『岡崎乾二郎 而今而後』展

タイトル及び本文における誤字並びに内容の一部を加筆修正しました(2025年5月9日現在)。



 東京都現代美術館で開催中の『岡崎乾二郎 而今而後』展(以下、単に『岡崎乾二郎展』と記す)は、立命館大学大学院の教授である千葉雅也(敬称略)の著作、『センスの哲学』を読んでから鑑賞するとその面白さを存分に堪能できると思う。




 本書の要諦を筆者の拙い理解で纏めれば、以下のようになる。
 先ず脱意味化。絵画や音楽といった作品の構成要素を絵の具や音といった物的側面にまで単純化し、その対比によって生まれる差異=リズムを微視的に又は巨視的に楽しむ。二項対立のシンプルな見方から、その連なりとしての複雑さへと伸び縮みする作品表現の面白さに気付けるよう自身の感覚をシフトする。
 その上でいま一度、意味認識の枠組みに戻るにあたって上記した差異を作品の中に生み出す淵源に注目する。技術的な制約やジャンルの縛り、あるいは各表現行為が積み上げてきた〇〇史という歴史に基づく業界の常識といった決まり事に収まり切れない余剰。それを生み出すエネルギー、あるいは偶然性といったランダムな要素がまさにそれにあたるが、そういう過剰なものに遭遇したときに崩れそうになるバランスをどうにか保てるよう、自分自身の中の認識基盤の設定を大きく取る。予測し得なかった「何か」に出会しても、予測し得なかったと判断する認識の外枠から一つずつ見直していき、そのパターンを把握して、その「何か」と時間をかけて向き合う。唯一無二の正解など存在しない、目の前にある「これ」は解決可能な問題ではないという覚悟をもって、その表現のあらゆる可能性を探る。そういう行き当たりばったりのドタバタ劇をとことん楽しむ。その際にどうしても拭えないものとして現れる自分の「癖」みたいな拘りないしは典型みたいなパターンにだってとことん向き合う。そういう安定と崩壊の狭間でこそ磨かれるセンス。それをよく識ること。




 率直にいって『岡崎乾二郎展』で鑑賞できる作品は意味不明瞭な印象を抱くものが少なくない。そのため理解不能のレッテルを貼り付けて、作品の多くを流し見する人が相当数いるのでないかと筆者は危惧する。
 しかしながら一方で岡崎乾二郎(敬称略)の作品表現は意味による理解を脇に置いて一つひとつの作品を「物」的に鑑賞すると、そこで起きていることがとても興味深い。『センスの哲学』の出発点となるべき脱意味化こそ、先ずは試みるべきアプローチだと本展を実際に鑑賞した今も強く思うのだ。
 例えば本展のイントロダクションとして鑑賞できる「かたがみのかたち」。ドイツの服飾雑誌『burda』に付いていた型紙から岡崎が任意の線を選び出し、それを結び直したこの作品表現は①リズムに富んだドローイングという平面的な鑑賞と、②描かれた線に沿って布を裁断し、縫製すれば立体的に浮かび上がる(であろう)身体のフォルムが可能性として眠っているという三次元の想像が交差することで誰かの「かたち」が奇妙に立ち現れる、という理解に至ることで表現っぷりが化ける点が実に面白い。
 認識面で覚えられるそのワクワク感は「Carmin/Aureoline/Vermilion」でさらに膨らみ、線描に施された色味の変化によって有機的な繋がりをより強くしていくのだが、上述したとおり、単純な楽しみから複雑怪奇な発展へという移行は『センスの哲学』でも重視されるポイントとなっており、本展との親和性を筆者はその場で実感した。
 あるいはその一つ前の展示スペースで鑑賞できる「おかちまち」シリーズ又は「あかさかみつけ」シリーズ。一枚のアクリル板が完成途中のような有り様で立体的に展開し、数多く横並びにされる展示風景に最初は面食らうも、やはりここでもその一つひとつにじっくりと向き合えば、角度を変える毎に変化する色面のバリエーションが凄まじく、形として繰り返す連続と分断のリズムが白地の壁に囲まれた展示空間を異質なものにしていくのを目の当たりにした。本展のキャプションでも岡崎は造形作家として紹介されているが、「どう見るか、どう見えるか」という認識にフックする制作手法を体験してその肩書きに深く納得すると共に、同じく人の認識にスポットを当てる『センスの哲学』と地続きになっている側面をそこに発見して知的興奮を抑え切れなかった。




 本展の副題にもなっている『而今而後』というタイトルを付した批評選集のvol.2に掲載されている私家版の冊子においても、岡崎は、芸術を「像でも情報でも、単なる感覚でもない」ものとして綴っている。その意味するところを筆者はまだ十全に理解できてはいないが、本展において圧倒的な点数を誇る絵画表現を思い出すと、ヒントのようなものを掻き集められる気がするから不思議になる。
 岡崎の絵画作品は画面に点在する絵の具の物性に拠る所が大きく、その関係性をリズムよく追ったり、あるいは色調として表れるその美しさに心から酔いしれることができる。つまり見る側が身構えなくても作品の方から「もの」的な現れ方をしてくれる。白髪一雄で知られる具体美術協会の絵画表現に似て、感覚的に訴える力に長けた作品表現だと評価できる。
 けれど絵のタイトルにしては相当に長く、別の文学作品(特に詩)として鑑賞可能な程に高いクオリティを保つタイトルの方に目をやると状況は一変する。
 その内容は、それ自体が一つの世界観を持つ。しかも私たちの目の構造上、その内容と画面上の絵画表現を同時に見ることができない。ここに生まれる時間的な差異がただの情報の統合に止まらない事態を鑑賞者の内側に引き起こす。その単純なテンポ感や、色彩の関係項を楽しむことができた絵の具の痕跡は表現媒体の違いを超えて齎されたイメージに溺れ、浮かび上がり、拭い切れないほどの実感を伴って肌に染み入る。脳に焼き付けられる。物語というには余りにも未完で、だからこそ鑑賞する人の数だけ固有の形を得るイメージは生まれから死ぬまでの過程において、私(たち)が私(たち)として代替不可能なものとして積み上げてきた「経験」に基づき、命を得る。




 2021年11月頃に脳梗塞で倒れ、命は取り留めたものの右半身に深刻な麻痺を残すこととなった岡崎がリハビリに励み、その8ヶ月後に退院してから取り組めるようになった塑像の作品表現も、モデルとなったものが明確にならない点で上述の絵画とその表現の地平を同じくする。
 しかしながら塑像は量的な存在感をもって視覚的な手触りをこれでもか!と見る側に伝えてくる分、絵画の時よりも製作者の息吹を直に感じ取らせる。混ぜたり捏ねたりすることで果たせた「もの」としての関わり方、制作に費やした時間、作品として下された評価の所在というありとあらゆる事象が微視的にも、巨視的にも見て取れる。そのせいか、絵画の場合と同じく各作品に添えられたタイトルとの乖離にも妙に風通しがいい印象を覚えるし、どの塑像作品も過去が去来し、未来に逃げ去るような躍動感に満ちていた。




 『センスの哲学』において正解が出ない過程=時間として語られた芸術は、岡崎乾二郎という制作者の実践を目の当たりにしてより「生きる」ものとして捉えることが可能になる。それが本展において筆者が最も感銘を受けた唯一無二のハイライトである。岡崎が四谷アート・ステュディウムや環境文化圏計画に携わったりした足跡も詳細に知ることができるので興味がある方は是非、東京都現代美術館に足を向けて欲しい。会期は7月21日まで。今年ベストと断言できる素晴らしい展示会をお見逃しなく。

『岡崎乾二郎 而今而後』展

『岡崎乾二郎 而今而後』展

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-05-08

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