別れる日


 どんな深い山中にも、年の暮れはやってくる。
 同僚たちはすでにみな下山し、事務所に人影はなかった。
 日が暮れる前には俺もここを離れるのだが、思いがけない声が耳に届いたのはその時だった。

「お願いだから、まだ山を降りないで」

 振り返るとそこに少女がいて、俺を見つめている。
 年は10歳ぐらい。赤いチェック模様のコートと、明るい茶色のブーツという姿。

「おや、君はどこから来たんだい?」

「雪の穴にタイヤが落ちて、バスが動けないの。進むことも戻ることもできない」

「峠越えの道を通るバスかい?」

「乗客の中に、もうすぐ双子の女の子を産む妊婦さんがいる。一秒でも早く病院へ送り届けないと」

「しかし…」

「早くしないと、双子が生まれてしまう。このままだと車内で分娩するしかなくて、雪を溶かしてお湯にして、みんなで用意を始めているわ。お医者さんもいないのに」

「そのバスはどこにいるんだい?」

「峠の頂上あたりよ」

 少女にはここにとどまるように強く言い聞かせ、俺は工事用重機のエンジンをかけるしかなかった。
 足の遅い重機ではあるが、他にやりようがない。俺はアクセルを踏み込んだ。
 だがこの後、詳しく話すべきことは何もない。
 雪に覆われた高い橋や真っ暗なトンネルなど、少女一人でどうやって通り抜けたのだろうとは思ったが、雪道の運転には集中力が必要だ。
 俺も考え事ばかりはできなかった。
 バスはすぐに見つかった。
 2台の車体をロープで連結し、バスを雪の中から引き出すのは簡単な仕事だった。バスは自力で下山していった。
 だがあの少女については、奇妙なことがある。

「救援を求める使いなど出していない」

 と運転手は言うのだ。
 首をかしげながら俺は事務所に戻ったが、そこでもう一度首をかしげなくてはならなかった。
 あの少女がいた痕跡など、カケラもなかったのだ。
 電灯がつき、暖房も強められている。
 だがそれ以外には何もない。ましてや少女の姿などない……。

 以上が俺の物語だ。
 もちろん俺は、車中の妊婦と知り合いではない。
 だがどういう運命の悪戯か、後年、ある会合で偶然知り合った。
 事件後、10年という時間がたっていた。
 彼女はいかにも母親ぶりが板についており、その席で、雪中のバス立ち往生の体験談がたまたま披露され、年甲斐もなく、自分が重機を運転していたのだと俺は名乗り出た。

「そういえば、あの時妊娠なさっていたのは双子でしたね?」

「そうです。妹は丈夫に生まれ、元気に育ってくれました」

「妹さん?」

「双子の姉は助かりませんでした。死産でしたの」

「…それは存じませんでした」

「一卵性双生児でしたから、もしも生きていたら、妹とそっくりな顔立ちだったでしょうに、残念でなりません。ただなんとなく感じるのですが…」

「なんでしょう?」

「妹の命を助けるために、姉は自ら犠牲になったのではないかという気が…、そんな気がするのです。妹のそばを離れ、あの子は一人で天国へ行ってしまいました」

「お姉さん? 双子のうちのお一人がですか?」

「奇妙に聞こえるのはわかります。まだ生まれてもいない胎児の霊に何ができるのか、まったく理屈に合わないですものね」

 そう言って母親は、生き残ったという妹を俺に紹介したのだ。今では10歳の少女だ。
 その顔を見たとたん、母親の言葉は真実だと俺は信じることができた。

「ああ、これはまぎれもなく一卵性の双子だな…」

 と俺はつぶやいた。

別れる日

別れる日

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-05-15

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