を思い返していたあの時間を連れていきたい。
2025年、6月12日。ショックとか衝撃とかは特にない。ずっとこの日は、いつか来る日だったから。ただこれを書いている今もじんわりと寂しい。あの小さな部屋で、たった一人、胸のうちをいっぱいに彼の音楽で満たしていたあの日々が、どうやらしまらない話ではあるけれど、私の過ごした青春時代だったらしい。
おやすみなさい、ブライアン。どうぞ安らかにおやすみください。たくさんの幸福な感情をありがとう。おやすみなさい。どうぞ安らかに。
20250612