
百合の君(55)
戦で散った魂を慰めるかのように、秋の空は穏やかだった。ある者は空に浮かぶ筋雲を手跡に見立て、亡き夫への言寄せとし、またある者はそこに寄せては返す波を見て、亡骸さえない息子への絶えぬ思いを託すのだった。
紅葉模様の打掛は、眠るようにその膝を覆っていた。追憶のように遠く、正巻川の流れる音が聞こえてくる。喜林義郎は、初めて出海浪親の妻を見た。
「穂乃、穂乃なのか?」
義郎は駆け寄った。見上げる瞳のその仕草は、やはり穂乃に違いない。盗賊にさらわれた妻が、その盗賊の妻として目の前にいる。浪親であれば目の前の光景を秋の日が描き出した幻ではないかと思うところであろうが、義郎はただ呆気にとられるばかりだ。
「はい、穂乃です。百合の君と呼ぶ者もいます」
声もやはり穂乃だったが、そこに驚きの色はなかった。それが一層義郎を混乱させ、たじろがせた。
「やはり蟻螂でしたか」
穂乃はくすりと笑った。手を口元に当てるその仕草は、見慣れないものだ。事実そうなのだが、どこか良家の奥方のようだった。
「子供も生まれてもう四つ、元気にしていますよ」
義郎は、珊瑚と呼ばれた出海の嫡子を思い出した。しかし、その子と実際に会ったわけではないので、像を結んだのは、憎むべきあの男の顔だった。
「刈奈羅を得た出海は、いずれ天下を治めるでしょう。このままいけば、あなたの子は将軍になるのです」
「何を考えている? それがお前の復讐なのか? あの男に私の子を育てさせ、将軍にするのが」
握ろうとしたその手を、穂乃は払いのけた。
「どうした? なぜ私を邪険にする?」
「それは・・・」
「まさか、あの男か? 復讐ではないのか? 心からあの男の妻になったのか?」
とっさに穂乃が目をそらした。それを追いかけるかのように、喉元に熱いものがこみ上げてくる。
「あの男が、我らに、何をしたか忘れたか? 私を袋叩きにし、お前を、奪い去ったのだぞ」
「そうですが・・・」
人の心は道理ではない。そしてそれに一番困惑しているのは、穂乃自身だった。義郎は、唾を飲み込み深呼吸をし、震える喉をなだめた。
「なぜそんな言葉づかいをする? 我らは夫婦ではないか」
「あなたの言葉も、まるで家臣に対するようです」
二人が離れていたのは五年だ。たったの五年だが、二人が一緒に暮らした期間よりはずっと長かったし、若い二人が変わるには十分な年月だった。反射的に義郎はそれを理解し、そして否定しようとした。
「あの山賊、聞けば戦をせぬための戦などと申しておるそうではないか。女や百姓まで戦わせて、とんだ茶番よ」
「私たちは、国を守るため望んで戦ったのです」
義郎は改めて穂乃を見た。今度は義郎が目をそらした。力で人を従わせることに慣れていた義郎は、少しいらついた。羽織った毛皮を撫で、熊の固い毛先をなぞる。沈黙はおそらく一瞬だったが、義郎は、これ以上長引かせてはいけないと感じた。
「はるばるご苦労であった。ゆるりと休まれよ」
結局自ら会話を終了させてしまったが、それでよかったのか、あるいは失敗だったのか、義郎には判断がつかなかった。
穂乃は深々と頭を下げて、去って行った。怪我でもしたのか、足を引きずっている。しかし、義郎はその原因さえ知らないのだった。
百合の君(55)