日は戻らず

 十時、十一時……。日は殆ど中天に昇り、六月も終わりに近い江ノ電では冷房が効きすぎていた。その癖妙に蒸しているのは、人が多すぎる所為か。武史は車両の揺れに確かな不快を覚えた。
「おいタケ、虹だよ、虹」向かいに座る健吾が騒いだ。
「ああ。虹だな」
「ちゃんと見てんのかよ、ったく。こっちはお前が精魂尽き果ててんのは、わあってんだよ。それでわざわざ傷心旅行に付き合ってんじゃねえか。ちったあその景気の悪い顔をやめたらどうだよ」
「景気が悪いか」武史は、配慮という訳ではなかったが、周りに観光客もいるのを憚って幾らか怒気を抑えながら言った。「そう思うなら今すぐにでも別行動で構わないんだぜ。俺はもうこんな男女どもは見飽きてんだ。第一、親父とお袋の件はもうカタがついたんだ。傷心も糞もあるか」
「そうかよ」
 ほとほと呆れたように健吾は七里ヶ浜で降りた。急速に車内の人気が収まったようだった。不貞腐れた武史は窓の向こうにある景色を眺めた。珍しく車内点検なぞに手間取っているらしく、窓にはひたすら七里ヶ浜の駅のホームが映った。直上から差す日が、ベンチに濃い影を作った。そこには女がいた。その和装を着た女は濃い影の中にあって顔は窺えないのだが、武史はふと目が合った気がした。「馬鹿らしい」、そう苦虫を潰すように漏らしながらも、自分が気を惹かれているのに気恥ずかしくなった。「あの女が特別なんじゃない、ただ俺が疲れてんだ」、車両点検の終わりを告げるとともにドアは閉まり、江ノ電は次の駅へと発進した。。武史は、次の稲村ヶ崎で降りた。

 武史は稲村ヶ崎の谷間を宛てもなく歩き続けていた。誰も見ていないのに意地の張り通しだ。いい加減疲れに負けて、七里ヶ浜まで歩くことにした。あの女の影を探すようにホームを見渡したが、嘘のように静まりかえっている。健吾もいない。武史は今更「親父とお袋の件はもうカタがついたんだ。傷心も糞もあるか」と口にした言葉が跳ね返ってきたような心地に襲われた。およそカタらしいカタはついているとは言えなかった。そして、それは間違いなく自身の問題でもあった。
 武史の母である清美は、本来代理母の筈だった。つまり、武史の父は本来別の女と結婚する筈だったのだ。それを、焼けぼっくいに火がつくように代理母を買って出て、奪い去るようにして武史を育てたのが清美だった。しかし、詳しいことを武史は知ろうともしない。許せないのは、父も母も他の人間も今まで黙っていたということだった。十八の誕生日に、さりげなく伝えられたことだった。武史は自分を育てる筈だった本当の母が恋しかった。同時に、永久に出会うことのないもう一人の母を失ったような気分になり、家を飛び出したのだ。「いいね、こんなことは誰にも言ってはいけないよ」。

 やがて、家に戻る他なくなる。しかし、戻りきらぬものもある。十時、十一時……。
 「あの時俺は今すぐにでも飛び出して、あそこに居た女に、何もかも洗いざらい打ち明けてしまいたかったんだな」。

日は戻らず

日は戻らず

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-06-08

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