
百合の君(56)
翌朝、穂乃は一人で目覚めた。八津代にいた頃から夫は戦地にいることが多かったが、それとはまた違う感じだった。何か独特のにおいがあって、自分だけがその外にいる。鳴いている鳥も八津代と同じ鳥のようではあるが、上噛島城で聞くよりも、少し遠い。
そうだ、自分は古実鳴にいるのだ、と穂乃は思った。周囲の薄闇のように、寂しさがその肌に染みてきた。起き上ろうとするが、特にやることもないし、あったとしても分からないので、もうしばらく横になっていようと思った。
このように外の力で、あちらに行ったりこちらに着いたりしなくてはいけないのは、女の身ゆえの不幸だろうか? まだ暗い空間を眺めつつ、穂乃は考えた。そうとは思われない。蟻螂は私を奪われ、五年も経ってなおそれに執着している。あれ程強い男でも思い通りいかないことはたくさんあるのだ。人間はみな海月のようなものだ、と穂乃は思った。水を掻いて何となく進んでいるようには見えるが、大きな波には逆らえない。そんなことをぼんやり考えていると蔀戸を開ける音が聞こえて、起き上った。かつて一緒に過ごした男の城だが、知った顔は一人もいない。人質、という言葉がはっきりと自覚された。
「殿さまがお呼びです」
そう言われてほっとした自分を見出し、穂乃は百合の君が次に戦うべき相手を悟った。
喜林義郎は、相変わらず狼の毛皮を着て、脇息にもたれくつろいでいた。その赤い瞳は穂乃をしっかりと見据えていたが、腰を上げる様子もないことを見て、かつて蟻螂と呼ばれていた男が、その怪力を自分には用いたことがないのを思い出した。
「昨夜私の言ったことが分かったか?」
しかしその言葉に、穂乃は気付かれぬようため息をついた。
「確かに、戦をせぬための戦は誤りだったかもしれません」
「そうであろう、そうであろう、やっとあの男の偽りに気が付いたか」
義郎は満足そうに笑った。ここは義郎の城だ。合わせて笑っておくのが正解なのだろう。
「偽りだとは思いません」
しかし、自分をさらった浪親に怒鳴り散らすような女に、それができるわけもなかった。
「なんだと? あの野盗の言う事が偽りでないと申すか」
義郎は心底意外だという顔をした。穂乃はそれが不思議でならなかった。
「たとえ間違っていることだとしても、あの方はそれを本気で実現したいと思っています」
「それを家臣が信じるとでも?」
義郎の眼光に、射殺されるような思いだった。それでも穂乃は睨み返した。
「家臣のことは分かりませんが、私はあの方を信じています」
この言葉には「私はあなたを信じていました」という意味も込められていたことに、言ってから気が付いた。
「変わったな、穂乃」
そしてそれが伝わらなかったことに安堵した。
「蟻螂こそどうされたのです? あの優しい蟻螂はどこに行ってしまったのです? 私を抱き上げてくれたあの蟻螂は」
「今はそれ以上の力を手に入れた」
「その力で、私に何をしてくれるというのです?」
「こうしてお前を取り戻したではないか」
「全っ然、取り戻していませんよ」
面食らった様子の義郎を尻目に、穂乃は勝手に下がった。そして、思うさま泣いた。泣いたのは久しぶりだったが、とても気持ちのいいものだった。胸に溜まっていたドロドロしたものが涙と共に洗い流されてゆく。昔は泣くことしかできない自分を情けないと思ったが、今は、まだ泣ける自分をありがたいと思う。
食事を運んできた侍女が、泣いている彼女に気付いて下がって行ったが、穂乃はそれに気づかなかった。
百合の君(56)