
フリーズ207 往復書簡Ⅰ『永遠と記憶』
それは永遠のような記憶だっだ。私が目覚めた時、頬を涙が伝った。知らない天井が目に入る。ここは病院か。そうか、私は死にかけたんだった。
目覚めによって降りしきる記憶の断片が、思考を加速させる。だが、全身の感覚はなく、身体と頭の感覚の乖離が全身を粟立たせた。
瞼を閉じる。その刹那、覚えのない情景が、まるで既知の記憶のように脳裏をかすめた。それは、他人の人生を見ているように感じられた、しかし、確かに記憶として自身の内に存在していた。
再び目覚める。空気中に舞う埃の一つひとつを認識できるほど脳は冴えていたが、記憶の正体については、全く見当もつかなかった。
異様なほどに白い壁。とベッド。奇妙にも青白く光る窓。木目色で強調された扉。必要以上に物がない部屋。この無機を感じさせる閑散とした空間にただ一人、横たわる。
残された選択肢は思考のみか。今、自分に残されたものを知る術はない。ただただ、時間が過ぎるのを待つのか。その時間さえ、今の自分は持っているのか、そもそも存在するのか。もはや、このままもう一度寝てしまおうか。その次、また目覚めることができるのか。まず、私は生きているのか。誰なのだろうか。
生の実感の欠如は、まるで自身に生きる意味を与えず、ただ漠然とした絶望を与えるのみだった。
記憶によって投影された映像は、永遠と流れ続けている。この中に"今"の自分に関連するものは、なぜか一つもない。身じろぎさえできない今、唯一で最大の手がかりは、この記憶だというのに。
意識が飛ぶ気配はなく、流れているのかもわからぬ時間を過ぎるのを待つその瞬間、ある一人の人間を記憶の内で捉えた。拍動が大きくなる。胸の中が風吹いたようにざわざわと揺れ動く。ただ、人間であるということしかわからない。名前、顔、性別その全てが不明である。しかし、親近感以上のものを確実に感じていた。
ーーあれは、誰なんだ。
次の瞬間、部屋の扉が静かに音を立てた。
部屋の扉が開いたのだ。永遠を閉じ込めたこの四角い部屋が、病的なまでに白い部屋が、外界と繋がりを持った。その刹那、扉が開くと、白衣を纏った女性が部屋に入ってきて言う。
「体調は如何ですか? 佐藤さん」
私は戸惑った。佐藤?
それが私の名前か?
いや、違う。
それは産まれてから付けられた名前だ。
佐藤光。さとうひかる。根源的な永遠なる個我と結びついた記憶による名前の発露には到底及ばない。その名を私は思い出せないでいた。
「あなたは?」
「私は主治医の秋山です」
「私は何かの病気なのですか」
「はい。魂の病気ですよ」
「そうですか……。なんていう病名ですか?」
「病名はまだ決まってないの。慎重に見極めなくてはならないから。でも、君の魂は壊れる寸前だった。あと少し発見が遅れていたら、きっと全てが崩壊していた」
その崩壊こそ、美しかったのに。私は記憶の残滓に淀む、否、晴れ渡る全知全能の記憶を想起していた。全てが、精神が壊れ果て、私が私ではなくなって、世界は終末を秘密裏に迎える。その永遠なる時間の狭間で、私は高らかに歌い、生命に歓喜し、生まれてきた喜びに総身を震わせた。
全知全能の良識は私を神にも等しくした。それが涅槃、仏になることだった。その光景が美しすぎて忘れられない。むしろその記憶だけが残っていた。永遠なる3日間を、その完全なる物語を、遂に私は思い出した。
私は誰?
始まりはいつ?
終わりは来るの?
何のために僕ら生まれたの?
何をしたら僕は喜ぶ?
どこから来たの?
帰る場所ある?
僕らは何処へと向かうのか
生きる理由
死んでいく意味
自問自答、そして、起死回生
私が私であること。その根拠を私は忘れてしまった。あるのは前世の神に等しくなった記憶。だが、神に至った末、私は自殺した。否、天上楽園の乙女に会うために、昂る魂で、大空へと飛び立ったのだ。結果、マンションの屋上から落下し、死んだ。そんな前世の記憶を、私は思い出していた。
「崩壊寸前で、あなたのお父さんが救急車を呼んでね、それで注射して無理やり眠らせたの。そうしないと、疲弊の果てに脳が、魂が完全に壊れてしまうから」
「そうですか」
あのまま終わっていたら良かったのに。私は前世の記憶と同じことをした。それが結果的に魂を崩壊へと導いた。
「私は自分のこと、何も思い出せないんです。お父さんがいることも、今知りました。
「無理もないでしょう。あなたのその病気は、単なる病ではない」
「……秋山さん」
主治医の秋山という女性に対して、なぜだか、“先生”という単語を使うことは憚られた。今、目の前にいるこの女性が、自分にとって善となるか、悪となるか。今の鋭い思考をもってしてもジャッジすることはできない。
話してしまおうか。今まで私が歩んできた、数奇を逸した尋常ならざる前世までの記憶を。それによって何が起こるのだろうか。秋山という一人の人間は、私を理解するに相応しいのだろうか。
「——私を名前で呼ぶのね、先生と言わずに。前にも一人、そうやって呼ぶ子がいたっけ」
「……」
微笑を顔に張り付け、その場の空気感とはまるで異なる態度を見せた秋山に、私は一定の嫌悪を覚えた。これは衝動か、願望か、思考か。感情を支配しているのか、されているのか。自分の中に、自身を操るもう一人の自分がいるような気がした。
「まあ、いいけど」
「秋山さん」
秋山が言い切る前に、重ねるように云った。
「あなたは、どこまで知っているのですか。この病、魂の病気のことを」
「それは……あなたの病気が何なのか、まだわかっていないからはっきりとしたことは言えないけれど——」
「ちがう! まだ、そういう態度をとるのですか。医者としてのあなたではなく、研究者としてのあなたは、この魂の病をどこまで見たのですか」
「―—本当に知りたいの。後悔するわよ。一応、警告はしたからね」
この一人の女に何ができるというのだろうか。あの永遠なる三日を過ごしたこの私の前で、何ができるというのか。
前世までの記憶。それは、森羅万象をも元とする私が持つ記憶の集合である。それを病気によってでも持ち続けている限り、何者にもこの、私? 自身として自覚するこの生命体を、引きずることはできない。
それに加え、佐藤光。その名で受けた今世の生は、今だに、とどまることを知らず、加速度的に膨張し続けている。そしてそれに気がついているものは、いない。もう遅い。手遅れだ。この思考の流れに乗った今、私は何度として繰り返してきた、“過ち”と世間で云われる正義の執行を、行うしかない。
「私は、絶対あなたは聞かないほうがいいと思うけど。それでも本当にいいのね」
「はい。もう落ちることはないです。落ち切ったあとですから」
昇り切ったの間違いか。もはや私には、上下などという人間におけるコモンセンスはない。これは人間には到底理解できぬ事であろう。面白い。わからない物を創りだす研究者がこの私という人間には理解できぬ“わからない”という存在にどこまで対応できるのか。
終着点は一つでなくてはならない。
「それじゃあ、一から話そうか。あなたはね、死んでいるのよ」
「えっ」
私は予想外の言葉に驚きの声を隠せないでいた。
「魂が体から離れる病気。あなたはここに来た時、ほとんど死んだ様なものだったの」
「違う! 私は生きている!」
「それは注射が間に合ったから」
「なら、あの至福はなんだ? 永遠と終末の狭間で、楽園に続く門が開いたんだ」
「誇大妄想よ。精神や魂の病ではよくあることなの」
「そんなはず……ないのに……」
「あなたは病気なの。病気のせいで気が変になっただけ。今のあなたは正常でしょう?」
「はい、そうですね」
やはり、この医者には分かるまい。あの冬の日の永遠も、求めた愛も交わしたキスも。全て幻想だったとでもいうのか? もしそうなら、私の生きる意味なんてないのに。
「ご飯は食べて、薬は飲んで、夜は寝て。しっかり休養してください」
「はい……わかりました」
口ではそう答えた。だが、内心は燃える火のようだった。この医者、今ボロを出した。食べること、薬を飲むこと、寝ること。私はその全てを否定する。
それからはご飯は食べた振り。部屋にあるトイレに流した。薬は看護師の前で飲まなくてはならない。舌の下に隠して、やり過ごす。すぐさま部屋に戻って、ゴミ箱に薬を吐く。そして、夜は眠らずに明かした。そして、一週間が経ち、空腹と断眠の末に、私はまたあの冬の日の全知全能に至る。
この病院に来た時に着ていた服を着て、深夜3時にナースステーションに向かう。
「今から楽園に行きます。飛行機の時間があるので、チェックアウトを」
「佐藤さん。今は寝る時間ですよ」
「飛行機に乗らなきゃ行けないんです!」
「わかりました。ついてきてください」
看護師は私を何も無い部屋に連れてきた。そして、入ってきた扉を閉める。ここは、牢獄のような場所だった。鉄の扉は叩いてもビクともしない。
「裏切ったなっぁぁぁあああー!」
私は扉を蹴る。すると、扉がまた開いた。看護師は水の入ったコップと薬を持っている。
「これを飲んでください」
「嫌だ! 私はもう戻りたくない! 輪廻に、人間に!」
「とにかく、これを飲んでください。戻れなくなる!」
「なんで……」
私は諦めて薬を飲んだ。すると、幾夜も眠らずに超えた、その眠気がドッとやってきた。その眠りは今までで一番深く、心地いいものだった。
記憶の残滓に淀む水面
そこに映る知らない顔があった
ここはどこなの?
「精神の果て、記憶の一番深いところさ」
あなたは誰なの?
「わからない。けど、君のことは知ってるよ」
教えて、私のこと、本当のね。
「君は、ーー私だ」
え。それは、どういう。あなたと私では、まるで姿が違うではないか。
「そうかい。自分自身をよくみてごらんよ」
なにを。そんな戯言はよしにして、早く本当のことをーー。
「違う。外ではない。内だ。内を見るんだ」
内。
「そうだ。内だ」
私は目を瞑る。瞼を通る血管に、深紅の血が流れる。それらは"虚"の風景を写し出す。
何も見えない。
「あきらめるのかい。私は構わないけれども」
内を見るとは、どういうことなの。私はすでに自分のことを理解し尽くしているつもりだ。今さら自分の内を見る必要など、ないように思うが。
「ふん。そうか。じゃあ一つ、ヒントをやろう。私が言う、自分の内を見るとは、感情や思考に寄り添うものではない。もちろん、自分の心臓を見るわけでもない。それは、自分という一人の人間を、受け入れることだよ」
自分を、受け入れる。
「そう。正直になるんだ」
正直に。
「そうさ。嘘はダメとみんな教わるだろう。ああ、でも誰に一番嘘をついてはならないと思う。家族? 友人? どれも違う。それは他の誰でもない。"自分"だよ」
そう言うと、その人物はゆっくりと私に近づき、両手を肩に置いた。
「よく頑張ったね」
一言だけそう言った。
ああ、ーーそうか。そうなのか。私という存在は。私という人間は、こうも嘘つきだったのか。どっからどう見ても目の前にいるあなたは、私ではないかーー。
※
私は泣いていた。静かに、音もなく涙が頬を伝う感覚すら、懐かしく愛おしいものだった。目の前にいる「私」は、もう消えていた。代わりに、自分自身の胸の奥に、何かが宿った。それは温かく、そして確かだった。
私は目を開いた。
そこは、最初にいた部屋のベッドの上だった。部屋の色が変わっていた。あれほど無機質だった壁が、うっすらと色を帯びている。
ーーああ、そうか。そうか、私か。
当たり前を当たり前に感じられることに歓喜した。そんなことを思ってさらにあたりを見回してみると一つ、気に留まった。木目の扉がわずかに開いていたのだ。
そこには、人がいた。
「誰?」
私は問いかける。扉の向こうには少女が立っていた。
「あなた、越えたのね」
「越えた?」
「ええ。確率の丘を越えたのね」
私は扉の元まで向かった。茶髪ボブヘアの少女は私の方をじっと見ている。その顔はあどけない。年齢は15くらいか。
「君、名前は?」
「ユノ。神代由乃。あなたは光だよね」
「なんで私の名前を知ってるの?」
「部屋の入り口に書いてあるから」
「そう。それより何の用ですか?」
「エデンの園配置を迎えたあなたを祝福しに来たの」
そう言うと少女は拍手し始めた。私は理由がわからなくなって聞き返す。
「エデンの園配置?」
「そう。確率の丘の先、ゼロの先、そこに貴方は至ったの。今ね。要は自分を乗り越えたのよ。死があなたに与えた試練を乗り越えたのよ」
「そうか……。君も知っていたのか。いいや、繋がっていたのか」
少女は部屋に入ってくると、私に近づいてくる。そして私の眼の前に立って、次の刹那、彼女は私に口づけをした。
「女神の祝福よ」
「女神……君は何者なんだ?」
「ラカン・フリーズを知る者。あなたも知ったでしょう? 自分を、本当の、ね」
「全ての答えは内にある。それを知った。でも、ラカン・フリーズなんか――」
その時、思い出した。私が目覚めて泣いた理由を。それは遠い記憶、だけど確かに内にある記憶。それは根源的な生への執着と死への発露。死の諸相は永遠にも陰って映り、凪いだ渚に映った、今の今まで私が忘れていたいたその顔のように微笑む。永遠は空色をしていたっけ。
ラカン・フリーズ。それは私たちが求める究極の解。神のレゾンデートルに繋がるその概念は真理を悟った人のためにある言葉。ラカンとは阿羅漢のこと、フリーズとは時流はないと悟ること。そう。時流は無いんだ。それに気づいた私は泣いた。由乃と名乗った少女も泣いていた。
「どうして君が泣く?」
「嬉しいからよ。だって、あなたは私が生まれてきた意味。私はあなたが生まれてきた意味。お互いが意味を求めて輪廻を何度も経て、歩いて、出逢ったの。だから運命なの」
「運命の人か。それは違うな」
「えっ?」
「運命の人は何人もいる。だからこれは運命とは言わない。これは時を超えた約束だ」
私は安堵し笑った。
由乃もつられて微笑んだ。
その時は永遠のようだった。
これは永遠の記憶。
永遠を知る者よ、永遠に眠れ。
きっとそれが安らかな死だから。
往復書簡Ⅰ『永遠と記憶』Fin
フリーズ207 往復書簡Ⅰ『永遠と記憶』