『宿敵』
お体に障りますから床へお戻りください、と繰り返す与兵衛の半ば嘆息交じりの声に、その都度あいまいな返事を繰り返しながら俺は、彼奴の涼しげな面をどうやって歪ませてやるか、ただそればかりを思案していた。
縁側から見下ろす庭は、いつまでもしとしとと降り続く長雨の中で、まだ真昼というのに薄暗く陰気な気配に支配されているように見えた。
「旦那様、お体に障りますから」
「ああ、わかった」
もう何度目か分からない与兵衛の懇願に屈するかのような格好で俺は床へと戻った。
気だるさに侵された自分の体を横たえるのを見届けるが否や、与兵衛が障子をそろそろと締め切ってもなお、俺の目に映るのはただただ陰惨な気配そのものだった。
天下の豪商、そう呼ばれるようになってからもう久しい。
商売は綺麗事では務まらない。己の才覚のみが頼り。負ければ家は傾き、そこには何の救いも無い。
ただ勝ったもののみが、富と名声を手に入れる。
俺は、ただひたすらに、己の戦場を駆け、斬り結び、数多の商売敵を叩き潰してきた。
そうやって俺は体一つで成り上がり、欲しいものは全て手に入れてきた。
……はずだった。
「死んでも死に切れない、か」
思わず口にした言葉に、ふと気がつき自嘲してしまう。
そう、あの若造に一泡吹かせたい。
それまではくたばるわけにはいかねえ。
この俺が、知略の限りを尽くしても、彼奴にだけは敵わなかった。
富や名声などどうでもいい、俺はとにかく彼奴に勝ちたい、ただそれだけを想った。
俺の目の黒いうちに、何とか一矢報いたい。しかし、一体、どうすればいい?
俺は床の中で逡巡しながら、浅い眠りへ落ちていった。
* * * * *
これは一体、と訝しがる与兵衛に俺は半ば得意げな心持ちで言い放った。
「果たし状、よ」
果たし状でございますか、と間の抜けた声を漏らした与兵衛に、俺は丁寧に諭してやった。
「そうよ、これは俺と彼奴の果し合い。逃げる事は許さん、と伝えよ」
承知致しましたと畏まり、手紙を懐に入れ立ち上がった与兵衛の背中に、俺は彼奴の苦悩に歪む様を思い浮かべた……。
さあ、どうする、尻尾を巻いて逃げ出すか、俺の前に跪くか。
好きな方を選ぶがいい。
俺は久々に爽快な気分で床に付いた……。
* * * * *
桔梗屋の主は病篤く、とうとう気がふれたらしい、と町人どもが口々に噂する中、僧形の男達がその高札の前で足を止めた。
高札を見上げ、そこに書かれた文句を読み上げた一行は忽ち青ざめた。
「これは、どういう……?」
「謎かけか」
「こんなのはただの詐術です。帰りましょう!」
「いや、それでは逃げたということになる」
「しかし」
困惑を隠せない一行の中心で一人沈黙を守っていた少年は、高札の文句をまるで反芻するかのように何度かつぶやいた後、不敵な笑顔を浮かべて言い放った。
「なるほど、面白い」
えっ、と驚き振り返る一行には目もくれず、少年は今度は声を張り上げて高札の文字を読み上げた。
「このはし わたるべからず」
『宿敵』