「トネリコ」

「トネリコ」

神話の後の世界か、それとも。

アルネブ

 氷雪まだ固き三日月の星空に、一輪の花の芽が咲いた。芽の色は既に定められていて、雪と同じ白銀の瞳、まるで一羽の蛾が羽を休ませているかのような立ち姿に星の息吹は丸く降りかかる、狭霧の繭から覗く世界は音も無く、歪みも無く、静かな自然の動きだけが存在していた。凍る芽は地下の湧水を少しずつ口に含み自身の肌に纏わる霜を一粒ずつ溶かしてゆく、脱いだ羽衣は絹糸となって土に還り芽の行先を示す一部となる。長く細やかで濃い睫毛をひたりと閉じて未だ言葉も知らぬたゞ一輪は身じろぎもせずじっと待ち侘びているけれど、訪れの陽射は直ぐには来ない。光の来訪の前には、先に雨が降る。
 世界を逆さまに映して雫は飽くことを知らない。短き十六夜の()も注ぎ続ける雲の糸は鏡の役目を果たす為に水を得る。さらさらと音鳴る夜更けにも、まだ芽は瞳を開かない。大地の眠る横がほに雨は優しく頬を撫で、咽の渇きを感じさせぬ、温もりの慈雨は皮膚に冷たく胸に涼しく(あま)(がわ)の眼差しを輝きもそのままに土へと取り次ぐのである。
「近頃、気候が安定しないね。頭痛持ちには()ときついな。」
「おまえは軟弱だから、仮に季節が落ち着いていたとて何處かしら不調を訴えるよ。」
 頭痛膏を額に貼る青年は相手の反応に苦笑した、違いない。全く見た目と裏腹に可愛い声で容赦無く言葉を紡ぐのだから。
 青年と話をしているのは一匹のぬいぐるみであった。約四十二センチメートルの佇まいは真白ふわふわ、瞳はつぶらな黒目細工、そのうえ短い手足のちょこんと生える胴体にぽふりと羽織るトランプカードの赤いハアト模様のマント、アリスの世界からぽんと飛出して来た兎のぬいぐるみ、名前はポポロン、幼女が親しみを感じそうな、否、年齢性別人種も問わず一度は誰もが抱きしめたくなるような愛される為に生れてきたよなうさちゃんだが、青年に軟弱と言い放ったのは紛れも無くこの子であった。
 ポポロンは青年とそれなりに長い付き合いである。彼が小学生の時分にショーウィンドウ越しに初めて出逢い、その日から一生懸命貯めたお小遣いで中学生になってようやく家にお迎えした、それから十年以上は経たが大切にされたぬいぐるみ特有のくったり感はあるものの染みも汚れも無く綺麗に整えられた毛並と服はポポロン自身も鼻が高い、その感謝は常に忘れることは無いが、如何せん発言が厳しいことは変えられないし、変えようが無い、生れる直前に与えられた天性のものであるがゆえに。
「ポポロン、ところで明日はどうしようか。」
(わし)に訊くな、ハーゼ、君はもう少し自分で考える癖を付けた方が良い。おまえは何でもかんでも儂に任せっきりで甘え癖が染み込んでいる、それでは旅の目的も達せられんぞ。」
 想像さるるがいゝ、キュートを煮詰めた愛くるしさの塊が老人のお小言を続ける声を、状況を。ハーゼと呼ばれたおっとり顔の上品な面持ちの青年は楽しそうにくすくす笑う、そのふっくらとして薄い桜を溶いた唇から覗く歯は宝玉の如く艶があって白く光る、零れる呼気は藤の花の清廉さにも劣らない。
「そうだねポポロン、歩きたい所に歩くが良いさ。風の音によく耳を澄ませて…なんてね。」
 ハーゼはカーテンを引き窓の外の景色を一旦閉ざした。部屋の中と違い、彼方側(あちらがわ)は止むこと無く雪が降る。ただ我々の知る雪と一点違うことがあるとすれば、その雪達には一本ずつ旗が刺さっているということだ。

早見盤

 天体を繋ぐ銀河の水脈があるように、世界の鏡を崩さない為の一本の樹がある。樹は大樹と表しても誇張にはならぬ程遙か見上ぐる丈があり、その根は細やか且つ芯が強いので何度か世界が滅亡を辿った際も燃やしつくされることが無かった。ハーゼとポポロンはその樹にトネリコと愛称を付けて呼ぶようにしていた。
 トネリコは嘗て神話の世界ではユグドラシルと名付けられて一目置かれていたが、神々の世界から人間生物への世界への裏返りの際一度は過去の悪しき遺物として見捨てられた。しかし再び世界に根づき繋ぐ役割を与えられた。丁度二度目の根を張り若芽を育んでいる時にハーゼとポポロンは大樹に出逢ったのである。一人と一匹と一本がその後どのように過ごし今どうしているかを続ける前に、もう少しだけユグドラシル、今のトネリコについて説明をしておこう。何故見放された樹がまた望まれることになったのか、その顛末を。
 人の手から捨てられた後、ユグドラシルは彷徨っていた。世界の終りを見るのは初めてではなかったが、その度に灰とならない大樹を仰いで生命達は復興への意志を抱くようになっていたのに、必要無いと見限られたのは今回が初めてである。植物は人の言語を話さないだけで、他の動物や人類同様種族特有の言葉を扱う、ただそれが人には聞き取られないので常に黙って在り続けるものと誤認されているに過ぎない。ユグドラシルは此時泣いていた。
 植物の涙は一般的に雨露(あまつゆ)となって空へと昇り空から降る仕組みであるが、神話に登場する大きさのものになると雫ではなく星屑となり地を照す光へと化すのである。
 一度世界は炎に包まれた。そして二度目は氷に覆われた。世界が澤山の悲鳴諸共に壊れて行く度にユグドラシルは傷つき悲しみ星の破片を零し続けた、其等は最初一粒では形を成さなかったが、複数になるとやがて自分達を希望の糸で繋げるようになっていった。星は糸を呼び星々は互いを呼び合い、ユグドラシルの涙は星座へと進化を遂げ、空はもはや孤独ではなくなった。惑星の周りには命を宿した星座が駈け、月はようやく光を取り戻し、満月の姿から徐々に瞳を閉じていけるようになった。月が欠けるのは或種の良い兆候であるとあまり人は言わないが。
 ユグドラシルとハーゼが思いがけず巡り逢ったのは星座の遠鳴りの為であったかもしれぬ。行く当ても無くポポロンだけを抱いて彷徨っていた青年の姿にユグドラシルは己の過去を重ね合わせたのであろう、ユグドラシルは彼に道行きの(しるべ)を与えた。其は円形の地図で一般的には星座早見盤と呼称される万華鏡の類で、ハーゼの瞳孔は此が為にもう一度(ひとたび)水晶の湖面を映すことができたのである。
「星座は緻密なようで気まぐれなんだと。要は何處に行ったか分らなくなった星座を呼び戻せば良いんだ。トネリコが心配しているから一度は顔を見せに来いって伝える、それが儂等の任された仕事だろう?」
 巨樹は“ユグドラシル”以外の呼び名が気になるらしい。
「何だ、別に構わないだろう?此奴は神話や伝承物語を多少は齧っているからユグドラシルがトネリコの樹だってことを知っている、此奴が知っていることは当然儂も知っている、儂はおまえを元の植物名で呼んでみたい、ただそれだけのことだよ。」
 初対面ながら兎のぬいぐるみのぶっきらぼうな物言いにトネリコははらはらと若葉を搖らし幾つか星粒を零したようだった。決して傷ついたのでも悲しんだのでもない、人とて涙の見目は同じ。
「トネリコ任せてよ。僕等はこう見えてもタフなんだ。君の探す友人達を探しに行くよ。」
 幽明の誓いは結ばれた。トネリコの友を探すハーゼとポポロンの旅はこうして始まりの鈴の()を響かせたのであった。

紫の旗

 ハーゼとポポロンの故郷はもう雪しか降らない世界にされてしまっていた、そしてその雪が(さき)にも述べた通り一つ一つ旗が留められているもので、大きさとしては我々の理解の内に在る雪と寸分 (たが)わない。しかし此の小さな一粒一粒の中に、地球と同等の生命体が存在しているとなればどうであろう、踏み遊ぶことを躊躇わないか?
「トネリコの住む世界に降る雪も、僕等の世界に降る雪とよく似ているだね。」
 ハーゼは三角屋根の我家のリビングに据えた暖炉の傍、ゆらゆらと籠のような籐椅子に深く身体を沈める手にマグカップを持ちながらポポロンに話し掛けた。橙色のマグの中にはポポロンお手製のブレンドティーが淹れてある。
「呑気な奴め、最終的には小さく収まっておしまいってだけだろうに。それをきゃっきゃとはしゃいで全く…図体だけは大きくなって中身はまだまだお子様だな。」
 呆れて溜息をへッと吐きつゝも茶葉や果物達を混ぜる手は休めない。
「そうかなあ。そんならトネリコは最初から結末しか教えてもらえなかったんだね。」
 何だか寂しいや、と呟く声と一緒に湯気 (ぬく)い紅茶を啜る。自らの世界の始末より他の世界の心配をする並外れたお人好しにはもう慣れたのか、ポポロンは何も返さなかった。ハーゼの場合優しすぎる、と言うのではなく焦点の当て方が他と大いに異なるとすべきをもうとっくに理解しているような、きょとんとした円い瞳の色を一切変えることも無く。
(そして土壇場になってからおまえは喜怒哀楽を放つんだ。)
「全く成長しないなおまえは。」
 ハーゼは恥じるように照れるように微笑んだだけだった。
 その王国の名前は、もう語られることは無い。言葉も意思も無かったことにされてしまった郷里は誰の口からも手からも遺されることは認められなくなっていた。憶えていることを許されなくなった王国こそ、ハーゼとポポロンが昔住んでいた場所なのである。国の名を出すことは叶わないが、其処で彼等がどのように生活していたのかを知ることは出来るので、少しだけ昔の話をしよう。
 ポポロンはぬいぐるみ職人に作られた一点物で、ハーゼは他と同じ教育を受ける男児であった。鋼鉄のランドセルを背負い寄り道もせぬ彼は視線を上げることすらしなかった。それでもポポロンに気が付いた訳と言うのは、一羽の蛾によるおかげであったのだ。
 普段通り通学路を俯向いて歩く少年、天気は快晴、よくある構図に相応しくないハーゼの暗い顔。それもその筈正直なところハーゼは学校が嫌いだったから。ランドセルは重たく、教師は子供と目を合わせず、子供も大人と目を合わせない、にも関わらず黒板は埋めつくされチョークは削れホワイトボードは回転しインキは消費される。まるで水槽に間違えて滅茶苦茶に突込まれた魚類のような空間で何を望めば良いのであろうか。疑問を抱きながらもいつもの動作を断ち切れない自分にも嫌気がさす。また目頭にじわりと悔しさが滲む時、少年の目の前に白い蛾がフワリと訪れていた。
 驚く声も呑み込んでまじまじ見つめる。ホバリングする蛾の顔は精緻で端正なつくりだった、蝶々のようにひょろりとはしていないぽってりしたフォルムに大きな黒曜石の一双の眼、花の蕊のように手招く陶器の口吻、くっきりとした目鼻立ちなのに輪郭は冬の雪雲に非ず春の朧雲、剛力の風が一陣鬨の声を上げたら忽ちに散ってしまいはせぬかと見る者に雨夜の桜を催させる佇まい、伸ばそうとした指を慌てて背中に隠す様は凶行を踏み留まった改心の強盗の焦る姿によく似ていた。そのまゝ手足を一本も出さないように注意した格好で少年は自分を見つめる蛾を見つめていた。声を出すことはおろか息をするもの遠慮する男の子の呼吸がそろそろ苦しくなったことを気付かせる為か、蛾はふいと横道に飛んで行く。胸に一気に澤山の酸素を吸ってハーゼは蛾を追い駈けた。
 此処まで申せばお察しいただけるであろう、蛾の向かった先には何が建っていたのか、硝子越にハーゼが何を見たのかが。
 学校の指定通学路に含まれていない道の途中に一軒の道具屋が在った。店主は留守なのかCLOSEの看板がドアに吊下がっていて、店の中は外のショーウィンドウを兼ねた窓越しにしか窺えない。
 蛾がくるくると旋回している場所に立って見てみると、世界中の愛らしさの寵愛を受けてハーゼの顔を上目づかいに首を傾げて見つめトランプのハアトを着る白兎。胸を抑えて下の値札を確認すると、もう数年貯金すれば身近な金額になる。ハーゼは此の日から勉強も家のお手伝いも自ら進んで任された。小さな感謝の積み重ねがあの子を迎える道を造っていると信じて。
 中学生になっても店は外観もディスプレイも変わっていなかった。相変らずCLOSEの看板が吊り下がっている夕方前。
「すみません。」
 ハーゼは店主を探すも店の周りには誰も居ない。そう言えば此の店が開いている時を見た事が無い。朝・昼・晩と隙を見つけては様子見に行くものの、誰かが出入りする様子も無い。店の周囲の土地は数年で様変わりしてマンションや駐車場や空き地になっていくのに対して身まじろぎもしない道具屋は取り残されたようにも、住み続けているようにも目に映る。
(もしかしたら、不思議な館、なのかもしれない。実は魔女のお婆さんが暮らしていて、秘密の魔術で拵えた品物を売っているのかも?)
 蛾に逢うた日からハーゼの素直な想像力は年々磨かれ続けていたので、此年(このとし)になっても(はす)に構えたり変に捻れることはもう一度も起こらなくなっていた。
「入ってみようか。」
 素朴は時に大胆に大化けする。銀と黒の相交じった螺旋模様の手摺を握ると一気に中へ押し込んだ。だが、店の中には人一人居らず、商品とその後ろに小さなラタンの籠が置かれているだけで、覚悟していた「何者だ」も「いらっしゃい」も聞えない。ハーゼは兎のぬいぐるみの置かれている位置まで歩きバスケットにお釣り無しの金額を入れて、お目当ての可愛い子ちゃんを両手で抱いた。
「待っててくれて有難う。遅くなってごめんね。」
 頬ずりをする。ふわふわ、と喜びの感想を言う間も無くハーゼは自宅の前に立たされていた。あれ、と左右を見る首の忙しさにわざとらしい長い溜息で気付かせる。ようやく両者の視線が合った時、ポポロンは名告(なの)った。
「儂はポポロン。紅茶隙の白い兎さんだ。今日から宜しく頼むよハーゼ君。」
 最初の時はもう少し愛敬と丁寧さがあったよねと口に思えば
「可愛気が無くなったって言うなら大間違いは其方(そっち)だぜ。」
 言う前に言い返されてしまったハーゼ。茶葉等をガサガサワシャワシャぬいぐるみの芸当とは思えぬ巧みな技術でブレンドティーの(もと)を作っていく。
「おまえが子供の頃から一寸(ちょっと)も変らないから、儂だって変わってはいない。当然だろ。」
 僕の友、僕の相棒、君の存在に何度救われたことだろう。
 或日世界が断罪されて、家の屋根裏で遊んでいた僕等以外一人も居なくなった時も
 家族や親戚、クラスメイトの名前から始まり存在していた命や建物の名前までも忘れて行った時も
 逆らえない処罰の後に世界が点々と雪玉になって空へと昇って行くのを見ることしか出来なかった時も
 そうして故郷が一欠片の雪の結晶になってトネリコの住む場所に降っているのを見た時も
「すっかり変り果てたな、此処は。」
 特段感情も有さずポポロンが言う。ハーゼとポポロンは紫の旗が刺さる雪の中へと赴き遠い日の故郷の街並みを歩いていた。
「この平地(ひらち)、何が建っていたか憶えている?」
 ハーゼはピクニックに来た児童のような調子でポポロンに質問していた。
「マンション?だったかな、否、学習塾だったかも。」
「よく憶えているね。一階が学習塾のテナントになっているマンション。正解だよ。見事なものだね。」
「別に褒められたからって嬉しくないさ。マンションにも塾にも固有名詞が与えられてたのに今じゃ取っ払われてしまってどこどこのマンション、だれだれの塾、ただの俗称にまで堕とされているものを言ったって意味がないだろう。」
 相棒の言葉に青年は微笑んだまま俯向いた。失敗しちゃったかなーと口に出さずとも聞えて来る。
「儂の退屈を紛らそうとしてくれたんだろ?ハーゼ、おまえの想いはよく分かっているよ。気にするな、退屈だなどと不貞腐れている訳じゃない。トネリコの譲さんに頼まれた仕事は大切な仕事だ、あの子の傍に居てくれて寂しさを和らげてくれた友人を探してあの子に逢わせる、そいで友人同士お話だって澤山したいだろう。その為には必ず見つけて元気な状態で連れ帰らなきゃいけないだろう、責任重大だ。」
「おやおや斜に構えている気難しい性格かと思ったけれど、やっぱり君は優しいんだねえポポロン。要はトネリコがこれ以上悲しまない為に張りきっているんだろう。よし、君の熱意は僕も受け取ったよ、嘗ての僕等の古里に迷い込んだ星座さん達を探しに行くぞー!」
 ハーゼのポポロンの秘めて普段露わにしない情熱を汲み取り改まった面持ちで構えたのは良かったが、
「星座さーん、何處ですかー、居たら応えてくださーい。」
 馬鹿正直に大声を出すのは褒められた行為ではない。此の雪片の中の世界では特に。
「ハーゼ!音量下げろ、っていうより黙りなさい!」
「ポポロン?でも此処にはもう僕と君しか居ないよ、他は昇華されたじゃあないか。何を心配するんだい?」
「こ、これだから学校出身の奴は。民俗学を教えないからハーゼみたいな盆暗が出来るんだろ!」
「何さ急に声のトーンまで一気に下げて瓦礫に隠れちゃってさ…腕を掴む力がとても強いよ、もう少し」
 以降の言葉は空気を震わせなかった。黙っていなさいと再度注意する勢いでポポロンのぬいぐるみの手がハーゼの口をむぐっと抑えこんだから。しかし、この状況に似つかわしくない声が上がっている。
「悪いことは何もしていません、悪いことは何もしていません。」
「見捨てないでください、置き去りにしないでください。」
「まだやり残したことがあるのに、帰してください、お願いします。」
「これは私達の罪なのですか、それとも他の人間達の罪ですか。お答えください納得できる説明を」
 バラバラと呻き声の聞える雪は二人の居る反対側に降り積っているようで、他の雪が土に触れた途端再び空へ戻る為にじゅっと溶けていくのに対し、唸る雪粒達は溶けきれずに残っているらしい。眼を見開くばかりのハーゼにポポロンがそっと教えた。
「世界の処断を受け容れられない奴等だって当然呆れる程居ただろうさ。でも空の喜び、空の世界を知った者は地上への未練を忘れると聞くぜ。」
「それでも忘れられなかった誰か達の念が集まって…?」
「あゝいうぞりぞりと這い蠢く雪山になってしまったのだろう。今おまえが出した声に反応して此方へゆっくりやって来ている。」
「じゃあ、雪山を説得するの?」
「馬鹿。儂達は説得の為に遣わされたんじゃないだろう。この早見盤を使って星座を見つけてトネリコの元に一度戻るように説得することが仕事だ。話さなくてはいけない相手を誤るなよ。」
 何も言い返せなかった。
 星座は程無く見つかった。重力も左右もあやふやになった場所で雪山の無い場所を探していくのは骨が折れたが、まだかろうじて屋上を残すビルで空の観察を始めることが出来た。
「この星座は無いから、トネリコの傍に行ったんだろう。」
「その隣の此奴も空には居ない。」
「大抵の星座がトネリコから離れていないね。」
「まあ世界樹さまだからなあ。」
「うーん…」
 二人は同時に軽く唸り、早見盤から目を外した。
「紛れてないんじゃ?」
「そうなら此処に儂達を連れてはこないだろ。居るから任されたんだ。でなきゃあ…国名も地域の名前も忘れさせられた故郷なんかに戻るか。」
 それもそうだ。もう一度くるくると早見盤を覗く、すると、雪降る白い空がぐるりと回り、ハーゼが瞬き一つした間に空の色は全て黄昏へと染まりなおしているではないか。
「あ、」
「これは、」
 二人は互いに顔を見合わせた。あの日、屋根裏の小さな窓から二人一緒に見つめていた空の色だ。
「時間が巻き戻ってる?」
「まさか。変わっているのは空だけだ。空の色だけが変わったんだ。」
 遠くには微かに雪山の呻き声が聞える。一体何が起きたのかハーゼとポポロンがまだ警戒を緩めない時
「はじめまして。」
 黄昏の中央辺りから凛とした声が響いた。
「どちらさま?」
「ハーゼ、間抜けも大概にしなよ。空から話し掛けて来るのは大抵正座だろうに。」
 空を仰ぐ青年と俯向き首を横に振るぬいぐるみ。声はクスリと笑ったようだ。
「そちらのふわふわ兎の言う通り。星は単体では声が小さいから地上にまで届かないけれど、星座を形作ったらこうやって地上のもの達と会話が出来るくらいには聞き取れる大きさになるのです。」
「ははあ、では貴方は星座なのですね?」
「えゝそうですよ坊や。私は星座、時計を拝命した星の集まり、時計座です。」
「とけいざ。」
「そう。坊やが手にしているのは万華鏡だね。早見盤になっている絡繰のものでしょう。それで私を探しに来てくれたのかな?」
 これまでポケっと頭上を仰いでいたが、ハーゼは急に視線を落し黙りこくってしまう。てっきり時計座と呑気な会話を始めるものと予期していたポポロンはギョッと驚きもふもふの両手でぽふぽふとハーゼの脚を叩く。
「おいハーゼ、どうしたって言うんだ。急にそんな、おまえ…元気を失くして、何を考えたんだい?」
「坊や、私、何か嫌なことでもしてしまったのかな…?」
 星座と兎に心配され宥められてハーゼはようやく口を開いた。けれど涙混じりの低い声で。
「…如何してトネリコの元へ帰らなかったの?貴方は優しいひとに思えたから余計に…友達を放って置くようなひとには見えないのに、どおして…?」
 時計座は言い訳をしなかった。人間の青年の優しい心に正直でありたいと思ったのであろう、ほんの少し間を置いて、理由を語って聞かせてくれた。ポポロンが相棒の肩へとよじ登り、肉球の無い掌で頬を撫でては涙を拭う。
「彼女も、君も似ているね。他のひとに優しすぎるくらいに、優しくて穏やかだ。……私はね、ユグドラシルが…トネリコがひとりでは出来ないことをしたいんだ。」
「出来ないこと?それはトネリコと一緒に居ても出来ないことなの?」
「一緒に居ては果せない使命だ。私は、此の国が滅びを受け容れた時の様子をよく憶えている。終りとはこんなに静かに訪れるのか、広がるのかと改めて思い知らされた。叫びも嘆きも抵抗も、波乱も高鳴りも起きなかった、人々は朝日を迎えるように、次の日が来るのを待つようにして絶滅していった。……神話の時代から見てはきたけれど、何度経験しても慣れないものだ、それはトネリコも同じだったろう。」
 今でも憶えている。古来より滅びは新たな誕生と(ことわり)に組み込まれ刻まれ続けていたので、一つの世界の終焉で零す涙は次の世界への祝福の雨と謳われてきたが、トネリコが流し続けてきたのは哀しみの涙であった。他が目にはさぞ明るい星と映っただろう。
 神話とは人の言葉により語り継がれてきたものだ。人語が用いられる以上人間の思想思考を含めないことは出来ない、どれだけ客観的に単語を羅列しようが人の枠組みからは離れられない。人は常に希望を見出そうとする、それは生物が呼吸を止めないのとよく似ていて、どのような不条理に揶揄われても旭を探す本能である。ゆえに人は悲しみを悲しみのまゝで終わらせない、其点(そのてん)こと世界樹と人間の決定的な差異なのだ。
「トネリコは滅びた世界を見つめ続けることに耐えられなかった。」
 悲劇から目を背けることは悪しき行いではない。
「此処は、坊や達の故郷なんだろう?」
 此の場合の沈黙は肯定であった。
「君達は、此処をどう思う?国の名前も奪われて、独自の物の名前も分解されて、雪の中に収まってしまった此の場所を、君達はどう捉えている?」
 時計座は春夜に散る桜花の声でふたりに尋ねた。
「儂はハーゼに手にしてもらえる迄半ば眠っていた。あまり店に並んでいた頃の記憶はうっとりとしてあまり憶えていないが…店主の声は何となく聞えていたから幾つかは思い出せる。」
「あの店に?店主が居たのかい?」
「おまえが知らんだけだハーゼ。店が建つなら店主は必ず居る…まあ知らんまゝでも良かろうよ。ともかく奴はよく嬉しそうに話していた、“此の国の行末が楽しみだ”とな。」
「それは、いつ頃?」
「ハーゼが迎いに来てくれるうんと昔だ。学校が新しくどうのこうの言っていた気もする。とにかく、人間くさい諦めの悪そうな野郎だったかな。あの零れ落ちんばかりの眼の光、見たくもなかったね。」
「やっぱり居たんだね、そのような人が。」
「でも今では…」
「そうさポポロン。だから私は此処に留まるんだ。」
 まだハーゼは首を若干傾げているが、ポポロンはとうに出立の準備を始めていた。早見盤を陶磁器のケースにしまい小脇に抱えて真直ぐに立っている。
「坊や、私は君達の故郷が芯まで滅びたとは思わない。確かに固有名詞は手離されて国の意識は薄まりつつある、けれど、まだ未練があんなにある。若しかしたらあの中から現状を大きく動かす存在が突出してくるかもしれない。雪に閉じ込められた王国がそのまゝ理に従い全て空へと昇って行くのか、それとももう一度王国で生活する為に理に抗い生存を続けていくのか、私はそれを見届けたいのだよ。
トネリコの傍で彼女に寄り添うこともトネリコの心を掬う手立てだろう。けれど私は、此の王国を信じたんだ。一度信じたものを易々と見限れば星の名折れ、私は此の王国が再び生命を宿す水の炎を咲かせられた時、トネリコの元へ戻って伝えるよ、久し振りの再会にはとびきり嬉しい報告(しらせ)があった方が良い!」
 確かにそれは、トネリコには出来ない仕事だね。
「分かったよ時計座さん。君の意志は彼女に僕達が必ず伝えます。それと、有難う。僕等の出身国をそんなに大切に想ってくれて、信じてくれて。僕の寿命では見届けることが叶わないかもしれない数千数万年後の王国を、どうか見つめ続けてやってください。」
「勿論だよ、任された。星座を探しにきたのが君達ふたりで良かった。達者でね。」
「儂は人と違って寿命が無い不老不死だから、いつか暇になったら遊びに来てやろう。その時は土産話を期待しているからな。」
 微笑み合ってハーゼ達と時計座は別れた。星座はずっと見て来たのだ、滅びたものが姿を変えて新しく生き続けていることを。

報告後と君が来る前のこと

「トネリコ、また泣いてたね、泣き虫さんだねえ。」
「嬉し涙だって綺麗だったな。同じ星屑でも重量が違う。最初の報告がハッピーエンドで助かった。」
「また泣かれたら困るから?困るのは君の胸が痛むからじゃあないのかい?トネリコ!儂が何とかしてやるぞーって想うからじゃない?」
「若造が!知ったことを…!」
「じゃあ聞かせてよ、君の話を。」
 はあ。故郷から戻って来てから妙にむくれていた理由はそんなことかい。儂が自らの過去を教えないから面白くないのだろう。
「知りたいか?童話みたいな話じゃあないぞ?それでも良いんなら」
「早く話してよ。」
 顔だけ可愛いのは何方(どっち)だ。
 その男は自らの生れ育った国を愛していた。環境に恵まれていた男は住む場所の近辺をこまめに掃除したり、植物の手入れをしたりと、誰でも出来るような慈善行為を他人に見せびらかす傲慢もせず、街の端っこでおとなしくさゝやかに暮していたと言う。
 男はぬいぐるみを作る職人だった。幼い時に工作したぬいぐるみを褒めてもらえた事を忘れたことは無い。しかし国はぬいぐるみを重要な産物だと考えることは一度足りとも無かった、むしろぬいぐるみは教育・成長の妨げになると恐れられ、迫害された。丁度男の住居兼工房の近所に学校が新しく建つ工事が始まった頃の話である。
 男は一人暮しだった。正確には人間は男だけだったがぬいぐるみが澤山居たので孤独では無いし、彼の産み出すぬいぐるみは皆素朴な愛らしさを備えていたので、男は澤山の弟と妹に囲まれてよくお話をするので忙しかったから寂しさを特段感じることは無かった。
「今日はどのお話にしようか。」
 工房から自宅に帰る際庭を通らなければならない。其の庭は男が祖父、父、自分と受け継いできたもので、雨の詩と花の旋律を奏でる秘曲の庭であった。廊下と庭を区切るエメラルドの柵を越え足を片方踏み入れると、ラムネのように(まろ)い青い菫の水晶が鈴のふれあう音を鳴らす、さざ波の調べは桂のシャンデリアに火を灯し序章は庭全体を照す。(えんじゅ)(えのき)(にれ)(くすのき)、高木はいずれも凍る炎のルビーの木肌、オパールの葉に莟のアクアマリン、小さい花々はラピスラズリの艶を放つ。絶えず降り注ぐ雪の三日月の欠片はしとしとと草木花に潤いを与えて一日とて雲の水車を止めた(ためし)が無いと聞く。此の常ならざる庭は人目に付かない生活を細々と確実に続けて来た男だからこそより一層天然の輝きを放つのかもしれない。
「じゃあ、今日は此の物語にしようか。」
 男は宝玉の樹に話し掛けると、ラピスラズリの花は今度水晶の一葉へと姿を変えてぽとり男の掌に落ちてくる、不思議や人の肌に触れた途端葉は一冊の本となってパラパラ(ペヱジ)のそよぐ音。
 庭をくぐって帰宅すればまだ眠気の取れない瞳でむにゃむにゃと寝言のように
「おかえりなさい」
とぬいぐるみ達が口々に呟く。男が仕事をしている間かれらはどうやらお昼寝をして待っているらしい。
「ただいまみんな。今日も本を借りてきたよ。」
 その言葉に兎や狐や猫や仔熊達がワッと喜び起きて男の足元に集まって来る。わにゃわにゃと戯れるぬいぐるみ達を叱りもせず男はウッドチェアーに座り、足元、膝の上、肩、頭などに弟妹を載せたまゝ本を読み聞かせ始めた。
 優しいぬいぐるみ職人のティラには一つ、気掛かりな心配事があると言われても、余人はなかなか信じまい。こんな穏やかな日常を過ごす者に何の不満が生じるものかと笑うだろう。
 ティラの家のある場所は学校の指定通学路から大きく外れていた。尤も子供を学校へ行かせるのにティラの住む辺りを歩かせようなどと考える親はいないだろう、ティラは前述した通り国からは愛されていなかったのだから。
 それでもティラは小学校が創立した時は嬉しかった。此の国の行末が楽しみだと常々思っていたし、ぬいぐるみ達にもよく話した。けれど彼の期待とは正反対に弟と妹達は心配そうな仕草をよくした。顔の表情が一見変らないとは言え、よく見ると不安気な空気を湛えているのも気掛かりで、ティラはぬいぐるみ達に訊いてみた。
「みんな、如何して悲しそうな顔をしているんだい?新しく学校が此の国にできてから何だか元気が無いようだけど、怖いものでもあるのかい?」
 ぬいぐるみ達は互いに顔を見合わせて黙っていた。言えばティラを傷付けるかもしれないと心配しているようだった。
「僕なら大丈夫だよ。正直に話してほしいんだ、君達だけに悩ませておくわけにもいかないからね。やっぱり、学校が建ったことが気になるの?」
 かれらに隠し事は向いていない、ぬいぐるみ達は観念して口を開いた。
「あの学校が建ってから、ぼく達怖い夢を見るんだ。みんな同じ悪夢を見るの。此の国がね、忘れさられてしまう夢。」
「忘れさられてしまう夢……」
 まるで神話に於ける罪の街の再現だ。記録も記憶も認められずに存在自体を奪われてしまう極刑、それが、まさか、此の国に?
「それにねティラ、あの学校が造られた場所って、前は星見の為の観測台が在った所でしょう?学校を建てる為に壊されてしまったんだって、庭に来る小鳥から聞いたんだ。彼處(あそこ)は…」
 以前のティラの職場である。ぬいぐるみ職人には当初なる予定は無かったのだ、星見の仕事の(かたわら)で趣味としていそしみたいと考えていたものをまさか本職にしようとは昔の自分が知ればさぞ驚くことだろう。
「そうだね、僕の職場だった所だ…此の王国は誕生した時から星見の職と共に在ったのだけれど、時代の流れが巻き戻ってしまったのだろうね、今時星見なんてくだらないと……当時の王と国民達に追われて雇いを解かれてしまったんだ。これからは啓蒙の時代だと…」
 石を投げられたっけ。口にすると悲しくなるから声には出さなかったけれど。
「きっと学校を建てた場所が良くなかったんだよ。でなきゃわたし達怖い夢見ないもの。それまではあんな夢一度も見たことなかったもの。」
 弟と妹達の心配をどうしたら拭ってあげられるだろう、ラティは仕事も忘れてその事ばかりを考えた。
「忘れられてしまうのなら、あの子達も、庭も、例外ではないのだろうな。」
 工房には数年ランプが点かなかった。庭と家を往ったり来たり、かと言って妙案を思い付くでもなし、ラティは玄関前にて育てているハーブや果物を収穫しては紅茶や食事の材料にしてもくもくと食べていた。ぬいぐるみを作ってほしいと依頼する者などもはや故郷には居ないのである、そんな事、星見の台が壊された日から分っていた。
「星の声はとても小さいんだよ。」
 夕食の時間、ぬいぐるみ達と向き合って話をする。
「一つ一つでは人間の囁きよりも小さな声さ。けれど星々は自身に道があることを見つけた、その道はやがて離れた位置に居る他の星と繋がったんだよ糸のように。そうやって空に新しく生れたのが、星座なんだ。星見の台に勤める者は星座の声を聞いて大衆に伝えるのが使命だったのさ。
勿論星座だけではないよ、惑星同士が奏でる音楽に耳を傾けて…一見混沌に思われる宇宙の暗闇の中にも銀河と言う秩序が絶えず流れている。秩序を必要とする人類の助けになるからと国王自ら設立に熱意を以て取り組まれていたのだがね。
大昔の話さ。
解雇された事自体は苦しくなかったよ。自宅菜園で自分の食べる分は育てられるし家だって祖父(じい)さまの代から受け継いでいる物だから衣食住には困らなかったんだ。僕が恐れたのは時代の流れ…風潮って言えばいいかな、人々の認識が昔のまゝじゃあいられない事自体が恐ろしくってならなかったのさ。」
 コトリ
 スプーンを持つ手をテーブルに置いた姿でラティは一時停止した。瞳は瞬きしているものの泉の淵のように淀んでうっすらと雪を被っている。
 自分には子供もいなければ弟子もいない。死んだ後には誰が弟妹と暮らしてくれるだろう?悪夢が現実に起こればだれがあの子達の存在を記憶していてくれる?現時点で自分にもその“誰か”は見当らない。
 今いないのならば未来に賭けよう。
 日に日に砂時計の速度が速まっているのを感じてはいる、感じていても手の出しようも変えようも無い、ならば、未来の者から身勝手だと怒られようが託すしかない、ラティは長い間消していた工房の明かりを再び灯した。
「皆、集まってくれないかい。」
 ラティの呼び声にぬいぐるみ達は喜びながら全員集まった。
「ラティ、何かすてきな案が思い付いたの?」
「此処に来るの久し振りだねえ。」
「新しい子を作ってくれるの?」
「今日は顔色が良いみたいだね。」
 いつまでも変らない愛しい眼差しに鼻の奥が小刻みに震える、滲みそうになる視界を叱咤して彼は穏やかに微笑んだ。
「皆が好きな…アリスの物語を憶えているかい?」
 不思議の国のアリス、まるで今の世界を予知した如く言い当てたその書物はラティ達のお気に入りだった。縦横無尽な想像力が次は何處へ連れて行ってくれるのと庭に揃ってどきどきしながら頁を順番に捲った回数はそれこそ星の数であろう。何度も何度も飽きることなく読み続けた、此の作品の姿を借りる。
「僕は帽子屋も不敵な猫も大好きなんだがね、やっぱり真先に思うのは白い兎なんだ、いつも君達と暮してきたおかげかもしれない。主人公よりも思い入れのあるキャラクターに、僕達の生きた証拠を託そうと思う。そして、未来に生れた誰かに、白兎のぬいぐるみに逢いに来てもらえることを祈って。」
 ラティとぬいぐるみ達は作業に取り掛った。澤山の物語の夜明けに誕生したのがポポロンなのである。まだ名前の無い一番末のきょうだいはもうしばらく夢と(うつゝ)を彷徨うだろう、けれど必ず君を迎えに来てくれる人がいるから、その時になったらぱちりと目を覚まして、自己紹介をするんだよ、どんな人が訪ねるかまで見届けてあげたかったけれど、迷子にならないように皆で傍に居るからね、どうか君に、新しい物語が澤山出来ますように。
 話し終えたポポロンとハーゼの頭上に、雪と灯る北極星が光っていた。

北天

 紫の旗の雪の中を探索し終えた後、ふたりはトネリコから貰った小屋に住んでいた。昔住んでいた家と似ている方が良いかもしれないと彼女が気遣った結果、三角屋根で実家によく似た暖かな一軒家をくれたのである。トネリコは過ぎた配慮だったろうかと悄然としていたが、ふたりは真逆、喜んだ。
 頬の色が似た色に染まっていくふたりを眺めて、彼女の心は少し軽くなったみたいだったが、まだまだ問題は積まれている。
 先ず読者には”北天(ほくてん)”について話そうか。北天とはハーゼ達が暮している場所の名称であり、灰色水晶の清廉を借りる雑草達が整えられている足元一帯、其処が北天である。此処は今の世界の枠組みに入られない者達の中途地点で、様々な世界からトネリコに掬われた俗にはみ出し者が等しく深い眠りに沈んで亡国の故国の夢を見て寝たまゝ涙を流すものだったが。
「今日も起きているのか。」
 ふたりを起こした家の内に入って来た蠍座が声を掛けると、ハーゼとポポロンは大きな欠伸をして目を覚ました。
「お、蠍座かい。次の雪は()の旗に入れば良い。」
「あーさーごーはーんン……」
 人は寝汚いなあ。ぬいぐるみは起きた瞬間脳がフル回転し始めるのに、人間は三時間程掛かるんだってね。
「今紅茶淹れてあげるから一寸(ちょっと)待ってなよ。」
 蠍座はシャウラと呼ばれる尾先を器用に操り茶葉の入っている群青の缶を取り出した。ポポロンは手早く自身の毛並を両手で整え済ますと蠍座の居るキッチンへと移動する。壁に掛けてあるスキレットを手にしてコンロにふっと息を吹く、すると炎はフライパンを戴く準備を終らせた。玉子を割ってベーコンを入れてジュージュー焼く間にパンを皿に盛ってマーマレードをたっぷり付ける、堅いパンはジャムの甘さで程好く和らぎお気に入りのブレンドティーの催促をする。もう少し、蒸らす時間はきっちり二分と四十六秒、ハーゼが二段ベッドから降りて来てキッチンに来たら完成の合図。
「ほらハーゼ、いただきます。」
「いただきます。」
 紅茶を飲んで心を覚ます、よくある朝食の一風景。北天に居ながら日常を続けるなんてなぁ、蠍座はふたりが来る前までの北天を少し思い出していた。
 青空の無い空は黄昏と夜を目的も無く往復し、地面は鉛色に濁った大小悩乱の石達が形も不揃いに広がっていた。自我を溶かして綿毛になった何處かの誰か達は根付く事も出来ずいつかそのまゝ消えていくだけだった北天、何處からか追い出されて何處への羽ばたけず死にゆく嘗ての生命に同情が無かったと言えば噓になる、実際世界樹の乙女は悲しんでいる、だが蠍座は無垢なる友ほどかれらを愛することは叶わなかった。そしてその性格は今になって発現したものではないことも自分で理解していたのだ。
 生命の育む営みは、温かいものである、温もりを備える其等を隣ではなく空からではあるが眺めているのは喜びを感じる仕事だった、生命が誕生し、涙を流す、体温を知る、大きくなる、生きる為の術を学び実践する、技術を後の代に残す、旅立つ、また生れる…命と言う星を灯された以上生物はそのように巡り廻って続いて来た。来たのに。
 見守る愛も、成長を促す愛も持ち得なかった。
 天下の出来事は何處か遠くかけ離れた、本の中で進退する物語のように思われた。悲しい事や苦しい事が登場人物を試せば引き込まれて感情移入はするものゝ世界の根底を変えてかれらを苦痛から逃れさせようとは思えなかった。世界樹の涙は拭ってやりたいと痛みが湧き気が()くけれど地上の者達の涙はどうしたいとも思わなかったのだ。
「余程心の無い化物じゃないか。」
 自分で自分を嘲笑う。アンタレスなど随分な皮肉、見守る役目に就きながら仕事に必要な感情を持ち合わせない不出来者、若し世界樹のように遍く深く気に掛けられたら?もっと適任がいるのでは?自分を拒み疑い出せば歯止めは利かず転げた木の実はやがて石と化し錨となって淵に底無しに沈んで行く。世界樹には勘付かれないよう友には平常を装い神経を使う、竹馬よりの間柄に計算を以て接する日々はますます蠍座の心臓を逸らせた。
 重い視界の中で見る北天はさぞままならぬ場所に映っただろう、世界からはぐれた者の中継地点など。青天を拒む斜陽と沈黙の空間に、さゝやかな奇跡や幸せなんか似つかわしくない、自分が治める場所は化物の住居(すまい)らしく冷めきっていれば良い。
 友の秘密にしたそうな溜息に、ユグドラシルは動いた。
 屋根裏で遊んでいたのだ。親に見られたらサプライズが台無しになっちゃうからと気遣ってポポロンがアドバイスをしてくれた、母の日と父の日が重なる数十年に一度きりの特別な日、花束を可愛くおしゃれにアレンジしてくれたフラワーショップのお姉さんには感謝しなくちゃ。後は手紙を書き終えたら封筒に入れて、シールできちんと留めておく、その時が来るまでもう少し静かに待っていてね。
 今日は満月、もう少しで昇って来る。空に月が輝いた時、晩ご飯を知らせに来てくれるから、そしたらプレゼント達と一緒に階下に降りて、二人を驚かせちゃおう。もうじき、もうじき月が黄昏の空に光るから。
 もう一度瞬きをした時、ハーゼとポポロンは世界に取り残されていた。母を呼んでも、父を呼んでも、返事も微笑みも現れない。泣き叫んでも、走っても、誰も気に留めやしない。万物は透明に崩れ白く冷えてゆく、すでに持っていた名前を溶かされ意識は鋭さを失い緩やかに倒れていく。
 憶えているのは自分の名前と、ポポロンだけ。ポポロンとの記憶はあるのに、彼が来る前のことやいない時のことは何一つ憶えてはいない。憶えてはいないのに、何かを永遠に見失った深く重い喪失の情は激しく、じっとしていられない炎となって雪降る街を歩き続ける。ポポロンはずっと何かを話してくれていた気がするけれど、言語を認知する感覚に至る迄全身が凍る炎に苛まれていた。
 歩いて、歩いて、疲れ果てる。止まぬ雪原に身を倒す。此処が元々どんな場所だったのか分らない、忘れさせられている今の自分は何も頼りになりはしない。
 零した涙が、世界樹の涙と繋がった。
 少年と言いたくなるまだ幼い顔立ちの彼は酷く疲れていた。身体は寒さに囚われて魂の輪郭も溶けてほつれかけていた。こんな状態でまだ自我を保っていられるなど信じ難い、奇跡に近い。滅びた世界に生きる者は生前の輪郭を手離して天と地を往復するか地上に留まり続けるかの何方(どちら)かに果てると言うのに、少年とぬいぐるみは生きたまゝの姿でいる、更にあろうことか記憶も一握り残っているではないか。彼等ならば友の鬱した横がほに湖の光を照らしてくれるかもしれない。
 滅びた世界と北天に伸びるそれぞれの根に力を込める。何處かの悲劇は何處かの月光として灯ってしまう事実を自分は知っている。丁度、己の涙が世界を照す星々として扱われたように。
 人が希望を見つけるのであれば、それは生命に許された本能なのだろう、ならば夜空に根を張り続ける此の身にも、その友達にも与えられて然るべき。
 太古から変らぬ雪に、手を伸ばす。

天秤

「君、断っても良いんだよ?」
 トネリコと愛称を貰う前の世界樹ユグドラシルは涙を拭いもせず、まるでその手間さえ惜しいと言わんばかりに首を横に振り拒否の意志を相手に示した。
「君を遺物として一度は捨てた奴等の望みに正面(まとも)に付き合う必要なんか無いだろう。」
 初めて世界樹が世界に生れた時、神々は彼女を最も素晴らしい木だと讃えた、最も立派で美しい木だと大切に丁重に扱った。それは、神々が自分達より大いなる存在のある事を心の中心に据えていたからであり、畏敬の念は軸を保ち続けることで生まれて来る。神々は植物を下等な物言わぬ生命として見ていなかった、実際トネリコの木の他にも楡の木をトネリコの次に並び立つものとして位置付けていた。例え順位が付けられたとて樹々に対する彼等の信仰の念に差異など無かったことだろう。大切にしてくれた恩を感じていたから、ユグドラシルは神々が焼かれて冷たい灰だけが残っての世界を見捨てて燃えつきることはしなかった。愛した者達を亡くした後も、寂しさを抱きしめながらでも、世界樹として在り続けたかった。
 けれど思いは想いとなれず、人類は彼女を不用品として捨てた。人間の世界に繋がれていた根はチェーンソーで切り離され、出血の多さの余りユグドラシルはそのまゝ北天へ行くこともできずに夜空へと倒れこんだのである。夥しい血、蒼白な顔、全身から血の気が引いて行く勢いを何とか押し留め続けたのは天秤座であった。天秤座は神々の世界の滅亡の際にユグドラシルの涙から生れた星達であった。瀕死の友の命を必死の手当てで繋ぎ留めた天秤座が人間達を激しく憎むのは川の流れと酷似している。
 人間の世界は栄えた、けれど当然行き詰った。そしてユグドラシルに助けを求めた、愚かなノイズを聞き流せる程世界樹の耳は強くなかった。
 天秤座も勿論承知しなかった。
「奴等が求めているのは君の涙の輝きだ。涙を流してもらえれば世界には星と星座が生まれるからな、その光が欲しいんだ、散々ライトだのと開発しているくせに!
 引き受ける必要など微塵も無い、奴らが幸福になるには君が悲しまなくちゃいけないんだぞ?君を泣かしたがっているんだ、だから戦争を彼方此方(あちこち)で続けているんだぞ?君が胸を痛めると知っているから!」
 天秤座は彼女を引き留めることができなかった。
「次は赤い旗か。」
 北天の我家で朝食を終えたテーブルの上、ポポロンが蠍座の持って来た硝子瓶を覗き込む。瓶の中には赤い旗のポツンと突き刺さった雪が入っている。
「今度はどんな国だろうね。」
「星座は誰を探せば良いのかね。」
「国についての説明は多少出来るが誰を探すかを答えることは出来ないよ。彼奴は嫌な奴だから。」
「トネリコもそう思っているの?」
 硝子瓶を受け取りくるくると指で回し眺めながらハーゼは蠍座に訊ねたが、気付いていないのだろう、相手がどんな表情で話をしていたか。ポポロンは丁度蠍座の顔を見ていたからハーゼの質問が愚問であると即座に気付いた。
「おい、いいから早く行こう。」
 ハーゼを促し誤魔化せば、蠍座は小さく一つ溜め息を吐く。普段より少しだけ慌ただしい出発だった。
 赤い旗の刺さっていた雪の以前の姿は王国ではなく民主主義の国だったようで、ハーゼ達の故郷のように積もる雪も居らず、静まりかえった何も無い平地だけが広がっているのは国民全員が此の結末に異論無しと一致したからに違いない。
「雪すらないね。平地と夜空の区別が付かないや。」
「選挙で満場一致でもしたんじゃあないか?滅亡に賛成って。」
「あ、ポポロン(きみ)馬鹿にしたろう。」
「まあな。生れ育った国の体制が相容れないんだ、鼻で笑っても大目に見てくれるさ。」
「何身勝手なこと堂々と言っているのさ、体制が真逆でも同じ国々だろうに、通ずる点はある筈だよ。」
「おまえの呑気な正論は、きっと学校で教えられたものだろう。儂は学校が好きじゃない、だから学校での教えも好きじゃない。」
「そんないやいや期の幼女じゃあないんだから。」
「何でもかんでも見るもの触れるもの聞くもの全てが嫌なんじゃない、学校が嫌いなだけさ。儂を作り出してくれたもの達が、学校は怖いと言うから。」
「ラティさんと一緒にいたきょうだい達かい?」
「そう。星見台をぶっ壊しただけで飽き足らず不躾にもその真上に牢のような鉄格子の学校を創るなんて気色悪い連中だよ、ほんと。」
「ねえ、先刻(さっき)王国に戻った時、ラティさんのお家は…」
 話を聴く前に何の気なしに通り過ぎた道の何處かに、彼等の住んで暮らして自分とポポロンを結び付けてくれたあの場所は。
「もう何も無かったよ。雪も積らないでいた。」
「何、も?」
「そう何も。」
 ほら見ろ、気にしなくて良いことを気にするから一人で寂しくなっていやがる。
「聴いてくれていたろう?儂はラティ達全員の物語で紡がれた存在だ、儂の中には彼等の生きた記憶がある、家が無くなったって家は儂の中にずっと在り続ける。……失われた訳ではない。」
「そうか…そうだね、そう、だよね。」
 前を泳ぐように歩き出したハーゼの背中に些か首を傾げながらポポロンも夜だけの世界を歩いて行く。
 昔の民主国は一箇所に炎を残すだけだった。暗闇が在る限り燃え続ける焚火の炎がたった一つ。早見盤が指し示すのは焚火の隣で座り込み闇を薪にくべ続ける星座だった。
「天秤座。」
 ハーゼが声を掛けると、彼はにこりと薄い微笑みを湛えた。まるで夜更けが曙に溶けて薄れてゆくような、寂しい微笑。
「こんにちは。」
 天秤座は中性的な声だった。
「こんばんは天秤座。貴方を探しに来ました。僕はハーゼ、この子は相棒のポポロンです。」
 凍った藤の花の瞳でふたりを少し見つめた後、ゆっくりと一度頷いた。
「探しに来たって、何故?」
 理由を知ってそうな頬と唇、躑躅を呑んだようにうつくしい。
「星座なら自分で分かってるんじゃないか?貴方等(あんたら)はトネリコの傍に居るのが普通だろう。あの娘から離れ続ける理由は何だ?」
 話を進めたがらない天秤座に肝を煮やしたのか、ポポロンは口調やゝ厳しく問い返す。
「トネリコ…世界樹ユグドラシルのことかな?」
「そうだよ、僕等があだ名を付けたんだ。」
「そう、愛称を……」
 ぽかんとした表情を一瞬見せたかと思うと、また微笑んでふふっと吐息を僅かに零した。
「分かった、教えるよ。此の焚火を見ていて御覧、火は怖くない?見つめていて。おれが何をしたのか見せるから。」
 国が(おこ)ったばかりの時は王制だった。それから民主制と王制を繰り返し続け滅亡の際は民主制の順番になっていただけのこと、若し王制の番だったとしても滅んでいたかもしれない、そうでなかったかもしれない、制度により存亡が決した訳ではなく、ただ国の在る場所が寿命を延ばせられなくなったから派生で国も滅んだだけ。人の見解は星座の見立てとは大いに異なるものなのだ。
 ユグドラシルの涙を希望の光と仰ぎ続ける種族に同情心や憐憫の情は湧かなかった。蠍座は幾分か彼・彼女等に寄り添おうとする姿勢を数滴持ってはいたが、己には元より涸渇してした。他者の不幸を幸福とし、あろう事か自分達の慰めに用いる輩など、どうやって愛おしめば良いのだろう。
 天秤は公平性の象徴としてよく扱われてはいるが、それはあくまでも人側の思い描くイメージである。想像と現実は異なる、此の場合は大いに。
 天秤座はユグドラシルだけを愛していたのである。しかしユグドラシルは森羅万象を愛していた、慈しみと称されるものよりも深く。自分ひとりにだけ向けられることの無いものだとは生れた時から知っていた、そしてその在り方を止めたら世界樹は世界樹足り得ないことも。
「だから黙ることにしたのです、彼女を思う心を深く沈めさせたまゝにしようと。」
 役割は人間の世界の空に立ち続けること、照らせと頼まれるなら照らせば良い、示せと縋られたのなら縋れば良い、人の求めるものを与えること、それが人も愛するユグドラシルの喜びに繋がると信じて。
 神々は絶え、地上に登壇した次代の生存者達は前の代と似て異なるものを求めた。神代には強い力・強い武器を望まれ戦に勝利することを祈られたが、人間は変哲の無い日常を求め、日常が連綿と続くよう祈られた。相手を打ち倒し圧倒的な武勲を誇る行為は人の時代にはもう流行らない。人は温厚と融和を重んじたと言えるかもしれない、其は事実である。しかし、神と人との大きな違いは謙虚さだと天秤座は感じていた。温厚と融和には違いないが、その内情を見せてしまえば良い、優等生の本音を大衆は知りたがるから、その浅間しさに免じて教えるよ、と彼は苦笑い混じりに心中己をも嘲った。
 ユグドラシルの記憶を知った際に見た神々は欲望に忠実だった、欲しいものは欲しいと言い隠すことはしない、自らが間違っていないと信じている、と言うより自身が絶対だと分かっているゆえとした方が相応しいかもしれないが、何にせよ神々は正直だったので世界の仕組みは単純明快に回っていたのだった。
 しかし自分が実際目の当たりにした人間は必ずしもそうではなく、人は本音と裏腹な言動をして欲望に素直になることを厭うきらいがあった。それが世界の歯車を細分化させ複雑怪奇にする原因となってしまったのである。謙虚が悪徳・不善とまでは言わないが、必ずしも美徳にならない場合もある…尤其はあらゆる道徳に通じる警句ではあろうけれど。
 冷めた目で空に佇む。そのような己を人々は自分達を導くものだと仰ぎ、運命を測る座標とし、恒平の具象化だと定めた、愚かだとはうんざりしたが、そのような勘違いは天秤座だけに向けられていたから排除しようとは憎まなかった。
 それも、人間が再び世界樹を望むまで。あゝ本当に、どうして此の名を負ったのだろう。

 天がなぜ地上の争いを止めぬのか、地が何故天上と同じ環境にならないのか、考えたことはあるだろうか。人はよく嘆く、嘆く怨嗟の声は大抵神に向けられる、天に向けられる、無理も無い、絶望の中で常に正しく立ち続ける力など最初(ハナ)から所持している方が稀だもの。だからこそ責める真似はしない、一つの真実を残していくだけで。神々でさえも理に抗うことは出来ない、と言う数多ある中の真実の一つを。
 トネリコと呼び名を貰った世界樹の居る地球では、生きるもの死したもの総ての平和を望む心に因り存在する(ことわり)と呼ばれる掟がある。そして厄介か幸運かは判別付かないが、理とは不変の代物ではなく変化し流転し続ける性質を持つ。或場所ではAとされたものが他の場所ではZとされたり、或時代に善しと認められたことが或時代では(わろ)しと変わっていく事象も、理の変化による波紋であるのだ。前述したが、此の捉えようの無いおおきな意志の前には神々も従わなければならない、理を守ることは一つの天体を維持していく為に必要な最低条件だからである。逆に言えば、今在る世界を捨てて粉々にして塵をも残したくないと考えるのであれば理を侵せば済むのである。地上から争いが絶えず起きるのは理を破壊しつくそうと目論む者が絶えないからと言えよう。
 だが奴等の理だと信じるものは其の(じつ)、理ではないのである。捉えようの無いものを捉えた時点で、其は捉えようの無いものではなくなってしまうのだから。理とは永遠に捉えきれない存在なのだ。
 理の一つに、次のような文があるらしい。
”天は地に、地は天に干渉すること能はず。”
 言葉の正否を考えるより先に、天秤座は世界樹を嬲った地上に手を出していた。
「じゃあ、貴方が此の国を滅ぼしたってこと?」
 牡丹の花びらはまた一枚色を失って炎に溶けた。
「いや。そうはならなかった、おれとしてはそうなってほしかったけれど、此の世界の理はとてもしたたかで厳しいやつさ。おれの仕掛けた行為なんて地上に届きもしなかったよ、到達する前に散らされてしまったんだ、最初から何も無かったかのようにね。」
「あんたが罪を背負うのを寸での所で止めてくれたんじゃあないか?少なくとも儂にはそう思える。」
「どうかな…直接人を殺めずには済んだけれど、おれは何處にも行けなくなったよ。」
「…どういうこと?」
ハーゼは質問しなくとも其の答えが分るような気がしていた。
「国が滅びたのは見届けた。ユグドラシルが悲しんだだろうから彼女のもとへ戻ろうとしたんだ、もう此処に居る必要は無い、人に求められたからおれは此処に留まっていたからな、でも、出られないんだ。手紙も声も届かない、彼女に事情を話すことも許されない、だからずっと此処に居続けるしかない。……こうやって埋火を延々と作りながらね。」
 パチンと薪がまた爆ぜた。
 赤い旗の留まる雪から出て来たふたりは、硝子瓶の蓋を閉じた後中の雪を見つめていた。
「此の雪は、どうなるんだろうね。」
「他の雪と同じように降っては溶けてを繰り返していくんだろうさ。」
「彼、トネリコのことを愛してるって言ってたね。…ポポロン。」
 いつものハーゼならわざわざ目をポポロンに向けないまゝ話していたろう、しかし今の彼は相手を見つめて、言った。
「愛するものと会えないことは、寂しくないのかい?」
 その定めが理の為せる(わざ)なのかは、分らない。
 蠍座にはハーゼとポポロンが旅から戻って来たのを察知し、北天に歩いて来るだろうふたりを家の前で待っていた。ふたりの姿が見えるまで、彼女はトネリコのしなやかな根に指先だけ触れて話をしたかったのも、家の外に出た理由である。
「トネリコ、聞えている?」
 いつもと変らない、穏やかな風の音。
「天秤座は貴女のことが嫌いだから()の国に留まった訳じゃない筈よ。まあ、そういう所が私は嫌いなんだけど。」
 くすぐるような小鳥の声。天ノ河を透かした葉の煌めきは北天の灰色優しい(ぎょく)草原(くさはら)に反射しては流れてゆき、足元の菫を撫でる雫となる。
「北天に花が咲くなんて、ハーゼとポポロンが来る迄は信じていなかったわ。貴女に教えてもらった御伽話を忘れた訳じゃなかったのだけど、まさか本当になるだなんて思いも寄らなかったもの。」
 此の場所には細かな花が咲くのである。牡丹のような大輪の花は北天の土に堪えられないから。
「彼奴は北天(ここ)には似合わない、貴女の姿を見るどころか、近づく事すら怯えて出来ないから。トネリコを穢してしまうんじゃないかって、心配しているからよ。」
 あゝ本当に腹が立つ。だから天秤座など探しに行かせずとも良かったのに。
「何で出逢ったんだろうね、貴女達。」
 月と蛾は原初から分たれてはいなかった筈。人の産み出した人工灯によって蛾は月光を見失い彷徨う羽目になってしまった。希求されるものと希求するものでが同じ世界に隣あって並ぶことなど叶わないことだと書物は常に語っていたのに。
「愛することは、哀しむこと。」

夢、或いは霧の中で

「本当にポポロン一人で大丈夫?」
 ハーゼはポポロンの首元の蝶ネクタイを整えながら尋ねる。
「雪に潜り込む訳じゃあない、今日はトネリコの嬢さんに会いに行くだけさ。ご近所への散歩くらい儂一人で平気だよ。」
「ねえ、君のことを心配した訳じゃないよ。トネリコ。僕はトネリコの心配をしているんだ。君と一対一だと彼女が元気を失していくんじゃないかって気掛かりさ。何せ君はお世辞も好く言えない不器っちょじゃない、可愛いのは顔だけでさ。」
 ポポロンの手がハーゼの頬をむにぃと挟んだ。でも、ポポロンは何も言い返さない、どころか、ハーゼの顔ではなくそっぽを向いて決まり悪げにしているではないか。
「トネリコ泣かせたら承知しないわよ。」
 アンタレスの赤は今は怒りの赤。ハーゼが長い耳の傍で囁いた。
(本当は蠍座の役目でも良かったらしいけど、彼女彼のこと心底嫌ってるみたいだから何しでかすか分からないぞなんて僕に言い出すのだもの!)
(最初に気付いとくべきだったな、残念。蠍座の表情をあの時見ていなかったおまえの負けさ、諦めな。)
(そうだけど…誰かがトネリコに天秤座のことを報告しに行くと思うと腹が立って仕方が無い、家にある食器も道具も彼方此方放り投げて暴れてしまいそうになるからその相手をしろって…無茶だよ!)
(何も相手と言って応戦しろって訳じゃあない。蠍座の愚痴を紅茶飲みながら聞いてあげればそれで良い。)
(あーあ…何で蠍座は僕を指名したんだろう。)
(さあな。)
「じゃあ行って来るから、トネリコ嬢のことは任せておくれ。その代り、家の留守番任せたよ。」
 ポポロンは毛並もつやつや、ふんわりは増麿(ましまろ)級に一等の綿質、普段の身装い《みなり》でも一つ一つをきっちり整えれば充分他所行きのスタイルが完成する。蠍座は別の服に着替えてから行く方が良いと助言したが、汚れも埃も雪も払ってブラシを通しアイロンを掛け始めたポポロンの動きを見ると、着せようとしていた小さな外套をクローゼットに閉まった、うふふと楽しく笑い声を零しながら。
 北天の自宅に残された二人は、ひとまず淹れたての温かい紅茶を飲みだした。
「紅茶って、最初から好きだったの?」
 沈黙にならずに済んだのはハーゼの手柄である。
「うむ……そうね、最初は飲む気も起きなかったけど、今じゃ私達の暮らしに欠かせないものになっちゃった。」
 蠍座はリラックスして笑う。良かった、この調子なら穏やかにポポロンの帰宅までいけそうだ。
「蠍座って、普段トネリコとどんなお話するの?」
先刻(さっき)もしてたよ、丁度ね。内容は、天秤座の話。」
 うわあ、やっぱり無理かも?
「彼奴とは古い顔馴染みでさ、生れた時期が同じなの。神様達が遠くへ去った後トネリコの涙をもとにして私達は編まれたからね。それに位置だって近いでしょう?何かと比較されたり一緒に語られることが多くって、嫌でも天秤座については知るようになっていった。綺麗に整っているのは見た目だけだよ、中身は面倒で根暗で厄介な奴。」
「天秤座はね、トネリコのこと愛してるって言ってたよ。嘘っこのようには感じなかったし、ずっとトネリコの為だけに頑張って来た姿をしていたように見えたもの。トネリコは天秤座のこと、如何思っているの?」
 カタンと音を少し鳴らして蠍座は紅茶のまだ残るティーカップを直接机に置いた、きちんとソーサーを敷いてあるのにも関わらず。
「ハーゼはティーカップや食器は好き?」
「好き…?どう、だろう。気に入った柄の物は幾つかあるけれど、それは柄が好きだからで食器そのものを見ているわけじゃあない気がする。」
「ポポロンはどう?」
「あゝ、彼は食器が好きだよ。お茶会の時に使うものだけで百種類以上は持っているかな、それぞれ役目は同じなのに、空の模様と色、気温、誰と飲むのか何處で飲むのか何を飲むのかお茶菓子の内容、参加者の服装、テーブルクロスとの相性…多くの要素を統合して考え選ばなきゃいけないんだよって毎度毎度大変そうだけど楽しんでいるよ、じっと考え込んだり鼻歌歌ったりしてさ。」
「じゃあ、彼は食器が好きなのね。」
「食器を集めることが好きなのかいって訊いたことがあるよ、そしたらね、そうじゃあないって言われてしまった。でも好きじゃなきゃそんなに集められないでしょうって言ったけど、ポポロン、必要だから集めたまでだって。
でも、ねえ、蠍座。一つのものに向き合い続けるのって愛の成せるわざでしょう?ポポロンは愛情じゃない才能だ、儂にはお茶会の為の才能があるにすぎない、なんて。謙遜か自慢かむつかしいったらありゃしないの。」
「ハーゼは愛だと思うんだね。」
「貴女は違うの?」
「私は別に何方でも構わないもの。」
「え!では何故食器の話をしたのさ。」
「天秤座の話題から離れれば何でも。」
「目の前に食器があったから食器の話を?まあ呆れた人。」
 青年のふくら雀むくれる頬を見てまた蠍座は軽やかに笑う。愛情と才能の違いなんて星にだって世界樹にだって分らない、イコールなのか対立なのか繋がるのかなんてこと、分らないままで良い。大切に思い、或いは想っていられるのならば、それで、それで……

冥王星

 彗星の尾を泳がせて靡くのは金魚である。金魚は天ノ河の郵便配達士で、今日はトネリコのもとにやって来ていた。
「手紙の(ぬし)はどちら様?」
 ポポロンが差出人を見ようと何気無くネモフィラの封筒を覗き込もうとすると、トネリコは咄嗟に封筒を伏せてしまった、これでは誰からの便りか分らない。
「儂に伝えたくない相手なのか?君が嫌がるなら無理を言うまい、どれ、紅茶のお代わりでも淹れて来よう。」
 おろおろしたトネリコを落着かせるように声を掛ける。テクテクとお茶会セットを運んだ先でカップを温め直し一度湯気でジャーッとすすいで水滴を切る為カップを一、二、引っくり返してからソーサーの定位置へと戻す。北天の家から持って来たブレンドティーはポットにまだ薫りも楽しみにまた()がれる時を嬉し顔。
「さあお待たせ。お代わりqを淹れて来たよ。」
 テーブルクロスに銀食器、いづれもトネリコとのお茶会用にと見立てて並べた物だったのに、ポポロンが再びテーブルにトレーを載せたその瞬間、どれもこれも瑠璃水晶の石に覆われていた。
「これは、どういう案内だ?テーブルマナーを無視して二人のお茶会に割り込む無躾な案内は。」
 トネリコ、北天を呼んでおくれと声を出す前に、
兎のぬいぐるみの口元は強く押さえられた。この、感覚は、兄姉の中に記憶されているものと同じだ、ラティが愛した庭を喰った奴。歯ぎしりさえも鳴らせぬ口惜しさにかろうじて手の届く蝶ネクタイをぎゅっと握る。
「ポポロン!」
 ハーゼが自分を呼ぶ声が鋭く稲妻の切ッ先で迸る、アンタレスは炎の弓矢を次々と打ち込み、地駈ける世界樹の泉は侵入者を絡め取った。ネモフィラの封筒が届いた直ぐ、トネリコは北天の根で二人を呼んでいたのだった。
「こんなにもあっさり捕まるなんざ、予想もしていなかった。まさか、お仲間だけでなくユグドラシル自身が攻撃の手を用意していたとは驚きだ。」
「ポポロン、無事か?」
「ハーゼ…」
「トネリコは無事だ、安心しなさい。少し相手の瘴気を吸ってしまったようだ、手当てをするから横にするよ。」
 眩暈のする身を横たえると、ハーゼの手が仰向きにする。ポケットの硝子瓶から取り出したのは、自分達の故郷の雪、紫の旗が刺さる雪だった。それを指につまんんで結晶ごと兎の口に含ませる。呼吸と視界が穏やかになると、今度は眠気が。
「いいよ。僕が起こすから、少し休んでいて。」
 相棒は相棒の腕の中に戻った。それを確認してトネリコは捕らえたくせ者を強く締め上げ、蠍座は相手の目に矢を突き立てた。すると先まで生意気叩いていた口からは断末魔のみが溢れやがてその絶叫も聞えなくなった、不審者は灰にもならなかった。
「トネリコ、大丈夫。ポポロンは回復したよ、今は少し眠っているだけ。ちゃんと目を覚ましたらお茶会を続けたがるよ、今度は四人でね。」
 人間の世界に見切りを付けなかったのは、トネリコや時計座だけではない、或天体も人間を決して見捨てなかった。
「冥王星、今ではだいぶ離れちゃったけど、あの人もハーゼやポポロン達の味方だよ。」
「では儂のお茶会セット一式を石で覆ったのも、冥王星の援軍だったのかい。」
「蝗は全てを喰い尽くす。少しでも興味をそそる物がある場所を見つけたら其の場所にあるありとあらゆる物全部を喰わないと満足しない、それで掃除もしないで散らかしたまゝ他の狙いを探しに行く。トネリコが唯一愛せない輩よ。」
 蠍座は嬉しそうに話を続ける。
「蝗がいつから存在していたのかは判然(はっきり)と分ってはいない。でも星座と同じくらいは生き続けているのかもしれない、考えの無い単純な性分ならまだ可愛気があるわ、叩き潰すのにはね。可愛くないのは奴ら賢いのよ、罠を仕掛けてもはまらないし、ただ追うだけじゃ尻尾巻かれて逃げられる、それに奴等、口先だけは一丁前、自分達の行為をいつも正当化したがって五月蝿いの。」
「惑星の滅亡に、蝗は関係しているの?」
 ハーゼが頭に描くのは故郷の姿。
「蝗は雪を降らせられる?」
「ハーゼ、それは不可能だ。」
 相棒が質問に答えて意識を此方側に戻させようとする。
「蝗は物を喰いつくすが、奴等何かを新しく作り出すことは出来ない。そういう仕組みに…」
「でも、君は現に襲われたじゃないか。あの時、トネリコに呼ばれるほんの少し前、君の中の記憶が流れて来た。その蝶ネクタイはラティさんや君のきょうだい達が一等こだわった物だから、かれらの記憶や思いが伝わったんだ、君達の庭は、」
「ハーゼ。」
「君達の想い出の場所が、蝗どもに喰い尽くされたって。」
「………」
 宥めきれなかったポポロンはハーゼに伸ばしかけた手を膝に戻し、顔を少しだけ俯向けた。自分が狙いの的にされた理由は知っている、あの秘曲の庭を知る者だからだ。
「次は皆殺しにしてやる。先刻は外れてしまったけれど、今度見たらあのどてっ腹に()を突き刺して裂いてやる。」
 藤の花は今や燃え、いつものおっとりした顔に焼かれて炭となった残骸がへばりつく。眦は刺した刃物を返す不倶戴天への返り血で赤く滲み唇は瞳と反対に蒼白に噛まれ、水脈を型どった筈の百合の(いかづち)は今や槍となってハーゼの背中に待機しているではないか。ポポロンは胸が潰される想いで泣きながらハーゼの胸に飛び込んだ。
「やめて!ハーゼ、儂の仇なんて取らなくてもいい。おまえを、おまえに、そんな顔させたくない!」
 えーんえーんと泣きじゃくる、末っ子なのに大人ぶっていた小さな寂しさの堆積が今、此処で決壊した。
「俺だって口惜しいさ!あの庭は父さんや兄さんや姉さん達が大切にしていた庭なんだ。それを彼奴等、俺一人になった途端に喰いに来やがった!でもねハーゼ、奴等が何處からやて来たか知っているか?おまえの通っていた学校だ、学校なんだ。校舎の在る地域に建つには相応しくないからって御託を並べて……」
 ポポロンのかなしみでハーゼの頬が洗われていく。黒い破片も瞳の充血も唇の傷跡も切っ先雫となって透明になって北天の優しい灰色に溶かされる。
 そして、瑠璃の風が吹いた。
「冥王星の使いだわ。」
 蠍座が呟いた時には抱きしめあうハーゼとポポロン、二人にブランケットをかぶせた蠍座達は灰色の門の前に立っていた。トネリコの髪が天ノ河の唄にそよぐのを後ろに感じる。
「ほら、ハーゼにポポロン、二人とも見て御覧。此処が冥王星の住む場所、北斗七星の裏側だよ。」
 素朴な木で拵えた門が向こう側から開かれた。
「いらっしゃい、私の招待によく来たね。」
 立っていたのは一人の老人であった。彼の頬にはネモフィラが一輪覆うように咲いていた。
 何處かの行くことの出来ないとある王国では、人の顔の部分が花になっていると聞く。其の場所はトネリコも訪れたことが無く見たことも無いと言うので、恐らくは別の天ノ河の汀にあるのかもしれない。冥王星は元々其処の出身であったらしい。
 彼の見た目は放浪する者とよく似ており、灰色のマントに大きな三角帽子も灰色、手には身の丈二メートル程はありそうな紫水晶の杖を持っており、杖の先端には氷の蛾が彫られていた。
「近頃は蝗は飛来しなかったからね、ついうとうとと微睡んでしまったのだよ。その隙を突かれた。全く安心して眠れない歳月の後に静かな閑話が訪れたら誰でも眠ってしまうだろう、それを計算して蝗は襲撃してきたのだろう。前例を鑑みるにポポロン君を襲った一疋は偵察役だな、君の居る場所が面白ければそのまゝ一族郎党引き連れて来る手筈になっていたのではないかな。」
「北天が狙われる理由は、以前の北天と様変りしたから?私がハーゼとポポロンを迎えた前の北天と今の北天とじゃ全くの別物だものね。」
 話題に上がっている二人は今冥王星の貸してくれた羽毛布団に一緒に包まってぼた餅のような寝台ですやすやと眠っている。休息の妨げにならないように、冥王星と蠍座はトーンを落として話し続ける。
「天秤座はどうだい?」
「駄目。まだ出て来ようともしない、出られなくなったって、雪に閉じ込められているんですって、当人曰く。」
「そうか……正直、公平・秩序の概念を持つ天秤が再び空に現れれば、蝗は此の天ノ河の世界で呼吸が出来ず忽ち全滅するだろう。そうしたいのだが…」
「彼奴は良いわよね。」
「何?」
「愛することは哀しむこと。昔、貴方が太陽系に属していた時よく教えてくれた言葉です。かなしとは涙ばかりを指すのではないと。」
「憶えていてくれたのかい。そう言えばトネリコと君と天秤座は弟子の中でも特に優秀だった。でも君と天秤座は反りが合わずによく口論していたのを、時計座がいつも宥めてくれていたなあ。」
「話が脱線しかけていますよ。」
「何でまだ仲良く出来ないのかねえ。」
「ちょっと……」
「時計座は旅人達の故郷をトネリコの代りに守護しているのに、天秤座は雪から出られず、北天の主たる番人は蠍座一人、そしてトネリコ、世界樹はまだ夜空の黒点に留まり続け…成る程、隙だらけと言えばそうか。だが仕方あるまい。元来世界樹も星座も人間を守る為の仕事をしてきた訳ではないからな。」
「守る役目に(したが)っても貴方は追放されたでしょう。」
「追放が役目を終える合図になるとは限らぬよ。」
 花心は笑ったようだった。
「それに、こんな出逢いだってあるだろう?」
自らは寝台も布団も用いず今蠍座と挟んでいる黒曜石のテエブルに寄り掛かって寝ると言うのに、来客の眠る為にトネリコとともに内緒で造ったそうな。
「二人に逢えることは思いがけなかったと?」
 ハーゼの頬を裂いた涙の痕はだいぶ薄れてきており、ポポロンの頬を濡らした涙も引き潮になりつつあった。
「さあね。いつか来るかもしれない気もしていたし、ずっと顔を見ることも無いかもしれないなと思っていたよ。」
「貴方ののらりくらりが天秤座に引き継がれたみたいですね。」
 嘗ての師におべっかを使うような星座ではない。だが冥王星はうむうむと頷いている。
「やはりアンタレスを担うだけあるね。そうだ、天秤座は未だに自らの進む方角を見つけられないでいる、あのような炎と夜の細々とした空間に居続けていては見える道も見えなかろう。だからこそ、我々は待つことを徹底せねばいけないのだよ。」
 言いたいことはよく分る。心ばかり急ぎがちな自分を見据えて言ってくれているのだから。でも、
「それでもトネリコの為に彼女の涙の役目を終らせたい。少しでも早くと願うのなら、星座達のすべきは何か、分るだろう。」
 見透かされた心を制止されただけではなく、相手の力量を確実に正しく把握しているから言える、口に出しては言わない文章。そして其等を自分が知った時、私がどう思うのかも知るネモフィラ様よ。
「愚痴を言いに来ただけですよ。二人は起すのも面倒なのでこのまま北天に連れて帰ります。北天を離れて夜空を歩いたら狙われるでしょうが、そうはさせませんよ。私が二人を面倒見てますからね。」
「立派になったねえ蠍座。まるで二人の姉君みたいだよ。」
 心底の言葉を贈ったが、蠍座はゲエッと舌を出して振り向くと、ハーゼとポポロンを抱っこして北天へ戻った。滅びた場所に全く同じ生命をそっくりそのまゝ黄泉還らす事は難しい作業ではない、冥王星の手に掛かれば朝食前の簡単な事、死者も生者も其を望む、戻してくれ帰してくれと打算の心情塵一ッ葉も抱かずに祈っている。
 けれどそうしたら、諸君等のかけがえ無い想い出達はどうなる?元通りにするのであればもう想い出達は呼吸が叶わなくなり弱ったものから息絶え消滅してしまうだろう。どれだけの残雪が世界を廻す燃料になっているのかを知らない為無理も無いことではあるからやっぱり仕方が無いし責めることもしないけれど。
「そんな人間だからこそトネリコは愛するのだろうか。」
 少し手助けをした後も続ける予定にはしていたが、やはりもう少しだけ見せてもらおう。

流星

 北天に戻って一週間以上過ぎた頃、時計座から一通の手紙が家に届いた。
“雀が一羽来ている、増援に来てあげてくれないか。”
「庭に来ていた雀かもしれない。」
 今度はポポロンがハーゼの手を引いて硝子瓶の雪へ、愛した場所へ走って行った。
「ポポロン。」
「なんだ。」
 以前に比べて雪の量が明らかに増えている。氷晶の洋琴が一滴ずつ音を出す、それは繋げても旋律(メロディア)には辿り着かない孤独の粒、春の小川に咲いたばかりの花の欠片が浮いて(ただよ)い沈むように一言ずつ零れていく。
 たった一言のごめんねがまだ伝えられないまゝ、今日になってしまった。
「あの…」
「言わなくても分るよ、儂はおまえの相棒だから。」
 北天で再び目を覚ました時もその後もポポロンは蝗に襲われた日の事を一言も話そうとしなかった。ハーゼが憎悪に(ひび)割れた時彼に恐怖を(いだ)かせてしまったのを謝ろうとしても今のように相棒だから伝わっていると言葉を続けさせてくれない。トラウマ、になってしまったのだろうか、此迄は以心伝心に凭れて心地良かったのに、今は柔らかすぎて不安になる、起き上がれずにこのまま溺れて息が出来なくなるのではないかと自らを疑い始めていた。だから勇気を絞って絞って掌を握りしめながら雪の音に吸い込まれてしまわないように、
「ポポロン、ごめんよ。」
 許してもらえなくても、傷が癒えるのに時間を山程要しようとも。
「ごめんよ。ごめんよ。」
 相棒だから何もかもお見通しだと勘違いしていたのだ、自分は。ラティ達家族からずっと与えてもらってきたから、今度は与える番になったのだと考えた、だから慣れない似合わない老人の一人称で自らを名告(なの)り続けてきた。言葉に頼らないコミュニケーションが存在するのは知っていたし、言葉が力になれない状況が存在することも知っていた、だから話さなくても伝わることは非常に良い関係性の証拠であるのだと、言わなくても分かることは喜びなのだと思っていた。
 想い出を忘れていただけなのに。
 ラティ達は最期まで何をしてくれていた?ただ自分をじっと見つめていただけか?違うだろう、ずっと話し掛けてくれていたではないか、姿を失くして記憶の塊になった日からもずっと、ずっと。それを薄れさせてしまったのは、こればかりは滅亡の所為でも蝗の害でも無い。
「…わしの方こそごめんよ。」
 身の丈に合った在り方は一人では定義出来ない、だから生命も死も言葉を有するのではないか。
 ふたりはようやく、笑い合えた。屋根裏で囁き合っていた頃のように、素直な頬と唇で。
 瞳からは星粒が流れていた。

真空

 自らをどう在らせたいかを選んで命は生れて来られない、恵まれた環境をだれもが望むものゝ、其を叶えられるのは一握りもいない、思い通りになれない命を以て思い通りに手を伸ばす、其の営みは生命と名付けられ此処に生命が平等だとする根拠の一つが発現した。それからと言うもの生命は銀河で天体で栄え続け滅び続けて来た。
 ユグドラシルは、何を望むのだろう。
 只存在するだけで善しとされた、言語も感情も有する者は、存在する以上の事を望んでも良かったのだろうか。
 時々不安に思わない日々が無いのは嘘だ。
 神々が終焉を迎えた時、ユグドラシルは火の手に掛からなかった。物語に記されているのは、ユグドラシルはトネリコの樹で、トネリコの樹は植物の中で最も立派な樹だから緞帳にも覆われなかったと言う内容。
 自分が人の言葉を発することが出来たなら、といつも思わずにはいられない。
 トネリコの樹と雖も火の手に近付かれてしまってはもう逃げられない、自然の摂理で樹が火に立ち向かう事は出来ないのだ。トネリコが燃えずに生き延びられた理由は、一人の神が死の間際迄トネリコに神の所持していた魔術を全て与え続けていたからだ。
 其の神は名乗らなかった。他の神々には真似も届かない程の巧みな魔術をトネリコの樹に送り続けた。神の姿は男の格好をして、体躯も立派とされる神々に比ぶれば若干肩幅は小さいものの、スマートな筋肉をしていた。どの神の背中よりも、其の神の背中を見ればとても安心したのだ。他の神々は屈強で武勇の誉れ天高かったけれど、其の神、口に傷の鋭く小さく走る神の背中の方がユグドラシルには嬉しかった。
 炎の滅亡が訪れるずっとずっと前の頃、其の神は神々から嫌われていた。おまけに魔術の腕は仙境に至るとまでの技術力の高さとバリエーションに富んだ魔術を自在に駆使出来る、その一つが姿を変える術だった。
 初めて互いの存在を知ったばかりの時、其の神はよくリスの姿になって樹の幹を訪れた、そして雄鹿になったり鷲になったり或時なぞ樹の根を囓る毒蛇になってからかったことだってある。其の神は樹を世界の背景としてではなく、意思ある隣人として接してくれたのだ。終末が来る迄、ユグドラシルに友の如く恋人の如く優愛(ゆうあい)を与えたのは其の神唯一人であった。
「一つ、神らしく予言をしてやろうか。」
 他の者からは不敵で侮れぬと評価されていた彼の絶やさぬ微笑みも、軽口も、彼女には心地良く安堵できるものだった。予言をするのは神々の役割なのですかと尋ねたらいつもの整った笑みを崩し大口を開けて子供のように笑い声をあげたっけ。
「そうだな、君は賢い。私の嘘をきちんと見抜けるのだから。他の神どもには出来ない真似さ、どいつもこいつも自分達が絶対神だと勘違いしている為に私に騙され利用されてしまうのさ。」
 けれど貴方の嘘は神々のお役に立つ事が多いではないですか。
「当然さ。私の手に掛かっている神どもの運命を直ぐに握り潰すほど正直で素直な性格ではない。折角与えられたおもちゃは何度も何度も遊びに遊んでふとした時に手放すものでなければつまらないだろう?」
 まるで、巣立ちの儀式のようですね。
「巣立ちか。うん、君らしい優しい単語を選んだものだ。」
 お気に召しませんでしたか?
「とんでもない。私は君を貶めたつもりは無いぜ。」
 いつからか彼は変化(へんげ)すること無くそのまゝの姿で訪れるようになっていました。本当は毎日でも来たいと話していても、ユグドラシルには嘘だと分らない。もう二度と来ないよと言われても、ユグドラシルには嘘だと分らない。彼女が悲しんだり困った表情をした翌日には、彼は必ず彼女を喜ばせたり楽しませるような話を山程してくれた。
 一度だけ、彼に問われたことがある。
「君はずっとこうやって生きていくのかい。」
 存在することが私の役目ですから。
 彼は躊躇うこと無くユグドラシルの天にたなびく髪にキスをした。
 神々の世界が幕を閉ざしたのは、その直ぐ後でした。
 あれから何を見ても愛おしいと感じ、何を見ても哀しく思うようになったユグドラシル。友に囲まれてもあだ名を貰っても白雪がおさまることは無い、今更彼の名前を呼んだとて。

鉱石雀

 ラティ達の家が在った場所に積る雪は何も答えない。目印の建物標識が失われた道でもポポロンは旅立ちの背中を憶えていたようだ。
「一回目来た時は立ち寄ろうとも足を止めようとも思わなかった。」
「でも、ちゃんとこうして機会をもらえたじゃあないか。」
「一丁前に。」
 ぞんざいな言葉でも。
「庭は君の記憶の景色でしか見たことがないよ。一度だけでも生で拝んでみたかった。」
「そうだな、儂のお気に入りの場所だから、おまえもきっと気に入るだろうよ。」
「滅びる前に、蝗に襲われてしまっていたんだね。」
「あゝ、学校から、飛び出して来やがった。」
「きっと其の中には、僕の同級生も居たんだろうな。」
「友人とか恋人でもいたんか?」
「誰とも仲良く出来ず終いだったさ。学校では散々近付くなと言われていたのに、結局好奇心には勝てなかったかのだろうね。」
「学校なんてそんなもんさ。」
 つまらない話は早々に切り上げるが良い。
「時計座は故郷を見守ってくれているが、正直儂には王国が再興することは望みが薄いと思う。星見台を壊した時点でもう此の国は死んでしまっていたんだ。」
「ゾンビだね。」
「神話では世界の創世、国土の誕生は神以前の存在と謳われるものが多いから、あながち間違ってもいないのだろうよ。」
「でも、此国の死体の上には滅びしか来なかったね。」
 二人で居る記憶しかもう無いから。
 望むのであろうか。
「ハーゼ、おまえは、記憶を取り戻したいか?」
「別に構わないかな。最初は拭えない重さがずっとあったけれど、今は気楽になれてきたように思う。点在する雪を渡り歩くには荷は軽い方が良いでしょう。」
 一方的な感情は意味を成さない、双方向でないと心は結べない。
「此の国で僕にとっての大切って、きっと君だけだったんだよ。」
「そうなのか?」
「そうだから、僕等こうしてお互いを憶えていられたんでしょう?」
 星見台が元の通りになれば或いは、と考えた。滅びの日の少年の表情が今でも時偶夢に出る。そして自分は彼に声を掛けるけれど一向に届かない、あの日の再現だ、まさに悪夢、此方の感情が伝わらないやるせなさを呑み込むしかなかった、焼けた霧を。
「時計座のところに向かおうか。」
 それでもひりつく咽に雪の冷たさは……
 硝子が砕けていた。雀がちいと鳴く足下は流氷に覆われ所々ぐらぐらと水の動きに搖れている、道を辿ることは出来そうではあるが、人の重さが一度掛かればずぷんと沈んでしまいそうな、それ程迄に雪は薄くなりつつあった。
「時計座。」
「ハーゼにポポロン、だったね。よく来てくれた。」
 以前坊やと呼んでいた少年のような青年は、時計座の目にも青年と呼んでも遜色無い精悍な横がほになっていた、まだ然程長く別れてもいない、つい此の間初めて逢ったばかりなのに、ハーゼの瞳からは陽だまりの危うさが溶け新月の藤の花の凍蝶(いてちょう)が蛾へと孵化した鱗粉が咲いている。まだ血の痕が新しいから、本当につい先刻の出来事だったに違いない。
「また君等の故郷を訪ねてくれて嬉しいよ。灯台守もいつも忙しい訳じゃないから、時には誰かと話をしたいと思っていたのだが。」
「だから儂達を呼ぼうとはしたものの、先客が来ていたのか。」
「あの雀が、見えるかい?」
 時計座は流氷の雀を指した。
「此の国の生命が戻って来たってこと?」
「ハーゼよく見ろ、あの雀は生命としての雀じゃあない。あれは庭に訪れていた雀なんだ。」
「雀なら王国に居た雀なんじゃあないの?」
(いや)、そうじゃあない。あの庭には確かに鳥はやって来られる、けれどもそれは王国に雀として生命を与えられて暮らす雀ではなくって、北天の残骸が粒になって(ぎょく)の素材で命を与えられた雀なんだ。だから毛並が羽毛ではなく鉱石で形作られているだろう?あのような姿の雀達がよく庭を訪れていたよ。」
 改めてハーゼはも一度見ると、確かに雀は紅玉金剛色水晶で組まれた身体をしている。
「不思議な雀だねポポロン。あんな子初めて見るや。」
「よく居る雀ではない、神々が存在する前に居たもの達が、小鳥の姿を借りて訪ねて来ているのだよ。」
 ポポロンの言おうとした台詞を時計座はイタズラに横取った。むッとふくれる兎を横目でクスクス笑って楽しんでいる。
「神様達が生れる以前の存在?でも神話には神様達があって世界が生れたって、どの話もそうやって始まっていたような気がするけれど。」
「ハーゼ。丁度目の前にそういう奴が居るだろうに。」
 今度はポポロンが時計座を笑う番だった。今の自らの質問が目の前の向う相手を無視したものだと、ポポロンの言葉で咄嗟に頭を下げて詫びたハーゼ。
「時計座さん、ごめんなさい。君達星座やトネリコを忘れていた訳では…」
「構わない構わない。悪気が有る無しは見て分るから。それに、話が昔すぎると現実と混ぜて語られることなんか幾らでもあるもの。気にしていないから顔を上げて、雀をみてやらないと。」
 ほら、と促されてもう一度雀に視線を向ける。雀の身体は先程とは色味の場所が少しずつ移動しているような気がした。
「常に同じ場所に留まらない、其が神代以前の存在なんだ。水の流れのようい移り変り続ける世界が永らく続いたからこそ、数多くの神々は自らに不変・絶対性を求めたのだろうね。」
「星座も姿を変えるのかい?」
「神や人に名前を与えられたから昔まで自由に放たれている訳ではないけどね、名残は持っているよ。現に季節や空の変り目に合わせて日毎立ち止まる場所を動かしているし、星の光だっていつまでも全く同じではない、白地(あからさま)に認められなくても何處かは毎秒変わっている。」
「じゃあ、いつか天秤座も赤い旗の雪から出て来る日があるかもしれないな。トネリコの嬢さんに一つ良い土産話が出来た。」
「そうだね、星座もトネリコもきっとそうして生きて来たんだろうな、考え方がひょこっと変る日だって来るよきっと。」
 相手を深く信じているから微笑んでいられるのか、楽天的が度を越えているからなのか、どちらにせよ神代以前の存在の流動的な変化を良い変化としか考えきれていない。
 冥王星の危惧した通り、今はトネリコの元へ近付かせるべきでない、それに、蠍座も、彼女は人間では無いけれど、だからこそ呑み込まれてしまう恐れがある。
 雀の数は増えていた。一匹だったが、二匹、三匹、十、二十、百、千……生命の音が聞えなくなっていた雪中の亡国はまるで生前のように陽を迎える唄を奏でているではないか。
「えらい雀の数が増えたな。急にまあ、共鳴でもし始めたか?」
「時計座、君、呼んだんだね?」
 ハーゼの声に時計座はふるりと身を震わせた。あゝ、計画通りに気付いてくれるだなんて、本当に君達は成長したんだね。
「ハーゼ?時計座?如何言う事だ?」
 ポポロンは時計座と相棒の何やら物騒な会話に少し怯んで、二人の顔を仰ぎ見た。
 戦慄のピアノ線、新月の眦が瞳をも染めてゆく影。
 一体何がと問うのも憚られる顔馴染みと相棒の表情に息ごと呑む。

 蠍座は冥王星の館に呼ばれていた、彼は紅茶を淹れてくれたが自分は煎茶を湯呑に()いで飲んでいる。
「紅茶の味は如何(いかが)かね。」
「ポポロンほどではないけれど、美味しい。」
「そうか。あの子は本当に茶葉の扱いも食器やクロスのレイアウトも突出しているものなあ。」
 ネモフィラの花がふわふわと搖れる。
「お茶会の話をしたいから私を呼んだのですか。」
 察しが良すぎれば楽しむべき事も心の底から楽しめはしない。冥王星は自分をトネリコから離す為に呼んだのではないかと蠍座は訝しんでいた、そして彼女は思ったことが直ぐ顔に出る性質(たち)である、ネモフィラは鋭い視線を受けて話を延ばしても意味が無いと悟った。
「貴方はトネリコから私を遠ざけようと目論んでいるのでは?
「心当たりでもあるのかい?」
 相手の返答を見透して問いを投げかける技術は彼女には足りなかった。冥王星の顔を覆いつくすネモフィラは花弁を搖らす、いつでも花が搖れていないことはなかった。いつでも花は搖れている。
 自分で訊ねて出させるのではなく、本当は進んで教えてもらいたかったのだが、これ程警戒されていては保守の姿勢を取るだろう、お茶の味にも気付かぬのであれば。仕方の無い問いだったが蠍座は抗せず頷いただけだった。
「トネリコが記憶を遡っている。」
 二人同時にそう言った。異口同音は同じ結末を予測する者同士で起きるもの。このまゝ鈴蘭の霧に浸らせていればトネリコが、ユグドラシルが如何なるか互いに知っていればこそ出た言葉ではあるけれど、込めた心情はそれぞれ羽色が異なるようで。
「そうなってしまえば良いと?」
「そうならないでいてほしいと?」
 何方(どちら)が何方を言ったのだろう。判断の為の推理する猶予も与えず二人を呼ぶ声がした。声の主は時計座に連れて来られたハーゼとポポロンで、三人を見ると冥王星も蠍座もケロッとした雰囲気を被る。
「おやどうしたハーゼ君達。」
「お茶会に参加したくなったみたい。」
 二人に有無を言わせず時計座が代りに返事したが、黙っている二人ではない。ハーゼは胸に抱いたポポロンの手を、ポポロンは握るハーゼの手をお互いより一層強く握り合い、ネモフィラとアンタレス、振り子を眦濃き青藍に溜めて睨む。
「故郷を見守る為に残っていた訳ではなかったのですね。本当は、国のことなど気にも留める予定は無くて、星見台を取り戻したかっただけなのでしょう。雪が浸してしまう前に。」
「儂達が何故残されたのか今なら分るさ。貴方等(あんたら)は星見台の記憶を持つ者が欲しかった、だから儂を残しておいたんだ。だが儂だけを滅びから離したのでは魂胆があるのではと警戒されると踏んで、儂の持ち主であるハーゼも一緒に残した。」
「トネリコは世界が滅びるからそれだけの理由で悲しんでいたんじゃあない。本来存在するだけで良かった自らの在り方を自分で歪めてしまったから、贖罪の涙を流していたんですね。」
「トネリコが歪んでしまったのは、ハーゼと儂等の故郷が星見台を埋めて無かったことにさせられたから……結局は人の所為だった。」
「ハーゼ、ポポロン…」
 冥王星は花弁をピクともさせないで生き残りの生者に歩み寄った。そして二人の前にまで近付いた時、頭を垂れて両膝を静かに土に付けた。時計座は冥王星の肩に椅子から立ち上がった際脱げたマントをそっと老人の肩に載せ、(びょう)の代りに涙で留めた。蠍座は冥王星の傍に片膝付いて彼の背中をゆっくりと擦り始める。
「人間はとんでもない時に核心を割るのです。私は二人の面倒を任されて北天で住み続けて来ました、あんなに頼り無さそうな柔らかい瞳をすることの出来る少年が、まさか凍蝶の蛾の湖水を瞳に宿すなんて…とんだ役者ね。」
「初めて逢った時の坊やとしての涙に気を緩めてしまった。蠍座さん、見抜けなかった責任は決して貴女だけのものではありませんわ。私は初手から危ぶまれていたのですから、失格です。」
「あゝ王女様…オルタンシア様…ハーゼ、ポポロン、本当に済まなかった。我々を許さない権利は君達のものだ、天体系が死ぬ時迄許してもらえなくとも良い、君達を恨みはしない。どうかオルタンシア様の御許に…」
「冥王星、君の言うオルタンシア様って、どんな人だったの?」
「…一度は滅び雪と化した自らの国を救う為に、たったお一人で奔走された方です。」
「国は救えた?」
「救えました。けれど滅びました。救った直後にも滅びの兆しは取り払えなかったのです。その前兆にオルタンシア様は手足を拘束されて抗えぬまゝ国と共に雪と化しました、我々の国の滅びでありました。
生き残った者も各地に散らばりましたものゝ、心配していた通り皆は狂って絶命しました。私だけはオルタンシア様が命と引き換えに逃がしてくれた御恩を返せるように、返す為に……こうして今日まで世界を見守り続けました、無様に生き長らえたのです。」
「このままでは、トネリコが使命を放棄してしまう?」
 ハッとハーゼの瞳を仰ぎ、また力無く顔を俯向けて老衛士は呟いた。
「其処迄御存知でありましたか。」
「僕とポポロンは故郷で鳥を見たんだ。その鳥は神々の生れる更に夜明けに存在していたもの達が、鳥の見た目を借りた姿だった。あの鉱石で紡がれた鳥は、よくラティさんの家の庭に訪れていた鳥だったって、ポポロンのきょうだいさんの記憶が教えてくれた。」
「姉さんと兄さん、パパもその時言っていたよ。あの鳥達は星見台を見る為にやって来る鳥で、秘密の庭に遊びに来ていた訳じゃあないからって。もう今は無い星見台をいつ戻すかを見計らって来ているいわば観察係だからって。」
 やはり星見台に勤務していた優秀な男は知っていたのか、星見台の知られないもう一つの、本来の役割を。聡い若者だ、傍に置いておきたかった。なのに彼は他の生命と同じような結末を選び迎えた。その選択がハーゼとポポロンの関係と聡明さを生み出したのだ。見事に人間らしく継承が成されたのだな。
「…我々の存在の中にも、継承を受けた者がおります。」
「それは…トネリコのことなんだね。」
「えゝ。もうお二人は全て、計画も、お見通しなのですか?」
 冥王星の背中に縋り小刻みに震えている時計座にハーゼとポポロンは首を横にふるふる往復させた。
「まだ知らない。君達の計画の一端をラティさん達が必死に伝えてくれたんだ。だから全容を把握している訳ではないの。でも、だからこそ、君達の口から教えてほしい。」
「お茶会仲間がこれ以上減るのは嫌だ。儂もハーゼも貴方等(あんたら)を好いている、真ッ向から潰し合いなんざしたくない。」
「だから教えて下さい。例え如何にもならない事でも、決別が定められていたとしても、ギリギリまで貴方達と共に有りたいのです、それが今の僕等の願いなんです。」
 暫くの沈思の後、一番に口を開いたのは冥王星だった。
「それでは、五人分の紅茶を用意してくれないかね。ポポロン君のブレンドティーであれば、全て素直にお伝え出来そうだ。」

星見台

 ハーゼとポポロンの故郷が名を奪われたのは、星見台を葬って存在しなかったように扱った為だと言う。滅びを迎えても国の名や文化が残されている地域も世界にはあるが、何故痕跡の葉一つも許されなかった国も併存しているのだろうか。
「禁忌に触れたか、触れなかったかの違い、住民達が後世に継ぎたくなかったから、の大きく二つに分けられる。君達の王国の場合は前者の理由、禁忌に触れてしまったからだ。」
「それは、(ことわり)のようなもの?」
 ハーゼの質問に冥王星は首を横に振る。
「理は捉えきれないものとして存在するが、禁忌は誰しもが知覚出来るものとして在る。法律、憲法、倫理、其等の要素を含めた越えてはならない一線、それが禁忌だよ。」
「で、王国はどんな禁を破ってしまったんだ?具体的な詳細がまだ見えて来ない。」
「星見台の舌に、とあるものを埋めた。偶然でなく、故意に。そして其のものが埋まる墓とも言える場所の上に校舎を置き、」
「存在しなかったようにした、だろう?星見台をかき消す行為は禁忌なのか。」
「そうではないのよ、ポポロン。」
 口を噤んでいた蠍座がソーサーの上にカップを静かに置いた。
「埋められたものが問題だったの。何も埋まっていやしないのなら人の造ったものをどうしようと構わない。ただ……星見台の下には一人の遺体があるの。しかもそれは人間じゃない。人間の世界が誕生する前に生きていた……神々のうちの一柱だった男の亡骸。」
 神を埋めた墓。流石に予期し得なかった事実にハーゼとポポロンは言葉を詰まらせる。
「其の神は、最初にトネリコが見た滅びの際に命を落としたの。それも、トネリコに火の粉が飛ばないように守りながら、自分の持てる力をトネリコに全て注いであの()を守り通した、けれど其の神は息絶えて、冷たい灰の下に他の神々と同様に埋もれてしまった。
人の代になって、神話が現実世界の過去の出来事では無く研究の対象になった時、人間は其の神の立ち位置を見直し始めた。」
「見直す?立ち位置を見直すと言うのは?」
「ハーゼの国でも他の国々の歴史を学んだでしょう?歴史の中で悪人だと評価されてきたもの、善人だと讃えられてきたもの、独裁者だの英雄だのとされてきた人達が、実際に今のような扱いをされていたのかを改めて調べ直す事、それが立ち位置を見直すと呼ばれる行為。」
「トネリコを助けた神はどう言われていたんだ?」
「悪い神、とされていたわ。他の神々を揶揄い騙し欺く天才。災いのもととされてきた神よ。」
「じゃあ其の神の悪評を調べ直したのか?人間達が。」
「まだ星見台どころか王国も興る前の時代にね。結果は、悪い神と扱われても当然、と言える箇所もあったけれど、其の神がいなければ神々の世界は発展することも脅威から免れる術も持てなかった、だから神々の世界を維持するのに欠かせない存在、とされた訳。」
「其の神への畏敬も込めて、人々は其の神の亡骸を最も空に近い丘まで傷付けぬように運搬し、埋葬した。人間に神の文化を知ろう筈は無いから、人間の文化に於いて最も丁寧な形で其の神を埋葬した。土を再び載せる前には季節の花々と季節の鉱石を遺体の周りにぐるりと施して、出来得る限りの顔への化粧、そして当時は最も位が高いとされていたオオミズアオのマントを服に掛けて、手で土を被せていった、遺体がこれ以上損傷を受けないように、ゆっくりと撒きながら埋めていった。
そしてその上に()(ほし)螟蛾(めいが)の羽で織った大理石を据えて其の神の墓とした。これが、星見台が生れるに至った経緯じゃよ。」
 時計座と冥王星の語った王国の歴史を聴くと、自分の中にも少しずつ温かな雪が重なっていく感覚になる。何を失ったかも理解出来ないまま身心を抉った喪失感の裂傷が絹糸で少しずつ縫われて繕われていく。滴る血の音はもう聞えない。このまゝ故郷の話を全部取り戻せられたら、血溜りを拭く手巾(ハンケチ)も貰えるだろうか。
 望みは忽ちかき消した。侵した禁忌は許されない行為だったのだ。トネリコが嘗て孤独に愛した神を最初からいないものとして学舎で踏みにじった国など、後世に残すべきではない。
「万物を愛するトネリコは、其の神には恋をした。平等な愛を向けなければならない存在が、たった一度だけ愛を孤独で押しやって恋をしたの。愛と恋は同時に在ることは出来ないから…」
 蠍座の顔が俯向いていく。その後をこれ以上彼女の口から語らせるのは酷だった。
「トネリコは、使命を放棄したんだね。そして其の時、歪みを発生した。あらゆる生命を慈しむ筈の極光が、天災となって世界に翳されたんだ。」
「だから二度目の滅亡が起きて、トネリコは儂達と知り合った…と言うことかな?」
 星座と惑星は黙然としていた。どうやら筋書きは当たっているらしい。ハーゼとポポロンの故郷が滅び捨てられたのは、ユグドラシルの(わざ)の為であった。
「ハーゼ君、ポポロン君。貴方がたには世界樹を憎む権利がある。例え禁忌を侵したからと言って天界に籍を置く者が一方的に地上を処断するのは大罪だ。罪人は、永遠に世界から追放される。」
 そうか、だからトネリコは北天にも居続けることが叶わないのか、いつも天ノ河の箱庭を彷徨って一定の場所に座り続ける事をしないのは、既に彼女が罰を受けているから。
「…冥王星さん。ハーゼはきっと憎んだり恨みに思っちゃいませんよ。」
「ですが、故郷を失ったのは…」
「トネリコの所業。えゝ、それは儂等二人とも理解していますとも。滅びた時のハーゼの息苦しさ、きっと貴方達も目を背けたくなるような惨状でしたよ、忘れるものか。でもね、儂達をすくってくれたのも、またトネリコだったんです。贖いが動機かもしれないし、罪悪感の所為だったかもしれない。それでもあの瞬間震えながらも伸ばされた手に相棒は命を繋ぎ留められた。儂はハーゼを助けてくれたトネリコを恨みません、愛する場所を失った元凶だったとしても、俺には相棒が生きてくれている感謝と喜びの方が比べ物にならん程大きいんです。」
 憎まれるべき相手に此処迄本心を語られれば、三人とも天界を憎んで下さいなどともう頼み込めなかった。
「ポポロンは僕の言いたいこと全部先に言っちゃうなあ。」
「ぐずぐずしているからだ。」
「でも助かったよ、有難う。」
「早く話してやれ。」
「そうだね。…冥王星さん、蠍座、時計座、聴いたでしょうポポロンの本音を。あんな腹からの音出すのは珍しいんですけれどね、彼の言った事と僕の伝えたい事は同じです。ポポロンを助けてくれた、それが一等嬉しいのです。彼の命の恩人の罪を僕は憎めません。故郷には悪い思い出ばかりではありませんでした、父と母の記憶は、きっと僕には良い思い出になる部分もあったのだと思います。それを取り戻せない空洞は容易に治せやしないかもしれませんが、僕はそれでもトネリコの友でありたい。いつか彼女が僕等の故郷を許せる日が来るのを信じたいのです。ですからもう、トネリコを止められなかったからと自分達を責めないでください。……友人だって、北天に来て初めて出来たんだもの。」
 ポポロンは温かい紅茶のお代わりを全員分に()ぎ始めた。

満月

 あの二人の御蔭で星座達は戻ってきてくれた。時計座のように、自分に到底出来そうに無い仕事をこなしてくれる星座もあれば、天秤座のように(ことわり)を侵犯した罰を甘んじて受ける星座もある、帰って来られない理由は善悪で測られるものではないのだ。
 じゃああの神は、彼は何故戻って来られないのだろう。彼の死は何故物語として天に帰って来られないのだろう。そんなの決まっている、人の王国が彼を地上に葬ったからだ、最初から天へと弔いを上げていれば、いなかったことになどされなかったのに。
 ちいちいちい
 あゝ近頃は小鳥の声がよく耳に届く、何かきっかけがあったんだろう、分らない。小さな鳥があお細くしなやかな、山猫のような指に止まっていたのを思い出す。
「君は何が望みなんだい。」
 望みは、世界樹で居続けること。ユグドラシルが倒れれば此の銀河は瞬く間に崩れて喰われてしまうでしょう。
「……其は、望みなのか?」
 世界樹の望みは唯一ですもの。
「じゃあ君は、世界を、此の宇宙が平和で存続させる為の機構なのか?」
 植物は機械なのですか?
「頷かなかったね。では君自身は自分のことをプログラムされた生命だと認識していないんだ、認識しないということは、心の根底では拒んでいることさ。君の思う通り、植物は只の寡黙な生き物で言語を有していない訳ではない、そして言葉を持つ以上、其等には必ず感情がある。心がある、冷酷も情熱も生れ乍らに抱えているんだよ。君には無いかい?(いや)ある筈だよ、君が未だ知らないだけで、君は極めて情熱的な、燃える林檎よりも荒々しく美しいそして精緻な雪を担う存在だよ。そんな君が、ただ樹で在り続けるなんて下手な建前を本心とするのかな?」
 そんなに一気に澤山(たくさん)言われましても、分りません。
「分らないと思ったら、目の前のものをよく見てみることだ。答えが出るかもしれんしそうならないかもしれん。でも若しかしたら桜の花びらが頭や頬に降るように、閃きの守護者が君の額や頬にキスをしてくれるかもしれないぞ。」
 貴方以外には出来たらされたくないけれど、と言う前に夢は覚めて、トネリコは画廊パーティーの途中だった。絵画が並べられている、額縁は無く、タイトルは何方(いづれ)も劇場で、出ずッぱりの若手が舞台で回って倒れるだけ、次の絵も、次の絵も、まだ次の絵も同じで、表情はみんな笑っている。
 悲鳴をあげずにはいられなかった。
 悲鳴を上げたら目は醒めて、隣の白鳥座が転寝していて叫びと共に起き上がった友に走り寄る。
「トネリコ、どうかした?」
 夢を見たの
「怖い夢か?」
 怖い夢…幸せな夢、酷い夢…
 トネリコ、トネリコ、と呼び掛ける声を耳にするとまた夢を見る。
「神々は私を除け者にしている。特に万物の創造主と自称している彼だ。私がいつか此の神々の世界を閉幕させると常々危惧しているのさ、最も権力のある奴は押並べて皆ビビリだぜ、臆病って言うと私のずる賢さが和らいちまうだろう?悪人の神ならそう定めてくれたら良かったのに、如何して俺は悪戯なんて呼ばれるように決められたんだろうな。」
 それは、貴方が悪戯好きだから…
「可笑しいと思わないかい?神の間で何故嘘や悪戯なぞ求められる?完璧でない人間達が編み出すならまだしも、完全である神が態々不確実・不完全なものを創造したんだ?」
 分りません。
「おいおい、以前教えただろうに忘れてしまったのかい?分らないと思ったら目の前のものをよく見るんだと言っただろうに。ほら、おいで。私をよく見て御覧。」
 あの時、目を逸らさなかったら、貴方の生きる世界はもう少し続いていたのかもしれないですね。
「トネリコ、トネリコ…」
 貴方がいない後に貰ったのですよ、貴方は私を与えられた責務の名前のまゝで呼んでいましたから、知らないでしょう?
「          」
 呼んでほしかった
「それが君の望みなんだよ。」

作戦

 世界樹ユグドラシルが其の姿をほつれさせ始めた時、天ノ河にはパイプオルガンの不協和音が散らばった。流れ星の砕けた破片はトネリコの知っていた世界の水晶体に銀の矢の如く突き刺さり、星屑の先端からは紅い繊毛がリボンのように舞っていた。それぞれの世界の空は細く紅く埋められていく。
「これは?」
 冥王星の館はもはや此の天ノ河に属してはいないとされているのでリボンの影響は及ばなかったが、目下の世界達がみるみる包まれて結ばれている事態には流石に動搖を隠せない。
「トネリコが記憶を遡っている。」
 開けっ放しの口でいるハーゼ達の中で真先に蠍座が凛と叫んだ。その声に冥王星は杖を掲げて時計座は鉱石の雀達の様子を見る為に館を走り出た。
「蠍座、まだ説明されてない。どういうことだ?」
「ポポロン達には丁度今から言おうとしていた。でも先に向こうが動いてしまったのよ。」
「トネリコが、昔のことを思い出そうとしていること?」
「思い出すとは違う。過去に戻っているの。浸るんじゃなくて戻る、区別付く?」
「区別のどうこう説明の前に、儂達は今何をすべきなんだ?」
「此の館から出ない事だ。時計座も直に戻って来る。冥王星が杖を翳したのを見ていた?あれは防御の瑠璃を此の場所に覆ったんだ。赤いリボンは青の石と交わりたがらない、色を失くして取り込まれて紫に変わってしまうからね。ほら、あの子も戻って来た。」
 話している間に時計座が手を振って此処に駈けるのが見えた。
「ひとまず五人だが、今何が起きているのかを詳しく教えよう。ハーゼとポポロンには知る権利がある。」
 ネモフィラの莟が所々に顔を覗かせる木の扉は閉められた。
「今トネリコは記憶を遡っていると蠍座から聞きました。それがどういうものなのか、僕達に詳しく説明してください冥王星。」
 木の椅子は等間隔に五つ輪に並んでいる。
「記憶には思い出すと言う単語がよく付随して使われているのは分るね?記憶を思い出す、と言うのは今の時間に身を浸しながら、心の中で過去を見つめる行為だ、その派生として文章に綴ったり言葉を発したりする行為も産れはするが、何の問題も無い。身を浸す湖はあくまでも現代だからね。
 だが記憶を遡るとは、身も心も過去に沈めてしまうこと。今現在から過去を見つめるのではなく、過去の時間に戻すこと、つまり時間を巻き戻して過去の存在に現在を生きる者が接触しようと図る行為だ。」
「記憶の中の時間を巻き戻して嬢さんは誰かに逢おうとしてるのか?」
「トネリコが逢いたい人って、」
「其の神、に違いありませんよ。トネリコを滅びの日から助けてくれた神のことでしょう。」
 思い出してしまったのか
「時計座、ハーゼ達の王国はどうだった?」
「えゝ、特に異常はありませんでした。鉱石の雀も、数が増えた分は全員無事です。新たに増えたり減ったりはしていませんでした。星見台もその上に在る学舎もやっぱり。」
「何としても星見台を取り戻そうとする筈と思ったのだが…まだ安心は早い。時計座は望遠鏡で引き続きハーゼ達の故郷を見ていておくれ。」
 冥王星が指示を終えると、老人は蠍座とハーゼ達を手招きして座るように促した。椅子は一つ減ったがまた円形状に輪を成して。
「蠍座。君は如何動く心算(つもり)《つもり》《つもり》かな。」
 けれど、それは許されない行為?
「此のまゝ放っておけば、世界は回転を続けられなくなる。現在が過去に覆い被されて思い出は思い出の為だけのものに化してしまう。そうしたらもう、今生きている存在は何處にも呼吸する場所が無くなる、何處にも行けなくなる、北天の家にすらも。」
「トネリコの追懐を止めなくてはいけないの?」
 蠍座は何も答えなかった。代りに冥王星がハーゼに応じる。
「彼女がただ在ること以上のものを望んでしまえば世界は簡単に狂ってしまうのだよ。世界を狂わせたくないのであれば、元通りにする他無い。トネリコには暫く秩序を取り戻す迄大人しくしていてもらわなくては。」
 秩序?とっくに世界は滅びているのに。
「ハーゼ、君達の故郷は取り返しがつかないが、此の天ノ河の内には未だ滅びを経験せずに踏んばっている世界もあるのだ、君達が潜って来た雪ばかりが天ノ河の全てではない。」
「じゃあやっぱり、嬢さんを黙らせるしかないってことか?そんな手荒な真似をして反撃されても知らないぞ。」
「物理的に抑え込むんじゃない。」
 トネリコの友たるアンタレスは胸の辺りで拳を握りしめた。
「話を聞くの。トネリコが普段抑え込んでいること全部、吐き出させる。でもあの()は見知った顔の前では決して甘えないから、だから同類の姿を借りて話すしかない。」
「同類って…鉱石の雀達のこと?確か神代以前に存在していたもの、世界樹ユグドラシルと同じ時代に生きていたものだって。」
「そう。時計座は聡いから、鉱石雀を一羽見た時に気付いたんでしょうね、雀達は未来の自分達の呼び声に応えて訪れたんだって。ハーゼ、君も直覚したのではなくって?」
 あの時はトネリコの歪みを知らせないようにしていたから、時計座も震えただろう、色んな感情で。
「てっきり故郷を無かったことにさせる為に星見台を見張っているものだとばかり懸念していたから…そんならあんな怖い顔しなくても良かったんだ。鍵はやはり、星見台?」
「鉱石雀の姿を借りて、星見台のあった深部にトネリコの意識を連れて行く。其の神の名残は深部に埋められているから、其処で彼女の腹を割らせるの。」
「では蠍座、君はトネリコを落ち着かせる作戦に協力してくれるのだね。」
 ネモフィラの言葉をアンタレスは拒んだ。
 最早星座のみが針の先ほどの隙間からくぐり抜けられるようになった天ノ河の世界達。故郷に向う為ハーゼとポポロンは冥王星のマントを被った姿で時計座に抱えられていた。
「雀が貴方達の足元にハシバミの小枝を置いたらマントを取っても大丈夫だけど、それまでは絶対に取ったら駄目。枝が置かれるまでじっとして待つの。声も出さないで静かに呼吸だけしていて、自然にね。」
 二人に指示した後、雪の薄れる微かにまだ白い地面へそっと降ろす。ハーゼとポポロンは言われた通り、黙って雀の行動を待つ。
「ちいちい、ちちち。」
 白瑪瑙の雀が一匹此方を見た。嘴には桜桃の実を一粒咥えている。
「ちゅぴっ、ちゅちゅちょん。」
 オパールの羽を鳴らすものは葡萄の蔓を()んでいる。
「ちゅりりあ、ちゃっちゃっちゃっ。」
 翠玉の片脚は雪上に足跡を点々(ぽつぽつ)と付けて歩いて行く。
「かろんかろんしゃろよよよ。」
 天秤宮(てんびんぐう)に移り香残す散る薔薇輝石、宮殿の騎士の帰りを待つ花君が無事であれと涙をかけたハシバミの枝。
 マントを頭上にがばりと脱いで雪の薄い地面へちゃぷちゃぷと歩き出す。どうやら儀式には受け容れられて、儀式自体も成功したようだ。帽子を頭上に投げほうるみたく嘴がそれぞれ担当していたもの達を宙へ放る。
「私の声は聞えるかい二人共。もう声を出しても平気だよ。」
「聞えているよ時計座さん。人間じゃない姿になっているんだよね?平常(いつも)と感覚が変らないのだけど。」
「儂も兎のぬいぐるみの感覚のまゝだ。本当に鉱石達の姿を借りられているのか不安だな。」
「外見も中身も全方位ぐるっと見ても二人とも鉱石雀の一員だよ、心配することじゃない、姿はきちんと借りられているから、これでトネリコを星見台に案内(あない)させてあげられるよ。先ずは二人共星見台の埋められた場所へ向って、そしたら其処でトネリコを呼ぶの、リボンがやって来たら土の根元に嘴を数回突き付ける、つついて頂戴。すると道は繋がって、後は道を辿って星見台の深部に向うだけ。特に話をしなくて良いと冥王星殿が仰有っているから、深部に来たなら後はトネリコ次第ね。作戦は以上、幸運を。」
 時計座は故郷の雪空へ再び佇み始めた。これからは見守る役目に徹する表示であろう。
「じゃあ行くか。」
「行きましょう。」
 二人で一匹の雀になったハーゼとポポロンは、少し馴染みの無い雀の声を発した。
「かろんかろんしゃろよよよ。かろんかろんしゃろよよよ。」
 か細いリボンが一本走って伸びて来た。そのまま雀の足首に結わえると、雀は三分の二崩れている校舎へと歩いて行く。

ぼっちゃん

 天体系は一つ所に留まっているのではないと聞く。誰が教えてくれたのかはもうかなり曖昧だが、今になっても忘れられないということは、それなりに印象深い言葉であったからだろうと思う。
 神々の世界は、つまらなかった。誰も彼もが自身を絶対だと正当化し、自分達の価値観にそぐわぬ者は殺す、殺す。神々がそのような姿勢では、次代の人間達だって似たようなものになる、いつまでも神々の延長線上をやり続ける人間も、私にとってはつまらない。私は良心など、初手から信用していないのだ。
 だから彼女に惹かれたのだと思う。世界樹は自らを証明せずとも良い存在だったから。神代以前より在ったもの達は、其処に居るだけえ良かったのだ。
 存在証明も繁栄も必要としない彼女に興味が湧き、最初は動物や鳥に化けて接近した。次第に姿を変えて逢うことにもどかしさを感じ、最後の方にはそのまゝの姿で通うようになっていた。彼女は私が神の一柱だと知った後も態度を改める真似はせず、初めて話した時と同じように笑い、驚き、そして笑ってくれた。私と関わり合いになった者は皆残らず嫌な顔をして喜びはしなかったが、彼女は大勢とは明らかに違って隣人のように接してくれた。
彼女と逢瀬を重ねる度に、彼女が務めから解放されればと願わずにはいられなくなった。くだらない神どもが支配しているからこそ彼女は無感情に存在していなければならない、誰かの為に在るのでなく彼女自身の為だけに存在していてくれと私は祈ってしまった。
 彼女から他者の為を奪うのは、狂わせることと同義だった。終焉の日に私の持てる力全てを使ったのは、償いと称するにはあまりに当然の行為すぎた。私は彼女に償えぬまゝ先に勝手に死んだのだ。
 卑怯者、インチキ者、愚か者。あゝ結局神々は正しかったのだ、私を罵った言葉の数々は、やはり私と言う存在を言い表すのに相応しかった。なのに何故私の価値を見直そうなどとするのだ、人間よ。やはりあの時代の神々と同じで貴様達は怯えているのだろう、私が世界を破滅させる存在だと信じている。でなければ私の存在を欠けてはならないものだとおべっかを使うなどしまいものを。
―かろんかろん、しゃろよよよ。
 誰だ?私を求めている誰かが其処にでも居るのか?こんなコンクリイトで塞がれた奥墳(おくつき)に生命がやって来られる道理は無い。此処には私の死体と学舎から時折排出される蝗害(こうがい)くらい、また蝗は地面から見えない星見台のそのまた深部になど興味贋金一銭程も無いだろう。では、何方様(どちらさま)、と言う話になってしまうのだな。そうだ、来客をもてなす際のマナー、一応は王族と義理ではあるが繋がっていたから嗜みは兄貴よりも遙かに格上の所作を優美にこなせるだろう。先ずは紅茶を用意して、カップをクロステーブルに載せて、それからカップには予め半分程湯を入れて温めておいて。墓の下でお茶会なぞ初めてだが楽しんでもらおう。星見台のひしゃげた扉を開けて声の主を歓迎しよう。
 お上品に置かれたティーポッドのふんわりした薫りを墓中に広める為其の神は陶器の蓋をぽかりと外す。
 其の温かい紅茶の中に、ぼっちゃんと一匹の鉱石雀が頭から真直ぐ落下してきた。クロスに跳ねた雫を拭き取ろうと手を伸ばした時、指を握った紅いリボンが居た。

雪解け

 天体系は一つ所に留まっているのではないと聞く。目にも心にも感じきれない程の微かな変化は天体だけの持つ特性ではないのだと。他の天ノ河なら知らないが、少なくともユグドラシルの生存する河では生者も死者も日毎移り続けているのだと考えた時、確かに一人ではないと感じたのに。
 私は想ひ出に溺れてしまった、深く沈んで沈み果てて、二度と息を吸わなくても良いとして行動したのだ。だから、今握る冷たい体温を手放すことが叶わない。
「ユグドラシル。」
 懐かしい声に震えてしまう。こんな、こんな姿を見せたくなかったのに。
「あゝ君は、罪を侵してしまったのか。」
 落胆したでしょう。身勝手な、自らの心に正直になってしまったばかりに使命を捨てた世界樹なんて名ばかりな。
「何故自分を責める?君に感情があると証明したがったのは私だ。私が君に素直にさせたから罪を侵したんだろう?ならば元凶である私こそが責められて然るべきだ。」
 貴方を悪い神にしたくないのです
「私は悪い神だ、それはもう覆すことが叶わない。火取り虫から鱗粉を奪えないように、雪から月を切り離せないように、動かすことの出来ない北極星だ。諦めろと言いたいのではない、受けとめることしか(すべ)は無い。人間に立ち位置を見直されたところで所詮私は創造神の待遇は与えられることは無い。私に祝福はもたらされないんだよ。」
 互いは互いに言葉を失くした。愛する者が自らに恋をしたが為に滅びの罪を背負ったなどと、()の言葉で慰められよう?何の言葉で罪を(そゝ)げよう?
 友を想えばこそ、ハーゼ達も一言も発せられなかった。トネリコが自分達を想うのは本心である。そして自分達を憎むのもまた本心である。故郷が学校を建てなければ、或いは他の土地に造っていれば、星見台は鎮魂の為に、本来の目的を今も続けることが出来たかもしれない、そして王国も名前を見失う寂しさを知らずに済んだかもしれない。
 己以外の為出(しで)かした事を(にな)ってしまえば、文字通り人類は身動きが取れなくなってしまうだろう。自己責任の単語が衰え人は他者の為だけにあくせくしなければならなくなるのだろう。それを厭い好きに振舞えば今度は禁忌を破り続けるのだろうが、何方(いづれ)にせよ人の行き道は詰んでしまっているではないか。
「オルタンシアの国も、こうして詰んだのかな。」
 鉱石雀の声は何を話しても最初の鳴き声にしか聞えない。
―かろんかろん、しゃろよよよ
一層(いっそ)のこと、鉱石雀の姿を借りている者達が二人に新しい住居(すみか)を作ってあげられたら良いのに。」
「このまゝじゃ何方(どちら)も何方かを置き去りにして消滅しなくちゃあならなくなる。トネリコと其の神の時間は生者と死者、それぞれ時間が区切られているから二人一緒に居ても結局は互いを置いて行く結末にしかならん。」
―かろんかろん、しゃろよよよ。
 今此の天ノ河にトネリコの使命が戻って来れば世界は元の通り滅びと復興両方抱えながら進むだろう。使命が戻らなくなれば、此の天ノ河一帯は存在出来なくなる。
「トネリコが世界樹で在り続ければ、僕等は活路を見出すことが叶うかもしれない。でも、そうはならないかもしれない。不確実な悠久の時間を今のトネリコに与えなくてはいけないなんて、ねえポポロン、僕は嫌だよ。」
 人が人の世界を守りたいなら、それは他者におもねておくべきではない。誰かの大きな力を当てにして自分達はのうのうと過ごすなど、生きる意味を履き違えていやしないか?
「トネリコを、ただのトネリコにしてあげないと。」
 鉱石雀はリボンと神の指の間にハシバミの小枝を置くと、冥王星に借りていたマントを外し、一人の青年と一人のぬいぐるみの姿に戻った。リボンはひどく動搖していたが、神は黒い朝顔の莟のような眦で薄目に二人をちらりと見たばかり、驚く素振など微塵も無く、むしろ逢瀬を邪魔した奴等を殺したいと言わんばかりの鋭い笑みを形の良い唇辺(しんぺん)に湛えている。
「君、此奴等を知っているのかい?……あゝそう。友人なのか。これはこれは初めまして人間よ。ユグドラシルと仲良くしてくれているようで嬉しいよ。」
「姿を変えて覗くような真似をしたことは謝ります。でもこうでもしないとトネリコは貴方に逢おうとは思わなかったから。星座や冥王星に協力してもらって、此処へ来ました。」
「ハーゼ。うむ、良い名ではないか。それに、ポポロン、実に愛らしい。彼女が仲良くなれるのも道理かもな。」
 神はリボンを握る指を緩めない。
「それで?望みを早く言うがいい。貴様等は人間だ、自分達の生きる世界をまた元通りにしてほしいのだろう?だからこそ彼女に会いに来たのだ。さあ説得してみせろ、彼女に使命を再び取り戻すように、また星の鎖で繋がれてくれと懇願したら良い。」
眦の色は先刻(さっき)と全く変っていない。
「いいえ。トネリコにユグドラシルの使命を負わせる為ではなく、人間に使命を譲ってもらいたいのです。」
神は

円卓

 紅茶にはアップルティーが選ばれた。雪解けの蒸気が此の場に居る者達の頬を桜のように或いは藤花のように或いは白菊のように染めている。ポポロンは全員に()ぎ終えた後、ハーゼの膝の上、定位置にとびのり、改めて三人の顔を見た。それぞれ丸テーブルの席には就いてはいるが、椅子同士の距離は均一ではなかった。ユグドラシルとハーゼの距離は手を伸ばせば指を繋ぎ合える長さだが、神はトネリコの腰に手をまわし自らの胸に凭れさせるような近付きようだったので、必然ハーゼと神は握手が出来る範囲に居ない。
「ハーゼ、貴様の言葉をもう一度確かめよう。如何せん此処は墓場であるし、時間の感じ方も生者と死者では微妙に異なるものだから、奇妙な空間なのは否定しない。そんな奇天烈な場所でもっと奇天烈な事を宣ったよな?」
「トネリコが背負い続けた荷を、人間に譲り分け与えてもらいたいのは、奇想な発言でしたか?」
「世界に居るのは人類だけとでも信じているのか?それとも人間が世界を代表するのに適任だと祈ってでもいるのかい。」
「いゝえ悪戯の神さま。僕は人類は末っ子だと思っています。此の天ノ河には天・地に種族があふれています、その中でも人間は最も幼く最も庇われるべき種族です。」
「ならばおとなしく守られていてはどうなんだ、人智を容易に越える存在達に包まれて。」
「末っ子はいつまでも赤子ではありません、年を取ればいつかは正念場が訪れます。」
 ハーゼはポポロンの手を握りなおす。トネリコは彼の言葉と新月の光の眦を正面に見つめて聴いていた。
「今が末っ子の正念場なのです。また歴史が進めば神々や他の存在に役目は還されるかも分りません、それでも今は、今だけは人間が重荷を背負う時間なのです、激流を、淵を、荷う番なのです。」
 面妖だ、と思う。人は他のもの達より抱えられる重さも量も深さも遙かに少ない。だが神々や獣草木に植わっていなくて人類にのみ誰しも初手から生えているものが確かに在る、其は、執着する心だ。神話や伝承を読むと良い、彼等は一つ一つの生命について本来いちいち考えはしない、悪人が住む街を見掛けたら街を丸ごと破壊する、悪人が居るのだから街全体が悪なのだと都合良く考えて、街の中心部に住む者、外れに住む者、生える小草まで汚れているから破壊する。そしてその後の瓦礫から赤子の指や處女の腕が血を流しながら蠢いていても、気にしない。予めレッテルを貼って示しておけば街は隅から隅迄救えぬ街となるのだから。
 そうだ、私の在籍した神々だって執着とは縁遠い神経だ。夫でありながら他の妻との子を成す者、妻でありながら他の夫との子を設ける者、うむ、私にも前例があるから強く責めることは出来ないが、神々は愛情への執着心が皆無なのだ。その点では私も神たりえたが…
「私は全うな神ではない。半分は人間の要素を混ぜ込まれたのかもな。」
 でなければ君を此処迄連れて来てもらえなかったろう。神と定義される男が不完全でなければならないだと皮肉も良い所に(きま)っている。神の世界も不確実、神代以前はそもそもが不実の流れに従って在り続けて来た、そして今度はも一つ不確実な末っ子にお鉢が回って来た、あゝ、順番なのだな、此の順番が人に回って来たからハーゼは彼女の荷を……
 傲慢な言葉は裏の葉がふっくらしていることが多い気がする。成る程な、小動物は存外力持ちなのか。
「面白い。その話ノッた。」
 狂った世界は狂人の手で治すしかない。それに、
「彼女と休暇中にハネムーンでもさせてもらうよ。」
 彼女はハーゼ達に深く頭を下げ、抱きしめている。震える指先のリボンをポポロンが器用に蛾の羽のように結び直し、どうだ見給え感謝しろとでも言いたげに鼻息で私に自慢してくる。毛皮にしてやろうかな。
 リボンが似合う可愛い子が、こんなに可愛く笑えるのなら、世界の主導権は当分任せたよ。

春の水辺

「何を馬鹿な。」
 蠍座が言うのも無理は無い、今更どのツラを下げて言い訳するのだ。
「君には本当に迷惑を掛けたよ、トネリコの傍に居てくれていたのに、私は自分ばかりで、此の名を負うに劣る真似ばかりしていた。許してもらおうなぞ企んじゃいない、汚名を返上したい訳でも無い、たゞ、今…ほつれた彼女の姿を聞いて、変らない焚火を続けているのかと問うたんだ。そしたら、雪の外に此の身が飛び出していた、矢も楯もたまらず走って来た、君の赤い光が見えたから。」
 天秤座は身体を半分、文字通り食い千切った姿で蠍座の前に立って居た。血の痕は冥王星の館の乳白色の大理石の床に鮮烈に滴り筆を迸らせている。
「もう平等ではなくなっているかもしれない。ハーゼ達の生命よりもトネリコ一人を気に掛け続けてきたのだから、天秤を持つことは適わないかもしれない。けれど、過去は消えない、私が昔地界に対して使命を侵したことも果たした過去も消されていないのであれば、蝗を焼き尽す薔薇程度なら燃やせる筈だ。」
「其の身体で炎を奮えば骨しか残らなくなるぞ、骨だけでどうやって天秤を背負うんだ?荷えばそれこそ粉砕するだろう、お前は星座として死ぬのではなく、宇宙の塵と同じ姿になってこと切れる心算(つもり)《つもり》《つもり》か。」
 蠍座は容赦無く天秤座の胸倉を掴み捻じ上げ、彼の血で自分の手が錆びるのも構わず言い放つ。
「お前が死ねて満足でも、残された者には迷惑だ!お前は夜空に佇み続けるのが償いだろう!甘ッちょろい自己犠牲がお好みならそうさせてやりたいさ、何なら私がお前に手を下してやっても構わない、だがそうしないのは何故か分るか?お前が命を(なげう)ってまでもトネリコのことを愛しているからだ!私はあの()にもう寂しい思いはさせたくない、恋した相手を一度喪くした彼女に、トネリコを愛する者達まで奪われてしまいたくはないのだ、だから私はあの娘の傍に居た、もっと、分かってほしかったの、貴女は、愛されているんだからって、貴女の涙から紡がれた私達でも、貴女を、貴女、愛しているのって、叶わなくっても、愛していると…」
 泣き崩れた蠍座の身を支えた冥王星は同時に天秤座の無い半分に手を翳した。
「天秤座、命の燃やし時は捨て時でもある。確かに今は正念場だ、トネリコが使命を果たすか捨てるかの二択を決断する時だ、どうなろうと多大深刻な悲害(ひがい)は免れそうにはならないが、石垣の堡塁を造らないのは違うであろう?如何選択してもトネリコが再び戻って来た時、彼女には我々の無事な姿を見せてやりたい。
そうすれば、トネリコは笑顔で旅立てるし、笑顔で殺されてくれるのだろう、もう狂った僅かな残りの愛情をいっときに傾けて…
ただのトネリコに戻って最期を迎えさせたい。」
 トネリコを許す(ことわり)は存在しなかったらしい。永遠の土台たれ、世界を繋ぐ鎖に感情は無いものと思え。あの重症のおひとよしに心を求めるなと言う方がどれだけ無体であろう。
「蠍座、天秤座、見て御覧。」
 どちらも冥王星の言葉を拒んだ。友の、愛する者の狂いきってしまった死に姿を再び見るなど耐えられない。
「見なさい、トネリコが…ユグドラシルが、トネリコの枝になっていく。」
跳ね上げられたように世界を見た。
 天ノ河のほとりの場所、黒天であった位置に三日月が、真綿の蛾が舞い降りている。一匹、二匹とふわふわじゃれあって、やがて湖面にとぷんと沈めば、()の毛ほふぉの気泡から淡い緑子の芽が生まれた。それは瞬きを重ねる度にすくすくと丈は伸び幹は満たされやがて流星の尾を曳く一本のこぢんまりとした木になって止まった。一羽の鉱石雀が木のてっぺんにオパール新しく訪ねて枝に嘴を寄せると、枝はパラパラと転がって水面に軽い身を浮かせた。暫く(ただよ)う小枝は北斗七星の裏側に立つ北極星の氷の月光に照らされていたけれど、やがて水を(おとな)おうかという時、光のヴェールが青く緑に白透き混じる翼の霧へと羽化して小枝は包まれ、太古のオオミズアオの胴体となって天ノ河を飛び立った。水飛沫が雲の欠片となって輝きを思い出す水晶体、雪の納められている北天の一つ家に掛かれば硝子瓶の孤独は流れを悠々と泳ぐ金魚となり、雪に侵された世界は一粒ずつ息吹を取り戻し彩色をし始める、忘れられたいつかの記憶に逢いに行こうと、閉ざし続けた瞼を()けて目の前の旭日を知る。
「滅びの後に、こんな光景が待っていようとは誰も予想し得なかった。蠍座、君の言った通りじゃ、人間はとんでもない時に核心を割る…二人共、一緒に北天の家へ帰ってあの子達を出迎えてあげなさい、私も時計座を連れて直ぐに向かうから。さぞや疲れているだろうから、此のぼた餅クッションを持って行こうかの。」
 どの紅茶を選んだのか、聞いてみようか。

赤い糸

 神話は此処で立ち止まり、物語は人の手に任される。生れる前の世界を想像して人々は自分達に似た存在を語り合い、紡ぎ出し、枝々は文章・織物・建築・絵画等へ分かれていく。
 此れは、一つの枝の話。絵画にまつわる話。
 少女の家は、神々に仕える敬虔な一族であった。都会から少しだけ逸れた郊外の道幅は広く、道路を成す低い家屋や田畑までもが馥郁と芳醇の話に相応しい酒の匂いに満ちている此の田舎町で、トネリコの父親と聞いて頭を自然と下げない者はまず居ない。トネリコ少女の父親は神父であり、トネリコは父の血を濃く継いでいた。
「おはようございます、ワルドさん。」
「これはお嬢さま、おはようございます。」
 トネリコはもうじき娘と称される年頃の少女であり、その眉は昼も涼しい三日月の輝きを仄かに湛え、季節の花々に染まる眦はかろやかに穏やかな流れを迷って失うこと無く澄んで唇は恥じらひに隠れて咲く夕顔のよう。着込めば令嬢、青年の身装(みなり)に整えれば恰も代々海軍将校を務めに背負う眉目秀麗の若君の如き風情、勇壮の気満ちる凛々しい横がほの立ち姿となる清廉さと端正が自ずと備わる乙女、麗人。しかし其の性格は控え目で、決して表舞台に進んで出たがらない、かと言って陰険な訳では断じて無く、道を歩いて見掛けた農人達に丁寧に頭を下げて挨拶するものだから、トネリコが物心着いて二、三年経てば父のみならずトネリコ本人にもお辞儀をするのが当然の習いとなっていた。
「また帰りに寄られますか?」
「はい、夕方頃にまた来ます。其時あの、いつものトマトをお願い出来れば。」
「承知ですお嬢さま、今日も袋に入れて用意しておりますから、おらの家の者誰でも良いので声サ掛けてくださりまし。」
「有難う。ではまた。」
 止めた足を再び動かしトネリコは歩き始めた。彼女は今日も、町外れの丘に座って、故郷のスケッチをするのである。
 トネリコは町の人達がひたむきに生きる姿が好きだった。耕作をする農夫、都会へ働きに向かう女性、畦道で遊ぶ幼子、台所の音、料理の匂い、談笑の声、祈りの鐘…丘に登れば町民の生活を見つめることが出来る、其等を描くことが出来る、そして一段落すれば自分も其の中へ混じって手伝いや労働をしたくなる、お喋りをしたくなる、家族に会いたくなる。日常の生活とは、此の優しく穏和な少女にとって北極星の煌めきであったのだ。
 梟の鳴く声と共に油絵具達を片付けて鞄にしまい小脇に抱えて町へ帰る、今日は父が農作業の手伝いをする曜日だった。自分も手伝いに行こうとして走り慣れた道に差し掛かった時、
「トネリコさんですか?」
前方正面の男に話し掛けられた。男は中央と左右の合計三人居て、どうやら少女が此の道へ来るのを知っていて待っていたようである。
「そうですけれど、貴方がたは?」
「我々はコンセンティ絵画協会の者です。突然お邪魔して申し訳ありません。御自宅を訪ねましたらお父様がいらっしゃって、娘はあの道を通るから其処で待っていると良いと仰有(おっしゃ)られたものですから、こうして貴女のお帰りをお待ちしていた訳なのです。」
 中央に立っていた男性は深く被っていたハットを取ってトネリコを見つめた。家の横に立つ小さく古いお御堂のステンドグラスの月のように静かで山吹優しい瞳をしていた。
「以前貴女が出展された当協会主催のコンクールを憶えておられますか?」
 父よりもずっと若い喉仏から出される声は低くまろやかで、町では耳にしたことの無い響きを込めていた。短く整えられた髭は清潔で、ご近所のワルドおじさんとは似てもつかない色気を醸す。少しクラクラと眩暈がする少女は何を話そうとしていたか朧気になってしまう。
「絵画…あの、故郷の風景と、町の方達を描いた、あの絵…」
「そう、あの絵です。受賞こそは果たせませんでしたが、私はあの絵に酷く惚れ込みましてね、是非こんな(たえ)なる絵を描いた人にお会いしたいと思っていたのです。…おや、顔色が少し悪いようだ。」
「走って来ましたので、その所為かと…あの、でも、何故、父は貴方達を家に迎えなかったのでしょう、だって、道で待っていろなんて、そんな失礼なこと、その、言うなんて…?」
 中央の男はトネリコの両肩に逞しい両腕を伸ばし大人の掌を軽く乗せた。お隣さんの奥様よりも重い質量だった。足を後ろに一歩退さらしたが何かが背中にぶつかる。男の両端に控えていた筈の男性二人がトネリコの逃げ道を隙無く塞いでいた。中央の男は煙草の名残薫る笑みを少女に向ける、このような種類の微笑みを見るのは初めてだった。
「お父様は貴女が迷われるのではないかと思われていましたよ。伝言を預かっています、申し上げましょう。おまえの才能は田舎で咲かせる類のものではない。おまえの顔を見れば私はおまえを引き留めてしまうだろう、教会に連れ戻したくなるだろう、幸せと健康を祈っている……如何(いかが)です?」
 こんな絡め取るような切ない声は知らない。顔を背けようと掴まれている手首に力を込めたら、唇を唇で塞がれて、そのまゝ何かを流し込まれた。反射で喉を動かした後、意識はふつりと途切れてしまった。

 どれだけ清廉に生きようが、ひたむきに生きようが、不条理は雨として降ることを止めはしない。生命が存続する限り水は必ず訪れる。それが常に望む形で来てくれるかどうかなどは生命の捉え方の問題であって、水自体は只生命達を(おとな)えばそれで充分なのである。
 だが此の雨は少し欲を出した。
 トネリコを連れ去った主犯の男は決まった名前を持たなかった。或時はアルファベットで綴る横文字の名の時もあれば縦書きでの名を称した経験もあるし、凡そ日常では公とされていない文字で名乗ったこともある。トネリコの住む町に足を踏み入れる前にはカバネと言った。
 仕事帰りに偶然立ち寄った小さなギャラリーで一つの絵画を見たのが今回の事件の契機(きっかけ)であった。サアカステントが迷い込む夜空の星々は歪みうねり流れゆく、その先には北斗七星が太陽の如き存在感を演じているが其の太陽は凍っており月の横がほ、死人(しびと)の顔をしていた。それでも紺青藍碧の空はうねりを止めず、異形の星達も輝きを失わない。
「この絵は、誰が?」
 都会のギャラリースタッフは質問者に滔々と答えた。その絵画は一人の田舎町に暮らす少女が一人で描き上げたものであること、絵の勉強を学園で習った経験も無いのに独学で絵を描き続けているらしいということ、コンクールへの出品を勧めたが受賞には届かなかったこと、しかし絵画コンクール主催協会の会長が少女の描いた作品を大層気に入って、是非当協会の一員になってほしいと思っていること。雇われ者は中々何處迄話をして良いのか加減が難しいのは仕方あるまい、スタッフはこの絵を買いたいと言った客の注文に忠実に対応した。
 車を停めて待機させていた部下の二人に指示を出し、絵画の制作者の名前と素性、家族構成を調べさせた。
「カバネさん。此の絵は何かの暗号でありますか。」
「そうじゃなかったらどうする?」
 車内で足を大きく開き重心を下と前に同時に持っていく、俯向き加減で咥えた煙草に銀のジッポで火を点けて煙を味わう上司の様子に部下は少なからず驚いて訊き返した。
「えゝ、今後の仕事のメッセージや合図だと思ったのですが、違うのですか?本当にただ、お好きな絵を買いに?」
「俺はただあの絵が気に入ったから向こうの希望の額の十倍だして買っただけだ。初めは百倍出す心算(つもり)で店員に伝えたらな、直ぐに計算出来なかったようでなあ。だから分りやすい十倍で買い取った。あの坊主、今でもまだ目ェ回して腰抜けてんじゃねえか。」
 珍しく上機嫌な上司に背筋を凍らせながら、部下はもう進んで質問をすることを止めた。
「で、お前、画家の自宅は分かったのか。」
 受け取った絵画を丁寧に梱包しなおす部下とは違うもう一人の部下に今度は尋ねた。
「ええ、調べは全て付きました。どうやらその娘、此処の郊外にある田舎町に住んでいるようですね。母親は彼女を生んだ後合併症で亡くなったそうで、父親との二人暮しみたいです。」
「ほお。どんな父親だ?農家でもやってんのか。」
「農家の手伝いをすることもよくあるそうですが、農家ではありませんね。神父です、本業は。でも神父らしい神父ですよ、町中の農作業や修理、飯炊きに掃除…まるで町の何でも屋みたいな奴です。娘もその手伝いに自ら行っているらしい。」
「ふーむ…」
 カバネは低く溜息と声を唸らせた。
如何(いかが)します、カバネさん。」
「ぐずぐずしていたら其処等へんの農夫と結婚させられちまうかもしれん。恐怖から始まる関係は避けたかったが、此の絵を描いた娘が他の野郎の手垢で汚れるのは許せん。此れから迎えに行く。俺が眠らせとくからその間に家の準備は済ませておけ。」
「承知。」
 車は郊外に向けて走り出した。

赤子


 お母さまは何方(どちら)へ行かれたの?
 お母さんはね、遠い所へ行ったんだよ。
 会いに行けないほど遠いのですか?
 探しても会うことが出来なくなってしまったんだ。
 お父さまは?
 おまえの父親は私だよ。その瞳の色は私にそっくりだ、私の血を継いでいる証だよ。
 私の目は喜ばれるものですか?お母さまは私の目をお嫌いあそばしていたのに。
 あの後父は何も言わなかった気がする。神に仕える身でありながら女性と肌を重ねた秘匿にしておかなければならない罪の為だろうか、それともお母さまの()に似ていた方が都合が良かったのにと気落ちした為だろうか、町の住民達はすっかり父を立派な方と信じていたので、彼等彼女等の中に私達の瞳が似ていると思う人は多かったけれど父の説明通り”祝福された孤児”として私を見た。だから誰も血が繋がっているから、実の親子だから似ているとは考えなかったに違いない。

 目を開くと、感情のわからない涙が一つ零れていた。

「おはようトネリコ。」
 あの声、とゼラニウムの薫り。娘は白いシルクのパジャマに着替えさせられており、見事な手触りの寝台の上で半身を起こした。
「よく眠れたようだね。」
カバネは彼女の隣に腰を降ろし、ほんの少しだけ寝癖の付いた髪を持って来たコームで()き始める。
「けれど途中魘されていたようだ、何か怖い夢でも見たのかな?」
 彼はトネリコの白い頬に優しくキスをした。トネリコは彼の自分への丁寧な対応を拒まなかった。いくら愛しの妻にしたいと言っても、最初から此処迄スキンシップを受け容れられていては、幾らか毒気を抜かれると言うもの。誘拐されたと言うのに娘は帰りたいとも助けてだのも叫ばなかった。
 状況は理解しているのだろうか?知りたくなって、抱きしめた。
「トネリコ、私のかわいい奥さん。君は今自分がどういうことになっているか分かっているのかい?}
 いつもと同じ日になる予定だった。丘に登って絵を描いて、夕方前には帰り道を歩いて、ワルドさんのお家からトマトを二個頂いて家に帰って鍵を閉めて。そうして晩御飯を食べて眠る準備をしていく筈だった。他愛の無い話が電灯の下で咲く筈だった。なのに如何して私は恐怖や絶望に震えていないのだろう。
「花嫁にしたい相手を攫う行為が合法に認められている国や時代はあった。けれど君と私の住む世界では許されない行為だよ、だから君は逃げる権利があるし、怖がる権利だって許されている。まあ私が逃げる権利を認めるかどうかは別だけれど。」
 手放したくないと感じたのは初めてだもの。
「貴方が私を抱きしめている感情に因るものではありません。」
 花に蜜を吸う蛾の羽のように静かな声であった。娘の首筋から顔を離して男は娘の顔を見る。
「此処から出たところで、私の帰る場所はありません。捨てられた身が何處に居場所があるのですか。」
 カバネは神父を殴りとばした時のことを思い出していた。昇格してからは暴力は主に部下にふるわせていたので、誰かを拷問でも無いのに感情のまゝぶん殴ったのは数年振りだった。部下をまたしても驚かせてしまったっけ。
「まだ俺は何も話しちゃいないが。」
「父にとっては誰でも良かったのでしょう、私を捨てる口実になりそうならば。厄介払いをしたがっているのは薄々感じていましたから。」
 私があの町で生き続ける限り、いつ秘密が白日に晒されるか分らない。ずっとビクビクして暮らすのは誰だって嫌でしょうに。
「何だあの生臭神父、全然隠せていないじゃあないか。」
「父は話が上手なのです。なので町の人達は父が私に関心を抱いていないことを知りません、上手に隠すのです。けれど…」
 トネリコはカバネの顔を見つめた。暗い藤花を咲かす互いの眼と眼は此時確かに黙契を交わしたのだ。
 かれらの恋はおぞましいのだろう。誰からも祝福はなされず関心も持たれず祈りも捧げられないかれらの恋は、愛を知らない仔兎と愛を知る山猫の間に生まれた血塗れの赤子であるのだから。

白躑躅

 最近自分達の縄張りに土足で踏み込んで来た者がいる、と上から指示が来た。
別の組織ではなく相手は単独で、殺害相手の手首に切り傷を残している、それが被害者を襲った際に付けた傷ではなくどうやらこと切れた後にわざわざ傷を付けているらしい。しかも手首の切り傷には唾液の成分が残されている。
「狙われたのが全員妊婦って言うのは確かなようだな、気色悪ィ。妊娠した女を指し殺した後に手首を切って血でも舐めてんのか。」
 さすがの部下も苦々しげに頷いた。野郎を殴って撃って殺した経験は数え切れんほどだが、一度も女を狙えと命じられたことは無い。女は生かした方が役に立つ事が多いからだ、男は反撃しようとするが女は理不尽に抗わず受け容れる、そして自分がどう動くべきかを教えなくても判断出来る種族だから殺すのは資源をみすみす捨てる行為だ、愚かしい。
「妊婦さんですか。」
 これは妻に見せるような資料じゃない。仕事終わりに居眠りをしていたところ、勝手に資料を盗み見したようだ。またか。
「家に仕事を持ち込むのも難儀ですね、私が見たがるから。」
「トネリコ…何度も言っているだろう。おまえは組織の仕事をしなくても良いんだってば。」
「でも、折角貴方に教えてもらった銃の腕があるのに。」
「俺が教えたのはあくまでも護身の為だ。俺と背中合せで撃たせる為じゃあない。」
「ではプロファイリングを。」
「専門家でも無いのに出来ないだろ。事件の資料なんか見るより好きな絵を描いてたらどうだ?」
「スランプで、筆が進みません。」
 しれっと嘯く横には花瓶に活けた花の絵が大量に積まれているのに。
「おまえね…前の時もそう言ってたかな、俺が別の案件の詳細を家で持ち帰って調べた時。通用しないぞ、憶えてるからな。そう言われて一回上司に怒られたんだよ、奥方に資料を見せるでないと。」
 ボスの口調を真似て言うと、むぅと少し頬をふくらませている。可愛い。
「そう拗ねるなって。トネリコを守る為でもあるんだから。」
「何故妊婦ばかりを狙うのでしょう。被害者は髪色目の色骨格体型もバラバラで、共通点は赤子が(たい)に居ることだけ。赤子を殺したい犯人なのですかね?でもそれなら手首を(けが)す必要はありません、目印でしょうか、絵画の隅に画家がサインを残すような。大胆ですね、犯行が知られれば知られる程容疑者の数も増えていくのに、それとも自分は決して捕まらない自信でもあるのでしょうか。ねえ、カバネさま、ねえ。」
「そう言えば俺が釣れると思って……駄目だ教えない。過去は身重が的だったとしても、次からは身重以外の人間を狙うかもしれない、とにかく今街は特に危険だ。絶対に一人で出歩くなよ、部下共は俺より軟弱だから当てにするな。外に用がある時は必ず俺と行くこと、もし破ってみろ、足の腱切ってあげるからな。」
 トネリコはもう表情を変えない。初めてこの忠告をした際は頬を初心に花と染めていたのに。恥らひは慣れで消える、日常となった軟禁生活は今日も穏やかに進んでいく。
「家からは出る必要無いので出ませんけれど。そんなに私は信用の無い妻ですか?」
 ぐぅ、そうじゃない。苦しい胸に手を当てたくなる衝動を抑えて恰好つける。
「おまえが心配なだけだ。それに、浮気なんてしたくても出来ないだろう?」
 部下には一定の信頼を置いている。忠実で有能であることも否定しないが、組織には緊張感が不可欠なのもまた事実。もう一人で殺しをしていた小僧の時とは訳が違う、越えられない・触れられない一線を設ける事は必要だ。妻に近寄ることは右腕であろうが認めていないのはその為。
「そうですね。貴方も私も互いに深く惚れ込んでいますから。他人を求めることなど出来ません。」
 うわ、そう来たか。物理的な理由じゃあなかった。緩みそうになる口元を片手で押さえ咳払いをしてどうにか誤魔化す。此方の胸きゅんなど知らぬ顔で不思議そうに首を傾げている、ちょっと可愛いが過ぎる。
「私、何か変なこと言いましたか…?」
 しょげなくて良い、おまえの所為ではない、理由はおまえだけれども。
「いや、気に病むことは無い。……少しだけ、事件の資料でも見るか?」
 あゝほらこうやってほだされてしまう。だから上司にもニヤニヤとからかわれてしまうのだろうに。でも不可抗力だろう、こんな澄み晴れた花の前では。

二つのカンバス

「娼婦を狙う話なら有名ではないですか。」
「それに擬えたって?模倣犯にしては自我が強すぎないか?」
「自分のオリジナル性を刻みたかったのかも。」
「おまえが模倣犯ならそうするか?」
 トネリコはふむ、と考えた。カバネは警察も入手しきれていない資料まですっかりお嫁さんに読ませてしまったので、また上司に惚気を聞かせろと言われるだろう、恋バナが趣味なのは組織の中でもトップシークレット。お望みの話をする際にボスの秘書が人を殺しそうな圧でカバネを見て来るのも慣れたもの、口外されないかの心配をしているのだ。
 万が一ボスの秘密の趣味が乙女思考に依るものだと知られれば、組織の人間全員の殺し方にキレがなくなってしまうだろう。切れ味衰えた牙では仕事は完遂出来ない、一撃で仕留めきれず生存を許すことにでもなりさえすれば返り討ちに遭うのは必須。緩んだ組織を引き()めるには見せしめの処刑が有用だが、部下を殺してそれを見せて、緊まるは緊まるだろうが、以前より仕事の質は下がるだろう。そうなってしまえばうちの同業者との区別が薄れ組織は競争に負けるだろう。
「それほどの極秘内容なら趣味の話させなきゃ良いでしょう。」
「俺が恋バナしに行くからボスは絵画を描く資金や資材をおまえに贈ってくれているんだ。恋バナすればおまえの為の活動資金が貰えるんだよ。」
 カバネの財力でも充分トネリコの望む道具を準備してあげられるのだが、明日買いに行こうかと考えた直後にボスからの一式が届く。監視は一切されていない。機運を読む鋭さを毎度見せつけられると、自分もボスに馴れ合わぬよう気を引き締めるのだ。此の組織は実に上手く回っている。
「警察より先に捕らえないとな、警察は犯罪者を守るが俺等の組織はそうしない。礼儀を知らぬ相手には弁えてもらえるようにならないと。」
「町を出て初めて知ったことですが、殺し屋にも規則や組織と言った秩序があるのですね。てっきり銘々が好き勝手しているものかと。」
「そう思われても当然だろう。不条理が秩序を求めているなんざ人間からしたら及びもつかん、正反対の性質だと考えているからな。でも本当は不条理だからこそ秩序が必要なんだよ、不条理であればあるほど整然とした実体なんだから。軍隊なんて正にそうだろう?」
 殺しは殺し。それ以下にも以上にもならない。世間の波で時折褒め讃えられて浮上する殺しもあれば貶され唾棄される沈下の殺しもある、だが行為そのものは同じであり、軸に纏う服の色がどう評価されるかの違い。
「芯がぶれなきゃ組織は強い。だからこそ余計にこういう気分屋の殺しには鼻持ちならんのだろう。」
 ね、トネリコ。
「では今度、上司の方にクッキーでも差入れしましょうか。いつも貴方がお世話になっているからと。」
「まあ一枚くらいなら良いだろう。」
「クッキーは作っていると複数枚出来る手順になっているんですよ?残りもあげたら良いではないですか。」
「おまえの手作りは俺だけが喰えてりゃそれで良い。ボスに一枚譲るのはボスだからだ。」
 二人でくすくす笑い合い抱きしめながらキッチンへと歩いて行く。トネリコの片足首に嵌められた長い長い銀鎖をしゃらしゃら引き摺りながら。
 何處かの部屋で夫婦が微笑ましく料理をしている時、外ではまたも妊婦の遺体が増えていた。(はら)と心臓を抉ったナイフで冷たい手首に切り込みを入れてじゅっと啜る。
「この人でもなかったか。」
 犯人の男は汚い背中を丸めて溜息を吐く。これだけ探しても見つからないとなると此の街が住居ではないのかもしれない、無駄に多くを殺してしまったかとタイムロスを嘆く横顔には、深く頬肉を抉り取られた傷痕が今にも生血を垂らしそうな鮮度で此方を見る。
「もう直き降りそうだな。今日はもう戻りますか。」
 雨雲の影の香り濃く垂れ込めるカンバスに、その男の頬だけが鮮烈な容赦の無い赤一点として際立っていた。赤塗りの横顔は閉じていた携帯を開き電話をする、相手先は警察だ。自らがつい先刻犯した罪を述べ始める、行為だけでなく被害者の悲鳴、助命の叫び、抵抗の姿、適わなかった後…事細かに電話口に話していく、一言一言押しこめるようにして。一方的に通話を切ると、携帯を道端の側溝に捨てて男は其の場を黒煙のように立ち去った。雨脚はますます強くなる。

美しい硝子

 贈られた本の(ページ)を今夜も開くと栞が音も無く床に落ちた。躑躅の雪片を玻璃にとじ込めたもので、カバネが本好きのトネリコに手づから作ったプレゼントは普段ねだらない控え目な妻の珍しくも嬉しい心であったろう、夫は大人の掌に備わるしなやかさであっと言う間に彼女の目の前で作って見せたのだった。落ちた先の床は柔らかく清潔なベルベッドのカーペットが敷かれてあったので壊れず身を凭せている。大切な栞を指で拾い机の上にまた載せまた読書を再開した。今日はカバネは仕事がある平日、それと土曜日は一日の大半家に居なかった。夫と妻ではあるけれどトネリコは主婦ではなく、むしろ夫が主夫なのだ。仕事から帰れば先ず夫はトネリコの世話をする、もうその時間になるとトネリコはお風呂を上がっているから髪を乾かしヘアオイルを馴染ませ肌にネモフィラの香りのするミストで水分と保湿を同時に行ない、唇には薬用のリップを塗って仕上げに頭・肩・背中・腰・両手足爪先も漏らさずマッサージをする。どうやらこの一連の決まった流れが夫の至福のひと時らしい、仕事終りの解放感も相俟って五臓六腑にそれはそれは沁みわたると力説されたから、トネリコはカバネが帰ってきたら相手が好きなようにするまゝで良かったのだけれど。
 カバネが居ない時はどうしよう?調理から掃除までは全て自分がするから君は穏やかにのんびりしていれば良い、気が向いたら絵を描いたら良いと、足枷を付ける手は温かかった。世話好きの彼の楽しみを奪うのはなんだか気が引ける。家事を自分がするのは止めておいて、他に何をすれば彼は喜んでくれるだろうと一人思慮に耽った際、思い出したのは町に住んでいた頃、絵本で読んだ物語であった。
 確か、迷子の猫のぬいぐるみが、危ない目に遭いながらも持ち主の女の子の家へ帰る物語。離ればなれにさせられたぬいぐるみと猫のゝ色の涙の絵が今でも忘れられない。
「お話でも聞いてもらおうかしら。」
 トネリコは早速其の夜、帰宅したカバネに訊いてみた。彼女の頭を撫でる夫は是非聴いてみたいと乗り気であったのでトネリコはふにゃりと安堵した。お互いに後は眠るだけと整った時、カバネは膝の上に妻を載せながら語られる物語に耳を深く傾けてくれる。
 物語のハッピイエンドを迎えたら、カバネはトネリコの頬を撫でた。
「君は話をするのがとても上手だな。声の調子や抑揚も心地良くて聴き惚れたが、それだけでなく物語の筋を伝えるのも見事だ。」
 新しい褒め言葉が恥ずかしくてトネリコはつい目を逸らす。
「もっと嬉しがってくれても良いんだぜ?俺には無い君の才能(センス)じゃないか。」
「そんなに、喜んでもらえると思わなかったので…」
 気軽な思い付きがこんなに功を奏するなんて。語尾はもう消え入りかけていた。愛妻の様子に増々気を良くした愛妻家は、毎日物語を一つ聴かせてほしいとねだり、戸惑う彼女に有無を言わせず書棚に並べていた本を一冊小さな両手に持たせた。こうしてトネリコはカバネが仕事に行っている間本を読むことが務めの一つとなったのだった。そして玻璃の栞は毎日読書するのならとトネリコがねだりかえしたのは先に述べた通りである。
 今日読んでいるのは神話として扱われる物語の中の一つで、世界がどのようにして誕生し繁栄と滅亡と復興を繰り返して来たのかが描写されてあった。
「世界樹ユグドラシル。」
 教会では一度も耳にしなかった言葉が当然のように自分に話し掛けて来るのは面白くて、可愛らしい。トネリコはユグドラシルの物語に夢中になって頁を捲り進めていく。
「ユグドラシルの木はトネリコの木なのね。トネリコ、私と同じ、ふふっ。」
 そう言えば
 どうして私にはトネリコの名前が与えられたのだろう?由来を父親に尋ねても笑ってはぐらかされた。あの教会を擁する宗教が、世界樹と同じ木の名前を許すとは信じ難い。昔居た町を思い出せば、もう一つ分らない事がある。
 カバネが見た自分の油彩画だ。丘の上から毎日町の眺めを描いていたけれど、いつも出来上がるのはあの作品、何年も何年も毎日毎日同じ絵になってしまう、同じ絵が増えていく、父に隠しきるのも難しくなって物の燃やし方を身に付けたのも其時だ、如何して同じ絵しか描けないのだろう、病気だろうかとカンバスの焚火を見つめている時は思ったのに、今では筆を執ってもあの絵以外にも難無く描ける。デフォルメやフィルターは含有されてはいるものゝ、街の眺めは街の眺めだし、花瓶と花束だって好きなように描けている。あの絵に辿り着く結末しかなかったのは、やはり町の光景だけである。
 本から目を離して家の壁を見つめる眼の前に片手を翳して視界を半分減らす。
 私の()は、あの時何を見つめていた?

美しい硝子

 贈られた本の(ページ)を今夜も開くと栞が音も無く床に落ちた。躑躅の雪片を玻璃にとじ込めたもので、カバネが本好きのトネリコに手づから作ったプレゼントは普段ねだらない控え目な妻の珍しくも嬉しい心であったろう、夫は大人の掌に備わるしなやかさであっと言う間に彼女の目の前で作って見せたのだった。落ちた先の床は柔らかく清潔なベルベッドのカーペットが敷かれてあったので壊れず身を凭せている。大切な栞を指で拾い机の上にまた載せまた読書を再開した。今日はカバネは仕事がある平日、それと土曜日は一日の大半家に居なかった。夫と妻ではあるけれどトネリコは主婦ではなく、むしろ夫が主夫なのだ。仕事から帰れば先ず夫はトネリコの世話をする、もうその時間になるとトネリコはお風呂を上がっているから髪を乾かしヘアオイルを馴染ませ肌にネモフィラの香りのするミストで水分と保湿を同時に行ない、唇には薬用のリップを塗って仕上げに頭・肩・背中・腰・両手足爪先も漏らさずマッサージをする。どうやらこの一連の決まった流れが夫の至福のひと時らしい、仕事終りの解放感も相俟って五臓六腑にそれはそれは沁みわたると力説されたから、トネリコはカバネが帰ってきたら相手が好きなようにするまゝで良かったのだけれど。
 カバネが居ない時はどうしよう?調理から掃除までは全て自分がするから君は穏やかにのんびりしていれば良い、気が向いたら絵を描いたら良いと、足枷を付ける手は温かかった。世話好きの彼の楽しみを奪うのはなんだか気が引ける。家事を自分がするのは止めておいて、他に何をすれば彼は喜んでくれるだろうと一人思慮に耽った際、思い出したのは町に住んでいた頃、絵本で読んだ物語であった。
 確か、迷子の猫のぬいぐるみが、危ない目に遭いながらも持ち主の女の子の家へ帰る物語。離ればなれにさせられたぬいぐるみと猫のゝ色の涙の絵が今でも忘れられない。
「お話でも聞いてもらおうかしら。」
 トネリコは早速其の夜、帰宅したカバネに訊いてみた。彼女の頭を撫でる夫は是非聴いてみたいと乗り気であったのでトネリコはふにゃりと安堵した。お互いに後は眠るだけと整った時、カバネは膝の上に妻を載せながら語られる物語に耳を深く傾けてくれる。
 物語のハッピイエンドを迎えたら、カバネはトネリコの頬を撫でた。
「君は話をするのがとても上手だな。声の調子や抑揚も心地良くて聴き惚れたが、それだけでなく物語の筋を伝えるのも見事だ。」
 新しい褒め言葉が恥ずかしくてトネリコはつい目を逸らす。
「もっと嬉しがってくれても良いんだぜ?俺には無い君の才能(センス)じゃないか。」
「そんなに、喜んでもらえると思わなかったので…」
 気軽な思い付きがこんなに功を奏するなんて。語尾はもう消え入りかけていた。愛妻の様子に増々気を良くした愛妻家は、毎日物語を一つ聴かせてほしいとねだり、戸惑う彼女に有無を言わせず書棚に並べていた本を一冊小さな両手に持たせた。こうしてトネリコはカバネが仕事に行っている間本を読むことが務めの一つとなったのだった。そして玻璃の栞は毎日読書するのならとトネリコがねだりかえしたのは先に述べた通りである。
 今日読んでいるのは神話として扱われる物語の中の一つで、世界がどのようにして誕生し繁栄と滅亡と復興を繰り返して来たのかが描写されてあった。
「世界樹ユグドラシル。」
 教会では一度も耳にしなかった言葉が当然のように自分に話し掛けて来るのは面白くて、可愛らしい。トネリコはユグドラシルの物語に夢中になって頁を捲り進めていく。
「ユグドラシルの木はトネリコの木なのね。トネリコ、私と同じ、ふふっ。」
 そう言えば
 どうして私にはトネリコの名前が与えられたのだろう?由来を父親に尋ねても笑ってはぐらかされた。あの教会を擁する宗教が、世界樹と同じ木の名前を許すとは信じ難い。昔居た町を思い出せば、もう一つ分らない事がある。
 カバネが見た自分の油彩画だ。丘の上から毎日町の眺めを描いていたけれど、いつも出来上がるのはあの作品、何年も何年も毎日毎日同じ絵になってしまう、同じ絵が増えていく、父に隠しきるのも難しくなって物の燃やし方を身に付けたのも其時だ、如何して同じ絵しか描けないのだろう、病気だろうかとカンバスの焚火を見つめている時は思ったのに、今では筆を執ってもあの絵以外にも難無く描ける。デフォルメやフィルターは含有されてはいるものゝ、街の眺めは街の眺めだし、花瓶と花束だって好きなように描けている。あの絵に辿り着く結末しかなかったのは、やはり町の光景だけである。
 本から目を離して家の壁を見つめる眼の前に片手を翳して視界を半分減らす。
 私の()は、あの時何を見つめていた?

白アザミ

「トネリコの住んでた町の調べはついたか?」
「はい。奥様の故郷ですよね。」
「あの場所を故郷と呼んでやるな。一時的に住まされていただけに過ぎないんだから。」
 承知しました、と頭を下げた部下から資料を受け取ると、カバネはぶ厚い書類に目を通し始めた。
 絵画を見て作者を欲しいと思ったのは絵を描かせて作品を常に手元に置いておきたいと思ったから、何なら組織専属の画家にでもさせようかと目論んでいたが、部下が調べた資料を見てその計画は零にした。手放したくない、傍に居てほしい、その二つだけを願った。部下達は最初かなり動搖はしていた、それもそうだろう色恋なぞ見向きもしなかった冷血漢がいきなり妻を娶ったのだから。だが驚きも初めのうち、ボスが認めた事には一切意見をしない、受け容れれば良いように全員躾られているから、祝辞を手短に伝えに来る者ばかりで反対する者など一人も居なかった。居たところで殺されておしまいだ。
 町を訪ねてトネリコの帰りを往来で待っている時、ずっと得も言われぬ奇妙さと不気味さが背中から覆い被さり頭から自分をニタニタと凝視しているような感覚が剝がれなかった。兎角彼女を此の場所から早く連れ出さなくてはと焦る鼓動を鎮めるのに何度深く息を吐いたことか。あの日以来町には近付いてはいない。
「町の歴史から調べたのか。」
「はい。得られる情報は漏らさず持ってこいとお命じでしたので。」
「うん、そうだな、思わぬ情報から大きな収穫が得られることだってざらにある。ご苦労さん、下がって良いぞ。」
 丁寧な言動で去って行く部下を目だけで見送った後、再び資料を読み始める。あの町はてっきり宗教色が強い地域だと予想していたが存外そうでもなかったらしい。
 町の起こりは一人の旅人だったらしい。世界各地を巡っていた旅人は、或日一輪の花が咲く野原を訪ねた。周りも草々咲き誇ってはいたが旅人はその一輪、白アザミの花に目を惹かれたそうだ。
「確かに白いアザミなんざ聞いたことも無い。突然変異種が何かか?蒲公英の綿毛でもあるまいに。」
 白アザミは旅人を再び立ち上がらせまだ見ぬ場所へ歩かせることをさせなかった。目が離せない一輪に従うように旅人は一軒の家を建てた。不思議と材料も手伝ってくれる人々も簡単に確保出来たので、旅人は此処に辿り着くのは定めれていたに違いないと、長い放浪生活の疲れも相俟って運命を信じたのだ。
 一人が住めば、他の者も其の土地が気になってくる、そうして嘗て旅人だった男の長閑な生活を見て、都会から憧れて移住する者が次第に増えて来た。やがて野原は村となるのも当然の運びであったのだろう、村の興る発端である白いアザミに村人は感謝を示し此の村の名産として繁殖させようと考える者が現れ始めた。白いアザミの咲く村として有名になれば、新たな産業にも着手出来るかもしれない、そうなれば村人の生活はより潤沢になるのではないかと前進に意欲的な人がいれば現状維持の平々凡々な日常の延長を望む人も必ずいるもの。村は白アザミ一輪の将来の為に分裂を生じてしまったのだ。
 白アザミの為に此の場所に暮らし始めた男は、自分が花を見つけたから人間同士の争いが起きたのではないかと少なからず心を痛めていた。ならば根こそぎ摘み取ってしまえば良いと鼓舞する声と摘み取るなと叱咤する声が毎日男の頭の中で反響してはごちゃ混ぜとなりぐわんぐわんと聞き取れない和音へと化けて男を責め苛む。宥めても宥めても人は対立しアザミはそっぽを向いたまゝ、そんな暗い白昼が何年何年続いたろう、男はとうとう白いアザミの花を引き千切った。
 何年も変らぬ珍しい花が失くなったことで、人々の対立は意味を更に失くしてようやく村の内戦は一気に鎮火した。また以前のような普通の日々が流れ始めた。
 其処迄読むと続きは次の頁からになっていた。カバネは資料から目を外して天井を仰ぐ、一度流れ去った水は二度と同じ水にはならないだろうに、此の町の住民は日常が戻ったと済ましたのだろうか。呆れた深い溜息と共に姿勢を戻し再び紙に指を掛ける。カバネの蔑みはどうやら的外れではなかったらしい。
 アザミの生えていた土地はなかなか買い手が付かなかった。それもその筈、村人が忌避して尻込むものを誰が先陣切って扱おう。それでも道に雑草がはみ出してきたらその部分だけを伐り取ったりと最小限の手入れ自体は交替で等しく行なってきたが、鳥も獣も虫さえも寄り付かない植物だけの小さな一角を如何したものかと住民は常に気掛かりとしていた。それは旅人であった男も例外ではない。しかし村人達は男を責めることはしなかった、自分達も怖いのだ、若しあの男があの場所に手足を入れればどんな波紋が起こるかも分らない、とにかくあの場所には関わってはならないのだ。
 昔は人が増えていた村は、一人一人出て行く者ばかりとなった。此の村に拘らずとも生活は叶う、他の土地に移って新しい日常を過ごせば良いと思ったのである。最後に一人残った男は、村の人達が全員去って行ったのを見届けると、再び旅人へと戻った。
 建物も何もかも取り壊して更地にして、恰も人など最初から住んだ事も無いように念入りに塗り埋めた村の記憶は、眠る土には知らされず、目を開け続けていた植物だけが知っていた。
 廃村となった土地に、また一人人間が訪れた。彼女は高貴な身分だが、駈け落ちをして此処まで逃れて来たのである。相手は屈強な軍人で農民の出自であり、今は食材の確保の為都会に紛れている。此処で待つようにと約束をして令嬢は一人走り慣れていない両脚を叱咤しながら駈けて来たのである。疲れきった彼女が荒い息を吐いていると、手元に一輪の白菫が咲いていた。此の場所は人も居ないし、隠れて生きるのには丁度良いかもしれない、と彼女は菫の白い花弁を撫でながら考えた。
 やがて軍人も合流し、二人は花のもとに愛を誓った。娘は白く小さな其の花を摘み取り恋人へのお守りとして軍服の胸ポケットに()れた。娘は此処に二人で暮らしてはどうかと打診したが、彼はもう少し中心街から離れた方が安心だからと断った。月が昇り始めた時、若い恋人達は手を握り去って行った。二人の去った後には再び白いアザミの花が一輪首を(もた)げて立っていたが、前を行く娘達は其を目にすることも無かった。
 白アザミは待ち続けた。また愚かな旅人のような自分に見蕩れて争いを誘発する原因を産みそうな者を。
「とんでもない野郎じゃないか。」
 カバネはようやく三分の一まで進んだ紙束をテーブルの上に放り投げた。一度煙草を吸う為だ。何處から誰に連れられて来たかは不明だが、たゞの植物にしては有象無象より遙かに面倒な存在の白アザミが如何に町へと繋がるのかが知りたい。そうしたらトネリコの描き続けた絵への答えにもなるかもしれないのだから。
「あの()は何を見ていたんだろうな。」

初代と次代

 更地はずっと更地のままではいられない。白紙を目の当りにしてインキや鉛筆で汚したくなる衝動と似て、真ッさらな地面には建物を造りたいと思わせる魔力がある。そして白アザミの悲願は叶った。一人の農夫が畑と小屋を此の場所に置いたのだ。
 農夫の名前はトネリコの父親の名前であった。しかし時代を考慮するに此の農夫が父親だとは考え辛い、どうやら何代にも渡って名前を継承して来たのだろう、一世、二世と言うように。つまり農夫はトネリコの先祖である、そして町の歴史は先祖を皮切りにみるみる動き始めていた。
 農夫は最初自らがひっそり細々と生活する為に畑を耕し粗造な小屋に住んだが、或る朝己の暮らしが続いているのは人を越えた大いなる存在の御蔭だと青天白日の日光を浴びて霹靂と打たれたらしい。此時彼が建てたのが町の教会の前身であった。先祖は農作業と礼拝に毎日心血を注ぎ純粋で素朴な生活を決して崩さず、死ぬ時も静かにひっそりと死んでいった。彼は生涯独身を貫き、農夫以外の仕事にも目をくれなかった。(さき)の駈落ちした恋人達を久々に思い出して白アザミは腹を立てたが、人が訪ねて来るのを待つ他仕方無い。
 此の町の地形はなだらかに起伏しており、都会のある場所からは町の存在を知ることは出来るけれど、きわどい起伏は衆目を選り好みするから、都会の街に居れば誰でも見つけられる訳ではない。それこそが町の仕掛けた大きな罠。偶然発見した丘の麓に素朴な教会が建てられている。あの印は自分の宗教の模様ではないかと気になり足を、踏み入れる。来訪者達は人里離れた場所にこんな場所があったなんて。どうだろう、此処を同士を集めて一つの町にしないかと話し合った。今度は旅人の時代のような事態は起らず満場一致で町造りの作業を計画・実行し始めた。
 町には移住者が増えて嘗ての村は町へと見事変貌した。亡くなった農夫の遺骨を教会の裏手に土葬し、石碑には遺品のノートに記されていた名前を刻んだ。農夫は我々の宗教を広める為に此の地で殉教した者に違いないと後の者達は想像し其を真実とみなし、教会に住まう資格を持つ者は農夫の名を継ぐことに決まっていった。
 白アザミは馬鹿にしているのだろうよ。
 此処で一旦手を止めたカバネは疑問を口にする。
「あの町に、白いアザミなんか咲いていたか?」
 トネリコ以外に然程関心が向かなかった所為もあり、道端の草花など一向気にも留めなかったし、周りは畑ばかりで、一つのものが囲われているような区画など見当たらなかったのではないか。
「若しかしたら誰かの家で匿われているのかもしれん。」
トネリコからは白いアザミの話を一度も聞いたことが無いから、教会の内側にも居ないであろう、だか
「此の花、まさか引き抜かれても一度も枯れていないなんて言わないよな?」
 背筋を氷の糸が伝う。振り向いても、誰も何もいなかった。

ティータイム

 今日の晩御飯はトネリコ特製ミートソースを絡めたパスタと、レモンドレッシングで焼いた生鮭と鶏肉、コンソメスープのかきたま入りだった。久し振りの愛妻ご飯に頬は緩み食べ進む手は止まらない。
(たま)には料理させてくださいね。」
 夫の反応を見たかぎりでは此の提案は大成功だ。
「俺の作る料理を食べてもらうのも嬉しいものだが、おまえの手料理を頂くのもやはり格別な喜びを感じるな。此処に住み始めた次の日に飯を作ってくれたが、それ以来じゃないか?」
「貴方が先にトットと作ってしまうから、お任せした方が良いのかと思って。」
 二人分の食器を下げてシンクに運ぶ。その間にカバネはソーサーとティーカップを(ひと)セットずつ戸棚かた取り出し今日の茶葉はどれにしようかと選んでいる。
 夕食後の夫婦一緒のティータイム。このほわほわした時間がトネリコは特に大好きなのだ。部下や上司の前ではクールで厳しい冷酷な男が、自分と二人きりの時間には大きな猫のようになる。頭を撫でればもっととねだり、撫ですぎたらもういいよと制止される。部下の話を聞かせてと言えば少しむくれて話したがらず、膝上に抱かれている間に本を読もうとすれば何とも言えないさみしい顔をして、ベッドで眠る時は季節に関わらず妻を腕の中に抱きしめてすやすや寝息を立てるなど、カバネの部下が知れば卒倒するだろう、一周まわって怖がるかもしれない。
 貴方は私の喜びが幸せといつも仰有るけれど、私だってもうそうなのです。
「今日は林檎にしようか。」
 アップルティーの茶葉を温かい陶器に入れて湯を注ぐ。なんだか懐かしい薫り。私のお気に入りを選んでくれている。
「この紅茶を飲んでいる時が一番和やかな表情になるんだ、ふにゃ、って感じに。昔から馴染みのある味なのか?」
(いゝえ)、町の人達は紅茶が好きではなかったから、勿論父も。だから煎茶ばかり飲んでおられた、麦茶、緑茶、焙じ茶…どれも同じ茶葉から枝を広げていった筈なので、紅茶も混ぜてみてくれたら良かったけれど、同じ葉から生れたとは思えない墮胎児だと蔑まれて忌み嫌われていました。ですから毎夜、町の人達の寝息を更け行く空が教えてくれるんです。皆よく眠っているから気づかれない、おいでと私を呼ぶのです。」
「空の声…が聞えたのか?」
「いいえ、私に空の声は聞き取れません、人間ですから。けれどあの子の声なら私は間違えない。」
 あの子?トネリコにはあの町で友人は居なかった筈だが。
「人間ではありません。(ふくろう)です。エゾ梟のわらびもちです。」
「…………」
「部下の方がお調べになった中にも記載されてはいなかったでしょう。交友関係と言えば人間をあたるのが常識です。まさか相手に猛禽の竹馬の友が居るとは夢にも思いませんから。」
 浮気では無いのだから一向に責める心算(つもり)も無いし、何なら怒りすら感じない。いいではないか、妻が自分と同じくらい心を開ける者が居たって、部下よりエゾ梟と仲良い方がよっぽど良い。
「その子、わらびもち、は今どうしているんだ?紅茶の話の前に知りたいのだが…」
「時々家の外で声がします。元々山暮しをする生き物ですから、此方(こちら)にはずっと居る訳ではないかと。教会に居た時もそうです、空の合図を取り次いで私を呼んでくれる。そうして丘に座ってアップルティーを一杯だけ飲む。それがあの町での紅茶の楽しみ方でした。」
 それが毎晩人前で頂けるだなんて。にこりと微笑みまだ慣れぬ火照る頬をしたしたと扇ぐ。
「わらびもちか。また不思議なあだ名を付けたんだな。」
「えゝそれはもう、わらびもちのように()いフォルムでしたので。」
「わらびもちは俺を恨みに思っちゃいないかい?大切な友人と引き離した張本人だが。」
「威嚇をしに来ているのではないと思いますよ、私が元気にしているかどうか様子見に来ているんだと思います。あの声は挨拶の声ですもの。」
「人の住む場所は自分達の住む場所ではないと理解しているからこその行動だな。町でも山に住んでいたんだろう彼等は。」
「えゝ、でも…エゾ梟だけじゃなくて、どの動物達も町には入って来ませんでした。柵も越えられない高さじゃないし、毒餌を仕込んでもいないから畑は山の鳥獣に穴場であった筈なのに。」
「彼等も君と同じで、何かが見えていたのかもな。」
「だから私はあの絵ばかりを描いていた、何故?」
「伝える為だったかもしれない。」
「無意識に?」
「もしくはその見えていたものがおまえに描かせたのかもしれん。」
「カバネさん……」
 言いたいことは互いに分っていた。一度連れ去っておいてどの(ツラ)で、と罵倒されるだろうが、トネリコと二人で、あの例の町へ。

蜜月

 故郷と呼べる場所の定義は何であろう。良い想ひ出がある場所?悪い記憶しか思い出せない生れ育った場所?誰かが帰るのを待ってくれている場所?帰らないと決意した場所?町に住んでいた頃の自分であれば町が故郷と言ったであろう、でも今は?
 カバネが運転する車の助手席で搖られながら、トネリコは答えが出せずにいた。
「トネリコ、町へ行くのはよそうか?」
それでも夫の言葉に首を振る。車に乗ってから膝ばかりを見ていたが少し顔を上げてカバネと同じ前を見た。
「警察には行方不明届は出されていなかった。急に姿を消した娘を血眼で探している訳ではないのかもな。町の代表格がその態度なら町民達も騒がないんだろう。」
「父はどう説明したのでしょうね。まさか娘を捨てたなんて言えないでしょうから、留学か、引越か…嫁入りは適した言い訳ではありませんね、ほんとうはそうなのに。」
 ふふっと普段の笑みが零れた。あゝ、運転していなければ接吻(キス)をしているのに。
「そう言えば、あの日父に会われたのですよね。」
「あゝ、顔をぶん殴った。」
「殺しはしなかったのですね。」
「そうなれば町民全員黙らせなきゃならん。そうならなくて、嬉しいか?」
「必要無い殺しをせずに済んだことは喜ばしいです。」
「俺じゃなくて。」
「……それは、分りません。」
 車の振動はまだ止まない。

 町には警察官が大勢いた。あちこちの家では黄色いテープが貼られ自由に出入りできないように仕切られている。トネリコは車の扉を閉めるのもそこそこに走り出すと、一人の警官が此方に気付いた。
「すみません、此処からは…」
「何があったのですか!?」
 駈け寄った距離に全く比例しない鼓動。身体の芯から震えている所為か全身の筋肉が言うことを聞かずずっと悲鳴を震わせている。
「あの、貴女は…」
「妻は以前此の町を訪れたことがありましてね。その際町の方々にとても親切にしてもらったのですよ。」
 肩に手を乗せても引いた血の気が体温を下げるのは止まらない。支えてもらっている筈の腕と指先が痺れて冷えてゆくのに、もう片方はじっとりと汗をかいていて。
「事件が起きたのです。」
「それは、どんな…?」
「お答えすることは出来ません。」
「…行こう、トネリコ。」
 警官が簡単に事件概要を話す訳も無し、カバネは覚束無いトネリコの身体を支えながら車へ戻り、町を離れた。警官の視線をものともせず車は発進する。土埃ほど警戒の目は強くなかったらしい。
 郊外から街中へ戻る車の中、町に何が起きたのかは組織で調べるからと言い掛けたカバネの唇は、声立てず涙するトネリコを見て動けなくなった。まさか本当に住民全員が殺されたのだろうか、悪い予測が現実味を帯びて来る。普段は澄ましているくせに、いざとなればやはり心を大きく動かさずにはいられない本性、土壇場で喜怒哀楽を放つタイプのお人好しで純粋なやる。きっと今泣いている理由を訊いても分りませんと返すんだろう?落ち着きと情動の天秤が歪んでいる、まるで片方は引き千切ったみたいに剝き出しだ。均衡を保てない絡繰にセットされた心が安定する訳が無い、そうやって狂って死んで行った奴等を組織内でも(がい)でも山程見て来た。
 だが狂った者達とトネリコの大きな違いは、執念深さであろう。
 大抵の者は狂うことを怖れて、狂ってしまった後の自分を見ようともせず命を諦めてしまう、そんな流れだが、俺の妻は一味違う、別格だ。
 彼女は自分が狂ってしまったのだと自覚した時、自分の居る周りの環境を見るのではなく、自分の心臓を取り出して見つめ始める。以前と変った点、言動、癖、仕草、全身に遍く流れる心臓の血から読みとってその滴りを筆に吸わせて絵を描くのである。トネリコは自身の狂気を正面(まとも)に見続けることで生きる活路を見出している。今零す壊れた涙も家に着けばカンバス上の絵具になろう。彼女の狂気への執念の話をボスに話したらボスの顔は凍りついていたね、それ以来絵画の話は禁制(タブー)とされた。
 帰宅したら先ず絵を描き上げるだろう。物音を立てないようにしないとな。膝上の握り拳に落ちる雫の音がどんどんどんどん小さくなり、自宅に入った時にはもう絵筆の勢い良く地を滑り走る音が耳を塞いだ。

「描けました。」
 月昇る頃、トネリコの見せた絵は、あの一目惚れした作品だった。あの町に在る何かをスケッチしたのではなく、彼女の自画像を描いていた、ということ。丘から眺める人々の営みを光景を見て吐きそうな眩暈をカンバスに塗りつけ託したもの。
「気持ち悪い、など感じてはいなかった筈なのですが。」
 すっかり顔色の落ち着いている妻と並びソファに座る。足首の鎖は彼女自身で着けようとしたが夫の手指で結ばれた。
「おまえの素性を調べさせた時、ハッキリ言って織れと正反対の境遇だと考えたよ。親や近所の人達に大切にされて、心に穴なんて無さそうな人生を歩んで来たんだろうなと。でも何のわだかまりも抱えない奴がこんなにうつくしい油彩画を紡げる訳が無いとも感じた。まさかその通りだったとはね。」
「父が町民達を騙していたように、私も自分を騙していたのでしょうか。」
 とんだ才能を引き継いでいるではないの。
「騙すと言えばなんだが…トネリコ、おまえ母親のことは憶えているか?」
「お母さま…?お母さまは、私の瞳が気味悪いと仰有っていました。でも或日いなくなっていて…どうしたら良いのか分らなくって家の前で母を待っていたんです一日中。次の日になろうかと言う時、父が現れて…」
「おまえを連れて帰ったんだな?」
「えゝそうです。お母さまはと尋ねたら父は”遠い所に行ってしまった”とそう言って。」
「おまえの母親はおまえを産んだ後、合併症を起こして亡くなったことにされている。」
「えっ?」
「部下に調べさせた資料にはそうあった。公的な書類にもそのように記載されている。世間に登録されている内容はどうも事実とは違うようだ。」
「出産後すぐだなんて、嘘です。本当に私は、あの人から………」
 苦しい。
「トネリコ。」
「毎日言われたんです、…目、めが嫌だって、だから私をまともに見てくれたことも…」
「もう良い、もう良いから。…急に辛いことを呼び出させてすまない。死亡記録の偽装も前から気にはなっていたんだ、あの町の本性に纏わるものかもしれないと……軽率だった、ほんとうにすまないことをした。ごめんよ。」
 抱きしめた温もりと彼女の流す涙が心地良い。か弱く震えて目の前の夫に縋るしか出来ない妻の何と愛らしいこと愛おしいこと。愛を知り恋を知り落下して来た仔兎の、脆く可憐で美味しそうなこと。背筋を這う喜びの甘さに恍惚(うっとり)と笑む底無しの優しさは妻の涙に触れゆっくりと拭った。
 このまゝ涙の湖に溺れて沈んでいけたらと、柄にも無くロマンチックな台詞を思うようになったカバネも大概だと、彼女も想っているのだろうか。どちらが花に誘われたのか、もう輪郭がとろけて分らない。

孤児

 祝福された子供だと言われた。
 瞳が私にそっくりだと褒められた。
 使命を生れ乍らに持っていると教えられた。
 それはお前にしか成し得ぬ偉業だと、
 お父様
 まだ果たせなくてごめんなさい。

 田舎町は潜伏に向いていないとよく言われがちだが、案外そうではないかもしれない。怪しい奴は怪しい格好・素振りをするからこそ疑われるのであって、普通の身装(みなり)・言動しかしていない者に人は警戒心を抱かない。父とよく見ていた警察の実録番組や密着映像でよくある反面教師はしどろもどろな回答をして逃げ隠れしようとする行為が明らかに見て取れる、流石に素人目にも怪しまずにはいられない。
 それでも幼い頃はよく参考にしたものだ。物心着いて少しかするとあれらは全て演技なのだと考えるようになってきて、警察の不祥事が起きたタイミングで放送されると知った時にはもう見なくなっていた、所詮はドラマ、つまらないドラマ。
 悪事を働く奴なら暴かれない事を第一に置くのは定石なのに、如何にも悪巧みしてますアピールかます無能が何處に居る。尻尾を出すのは良心の呵責に耐え切れない者のする事だろう、捕まえて私を悪事から離れさせて下さいと祈る意識の結果である。悪人は己の振舞いを悪いものだと考えていないからこそなれるのだから。
 正義も善も悪逆も不道徳も論じない、背負った使命の為に命は磨り減らされるもの。
 お父様はいつも私の頬をナイフで抉りながら母への呪いを教えてくれた。お前と私を見捨てて他所の人間に取り入った下劣な女、自らを淑女と信じて止まない女、あの女の歩いた後には墮落と腐敗しか息づかない、誰にでも優しくあろうと無駄な努力に懸命な女。けれどお前は祝福されている、その証拠に母親には何處も似ていない、若い日の私の生き写しである、まるで私一人で産んだ子ではないかと涙を流し、充血した()で一人息子を正面(まとも)に見つめるお父様、貴方の黒眼に映る私は誇らしいですか?
 未だに務めを果せていなくて申し訳ありません、至らぬ息子ゆえに貴方は心を傷めて涙を流す、だから雨は止まぬのでしょう、自らを恥じて憤る心は眠っている間も私の心臓を動かす煮えくりかえった赤い血となるのです。
 テスウと名付けられた嘗ての紅顔の青年は、今や見る影も無く育ての父親の老いた姿に瓜二つの醜さと不潔に(まみ)れていた。此の中年の男こそが妊婦を殺して回る犯人の正体なのである。昔は美しい母親にそっくりな見目であったが父親が死んだ日から最初は目元が、次に眉間が、鼻筋、頬骨、唇、背筋が似てくると今度は吹出物、脂、体臭、歩き方までそっくりになり、まるで死んだ父親が乗り移って息子の肉体を操り人形として見えぬ糸で動かしているようである。肉体が変れば精神も変ずる、今では歩く屍となったテスウを街の人々は見えていない降りをした。
 言ってしまえば、尤もである。一目見て気色悪いと分かる人間には誰も関わりたくないであろう、どんな無理難題を臭い息と唾と共に吹ッ掛けられるかもしれない、怯えの心は生きる為に失えない。
 しかしテスウを知らんふりしなかった者が一人居た。自分達の組織の縄張りを荒らされ汚された事に怒り毎日街を巡回していたカバネである。
「伯父さん?」
 黒く薄い革手袋を嵌めている手でテスウの肩に手を乗せ呼び止めた。長年会っていなかった親戚の子供を装って。
「誰だ?」
「憶えていませんか、テミスですよ。最後に顔を合わせたのは曾祖母(おおばあさん)のお葬式の日以来だから無理もないか、まだ坊主頭の()っちゃい子供の時でしたからね。だけど僕は憶えていますよ、だって貴方は貴方のお父様にそっくりですもの。いやあまさかこんな都会で偶然会えるなんて不思議だなあ、驚きましたよ伯父さん。」
 伯父さん、と最後の単語を言う声に力を込めて同時に一歩歩み寄る。トネリコには一度も使う必要が無かった拷問技術の一つであり、カバネが特に得意とする類のものである。この技を受ければ相手は何の拘束も脅しも掛けられていないのに忽ち大人しく素直に従順になる。組織にも当然拷問を専科とする者達も多くいるが、誰一人カバネより巧みには出来ないから不思議な話だ。
 テスウはすっかり言い返す事が不可能になると案内されるがまゝ待機させていた車に乗せられた。

「あの田舎町でずっと隠れていれば良かったものを、人混みに紛れようとしたのが間違いだったなあ。」
 黒を基調としたシックな応接室の長いソファに柔らかく腰を掛けるカバネは息切れ一つ汗粒一つも乱れていない。むしろ優美と余裕を薫らせる態度はボスの右腕を他よりも若くして完璧に務め上げるだけはあり、テスウが身体から吐き出したモノ達を今だけ片付ける掃除係となっている手練れの拷問係達を芯から震え上がらせた。
 カバネは確かに憤ってはいたけれども其は組織共通の憤りなので、自分が直接問い質す必要もあるまいと考えてテスウの身柄を専門の者達に任せたのだが、見た目に非ず此の男はしぶとかった。常人ならばとうに絶命していても可笑しくは無いいたぶりを受け続けてもテスウは笑うだけで怒鳴りも命乞いもしないと言う。二日間飲ませず食わせずで詰問しても彼の肉は痩せ衰えずむしろよりでっぷりと脂ぎり此方を嘲笑うので百戦錬磨の技術者達も薄気味悪さを覚えたらしい。かと言ってカバネに任された者を易々と返して良い訳も無く。薬をいくら打ち込んでも自分の名前すら未だ明かさない怪物をどうしたものかと扱いかねていたら。
「町に住んでいた奴等はどうした?妊婦達と同じように惨殺したのか?ん?」
 未だ報告も死体も上がっていないと知ったカバネが応接室に入って来た。状況を確認した後カバネは部下達を労い手本を見せるからと役回りを引き継いだ。そして今に至るのである。
 今朝の朝食のパンケエキを想い出す。濡れ布巾を敷くのが成功の秘訣だと知ったトネリコは手書きのレシピ帳にメモをしていた。此れ迄何枚も焦げてしまった作品達を食べてきたが焦げてスライスしたバゲットの如く堅くなった自称パンケエキだって美味しかった。今日は初めて成功しましたと含羞(はにか)んでいた頬にこれでもかと言うくらい小麦粉が付いていた、朝からの格闘の痕跡が見て取れたから思わず珈琲を吹いてしまいそうになった。言ってくれれば作ったのだがと頬を拭きながら訊けば、パンケエキを二人で食べる夢を見たからどうしても作りたくなったと真顔で教えてくれる真剣さにもはや耐え切れず笑い出してしまった。何とも素朴な夢が可愛かった。
 ネクタイの整え方も上手になった。最初はリボン結びにしていたものを何回かアドバイスすれば熱心に結び直すのも微笑ましかった…
 うっとり笑う表情は部下とテスウに残虐趣味の持ち主の表情と認識されたらしい。鼻歌でも歌い出しそうな機嫌でカバネは仕事を再開した。テスウの息の根はもう少しで止まるだろう。
「もう喋れねェかなあその口の中の具合じゃあ。無理しなくても良い、もうじき声も出せなくなるだろうから私がお前の事を話してやる。」
 後ろに控える部下達が一斉に頭を下げた気配を背中で感じ取ったので、片手を上げて制止する。
「俺の友人に、あの町の付近に長いこと暮らしているのがいてね、とても賢いやつさ、お前が町に来た時危険だと察知してすれ違いざまムービーを起動させてね、お前の後ろを一定距離保ちながら動画を撮り続けてくれたんだよ、凄いだろう?」
 家の中に招いて初めて顔合わせしたときは烏でも見るような視線を無遠慮にちくちく刺されはしたが、トネリコに旦那様だよと教えられてからは安堵したようで頭を撫でさせてくれた。エゾ梟を用意した留り木に呼んで旧友と会話をするトネリコ達の姿はまるで神話や伝承の一節をそのまゝ見ている光景で、森の星々が二人の後ろに円を描いて輝いていた。
「わらびもちさん。」
 妻の竹馬の友の居る位置より下に座り、深く頭を下げた。
「貴方から急に御友人を引き離してしまい申し訳ありませんでした。ですが、彼女の幸せは私の生きる意味です。彼女の笑顔は私の幸せです。そして彼女の喜びは私が担う責務であります。どうか私達の結婚を認めてはいただけませんでしょうか。」
 男の覚悟と友の屈託無い笑みを交互に見たわらびもちは、もふもふ身体の何處にしまってあったのかハシバミの小枝を一本カバネの目の前に置いた。
「トネリコ、これは?」
「まあ、ハシバミの小枝!私も貰って大切なお守りにしています。仲良くなった時に贈ってくれたものですよ。きっとわらびもち、カバネさんのこと認めてくれたんだと思います。」
 友好の証を見事与えられ有難く頂いたカバネは、今のトネリコの状態、何があってこれからどうするかをわらびもちに伝えて三人同意のもと脚に小型カメラを内蔵したチャームを付けることにした。わらびもちの脚にぐっと力が入ればカメラが撮影を始める絡繰となっており、撮影を終えた後はトネリコとカバネの家に戻り動画を確認する…此の業界は人にだけ優しくしたところで直ぐ詰まり衰退してしまうように出来ている。組織が一度も落魄せず続けて来られたのも、道理を弁えているからであった。
 テスウが達磨のように身体を蠢かす。尾行には気を付けていたとでも言いたいのか或は尾行している人間などいなかったと言いたいのか、そりゃまあ、人は歩かせていないし当然だろう。
「この装置を今からお前に被せる。そうするとお前が頭の中で答えた内容がパソコンに表示される仕組みのヘルメットだ。会話も筆記も出来なくなった状態の奴用にと一応開発させといた埃被ってた代物が今日日の目を見られたとはね。」
 ヘルメットをテスウの頭に装着させると、机上の画面に言葉が現れた。
”私はお父様の為に使命を果たそうとしているだけだ。それを何故邪魔されなければならない!”
「お父様……嗚呼お前の育ての父親のことか。老衰で死んだんだっけかな、実際に会った訳じゃないから大した評価も出来ないが、まあとんだ甲斐性無しのろくでなし男だったようだな。」
”育ての親じゃない、実の父親だ。”
「血は繋がっていやしねェよ、手前(てめえ)と血の繋がりがあるのはお父様とやらが殺して山に埋めた母親の方だ。」
”違う、母は俺とお父様を捨てて他の若い男の所へ行ったんだ、そして浮気相手との子を身籠った。”
「おいおい、だから妊婦を見境無く殺してまわってたのか?俺達の領分で。」
”俺は女から産まれた子供じゃない、お父様の胎から私は産まれて来たのだ、私はお父様の子になりたいと望んで生まれて来たんだ。”
「テスウ、と言ったか。此奴の育ての父はとんでもないホラ吹きのヒモ野郎だった。今回は部下に頼まず自分で調べた結果だからよく憶えている。色々、と言っても足りない程、見境無く、手当り次第に独身女性に狙いを付けて出刃包丁で脅迫する、命を助けてほしかったら自分を養えと言って家に上がり込み居住する。被害者は警察に届け出るが、証拠が無い。防犯カメラや人の意識を巧妙に突いているから痴話喧嘩(みんじ)不介入として警察は帰り、次チクれば殺すと言えば相手の詰みになる。
貴様の父親はそういう生活をあちこちでしていた。被害に遭われた人達は組織(うち)が数十年前に保護して今は平穏な生活に戻れているよ。たくさんの孫に囲まれて大往生した婆ちゃんもいたな。とにかく何が言いたいかって言うとな、手前等二人して組織の領内を荒らしてくれてたんだ。安心しろ、俺達のボスは情け深いお人でね、親の犯罪を子に押し付けるのは道理に反すると仰有るから、お父様の方はチャラにしてやることに決まった。でもまだ話はさせてもらうぜ。
父親が次に狙ったのがお前の母親だった。シングルマザーだと知らなかったんだろう、独身でなかった事に腹を立てた奴は、若い女性を殴り殺した。そして裏手の山に埋めたんだ。
まだ物心も付いていない男の子は其時昼寝をしていたから母親が襲われた場面を目撃していない、奴はお前を起こして言いくるめたんだろうな、どう言ったかなんざ聞きたくもないが。
だからお前とお父様は他人だ。血の繋がりが一滴も無いどころか、犯人と被害者遺族の関係だったってことさ。」
 生れて来る子は親を選べないが、孤児だって親を選べない。子供は親に対しては選択の自由は与えられていないんだろうな、(ことわり)と言うものなのか?
 此処迄説明したところで画面の文字が一言も無くなったので顔を覗くとテスウは目をかッ開いて唇白くわなわなと震えていた。
「気色悪い信念で街を荒らしやがって。で、まだ訊きたい事あるから死んでくれるなよ、お前、街外れの田舎町に行ったな?」
 画面に文字は出て来ない。五秒待った後に手にしていたアイスピックをテスウの瞼に突き刺した。
”行った、行った、いいいいい”
「其処には小さな教会があって、神父がいたろ?町民達は敬虔な人間ばかりだ。貴様、町で何をした?何の為にあの町へ向かった?」
 ずぷりと皮膚から引き抜いて部下の手渡した布で血を拭き取る。画面を見ればまだ意味を成さない文字列ばかりが叫んでいたので相手が落ち着くまでトネリコの作ってくれたクッキーを胸ポケットから取り出し食べた。シナモン、ココア、オレンジ、林檎、ラベンダー、教えたらすぐに吸収してものにする、いいこいいこ、エプロンのコレクションをこれ以上増やしたらまた怒られるかな。
”町に特に用は無かった。警察の目の届かない場所だと思ったから訪れただけだ。”
 あっそ。
「町の人間を皆殺しにしたんだろう?」
”してない、してないそんなこと。数日滞在しただけで、殺しなんかしていない、彼処(あそこ)には妊婦が一人も居なかったんだ。”

 わらびもちがテスウを一定距離から撮影している映像の中で町には異常は起きていなかった。何回もビデオを繰り返し再生するトネリコの横でわらびもちが心配そうに喉を鳴らし顔を友人の頬にすりすり、すりすり。
「有難う。もう今日は此処で止めにしときましょうか。あなたが妊婦殺しの犯人を見つけてくれた、それを先ずは喜ばないとね。」
 腕の中に入って来るもこもこを優しくかろく抱きしめる。この子があの男を警戒して追っていなければカバネ達で捕まえることも出来なかっただろう。だがあの者は町で事件を起こしてはいないと言い張っている、それはわらびもちの録画した映像で証明されている。
「でも、何故テスウは殺した後に手首の血を啜ったのかしら?」
 カバネの拷問でもその理由は判明しなかったらしい。首を振って絶対に伝えなかったそうだ。部下の前で拷問相手を死なせたなんて間抜けも良いところだ、ボスにも笑われたよと夕食で溜息を吐いていたのは昨日のこと。夫のちょっとなさけないところを見られるのはレアなので嬉しかった。
「如何して或日いきなり町の人達が消えてしまうの?どの家にも血痕を残して。」
 死体は一つも無かったけれど血は人間のものだった。誰の血かどうかまでは流石に不明だが同一人物の血液ではないだろうと分析班から報告が上がって来たと教えてくれた。殺されなくてはならない罪を町民が侵していたとでも言うのだろうか、父は自分を厄介物と思っていたようだが、近所の人達は……
 近所の人。そう言えば、あの町に妊婦さんはいたっけ。家庭はあった、子供もいた、赤ん坊もいたけれど…
 妊娠した女の人を見たことは一度も無かったのではないか?
「わらびもち。」
 あの町では赤ん坊が居た、父が教会で生まれたての子達に祈りを捧げているのをいつも横で見ていたもの。天秤の形に切り出された硝子のような彫像の目の前で。
「わらびもち、まさか本の中の話が現実に起ると思う?それも、登場するのが人間じゃなくって、神様達よりもずっと前から在り続けていた星や星座のような存在が、地上に干渉してくるなんて、今、そんな事あると思う?」
 読んだ本には神話もあった。世界樹ユグドラシルの木が自分の名前と同じだったから興味を惹かれて読んでいた雪降る国々の物語達。その中に天秤座の怒りを買い滅びの危機に瀕した国があったんだ。教会のステンドグラス、公正を示す清廉の証、天秤の描かれたステンドグラスの色は、確か
「ただいまトネリコ。」
 月の山吹に染まるガラスと同じ色をしていたの。
「どうしたんだいびっくりした可愛い顔をしちゃって。いつも通りの時間に帰って来たのに、驚く必要無いだろう。それともあれかな?わらびもちと内緒のお話でもしていたのかな?例えば、俺達の組織が君の町に誘拐した赤子を定期的に送っていたとか。」
 かわいい妻は可愛い梟の友を胸に抱き寄せ、私を仰ぐ。怯え始めた疑いの上目遣いが潤んでいてとてもかわいい。
「あの町の人達はね、女性は皆妊娠出来なくてね、街の名医に掛かっても駄目だったんだ。でも子供を育てるには良い環境だから俺達は親に恵まれなかった子達を出来る限り連れて行った。そして、此の町の住民の家族となって以前の親元とは正反対の暮しを手に入れた子も居た。子供が親を選ぶ(ことわり)が無いのなら、せめて子供は愛を注いでもらえる人のもとで育つようにしてあげたい。生みの親に必ず育ててもらわなきゃいけないなんて決まっちゃいない、今の時代里親や養子縁組だってざらにあるのだから、逸脱した理論じゃないだろう?」
「なら、何の問題も無かった筈なのに、何故町を?」
「うん。それはね、おまえの父親が一人の女性を妊娠させたんだ。妊婦を見ないことで秩序を保っていた町が、均衡を失くしたのはその為さ。血の繋がった子を持つ者が与えた影響は予想外のものでね、やはり子は生れた場所で育つのが良いと考える者達も増え始めた、自分達の幸せが後ろめたさの土台の上で成り立っている隠した事実を町民達は直視しなければならなくなった、誘拐によってもたらされたありふれた生活を続けて行くことが難しくなってしまった。」
 町の騒ぎを治める為に神父は相手の女性と娘を町の外へ逃がした。そして混乱の理由の一つとなった女性を出産後直ぐに死亡したと偽装して町民の意識を逸らしたのだった。
「父親が誰なのか女性は誰にも教えていなかったようで、町の者には都会で一夜限りの際の時の子だと言っていたそうだ。」
「あの父が正直に人と話をする訳ありませんから…」
 目が嫌いと言い続けたあの人の心情がほんの少し分かったような気がする。母は父に恋をしていたのだ。共に歩んでいきたい相手を見つけられたのに、(わたし)が邪魔をして会えない、傍に居る子供が居なければ自分はあの町であの人と暮せたのに、愛しいあの人を瞳を彼奴(あいつ)が引いている、嫌いな奴が大好きな人と同じ瞳を持っている。
「だから私の片目を突き刺したのね。耐えられなかったんだわ、女として…自分の嫌いな存在が自分の大切な存在の一部を生れ乍ら保持している事に。」
 湖面下の水晶体沈むトネリコの片目は実の母親に襲われた時のまゝ血が未だに行き場失く淀んでおり、夜空焦がれる紅玉の宝石が鮮やかである。
「カバネさん、私の片目の理由を調べてくれたんですね。」
「俺がしたのはそれだけじゃないよ。」
 あの町が娘となった少女トネリコをどうしようとしていたのかを私は知ってしまったんだ。トネリコが私の妻になった後、町民達は彼女をもう一度此処に連れ戻そうと考えた。神父の説明を盲信していた彼等は少女が絵の学校に通っていると思い込んでいたから町に帰って来させるのは容易いと考えたのであろう。トネリコの描く絵を町の名産にする為に。学校で学んだ、と言うより独学で編み出した、と言った方が天賦の才らしくて宣伝になるし、人は興味を持ちやすいだろうと、だから学校は辞めさせて戻って来てもらえば良いと。
 神父は其の提案を当然拒否した。これまで通り田畑を耕し食材を作り続けていれば名産を作る必要も無い、今迄そうやって上手く回って来たではないかと。しかし町民は彼の説得にいきり立った、食料だけでは最早満たされないのだと。
「まさか、町の人達は…?」
「そう、自分達で殺し合った。気にくわない相手を威嚇して、暴言を吐き散らした、汚く五月蝿い言葉は言われた者のみならず言った当人をも苛立たせるから、やがて抑えきれない腹立ちは憎しみになってその後は暴力が全身を支配する。そうやって町民は全員…」
 トネリコを抱きしめる。涙の体温が心に沁みてくる。
「嫌な予感がしてね、一人だけで彼處(あそこ)へ行ったんだよ仕事の合間に。そしたらもう町は滅んでいたのさ。全員血塗れで虫の息、部下はね、手当てしたら全員救えますが如何なさいますかって訊いたんだ。俺は優しくて忠実な部下に恵まれた。」
 震える妻が弱々しくも自分を抱きしめて離さない夫の背中をぎゅっと握る。カバネの喜びの()は一瞬だけ部屋の隅、定位置で此方(こなた)を見るエゾ梟と合わされたが、お互いに頷くように視線を逸らし、かけがえの無い温もりを見つめなおす。
「トネリコ、トネリコ、安心して。俺はトネリコの傍に居るよ、君が望むなら望むものをあげたいんだ。君が他の者にそうしてきたようにね、でももう誰も君を利用しようなんて思わないよ、だって俺の生涯一人の奥さんだもの、他所の奴になんか見せてたまるか。」
 月夜の雨はうつくしかった。

手記

 昔此処には一つの町があって、其処には二本の編み棒が落ちていたと聞く。町、と言っても村のような地域であり、歴史と行政の都合上町を名乗っているだけに過ぎなかった。
 編み棒が落ちていたから編み村と名付けようかと軽口を叩いた神に、別の神が冗談を言うものではないと宥めた。名前を付けることは容易になされるべきではないと真面目に言って聞かせ、お説教を受けた神は肩をすくめた、この行為は本心から反省していない証拠である。
 人の住んでいた土地を神々の生活の都合で変化させる事は最も重い憲法違反の罪である。人の生活の名残や知恵の表象などはそのまゝ保存して、神々はその中で生きることが厳格に定められていたのだ。
 人の世界で人の生活を真似していくことで、神々は人間が現れ始める以前の自分達の在り方を所々恥じるようになっていき、太古の神話の世界は自分達の黒歴史だとして語ることも無くなっていった。
「トネリコさんもそう思いますよね?気軽な命名は危険だと。」
 呼ばれた盲目の青年は質問に微笑を以て返した。
「ほら見ろ、君は頭がお堅いから笑われている。」
「違うぞ、君が浅慮なことに呆れておいでなのだ。」
 ゆっくり瞼を開けた鈴蘭の眦、淡いパステルの菫が汀で呼ぶ湖の淵は秘色(ひそく)色、その彩りを宿す瞳は光を含めない。薄い柘榴の三日月形(みかづきなり)の唇で二人の神々に微笑んだ後、今度は清い湖面に伝う風の軽やかな足音足波紋模様を込めた物見えぬ瞳でニコリと笑う。
 トネリコは嘗て編み棒の落ちていた村に住まっていた人間である。両眼の視力は生れ乍らの特徴で、物を見て知る事は今迄出来なかった事ではあるが、耳で聴き心に好きに描く事は人よりも秀でていた。それに触覚にも恵まれていたので、トネリコは文字を見て目で読むのは出来なくても文字を書く行為は淀み無く出来た、むしろ達筆だと文字を見た者は誰しも褒めずにはいられない程に。平面のみに記されている文字の輪郭や内部の作りを指先でなぞれば感じ取れるので、其を真似すれば良い絡繰だと当人は語っているが、神々は彼の当然に毎度感嘆の溜息を零すばかり。
 トネリコのみが成し得る文字の読み書きの御蔭で彼は読書好きの大人しい青年として育って行った。新しく刊行された書籍よりも古い時代の黴の匂いがうかがえる方が好みだと言う点は神々とも気が合った。
「トネリコさん、今日は何の本を読みに行くのです?」
 歩く自分の片手を支えてくれる神の質問にトネリコはうんうんと頷く。
「えゝ、また神話を読みに行かれるのです?やだなぁ、私達の黒歴史ではないですか。恥ずかしいですよ。」
 青年の歩く方に小石や障害物が無いかを確認して其等を除ける神が困ったように笑っている。
「おい君、彼の読みたいものに難癖を付けるのは良くないのでは?第一我々だって人間達の過去の物語を読むのが大好きじゃあないか。トネリコさんも同じ気持ちかもしれないだろう。自分達とは異なる種族の歴史や文化を知る事は楽しいものだ、彼からその喜びを没収するのかい?」
「私は彼の喜びを奪いたい訳ではないよ。たゞ、神々の隠したい過ちを知れば知る程、人間は我々を見限るのではないかと不安なんだ。だって、トネリコさんに嫌われてしまったら、其はとても哀しくて寂しいことだろう。」
 どうやら後者の神は人間の神離れを心配しつつも青年と友達でいられなくなる事が気掛かりらしい。何とも素直な物言いに前者の神とトネリコは幼い孫を見るようなほっこりした表情で微笑み合う。
「君も素朴になったね。」
「き、君馬鹿にしているのかい?」
「してないよ、トネリコさんだってしていない。御覧、このほわほわした表情を、他者を嘲るのにケセランパセランは周りに飛ばないぜ。」
「………トネリコさんは、神々のことを呆れていないの?」
 うんうん。
「澤山の神話を読んできても?身勝手だとか、怠惰だとか嫌にはならなかった?」
 うん、うん。
「利害関係の無い友達は人の世界で暮らし始めて知った概念なんだ、心からの友達って言うんでしょう?以前の代の時は知る由も無かった考え方だったんだ。だから、君が愛想を尽かして去ってしまう事が何より恐ろしいんだ。大切な、初めての友を失う事が…」
 泣きそうになって口をギュッと噤んだ神にトネリコが空いている手を近付けて肩の辺りをぺたぺた触り始める。其の手はやがてぷるぷる涙を堪える頬に辿り着き、温かい頬をゆっくりと撫でた。神の潤む視界には(みどり)やわらかに風そよぐトネリコの笑み、玉のような白歯を覗かせて屈託無く笑う顔。ボロボロ大粒の涙を年甲斐も無く零して世界が滲んでも青年の手の温もりと柔らかな旭の笑顔は変らない。おいおいと野太い逞しの大声で嬉し泣きする音は大きな大きな金魚鉢の世界で谺した。
 その響きに連られて樹々が茂みと波打ち音を寄せる葉の搖れた先で、一つ地面に落下した四角形の物体がある。其を認めた神の目が、隣を歩く二人に話題を運んだ。
「何か木の上から落ちたみたいだよ、拾ってみる?」
「木の落し物?葉書ではないのかい?」
「葉書程の大きさだが厚みが違う。何枚も同じような紙が重ねられていて糸で綴じられている。書物のようだが、何枚かには文字がインキでしたためられているぞ。」
 トネリコは手を貸してくれている神の肩をそッと叩き首が自分に向けられたのを風の動きで読み取ると、忽ちしゃがんで地面に指で文字を記した。
”手記。それはきっと、手記と私達が呼んでいるものです。”
「手記。あゝ聞いたことのある単語だね。ほら君、よくミステリイとかで登場する物だよ。」
 手帳を拾った神はトネリコともう片方の神の待つもとへと戻った。手記を受け取った方の神は暫く外見をちらちらと眺めていたが、気が済むとトネリコに尋ねた。
「トネリコさん、誰かの落し物の中身を勝手に覗いてしまうのは悪い行ないかな。持ち主の隠したい内容だったら読まない方が正しいかな?」
”他の者の失くした物が気になってしまうのはよく分る。けれど、若し私が落し主の立場だったら、例え秘密にしまっておくからと言われても恥かしさや不安は拭えない。無闇に何かを暴く行為は慎まなければならないと、私は思う。君達はどうだろう?」
「落した者に関する情報が記されているかもしれない。熟読するのは止した方が良いが、目を通す程度なら構わないんじゃあないか?そして持ち主に返す際に礼節と眞心を以て謝罪すれば相手も理解に難しくなくなるのでは?」
「墓場迄持って行く、と言う言葉を耳にした事がある。万が一此の手記が落し主の死んでも秘したい物だったならどうするんだい?いつも肌身離さず持っていたのかもしれない、けれども気が緩む瞬間はどの生き物にも等しく起こるものだ、その緩んだ時には何かしらの失敗を犯す事だって有り得る話、綻びを拡げてしまうのは可哀想ではないかな?」
 二神はその後も議論を続けていたが中々双方納得のいく案は出てこない。間に立って待っているトネリコは退屈だとは感じていないようで、むしろ話し合いが続いている状態をにこにこと微笑ましく楽しんでいるのではないか、虹を追いかける迷子が怪我をせぬように暑さ寒さに倒れぬように在り続ける雲のように黙って。
 どうやらひとまずの答えが出来たらしい。
「此の手記は落ちていた木の枝葉の隙間に戻しておこうと思う。」
「そして、若し手記を探している者がいれば木の場所を正確に伝えることにするよ。」
”それなら戻しに行こうか。”
 トネリコと友たちは手記の落ちた木へと歩いて、以前引っ掛かっていたであろう状態に落し物を置いて立ち去った。

図書館

 トネリコは今日も図書館の薄暗い書庫を一人歩いていた。もう此処迄来れば後は勝手が分かっているから。と図書館の前の地面で伝えると、気をつけて、良い一日をとそれぞれ言って別れた。
 書庫には水で編み出された炎が藍色濃く等間隔に列しており、来訪した者が闇に足を取られて均衡(バランス)を崩さないように備えられていた。青年は炎の温度を数えながら毎日通う書棚へと靴音低く進んで行く。
 足を止めた。空調の唸る音しかしなくなったのを梟の名残で確認すると一冊の本を素早く手に取り文字通り掌に沈める。一冊分の空きがあった棚は傷が塞がるように配置をじわじわ移し、やがて最初から何も取られていなかった顔をして整然と隙間無く棋列(きれつ)していた。
 編み村、好きに呼べば良いと思った。一人生き残った時の怒りも憎しみも愁嘆も慟哭もあの瞬間再燃することは無かったのだから。人の世界で人の生き方や思考を真似から始めて学んでいくのは更生プログラムとしては上出来なものだろう、そうして自分達の過去と正面から向き合う(すべ)を知り、反省する心を育む。素晴らしいではないか、人間の中には反省し悔いる心自体を死んでも持てない奴など吐く程にいた、それに(くら)ぶれば神々と言う種族全員が理想とする在り方になっているのは凄い事ではないか、例外を出さない点は流石神と言ったところだろうか。
 あの日、狩猟の流れ弾で焼きつくされた故郷を思い出す。苛立ちで指を打つ振動で地割れに吞み込まれた近所の人達を思い出す。落書きの豪雨で濁流に沈んだ親族のずっと伸ばされていた手が見えなくなったのを思い出す、酔ッ払った喧嘩の最中に発した怒号に稲妻眩しく顔とみぞおちを吹き飛ばされた弟の肉塊を思い出す、大きな拍手により発生した暴風に家ごと圧し潰されて骨すら粉々に砕かれていた両親を思い出す、煙草を吸う為に点けた摺寸(マッチ)が投げ捨てられれば妹は突如火達磨となり川に急ぐ途中でダーツの投げ損じた外れ矢に心臓を抉り刺された。
 家族から贈られたプレゼントの編み棒だけは伏せた身体の下にあったから無事だった。もう神々の乱痴気騒ぎは寝オチしたのか、私には命を奪う災害は起こらなかった。
 暗闇の中此れから数える人がゾッとするくらい、嫌気と不気味さとおぞましさがムカムカと湧いて吐きそうになる位の長い長い期間あの日の(けい)と感情を抱え続けて来れば、生物は不老不死になるらしい。老いなければ肉体も衰えないから自裁しない限りは死ねないので実質不老不死と充分言えるだろう。不老不死になった青年は此の村に住み続けた。
 やがて神々が雲上から地上に降りて来て、世界は人間の代から神の代へと変遷した。神々は人の世界をなるべく変えないように住むのが良いとして、地面に足を初めて触れたのである。これは、人と神が時代の先に立つのを幾億回繰り返して初めての試みであった。
 人間がトネリコだけになっている事を知った時、神達はトネリコをかけがえの無い友人として扱わなければならないと決定し、隣人として接し続けてきてくれた。恐らく人類史上で神々と握手を交わした人間はトネリコ青年だけであろう。にこやかな声・表情・力加減・初めましての言葉。
 憶えていないのだ。諦める音が頭の中で静かに反響したもの。
 さりとて謝ってもらったからどうなると言うのだ。死んで行った者の苦しみと生き永らえた者の血溜りが薄まる訳でも無い。
 以前は滅多に使わなかった表情筋を動かして、故郷の人達の真似をしてみる、弟と妹が見ればさぞ茶化すであろう微笑みと、両親が教えてくれた読み書きの方法を以て、トネリコは神々の中で人間として居続けることにした。
「そう言えば、オルタンシアの本を読んだことはありますか?」
 散歩をしている際に出会った神に問われた日、陽射しは長閑で少し汗ばむ程の夕影だったと思う。耳に憶えの無い単語にトネリコは首を横に振る。
其奴(そいつ)は今現存している書物の中でも最も歴史の古い物らしいのです。図書館の何處かに所蔵されているとは噂されていますが、我々は誰も其の書物を手にした事も見掛けた事も無いのです。」
 神々は噂を気にしているようで気に留めない、此時トネリコの話し相手は一つの気軽な、其場限りの話題としてオルタンシアの本の噂を伝えたのであろうが、トネリコは其の書物は神々への反旗の意志の結晶だと心で直感した。若しかしたら自分だと本は姿を見せてくれるかもしれないと半分期待を持ち相手に微笑んで別れると、一直線に向かわないよう道草をふんだんに含めながら目的地へと夜遅く入館した。
 知識を得る為の機関は新しく生き直す我等には欠かせないものだと定められ、図書館は四六時中毎日開かれている。
「トネリコさん、今晩は。お一人で来られたのですか?」
 玄関の前で呼びとめられたので青年は地面に(こた)えを書く。
”夜の散歩も良いものですよ。初めてしてみたのですけれど、涼しさと静かなにぎやかさが調和していて実に過ごしやすい。こんなに良い習慣、もっと早くに知っておくべきでした。勿体無い。”
「何、これから続けていけば良い話ですよ。我々の時代の番はまだまだ続きそうですからねェ、後を託す種族が見つかる迄はのんびり、穏やかに日常を暮らしていけば良いのだからね。」
 会釈をして、別れる。神々は注意深そうで呑気なものか。
 誰も一度もお目に掛かったことが無いのだから、開架の場所には置かれていなさそうだと予測は付けつゝ所蔵されている一切を記した目録を一から確認していく。結果は案の定であった。ならば書庫の片隅に逃げて隠れているのかもしれないと考え、立ち入りを許可されている書庫へと向かった。
 世界の門番の種族が交代を繰り返していても、古い本の黴の匂いはいつも時代でも変らないのだろうか、唯一人間らしさを感じられる場所はもう此処だけになった。人の建物や遺産はあってもその中に居るのは人間ではない。生活する者が神々ならば其は神々の生活だ。巧妙に人の文化を真似して営まれる神々の日常なのだ、人間の生活は隣人の神々の酔いどれ騒ぎで悉く奪われ終わらされてしまったから。憶えていない事は百歩譲っても許しきれぬが、もっと悲憤を感じるのは昔の神話を彼等彼女等が黒歴史として読みたがらない事だ。語り継ごうとする意思すらなく、何ならこのまま埋もれて消えてしまえば良いとするあの、あの気楽な態度!次代の者の前では完全体として待つ心算(つもり)なのか知らないが、そんなに世界は何の引ッ掛かりも無く回るものではないだろう。空調の轟々と低く唸る声の大きさに隠して微笑を崩す、明月の光を許さない眼光には深い新月の湖の底が鋭く眦まで影を引く。穏やかで如何にもお人好しそうな人間の顔はだんだん先祖の猛禽の遺伝濃き玲瓏として容赦の無い瞳を浮び上がらせた。
 その時、一冊の青白い書物がついと螢のように浮びトネリコの行く手に佇んだ。明らかに他の書籍と異なる気配を感じて足を止める。どうやらまだ動かないでその場にじっと浮き続けているようだ。
「オルタンシアの、本、でしょうか?」
 一度も神々の前では発した事の無い掠れ交じる声でトネリコが尋ねると、本は止める間も無く青年の掌に沈み始めた。異物が体内に予想もしない部位からぐぷりと吞み込まれていく未知の感覚はトネリコを黙らせた。
”聞えますか?”
「頭の中に、声…文字通り入り込んだのですね。」
”唐突に手荒な真似をして申し訳ありませんでした。この方が貴方の本心を神々に知らせずに話が出来るかと思い、荒ッぽい事を…”
「いゝえ、構いません。貴女は…反旗、なのですか?」
 声低く問う声に、頭の声はきっぱりと頷くような気配をさせた。
「此処には人間の世界の時のような司書や倉庫番はいません、ただ書物を蒐集して読ませる為の空間に並べただけで、人の時みたいに書物を整理したりなどは追いつけていないのです。私はそれが一日でも早く整うようにとアドバイザーを任されましてね、だから非公開のエリアである書庫を作り出し管理担当もしている訳なのです。」
 いつかこのような相手が現れることを願って。
”此処に、秘密結社を作る為に?”
「世代交代を予定より早く進める為には隠れ家が必要だと考えたのです。」

語り手

 ずっと昔、猛禽類と人間は別々の種族としてあり、共に信頼しあい協力する事で生活を支え合ってきていたと、自分達の先祖に纏わる書物で知った。
 そして何千年の時間を経て猛禽類は人間と然程変らぬ見た目へと変化を遂げて行き、此の大きな進化を以て人間の定義は既存のまゝではままならなくなり、新たに定義の幅を大きく拡張せねばならなかった。
 だが自分達の嘗て創造した人類ではない新たな人類を、神々は拒んでしまった。彼等彼女等にとって合成獣(キメラ)は人間とイコールにする事が出来なかったのである。鳥とも人とも呼びきれない者達は、ひっそりと古い丘の上にある森の中で暮らし始めた。太陽の光は彼等彼女等の輪郭をあまり克明に描きすぎるから。悲しい涙を幾度も舐めてきた祖先の物語をトネリコは父母からよく聴かされた。そしてその度に明日はきっとお認めくださるからと優しい両親は子供達の頭を撫でてくれた。あの時はまだ星の光を光として感じ取ることが出来ていたと思う。
 無意識に起こる慣れた行為が、如何に当たり前で、怖くて、醜くて、止めようの無いものであるのかを身を以て知らされた日から、光を気配としてしか感知出来なくなった。見えぬ目はほんとうに見えなくなってしまった。それでも若しを考えずにはいられない。若し、若し人間のようで人間でない見た目の者達が堂々と生きられる世界に家族が生れていたら?
 頬を伝う正夢で目が覚めた。書庫で、しかも奥まった場所で居眠りをするなど命知らずにも程があるだろう、万一火災でも起きてみるがいい、忽ちに書庫は二酸化炭素に覆われて生き物の呼吸を認めなくする筈だ。
”起きたのですね。”
 こくりと一度頷く。
”貴方が眠っている間に、記憶を幾つか覗かせてもらいました。貴方のお名前が知りたくて、一番最近のものを読みました。トネリコさん、宜しくお願いしますね、私の名前は題の通りオルタンシアとお呼びください。”
 もう一度頷く。トネリコは利き手と反対の腕、手首の少し下辺りを指でなぞり、普段筆談で使う文字とは異なる文字で意識の裏側にいる相手に話し掛ける。
”此方こそ宜しくオルタンシアさん。あなたの名前は…昔実在したとされていた王国の名前ですか?”
(いゝえ)、王国の名前ではありません。王国に名はあったけれど、取り上げられてしまったから、あの国の名前はもう誰も知らないのです。”
”ではオルタンシアとは何の名です?”
”それは、王国の最後の国王であった娘の名前です。”
”あなたを読めば、王国の歴史が分るかい。”
”生き残った星が夜毎綴った物語です。読みたいと思えば言葉は貴方に語り掛ける。”
 それは、雪野原の唄だった。宇宙にはそれぞれの天体が発する寂しくも美麗な和音で満たされているのだと教えられた時、それは此の国が今でも奏でる雪野原の唄も混ざっているのではないかと思う。無邪気な目と耳は他の者には認められないものまで映し聴いていたのである。
 特異な者を其の王国は歓迎した。特異は天賦の才と言い換えられて生来の能力に見合った責務を与えられる、そうして歴史は王国の繁栄を綴り残してきたのだから、少女にも相応しい役目が配られる筈だった。
 しかし王国は雪野原と化してしまった。生命が眠り続けなくてはならない雪野原で、少女は一人瞳を開けて景色の中に佇んでいた。彼女は此時否応無く国王のマントを羽織らなければならなかったのだ。周りに頼れる人は誰も居ないから、一人、娘は国中を駈け回って答えを求めた。娘は本来王のマントを着る筈ではなかったが、望まれたから応じたのであり、妬みも惜しみも幼く華奢な双肩に沈み込んでいた日々。それでも娘は答えに手が届いた、国王の名はオルタンシア、レディ・オルタンシア。
 国の名前を取り戻す事は叶わなかったけれども、国の忘却は免れた。オルタンシアは忘却の危機に陥れた元凶の一匹の植物を断罪しようとした。
 其の名はユグドラシル、罪深い気高き樹木。オルタンシアを愛し喜んで恋に溺れた世界の礎。世界の在り方を歪め、王国から名前を取り上げて誰からの記憶からも忘れさせた張本人。
(貴女を処刑すれば王国は名を取り戻せる。)
(貴女が望むなら燃やしつくしても構いません、灰すらも捨ててしまっても、貴女の手に掛かるのならば痛みも苦しみもないでしょう。)
 オルタンシアは傍に立つ側近から一丁の斧を受け取り、ユグドラシルの(うなじ)にひたりと刃を当てた。ユグドラシルには彼女の冷たい唇と感じたろう。斧を高く振り翳す、その細腕に樹の枝と根が隙間無く巻きついた。氷雪の地を滑る根を足で蹴ろうとしたが、忽ち両足も掴まれた。凶器と成る筈だった斧は地面に開けた穴にポチャリと落とされ、囚われた国王の姿に居合わせた国民達は花弁の顔を震わせて逃げ惑う。
(おまえは生きろ。)
 腰が抜けて動けなくなっていた側近に、オルタンシアはかろうじて引き千切った片手で首に下げていた瑠璃水晶の肌守りをブチリ取ると、投げ渡してそう言った。お守りを震える両手で手に取った瞬間、国を透きとおった吹雪が覆い、後にはネモフィラ一輪だけが残っていた。
 花を最期に残して滅びた国は、ついに名前を取り戻すことは無かった。側近は崩れたデイジーの顔を氷雪まだ固き地面に咲くネモフィラの手首に近付け、涙を落して蜜を啜った。取り替えた顔には新たにネモフィラが開き、主を失ったマントを拾い上げて羽織った。
 彼は今でも、王女の夢を慕うのである。
 物語から意識を離したトネリコは、気を失いそうになるのをどうにか押し留め、椅子に座ってほーっと長く息を吐いた。
”このような読書は難しいかしら?”
”文字を自分から追わない読書は初めてだからね、些か疲れたな。”
”オルタンシアの国を見た?”
”読んだとも。国王自身は一般的な人の顔の構造だったけれど、国民は皆顔が花だなんて、此の世界じゃ受け容れてもらえなさそうだ。僕等と似ているな。”
”理由や動機は何でも良い、あの国の存在を引き継げたのなら。”
”それは、何故?”
 相手は一寸言い淀んだ後、答えた。
”私が本だからです。本は、記憶を語り継ぐ為の生物ですから。”

二重螺旋

 住まうことになった建物の前には、小さな桔梗の芽が生えていた。移り住む時人間の使っていた物や整えた土地などはいじらないようにする事がルールであったから、若葉も引ッこ抜かれずに済んだのだ。でなければ此の芽は邪魔だと言われて此処で生き続けることは叶わなかったであろう、他の小さな生き物の上位に立ち続けて来た種族だからこそそのような態度や言動を恥とも愚昧とも省みず堂々と行なって来たのである、立場が違えば神々も考えが違っていたかもしれない。
 責める言葉は出てこなかった。今でもこの考えは変っていない。
 家の窓から桔梗を眺めてよく考える。若しも自分達が非力な存在だったら?生物の一生を左右し得るような強大な力を与えられず、唯生命を見守る力しか持っていなかったから?それを神と呼んで良いのかは分らないが、無力な神々であれば、生命達の望むものもより理解出来たのかもしれない。
 もう少し歩み寄れたのなら、きっと。
 其の神は植物を愛でる神だった。家の前に咲く桔梗の花々の手入れをする事が喜びだと言う神だった。其の神は、人間の時代の頃から先程心中で考えていた事を考えるような性格で、神々の間ではおひとよしだの優しすぎるだのと明るくからかわれているような存在だった。植物好きをきっかけに、虫好きの神と仲良くなった。今日も其の神の家に虫好きの神を招き、お茶会を開いている。
「今日の天気は雨のようだね。」
 虫好きの神は半分に割ったスコーンにブルーベリージャムとバタークリームをたっぷり付けていただいている。お茶請けは毎度焼菓子と決めていて、フィナンシェ、マドレーヌ、カヌレ、スコーンの順番でローテーションしていた、今日はスコーンの日。虫好きの神が選んだランチョンマットとソーサー、ティーカップ、ティースプーンに茶葉は其の神が選んで淹れる。
「星月夜の柄なんて洒落ているじゃないか。月と星々が一等美しいのは雨降る夜に限るもの。」
 アップルティーを注ぎながら其の神はお相手に話し続ける。どうやら互いの持ち寄り準備した物達が見事に調和していたようだ。
「この間のは散々だったものな。チエック柄にロイヤルミルクティー!目と舌が落ち着かなくってマドレーヌばかり食べていたっけ。」
「あのマドレーヌは美味しかったなあ。あれハーブでも練り込んでいたのかい?」
「いゝや、白い菫を摘み取ったんだ。」
「絶妙な隠し味だったよ。焼菓子にはお花が合うね。」
 長閑なお喋りの中、途中参加の新しいノックの音が三回。誰だろうと丸い扉を開けると、トネリコ青年がにこやかに立っていた。
「こんばんはトネリコ。」
「トネリコ君じゃないか。」
「どうしたんだい?雨夜に訪ねて来るなんて。」
 二神はそれぞれ少しだけ大きな声で、外を出歩くご近所にも聞えるように話した。紫陽花を畳み雫を払う青年を招き入れ、家の灯とは異なる青く小さなランプを机に置いて水の火をともす。
 神々はトネリコならば悪事を働く事はしまいと信じている。だから彼が訪れた家は穏やかにしかならないだろうと安心させる為にわざと強調した物言いをしたので、窓を閉めてカーテンを降ろしても訝しまれる心配は無い。そう、お察し済だろうが、其の神と虫好きの神も反旗の一部なのである。
 雨の日は声が吸い込まれる。彼等彼女等の集会は決まって雨夜に行なわれた。
「オルタンシアと逢えたんだね。」
”まさかあのような形で出逢うとは思いがけなかった。”
「書庫は立ち入り禁止にされているからね。君じゃなきゃ行来(ゆきき)は不可能さ。」
”そうアドバイスしてくれたのは君だろう。”
 其の神はトネリコの言葉に頬を掻いた。そして続ける。
「私は今の世界の(ばん)が神々であることに満足はしている。けれど、面白くはないな。奴等結局人真似をして良い子ぶっているだけだから、きっと根ッこは変っちゃいない。表に出て来なくなっただけで、肚の内は前時代の頃みたく傲慢無礼なまんまだろうぜ。」
 憲法が在るから桔梗の花々は今日迄踏み潰されずに済んだんだ。だが奴等の肚は此の花々を蹴散らしたくて堪らないんだろう。強大な力を使いたいんだ、その欲求さえ無ければ、神々は他の生物と手を繋ぎ合えるようになるのに。
”ねぇ、貴方はどう思っているのですか?貴方は確か神から強権を奪いたいから反旗に組み込まれたのでは?”
 トネリコの質問に其の神はにこりと微笑んだ。﨟(らふた)けた笑み、とても人には真似届かぬ恍惚(こうこつ)の凄み、若者は思わず拳を握り()みる背筋を叱咤したが緊張の生唾は喉を鳴らさずにはいられなくて。其の神の横に座る虫好きの神は事も無げに指遊びをしていたが。
「君は、そう願うんだろう、トネリコ。」
 秘色(ひそく)の瞳が見開かれた。驚く事では無いと片付けてしまえねい事も無い、此の場に集まった者達は似たような意志を抱いているのだから。しかし、てっきり独立した反体制派が集う形ではなく、自らの、それも人間が神々に逆らう不敬に神の一柱が賛同したとは夢にも思わなかったのである。
”私が願うから、貴方も願ったと?”
「君の願いを叶えたいから私は此方側に来たんだぜ?」
”酔狂ではありませんか。私の目的が達せられた暁には、貴方は世界の番ではなくなってしまうのに、追放される手助けをするのですか?”
「自分で自分の首を絞めていることは理解している。けれど心配してもらう必要は無いさ、私は神だ。生き死にも明暗も数え切れない程繰り返している、人間が神々に反抗する事自体珍しいものではない、腐るほど眺めて来たからね。ただ今回は眺めるよりも参加した方が面白そうだと思ったから君の立場に赴くことにしたんだよ。」
 其の神と付き合いの長い虫好きの神は内心溜息を吐く。相変らず淀み無く長い建前を述べられる男だと。
 自分が発端になっていた事実に動搖はあったが、それも一先ず呑み込んでトネリコは彼の意図を伝えることにした。
”図書館の書籍から得た知識ではありますが、此の世界は数え知れぬ回数番人となる種族を選び直して来ました。時には人間、時には神々、時には植物であった事もあるようです。そして今現在では神々に御鉢(おはち)が回ってきています。私はその鉢を、私達のような存在の手に持たせてほしいと、そう願っている、そうしなければならない気が強くしているのです。”
「トネリコ君、その、私達のような存在の単語の意味は何かな。」
”あなたは昆虫がお好きですよね。その単語は友である虫達にもあてはまるでしょう。誰かの気軽な行為や無意識な言動に因って理不尽に傷付けられ殺される、命の重さを認めてもらえなかった者達を指していますから。”
「それは、種族では区別出来ない定義になるね。(ばん)の役目を(しゅ)単位ではなく、相応しい資格を持つ者で選ぶということか。」
”そうです。同じ虫でも蝶のように優遇されるものもあれば、蛾のように煙たがられるものもある、それは人間にも神々にも植物にも物質にも、森羅万象に当てはめられる言い分です。”
「成る程、歓迎されないもの達に番をさせようって訳か。」
 其の神は呟いた。
「存在を望まれないものの一番の願いは存在すること、排除や切除をされないことだ。その願いは言わば生きる為の初歩的な祈り、それを土台に据え続けられるのが番人役になるのなら、君の故郷を襲った事故の起らない世界になるんじゃあないかと考えた、そういう感じかな?」
続けた見解にトネリコは強く頷いた。そうか。
 嗚呼、この子の望むことは悉く叶えてやりたい。だが、トネリコはまたも他者を思うのだろう、自分の家族が無駄死させられた復讐心よりもまだ会いもしない誰かが生きる世界の行末(ゆくすえ)を案じる心の方が強いのだ。トネリコが神々を傷付けたいと怨みだけで動こうとするならばいくらでも手を貸した、そうして最期は自分の心臓に今回の終幕を突き刺してほしかったけれど、間違い無い、この子はもう怒りを忘れてきている。憎しみの新鮮さが、欠けている。
 勿論人にしては長く生き過ぎた為もあろう、けれど、決定的な一打は、自分が神側として存在している所為だ。私が、神なのに、本音を君に伝えてしまったから。君の願いを叶えたいと、君に告げてしまったから。あの瞬間の瞳の搖らぎは初めて逢って話をした日から変っていない、その瞳が翳るのを防ぎたくて私はもがいていた筈なのに、私が手づから翳してしまった、君の瞳を淀ませた。淀みは君を正しく在ろうとさせた、独り善がりを消して他が為を再び芽吹かせた。
 何故上手くいかないのだろうな。
 声にしない涙は心に深く錨となって沈みゆく。青年の言葉も遠くにぼやけて聞えているだけだった。
 其の神と虫好きの神はトネリコが眠ったのを見届けると音も無く家の外に出た。表はもう月が朧の空に高く掲げられており、白く瞳を(つむ)っていた、風はさやさやと草木を扇ぎ、また訪れる黄昏の日中を呼ぶようでも、待っているようでもある。
「奪うなよ。」
 虫好きの神が友の肩に手を載せた。其の神は地面に座り込んでいる。
「分かっている、他者の為を奪ってしまえば狂ってしまうだろう。それなら最初からその思考を与えなければ良かった。毎度こうだな、いつも詰めが甘くて途中で壊してしまう。」
「仕方あるまい。元々そういう星を核にして編み出された命なのかもしれん。」
 其の神は友の言葉に弱々しく頷いた。友は心底落ち込んでいる相手に同族の言語は暫く無意味であるのを浅い溜息と共に思い出し、月を仰ぐ彼の隣に同じように座って黙って待った。
 どれくらい経っただろう。
 黄昏と夜空を繰り返すだけの空を眺めて、一つ思ったことがある。
「トネリコに友人が居れば、あの子は明るい道を歩けるのかもしれない。」
 真っ当な天ノ河で生きられるのかもしれない。自分の心も大切にしろと叱ってくれるのかもしれない。
「でも此の場所はもう神々の支配下だ、共存していた人類を酔いどれどもがうっかり全滅させてしまったからな。」
「それは此の地域に絞った話だろう。若しかしたら別の場所にはまだ生き残っている人間が居るかもしれないだろう。」
「いくた神とは言え白地(あからさま)に人間を探すのは怪しまれるぞ。それにおまえはただでさえ他の神から危険視されているんだから、ほいほい出歩くと…」
 虫好きの神は言葉を句切った。あゝそういうことか、自分が動く代りに、動いても怪しまれない子達を用意したかったのか。
「神同士の友情も計略の上に立つってことか。切ないもんだなおまえも俺も。」
 其の神は月下に微笑んだだけだった。

盤面

 トネリコが目を覚ますと、ベッドの横に置いた丸い木の椅子に其の神が座って此方を見ていた。
「随分のんびり寝ていたよな。」
”人の寿命を失くしてから時間の経過には無頓着になったようです。”
 相変らず声を交わそうとしない青年に其の神はぐっと詰め寄り美しい鼻先同士が触れ合いそうな距離で囁いた。
「神殺しを企てている身とは思えんほどに。」
 危険な微笑に玲瓏たる凄艶な微笑を返し露ほどもたじろがずトネリコは返す。
”貴方の望みだって大概でしょう。”
 何方から言い出した訳でも無く、双方は黙って距離を取った。寝台とキッチンの(へだ)てを以て改めて会話しようとした途端、ノックの音が割って入った。互いの表情はすっかり穏やかな微笑に切替えられており、来訪者を異存無く迎え入れた。
「おはようございますトネリコさん。此方にいらっしゃると聞いて来ました。」
 訪れたのは別の神だった。トネリコは挨拶に一礼で返事をするとわざとゆっくりした動作でベッドから起き身支度をした。
”おはようございます。今日はどうされましたか?私に何の御用でしょう?”
 手近にあった筆記具で筆談をする。家の前の桔梗を踏んづけてしまわないよう気を付けて戸を開けた神が続けて話す。
「それが、聞いて下さいな。以前に図書館迄の散歩をされていましたよね、一緒に居た神々から我々は聞きました。その際手記を見つけたとも聞きましたが、それは本当ですか?」
 最近の記憶。木の落し物。
”えゝ、仰有る通りですが、手記がどうかしましたか?”
「実は、その手記の持ち主が現れたんです。それで手記を元の位置に戻すよう助言してくれた方に是非お礼を申し上げたいと言っています。手記を落した時と同じような状況にしてくれていた御蔭で見つける事が出来たからってそう言って。初めて見掛ける人ではありましたけれど、優しい柔和な笑みを絶やさない人だから危険は無いだろうと皆判断しましてね、トネリコさんに会わせても大丈夫だろうとなったので、呼びに来ました。」
 トネリコを呼びに来た神に其の神が水を差す。
「神々も見た事の無い奴ってのはどんな奴?気になるなあ、私にも教えてくれないかい。」
 其の神に話し掛けられた相手は露骨に嫌な顔をした。
「あんたに教える義理は無いね。大体お前は我々の嫌われ者じゃないか、関係無いよ。」
吐き捨てる剣幕で言うと舌を短く打ち鳴らした。其の神に向けていた顔を人間の青年に向けると、先程の明朗さが戻って来る。
「トネリコさん、早く行きましょう。皆さんも持ち主さんも待っていますから、私がおぶって行きますよ。」
 準備を終えたらしいトネリコの手を握り玄関外に連れ出すと、相手はどうやらしゃがんだようだ、しゃがむ神の背中を探り両肩に腕をそれぞれ掛ければ、迎えに来た神はトネリコをひょいとおんぶすると目的地へ一散に駈け出した。反吐が出そうなのをぐっと堪えて其の神はトネリコの背中を見送った。壁掛けの振子時計が、チクタクと鳴る。
 トネリコの家の前には神々が思いの外集まっていた。どうやら誰かを囲むようにして集まっているようで、その中心人物こそが落とし主であろう。
「皆さん、トネリコさんが来ましたよ、道を開けて下さいな。」
 おんぶしている神がそう言うと一列の空白が出来る。その先を追って行くと、顔が紅いアザミの花の人間がクッキリと佇んでいる気配がした。
 顔が花一輪で構成されている人間は、神々の住む地域では見た事が無い。初めて会う存在に神々は強い興味を示し、それぞれの家に是非と招待されたが、紅いアザミの人は首を横に振った。その所作が丁寧であったので神達は本人の意思を尊重し各々の住居に戻って行った。
”お名前は?何とお呼びすれば?”
 トネリコと落し主だけになった家の前で小枝を使って尋ねた。
「私の姿に驚かないのですか?」
 とても静かな、波の無い穏やかな声。トネリコを威嚇していないことは伝わるが、警戒心が無いとは言い切れない。それでも同じ人間であれば通ずるものがあると信じ、彼は言葉を選ぶ。
”神々の間で瞬間噂になっていた本がありましてね、まあ都市伝説の類のものですけれど。オルタンシアと言う名の本を知っていますか。”
 トネリコは敢えてサラリと書いた。無音の空気が大きく搖らいだ震えを感じる。まるで星月夜の空がうねるように、歪んだ和音が真空の中叫ぶように。
「あなたは…?」
”一旦家の中へ入りましょうか。客人に紅茶の一つも出さないのは失礼でしたね。”
 家の中は少し寒くなっていた。其の神の住居でのんびりしすぎたかしらと自分に呆れながらも手慣れた動作で明かりを灯し薪をくべる。外気に通じている煙突から白い煙がぽっと吹き出し始めた頃、客人にお出しする紅茶の用意が仕上がった。
「視力が他の者より低いのに、まるで見えているかのような動きをされるのですね。紅茶を淹れる手つきも、紙と鉛筆を手に取る動作も、私がするのと何一つ変わらない。」
”見えていなくても困る事はありません。生れた時分からの眺めですから、見えない世界の方が居心地が良いのです。盲目の人に会うのは初めてですか?”
「えゝ…私の暮らしていた場所ではいらっしゃいませんでした。全員目が見えていますの、このような…顔でも。」
 あゝ自嘲の笑みを浮べたな。
”正直に申しますと、あなたのような人には初めてお会いしました。てっきり、人間はもう自分しか残っていないと信じ込んでいたもので。ですから今、こうして同じ種族の方と逢うことが出来て、とても安心しているのです。懐かしくて、落ち着く、こう、しっくり来ると言うのでしょうか。波長が合う感覚がいたします。」
 紅アザミの花は輝いたようだ。喜びの際にも空気は震える、肌に伝わる振動は骨身に堪える類のものではない。
「私、クオーツと言います。生れた時に水晶の針が空を指していたことから与えられた名前なんです。」
”よろしくクオーツさん。私はトネリコと申します。”
 二人は互いに握手した。クオーツは同じ人に逢えた興奮から幾つも自身のことを話してくれ、トネリコは耳を傾けて相槌を打つ。それまで筆記具でやりとりしていたが、クオーツの手記を落すに至った経緯(けいい)を聴いた途端に利き手と反対の手首をなぞり筆談する、秘密結社の前だけでする筆談方法に切替えた。意識の内に聞えて来る文字にクオーツは息を呑む。静かに、と制する言葉にコクコクと必死に頷いた。
”急に話を変えてしまい申し訳無い、さぞ驚かれたでしょう。此の話し方は秘密を話す際に使うもので、私の一族に伝わる古い技術です。他が目には手首をさすっているようにしか見えません、いつも使う文字とは異なる文字を使っていますからなぞった動きで読み取ることも出来ないようになっているのです。返事は頭の中でして下さい。あなたは来たばかりの人間だからより一層怪しまれています、声に出せばもっと探りを入れて来て面倒事になる可能性がありますから、良いですね。答えは声に出さず、頭の中で仰有(おっしゃ)って下さい。”
(な、何ですか、秘密のお話と言うのは。)
”今世界の番をしているのは神々です。その番を、我々のような同価値として認められない者、平たく言えばハミ出し者、疎まれ者に負わせようと考えているのです。そして今、その計画を練る為の場所が図書館の書庫になっています。書庫は全て私の権限で回されていますから、あなたを連れて行くことなど造作もありません。仲間にも紹介する為に、此れから図書館へ行きましょう。”
 覗き見聞き耳企てていた神々はドアノブが開く音で蜘蛛の子を散らすように逃げ帰った。
”では、図書館を案内しましょうクオーツさん。”
 その一言だけは紙で会話をした後、二人は腕を組み歩調を合わせて家の外へ出た。もう仲睦まじい二人の様子を神々はうんうんと頷いて見送る。誰もトネリコがああやって接するのであれば紅アザミの異種も一先ずは安心であろうと喜び語り合った。

故国

 書庫だと声を出しても安全だからとトネリコは通常の筆談を止めた。此処には神々は足を踏み入れたがらないから、と煙草を咥えて燐寸(マッチ)で火を点けた。
「書庫で煙草を吸うなんて。」
 トネリコでもクオーツでもないもう一人の声に驚く。よく驚く子だな、とトネリコは懐かしく思う。妹や弟もこんな風に感情がわちゃわちゃとせわしない子だったっけ。
「こんにちはクオーツさん。私はオルタンシアと言います。残念ながら本人ではなく、本としての、ですけれど。」
「貴女が…?何處からお話されているのですか?」
 クオーツが暗い書庫の中、水灯る空間をきょろきょろと見回す。トネリコはその必死さにくすりと笑い、自身の利き腕、脈通う手首側を差し出した。
「え?腕?」
 いきなり突き出されたトネリコの腕に意図が分らず困惑する姿に久しぶりに歯を見せて笑った。
「クオーツさん。私がもう読んでいるんです。あの本が神々の目に留まれば厄介ですから、私の記憶の内へ腕を通して物理的に閉まってあるのです。書庫の中だけでしかこうして其処から声を出せないから。」
「其処からって…」
「まだ得心のいっていない顔をされているわよトネリコ。」
「あっ!いゝえそんな事は決して。我々の故郷を語る唯一の本に疑いはありません、それに、まだ来たばかりで生意気だと仰有るかもしれませんが、私はトネリコさんを信じています。ですので嘘とは思いません。ただ、まさかこのような形でお逢い出来るとは夢にも思っていませんでしたので、まだ実感が湧いていないのが正直なところです。……オルタンシア様、よくぞ語り続けてくださいました、例え国王様でなくても、故国が今まで誰かに物語を伝えて来てくれた事が兎角嬉しい。有難う存じます。」
「ではクオーツさん、やはり君はこの本の国の出身なので?」
「えゝ左様ですトネリコさん。もう名前を語ることは許されなくなった国ですが、其の本の舞台は私のふるさとです。」
「良い思い出の、ある場所?」
「私は恵まれていました、家族にも、国にも。ですから私にとって故郷は懐かしく、優しい記憶が沁みる場所です。」
「……そうか、私も嘗てはそうだった。」
「貴方も?」
「酔っ払った馬鹿共に家族を奪われる迄はね。いつか人ならざる人としてではなく、人間として認識される日が来ると信じて身を寄せ合って生きてきた。けれど一族の悲願は私一人生き残ることで果たされた。奴等と握手をした時の吐きそうな鳩尾(みぞおち)の痛み、今でも完治していないんだ、二神を除く神達と話している間はいつも不快感がキリキリと締め付つけてくる。」
「そのお二方は大丈夫なのですか?」
「どちらも私の協力者だ。虫が好きな神と、其の神。」
「其の神?」
「当人が呼んでくれれば良いと言ったんだよ。植物を愛している他は何を大切にしているかは今一つ分らない。だけど恐ろしく賢くて頭が切れそうな方だ。虫好きの神とは仲が良くて、他の神々からは嫌われている。そうだ、他の神々。」
 トネリコはポンと手を打つ。
「クオーツ、彼女に手記を落した話をしてあげておくれ。オルタンシアの本は此処に居る時以外は視覚聴覚触覚などの外部との接触に繋がる意識は彼女の意思でシャットダウンされている。その方法が誰にも見つからない一番の方法だからって。」
「では、此処に来る迄に交わした話の内容は、故国の本には聞えていなかったのですね。」
「えゝ、ご理解が早くて助かりますわクオーツ。手記の話はトネリコの記憶から読んで知ったけれど、持ち主の事情はまだ知らないのです。尤も、彼の記憶を探れば見当たるのでしょうけれど、当人がお越しくださったのだから貴方の口から貴方の言葉で直接私に話してくださいませんか?」
「はい!勿論。私からも願いますものを、断る理由などありません。それでは早速、つ、拙い口調ではありますが…お話させていただきます。
 オルタンシア様の愛した国が滅んだ後、私は家族達とその場を離れ別な国へ逃げました。陸続きではありましたが雪野原も逃げた先までは興味が無かったようで、私達は其処で暮らしを続けていくことに決めました。数年は穏やかでした、故郷を失った寂寞はあれど、前を向いて新天地で生きようと。それに、避難した先の国の人達は実に親切でした。私達と大いに異なる顔の構造をしているのに、後ろ指をすることも一切無くて。第二の故郷とも呼べる土地でありました。
 其の日は当り前のようにやって来ました。或日一人の男性が国を訪れました。嘗て私達がそうであったように、あの国には他所から追われて逃げて来る境遇の人々が多いのですって、だから皆、男性もその内の一人なのだろうと考えていたのです。
 男性は、人を探していると言いました。なんでも、行方知れずになった娘を探し続けて此処迄来たのだと。随分国々を巡ったけれど娘が何處に行ってしまったのか手掛かりは未だ一つも掴めていないと苦しそうな笑顔で言ったのです。私達は男性を受け容れ数年共に過ごしました。其の日の前日の晩、男性は私に一冊の手記を手渡してくれました。娘を探す手掛かりになるかもしれないと道中書き記した話の数々が細かに書かれているものでした。貴方の大切な記録なのだから私には貰えないと断りましたが男性はどうしても私に持っていてほしいと平に願うのです。とうとう我折れ果てて手記をいただくことにしました。
「それが、此処に落ちていた手記?」
「えゝ、その通りです。もう二度と戻らないと諦めていましたが、またこうして手に抱くことが叶うとは。私は本当に、本当に恵まれているのでしょう、有難い幸せを幾つもいただいたのですから。」
 クオーツはくたびれて色の褪せた小さな手記を両手で包み胸にぎゅっと抱きしめた。その瞳はトネリコのような瞳ではないが、搖れて細かに震える花弁を察する限り、泣いているように思えた。哀しみと、愛しさと、憤りで涙を流し震えが止まらないようにトネリコの心には映った。
「……クオーツ、其の日、と言うのは?」
「朝日が昇りました。いつものように水を汲みに行った時、向こうから誰かが歩いて来るのが見えました。誰だろうと歩み寄って確認しようとしたら、更にもう一人、先に認めた人影を追いかける者が現れました。私は二人に駈け寄って(うち)へ来るように話そうと思い一歩踏み出した途端、足元が崩れました。咄嗟に傍に生えていた一本の樹にしがみつき暗い底への落下こそ免れましたが、ほうぼうの(てい)で家を見向いた時、其処にはもう何もありませんでした。建物も、人も、初めから存在していなかった表情をして土地だけが澄まし顔で立っています。訳が分からず、(いゝえ)認められず、私は名前を呼ぼうとして声が詰まりました。思い出せないのです。家族一人一人の名前も、友人の名前も、近所の人も、娘さんを探して各国を渡り歩いている忘れ難い筈のあの男性の名前さえ。
 膝を折り地に伏せて土を握り締める私の上に、二つの影が浮びました。顔を上げると、どうやら輪郭が先程の二人、向こうから歩いて来た二人のように見えましたので、私は縋って一体何が起きたのか御存知ですかと掠れた声で訊きました。すると二人は互いに顔を見合わせて、納得したように頷くと、アハハとさも楽し気に笑うではありませんか。
(何が可笑しいのですか、お二人とも見たでしょう、地面が崩れて地割れのように裂けたのを。それに、私の家族も、友も見当たりません。彼等彼女等は一体何處に。)
(あー、滅びたのか。)
(どうやらそうみたいだね。)
(滅びるって、一体如何して?我々は何も道義に背いた行いをしていない、仮に罰だとしても、其の罰を受けるような犯罪など犯していないのに。)
 相手達と自分の温度差に不気味さを抱かずにはいられませんでしたが、怯んでいる場合ではありませんから、両の拳を握り二人に問い質しました。すると一方は、
(貴方の所に一人の男が来ただろう?行方知れずの娘を探していると言っていた、シブいガタイの良い男。)
私は頷きました。あの男性がそんな、背徳的な行為をする筈が無いと固く信じながら。その信頼は崩れずに済みました。ですが私はあの男性のことをまだ何も知らなかったのだと突きつけられました、寂しくも…
 男性の娘さんは、神々の一人に娶られていたのです。ですが無理強いされて攫われたのではなく、双方共に慕い合う仲だったそうで、夫婦になることには神々のどなたも異存無く当人達も手を取りあって喜びに満ちていたのですって。それなのに娘さんの父親がいつまでも被害者面をしているのが気に食わないとして目の前の二神が訪れたのです。貴方の娘さんは我々の世界で幸せに暮らしている、相手である男神も娘さんに心底惚れている、素直な口を利けないひねくれた彼があんなに情熱と誠意を以て人間の女性と向き合うなんて信じられないことだ、だが事実なのだから、貴方も納得してくれないだろうかと幾度も説得したけれど父親は頑として頷かない。それなら実際に見せた方が手ッ取り早かろうと思い、男性を神々の天ノ河へ送ったのでした。
(だが、一度我々の(がわ)へ来た者は、もう再び地上の土を踏むことは叶わなくなる。)
(人を天上へ運ぶには地面を通る必要があるから、我々の用意した道を使わなくちゃならない。)
(だが人は其の道を天災と呼ぶ。地割れだの地震だの、洪水豪雨、猛火落雷、此等はいずれも人々を神々の世界へ運ぶ為の通路なのだよ。其を歩いて人々は我等の天ノ河へ辿り着く。其処では悩みも憂いも怒りも無い、穏やかな草花や樹々と愛くるしい生物達が憩う場所、番人であるオオミズアオは衰えること無く美しく、蛾の鱗粉は夜空で星と瞬き命を呼び謳う…止まぬ幸せに満たされた泉さ…訪れた者はすっかり其処での日常が気に入って、地上に戻ろうとはしないのだ。)
(君は道を避けたから残ってしまったようだ。望めばもう一度道を出すことは可能だけれど。)
 そう言う二神に私は返事をせず、代りに自分の後ろにある土地を振り返りました。もう一回あの地割れをくらえば此処は間違い無く崩れ去ってしまうだろう、だが彼方側へ行けば此の場所への未練もなくなる、一人残ったところで何になる、何かを継ぐ使命がある訳でもなし。前に立つ神々の手取ろうとした時、私の手からあの手記が落ちました。
(落し物をしたよ?)
(構いません。)
 恥かしながら、あの時の私は男性の手記などどうでも良く思えたのです。所詮他人の物だった物、人間の物、最早構う必要もあるまいと…恍惚とし始めた意識の中、私の両眼は一匹の羽虫を捉えました。
 はじめ雪のように見えた白い虫は、よく見ると蛾でありました。はて、此の国にこんな真綿のような蛾がいただろうかと疑問に思い、私の手は神の手を取る直前で止まりました。どうしたんだいと神が尋ねます。蛾が私の指先に留まっているのですと言いましたが、神々は首を傾げます。見えていないのです。動きを止めた私を急かす事はしませんでした、きっと私が人の暮らしに別れる決断が中々着かないのだろうと考えたようで、のんびりと滅んだ大地に腰を降ろしていましたから。
(我々は急いではいないから。)
(ゆっくり考えたら良いさ。)
 もう故国と化してしまった第二の故郷の地面に私も座りました。私は人生の中で、二度も住み慣れた場所を亡くしてしまった。一度目は、忘れられない雪の国、オルタンシア様の美しい眦、清らかな鼻筋、滅びに抗い続けた我等の王…そう、あの方は、最後に誰に向かって仰有ったのかは分らないけれど、まだ子供であった私の耳にも(しか)と響いた。
―おまえは、生きろ。
(おまえは、生きろ。)
 顔を俯向け呟いた声は掠れていました。それでも座って待つ二神には聞えたようで、覚悟は決まったかいと近寄って来ました。
 二つ目は、生き延びる為に生活し続けた此の国。私が行っては誰が此処の、滅びる前の生活を伝えられる?今はもう彼方に行かれて娘さんと再会しているでしょう貴方から託された手記を蛾の留まっていない方の手で拾い上げ、握りしめる。
(私は語らなくてはなりません。ですから、皆さんと同じ場所には行きたくありません。)
(いやいや、君の大切な人達が居る場所に行けるのに、拒まなくても良いだろう?)
(此方へおいで。)
 私の結論に首を傾げて歩み寄る神々。本来ならばあの男性だけ運ぶ予定だったけれど、それに私の家族達が巻き込まれた、呑気に追い駈け合いなぞしているからだ、人の生き死にを裁定する分際で!その失態を、巻き込んでしまった失態を他の神々に知られゝば、この神々はさぞ責め苛まれるのであろう。だから生き残った地上の人間を全員連れて行きたいのだろう、そうすれば此の国の者達が願ったから天上への道を開いたのだと言い訳が出来るものな。ふざけるな!此の国の人々は、此の土地でいつまでも日常を暮していけたら良かった筈だ、誰も天ノ河とやらに行きたいなど、望んではいなかったのに。
 都合の良い書き換えをされて堪るものか愚神ども。怒りが込み上がり追い詰められている背中は烈々と殺気を尖らせます。私はまだかろうじて残されていたダムに背を向けたまゝ、神々に詰寄られていきます、私の殺意を知覚したのか、嘲る調子で言いました。
(ダムに落ちたら無駄死にさ。)
(我々の手を取っても入水しても、どちらを選んでももう故国のことは語り継げない。諦めろ。)
 今はもう肩に上って来ていた真綿の蛾が、パッと手記を握る手元に飛んで来て、甲をツンツンとつっつきます。掌を上に向けて手を開くと、手記に複数の腕でガッシと掴み、ダムの水面上で羽を止めて真ッ逆さまに落下しました。私も続いて飛び下りました、僅かに神々の困惑した声が聞えましたので、私は未練無く笑って水に沈みました。
 そして、気が付いたら大きな樹の上に居たのです。」
”別の天ノ河を通って来たのかしらね。此の国の神々と前居た神々は同じ?”
「違うと思います。若し同じであれば真先に私を追い掛ける筈ですが、此方の神々はどなたもそうされませんでした。樹上で下から呼び留められて、トネリコさんのもとへ案内された次第です。」
「少しタイムラグが生じたのかもしれない。先に手記だけが此の世界に落ちて来たんだよ。蛾は…いなかった。」
「そう、ですか…元々私にしか見えていないようでしたので、若しやあの美しい蛾は私の脳が勝手に作り出したものかもしれませんから、此の国に居なくても当然かと。ですが、ですが…私には想わずにはいられないのも本当で、あの蛾は、あの方は、オルタンシア様の魂ではないのかと、畏れ多くも願わずにはいられません。」
 クオーツは泣いていた。トネリコは彼に近付いて身体を抱きしめる。
「きっと、そうです。オルタンシア王は国が滅びた後でも、民のことを見守ってくれているのでしょう。そして、国の物語を継いで残すことの背中を押してくれたのだとも、私は思いますよ。私も、貴方も、人として生き残った理由は同じなのかもしれません、そうならばとても心強い仲間ができました。友よ、君を此処に連れて来て本当に良かった。」
 オルタンシアの本には書かれ描かれていなかった物語が、風前の螢火の意思を水の炎として燃やし続ける。また一つ、書庫の廊下に清廉なる灯火が増えた。

親愛なる

 どうすれば神々から番人の役目を降ろせるのか、具体的な案なら私に任せろと言ったのは其の神である。家族達を奪われた怒りのまゝに神々を塵にするのは嫌だと言ったトネリコに其の神は瞳をかろく閉じた微笑みで一、二度大きく頷くと、虫好きの神に勿体ぶらずに早く言えと呆れられた。何の為に偵察部隊を動かしたと思っている、と。
(部隊ってどういうことです?)
 其の神の家の中、紅茶を慣れぬ手で淹れるクオーツが頭の中で質問した。
「こいつは私に神々の動向を調べさせたかったんだよ。私の可愛い友たちを利用してね。神々は人と違って虫を気に掛けない、見えない奴も多いから、スパイをするには虫達が適任って訳。で、今もあちこちにスパイ組を送り込んでいるところさ。」
”私より遙か以前から世代交代を望んでいたから、虫がお好きな方と仲良くなったのですか?”
 トネリコは手首をなぞり筆談をする。地上なのに神々が近寄らない場所とは言え安心は出来ない。クオーツとトネリコは専用の話し方をするようにと言ったのは其の神であった。友の神の嫌味にもどこ吹く風でさらりと話を続ける。
「神々はどうやら共通の弱味があるようだ。だが私一人の時では確証まで至らなかった。でも仲間の力を借りて、ようやっと確信を得ることに繋がったのだ。」
”弱味とは?”
「よく聞く内容さ。信仰されないことだ。」
”こうやって存在しているのに?番人として指名されているのに、信じてもらえなくなることが弱味なの?”
「確かに人間とは似て非なる在り方だから少し説明がいるか。じゃあ、クオーツ。君は、他の人からクオーツって思われているからクオーツなんだろう?御両親から名前を与えられて君はクオーツになったんだ。だが、神々は誰かから名前を貰った訳じゃあない、生れた時から自分は何を司る神かと言うのを認識していたのさ。だがその認識、自覚とでも呼ぼうか、其は一体何から起こる?信仰さ。海が在るだけでは神は存在出来ない、だが海を司る何者かがいると生物によって思われることで初めて神々は存在出来るんだ。強烈な自我をもつには、他者からその存在を認知されていないと為せないってことさ。」
(信仰心によって神々は自我を確立しているという構図ですね。人間で言う親、とは違いますが、土台があればこそ存在が叶っていくのだと。)
”神々の急所はひとまず理解出来ました。ですが其処をどうやって崩していくのか貴方はもう考え及んでいるのですか?”
「それは君だって同じ筈だぜトネリコ。私と君は同じ攻め方を思い描いている筈だ。」
 其の神は並んで座っていたトネリコとクオーツの間にぐいと割り込み。切れ味の恐ろしい研がれた横がほでトネリコの光らぬ眼を見た。無理に座られて遠慮するクオーツとは反対に彼は明らかに不愉快の意を顔に表した。虫好きの神は呆れて首を振っている。
”虫達まで動かしておいて結論が私と同じだなんて、わざわざ面倒な手順を踏んだのに無駄でしたね。最初から私が案を述べておけば良かった。神殺しの計画なんぞ人間は一人で考えつくものですよ。”
「分っていないなあ、無粋なものだ。例え同じ意見であれ人間が考え出すか神が考え付くかで大きく違うと言うのに。神である私が神殺しの(すべ)を真剣に考えるからこそ作戦に重みだ加わるんじゃあないか、藝術的センスと言うものだ。」
”殺しに藝を求めませんよ。よく聞くでしょう殺しは所詮殺しだと。”
「……その言い様なら茶化す必要も無かったか。もう君は肚を決めたのだな。」
”計画が上手くいけば、貴方の愛する植物達も邪魔者扱いされなくなるでしょう、そして貴方御自身も。黄昏と夜を往き来する空は旭を知り、草木花々が潤えば他の生命も歩み続けられる。”
 其の神はにこりと小さく頷いた。
「あの桔梗を見守っていられるのなら、私にはこれ以上無い幸せだ。」
「…じゃあ、具体的な中身を詰めて行こう。トネリコ、どうやって神話を図書館から無くす気だ?まさか建物ごと塵にしようだなんて考えちゃいないよな。」
 苦笑いする虫好きの神は話題を戻してクオーツを安心させた。トネリコと其の神の容赦無い応酬に視線を左右に泳がしていたから。
(そ、それは、トネリコさんの善しとする策ではありませんよね。)
”うん。クオーツの言う通り。武力は楽だけど反動も強いから、神々は人間を今迄以上に危険視して、自由を全く管理するようになりかねない。呑気なようで心配性、そんな存在達に真ッ向から対立するのは愚か。”
(では、表だって書物を処分するのは難しそうですね。)
”いいえ、そうだよクオーツ。表立って処分するの、当の本人の目の前で。”
「黒歴史を無かったことにしてくれる親愛なる隣人なんて、誰か一神が望めば数珠繋ぎに欲しがるだろうなあ。」
 今度はトネリコと目を合わせて小さく頷いた。
「成る程、神々が人間に抱いている親しみの情を利用するのか。確かに神々は自分の描写されている書物を読むどころか近寄りもしないと、蜜蜂達が報告していたな。」
(…あの、神話を失った神はどうなってしまうのです?その場でシュンッて消滅しちゃうとか?)
(いや)、そうはならないだろう。死ぬ訳ではないからな。ただ、力が衰え、無力にはなっていくだろう少しずつ。力を取り戻せる為の本達は一切処分しちまった後だからな。(ページ)が残っていない奴は等しく後悔する訳だ。」
”そして再び力を取り戻させる為に世界は神々を番人から降ろす。神々が此れから学ばなければならない相手は、自分達が気に留めなかった存在、不条理を受け容れるしか選べなかった涙を呑み、しぶとく生き続けて来た相手。”
 きっともうその頃には、神々のプライドは踏み砕かれていることを願う。本当の更生はこうして始められていくのだから。

記憶

「トネリコさん、お話とは何でしょう?」
”最近お声の元気が少し良くないようにお聞きしましたので、気になりまして。何か、ご不安なことでも?”
 地面に枝で書かれた言葉に、話し相手の神は涙ぐむ。
「実は、実は…他の神達には()く内緒にしているのですが、私は司る力を失ってしまったようなのです。けれど自分の名前は憶えています。ですが名が示す使命を果たせない、すっかり抜け殻のようになってしまって、こんな事態は在って初めてなんです、力を持たない名ばかりの神になったなど、他の者には恥かしくて情け無くて、言える訳がありません。」
”いつから、そのような不具合が?”
「分らないのです。思い出したくない記憶を捨てた日はあんなに気分が良かったのに。今ではあの時の爽快感と身体の軽さが嘘みたいだ。恥と怖れで他者の顔色を窺って伝えたい事の万分の一も言えないでいる。」
 いつも光と喜色で満たされていた輝ける姿はかろうじて以前の体面を守っているが、その守りの種類は死守だ、首の皮一枚繋がっている状態で昔のように好きに動けはしない、背水の陣、崖っぷち。人差し指でかろくチョンと突くだけでもう自我を保ってはいられなくなり破片となれば、天ノ河は歓迎してくれるのか。
「怖い、怖いのですトネリコさん。私は今怖くて怖くてたまらない。」
”落ち着いて下さい。私は味方です。言いたくないものを他の神々へ告げ口するなどしませんよ。ですが、他にも似たような面持ちでいる方が若しかしたらおられるかもしれません。此方に伺うまでも数名、顔色の晴れない方々をお見掛けしましたので。”
「トネリコさん、若し、私と同じ心境の神がいたら、どうか此処へ連れて来て下さい。同じ悩みを持つ者となら、安心して話が出来ます。」
”えゝ承知いたしました。それでは少し行って来ますから、この大きな葉を布団代りにしてお昼寝なさい。木の下で居眠りする者を起こしてまで話をしたがる方はいらっしゃいませんから。誰にも話し掛けられない状態ならご安心でしょう。”
 そうして一神を寝かし付けた。往来は少し前迄のように行来する神々は居なくなり、歩く足の無い静かな道に其の神が丹精込めて育てた躑躅が夕暮の雨粒をのびやかな腕で両手で掬いつつ飲んでいる。突然の白い糸降る豪雨は短くも激しい、気にくわぬものに水をぶッかけて洗ってやるようで見ていて心地良い。濡れる(ぶん)などもはや構わぬが、傘代りの紫陽花は露を吸って猶ほうつくしいから翳し持つことにした。
 植物を愛でる其の神は、初めて逢った時泣きそうな声を隠していた。他の者であれば飄々とした掴みどころの無い声に受け取っただろうが、トネリコの耳には涙声を誤魔化す照れが届いた。…まるで泣くなんてみっとも無いと恥かしがる幼い男の子のような強がりの震えが。
 最初は人間らしからぬ人間だから怯えられているのかと、臆病な性分の持ち主なのかと考えていたが、その割には、お茶会の招待状を桔梗の花で編んだ蝶々にしたためて飛ばしてくる、でも話す時は泣きそうな強がり。ちぐはぐな神様もいらっしゃるのかと、其の神のことを思っている時は辛い過去も視界の暗さもひとまず置いておく事が出来た。
 友である虫好きの神は、其の神の見栄に気付いているのだろうか?考えてみれば其の神と親しくしているのは虫好きの神だけである。他の神々は其の神への敵意・悪意を制御しきれていないにこやかな声で話しているから、いつかのお茶会の時に訊いてみた。
(貴方は、他の神々から嫌われているのですか?)
 そう言えば、あの質問で初め秘密の会話法をしたんだっけ。一族の大切な技の内容が嫌われているかどうか当人に尋ねるものだなどと聞けば、両親は呆れて笑ってしまうだろうに。
(私は誰彼相手にする貪欲さは持たないからね。付き合う相手は最小限にしているのさ、意図的にね。見極めが肝心なのさトネリコ。自分以外の全てが自分に味方しているなんて妄想だと、賢そうな君なら分るだろう?)
(トネリコ君気にするな。君の質問の答えはイエスさ。こいつは(ひね)くれていて面倒な上に、こうして時々格好つける。今の神々のみならず昔も嫌われていたんだろうよ。そりゃそうさ、ネチネチした嫌味を気取って言われても腹立つもんは腹が立つ。植物好きでなければ本当に誰からも相手されなかっただろうなあ。)
 植物と虫は仲良しだ。だから虫好きの神は其の神と仲良くなれたのだろう。神々は其の神の難儀な性格を持て余し、嫌がっているのか。
 私は面白いと思うけれど。彼は神々の人への順応化に全く従っている素振りが無い、虫好きの神も彼と友達になったからそういう姿勢になっていったのだろうと思う。神々の味方をしない神なんて初めてで、もっと彼の考える事や好きな物を知りたくなったから誘われる度自宅を訪れ、尽きぬ泉のような其の神の話を聞きつつ紅茶と焼菓子を味わう。白い湯気が祖父母の穏やかな笑顔に見える、窓の外でそよぐ花々がきょうだい達の遊ぶ姿と重なり、キッチンで準備をする音は両親の調理している夕食前を想い出す。二度と感じるまいと思っていた幸せをお茶会は想い出させてくれた。だからこそ、其の神の例の強がりの理由は訊き辛かった。
 若しかしたらいつもの他者へ向ける調子で悠々と答えるかもしれない、自分の此の遠慮は杞憂に因るものかもしれない。けれど、トネリコは彼の強がりの理由はもっと深く、自分の想像も付かない淵に存在しているのではないかと強く信じて居たし、本当の答えを言ったら、其の神は哀しくて泣いてしまうんじゃなかろうかと危惧もしていた。自分の言葉で彼を悲しませるのは嫌だから、やっぱり訊けない。
(あれ…)
 でも例外があったな、と記憶を手繰る。オルタンシアの本を身の内に匿ってお茶会に行った日。クオーツが此の国に現れる一日前だった。其の神が反旗に組み込まれた本当の理由を知り、私が当初の塵作戦の路線を大幅に変えた後の声は…やっぱりかと諦めた残念な、でも同時に深く深く懐かしむような、そして其等の感情を隠さない声だった。強がらなかったのは、あの月夜の雨の日一回きりで、居眠りから目が覚めた後はいつもの懸命な強がりに戻っていた。
 神殺しの首謀者としては甘いと咎められそうだけれど、あの方と御友人の神話だけは絶対に燃やさなかった。燃やしてしまいたくなかったのだ。

みなもと

「俺等以外の神はみーんな弱々しくなっちゃったな。ねぇピィちゃん。」
 其の神の住居、リビングの丸テーブルの上で蜜蜂とウフフと戯れている友の呟きに其の神はニヒルな笑みと短く小さく吐いた息で返事した。
「暫くは此の陰気な曇りが続きそうだ。何せ神々には自分で自分の過ちに気付き根本的な考えを大きく改める必要があるからなあ、時間は掛かるぞ、直ぐには晴れそうにないだろう。」
 曇天は思考する契機(きっかけ)になりやすい。晴れそうで晴れない時間が長い程生命は思い詰めるもの、神々にだって命はあるから例外足り得ない。澤山(たくさん)悩んでどうしたら良いのか考え続ければ良い、神々はシステムのようにプログラムされた精密な存在ではない、むしろ精密などとは正反対の位置にある。感情もあれば欲もある、人の身で負うには耐え切れない力を持つからと言って頑丈で無感情な鋼鉄の肉体を有している訳など無い。
 神々だって傷付くのだ、涙だって流すもの。だけど見栄ッ張りだから表には出さないで凛々しい厳粛な顔を見せている。優しくされれば嬉しいし、粗末に扱われたら悲しくなる、かと言ってプライドは高いから悲しみを素直に表現しきれなくって怒りに変ってしまう。虫とばかり相手して来た此の身からすれば、神々はもう一寸(ちょっと)すなほになっても良いのかもしれんな、とは思う。
「特におまえ。」
 今日もクールを気取りよって。トネリコの為にトネリコの為にと言い続けているが、それはおまえの心からの願いじゃないだろう。
「今世界は番人が薄れてきて宙ぶらりんな在り方になっている。あの子はこの隙に自分達のような虐げられて来た生命達を神々を救う役として収まる気だぞ。おまえそれで良いのか。」
「あの子の望みなら何でも叶えてやりたい、それが私の願いさ。」
「阿呆か。そんな他人に依存しまくる願いがあるか阿呆。」
「なんだよ今日は随分な物言いだな、澤山のお友達に囲まれているからって気が無駄に大きくなっているんじゃあないか我が友よ。」
「そうだよ、この子達がな、おまえの心配をしているんだよ、俺が毎日毎日あいつ心配だねぇ~って言ってるから此の子達も心配するようになっちまったんだよ。なあ、こんなに可愛い子達から心配されてるからには、まさか、まさか、心配など不要だと遠慮して逃げる筈無いよなあ。この子達の純粋な心を弄ぶような真似、きさまならまさかしないよなあまさか。」
 其の神は此時、友の何としても絞め上げて吐かせると言う確固たる意志を感じ取り、自分が神になって此の世界に来て初めて、従わずにはいられない恐怖がある事実を知った。

「こうまでお膳立てしないと本音も吐けないのか、おまえは。」
 連行されたのは桔梗眺める我家ではなく硝子の小瓶に星くずちらめくフルーツジャムがキルトパッチワークのように戸棚に配列された木造の広いリビングが御自慢の友の自宅であった。竜宮の使いを模した長椅子に座らされると、海月の色をした硝子テーブルに自らの本心を万年筆と紙で書かされた。
「ええと、どれどれ…私はトネリコの傍に居たい、うむ、良いな直球じゃあないか。笑っていてほしい、ふむ真ッ当だ。私以外の者に泣かされないでほしい、おまえも相手を泣かすなよ。うーん、うーん、うーん……執着心がある神ッてのは確かに珍しい。おまえが神々の世界で変な厄介者扱いされていた理由も納得だわ。」
 最初に読み上げた三つ以外は声に出す気にならなかったらしく黙読で進めた後、溜息混じりに友人は笑う。
「笑い事なものか、私としては真剣なんだ。」
「長い時間焦がれすぎて拗らせやがって。そんなら何故一番最初の時に思いを告げなかった。自分以外の者に心を動かさないでおくれなんて情け無く頼めば良かったろうに。」
「まだ笑うか、でも、だが、そうなんだ。真正直に言えば良かった、そうしておけば、記憶を遡る行為なぞあの子はせずに済んだのに。騎士(ナイト)気取りでいたのが間違いだった、私がぐずぐず迷っている間に、あの子は私以外を思うようになってしまった。」
 そしてその思いがあの子の白錨として沈み今でも何處でも何度でも湖に結びつけられている。泉はあの子を(ただよ)わせるが、湖はあの子を浮べるだけ、秩序の鎖はとても長いけれど辿る水面は決まっている。私は泉をあの子に願ったが、あの子が選択したのは後者だった。湖に(ひた)って星座を紡いだユグドラシル、可愛い子、優しい子、哀れな子、私は君に何をしてあげられるだろうどうしたらずっと傍でずっと笑っていてくれる?
「…人間はこういう時直ぐに解決出来る方法があるのを知っているぞ。」
「何本当か君教えてくれ頼む。」
 早口早足で友に迫り顔をぐんと近付けた。喰い付く姿勢としては立派に及第点だが、人に出来て神々に容易に出来ないこと、それは、
「告白だ。君のことを愛しているから傍に居させてほしいと正直に伝えるんだよ、分り易くな。」
 直球玉(ちょっきゅうだま)の告白は相手に誠意が伝わりやすいと乙女雑誌で読んだことがある。
「でも、そう伝えれば根ッから優しいあの子は私に気を遣ってしまわないだろうか。だとすればまたいつかの二の舞に…」
 ビンタの音。虫好きの神の友達である虫達がひくりと羽先を固めて夜空の円い眼球で震源を向いた。
「これは神である俺達にはまだ充分に理解出来ないものかもしれない、俺が以前居た天ノ河でも神はそれを役目として捉えていた。俺だって今でもそう考えてはいる、けれど、此処に来てトネリコと逢ってようやく何となく分って来た気がするんだ友よ。
 人が()が為を想うのは、与えられた負うべき役目だからではない。人であれば自然と持ち得るものだからだ。」
 其の神は信じられないと今にも叫びそうな口元の勢いであった。いつも冷静な新月の瞳孔は見開かれ瞬きの星をも束の間忘れてしまっている。
「では、トネリコは、あの子は、もう世界の礎として在らなくても良いと?ただの人間の、ただのトネリコになれたと、君は、そう思うのかい?」
「例え梟の血を濃く引いていようが、今のトネリコは人間だろう。人間じゃないなんて言えば酷い目に逢されるぞ。」
「その通りだな…神として長く在り続けたのに勝手に全てを把握している気でいたよ。」
「待ち続けている間は何もごちゃごちゃ考えはしないものだろう。後悔の日から進歩していなくても仕方の無いことだ。」
「仕方が無い、か。神々もそんな台詞を使えるようになったのか。」
「神々でも止められない終幕だって存在していたろう。」
 桜の葉で冷やしておいた氷を差し出され、其の神は澄んだ氷を手に受け取ると赤く腫れた片頬(かたほ)に当てた。

 本心からでない真似事で発展を続けたって、と怒り続けた。現に此処の空は黄昏と夜を繰り返すだけで、家族と共に本で見た旭なんて影も見た事が無い。それは世界の(ばん)をしている者達が番としての資格を手放し始めたからだと信じるようにした、だから相応しい資格を持つ者達が新たに現れ始めれば、空は旭を知るのだろうと思ったのだ。
 なのに、私の心が晴れないのは何故なのだろう?
 神々が衰えた後、空には青色が新しく加わった。書物で見た青空そのものだとクオーツと手を取り抱擁しあって喜びを分かち合ったのに、晴天の象徴たる色からは、ひっきり無しに雫が垂れる。繋がりの無いバラけた硝子のビーズが点々と音すれば凧糸に列ねたように線を成して土に刺繡を縫い始める、模様は言葉を必要としない手紙となって意味を伝えようとするも言葉を必要とする者との溝は瞬時に埋まるものではない、理解しようと歩み寄る時間のあいだに手紙は姿を変えてしまう。互いは互いの顔を見つめたまゝ、途方に暮れることも出来ないで佇む。
 雨が果て、夕暮が来て、夜が来る。雨が降り、夕陽が射し、日が沈む。正しいと考えた行為の果てに旭は訪れはしなかった。
 少し前には道を歩く神も残っていたから外にはちらちら出入りがあった。それも自分とクオーツだけになり、地面はだんだん綺麗になっていった。其の神と虫好きの神はそれぞれの自宅に籠り始めた。まさか他の神々の物語を燃やした影響がと案じていた不安を口に出せば、不調ではなく必要なことをしているだけだからと虫好きの神から蜻蛉(トンボ)の便りが届いた。其の神からの桔梗の手紙は来なかった。
 表面上の明るさだろうと憎んでいた、軽薄な談笑の声が耳障りだった。静かな空間が好きな自分にとって今の状況は喜ばしいものなのに、最近はクオーツの話している内容も把握出来なくなっていた。
「音が、聞こえづらいのですか?」
 トネリコさんは首を横に振る。
「君の声は届いていますよ、耳にはね。体調自体は良い方です、ただ、頭が上手く内容を理解しづらくなっているようです。聞えてはいるのですが、そのまま通り過ぎている状態なんです。」
 神々が引き籠り始めてから彼の様子は変り始めた。神々と比例するようにトネリコさんからは微笑みが消えていき、いつでも緊張した面持ちをするようになった、今だって、私が逢った時のトネリコさんならば苦笑いを同時に浮べていた筈なのに。
 罪悪感がトネリコさんを圧し潰そうとしているのかもしれないと考えて、或日正直に伝えてみたら、そのような感情は湧いていないと否定されてしまったが、私はその予想を捨てきれなかった。日毎にお話の時間は短くなり、すっかり私達は会わなくなってしまうのも、この流れで言えば当然で。一人になった時間に寂しさを感じない訳ではなかったけれども、落ち込む暇は無いと顔の花弁を一片小さく千切り、痛みで心を紛わせると、私は図書館へ走り始めた。
 訪れる者のいなくなった図書館には所々ぶ厚い埃が積もり広がり、空気は()えて歓迎の意を示さない。トネリコと一緒の時も巨大な図書館だと感じたものが一人で来れば気圧されてしまうのも無理は無い、しかも廃墟となっていれば尚更。それでもクオーツは手首をトネリコがしていたようになぞり、何の為に此処へ来たかの軸を叩き起こす。クオーツにとっては秘密の会話をする為の動きではないが、迷い込んだ先で自分の手を引いてくれた新しい友の大切にしていた動きを真似することでクオーツは己を奮い立たせる、勇気を持たせて足に力を入れさせるのだ。
 ギイと木彫りの扉を押せば、咽せ返る埃の匂いが襲って来た。ゲホゲホと咳込みつつも書庫への入口へ歩き再び手に力を込める。真ッ暗な下り階段は地上の物よりも段差が高く、いつもはトネリコが手を取ってゆっくり下ってくれたものだったが、今は自分だけで下るしかない。クオーツはしゃがんで足を前に伸ばしてそうっと下げて次の足元を探り当てると腰からゆっくり身体をずらして座っていた場所に上半身を置くようにして進んで行く。闇の中使える感覚を全て動員して書庫への道を下りていった。
 普段は数分と掛からない移動を数時間掛けてようやく床へと足裏が着いた。ほーっと長い長い安堵の溜息を吐いて何度も何度も深呼吸する、埃はどうやら地下には手が届かなかったかして、嗅ぎ慣れた古い本の匂いと燃える水の清々しい香りがする。目の前に水が灯る藍色の炎がぐらぐら搖れている、よく見た光景。クオーツは此のゆらめきが最初見た時から気に掛かっていた。
(何故、貴方しか来ない場所なのに、足下に明かりを据えたのです?暗闇の中でも貴方ほどの鋭い感覚や技術の数々があれば、普段通りにそつ無く動けるかと思うのですが。)
 書庫での会話を重ねていく中で、いつかこのような問いをした記憶がある。あの時はいつか来る人の仲間に合わせて用意していただけですと苦笑いして、水を燃やす技術も教えてくれたけれど、私は十分の一も理解が出来ない内容だった。でも唯一憶えている言葉がある。
(水は記憶を呼び起こすもの。)
 此の書庫の灯を、神々に触らせれれば、自分達の一度は捨てた物語も思い出せるかもしれない。その内容を、書き留めれば、また図書館に神話が戻って来る。その神話は嘗て語られた内容と人との共存体制を一方的に壊した内容、それに最近までの出来事などが新たに加えられたものだ。後世の協力を経て語りなおした新しい物語だ。此の行為は昔は人のみが成せる技であったが、今回は神々と協力するのである。どうか此の協力が、真に神々と人々の共存体制の構築に繋がりますように、神々も人も生気を取り戻し、一緒に旭昇る御空(みそら)を仰げますように。
 若しかしたらトネリコもクオーツも復活した神々の怒りによって殺されるかもしれない恐怖は今だけ肚の底にグッと押し込んだ。今考えるのは、晴天の空。此処に来る前居たあの国では、私は当たり前のように毎日見ていたから、あなたたちにも是非見てほしいと思うのです。

初めての

 また夢を見る。一回目の時はまさか夢とは思わず現実の出来事と錯覚していた為に手足をもがかせていた感覚を憶えている。それも頻繁に見るようになれば慣れてしまうものなのか、今は映画の上映をスクリーンの前で佇み眺めるように突ッ立っているのだもの、慣れと言うのはどうにも難儀である。
 トネリコ達の種族は神々に拒絶される前、猿の血を引く人間達から追われていたのであった。それはあまりに古い古い時代の言い伝えなので祖父母の先祖も確たる出来事ではないと言い含めてはいたらしい。何せトネリコが生れた時代にはもう、人間の生き残りは梟の遺伝を含む自分達人間だけとされていたから。
 だからトネリコは人間が自分達一族を迫害する場面に出食わした事は無い。無い筈なのに、どうして人間が人間を責め立て殺す眺めを夢で見続けているんだろう。
 抗っても殺される、従っても殺される、口を開けば殺される、黙っていても殺される。神々は酔いどれていたが人間はシラフだった。明確な悪意を持って自分達を追っている。平地よりも高い険しい雪山に逃げ込んで、追手はようやく諦めて去って行った。片手の五本指で数えられる人数しか生き残れなかった。もう此の時から先祖は隠れて生きる生活を始めていたのかと(まばた)きをすると景色が歪んで渦を巻き、見ていた場面がぐなりと切替わる。
 今度は猿の血を引く人間達が襲われている、相手の姿は分らない。逃げる者達が何かを懸命に言っている。途切れ途切れの内容の中には権利を求める言葉があった。その言葉の出所は、先程自分達の先祖を安全の確保の為と称して殺めていた者だった、と思う。視界が狭窄してきたところでグルグルと何も定まらず、次の場面が現れる。
 最後の場面は他の二つみたいに何者かが登場する訳ではない。風景画として此方を見る景色が広がって、真ッ黒になって、目が覚める。風景画の題材は自分の住む此の国だった。
”おはようトネリコ。今日も長く眠っていたわね。”
 オルタンシアの本の声に身を起す事もせず、彼は黙って手首をなぞり始める。
”どうせ長くは寝れていない。また、よく見る変な夢を見た。”
”追う者が追われる者になる夢?終幕の場面はいつもと変らず?”
”変らず此の場所だった。神々が人間の手で追われる立場になる未来を予知でもしているのかな。距離がありすぎた者同士は逆に互いに近付きすぎる、人間の言葉には神の字が入った単語が産み出され広く使われるようになったり、見当違いな祈りを捧げられて叶わなかった腹いせに神域を汚染されたり、挙句の果てには人間そのものに神の文字を当て嵌めたりするようになるんじゃないか。”
”神威も畏敬も人間は感じなくなったらそうなるでしょうね、神々からしたら堪ったものではないわ。”
”私は神々に復讐が出来た。それでもう満足さ。過失の残酷さを味わわせるには()と足りないが。”
 もっと、もっと、打ちひしがれてしまえ。でも
”其の神達に会う予定は無いの?”
”招待状が来ないからお茶会はしていません。”
”お茶会でなくっても逢いに行けば宜しいじゃないの。”
”行く理由が無いもの。”
”野暮ね、理由が無くても行けば良いのよ。”
”そんな無駄な時間を過ごすのにベッドから出るのは嫌。”
 いいから早く行きなさいよ!と叫んじゃいそうな血気を鎮めて、発言前に一拍置く。大きな溜息になっちゃわないように静かに息を吸って一寸(ちょっと)止める。
”ハァ、それなら用事があれば出てくれる?頼みたいことがありますの。”
”今日しなきゃ駄目なもの?”
”そうね、なるべく早くに済ませておきたい用事なの。書庫にある一冊の本を届けてほしい相手がいるから、頼める?”
”まあその程度なら。タイトルは?”
”向こうに着いてから詳しく話すわ。その方が安全ではあるでしょ。”
”もう計画は遂行済なんだから気にする必要無いだろ。”
”貴方に誘われるように神話を手放したのだから、逆恨みを買うかもしれないでしょう。まあ今の神々にそんな力無いけれど、それでも相手は人じゃない、神々よ。その心算(つもり)は無かったって言っても納得してくれるような状況を保っておかないと、貴様の企てかって指差されでもすればどうなるかは分らない。親愛なる隣人像を崩すのは賢いやり方ではないわ。”
 そう言えば、一神に頼まれてた。司る力を失った神に、自分と似たような心境を持つ者が居れば連れて来てきれと。具合が悪く出歩けない状態で、今日やっと外に出られたところだと言っておこうか。確か木の下に横にさせて大きな葉を被せたあの神。木は図書館に行く道とは反対方向にある…
”オルタンシア。”
”やっぱり嫌になった?”
”違う。今日中に貴女の用事は済ませますから、図書館へ向かう前に一ツ寄っても良いでしょうか。”
 布団を足で払いのけた。

 あの約束の日からかなりの日数が経っている。もうあの神は家に帰っていたろうと思っていたので、図書館と真反対の道を進むのは無駄だと薄々感じてはいた。それでも、いるかもしれないと期待を抱かずにはいられなかったのも、また事実。
”不思議なものです。横になっている日々は、根拠の無い期待など考えつきもしなかったのに。”
”とりあえず目の前にある動作を一つやってみると、自然と次の動作が呼ぶものさ、血が動けば身体が開く、感覚が戻れば感情だって付いてきてくれるから、色々と思い付くんだろう。”
 木は流石にまだ植わっていた。そしてなんと、あの神も。
”貴方!”
 俯向けに座る神の肩をゆすぶって、傍に指で土に書く。
「おお…トネリコさん。これはこれは、ご機嫌よう。」
”貴方、まさか、ずっと此処で待っていたのですか?”
「勿論ですよ。貴方は誠実なお方だ、そんな貴方の言葉は私を捨てることはないと、私は深く信じております。日数が掛かっても、貴方は必ず此処に来て下さると期待しておりました。あゝ、待った甲斐がありました。有難うトネリコさん。」
 トネリコは何を話せば良いのか分らなかった。だが家の外に出た以上もうオルタンシアの力は借りられない。まごまごしていると、相手の神の方から質問があった。
「トネリコさん、以前私が頼んだ内容ですがね…もう、お返事を頂く必要も無いかと思います。決して誤解されないように、貴方に愛想が尽きた訳ではございませんから、御安心なさって下さいませ。実は、貴方と別れたあの夜、一眠りして随分心が落ち着いたものですから、通りの方へ歩いてみたのです。少しだけで済ませようとしていたのですが、ついつい昔のように散歩するのが楽しくなってきまして、大きな通りをずんずんと歩いていたのです。そうすると、大通りを()れた細い一本道に、他の神々がぎゅうぎゅうと集まっているではないですか。喧嘩です、神と神が何やら言い合いをしている周りに、その二神を止めようと神達が集まって来ているのでした。」
”何故、喧嘩をしていたのでしょう。”
「一方は相手に力が衰えたことを馬鹿にされたと言っています。しかし相手はそんな言動はしていないと真ッ向から対立しているのでした。どちらかが嘘を述べているのであれば我々にも分るだろう、神々の瞳は嘘と正直を区別出来るので、取り巻きの者達は二神を見ました。私も混ざって見ました。
 その場に居た者達は、全員口を閉ざして一人、また一人と立ち去りました。神々はもう、当り前に出来ていたことも出来なくなるくらいに迄力を失っていた証拠でした。私だけだと思っていた衰えが、皆にも共通しているのは知れましたが、話をする気になどなれませんでした、どうして、どうして…
 ですからもう、他の神々に訊かなくっても分ります、私達は、神ではなくなってしまったのです。」
”では、貴方は此れからどうなさるのです。”
「私は、それでも此処で生活を続けます。勿論前みたいに簡単に為せる事はもう無いでしょうが、命を営む努力をします、そして、生きてきたいのです。そう決めたからこそ、貴方とお逢いできた木の傍でお待ちしていたのです。」
「トネリコさん、私も彼から話を聞いてそう在ろうと思いました。兎に角生活を続けていかないと。どうか我々に、人間の生き方、生活の為の技術、人との接し方を教えていただけないでしょうか。」
「もう前のように表面上の真似じゃない、全身全霊の真似をして、学びたいのです、今度こそ。」
「トネリコさん。」
「トネリコさん。」
「私達に教えてくださいトネリコさん。」
 何も知らない誰かさまがいきなり此の場面をパッと見たら?トネリコって人は随分人望があるんだなあと思われるかもしれない、確かに喜ばしい申し出だ、けれど、当人はどうだろう。廃神(はいじん)にしてしまえとまで怒り狂っていた血気盛りの青年は、神々のひたむきな心と自分を心から信頼している善意を見えぬ眼の前に旗のように示されたらもう、自己嫌悪の絶叫を抑えるなんて、出来ない。
 その場はしん…と驚愕の沈黙に包まれる。トネリコは涙を流し隠れ場所、書庫に走った。誰も追う足音一つさせなかった理由は……
 暗闇の階段を転がるように駈け下りた先は、クオーツが水の炎をどうやって外に運び出すのか試行錯誤しているところだった。
「トネリコさん?」
 一度も見たことの無い泣き顔を見てクオーツは直ぐさまトネリコに走り寄りその勢いのまゝ抱きしめた。何も訊かずに頭を何度も何度も呼吸が落ち着くようにと撫でるトネリコよりは小さな手。
 膝をつき、クオーツに身体を凭せて大声で、初めて出すよな大きな声で泣くトネリコの肩は血の気も引いて震えていた。

乙女

「今度こそ、如何(いかが)でしょう。」
 其の神は臨時編集者となっている虫好きの神に恋文の再提出をした。書き直した手紙の枚数で一軒の家が建てられる。
「うむうむ、とても良い、良くなった!俺が読んでも満足だ。それに、」
 蜜蜂、蜻蛉(トンボ)、百足、蝶々達に視線を向けて
「この子達が修正箇所無しと言い切ってくれている。恋物語が三度のジャムより好きな我が家の四天王のお墨付きだ、間違い無い。……合格だ。」
 直後二神は倒れ込んだ。ボサボサの髭が生え放題、目の下の隈、めちゃくちゃの頭髪、掠れた声、どれだけ精魂打ち込んだかは推察されるだろう。先ずは風呂だともはや声にもならぬ声で相手を呼ぶと這いつくばって脱衣所へと互いに向かう。虫達は有能で、既に適温のたっぷり泡風呂を用意してくれていた。互いに生還した喜びに男泣きする友達よ。
「で、何處で渡す?」
「まだ其処迄考えていなくて…」
「そうか…」
 さっぱりして正気を取り戻した彼等は手渡すタイミングを考えていた。椅子に腰掛け目覚めのシトロンティーを啜る。勿論青波の食器に白だけのチェックのテーブルクロスも忘れない。
「ずっと女の子扱いしていたのか?」
「何?」
 シトロンティーは甘酸っぱい。
「トネリコを、ずっと守るべき女の子として見てきたのかって訊いてんだ。」
(いや)、そんなことは…それに、全ての女の子が守られたいと願っている訳でもないだろう。男勝りな女性も多い、騎士(ナイト)なぞ不要と思う女の子だって珍しくはない。」
「うん、他はそりゃそうだろうな。神の中にもおッかない女神は大勢在る、その意見は正しいよ。でも今はおまえがトネリコをどう見ていたのかが聞きたいなあ、と俺は待っているんだけれども。」
「……………」
「おーい。」
「…………」
「こりゃ駄目な質問だったか。」
「う…」
「ん?」
 持っていたティーカップの残りをぐいと一息に飲んでしまう、およそ普段の振舞いとは逆さの勢いに虫好きの神はあららと呟く。友は頬を桃の蜜ほどに花染めて美しい形の唇を動かした。
 俺の乙女雑誌を貸しすぎた所為かな、と虫好きの神は笑った。

 泣き疲れて眠ったトネリコを外套を敷いた床の上に乗せる。神々への憎しみは自分も激しく感じていたから彼を責めることは出来ないし、そもそも非難の情など起きなかった。指を差すならトネリコの計画に賛同する筈も無い。
「私の考えが実行出来たら…」
 何百通りの運搬方法を試したが水を掴むことは叶わなかった。当然と言えば当然、自然の摂理だとは分かっているけれどクオーツの心は諦めない。
「何千通りも越えなくてはいけないかな。」
 少し休憩したらまた始めよう、と自分も大理石の床にごろりと転がる。汗をかいた皮膚に冷たさが心地良くてうとうとと目を閉じた。
 それは、懐かしい夢。現実ではないと頭が言うけれど心が納得しない夢。オルタンシアの王国に、旅人と共に暮らす景色。
 娘さんからのお手紙を微笑みながら手渡してくれる優しい貴方、読んで笑った私を照れくさそうに見つめる貴方。
 良かった、手記は無事ですよ。一度は忘れかけてごめんなさい。貴方が人として生きた大切な証。
 瞬きの夢は溶けるような涙で覚めた。隣の友はまだ眠っているけれど、先刻よりかは大分(だいぶ)表情が穏やかになりあどけなさがよく見える。きっと此の人は、涙の流し方を捨ててしまっていたのだろう、あのように声を上げて気の済むくらい泣いたことあったのだろうか。
「傍に居ても、何も知らない。」
 あの日一人になって嘆いた事実は、今友人の傍で受け容れた摂理に変った気がする。隔絶を距離として捉えるのではなく孤独として見つめる考え方。生命は孤独を欠いて生きていくことは出来ない。赤子が上げる産声は孤独を身近に感じられない環境に驚いて、孤独を探して泣くのだろう。しかし親の指の温もりを感じた瞬間、寂しさよりも安心の方が勝るから命は繋がりや温もりを求めるようになっていった。大きくなって孤独を求めるのは、母親の胎から光を初めて見た時の不安を湖面下で思い出しているから、
「大切なのは、それでも傍に居たいか、だもの。私はそうだよ、君の傍に居て、真面目な話や馬鹿話、下らない話に面白い話、澤山(たくさん)聴かせてほしいんだ。それで、そうね、虫好きの神様達の真似っこしてさ、お茶会を二人でしようよ、人間会?ッて名前にしたら悪趣味だとか笑われちゃうかなあ。でも時々は人間同士水入らずでお茶会をしたいものだわ。神々に丁寧に説得するにはどうしたら良いかしら…?」
 クオーツの独り言は最初は眠るトネリコに気を配って小声で始まったが、だんだん楽しそうな内容になってくるともう普通の音量で話していた。トネリコをすっかり起こすほどには。
「人間会、やろうよ。」
 まるで驚いた仔犬のように肩が上下する。
「起きてたの!?」
「つい先刻(さっき)だけどね。」
「えぇ……聞かれてたの恥ずかしいなあ。」
「恥ずかしいとどうか思わないで、クオーツ。君は私が活動出来ない状態の時も一人で頑張ってくれていたのでしょう?有難う、私はとても嬉しい。君が、貴方が、心から誇らしいのです。」
「トネリコさん…トネリコ、今の状況をどうにかしたい貴方…君の根ッこの優しさは分っている心算(つもり)。友の望みを一緒に叶えるのが私の願いだよ。」
 クオーツの言葉を聴いてトネリコはまた涙が滲む。本当は家族の中で一番の泣き虫だったのだ。
「あのさトネリコ。書庫にある此の水、どうにかして運べないかな。地上に持ち出したいんだけど掴めないんだ。」
「水を…何かに使おうとしているの?」
「神話を書き直す。それには神々と人間が協力しあわないと出来ないことだ。」
「神話を書き直すことで、神々に神としての力を戻すの?」
「怖がるのも無理ないさ。でも、聴いてほしい。」
 トネリコはほんの僅かに首を縦に動かした。
「神々が記憶を取り戻す。それは自分達の土台の物語だけでなく、此の国に来てからの記憶も思い出すことになる。君の一族を奪った事故を思い出せば、今の神々なら誠実に対応してくれると私は信じている。其処で初めて神々と人間達は和解して、心からの共存を送っていけると思うんだよ。」
「でもそれって、賭けよ。」
 俯向いたトネリコは震えている。事故の惨状を思い出してしまう、父母に名前を呼んでもらえないこと、弟と妹からお姉ちゃんと呼んでもらえないこと、復讐の為身を守る為本来の性別を隠し男として振舞って来たこと、自分のまゝで居られない苦痛が感情を麻痺させたこと。今迄の疼痛が苦しい、痛い。信じるの?神々を信じるなんて、私には
「あっ…」
 待つのよトネリコ、書庫に逃げて来た前の光景を思い出せ。あの神は貴女に何て言った?
(表面上の真似じゃない)
 変わろうとしている。私が神話を燃やして致命傷こそ受けたけれど、神々は、今、人間を心から信じてくれていたではないか。
 怖い、けれど。
「クオーツ、水の灯の運び方を教えてあげる。だから外まで一緒に運び出していこう。」

恋心

「書庫には最初(はじめ)灯を置かなかったの。私、目がこうでしょう?だからあっても無くても変わらないと思って。でもね、私が一人生き残って神々と握手をした後、例の…其の神が私を呼んだの、そして、螢袋(ほたるぶくろ)の花を一つ手に載せてくれた。きっと君の役に立つからって、それだけ告げて、お礼を言おうと思ったらもうフイッて何處かに姿を消していたわ。それから図書館の大役を任されたから暫く胸ポケットに入れた螢袋のことなんて忘れていたの。書庫を反逆者だけの空間にしようと躍起になっていたからそれどころじゃなかったもの……手探りで階段を降りて部屋に到着した途端、忘れていた花がもぞもぞと胸ポケットかの中で動いてびっくりしていたら、一羽の蛾がひょっこりと顔を覗かせたの。」
「まるで、見えているような感想だね。光として捉えたからかい?」
「いいえ、見えないいつもの視界の中に、ぽっとり見えたの。これはどうしても私だけの特権だったから、君には説明するのが難しいけれど、そうね、見えないけれど見えた、と言えば多少は伝わるかしら。」
「君が見たと言うなら私は信じる。その蛾は、何を?」
「最初は真綿雪にちらちらと青い菫模様が水晶の柱のように時折透いている(はね)をしていたの。おや綺麗な子だってひとりごちて指を伸ばして、留り木と思ってくれるかしらと思っていたら、優しい子でね、私の心を見通すあの円らな黒百合の瞳を此方に向けて見つめ合う形で羽休めをしてくら。思わずこんにちはって話掛けたわ、書庫には私一人しか居ないから気が緩んでいたのかもしれないけれど、声を出すなんて。でも私の挨拶が聞えたら、今度はラピスラズリの水面(みなも)に雪の桔梗が浮ぶ(はね)に変わったの。お着替が上手なのねって囁いたら、指から飛んでくるくると旋回し始めて星くずの鱗粉が清らかな水の音を鳴らしたと思うと床に銀色の雫となってふわり舞い降りた。それが火花だったのね、火は大きくなって沈黙して、今の此の灯となったのよ。だから此の灯を運ぶには、螢袋の花の中に入れて運ぶの。」
「花芯にしまうのか。文字通りに袋にする訳か、洒落めいていて面白いね。」
「其の神らしいと言えばそうだと思う。あの方は変化の魔法も得意だって虫好きのご友人から教えてもらったから…神々が書庫に入りたがらないと分かっていたのでしょうね。」
「え?トネリコが出入りを禁止したから来ないんじゃなかったっけ。」
「最終的にはね。でもそう決める前から神々は書庫に下りようとはしなかったの、まあその方が都合が良かったから当時は気にもしなかったけれど。私が書庫の番人になることも予想していたから螢袋をくれたんだと思うわ。」
「此処には其の神も来られない?」
 クオーツの質問に頷きつゝもトネリコの本心は…
「来るよ。」
 嘘みたい。聞き慣れた懐かしい声。光を追う目が感じたのは、ずっと逢いたかった人。
「如何して…?」
 掠れた声の問いかけに其の神はにこりと笑む。
「トネリコ。君に渡したい物があったんだ。一つ目は此の花さ。」
「あ!トネリコ、これって螢袋の花だよ。こんなに澤山持って来てくれている。」
「それだけあれば書庫内の灯りは外に運び出せるだろう。」
「貴方…此処に入っても平気なのですか。」
 トネリコは弾かれたように其の神に駈け寄り、身体に不調が無いか頭や頬をぺたぺた触り確かめた。懸命な細い手を握る其の神。クオーツは二人の居る場所とは正反対のずっと遠い場所に行って灯の回収をしに歩いて行った後。必然、沈黙が流れる。トネリコと其の神は何方(どちら)から話し始めようか逡巡しており双方口を開けずにまごついていたが、先に肚を決めたのは其の神だった。みっちり友と愛し子達にしごかれて来た賜物なのは間違い無い。
「トネリコ、大丈夫だよ。私の身体は書庫に下りても異変は起こらない。善なる神々ではないからかな?私は書庫と地上界を往復出来る特別な神だが、他の神々はそうはいかない。書庫を恐れているからね、初めて見た時から。でも仕方無いさ。神々はそういう風に多くの書物で描かれているから。でも私はそういう風に描かれてはいない。だから書庫に一日中居たってずっと居眠りし続けられるぜ。」
「じゃあ、強がりでなくて、本当に大丈夫?もうあの日みたいに、私を残して死んだりしない?」
「しないよ。昔は君を守れたが私は死んでしまったから、結局置き去りにしてしまった。狂って当然さ。私達は、神と樹の種族を超えて、深く深く慕い合う仲だったのだから。」
 其の神が包み続けるトネリコの手に、彼が流す涙が伝って来る。
「あゝ、こんなに簡単な事だったんだね。君の私に与えてくれた温もりを、私はこうして返せば良かったんだ。魔法の防壁なんかじゃなく、傍に在る温もりを……」
 手だけでは我慢ならず、其の神はトネリコを身体ごと抱きしめた。
「トネリコ、トネリコ。私の恋文を受け取ってくれるかい?」
 其の神の胸元も彼女の涙でほのかに濡れている。
「恋文を、貴方が?」
「信じられないのは分るけれど、友達に手伝ってもらって一生懸命書いたんだ。お願い、読んでほしい。」
「フフ…貴方も本当は泣き虫だったのですねえ。私もずっとずっと泣いていましたから。」
「受け取ってくれる?」
「はい、勿論。」
 清らかな白い炎の(はだえ)を寄せ合い燃える雪の紅桜の唇をひたりと重ねる。涙で濡れた接吻(キス)は旭射す光の鉱石の中で。

追伸

「神々を、信じられるかい。」
「貴方を信じますから、他の方々も信じたいのです。」
 物語を失った神々が水の灯に指先を浸していく列を街を見おろす小高い丘に腰掛けて二人眺める。クオーツと虫好きの神が虫達と共に説明や指示をしているから、神々は混乱騒ぎになる事態も無く、静かに自分達の物語を読み、向き合っている。
「もう憎しみも、きっと……」
 トネリコは後ろに倒れて手足を伸ばした。
「そりゃ、こんな風景見てたらな。」
 彼も同じように地面に背中を預けて伸びをする。
「番人に、なっていけるのでしょうか。私達で。」
「本当の意味での共存体制が確立されようとしているんだから、どうにか進んで行けるだろう。」
 もうこれからは、人が思い上がる事も卑屈になり下がる事も起こらない、人の等身大の在り方で生きて行けたのであれば、
 もうこれからは、神々が(いたず)らに力を奮わず、人間を信ずる心を取り戻した今の心を忘れずにいたら、
 きっと空は、原初の青を忘れないでいるだろう。はじまりの空、澄んだ光、抱えきれない無限の青。

 トネリコ、今貴女達は、何處に居るのだろう?どうか、ただのトネリコになれていると良いな。

「トネリコ」

「トネリコ」

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-05-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. アルネブ
  2. 早見盤
  3. 紫の旗
  4. 報告後と君が来る前のこと
  5. 北天
  6. 天秤
  7. 夢、或いは霧の中で
  8. 冥王星
  9. 流星
  10. 真空
  11. 鉱石雀
  12. 星見台
  13. 満月
  14. 作戦
  15. ぼっちゃん
  16. 雪解け
  17. 円卓
  18. 春の水辺
  19. 赤い糸
  20. 赤子
  21. 白躑躅
  22. 二つのカンバス
  23. 美しい硝子
  24. 美しい硝子
  25. 白アザミ
  26. 初代と次代
  27. ティータイム
  28. 蜜月
  29. 孤児
  30. 手記
  31. 図書館
  32. 語り手
  33. 二重螺旋
  34. 盤面
  35. 故国
  36. 親愛なる
  37. 記憶
  38. みなもと
  39. 初めての
  40. 乙女
  41. 恋心
  42. 追伸