「守りて」
序詩
眠る夜に月の幻燈を仄かに焚く
睡眠薬のまどろみが未だ微笑んでいる内に
銀白色の鍵を掛けて錠を下ろせば綿毛の散る音
懐かしい雨音に被さって霙はいつしか霧へと離れている
駈け出して
雨の中佇んでいればきっと来てくださる
品の良い蛇目傘で困ったように笑う人
振り返って 泣きながら そうした方が楽だけど
旭の極光は必ずやって来る 雨などお構いなしに
待ち続ける時ではないと自分の手首を大きな手で握り込んで
駈け出されていく
もう遠い靄の都 キャンディの街 ホッピンシャワー
遠く離れて遠く引かれてもう影に灰色に滲んでいく
幻燈の移し身カンテラに
月を思って火を灯す
いつまで忘れられないでいられるだろう
いつまで覚えていられるだろう
夜の森枝葉のトンネルを手が引くまま目を閉じて
走りきる後
其処は人気配の一本も枯れた古城
青い滝は枯れずに領内を巡っている
湖に浮ぶ切り絵のお城
カンテラの火は緩まない
影と待つ白いお城
湖に浮ぶ孤独の城
コツ・コツ・と固い靴音 響音に身を強張らせる
いらっしゃいませお客様お一人でのご来店ですか?
一人な訳が無い此処には手を曳かれて来たんだと振り向いても一人だけ
雨音が直き其処迄聞こえて来ているのは
切り絵の城に飛び込んだ 飛んで入っても見慣れぬ恐怖
どうぞ此方へと靴音の反響音が案内する
さあ、順番にお召し上がり下さいませ
誕生石
青緑の石がころころと視界を過ってゆく
足を忘れて置いて来た亡霊達
そんなにいそがなくても君達の家は失くならない
帰る場所があるのならば あるのだから
夏の向日葵が霜を表層に浮べていた
蟬の黒曜石の眼球が凍り始めていた
動けもしない寂しさは
仏壇の前でナイフになって鈴を震わす
死者の姿を生きる者に被せるのは
赤い宝石一つあれば出来るもの
貴女の弟の骨よと言って
首飾りを持たすれば済むだけのこと
父と母は今日も念願の第一子に語り掛ける
貴女の弟の骨よと言って
でも首飾りを付けていたって不思議は無いと
女のような顔立ちの息子に笑い掛ける
文
「望み通りに生きられんのなら死ね、親不孝者。」
机で詩を描いているのがばれた直後、父親は子供を撲り倒した。母は父のもとへ駈け寄り、愛する男の肩を持つ。
「詩なんて何の役に立とう、小説家になる訳でも無しに。」
夫婦は子供に唾を吐き吐き寄り添い合って部屋を出た。
世の中が忙しくなって来た時代のことである。女が男以上に働いて、男が女よりも働けなくなっているのが常となって幾百年過ぎたのだろう、時勢はは移ろわず教会の鐘は何かの部品の一部へ溶かされ寺には無縁仏が群を成し神社には落葉が吐き溜まっている。人はこういう時に空想を望み物語を求め出す。その空想語りが長ければ長いほど土から離れていればいるほど飢えは満たされ渇きは潤い笑顔の持続は長く保ち、首はポキリと中折れせずに済むものを、詩などを描くなど言語道断、子供が殴られたのもその為で。
理由如何にせよ人が人を傷付けて良い道理は無い、増して親が子を虐待するなど以ての外。嗚呼諸君、君達の時代は幸いだ。例え口先だけでも庇護の言葉が生まれるのであれば幸せだ。
先程叱られていたのは白羽と言う妙齢の娘である。白羽は一人弟が居るのだが、彼は産声をあげることもせず肉塊のまゝ手足も生やさずに旅立ってしまった。男子を流産した現実は両親の瞳をくもらせていつしか娘を息子として生きさせるようになっていたので、白羽は年頃のお嬢さんが好む服を一度も着た事が無い。リボンも、帽子も、三ツ編も、何も許された例が無い。
予備兵の格好で街を歩けば、人は彼女を端正な海軍予備兵と錯覚する。喋ってしまえば女だと判明てしまうから口は家でも外でも閉ざしたまゝ、ニコリともお微笑いなさらないところが反って頼もしいではないかと近所では評判で、両親からも自慢の息子だと褒められる。白羽は段々話し言葉を忘れていった。
或日のことである。白羽は街の本屋に用があったので訪れた。両親に頼まれた雑誌を二冊、和歌俳句の本と裁縫の最新刊をそれぞれ買いに来たのであった。無言のまゝ店主に会釈しては雑誌を手に取り会計を済まそうとしたら、視界にちらと赤い本が見えた。
三五〇頁はあろうかな、赤い拍子に金の題字、いかにも派手そうな色味の合わせ方であるのに葉巻のくゆりと洋酒の孤独、そして燃え止しの捨てられた燐寸を思い浮ばせるのは何故。
「おや、軍人様。」
店主の声。
「それは詩集ですよ。この作家は、否作家と申して同じ部類にするのは烏滸がましいですな。この詩集の主はね、詩人と宣う奴ですよ。新聞小説でも書くなら御立派と讃えられもしましょうが、詩人なんざポツポツと一言二言書き散らして喚くだけにございましょう、和歌や俳句のような風流も雅も持ち合わせぬ未熟な八ツ当りの作法です。軍人様のお目に入れてしまい大変申し訳も御座居ませぬ、これはもう処分しようとしていた屑同然の物でして、つい、手前の用事を言い訳に店棚の脇へ置きっ放しになり申して…ハハ、誠にお恥かしい次第です。」
聞かぬことをべらべらと。屑と見なして捨てる腹積りの本ならば自分が貰っても良かろうと、普段頼まれた動作以外は一つもせぬ白羽は店主が会計と包装をしている間大胆にも赤い表紙の詩集を手に取り身の丈よりも大きな袂でそっと隠した。今になっても騒ぎにならないのを見れば、連れて帰って良かったのであろう。
両親にお使いを手渡し自室への階段を上がる途中で我慢ならず一目から伏せていた詩集を開き読み始める。
それは、此の国に無い宗教を土台とした話。物語は単調に適応してしまうことも無く一語一語媚薬の薫りを含む白いヴェールで顔を覆い、ほのかに透ける蒼白の唇から言葉を紡ぐ。寿ぎを否定する冷めた頬、氷柱を煙管にして呑む毒草、七星 背負う小さな虫のやがて蛾に到る湖面下だけの突然変異、その漣。驚いて向けたは青い撫子の朽ちる音、その死体からむくむくと桂の伸びて月を薔薇の形に囲うこと、鳥籠は旭にとろけて陽のしづく、雨は鏡の羽を生やして飛ぶ姿。
生れて初めて己に向けられた遠くの誰かの関心が、こんなに嬉しいものだとは。此の方は、自分に手紙を書いてくれたのでしょうか。まるで、まだ見ぬ会えぬ恋人を想って言葉を綴ってくれたよう。これが、詩。自分の読んではいけないとされて来た類の本、知らない言葉、小説には表しきれない心情の独白、音の許されない歌。
詩集を胸に抱きしめて、そっと作者の名前を見つめて静かに静かに声に出す。
「星北川面。星北さま、川面さま。」
反骨無頼
家の傍を流れる緩やかな小川に、首根っこを引ン掴まれたまゝ顔面を突込まれた。親父とお袋の顔はそれ以来見ていない。くそくらえ。そんな感情の癒えぬまゝ家を出て、群衆に紛れて都会へ流れる。敗戦国の人だかりは数歩歩けば直ぐに見つかる、薄汚れた格好を咎める者はいやしない。
何度戦争に負けたのだ。国々同士の調停役を買って出て圧倒的な兵力・兵器差と士気の高さの前に幾億の肉塊が産まれたろう。熱狂する若者、老爺、涙を流す婆、世間体を気にする婦人。戦争を止める為に戦争をするのだと大義名分を用意しておくと動搖は抑えられ平静を保てる、事前の準備が大切と言うのはそういうことだ。
諦めずに立ち上がり、国は随分とゲッソリ痩せたようで、都会の熱狂の大通りの裏手には冷めた煙草の毒が霧のように待機している細い路地。健気な台詞は人の心も国の体形をも駄目にするとは、これ如何に。
北へ北へと流れゆく。食べる物は道端の死体から奪えば済む。懐に入れた万年筆をしわくちゃの原稿用紙の無事を確かめると徐に取り出し暫く佇んでみるが、今はやはり何も思い浮かばない。が、
「あゝ。」
丁度良い。生まれ持った名を捨てて、好きに名乗ってしまえば良い、所詮家を失くした身、誰に何と言われようが貴方達に迷惑は掛けることも無いのですから。
此れより内へは来るは易し、踏み入れ易い足置き場
帰りのお靴お草履は御座居ませんのでさようなら
別れを済ましてお入りなさい
貴方が覗くは硝子の秘国
逆しまなテエブル・クロスにティーセット
紙ナフキンは船になり申す
指を弾いていただきましょう
煙草を刻んで振り掛けたロオスト・ビイフ!
銀食器持て金の盃満たしてしまえ
大いに食え食え!鏡の正面
質素に暮らす敗残國
あゝくだらないファンタジア、リアリズム
夢見がちな女も真面目な男もお断り、逆でもダメダメ入れたげない
よくある話は嫌いなの
ねえいつ手を取ってくださるの貴方様
星北川面
「あゝ良い、やっぱり詩は楽しいな。」
国が御法度とする詩の創作だって、都会の溝でなら朗々と唱えられる。
「そうだ、いつか詩集を出してやる。そしてもう一度詩の地位を押し上げるんだ。」
軍の制服に反して青と銀ではなく赤と金文字、人を直接には殺めぬ爆弾よ。読めば本に夢中になって、読まないでは正常でいられぬほどに詩に飢える呪い。そして自らも詩を作り始めるのだ、かつて国を困窮させた感染症の最新型は言葉生れよ。
「さあ、どうか上手く爆発しろよ俺の武器。」
数年後出版した本は、数年後店から盗まれ、否、此の場合に限ってのみ、救われた。
修行
先づは、ノオトブックに硝子ペンとインキを用意して書き写してみよう。川面さまの詩を一言一句感じ触れるには此の方法がきっと一番良い。真似は一番最初の学ぶ姿勢、意味や理解は後から自ずと付いて来るもの。
「背丈の高い…樹々のあわい…春が雪に遠慮して……」
一階で親が寝静まった後、二階の一室に秘かな娘の声が澄む。幾年振りに喉から音を出したろう、しゃがれた錆声だと思って久しかった自分の声は、失う前の其とほぼ変わりが無かった。
「此方を見つむる寂しい瞳、其の眦、なれど微笑むその唇は、」
さら さら さら さら
「一言も語らぬ、偶像なるか、或いはまた涙を捨てた身か……」
さら さら さら さら
一人で自分の為だけに活動する、秘めていなければならないような、けれど他人に見せたいような、もどかしい時間を筆記の音が軽やかに区切っていく。このような音も感覚も白羽にとっては初めてのことである。楽しい、と呼ぶのだろうか、けれどもヘラヘラしている訳ではない、真剣に、一言一句間違えず書き写す、一文字でも変えてしまっては意味を成せなくなってしまう細い綾糸の連なり。
「これは本当に恋文のよう。川面さまにも恋焦がれたお相手がいらっしゃったのかしら。」
若しそうだとすれば、どんな方?お優しい方、つれない方、蠱惑な方、嘘つきな方、あなたが身も世も忘れて一方的に思い慕いたいのはどのようなお人でしょうか。
「私が川面さまのお立場だったなら……」
このような想像から物語は生まれる。誕生の契機は喜劇悲劇こもごもであるが、白羽の場合は恋から始まった。一目も見たことの無い詩人を思って祈って写した作品の横、それも隅っこにどきどきしながらぽつぽつと言葉を考え、選び、置いていく。
「烏滸がましいかもしれないけれど、いつかあなたのお顔を拝見したい。そしたらまた言葉は綴られるかしら。」
此の日から毎晩、両親には勉強をしていると信じ込ませる為に集めた和歌の雑誌を数種類重ねた机の下で、隠れて詩を読み詩を描く時間が出来た。最初のうちは窓硝子を掠む風の歔欷にも肩をびくりと震わし咄嗟に雑誌で覆うのが常であったがやがて大胆になって来て一階で親が未だ寝ない先から部屋に籠るようになっていった。しかし父も母も息子が和歌の勉強に励んでいるのだと信じ咎めも諫めもしなかったので、白羽は思い込みを味方に付けることが出来たのである。更に都合が良かったのは、詩に触れることで彼女は或程度和歌を作ることも出来たことであった。その為父も母も子を疑う必要も無く。“和歌の勉強を熱心にする予備兵の孝行息子”と捉え続けていられたのだった。
きっと此頃が白羽にとって最も純粋な幸せを感じられた時期であろう。再び国が戦争を始める迄が。
再び世間は忙しくなり始めた。父と母は何時息子が徴兵されるか気を揉んでいたが、戦争への招待状が白羽に届く訳ではないのである、何せ白羽は軍に入隊出来る男子ではないのだから。しかし両親は気にしている、白羽はこの時分かなり肚が据わって来ていたので、或日一階で父と母を手招くと、
「お二人とも、私が軍に呼ばれることは先ずありますまい。我が国の軍隊は何度壊滅しても歩みを止めぬ不屈の軍隊、私のようなこのように声も細い男が駆り立てられることなどありませんよ。むしろ自分みたいな軟弱者が戦場に立てば士気を下げてしまいましょう。ですのでどうか、私の為に心を傷めてくださいますな。」
喉の細さは変えられねども声色を低く下げて演技をすることを新しく覚えた乙女は見事に親を欺いた。父も母も息子の立派な発言に涙を流し何度も何度も頷くのを見て白羽は内心微笑んだのだが、自室へ戻る階段を一つ一つ登っていると、だんだん笑みは薄れてゆき部屋に戻って扉を閉めた頃にはもう項垂れていた。
このような日が幾度も幾度も続いた。その渦中でも白羽はペンを投げ捨てることは一度もしなかったが、初めて詩を描いたあの日の喜びと淡い心は黒く暗い水底の雨にぐっしょりと濡れ始めていたのに、彼女はまだ気が付いていない。
来訪侵入
自分は望まれて両親のもとへ生まれたのだと、まだ娘として扱われていた時に教えてもらった。子供は親を選び自らの意志で生まれて来るの、だから子供は誰しも親を慕い、親は子を慈しむものである、その関係性から親は子に道を示し子は親の期待に応えようとする構図が誕生する、この構図を人の道と言い、道理と言います、人は道理に従って生きる命です。貴女も人に生まれたのであれば道理を弁えておくようにしなければなりませんよ。
母上、母上は私に望みましたか。貴女の望むように生きることを望みましたか。父上、貴方は私にどのように在ってほしかったのですか。私、私は何を望み何を欲していたのですか、何を願って二人のもとに向かったのでしょう。
月を仰ぐ。月は古来より悲しみと慈しみにあふれる存在とされて来た。太陽が居なければ輝けない宝石、磨かれなければ光ることの叶わぬ原石。きっと月が生れた時に悲哀の概念も生れたのではないかしら。
「新月。新月したる。」
涙と共に言葉が零れ、またペンを持ち紙に音さす。
月は原初の涙を知る
それは湖であった、鏡のような悲しい湖
星は湖のか細い声の糸に連なり空へと刺繍られていく
月は自らの姿を見つめている
背後には極光が搖らめいて
月の姿を明るいものへと押し上げようと微笑んでいた
向けていた背中を返し、正面からヴェールを見つめた後、
月は背中から湖へと落ちて行った
遠くの歓喜に微笑うよりも
菫の泣き声に沈んで溺れたがったのである
湖は枯れず今も花を咲かせる水辺
その散る破片を身に抱きしめて透明な血が流れている
天上から零れた傷ましくも美しい硝子の水よ
「月を水に見立てるのは如何言う了簡だ?」
声が明らかに自分に話し掛けた。部屋には白羽一人きり、もう親は一階で寝ている。使用人の類はもうとっくに解雇して、広い日本家屋の中に起きているのは娘一人の筈なのだが。
「おばけ?」
侵入者とも泥棒とも疑わず真先におばけと信じ怖がる女の子の無邪気さと素直さよ、親に娘として思われなくなってしまい己を殺して過ごす荷を背負ったにしては少々呑気だと言わざるを得ないが、発想の転換、仮面を被り心を氷に閉ざした日々の中でも生来の純真さと素朴さを失わなかったのだと考えれば良い、そうすれば彼女の、彼女自身も知らない頑なさもとい芯の強さがおのずと想像さるることであろうと思う。
さて、娘の性格が新たに一つ判明したは良い、良いが此の物語には生憎怪異の類は身を潜めているので、声の主をきちんと把握しておかなくてはならぬ。
「おばけじゃない、不法侵入者さ。」
きょろきょろと部屋を見回していた白羽の背後に音も無く立ち、小さなナイフを細腰にひたり押し付けて脅迫する者は誰。
「不法侵入。」
鸚鵡返しのあんまりな素直さに凶器を持つ方がはあと不安気に眉を顰め息を吐く。見た目ではもっと騒いだりするかと思っていたが中身はどうだ、微塵もナイフに怯えていない、どころかおばけではないのが残念だと少しはしょげているかもしれない声の色。
「要は泥棒だよ。これから都の北に向おうと思ったんだが金が無くてね。まあ、家を流れて飛び出して来たんだから元々一文無しみたいなものではあるが、こんなになっても人間は流石だ、腹が減る。なので手始めに何か食事がしたい、金はその後から取らせてもらうことにする。お嬢さん、何でも良い、生米でも構わない、一つ食べさせてくれはしないか。」
顔を見られたくないのか、恐らく男だろうと思われる声の主は白羽の背後から立ち位置をずらす心算は無さそうだ。背中にまだナイフを突き付けられた姿勢のまま、侵入犯は白羽の腕を掴み家の中を案内させようとしたが、ふと机の上の詩に目線を移した。
(やはり此処で間違い無い。)
「なあお嬢さん、お名前は?」
「白羽。」
「うむ、白い羽、か。白羽君、君は俺のことが怖くないのかな?君頃の年齢なら直ぐにでも甲高い悲鳴を上げそうなものなのにさあ、白羽君は未だ助けも望まないよね。それともアレか、怖い時程声が出なくなっちゃうタイプかな。可哀想に俺なんかに目ェ付けられちゃってね、でもまあ諦めてね、君のような箱入りお嬢さんはどう見たって喰われる方のお人だもの。」
撫肩にそッと手を掛けて、耳元に少し近付き小さな声で囁くように問い詰める、おっといかん、今泣き崩れさせたら事だろう、慣れない仕事は段取りが悪くなってついつい普段の減らず口が疑問と一緒に噴き出した。どうしよう、どうしようもないさっさと窓から木を伝って逃げようか……
「何故漢字が分かったの。」
此処に侵入までして法を破り来た本来の目的を置いて一度逃亡を図った不審者は、白羽の上ずっていない声に動きを止めた。
「何?」
「私、自分の名前がどんな漢字を書くかまで言っていないのに、如何して白いに羽だと分かったの。」
二人の声はひそひそと、内緒の逢瀬でもあるかの如くに秘やかなものだった。
しらは、人の名前、しかも娘、であれば真先に思いつくのは白羽の矢、天使の羽色。白い歯なんて一人娘に付けるものかよ、それに、今時当て字は厳しく取り締まられる対象であるから奇妙な漢字を使っちゃいまい。たったこれだけのことを、困ったことにまだ顔もハッキリと見ていない相手は嬉しそうに聞きたがっている。
「…理由を教えてあげるから、一先ず食べ物持って来てくれるかい。」
レモンとビイフ
「これってもしかして、ローストビイフ?」
「はい。今日の夕食の余りです。母が夜食用にと置いていてくれたのがあったので、それをお持ちしました。」
「へえ………」
「あの…お嫌いでしたか?」
嫌いも何も食べた経験が無いし、食べる為の高額な金が家には無かった。憧れを抱いていた訳ではないが、市井に暮らす者達が容易に食べることの出来ない料理を目の前にして喉がむずがゆくなるのは止められない。
「本当に食べても良いのか。」
「是非どうぞ。その方が自分にも都合が良いので。」
最後まで聞き終わらず薄肉にむしゃぶりついた。長いこと食事らしい食事を摂っていない前に現れたのが高級料理。今此時白羽が警察を大声で呼んだとしても彼は止めないであろう、このような御馳走を食べて刑務所へ走られるのならば良い気分だ。それはそれとして白羽君。
「君、俺が怖くないの。仮にも本物のナイフを突き立てようとしていた男だよ。」
「不思議なことを仰有りますね。不審者に対して男子がどうこう喚く筈は無いでしょう。」
嗚呼、予想はしていたが貴女も大概か。まあ予想はしていた、していたし、恐らく今の世では珍しくもないのかもしれない。でもそんな性分だからこそ気の付くものとはあるので。
「それもそうか。あゝ、御馳走様。やはり食事はたまにきちんと摂るのが好いな、頭が刺激を受けてよく冴える。冴えたところでもう一つの用件を御所望しようか。」
「お金、ですよね。」
「否違う。君、詩集持っていないか?」
白羽の眼が一度泳ぐと素早く半身を後ろへくねらせて戸の向うを気に掛ける素振を白地。搖らいだ、と直覚する。ぐッと声を潜めて男は畳み掛けた。
「若しかして禁句だったか?君一人だけの内緒だった?」
扉の向こうは静かである。両親は良い夢を見ているのかもしれない。娘は薄絹さえ重そうな両肩を自らの腕で確かと抱くが呼吸は一向に深く戻らず外は凪であるのに細かにカタカタ震えている。
「怯えなくて良い。俺は君から詩集を取り上げる為に親御さんに頼まれた訳じゃあない。あのね、君の持っている本、赤い表紙に金の題字を刻んだやつだよ、嗚呼好かった震えが止まったみたいだね。そんなに大切に想われているのなら作者冥利に尽きるや、実に有難い。」
え、では貴方が星北川面さま?
言葉は二人の間に黄色く射す半月の光に吸い込まれ、白羽はそれまで俯向けていた顔をパッと上げて初めて不法侵入者の顔を正面に見たのである。爽やかな高鳴りと苦い締めつけが胸に同時に湧き上がり喉をくすぐって鼻腔に到る、瞬間身体は涙を零す、涙は机に置かれた白色灯の水面を返し湖水に滴る光の雫となってきら、きらと乙女の膝元に一片二片降りそそぐ。少女は泣いた、娘は泣いた、乙女は初めて人前で泣いたのだった。
才たる罰
暴力的でない反応など如何せん初めてなので最初川面は驚きに涼しい眦を見張ったが、女性の涙には幾らか慣れているので袂から手巾を出して差し出そうと次には冷静に思い付き手慣れた動作で袂を探ると取り出した手巾は薄汚れていた。面目を捨てた身では何をしても締まりが無く恰好がつかないらしい。頭をポリリと掻いて何か拭える清潔な物を月明りに探せばティッシュケースにちょこんと収まったティッシュが一箱。それを手にして白羽の傍にそうっと添える、此処までしおらしい川面は初めてである。
暫くの間言葉は黙って待っていた。今はそれぞれの主人が泣き止むのを急いだり泣き止むのを気長に待ったりといそいそどきどき忙しそうだから、部屋には時計の秒を刻む音だけが鳴っている、任された時計は二人をじっと見守って。秒針が幾度も幾度も地球を回ったところでようやく男の方が声を出した。
「此の辺りを歩いて、と言うか彷徨っていると、俺の昔描いた詩を読む声が聞えたんだ、他の人には音無にしか捉えられないだろうけれど、俺にはよく聞えたよ。此の耳に感謝したのは今が初めてだ。それで当分君の家の前で突っ立ってたら今度も詩が届いた。でも今回のは自分の作品じゃないなと首を傾げてみるとどうにも気になってならない。深夜だし、折角だから話のついでに泥棒もしてからサヨナラする計画だったが……
やれやれ、俺は本当に幸せ者だ。」
まだ少し鼻をスンスンさせている白羽に心底の笑顔を向ける、その目は普段の飢えた光の鳴りを潜めた、慈しみの微笑みであった。誰にも今迄向けたことも、向けられたことの無いお互いの来歴の厳しさよ。
「すみません、驚かせてしまいまして、あの…まさか急に、御本人さまに会えるとはこれっぽっちも想像していませんでしたので、私、本当に吃驚して、あの、すみませんでした。」
もうしどろもどろは落着いたかな?心中頷き、川面は訊きたがっていた質問をする。
「月を水に見立てるのは如何言う思いがあったのかな?それが訊きたかったんだよ実は。」
「あの詩は…唯、悲しくて、思い浮ぶまゝに文字をしたためただけです。考えも、何も、あ…無くって。」
生来の才。詩を描くべき人は生れ乍らに決まっている。小説家は努力次第で頑張ったらなれる世界だが、詩人は努力を許さない。懸命に励む者に詩の才を与えず、一見詩の世界に無縁そうな者の所へ赴いて行く。勿論当人は無縁だと思い込んでいるだけで、項に結ばれた可憐な雨の糸は赤子の時から付いてまわっている、詩の才能からは、逃げられない。
ならば存分に使えば良い。借り物は散々に使い古してなんぼだ。
「じゃあ君も詩人として生まれるいたんだな。」
川面の言葉に白羽は頬を輝かせた、雨中に眺む街の灯火の風に怯えつつも光る色の目覚ましさ。
「一度抱えちまったら、もう手放せなくなる。ほら、詩を描くのは楽しいだろ?一回知ってしまえばまた知りたくなる、連綿とそれの繰り返し、見切りを付けられる奴もいるが、まあ詩人はそう出来ないタイプ、言葉を綴らないで丸一日過ごせるか?俺は土台無理だね。食うより寝るより探していた言葉を見つけたら書かずにはいられない、詩を描くのは俺に与えられた唯一の幸せさ。」
「私も…そうかもしれません。一人で机に向かって好きにペンを走らせる時が、唯言葉と向き合っていられる時間が至福です。父も母も弟も世間も物音も、其時だけは私を振りまわさないから、唯一の幸せ、と言うのは少し理解る気がします。尤も、貴方がお嫌でなかったら…の話ではありますけれど……」
また俯向いてしまったデクレッシェンド、自信の無さは自分を示されない場合に起るもの、無理もあるまい、誰も彼女を彼女として見ていないのだろう、壁に掛けた清潔な軍服を見れば大抵事情は察せられる、妙齢の娘の部屋にしては殺風景なインテリアも…
「君は、どうしたい?」
連れ出されたい、と思ったことは?
「……………」
白羽はこっくり黙ってしまう。自分の未来を考えた経験など一度も無かったから、如何返答して良いのか分からずに考え込んだからである。川面は急に表情から一切の感情を消した仄暗い湖を見て背筋に寒気を感じずにはいられなかった。この少女で娘で乙女の瞳は過去も未来も見てはいない、現実だけを映しているかと思えばそうでもない、かと言って空想に遊び続ける眼差しでもない、何を見つめているか分からない、見てはいるけれど見つめてはいない、見つめたがらない堅固な虚ろの意志。未来など過去など現実など全て黒い雨水に同じ、泥の水溜り、流れて何處へなりと行ってしまえど一欠片も痛まぬ無感覚な心、彼女の闇は想像よりもずっと深くひん曲がっている。
どうでも、いいのだ。詩以外は。
燐光
目を覚ませば、まだ深更であった。月は太陽に目を伏せたまゝ街を見下ろし一言も発しはしない、静かな、静かな夜。枕元には一枚の紙切れが、恐らく原稿用紙の欠片であろう、癖のある達筆な文字で
「また来ます。夜更かしの習慣を取り入れておくように。」
と記されている。白羽は紙片を胸に抱きしめ暫くそのまゝ眠っていた。
パチリ 薪が、爆ぜる
いつものように軍服を手に取り、本来予備兵が着用するにはやゝなめらかなる手触りの袖に腕を通す。釦留を掛け違えぬように気をつけて襟を正し鏡の前に立って短い髪を軽く整えてから帽子を深く、鍔持つ指の爪白く。視界が少しくらくらする。
階段を降り朝食の味噌汁の香りに身体を向けて襖を開けると新聞を読む父と仕度をする母の姿。此の家で最も広いスペース。
私が左手に握りしめている原稿用紙を机上に置いて、二双の眼玉がぎょろと詰る。説明をしようと開いた蒼さめた唇からは
「さようなら」
の単語しか顕れなかった。
白羽は撲たれ、勘当された。痛みに俯向く顔は両親を見上げられないで表情も分らない。長い前髪がバサリと目を隠す。
両親が去って行った部屋で白羽は原稿用紙を畳み愛用のペンと洋墨と詩集を入れた手提げ革鞄に収うと、取れた帽子を被り直して家を出た。二人の泣き声に足を止めないよう背を向けて。
「おはよう。」
「川面さま。」
「手紙読んでくれたなら、もう今すぐにでも発ってしまいそうだなあと一応危惧した甲斐はあったな。一度俺もビンタと一緒に喰らったっけ。“箱入り娘を舐めないで”って。本当、侮るものではないね、お嬢さんがたの行動力はね。」
「お供します。」
「あゝ、だろうなあ、そう言うと思っていたよ。まあいいか、おいで白羽君。今日から俺が君の師匠だよ。」
「はい、師匠。」
二人の詩人は此の日から旅に出た、行く先々を決めない放浪の身、自分の為だけに行う外出、遠出、白羽の夜空が星空に染まり大きく見開いたまゝ川面の後を追い掛けた。
「守りて」