別れる日
どんな深い山中にも、暮れと正月はやってくる。
俺はダム工事現場の主任だったが、同僚たちはすでにみな下山し、事務所に人影はなかった。
日が暮れる前に俺もジープを駆り、ここを離れる。
そのあと一週間、ここは完全な無人になるのだが、思いがけない声が耳に届いたのは、その時だった。
「お願いだから、まだ山を降りないで」
振り返るとジープの隣に少女がいて、俺を見つめているではないか。
年は10歳ぐらい。
赤いチェック模様のコートと、明るい茶色のブーツという姿。
「おや、君はどこから来たんだい?」
「雪の穴にタイヤが落ちて、バスが動けないの。進むことも戻ることもできない」
「それって峠道を通るバスかい?」
「乗客の中に、もうすぐ双子の女の子を産む妊婦さんがいる。一秒でも早く病院へ送り届けないと」
「しかし…」
「早くしないと、双子が生まれてしまう。このままだと車内で分娩するしかなくて、雪を溶かしてお湯にして、みんなで用意を始めているわ。お医者さんもいないのに」
「そのバスはどこにいるんだい?」
「峠の頂上あたりよ」
事務所の暖房を強め、少女にはここにとどまるようにと強く言い、俺はブルドーザーのエンジンをかけるしかなかった。
峠の頂上といえば5キロも先だし、足の遅いブルドーザーではあるが、他にやりようがない。俺はアクセルを踏み込んだ。
だがこの後、詳しく話すべきことは何もない。
雪に覆われた高い橋や真っ暗なトンネルなど、少女一人でどうやってここを歩いたのだろうとは思ったが、雪道の運転には集中力が必要だ。
俺も考え事ばかりはできなかった。
バスはすぐに見つかった。
ブルドーザーのエンジン音を聞きつけ、向こうから警笛を鳴らしたのだ。
2台の車体をロープで連結し、俺はバスを雪の中から引き出すことに成功した。
タイヤが穴から抜け出せば、もうあとは簡単だ。バスは自力で下山していった。
だがあの少女については、奇妙なことがある。
「救援を求める使いなど出していない」
とバス運転手は言うのだ。
その表情は嘘をついているようには見えなかった。
首をかしげながら俺は工事事務所に戻ったが、そこでもう一度首をかしげなくてはならなかった。
あの少女がいた痕跡など、カケラもなかったのだ。
電灯はつき、暖房も強められている。
だがそれ以外には何もない。ましてや少女の姿などない。
「幻でも見たのだろうか……」
以上が俺の物語だ。
もちろん俺は、車中の妊婦と知り合いではない。
だがどういう運命の悪戯か、後年、ある会合で偶然知り合った。
事件後、10年という時間がたっていた。
彼女はいかにも母親ぶりが板についており、その席で、雪中のバス立ち往生の体験談がたまたま披露され、年甲斐もなく、自分がブルドーザーの運転手であった、と俺は名乗り出た。
「そういえば、あの時妊娠なさっていたのは双子でしたね?」
「そうです。妹は丈夫に生まれ、元気に育ってくれました」
「妹さん?」
「双子の姉は助かりませんでした。死産でしたの」
「…そうでしたか。それは存じませんでした」
「一卵性双生児でしたから、もしも生きていたら、妹とそっくりな顔立ちだったでしょうに、残念でなりません。ただなんとなく感じるのですが…」
「なんでしょう?」
「妹の命を助けるために、姉は自ら犠牲になったのではないかという気が…、そんな気がするのです。妹のそばを離れ、あの子は先に一人で天国へ行ってしまいました」
「お姉さん? 双子のうちのお一人がですか?」
「奇妙に聞こえるのはわかります。まだ生まれてもいない胎児の霊に何ができるのか、まったく理屈に合わないですものね」
そういって母親は、生き残ったという妹を俺に紹介したのだ。今では10歳の少女だ。
その顔を見たとたん、母親の言うことは真実だと俺は信じることができた。
「ああ、これはまぎれもなく一卵性の双子だな…」
と俺はつぶやいた。
別れる日