輪環 もののけ姫より

輪環 もののけ姫より

2025年~作品

一 黎明

 生きるために、殺した。

 東の空が白んでいる。サンは藁敷きの寝床から目を覚ました。この台座の石窟の上では、サンの母親がわりのモロの君が眠っているはずである。サンはそこでは眠らないように言われた。おまえの体は人間だから、この森の夜気を吸うと体によくないと。そのためモロが言った通りに幼い頃からこの石窟の中に入って眠ることにしている。石窟は崖の上にあり、巨大な石を箱型に組んだものだが、山犬であるモロたちが作ったものではない。いつからそこにあるのかサンは知らない。しかし意識が宿った頃からサンはそこで暮らしていたのだった。
 サンは石窟の隅にある水がめから口をつけて水を飲み、外に出た。水がめも昔からそこにあるもので古い。素焼きの土器だがいつからあるのか誰が置いたのか、サンにはそれがわからない。表面に模様が刻まれていて、一ツ目の蜘蛛のような形の人型に見える。モロの話では古い時代にそのような者がいたのだと言う。それはシシ神さまなのか?とモロに問うたが、おそらく違うだろうね。形が違う。と、彼女は答えた。その頃の土器を私はさまざまな土地で見てきたよ。このヤマトの地でね。とても古いものだと縄目模様がついていて、それはまるでタタリ神のようだ。いたのだね、昔からこの地にはさ。彼らはおそれてその文様の土器を作ったのだろう。そうすれば鎮まると思ったのだろうね。と、モロは言った。
 ある人々から聞いた伝承ては、と前置きしてモロは言った。その一ツ目の巨人は鉄の神だと言う。鉄を人間に与える代わりその神は片目を要求する。人間はその鉄で森を切り開き、タタリ神や古い神々を追い払った。そしてその一ツ目の神も去ったのだ。どこへ?とサンが尋ねると、モロは遠い目になり言った。おそらく北の大地だろうね。私ももともとそこから来たのだ。このヤマトではない土地だ。その頃には私も人間だった。しかしもうみんな忘れてしまった。
 そんなことはない。かあさんは、私に獲物の皮のなめし方も教えてくれたし、生きていく上の知恵をたくさん授けてくれた。かあさんは昔のことを忘れてなんかいない。かあさんがそう言うのは今では人間には敵だからだろう?そうだねサン。おまえにはたくさん教えた。その顔が白いから森の中では目立つだろうと言って、丹を塗るように言ったのも私だ。昔イヌイットの間では熊に見つからないように顔に印を施したものだ。〇だと婚姻、▽だと罰を与える印になると言った。おまえは▽を選んだね。かあさん、私は森を守って生きていく。誰のものにもならない。ずっとかあさんといっしょにいる。人間は嫌いだ。獣の方が正直だ。サン、シシ神さまだけでは、タタリ神はなくならないよ。でもそれでもいい。そのような問答が続いたあとで、今日もまたモロはサンに尋ねた。またエボシの荷を襲うのかい?私の子たちと。
 サンは答えずに、土面を毛皮の頭の上にかぶった。頭には鉄の金輪もはめている。いずれも昔に旅の行商人の荷の中からころがり出たものだ。土面は古代のものに擬して愉快に踊るお神楽の面であり、金輪は頭にぴったりだった。以前にモロはそれをつけたサンを見て、顔をしかめた。唐渡りの物語に孫悟空という猿の話があってね、お釈迦様が猿をこらしめる時に頭の金輪を締め付けるのだそうだ。その金輪は今におまえが成長すれば、頭蓋骨に食い込むだろうよ。身を飾りたいのかい、女の子だねぇ。サンは明るく答えた。この金輪にはまっている丸い石が綺麗だから、私を守ってくれそうな気がする。一ツ目の神さまの目ン玉だ。
 今サンはその金輪をはめ、手には石槍を持ちまなじりを決して山犬らに言った。エボシらは鉄を作り森をどんどん焼いている。そんなやつらに神が味方などするものか。シシ神さまがわれらを守っている。一ツ目の神様も守ってくれている。行こう!やつらを今度こそ追い払ってやる。
 サンは自らに言い聞かせるように鋭くそう叫ぶと、モロの子供の成人した山犬二頭を従え、犬の背にまたがり山を駆け下りて行った。その髪には白い毛皮の菰がかけられ、サンの背中で勢いよく翻った。モロは嘆息し、身を起こした。サンの跡を追わねばならない。あれは人間の娘であるから、エボシの手下どもに捕まる可能性もあるのだ。彼らからどんな仕打ちを受けるかわからない。モロは低くうなり声をあげながら。人の声でつぶやいた。それは獰猛そうな山犬、巨大な狼の口から漏れ出る﨟󠄀(ろう)たけた女人の不思議な声であった。
「やれやれ……お転婆娘ときたら。しかしひと月前にエボシから火筒の弾を受けたイノシシが気がかりだ。なぜこの森から姿を消した?何もなければよいが。」

 サンらのいる森から遥か東方の北の集落に、不吉なうごめく影が忍び寄ってきていた。「それ」は移動するにつれ、周囲の森林を焼き腐らせていった。「それ」が移動した後には、黒い蛭のような糸状の物体がくねくねとうごめき点々と落ちていた。明らかに移動するものから物体は落ちており、「それ」はその糸状の物体の大きな塊であるらしかった。
 今その集落の山道を三人の少女が駆けてきていた。山に何か異変が起きていると、彼らの司祭であり族長である老婆のヒイさまから知らせるようにと言付かった少女たちであった。集落は歴史から見捨てられた民の蝦夷の村であった。数百年の昔に西国の都から追われた人々が、ひっそりと暮らす山村であり、彼らはまだ古い時代の習俗に生きていた。
 少女たちに異変を告げられたアシタカという青年は、アカシシのヤックルと呼ばれる動物にまたがり、早駆けで駆けてヤックルから飛び降り。城おじの老人が見張る物見台のやぐらに一気によじ登った。老人が指さした先の山裾に、異変の前兆があった。
 その瞬間アシタカの目には黒い塊がいきなり破裂したように見えた。縄の塊のような物体が高速で伸びてきて、やぐらに向かって突進してきた。ヤックルを狙っている。アシタカはヤックル!と一声叫ぶと、手にした弓でヤックルのそばの柱を射抜いた。ヤックルは触手におびえて、立ちすくんで動けなかったのだ。ヤックルはアシタカの放った矢で気を取り直してぱっと逃げた。弓を装着していてよかった、と思う間もなくやぐらは伸びてきた縄目の触手に捕らえられてみしみしと音を立てて崩れた。
 このような縄目のものをヒイさまの祭祀で使う土器で見たと思った。昔話には聞いていた。城おじがタタリ神じゃ!と叫んだ。
 縄目の塊は六本の脚で素早く移動し、丘の上から次の獲物を狙い定める仕草をした。
「村を襲う気だ!」
 アシタカは森の茂みから這い上がり、その化け物に向かって走り出した。後ろで城おじが叫んだ。
「タタリ神には手を出すな!呪いををもらうぞ!」
 アシタカはかまわず弓のしなりをもう一度たわめて確かめると、ヤックルを呼び乗り込み化け物の進路に先立ち駆け出した。タタリ神は森の中を猛進して追撃してきた。蛭のような触手が移動につれてアシタカに迫ってきた。
「いずこの神かは存じませぬが、さぞかし名のある神とお見受けいたす。なぜそのように荒ぶるのか。鎮まれ鎮まりたまえ!」
 アシタカは声を張り上げながら、タタリ神を村から離れた場所に誘導するべくヤックルを導いた。やがて森は切れて野原に出た。しかしそこは先ほどの少女たちが逃げている最中だった。少女の中の一人、アシタカの妹のカヤは化け物を見るなり腰の剣を引き抜いた。彼女としては他の少女たちを守り、兄アシタカを加勢したつもりだった。
 アシタカは前方に現れた剣先に妹の身が危ないと思い、肩に背負った弓を素早く構えた。ヤックルをあやつりながら背後に振り向き矢をつがえると、タタリ神は触手を伸ばしてきた。それはアシタカの矢をつがえる右腕にからみついてきた。それらは一瞬の出来事であり、アシタカは鋲とタタリ神の赤い目に矢を放った。
 キキィーとタタリ神は悲鳴をあげ大地に転げた。しかしアシタカの腕には縄目の蛭が何匹もからみついたままだ。それらはアシタカの腕を焼き、とてつもない痛みをもたらした。肉が焼ける匂いがした。アシタカは痛みに耐えながらもう一矢矢を放った。化け物の本体から蛭がもげ落ちだした。
「アシタカが倒した!」
「兄さま!」
 村人たちやカヤらがアシタカにばらばらと駆け寄った。蛭は地に落ちて溶け去り、後には巨大なイノシシが倒れ伏していた。アシタカの負傷した腕に、カヤは素早く熱さましの野草をかぶせた。アシタカは呻きながら言った。
「カヤ、触れるな。ただの傷ではない。」
 そこへ老婆の村の司祭であるヒイさまが、大きなひょうたんを運ばせて現れた。不思議な浄水が入ったひょうたんである。それはヒイさまが首飾りにかけている青い石を、山の清らかな水で漬けてしみ出した成分が入った水である。
「カヤ、この水を傷にかけておやり。」
 カヤはヒイさまの言う通りにひょうたんの口を開けて、アシタカの傷に水をかけた。熱を持った傷から水蒸気が立ち上り、アシタカの痛みはやわらいだ。しかし腕には何条ものやけどの条痕が黒く残っている。ヒイさまはしかし落ち着いて、イノシシの死骸に向き直って祝詞をあげた。
「いずこから現れし荒ぶる神かは存じませぬが、かしこみかしこみ申す。この地に塚を築き、そなたの御霊が鎮まるようにお祈りいたします。何卒恨みを忘れ、鎮まりたまえ。」
 ヒイさまが袖を合わせて一礼をすると、イノシシの口が動いて何ごとかをつぶやいた。
「汚らわしき人間ども、我が恨みと憎しみを思い知るがいい……。」
 その言葉が消えると同時に、イノシシは水蒸気をあげ肉と骨に変わっていった。
「ヒイさま、これは……」
 と、村人が言うのに、ヒイさまは答えた。
「さて、西の方で何か毒を受けたのやもしれぬな。」と。

 それから一日ほどたった。夜である。集落の中の高御座の館で、ヒイさまを囲んで城おじらが集まり談判していた。負傷してタタリを受けたアシタカの身柄をどうするかの相談である。タタリ者が出た場合、村から出て行ってもらうのが習わしである。しかしアシタカは将来有望な若者であり、妹のカヤとともに村を治める若者の中心になってくれるかという人物であった。カヤは特にヒイさまの祭祀を手伝う少女であった。アシタカを失うことは村の未来を担う両輪が欠けることである。城おじらは嘆息し、五百年の昔に西国の都から追われたわれらにこのような仕打ちとはと嘆いた。ヒイさまはそれらの城おじの気持ちを知ってか知らずか、冷静に卦を占っていた。高御座には背後に巨石が祭られている。それはヒイさまが祭祀に使う青い石の原石の塊でもあった。
「さて困ったことになった。あのシシは西の国からやって来た。深手の傷の毒に気がふれ身体が腐り、走り走るうちに呪いを集めタタリ神になってしまったのだ。アシタカヒコや、皆に右腕の傷を見せなさい。」
 ヒイさまが卦の石を▽の図面に投げながら言った。その祭祀の方法は座るアシタカにはわからない。アシタカは無言で腕の包帯を解き傷を見せた。一同から失意のため息が漏れた。傷は痣となって残り、黒と青みがかった条痕であった。ヒイさまは言った。
「アシタカヒコや、そなたに自分の運命を見据える覚悟はあるかい?」
「はい。タタリ神に矢を射る時に心に決めました。」
「うむ……、その傷はやがて骨まで届いてそなたを殺すであろう。」
 城おじらはたまりかねて叫んだ。
「ヒイさまなんとかなりませぬか。アシタカは村を救い、乙女らを守ったのです。ただ死を待つのみと言うのは……。」
 ヒイさまは答えた。
「誰にもさだめは変えられない。しかし待つのみか自ら赴くかは決められる。」
 そこでヒイさまはふところから鉛玉の塊を取り出した。ごとりと音をたてて床に置いて言った。
「これはかのシシの体からわれが取り出したものだ。これが骨を砕き体に食い込みむごい苦しみを与えたのだ。さもなくばシシがタタリ神になどなろうか……。西国で何か不吉なことが起きている。その地に赴き、曇りのないまなこで見定めるのならば、あるいはその呪いを解く方法が見つかるやもしれぬ――。」
 アシタカはうなずいて答えた。西に行くことを定められたと思った。
「はい。」
 城おじらの中の長老の者が、アシタカへの手向けのようにつぶやいた。
「その昔大和との戦さに破れて、この地に移り住み五百有余年。今や大和の王家も力が衰え将軍家も代替わりていると聞く。しかし我が一族も衰退し、今一族の(おさ)となるべき若者が旅立つのも、時の趨勢かもしれぬ……。」
 アシタカはその言葉が終わると、髷に刀を入れ髪を切り取った。髪おろしと遺髪のしきたりである。切った髪は巨石の御神体の前に供えて一礼し、ヒイさまに向きなおりまた礼をした。
 ヒイさまは言った。
「掟に従い見送らぬ。健やかであれ。」
 アシタカは立って高御座をあとにした。
 旅の蓑装束に身支度を整え、馬舎からヤックルをアシタカは連れ出した。数日分の(ほしい)と竹筒の水、そして道中に使う(きん)の袋を持った。それらは許されたものであった。しかしそれは死出の旅であった。夜の村道の門まで来ると、彼方から小走りに駆けてくる人影があった。
「兄さま、これを。」
 妹のカヤであった。アシタカは頭巾をはずして答えた。
「カヤ、見送りは禁じられている。早く戻りなさい。」
「おしおきは受けます。この玉の小刀をどうかお供させてください。私と思って。」
 カヤは必死で腕を伸ばして兄に小刀を差し出していた。兄が放追される理由は自分にあったと彼女は思っていた。ヒイさまの祭祀を手伝っているうちに、城おじらの話を耳にした。それによると、兄のような男の長とヒイさまの女性の司祭は並び立たない、いずれかをいずれは選ばねばならないという話が出ていた。今兄がタタリを受けて掟どおりに追放される、そして自分はヒイさまの司祭の跡継ぎとされている。兄弟の自分だけが守られていいはずがない、そう彼女は思い詰めていた。それでヒイさまが祭祀で使う青い石で作られた玉の小刀を、ヒイさまには無断で彼女は持ち出したのであった。
 アシタカも一目見るなりそれは祭祀に重要な品物だとわかったが、カヤの気持ちを傷つけたくないのと、やはりヒイさまの思惑で西に行かねばならないことになった恨みもあり、その刀を彼は受け取った。時間がないせいもあった。カヤは涙ながらに言った。
「お守りするように何度も何度も大切に息を吹き込めました。いつもカヤは兄さまのことを思っています。きっと、きっと……。」
 無事に帰ってきてください、という言葉は喉にかすれて言葉にはならなかった。アシタカは妹を安心させるように笑顔で言った。
「わかった。私もいつもカヤのことを思おう。」
 そう言うとアシタカはヤックルの胴を蹴って駆けだした。カヤは数歩あとを追ったが、すぐにアシタカの姿は道の向こうに見えなくなった。

 
 
 
 
 
 

 

二 途上

 蝦夷の村からの道中はしばらくは平穏であった。
 途中険しい山裾やガレ谷を抜けて、大きな川をいくつか渡った。ヤックルには麦を与え、アシタカは糒を食べた。人に会うことはしばらくはなかった。そのような山岳地帯を選んで進んだ。それはあのタタリ神の痕跡が残っているかと思ったからだ。タタリ神になったイノシシは獣であり、人を憎んでいたから、そのような道を通ったのではないかと思った。しかし痕跡は見つけられなかった。従って右腕の痣の謎を解くこともできなかった。
 考えを変えた方がよさそうだと思い、西の都のあたりからさらに行ったと思われる地域で、彼は人里に降りてみることにした。その頃には右腕の痣の色は濃くなっていた。その焦りもあったのだった。降りた先の人里のある谷底の村では、野盗じみた地侍たちが小競り合いを繰り返していた。皆アシタカの村のひなびた風俗ではなく、室町の鎧姿の武者であった。
 と、その畑のあぜ道でひとりの百姓女が侍たちに取り囲まれ、狼藉されようとしていた。足をばたつかせているのを見て、アシタカは背中の弓を取り、射かけようとした。ヤックルに乗りつつ構えたところ、右腕が大きく膨れて激しく震え出した。なんだこれは、と思った瞬間、アシタカの意思に反して矢はものすごい勢いで弓から放たれた。彼は威嚇するぐらいのつもりだったのだ。ちょうど物見やぐらでヤックルのそばを射た時ぐらいの気持ちだった。
 矢は地侍のひとりの腕に命中した。いや、腕を矢の勢いで真っ二つに寸断した。腕をなくした男は目をぱちくりしていたが、両腕がなくなったことに気が付き大声で悲鳴をあげた。隣にいた男らも腰をぬかした。
「てっ、てめぇはなんだ?」
 畑の向こうで馬で駆けていた侍が、素早く弓でアシタカに応戦しようとした。しかしそれもアシタカは矢で射抜いた。男の首がやはり矢の勢いで、空中に高く跳ね飛ばされた。
「貴様、鬼か!」
 目を剥いた鎧武者らが襲ってくる中を、アシタカは一目散にヤックルで逃亡した。逃げている間中右腕を押さえていた。彼には後悔の念しかなかった。
 野営するための泉を見つけ、右腕の包帯を解いて観察した。右腕の痣はさらに色が濃くなっていた。このままタタリ神のようになるのかとアシタカは思った。泉の水で痣を清めた。他に今はなすすべはなかった。彼は身の危険を感じながらも、それでも人里で情報を集めねばと考えた。それで人が集まる市場に行ってみることにした。
 

輪環 もののけ姫より

輪環 もののけ姫より

ジブリ映画もののけ姫の翻案小説です。ノベライズ作品ですが、伝奇SF的要素も入っています。老眼で最後まで書ける自信がないのですが、がんばりたいと思います。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-04-26

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work
  1. 一 黎明
  2. 二 途上