スピード
夏休みも半分を過ぎた頃、文化祭準備のために登校していた京香は轢かれたのであった。
スピードメーターが通学路の制限速度を大幅に上回る数値を示していたにも拘らず、玲子は怯まずバイクを走らせ、それで同じ女子校の生徒である京香を吹き飛ばした。歩道と車道を区切るガードレールが無い割に車の通りの激しい道ではあるし、曲がりくねった道でもある。しかし、それだけに玲子のバイクは目立ち、車体の緑はかつてなくぎらついたようだった。ただの不注意などというものではないだろう。ある者の目には極度に凝縮された悪意や空虚そのものが、女学生に衝突したかに見えた。瞬時の光景ゆえ、何が起こったのか理解出来ぬ者も当然いた。すぐに騒ぎになり、救急車やパトカーが呼ばれた。轢いた本人も、意識が混濁していた。
京香と玲子とは、全くの他人ではなかった。それどころか、相当親密な仲であった。公の場でこそ素っ気ない態度を装っていたが、安全の保証された密室では互いに相手の体を慰撫することもあった。かと言って、痴情のもつれた結果として起きた事件と決めつけるのは早計かもしれない。同じ制服、似たような体格の中から過剰にスピードのついたバイクで的確に衝突しに行くなどということが、果たして可能だろうか。可能だとして、わざわざそんな方法を選び取るだろうか。確かに玲子には捨て鉢でぶっきらぼうなところがあったが、それは杜撰な計画を好むという訳ではない。むしろ、些か直情的な行動に走りがちなのは京香の方だった。
京香の鋭敏な感覚は本人にとってもかなり息苦しそうな様子だった。授業中、注意されても剃刀を取り出してカバーを付けたり外したりと繰り返していた。それが一時的に彼女を落ち着かせていた。だが、段々と追い詰められて自分の手首に当てて引き、血を流す日もあった。突然に教室から飛び出して帰宅していたこともある。何れも空回りした防衛反応なのかもしれなかった。
夏休みの中頃になると玲子の両親は、二泊三日ほどの小旅行に出るのが慣例になっていた。四五年前までは玲子も、その兄の英弘も付き合わされていたが、二人とも半ば強引に連れて行かされて不機嫌にしていたので、結局家に居たい者は居ても良いことになった。玲子は旅行自体が嫌いなのではなかったが、家族との時間自体をさして重要視していなかった。英弘はそれに加えて集団行動が苦手なことや、風景を楽しめないうえ慣れない土地にやたらと気疲れする性質なのもあり、行く理由がなかった。そのため、家にかかってきた電話を取れたのは英弘だけであった。
その日バイトのなかった英弘は、固定電話の受話器を取るのが、どうせ碌な電話ではない気がして億劫だった。詐欺か押し売りを想定していたが、かといって万一のことがあって後で面倒なことになるのも嫌だった。とはいえ、まさかその万一の事態が起こるとは露ほども考えてはいなかった。それも、妹が交通事故を起こすなどとは。狼狽し動悸が止まらず、妹の玲子が大学病院で安静にしていること、大至急そこへ向かって本人と話さなねばならぬことだけを把握すると、着の身着のまま家を後にした。家を出てから、何かすべきことが山積みになっているようだと感じたがら何も分からずただバイクを走らせた。
玲子が処置を受けて安静にしている間、京香は殆どなす術なく死んでいった。無論、玲子はそうと知らない。看護師らにも、彼女の不気味なほど据わっている目からは、心中の深いところを窺い知ることはできなかった。医者には、恐らく茫然自失として受け取られた。実際会話をしようにも呻くのが精一杯らしく、自己の経緯については後回しにされた。
そうして外界が慌ただしく動いていても、玲子には最早関係なかった。彼女は無意識に幼い頃の記憶、自分が腕白に走り、兄を困らせていた頃の記憶を辿った。幼い頃の玲子は他の子どもの比ではないほど走るのが早く、危なかっしかったと成長してから聞かされたことなども思い出していた。玲子の足の速ささ成長するにつれて、さして周りから目立つほどでもなくなっていった。
兄を視認すると、玲子は急速に現実に引き戻された。あまりに急だったので、現状の把握はまともにできなかった。看護師と暫く話した後、看護師が退室し、二人きりになる。英弘が何を言うべきか考えあぐねている内に妹の方が案外落ち着いて喋り出した。
「アー、恐かった。走り過ぎて疲れちゃったね」
「うん……そうみたいだね。その、まだ体は痛いの?」
「ううん、何処も痛まないわ。それより兄さんにこんなとこ見られて恥ずかしい」
「そんなことを言っている場合ではないが、兎角死んでいなくて良かった」
「恥ずかしい……」
「それより看護師さんの話だと全然話できないって聞いてたけど」
「まあ、そうだったんだ」
「母さんに連絡しとかないとなあ。色々考えることが多い筈なんだが、何も考えられん」
「ねえ兄さん」
「ん?」
「疲れちゃった、もう帰ろ」
「多分、まだ無理じゃない」
「エー、そうなの」
「頑張ればいけるのかな」
「頑張ろう!」
「頑張るか」
宙に浮いたような会話をし、英弘は不思議な感動にも近い喜びを覚えた。来る途中の路上ではバイト先のラブホテルで二三度見た同じ制服の女と連れ立って部屋を出て行く玲子の姿が過ぎっていたが、すっかり忘れてしまった。ヒロイックで幼稚な願望を満たすため、英弘は玲子の手を取って足早に院内を出た。引き留められそうになって走った。近くに駐車しておいたバイクに玲子を乗せ、走らせた。女子校への道を通って家へ帰った。玲子は清々しく気分が良かった。英弘は自分のしていることが怖くなった。確かに自分の背中を抱いている筈なのに、玲子が次の瞬間にでも手を突き放して背後の道に消えて行く気がした。
二人のバイクは曲がりくねった道を滑り、見えなくなった。
スピード